鈴広屋 七代目の受難
第一章 呪いの風鈴
【1】
ガキの頃に見た風景は大人になっても残るものがある、なんて言うが、俺にもそんな記憶はある。
夏の夕暮れ空に、強いライトの光で照らされたほおずきの鉢。無数に並べられた鉢植えに、明るい売り子の声が響いている。その時、ちっこかった俺は人波の隙間を縫うように潜り抜け、一つの露店の前に立った。首をグッと持ち上げ、自分の背丈よりも何倍も上を見つめる。上から吊るされたほおずきのだいだい色を見ていたのではない。鉢と一緒に売られていたガラスの風鈴に目を奪われていたのだ。
透明の丸いガラスに金魚や花火の絵が描かれ、色とりどりの短冊がぶら下がっている。密度の濃いじっとりとした夏の空気に、風が吹きつけ涼しげな音が響く。一列に並べられた風鈴は、その絵柄が異なるように違った音色を奏でていた。その美しい姿と音色が、大人になった今でも、俺の心に残っている。
俺は鈴広一平。家はガラス風鈴を作る職人家業を営んでいる。屋号はそのまま『鈴広屋』。一応、俺が七代目の跡取り。ガキの時から親父やじっちゃんが風鈴を作る背中を見て育ってきた。だから、俺も当然、職人になって家を継ぐことに誇りを持っている。でも、たかが二十歳から始めた風鈴作りの腕ではまだまだ。だから、今のところは、鈴広屋の跡取り見習いってところが正しいのかもな。
【2】
話は俺が五歳の時まで遡る。
近所にある小さな寺は通称『風鈴寺』と言われていて、江戸時代に作られたガラス風鈴が奉納されていた。毎年夏になると、蔵から出された年代物の風鈴は風を受けてその音を響かせていた。
ある日、ちっこい俺は天井の梁に高く吊るされた風鈴の短冊に手を伸ばそうとした。犬や猫が動くものに興味を示すように、単純な俺にとって風になびく短冊に何か惹かれるものがあったのだろう。
でも、風鈴は身長の何倍も高いところにあるから手を伸ばす程度では届かない。そうなると、短い足をバタつかせるようにジャンプして、何とか短冊に触れようとしていた。
――ガシャン!
それは突然のことだった。それまで手が届かなかった風鈴。一瞬にして足元に横たわった。もちろん、その原型を留めずにガラスの塊となって。午後の日差しに照らされたガラスの破片は鈍く光っている。今まで響いていた涼しげな音は奪われ、無関心な蝉の声と夏の空気に、じっとりと汗が噴出してくる。
俺はその場から逃げ出した。小さな靴でパタパタと足音を鳴らしながら、夏の空気に揺らめく路地を走り抜けた。遠く後ろの方から呼び掛けられる声がしたかもしれないが、気のせいだったのかもしれない。
その日の晩メシはそうめんだった。家は自宅の中に風鈴を作る工房を構え、住み込みで働く職人さんもいた。食事は茶の間で家族も職人さんも一緒に取っていた。
「そういや、一徹さん。寺の風鈴が落ちちまって壊れたそうですぜ」
たっつぁんがきゅうりの甘酢漬けを頬張りながら、急に話を切り出した。彼は親父の知り合いで、住み込みの職人さんだ。名前は辰二郎と言うが、俺はたっつぁん、たっつぁんと呼んでいた。
「あの古ぼけた風鈴のことか? ちゃんと紐で結わえとかねぇからだろ。仕方ねぇなぁ」
親父は少し眉を上げただけで、そうめんをズルズルと口に運ぶ。
「一徹さん、食いながら話すのは下品ですぜ。でも、住職も風鈴の呪いで戦々恐々としてるんじゃねぇですかね?」
「タツ、うるせぇぞ! ま、呪いなんてあるわけねぇだろ」
たっつぁんの注意に、親父は懲りずにそうめんを食いながら文句を言う。夕立後の湿った臭いのする風が、茶の間に吊るされたガラス風鈴をリチンチリンと鳴らす。
俺は二人の会話に眉をしかめた。
「たっつぁん。風鈴の呪いって、何のこと?」
「坊主、知らなかったのか? 怖ぇえぞ。それでも知りたいか?」
たっつぁんは意地悪そうに笑って、言い伝えを話してくれた。
江戸時代、鈴広屋のある職人が武家の娘に恋をした。身分の違いで叶わぬ恋と分かりつつも、職人は心を込めて一つの風鈴を作った。でも、その風鈴は想いを馳せる相手に届くことなく、失恋の怨念がこもっているという。
「んでな。あの風鈴をぶっ壊すと七つの不幸を受ける、って言われてんだぞ。どうだ、おっかねぇだろ?」
たっつぁんの怪談まがいの昔話が終わると、俺は顔を引きつらせた。
「何だ、一平。顔が真っ青だぞ。夜中に小便漏らすなよ」
親父が俺を茶化すように口を挟む。
「この前みたく夜中に俺を起こして、一緒に便所に行こう、とか言うのもなしだからな」
たっつぁんが俺を軽く小突くと、親父はゲラゲラ笑った。そうして、二人は冷えたビールを持ち出してきて晩酌を始めた。
「こ、怖くなんかないよ」
俺は自分に言い聞かせるように小さく呟いた。それでも頭の中は、粉々に砕け散った風鈴の記憶で埋め尽くされていた。手の中に汗がまとわりつく。そうめんで冷えたのか、少しお腹も痛くなってきた。シャツの上から腹を押さえていると、冷えた夜風に軒先の風鈴が鳴って、ビクッと体を震わせた。
俺はその夏の間、風鈴の呪いを恐れていた。だが、何も起こることはなく年月は流れていった。時間が経てば、たっつぁんの話は作り話のように思えてくる。眉唾ものの呪い話なんて忘れてしまう。特に俺は頭の中に大して身が詰まっているわけではない。乾燥したほおずきのように、カラカラと心棒が音をたてて鳴るくらいだ。そんなことよりも、新しい経験や刺激が俺の脳に蓄積されて、五歳の夏の記憶は薄れていった。一番目の不幸がやってくるまでは。
第二章 五つの不幸
【1】
小学五年の時のことだ。
体育の授業でサッカーをすることになった。クラスの男子が2つのチーム分かれてボールを追い駆けていた。もちろん俺もその中に混じっている。ボールがサイドラインを超えると、先生は笛を鳴らした。この先生は体育の時間だけ担当している。俺が性的な意味で、男に初めて興味を持った相手だ。
俺の母ちゃんは、俺を産んですぐに死んでしまった。子供は俺一人だけなので、じっちゃんや親父、住み込みの職人さんと、男所帯の生活を当たり前のように送っていた。たぶん、俺が男好きになったのは、そんな家庭環境もあったからかもしれない。
その先生は真っ黒に日焼けをしていて、白いTシャツから太い腕を除かせて、いつも腕組をしていた。短く刈り上げた髪型と、鋭い視線を送る目付きに、俺は心を奪われていた。体の中にある何かがキュッと締め付けられる。
自分でも知らないうちに、走る足が止まっていた。
「一平、行ったぞー!」
誰かの叫ぶ声が響く。俺は振り返ると、目の前には何倍も大きくなったボールが一瞬映り、顔面に強い痛みが走る。薄れゆく意識の中で、自分の体が宙を舞う感覚を覚えた。
次に気付いた時には、病院のベッドの上だった。俺はボールに当たった衝撃で倒れてしまい、頭を強打してしまったらしい。打ちどころが悪かったようで、頭には白い包帯が何十にも巻かれていた。
「一平、大丈夫か。おれ、おれのこと分かるか?」
体育の先生は見たこともないような表情で、うっすらと意識を取り戻した俺の顔を覗き込んでいた。その目は少しだけ潤んでいるようにも見える。
俺がかすれた声と共に頷くと、先生は安堵の表情に変わった。
「お前が目覚めなかったら、どうしようかと思ってたんだぞ」
そう言って、俺の手を握ってくれた。
そんなに心配しなくてもいいのに。俺は白い天井に緩く目の焦点を合わせながら、単に自分が悪いだけなのに先生に心配をかけたことを恥じた。この入院は一週間もすることになる。
これが一番目の不幸ってやつだ。
【2】
二番目の不幸は中学二年の時になる。
俺も年頃になり、エロい衝動に駆られることが強くなった。ある日、街中の裏通りにある寂れた映画館へ行った。
手書きで書かれた艶かしい女の裸体。赤いレタリングの文字で『新妻のいけない情事』と書かれていた。情事なんて言葉の意味も知らないくせに、俺は身長の高さを利用し、親父のコートと妙なサングラスで歳を隠して、未知の世界に通じる扉を開いた。
少しかび臭いような臭いがする暗闇の空間。席は何箇所も空いているのに、壁際に等間隔で何人もの男が立っていた。普通の映画館では見ない光景だが、こういったところでは立ち見をするのが普通なのかもしれないと思った。
小学生で性の意識に目覚め、中学で単純にセックスという行為に興味を持っていた。この頃の俺にとっては、ゲイという世界があることなど知る由もない。
俺は前列の方で空いている席に座ると、スクリーンに目を移す。既に濡れ場シーンの真っ最中だったので、名前も知らない女優の喘ぎ声だけで自分のチンポは半勃ちの状態になっていた。色黒で筋骨隆々の男優が、女優の尻を持ち上げ腰を振っている。その様子を見ただけで、パンツの中身が硬くなるのを感じた。
コートのポケットに手を入れて、こっそり自分のチンポを触ろうとした時、隣の席に男が座った。俺は気付かれないように舌打ちをして、ポケットから手を出した。
スクリーンの濡れ場は盛り上がっていく。新妻という化粧の濃い女優が、ぼかし入りのチンポにまたがるあたりで、俺の太ももに微かな感触が伝わってきた。ズボンの生地を通して、ももの右脇から伝わる温度で、隣に座った男の手だとはっきり分かった。予想外のことに、体が硬直していく。
ゆっくりと動く手が太ももの内側に移り、包み込むように股間を触られる。その手はゴツゴツとしていて肉体労働を思わせるものだった。勃起した竿を握られて、俺は心臓をハンマーで叩かれたような衝撃を受けた。
「兄ちゃん、高校生か。どこの学校だ? こんなにチンボ、おっ勃ててイヤラシイなぁ」
耳元でささやかれる湿った声とタバコのヤニくさい臭い。俺は悪い大人に捕まったと思った。中学生でこんなところに来て、誘拐されて殺されるかもしれない。それまでのセックスへの興奮は吹き飛んでしまい、軽々しく危ない世界に飛び込んだことに後悔をした。
膝が震えてくる。名前も知らない隣のおっさんに握られたチンポはあっという間に元気を無くしていた。
「何だよ。ビビッてんのか?」
不満交じりのおっさんの声に、俺は心の中を見透かされている思いがして、その手を振り払い、席から逃げ出した。
映画館を出ると、追われているわけでもないのに人通りの多い表通りまで走った。交差点では信号待ちをしているたくさんの人がいた。角にあるタバコ屋には南部鉄器の風鈴が吊るされていて、排気ガスが混じった風で、放射状に音色を響かせている。
俺は呼吸を整えると、自分の股間がまた膨らんでいることに気が付いた。こんなところで股間を触っていたら間違いなく変人に思われてしまう。でも、心の中までは誰にも分からない。
映画のセックスは想像以上だった。生々しい光景が心に刻まれ、少しだけ吐き気を覚えた。俺もいつかは誰かを好きになって、あんなことをするのだろうか。
それに、あの男は何だったのだろうか。俺が席を立って逃げようとしても、手を掴んだり追い駆けてくることはなかった。ただ単に、からかわれただけなのか。俺は分からなかった。そして、チンポを握ってきた相手がさっきの男ではなく、スクリーンの女優が握ってきたと想像してみると、嫌な空気が心の中に広がっていくのを感じた。
二度とポルノ映画館へは行かなかった。背伸びをして無茶なことをすれば、大きな代償が待っている。布団の中で初めてチンポを揉み下して、味わったことのない快感と腹痛を覚えた時のような罪悪感があった。
【3】
三番目と四番目の不幸はリンクしている。
高校二年の春に、初めて好きな男ができた。斉藤太志という同級生だ。太志は水泳部で真っ黒に日焼けした明るいヤツだった。
「一平、一緒に帰ろうぜ!」
太志はカバンに財布と漫画雑誌だけを放り込むと、隣に座る俺に声をかけてきた。
「おう、今日もいつものアレ行っとくか?」
この頃の俺は風鈴の呪いに開き直り、妙に能天気に振舞うようにしていた。悩もうが心配しようが、どうせ不幸はやってくるのだ。それなら面白可笑しく生きてればいいじゃん。脳みその少ない、ほおずき頭には、これが精一杯の結論だった。
俺達が言ういつものアレとは、高校から電車で二つ先に行った駅にある河川敷のことだ。穏やかに流れる一級河川で、電車が走る鉄橋の下にあるコンクリートの川辺が俺達の秘密の場所だった。
川がよく見える場所に腰を下ろすと、俺は煙草の箱を取り出してカバンを放り投げた。鉄橋の影で少し薄暗い場所は妙に落ち着く。少なくとも俺にとっては気に入った場所だった。頭上では数分おきに電車の走る音が響いている。
「にしても競泳選手が煙なんか吹かしてて、いいのかよ?」
俺は吸い込んだ煙草の煙を大きく吐き出した。
「いいんだよ。ウチの部活、大して強くねぇし」
太志は吐き捨てるように言うと、煙草を口に付ける。
コイツはアスリート並みの締まった肉体をしている。体育の授業で着換える時に、こっそり裸を盗み見たことがある。大きく広がった胸に、シックスパックのくぼみを見せた腹回り。太ももなんかはボンレスハムのように膨らんでいた。俺はその肉体と、競パンの中身を想像して、何度オナったことだろう。
それに俺は知っている。こいつはこっそり誰も居ないプールで泳ぎ込みをしたり、筋トレをしているのだ。煙草を止めたら、飛躍的にタイムは向上するのに、それを止めないのは太志にとって譲れない何かがあるのだろう。
また鉄橋の上を電車が通る。周囲の音を掻き消すような轟音からすると急行列車が走っているのだろう。この場所には俺と太志しかいない。俺は何となく思った。今ならいいだろう。
「なぁ、太志。俺、お前のことが好きなんだけど」
「えっ! オマエ、冗談だろ?」
