ニコラシカ 前編

よしの かい

 起き抜けの素っぴんでもコケティッシュな顔立ちが充分魅了するのだろう、モーニング目当ての男性客たちの殆どが窓際に座っている佳奈を振り返る様にしてレジに向かって行く。
ナラカミーチョのブランドの淡い花柄のブラウスにボレロのカーディガンを肩だけ羽織り、独り午前の喫茶店に座って頬杖をついてぼんやりテラスの外に目を遣っていると寂しげで憂いのあるどこかに救いを探している一見セレブな女に映るのかも知れない─。今朝も見知らぬ客の一人がご馳走してくれたカプチーノに形の良い唇をつけ一口飲んだ後、スマホを開いてメッセージを確かめて見る。
ずらっと(ひしめ)いているラインは殆どが自分に好意を寄せてくれている店の客だ。童顔が幸いし若く見られ常連客に話す年齢も五歳ほどサバを読んでいるがもう直き三十路を迎えようとしている。ファンデーションで上手に隠しているが不規則な生活と慢性化した睡眠不足で荒れた肌と実際日々(おり)の様に溜まる疲れは誤魔化しようもなく躯の奥底によどんでいる。
小さく吐息をつき朝食代わりのサラダを少しだけ食べた後、お気に入りのグッチのバッグからドラッグケースを取り出した。
潤んだような大きな瞳が魅力だ、と客からは言われるがその虚ろな眼差しは回復の傾向にはあるが睡眠障害の影響もある。
 佳奈は二十歳の時に地元の運送会社に勤務する同年の男と結婚したが、男の束縛心の強さが高じたDVが原因で離婚した。
何度か警察が介入しても改善されず逆にエスカレートして行く暴力に、一時はまだ二歳になったばかりの娘を連れてシェルターに逃げ込まなければならない程深刻な状況に陥った。
護られている筈のシェルターでもトラウマによる恐怖心は一向に治まらず、少しして移転したNPO管理のアパートに入ると今度はいつまた夫に探し出され再び始まるやも知れぬ暴力への強い不安が徐々に精神をも蝕んでいった。
弁護士の尽力により不承不承(ふしょうぶしょう)夫が離婚に同意したのは一年後の事で、その頃には定期的なカウンセリングと頓服(とんぷく)が欠かせない程病状は悪化していた。
懸念していた前夫の執拗な接触もない事から公的な管理を外れ漸く自活のめどが立ったのは二年程前でしかし、早くに両親を事故で亡くし頼る先もなく経済的に自立するには六歳に成長した娘を施設へ預けるしか選択肢がないと決断した。不安定な精神状態を考えればNPOで斡旋(あっせん)された仕事に就いて保育所等の救済措置を受ければ楽だったのかも知れないがこれ以上管理される事への抵抗もあり、何より自分たち親娘のこれから先を何とかして自力で切り開きたいという強い思いがあった。
娘はいつも元気に可愛らしく強く育って欲しいと願いを込めて「つくし」と名づけた。(つぶ)らで黒目勝ちの大きな瞳と少し癖のある茶色のふわっとした巻き髪が佳奈に良く似ている。リカちゃん人形が好きで買い与えた人形をいつも大事そうに持ち歩いている。
施設に入所の時佳奈は直ぐに迎えに来るからね、と不安げに自分をじっと見つめるつくしに向かって言った。胸が締めつけられる思いだった。根拠のない言葉を言っている自分が許せなかった。ドアを開けて出ようとした時、
「─おかあちゃん」と小さく震える声が聞こえた。だが佳奈は振り返らなかった。振り返れば自分の目に溢れんばかりに揺れている涙が(こぼ)れそうで、涙を見ればきっとつくしも泣き出してしまい背に追い縋って来るに違いなかった。ここでまた振り出しに戻り切り開くべき先を諦める事は愛するわが子のためにも自身のためにも避けなければならない─。佳奈はギュッと目をつぶると零れ落ちる涙に構わずに小走る様に施設の門を抜けた。途端に堰を切ったように涙が止めどなく流れ出てくると思わず道端に(うずくま)る様にして長い時間(むせ)び泣いた。泣きながら生まれて初めて世の中の不条理を無垢(むく)であるはずのまだ幼いわが子にまで科された決して公平でない境涯を恨んだ─。
 中卒の学歴しかない女に恵まれた仕事は中々見つからなかった。
大きな工業団地内にある会社のラインや流れ作業も経験したが時折起きてしまう自律神経の発作から長時間の作業が見込めないとして直ぐに解雇されてしまった。悄然と街中を歩いている時、手渡されたチラシがきっかけで初めて水商売に足を踏み入れた。

