射矢らた雑記帳

射矢らた単独作品。掌編小説、詩、エッセイなど。

思いをつなぐ黄色い箱

「ほら、母さん。この古いテレビ台も捨てなよ」
休日、久し振りに帰った俊之が部屋に入るなり爪先で無造作に指し示す。テレビが変わっても、載せる台は十数年変わらない。車輪のついた、鉄製の重い台。これを見ると、いつも思い出すことがある。心の中で息子に問いかける。あなたは、憶えている?
俊之がまだ五歳の頃、留守番に置いてスーパーへ買い足しに出た。帰宅すると、リビングから泣き声がした。慌てて駆け寄り、ぎょっとした。テレビ台の下に手を入れている。挟まったのかと思い、覗き込むと、違った。小さな握り拳が、抜けないでいる。
「グーだから抜けないの、パーにしなさい」と言っても、泣くばかりで拳を開かない。何かを握っているのだ。辺りを見ると、黄色い箱が転がっていた。これか。私は笑ってしまって、後であげるから、放しなさい、となだめて言ったが、取ったのを叱られたくないのだろう、なかなか放さなかった。ずいぶん説得をして、手は抜けた。二人してキャラメルを舐め、涙に塗れた俊之の顔を拭った。
私はテレビ台から、長身の息子に視線を移す。放せと言っても手放さなかった俊之が、今、逆に手放せ、手放せと私を諭す。
先月夫が他界し、独りになった私に俊之は、一緒に暮らそうと言った。それは有難いことだけれど、この家を引き払わなければいけない。今まで暮らした、俊之も育った家、家財も洋服も夫の遺品も全部、処分。
「必要なものだけ、まとめときなよ。でも基本的には捨ててよ、ガラクタばっかりなんだから」息子は平気にそんなことを言う。
けれど、本当にこれでいいのだろうか。
恵理子さんは優しいひとだから、笑っているけれど、もしかしたら迷惑に感じているかもしれない。
これだけの物を捨ててまで、新しく得られるものが私にあるだろうか。この見慣れた景色の中に埋もれたまま、ひとり死んだほうが、誰にも迷惑かけなくていい。
台所で一人そんなことを考えていたら、泣けてきた。今まで暮らした時間がわっと押し寄せてきて動けず、居間に背を向けて泣いた。
「おばあちゃん。これどうぞ」
その声に振り向くと、四歳になる孫の陽一が隣に立って、黄色い箱のキャラメルを差し出してくれた。
あ、と言って受け取り、口に入れた。ぱっと、懐かしい、ほの甘い味が口の中に広がる。俊之と食べた、あの時と同じ味。
陽一は嬉しそうに、パパに買ってもらったの、ママが、おばあちゃんにもあげなさいって、美味しい? と聞いた。私は何だかまた泣けてしまって、そうね、としか言えなかった。
孫は私が涙を拭くのを見て、黙って心配そうに付き添ってくれた。
ーーそうだわね、新しい生活にも、変わらないものがある。
私は孫に笑顔を見せてやり、美味しいね、もひとつちょうだい、と、言ってみる。

ガテンの夏とラブホテル

現場は砂埃を含んだ潮風が澱む蒸し風呂だった。
夏の間じゅう、海岸に沿って道路の拡張工事が行われた。一帯はホテル街で、と言ってもラブホテルが軒を連ねているだけなのだが、この夏の初めに派遣登録した僕は、主に通りを歩く人びとを誘導する警備員として現場の隅っこに日がな一日、立たされていた。
朝の八時から夕方五時まで工事は毎日、少しづつ場所を移動しながら続けられた。現場の工員たちはみんな派遣に厳しく当たった。仕事仲間ではないからだろう。ある日突然入ってきて、ある日突然いなくなる、そういう輩に情をかけてやる必要はない、そう思っているんだろう。
僕も同じだ。現場の人達は毎日同じ顔ぶれだけど、仲良くなりたいなどとは思わない。夏休みが終わってしまえばもう会うこともないのだから。
車と運転免許が欲しかった。カノジョを乗せてどこへでも行けるように。そして、カノジョはカーセックスに憧れていた。前に付き合っていた男と、どこでどんなことをしていたのかは知らない。けれどカノジョは、車の中でどんな体勢でどんなことをしたいか、こと細かに囁くのだ。それを聞くたび、僕は下半身から湧き上がって来るものを感じるとともに、車を買う必要性を再確認して、いつもひとり鳩首していた。
事件は、僕が立ちん棒を始めてから五日目に起きた。
その日は朝から暑かった。草も木も信号待ちの車も建物も莫大な光と熱に表面からじわじわと蒸し焼きにされて黙りこくっていて、セミだけがうるさかった。ただ、空にどっさり置いてあるもくもくした白い雲と、防波堤の固いグレーの石だけは涼しげに見えた。僕は一時間もしないうちに、携帯していたペットボトルのお茶を全部飲んでしまって、それから後は口をすぼめて唾を溜めては飲み込み、それで渇きが癒えることがないのはわかってはいたが気休めにずっとそうしながら、目の前にある派手なラブホテルのピンクのカーテンの出入り口をひたすら見ていた。
この四日間、工事が進むたびちょうどホテル一軒分ずつ持ち場が移動した。毎日、僕はラブホテルの出入り口を眺めた。意外と歩いてやって来る客が多いのだ。四日間で、実に様々なカップルを観察できた。美人とブサイクの組み合わせが多いことに感心したり、事が果たせるのか心配になるような御老体と若い女、女がしかめ面で先に出てきて後から男が走って追いかけるパターン、男女の組をカップルと呼ぶなら、そうは呼べないのもいた。こうしてただ人を観察していると、ラブホテルがセックスをするための場所であることを忘れてしまう。見ている僕は、性欲がわき立つこともなく、とても冷静なのだ。
十時を過ぎて、雨が降ってきた。熱せられた肌に生ぬるい雨が心地良く、傘も差さなかった。僕はごくたまに現場を横断する人を誘導しながら、ずっとホテルを見続けていた。
ラブホテル。そこに入って出てきた人たちは、悲しくも未遂の場合を除けば、必ず体と体を交わらせる行為をしているのだ。僕はそれを否応無く再認識させられることになった。カーテンから注意深く顔をのぞかせ、顔を伏せて傘を差しながら出てきたのは、間違いなくカノジョと担任の堀江だった。ちらとこちらを見遣ったカノジョと、瞬間目が合ったような気がした。僕は咄嗟に三角コーンの位置を直す振りをして背を向けてしまって、それで、すっかりいなくなるのを横目で見届けるまで向き直ることができなかった。心臓の動きが明らかに早くなっているのに、首から上に血が上ってきていないような感覚をおぼえた。十一時。朝の八時から立ちん棒をして、入って行くところは見なかった。ステイ。チェックアウト、十一時と看板に書いてある。二人は泊まったのだ。ここに。セックスをして夜を明かした。
僕はその場にしゃがみ込んでしまった。すぐに、近くで作業していた現場チーフに怒鳴られた。おい、何してんだよ!僕は立てなかった。そのチーフはさすがに心配になったのか駆け寄ってだいじょうぶか、と声を掛けてきてくれた。
どうしたんだ?と言われて、いつも話なんかしたことのなかった仕事先の人にでも、とにかく聞いてもらいたくて一部始終を語った。チーフは思ったより心配してくれた。
昼休み、現場は僕を励ます会のようになっていた。皆、一様に心配してくれたが、面白がっているようなところも見え隠れした。それで良かった。できるだけ、笑い飛ばして欲しかった。僕は話しているうち、まるで他人事のような気がしてきて気持ちがずいぶん楽になった。
それから夏休みの間じゅう、僕は結局立ちん棒を続け、すっかり現場の人たちと仲良くなった。僕はカノジョに一度も連絡をしなかった。そして、カノジョからの連絡はついに来なかった。夏休みが終われば、僕たち三人はどんな顔をして合うのだろう。皆同じクラスなのだ。どうでもいい、と思った。

