二つの私論の補てん

二つの私論「曇天の日には収穫が多い」と「行ったり来たり、そして次の人」の補てん

序(2017/05/03)
私はすでに二つの私論を上梓し発表した、いずれもやや専門性の高いしたがって年齢の若い読者の方などにはあまり親しみを感じないような内容そして文体であったかもしれない、私は今この書に目を通そうとしておられる読者の多くはその二つの私論の少なくともどちらかは読んでくださった方であろうと推測しているが、しかしそうでなくとも以下私が記す、すでに発表した二つの私論の補てんはきっとある程度は飲み込んでいただけるものと確信している
この二つの私論についてある程度の知識を持ち合わせていただけている読者の方々であれば無論おわかりのように、私のこだわりのほとんどは神、つまり普遍の中にある
したがってこの補てんもまた神=普遍をキーワードに展開されていくことになる
すでに何度も記しているようにこの2017年、世界は大きなうねりの入り口に立っている、これについては読者諸君も異論はあるまい、そしてそのような時代だからこそおそらく私たちは、理想を追求する意思があるのであればだが、20世紀までの思考とはまったく別の次元で物事を分析し、また然るべき方法の模索と決断そして実践が求められていると考えられるのである
おそらく振り子はこれまでとは逆の方向へと大きく振れようとしている、だがそれ故にそれに抗う人々も多く生まれてきているのも事実である、「動」的な作用が働けば働くほど、「反動」的な作用も大きくなる、理想主義がその役割を果たそうと試みる時は常に人類は岐路に差し掛かる、いや、人類が岐路に差し掛かったときに常に理想主義が目覚めるのか?
いずれにせよ、正は最終的には負に打ち勝たなければならない、確かに反動派とはつまりリアリズムを常に優先させる人々のことであり、逆に改革派とはロマンティシズムの可能性を信じる人々のことでもある、無論そのどちらかだけでこの世が成立するほど人間は美しくもなく同時に愚かでもないということになるのであろうが、しかし人間の英知を強く信じるという点では両者は同じなのに、前者は大胆であるが故に美学を後者は慎重であるが故に懐疑を優先させる傾向にあるようだ
まだ序ではあるがここで以下のような問題提起を行うことは無駄ではないように思う
美学派vs懐疑派
美学とは人間中心に世界を構成していくという考え方であり「私たちは生きている」という確信を抱いている
それに対して懐疑とは人間は不完全であり故に人間以外の霊的な存在を中心に世界を構成していくという考え方であり「私たちは生かされている」という弾力性のあるいくつかの理念の中を行ったり来たりしている
この2017年、このように反動派と改革派を並列させて考えていくという思考の整理の仕方は僭越ながら実に有効的である、なぜならば前者はdomesticを後者はuniverseを代弁しているからだ、そしていわゆるポピュリズムは言うまでもなく前者がそれを代弁している
民主主義を肯定する以上、反動派の立場もまた全面的に否定することができないことは十分理解しつつも私がこの私論でこのような問題提起をせざるを得ないのは重要な岐路に差し掛かっている人類がここで選択を誤ればそれは今後大きな蟠りを反動派、改革派の間に残す恐れがあると考えているからだ、改革は避けられない、だがそれは適切な方法で行われなければならないのだ、そうでなければ保守とリベラルのバランスが崩れ、そこに生じた軋轢の隙間に入り込んだ扇動者によって何らかの致命的な事態が発生するかもしれない、きっとそうなれば事態の鎮静化により多くの時間が必要になり、その過程において度重なる混乱の結果鬱積した民衆の不満を吸収できる急進的なしかし頭脳明晰な人々の集団によって、民主主義は歪められていくかもしれない
私はすでに価値あるものの多くは薄氷の上にあり、故に民主主義もまた砂上の楼閣のように簡単に崩れてしまうものなのであると書いた、私がこの私論で普遍にこだわりを持つのはそのような危機的状況を回避できるそのカギがこの「普遍」という言葉そして概念の中にあると考えているからだ
そのように考えるとこの美学派と懐疑派という二つの思想の分類は日本人と民主主義という切り口で物事を論じる時にはおそらく有意義であろうと私は考える
私はすでに現実が停滞し二進も三進もいかない状況では善の認識がないにもかかわらず個の確立に成功した、ともすれば独裁的な傾向をいくらかでも持つ、しかし頭脳明晰なリーダーを民衆は求めてしまうかもしれないと書いた、これは一定の範囲内での独裁の肯定であり、また優秀であるが故に直線的に進もうとする驕慢さを持つ人物を暫定的にであれ有権者が認めてしまうという、ある意味健全なる民主主義の危機であろうと思う、だが私たちは民主主義という政治的な仕組みを受け入れている以上たとえそのような人物でも選挙で公正に選ばれた場合には、その結果を受け入れなければならない、したがって危機的な状況に陥る前に何らかの意思による現状の確認が必要なのである、そういう意味では、この美学派と懐疑派という分類はやや唐突な印象を読者諸君は持たれるかもしれないが論点としてはそう的外れではないのである
少し長くなりそうなので、続きは次の章で述べる

美学派と懐疑派

美学派と懐疑派(2017/05/11)

私は前書「行ったり来たり、そして次の人」で独裁的な傾向を持ちうる人々を「非」の一言で論じたが、おおよそ美学を持ち出す人のこだわりというものは未来ではなく過去にあると言い切ることは八割方可能であると思う、ここには一種の郷愁に通ずるものがあるが故に同じ民族、国民という観点からすると個人的にはそれは容易に捨象可能なものではないようにも思うが、確かに長い歴史を持つ国または民族であれば尚更のこと、その歴史の過程において育まれた伝統文化というものを軽んじるということは愛国心以前の段階で一国民として疑問符が付くと解釈されてもある程度は仕方ないのであろう、また美学派の中には明らかに秩序に対する過剰なまでの執着のようなものも感じ取ることができるように思う、これは彼らが実は形而下のものを尊重していることに端を発しているのであろうが、だがこのことが結果的にではあるが、秩序の整ったやや窮屈だが安心のおける社会の実現に寄与することはあろうかと思う、「目に見えるもの」は「数えられるものの価値」に属するものであり、したがって美学派は数値化されるものつまりデータやインフォメーションを重視する傾向があるように一見思えるが、しかしその一方で彼らには彼らなりのメッセージやストーリーもまたあるのである、ただ問題はそれらのカヴァーできる範囲にある
美学派はdomesticであるとすでに書いた、したがって彼らの論調は特定少数の、人々の琴線に触れること大であっても、そこに国際的な賛同を多く得ることは難しいように思える、また彼らは個の確立に成功しているが故にであろうか信仰よりは道徳を重んじる傾向にあるようだ、道徳とは信仰の一歩手前にある概念なので道徳=神=普遍とはなりにくい、普遍足りえるには道徳はさらに一歩進んで信仰へと昇華しなければならない、信仰とはつまり信仰の自由を求めるということであるからそこには自由を明確に認識する者だけが抱くことのできる概念つまり「自己を理想的に規律する」が当てはまるのであるが、だがこれを求めてしまうとdomesticはuniverseへと徐々にではあるが変化し始める、美学派のインテリはこのことをよく知っているので、その一歩手前で秩序を持ち出すことで実際には少数派によって共有されているものでしかない彼らの美学の既成概念化を図っているようだ、また目に見えるものを尊重する彼らの姿勢そのものが秩序の尊重を強く滲ませるものでもあるため、いわゆる保守派には彼らのそのような在り方はむしろ好ましいものに映るのであろう
だがここで指摘しておかなければならないのは美学とは本来個々人の内側に存するものであり必ずしも共有可能なものではないということである、故に美学とは芸術家の中にあってこそ真に有効な手段となりうる、ではそれが個人の枠を超えて社会に飛び出したときそれはどうなるのか?

ここで一つのキーワードが出てくる
それは「遮断」である
諸君、以下このキーワードを意識しながら読み進んでいただきたい
美学とは個の確立に成功した者だけに許されるある種の知的特権のようなものである、故に美学派にはインテリが多く、また文学や歴史に関する造詣も深い、そのせいであろうか自負心及び自己顕示欲もまた人一倍強そうであり、時に奇抜な発言や行動で周りを驚かせることもあるようだ、しかしすでに述べたように彼らの善悪に関する判断基準は道徳のレヴェルで留まっており、信仰へと昇華することは稀である、したがって宗教的には一神教よりははるかに精霊崇拝を基盤とした多神教に近いようだ、そのことは律法レヴェルでの行動の規制を著しく緩める一方で、内と外との区分けのような、いってみれば「概念の住み分け」のようなことを堂々とまかり通らせる結果にもなっているようだ、もうすでにお気付きのように美学派の主張には容易にナショナリズムを見て取ることができ、また彼らは本音と建て前の二元論にも躊躇しないようだ、さらに言えば頭脳明晰なそして個の確立に成功した彼らの自意識は世界というものさえも個人的な美学による秩序の中に組み入れようとしているかのようだ、そこでは二つのものが遮断されている
一つは「海外(国際も可)」でありもう一つは「未来」である
すべては秩序立った形而下の美しさのため
そして彼らの中ではA、B、Cの次はDでなければならないのだ
ようやく辿り着いたようだ
美学派の思想は21世紀に主流となるべき考え方と私自身が定義している「『多様性』と『効率性』のいずれをも同時に担保するものだけが価値を持つ」に反しているのである
ここまで書いたのだからもう少し掘り下げてみよう

私はすでに発表した二つの私論の中で繰り返し人生=螺旋階段論を取らないと明言している
人生は一見螺旋階段のように同じところをぐるぐると回っているようでいて実際には少しずつ上へあがっているのだという考え方を排除しているのである、この人生=螺旋階段説には私が重要視する幸福の天敵が潜んでいる
それが比較である
比較の肯定はてっぺんまで行ける人を除いて皆比較の犠牲になるという点で実に好ましいものではない、無論成功の方が幸福よりも上位に来るという人生観を持っていらっしゃる方々にはこのような考えは受け入れられないのであろうが、私は人生の最終目標は幸福にあると考えている、したがってすでに発表した二つの私論も私的幸福論の色合いが濃いと記しているのである、人生の根幹主題ともいえる「人はなぜ生きるのか?」を認めるのであればだが、それは人間にとって幸福とは何かということを考えることに直結するのである

死を避けることはできない、にもかかわらず人は生きる
そしてもう一つ、天国にいったい何を持っていけるというの?