俺の初告白を、太志は鼻で笑うように返してくる。その表情に冷たいものを感じ、何も言い返せなかった。
「まさか、本気で言ってんの?」
太志は眉を潜め、無機質な空気を漂わせてくる。俺は、これ以上はマズいと思った。
「じょ、冗談だって。ほら、あれだよ。マブダチってことで好きって言ったんだよ!」
俺はいつものようにバカみたく、おどけてみせた。
「んだよ。マジに思っちまった。変なこと言うなよな!」
太志は引きつったような笑いをした。
次の日、俺は普段どおりに学校に行った。教室に入ると、俺を取り巻く空気が昨日までとは違ったものに感じた。いくつもの目が刺すようにこっちを見ている。その理由はすぐに分かった。
俺が机にカバンを置くと、数人のクラスメイトがやってきた。
「一平さぁ。お前、太志に告ったって本当かよ?」
「お前、ホモなの? アナルセックスとかしちゃうわけ?」
「バーカ。キモイこと言うなよな!」
連中は好き勝手なことを言い出して、俺に好奇の視線を注いでいる。
「バカたれども。んなわけねぇだろっ!」
俺は昨日と同じように、大げさにおどけてみせる。適当な空手の組み手もセットにすると、周囲からどっと笑いが起こった。
俺は周囲の笑いを掴むと、太志を見た。太志はその様子を見ていたようだったが、俺と目が合うとすぐに目線をそらした。
これが三つ目の不幸だ。
【4】
程無くしてクラスでの俺のホモ疑惑は治まったが、俺はこのままではマズいんじゃないかと思った。何とか打開策を考えていると、小林というクラスの女が、俺のことを好きだという噂が耳に届いてきた。今まで話をしたこともない彼女に声をかけてみることにした。
「おいっす。小林、何見てんの?」
「あ、鈴広君。これ、映画の雑誌」
小林は丁寧に雑誌のページをめくっている。目を細めながら見ているページには、人気俳優が主演の恋愛映画が載っていた。
「ふーん。その映画見たい? 俺と一緒に行こうか?」
「えっ……。 うん、いいよ。行こう」
小林は、はにかんだような笑顔を見せた。
俺は男好きではないと既成事実を作ろうとしていた。でも、それだけではない。今までは本当に女と踏み込んで関わる機会がなかったのだ。だから、俺は本当に男好きなのか、もう一度確かめてみたかった。
日曜日の昼過ぎに、小林と駅前で待ち合わせをした。俺は約束の時間ぴったりに着いたが、小林は先に待っていた。服のことはよく分からないが、麦わらっぽい丸い帽子を被り、ボーダーのTシャツ、腰に薄紫色のカーディガンを結び、ひらひらのスカートを履いていた。小林としては異性とのデートだがら少し気張ってお洒落をしたってところだろうか。
俺は歩きながら小林と話をした。彼女は意外と明るくてよく喋るんだな、と思った。でも、俺はそれ以上の感情を持つことはなかった。
街を歩いていると、途中、他のカップルとすれ違う。彼女と腕を組んで歩く男の方に目がいった。太志のように色黒で筋肉質な容姿に、小林と一緒に歩いていることを忘れそうになる。
ふと、小林が隣を歩く足を止めた。
「鈴広君って、やっぱり男の人が好きなんだね」
目を伏せがちに低い声で呟く言葉に、俺は目を開いた。
「な、何言ってるんだよ。俺、小林のことが気になって……」
「それ。嘘だってバレバレだから」
俺の虚しい弁解を、彼女はすべて見抜いていた。
「私のお兄ちゃんもソッチなの。だから、鈴広君のこと、分かっちゃった」
「そんな……」
俺はどうしたらいいか分からなかった。肯定する気にも、否定する気にもなれない。ただ、この場の状況を切り抜けたかった。
「あ、あの……」
「まだ言い訳するの? 女を舐めんじゃないわよ!」
小林は声を上げると、俺の頬に強烈な平手打ちを食らわした。その音は賑やかな街に響き渡り、交差点を歩く人だかりが一斉に注目するほどだった。
周囲からヒソヒソ声が聞こえてくる。俺はぶっ叩かれた左頬を抑えながら、荒ぶる小林を静止しようとした。
「鈴広君、もっと自分に正直になりなよ。斉藤君のことが好きなら、それでいいじゃない!」
小林は拳を握り締めて、強い口調で言った。
「ごめん……」
俺は自分が誰に向けて謝ったのかも分からない。ただ、分かるのは、自分の勝手な都合で小林という一人の人間を傷付けているということだけだった。
「このことは誰にも言わないから。またクラスで変な噂が立ったら、アタシがもみ消してあげるから」
小林はそこまで言うと、ニッコリと笑って俺の前から姿を消した。去り際に見た横顔の目尻には光るものがあった。
これが四つ目の不幸だ。
【5】
俺は高校を卒業すると大学へ進学した。どうせ鈴広屋の跡取りになる。大学なんか行かなくても高卒で十分だと思っていた。だが、じっちゃんが承知しなかった。今時の職人なら大学で経営学の一つでも学んで来い、と強く勧められたのだ。
大学二年、二十歳になった時に、大きな事件が起きた。
「おぉ、一平。一徹が居ねぇんだが、知らねぇか?」
じっちゃんは学校から帰ってきた俺を捕まえて、早口で言葉を重ねてくる。俺は全く意味が分からない。
「し、知らんけど、親父が居ねぇのか?」
「辰の奴まで居なくなっちまって、いったいどうなってんだ」
じっちゃんは俺の質問に答えることなく、慌しく家の奥に行ってしまった。
「一平さん、お帰りなさい。六代目、知りませんか?」
二年前に入った新しい職人さんも親父のことを探している。俺はさっきと同じ答えを返すと、彼も困った顔をして落ち着きなく床で足踏みする。
「二勢丹デパートへの納品が近いのに、朝から姿が見えないんですわ」
そう言いながら、草履を履き半纏の裾をなびかせて走っていく。だが途中で振り返って、もう一度声を掛けてきた。
「そうそう、辰の兄貴も居ないんすが、知りませんよね?」
「ああ、知らない」
俺の言葉を聞き取ると、回れ右をして外へ飛び出していった。
二勢丹デパートは定期的に風鈴を納品しているお得意様だ。江戸時代から作り続けられているガラス風鈴は、日本の伝統工芸品として人気も高い。確か、今回は六十個を納めることになっている。その半数以上は完成していて、残りは絵付けをするだけのはずだ。
俺は自分の部屋に戻ると、カーゴパンツのポケットから携帯を取り出した。親父かたっつぁんから連絡がないか見てみるが、着信履歴は付いていなかった。ったく、どこにいっちまったんだか。
窓の外には五月晴れの夕焼け空が広がっている。今日は俺が夕飯を作る当番だったな。ふと机に目線を移すと、大きな茶封筒が置かれていた。何だこれ? 見たことのない封筒を手にすると、表には癖のある親父の文字で『一平へ』と書かれていた。
封筒の中には一枚の便箋と、俺の名前の預金通帳に印鑑が入っているではないか。通帳を開くと最後の行には、見たこともない大きな金額が印字されている。便箋には親父の字でこう書かれていた。
『貯金は残りの学費に当てろ。お前も二十歳になった。もういいだろう?』
たったこれだけ。最後に書かれたクエスチョン・マークに、俺の方が首を傾げてしまった。それでも、これが姿を消した親父の手がかりであることは間違いない。
俺は工房で腕組をして不機嫌そうに片足を鳴らすじっちゃんに、親父のメッセージを渡した。
「むっ……!」
じっちゃんは苦虫を噛んだような表情で、口を大きくへの字に曲げた。便箋を掴む手が小刻みに震えている。
「なぁ、じっちゃん。これ意味が分かんねぇんだけど、どういうことだ?」
俺の言葉に答えるように、じっちゃんは手にした短い手紙を乱暴に丸めた。そして、しばらく沈黙を通していた背中が、小さく独り言のように呟いた。
「一平。今日から、お前が鈴広屋の七代目になれ」
「へっ?」
親父の失踪。これが五つ目の不幸だ。
第三章 風鈴家業、鈴広屋
【1】
――親父の失踪から七年後、東京・浅草。
桜の花も散り終わり、若葉が眩しい季節になった。鈴広屋は夏に向けてこれから忙しくなる。
「だーっ! その絵付けはワシがやるって言っとろうが!」
昼メシの親子丼をかっ食らいながら、住み込み職人の熊さんが文句を言いだす。
「だから、あのメダカの絵付けは細かいから、私がやりますって言ってるんです」
熊さんの相手をしているのが、もう一人の職人で幸四郎さんだ。
「幸四郎! おめ、年下の分際でワシを馬鹿にしとんのか?」
「実際、前に桔梗の絵付けを頼んだ時に、イライラして風鈴ぶん投げたのは誰ですか?」
二人の言い争いに挟まれるように、俺は口をへの字にして丼を口に運ぶ。まったく。味なんて分かりゃしねぇ。二人のケンカは今に始まったことではない。この争いが、俺に残された七番目の不幸だったら、どんなにいいことか。
「もう、二人ともいい加減にしろよ! 飯くらいゆっくり食おうぜ」
仲裁に入ろうとするが、二人は同時に俺の顔を睨み付ける。
「だってよぅ、坊!」
「だって、一平さん!」
二人は言葉を重ねる。熊さんは俺のことを坊と呼び、幸四郎さんは一平さんと呼ぶ。
「七代目を坊と呼ぶのは失礼だと、いつも言っているじゃないですか!」
「ワシにとっちゃ、七代目は可愛いボンボンだぁ。坊でいいんじゃあ!」
今度は幸四郎さんが声を荒げ、ケンカの話題が移ってしまう。俺は火に油を注いだようだ。俺の呼び方なんてどうでもいいって! 二人の睨み合いで生まれる緊迫した茶の間に、五月の爽やかな風でガラス風鈴の音が響く。
「とぼげっ!」
先に痺れを切らしたのは熊さんの方だ。幸四郎さんに吐き捨てるように言うと、麦茶を一気に飲み干して二階の自室へ篭ってしまった。
「ごちそう様でした」
幸四郎さんは丼に米粒一つ残さず丁寧に箸を置く。氷が溶けきった麦茶を一口飲むと、食い散らかした向かいの食器も一緒に台所に運んだ。
「とにかく、絵付けは私がやりますから」
「ああ、分かったよ」
幸四郎さんは平静を装っているが、眉毛がピクピク動いている。これは怒っている証拠だ。
鈴広屋は俺の親父、六代目の一徹が消えてから、それまで働いていた職人も辞めてしまった。雇われる側からすれば、先行き不安な鈴広屋に身を置くことはリスクがあると考えるのは当然だ。俺のじっちゃん、つまり五代目は辞めていく職人に十分な金を与え、その身を自由にした。
そうして、俺は五代目から風鈴作りを一から仕込まれ、今では何とか一職人として仕事ができる程度に成ってきていた。そんなある日、二人の職人が六代目からの手紙を携えてやってきた。最初にやってきたのは熊さんで、程なくして幸四郎さんが現れた。二人共、六代目とは古くからの友人だが、詳しい消息は知らないらしい。ただ、鈴広屋を助けてくれと頼まれたので、仕事をさせて欲しいと言ってきた。
五代目は江戸時代から続く鈴広屋を潰してしまうなら、と二人の職人を迎え入れた。実際、二人は風鈴製作にもガラス細工にも経験が深く、即戦力となった。五代目は二人の職人と七代目の俺を厳しく監督し、六代目が居た頃の状態まで何とか戻ることができた。
だが、状況は目まぐるしく変化する。じっちゃんが急に死んでしまった。じっちゃんは死に際に、一徹を恨まないでくれ、あれはワシが追い詰めたんだ、と病院で涙を流していた。そして、鈴広屋を頼んだ、と最後の言葉を残して旅立っていった。
じっちゃんの死。これが六つ目の不幸だった。
【2】
俺も食事を終えると、様子を見に二階へ上がった。幸四郎さんはまだしも、熊さんは放っておくと、ふて腐れて午後の仕事を放り出すかもしれない。
熊さんは熊田権八という。岩手の出身で、家は南部鉄器風鈴の職人一家だ。熊さん本人は三男で家を継ぐ立場ではなく、好きなガラス風鈴の仕事ができるならと鈴広屋にやってきた。ここに来るまではガラス工芸の仕事もしていたらしいので、ガラスを溶かす窯の扱いや、溶けたガラスに息を吹き込んで形を作る宙吹きには長けていた。
職人や俺の自室は二階にあり、熊さんの部屋は二階の階段に一番近いところにある。
「熊さん、入っていい?」
俺は襖を二回叩くと、中の様子を伺った。
「おう、坊か? 入りな」
声のトーンが少しだけ落ちている。俺は襖を開くと中に入った。部屋は畳敷きの六畳で、敷きっぱなしの布団の上に熊さんは、あぐらをかいていた。食事をして暑くなったのだろう。Tシャツを脱ぎ捨て大きな腹を見せて、毛むくじゃらの腕を使ってうちわを扇いでいた。
「さっきの話だけどさ。幸四郎さんも悪気があって言っているわけじゃないし、今回は彼に任せてもらえないすかね?」
「ああ、分かってる……」
熊さんは低い声で顎の無精髭を弄りながら、バツの悪そうな顔をしている。バリカンで切りそろえた角刈り頭に無骨な四角い顔。目はぎょろっとしているのに、今は大きな瞳を潤ませている。
いつも熊さんは怒りに任せて荒ぶるが、爆発した後は自分で反省して落ち込むことが多い。今の鈴広屋では最年上で、確か今年で四十五歳になるはずだ。
「あぁ、熊になりてぇなぁ」
熊さんは嫌なことがあると、いつもこの口癖を吐き出す。
俺は改めてその姿を見てみる。大きいのは腹だけではない。胸も豊かに膨らんで筋肉でしっかり張りがある。肩は丸みを帯びていて、腕も両手で押さえきれないほどのボリュームがある。胸から腹にかけて黒々とした毛が生えていてズボンの中に続いている。見かけは十分に熊だし、名前もそのまま熊じゃねぇか。
「あのさ、熊さんっていつも熊になりてえって言うけど、どういうことだ?」
「ん? そのままだぜ」
熊さんは話してくれた。野生の熊は群れることなく単独で行動をする。人はどこに居ても群れて生活しないと生きていけない。人付き合いを上手にこなせない彼は、本物の熊になった方が楽に生きられると思っているらしい。
