2nd吹きの憂鬱〈下〉

ちぃひろ

トランペット吹きの憂鬱〈上〉の続編です。

八、

「チューニング」ツノムーの一声で最終合奏が始まる。クラリネットから音を重ねて、バンドの音程感覚を揃えてゆく。チューニングの後はロングトーン、ハーモニー練習、コラール練習、そして漸く本番で吹く曲の合奏に入る。
先に課題曲から合奏した。しかし、課題曲は冒頭部を軽く吹いただけで、ものの数秒で練習を終えた。ツノムーはその出来に関しては何も語らず、そのまま、ただ「自由曲、頭から止めるまで」と言い、再び指揮棒を振り上げた。
木管の優しい調で、演奏が始まる。
朝比奈先輩は本番を想定してクラリネットの脇に移動した。リハ室に椅子は数える程度しかなかったので、多くの人が立奏しており、先輩の姿は見えなかった。しかし、先輩のソロになると、前方からいつも通りの美しい音色が聞こえてきた。
普段はソロのバックにハープや鍵盤楽器があるが、今はそれらが舞台裏にあるので、リハ室に響くのは本当に先輩の音一筋だった。
トランペット一本になれば先輩の凄さが余計に際立つ。
先輩の音はとても繊細で切ない。舞台脇という演奏場所が似合う音だ。街に響く教会の鐘の様に、じんわりと心に沁みる。
もちろん、これは先輩の技術あっての演奏だ。F音のシンプルなロングトーンの後半に波の小さなヴィブラートをかけている。ヴィブラートを自在に操れるのも、ロングトーンだけで魅せることができるのも、先輩に実力があってのことだ。
このリハーサルでは、一音だけ、そのソロの中の最高音を外してしまった。けれども、その後直ぐに舌を突き直し、難なく後を吹き切った。
完璧だった。今のまま普門館に持っていったとして、これに敵うトランペットソロはない気がした。
先輩がソロを終えて僕の隣に戻ってきた。僕の前を通り過ぎた横顔が少し強張っていた。あれだけ吹けても、一音外したことが悔しいのだろう。確かに本番直前のこのタイミングで外すのは辛い。けれども、僕は本番の成功を信じて疑わなかった。
しかし、結果はそうはならなかった。
音の中に変なスースーという音が混じったのが始まりだった。僕は横から聞こえてくるその音がなんであるのか、しばらく考えて、それでそれが先輩の音だということに気がついた。そしてああ不味い事が起きたと思った。
金管楽器は唇を振動させて音を出す。振動させるのは筋肉だ。緊張して筋肉が動かなくなると、音は出なくなる。そして、音が出ないという恐怖はさらなる緊張を生む。極度の緊張は奏者を壊す。
先輩はどんどん吹けなくなっていった。
僕はどうすることもできなくて、ただそのままに吹き続けた。冷や汗が止まらない。
崩れていった人を見たのは初めてではない。コンクールメンバーを決めるセレクションで音が出なくなった後輩を知っているし、自分たちの演奏で、出演順が直後のバンドの金管吹きたちを一気に自滅に追いやったこともある。しかし、その崩れた人たちの一人に朝比奈先輩が入るというのだろうか。あんなにも上手いトランペット吹きなのに。
一瞬横目で先輩が力んだのがわかった。
駄目だと叫びたくなったが、その次の瞬間には、完全に的を外した暴音が、先輩のベルから飛び出していた。
ツノムーが指揮棒を顔の前で振り演奏が止まる。
「朝比奈。チューニングB♭六拍」ツノムーの声がリハーサル室に冷たく響いた。
朝比奈先輩が楽器を構える。そして息を吹き込む。けれども、唇が振動していない。音が出ない。
横を向くと、朝比奈先輩の身体は小刻みに震えていた。先輩のこんな姿は見たくなかった。背中に縋って、大丈夫だ、心配ないと言いたかった。
朝比奈先輩は何度も試した。その度に音を外した。五、六回目で漸く指定の音が当たったが、六拍も伸びなかったし、本番で使えるような音ではなかった。
ツノムーはしばらく顎を撫で考えていた。ツノムーの表情から感情は読み取れなかった。ツノムーは今、何を考えているのだろう。驚いているようには見えなかったし、苛立ちも、焦りも感じられなかった。やがて、ツノムーはその重い口を開いた。
「ラッパの座席を変える。高市、トップにいけ」
僕の名が呼ばれた。とにかく僕は動揺していた。今の状況なら、それが最適な判断だとは僕にもわかる。けれども、正直怖かった。しかし、日々の習慣というのは恐ろしいもので、半ば反射的に「はい」と答えてしまった。
「その横に立花、朝比奈はその横だ」
立花は勿論、朝比奈先輩も躊躇いなく「はい」と言うのが聞こえた。
「朝比奈。無理して音を出そうとする必要はない。きついところはオクターブ下げろ。朝比奈が下げたところは、その分トップで音量を調節しろ」
僕はもう朝比奈先輩を見る勇気を持てなかった。けれども、横から聞こえてくる声は鮮明で、それが余計に辛かった。
そして、付け足すようにツノムーは言った。
「それから……ソロは、豊田。お前が吹け」
まず、僕が一番最初に感じたのは、自分が吹かなくて良いという安堵であった。その後に理性が追いついて、どう考えても僕より豊田先輩の方がソリストとして適切なことが明らかで、自分が指名されることはないと気づいた。
豊田先輩の返事の声に怯えはなかった。僕と同じように、不安を押し殺したのだろうか。いや、そんな風には思えない。僕と先輩は違うのだ。
「よし、本番前に一度だけ冒頭やるぞ」
「はい」部員の声が揃った。習慣は本当に恐ろしい。誰もが焦りや不安を感じているだろうに、力強い返事が恐怖を塗り潰してゆく。本番はもう間も無くだ。