『─どう?今日同伴お願いできませんか?』昼休憩の時間を見計らって常連の客にラインして見る。
同伴出勤のポイントがそのままマージンとして週給にバックされるシステムだ。
『─いいよ。何時にどこ?』間もなくそう返信してきたのは一番の常連の男だった。週三のペースで来店し必ず佳奈を指名してくれる。
つい最近までサラリーマンをしていたが、不労所得に憧れ退職し現在は外貨投資を本業にしているらしい。始めてから早々に利益を出したらしく佳奈に似合いそうだから、とブルガリのピアスをプレゼントしてくれた。
男は一時、芸能事務所にも入りタレントを目指していたと言うだけあって見映えのする顔立ちと容姿をしていて、雑学も話題も多方面に渡って豊富で話していても飽きさせることはなかった。
待ち合わせ場所を午後六時の駅前公園に指定してラインを送った直後、もう一人別の客から、
『─了解しました。待ち合わせ場所と時間を返信下さい』と返信が来た。
ランダムに数件同伴を頼んだのだが、ネームを見ても顔が浮かんで来ない。一人一人思い当たる客の顔と名前を思い浮かべてみるのだが今返信のあった客には行き着かなかった。少し考えたが、
『─ありがとう。でも予定が入ったから。ゴメンなさい、またラインするね』そう返信すると直ぐに既読になり今度は、
『─じゃ、今日お店に行きますから』とラインが入った。
 カウンターの奥で豆を挽いているマスターに頭を下げレジを通り抜けようとした時、
「─大丈夫?何だか顔色がよくないよ」と声を掛けられた。銀髪をオールバックに綺麗に整え、銀縁のロイド眼鏡が細面の彫りの深い顔に良く似合っている。アパートからも近くお洒落な雰囲気が気に入り、通い始めて間もなく佳奈が自ら話し体調と境涯を知っていて何かと気遣ってくれる。
「大丈夫。いつものことだから─」佳奈が応えると、
「─そう?ならいいんだけど。無理はしないんだよ」優しい笑みを浮かべてそう言った。

 古い鏡台の前に座り薄い化粧をしてコーラルピンクのルージュを引き終わると、引き出しから預金通帳を出して見る。仕事に行く前の日課だ。
一日でも早く娘を迎えに行くための貯えだけが今の佳奈の支えになっている。元来が決して社交的では無く、酒やタバコの煙の匂いを嗅ぐと何処かに酔ってはまだ赤子だった娘を泣き止まぬことに腹を立て恫喝(どうかつ)し次いで矛先を佳奈に向け暴力を繰り返していた前夫の影を意識してしまい、心の均衡を崩しかねない危うさを幾度も感じた。最近になって漸くそんな環境にも慣れて来たが、やはり意に染まぬ仕事の感は拭えなかった。
 華やかな喧騒の中、男たちは皆一時の癒しを求めて女と戯れるために店を訪れる。既婚であろうと独り身であろうと皆平等に金と引き換えに束の間の時間、源氏名を(まと)った店の女たちと擬似恋愛に浸る権利を買うことが出来る。中には純粋な恋心を示す遊び慣れていない客もいるが、大概がやがて深く傷つくと夜の空虚な世界に諦観(ていかん)を学んで行く。
店がはねた後、女たちは気に入った客を誘いあたかも愉しげにアフターに出掛けるが日毎に疲れ憔悴(しょうすい)した彼女たちの侘しい本心を男たちは知ろうともしない。