稲荷山/帰京

稲荷山には
今年こそ咲くかも知れぬ花があり
今年こそ啼くかも知れぬ鳥がある
今日こそ吹くかも知れぬ風があり
今夜こそ出づるかも知れぬ月がある



茶屋のおばあちゃんは
わたしの顔も子供の名前も覚えていてくれた
はるちゃん、大きゅうなったねえ
こないだ逢うたときは
まだママの背中に揺られとったのにねえ
はるかはきょとんと日に灼けた顔を傾げる
無理もない
それでもはるかは
ちゃんとおばあちゃんに笑って見せた
おばあちゃん、冷やしあめ
冷やしあめ、飲みたい
前に来たときみたいに


わたしが
この伏見に暮らしていたのはたったの三つき
その三か月のあいだ、毎月のはじめに
この稲荷山を登拝した
それから七年経って
こうしてやっと
また稲荷山の鳥居をくぐる


七年
はるかは九つになり
背はわたしと変わらないのに
足はずっと長い今どきの女の子になった
私をおいてずんずん鳥居をくぐってゆく
千本鳥居と言うが
実際千本などという数ではない
はるかは無限に続く赤い鳥居を
きょう初めて見るに等しいその鳥居の列を
一本いっぽん手で感触を確かめながら
慈しむようにして撫でてゆく
その後ろ姿を追いながら
わたしはどうにも涙が止まらなかった


わたしは
東京の生活で身体が鈍ったのか
それとも単純に老いたのか
以前のような足どりでは登れなかった
七年というのは長い
茶屋のおばあちゃんが
まだ元気でやっているか
ずっと気にかかっていた
なにしろ七年
果たしておばあちゃんは元気だった
以前にも増して
肌に張りがあって
声も大きく活発にみえて
わたしはとても安心した


おばあちゃん
いま東京に住んでいるの
次また
いつ伏見に来られるかわからない
でもまた来るから
元気でいて


おおきにおおきに
気長に待っとるから
なんも気にせんでええんよ
あんたの暮らしを大事にしよし
おきばりやす



稲荷山には
今年こそ咲くかも知れぬ花があり
今年こそ啼くかも知れぬ鳥がある
今日こそ吹くかも知れぬ風があり
今夜こそ出づるかも知れぬ月がある



おばあちゃんは
何十年もこの山にいて
花の咲くのを
鳥が啼くのを
風が吹くのを
月が出るのを
ずっと
ずっと
待ち続ける


毎日千人もの参拝客
その一人ひとりが
花であり鳥であり
風であり月であり
わたしとはるかも
そのなかのひと組にすぎない
けれどおばあちゃんは
わたしたちを待っていてくれる


東京の生活は
良くもなく悪くもない
けれどもう馴染んでいるのかも知れない
そして東京は
はるかにとっては大切な場所で
これからもあの街で生きていくのがいいだろう


ねえ、はるか
あなたは
どんどん大きくなってゆく
いつかわたしの手をはなれて
たくさんの愛するものを見つけたとき
それでもあなたが
伏見を
稲荷山を忘れないでいてくれたら
わたしはどんなに嬉しいだろう