九、

冷たく薄暗い舞台裏で伊豫田が僕の背中を掴み、縋って言った。「大丈夫。いつも通り吹けば、あんたなら何の心配もないから」
豊田先輩も僕の肩を叩いた。「せっかくのトップだ。楽しまなきゃ、損だよ」
色んな人に声をかけられる度に僕は機械的に頷いた。
周りを見ると、立花も珍しく難しい顔をしていたし、他のトランペットの一年生も似たり寄ったりだった。僕に声をかけた後、豊田先輩は一年生にもいくらか声をかけていた。声をかけられた一年生は少し表情を緩めていた。
太田先輩は朝比奈先輩の側で泣きそうな顔をしていた。高校生活初めてのコンクールだろうに、自分のことそっちのけで、他人のことを心配していた。
なんて、自分は小さいのだろう。トップで吹くというたったそれだけのことで、僕はこんなにも狼狽えている。誰かを思いやる余裕なんてどこにもない。心臓が嫌な鳴り方をしている。吐きそうだ。
前団体の演奏が終わり、会場に拍手が響いた。反響板横の扉が開いて、舞台が姿を現した。
「いくぞ」ツノムーの声が静かに響いた。


僕らを待っていたように、舞台が明るくなった。眩しくて客席はよく見えないが、それで良い。観客は見えずとも、高さのある雛壇のおかげで、戦友たちの背中は、いつもよりよく見える。
楽器を構えた後ろ姿で弱気になっているのがよくわかる。普段ならコンクールの県大会くらいで、こんなにも怯むことはない。朝比奈先輩の一件でみんな不安になっているのだろう。こんな状態じゃ、良い音楽はできない。
僕は不意にそれを悔しく思った。
情けないじゃないか。昨年は普門館にだって出たバンドだぞ。こんなの、僕の知っているバンドじゃない。こんな惨めな姿を晒したくない。
じゃあ、どうするか。
僕が吹くしかない。その不安を吹き飛ばすしかない。
僕は、みんなの緊張をほぐす言葉を知らない。あったとして、今更それを伝える術はない。
今できることがあるとすれば、トップとしての仕事を全うすることだけだ。
初めの一音。この一音を上手く当てれば、バンドの不安を取っ払うことができるかもしれない。
僕らの音楽を見せつけてやる。
拍手を浴びたツノムーが指揮台に登り、タクトを振り上げた。
今だ。
この頃には僕は僕の緊張を忘れていた。
パーンという爽快な音が、僕のベルから飛び出した。
課題曲「南風のマーチ」のファンファーレは華やかに決まった。金管が上手くはまったことで、ふっと、バンドの緊張が緩んだ。
木管の連譜が波のように押し攻めてゆく。いいじゃないか。
そして、冒頭部最後は、みんなで決める。
ヤーンパパーンパパッパッパッパパン。
ツノムーがいつも練習で歌う形に、みんなが揃った。
そうだ、これが僕らのバンドだ。
いける。大丈夫だ。
手応えを感じた僕らは、後はいつもの演奏をするだけだった。
夏の爽やかな空を想像させる鮮やかな演奏だったと思う。
複数で吹いているのに一本のメロディに聞こえる木管のアンサンブルは見事だったし、ぶれることのない安定した低音楽器、打楽器も素晴らしかった。
そして何より、初めは控えめに吹いていた朝比奈先輩が、徐々にその調子を取り戻してきているのがありがたかった。
座席が替わっていても、いつもの三人で1stを吹くと、吹きやすいし掴みやすい。安心もする。しっくりくる。楽しい。
課題曲中間部のトリオに入る頃には、完全にいつものペースに戻っていた。
僕は愉しくなって、ちょっと息を吹き込み過ぎた。でも、ラッパパートがぶれることはない。あれ、とは思ったが今、振り返りをするような余裕はない。けれども、そういうことが何度かあって、それで漸く、朝比奈先輩がトップである僕につけて吹いているのだと気がついた。
課題曲も終盤に入り、一気に盛り上がる。横の立花はいつもの感じだけれど、朝比奈先輩は完全に僕を意識している。いつもと違うことをしてバンド全体の調子が狂ってはいけないので、何かを変えようとは思わないけれども、もし、僕が吹き方を変えたとしても朝比奈先輩は見事についてくるだろう。
面白い。吸い付くように合わせてくる。なんて気持ちが良いのだろう。
 ふと、もしこれが同じ1stではなく、2ndだったらどうなるのだろうと考えた。
とてつもなく幸せに違いない。自分が吹いたものに、完璧な形でハーモニーを合わせてくる。最高じゃないか。