男は買ったばかりだという金のブレスレットを自慢していた。
同伴デートで立ち寄った中華の店で紹興酒を立て続けに(あお)り珍しく早い時間から酔っていた。
「─欲しかったんだよ俺、喜平ブランドなんだぜ、これ。六面ダブルカットでさ」
佳奈は満面の笑顔で酒臭い息を吐きながらそう言う男の奥に見えるボックス席に視線を送っていた。
濃紺のスーツを着た大柄の男がぽつん、と独り座っていた。時折窮屈そうに上着の袖を引っ張るとチラチラ佳奈の方を気にしながら手酌でビールをグラスに注いでいる。
誰も付かないかと思い周囲を見、カウンターを振り返ろうとした時男がポケットからハンカチを取り出し額の汗を拭きだした瞬間、漸く記憶がその顔と名前に行き当たった。
昼過ぎ、同伴のラインに返信をくれた男だった。男は姓を広瀬と名乗りそのままネームにしていた。来店は頻繁ではないが最初に接客したのが佳奈で、以来必ず指名してくれ佳奈が別な客の相手をしている時にはじっと順番を待ち侘びている。その姿に何故だか母性を刺激された感じで佳奈の方からラインの交換を言い出したのだった。生来が汗っかきの様で冬場でもしょっちゅうハンカチで額に滲んだ汗を拭いていた。口下手で朴訥(ぼくとつ)とした感じが印象的だが影が薄く、うっかり記憶から遠ざかっていた。
「─ねえ、愛華ちゃん。さっきの話、ちゃんと考えてよ」佳奈の源氏名を呼び目線を遮るようにして男が顔を間近に寄せてきた。
今日の同伴デートの際、以前から懇願するように繰り返していた同棲の話をまたして来たのだった。
 無為に現実を感じさせたり実際に見せてしまう事はこの仕事においてタブーと云っても良い。
例え一時的な感情と流れで客と関係を持ったとしても、あくまでも接客の延長にある範疇(はんちゅう)に納め男の気持ちを巧みにあしらえることが金の対価として癒しと夢を与えるこの仕事のプロの域だ、と教えられてもいる。
遊びの心得のある男たちはルールを熟知の上でミラーボールの回った(きら)びやかな非日常の空間を舞台に恋愛ゲームを楽しむのだが、中には(たが)がはずれた恋慕のもつれから一方的な深い怨恨の念を抱くまでのめり込む男も珍しくない。 
長い期間この仕事に携わり先を見据えている女は思わせぶりな態度と台詞で男を繋ぎとめながらも、決して危うき泥沼の淵にまで身を(さら)すことはしない。
佳奈の見据える先には迎えるべき娘がいる。末端までだらだら男たちと愚にもつかぬ恋愛ゲームに興じているゆとりなどなかった。
「─無理だよ。わたしには色々あるもの」笑みを浮かべて男の酔眼を軽くいなす様にして佳奈が言うと、
「だからさ、俺がその色々ってのもひっくるめて面倒見るからさぁ─」華奢(きゃしゃ)な左肩を抱き寄せる様にして耳許で囁く様にそう言い、調子に乗ったのか今度は耳朶を噛んできた。
「─やだッ、やめてッ」思いの外強い力で、思わず小さく声を上げ男の顔を押し戻したその時視線を感じてふと顔を上げると、一重の細い目を吊り上げ仁王立ちの広瀬が二人の座るボックスをじっと見下ろす様に立っていた。
「─んだよお前、おっかねえ顔しやがってよ、何か用か、あ?」男がそう言い立ち上がり対峙(たいじ)するように向き合うと、広瀬は途端に(ひる)んだ風に(うつむ)き口籠って何か言った。男よりも頭一つ分背丈もあり屈強な体つきの広瀬を見上げる様にしている、どう見ても華奢な男の方が偉そうなのが滑稽に映った。
「─あ?んだよ、聞こえねえなあ」目ざとく相手の弱気を察した男が更に居丈高(いたけだか)に詰め寄ると、
「─い、イヤだって言ってるじゃないか」広瀬は目線を男に合わせずにやっとそう応じた。
「─はあ、何?関取りみてえな図体してよ、ちょぼちょぼ話してんじゃねえよ、あ、こらッ─!」図に乗って男が恫喝すると広瀬は大きな体躯(たいく)を一瞬ビクン、と震わせた。
「ちょっと止めてよ、その人もわたしのお客さんなんだから─」佳奈が慌てて取り成しに入ると広瀬は紅潮させた顔を向けて深く頭を下げ、のそのそ巨体を揺らしながら自分の席に戻っていった。
「─チッ、何だかシラケちまったなあ。ま、いいや。愛華ちゃんアフターも大丈夫なんだろう?」男は弱いもの苛めに快感を覚えた風に意地の悪い笑みを浮かべ離れた席にいたたまれない様子で座っている広瀬を再び睨みつける様にすると、したり顔で佳奈を振り返った。