帰りの新幹線で
となりに眠るはるかの顔は
窓に映るわたしの顔に
苦笑いするほどやっぱり似ていた

稲荷山Part2/絆

旦那と離婚してすぐ
お母さんを京都に誘った


自分でも
出来の悪い娘だと思ってる
女手ひとつで育ててくれて
結婚のときには大金を用意してくれた
それが結局十年ももたず
九つのひなただけが残った


稲荷山に行かなければ、と
ずっと考えていた
お母さんは今年六十二になる
足腰も強い方じゃない
あの石段を登るのは
そろそろきついだろう
もう今しかない
今までの蓄えとわずかな慰謝料と
本当に今しかなかった


稲荷山に行かなければ


お母さんとここに来るのは五度目らしい
ただ
私が覚えてるのは一度だけ
今のひなたと同い年のときだ
二十六年も前のことなのに
この景色をはっきり覚えていた
無限に続く赤い鳥居と石段
鳥居に書かれた不思議な文字の列
今見れば何でもないことがわかる
ひなたはすごい
まるでバネみたいな体をつかって
すごいスピードで登っていく
あのときの私もあんなふうに
つむじ風の如くどんどん登ったはずだ


気がつくと
お母さんはずいぶん下の方にいた
鳥居にすがるようにして
一本、一本、
一段、一段、
登っては止まり
先を見上げ
私の顔を見つけて
ぱっと笑った
その顔に
私も笑って返そうとして
涙でぐしゃっとなる
お母さん
いつまでも元気でいて


顔をごしごし拭いて
私は石段を戻る
お母さんの手を引いて見上げると
ひなたはちゃんと待っていた
ひなちゃあん
お母さんが手を振ると
ひなたは風のように駆け下りてきて
おばあちゃあん
ママと三人で写真撮ろう
ひなたは自撮りなんてお手の物
ちゃんと最高の写真を撮ってくれた


茶屋はそこにあった
二十六年前と少しも変わらず
参道の脇に佇んでいた
お母さん
ほらお茶屋さん
わたし覚えてるよ
おばあちゃんいたよね
そうよ


おばあちゃんはすでにいなかった
聞けば十年ほど前に山を下り
少しの間病気をして亡くなったという
今やっているのはその娘さんだった
母の菩提がすぐ上の塚にあります
もしよろしければ会ってやって下さい
その人は訛りのない話し方で
とても丁寧にそう言った


山を下りるときも
ひなたが先頭をゆき
私はお母さんの手を引いてゆっくり下りる
お母さんがふいに
はるか、ありがとうね、と
小さくけれどはっきりと
私の背中ごしに言った
私は振り向かずに
大きく二回頷いた


二人でいるときは必ず
早く早くと急き立てるひなたが
今日はただの一度も急かすことはなかった
優しく育ってくれていたひなたの
細くぴんと張った背中が
とてもとても凛々しくて頼もしい
からだ中の細胞が成長していて
エネルギーに満ちあふれている
どんなことでもやっていける
どんなことでもやりなさい
この愛しく若いいのちに
私が募らせる思いはきっと
お母さんが長い間私に思ってきたことと同じ
こんなにも私を愛してくれていた
ありがとうお母さん


私たちは
親子というまどろっこしいいとなみを経て
生物としての根源的で普遍的な感情を
ずっとずっと紡いでいく
お茶屋さんがそうだったように
お母さんから私
私からひなた
そしてひなたからその子供へ
順番におもいをつないでいくんだ


だから
私はまた稲荷山を登るだろう
もしかしたらその時には、と
そこまで考えて
今は今を精いっぱいに生きるんだ、と
私はそう思い直すことにした

コンビニ店員の恋


 マイルドセブンライト。
 キャスターマイルド。
 マールボロメンソールライト。


 あたしはタバコを吸わない。
臭くて嫌い。だから銘柄なんてわからない。番号が付いてるんだから、番号で言ってくれればいいのに、と思う。あたしのわがままだろうか。
「銘柄で言うお客さんが多いから、銘柄と箱はちゃんと覚えなさい。覚えたとしても、ちゃんと確認してからお渡しすること」
 店長はあたしにそう教えた。あたしは自分で記憶力はいい方だと思っていたけど、このコンビニのバイトを始めてからタバコの箱と名前が全然一致しなくて、自信は失せてしまった。
「わかんないときはね、何番ですかって聞きゃいいのよ、別にお客に悪いなんて思わなくていいから。そのために番号付いてんだから」
 四年目の古田さんはそう言ってくれるけれど、彼女は銘柄と置いてある場所まで全て覚えている。お客さんにタバコの名前を言われて持ってくるまで二秒かからない。神業だ。
「そりゃアナタ、四年もやってりゃ嫌でも覚えるわよ。私だってタバコなんて吸わないんだから」
 そう言われても、自信はない。特にマイルドセブン系は本当にわからない。わかばは好きだ。真っ先に覚えられた。箱もかわいい。けれど、ここ二ヶ月で買った人はあたしが知るうちでは一人しかいない。

 マイルドセブンライト。
 キャスターマイルド。
 マールボロメンソールライト。

 この三銘柄は覚えた。何故かと言うと、毎朝買って行く会社員の三人組がいるからだ。毎朝、一箱。一日でちょうど二十本吸うのか、余ってても買うのか、本当はもっと買ってるのかわからないけれど、必ず毎朝、一箱。そして毎回、缶コーヒーが付く。缶コーヒーは毎回違ったり、ブームなのか三、四日同じものが続いたりだけど、タバコは変わらない。不思議。缶コーヒーは色々飲むのに、タバコは変えない。何故だろう。タバコを吸わないあたしにはわからない理由があるのかな。とにかく、三人は三人とも、毎朝それぞれ同じ銘柄を買った。

