鬼霊戦記
本作品は2007年に脱稿した作品です。
物語の前半、福島県郡山市を舞台にしていますが、東日本大震災前のため、違和感を覚える方がいらっしゃるかも知れません。
予めお詫びしておきます。
拙作が少しでもお楽しみいただければ幸いです。
序章
北風が唸り声を上げ、雪が痛みの粒となり顔を打つ。
夕方にはまだ少し時間があるはずだが、分厚い雲に陽光は完全に遮られ、真夜中のようだ。
寒さは刃の鋭さで、由良 の身体を凍えさせた。
少しでも寒さから身を守ろうと、彼女はマフラーで顔のほとんどを覆った。
両手は無意識に、下腹部を庇うように押さえていた。
ここは福島県猪苗代町。辺りには畑と森ばかりで、民家は置き忘れられたように点在しているだけだ。
由良は勤めている役所の指示で、ここへ来るはめになった。
数日前から、森の奥で異様な音が聞えるとの苦情が付近の駐在所に届いて、人手が足りず町役場に仕事が回ってきた。
事件性も考えられず、駐在と役場は住民の思い過ごしと判断していた。
ところが、このところ猪苗代町では役場の不祥事が連続して発覚しており、町民の間に不信感が高まっている。
こういった事情から、今、役場では特に住民の声に耳を傾けるという姿勢を示す必要があった。
誰かを行かせる必要があり、ここぞとばかりに由良が選ばれた。
些細なことではあるが、彼女も『不祥事』を起こしていたからだ。
由良は法に触れるようなことをしてはいない。むしろ被害者は彼女の方なのだが、小さな田舎町であることが災いした。
雪の上に足跡を点々と刻んできたが、風がそれを吹き消していく。
それはあたかも由良の存在自体を吹き消そうとしているようだ。
この辺りの森に玄翁石 と呼ばれる巨石がある。
玄翁石には、その名の由来ともなった伝説があり、それが今回の苦情がオカルトめいている原因にもなっていた。
昔、大陸を荒らし廻った白面金毛九尾の狐が日本に渡って来て、鳥羽天皇の寵愛を受けた。
鳥羽天皇を亡き者にし、日本を我が物にしようとするが、陰陽師・安部泰成 に正体を見破れ那須に逃れた。
上総介広常 と三浦介義純 に矢で射られ、巨大な石に姿を変えるが、その後も毒を吐き続け人々を苦しめた。
しかし、遂に玄翁和尚の霊力により三つに割られ、各地に飛び散っていった……
その一つがこの村にある玄翁石だ。
この伝説は、今では地元でも知る者が少ない。由良もここに来る直前に、年配の職員に聞かされるまで知らなかった。
由良は立ち止まり周囲を見回した。
この辺りには、磐梯山の噴火で飛んできた大きな石が幾つもあり、玄翁石もその一つだというのが通説だ。
玄翁石は飛んできた石の中で最も大きく、中央から二つに割れているらしい。
だが、今まで見た石でそれらしい物は無かった。由良は渡された地図をハンドバックの中から取りだした。
玄翁石のある大体の場所に印を付けてもらったが、そこにはそれらしい巨石は影も形も無い。印を付けたその職員自身、子供の頃に見たことがあるだけで実際に足を運んだことはもう何十年も無いということだ。
近所の年寄りにでも聞いてみろと言われたが、あいにくの天気で誰も表には出ていない。
通り過ぎた民家まで引き返して、わざわざ尋ねるだけの気力と労働意欲を由良は持ち合わせていなかった。
玄翁石が怪音の原因という根拠は何もない。苦情の中に、伝説を気にして玄翁石を調べて欲しいという意見があったので、一応見てこいという指示が出ているだけだ。
仮に玄翁石に原因があっても、自分がそれを証明し、問題を解決出来るとは思えない。
戻って、何も無かったと報告すればいい、それでこの仕事は終わりだ。いくら嫌がらせでも、もう一度玄翁石を調べてこいとは言われないはずだ。
一キロほど離れたところに停めてある自分の車に戻り、暖房をガンガンに入れて身体を暖めよう。そう、そうすべきだ、それは判っているて……判っているはずだった。
由良は消えかかっている自分の足跡を見つめていた。
フッと、暗い影が脳裡をよぎった。
下腹部に痛みを感じた。
由良は数ヶ月前に子供を流産していた。
相手の男性とは結婚まで考えていたが、妊娠が判った途端、男は由良の前から姿を消した。
それでも由良は子供を生む決心をしていたのだが。
信じていた男 に捨てられたことが、彼女の心を深く深く傷つけていた。それが流産の原因かもしれない。
そして、これこそが由良の起こした『不祥事』だ。結婚もせず妊娠をした、いまどき珍しいとも思えないが、それがこの田舎町の実態なのだ。
すぐに近所の噂になり、職場にもそれは届いた。上司からは遠回しに自主退職を勧められている。この嫌がらせも由良を排除するために仕組まれた物だ。
雪が由良の髪を白く染めていく。孤独感が心に広まっていき、胸が張り裂けそうになった。
風の音と雪以外、この世界には何もない。たった独り、自分だけがこの世界をさまよっている。
もう疲れた……
由良はふらふらと、車がある場所と反対の方へ歩き始めた。
雪と風はさらに強さを増し、吹雪になっていた。作物のない畑ばかりで風を遮る物はほとんど無い農道を、由良はトボトボ歩き続けた。
今までに幾度となく生きる事が嫌になった。その度に、死んでしまえば自分の負けだと己を叱咤し今日まで生きてきた。
それも、もう限界だった。雪の白さが由良を死に誘 っていた。それはとても魅力的に見えた。
どれくらい経ったのか、何かに憑かれたように由良が歩いていると、目の前に森が現れた。
この森で死のう……
由良は獣道のような細い道を進み始めた。しばらく歩いていくと開けた場所に出た。
そこを埋め尽くしていたのは、苔生した古い墓石だった。
急に可笑 しくなり、由良は笑いだした。傑作ではないか、男に捨てられ、子も生めず、死のうとしている女がたどり着いた場所が忘れ去られた墓場とは!