この二つ故私は人生とは成功ではなく幸福であると考えるのである
では人生とはどのようなものなのか?
人生は曲線である、そういう意味では螺旋階段説と同じであるが、問題はゴールの位置だ、ゴールは一番上にあるのではなく、真ん中にある
故に人生は渦を巻くように進行し、つまり一周ごとに始点の近くを通り過ぎながら最終的には真ん中のゴールに達する、だから若い時には夢や目標が必要なのだ、そうでなければ一周してほぼ同じところを通過するときにかつての自分を確認する材料がないということになってしまう、もちろんかつてはこのようなことを真剣に考える必要はなった、なぜならば我が国日本の場合経済が頗る好調であったからだ、1980年代には「一億総中流」や「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という流行語まで生まれた、故に将来の事をあれこれ詮索し思い悩むよりも現在そこにある慣習にある意味無批判に追従し身を委ねる方が実は理に適っていた、だが今時代は変わりつつある、「老々介護」「認知症」「リストラ」「非正規雇用」そして「ワーキングプア」いずれも1980年代には若者たちの脳裏にはなかった言葉だ、だがこのようなネガティブな響きを持つワードは増える一方である、このことは特に若者たちの外界を遮断しスマートフォンに余暇のほぼすべてを充てるというある種の排他的な姿勢にもつながっているようだが、経済が下降線を辿っているからこそ私たちは今上記した「人はなぜ生きるのか?」という人生の根幹主題(これは人生の原点ともいえる)に立ち返るべきなのであろうが、実際には世の中はそれとは真逆の方向へとまっしぐらである

翻って美学派である、彼らは人生は直線的であると考えているようだ、したがって一周してほぼ同じところを通過することがないため常に上ばかりを見て、年々加速する傾向にある社会のスピードについていけない人々に対する配慮にはかなり高い確率で欠けているようだ
「すべては自己責任」そのような考えも彼らの中にはあるのかもしれない
またこのような考えもあるのかもしれない
「100を得るのは100の力を持つ者だけだ」
だが私はそうは思わない、私は100を得るのは100を失った経験のある者だけだと思っている、だからここにはチャレンジがあり、また偶然の結果による喪失があり、そして結果的にせよヒューマニズムに通じる弱者への配慮があるのである、さらに言えばここには信仰への目覚めがあるのだが、それについてはすでに述べているのでここで縷々述べることはしない
人生=直線ならばそこには比較が成り立つということになる、比較とは幸福の天敵であり故に人生の天敵である、この世は優れた人々によって導かれていくのではない、もしそうならば難しい試験により選ばれた人がこの世を律していくことになる、だが民主主義を肯定するのであれば社会は有権者によって選ばれた人々によって律せられるべきだということになる
確かにこれは時に面倒臭いことだ、選挙には反民主派も立候補する、しかし一定の得票数を得れば彼は当選する、また民主主義であれば反民主派にも発言権が与えられることになる、またその議論には十分な知識を持ち合わせない者も一有権者として加わることになる、したがって民主主義を健全で「より良い」ものにするためには民主主義者こそ「待つ」必要があるのであるが、IT革命は日々民衆から「待つ」を奪いつつある
そして比較を肯定する人生=直線派は部分的独裁をも認めながら本来個人的なものでしかない美学をその共有可能な範囲を大幅に故意に自分に都合の良いよいように拡大解釈してそれを一社会として「当たり前のもの」にしてしまおうと躍起になっているようだ、だが彼らの思想が道徳から信仰へと昇華していかないようにdomesticであるが故に「海外」と「未来」を遮断する彼らの考えは国内的つまり地域限定的にはともかく長期的にuniverseなスタイルへと変貌を遂げることは難しいように思える
やや話は転ずるがいい機会かもしれない、ここで世界とは何かについて論じてみようと思う

帝国と大陸

帝国と大陸(2017年5月12日)

さて前章では「美学派と懐疑派」と題して、結果的にではあるが美学派についてのみ論じた、美学派とは人生を直線的に見ようとする人々のことであり故に曲線的に人生を見ようとする私とは正直相容れない部分があるというようなことを書いた、人生とは幸福の追求のことであり、したがって人生とは曲線的に進む故にゴールはてっぺんにあるのではなく真ん中にある、したがって夢や目標を若いうちには持つべきであり、一周してほぼ同じところを通過するときにそれがかつての自分を確認する材料になるのだと書いた、このことは人生百年の時代が訪れようとしている今僭越ながら実に重要な論点となりうる考えだと思うが、世の中はそれ、つまり「人はなぜ生きるのか?」という根幹主題を改めて見つめなおすとは真逆の方向へとまっしぐらに進んでいると書いた
これは最終的には美学派が信仰ではなく道徳のレヴェルに論点の中心を押し留めているからであり、地域的な要素(共通の言語や慣習)が色濃く滲み出る可能性の高い道徳よりも、律法(時に掟でもある)のような異邦人との間においても共有可能な概念に基盤を置いた信仰に通ずるものが優先されていないということが彼らのともすれば独善的な姿勢につながっているのだということでもある
このことは民主主義に懐疑的なまたは否定的な人々にはむしろ好意的に映るのであろうが、民主派である私からすればこのような美学派の姿勢というものは理解はできるが賛同はできないということになるのである

さて本来ならばここで懐疑派につて論じなければならないのだがいい機会なので一旦話を転じて世界史について論じることにする
諸君、世界を理解する上でのキーワードを二つ上げるとすればそれはいったい何と何になるであろうか?
私は思う
それは「帝国」と「大陸」であると
やや唐突な印象を持たれる方も多いであろう、さっきまで民主主義の話をしていたのになぜ帝国と大陸なのかと?
だが民主主義とは私たち人間の暮らすその基盤となる共同体を「より良い」ものにするために考え出された社会の統治システムのことである、そして私たち人間には知恵が神により与えられているのでありまた人間は共同体の中でしか「より良い」暮らしを実現させることはできない
この辺りは諸君も異論のないところであろう、たとえ幸福ではなく成功を人生の一義的な目的と考える場合でも成功とは個人の能力のみ、つまり独力でそれを達成できるほど人間の社会とは甘いものではない、一個人が何らかの夢や目標を実現させるためには多くの人の協力を仰がなければならないのだ、ここはプロフェッショナルもアマチュアも関係ない、人は一人では生きていけないのである、そして夢の実現は民主主義社会でこそその底辺を最大にすることができる、なぜならば民主主義の筆頭に来るべき理念とは「すべての人々に平等なチャンスを与える」であるからだ、残念ながら社会は厳しいために夢追い人も「夢をかなえられた人」と「夢をかなえられなかった人」に分類されることになる、だが民主主義のルールが崩れると最初からノーチャンスに終わる少年少女の数は間違いなく増える、たとえば地域間格差などは厳密には民主主義に反している、もし才能もそれをやる意志もあるのにその住んでいる地域故に十分なチャンスが与えられないのであればそれはその少年少女にとっては悲劇以外の何物でもない、そしてもしこのような現状があるのであればそれは早急に改善されなければならないのだ、だが社会は実に緩やかに進行する、社会が1進むということはあり得ない、社会は常に0.001ずつ進む、そう、漸進である、だから少し早めにスタートを切る必要があるのだ
そのように考えると理想の追求とは僅かたりとも滞ることが許されない状況に今あるといってもよい、僭越ながら民主主義は更新されていかないと直ちに劣化する、だからこそ知識層はポピュリズムに強い拒否反応を起こしているのである
排他的な思想を是とするいわゆるポピュリストたちは実は個の確立に成功している人たちのことでもある、故に彼らには迷いがなく、それが神の沈黙を知るが故に懐疑を知る人々からすれば何とも危ういものと映るのである

さて世界史であるが、世界史を読み解く上でのキーワードはすでに上げた「帝国」と「大陸」である、前者はイデオロギーを、後者はネットワークを体現している
イデオロギーの中には当然植民地主義もまたマニフェスト・デスティニーも含まれ、またそこにはポピュリズムも入るのであるが、この2017年においてここに入るべきワードはdiversityであろう、この多様性を意味する言葉はもしかしたら今後数百年間において紆余曲折を経ながらも少なくとも進歩派を自任する人々の間で受け継がれていく可能性があり、そういう意味でもここでは最重要ワードとして扱いたいと思う
そしてこのdiversityを補佐する役割を担っているのが後者のネットワークである、このネットワークは古くはシルクロードであり、また大航海時代以降の海上輸送、交通路の確立であろう、確かに大航海時代は一方で多くの奴隷を新大陸(ヨーロッパ人から見た場合)に供給し、負の部分も多いがにもかかわらず結果的には商人(金融業者などを含む)、一般市民(贅沢ができるようになった)、そして宣教師(キリスト教徒の数は増えた)にも利益をもたらし、またその延長線上に第一次産業革命が英国より起こっているために、負の部分を直視した場合でもそう簡単に否定できないところがある
また最近ではラジオやテレビがその役割を果たしてきたが、この2017年ここに入るワードはSNSであろう、確かにこれはテロリストにも交流の機会を与えてしまった(だからバックドアの導入が検討されている)ので単純に是と判断するわけにはいかないがプラスマイナスで考えると相対的にはプラスの方が多いのであろう
このdiversityとSNSはこの2017年以降、新時代(偶然にもミレニアムの世紀である)におけるまったく新しいイデオロギーとネットワークになり、特に進歩派により支持され急速に普及し世界の隅々にまで行き渡っていくものと思われる、今後は先進国の地方都市においても外国人をより多く見かけるようになり、またAfter 60もSNSを利用するようになる
帝国とはイデオロギーのことである、そして大陸とはネットワークのことである、前者の代表はローマ帝国のことであり後者の代表はシルクロードのことである、したがってヨーロッパと中国の動きには今後目が離せないものとなるであろう

では日本はどうなるのか?
我が国日本において「帝国」と「大陸」はどのような意味を持つのであろうか?
まず帝国である、日本も比較的最近まで帝国であった、万世一系の王朝があり天皇がいた、そしてそれは今もなお続いている
ここでのキーワードは「喪失」である、しかしこれは個人的な意味ではなくもっとスケールの大きい歴史をも包含するくらいの意味での喪失である、帝国の末路はおおよそ以下の二つである
「滅亡」または革命による廃位つまり「共和制」の導入である、前者はローマ帝国、後者はフランスにその例を見て取ることができる、帝国とは整然としたピラミッド状の社会における封建的な制度によって維持されたイデオロギーが隅々にまで行き渡った中央集権体制のことである(すべての道はローマに通ず)、そこには絶対的な君主がいて時に議会の承認を経ることなく意思決定ができ、故に君主の名を借り政治的意思決定を意のままにしようと目論む連中による政権執行部の腐敗が起きやすい、したがって最終的には革命が起きて共和制に転ずるかまたは議会によって大幅な権限の縮小を君主自身に認めさせるかのどちらかとなる
だがそうなっていない国もある
日本である
なぜか?
この国ではあることが資本家の利益よりも上位に来ているからである
そのあることと何か?
道徳である
ここで美学派との概念上の関連が浮上してくる、美学派もまた信仰よりも道徳を重んじる人々であり故に律法(戒律も可)ではなく秩序を社会的に行き渡らせていくその筆頭に来るべきものとして考えている、そこには当然教育、学問があり、学校の果たすべき役割が欧米における教会に代わって重視されることになる
ここで重要なのは学校を重視するために帰属の問題が出てくるということである、私はすでに一国民はすべて組織、企業、または学校に属しているのではなく皆市区町村に属しているのだと書いた、故に自己紹介するときは「○○市の××です」と名乗るのが正しいのである、だがこの国日本ではそうなっていない、皆企業団体名や学校名で自己紹介をしている、だが私に言わせれば民主主義を肯定するのであればこれは間違いなのである
民主主義である以上国というものは国民一人一人の集合体として完結しているということになる、故にユダヤ人のように国を2000年以上持たなかった民族でも滅びなかったが故に国の再建ができたのである
さて学校であるが学校はいつか卒業する、またサラリーマンであればどのような企業に所属しようともいつか定年を迎える、つまり肩書のない時がいつか来るということになる、だが教会は違う、そこには卒業も定年もない、そこに暮らしている限りその教会を心の拠り所として生きていくことができる
そう、心の拠り所である
美学派はここに学校や組織や企業または政党を持ってきているのである、道徳は普遍を知ることによって信仰へと昇華する、だが君主という目に見える存在が現存するこの国日本では普遍を知る必要は必ずしもない(それでも独立を堅持できる)ため、道徳は信仰へと昇華することがないのである
だがここにはもう一つ重要なキーワードがある、すでに私は何度もその言葉をこの私論の中で記している
それは郷愁である
日本人は普遍を知らない、故に日本は欧米人から見た場合、「独特な文化教養を備えた極東のオリエンタリズム溢れるワンダーランド」であり続けるのであるが、信仰という律法を基盤としたしたがって異邦人(言語風習が異なる人々)の間にも行き渡ることが可能なものではなく、道徳が優先されていくことで、この傾向は今後も変わらないということになる
なぜ日本には自動販売機がたくさんあるのか?
それはそれを破壊して中にあるコインを奪おうとする輩がいないからだ
では、なぜ日本人は自動販売機を破壊して確実に中にある金銭を奪おうとしないのか?
日本人の道徳観がそうさせるからである
その道徳観とは何か?
一言で言えばこういうことだ
私は日本が好きである
そう、「好き」なのだ、ここには真理の追求も、また善とは何かの問いもない
ただ単に「好き」なのだ、私は日本が好きだ、だから日本人として恥ずかしいことはできない
そしてこの「好き」が日本人の場合郷愁に直結するのである
ではなぜそうなるのか?
ここで二番目のキーワードが出てくる
日本は大陸と無縁だからだ
大陸とは何か?
ネットワークである、シルクロードはそれをまさに体現していた、ヨーロッパと中国は歴史的にも長くそして深くつながっており、またそれは南方ではインドと北方ではロシアともつながっていた、北京から西へ西へと進むとイスタンブールへ着く、ここはかつてのコンスタンチノープル、そう、東ローマ帝国の首都であった場所である、そして黒海と地中海を結ぶボスポラス海峡はロシアにとって戦略的に見てもっとも重要な場所の一つである、そしてイスタンブールからパリまでは飛行機で僅か二時間五十分である、ちなみに羽田から那覇までが二時間四十五分である、北京はイスタンブールとつながっており、そこはロシアにとっても最重要地である、またパリはすぐそこであり、イスタンブールを中心に東は北京、北はモスクワ、西はパリ、と四つの都市が歴史的にも深くつながっていることが容易に理解できる、交易とは物の行き来だけではない、当然そこには人の行き来がある、物と人が行き来すれば文化交流があり、また宗教も伝播する、ユーラシア大陸は地中海を挟んでアフリカ大陸ともつながっておりまた南北アメリカ大陸とも大航海時代を経て密接につながっている、オーストラリア大陸を別にすれば、ユーラシア、アフリカ、そして南北アメリカは「大陸文化」の一言でまとめることができる、だがここに一つだけ入らない国がある
そう、日本である
日本は大陸に属していない、ここが韓国と日本の最大の違いである
大航海時代はヨーロッパ人の目を南北アメリカへと向けさせたが、利権に過敏な侵略者たちはその後アフリカ、インドを経て中国(清国)へと達した、本来ならば日本がその次の標的になるはずだったのだが、アメリカで起きた南北戦争が日本に幸いした(不謹慎だがそうだ)、南北戦争がなければアメリカは英国と組んで南下するロシアと北上するフランスを極東において迎撃しようと企んだであろう、だがこの幸運は日本の独立の堅持にはプラスになったが、大陸とのつながりという点ではマイナスになった、日本は衣食住において自給自足が可能な国家であり故に侵略戦争の必然性はなかったのだが、ロシア革命とその後の世界恐慌が日本の命運を決めた、満州事変である
ナチスが反共の砦になると考えた英仏両国は、ナチスが比較第一党になることを看過した、また世界恐慌の影響を唯一受けなかったソヴィエト連邦の動向は日本の軍部の疑心暗鬼を一層強めてしまった、そして1931年になった
日本は大陸の意志を見誤ったのである
100発の核弾頭を持っていても意思疎通が適切に図られているのであればそれは大きな脅威にはならない、しかし適切な意思疎通、相互交流がないのであれば、1発の核弾頭でも脅威である、ここに大陸の意志がある
大陸とは何か?
ネットワークである
ではネットワークとは何か?
言語のことである
言語とは何か?
人類の歴史のことである
では人類の歴史とは何か?
様々な人々による様々な交流のことである
それを一言でいうとどうなるのか?
コミュニケーションである
つまりネットワークがあって初めてコミュニケーションが可能ということになる
ではコミュニケーションとは何か?
それは最終的には思想信条の共有のことである
それはどのような結果をもたらすのか?
新しい共同体の誕生をもたらす
では共同体とは何か?
同じ神または思想を共有する人々の集合体のことである(結果的に複数の民族によって構成されることもある)
それを一言でいうとどうなるのか?
Diversityである
では日本人にとってのネットワークとは何か?
その答えは日本語である
では日本人にとってのコミュニケーションとは何か?
それも日本語である
だから日本人には外国語を学ぶ動機がないのである(受験のためだけ)
日本人は日本が好きである、そして日本人は日本を美しいと思っている、そして日本人は信仰よりも道徳を重んじる、もしそこに信仰があれば、信仰とは律法を伴うものであるため言語慣習の異なる異邦人間においてもそれは有効な思想となる、だが道徳が信仰に昇華しない場合、「好き」はdomesticに留まり、universeに変化することはない、故に治安が多様性を上回り、自動販売機は破壊されないということになる
もし道徳が信仰に昇華した場合、そこにはある観念が生まれることになる
それは正義である
では正義とは何か?
それは独立して存在しうる概念のうち正の部分の最上位に来るものであり、また同時にヒューマニズムや人権に通じうるものである、故に以下のような精神の状態が存在しうることになる

私はAの側にもBの側にも立たない
では何の側に立つのか?
正義の側に立つ

これは幅広い意味での中立であるが、正確には神の絶対を認めるということである、アメリカ大統領の就任式において(新)大統領は聖書に手を置いて宣誓を行うがこれはまさに上記した内容を地で行くものである
日本にも正義はあった、だがそれが万世一系を上回ることはついになかった、故に日本はいまだに大陸の意志を推し量ることができないでいるのである
大陸の意志
それは「好き」ではない
では何か?
それは「正しい」である
だがこれを理解するためには信仰が道徳を上回らなければならないが、幸運な国家日本の国民がこれを知るのは相当先の話になるのであろう
それとも日本はこのまま「独特の文化教養を備えた極東のオリエンタリズム溢れるワンダーランド」のままでよいのであろうか?
この辺りは確かに判断の難しいところではある

日本人の郷愁は日本人以外のすべての民族とも異なるものである
それは東日本大震災直後の日本人の態度にも明確に表れている、そこではいわゆる火事場泥棒が発生しないのである、そしてそこにある言葉は絆
果たしてこの「絆」を英語や仏語に訳することはできるのであろうか?
私が「絆」という言葉の向こう側に見るのは、「論」ではなく「情」だ
だから縦軸になるべき時間も横軸になるべき空間も比較的狭いものになってしまう、「絆」が即「人権」に結びつかないことは個人的には残念なことではあるが、だが一方でそれが日本人の評価を高めているということに結果的にせよなっている、日本人にとって嘘は悪ではなく恥である、「情」が「論」より常に優先されているがために、結果は「正」だが過程は「すれ違い」の状況が続いているのである
おそらく原子力発電所は「論」ではNoだが「情」ではYesだ
原発がなくなれば数多くの失業者が出るであろう、「情」を優先させる日本の社会では原発さえも文化の一部になってしまっているのである、そして原発は東京にはないのである、日本人の郷愁を基準にすれば原発はYesなのかもしれない
これは豊かさの限界それとも代償?
私は思う、日本人は鎖国の時代がもっとも日本人らしかったのではないかと
だがあの頃に戻るという選択肢はもうない
私たちは民主化、国際化の利益をこの七十年間で享受しすぎたのだ
もう一度繰り返しておこう
日本人は日本が好きである、そして日本は美しいと思っている、だから日本人として恥ずかしいことは決してしないのである