 マイルドセブンライト。
 キャスターマイルド。
 マールボロメンソールライト。

 マイルドセブンのひとは、小柄でいつもにこにこ笑っているひと。声が甲高くて、店内でよく通る。百貨店の地下惣菜コーナーにいたら、きっと売れそう。コーヒーはワンダのモーニングショットが多くて、CMの「朝はこれ!」をよく口にしている。
 キャスターマイルドのひとは背が高くてがっしりした、体育会系っぽいひと。始めてあたしが話したお客さんもこの人。あたしがタバコの場所がわからなくてまごついた時、「おねえさん、新人? 43と、21と、16な! 俺たちそこの会社で働いてるんだ。頑張れよ!」って、それ以来毎朝ちょっと言葉を交わしてくれる。
 最後のマールボロメンソールライトのひと。気になるひと。背が高いわけではなくて、顔も普通なんだけれど、声と手が好き。笑った顔が好き。優しそうな人。袋やお釣りを渡すとき、いつも胸がぎゅっ、となってしまう。直接話をしたことはない。三人で話しているのを聞くだけ。もし話しかけられたりしたら、泣いてしまうかも知れない。
 今朝も三人は仲良く買い物をして行った。OLみたい。キャスターマイルドのひとが、「来月俺ら釣り行くんだ。舟でね。こいつらに教えてやんだ」と言っていた。あたしはへえー、そうなんですかあ、という気の利かない台詞を吐いてはにかんでみただけだった。
 こんな性格やめたい。古田さんは三人とはよく話し、よく笑う。年上の女の魅力? 母性? そんなオーラが出まくっている。あたしもそんな風にマールボロメンソールライトのひとと話したい。
「古田さん、あの人たち、何て名前なんですか?」バカな質問をしたものだと思う。
「名前? さあ。コンビニでお客に名前なんて聞かないからねえ」
「そうなんですか。仲いいのに」何とか抵抗して見せた。
「何、里中ちゃん、誰がいいのよ?」抵抗が墓穴を掘った。女の勘は本当に怖い。
「え、そんなんじゃないです、違います」
「誰? あの背え高い人? そうでしょ!」
「違います」
「ええ? じゃ誰?」
「じゃなくって、そんなんじゃないですって」
 多分弁解の余地がないくらい、顔が真っ赤になっていたと思う。古田さんは目をきらきらさせながら迫ってくる。これ以上抵抗するのは得策じゃないと思った。それより作戦変更、懐柔しておかなくちゃ。今後のために。
「あの、そうなんですけど、絶対、絶対にあの人たちに言わないで下さいね!」
「やっぱり! 誰? あの小さい人じゃないでしょう?」
「はい。マールボロ買う人です」
「へえー。普通、がいいのねえ」
「はい。あの、絶対、絶対、言わないで下さいね。言ったらあたし辞めますよ」
「言ってうまくいったらどうする? 私うまくできると思うんだけどなあ」そんな危ない橋、渡りたくない。
「もう絶対、絶対ダメです」
「奥手ちゃんねえ、勿体ない」
「いいんです、毎日会うんだし」
「そんなんでいいの?」
「いいんです。とにかく、暫くそっとしといて下さい。あたしはあたしでこれでも楽しんでますから。壊さないで下さいね」
「こういうときは芯が強いのね」
「すみません」
「ま、いいけど。私も見て楽しんどくわ」
懐柔どころではない。半ギレで押さえ込んだのが精一杯。三十路の女は怖い。

 次の日。今日もシフトは古田さんとだ。空が明るくなり始める朝六時に深夜組と交代してから、配送された商品の陳列作業。古田さんは結婚式直前の新郎のようにそわそわしていて、あたしまで何だか緊張して浮き足立った。けど、まな板の上の鯉。三人は八時半にやってくる。いつものように仲良く。
「さあ、そろそろ来るわねえ」
 それから先のことはショックでよく覚えていない。来店したのは二人だったのだ。
「いらっしゃいませ。あら? もうお一人は?」
 カウンターを離れて商品補充に避難していたあたしの代わりに、古田さんが代弁してくれた。
「あいつね、昨日の晩から禁煙するって言いはじめてね。ここ来たら買っちゃうからって先行ったんだよ」
「ええっ! じゃこれから来ないの?」
「さあ? まあどうせすぐ断念すると思うけどね」
「ええー!」
「そんなに驚かいでも」
 古田さん、さすがにそれ以上は突っ込むのはやめてくれたけれど、二人が出て行った瞬間からの応酬は凄かった。
「ちょっと! 里中ちゃん! どうすんの? あの人もう来ないかもよ? うじうじしてる間に会えなくなっちゃったじゃない! んもー、コーヒーくらい買って行けばいいのに、女心のわかんない人! どうすんの?」
 そんな悲痛な声で責めないで。あたしが悪いの? 泣きたいのはあたしだ。もう会えないんだ。
 そう思ったら、本当に泣いてしまった。そしたら古田さん、急に優しくなった。
「辛いね、好きだったのにね、悲しいね、あたしまで涙出てきちゃった」
古田さんはあたしを奥のバックヤードに引っ張り込んで、ちょっと休みなさい、って言ってホットの午後ティーストレートまで買ってくれた。情けない。何であたし泣いちゃってるんだろうか。
 あの人には何の罪もない。恨んだりするのはおかしい。けれど、冷たい、って思ってしまう。自分勝手でごめんなさい。けど、けど。
 あたしがこんなに想ってるのに。
 禁煙したからって、あたしに会うことまでやめなくていいじゃない。あたしの存在って、あなたの中でどれくらいだったんですか?
防犯カメラの監視モニターを見る。カウンターにお客さんが三人並んでいた。古田さんはてきぱきと孤軍奮闘している。
 涙を拭いて、鏡を睨んで、あたしは店内に出た。