皮肉な巡りあわせに気を取られていたため、彼女は自分の間近にあるその存在に気が付いていなかった。
由良が手前にあった墓石に腕を伸ばし、積もった雪を払い除けようとしたその時、身体の芯を砕くような轟音が鳴り響いた。
それは聞いたこともない、地獄の底から響くような不気味な音だった。それはその存在から発せられたのだ。
由良は、自分が危険な状況に置かれていると感じた。
死を願っていた心に、恐怖が滲み出してきた。
恐怖は堰を切ったように急速に溢れ出し、由良の生存本能に火を点けた。
逃げなきゃッ。
しかし、パニックを起こしかけている由良は脚をもつれさせ、倒れてしまった。
背後に得体の知れない存在を感じ、さらに気が動転していた。逃げようと、必死に手足をばたつかせるが、立ち上がることすらできない。
再び怪音が轟いた。由良は耳を押さえたが、その震動は由良の全身を振るわせ、直接鼓膜に、頭の中に響いた。
音はやんでも、背後に迫る気配は消えなかった。
心臓が激しく脈打ち、荒い呼吸と共に口から飛び出してきそうだ。由良は何とか深呼吸をし、少しでも落ち着こうとした。
「ううう……」
微かにうめき声が聞こえたような気がした。怪音のせいで聴覚が麻痺してしまい、ハッキリ判らない。
由良は再び深呼吸をした。
背後の気配が自分を狙ているとすれば、背を向けたままでいるのは危険すぎる。ずっとこのままではいられない、由良は覚悟を決めた。
思い切って振り返る。
由良は眼を見はった。
背後にあったのは巨大な石……中央から二つに割れた巨石だ。
玄翁石……
しかし、由良を驚愕させたのは、その大きさや形ではない。
巨石の表面が、嵐に乱される湖面のように波立っている。
そして、その巨石の前に一人の女がうずくまるように倒れていた。
うめき声はその女が出したのだろうか。
女は時代劇に出てくる、武家の女房のような着物を着ていた。顔は見えないが着物は着崩れ、髪は乱れている。
女の身体が痙攣するかのように、数度動いた。
身体が脇にずれ、その下に幼い少女が横たわっているのが見えた。
年の頃は五、六歳か。女と同じように着物をまとっているが、こちらは緋袴 を着けた巫女装束だ。
その子は、グッタリとしていて、うめき声すらあげていない。
由良の心に満ちていた恐怖は、少女を見た瞬間に薄らいだ。
よろよろと立ち上がり、女と少女に近づいた。
「しっかり」
耳がまだジンジンして、自分の声がよく聞こえない。
女が顔を上げた。乱れた髪が顔にかかり、ゲッソリとやつれている。顔色も死期が迫った病人のように真っ白だ。
にもかかわらず、由良はその女性を美しいと思った。年の頃は由良と同じ、二四、五か。
女は子供に視線を向けた。震える手を少女の口元に近づける。
やつれた顔に安堵の表情が浮かぶ。
「無事なの?」
女は何事かを由良に向かい囁いた。
「なに?」
まだ、耳がよく聞こえない。由良は顔を女に近づけたが、女は再び突っ伏した。
「しっかり、しっかりして」
由良は女の身体を揺すり、救急車を呼ぶため携帯電話をポケットから取りだした。
第一章 ドッペルゲンガー
一
夕闇が足早に迫っている。
本殿の影が境内に覆い被さり、風が枯れ葉を舞わせ、肌寒さが夏は遠くへ過ぎ去ったことを物語っていた。
ここは福島県郡山市に在る開成山大神宮。この神社は日本で唯一、伊勢神宮の分霊として、明治九年にこの地に勧請 された。
敷地のすぐ前を国道が通り、裏には郡山女子大学がある。それでも三〇年近く前までは、それなりに木々も多く、多少なりとも清浄な雰囲気を漂わせていた。
現在では地面をアスファルトで覆った駐車場なども完備され、残されたわずかな木々も庭園のように手入れが行き届いている。そのせいか、神社の持つ独特の神秘性が薄れていた。
聖域という言葉とは程遠い大神宮だが、今この神社の境内にただならぬ妖気を放つ者たちが集っていた。
その中にいる一人は緋袴 を着けた巫女装束だ。神社に巫女がいるのは不思議ではないが、この巫女は大神宮の者ではなかった。
一見したところ、二十代半ばから三十代前半のようだ。顔には一本の皺もなく、きめ細かな肌をしている。その色は異様に青白く、まるで病人のようだ。瞳には深遠な知性の輝きがあり、見る者を威圧する力強さが秘められている。
二、三十歳の年齢で、これほどの威厳を持つことは不可能であろう。一体、彼女は幾つなのか、見れば見るほど判らなくなる。
この巫女を囲むように七人の者たちが立っている。着流し、忍び装束、狩衣、鈴掛、僧衣、そして陣羽織を纏った者が二人。まるで時代劇のようだが、撮影スタッフやイベント関係者の姿はどこにも無い。
居ないのはそれだけではない、夕刻のこの時間なら参拝客が少なくとも一、二組みは来ている。たまたま参拝者が無かったとしても、入り口の北側にある社務所に巫女が居るはずだ。
事実、参拝しようと鳥居の前まで来た者もいる。ところがどういう訳か、そのまま通り過ぎてしまう。巫女や宮司も同じだ。この神社にいる者は皆、何らかの理由を見つけ出し、奥へ引きこもっていた。
「げっへっへっ……この程度の結界にも気づかねぇとは、ここの奴らとんだ間抜けばかりだぜ」
赤茶けた忍び装束を着た男が言った。ズングリとして背が低くく、ギョロついた眼に大きな口、それに顔中を大きなイボが覆っていて蝦蟇蛙 を連想させる。腰に差してあるのは忍び刀だ。
「ですがこの異界、我らの理解を超えた物ばかり。油断は禁物……」
「娑羯羅 、出過ぎた真似はするなッ。おぬしが云わなくても大身 は解っておる!」
針金のように身が引き締まった僧衣の男が、憎悪を込めた眼で陣羽織の一人を睨みつけた。