木枠で囲まれた古びた窓は開け放たれ、軒先に吊るされたボールのような小丸型の風鈴が小さく音を鳴らしている。熊さんはガラスの内側に絵付けされた花火を、目を細めながら眺めている。理由は分からないが、俺は少しだけ熊さんのことが可愛そうに思えた。
「坊、大丈夫だ。一服したら仕事すっからな」
そう言って、文机から煙草を取り出す。
「午後は宙吹きするので、頼みます」
俺は軽く頭を下げて部屋を出た。
【3】
部屋の襖を閉じると、斜め向かいにあるドアが目に入った。この部屋は幸四郎さんの自室だ。せっかくだからと、幸四郎さんの様子も見ておくことにする。
木製の古いドアを二回叩いてみる。
「幸四郎さん、入っていいすか?」
俺が返事を待っていると、錆が付いたノブが回り幸四郎さんが顔を出した。
「一平さん、どうぞ」
「あ、お邪魔します」
幸四郎さんは俺よりも年上なのに、いつも丁寧に接してくれる。きっと自分は職人という立場を守り、俺のことを年下と言えども親分と認めてくれているからだろう。
この部屋は唯一の洋間で、たっつぁんの寝ぐらだったところだ。部屋にはベッドがあり、枕元には開かれた雑誌があった。きっと寝転んで読んでいたのだろう。でも、今は床に正座をして、俺を迎え入れようとしている。俺も慣れない正座で腰を下ろした。
幸四郎さんは泉谷幸四郎という。今年で三十八歳になる。香川の出身で、サヌカイトという鉱石を扱う工房を営んでいた。サヌカイトとは、讃岐岩、別名でカンカン石と言われていて、固いもので叩くと高く済んだ音を出すという特徴がある鉱石だ。その用途は様々で、鉄琴のような楽器や風鈴にも姿を変える。そんなものを作る仕事をしていた職人だ。鉱石を扱っていた経験から、ガラスの研磨は右に出るものがなく、絵心があったので風鈴の絵付けにはその才能を十分に発揮している。
「さっきの熊さんの態度、許してやってくれないですか? 幸四郎さんを憎くて言ったわけじゃないんで」
熊さんが吐き捨てるように言った『とぼげ』とは、岩手弁で馬鹿野郎という意味だ。それは俺も幸四郎さんも、熊さんとの長年の生活で分かっていた。
「一平さん、そないなこと言うために、わざわざ来て下さったのですか?」
「……うん」
俺の返事に、幸四郎さんは目を丸くしてから、柔らかい笑顔になる。軽く出てくる香川弁の独特なイントネーション。それは心を開いている証拠だ。
「大丈夫ですよ。権八さんのことは分かってますから」
幸四郎さんは笑顔で答えてくれた。男前で凛々しい眉の笑顔には包容力を感じてしまう。肉付きの良い体をしているが、熊さんのように太っているわけではない。Tシャツの生地を通して軽く大胸筋が張っているのが分かる。袖からはガッシリとした筋肉で膨らんだ腕が覗いていた。
「ならいいけど。熊さんに宙吹きしてもらうので、研磨と絵付けをお願いしますね」
「分かりました」
幸四郎さんが頭を下げると、窓に吊るされたサヌカイト風鈴が金属の光るような明るい音を響かせる。俺は部屋を出て一つ息を吐き出した。
【4】
午後の作業が始まった。ガラス風鈴は最初に形作りから始まる。金型を使う方法もあるが、鈴広屋では昔から宙吹きで形成をする。
千三百度以上の高温に熱せられた焼き窯の中には、ドロドロになったガラスがある。熊さんが共棹と呼ばれるストローのような長いガラス管を、窯に差し込んで液状のガラスを巻き取る。窯から取り出されたガラスは小さな太陽のように明るい色で、線香花火の丸い先っぽのようだ。共棹を斜め上に掲げて肉厚な唇で先端を咥えると、管を回転させながら息を吹き込み、ガラスを小さく膨らませる。もう一度、窯からガラスを巻き取ると、今度は大きな丸を形作る。
熊さんは大きな目を少し細めて鋭い目つきで、ガラス玉を見つめながら作業をする。普段はのん気そうにしているのに、この時は職人の顔に変わるのだ。早く上手な宙吹きができるようになりたい。俺も共棹を手にすると、隣の窯を使って宙吹きを始めた。
出来上がったガラスはひょうたんのような形をしている。共棹から切り離して荒熱を取った後は、幸四郎さんが作業を引き取る。今作っているものは小丸型という風鈴になる。小丸型は文字通り、握りこぶしよりも小さなボールの形をしたもので、一般にも馴染みがある形だ。
幸四郎さんは、最初に膨らませた小さな丸い部分をガラス専用の包丁で切り離した。切り離された大きな丸い方が風鈴本体となる。風鈴は金属やガラスの開口部を下向きにして、舌と呼ばれる小さな部品を紐で吊り、紐の先端には短冊をぶら下げる。風で短冊が揺れることで舌が動き、開口部に当ることによって音が鳴る仕組みなのだ。だから、ガラスの切り口は粗く尖った状態で、開口部は二つとして同じものはない。ガラス風鈴は一つひとつ音色が違うのである。
口の部分にヤスリをかけて微調整していく。鉱石の扱いに長けていた幸四郎さんは、ガラスの研磨にその能力を十分に発揮する。見た目だけでは分からない微妙な調整を繰り返し、一つ完成すると、ふーっと安堵の息を吐いて額の汗を拭った。俺は息を殺した厳しい顔付きから、穏やかな表情に変わる瞬間が好きなのだ。
次に絵付けをする。絵はガラスの内側に描く。絵心のある幸四郎さんはここでも力を発揮する。昔は宝船を描いて縁起物とされていた風鈴だが、今では様々なデザインがある。夏を彩る花火や朝顔なんかはメジャーで、最近ではより細かいもの、菖蒲や桔梗、メダカや鮎などバリエーションが豊かになっている。
幸四郎さんは極細の筆を使って、清流を泳ぐメダカの絵を描いていく。俺はその隣で手伝いをしながら、絵付けの技術を盗みたいといつも思う。やがて、宙吹きを終えた熊さんもやってきて、近くに腰を下ろして煙草に火を付けた。
「幸四郎は、本当に上手だな」
「権八さんがきれいに吹いてくれるからですよ」
二人の何気ない会話に、俺は口元を緩ませた。ケンカしても、お互い良いところは認め合っている。これで鈴広屋は成り立っているのだ。絵付けが終わったものは絵の具を乾かして、舌や短冊を付けた紐を通し、風鈴となるのである。
第四章 二人の秘密、熊さんと幸四郎さん
【1】
その日は夜になっても気温が下がらず、俺はなかなか寝付けなかった。下の台所から缶ビール持ち出すと、階段を上りながら缶を静かに開けた。部屋に着くまでに待ちきれず、廊下で一口味わおうとしたが、手が滑って缶を落としてしまった。炭酸の弾ける音を忍ばせながら、古びた木床にビールが広がっていく。俺は腰を下ろして、どうしようかと頭をかいた。
すると目の前にある熊さんの部屋から声が聞こえてきた。
「今、何か音がしなかった?」
「気のせいだろ、坊はもう寝てんだしよ」
「そうだな。気のせいか」
押し殺した二つの声は熊さんと幸四郎さんに間違いない。こんな夜中に何やってるんだ? 襖に耳を近づけて様子を伺ってみる。
少しずつ聞こえてくる荒い息遣い、小さく響く艶のある声。俺は急に心臓の鼓動が速くなる。いけないと思いつつ、衝動を抑えきれずにそっと襖を開いてみた。
五センチ程の細い隙間の先には、暗がりの中で布団の上に横たわる二つの肉体があった。月明かりの青白い光に照らされて、熊さんと幸四郎さんが額に汗を浮かべている。周囲には脱ぎ捨てられたTシャツとパンツが散乱し、二人はお互いの股間に顔を埋め、美味そうにチンポを咥えている。
――ピチャピチャ、ジュポジュポ。
「ああぁ。そこ、そこが気持ちいい」
「幸四郎はここが好きなんだよなぁ」
熊さんは勃起したチンポを喉の奥まで深く咥え込む。幸四郎さんは熊さんのチンポから口を離すと、眉間にしわを寄せて口を半開きにする。
「どうだ。気持ちいいか?」
「き、気持ちいいっ」
「ほれ。サボってねぇで、ワシのも咥えろ」
熊さんが幸四郎さんのケツを叩いて催促する。悦に入っていた幸四郎さんは、握っていた熊さんの極太チンポにもう一度口を運んだ。
「おおっ。いいぞ、痺れるみてぇだ。もっとやれ」
熊さんの言葉に幸四郎さんは答えるように懸命にしゃぶり続ける。その間にも熊さんは相手のチンポの責めを休めない。二人は貪るようにお互いに刺激を与えていた。
しばらくすると、熊さんは目の前にある幸四郎さんのケツを鷲掴みにして谷間を開いた。人差し指にたっぷりとツバを絡めると、その指をグリグリと穴に押し込んでいく。
「くわっ! 権八さん、ローション使って。そこにあるでしょう?」
幸四郎さんが声を上げる。
「ああ、悪りぃ。つい面倒でな」
熊さんは笑い声を忍ばせると、枕元のローションを手にした。
中指と人差し指に粘り気のある液体を絡ませ、幸四郎さんのケツの谷間の筋をなぞるように濡らしていく。指が穴に当たると、二本の指を一気に押し込んでいく。
「あだだだっ! も、もう少し丁寧にしてよ」
「うるせぇぞ。痛てぇのなんか、すぐに忘れさせてやるよ」
熊さんは意地悪そうな笑顔になり、指で幸四郎さんの中を掻き回していく。
――クチャクチャ、クチャ、クチャクチャ。
「あ、ああっ、ああんっ!」
「幸四郎はケツいじられると、すぐに女みたくなっちまうなぁ」
満足そうにケツを弄ぶ熊さん。幸四郎さんは目下にある極太チンポを咥えようとするが、ケツの快感に抗えないようで玉袋に頬を寄せている。
「こんなもんか。幸四郎、こっちゃこ」
その言葉に操られるように、幸四郎さんは熊さんの腕の中に頭を入れた。その顔は動物が発情しているように赤く火照っている。
「おぼっこみでーだな」
「またバカにしやがって」
幸四郎さんが頬を膨らませると、熊さんはその頬を突いて笑顔になる。唇を重ねる二人。熊さんは幸四郎さんを片手で抱き寄せ、唇を重ねながら空いている手を乳首に這わせた。
「んんっ、んんっ」
幸四郎さんは塞がれた唇の隙間から声を漏らしながら、熊さんのわき腹に手を回して抱き締めようとする。
二人の足が絡みつく。熊さんは毛むくじゃらだが、幸四郎さんは体毛がほとんど無い。足が擦れ合う音に、白いシーツが乱れていった。
俺は襖の向こうで、予想もしなかった二人の関係に驚きを隠せずにいる。でも、逞しい男同士の濡れ場に、自分のチンポは正直に反応していた。足元に広がったビールのことなんか、すっかり忘れて。
「そろそろ、入れていいか?」
「うん」
熊さんは仰向けに寝転ぶ相手の両足を持ち上げて、ローションで湿らせたチンポをケツにグッと押しつける。幸四郎さんは膝の裏に手を回し両足を支えながら、入ってくるのを待っていた。
「どうだ。痛てぇか?」
「だ、大丈夫」
「久しぶりだからな」
熊さんはゆっくりと腰を押し込んでいく。
「ほうら、入ったぞ」
幸四郎さんが苦悶の表情を見せると、熊さんはもう一度キスをした。
「そろそろいいか?」
熊さんはチンポをケツに入れたまま、幸四郎さんの耳元でささやいている。その言葉に、幸四郎さんは一つ頷いた。
「あっ、あっ、あっ」
熊さんの腰の動きに合わせてリズミカルな声が響く。
俺は我慢ができず、自分の熱くなったチンポを握り締めた。こんなことしていいのかよ、と背徳感が更に興奮を呼び起こす。二人は覗かれているとも知らずに、男同士の交尾を続けていく。
熊さんはチンポを抜くと、幸四郎さんを四つん這いにさせた。ケツの肉を撫でるように触りながら、さっきまでチンポが入っていた穴をニヤニヤしながら見つめている。
「熊さん、早く入れてくれよ」
「まあ、待てよ。今入れてやっから」
幸四郎さんの催促に答えると、ケツに顔を近づけて大きな舌でペロンと穴を舐めると、グッと顔を押し込んだ。
「ひゃああんっ」
幸四郎さんが声を上げると、熊さんはまた意地悪そうに笑った。
「穴が広がったから舌が奥まで入るぞ。気持ちいいだろ」
幸四郎さんは顔を赤くして何も答えない。熊さんは不満そうな表情で、もっと顔をケツに埋めていく。
「あああんっ。き、気持ちいいっ。気持ちいいから、早く……」
「早く、何だよ?」
「……れて」
「ああん、聞こえねぇぞっ!」
熊さんは幸四郎さんの体にマウントするように覆いかぶさり、赤ら顔の顎を押さえて、普段は真面目な男から言葉を引き出そうとする。
「く、熊さんのチ、チ、チンポ入れてくれよ」
幸四郎さんが責めに降参して小さく呟く。その顔は火照りを通り越して湯気が出てきそうだ。
「おしっ! じゃあ、ご褒美だ」
熊さんは満足そうな笑顔を浮かべると、勃起が治まらないチンポをケツに深く差し込んだ。
――パンパンッ、パンパンッ!
「ああっ! ケツが、ケツがぁ!」
さっきよりも激しくケツを掘られて、幸四郎さんは両手で顔を覆う。熊さんは相手のケツの肉を押さえながら、苦悶の表情を浮かべて腰を振り続ける。
「こ、幸四郎。ワシ、そろそろ出すぞ」
熊さんは吹き出る汗を散らしながらケツを犯し、幸四郎さんの乳首とチンポに手を回す。肉厚の手で扱かれる幸四郎さんのチンポは瞬く間に勃起して亀頭から汁を漏らす。
「熊さん、オレも出そう」
「一緒にイクぞぅ」
幸四郎さんが首を後ろに回して唇から舌を突き出す。熊さんはその舌に吸い付くように唇を重ねた。
「くっ!」
「ああっ!」
二人は同時に声を上げた。
幸四郎さんのチンポから放たれた白濁の液体がシーツに広がる。熊さんは大きく息を吐き出すとケツからチンポを抜いた。その鈴口から同じように精液が滴り落ちる。二人は乱れきった呼吸が治まると、汚れたシーツを見て苦笑いを浮かべた。
【2】
やっべぇ。二人のセックスを最後まで見ちまった。明日からどんなツラして二人を見ればいいんだよ? いや。それよりもこの勃起したチンポを何とかしよう。
俺は音を立てないように腰を上げたところ、床に撒き散らしたビールに足元を取られてしまった。バランスを崩した体がゆっくりと襖に倒れていく。この後の成り行きに不安を抱えたまま、俺は目を強くつぶった。
――バッターン!