 マイルドセブンライト。
 キャスターマイルド。

 それから十日間、あたしは抜け殻みたいになっていた。会えないとなったらどんどん想ってしまうのは何故なんだろう。バイト辞めようかって思ったこともあったけど、こんなことで辞めるのは自分としてもバカみたいだったし、古田さんが優しくて辞められなかった。

 マイルドセブンライト。
 キャスターマイルド。

 ある朝、いつものように二人が来店した。キャスターマイルドのひとが古田さんと何か話している。古田さんはあたしに駆け寄ってきて声を弾ませて言った。
「里中ちゃん、釣り、行く?」
「……行く」
 でこぼこの二人が走り寄ってきた。何だか神様に見えた。行く。あたしは自分で、即答した自分に驚いた。ついでに古田さんも驚いた。当のあたしよりも。
「いつですか?」
「今度の日曜! 車、新井が出す」
「あ、新井?」
「禁煙中のやつ」新井さんって言うんだ。下の名前は? 何歳?
「あたし、日曜お店入ってます」
「何言ってんの! あたしが代わってあげるわ、そんなん」渡る世間は神様ばっかり。いいんですか? って言ったら、脇腹を小突かれた。
「せっかくなんだから、行ってきなさいよ、ねえ?」
「古田さんも来たらいいのに」
「二人とも休めないわよー」
 古田さんにも来てもらいたかった。あたし一人なんて、心細くて死ぬかも知れない。でも、あたしは絶対に行こうと思った。あの人に、新井さんに会える。「じゃあ、すみません。お願いします」
 そのあと、キャスターマイルドの人から、手短かに話を聞いた。キャスターマイルドの人は岡田さんでマイルドセブンライトの人は高橋というひとだということ、釣りは朝早くから行かなければならず、四時集合だということ、当日はこの店に車で迎えに来ること、乗合い漁船で海に出ること、海の上は寒いから温かくしてくること、潮がつくからいい服は着ないこと、スニーカーを履いてくること。最後に「金はいらないから」と、笑った。
その日仕事が終わって、あたしは別の店でマールボロメンソールライトを買った。店員のお兄さんは、あたしが銘柄を言うと、三秒で出してきた。早いな。でも古田さんには敵わないよ。自分で買ってみると高いな、と思う。こんなのを毎日買ってるなんて、勿体ない。店を出て、自分は大バカだと思った。私はきっと、こんな卑怯な作戦でしか、好きな男のひととつながれない。気付いたら買っていた、と言うほうが正しい気がする。仕方がない。こんなことしかできない。待てよ、間違えた。焦って、間違えた。少し歩いて立ち止まった。これって怒られるんじゃないだろうか。あたし何やってるんだろう?あたしはもう一度店に戻り、自分の店でも売れてるのを見たことがない禁煙パイポを買った。オマエ、どっちなんだよ。どっちかにしろよ。店員はきっとそう思っているだろう。あたしは痛い女です。神様、見逃してください。こんなものでも持っておかないと、あたし船に乗る切符ないんです。
 
日曜日、新井さんの私服を初めて見た。イギリスの皇太子のような、かっちりとしたツイードのジャケットと細身のノンウォッシュデニム。先の尖ったブーツ。レイバンのサングラス、首元には、真っ赤なスカーフ。きゃー、カッコいい! 早くサングラス取って見せてよ。新井さんのBMWで港へ行き、大きなクルーザーに乗った。運転はもちろん新井さんだ。波しぶきを上げて、まだ暗い港の水門を駆け抜ける。クルーザーはザン、ザン、と波の上を跳ね、新井さんの横に立っていたあたしはその度によろめいて、新井さんはついにあたしの肩を引き寄せてくれた。また胸がぎゅっ、となった。このまま、世界の果てまで行けたらいいのに。二人きりで暮らせる、幸せの無人島を探しに行けたらいいのに。
「はあ、タバコ吸いたいなあ。こういう所にくると、タバコが妙に恋しいぜ」ハンドルに突っ伏すような格好で、新井さんは少し低めのかすれた声であたしに向かって呟いた。どんな表情をしているの? サングラスの奥の目は、何を求めているの? タバコ? 禁煙パイポ? それとも、あたしを抱きしめたい?
「新井さん、どうして禁煙したんですか?」新井さんは初めてサングラスを取って、とても優しい目をしながら言った。
「子供、生まれるんだ」
「え・・・・・・」
 そうだ。聞いちゃいけなかったんだ。こんなこと。