娑羯羅は泰然とその視線を受け止めた。年の頃は一八、九か、中性的で非情に美しい面立ちをしている。高く澄んだ声から女であろう。陣羽織は地味な柄の紺地だが、対照的に袴は巫女を思わせる鮮やかな緋袴で、腰には小太刀を帯びている。
紺の陣羽織を纏った巫女、このどこか不自然な少女に、もう一人の巫女は威圧的な眼差しを送っていた。
「跋難陀 殿、御無礼を」
殷々無礼な娑羯羅の態度に、跋難陀は苦虫を噛みつぶしたしたような顔をした。
「先ほど、私の『式』が何者かに破られました」
狩衣の男が静かに言った。その表情からは何の感情を読み取ることも出来ない。非常に整った顔立ちをしており、貴公子然としている。狩衣を纏ったその姿は、まさに平安絵巻から抜け出してきた貴族のようだ。
「まことか、優鉢羅 ?」
跋難陀の声に緊迫の響きが含まれた。優鉢羅は黙って頷いた。
「ふん、やっと到着か。東軍の腰抜け共など、わし一人で返り討ちにしてくれるわ!」
鈴掛を着た修験者らしき大男が吼えた。
「どうか気をお静めください。和修吉 さまなら、どんな追っ手が来ようと物の数ではございません。でも、あたくしどもには果たさねばならぬ大切な務めがございます。ここは慎重を期した方が良いかと」
「徳叉迦 、うぬは心配性じゃのう」
和修吉をなだめたのは、脇差しを差したもう一人の陣羽織だ。
この青年は優鉢羅とはまた違った美しさを持っている。優鉢羅は男性的な優美さを誇っているが、徳叉迦の美貌は女性的で妖童と呼ぶにふさわしい。
そして何より人目を惹くのは、柘榴石 のような左眼だ。事実、その瞳に見つめられた粗暴な和修吉が、先程までの興奮が嘘のように静められ、苦笑を浮かべているではないか。
「で、追っ手の数は?」
優鉢羅は人差し指を立てた。表情は相変わらず能面のようだ。
「ケッ、わしらもナメられたもんだ」
「寄越さなかったのではない、寄越せなかったのだ。どちらにしろ優鉢羅の式を一人で打ち破ったとなると、侮 ることはできぬ」
腰に太刀を佩 いた、着流しの男が口を開いた。眉間に刃物で斬られた醜い傷跡がある。男はそれを指でなぞっていた。
「阿那婆達多 の云う通りぞ。我ら八大竜王にたった一人で立ち向かわせるとは、東軍もよほどの者を送り込んだに相違ない」
「難陀 さま……」
和修吉は悪戯を母親に見つかった子供のような顔をした。
「それではこれより二手に別れる。阿那婆達多、和修吉、優鉢羅は私 と共に参れ。残りの者は跋難陀に従い、摩瑜利を見つけ出すのじゃ」
「お待ちをッ、如何 するおつもりか?」
鋭い声を娑羯羅が発した。
「お前の知ったことではないッ」
難陀の代わりに跋難陀が答えた。
「貴殿 には聞いておりませぬ、姉君にお答え頂きたい」
「貴様……」
弟を手で制し、難陀が口を開いた。
「浅はかよのう、私 が太元帥 殿を裏切るとでも思うてか? 私 は摩瑜利の他に土産を持って帰るつもりなのじゃ」
横柄な言葉に、娑羯羅は眼を細めた。
「その土産とは?」
「さぁ、何であろうなぁ」
難陀は娑羯羅に背を向けた。
「追っ手が居ります。まず、その者を片付け、摩瑜利を手に入れることが先決」
「ホホホ……たった一人の追っ手に、八大竜王全員が必要かのう?」
嘲 る難陀の声に、娑羯羅は奥歯を噛みしめた。
「御自分で仰ったはず、追っ手が一人ということは、それだけ危険な者だと」
「どんなに危険な相手でも、一人の追っ手に対し八大竜王の四人が相手じゃ。うぬはそれを油断と申すか?」
「…………」
娑羯羅の沈黙に難陀は振り返った。その顔には勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
「私 と優鉢羅の占術により、この街に摩瑜利がいることは確か。じゃが、五日間探し続けたにもかかわらず、それ以上の手掛かりは見つかっておらぬ」
娑羯羅は何か言いたげに口を開けたが、難陀が間髪入れず話しを続けた。
「追っ手が来たということは、手掛かりが現れたと云う事じゃ。それを利用すれば、四人でも充分に足りるはず」
「追っ手が手掛かりになるとどうして云いきれます?」
「東軍は我らが摩瑜利の居場所を探り出すまで、十年もの間放って置いた。何故じゃ?」
「奴らには、摩瑜利の行方を突き止める能力 が無かったのでしょう。異界を探る能力を持つ鬼霊は、希でございますから」
「少しは頭を使えるようじゃな。では、あの者たちが摩瑜利の居場所を知ったらどうする? 異界を探る能力 はなくとも、異界に行けば摩瑜利を探し出す能力 が有る者はおるはずじゃ。違うか、娑羯羅?」
難陀の最後の言葉には含みがあった。確かに娑羯羅は、誰が送られて来たか判っていた。
「それからもう一つ……お前が何者であれ、八大竜王の長はこの難陀じゃ。それはお前の兄上、太元帥殿も認めておる」
「解っております」
言葉とは裏腹に、瞳に激しい怒りが浮かぶ。
「ならば大人しく従え」
難陀は顎をしゃくり弟を促した。
跋難陀は軽くうなずくと夕闇に溶け込むように姿を消した。徳叉迦と大身も続いて姿を消し、最後に娑羯羅も夕闇の一部となった。難陀は娑羯羅がいた空間をしばらく睨みつけていた。
娑羯羅の姿が消えてから間もなく、社務所の奥からここで巫女をしている喜多川麗子 が飛び出してきた。本殿に隣接する稲荷神社の掃除をすることになっていたのに、何故かそれをすっかり忘れていていた。こんなことは初めてだし、他の巫女や禰宜 たちもそのことに気が付かなかった。
麗子はパタパタと境内を駆け抜け、急いで境内の奥へ向かった。そこに稲荷に繋がる抜け道がある。
「あら?」
本殿と稲荷を区切る壁に見慣れない御札が貼ってある。
「だれが……」
もっとよく見ようと、麗子は顔を近づけた。
「キャッ」
突然、御札が眼も眩むほどの明るい炎を上げて燃え上がった。