俺の体重を支えきれなかった襖は、夜中に豪快な音を立てて部屋の中に倒れこんだ。
「ぼっ、坊っ!」
「い、一平さん!」
熊さんと幸四郎さんの声が重なる。
俺はまだ襖にキスをしているので、二人の表情は見えないが容易に分かる。しばらくの沈黙。さっきまで肉欲を貪っていた二人の男に、それを覗いていた俺。どうしてこんなことになったのか。後悔は買ってでもしろ……じゃなかった。後悔先に立たず、この言葉がまさにピッタリの状況だ。
「大丈夫ですか?」
幸四郎さんの言葉に、俺は仕方なく顔を上げた。
「だ、大丈夫。ビ、ビールを廊下にこぼしてさ。それで……」
詰まらない言い訳を並べようと必死にしていると、幸四郎さんと熊さんは畳の上に正座をした。
「一平さん、話があります」
「はいはい、何でござりましょう」
幸四郎さんの言葉に促されて、俺も変な言葉遣いで二人の前に正座をした。気まずい雰囲気に耐え切れず頭がおかしくなりそうだ。二人は厳しい顔付きで正座をしている。だが、股間にすら何も身に着けていない。俺は少しだけ目を逸らして口を開いた。
「あ、あの。話の前に何か着たらどうですかね?」
おどおどした俺の言葉に、二人は目を丸くして自分の姿を改めて見直す。一気に頬が赤く染まり、脱ぎ散らかした下着を探す。パンツを履いてTシャツを着ると、改めて二人は正座をした。
「坊、どっから見てた?」
熊さんから話を切り出した。
「か、かなり前から」
さすがにシックスナインから覗いてた、なんて生々しいことは言えない。
「一平さん、ビックリしたでしょう。あれはさ、あれは……」
「いや、幸四郎。ワシが話す」
幸四郎さんの言葉を制するように、熊さんが割って入ってくる。
「坊。男にゃ、こーゆー世界もあるんだ。ワシらのすることを理解しろとは言わねぇ。ただ、そっとしておいて欲しいんだ。仕事はちゃんとする。今までだってせっこいだことはねぇ。七代目、たのむっちゃ!」
話しながら興奮してきたのか方言が強くなる。熊さんが頭を下げるのと同時に、幸四郎さんも頭を下げた。その姿は潔くて男らしかった。俺が逆の立場だったら、どんな言い訳を並べることだろう。俺は鈴広屋の七代目だ。職人がこんだけ体を張っているのだ。俺も正面からぶつからないといけない。
「二人とも頭を上げて。実はさ。俺も、その、仲間なんだよね。だから、そんなに驚いてないっつーかさ」
俺の告白に、二人は体を硬直させている。下げられた頭は一向に上がることなく、狭い部屋の空気が固まった気がした。
――チリン、チリン。
夜風に風鈴の音が静かに鳴ると、熊さんと幸四郎さんは同時に顔を起こし、目を大きく開いて俺を見た。
「えーっ!」
二人の声が狭い六畳間から鈴広屋の中を走りぬけ、浅草の街中に響き渡る。お陰で近所の犬猫が騒ぎ始めてしまった。
第五章 二人の秘密、親父とたっつぁん
【1】
七月になり、鈴広屋も本格的に忙しくなってきた。浅草寺のほおずき市を初めとして各地で風鈴市や祭りが開かれる。同時に、デパートや浅草近辺の土産物屋からの注文も多くなってくる。さらに今年は、四越百貨店の工芸市に呼ばれ、客の前で絵付け作業をするデモンストレーションにも協力することになっている。あの夜の出来事以来、俺は職人との関係も良好で鈴広屋はますます活気付いていた。
その日は日中の気温が三十五度にもなり、朝から窯の前で宙吹きをしている熊さんや俺にとっては地獄そのものだ。幸四郎さんも大量のガラスを前に、黙々と絵付けを進めている。そうして、神奈川の風鈴市と二勢丹デパートへの納品分が完成した。これで繁忙も一山を超えることができたことになる。
「おおっ、今日はえらいご馳走だな」
「本当だ。一平さん、これどうしたんですか?」
仕事の汗を洗い流した二人が茶の間に並んだ晩メシに声を上げる。
「今日は一山越えたから、暑気払いも兼ねての祝いだよ」
俺はビールの栓を抜いて二人にお酌をした。俺も熊さんからビールを注いでもらうと三人で乾杯する。
「来週は四越の工芸市ですね。来客数が多いらしいので、良い宣伝になるでしょうね?」
幸四郎さんは江戸前の煮穴子に箸を入れる。
「ああ。もっと鈴広屋の名前を知ってもらいたいからな」
俺はビールを一口飲むと箸を握った。
「この蒲焼うめぇな。高いんじゃねぇかい?」
「たまには贅沢するものいいだろ」
熊さんは上野にある老舗の鰻屋から出前をさせた蒲焼にかぶりつく。俺は魚屋でさばいてもらった刺身の盛りからヒラマサを摘んだ。夜になってようやく風が出てきた。密度の高い夏の空気を押し出すような風にガラス風鈴の音色が清涼感をもたらしてくれる。
【2】
お膳の上に並んだ料理がほぼ無くなり、熊さんがきゅうりの甘酢漬けをつまみに、岩手の地酒である南部美人を飲みだした。きゅうりは体を冷やす効果があるので、夏場には鈴広屋でも定番の料理として火の前に立つ職人に振舞うようにしている。
「一平さん。権八さんとも相談したんですが、伝えておきたいことがあるんです」
幸四郎さんは正座をして俺の方を向いた。俺は熊さんをチラッと見ると、その言葉に同調するように頷いて、日本酒の入ったコップを傾けている。
「実は、六代目のことなんです」
「親父のこと?」
「そうです。昔、辰さんという職人さんがいましたよね。覚えていますか?」
俺は久しぶりにその名前を聞いた気がする。
ガキの頃からたっつぁんには、可愛がってもらっていた。親父もじっちゃんも忙しくて、花火が見たいとダダをこねていた俺と一緒に隅田川の花火大会に連れて行ってくれた。中学の時、親父と大ゲンカになり家を飛び出したときも、たっつぁんが探してに来てくれた。
熊さんはたっつぁんに似ているところがある。容姿は似ても似つかないが、その男らしい性格や雰囲気、甘酢漬けで日本酒を飲む姿はそっくりだ。
「もちろん覚えているよ。兄貴みたいな人だったから」
「そうでしたか。実は、一徹さんは辰さんと駆け落ちしたんです」
幸四郎さんの言葉に、耳を疑った。
実の親父が男好きだと知らされて、すんなり受け入れることができる息子がどこにいるだろうか。でも、俺は少し冷静になってみる。心の奥にある小さな記憶が蘇る。
俺が二十歳になったお祝いをしてくれた時のことだ。
近所の寿司屋に連れてかれて、親父とたっつぁんと三人で酒を酌み交わした。今日から外で大っぴらに飲める、と、俺は二人に倒れるまで飲まされた。日本酒を一升飲み干し、ぐでんぐでんになった俺は、たっつぁんに背負われて帰っていった。
その帰り道。二人が和やかに語り合う声で、俺は酒に溺れた目でうっすらと目覚めた。横に並んで歩く二人の肩がぴったりと付き、親父は、たっつぁんの手の甲に自分の手のひらを重ねていた気がする。俺は酔っていたせいもあり、その姿に違和感を感じることなく、むしろ二人の仲の良さに安心感を覚えていた。
たっつぁんは本当に良いのか、と親父に聞き、親父は笑って、いいんだ、と短く答えた。そして、立派な七代目になれよ、と俺の背中を叩いた気がする。
今更になって、そんな記憶が蘇った。
「そっか。知らなかったよ」
「申し訳ありません。一徹さんから堅く口止めされていたんです。ノンケに説明しても分かってもらえることじゃないって。でも、一平さんが、その、我々と同じと知って、真実は知っておくべきじゃないかと思ったんです」
幸四郎さんはお酒が入っているせいか、今にも泣き出しそうな顔をしている。
その姿を見ていると、俺の戸惑いや複雑な気持ちが静かに引いていった。幸四郎さんは頭を下げてお膳の上に一つ雫を落とす。熊さんも酒を飲むのを止めて、目を細めながら隣の幸四郎さんの肩を叩いた。
「もういいんだよ。今まで二人とも黙ってて辛かったんだろうね。なんつーか、その、ありがとう」
俺は気恥ずかしさを交えて言葉を詰まらせながら、二人に感謝をした。よく分からねぇけど、良い弟子を持った親分の気持ちって、こんな感じなのかもしれない。幸四郎さんは目に貯めた涙を拭って、ようやく笑顔になる。
「坊、とっちゃが居ねぐて、さもしか?」
「俺のこと、いくつだと思ってるんだよ」
一升瓶を抱えて赤ら顔で岩手弁を丸出しにする熊さんに、俺は笑って言葉を返した。
「ただ……」
「ただ、何だ?」
熊さんが言葉を拾って繋ごうとするが、俺はだだ漏れになりそうな思考をせき止めた。
「いや、何でもない」
熊さんが抱えていた日本酒を取り上げて、俺もグッと酒を飲み干した。その姿を見ていた熊さんが、物欲しそうな目で空のコップを差し出してくる。普段はそんなに飲まない幸四郎さんも真似をしてコップを手にする。俺は二人に並々と酒を注いでやった。
正直に言うと、俺は皆のことが羨ましかった。親父もたっつぁんも、熊さんも幸四郎さんも、自分が男好きだってことに恥じることなく前向きに生きている。もっと言うなら、自分の人生に誇りを持って生きている。
それなのに、俺はガキの頃から自分の軽率な行動で心配をかけ、背伸びをして怖い目に遭い、傷付くのを恐れて自分を偽り、他人の気持ちを踏みにじってきた。俺の過去は風鈴の呪いによる不幸で汚点にまみれている。そんな情けない過去が恥ずかしくて嫌いだ。いや、そもそも五歳の時、古びた風鈴を壊してしまうようなグズな自分が嫌いなのだ。
俺は詰まらない考えを酒で流そうとグラスを傾けた。幸四郎さんのコップが空になっているのを見つけると追加の酒を注いだ。
「で、この話。じっちゃんは知ってたのかな?」
「いえ、五代目には話したことありません。たぶん知らないかと」
答えながら幸四郎さんは二杯目の酒を飲む。
俺は病室で見た、じっちゃんの涙のことも思い出した。もしかしたら知っていたのかもしれないな。
「そっか。ところで、何で二人は親父のこと知ってたわけ? まさかセフレだったとか、言わないよね」
俺は軽快なジョークのつもりだった。だが、悪気のない軽口で場の雰囲気は一気に変化した。熊さんは口に含んだ酒をブーッと噴出し、幸四郎さんはコップを引っ繰り返してお膳に酒を飲ませる始末。
「え、まさか。二人とも親父と、その、そういう関係だった?」
俺は苦笑いを浮かべつつ、地雷を踏んだと後悔した。熊さんが咳き込みながら口元の酒を拭う。
「ぼ、坊も、わらすじゃねし。本当のこと言うとな、一徹とはまんずだ、ふぐりだ、付き合わせて仲良くした仲だ」
熊さんは少し顔を赤らめて、煙草を咥えるとライターで火を点ける。口から吐き出す白い煙を追うように目線を明後日の方向へ飛ばす。
「い、一徹さんとは、そ、そういう関係になったこともあります。大阪の飲み屋で知り合って、サヌカイトを見たいと香川の工房にも来て下さったこともあります。風鈴作りも一緒に考えてくれて、あの、その、仲良くなるのには時間がかかりませんでした」
幸四郎さんは耳まで真っ赤にして、言葉を紡ぎだすように語ってくれる。
「そ、そうだったんだね」
俺は今日二回目の動揺を、もう一度手元の酒で一気に飲み込んだ。
親父は暇があれば旅行だ何だと、日本中を渡り歩いていたのは確かだ。旅先で何人の男を抱えていたのだろうか。でも、熊さんも幸四郎さんも親父とヤッてたってことは、二人は穴兄弟ってことになるのか? ってことは、二人は俺の穴叔父さんになるのか。いや、親父とセックスしたんだから、平安時代なら夫婦ってことになるのか? それなら、二人は俺の親になるのか。俺は乾燥ほおずきの頭をフル回転させるが、中身がカラカラと鳴るばかり。
「一徹は坊や鈴広屋を心配してたで。ワシもあいつには世話になったから、ここに来たんじゃ」
「一徹さんは、自分の人生を思うように生きてみたい、と言ってました。辰さんと一緒に。そんな気持ちも分かってあげて下さい」
二人はそれぞれに親父のフォローをしてくれる。
俺だって、親父が居なくなって寂しくないわけじゃない。じっちゃんから突然七代目になれと言われた時には戸惑いが無かったわけじゃない。他人が聞いたら、きっと非難するだろう。自分の親の葬式に姿を見せなかった親父。でも、俺は恨んだりする気は今までも、これからもない。
「二人共、ありがとう」
今度ははっきりと感謝を伝えることができた。
第六章 恋の音色
【1】
九月になると鈴広屋は極度に暇になる。風鈴は夏に活躍する小物なので、秋になれば需要はなくなってしまう。と言っても、遊んでいることもできないので、来年の夏に向けての新しいデザインの考案や設備の調整などに時間を費やす。同時に、小規模ながらガラス風鈴作りの体験教室なんてのも開いている。受け入れができるのは、工房の規模からして一日五人程度だ。宣伝や参加者の募集は役所の観光課にお願いしている。
夏の残暑が厳しい土曜日、今日の体験教室は三組五人が参加予定だ。申込書を見ると、男女のカップル、年配の夫婦、それに俺と同い歳の男性が参加するようだ。女性一人の申し込みはたまにあるが、男性一人と言うのは珍しい。
集合時間の一時になった。接客担当の幸四郎さんに呼ばれて、俺は工房に顔を出した。
「えー。皆さん、こんにちは。鈴広屋の体験教室へようこそ」
俺は挨拶をすると体験内容の説明をする。教室では宙吹きと絵付けをしてもらう。宙吹きは熟練の技が必要なので熊さんがサポートに就き、絵付けは幸四郎さんのフォローで自由にしてもらうようにしている。話をしながら、参加者の顔を見渡すと一つだけ空席があった。例の男性一人の参加者がまだ来ていない。
「幸四郎さん。もう一人、参加者が居たはずだけど」
「そうですね。夏樹さんって方がまだなんですよ」
俺は説明を終えて、参加者を熊さんに引き継いだ後、幸四郎さんに確認をした。幸四郎さんは申込書に目を通して名前を教えてくれる。すると、玄関のチャイムが鳴り、声が聞こえてきた。
「す、すみませーん! 鈴広屋さんはここですか?」
俺が出迎えると、息を切らして額から汗を流している男が立っていた。
「あ、夏樹さんですか?」
「そうです。すみません。場所が分からなくて」
「ここは分かりにくいですからね。どうぞ、上がって下さい」
遅刻してきた参加者は何度も頭を下げて靴を脱ぐ。俺は笑って工房へ先導していった。
実は内心ドギマギしている。夏樹さんは、太陽の光をたくさん吸収した肌が健康的で、明るい男らしさを演出している。髪はソフトモヒカンですっきり。顔は凛々しく丹精で、笑顔になったら眩しいほど魅力的だろう。水色のTシャツから筋肉で引き締まった腕を覗かせ、白いハーフパンツが張り裂けそうな太ももを見せている。なんて反則的な肉体だろう。初めて出会った男なのに、急速に心が引き寄せされる。その理由はすぐに分かった。
ああ。この人はアイツ、太志に似ているんだ。
【2】
俺は夏樹さんに体験内容の説明を簡単に済ませると、既に宙吹きの指導を始めている熊さんの元へ連れていった。熊さんは若いカップルの男が宙吹きをする手伝いをしている。その様子を見て、夏樹さんは子供のように目を輝かせて見つめていた。俺はその瞳に駆り立てられるものを感じ、少しだけ開かれた唇にはエロいものを感じた。
「はい、よくできました。次はそこの方、どうぞ」
熊さんが夏樹さんに手招きする。急に呼ばれたせいか、彼は少し驚いた様子で俺の方をチラッと見ると、熊さんの元に進んでいった。
「これを軽く持って、ワシがちゃんと持ってますから。はい、息をゆっくり吹き込みましょう」
熊さんは共棹を持ちながら丁寧に指示を出していく。夏樹さんは緊張をしているせいか、目をギュッとつぶり頬を丸く膨らませて息を勢いよく吹き込む。
「あー、そんなに吹き込んだら」
熊さんと俺の声が重なる。それと同時に、筒に巻き取られた粘り気のあるガラスが風船のように大きく膨らんでいく。
――ボフッ!