 あたしはぐしゃぐしゃに泣きながら目を覚ました。夢だった。
 時計を見た。二時二十九分。外はまだ真っ暗だ。こんな時間なのに、目覚ましがなる
直前に目が覚めるなんて。あたし、おばあちゃんになってしまったのだろうか。
 目覚ましの予約を止めた。もういやだ。行きたくない。もう、新井さんの顔が見れない。あんな優しい目をした新井さんの顔も見たくなかった。あたしはニコチン中毒者みたいな痛い女で、あの人は幸せの真っ只中にいる王子様みたいなイケメンだ。一緒に釣りに行ったって、あたしと新井さんが釣り合うはずがない。うん? 釣りに行っても釣り合わない? なんだそれ。はあ、あたし、どうしたいんだろう。
 ずいぶん長いこと布団の中でじっとしていた。寒くて出たくなかったのと、出て何すんだ、って思ってしまったから。もう一度時計を見た。二時三十三分。あれ、あんまり時間経ってない。みんな、もう支度してるのかな。あの人、「仕掛け」を徹夜で作るって言ってたっけ。新井さんも、もう起きてるかな。起きて、顔を洗って、歯を磨いて、コーヒーを飲んで。奥さん、も起きてるのかな。これ朝食?夜食?なんて言いながら作ってくれるのかな。ジャケットを着て、トレンチコートを着て、ブーツを履いて。寒いから、出掛ける前に車を暖めておかないとな、なんて言ってるのかな。あたし、まだ布団の中だ。
 いけない。こんなんじゃ、ダメだ。行かないと。せっかく誘ってくれたのに。行かないと。これからお店でどんな顔して合うっていうんだ。あたしは跳ね起きた。
 昨晩迷いに迷った挙句、コーディネイトは決めていた。顔を洗い、歯を磨いてコーヒーを作って念入りに化粧をする。タバコも禁煙パイポもいらない。あたし、自分の力で新井さんと話するんだ。
 店に着いたのは三時四十五分。いつも六時にシフト交代するから深夜組は驚いていたけれど、ちょっとね、お出掛けです、とだけ言っておいた。
 リポビタンDを買って、バックヤードで雑誌を読んだ。モニターをちらちら見る。こんな時間にはお客さんはほとんど来ない。配送の人もまだ来ない。静かだな。
 三時五十七分。モニターで駐車場に車が一台止まるのが見えた。来た? 車から出てきたのは、間違いなく新井さん。あたしは店内に飛び出した。
 新井さんの私服姿を初めて見た。赤いダウンベストに薄いグレーのパーカ、キャメルのチノパン。オニツカタイガーのスニーカー。浅くかぶったキャップ。かっこ良くもかっこ悪くもない。素敵。ああ、よかった。
「あ、おはよ、こんばんは、かな」
「お、おはよございます」スニーカーに挨拶した。目なんて見れるわけがない。
「新井です」知ってます。
「里中、えりこです」
「もう行ける?」
「はい」
「じゃ、ちょっと買い物しよ」
「はい……あ、ちょっとだけ待ってて下さい」
「うん」やばい、感動でおしっこ漏れそう。初めてしゃべった。あたし、泣いてない?
 岡田さんと高橋さんは車の中で待っていた。新井さんはパンとおにぎりをいくつかとホットの缶コーヒーを三本カゴに放り込んで、「里中さん、飲み物は?」と聞いた。
「あ、午後ティーで、」
「どれ?」
「赤いの」何が赤いの、だ。無意識に必死でかわいこぶってる自分に嫌気がさす。午後の紅茶ストレートティーって名前ついてるだろ。
 深夜の子にちらちら顔を見比べられながら会計をした。お金を出そうとしたら、新井さんがいいよ、って言ってくれて甘えてしまった。タバコ、岡田さんと高橋さんいいんですかね、って言おうと思ったけど言わなかった。カウンターの二人に、目と手で「じゃあ」って言って店を出た。気持ち悪いくらい、しおらしい感じになっていたと思う。六時に古田さんが来てから、みんなで何を言われるか、わかったもんじゃない。もう、どうでもいいや。
 新井さんの車はBMWなんかじゃなくって、赤っぽい小さな軽だった。かわいい、と思わず口から小さくこぼれ出た。新井さんはちゃんと聞いていて、「ありがとう」って言ってくれた。あたしは助手席に案内されて、車内は芳香剤とタバコのにおいがした。あ、多分、奥さんいないな。彼女も・・いないかな。わかんないけど。
「おおー、えりちゃん! おはよう! 寒いな! 眠いな! 行こうぜ」岡田さんはいつも通り元気満々で、これ、二時間後に効いてくるから、と言って酔い止めをくれた。高橋さんはテンション低めでおはよう、と笑ってくれた。
流れるFMを聴きながら川沿いの道をまっすぐ海に向かって走って、河口にある渡船屋さんに着いて、車を停めたのが四時五十分。行き道、車内ではやっぱり岡田さんが引っ張ってくれてあたしを打ち解けさせようとしてくれた。ほとんど岡田さんや新井さん、高橋さんの質問に答えていただけだけど、お陰で新井さんともたくさん話せた。三人は入社二年目の同期で、みんなそれぞれ違う地域から上京してきたらしい。新井さんは北海道出身だった。
 彼氏は? と聞かれて、今、いないです、とだけ答えたら、「俺らも彼女、いねーんだよ、何故か高橋だけ彼女持ちなんだ、えりちゃん何とかしてくれ」って岡田さんがうなだれて言うから、笑ってしまった。それに、唯一彼女いるのが高橋さんだなんて。
「でも、いつも楽しそうですよ、三人で」本当にそうですよ。あたしは嬉しくて、助手席できゃっきゃきゃっきゃ、飛び跳ねたかった。奥さんも彼女もいなかった!
 渡船屋さんのなかは暖かかった。石油ストーブのいいにおいが充満していた。「出船は十五分だから、ちょっと待っとってよ」ストーブの上ではやかんがしゅんしゅん怒っていて、お店のおばちゃんがお茶の葉の入った袋を入れるとやかんは大人しくなった。外はまだ暗くて、風の音が時折ひゅう、と聞こえた。岡田さんはお店のおじさんとカウンターを挟んで何かしゃべっていて、新井さんと高橋さんは、アイスクリームの冷凍什器を覗き込んでいる。「えりちゃん、見てみな」新井さんが手招きする。あたしは猫みたいにするすると二人のところへ行って什器を覗いた。
「わあああああああ! わわわわわわ」什器のなかはミミズに足がたくさん生えたようなのが上になり下になりごちゃごちゃと這い回っていた。その他にも生きたドジョウやシャコやエビがパック詰めで所狭しと入れられている。
「あはははは、びっくりした?」新井さんは笑っている。この人っ。
「これを触れるのは岡田だけだなあ。俺、無理っぽいなあ」うーん。男ならこれくらい触れてほしいような、こんなの絶対触ってほしくないような。難しい。
 お店のおばちゃんが「お茶入ったから、飲むかい」って、お菓子まで出してくれた。四人で何だかほっこり。朝の四時だとは思えない。おじさんが紙の束を持ってきた。乗船者名簿だという。あたしは人前で名前を書くのがあんまり好きではない。
「えっ、えりちゃんって、苗字も名前も里っていう字なんだ」ほらね、こう言われるから。
「そうなんですよ! つけたとき、気付かなかったんですって。マヌケすぎますよね。お姉ちゃんは佐知子ってつけてもらってるんですけど」わざと怒ったふうに弁解する。このやりとりを今まで何度したことか。
「お姉ちゃんいるんだ、呼んだらよかったな」さすが岡田さんだ、こういう反応した人は初めてだった。
「お姉ちゃんも彼氏いませんよ。お姉ちゃんは皆さんと同い年です」
「あああーっ、今度はおねえちゃんも呼ぼう!」
「あはは、あたしと一緒に行動するの、嫌がりそうですけどね」