「な、なんなの……?」
チカチカする眼をこすりながら、麗子は御札が貼ってあった場所を見つめた。しかし、そこには焦げた跡も無ければ、御札が貼ってあった形跡すらない。麗子は更に視力が回復するまで待ったが、やはり何も見つからなかった。
麗子はまさに狐につままれたような顔をした。掃除を忘れたことに対する稲荷の祟り、いや、バチだろうか。いくら巫女でも、彼女はそこまで迷信深くはなかった。
夕闇が濃さを増してきた。いつまでも、壁とにらめっこをしている訳にはいかない。麗子はサッサと仕事を済ませることにした。
それでも気になって、翌日、明るい中で御札が貼ってあった場所を再び確認したが、結局、壁に不審な点は見つからなかった。
二
「きのうの怪奇特集みた?」
「観るわけないじゃない、利恵は観たの?」
「へへへ……里美はこーゆーのニガテだからな。『ドッペルゲンガー』の話が怖かったんだ」
「知ってる、自分とソックリな人が目の前に現れると、数日後に死ぬってヤツでしょ」
「そうそう。光奈、アンタもみた?」
唐突に話しを振られた望月光奈 はハッとして、自分の前の席に集いる石川利恵 と加藤里美 に顔を向けた。
「えっと……なに?」
「ワタシたちの話し、聞いてなかった?」
人がせっかく気をつかって話しを振ってやったのに、利恵の表情がそう言っていた。
「ごめん……」
利恵は光奈が見ていた物にチラリと目を向けた。そこには誰も居ない席があった。
ここは福島県郡山市にある県立安積中央高等学校 。福島県では伝統的に私立より県立の方が人気がある。その中でも安積中央は県内で有数の進学校で、十数年前までは男子校だった。
福島県は学校制度の近代化が遅れており、高校の男女共学が行き届いたのは二一世紀になってからだ。
「また彩香のこと考えてたの?」
「うん……」
光奈も再び視線を彩香の机に向けた。
「アンタが気にしたってしょうがないじゃん。ダイジョーブだって」
「そうだね……」
軽薄さを感じさせる口調で言うと、利恵は里美と怪奇特集の話に戻っていった。今度は光奈に話題を振ろうとはしなかった。
光奈はホッとしつつも、幼い頃の記憶を呼び戻してた。
彼女の母は日本人だが父はアメリカ人らしい。その父は光奈が生まれる前に他界していて、母も思い出すと辛いのか、余り父についての話しをしない。光奈も幼い頃からそれを感じ、父についてはなるべく聞かないようにしていた。
しかし、血のつながりは否定しようもない、光奈には明らかに父の面影がある。小柄な彼女は後ろから見れば普通の日本人だし、瞳の色も母と同じ茶色だなのだが、目鼻立ちは明らかに異国の血を引いていることを示している。
このことが災いし、幼いときの光奈はほとんど友達がいなかった。人見知りに加え、言葉の問題があった。
誤解しないで欲しい、光奈は日本語が苦手なのではない、日本語しか解らないのだ。
光奈の母は地方テレビ局に勤めていて、ほとんど家を空けている。彼女を育ててくれたのは祖父母だ。
母は留学経験もあり英語も堪能だが、家では滅多に話さない。
祖父母は、「ティーシャツ」を「テーシャツ」、「セブンイレブン」を「セブンエレブン」と発音する。この二人を相手に英語を話す必要は皆無だ。そもそもこの二人は、英語でコミュニケーションなど取れない。
光奈の身近に、英語を話す人間はいない。したがって、光奈の英語力は日本人の標準レベル、いや実際はこのせいで避けてきたため英語の成績が一番悪い。
光奈が英語を話さないと周囲はなぜか失望する。初対面の人間は光奈を外人と勝手に思い込み、外国語を話すことを期待する。そして光奈が外国語、とりわけ英語を話せないと知ると、まるで珍獣でも見るような顔をする。おっかなびっくり話していた人も、英語力をひけらかすため、用もないのに話しかけて来たヤツも、この反応はだけはほぼ一緒だ。
そして、不可思議な壁がそこに築かれる。日本人なのに日本人ではなく、アメリカ人でも、ましてや他の国の人間でもない。一体自分はどこに属するのか、光奈は常に自分が異邦人であるような気がしていた。
国際化という言葉が叫ばれ始めたのはいつの事だろう。郡山は首都圏に比べ、まだまだ外国人は少ない、そのため光奈は嫌でも人目を惹いてしまう。小、中、そして高校に入学したての頃は、周囲が自分を特別な眼で見なくなるまで、居心地の悪い思いをさせられた。もっとも、高校に入学したときはいい加減慣れていたので、さして気にならなくなっていたが。
しかし、さすがに小学校のときは辛かった。幼稚園の頃は、幼すぎて解らなかったが、小学生になると露骨にそれを感じた。このことが原因で不登校になりかけたこともある。それを救ってくれたのが、神鳥彩香 だ。
彩香とは小学一年生の時に、初めて一緒のクラスになった。入学式のあの日、他の子は遠巻きに光奈を見てるか、珍しがって話しかけてくるだけだった。話しかけた子はお決まりの戸惑いの表情を浮かべ、例の不可解な壁が築かれていった。まだ、そのことに慣れていなかった光奈は泣くのを必死で我慢していた。
そんな入学式の休み時間、光奈がトイレに入ろうとしたら後ろからぶつかってきた女の子がいた。それが彩香だ。彼女はトイレをずいぶん我慢していたらしく、顔をまっ赤にして駆け込んできた。おまけにハンカチまで忘れていて光奈が貸してやった。その時に見せた、屈託のない笑顔は今でも忘れることができない。彩香は光奈との間に一切壁を作らず、他の子に接するのと同じように接してくれた。光奈にはそれが何より嬉しかった。
義務教育九年間、実に六年間も同じクラスで、高校に進学し再びクラスメイトになった。その間に、些細なことでケンカをして絶交寸前まで行ったことは一度や二度ではない。言い替えれば、そんなケンカを何度もできるほど彩香は光奈にとって特別な存在だ。親しい友だちも今では沢山いるが、やはり彩香が一番の親友なのだ。