そして、僕は豊田先輩が誰よりも朝比奈先輩を信頼している理由を知った。これを2ndにされたらトップは堪らない。豊田先輩は朝比奈先輩のその腕に惚れたに違いない。それで、朝比奈先輩の才能をみんなに知らしめたいと思ったのだろう。
僕は豊田先輩を羨ましいと思った。妬ましいとさえ思った。なんと贅沢な人だろう。朝比奈先輩を2ndにトップを吹いてきただなんて。
課題曲が終わった時、僕は既に興奮していた。感動もしていた。
顔が火照っていた。照明による暑さあるだろうが、身体の内側から熱が湧き出ている感じがあった。
けれども、コンクールはまだ終わっていない。曲間で豊田先輩がすっと移動する姿が目に入り、寧ろこれからだと言うことを思い出した。
僕は深く息をして気を落ち着かせた。唇は舐めて程よく湿らせた。そして、少し上ずった音程を整えるためにチューニング管を少しだけ抜いた。
ツノムーが豊田先輩の移動を目で確認した。バンド全体を見回す。腕を静かに振り上げた。
木管がゆったり息を吸う音が聞こえ、自由曲が始まった。
自由曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」。ヴェリズモ・オペラの代表作とされるこの作品は、いわゆるドロドロの不倫愛憎劇である。そんなものに縁があるはずもなく、物語のあらすじを読んでも何一つとして共感できないのだが、どういう訳か、音楽だけは胸に迫ってくる。
僕は木管が創り上げた流れに乗って音楽に合流した。上手く馴染んで、心地良い。気分が徐々に高まって、盛り上がった先で、倍音たっぷりに和音を響かせる。けれども、ここで盛り上げ過ぎないよう注意しなければならない。これまでの演奏は、この直後にあるトランペットソロのための布石に過ぎないからだ。
木琴鉄琴が静かに伴奏を奏で、先輩のソロが始まった。
僕は始まるまでの一瞬、ソリストが豊田先輩であるということを忘れていた。脇から音がして気がつき、ああと思い出した。
それは美しい調だった。豊かに息の吹き込まれた貫禄ある演奏だった。朝比奈先輩より波の大きいヴィブラートをゆったりとかけ、ソロの後半にかけてより大きく盛り上げていた。
豊田先輩の演奏には説得力がある。ただ上手いというだけではなくて、華やかさがある。音が鮮やかなのだ。吹いている姿は見えないけれど、その情熱を秘めた音だけで、 充分に存在感があった。
しかしそれでいて、決して横暴ではない。
まさに王者の演奏。僕は思った。
胆の座り方が尋常ではない。今日急に吹くことに決まった者の演奏とは思えない。
やっぱり豊田先輩はトップ吹きだ。
2nd吹きではない。
素直に格好良いと思った。あんなトランペット吹きになりたいと思って日頃から練習を重ねてきたが、どうやらそれは無理らしい。僕とは人間が違う。豊田先輩はトランペットを吹くための才能に恵まれすぎている。
先輩が務めるべきはやっぱり主役だ。先輩がトップに就き、ソロを吹けば、このバンドは確実に勝利に導かれる。そう感じた。
けれども、誰がどう言おうと今日のトップは僕なのだ。
真のトップ朝比奈先輩も、ソロを終えて席に戻ってきた豊田先輩も、他のみんなも、僕に付き従っている。僕の音を聞いて吹いている。
曲が進むにつれ、それを切に感じるようになっていた。みんなが僕にぴったりと合わせてるくる。
もしかすると、僕が思い上がり甚だしいだけで、みんないつも通りに吹いているのかもしれない。けれども、身体を貫く快感がある。そして、それは、決めどころのハーモニーが一つ一つ確実にはまっているからだということは、恐らく真実だった。
僕らは曲調によって吹き方を、すなわち表情を変えながら吹き進めた。でも、どんな場面でも美しいサウンドを求める姿勢は貫き続けた。
僕らは一度楽器を置き、歌を歌った。楽譜にそう指定があるのだ。だから、そうするのだけれども、高揚する気を一度落ち着けるために、このコーラスは大切だ。
ーホール二階席、奥の埃を、振動で落とすつもりで歌えー ツノムーの言葉を思い出しながら、僕は歌った。
歌を歌う時、文字通り身体は楽器となる。響かせよう、響かせようとすると、自身の声よりも女子部員の奏でるソプラノの透き通った音が耳の奥に響いた。