鈍い音を立てて膨らんだガラスに穴が空いてしぼんでしまった。その様子を見て熊さんが目を丸くする。
「ははは。あなた凄いですね。吹きでこのガラスを破裂させるなんて、相当の肺活量が必要ですよ」
「すっ、すみませんっ!」
熊さんはニッコリと笑ってフォローするが、夏樹さんは自分自身で驚いて何度も頭を下げる。俺は口元に手を当てて、周囲に気付かれないようにした。お客さんを笑ってはいけない。でも、そのオロオロと慌てふためく姿が可笑しくて、可愛らしささえ感じていた。
「大丈夫です。もう一度やってみましょう」
熊さんは窯に棹を入れてもう一度ガラスを巻き取る。
【3】
夏樹さんはその後、二回もガラス吹きに挑戦したが、全て失敗に終わった。三度目の失敗には、さすがの熊さんも苦笑をしていた。正直、宙吹きは真似事をする程度で、上手くいかないことはないのだが、彼にとっては難しいことだったようだ。単に不器用なだけなのか、何事にも全力で取り組む性格なのか。どちらにしろ男前なルックスと健康的で逞しそうな体と、釣り合わないギャップが面白い。
「夏樹さんは職人が吹いたガラスを使って絵付けをしましょう」
俺はイスに座ってうな垂れている彼に、笑って冷たいお茶を出した。宙吹きの後はお茶を飲みながら休憩を取る。熊さんは年配の夫婦、幸四郎さんは若いカップルを相手にしているので、俺は夏樹さんの近くに腰を下ろした。
「あの。八月に四越百貨店で風鈴に絵を描いていた人ですよね?」
夏樹さんはゴクゴクと美味そうにお茶を飲み、話題を捜していた俺に話しかけてきた。
四越の工芸市は特設のスペースが用意され、工房で製作した色鮮やかな風鈴を吊るし、俺が鈴広屋の代表として絵付け作業を見せていた。
「あ、いらしてたんですか。人前で作業をしたことがないので、何か緊張してました」
俺は初めて参加したデモンストレーションに、予想以上の見物客が集まり檻の中の動物みたいな気分で黙々と作業をしていたのを思い出した。
「オレ。あそこで初めて本物のガラス風鈴を見て、すげーきれいだなって思ったんです。こんなきれいなもの作る職人さんもカッコいいですよね!」
夏樹さんはそう言うと表情を緩める。俺がガキの頃、ほおずき市の風鈴をきれいだと思ったように、この男も同じ感情を持ってくれたのだろうか。俺は自分の頬が染まっていくのを感じた。
「あ、ありがとう」
俺はごまかす様に頭をかいた。
「一生掛けて仕事をするっていいですよね」
夏樹さんの口調が少し曇った。
その時、幸四郎さんが参加者を集める声を上げた。
「さ、夏樹さん。絵付けも面白いので、楽しんでって下さい」
俺は彼の後ろ姿を見送りながら、新しく生まれてきた想いを抱いていることに気付いた。
【4】
絵付けの体験は焼き窯がある作業場に面した畳敷きのスペースを使用する。ここで幸四郎さんはいつも絵付け作業をしているのだ。幸四郎さんは体験教室用の絵の具や筆を並べたお膳に参加者を集め、絵付けの手順を説明する。
「絵はガラスの内側に描きます。外側に塗ると雨で流れてしまいますからね」
幸四郎さんは自分で作成した説明書を使って分かりやすくポイントを伝えていく。
絵付け作業は平面の紙と違って、球状の内側に筆を入れるので、思いのほか難しい。最初に水彩絵の具を使って、外面に水彩絵の具で下書きをする。その上で、下書きに沿って内側に筆を入れていくのだ。どんな絵を描くのかは参加者の自由。描きやすいものでは花火や朝顔が人気で、子供には丸い球形全部を使って描く大玉のスイカ模様が好まれる。夏樹さんは筆を片手に、何を描こうか考えているようだ。
俺はその場を離れて小一時間ほど他の仕事をした。そろそろ絵付けも終わる頃だ。俺が教室に戻ってみると、驚くような沸き立つ声が聞こえてきた。
「これは素晴らしい。我々、職人でもここまで描けませんよ!」
幸四郎さんはガラス風鈴を高く掲げて、光を透かすようにその絵を眺めている。
透明のガラスには、細部まで描かれた琉金と呼ばれる種類の金魚だった。朱と白のコントラストが鮮やかで、丸みを帯びた腹と大きなヒレが水流になびいている。まるで小さな金魚鉢で本当に泳いでいるような躍動感が素晴らしい。参加者もすごいすごい、と賞賛の声口にする。その中心にいるのは、頬に一本の白い髭を描き、照れ臭そうにしている夏樹さんだ。
「夏樹さん、凄いですね。これ売り物にしたら高く売れますよ」
俺は冗談交じりの笑顔で、その風鈴を褒めた。でも本当に商品として卸すことができたら、高値で取引されることになるだろう。
「はい。本日はありがとうございました」
絵付けをしたガラスに紐を通して完成した風鈴を丁寧に梱包して参加者に渡す。皆、嬉しそうに自分で手掛けた風鈴を受け取るが、夏樹さんは寂しそうな表情をしている。
「やっぱり自分で宙吹きしたガラスで作りたい。また参加してもいいですか?」
「もちろん。また来て下さい」
俺は笑って、風鈴の入った包みを差し出した。夏樹さんが受け取る時、俺の指に彼の温かい指先が少しだけ触れる。もう一度会いたい。小さな下心を込めて包みから手を離した。
俺は参加者を玄関まで出て見送った。夏樹さんは途中でこちらを振り返ると大きく手を振る。俺も答えるように手を上げて、姿が見えなくなるまで小さな背中を見つめていた。残暑が厳しい空の下、突然吹き付けた風に、俺は少しだけ戸惑いを感じた。茶の間に吊るされた風鈴は、その風を受けて美しい音色を響かせている。
【5】
何日か経った、ある日のことだ。
「よう、一平じゃねーか」
俺は声を掛けられるまで気付かなかった。振り返ると、どこか見覚えのある色黒の顔がそこにある。太志だった。
「ああ、久しぶり」
「何だよ。高校以来の再会だってのに、覇気のねぇ挨拶だな」
観光客で賑わう浅草六区で初恋の相手と再会。だが正直、今の俺にとっては嫌な奴に遭ったという気分だ。
「お前、オレに変なこと言ったの覚えてるか? オレを愛してるって」
太志は勘違いしている。俺は好きだって言ったんだ。
「ああ、そんなこともあったな。忘れてた」
俺は嘘をついた。
忘れるわけがない。あの時、クラス中に言いふらしたのは太志本人で間違いなかった。いくら乾燥ほおずき頭でも、男が男に告白することを簡単に受け入れてくれるとは思っていなかった。だが、告白という個人的な想いをネタにされたことが許せなかった。
「男同士でキスとか、有りえねぇよな。オレ、あの後、夢にまで見たんだからな」
太志のハサミで人形を切り刻むような言葉。その攻撃力を知ってか知らずが、拳を突き立てて俺の腹にパンチを食らわす。
「俺だって嫌だぜ。勝手に夢見んなよ」
俺は抵抗するように放った自分の言葉に酷く傷付いた。
「最近、仕事でこの辺を回ってんだけどさ。どっか、美味い昼メシ食わしてくれるとこ知らね?」
太志は俺の気持ちなんか知るはずもない。あの日から俺は徐々にこいつと距離をおくようになり、最後は会話すらすることも止めた。そんなことにも気付かないのか、太志は嬉しそうに話を持ちかけてくる。
「ああ、それなら梅園って店がいいよ」
俺は適当なことを言った。梅園はメシ屋ではなく、粟ぜんざいやあんみつで有名な和菓子屋だ。でも、美味いことには代わりない。
「梅園かぁ。今度、行ってみるわ」
「ああ、それがいいよ」
太志の言葉を適当に流す。
「そういや、お前って競艇やる?」
「賭け事はしない」
俺は早くこの場所を離れたかった。だが、太志はおしゃべり好きのおばちゃんのように一人で話を続ける。
「この前、お前んちの近くで、夏樹って競輪選手見かけたんだよ。成績悪りぃのに遊び回ってる感じでムカついたんだよな。この前のレースで三万も賭けたのに負けやがってよ」
「……」
「そんで、そいつの服装がさ、Tシャツに白いハーパンで、何かホモっぽい感じだったんだよね。スポーツやってんのって、ホモが多いって言うけど、アイツそうなんかな?」
俺はうちの体験教室に来た夏樹さんを思い描いた。あの人、競輪選手だったのか。絞まった体つきやパンパンの太もも姿に合点がいった。
「Tシャツって、水色の?」
「そうそう、水色。アイツ、お前んちに来たのか?」
「いや、来ていない。俺、もう急ぐから」
俺は吐き捨てるように言うと、足早に太志から離れた。
第七章 熊さんの過去
【1】
十月になり、今夜は中秋の名月だ。幸い天気も上々で今夜は美しい満月を拝むことができるだろう。近所で分けてもらったススキと和菓子屋で買ってきた月見だんごを茶の間に飾る。軒先に吊るされたガラス風鈴は季節外れに感じるかもしれないが、闇夜を柔らかく照らす満月に、透き通った音色は風流でもある。
俺は太志のことを考えていた。鉄橋下の河川敷で煙草を吹かしていた太志を、何となく過ぎていった高校生活の中で一緒に過ごしたアイツを、これ以上汚したくなかった。だが、俺が好きだったアイツはもう戻ってこない。いや、違うな。俺はそんなことで落ち込んでいるのではない。俺は太志がホモと見下した時、また自分を偽ってしまった。そっちの方が気に入らない。小林が言った言葉を思い出す。
――もっと自分に正直になりなよ。好きなら、それでいいじゃない!
あの時はあれだけショックを受けたのに、すっかり忘れていた気がする。いつまでこんなことを繰り返すのだろう。ススキの向こうで優しく光る月夜に対峙するように、俺は心を曇らせていた。
「おっ、十五夜だな。今夜は月見酒といこうか」
風呂上りの熊さんがうちわを片手にやってきた。
俺は青い江戸切子のグラスを二つ用意し、冷蔵庫から岩手産の蝦夷石影貝の刺身を持ってきた。陶器に盛られたむき身を見て、熊さんは目を丸くする。
「坊、これは石垣貝じゃねぇか。どうしたんだ、これ?」
「へへっ、お客さんが送ってくれたんだよ」
俺は一升瓶を傾けて、熊さんのグラスに日本酒を注いだ。体験教室で夏樹さんと一緒に参加した年配の夫婦から岩手旅行のお土産とわざわざ送ってくれたのだ。正式名称は蝦夷石影貝というらしいが、熊さんの地元では石垣貝と呼んでいたらしい。
酒がたっぷり入った二つのグラスが合わさる音がする。熊さんは美味そうに日本酒を一口飲むと、鮮やかなオレンジと乳白色の艶やかな身を口に運び、顔をほころばせる。俺も一切れを箸で摘むと、ほのかに漂う磯の香りを口にした。肉厚な身は噛むと甘みが染み出て、すっきりとした日本酒との味わいにぴったりだ。
「ああ。この貝、すげぇ美味い!」
「んだ、うめぇなぁ」
熊さんも思わず声を漏らす。
俺は取り合うように貝の刺身を口に運び、辛口の日本酒に舌鼓を打った。花より団子、月より石垣貝。今夜は縁側の窓を開けておいても寒くは感じない。優しい風がススキの穂を揺らし、風鈴の音が静かに響いている。
【2】
「ちっとは元気になったか?」
熊さんはそう言うと、酒で火照った体を冷やすようにうちわで扇ぎながら月を見ている。
「え、何のこと?」
「坊。隠したって、ワシには分かんだで。話せば楽になるかもしんねーぞ」
口元を緩ませて人懐こそうな目でこっちを見る熊さんに、俺は酒の中に浮かぶ切子模様を眺めながら少しずつ語った。
高校時代に好きな男が居たこと。告白をしてそれをネタにされたこと。自分を守ろうとして、他人を傷付けてしまったこと。何度も自分を偽っていること。もう俺は酔っているのだろうか。こんなに自分をさらけ出したことはないってほど、洗いざらい話をした。熊さんは時々クラスを口に運びながら、耳はしっかりと俺に傾けてくれていた。
「坊も青春してたんだなぁ」
「茶化すなよ」
熊さんの言葉に、俺は子供扱いされている気がしてムッとした。
「なぁ、熊さんの青春も教えてくれよ?」
「何だよ。知りてぇのか? 言っとくが、つまんねぇからな」
熊さんは煙草に火を点けると、煙を揺らしながら昔の話をしてくれた。
熊さんも俺と同じように高校の時に好きな男がいた。体が弱くて、教室の隅で本を読んでいるような奴だったそうだ。その頃、熊さんは番長みたいな存在で、そいつがクラスの連中からからかわれている時には率先して守ってやっていた。
「それで、熊さんはその人に好きだって言ったのか?」
俺の言葉に、無精髭を生やした頬を少しだけ赤くして首を横に振った。
「んにゃ、言わなかった。……違うな、言えなかった」
その後は何かを押し留めるように、ゆっくりと話をしてくれた。
熊さんが恋焦がれたクラスメイトは、ある日から学校を休むようになった。元々、休みがちだった彼には珍しいことではなかったが、熊さんには何か心に引っかかるものがあったらしい。それでも気のせいと思い込んで、また教室に現れるのを待っていた。だが、彼が教室から姿を消してから二週間後、担任から入院先の病院で亡くなったと聞かされた。熊さんはその時の様子を今でも覚えていると言う。
「たった一言だった。授業の前に死んだと説明されて、あとは教科書を開けと言われた。目立つようなヤツじゃねぇし、友達も満足にいなかった。だから仕方ねぇのかもしんねぇ。でもよ、ワシはアイツが不憫でならなかった!」
熊さんは言葉を震わせ、両目を強くつぶりながら手にした日本酒をグイッと飲み干す。俺はその目元に光るものを見たが、見てはいけないような気がして慌てて目線をそらした。
月明かりに照らされた庭から静かに虫の声が聞こえている。少しだけ無風の状態が続き、お互いの呼吸や鼓動さえ聞こえてきそうな空気が広がる。熊さんはその空気を嫌うように、もう一本、煙草に火を点け、吐き出した煙が空気に消えていく様子を見つめている。遠い過去を愛しく懐かしむように。
「そっからだな。俺がこんなんになっちまったのは」
「そっか」
「だから、坊は偉いな。よく告白したもんだ」
「うん……」
「でも、まぁ。一つ言うなら、女を利用するのは頂けねぇな」
「分かってる」
「そんならいい。それが分かっただけでも、勉強になったじゃねぇか」
俺の心の中に小林の顔が浮かび、また気落ちしそうになる。熊さんの言葉に、俺は頷くのが精一杯だった。
「ワシは後悔ばかりして生きてきた。だから、早く熊になりてぇ。坊、お前はワシのようになるんじゃねぇぞ」
俺の頭を、熊さんは岩のような拳骨で軽く小突いた。でも、その表情には陰りがある。自分の過去、嫌な記憶、失敗、悲しみはいつしか汚点となり、思い出す度に辛くなる。時には自分を責め立てる怒りにもなる。俺も熊さんも、過去を振り返って自分を責め続けてきた。そんなことをしても意味がないのに。
「坊、空だぞ。とっとと注いでくれ」
握ったグラスを差し出す熊さんは、豪快で大雑把ないつもの熊さんに戻っている。俺は慌てて一升瓶を抱え、空になったグラスに並々と酒を注いだ。月を眺めながら一口の日本酒を味わう熊さんに、どうしても言葉で伝えたくなった。
「熊さんは強えぇよ。昔のこと背負って、今でも生きてるじゃねぇか。いつもきれいにガラス吹いて、出来の悪い俺にも何度も教えてくれただろ。俺、今の熊さんが好きだよ。だから、熊になりてぇなんて言うなよ!」