そんな彩香が学校を数日欠席している。
合唱部に少しだけ顔を出し、光奈は早々に下校しようとしていた。コンクールが二十日後に迫っていることもあり部長に嫌な顔をされたが、彩香も合唱部なのでそこは何とか説得に成功した。
部員不足なので彩香がコンクールに参加しないのは、部にとっても非常に痛手なのだ。休んでいる理由を光奈はごまかしているが、色々な噂がすでに飛び交っていた。一刻も早く見つけなと、今度は噂のせいで登校できなくなるかもしれない。
一度持たれた偏見を克服するためには、何十倍もの時間と努力が必要になる。光奈にはその苦労が嫌と言うほど判る。
「望月ッ」
下駄箱へ向う途中、聞き慣れた訛 りに呼び止められた。
「ヨッシー……」
振り返ると、アーチェリー部の練習用ユニフォームを着た少年が立っていた。スポーツ刈りの頭に、ニキビが目立つ顔。どうひいき目に見ても、十人並みのルックスだ。訛りのせいもり、雰囲気というか、存在自体が完璧に田舎者と言わざる得ない。
「あー、その、なんだ。元気か?」
光奈は溜息を吐いた。
「ハッキリ聞けば? 彩香がどうしてるか知らないかって」
「そ、そだこと言ってねぇべ!」
顔が言ってる、と光奈は心で呟いた。
この少年、好沢浩之 とは一年の時、彩香と共に同じクラスだった。進級して浩之だけ別のクラスになったが、こんな感じで時々話しかけてくる。
「そ、じゃ、バイバイ」
光奈はクルリと背を向けると、スタスタ歩き出した。
「あッ、ちょ、ちょっと待でって!」
浩之はすがりつくように追いかけてきた。
「あたしなら元気だから」
「オメが元気かどうがなんて、誰も聞いてねぇべッ」
「たった今、聞いたべ!」
浩之と話していると、ほぼ完璧にマスターしている標準語がおかしくなる。光奈はピタリと歩みを止め、ギロリと睨みつけた。このドンカン!
「な、なんだよ……」
「なじょしてっか見に行ぐとこ。もっと知りだければついてこッ」
「み、見に行ぐってダレを?」
光奈は咳払いし、自分のペースを取り戻した。
「ウチのおじいちゃんに会いたい?」
「会いてぇわけねぇべッ。それに神鳥のとこさだって行けねーよ、オレがいきなり行ったら変だろ? それに部活だってあるし……」
浩之の声は尻すぼみに小さくなった。
「あたしは休んだ。ねぇ、彩香と部活、どっちが大事なの?」
「えッ?」
浩之の顔が見る見る紅くなっていく。いくら福島が田舎だと言っても、ここまで純朴な高校生は天然記念物並みだ。
この少年も彼女との間に、初対面から不可解な壁を作らなかった希有な存在だ。もっとも単に彩香のことで頭がいっぱいで、光奈のことなど眼中に無いだけかもしれないが。
そのことに思い当たった光奈は、意地悪な笑みを浮かべた。
「そりゃぁ部活が大事だよね、アーチェリー部のホープだもん。彩香なんてどうせ……」
浩之はこれでもアーチェリーの腕だけは全国大会レベルだ。
「おいッ」
浩之は本気で怒っていた。光奈はクスッと無邪気な笑顔を見せた。その顔がどれほど威力のある武器か、本人はまるで気付いていない。
「うふふ……‥冗談だよ、ジョーダン」
浩之の顔にさっきとは別の怒りが浮かんだ。光奈は少しやり過ぎたと思い、素直に詫びた。彩香のことが判ったら連絡すると約束して学校を後にした。
ケータイに電話をかけているのだが、学校を休み始めた日から一度も繋がらない。メールも頻繁に送っているがこちらも反応無しだ。
何があったのか、光奈はすでに知っていた。最近、彩香は母親に恋人が出来たと言って悩んでいた。彼女も光奈同様、父親がいない。二人が仲がいい理由の一つに、似た境遇で育ったことがあげられる。ただ、光奈が祖父母と同居しているの対し、彩香は母と二人暮らしだ。
そのせいか彩香は、母親との結び付きが自分よりも強いようだ。だからこそ、母親に恋人がいたことは、彼女にとってかなりショックだったのだ。ましてや、二人が結婚まで考えていたと知ったらどうなるか……その答えはもう出ている、家出だ。
光奈はこのことを彼女の母から聴いた。四日前の夜、光奈の家に娘がいないかとの電話があったのだ。彩香の母は結婚を考えていることを彼女に話した。その途端、激怒して家を飛び出してしまった。
光奈もすぐに心当たりを探したが、見つけることは出来なかった。捜索願も出され、今日で三日目だが彩香の行方は未だ杳 として知れない。今朝も彩香の家に様子を見に行ったが、彩香の母は仕事も手につかない様子で、大分やつれていた。
光奈は探しに行く前に、まず彩香の家に電話を架けた。彼女から直接連絡あるとは思えないが、警察が彩香を見つけた可能性もある。
「そうですか……おばさん、あたしももう一度、心当たりをあたってみます」
光奈はケータイをたたむと、カバンの中に押しこんだ。カバンは教科書などでパンパンだから、上手く整理しておかないとケータイを入れるスペースが確保できない。デジカメとアイポッドを持ち歩かなければもう少し余裕ができるが、そんなことは絶対にできない。ケータイとアイポッド、それにデジカメは光奈の三種の神器だ。
警察はいったい何をしているんだろう? こんな狭い街で、家出少女を一人見つけるぐらい訳ないと思うけど。
光奈はかなり身勝手な怒りを覚えていた。もし、光奈の思い通りに警察が家出をした人間を見つけられたら、行方不明事件は急減するだろう。実際、光奈もこの三日間、何度も心当たりに足を運んだが彩香の居場所はおろか手がかりもつかめなかった。
嫌な予感が胸に湧き上がる。やはり事件に巻き込まれたのだろうか、それともヤケになり取り返しのつかないことでもしたのか。