そうして、僕たちは燻る火種を残したまま、その熱を冷ましていった。
それから、その澄み切った空気感そのままに、火種をサックスソロに繋ぐ。ソリストはさっきの焦りが嘘のように、会場を自分のものにしている。流石だと、部員の誰もが思ったことだろう。
そしてサックスソロが終わると、クライマックスに向けて一気に音楽が動き出す。
バンド一丸となって曲を創り上げていく。僕はたっぷりと息を使って、美しいメロディをなぞった。周りもそれに合わせて、音楽の大波を作り出している。クライマックスに向け、また身体の内にある炎勢いが増してくるのを感じた。
落ち着け、落ち着け。僕は頭の中で繰り返した。
勢いに身を任せた音楽は美しくない。音楽に乗せられてはいけない。僕らが音楽を支配するのだ。
どんどんと高まってゆく興奮をコントロールすることが辛くなった頃、ふっと静けさが訪れた。そしてこの静寂こそが、壮大なクライマックスの前兆であることは、舞台にいる誰もが知っている。
フルートが張り詰めた緊張を保ちながら遠くで鳴いている。身体がじりりと焦がされていく。
「情熱に冷静を超えさせるな」ツノムーの声が聞こえた気がした。どうしてそんなことできようか。これから吹くことが愉しみで堪らない。
早く吹きたい。思いっきり吹きたい。
欲望が沸々と湧き上がり、頭がぐらぐらする。
僕は獰猛な感情を押さえつけて、楽器を構えた。
ふと目の片隅に激しく掻き乱れるハープが映った。この場面で唯一、ツノムーに自由であること認められているハープは、ここぞとばかりに弦を掻き鳴らした。ポニーテールが揺れ、腕は踊っている。なんと情熱的なのだろう。
羨ましい。僕だって思いっきり吹きたい。腹の底が熱くなって、理性なんかぶっ飛びそうになった。
早く自由に吹きたくて、僕は思わずバンドを煽った。トップにみなが付き従う。
「まだだ」しかし、ツノムーの指揮棒が僕を制した。
冷静にならなくてはと思うもの、気を抜くと押し寄せてくる感情に、呑み込まれそうだ。チャイムもティンパニーもここぞとばかりに煽ってくる。
この感情に身を任せて吹いたら、どれだけ心地良いことだろう。どうせ、数小節後にはff(フォルテシモ)だ。もう、堪えなくてもいいじゃないか。
「まだだ」しかし、ツノムーの鋭い指揮棒がそれを緩さなかった。
「我慢できません」
「粘れ」ツノムーのニヤついた顔が憎らしい。
あと少し。あと少しで、トゥッティ(全員での演奏)だ。
「早く!」
「よし」ツノムーは白い指揮棒を高らかに掲げた。
開放だ。
僕は思いっきり吹いた。
快感が脳天を貫いた。この時のために何を捨てても惜しくないとさえ思った。
ハイトーンで張り裂けそうな唇の痛みでさえ心地よい。
感情に身体を委ねて吹くと、不意にこのバンドの全てが愛おしく思えた。これだけ人数のいる部だと、正直、気に食わないやつの一人や二人はいる。けれども、そういう人間も全てひっくるめて愛おしく思った。
この快感が、一人で吹いていても味わえないものだということくらいわかっている。何重にも重なるハーモニー、情熱を煽るパーカッション。誰か一人が欠けた瞬間、今とは違う音楽になってしまう。
この音楽は僕らの音楽だ。だから愛おしい。
前に見える背中、その一つ一つが頼もしく、そして誇らしかった。
見ろよ、僕らを。聴けよ。凄いだろ。
そんな自慢のバンドのトップに僕はいる。僕が吹けば、みんな吹く。
だったらもっと聴かせてやるよ。
僕は高らかに目一杯吹いた。どんなに吹いて伊豫田たちの2ndは、ぴったりとはまった。
なんと気持ち良いのだろう。満たされた感情で脳味噌が蕩けてゆく。
ああ、そうだ。思い出した。これはまだ県大会だった。ただの通過点だ。たった二千人ぽっちのホールだ。
普門館は五千人。黒い床の向こうには五千人の耳があるのだ。そこで吹けたらどれだけ幸せだろう。
今、初めて普門館で、トップで吹きたいと願った。
きっと、この県大が終われば、僕はトップではなくなる。トップになれるとしたら、来年だ。
立花に盗られる? こんな気持ちの良い事を? そんなことあってなるものか。立花には譲らない。僕がトップになる。こんな堪らないもの、やすやすと他人に渡してなるものか。
普門館で絶対に吹いてやるんだ。
僕は僕が求めるまま最後の音を吹き切った。