 ソファベッドに半分身体を横たえ飲み終えた焼酎の瓶を右足のつま先で転がしながら、真帆が陽気に鼻歌を唄っている。
「─ねえ、もう寝ようよ、わたしもう限界」うんざりした口調で佳奈が言うと、
「何や、ええやん。もうちっと付き合うてよ。ウチかて朝8時には出勤なんやから─」へらへら笑いながら左の掌をひらひらさせて取り合わない風に真帆が応じた。
 男の執拗なアフターの誘いをどうにか断って帰宅すると、アパートのドアの前に座り込んで真帆が待っていた。すでに酔っているようで足音を忍ばせながら階段を昇ってきた佳奈の姿を認めると
酔眼を上げてへらへら笑った。
真帆はつい最近まで同じ店に勤務していた関西出身の二つ歳下のホステスだが、ギャンブル癖があり膨らんでしまった借金返済のためだと言って周囲の制止を聞き入れずあっさりソープ嬢に転身してしまった。
裏表のない明け透けな性格でだが惚れっぽくすぐに情に(ほだ)され、店でも客と惚れた腫れたを繰り返し挙句の果てに店内で刃傷沙汰の騒ぎを起こしたこともあった。
一度だけ大手企業に勤める男と正式に婚約し妊娠したが、体調が悪くても大事を取らず無理を押して仕事をした事が原因で日を置かずに流産してしまった。間もなく婚約も破棄になり、ひどく落ち込んでいたその時真帆に寄り添うように慰めたのが佳奈で以来何かと慕い頼って来る様になった。
「─なあに、またパチンコぉ?止めなよもう。絶対元なんて取れないって自分で言ってたじゃない。借金だってまだたくさん残ってんでしょ?」呆れ顔で佳奈が言うと、
「アカンの、新装開店なんやから。ええんよ。ウチにはもう失うもんなんてないんやから─せいぜい楽しまんと」真帆は店を辞める時ロッカーから荷物を運び出しながら悲しげに立つ佳奈を振り向いて言った台詞を言い、
「─あ、そうや、あの男─。ウチの店にも来たわよ。わざわざウチを指名しに」男の名前を出すと薄く笑った。
「─え、本当?」佳奈が聞き返すと酔いが急に回ったのか途端に小さくいびきをかき始めた。
 翌朝、目覚めると真帆はすでに寝床にいなかった。ソファベッドに毛布が丁寧に畳まれていてその横に小さなメモの切れ端に『ありがと。ごめんね』と走り書きがあった。ふと笑みを浮かべて立ち上がり掛けた時、床にパスケースが落ちているのを見つけた。財布とは別にしてあるのかキャッシュカードも数枚入っていた。心当たりのある真帆の行きつけのパチンコ店を思い浮かべながらスマホで新装開店の情報を探すと直ぐに駅前の店が出て来た。
 店内には思わず耳を塞ぎたくなる衝動にかられる音楽と喧騒とが入り混じった凄まじい音とタバコと芳香剤の様な匂いが充満していた。平日にも関わらず満員の様で誰もが真っ直ぐに正面を見据え真剣な面持ちで台の横下にある小さなハンドルを握っている。
狭い通路の人の背と背の間をしばらく捜し歩くと、くわえタバコをして台に向き合っている真帆がいた。
煙を鼻から吐き出しながら隣席の男と談笑している。相手の横顔を見て一瞬佳奈の足が止まった。男だった。昨夜あんなにしつこくアフターに誘い同棲を切望していた男があくる朝、親友と言っても良い女と戯れている。決して男に情があるでもなく戯れとしか思えぬ言動を真に受けている訳でもないが今、真帆と待ち合わせて遊んでいるのなら不遜とも云えるその行動と心根が理解出来なかった。偶然会ったのだろうか。広い店内で隣り合わせる偶然などあるのだろうか─。佳奈はそこまでで思考を巡らせる事を止めた。所詮男のことなど歯牙にもかけていなかったのだ。本当にどうでも良かった。佳奈は真帆に近づくと目の前にパスケースをぶら下げ、
「─あらぁ、こんにちはぁ」そう言って今度は満面の笑顔を男に向けた。一瞬男の顔から笑いが消えた。
「─あ。ゴメンねぇ、それ忘れとったん?届けてくれたんやぁ」明るく言う真帆の横で男は懸命に言葉を探していた様だったが俄かに卑屈な笑みを浮かべると、
「─あのさ、今晩また店に行くからッ」とっくに出口に歩き始めた佳奈の背に向けてそう声を張った。