 お店の中が暖かかった分、外は寒かった。海からひゅうひゅうと風が吹いてくる。街灯も少なく暗い岸壁沿いの道を、岡田さんと渡船屋のおじさんが少し前を歩いている。新井さんと高橋さんはあたしのすぐ前でたまにあたしのことをちらちら気にしてくれながら何か話をしている。仕事の話みたいだった。堤防に登るとワカメの匂いがした。クルーザーとはかけ離れた、オンボロの小さな漁船が波に揺れている。乗客はあたし達四人とおじさんが二人。
「海の上はもっと寒いから。足元、気を付けてな」岡田さんはたくさん荷物を抱えて大きな体でひょいひょいと船に乗り込んだ。高橋さん、新井さんも続いて危なげなく乗る。簡単そうに見えたから、あたしも、と思ったけど、岸壁と船のへりの間にはタイヤがいくつか挟まっていて、その隙間からかなり下に水面がゆらゆら見えて、あたしはしゃがみ込んでしまった。その体勢のまま、右足を伸ばそうと思ったけど、てんで足が出ない。頭が真っ白になった瞬間、新井さんが手を差し出してくれた。
「大丈夫? ちょっと、高いよね」
「すみません」新井さんの手は温かかった。あたしの手、冷たかったろうか?
長い木の板が船のへりに打ち付けられていてベンチになっており、それに四人で腰掛けた。ベンチは木が朽ちているのか、少し前かがみになった。エンジンの音がどたどたっと聞こえて、船が動き出した。運転はもちろん、渡船屋のおじさんだ。新井さんが運転なわけないじゃん。今さら、今朝見た夢が本当にバカらしく思えてきた。
波しぶきを上げて、まだ暗い港の水門を駆け抜ける。漁船ははザン、ザン、と波の上を跳ね、新井さんの横に座っていたあたしはその度によろめいて、ついにあたしは新井さんに肩をぶつけてしまった。「ごめんなさい」新井さんは、優しい目で「揺れるね」と言った。胸がぎゅっ、となった。このまま、世界の果てまで行けたらいいのに。二人きりで暮らせる、幸せの無人島を探しに行けたらいいのに。船には七人乗ってるけど。
「はあ、タバコ吸いたいなあ。こういう所にくると、タバコが妙に恋しいぜ。おっちゃん、タバコ吸っていい?」岡田さんが海の男気取りで船のへさきに立ち、腕組みをして言った。すでにタバコをふかしていた渡船屋のおじさんが、「そこに灰皿あるよ」と指差して返す。岡田さんはこちらに向かってキャスターマイルドの箱で手招きした。高橋さんを呼んでいるのだ、と思った。あたしを挟んで高橋さんと新井さんのした会話が、最初理解できなかった。
「新井、もう諦めろ」
「……そうだな。ちょっと一言断ってからにするわ」何を諦める? 誰に断る?
「えりちゃん、俺禁煙、断念したんだ」
「え、はあ、そうなんですか」タバコ、持って来てあげたらよかった?
「それだけ。ちょっと、ばつが悪くって店で買いづらかった。これから、また行くから」
「あ、あ、はい。……わかりました」
 またお待ちしてます、なんて言うのは変だと思って言わなかった。灰皿を囲んでタバコをふかす三人を見ながら、タバコ吸う人って、何だか囚人みたいだな、って思った。その後はずっと、ばつが悪くて店で買いづらかった、という言葉を反芻していた。ばつが悪くてうちの店で買いづらかった。

 「ポイント」に着く頃には、あたしと高橋さんは船酔いでダウンしていた。ちょっと前まで四人で「海軍ごっこ」をやって盛り上がっていたのに。東の水平線から真っ赤なお化けみたいな太陽がゆらゆら上がってきて、みんなで感激したまではよかったけど、すっかり夜が明けて船がエンジンを止めた頃に高橋さんがまず胃の中のものを全部あげた。その直後、あたしももどした。ごめんなさい、岡田さん。せっかく酔い止めくれたのに。