そろそろ次の章へと進もう

懐疑派

懐疑派(2017/05/16)

さて前章では帝国と大陸と題して、前々章での議論を一旦棚上げにして世界史について論じた、最終的には日本論または日本人論になってしまった感があるがしかしすでに発表した二つの私論からの流れでみると大きく脱線したとは言えないのではないかという気がする
縦軸に時間の流れがあり、横軸に空間の広がりがある、私は神について論じ、善悪について論じ、幸福について論じ、そして民主主義について論じた
ならば歴史についての一定の見解を述べることはこの流れで行くと理に適っているのである
歴史とは何か?
それは人類の英知とそれ故の過剰なまでの能力依存としばしば生じる情報不足からくる防衛本能の乱用そして先代の過ちをも繰り返すという踏襲への強いこだわりがもたらした正と負の複雑なパズルの三次元の集合体、したがってそこでは見る角度によってそれが時には正に時には負に見えるのであって、それを生み出したのは他ならぬ私たちホモサピエンスの先祖であるにもかかわらずこの議論には終着点がないのである
それはそれを見る人によって、正、負、そしてそのいずれでもない、の少なくとも三つに分かれ、そこでは如何なる結論であれそれが過半数を制することは稀であり、したがって分裂の後に必ず起きる争いが「利」が「理」を押しのける形で延々と続いているのである
なぜか?
そこに神の沈黙があるからだ
そう、ここでのキーワードは「沈黙」であろう
沈黙であるが故に信仰を得ながらもそこには懐疑が存在するのだ
善悪、幸福、そして民主主義
これらはいずれも人類の彼岸に存するものでありまた悲願でもある、そしてこれらはいずれも神の沈黙を知る懐疑派によって受け継がれていくべきものでもある
私たちは生きているのか、それとも生かされているのか?
神の沈黙故永遠に答えの出ないこの問いは、しかし美学派と懐疑派とを比較するときに実に有効なものとなる
生きていると考えるのが美学派であり、生かされていると考えるのが懐疑派である、前者は人類の意志と英知の結集を、後者は人類の多様性と民主主義をその精神の担保としている、さらに言えば前者は「数えられるものの価値」を後者は「数えられないものの価値」を代弁しているとも言えるであろう
もし聖書に書いてある通りに神は男を作り女はその男から生まれたという説をそのまま信じるのであれば、美学派の男たちの数パーセントはある種の先天的な権利を自分たちは有していると考えているのかもしれない、もしそのような考え方がそこにあるのであればそこから容易に「支配」や「秩序」、「ある種の従属」そして「序列」といった彼らが考える「望ましい(しばしば美しい)」社会の実現のためのいくつかの条件というものがある意味必然的に生じてくるのかもしれない、そしてそこには彼らなりの美学がありまたは世界の一方の本質がある、そういう意味では懐疑派とは正反対のところに位置するポピュリストたちもまたアダムとイヴのエデンの園の神話から登場し現在に至っている人々であると推測することも可能なのであろう、正義は神より生まれる、だがその神は永遠に沈黙しているが故に正義に従属するべきものは二つに分裂する、一方は善であり今一方は美である、いずれも人類にとっては永遠に肯定されるべきものであり、また美しいものは絶対的に善である、だがその定義が美学派と懐疑派とでは異なるのである
ここは厳密には愛の問題も絡む
愛の隣には信と義が座っている、信は書であり、義は太刀である、そういう意味では義勇軍という日本語訳は言いえて妙ということになるのであろう
「信」故に立ち上がり「義」故に愛するものを守るために戦う、そしてここに愛国心が出てくる、実は愛国心はdomesticであり、universeではない、したがって私のような懐疑派からすれば本来は対象外なのだが、神の沈黙はまさに50%の確立で彼らの存在意義を認めている、私たちはフランス革命とアメリカの南北戦争にその象徴を見ることができる、人権は「信」であり故にすべての人類がその対象となる、そして国の分裂回避または統一は「義」である、また国の独立を維持するためにはそれを阻もうとする勢力との戦いは避けられない、そしてそこには会ったこともない人々や民族もまた含まれるのである、「信」と「義」そのいずれが欠けても人権は保護されずまた国の独立も維持できない
手に聖書を持ちしかし腰には太刀を差している、だが文武両道とはそういうことである、ただここで重要なのは「律法」と「武力」によってこそ平和は維持されるのだと定義したとしても、文と武ではあくまでも文の方にその優位性が認められるということを認識する必要があるということである、なぜならばそれが民主主義を守るということであるからだ
なるほどここで以下のように定義することは可能なのかもしれない

民主主義社会では最終的には選挙で有権者によって選ばれた人こそがその社会の最高指導者の地位に就くことができる

ここで否定されているのはクーデターと同時にもう一つ「偶然ではない世襲」である、結果的に前、または元指導者の子または孫が後を継ぐことはあるかもしれないが、それはあらかじめ規定されたものであってはいけないということである、だが美学派は時に強引にそれを推し進めようとするかもしれない、なぜならば彼らには確信があるからだ
人生の確信は同時に人生の核心のことだとすでに書いたが、社会的には確信とは革新のことではなく保守のことである、だからここには愛国心が出てくるのである、だが愛国心は50%の確立で神の沈黙により事実上の信任状を与えられている、また国を愛するという思想や行為が美しくないと言い切ることは誰にもできない、そういう意味では「生かされている」が故に生じる懐疑派の謙譲の精神も美学派の発言権そのものを奪うことはできないのである
そして民主主義である
美学派=反民主派ではない、しかし愛国心はそこに十分な情報の伝播がない場合、時に何らかの熱情により容易に集団的に大きな動きをさせられることがある、誰によってそうさせられるのか?
扇動者によってである
私はすでに「曇天の日には収穫が多い」において、熱いものはすべて嘘である、唯一の例外であるスポーツの世界を除いてと書いたが、それをここにそのまま当てはめることも不可能ではあるまい、よく考えてみれば「信」も「義」もまた「信」、「義」故に成立する「愛」も人間と神(しばしば絶対者、つまり多神教のケースもある)の関係によってのみ成立しうるものである、ポピュリストにも彼らなりの「信」と「義」がある、そして「拡大」を望む者は概ね熱いものを好むのである、だがそれは「行き過ぎ」ではあるが「誤り」ではない、しかしそれでも私たちはここであることを十分すぎるほど考慮に入れなければならない
それは何か?
歴史である

すでに人類の歴史は見る角度によって正と負に意見が分かれると書いた、ならば私たちは「私たちの世代で今そこにある問題のすべての解決を行う」と考えるべきではない、私たちは私たちの務めを果たし、引き返すことが可能な段階で次の世代にバトンを引き継がせるべきだ、そういう意味では核は要注意ではある、核は最悪の場合引き返すことができなくなるからだ、それでは次世代の人々の選択肢の幾つかが予め彼らには責任がないにもかかわらず奪われてしまうことになる、また国の借金もそうである
国の借金についてはこれから生まれてくる人々には何ら責任はない、それなのに生まれたその瞬間において多額の借金を背負わなければならないというのは、平和も繁栄も保証されるものではないということが証明されつつあるこの2017年、あまりにも気の毒なことであるといえるであろう
今を生きる私たちは常に前世代と次世代との橋渡し役に過ぎない、そう考えると最終的には「生かされている」に辿り着くのではあるが……

謙譲は意志の勝利の対極にある、前者は「循環」であろう、また後者は「拡大」であろう、さらにいえば前者は「分配」で後者は「追求」である、だがここに述べたワードはすべて単独では存在できないものであるとも断ずることができる
拡大のない循環はない
追求のない分配もまたない
問題は美学派と懐疑派の力関係は拮抗していなければならないのに、保守派が目指しているものは限りなく一強他弱に見えるということだ、これは必ずしも独裁の肯定ではない、だが歴史的に見て社会の確信が行き過ぎた場合明らかに政治は独裁化する、1935年のドイツにおけるニュルンベルク法はその典型であるのかもしれない、また太平洋戦争下における1945年のトルーマン大統領の決定は今でもアメリカ市民の多くの支持を得ているという事実もそれを証明するものであるのかもしれない、なぜならばその決定は少なくともその当時のアメリカ社会の確信に基づいていたからだ、したがってそれを否定すればアメリカ市民はその社会の確信を今後信じることができなくなる、人道的には原爆投下はNoだが、国家を国家として維持していくことは「義」に沿っているので、その点でいえばYesなのである
やはり社会における確信は革新ではなく保守であるということになる
だがここで気を付けなければならないのはこの美学派の確信にあるのは決して狂気とは言えないということだ、それが狂気の結果であるならその人を選挙で選ばなければ良いということになる、しかし民主主義を「信仰」をキーワードにして捉えた場合そこには「信」と「義」が出てこざるを得ない
「信」は書のことであるのでここに民主主義を当てはめることはできる、そして「義」は太刀のことであるのでここにくるのは愛国心である
つまり信仰をキーワードにすれば、書を持った志士は同時に太刀をも携えていることになる、これはやはり否定できないことであろう
だが日本の場合、ここでは信仰ではなく道徳がキーワードになっている、ここで問題になるのが多様性である
Diversityは経済をボーダーレスにする、だが外国人(異邦人)は必ずしも日本語をしゃべらない、いや、日本人の方が英語を学ぶべきなのであろう
だが日本人にとっては日本語こそがネットワークとコミュニケーションのすべてであるのだ、ということはこれからは受験英語に代わってビジネス英語が日本においては幅を利かせるということなのであろう、キーワードは「実利的」である
つまり「大人の期待=将来の自分」である若者が「夢=なりたい自分」を押しのけて序列化された社会の上位にそれでも尚君臨するという状態が今後も続くということになる、だがそれはこの21世紀以降、真に国益に適うのであろうか?

