歌声は遠く、だから近づき
練習の終わりを待ち
歌声がここまで聞こえる。本番まで一週間まで迫ったらしく、練習にも熱が入っている。
主を称える賛美歌。教会の壁にいく人もの声が反射して、複雑に絡み合い、色濃く溶ける。
少年少女、合わせて十名ほどのあまり多くはない人数だが、その声色は聞き入るものがある。
教会までの道中に、ほとんど人影は見えない。
石畳を叩く革靴の音も歌に混ざり、ついつい合わせて鳴らしてしまう。
小さな町の、小さな教会。一週間後に行われる感謝祭。その合唱の練習の声。
向かう足取りも、心なしか早くなる。あの子も今は練習中なのだろうか。
その子は、身寄りのない少年だった。
孤児で、だから私が引き取った。けれども私にも仕事があり、教会に預けることにした。
それがほんの二ヶ月前。無口な子だが、暗いわけではない。
だから友達もできたと、いつかの夜に報告してくれた。それは良かった、と私は微笑んだ。
いつか、きっと君のほうが大きくなる。だから、友達は多く作るべきだ、と。
そう助言すると、数秒だけ首をひねり、その後で小さく頷いた。わかった。小さく言った。
「いらっしゃい」
教会の前で庭師と出会った。私より背の高い、初老の男だった。
あまり手入れされてないのだろう、栗色の髪はボサボサで、
作業中だということもあってかあまり清潔そうには見えない。
そのくせに腕は良いのだ。今だって、感謝祭のために植木を十字架の形に刈っている。
「あの子は、練習中?」
尋ねる。
「この声のとおりさ」
男は扉の方を見る。大きな木製の、装飾の少ない扉。
少し重いから、この扉を開ける係がいるほど。この男も、その係の一人だった。
「開けるかい?」
左右に首を振る。
「いや、待つよ。練習の邪魔をしたくないから」
そうかい。そう微笑んで、男は中断していた作業に戻った。
歌声に合わせ、リズムカルに、鋏が動く。シャキシャキと、まるで楽器のように。
眼を閉ざす。この声の坩堝の中から、あの子の声を探すために。
すぐに聞こえた。あの子はこの合唱団の中でも特に若いから、人一倍に声が綺麗なのだ。
声変わりをする前の、少年の声。
「不思議なもんだな」
不意に男が話しかけてきた。作業の手は止めず、しかし目線は私の方を見て。
「なんでまた、そう若えのに孤児なんか」
聞き飽きた質問だった。この男から尋ねられたのは初めてではあるが、
この町の皆からは、似通った質問を受けている。
やれ、大変じゃないの? とか、友達じゃないの? とか。
そのたびに私は言い返す。これでも大人だ、と。あなた達よりも長く生きるから、だと。
「ああ、勘違いしなさんな」
私の苛つきを察したのだろうか、男が続ける。
「あんたがもう成人しているのは知ってるさ。だが、あんたらの中だとまだ子供だろう?」
確かにそうかもしれない。でも私はこの町で生まれ、育った。
だからこの町の人々と同じ教育を受けたし、成長もした。だから、私はもう大人なのだ。
たとえ外見が、あの子とそう変わらないにしても、だ。
「そうだけど……」
言葉を切り、考える。さて、どう言ったものか。
「……余裕があるからね。それに、あの子も私を選んでくれた」
あの子は、引き取る前からよく知っていた。よく遊んでいた。
だから街の中で悪さをして、それを私が必死に弁護して、私が責任を持たねばならなくて。
「……ほっとけなかったってだけ、だよ」
幸い、あの子は私の言うことを聞いてくれる。私の身なりについても、理解してくれている。
だからだろうか。友達のような感覚で、あの子は私と接してくれている。
いや、きっとホントに友達と思ってくれているのだろう。ありがたいが、心苦しい。
一年後には、きっと背を抜かれていると思うのに。
気づけば歌声が止んでいた。男は鋏を地面に置き、扉に手をかけた。
古ぼけた、派手な音を立てて開かれる。今は私服の少年少女が、奥の壇上に立っている。
その中で、少し背の低い男の子を見つけて、手を振る。
気づいてくれたらしく、私の方を見てその子も小さく手を振った。
「ほんと……」
男がつぶやく。
「ただの友達にしか見えねえな……」
呆れたような、それとも抜けたような。何とも言えない口調だった。
変わる者、変わらぬ者
その子は僕らとは何かが違っていた。夜に浮かぶお月さまのような長い銀の髪は、
透き通るぐらいの白い肌を守る薄布のようにふわりと風に揺れ、
その瞳は宝石のように、もしかすると宝石よりも透明感がある碧色をしていて、
そしてその風貌は、僕らと同じぐらいかそれよりも幼く、風に揺れる綿毛のような、
もしくは初雪がお日さまに照らされるような、言葉にするには難しい儚さをもっていた。
その子は僕の保護者だった。けれども少し前まで一緒に遊んでいたような子が、
ある日いきなり保護者であると言われて、理解できるわけがなかった。
そのことはその子も理解しているらしく、いっしょの屋根の下にいるときも、
ほとんど友達のように、もしくは兄弟のように、二人きりで月日を過ごした。
「今日はどうだった?」
いっしょの帰り道。手を繋いで、歩幅は同じぐらい。碧い瞳に見つめられて、
