夢の中の青い女 新宿物語 3

夢の中の青い女 新宿物語 3

(8)
「いつから、ここに居るの? ぼくはあんたに会っていないね」
「二年前からです」
「そう、まったく知らなかった」
 佐伯は、自分がここへ来るのは週末の夜だけなので、今まで会う機会がなかったのかと考えた。
「いつも、ここへいらっしゃるんですか?」
「うん、ほとんど毎週来ている」
「これからも、宜しくお願いします」
「こんな美人がいるんじゃ、来ない訳にはゆかない」
「まあ、お上手ですね」
 アケミはきれいな笑顔を見せて言った。
「まあ、なんにしても、こんなに霧が深いんじゃあ、街の中をうろうろしている訳にもゆかないし、呼吸はだんだん苦しくなってくるしするので、ここへ戻って来られて助かった」
「ラジオでは、ますます霧が深くなって来て硫酸の濃度が増しているので、外出は控えるようにって、繰り返し放送しています。死人の数が増えていて、街角という街角には死体の山が山積しているので、都の衛生局では特別救助隊を編成して死体の処理にあたっているって言ってました」
「ああそう。だけど、街を歩いていても霧が深くて、そんな事はまったく見えなかった」
「お住まいはどちらなんですか?」
「江戸川を渡って向こうなんだけど、霧は都内だけだと言うから、早く帰ろうとしたら霧の中で迷ってしまった」
「そうですか、じゃあ、今夜はわたしのお部屋でお休みになったら宜しいですよ。もう、お家へ帰るのは無理でしょうから」
「確かに無理だ。そうして貰えると助かる」
「もう、午前一時を過ぎていますし、いま、片付けが終わりますので、そうしたら、わたしの部屋へ御案内いたします」
「ありがとう」
 佐伯はそう言ってから、ふと、家族の事を思い出して電話をしてみようかと、という気になった。先程、あん風にいろいろあったが、あいつらは今、どうしているのだろう、と考えた。思い出すと怒りが込み上げて来たが、いずれにしても、彼等は自分の家族なのだと思うと、自分自身にもなにかしらの責任があるのではないか、という気がした。とにかく、この厭な夜が明けたら、もう一度、みんなでよく話し合ってみよう。
 佐伯は上着のポケットを探って携帯電話を取り出そうとしたが、どこにもなかった。どこかで失くしてしまったのだろうか? 仕方なく佐伯は「ちょっと、電話を貸して貰えないか、心配するといけないから、家へ電話をしておこう。携帯を何処かで失くしてしまったらしい」と言って、カウンターの隅にある電話を借りた。電話番号を押して受話器を耳に当てた。受話器からはなんの物音も聞こえて来なかった。
「おかしいな、電話が掛からない」
 佐伯はもう一度試みた。
 やっぱり受話器にはなんの反応もなかった。
「プラグは抜いてないでしょう」
「はい、繋がっています」
「おかしいな、霧のせいで駄目になってしまったのかなあ。うんともすんとも言わない」
 佐伯は何度も掛けなおした。まったく通じる気配がなかった。
「駄目ですか? 硫酸のせいで駄目になってしまったのかも知れませんねえ」
「そうかも知れない」
 佐伯は電話を諦めると、近くのスツールに腰を下ろしてタバコを取り出した。唇にはさむとすぐにアケミがマッチを擦った。マッチは瞬間、青い炎を上げたがたちまち消えてしまった。アケミはもう一度擦った。それもまた、すぐに消えてしまった。
「マッチまで湿ってしまったのかしら?」
 アケミは怪訝な顔で言った。
「いいよ、ライターがあるよ」
 佐伯はポケットからライターを取り出して点けようとしたが、それも点かなかった。
「ああ、ライターも点かない」
 佐伯は落胆して言った。
「霧のために、何もかもが狂ってしまったんですね、きっと」
 アケミは言った。
「そうかも知れない」
「やっぱり、こんな夜は愛し合うのが一番なんですよ。ラジオもそう言ってましたけど・・・・。ここに居ても仕方がありませんから、わたしの部屋へ行きましょうか。御案内いたします」