「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」
またこの文言に行き着いた、この2017年世界において、前者に属する人々がついに過去最大になった、それは貧富の格差の拡大を見れば容易に納得できる、果たして人生の価値は数値化できるのであろうか?
もしそれができるならば幸福もA、B、Cと客観的なランク付けができるということになるが、やはりそれはおかしいのではあるまいか

翻って懐疑派である
彼らは神の沈黙を知っている、故に大胆を排し、謙譲を尊ぶ、また社会の確信を排し、個人の確信を尊ぶ、したがって拙速なる決断を排し、熟議における妥結点を探る、つまり懐疑派とは曲線的に物事を考える人々のことである、だがそのような人々が少なくとも我が国においてはこの21世紀以降急速に減少しつつある、それはきっと間違いあるまい、そこが重要な論点なのである
ここでようやくドナルド・トランプが出てくる、この補てんでは初登場であるが、今日2017年5月21日時点では彼はまだ豹変していない、明日から彼はイスラエルを訪問するそうであるが、私は彼の豹変は近いと思っている

これまでは以下のような状況にあった
ドナルド・トランプがドナルド・トランプを演じることがドナルド・トランプの利益になることをドナルド・トランプ自身が一番よく知っている

しかしこれからは以下のようになる
ドナルド・トランプがアメリカ大統領を演じることがドナルド・トランプの利益になることをドナルド・トランプ自身が一番よく学ぶべきだ

彼はビジネスマンだ、そして彼は実は計算のできる人物だ、彼はそろそろ豹変の潮時だと感じているのではなかろうか、確かに現時点では時期尚早であろう、だがアメリカの偉大なところは保守派であるにもかかわらず、そこにある種の謙譲が時に垣間見られることだ、リチャード・ニクソンは保守派であったが訪中した、ロナルド・レーガンは対ソ強硬派であり六年間も米ソ首脳会談を行わなかったが、その後はソ連のゴルバチョフと四回に渡って首脳会談を行い冷戦の終結に大きく前進した
もしかしたらニクソンもレーガンも、彼らはこのように定義することができるのかもしれない

信仰を知るが故に個人の確信をそのまま社会の確信とすることにはいくらかの抵抗感を感じていた保守派の本流(極右ではない)


ここでのキーワードは「信仰を知るが故に」というところであろう
ゴルバチョフ書記長が神を信じていたかどうかはわからないが、ニクソンとレーガンは信仰を知る人であったのであろう、したがって彼らは社会を動かそうとしていたにもかかわらず、しかし同時に社会の確信というものが時に原爆投下をも正当化させる危うさをも孕んでいるものだということにどこかで気付いていたのかもしれない、事実ニクソンはヴェトナムでは核を用いていない、おそらく最初からそのつもりはなかったのではあるまいか、ニクソンはドミノ理論を支持していた、ドミノ理論とは南北ヴェトナムが赤化すればそれは東南アジア全体にまで広がり、果ては朝鮮半島全体もが赤化し、東アジアはおおよそ共産主義化するという考え方だが、それでもニクソンがホー・チミン・ルートを対象に核を投下しようかどうか迷っていたという話は聞いたことがない、あくまでも個人的な感想であるがアメリカ大統領の理性というものは大したものであると思う、スプートニクもガガーリンも、毛沢東語録も、1960年代における旧東側の勢力拡大というものは目を見張るものがあった、だからニクソンは1970年3月、多大なる批判を覚悟のうえで、シアヌークの留守中を狙ってアメリカ軍をカンボジアに侵攻させたのだ、今では考えられない話だが当時はアメリカも切羽詰まっていたのであろう(当時旧東側の勢力は現在の若者たちが想像もできないほど強かった)
だがそれでも核は使われなかった、核を使うべきだと考える軍関係者がアメリカ国内にいなかったとは考えられないが

さてこの章の最後は「信仰」についてである
信仰とは美学派の最右翼がきっとしばしば陥るのであろう熱情に対抗する上での最後のそして最も有効的な理性の拠り所

信仰とは理性に先立つものではない、だからイデオロギー上の問題が派生することが明らかな場合でも武力は抑制的に扱われなければならない、そしてここに21世紀型の新しい民主主義の一つの到達点があり故に新しい出発点がある
もう一度最後に触れておかなければならない
なぜ懐疑なのか?
そこに神の沈黙があるから
では美学派が社会の確信を拡大解釈することは可能なのか?
信仰を知るのであれば、それは不可能である
ではそこに信仰がない場合どうなるのか?
行き過ぎたdomesticとなる
それは恐ろしい事態を現出させるのかもしれないが、それは次の章で語ろう

Domesticとuniverse

Domesticとuniverse(2017/05/22)

さて前章では懐疑派と題して美学派の対象概念である懐疑派について述べた
懐疑派とは信じるものがあるにもかかわらず神の沈黙を知るが故に現実にそこに存在するあらゆる対象に関して懐疑的な姿勢を持ちながら接する人々のことであるいうことを前章では述べたかったのである
言うまでもなく、私たちは過去は知っていても未来についてはまったくわからないまま毎日を過ごしている、確かに明日の朝大地震が来るかもしれないし、また何か悪いことがここ一週間以内に起こるかもしれない、しかしかといって明日に恐れを抱いたままびくびくしながら日々を過ごしても未来は開けていかないこともまたよく知っている、だから不安を抱えながらもどこかで可能な限りの確信を得てそれに向かって日々努力していくという姿勢を多くの人々は堅持しているのである、また懐疑とは疑うことではあるが信じないということではない、それどころか神を信じるからこそ神の沈黙を知るのである、だが理性的にもまた経験的にもまだ十分に成長していない若者の中には信じることとは決断することであると考えている人もいるようだ、無論、この考えを即否定するつもりはないがしかし大人になればなるほど、信じるとは決断しないことかまたは敢えてそれをすることであるという割合が精神の中で確実に増えていくのもまた事実なのである、だがこれは時に理性的な判断の中に曖昧さを生じさせることもあるために、性急な判断を好む特に若者はそこに理想ではなく怯懦を見出そうとするかもしれない、ラディカルであることは確かに青春の一ページを飾る言葉、または態度としてはしばしば美しいものであるのかもしれない、故に若いからこそ急ぐのでありまた若いからこそ突然に決断するのであろう、このことつまり性急=青春であることは間違いではないが故にすでに初老期に入った私からすればある種の警鐘をもって(私も元若者である)この私論におけるいくつもの判断に大きな影響を与えうるものなのである

青春の暴走、きっと天狗党の乱も2.26事件も、そして連合赤軍の事件もこの範疇に入るのであろう、確かに振り返ってみると彼らは美しく見える、是非はともかく彼らは何らかの理想に燃え純粋にそれを追求し、時には命さえも投げうって大義に殉じた、彼らの判断の多くは実は時を見誤った結果でしかないのだがしかしそれでも彼らの起こした騒動が今も尚書や映画において度々再現されているのは、「理」を「利」に優先させる純潔さにおいて人々の心を揺さぶらざるを得ない何かがそこに確かにあるからなのであろう
それは懐疑ではなく美学のなせる業、美学派の言動は私のように懐疑派を自任するものからしても時に壮絶でありまた時に果敢である、しかし逆に言えば純粋であるが故にしばしば利に敏感な参謀の口車に乗せられてしまうこともあるのであろう、美しいとは儚いということだとここで言い切ることはそれが人間に関するものであると限定すれば恐らくそう誤りではあるまい、それでなくとも人生そのものが短いのだから、まして輝ける時期は尚短い、ならばそのような時期に命を燃やし尽くそうと考える若者が一定数生まれたとしてもそれが時代の転換期ならば尚更のことそれを咎めるのは容易ではないのであろう

さてそこまで譲歩したうえでこの章ではuniverseについて論じたい
美学派とはdomesticのことであるとすでに書いた、そして21世紀を紐解くキーワードの筆頭に来るであろうdiversityがこの2017年世界の肯定的な流れ(モード)の趨勢を決めるその最終段階に入っている、私たちは現時点ではアメリカ合衆国の元首を中華人民共和国の元首よりも上位に来るものであると判断すべきであろう、その理由については前章でも少し触れたが、正当な理由の存否にかかわらず核の使用に対する抑制的な姿勢というものは逆風下においても堅持されなければならないということをリチャード・ニクソンが証明している、このことは高く評価されるべきであると私は思う、この姿勢がカンボジア侵攻後も変わらなかったことの意義は大きい、すべてのアメリカ軍関係者が核の使用に対して一貫して否定的であったとは正直思えない、だからこそニクソンのこの姿勢は旧東側と旧西側の関係が今とは真逆の状況にあった1960~70年代初頭において高く評価されるべきなのである
すでに何度も正と負は拮抗して然るべきであると書いた、なぜならばそうでないと民主主義は正常に機能しないからだ、したがって美学派と懐疑派の力関係も拮抗していなければならない、だが現時点ではややポピュリストを含む美学派に流れがいっているようだ、私はドナルド・トランプはどこかで豹変すると考えている、アメリカ合衆国において言論の自由が高い水準で保たれていることが彼ドナルド・トランプをして演じるべき対象を自身からアメリカ大統領へと変化させるであろう、しかし我が国日本においてdomesticは神の沈黙を知らないが故に一度箍が緩むとある種の底なし状態に落ちていくのではないかという気がする、これは戦争のことを言っているのではない、民主主義の健全なる発展が阻害されたために陥る国益のもしかしたら多大な損失のことを言っているのである
ここではあまり話が大きくなりすぎないように話の端緒の部分だけを簡略化して述べるが、fight togetherはsave togetherを担保する目的のものでない限りまったく意味がないと私は考えている、前者は無論「武」のことであるが、後者はいわゆる「人権の尊重」のことであり、ここに即diversityが入るのである
この補てんにおいてはまだ記していなかったかもしれないので記しておこう
民主主義の理念の筆頭に来るべきものは以下の二つである

① すべての人々に平等にチャンスが与えられること
② 出自やその属性に一切関係なく、その素養及び能力によってのみその人を評価、判断すること

もしこのように考えられるのであれば、21世紀の新しい民主主義の形は20世紀型のものと比して大きくその様相が異なるものとなる可能性がある、しかもここには二つの問題が重なる
環境問題と貧富の格差問題である
Diversityはこの二つの問題を解決に導き尚且つ新しい健全なる民主主義を確立する上での理念上の最重要ワードになるであろう
確かにそこにあるのはチャンスの平等であり結果の平等ではない、だがここにすでにこの補てんにおいてのみ登場しているワードを想起することができれば事情は変わってくるかもしれない
その言葉とは「謙譲」
これは懐疑派からこそ生まれてくるべき言葉である
無論、謙譲という言葉自体はuniverseとは結び付かないものだ、だが彼が神の沈黙を理解したうえでこの言葉を用いるのであれば話は違ってくる
ここでもう一度ある言葉の確認を行っておく必要がある
それは理性である
理性とは感情の対象概念であり、また人間が優れた知恵を持つが故に一人間として人間を他の被創造物と区別するうえでのその最大の要素であり、また「尊厳」と結びつく目に見えない価値の中で最大の存在となりうるものである

なるほど人間が不完全なのだから理性を絶対視すること自体に論理的矛盾が存在するのではないかと考える方もいらっしゃるのであろう、だがだからこそこの言葉が出てくるのだ
神の沈黙
神をまったく信じないのであれば確かにこれ以上読み進んでいただいてもそれほど充足感は得られないかもしれない、しかしそうでないのであれば神の沈黙を私たちはどのように解釈すればよいのであろうか?