十、

演奏が終わった瞬間、僕は自分が何を感じていたのか、何を考えて吹いていたのか、わからなくなった。ただ、鼓動が恐ろしく速く鳴っていることだけはわかった。目の前が真っ白で、何も考えられなかった。
ツノムーが指揮台を降りた瞬間、条件反射で、なんとか周りと同様に起立することだけはできた。
ツノムーの礼に合わせ大きな拍手が会場に響き、直ぐに照明が落ちた。
僕は漸くの思いで譜面やミュートを掴み、なんだか自分のものではなくなったような足を必死に動かし、前を行く人の後について会場の外へ出た。
外へ出た途端、周囲から歓声が爆発した。自分の思うように上手くいった者、いかなかった者、それぞれが自分の感情を露わにしながら、泣いたり、叫んだりしている。
実際こんなに緊張する県大会は、みんな初めてのことだっただろう。
夏の激しい日差しを浴び、僕は漸く手足の感覚を取り戻してきていた。
不意に僕は長い腕に抱かれた。
「タカチ。本当、よく頑張ったよ。ありがとう。助かったよ」朝比奈先輩だった。僕より少し背の高い先輩が、僕を包み込んでいた。
僕は抱かれたままどうすればいいのかわからなかった。慰めれば良いのか、一緒に悲しめば良いのか、泣けば良いのか……。今彼女はどんな表情をしているのだろう。何を考えているのだろう。
「朝比奈先輩……」
先輩は僕の頭に楽譜の入ったファイルをすっと乗せ、目を覗き込んで、ふっと微笑んだ。僕が考えていたのと正反対に、とても柔らかい顔だった。
「なんて顔してんの。そりゃ、私だって、トップの席で吹きたかったけどさ。でも、あの状態で出るわけにはいかないでしょ。タカチ。あんたがトップ、吹いてくれて、良かった。あんたが後輩で本当に良かった」
僕は頭を撫でられて思わず下を向いた。今もし顔を上げてしまったら、泣いてしまっただろう。
この今の感情が一体なんであるのか、僕にもわからなかったけど、今泣き顔を見られるのは絶対に嫌だった。
僕は俯きながら、声を絞り出した。
「先輩。次は……、支部は先輩が……」
全てを言い切る前に、先輩は僕の肩をポンポンと二度叩いて、そのまま行ってしまった。
そして、僕が立ち竦んでいると、今度は背中を強く押され、前につんのめる形になった。
「感傷に耽るのもいいけど、写真撮影があるから、とっとと移動して」伊豫田だった。今日の動線や時程を記したメモ紙を見ながら、テキパキと全体へ指示を出している。
「そんなもん、ポケットに入れてコンクールに出てたわけ」僕は苦笑して言った。
「仕方ないでしょ。そういう役職なんだからさ」他人事ながら大変だなあと思った。僕には演奏以外の何かに気を配るなんてそんな余裕は全くなかった。
「ほら、早くして。あそこでみんな待ってるよ」
写真撮影のコーナーでコンクールに出られなかったメンバーが僕らに手を振って待っていた。