光奈は頭を強く左右に振った。肩まである黒髪がパッと広がり、頬に掛かった。手串で髪を整えながら、光奈は悪いことは考えないことに決めた。とにかく今は、自分の出来ることをやるべきだ。
光奈は彩香の行きそうな場所を頭の中でピックアップした。この三日間、何度となく繰り返した作業だ。そのリストの中で、彩香が一番行きそうな場所はプラネタリウムだ。
とりあえず、家に帰ってママチャリ取ってこないと……。
顔を上げるとさば雲が視界に入った。空が大分高くなっていた。
三
福島県で一番高い建築物『ビッグアイ』。駅前再開発で地域住民の反対を無視し、半ば強引に建設された。しかし、日本人にとって既成事実は何よりも強い。できてしまうと批判的な声は尻すぼみになり、やがてほとんど聞こえなくなった。
郡山駅西口あるこの高層ビルは、地上二四階、地下一階建てで、高さが一三三メートルあり、文句なく郡山一のランドマークと言える。東京の高層ビルに比べれば、さほど大きくないと思われるかもしれない。しかし、郡山にはこの建築物の半分の高さにも満たない建物がほとんどのため、その存在感は圧倒的だ。
さらにもう一つ、この建築物のインパクトを強める要因がある。二一階から二四階が空洞になっており、そこに銀色の巨大な球体がはめ込まれているのだ。これが『ビッグアイ』の名の由来にもなっている。
特に夕方から夜は、室内の蛍光灯が銀の球体を浮かび上がらせ、さらに威圧感を高める。
今、その巨大な目を見上げている一人の少女がいた。
長い髪を風がなでつけ、つぶらな瞳には憂いが湛えられている。少し大きめの口を囲む唇は、リップを塗らなくても鮮やかに紅い。そして、あごの右側、ちょうど下唇の下に印象的なホクロがある。今は、ぶかぶかのシャツとジーンズを身に着けているが、それが返って少女を艶やかに見せていた。
「彩香」
声に少女は振り向いた。そこには四日前の夜に知り合った、内村伸 が優しい笑みを浮かべて立っていた。
「どうしたんだ?」
ゆっくりと近づいて来ると彩香のすぐ隣に立っち、自分も球体を見上げた。
「あそこ、たしかプラネタリウムになってるんだよな」
「うん。わたし、あそこの年間パスポート持ってるの」
「へぇ~、そんなに星が好きなんだ?」
彩香は照れくさそうに微笑んだ。伸は奥羽大学の三回生。あの夜、彩香は当てもなく、ただブラブラと駅前をさまよっていた。母から恋人と結婚をしたいと打ち明けられ、一方的に非難して家を飛び出してしまったのだ。いつもなら望月光奈の所へ行くのだが、光奈の性格を考えると必ず母親に連絡する。それに光奈は、彩香の母が男と付き合うのに賛成だった。
他の友達には家のゴタゴタを知られたくないし、今は付き合っているカレシもいない。行く当てはなく、彩香は居場所を失ったと感じていた。
駅前通りには、仕事帰りのサラリーマンや仲間と笑い会う学生、そして幸せそうに戯れる恋人たちで溢 れていた。彩香の孤独感は一歩いっぽ深まっていった。昼間は長袖だと汗ばむほどだったが、夜は上着が必要なほど寒くなってきた。体が冷えたが、それ以上に心が冷え切っていた。生きる気力も萎 え、頭の隅にチラチラと死という文字が浮かび始めた。
「ねぇ、一人?」
唐突な声にハッとして顔を上げた。二人の男が彩香の行く手に立ちはだかっていた。片方の男は茶髪に鼻ピアス、もう一人は金髪にグリーンのカラーコンタクトを入れている。歳は二人とも二十歳前後か。
「イイ店があるんだけどさ、イッショにいかない?」
鼻ピアスが一歩彩香に近づき、顔を彩香に寄せた。
「わたし……」
「イイじゃん、いこうよぉ」
金髪が彩香の腕を取った。
「いや、放して……」
なぜ自分ばかりこんな目に遭うのか、彩香は泣き出したい気持ちだった。
「おい、やめろよ」
彩香は声の主を見つめた。そこに伸がいた。
「なんだッ、オマエこいつとカンケーあんのかよ!」
鼻ビアスが伸に掴みかかろうとした。伸はそれを振り払い、彩香を金髪から引き離した。
「この娘は知り合いなんだ」
伸は彩香を押すようにして、足早に大通りへと向かった。後ろから「ちょっとまてよ!」と怒鳴る声が聞こえた。
「大丈夫? 顔色悪いけど、あいつらに何かされた?」
伸は彩香が病気だと思ったようだ。顔色が悪いと病院へ連れて行かれそうになったが、彩香は拒否した。家に帰るわけにも行かず、結局彼のアパートに向かった。伸は何も聞かずに彩香に優しくしてくれた。彩香が本当に必要にしていた物を与えてくれたのだ。それから彼女は居着いてしまった。
「ねぇ、行ってみない?」
彩香は巨大な球体を指さした。
「え? ん、まぁ、たまにはいいか……」
彩香は伸の手を引いて、ビッグアイの入り口へと向かった。彼はそれほどプラネタリウムは好きではないようだ。しかし、文句も言わず嫌な顔もせずに付き合ってくれる。これが光奈だったら、
「え~、また行くの? 星なんて夜になれば、いくらでもタダで見られるのにぃ」
と言うところだ。
彩香は星空が好きで、もちろん天気がいい限り必ず夜空は眺めている。いつかは富士山の山頂で星を眺めたい、日本で一番高い場所で星を観ることが彩香の夢だ。
それに、いくら田舎と言っても夜空を観察するには、彩香の住んでいる街は明るすぎる。たとえバーチャルでもいいから、満天の星空が観たいのだ。
特に今は数日ぶりに星を眺めたい気分になっていた。母親のことを完全に整理できたわけではないが、多少落ち着きを取り戻していた。昨日までは、星を観る気になどなれなかったが、これも伸のお陰だ。
彩香は昨夜、ついに母とのことを彼に打ち明けた。伸は彼女のやったことを非難したりはしなかった。
「彩香は悪くないよ。オレも母親が再婚したとき凄く嫌だった。だから、高校を卒業したら絶対一人暮らしするって決めてたんだ。そうすれば、オフクロの顔も新しい父親の顔も見なくてすむから」
この言葉に彩香は救われた。自分のしていることを責められ、家へ戻るように言われるかもしれないとビクビクしてたからだ。今は絶対に伸とは離れたくなかった。
彩香はふと、光奈と交わした会話を思い出した。彼女が母親への不満を漏らすと、光奈は決まって母親の肩を持った。
「自分のママに恋人がいても同じこと言える?」
と彩香が問うと、光奈は決まって、
「あたしは、お母さんが決めた人ならいいと思う。お母さんにだって、幸せになる権利はあるんだよ」
彩香は光奈のこういう所が大嫌いだった。あまりにも優等生、あまりにもいい子過ぎる。実際、母親に恋人がいたら、そんなことは絶対に言えない。あるいは光奈なら、表面上はいい子で通すかもしれない。しかし、本心では嫉妬と嫌悪、そして孤独を感じるはずだ。
彩香と伸は直通エレベーターで、二二階のスペースパークへとやって来た。ブラネタリウムの投影までだいぶ時間があるので、それまで展示品や窓から眼下に広がる街を眺めて時間をつぶすことにした。展示品といっても、二一階から二三階に渡る吹き抜けをほとんど巨大球体が占めている。球体の中には、プラネタリウムの他に有料展示場もあるのだが、彩香と伸はそこには足を踏み入れないことにした。
無料の展示品となると数は極端に限られ、鉄道ジオラマぐらいしかない。これは、Nゲージの鉄道ジオラマとしては全国一の巨大さを誇る物で、明治、昭和、現在の郡山駅が再現されている。
「なんでスペースパークなのに、鉄道ジオラマなわけ?」
「さぁ」
このスペースパークは展望台にもなっており、高さは地上九六メートル。郡山市を一番高いところから見下ろすことができる。二人はたわいのない会話をしながら、夜の街を楽しんだ。時間は瞬く間に過ぎ開場の時間になった。
「彩香、そろそろ行こうか?」
「うん」
伸に促され、彩香はガラスに背を向けた。その刹那、背後から視線を感じ、思わず振り向いた。
夜の闇はガラスを巨大な鏡にしていた。そこに自分の顔が映っている、彩香はその顔に違和感を覚えた。
なに……?
そこに映っているのは紛れもない自分の顔だ。彩香はまじまじとガラスに映っている自分を見つめた。
「アッ」
鏡像のあごを凝視した。向かって下唇の右側、つまりガラスに映っている彩香の左あごにホクロが無い。
彩香は思わず、自分のホクロを指先で触れた。しかし、鏡の中の自分は手を動かさなかった。
「どうした? 早くしないと始まるぞ」
伸が少しいら立ったように声をかけた。
彩香は蒼白の顔を伸に向けた。
「なんだ、幽霊でも見たような顔して」
「これ……」
ガラスに映る自分を指さす。
「UFOでもいるのか?」
「だから……」
彩香は恐る恐る、再びガラスの中の自分を見た。
「あれ?」
あごにホクロがある。再び彩香は自分のホクロに触れた。今度は鏡像も同じことをした。
「そういうことは表に出る前にしろよ。まっ暗のプラネタリウムに入る直前にすることじゃないだろ?」
彩香は戸惑いの表情を浮かべた。
「違うの」
ガラスに映る自分を指さしたが、そこには何の変哲もない。
「ホラ、行くぞ」
伸は彩香の腕を取り、球体の入り口へと向かった。頭の中にある言葉が浮かんだ。『ドッペルゲンガー』、昨日伸と二人で観たテレビの怪奇特集で覚えた名前だ。
これから死ぬ人間と瓜二つのモノが、本人や知人の前に現れる怪現象のことを言う。ドッペルゲンガーは同時に複数の場所に出現したり、本人では移動不可能な距離にも現れるという。
この展望台はビッグアイの二二階にあたる高さにあり、彩香が見ていたガラスの外にはベランダやその他足場になりそうな物は一切ない。無論、ガラス磨きのゴンドラもなかった。つまり、誰かが彩香に化けてガラスの外に立つというのは不可能だ。
それでは錯覚か見間違いか。そうであって欲しいと彩香は強く願った。もし違うなら、自分が見たあれは一体なんなのか。
錯覚よ、錯覚。わたし、疲れてるもん……
彩香はプラネタリウムの星を観ることに集中し、ガラスに映ったモノのことを忘れようとした。しかし、仮想現実の空に輝く星座は、ホクロのない自分の顔だった。
四
すでに日は落ち、夜と言って差し支 えない暗さになっていた。
まだ、六時過ぎなのに……
光奈はザ・モール郡山というショッピングセンターに来ていた。ビッグアイ向かう途中、ちょうどこの前を通りかかったのだ。ここには彩香と買い物やプリクラを撮りによく来ていた。光奈のリストの中で、彼女がいそうな場所ベスト3に入っている。
何らかの確信があって、ビッグアイに向かっている訳ではない。ただ、彩香はあそこに一番いそうだという、半ば直感をもとに行動しているのだ。実際、二回ほど足を運んでみたが空振りだった。
ザ・モールにしても四度、つまり彩香が家を飛び出した夜から毎日来ているが、一度も見つかっていない。それでも、一応確認しておくべきである。ひょっとしたら、今、中でショッピングに夢中になっているかもしれないし、寂しそうに独りプリクラをしているかもしれない。
決して自分は、プリクラの新フレームが入荷したのか気にしているのではない。昨日もラインナップに変化はなかった。今日だって同じだ。そうそう替わる物でもない。それに今はプリクラなんかに構ってる場合ではない。全くどうでもいいのかと言われれば、そりゃキライじゃないし……。
光奈はプリクラに限らず、写真を撮られるのも撮るのも大好きだ。デジカメをいつも持ち歩いているのもそのせいだ。
しかし、彩香が行方不明の今、そんなことをしている場合じゃないし、そんな気分にもなれない。なれないはずだった。