岡田さんいわく、釣りの結果を釣果というらしい。その日の釣果。出竿、午前五時四十五分、納竿、十時ジャスト。岡田さん、タコが二匹。新井さん、アイナメが一匹。高橋さん、あたし、ゼロ。おじさんA、小さいカレイが一匹、タコが一匹。おじさんB、タコが二匹、アイナメが二匹。釣りって、こんなもの?
「まあ、今日みたいな日もあるわ」渡船屋おじさんがおいしそうにタバコを吸いながら言った。あたしと高橋さんは船が河口に入る頃、ようやくゾンビのように息を吹き返した。
 新井さんも岡田さんも、ほとんど釣りになっていなかった。あたしと高橋さんの看病の合間に竿を出す。おじさんたちは何度も、おねえちゃん、戻るか? と聞いてくれたけど、「いえ、じきに治りますから。すみません」の一点張りで通してしまった。帰ります、と言ったほうがみんなに迷惑かけなかったかな、と今さら思った。

「今日はすみませんでした。全然、釣りできなかったですよね」
 船を下りて店に帰る途中、あたしは岡田さんに謝った。日は高く昇り、風は相変わらず強かったけど、少し暖かくなっていた。岸壁の上で野良猫が黒いのと茶色いのと二匹、じゃれあっている。
「ううん、全然そんなことないよ。釣りなんてこんなもんだぜ。タコ釣れたから全然いいんだ。それより、いきなり船ってのが悪かったな。大変な思いさせた俺のほうが悪いわ」
 そんなことないんです。全然、そんなことないんです。あたし、こんなときに何て返したらいいか、わからなくてすみません。また涙が出そうになってて、何も言えなくてすみません。
「高橋まで酔うとは思わなかったけどなあ、ははは」新井さんは楽しそうに笑っている。
「いやあ、俺、乗り物酔いしないほうなんだけどなあ。ああいう船、初めてだったからかなあ」
「いや、お前、昨日徹夜でゲームして夜中にラーメン食いに行ったんだろ? んなことすっからだよ」
「それかあ、それだなー」高橋さんもすっかり元気そうだ。
 あたしがダウンしている間、何度もトイレに連れて行ってくれて、何度も背中をさすってくれた新井さん。渡船のおやじさんにいい酔い止めもらった、って嬉しそうにあたしと高橋さんに持って来てくれた新井さん。乗るときも降りるときも手を取ってくれた新井さん。新井教太さん。好きです。好きです。

 渡船屋さんでお茶をもらって少し休憩したあと、新井さんの車に乗り込んで、岡田さんの声が後ろからした。「新井、駅まで送ってくれよ、俺と高橋」
「駅? 駅でいいのか? なんで」
「いや、寄るとこあるから、なあ」
「そうそう、寄るとこあるから」
「どこ?」
「まあ、明日言うわ」
「はあ?」
 FMを聞きながら、あたしは黙っていた。後ろでは岡田さんと高橋さんがお互いのiPhoneを見せ合ってひひひひ、と笑っている。写真か何かかな。新井さんはメンソールのタバコを吸いながら、まっすぐ前の道を睨んでいる。時折助手席側のドアミラーを見る。その度にあたしは何故か太ももに力が入った。
 交通量が少しづつ増えて、駅前の大通りに出て信号に引っかかった時、岡田さんが言った。「えりちゃん、今日に懲りずにまた付き合ってくれる? 今度はおねえちゃんと一緒に」
「はい、もちろんです。絶対行きます」
「よっしゃ。じゃあ、また明日」
「はい、有難うございました」
「お疲れさん。気をつけて」
 きっと、寄るとこなんて、ないんだ、って思った。男のひとって優しいな。階段を上っていく二人を見送りながら、隣に立つ新井さんの左手が視界から離れなくて、あたしは化粧を気にしながらまぶたをごしごしこすった。
 
「気分、大丈夫?」新井さんは青い道路標識を見ながら呟くように問いかける。
「はい、もうダイジョブです」
「昼飯、食い行こっか、あっさりしたものの方がいいかな」
「はい。あ、何でもいいですよ。戻したらお腹空きました」
「ははは。そうか。じゃあ、中華行こう、中華」
「新井さん、今度また、どこか行きましょうね」こんなことを、あたしはすらりと言えるようになっていた。几帳面な岡田さんとムードメーカーの高橋さんのお陰。
「今度、俺の趣味にも付き合ってくれる?」
「何ですか?趣味」
「スキー」
「あ、行きたい。修学旅行でしか行ったことないんです」
「行こう。教えるよ」新井さんは交差点を右折しながら、ほんの一瞬だけあたしに目を向けて笑う。これから、この顔をもっと間近で、たくさん見られるようになるんだろうか。
 ごめんなさい、みなさん。
今日の釣り、あたしだけ、すっごい釣果がありました。多分。
 古田さん、そろそろ帰る頃かな。心配してるだろうな。明日、報告しますね。それから、いい知らせ? です。明日からは、また三人一緒にタバコを買いに来てくれます。

マイルドセブンライト。
キャスターマイルド。
マールボロメンソールライト。

おわり

射矢らた雑記帳

「コンビニ店員の恋」は、僕が最初に書いた小説です。一応、小説の体裁になっている! でも今読むと会話が不自然ww それと、タバコが昔の銘柄名ですね。懐かしい。当時、僕はキャスターマイルドを吸っていました。もう、やめてずいぶん経ちます。

射矢らた雑記帳

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-02

Copyrighted
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  1. 思いをつなぐ黄色い箱
  2. ガテンの夏とラブホテル
  3. 稲荷山/帰京
  4. 稲荷山Part2/絆
  5. コンビニ店員の恋