そんな下らない事が原因ではないのだがその日は午後から体調が良くなかった。
左の掌がむずがゆく感じ、それが以前しばしば佳奈を苛めた神経の均衡を崩す発作の前兆だった。暫くの間頭の中がぼんやりするので避けていたが仕方なく頓服を服用した。
いつもより少し早い時間に店に行くと支配人に既に待機している客がいると聞かされた。急いで身支度を整え席に行くと待っていたのは広瀬だった。
「─ゴメンね。だいぶ待っちゃった?」佳奈が言うと、
「─あ、いえ、今来たばかりです。あの、それより昨日は本当にすみませんでした」と再び頭を深く下げた。
「謝らないで、嬉しかったんだから。心配してくれてありがと」グラスにビールを注いでやりながらそう言って見ると、広瀬は頬を真っ赤に染めて少し俯いた。
「─優しいんだね。同伴のメールもありがと。またお願いね」そう言うと掠れた声で小さく、はい、とだけ応えた。またハンカチを取り出し額の汗を拭うと少しの間の後、
「─あ、あの俺は、ケンカがキライなもんすから」そう言った。今更ながら言い訳めいたその台詞が可笑しくて佳奈は笑うと、
「わたしもキライだから、乱暴な人」そう言って今日も濃紺のスーツのはち切れそうに隠れた二の腕に触れて見た。思いの外筋肉質でがっしりした腕に少し驚くと同時に、不意に幼い頃ぶら下がって遊んだ父親の逞しい腕の記憶が蘇りふと切ない人肌恋しい様な感傷が湧き上がり、
「─今日は終わりまでいてくれる?」と勤めてから初めて自らアフターに誘った。

 バツが悪かったのか今度は真帆にご執心なのか、パチンコ店で会ってから男は二週間しても姿を見せなかった。少しだけ気が抜けた様にも感じるが執拗なプライベートな誘いもなくなり返って指名してくれる客の回転も良くなった。
真帆がまたアパートを訪れたのはその翌週の事だった。
どうした訳か塞いだ様子で部屋に入ってからも言葉少なだった。いつもなら自分から近況や色々なことを話して来るのだが、その晩はただ押し黙って水で割った焼酎を煽っていた。佳奈の脳裏に一瞬男の顔が浮かんだがあえて口に出さなかった。真帆が細いメントールのタバコを出し咥えた時、
「─ダメだって、室内禁煙」そう言うと、
「あ。そうやったっけ─」そう応え初めて笑った。
「どうしたの、何かあった?」そう訊くと少しの間じっと佳奈を見つめ何か言いたげにしていたが、
「─あ、ええの、別に。何もない」そう言ってまた口を(つぐ)んだ。
 翌朝、目覚めるといつもの通り真帆の姿はなく、またソファにメモの切れ端が置いてあったがそのままにしてその時は気にも留めなかった。
だが昼前、引き出しを開けて通帳を確かめると間に挟んでおいたはずのキャッシュカードが無かった。開いた時に落ちたのかと思い辺りを捜したがどこにも見当たらない。首を傾げ立ち上がった時ふと気になりメモを見ると、『─ごめんね。恨んで』と書かれていた。
予感がし手早く着替え銀行に行き確認すると端数を残した預金の全てが引き出されていた。
佳奈はATMの前で蒼白に立ち尽くし全身から血の気の引くのを感じながらスマホを出すと震える指先で登録してある真帆の番号を検索した。
 その日、初めて無断で店を休んだ。幾度も支配人から留守電にメッセージが入ったが返信する気力も失くしていた。今までにないような激しい発作が起きてしまい服薬しても治まらなかった。
ベッドに躯を横たえ、どこか奥底から波動の様に繰り返し迫り上がってくるおぞましい不安の塊と必死に対峙しながら佳奈は悪夢の様な出来事を反芻(はんすう)していた。
真帆は通帳の最初の頁の下端に記された数字を見つけ金を引き出したに違いなかった。1,1,0,9─。つくしを施設に預けた日付だ。迎えに行く指標の日付でもあった。
引き出された金額は250万円程で目標の300万まであと一息だった。また親娘二人で暮らし始める事を夢見、本当に切り詰めることを重ねて必死に貯めた金だった。真帆も自分の境涯を熟知していて同じ天涯孤独の身上から互いに心を許し理解し合い、信じて合って来たと思ってたのに─。
『─ごめんね。恨んで』そう書かれた走り書きの真意が自身の借財の返済のためだけに今日までを利用した贖罪(しょくざい)の言葉なのだろうか─。
巡らせる思いは取り止めもなく、今は憤りや悔しさよりも遣る方のない哀しさにただ咽び泣くしかなかった。 


  以下、後編へ

ニコラシカ 前編

ニコラシカ 前編

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-03

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