神が沈黙している以上私たちが理性を信じなくていったい何を信じるというのか?

ここに信仰は理性に先立つものではないという考え方が重なってくる
信仰が理性に先立つものであるならばそこには神の沈黙故に神に代わる事実上の絶対者が現れる可能性が生じることになる、無論、その人物が謙譲の人物であれば問題はないのであるが、その後継者もまたその後継者もまた四代目も五代目もそうであるとは言い切れないであろう、言うまでもなく絶対者とは神だけであり如何なる人物も絶対者にはなれない、だが信仰が理性に先立つものであればいつか権勢をふるうことを我が宿命と考える聖職者が現れ、まるで絶対者のように現実を時に意のままに動かそうとするであろう、そこでは彼の意に沿わない人々は異端者とされ社会から放逐される、そして二度と故郷に戻ることはできない
このような事態は民主主義に著しく反しておりこの21世紀以降決して繰り返されるようなことがあってはならない、また神を決して信じないという立場をとる人々も神の沈黙がそこにある以上、また民主主義を肯定する以上、そのような人々を無下に排除することはできない
そのように考えると、人間の不完全さを認めながらも神の沈黙を知る以上、理性を最上の精神と規定しそこから信仰を知るという二段階の精神の望ましい運動を是とする必要が生じる、そしてそれを民主主義と矛盾しない形で現実の枠組みの中で文字通り少しずつ醸成していく必要があるのだ、なぜならばそれが時代の要請でありまた時代の進歩は信仰と矛盾しないからだ、事実ガリレオ・ガリレイが起こした科学史における一大進歩はしかしキリスト教的世界観を破壊しつくすことはなかった
ここでようやくキーワードの再登場となる
Universeとdiversityである
なるほどのこの二つは主観を完全排除しないことを条件とした論理的考察を深めれば深めるほどその価値を増していくように思えるが、だがここで出てくるのは美学派が陥りそうな性急な判断による変革の必要性なのである
もう一度繰り返しておかなければなるまい

私たちは私たちだけで現在そこにある問題のすべてを解決しようなどと思ってはならない

私たちはあくまでも前世代と次世代の橋渡し役に過ぎない、それを忘れてしまえば次世代の人々が引き返すという選択を取れないところまで私たちが行ってしまうことになりかねないのである、だから核は要注意だということになるのである、これから生まれてくる人々には何ら罪はない、戦争は否定されるべきであるという考え方も、戦争はそれを与り知らない世代の人々にまで負の経験を強いることになるから否定されるべきなのである、これこそ不条理である

感情の迸りは愛国心を奉じる立場にある美学派にこそ顕著に見られる性質であるが、時代というものが大きなうねりを見せる時には必ずこのような状態というものが現出するのであろう、テロリズムは貧富の格差をその原因の根源としているが、極右の愛国心というものは自己愛にも通じる陶酔をその根本原因としている、私はすでに美学派の定義を行う際に「遮断」をキーワードとして挙げたが、縦軸の時間と横軸の空間において壁を作り、未来と海外を遮断することは21世紀型民主主義に大きく反しているにもかかわらず、大きな時代のうねりがもたらした感情の迸りを是とする人類の慣行は彼らに大きな錯誤を生じさせてしまったようだ、彼らの中には頭脳明晰な者も多く、また彼らのリーダーは少なくとも個の確立に成功している、故に時代の大きなうねりのなかに自分の自意識(美意識も)とベクトルが一致している部分が多くあることを知った時にある種の使命感のようなものにも駆られるのであろう、私は美学派の立場を取らないがしかしかといって彼らに悪意があるとも考えていない、そこにあるのは熟慮の不足ではなく錯誤である
これは民主主義に対して少なくともその枠組みを今後も維持していくことに対していくらかでも疑問を持っている人ならば尚更のことその取るべき行動は派手でプロパガンダめいたものになるのであろう、おそらくそこにある保守を強く感じさせる愛国心も実は千差万別であり、彼らが権力を握った時に彼らに与えられるフリーハンドがむしろ彼らの中にある齟齬を暴き出すのであろうが、現実的に見て極右が先進国において第一党となる事態は考えにくく、したがってこの部分は今後もしばらくの間は表面化していかないのであろうと考えられる
さてここで私はもう一つのキーワードを再び記さなければならない
このワードがあるからこそ私は美学派の立場を取らないにもかかわらず彼らを無視することができないでいるのだ
それは郷愁
我が国日本の場合それは神社仏閣などのような主に形而下の存在にそれは象徴的に見られるのであろう、日本人が目に見えるものに強いこだわりを持っているというわけでは必ずしもないのであろうが、ただ先日私が見た遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督による映画「沈黙」でも比較的早い段階のシーンで主人公の司祭に数人の日本人の信徒が木でできたキリスト像などいわゆる偶像をせがむ場面があったが、日本人には何かお守りなどの手に取れるものを必要とするそういう性質があるのかもしれない
私はすでに大切なのはレガシーではなくメモリーである、と2024年または2028年の夏季オリンピック、パラリンピックに立候補したロサンゼルスが新しい施設を一切建設せず既存の施設の改修だけで大会運営を行う旨を発表したことを絡めて述べたが、日本人はこれとは同じ考え方を必ずしもしていないのかもしれない
注)2017年9月、ロサンゼルス市が2028年の夏季オリンピック、パラリンピックの開催地に決定したが、施設の97%を既存施設の改修で対応すると発表しているようだ

なるほどレガシーとは遺産のことであるので、「次」の人々のことを考えたうえでそのような判断に至っているのだと言えばそれは美しい行為だということになる、私利私欲で私は動いているのではいないということが目に見える形で証明されるのだから、次世代の人々の喜びにもそれは当然適うであろうと
これを単純に否定するのは難しいのかもしれない、だが経済の成長というものがもし地域間格差を結果的にせよ生んでしまうのであればこのレガシーという言葉が意味するものにも要注意であるということになる、それが憲法において民主主義を定めた一つの独立国である以上、東西南北すべての地域において暮らす人々に平等に幸福を追求する権利は認められなければならない、もしそれが与えられうるチャンスの数においてそれぞれの地域における格差が生じるのであればレガシーもまたその価値を疑問視せざるを得ないものとなる、これは即ち中央と地方の格差ということになるのであるが、中央の利益がまわりまわっていつか地方の利益となるという法則はこの21世紀以降も我が国日本において通用し続けるのであろうか?
この答えに自信をもってYesといえない以上は、レガシーもまたメモリーを上回るものであるとは言い切れないのではなかろうか?
この2017年9月に決まる、2024年の夏季オリンピックの開催地にロサンゼルスが選ばれなかったとしても、いつか既存の施設だけで、つまりレガシー抜きでオリンピックが開催されることが当たり前のようになるのであろう、これは環境問題ともリンクしているのであろうか、いずれにせよ、ロサンゼルス市、そしてアメリカ合衆国のオリンピック委員会が下した結論は今後大きな意義を持ちうるものであろう、そしてレガシーではなくメモリーであると言い切ることは、domesticではなくuniverseであると言い切ることにおそらくその底辺でつながっている

Universeとは普遍、普遍とは信仰、信仰とは神、神とは絶対、絶対とは善と美
この善と美をもって人類の進歩は精神的に最終段階へと突入していく
その辺りのことは次の章で述べる

善と美

善と美(2017/05/28)

さて前章では、domesticとuniverseと題して、universeの立場をとることを鮮明にしながら、domesticに対して批判的な論調で考察を重ねた
民主主義をキーワードにする以上、domesticに限定的な価値しか見いだせないというのは僭越ながら正しい、普遍的な価値というものは世界を「それでも尚好転させる」ための唯一の手段であり故に多神教のような精霊崇拝的な、つまり信仰よりも道徳を重んじる立場ではなく、律法(約束事)を道徳よりも上位に来るものとして定義する一神教的な、つまり自国の民の間においてのみならず、異邦人間においても有効な手段となりうるような、絶対的な価値というものの宣布を最終的には目指さなければならないのであるが、ここで二つの問題が私たちの行く手を遮っている
環境問題と貧富の格差問題である
前章ではここでレガシーとメモリーという二つの言葉をキーワードとしてオリパラと関連付けながら論述を重ねたが、メモリーという言葉があまり格差という表現に結びつかないのに対して、レガシーという言葉はあまりにも大企業的というか大資本的である、表現は悪いが確実にその「おこぼれ」に地方や地方の中小企業が与ることができるという保証がそこにない以上、レガシーという言葉を中央の有力者が多用するのはいかがなものかと一地方都市に住む者としては思う
確かに日本人にとっての郷愁とはスピリットもあるがそれ以上に可視的な建造物でありまた山河などの美しい自然の風景なのであろう、そういう意味では具体的な抽象的ではないつまり誰が見ても触れても同じような感慨にふけることができるような施設のような存在を、いわゆる権力の側にある者が求めようとしたとしてもそれはあまり不思議なことではないのかもしれない、言うまでもなくその施設ではオリンピック、パラリンピックゲームが開かれる、当然それはテレビなどを通じて多くの人が興じるが故に共通のメモリーがそこに生まれることになる、また1964年の時の「東洋の魔女」のような感じになるのであろうか、それを否定することは誰にもできないが、何度も述べているように時代は変わる、この2017年、世界は大きな時代のうねりの中にあり、かつてはなかった環境問題というものが深刻な人類共通の問題として浮上し、またロサンゼルス市とUSOCの決定(施設の新設をせず既存の施設の改修のみで対応する)もある、1964年を振り返るという行為が美しくないとは言い切れないが、もはや敗戦国からの脱却、そして戦後復興という言葉も死語になっているのもまた事実だ、2020年のオリンピック、パラリンピックが旧態依然とした大会の最後であり、2024年大会からはまったく新しい形のオリパラが始まるのであれば、2020年大会の成功も少しほろ苦いものとなるのかもしれない
そういえば1984年のロサンゼルス・オリンピックもまったく新しい形のオリンピックであった、あの時はヘリコプター基地の格納庫をプレス用センターとして使ったのだ、実に画期的なことであった、そして商業オリンピックが解禁され、オリンピックは黒字となった、1976年のオリンピックでは多額の赤字が出てそれを償還するためにモントリオール市が作ったのが、サーカス団、シルク・ド・ソレイユである、同じことがまた繰り返されるのであろうか