結果を待つ時間は地獄だった。本番直後に、多くの人から良かったと声をかけてもらっていたが、いざ表彰の時間が近づくと、全く駄目だったような気がして自分が嫌になった。
みんな県大会は通って当たり前だと思っている。ここ何年も落ちたことはない。もし、朝比奈先輩がいつもの状態でトップで吹いていたら、県を抜けることは確実だっただろう。普段の合奏から、それくらいは予想できた。
もし、ここで県落ちしたのならば、僕のせいに違いない。
大事なのは集合サウンドで、落ちたとしても関係ないと誰もが言うだろうが、トップが下手なバンドは普門館にはいない。
僕の音がどう聞こえたか、僕には知る術がない。自分の加わった演奏を外から聞くことは絶対にできない。もし、仮に今までに練習の中で録音をして聞いていたならば、自分の演奏を多少は客観的に見つめることができたかもしれない。しかし、トップになったのは今日のことで、自分の音が客席にどう聞こえているか、想像すらできなかった。
もしかしたら、とても酷かったかもしれない。そうに違いない。僕にいきなりトップが務まるわけがない。
考えれば考えるほど、どうにも上手くいっていない気がして、吐き気すら感じた。
もう、二度とトップなんてやるものかと思った。舞台の上がどれだけ気持ちの良い場所だとしても関係ないと思った。
きっと、こういう時の立花は強い。己の力を信じて堂々と最後まで前を向いているだろう。
立花はやっぱりトップ向きだ。のしかかる重圧、期待を糧とすることができる人間だ。僕にそんな器はない。
僕は2ndでいい。2ndがいい。
こんな思いをするのはもう御免だ。
だから、最優秀は逃したものの、呼ばれた県代表校の中に自分の学校の名があった時は、ただ安堵して、ひたすらに涙が止まらなかった。
後からわかったことだが、県大会は結果的にニ位で通過していた。


十一、

楽器の積み降ろしは、次の日だったので、僕らは終礼をコンクール会場で行った。支部大会の出場順を決める抽選をした後の終礼だったし、先生方の話も長かったので、僕らが終礼を終える頃には、他の団体は殆ど帰ってしまっていた。
その場で解散した後、僕は一人ホール裏手の自販機に向かった。周りとタイミングをずらし、一人のんびりと帰りたかったからだ。達成感とも安心感とも言い難い、なんとも妙な疲労を感じ、できれば誰とも話すことなく帰りたかった。偶然、いつも一緒に帰る友人は家族が迎えに来ており、一人で帰るには丁度良かった。
僕は安い緑茶を買い、ホール裏手の楽屋入口の階段に座り、それを飲んだ。冷えた緑茶は喉に心地良く、三口程飲んで、その後は、ボトルを持ってただぼんやりしていた。
動くのが面倒だった。それに、まだホワイエで固まって盛り上がっている集団がいるだろう。そことは電車に乗るタイミングをずらしたかった。
あと十分くらいはそのままでいようと思った時、近くから人の言い争う声が聞こえてきた。
曲がって直ぐの楽器搬入口だろう。喧嘩だろうか。
こっそり覗いてみようかと立ち上がった時、急に口を塞がれ、立ち上がるのを制された。僕が暴れる間も無く、耳元で太田先輩の声がした。
「今はダメ」
僕は驚きながらも、頷き階段に腰を落ち着けた。太田先輩も、隣に座って膝の中に顔を埋めた。
二人の激しい怒声が聞こえる。反響して、はっきりとは聞き取れなかったが、どうやら豊田先輩が今日の朝比奈先輩を罵っているのだということはわかった。
豊田先輩は誰かの失敗を詰るような人ではない。けれども今日は、荒々しい言葉で、朝比奈先輩を罵倒していた。
先輩は朝比奈先輩がトップを吹いて、観客に認められ、賞賛される姿を見たかったのだろう。誰よりも彼女に期待していたからこそ、自壊してしまった朝比奈先輩が情けなくてたまらなかったに違いない。
僕は舞台上での朝比奈先輩を思い出した。もし、あの時先輩が2ndだったらどれ程の快感を味わっていたことだろう。豊田先輩は今まで、ずっとそれを味わい続けてきたのだ。想像するだけでゾクゾクする。豊田先輩は朝比奈先輩の凄さを誰よりも知っていた。自分ばかりが注目される現状をもどかしく感じていたに違いない。
それで今年のコンクール曲がカヴァレリアときた。豊田先輩はチャンスだと思ったはずだ。この曲なら朝比奈先輩のアンサンブル力を存分に活かすことができる。だから朝比奈先輩をトップに推した。
「情けねえよ。アサヒは悔しくないのかよ」豊田先輩が叫んでいるのがはっきりと聞こえた。
僕らは動けなかった。聞いてはいけないと思ったけれど、動こうとは思えなかった。でも、止めに入る勇気もなかった。足に力が入らなかった。
朝比奈先輩も何か言い返してはいるようだが、何を言っているのかまではわからなかった。
けれども、この争いが終わるまでに一つだけ聞き取れた言葉があった。
「私はやっぱり2nd吹きだよ」
激しく哀しい口調で言い放ったその言葉の真意を、その話の前後を知らない僕らは知ることはできなかった。
しかし、その後二人が僕らに気がつかないままそれぞれに帰って行って、そして僕が太田先輩と別れ、電車に乗った時も、その言葉は僕の頭を離れなかった。
最寄り駅に着いて無意識に唇を舐め、血の味がすることに驚いた。


十二、

コンクールの三日後、今度は支部大会に向けての練習が始まった。
コンクール翌日は積み降ろしと反省会、楽器の手入れで終わり、昨日一日は久しぶりのオフだった。
二日も楽器を吹かないと、唇の調子が悪くなる。午前中の個人練習ではいつもより念入りにロングトーンを行なった。そして今からはお待ちかねの合奏だ。
支部大会に向けて、トランペットパートはセクションが変更になった。トップの席に豊田先輩が、2ndの軸の席に朝比奈先輩が座った。
反省会の日に、二人がツノムーに呼ばれ抜き出された時からこうなることは大体予想していた。
ツノムーは今回、僕を呼んではくれなかった。一体どんな話をしたのだろうか。
豊田先輩が隣に座っていることを頼もしく思う部分もあったが、切なさの方が大きかった。
朝比奈先輩の演奏は決して悪かったわけではない。もし、本番前に崩れなかったら、先輩で充分戦えていた。少なくとも、僕がトップを務めるよりはるかに良かったに違いない。
セクションを変えなくても支部大会では、緊張を上手くコントロールできるようになっているかもしれない。しかし、その可能性に賭けられるほど、コンクールは甘くない。
気が付けば、僕も朝比奈先輩がトップだったら、舞台でどんな演奏をするのか聞きたくなっていた。
けれども、そんな思いは課題曲の合奏が始まるとすぐに消えてしまった。
豊田先輩は、やっぱり凄い。天才だ。出す音の一音一音に華がある。音量が大きいというわけではない。豊かな音色で魅せる王道のトランペッターだ。
トップの音が太くなった分、横の立花も以前より吹きやすそうだった。
そして何より朝比奈先輩も楽しそうだった。吹いていない時に、立花の向こうにいる先輩を覗くと、心なしか笑っているように見えた。
朝比奈先輩は案の定、豊田先輩の演奏に寸分違わず合わせている。横で聞いているこっちが心地良くなるくらい、完璧に合わせている。やっぱり豊田先輩を羨ましく感じた。
音量も寧ろトップを吹いていた時より出ているように思える。豊田先輩という基準があるからだろう。
豊田先輩がトップを、朝比奈先輩が2ndを吹くことで、トランペットパートの質が一段と高くなった。
トランペットのことがよくわかっていないやつは「やっぱり、朝比奈は弱いな。上手いのは豊田だ」と言うだろう。しかし、豊田先輩の音が活かしているのは、朝比奈先輩だ。
朝比奈先輩は2nd吹きだ。2ndの天才だ。
このことにどれだけの人間が気がついている?
みんなそんなことは当然知っていると言うだろが、本当の凄さは絶対に経験した者しかわからない。あの吸い付かれるているような感覚。豊田先輩がその感動を誰かに伝えたくなったのもわかる。
今でも豊田先輩が朝比奈先輩をトップに推したのは間違いだとは思っていない。勿論、今、こうしてセクションが変わってみて、落ち着くべきところに落ち着いたという感じがあるのは否めないが、それは好みと言えば好みなのだ。朝比奈先輩のあのひたすら合わせていくスタイルも、あの奥ゆかしい音も、うちのバンドに合っていたとも言えた。
カヴァレリアのソロなんかはもしかすると、朝比奈先輩の方が僕の好みなんじゃないかとも思った。
舞台の上で、豊田先輩の音を聞いた時、その音楽に圧倒されたことは事実だ。でも、後から冷静になって思い返して、あの場面で朝比奈先輩がいつもの演奏をしていたら、僕はどっちが好きだっただろうと考えると、答えは出なかった。
今日は課題曲の合奏だけで午後の練習が終わった。県大会を終え、もう一度ハーモニーの一つ一つを確認する作業を行い、これに大変な時間がかかったからだ。
明日は自由曲の合奏が先に入るだろう。さて、自由曲はどうなるか。
そんなことを考えていると、合奏の終わりにツノムーがトランペットを見て言った。
「自由曲のラッパソロについてなんだが……」横で豊田先輩がびくんと動いた。何も先には聞いていないらしい。
立花も気になる様子で唾抜きの手を止めツノムーをじっと見ている。
「カヴァレリアのソロは今のセクションに関わらず、コンクール出場者全員で、セレクションをして再度決定する」僕は立花の頰が僅かに引き上がるのを見た。
しかし、ツノムーの視線の先には朝比奈先輩がいると僕は思った。
それだけで、僕は救われた気がした。少しだけ、泣きそうになった。
朝比奈先輩は決して見捨てられたわけではなかった。
県大会が先輩にとって負け戦だったというのは事実だった。セクションが変わって、もう挽回はできないものだと思っていた。
先輩はきっとまたソロを手に入れるだろう。それだけの実力はある。僕はそう信じている。
支部大会で朝比奈先輩がソロを吹くだろうということが嬉しかった。