上手い言葉なんか思い付かない。所詮は、ほおずき頭だから仕方がない。思いつく限りの精一杯の言葉に、俺はどんな口調だったのだろう。熊さんは大きな目を丸くしてキョトンとした表情で、俺のことを見ている。
「そうか。坊に、そう言ってもらえると嬉しいな」
弧を描くように丸い目を細めて、今度は大きな手のひらで俺の頭を優しくなでてくれる。秋の夜風が風鈴を鳴らすと、熊さんはさっき注いだばかりの日本酒を飲み干した。
【3】
「なんか辛気臭ぇな。ちょっと気晴らしすっか」
すっかり顔を赤くした熊さんは俺の手を握ってきた。今まで感じていた空気が違うものに変わる。見えない色の中に、明らかに熱っぽいものが加わっていた。
「え……」
俺はその言葉の意味を確かめようとしたが、熊さんは何も言わずに肉厚の唇を重ねてきた。無防備に開かれた唇の隙間から、日本酒の味が残った舌が滑り込んでくる。酔った勢いと普段の性格が重なって俺の口の中で力強く舌が這い回る。その傍若無人な舌先に俺も抗おうとするが、生暖かいねっとりとした粘膜を絡めて抵抗する気を奪う。間近に感じる息使いは動物のように荒々しく、熱を帯びた肉体からは心臓の鼓動が聞こえてくるような気がした。
「坊はきれいな体してんだな」
熊さんは軽く日焼けした体毛の薄い俺の体を見つめている。俺の体は既に畳の上に押し倒されていた。Tシャツを脱がされ、さっきのキスで火照った体温が、茶の間の空気に交わろうとしている。
「そんなに見んなよ」
「いいじゃねぇか。減るもんじゃねぇし」
熊さんの小慣れた手つきに、経験の深さと成熟しきった大人の余裕を感じた。熊さんの太い指がゆっくりと俺の肌を嘗め回す。へそのくぼみをなぞるように指先が動く。顔に似合わない優しい手つきに身を委ねた。
「乳首、感じるか?」
俺の体に身を寄せる熊さんが耳元でささやきながら、乳輪に指先を這わせてくる。俺が一つ頷くと、熊さんは右の口元だけを持ち上げて、親指と人差し指で乳首の突起を摘んできた。
「くっ!」
信号のように伝わる快感に、俺は声を上げそうになった。強弱を付けて乳首を何度も摘まれる。気持ち良さが伝わる度に、俺の唇にも力が入った。
「我慢しねぇで、声出しちゃえよ」
熱っぽい声が耳に響いてくる。熊さんは指で弄んでいた乳首に、吸い付くように唇を重ねる。硬くなった突起に熊さんの舌先が触れる。小刻みに動く舌で伝わる刺激。ねっとりと乳輪を周回するような動き。俺はもう我慢ができなかった。
「ああっ、あっ、あっ、あっ!」
吐息混じりに漏れる声に、熊さんが満足そうに笑う。
「いいぞ。もっと感じさせてやるよ」
熊さんは右の乳首を吸いながら、左腕を俺の首に回し脇下から伸ばした手で左の乳首を触る。もう片方の手はこっそりと俺の股間を包み込む。乳首の刺激で血流が注がれ硬くなったチンポ。
俺は無防備に手をだらんと放り出し、熊さんにされるがままに体を弄られていた。
「もうガチガチじゃねぇか。気持ちいいか?」
「ああ、気持ちいいよ」
熊さんは服の上から勃起した形を確かめるように竿を上下にしごく。乳首の快感とチンポをしごかれる刺激に、俺は身を委ねるしかない。
「見せてみろ」
荒い呼吸が交わった声で、熊さんは俺のハーフパンツと下着を一気に引き下げる。力任せに下げられた勢いで、俺の発情した雄は勢いよく天井を突き上げた。
「おっ、元気いいじゃねぇか」
熊さんが俺のチンポを握って嬉しそうな表情をしている。鈴口が少しだけ飛び出した皮を片手で剥くと、ガマン汁で濡れている亀頭をまじまじと見つめている。
「み、見ないでくれよ」
「何だよ。坊、恥ずかしいのか?」
俺が顔を赤くしていると、熊さんは片手に握る亀頭にもっと顔を近づける。悪戯っぽい笑みをこぼすと、大きく口を開いて亀頭から竿の根元まですっぽりと咥え込んだ。
「ああっ!」
熊さんの舌が亀頭の敏感な部分を包み込む。何かで刺されるような痺れる感覚に、俺は身をよじらせた。熊さんは俺の反応を無視するように上下に口を動かし更なる刺激を与えてくる。口の中で絡みつく舌の感触に我慢ができず、俺は鈴口からガマン汁を溢れさせた。熊さんは美味そうにその汁を吸い尽くす。
【4】
俺はチンポと乳首の三転攻めを受け息も絶え絶えになる頃、熊さんは俺の脇でTシャツとパンツを脱ぎ捨てた。熱を帯びた熊さんの体は動物のように黒い体毛で覆われていて、股間部分は茂みのように陰毛が広がっている。その茂みをかき分けるようにズル剥けのチンポが飛び出していた。黒光りした亀頭は何人の男を喰ってきたのだろう。大きく開かれた鈴口からはいやらしい汁が糸を垂らしている。
「ほれ、坊もしゃぶってくれよ」
熊さんは頬を染めて、硬く膨らんだ肉棒を片手に迫ってくる。少し強引に俺の顔を股間へ引き寄せ、口を開くように催促する。ツンとする汗と股ぐらの雄臭さに、軽い石鹸の香りを感じた。アメリカンドックのような膨張した竿は熱がこもっていて、亀頭からは何もしていないのにガマン汁がダラダラと流れている。
俺は大きく口を開いて亀頭を咥え込んだ。熊さんは俺の後頭部を掴むと、もう我慢ができないというように力任せに竿の根元まで押し込んだ。
「むふっ、むうっ、ううっ」
「おおっ。坊、いいぞ。もっと舌使ってくれや」
口の中に含んだ亀頭が上顎から喉奥まで何度もスライドする。そのスピードに俺も耐えようとするが、暴走気味なイマラチオについていくことができない。
――ジュポ、ジュポ、ジュポ。
――ウゲッ、ゲエェ!
「く、くまひゃん。は、早い。はやひぃ」
「お、おう。悪ぃな。つい、突っ走っちまった」
俺が腰のあたりを叩くと、熊さんは頭を押さえる力を弱めて気不味そうに自分の頭をかいた。俺は口からツバでテカテカに光ったチンポを取り出すと、大きく呼吸をついた。
丸々とした熊さんの玉袋に手を伸ばし、めくるように持ち上げてみた。パンツを脱いだだけでは見えない場所にほくろがある。俺は蟻の門渡りに舌を伸ばして、玉袋の裏筋に沿って舌先を這わせてみた。その動きに合わせるように、熊さんは体をビクンとさせた。
「おーっ。坊、それ凄ぇいいぞ。もっとやってくれ」
俺は玉袋を口に含み、足の付け根を舐めまわす。時々、上目遣いで相手の表情を確かめると、熊さんは虚ろな目をして俺の頭をなででくれる。その間にも鈴口からはガマン汁が溢れてくる。俺は反り上がった竿の根元から亀頭にかけてゆっくりと舌を登らせた。鼻に付く雄の生臭さが妙に興奮させた。
「ああっ、いいぞ。いいぞ」
熊さんは少しだけ身を捩じらせている。舌先を亀頭まで運び、大きく開かれた鈴口に到達する。ゆっくりと亀頭全体を口に含むと、もう一度竿の根元まで深く咥え込んだ。
【5】
「く、熊さん。そ、そこはダメ」
シッククスナインでお互いのチンポをしゃぶり合っていると、熊さんが自分の腹の上に乗せていた俺のケツをまさぐり始めた。
「坊が悪りぃんだぞ。そんな可愛い声しやがるから……」
熊さんは両手で開いたケツ肉の谷間に顔を埋めて舌で穴をグリグリと押し込もうとする。
「ああっ。ああんっ」
俺は熊さんの毛むくじゃらな腹の上で身を捩じらせてしまう。
「そんな声出して。ワシ、本気になっちまうぞ」
俺のケツをギュッと掴むと、さらに舌を押し込んで穴を開こうとする。無精髭がチクチクと肌に当たるのに、それすら何かいやらしいものに感じた。俺はケツができないわけではない。だが、幸四郎さんと熊さんの関係や、鈴広屋での俺の立場が一瞬頭をよぎった。それでも、熊さんは百戦錬磨のテクニックで、俺の理性を簡単に崩そうとする。俺はこれ以上抗えなかった。
さっき部屋から持ってきたローションを中指に絡めると、キスをしながら熊さんは、俺のケツにゆっくりと指を沈める。第二間接まで入ると、指先を動かし腸の粘膜に刺激を与える。
――クチュ、クチュクチュ。
「あっ、あっ。それ、いいっ!」
「どうだ。ここがいいのか。ん?」
太い指先が前立腺を探り当てる。ケツの中から伝わる刺激に俺は声を上げ、熊さんはスケベな目をして耳元でささやいてくる。
「ああ、気持ちいいよ。も、もっとしてくれよ」
「坊も助平だなぁ。もう一本入れてやんよ」
熊さんは一度指を抜き取ると、人差し指も絡めてもう一度挿入してくる。二本の指が別々に動き前立腺を刺激する。萎えていた俺のチンポはまた硬く反り返った。
「なぁ、入れていいか。いいだろう?」
熊さんは不器用な上目遣いでおねだりをする。さっき俺が拒否したのを気にしているのか、珍しく甘えたな声を出している。指でケツを弄られながら、俺は熊さんの頬を両手で寄せると唇を重ねた。
「ああ。俺も熊さんとつながりてぇ」
「ワシのは、ちとおっきいからな」
俺は両足を持ち上げられ大きく股を開かされる。目の前のタチ役の男に自分のチンポもケツの穴も丸見えになり、強い背徳感に襲われる。
「何か。は、恥ずかしいな」
「今さら、何言ってんだ」
俺が頬を染めると、熊さんはその頬に温かい手を添えて軽くキスを交わしてくる。濡れた亀頭がケツの穴に当たる。腰をグッと押し込んで、ゆっくりとチンポが俺の中に入ってくる。
「根元まで入ったぞ。痛くねぇえか?」
「だ、大丈夫」
挿入前にじっくりとケツをほぐしてくれたので痛みはない。だが、咥え込んで感じる熊さんのチンポの大きさ。内臓を押し上げるような圧迫感が凄まじい。
「坊ん中、あったけぇ。気持ちいいぞ」
熊さんは息を漏らすと、ゆっくりと腰を動かし始めた。亀頭が奥に突き刺さる度に息が押し上げられるようになる。チンポと腸の粘膜が擦れてケツが熱くなってくる。
「あーっ。熊さん、凄ぇよ。ケツが痺れる」
「坊のケツが締め付けやがる」
「き、気持ちいい?」
「ああ、いいぞ。ワシのチンポたっぷり味あわせてやるよ」
熊さんは堪えるように片目を強くつぶり腰を動かす。
――パン、パン、パン。
ケツの肉とぶつかる音が響き、熊さんの額から溢れる汗が俺の腹の上にポタポタと落ちてくる。
「あっ、あっ、ああっ、あんっ」
俺は堪らずに声を上げた。
熊さんはそんな俺の様子を見て満足そうに口角を上げている。秋のひんやりとした空気は、暑苦しい熱に包まれて濃密な空間に漂う。
熊さんはチンポを抜いて一呼吸ついた。
「坊、体を横にしろ」
俺は体を右側に横たえた。
「右の膝は曲げてワシの太ももに置け。そうだ。左はワシの肩に乗せてみろ」
俺は言われるままに体位を作ると、穴の谷間がくっきりと開いているのが分かった。熊さんはもう一度挿入してくる。ケツ穴はチンポをすっぽりと咥え込んだ。
「はぁーっ。ふっ、深い」
「んだろ。普通に入れるより、この方がしっかり入るんだ」
熊さんはそう言うと、お構いなしにガンガンと突いてくる。
「んあぁ、あっ、はっ、ああっ」
さっきよりも奥深くにチンポが進入し、ケツの中を掻き回す。痺れるような熱さは既に快感に変わっていた。熊さんはケツを掘りながら、俺の乳首に手を伸ばす。
「どうだ? どうだ?」
「い、いいっ! す、凄く、いいっ!」
熊さんは自分の額に溜まった汗を拭いながら、意地悪そうな目をして、俺の体を執拗に責めてくる。俺は完全にされるがままに身を委ねていた。
「あっ。ひゃああん」
熊さんの肩に担がれていた左足の親指をしゃぶられた。チンポや乳首とは違う独特の性感帯。気持ち良いような、こそばゆいような快感に、俺はまた頬を染めてしまった。
「く、熊さん。足なんか汚ねぇって」
「坊のなら、体中どこでも舐めてやらぁ」
熊さんは俺の小指まで一本一本、肉が残った骨でもしゃぶるように丁寧に舐め上げている。俺はケツ、乳首、足と交互に弄ばれて、視界が溶けていくように感じた。
【6】
俺達はどれくらいの時間交尾をしているのだろう。縁側を照らしていた月は、いつの間にか西の空へ傾いている。気晴らしと言って始まったエロい戯れは本当の恋人同士のように濃厚な性の応酬となっている。
「そろそろぶっ放してもいいか?」
熊さんは唇を重ね、舌を絡めながら小さく言葉を紡ぎだす。
「ああ、俺も出してぇ」
俺の言葉を確認すると、熊さんは俺をうつ伏せにしてバックから挿入する。四つん這いでケツを突き出す俺に、二、三回ピストン運動を繰り返すと、熊さんは俺の両腕を掴み手の動きを拘束する。
「あっ、あっ、あああっ」
「坊、もっと声だせ。ぶっ飛んじまえ」
俺は両腕を引っ張られて、膝立ちの中腰のような状態になる。体の一部の自由を奪われた体勢に、妙な興奮を覚えチンポが勃ってしまった。密着する肌に冷えた汗の温度を感じ、相手の荒い息遣いが耳元で聞こえてくる。
「ああ、お前のケツ最高だ」
「はあっ、もっと、もっと」
俺は気付かないうちに卑猥な催促を漏らしていた。快楽を貪り考える暇もなく、熊さんは激しく突き上げてくる。ケツの中で暴れ回る極太チンポに、俺の前立腺が刺激され、下の方から込み上がるものを感じた。
「あっ! く、熊っ、俺、出るっ!」
絶頂と同時に、俺は畳の上に精液をボタボタと撒き散らす。
「くうっ! 坊、そんなに締め付けんなっ!」
熊さんは俺の腰を強く掴むと、深く一突きをして腰の動きを止める。俺の中にドクトクと熱いものが流れている。ケツの中のチンポが脈を打ち、背後から聞こえてくる荒い息遣いは、少しずつ治まってくる。
【7】
「気持ち良かったぞ」
呼吸を整えながら、熊さんは俺の体を後ろから抱き寄せ耳元でささやく。その言葉に答えようと俺が首を回すと、すかさず唇を塞がれた。
だらしなく開かれた俺の唇にツバを流し込むように熊さんは舌を入れてくる。少し酒臭いような、汗臭いような味が俺の口の中に広がっている。疲れ切った俺は唇に力が入らず、だらしのない口元からツバを垂れ流した。
「気持ち良かった」
熊さんはもう一度、同じ言葉を漏らした。
「俺も……」
繰り返される言葉に、俺は少しだけ寂しいものを感じた。でも、それは熊さんを愛おしく思うのではなく、単に肌を重ねる快感が終わってしまうことへの欲深さに過ぎない。終わってしまった過去をいつまでも後悔する二人の男。その傷を互いに舐め合っただけの僅かな時間。俺は急に照れ臭くなって、おどけた表情を見せた。その気持ちを知ってか知らずか、熊さんも大きな口を開いて笑ってくれた。
第八章 親父の後悔
【1】
十二月になると、銀座の街は年の瀬に向けた準備で少しずつ忙しくなる。来年は新しい試みとして、フランスやアメリカに鈴広屋の風鈴を輸出することになった。これは幸四郎さんからの提案でもあり、実現には彼の人脈を利用して、ようやく実現することができたことでもある。
「一平さん。私は冊子の最終確認で打ち合わせに行きますので」
「ああ、お願いします」
俺達は輸出に向けて最終的な打ち合わせを終えてきた。幸四郎さんは別の打ち合わせで印刷所にも出かけるという。風鈴の中に同梱する外国語の資料をチェックするらしい。
幸四郎さんは普段は掛けないメガネで凛々しさを際立たせ、グレースーツをバッチリ着こなしている。白いワイシャツに合わせたドット柄のネクタイはシンプルでさりげないお洒落を演出している。大柄で幅広の背中にはスーツがよく似合う。職人姿とは違った魅力を放つ幸四郎さんに、最近はいつも心を乱されている。
「先に戻っているよ」
俺は幸四郎さんに手を振ると背を向けて街の雑踏に紛れた。
二勢丹デパートの前を通った。今日は岩手の物産展をやっているようだ。何か酒のつまみを熊さんに買っていってやろう。最近、俺と幸四郎さんは海外への輸出で忙しく飛び回っていたせいか、熊さんは蚊帳の外にされていると少しすね気味なのだ。職人のご機嫌取りも店の主には必要なことだからな。
デパートの入り口で会場を確認し、中に入ろうとした。向かいから歩いてくる男の姿に何気なく目が止まる。俺よりも少し背が低く、メタボな腹回りが目立った中年男。
「あ……」
親父だった。二十歳の頃の記憶よりも老けて見えるが間違いない。俺はデパートを出て行こうとする様子を見つめていたが、向こうは足早で一向に気付こうとしない。俺はその後ろ姿を追いかけた。
「親父!」
人ごみに消えようとする親父は立ち止まり俺の方を振り向いた。曇った目が一瞬大きく開き、明らかに焦りの色を表している。だが次の瞬間、もう一度背を向けて人を縫うように走りだした。
「あ、コラ! 逃げんな。何で逃げんだよ!」
俺は届きもしない手を伸ばして、親父の後姿を追いかけた。履きなれない革靴が重く感じる。それでも、今捕まえないと二度と会えないかもしれない。そんな思いが心を過ぎった。
【2】
「ったく、逃げることねぇじゃねぇかよ」
「……」
俺と親父は碁盤上に区切られた街中を走り回った。これではらちが明かないと先回りをして、やっと親父を捕まえることができた。息も絶え絶えになった親父を連れて、古びた喫茶店に入り注文したブレンドコーヒーが運ばれてきたところだ。
「じっちゃんが死んだぞ」
「ああ、知ってる」
親父は驚く様子もなかった。
「葬式、大変だったろう。ほったらかしにして悪かった」
「……それはもういいよ」
俺はコーヒーを口に運んだ。責めるつもりはない。今こうして親父を目の前にすると、不思議と冷静でいられる。
「皆、心配してたんだぞ」
「……」
親父は白いカップの琥珀色を見つめるだけで何も答えようとしない。俺は一つため息を付いて淹れ立てのコーヒーを一口味わった。味なんて分かるもんか。
「……店はどうなってる?」
ようやく親父が口を開いてくれた。
「ああ、権八さんと幸四郎さんが来てくれて、俺もじっちゃんに仕込まれて何とかやってる」
「そうか。熊も幸四郎も助けてくれてるのか……」
親父は息を一つ吐き出すと、少しだけ口元を緩ませてその顔を上げた。その顔は安堵の色を浮かべているというよりは、疲労感を漂わせ何かを隠すような作り笑いだった。
【3】
「親父はどうだったんだ?」
親父が話したそうなことを先回りして俺から切り出した。江戸っ子の職人気質なんて言えば聞こえがいいが、要は不器用な男なのだ。この状況であればなおさらだ、と俺でも分かる。
「辰の野郎と一緒に大阪で暮らしていた。言っちゃ悪りぃが、楽しかった。でも、辰はずっとお前達に申し訳ないって言ってた」
俺はたっつぁんらしいと思った。自分のことは二の次で、鈴広屋に居た頃も自分の気持ちや考えをおくびにも出さなかった。ましてや親父と好き合ってる関係なんて匂わせることも。今思えば、たっつぁんは住み込みの職人という立場をわきまえていたのだろう。
「でもな。タツが去年倒れちまってな。何だか難しい病気で、今こっちの病院に入ってるんだ」
「どこの病院だ? 大丈夫なのか?」
そんなことになっているとは思わなかった。俺は今すぐにでもたっつぁんに会いたい。
でも、親父は首を横に振った。
「タツから絶対に言うな、って言われてる。お前達に合わせる顔がねぇって」
「……」
親父はもう一度カップに手を伸ばしたが、口に運ぼうとせず固まっている。カタカタと白い皿の上でカップが鳴り、うつむいた顔から低い嗚咽が聞こえてきた。店のドアが開き古い金属製のベルが鳴り、誰か客が入ってきた。もう会社は終わる時間らしい。
「俺は……、俺は、何であの家を飛び出しちまったんだっ!」
親父はうつむいた顔からボタボタと涙を落とし、ズボンの上にいくつものシミを作っている。
「鈴広屋に居れば、タツもこんなことにならなかった。俺がわがまま通して、タツを苦しめてきたんだっ!」
流れる涙の合間を縫って言葉を振り絞ると、親父はコップ酒でも飲むように冷めたコーヒーを飲み干した。俺は無言でハンカチを渡すと、親父は素直にそれを受け取り、くしゃくしゃになった顔を拭った。その様子を見て何か締め付けられる思いがした。
――ワシは後悔ばかりして生きてきた。坊、お前はワシのようになるんじゃねぇぞ。
俺はもう一度、親父を見つめた。
「親父は家を飛び出した時、辰さんと二人で新しい人生が始まって、幸せじゃなかったのか?」
親父は大きく首を横に振った。
「その時は、その選択は正しいと思ったんだろ?」
「ああ、そうしたかった」
俺の冷静な口調に、親父も低い声で答える。
「なら、それでいいじゃねぇか。昔のことを悔やむよりも、今のたっつぁんのことを考えてやれよ」
親父は珍しいものを見るように、俺の顔を見ている。
「俺もじっちゃんも、親父達のことを恨んでなんかいねぇよ」
そう言って、俺は大きく顔をほころばした。
「お前。ちょっと見ねぇうちに、大人になったんだな」
親父はそう言うと、ようやく笑顔になった。
【4】
「お前。ガキん時、寺の風鈴ぶっ壊しただろ?」
「今さら、何の話だよ。そんなの知らねぇし」
俺は人生で一番気にしている部分を突かれて、とぼけるので精一杯になった。親父は俺の反応を楽しむように口を尖らせる。
「知らないのか。じゃあ、七つの不幸の後の話には興味ねぇよな?」
「それ、何だよ。聞かせてくれよ!」
知らないと言った奴の反応の仕方ではなかった。でも親父はそれ以上突っ込むことはなく話をしてくれた。
「俺は迷信なんか信じねぇ口だけどよ。あの風鈴の七つの不幸を潜り抜けた後は、不幸以上の大きな幸せを手に入れるって話だぞ」
「そ、そうなんだ」
俺は平静を取り戻そうと冷え切ったコーヒーを口に運んだ。
「ま、迷信だからな。迷信」
親父の軽い口調は何を思うのか。それは俺には分からねぇが、これまでの人生に光が見えたような気がした。
【5】
「一平!」
親父が今までにない強い言葉で、俺を見つめる。
「何だよ」
「ここからは六代目としての話をする」
もう何年も見ていない親父の職人としての目付き。それは単に厳しいだけではなく、鈴広屋の伝統を守る意地と誇りに満ちている。久しぶりに、そんな目を俺は見ている。
「お前は本気で家を継いでくれるか?」
「もちろん。今までも、そうしてきた」
「熊や幸四郎がいつまでも居るとも限らん。もっと厳しい状況になるかもしれんぞ。そんな重荷をお前は背負えるのか?」
「ああ、やってやる」
「分かった。一平、ちょっと頭を出せ」
俺は言われた通りに、親父の前に頭を差し出した。
――パシッ!
「痛てぇな。何すんだよっ!」
不意に叩かれた頭を抑えながら、俺は親父を睨みつけた。
「はは、悪りぃな。俺も五代目から頭ぶっ叩かれて、六代目にしてもらったんだ」
そう言って笑うと、親父は首に下げていた古めかしい木札を外して俺に差し出した。
「一平。お前を鈴広屋、七代目跡取りとする!」
俺は親父の温もりが残された木札を手にした。表面には年季の入った文字で『鈴広屋』と屋号が彫られている。今まで何代もの主に受け継がれた木札は黒ずみ、布地や肌に擦れて丸みを帯びている。
夜の帳が下りて、ネオンが華々しく光っている。
「今度、俺もたっつぁんの見舞いに行かせてくれよ」
「ああ。タツに話してやる。アイツも本当はおめぇに会いてぇはずだからな」
地下鉄の駅へ通じる下りの階段口で、俺は親父と別れた。また必ず連絡をすると約束をして。一人になって、浅草方面に向かう電車に揺られながら、首にかけた木札をもう一度見直した。六代目に認められ、家を正式に継ぐことになったのは七番目の不幸。それだけの厳しさと責任があるのだ。俺は何となく分かっている。
親父でもあんなこと言うんだな。家を飛び出したことを後悔しているとは思わなかった。その姿は何となく自分と重なる。だから、親父に向けて口にした自分の言葉が意外に感じた。
第九章 幸四郎さんの過去
【1】
年が明けた一月。正月の賑わいも落ち着いた頃、熊さんは珍しく旅行に出かけていった。俺は幸四郎さんと二人で熊さんが貯めておいたガラスに絵付けをしていた。
「一平さん、最近はどうですか?」
「ん、何のこと?」
「秋頃までは元気なさそうに見えていて、気になっていたのですが話しかける機会が掴めなくて。でも、最近は調子良さそうに見えますね」
「ああ。幸四郎さんにも気付かれていたんですね」
俺は絵筆を置いて、わざとらしく頭をかいた。あの月見をした夜と同じように幸四郎さんにも自分のことを説明し、熊さんに教えてもらったことを話した。
「権八さんがそんなこと言ってたんですね。じゃあ、私も昔話をしましょうか」
幸四郎さんはそう言うと、塗り終えたばかりの花火の絵柄を確認して手にした丸ガラスを静かに箱に入れる。俺は熱い日本茶を用意し、幸四郎さんの隣に湯飲みを置いた。
【2】
「頂きます」
幸四郎さんは小さく頭を下げると、湯気の漂う日本茶を一口すする。そして、ここに来るために香川のサヌカイト工房を閉める時の話をしてくれた。
「あの工房を閉める時に、周囲から猛反対されたんです」
幸四郎さんは冬空に吹く冷たい風を眺めている。
独立して工房がようやく軌道に乗ってきた頃、幸四郎さんは親父からの依頼を飲み、東京へ行くことを決意した。それは単に義理めいたものではなく、古い伝統を受け継ぐ職人経験を積むことは、サヌカイト工芸にとってもプラスになると判断をしたからだった。でも、それを認めてくれる人は誰もいなくて、最後は逃げるように香川を離れた。
「親にも泣かれましたよ。それでも、私はすがる手を振り解いて飛行機に乗りました」
自分の言葉に、幸四郎さんは苦笑いを浮かべた。自分の信念を持って行動しようとすることを、他人から批判されるのは辛い。でも、この選択は自分が必要だと信じたからで正しいと思ったから、幸四郎さんは鈴広屋へやってきた。
「たぶん、そうしなくては生きていけない、って思ってたのかもしれません。人は過去を積み重ねて、その上に今があります。だから、嫌な記憶を振り返って、嘆いたりするんですよね」
俺は黙って頷いた。
【3】
「一平さん、後悔って何でするんだと思いますか?」
「ん。やってしまったことを悪いと思って、いけないって思うからかな?」
その言葉に、幸四郎さんは頷いて軽く微笑んでいる。
「大概はそうでしょうね。だから、私は後悔という言葉が好きではありません」
幸四郎さんは手にした湯飲みにもう一度口をつける。
常に自分には厳しくあるべき。だが、それは未来への自分であって、過去の自分に向けるものではない。過去を振り返って、後悔という言葉を借りて自分を責めているのは意味がないこと。そんなことを語ってくれる。
「一平さんも昔の自分を許してあげたらどうですか? 私は、私のことを許すことができるのは私だけだと思っています」
教訓のような話で昔話を結論付けると、幸四郎さんは温かい手の平を俺の肩に静かに乗せた。俺のほおずき頭が、語ってくれたことを一つずつ飲み込もうとしている。
「ゆっくり考えればいいですよ」
「幸四郎さんは難しいことを知っているんだな」
俺は幸四郎さんの顔を見ると、その温かいまなざしに自然と口元が緩んだ。
「一平さんは、もう分かっていると思います。それでいいんだと思います」
幸四郎さんは肩に置いた手を、俺の手のひらに重ねて小さく力を込めて握ってくれる。その温度は俺の中に残された雲をきれいに払い取ってくれる気がした。
【4】
「ところで、権八は一平さんに手を出さなかったですか?」
「へっ? い、いやっ! あの、その……」
思いもよらない言葉に、俺は完全に言葉を見失った。その様子を見て、幸四郎さんはやっぱりな、という顔でため息を付いた。
「どうせアレが強引に誘ったんでしょうけど、一平さんも容易く体を許すのはどうかと思いますよ」
「ご、ごめんなさい」
俺は身を縮めた。
「じゃ、一平さんにペナルティを受けてもらいましょうか」
「え。な、何をするの?」
俺の不安げな声に答えずに、幸四郎さんは湯飲みを置くと立ち上がった。
「な。幸四郎さん、俺は何をすればいいんだ?」
「そこに座って」
俺は二階の幸四郎さんの部屋に連れてこられた。幸四郎さんはベッドの上に腰を下ろし、俺はその前の床で正座をした。いつもとは正反対の状況に、俺は心臓が高鳴っている。
「一平さん。裸になって、オナニー見せて下さい」
「い、今? ここで?」
俺の言葉に、幸四郎さんは無言で頷く。
「前に権八と私が交わっているところ覗いたでしょう? だから、私にも一平さんのいやらしいところ、見せて下さい」
幸四郎さんはハッキリと話をするが、その顔は少しだけピンク色に染まっている。
「分かったよ」
俺は諦めつつも、幸四郎さんになら見せてもいいかなと思った。立ち上がると、シャツのボタンに手をかけて上半身から脱ぎ始めた。その様子を幸四郎さんは身を乗り出して見つめている。俺は急に気恥ずかしくなって、ベルトに手をかけると後ろを向いてズボンを下ろした。背後から刺さるような視線を感じる。肌に張り付くようなローライズのボクサーパンツに手をかけると、一気に足首まで下ろした。
「こっち向いて」
小さな言葉に、俺はゆっくりと振り返った。幸四郎さんは目を大きく開いて、俺の体中を頭のてっぺんから足のつま先まで、嘗め回すように見ている。俺は風呂でもないのにフニャチンを晒すことが、こんなに恥ずかしいことだと思わなかった。
「やっぱり好い体してますね」
幸四郎さんはさっきよりも顔を赤くしてポツリと呟いた。俺は何も答えずに、その場であぐらをかくと自分のチンポを握った。いつものように、右手で竿をしごき勃起させようとする。だが、オカズが何もないので、チンポは思うように奮わない。
「わ、私の体で良ければ、脱ぎましょう」
察してくれたのかどうか分からないが、幸四郎さんは俺の答えを待たずに自分の服を脱ぎだした。肩幅の広い体系に、胸の筋肉が発達して丸く張っている。ガッシリとした下半身はケツが豊かに膨らんで深い谷間を思わせる。全体的に肌の色も体毛も薄く、自然な姿が妙なエロさを醸し出している。
「ど、どうですか?」