少し嬉しくなった。いつものように、この子と一緒に帰ることができる。
それだけで、その日は楽しくなる。
「うん、楽しかった」
ホントはもっと話したいことがある。例えば今日この後で友達に遊びに誘われて、
その遊びに連れていきたいことだとか、
昼食がサンドイッチでレタスとトマトの入ったものがすごく美味しかったことだとか、
あまりうまく歌えなかったけれど、本番までにはなんとかしてみせることだとか。
色々と話したい。けれども言葉にできるのはほんの僅かで、僕の気持ちのカケラさえも
この子に伝えることができていない。
「そう、良かった」
一緒に過ごすようになって二ヶ月。その間で、この子のことが色々と分かってきた。
だから僕も、その子に迷惑をかけてはならないと思ってしまっていた。
一緒に遊んでいたあの頃とは違うんだ。いつもいつも、そのことを自分に言い聞かせていた。
その子は、僕らとはすごく違っていた。僕と同じぐらい、もしくは僕よりも幼いのに、
僕の倍、もしかするとそれ以上も長く生きていて、すでに大人であること。
だから僕の保護者になることができるし、すでに大人としてこの街では見られている。
でも本当ならばその子はまだ子供であるらしく、一緒に遊ぶことも楽しめているとのこと。
そして、僕がこのことを気にする必要はないとのこと。
「……どうしたの?」
気づけばその子の顔が近くにあった。いつの間にか僕はうつむいていたらしい。
だからその子は足を止め、僕の顔を覗き込む。子供のような仕草で、わずかに微笑みながら。
「気にしないで……って言っても、慣れるのに少し時間がかかっちゃうよね」
ゆっくりで良いからね、といつも言われている。
これから長い間いっしょに居ることになるのだから、慌てる必要はない、と。
「ううん、そうじゃないんだ」
正直に言うと、とても慣れることなんかできない。けれども。
「……いっしょに遊ぼう? この後で、誘われてるんだ」
その日は勇気を出して、言いたいことを言うことができた。
その子も喜んでくれたみたいで、良いよ、といつものような微笑みを浮かべてくれていた。
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あれから幾数年たっても、その人はわずかも成長しなかった。
僕だけが大きくなり、その人はあの日から変わらぬ姿のままで、僕のそばに居てくれている。
だから少し不安だった。本当ならば、僕がその人を支えなければならないんじゃないか、と。
「気にしなくても大丈夫。こう見えても、君よりも年上なんだよ?」
いつかの夜。食事を食べ終えて、少しだけ経った頃合い。何気なくその不安を話してみた。
昔と違って、言葉は簡単に出て来るし、その人にも話すことができている。
その人はいつも優しく、静かに、僕の言葉に耳を傾けてくれていた。
いくつも言葉をもらった。色々なことを教わった。そのことには感謝している。けれども。
「……でも、僕よりも幼く見えるから」
あの教会の中で、僕はやってくる子どもたちのお兄ちゃんとしての役割を果たしている。
その子どもたちと、その人とを重ねてみてしまっている。だから不安になる。
そんな不安を話した。いつも不安を聞いてもらっているけれど、
このようなことを話すのはその時が初めてだった。
「そうだね。本当ならば、私もその子どもたちに交じるべきなんだよね」
微笑みを崩さず、けれども初めてその人の弱音を聞いた気がした。
不安に思わないはずがない、とその時になって初めて思い知らされた。
自分とは違って、どんどん大きくなる人を見るのはどんな気持ちなのだろう。
毎日、顔を見合わせているけれど、僕は自分でもわかるぐらいに成長した。
背が大きくなった。ついには、その人を見下げてしまうぐらいにまで。
声も大人のそれになった。あの教会の中で僕も役割が割り当てられ、それに従事している。
でもこの人は、ずっとずっと立ち止まったままではないのか。
背も伸びず、いつしか一緒にいた子を見上げ、確実に変化しているってのに。
その気持ちが表情に出てしまったのだろう。その人の表情が強張ったものになった。
こんな表情はあまり見たことがない。だから僕も、少し慌ててしまった。
「違う! そうじゃなくって……っ!」
自分でも驚くぐらい、大きな声を出してしまう。
「……そ、だね」
けれども大きな声を出してしまった僕とは違い、その人は落ち着いていた。
いつもの表情で僕を見ている。あの時から変わらない、消え入りそうな表情で。
「覚えてる? 君のほうが大きくなるって、あの言葉」
その言葉は、不思議と覚えている。あの時の僕は言葉の意味は理解できたけれども、
なぜそう言われるのかが理解できず、首をひねってばかりいた。
でも、今ならば理解することができる気がする。確かに、僕のほうが大きくなった。
僕だけが、その人を放って大きくなってしまった。
「だから、私は嬉しいの。私の手から離れる君が」
なぜ嬉しいんだろう。尋ねようとしたけれどもついに言葉にすることができず飲み込み、
その日の夜が更けていった。
歌声は遠く、だから近づき