妄想の人

 新しく職場に加わった人と二人きりになったら、黙っているのも何だかなあ、という気がして会話を交わす。それがたまたま帰り際だったので、私は彼女に「どちらの方にお住まいですか?」とたずねた。
 その人、雪子さんは四十代で、父親が先代の社長と知り合いという、一種の縁故採用で我が社に入った。一人暮らしという話だったが、それ以上のことは知らない。
 私の質問に、彼女は少し早口で「あのね、私、バスと電車を乗り継いで来てるんです。だからとにかく、早く帰らないといけないんですよ」と答えた。これは少し奇妙だ。なぜなら質問は「どこ」なのに、答えは「どうやって」だから。
 でもまあ驚くほどの事ではない。世の中にはこのように、相手の質問など理解せず、任意のキーワードだけを拾って自分の主張を述べる人、というのが存在する。要するに、残業一切お断り、というのが当時の彼女にとって最大の関心事だったのだろう。
「そうなんですか」と相槌をうちながら私は、この人とはそう親しくならないだろうと思った。同僚としてどうこう以前に、彼女は私を一個人として認識しないような気がした。

 そして何日か経った頃、雪子さんてちょっと変だよ、という話がぽつぽつと聞こえ始めた。なんでも、他の同僚が世間話などしていると、いきなり加わってきて「知ってます?この辺りって、隣の県から犯罪者がいっぱい引っ越して来て、住み着いてるんですよ」だとか、「あそこのメーカーのヨーグルトね、麻薬が入ってるんですよ」といった事を真顔で話す、というのだ。
 いきなりそんな事を言われると、たいていの人間は思考停止する。だから皆「ふーん」などと答え、曖昧に笑って受け流すしかなかったという。そしてそれが繰り返されると、返事すらしなくなり、やがては無視するという形になった。
 だからといって雪子さんの存在が無視されたというわけではなく、むしろ皆、彼女の言動には興味津々で「あそこのアパートに殺人犯が住んでるって言ってた」だとか、「営業のスズキさんをテロリスト扱いしてたよ」と報告し合っていた。
 はっきり言って、立派な妄想である。何かの心の病だとしか考えられないが、彼女本人はもちろん、会社側からもそういう話はされていない。そして、ここが肝心なのだが、彼女の発言によって業務に支障を来しているかといえば、そうでもない。
 むしろそのせいで問題が出た、という事になった方が、対策を講ずる事ができる。だが毎日きちんと出勤して仕事をしている人間に、発言が常軌を逸しているという理由だけで医療機関への受診を勧めることは難しい。もしかしたら、既に通院しているのかもしれないし。
 いずれにせよ、彼女の住む世界は危険に満ちている。犯罪者だの麻薬だの、自分に危害を加えようと狙う存在が常につきまとっているのだ。心の休まる暇もないに違いない。どうして他の人たちはあんなに呑気にしていて、自分の警告に耳も貸さず、時には馬鹿にしたような笑いを浮かべているのかと、絶望的な気持ちでいるのかもしれない。
 
 それから数か月、彼女の妄想めいた発言は徐々に頻度を増していった。そして仕事の方はというと、一向に憶えようとしない、という事で周囲との軋轢が出始めた。
 困ったことに彼女は、少しでも注意されると言葉を荒げて延々と持論を主張した。その大半は話の主題からそれた事で、私はあなたたちとは身分が違う、世が世なら口もきけないほど高貴な生まれなのだ、とか、こんな会社の仕事は奴隷と同じだ、といった内容で、一度始まると軽く十五分は続いた。
 もうこれは立派な心の病ではないか。誰もがそう思っていたものの、彼女の「症状」は社長や役員といった、目上の人間の前では決して露わにならなかった。つまり彼女には分別が備わっていたと考えるべきで、だとするとあながち病気とも言い切れない。ただの過激な性格の人なのだろうか。
 こうした何とも息苦しい緊張感の中で、また何か月かが過ぎた。雪子さんの言動を完全に受け流す人もいれば、彼女の主張に真っ向から「それはおかしいでしょ」と反論し、一時間近く言い争う人もいた。そして明らかだったのは、雪子さんの分別が少しずつ損なわれていた、という事だ。
 ある日、彼女はとうとう役員の前で爆発してしまった。そして話し合いが持たれ、即日退職が決まった。 
 
 去り際の雪子さんは拍子抜けするほど落ち着いた様子で、「こんな変な会社と縁が切れてすっきりするわ」とにこやかだった。ふだんどれほど悪態をついていても、毎日出勤してくるのは生活のためだろうと思っていたけれど、いきなり失業で大丈夫なのだろうか。こんな状態で新しい仕事を見つけることができるのだろうか。
 でもまあ、少なくとも今までは働いてきたわけだし、どうにかなるのかもしれない。
 私の心配など結局、雪子さんの妄想とさほど変わらないもので、世の中はそんな事とは無関係に、ただ穏やかに過ぎてゆくのだった。

 

妄想の人

妄想の人

ヨーグルトに麻薬?そんな事言われても…

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted