運命は銀色の翼に乗って
かなり前に書いたものです。結末は変えようと思っています。彼らの運命がどうなるかは、まだ僕にも分かりません……
第1話
その日、東京は観測史上最高気温を記録した。
太陽に焼かれたアスファルトから熱気が立ち上り、まわりの景色を歪めていた。立ち並ぶビル、信号待ちの自動車の列、道を行く人。
そして、彼らの心や運命さえも。
山本俊平はビルの外に出るなり、シャツのボタンを外した。
「これくらいでへばらないの。向こうはもっと暑いんだよ」
恋人の岡崎美希は、旅行代理店の封筒で俊平の顔を煽いだ。
「冗談じゃない。俺は絶対に、クーラーの効いてる所にしか行かないからな」
そして俊平は太陽に向かって、恨み事を吐いた。
「そんなのつまんないよ。海で泳ぎたいし、他にもいっぱい行きたいところあるんだから」
美希は勧められた観光スポットを、指を折りながら一つ一つ繰り返した。二回目の中指までいったところで、俊平はうちわ代わりにしていた封筒を引ったくった。
「二泊三日でそんな回れないだろ。もう用は済んだんだ、さっさと帰ろうぜ」
俊平は美希の手を引いた。
「さっきから文句ばっかり言って。俊平は今度の旅行、楽しみじゃないの」
美希は手を振りほどいて、声を荒げた。通行人が何人か立ち止まり、二人に視線を向けた。
「別にイヤなわけじゃないよ。俺だって楽しみだよ。ただ……」
滅多に腹を立てない美希の剣幕に、俊平はたじろいだ。
「ただ、何よ」
美希は俊平に詰め寄った。
「俺、飛行機が嫌いなんだよ」
俊平は俯いて、小声で答えた。
「え」
「怖いんだよ。飛行機が……」
思わず美希は吹き出した。まるっきり予想していなかった返事だったのだ。
恋人に笑われ、周りの人から馬鹿にしたような視線を浴びて、俊平は顔を赤くして一人で歩き出した。
「待ってよ俊平、ごめんごめん」
笑うのを堪えながら、美希は俊平の後を追いかけた。そして俊平の左腕に自分の腕をからませ、目の前の店のショーウインドウを指さしながら耳元で囁いた。
彼は頷いて、二人は店のドアを開けた。
いつ封筒から落ちたのだろうか。表紙に旅客機の写真が刷られたパンフレットが、車道へ吹き飛ばされた。
車のタイヤに次々と轢かれ、その翼はあっという間に引き裂かれてしまった。
「その後も俊平ったらさんざん文句言って、あんな鉄の塊が空を飛ぶのはおかしいんだって。しかも真面目な顔で言うのよ、バカみたい」
美希は恋人の愚痴をこぼした。テーブルを挟んだ向かいでは、三島操がストローでアイスコーヒーをかき回していた。
日が暮れ始め、窓の外では会社帰りの集団が絶え間なく駅に向かって移動していた。店の真上を電車が通過する度に、その振動音が店内のざわめきをかき消した。
「あのカッコつけの俊ちゃんがとうとう美希ちゃんに弱みを見せたか」
操は俊平の従妹だった。俊平の父は映画監督を志し、両親の反対を押し切って、女優志望の妹――操の母――を連れて上京したのだった。
結局、夢は叶わず、俊平の父は映画会社の宣伝部に就職し、操の母はごく普通の会社員と結婚した。お互いに家庭を持ってからも二人は家族ぐるみで親しく付き合っていた。一人っ子の俊平と操は実の兄妹のように育てられたのだった。
美希が初めて俊平の家へ行ったとき、両親と共に操を紹介された。それ以来、美希は彼女とも親しく付き合うようになった。
「操ちゃんは俊平がなんで飛行機嫌いになったか知ってるの」
「小学校の頃だったかな……ウチと俊ちゃんの家族で北海道に行った帰りに、乗っていた飛行機が乱気流に突っ込んだの。そしたら俊ちゃんが怖がってギャアギャア泣き出して。たぶんあれがトラウマになってるんだと思うわ」
操は一人で頷きながら言った。美希には初耳だった。
「飛行機が嫌ならそう言えばよかったのに。だったら国内でも良かったんだから」
美希はグラスの側面に写った自分の顔に向かって独り言のように言った。
「気にしないで。本当は美希ちゃんと一緒に旅行に行けるのが嬉しくてしょうがないんだから」
「でもね。私も同じような体験したらきっと飛行機嫌いになっちゃうだろうなぁ」
その言葉を聞いて、操は上目遣いで美希の顔を見た。
「美希ちゃんにも飛行機恐怖症が伝染しちゃったの? せっかく行くんなら楽しまないともったいないじゃない」
操が励ましても、美希はと歯切れの悪い返事を繰り返すだけだった。操は軽く肩をすくめた。
「しょうがないな。じゃあ、私がいいおまじないを教えてあげる」
「おまじない?」
操はバッグからボールペンと手帳を取り出した。手帳の白いページを一枚破りとって、そこに人体の輪郭を描いた。
「美希ちゃん、ハサミ持ってる」
美希は小さなハサミを鞄から取り出した。
操は輪郭線に沿って紙を人型に切り抜き、その中心に縦に線を引いた。
「この半分に自分の名前を」と言いながら「岡崎美希」と書き、
「もう半分には相手の名前を書いて身につけておくの。そうすると、どんなことが起きても相手は必ず自分の所へ帰ってくる。むかし戦に行く男の無事を願った女たちが行ったおまじないなのよ」
「何でも知ってるんだね。操ちゃんって」
美希は人型の紙に見入った。
「芝居をやってるといろいろ調べなきゃいけないのよ。役作りのためにね」
操は俊平の父の紹介で、さる有名演出家の主宰する劇団に所属していた。
「でも私が死んじゃったら意味ないじゃない。二人とも絶対に助かるっていうおまじないはないの?」
美希の「死ぬ」という言葉には、深刻さはこもっていなかった。
「そんな都合のいいおまじないが簡単に思い浮かんだら、魔法使いをやって食べていくよ」
操の軽口に、美希はその時、心の底から笑ったのだった。
わたしの視界は南国の激しい陽射しのせいで白くかすんでいた。海岸には誰もいなかった。わたしと、俊平のほかは誰も。
あんなに暑いのを嫌がっていた俊平が子どもみたいにはしゃぎながら、一直線に海に向かって走ってゆく。波は穏やかで、彼はそのまま沖に向かって進んでいった。
「待ってよ俊平。わたしも行く」
俊平は振りかえって、両腕を大きく振った。わたしは右手を振りながら、海に足を浸した。
突然、あたりが暗くなった。何かが太陽の光をさえぎったのだ。海の方から激しい風が吹きつけてきて、わたしは思わず両手で顔を覆った。
指の隙間から様子を覗ったわたしは、銀色の鯨のような巨体が空から落ちてくるのを見た。それは翼のもげた旅客機だった。
わたしの視界はズームアップ映像のように、その旅客機の窓の一つに吸い寄せられた。若い男が隣の席の女に向かって何かを叫んでいた。彼の口が、大丈夫だ、気をしっかり持てと動いているように見えた。
あの横顔には見覚えがある。俊平? まさか。でも、あれは確かに俊平だ。
じゃあ、その隣に座って、頭を抱えて悲鳴を上げている女の人は誰? もしかして……わたし?
わたしの足元がグラグラと揺れた。そして、鼓膜を引き裂くような轟音。
それは世界が壊れる音だった。
ドアが開く音がした。美希は音のほうに首を向けた。目を開こうとしたができなかった。まぶたに力が入らない。
「目がさめましたか」
それは美希が聞いたことのない女の人の声だった。
(どうしてわたしは知らない人のいる所で寝ているのだろうか)
美希は、ここがどこなのか聞こうとしたが、喉の奥からはスーッと息がもれただけだった。
「大丈夫ですよ。ここは病院です。あなたは助かったんですよ」
助かった? 何のこと。それにどうしてわたしは目を開けられないの。この声の主は誰。ここはどこなの。そして、
「……ぺ……い」
「え、何ですか」
彼女の声が耳元に近づいた。
「俊平は、どこ」
彼女は美希の質問に答えなかった。
「教えて、俊平はどこにいるの」
美希は自分の手が柔らかく握られるのを感じた。
「あなたはとても傷ついて弱っているの。だからお願い。とにかく今はゆっくり休んでください」
美希は口をつぐんだ。声の主からは求めている答えは得られないだろう。そう感じとったからだった。
彼女は美希の沈黙を了解の意思と受け取ったようで、手を離した。ドアが開き、外からかすかに物音や人の話し声が入ってきたが、パタンと閉まる音がするのと同時にそれらは途絶えた。
意識がしっかりしてくるにつれて、美希は自分の体の状態が把握できた。
まぶたが開かなかったのは目に包帯を巻かれているせいだった。右手の指は自由に伸ばしたり曲げたりできたが、左手にはまったく力が入らなかった。足は両方ともダメだった。もしかしたら切断されているのかもしれない。
夢で見た光景は実際の記憶だった。別々の日の体験が一つにからみ合っていたのだった。
美希と俊平はグアムへ旅行に行った。人の少ない海で泳いだり、砂浜に座って何時間も話をした。
そしてその帰り。二人の乗った飛行機は墜落した。地獄のような機内で美希が最後に見たのは、必死に彼女を励ます俊平の姿だった。(つづく)
第2話
しばらくして再びドアの開く音がした。先ほどの女性が男と言葉を交わすのが聞こえた。
そして男の声が、これから目の包帯を取ると告げて、美希は上体を起こされた。
包帯がほどかれていくにつれて、美希の目とこめかみを抑えつけていた圧迫感が和らいでいった。それに代わって、もし目が見えなくなっていたらという不安が、美希の喉のあたりを締めつけていった。
やがて包帯が完全に取られると、ゆっくりと目を開けるように、と男が指示を出した。
美希はゆっくり目を開けた。カーテンが引かれた病室の中で、白衣を着た男と看護師が彼女の顔を覗き込んでいた。
「これから簡単な検査を行いますが、その前にお知らせしなければならないことがあります」
医師は淡々と、美希の両足が完全に麻痺していることを伝えた。彼の後ろに控えている看護師は気の毒そうな顔で美希を見つめていた。
歩けないという現実に、不思議と美希は衝撃を受けなかった。むしろ自分の記憶が妄想でないことの証拠を得られたという、妙な安堵感を感じていたのだった。
数日後、美希は病院の上層階にある個室に移った。美希の取材をしようと見舞客を装って雑誌記者が潜入したため、ということだった。
美希はそのことを、意識を取り戻したときに最初に声をかけた看護師から聞いた。彼女は山原百合香という名前だった。
「でも、ここの個室は高いんでしょう。いくらマスコミから身を隠すためとはいえ、大げさ過ぎるんじゃない」
自分より二歳年上の百合香に、美希はすぐに親しみを感じるようになった。
「私も妙だって思うけれど」
百合香は言葉を濁した。他に事情があるのを口止めされているのかもしれない。美希はそう考えて、それ以上は追究しなかった。
俊平の安否についても、最初は百合香ははぐらかすようなことを言い続けた。しかし、巡回の度に食い下がる美希に百合香は、自分が知っていることだけ、と前置きをしてから話したのだった。
美希と俊平の乗っていた飛行機は突然エンジンが停止し、海面に墜落した。美希を含む乗客14人が救出され、残りは未だに行方不明のままだった。
「俊平さんはあなたの隣に座っていたんでしょ。あなたが助かったのだから彼も生き残っている可能性はあると思うわ。まだ希望を捨てちゃだめよ」
百合香は美希の手を握って、そう言った。
「そういう根拠のない励ましはかえってよくないって看護学校で教わらなかった?」
その時、美希は、まるで百合香に事故の責任があるかのように冷たく答えたのだった。
操が来たのは、美希が個室に移されてから一週間後のことだった。
「美希ちゃん」
操は美希のベッドの脇へ駆け寄って、右手を握った。
「ごめんね。ずっと海外公演で、今まで事故のこと、知らなかったの。遅くなってごめんね。ごめん」
美希は、少し動くようになった左手で操の頬に触れた。
「気にしないで。何か事情があるんだろうって思っていたから。来てくれてありがとう、操ちゃん」
百合香は操の隣で腰をかがめた。
「岡崎さんの親族の方ですか」
操は百合香を見つめた。なんと返事をしようか躊躇っている様子だった。
「操さんは俊平の従妹です。今は、ただの友人です」
美希が答えた。
美希の両親は、彼女が幼い頃に離婚した。美希は母親に引き取られ、二年前に亡くなるまで二人で暮らした。
「美希さんは、家族の一員です」
操は答えた。
「分かりました。では、のちほどお話したいことがありますので」
百合香は異を唱えようともせず、病室を出た。
美希は何も言えず、ただ左手を、彼女の右手を握る操の両手の上に重ねた。
操の訪問から三日後。操は美希を助手席に乗せて、高速道路を飛ばしていた。
「美希ちゃん。気晴らしにどこかに出かけたくない?」
操が病室を訪れた日。帰りがけに彼女は美希にそう言った。
美希はその申し出を真に受けずに、海に行きたい、と答えた。
「海って」
操は驚いたように美希を見て、目を伏せた。
「ごめん。適当に答えちゃった。でもね、きっと外出許可、出ないと思うよ」
美希が答えると、操は顔を上げて微笑んだ。
「外出許可が出るなんて、嘘みたい」
エンジン音に負けないように、美希は声を張り上げた。
「ねえ、美希ちゃん」
「なに?」
「本当に海でいいの」
美希はためらった。海は俊平との最後の思い出の場所だった。そして、二人が乗った飛行機と、俊平を飲み込んだ場所。
「別な所に行こうか?」
ハンドルを握りながら、操は横目で美希を一瞥した。
「ううん、大丈夫。ていうか、行きたい」
操はそれ以上、何も言おうとはしなかった。
「じゃあ決まりだね。夏の終わりの海に向かって、レッツ・ゴー」
操は一気にアクセルを踏み込んだ。美希はジェットコースターに乗っているような気分で、喚声をあげた。
病室のベッドで横になっているとき、美希の頭のどこかにいつも夢に出てきた、海の光景が浮かんでいた。
しかし、いま目の前にある海は、それとはまるで違っていた。
夏の刺すような陽射しは弱まり、黒い砂浜と荒れた波は、人を拒絶しているかのようだった。
美希は車椅子で波打ち際まで近づいた。
「あんまり波のそばまで行くと危ないよ」
操が心配そうに声をかけた。
「大丈夫だよ。海に入ったりしないから」
操は美希のそばに来て、そっと車いすを掴んだ。
「ねえ操ちゃん。この海のどこかに、俊平がいるのかな」
美希と操は水平線を見つめていた。
「だとしたら、美希ちゃんは会いに行きたいの」
「それもいいかもね。私が行っても、誰も気にしないだろうから」
美希の父も母の妹も、いまだに連絡がとれなかった。
「病室の私の名札が外れて、ベッドが空いて。百合香さんたちも少し悲しんでくれるだろうれど、きっとすぐに忘れて、新しい患者さんが来るんだろうな……」
「美希」
操は美希の肩を掴んだ。
「美希は、美希も私を置いていくの? 俊ちゃんのように、私を一人きりにするの?」
美希の肩に、操の指が食い込んだ。美希は振り払おうとはせずに、その痛みを堪えた。
そして、操の手が離れると、美希は操に手を伸ばした。彼女がそれを受け止めた瞬間。
美希は声を上げて、泣き出した。
第3話
「今日はとても元気そうだね」
翌日、美希の顔を見るなり、百合香はそう言った。
「昨日、お友達がお見舞いに来たのかしら」
「誰も来なかったよ」
それから、美希は笑って続けた。
「誰か来ても、私はいなかったんだし」
「いなかった」
百合香は壁の方に向かってつぶいた。
「だって、昨日は出かけていたから」
百合香は辺りを警戒するかのように、美希に顔を近づけた。
「あなたに外出許可が出たなんて、私は聞いていない」
「え。でも、百合香さんは昨日は休みだったから」
百合香の様子に、美希は少しうろたえて言った。
「そんな大切なこと、仮に急に決まったとしても、事後の申し送りがないなんておかしいわ」
「何かの手違いで伝わらなかったんじゃないの」
百合香は表情を変えずに、美希から離れた。
「そうかもね」
百合香と入れ替わりに、操が病室に入ってきた。
「美希」
操は赤いバッグを、美希に差し出して見せた。
「この中にあなたのパスポートが入っていたの」
「どこにこれが」
操は美希を見つめたまま、口をつぐんでいた。
「操ちゃん教えて。どこで見つかったの」
すると操は小さく、どうせいつかは耳に入るよね、とつぶやいて、
「日本の海岸に、打ち上げられていたそうよ」
と答えた。
「そうなんだ。日本までずっと流されて来たんだね」
美希は愛おしそうな顔で自分のバッグを見つめた。しかし、操はバッグを渡そうとせず、ただ立ち尽くしたままだった。
「操ちゃん」
まだ何か、と、美希が言いかけると、
「若い男性の遺体が、このバッグを握りしめていたそうよ」
その瞬間。
美希は自分の鼓動音が急に大きくなったように感じた。目の前の世界が一気に遠ざかり、赤いバッグだけが、それを握っていた男の幻と共に美希の視界にクローズアップされた。その男の服を、美希は知っていた。その体つきも、その顔も、その名前も……
「……美希さん」
頬に風の流れを感じて、美希は目を開けた。百合香が何度も、美希の名前を呼んでいた。
「先生」
百合香の後ろには、美希の担当医、小川が立っていた。小川医師は美希にいくつか質問してから、一時的にショックを受けたようだが今は落ち着いている、と説明した。
「すみません。私のせいですね」
操が言うと、
「岡崎さんはもう大丈夫ですので、お気になさらずに」
小川は答えて、病室を出た。
「ごめんね、美希」
操は今度は、美希に向かって詫びた。
「先に私たちにひとこと言ってくれれば」
百合香の言葉に、操は口をつぐんだ。
「それで操ちゃん、その男の人は誰なのか、確認されたの」
もう大丈夫だ。美希はゆっくりした口調で、操に聞いた。
「まだ分かっていない。そうよね、三島さん」
操は黙って頷いた。
最悪の言葉を聞く覚悟を決めたというのに、真実はまたすり抜けていってしまった。これでまた、私は宙づりの期待を持ってしまう。そして真実を聞かされたとき、いよいよ心を引き裂かれてしまうのだ。
気がつくと、美希の目から涙があふれていた。
「三島さん、まもなく面会時間は終了です。美希さんは私に任せて、今日はお引き取りください」
操は百合香に、分かりました、と答え、
「また来るからね、美希」
と、病室を出た。
それからずっと、百合香は美希の手を握っていた。
「ねえ、百合香さん」
「なあに」
「私のバッグの中に、名前の書いた紙が入っていなかった」
百合香の手に力が入った。
「やっぱりあったんだ」
「うん……入っていた。ちょうど人間の姿を縦に半分にした形で、あなたの名前が書いてあった」
「そうか。じゃあ、俊平はもう帰ってこないんだ」
美希は目を閉じて、ひとつ息を吐いた。
「どんな意味があるのかは分からないけれど、そんなのただの紙切れでしょ」
ただの紙切れ、ただの迷信。美希自身もそう思っていた。しかし今は、それが損なわれてしまったことで、美希の運命もまた狂わされてしまったのだと確信していた。
美希はしばらく黙っていた。心の内で恋人の死を受け入れるための鎮魂の沈黙のようだった。
「とにかくあなたは帰ってきたのだから。美希さん、しっかりして」
美希は目を開けて、百合香に微笑んだ。
「大丈夫。百合香さんがいるから」
美希が眠ったことを確かめて、百合香は美希のバッグから人形を取り出した。岡崎美希という名前は薄れ、ところどころ消えていた。俊平の名が書かれていたもう半身はない。まるでハサミで切られたかのように、きれいに切り取られていた。
百合香は美希の名前を指でなぞった。そうすることで、再び美希に命を吹き込むかのように。それから百合香は人形をバッグにしまった。病室を出る前に、百合香は美希の頭をなでた。
「ありがとう、お母さん」
美希の唇から、言葉が漏れた。
操は海を眺めていた。手には人の形に切り抜いた紙が握られていた。それは真ん中でつなぎ合わされていて、片方は汚れてしわが寄っていた。
やがて波の間から、人影が岸に向かってくるのが見えた。操は待ちきれずに海の中に駆けて行き、幼いころから思いを寄せていたその男を抱きしめた。
「おかえりなさい。俊平」
運命は銀色の翼に乗って