「ありがとう、でも、近いの?」
「はい、すぐです。--どうぞ」
 アケミはカウンターから出て来ると店内を奥へ向かって進んだ。まだ、三十歳を少し過ぎたぐらいか、細面の美貌はともかく、タイトスカートから出た長い脚が殊更に佐伯の心を捉えた。
 アケミは店内の突き当りへ来ると静かに眼の前の壁を押した。壁は扉のように開いて、青い灯がかすかな明かりを投げかける廊下らしきものが眼の前にあった。
「ああ、こんな所に扉があったんだ」
 何度もこの店へ来ている佐伯も初めて知る事だった。
「はい、この奥にわたしの部屋がありますので」
 アケミは言った。
「同じ建物なの?」
「はい」
 アケミはそのまま、青い小さな明かりが点った暗い廊下を歩き出した。佐伯の眼には倉庫の中を歩いているような感覚で何も識別出来なかった。ところどころに青い灯が点っているのは、あるいは部屋の入り口がそこにあるのかも知れなかった。アケミはやはり、青い灯の一つの下で止まった。しばらく鍵音をさせていたが、鍵の廻る小さな音がして、扉が開いた。
「どうぞ、お入り下さい」
 アケミは少し身を引いて佐伯を促した。佐伯は言われるままに、やはり青い照明の水の底に沈んだような感じのする部屋の中へ入った。アケミが佐伯に続いて部屋へ入ると扉は自然に閉じて、鍵の掛かる微かな音がした。
「どうぞ」
 アケミは自分から先に靴を脱いで上がった。
 佐伯が通された部屋は十畳ほどの広さだった。ソファーとテーブルがあって、そのテーブルには羽根を広げた孔雀さながらに、白を際立たせてカスミソウの花が豪華に飾ってあった。
「どうぞ、そのソファーにお掛け下さい。お疲れになりましたでしょう」
 アケミは佐伯がソファーに落ち着くのを見ると、
「ちょっと、失礼します」
 と言って、扉と壁で仕切られた次の間へ消えていった。
 佐伯はソファーに腰を下ろすと、深い疲労を意識した。どれだけの時間、街の中を歩き廻っていたのか、判断も付きかねたが、今は安堵の思いのみが強かった。佐伯は眼をつぶった。かすかな睡魔を意識するのは、気のゆるみのせいだろうか? それとも、テーブルの上の花が放つ甘い香りのせいなのか? 佐伯はうとうとする。ㇵッと我に返って眼を開ける。睡魔を振り払うために立ち上がって壁に掛かった鏡の前へいった。鏡に映った自分を見て虚を突かれた。背後に誰かいるのかと振り返った。誰もいなかった。紛れもない自分の顔が映っている。まるで水に溺れた人のように髪が額に貼り付き、落ちくぼんだ眼が異様に光っている。顔色が血の気の失せたように蒼いのは、霧の中をさ迷っていた疲労によるせいなのか? あるいは既に、霧に含まれているという硫酸に侵されてしまっているという事なのか? 佐伯は不安を覚えるのと共に、再び強い疲労を意識して崩れるようにソファーに体を戻した。と同時に意識も朦朧とするような睡魔がまたしても襲って来る。駄目だ ! 眠ってしまっては駄目だ ! 懸命に自分を励ます。眠ってしまえば、取り返しの付かない事態が襲い掛かって来るような気がしてならない。冬山で遭難する人々の話しが意識の内をかすめる。佐伯は眠気を払拭するために再び、立ち上がろうとしたが、体は意に反して既に動かなかった。手足に力が入らない。なぜなんだろう? 佐伯はなおも懸命に立ち上がろうとする。だが、意志と肉体が別々のものになっている--。佐伯は自分の体が手足の先から死んでゆくような恐怖を覚えた。その時、アケミの声がした。
「ベッドの支度が出来ましたので、どうぞ、こちらへいらっしゃって下さい」
 佐伯が睡魔に閉じかけた眼を開くと、アケミが次の間の入り口に立っていた。 

夢の中の青い女 新宿物語 3

夢の中の青い女 新宿物語 3

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-09-07

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