幸四郎さんはパンツ一枚の姿を晒す。俺と同じようなボクサーパンツで、深いブルーの色が似合っている。
「ああ、いいよ。そそるね」
俺のチンポはムクムクと膨張し硬くなる。そのまま右手の動きを加速させ、左手で乳首を触る。
目の前にある幸四郎さんの男前のルックスに、胸の筋肉、絞まったへそ周り。開かれた両足の中央にあるパンツの膨らみが興奮を誘う。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
俺は自然と息遣いが荒くなり声を上げていった。幸四郎さんの肉体が熊さんに弄ばれている様子を思い出し、その熊さんと交わった俺の快感を呼び起こそうとした。鈴口から少しずつ汁が噴出してくる。さらに右手のスピードを上げると、汁が亀頭に広がり滑りが良くなってくる。俺は軽く目を閉じ天井を見上げた。少しずつ昇ってくる刺激の波に意識が集中する。俺は見られながらするオナニーがこんなに気持ち良いとは思わなかった。
【5】
「いっ、一平さん!」
その声に反応すると、俺は目を開いた。幸四郎さんはいつの間にかパンツを脱ぎ捨て、勃起した竿を握っている。しかも、両足をベッドの端に乗せM字に大きく開いていた。中央にあるケツの谷間から穴が丸見えになっている。
「よ、良かったら。い、入れて、くれませんか」
その熱っぽい言葉に、理性をとっくに失っていた俺は幸四郎さんに飛びついた。両膝に手をかけてケツを大きく持ち上げる。開かれた谷間から、もう真っ赤に顔を染めている幸四郎さんを見る。その虚ろな目と中途半端に開かれた口が生々しい色っぽさを感じた。
「ローションが引き出しの中に……」
幸四郎さんは俺の背後を指差そうとするが、俺はその無粋な言葉を黙らせるように唇を押し付けた。右手で自分のチンポを握り、幸四郎さんのケツ穴に亀頭をあてがう。
「んーっ、んーっ」
幸四郎さんは何か言いたそうにしているが、俺は舌を絡めながら腰に力を入れ、閉じられたケツ肉をこじ開けていった。ガマン汁でベトベトだった亀頭は思いの外、すんなりと入っていく。
「幸四郎さん、凄ぇ温けぇよ」
「んんっ、んっ、んんっ」
竿が半分くらいまで入ったあたりで、幸四郎さんの声色が変わった。
「い、一平さん。ちょっと強引で……、んんっ!」
幸四郎さんの文句が言い終わる前に、俺は一気に竿の根元までチンポを押し込んだ。眉間にしわを寄せて、苦痛のような快感のような表情を浮かべる幸四郎さん。艶のある唇に、俺はもう一度キスをして、両手で乳首を摘んだ。
「はぁ、んぁ、ああっ」
ゆっくりと腰を動かしながら、指先にツバを付けて乳首に刺激を与える。幸四郎さんは色っぽい声を漏らしながら、何かを耐えるように時々首を左右に動かしている。普段は生真面目で固い性格の幸四郎さんが乱れる姿は、興奮を誘い、もっと困らせたくなる。
――ギシッ、ギシッ、ギッ、ギッ、ギッ、ギッ。
俺の腰の動きに合わせて古いベッドの骨組みが軋む音を出す。ケツを掘るスピードを加速させ、竿から伝わる痺れるような感覚を楽しんだ。
「ああっ、あんっ、あんっ」
少し高い声が部屋に響く。俺は額に浮かぶ汗を拭いながら、腰を振り続けた。前に熊さんは幸四郎さんの赤ら顔を、おぼっこみてぇだと言っていたが、俺には逆に思った。男の色気を漂わせ、恍惚の表情を浮かべる様子には、俺にはまだない余裕のようなものを感じている。
「幸四郎さん、凄ぇよ。気持ちイイっ!」
「こ、こんな時に、……さ、さん付けなんて、無粋ですよ」
幸四郎さんは汗を浮かべながら、口元を緩ませている。
「そっ、そうか」
俺も口角を上げて笑い返し、腰の動きを加速させパンパンと肌がぶつかり合う音を響かせた。
一度チンポを抜き取ると、幸四郎さんの頬を両手で包み、キスを求めた。
「でも、幸四郎さんと、こんなことしていいのかな?」
額に残った汗を手で拭ってやる。言った後で、また俺は「さん」付けをしたことに気付いて苦笑した。
「いいんです。権八だけ、一平さんの味を知っているのは癪ですから」
その言葉に、熊さんに対するガキのような対抗心が見え隠れして、新しい幸四郎さんの魅力を見つけた気がした。可愛いところもあるんだな。まるで年下のような愛らしさを浮かべる相手に、もう一度、唇を重ねた。
「幸四郎、もっとケツ掘ってもいいか?」
「ああ、気の済むまで使っていいよ」
タチの優越感に浸りながら年上に生意気な言葉を使う俺。普段よりも砕けた口調で優しい兄貴を思わせる幸四郎さん。俺達の間に流れる空気が緩く溶けていく。その空気の中に、部屋に吊るされたサヌカイトの風鈴が柔らかく響いている。
最終章 未来への風が、ガラス風鈴を響かせる
【1】
三月になると浅草界隈は観光客で賑わってくる。来月になれば鈴広屋の風鈴が海外へ輸出される。軌道に乗れば更に忙しくなることだろう。俺は今の人数だけで職人が足りるか考えていた。鈴広屋の名前が広まるのであれば一つでも多くの風鈴を作りたい。とは言っても職人は見習いを経て長年かけて技術を養っていくものだ。もちろん俺もまだまだ修行中だがら、偉そうなことは言えない。
ある日、俺は町会の集まりから帰ってくると、熊さんが俺の元に駆け寄ってきた。
「坊、やっと帰ってきたか。ちょっと何とかしてくれよ!」
滅多なことで動じない益荒男が珍しく困った顔をしている。
「ん、何かあったのか?」
「何かあったのかじゃねぇ! もう帰れって言ってるのに、頑固に粘ってやがる」
熊さんは矢継ぎ早に言葉を重ねるが、俺は話が全く見えない。
裾を掴まれて引きずられるように店の奥にある座敷に行くと、男が畳に額を擦るようにして頭を下げていた。
「七代目、お帰りなさい。ちょっと話してくれませんか?」
土下座をする男の隣に、幸四郎さんも眉間に困った顔をしている。
「あ、あの。頭、上げてくれないすかね?」
俺は男の近くに腰を降ろすと、恐る恐る声をかけた。
「お願いします! オレを弟子にして下さいっ!」
威勢の良い声を響かせて、その男は顔を上げた。
俺はその顔を見た瞬間に、相手に指を指してしまった。
「夏樹さん、じゃないっすか!」
「ご無沙汰しています。どうしても職人になりたいんです。お願いします!」
夏樹さんはまた頭を下げた。それは何かにすがるような思いを感じる。
「さっきから、ずっとこの調子なんですよ」
腕組をする幸四郎さんに、俺はお茶を持ってくるよう頼んだ。
「職人なんかきれいごとでやる仕事じゃねぇよ。辞めとけ、辞めとけ」
熊さんは煙草に火を点けると腰を下ろして、夏樹さんを睨みつける。
「熊さん、そんなこと言うなよ。夏樹さん、とにかく話を聞きますから」
俺の言葉に、熊さんは少しだけ口をへの字に曲げたが、静かに煙草の煙を揺らしはじめた。
「実はオレ、競輪やってたんです。あ、賭け事の方じゃなくてレーサーだったんす」
夏樹さんの話に、俺は黙って耳を傾けた。デビュー当時はスター選手だった彼は、怪我をきっかけとして能力の衰えを感じていた。寿命がある選手業から転進を考えていた時に、四越百貨店で風鈴に出会ったと言う。俺が絵付けをしている姿を見て、一生涯をかけて技術を追求する職人に惚れ込んでしまったらしい。
俺は話を聞きながら目を伏せていた。
「夏樹さんは多分、良い部分しか見えてないと思いますよ。さっき熊さんが言ったように、職人は泥臭いと思われるような仕事だってする。その覚悟がありますか?」
「オレ、できます。大丈夫です!」
夏樹さんはじっと俺の目を見つめている。
「そんな簡単に飲み込まないで欲しい! 甘くないんだ、職人は!」
俺は思わず声を上げてしまった。
本当は今すぐにでも雇ってやりたい。元競輪選手の鍛え抜かれた肉体に下心がないと言えば嘘になる。だが、それだけではない。俺と同じように風鈴に魅せられ、新しい世界へ無鉄砲に飛び出そうとしている。真っ直ぐに立ち向かおうとする姿勢に、憧れのようなものを感じていた。
夏樹さんはそれまでの威勢を失ったように、畳の一箇所をじっと見つめていた。
「夏樹さんなら、他のところでも活躍できますよ」
俺は鈴広屋の七代目だ。熊さんや幸四郎さんは維持と覚悟を持って鈴広屋の職人として働いてくれている。生半可な気持ちで雇ったら、二人に迷惑をかけるかもしれない。俺の個人的な気持ちだけでは、首を縦に振るわけにはいかなかった。
「すみませんでした。急に押しかけてきて、雇えと言っても迷惑ですよね。でも、軽い気持ちで来たわけではないので。それは分かってください」
夏樹さんは拳をぎゅっと握り締めて、搾り出すように言った。俺は目を細めて口を開こうとしたところで、熊さんが急に声を上げた。
「職人の下積みは厳しいぞ! 掃除にメシ作りに便所掃除だ! それでもできるのか?」
「はい! 何でもします!」
夏樹さんは寂しそうな表情から、強い眼差しに変わり声を上げる。
「おし。こき使ってやるから、覚悟しろっ!」
熊さんは口角を上げて豪快に笑った。
【2】
その日の夜、俺は熊さんの部屋を訪ねた。半ば強引に夏樹さんの弟子入りを認めてしまった熊さんには、何か意図があるように感じていた。
「半分は店のため。半分は、坊、おめーのためだぞ」
「へっ?」
「坊は、あいつのこと好きなんだろ? 見てりゃ一発で分かるんだよ」
俺が何も言い返せずにいると、熊さんはランニングシャツの上から、わき腹をボリボリとかいている。
「これも何かの縁じゃねぇか。お膳立てはしてやった。後は、坊が告白して玉砕するも良し、指咥えて眺めてるも良し。前みたいに後悔しないようにやってみろ」
意地悪そうに笑う熊さんに、俺はムッとして口をへの字に曲げる。
「何で俺がフラれるって、確定してんだよ」
「ははっ、その意気だ。若いってのはいいねぇ」
熊さんは白い歯を見せると、煙草に火を点けた。
「じゃあ、明日から夏樹さんも、よろしくお願いします」
「ああ、任せとけ」
そう言うと、熊さんは背を向けて窓の外を眺めている。静かに漂う白い煙とおぼろ月夜。遠い空を眺めながら熊さんは何を思うのだろう。
【3】
部屋を静かに出ると斜め向かいのドアが開き、幸四郎さんが俺を手招きをしている。部屋に入ると、いつものように幸四郎さんは床に正座をして、俺はその対面に腰を下ろした。
「夏樹さんの画力は素晴らしいです。技術面では絵付けから伸ばしてあげたいと思いますが、一平さんはどう思いますか?」
幸四郎さんが夏樹さんの育成プランを披露する。
熊さんの一声で夏樹さんの弟子入りが決まったことで、幸四郎さんは熊さんとまた言い争いになった。七代目を差し置いて見習いの受け入れを承諾するとは何事か、と憤慨したのだ。だが、体験教室で見出した夏樹さんの絵心は鈴広屋でもプラスになると判断し、受け入れを承諾してくれた。
「絵付けは幸四郎さんが中心だから、しばらくは幸四郎さんに預けようと思う」
俺は改めて夏樹さんの面倒を見てくれるように頼んだ。素人だが、できることは手伝ってもらいたい。今年も夏に向けて忙しくなるのだ。
「任せて下さい」
幸四郎さんは自分の胸をドンと叩いた。俺はその様子に頼もしさを感じ、さらに幸四郎さんと戦力になりそうな工程を探った。
「それにしても、夏樹さんは真っ直ぐな人ですね」
話が一段落したところで、幸四郎さんは笑顔になった。
「幸四郎さんもそう思う?」
「ええ。私の若い頃に似てる気がします」
「いやいや。幸四郎さん、そんなに年取ってないし」
俺は妙なことを言う幸四郎さんの膝を突いてみた。
「一平さん、何かあれば相談して下さいね。その、恋愛相談とか」
「へっ?」
俺はついさっきも同じようなリアクションをしていたような気がする。
「彼はいい男だと思いますよ。一平さんも、彼から得るものは大きいでしょう」
幸四郎さんはまるで昔から夏樹さんを知っているような言いっぷりをする。それにしても、俺はそんなに思考ダダ漏れみたいな顔をしているのか。それはそれで七代目として威厳がねぇってもんだ。夏樹さんにいいところ見せるためにも、しっかりしねぇとな。
「じゃ、明日からお願いします」
「では、私は絵付け道具の準備でもしてきます」
俺に続くように幸四郎さんも部屋を出ると、作業場に向かっていった。俺はその背中を見送りながら二人に感謝した。過去の失敗に怯えて、前向きに生きられなかった俺を支えていてくれるのは、熊さんであり幸四郎さんである。二人が居るからこそ、俺は鈴広屋を背負っていくことができるのだ。改めてそう思った。
【4】
軒先に吊るされたガラス風鈴は夏の光に輝いてる。強い日差しに照られた一筋の風が短冊を揺らし、美しい音を響かせる。その儚げな音を作り出すだけの小さな仕事。そんなものに人生をかけるのが俺達なのだ。熊さんは宙吹きでガラスを吹き、幸四郎さんは絵筆を駆使して丁寧に絵付けをする。そんな鈴広屋に、夏樹さんはどんな風をもたらしてくれるのだろう。
今年の夏は楽しいことになりそうだ!
鈴広屋 七代目の受難
タイトルや文章の「七代目」は「ななだいめ」ではなく、「しちだいめ」と、何となく江戸っ子のニュアンスで読んで下さい。
『瑞成堂。今日も日本晴れ!』に続く、職人系のお仕事物語が完成しました。夏の初め頃に、職人のお仕事物語で、一本書いてみようと資料集めを始めました。『瑞成堂。……』は和菓子文化が浸透している金沢を意識し、今回は江戸の伝統文化を引き継ぐ職人という世界にスポットを当ててみました。
言わずもがな、この物語はフィクションです。職人家業の鈴広屋は、小田原の蒲鉾で有名な鈴廣かまぼことは無関係です。また、ガラス風鈴は「江戸風鈴」という名称でも馴染みがありますが、これは現在でも実在する篠原風鈴本舗のご先祖様が銘銘された言葉だそうです。よって作中では使用せず、「ガラス風鈴」としました。
風鈴は夏に各所で祭りや市が開催され、その涼やかな音色を楽しむことができます。関東では、西新井大師や川崎大師の風鈴市や、川越氷川神社の風鈴祭りなどが有名です。また、物語に登場する浅草寺のほおずき市はほおずきの鉢と一緒に、江戸風鈴も販売されています。
夏を彩る小道具に、男同士のエロと恋が交わる物語。一平が七つの不幸に見舞われながら、ネガティブな人生観を乗り越えていく。プロットを作成しても、執筆中に話が広がり、キャラが動いていく(夏樹さんはプロット上ではここまで予定されてませんでした)。完成した作品はだいぶ荒削りになってしまいましたが、この物語で描きたいことは十分に出せたと自負しています。
最後までお読み下さりありがとうございます。
さて、予告でございます。
次作の執筆が始まっています。次回は、男子高の競泳部を舞台に、インターハイを目指していくという青春ラブストーリーです。ある日やってきた転校生と主人公の熱い友情と愛の物語。先輩、同級生、コーチを交えて、青春の悩みと葛藤を交えてながら、熱い二年間を描いていきます。今後もお読みいただければ幸いです。
二〇一七年九月