さてこの章のタイトルは善と美である
これらはすでに発表した二つの私論においても重要なテーマとなっている「神=唯一の絶対者であり唯一の権威」を下支えする概念であるが、ここで私がなぜこのような私論を記すことになったのか、その疑問をもう一度振り返っておこう
それは以下の二つの疑問が私の中にあったからだ
① 人生はなぜかくも辛いのか?(ミクロ)
② 神はなぜ人間を造ったのか?(マクロ)
いずれも信仰が意識上にまったくない人には、容易に想起され得ぬ問いであり、またそのような人にはこの私論の言葉のほぼすべては価値を持ち得ぬものなのであろうが、たとえそのような場合でも理性というものの役割を神の沈黙を無視するとしても、人生を良きものとする上では重要なものであるとの認識がすでにあるのであれば、この私論の言葉はすぐにではないにしても10年後または20年後に本人も驚くような「大化け」を演じるかもしれない
なぜならば上記した二つの疑問は信仰の有無にかかわらず20代後半にもなれば、厳しい人生故に時に過去を振り返った時に思わず捉われる感慨であるとも十分言い切れるであろうと思われるからだ、きっと社会的にある程度成功した人でもこの部分は変わらないのではなかろうか?
人生の厳しさについては私がここで縷々述べる必要もなかろう、それは誰もがすでに気づいていることだ、人間はコミュニケーションがすべてだといわれるが、にもかかわらずそのコミュニケーションにおいて同郷、同世代であっても日々すれ違いが生じているのも事実だ、同じ民族であり故に同じ言語と慣習を持つにもかかわらずなぜ私たちはこうも理解しあえないのであろうか?
きっと多くの人の共感を得るに違いないこの疑問はしかし同時に人を二つの型に分け隔てるであろう
Domesticとuniverseに
私たちは容易に理解しあえない、だからdomesticが重要なのだ
いや、だからuniverseが重要なのだ
私はこの答えを解くキーワードを普遍の中に見ようとしている、それは新しい民主主義をそこにおける条件の筆頭に据える時、きっと間違いではないことが証明されるのであろう
私たちは普遍を「善」と「美」の中に見ることができる、神が永遠の沈黙を貫いている以上、私たちが実体験できる普遍はこの二つだけだ、そしてこの二つはこの世には神がいても神に悪意がない以上、悪魔というものは実は私たち人間の想像力の中にしか存在しないことを確信したときに、完全イコールとなる

即ち美しいものは絶対的に善である

翻って神は美しくないのか?
この答えはYes、つまり神は美しい、であるが、神の沈黙は人間がそのような判断を軽々にする必要のないことを実によく暗示している
神の答えとはきっとこうだ

善を信じ、美を感じることで初めて見えてくるものがあることを知っていただきたい

私はこれを序列の否定とみる、なぜ神は永遠の沈黙を貫いているのか?
それは万物に対して神は平等であろうと考えているからだ、それは私たち人間においても同様であろう、私たちは愛を知るが故に傷つけることを「しない」であり、また善とヒューマニズムを知るが故に助けることを「する」である、そして私たちは不完全であるが故にこの両者の間で永遠に揺れ続ける必要があるのだ、そうし続けることで時に正、時に負に見える人間の営みのすべてに対しいつか少なくともその時点での最も理想に近い結論に達することができる
神は醜いものを造らなかった、そしてもはやこの地球上に地理的な意味でのフロンティアは存在しない(Google mapを見ればそれがわかる)、だからこの2017年、ついにこのような結論に達することができたのである、もしこの地球という惑星のどこかに醜い、つまり神の悪意を明確に感じ取れる場所があるのだとしたら、それをこそ私に教えてほしい、間違いなくそのような場所はない、あったとしてもそれは神が創造したものではなく、人間が創造したものだ
善に序列はなく、美もまたそうである
上下の区別がない、これを漢字一文字で表すとどうなるか?
答えは「球」である
そう、地球の「球」だ
地球上どこの地点においてもそこに上下はなく、ただあるのは「ここ」と「東西南北」だけである、つまりすべては平等、フラットである、いま私、君、彼、彼女がいるまさにその地点がてっぺんであり、そこより上はなくまた下もない
なぜ三角錐や立方体の惑星がないのか?
それでは上下が生じてしまうからだ
この世の平等はシンプルなしかし緻密な神の計算によって完璧に成立している
神はたった三つのものしか創らなかった
長さと重さとエネルギーである
だがこの答えに行きつくまでには神でしかなしえなかった領域を通過する必要があった、そして生まれたのが「球」である
では「球」とは何か?
それが善と美の形である
善と美は「球」の形をしているのである、だから惑星はすべて球形なのである
では「球」が意味するのは何か?
序列の否定である
ではなぜ人間社会には序列があるのか?
それは人間がこの世には悪があり、また神もいるからには悪魔もいるのだと勝手に思い込んでいるからだ
なぜ人間はそのような自己暗示ともいえる状況に陥っているのか?
一つはそうすることで金銭的に利益を上げることができるからであり、もう一つは共同体が巨大になった場合、住人はある種の神経の麻痺を伴わなければ酷い鬱状態に陥るため、それを避けるために敢えてそのような状態を放置しているからである
ではどうすればそのような状態から脱することができるのか?
グレートターン、帰郷である
かつて自分がいた場所に戻ればよいのだ
なぜ人間はそれをしないのか?
まだ時が満ちていないからだ、しかし時が満ちれば多くの人が帰郷の重要性に気付くであろう
帰郷とは何か?
回帰のことだ
回帰とは何か?
生まれたその瞬間を思い出すということだ
そんなことができるのか?
できる
どうすればできるのか?
「次」の人のことを思えばよい
なぜそう言えるのか?
生まれた瞬間はすべての人間は「次」の人であったからだ
そして「次」を知ることが善と美を知ることにつながる、なぜならば「次」を思うとは最終的には序列の否定につながるからだ
序列とは善と美の否定であり、「今」の肯定だ
だがうまくやっていける人を除いて「今」が滞留すれば鬱が生まれる、そしてそれを解放するのが「次」だ、「次」を知ることで悩みは相対化され、以下の言葉を知ることになる

待て、まだ「次」がある

だが序列はこれを無効にする、なぜならば序列とは以下の言葉を常に帯同させているからだ

常にぎりぎりのところで勝負する

この考え方は多くの場合、思考の及ぶ範囲を限定し、本来は豊かな感受性を活かし、多分に空想的な埒の開かない自分だけにとって都合の良い三次元空間で個性がそれでも尚自分だけに当てはまる法則を発見しようと努めることを阻んでしまう、もし人生を直線的であると考えるのであればそこにはランクが生じるということになる、だがそうなれば幸福もまたランク付けができるということになる、しかしそれは誤りである、というのも序列が肯定されればこの言葉が意味を失ってしまうからだ
自由
そして自由の反意語とはすでに何度も述べているように「権威」である
では、なぜ権威に私たちは抗わなければならないのか?
そこに民主主義があるからだ、そして民主主義というものは砂上の楼閣のように私たちが常に権威というものに対していわゆるチェック機関の役割を果たしていないと簡単に崩れ去ってしまうものなのである、だからdiversityとなるのである、その国では英雄でもその隣の国ではその人物はテロリストであるということもある、世界中で見られるこのような現象は、私たちが私たちだけで物事のすべてを決めようとする(自国ファースト)時、思いもかけない不都合を知らず知らずのうちに生じさせてしまうであろう、だがきっと結果が出た後ではもう遅いのだ
ではそうならないためにはどうすればよいのか?
Diversityである
多様性のある社会
つまり「より速く」「より多く」から「より寛大に」「より慎重に」へのシフト、だがこれは文字通り「言うは易く行うは難し」であろう、これは時に若者たちから選択権を一部を奪うことにもなりかねない、時代が変わるときに最も敏感に反応するのが若者たちだ、これはすでにヴェトナム戦争時のアメリカ合衆国において顕著に見られた現象である、言うまでもなく戦場に赴くのは若者たちだ、だが開戦を決断するのは大人たちだ、この当然の不条理に対して若者たちが激しく抗議した結果、people’s powerが生まれた、このpeople’s powerは今diversity故に生まれたminority’s powerと合体し、もしかしたら世界史上稀な大きなうねりになろうとしている、だが時代が変わることで若者のすべてが利益を享受するわけではない、それどころか守旧派の子息は比較的高い確率で何らかの損益を被るであろう、そしてにもかかわらず時代の変化を肯定する守旧派の子息たちは、おそらく比較的少数であろう、つまり反動派勢力とは必ずしも中高年者たちだけを指すものではないのである、憚りながら平和の長期化は軍需産業に何をもたらすのであろうか?また定期的に争いが繰り返されることはまた軍需産業にとって何を意味するのであろうか?
いずれにせよ時代の大きな変化が、特に若者たちに劇的な少なくとも精神的な意味での変化を強いることは事実であろう、そして経験という点において未熟な彼らはそれ故に時に保証をなげうってでも平和などの理想の実現へと突っ走っていくことしかできず、それが一部の臆病な若者たちにとっては精神的な意味でのプレッシャーにしかならず、そのような変化の後には、えてして保守的な若者たちが激増するのである