「おい、高市。セレクションの話の時、随分と間抜けな顔をしていたな」終礼の後、廊下を歩いているとツノムーに声をかけられた。ツノムーが口を半開きにして、白目をむいて見せた。僕の真似らしい。
「僕、そんな顔じゃないですよ」
ツノムーは歯を見せて笑った。
「してたよ。随分と腑抜けた顔をしていたじゃないか」
「そんな顔、知らないですよ」
「気づいてないのなら、もっとまずいな」
「なんだって言うんです」
「いいか、俺があの時言ったのは、ラッパソロは再度選考して決めるって言ったんだ」
「話はしっかりと聞いてましたよ」僕は先生を見上げてぎりりと睨んだ。
ツノムーはわざとらしく大きな溜息を吐いた。
「もう一回言うぞ。俺は、トランペット内でセレクションを行うって言ったんだ。パート全員にだ」
ツノムーは最後の一言を特に強調して言った。
そこでようやく僕はツノムーが言いたかったことを理解した。
ツノムーは僕の肩を叩いて声を潜めて言った。
「おまえ、あんまりうかうかしてると、立花にトップ、盗られるぞ」
僕が思わずツノムーの目を見ると、思いの外、悪戯っ子のような輝きを持った瞳がこちらを見つめていた。しかし、それは一瞬のことで、ツノムーは直ぐに視線を逸らし、不敵な笑みを残して立ち去って言った。相変わらず、がに股の美しくない後姿だったが、それでも、紛れもなく頼り甲斐のある我らの指揮者の背中だった。
ソロ……か。春にはそんなもの吹くことなんて考えもしなかった。今も特段吹きたいと思っているわけではない。けれども、県大会で自分がトップで吹いた時の記憶を思い起こすと、やはり来年はトップで吹きたいという思いが出てきて、そうなると、ここで少しは骨があるところを見せつけたいなという気分にさせられる。
こんな風に思えるのは、やはり僕が1st吹きだからなのだろうか。
僕自身、自分が1st向きなのか、はたまた2nd向きなのかはわからない。
無論どれが偉いというわけではない。でも、一度味わってしまうと、やはり一番気持ち良いのは1stの軸、バンドの軸となるとトップに違いないと思ってしまう。
来年、立花にトップを任せ、2ndでアシストするか?
いや、僕が吹く。そのためには、僕だってできるんだということをみんなに見せつけなければならない。
今年、僕は普門館でソロを吹く。そうすれば、みんなが僕を次年度のトップ吹きと認めてくれるだろう。
悪いが、朝比奈先輩に譲る余裕はない。負けてなんかいられない。
「タカチ。この後ご飯行かない」後ろから、伊豫田が手を振り駆け寄って来て、僕の横に並んだ。
「なぁ、イヨ。僕にもソロ吹くチャンスってあると思う」僕は伊豫田にそっと聞いた。
「私は、音色的に、あんたが一番向いてんじゃないかって思ってたよ。豊田先輩は繊細さが足りないし、朝比奈先輩は何よりメンタルがね。やっぱり、トップとか、ソロとか、そういうのが向いている人じゃなかったんだなって」
そうかと僕は頷いた。
朝比奈先輩は2nd吹きだ。
しかし、手強い。
だが、そのことを知っている人はあまり多くない。
でも、僕は知っている。
負けてなるものか。
僕は乾いた唇をペロリと舐めた。

2nd吹きの憂鬱〈下〉

2nd吹きの憂鬱〈下〉

ある高校の吹奏楽部のトランペット吹きの話。 2nd吹きとして舞台に上がることが多かった朝比奈先輩だがコンクールではトップを任されることになった。朝比奈先輩とその周りのトランペット吹きの物語

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-09-02

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