つまり理想の実現は重要だがしかし保障が大幅に減ずるのであれば、正直な話それはそれほど優秀ではない若者たち(残念ながら様々な理由で勝ち組に入ることができなかった)にとっては脅威でしかないのだ、と

だからにもかかわらずdomesticとなるのである、diversityを選択するのであれば間違いなくここはuniverseとならなければならない、だが時代の大きな変化を受け入れることはしばしば保障の減退につながる、だから父親のおかげで利益を享受してきた過去を十分に認識できている二十代後半くらいの若者たちはそのような変化を前に、ある意味怖気づき急速に反動化していくのである
だが誰もそのような人々を責めることはできないのではなかろうか?
誰でも自分の給料が来月から減ると聞かされれば、たとえそこに理想の実現のためという名目があったとしても容易にそれを受け入れることはできないであろうと思われるからだ
そして今大きな時代のうねりが若者たちを取り込もうとしている、きっと若者たちの多くは敏感に反応しすぐにそのような流れに身を投じるであろう、だが一部の優秀なまたは時代の流れに適応することが即自分の利益につながるというようなポジションにいる人々を除いてそれは必ずしも自己利益に結びつかない事がわかればその変化の中身は変質する、そしてその隙間に百戦錬磨の守旧派の大人たちが入り込むことになる、そして懐柔策は成功するであろう、変化は骨抜きにされる、またしても「利」が「理」に勝ったのだ

ここで肯定されているのは、「拡大」「追求」「序列」「遮断」「今」そしてdomesticである、そして否定されているのは、「循環」「分配」「公平」「解放(開放も?)」「次」そしてuniverseである
だが最も否定されているのは以下の二つである
「善」と「美」
このように考えると普遍をその認識において肯定することがいかに難しいかが想像される、理想の上昇を阻むものが現実であることは理解できても、ガラスの天井を打ち破ることは多くの有識者やジャーナリストたちの言がそこにあるにもかかわらず難しいのである

美しくなくてもよい、つまりそれに興じることができればよいのだ

だが私は思う、人生にはまるでギャンブルを彷彿とさせる瞬間が確かにあるにもかかわらず、しかしそれを豊かにするものは享楽とはおおよそ次元を異にする瞬間の連続の中からしか生まれないのだと

そろそろ次の章へと進もう

二つの私論の補てん

美学派と懐疑派(2017/05/11)

私は前書「行ったり来たり、そして次の人」で独裁的な傾向を持ちうる人々を「非」の一言で論じたが、おおよそ美学を持ち出す人のこだわりというものは未来ではなく過去にあると言い切ることは八割方可能であると思う、ここには一種の郷愁に通ずるものがあるが故に同じ民族、国民という観点からすると個人的にはそれは容易に捨象可能なものではないようにも思うが、確かに長い歴史を持つ国または民族であれば尚更のこと、その歴史の過程において育まれた伝統文化というものを軽んじるということは愛国心以前の段階で一国民として疑問符が付くと解釈されてもある程度は仕方ないのであろう、また美学派の中には明らかに秩序に対する過剰なまでの執着のようなものも感じ取ることができるように思う、これは彼らが実は形而下のものを尊重していることに端を発しているのであろうが、だがこのことが結果的にではあるが、秩序の整ったやや窮屈だが安心のおける社会の実現に寄与することはあろうかと思う、「目に見えるもの」は「数えられるものの価値」に属するものであり、したがって美学派は数値化されるものつまりデータやインフォメーションを重視する傾向があるように一見思えるが、しかしその一方で彼らには彼らなりのメッセージやストーリーもまたあるのである、ただ問題はそれらのカヴァーできる範囲にある
美学派はdomesticであるとすでに書いた、したがって彼らの論調は特定少数の、人々の琴線に触れること大であっても、そこに国際的な賛同を多く得ることは難しいように思える、また彼らは個の確立に成功しているが故にであろうか信仰よりは道徳を重んじる傾向にあるようだ、道徳とは信仰の一歩手前にある概念なので道徳=神=普遍とはなりにくい、普遍足りえるには道徳はさらに一歩進んで信仰へと昇華しなければならない、信仰とはつまり信仰の自由を求めるということであるからそこには自由を明確に認識する者だけが抱くことのできる概念つまり「自己を理想的に規律する」が当てはまるのであるが、だがこれを求めてしまうとdomesticはuniverseへと徐々にではあるが変化し始める、美学派のインテリはこのことをよく知っているので、その一歩手前で秩序を持ち出すことで実際には少数派によって共有されているものでしかない彼らの美学の既成概念化を図っているようだ、また目に見えるものを尊重する彼らの姿勢そのものが秩序の尊重を強く滲ませるものでもあるため、いわゆる保守派には彼らのそのような在り方はむしろ好ましいものに映るのであろう
だがここで指摘しておかなければならないのは美学とは本来個々人の内側に存するものであり必ずしも共有可能なものではないということである、故に美学とは芸術家の中にあってこそ真に有効な手段となりうる、ではそれが個人の枠を超えて社会に飛び出したときそれはどうなるのか?

ここで一つのキーワードが出てくる
それは「遮断」である
諸君、以下このキーワードを意識しながら読み進んでいただきたい
美学とは個の確立に成功した者だけに許されるある種の知的特権のようなものである、故に美学派にはインテリが多く、また文学や歴史に関する造詣も深い、そのせいであろうか自負心及び自己顕示欲もまた人一倍強そうであり、時に奇抜な発言や行動で周りを驚かせることもあるようだ、しかしすでに述べたように彼らの善悪に関する判断基準は道徳のレヴェルで留まっており、信仰へと昇華することは稀である、したがって宗教的には一神教よりははるかに精霊崇拝を基盤とした多神教に近いようだ、そのことは律法レヴェルでの行動の規制を著しく緩める一方で、内と外との区分けのような、いってみれば「概念の住み分け」のようなことを堂々とまかり通らせる結果にもなっているようだ、もうすでにお気付きのように美学派の主張には容易にナショナリズムを見て取ることができ、また彼らは本音と建て前の二元論にも躊躇しないようだ、だが頭脳明晰なそして個の確立に成功した彼らの自意識は世界というものさえも個人的な美学による秩序の中に組み入れようとしているかのようだ、そこでは二つのものが遮断されている
一つは「海外(国際も可)」でありもう一つは「未来」である
すべては秩序立った形而下の美しさのため
そして彼らの中ではA、B、Cの次はDでなければならないのだ
ようやく辿り着いたようだ
美学派の思想は21世紀に主流となるべき考え方と私自身が定義している「『多様性』と『効率性』のいずれをも同時に担保するものだけが価値を持つ」に反しているのである
ここまで書いたのだからもう少し掘り下げてみよう

私はすでに発表した二つの私論の中で繰り返し人生=螺旋階段論を取らないと明言している
人生は一見螺旋階段のように同じところをぐるぐると回っているようでいて実際には少しずつ上へあがっているのだという考え方を排除しているのである、この人生=螺旋階段説には私が重要視する幸福の天敵が潜んでいる
それが比較である
比較の肯定はてっぺんまで行ける人を除いて皆比較の犠牲になるという点で実に好ましいものではない、無論成功の方が幸福よりも上位に来るという人生観を持っていらっしゃる方々にはこのような考えは受け入れられないのであろうが、私は人生の最終目標は幸福にあると考えている、したがってすでに発表した二つの私論も私的幸福論の色合いが濃いと記しているのである、人生の根幹主題ともいえる「人はなぜ生きるのか?」を認めるのであればだが、それは人間にとって幸福とは何かということを考えることに直結するのである

死を避けることはできない、にもかかわらず人は生きる
そしてもう一つ、天国にいったい何を持っていけるというの?

この二つ故私は人生とは成功ではなく幸福であると考えるのである
では人生とはどのようなものなのか?
人生は曲線である、そういう意味では螺旋階段説と同じであるが、問題はゴールの位置だ、ゴールは一番上にあるのではなく、真ん中にある
故に人生は渦を巻くように進行し、つまり一周ごとに始点の近くを通り過ぎながら最終的には真ん中のゴールに達する、だから若い時には夢や目標が必要なのだ、そうでなければ一周してほぼ同じところを通過するときにかつての自分を確認する材料がないということになってしまう、もちろんかつてはこのようなことを真剣に考える必要はなった、なぜならば我が国日本の場合経済が頗る好調であったからだ、1980年代には「一億総中流」や「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という流行語まで生まれた、故に将来の事をあれこれ詮索し思い悩むよりも現在そこにある慣習にある意味無批判に追従し身を委ねる方が実は理に適っていた、だが今時代は変わりつつある、「老々介護」「認知症」「リストラ」「非正規雇用」そして「ワーキングプア」いずれも1980年代には若者たちの脳裏にはなかった言葉だ、だがこのようなネガティブな響きを持つワードは増える一方である、このことは特に若者たちの外界を遮断しスマートフォンに余暇のほぼすべてを充てるというある種の排他的な姿勢にもつながっているようだが、経済が下降線を辿っているからこそ私たちは今上記した「人はなぜ生きるのか?」という人生の根幹主題(これは人生の原点ともいえる)に立ち返るべきなのであろうが、実際には世の中はそれとは真逆の方向へとまっしぐらである

翻って美学派である、彼らは人生は直線的であると考えているようだ、したがって一周してほぼ同じところを通過することがないため常に上ばかりを見て、年々加速する傾向にある社会のスピードについていけない人々に対する配慮にはかなり高い確率で欠けているようだ
「すべては自己責任」そのような考えも彼らの中にはあるのかもしれない
またこのような考えもあるのかもしれない
「100を得るのは100の力を持つ者だけだ」
だが私はそうは思わない、私は100を得るのは100を失った経験のある者だけだと思っている、だからここにはチャレンジがあり、また偶然の結果による喪失があり、そして結果的にせよヒューマニズムに通じる弱者への配慮があるのである、さらに言えばここには信仰への目覚めがあるのだが、それについてはすでに述べているのでここで縷々述べることはし

二つの私論の補てん

「曇天の日には収穫が多い」と「行ったり来たり、そして次の人」の補てんです。ぜひご一読ください。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 美学派と懐疑派
  2. 帝国と大陸
  3. 懐疑派
  4. Domesticとuniverse
  5. 善と美