光奈は、両手の親指と人差し指の間に挟まっているモノを見て、溜め息を吐いた。
あたし、ダメ人間だ……。
独りでニッコっとほほえむ自分が激しくバカに見える。寂しく独りプリクラをやるのは彩香ではく光奈だった。
ゲームコーナーに数台置かれたプリクラに、新フレームが入っていたのだ。すでに中学生や小学生の女の子たちがワイワイやりながら撮っていて、その後ろに一人並んで撮影したのだ。他のフレームだったら、まだ我慢できたかもしれないが、世界的に有名なネズミのフレームだったため自制が効かなかった。光奈はこのキャラクターに弱かった。
一枚だけ撮ってすぐに彩香探しに戻るつもりだった。ところが、いざフレームのラインナップを見てみると、どうしても撮りたい物がいくつかあり、結局、四種類も撮ってしまった。
新入荷のため後ろにすぐ人が並ぶ。連続で撮ることができず、しかも独りプリクラだから、恥ずかしくてすぐに並び直すこともできなかった。それで、一時間以上ここで時間を使ってしまったのである。
真面目な性格であるが故に、光奈はひどい自己嫌悪に陥っていた。
「猪苗代町でここ数日間、森から怪音が聞こえるという苦情が出ています。一〇年ほど前にも同じような現象があったと、地元住民から話しがあり……」
家電コーナーの前で光奈は脚を止めた。大きなテレビ画面がいくつも並んでいて、県内ニュースが流れている。画面が切り替わり、森が映し出された。彼女はその森に見覚えがあった。小学校に入学する前、光奈は猪苗代町に住んでいた。そのときに何度か、今画面に映っている森を見たことがある。
光奈の母は町役場に勤めていたが、彼女が小学校へ上がる直前に転職して今のテレビ局の仕事に就いた。それが切っ掛けで猪苗代から郡山へと引っ越すことになった。
思わずテレビに見入っていると、自分の横を異様なモノが通り過ぎるのを感じた。
ハッとして、それを確認するために振り返った。キョロキョロと周りを見回す。しかし、そこには店員を含め、何の変哲もない客たちがいるだけだ。
そうだよね……
多分、赤茶けた服を着た人をすれ違いざまに見て錯覚したのだ。
こんな所で忍者の格好なんて、あたし、疲れてるのかな?
実際、見た色の服を着た者は側にはいなかった。
光奈の頭の中は再び彩香のことで占められていた。
五
まさか、自分の気配に気づく小娘がいるとは思わなかった。
赤茶けた忍び装束のズングリとした男が、ザ・モールの給水タンクの上にたたずんでいた。覆面から覗くギョロリとした眼、その周りにぎっしりと大きなイボができている。
開成山大神宮にいた蝦 蟇 男、大身 だ。
大身は駐車場を見下ろしていた。行き交う人々の中に、学生服姿の小柄な少女がいた。少女は自転車に乗って駐車場を横切り走り去った。
給水タンクは四方をロゴの入った緑色の看板で囲われており、忍び装束で闇に紛れた蝦蟇男を見分けられる人間はまず居ない。
それでも大身は、今度は油断することなく気配を断っていた。この『気配を断つ』という行為は、周囲に意識を同化させるとか、我を滅して己の存在を無にするなどといった観念的な物ではない。蝦蟇男は周囲の人間の意識を操り、自分を認知させないようにしているのだ。
大身は揮発性の高い汗を自在にかくことができる。この汗には特殊な成分が含まれており、それを吸った者は大身を認知しなくなるのだ。これは蝦蟇男の一族に遺伝する能力の一つで、大身は特にこの能力に長けていた。一度にかける汗の量が多く、またそれに含まれる成分も濃い。
大身はここに来て完全に油断していた。五日間、隈 無 くこの街を探索したが、一度として己の存在を気取られることは無かった。そして心に隙が生まれた。不思議な筺 に見入ってしまい、発汗量が減っていたのに気づかなかった。また、この世界は絶えず嫌な臭いがするので、その影響もあったのかもしれない。
そこまで考えをめぐらせておいて、ふと、蝦蟇男の頭に別の考えが浮かんだ。
どうしてあんな小娘が気づきやがった?
他にも若い男が二人、老女が一人、子供が三人ほどいたが、全く蝦蟇男に気がつかなかった。つまり、大身の術は彼らには利いていたのだ。
娘は随分変わった顔をしていた。異国の血を引いているのか、それとも特殊な存在なのか……
そう都合よくいかねぇわな。
そう簡単に行くなら、とっくに摩瑜利は見つかっている。第一、彼らが崇める太元帥も見た目は普通の人間と変わりがない。変わりがあるのは自分の方だ。
蝦蟇男は気持ちを切り替え、意識を集中した。今、探さなければならないのは摩瑜利ではない、自分たち以外の鬼霊だ。
相手も只者ではないだろうが、鬼霊は能力を使うとき独特の気配を放つ。大身はこの気配を感じ取る能力に長けていた。難陀や優鉢羅のように占術とは無縁の蝦蟇男は、未来を見通したり、相手の心を読んだり、遠く離れた相手の居場所を特定したりはできない。だが、限られた範囲でなら、占術よりずっと正確に鬼霊の場所を特定することができる。
「臨、兵、闘、者、階、陣、列、在、前!」
大身は半眼を閉じ、両手で印を結びながら口の中で真言を唱え、意識を集中した。五感が研ぎ澄まされ、普段は聞こえないような音、気づかないような匂い、そして感じないような刺激を感知し始めた。
この世界は蝦蟇男にとって、己の能力を発揮しにくい場所だ。聞いたことの無い騒音、嗅いだことのない悪臭、経験したこともない刺激に溢れている。
その中から、自分が感じ慣れている物を探さなければならない。すぐに跋難陀の力強い気配と徳叉迦の妖艶な気配を感じた。しかし、娑羯羅の気配は全くない。大身の感覚が及ばない範囲にいるのか、それとも鬼霊の能力を使っていないのだろう。大身が気配を感じ取れるのは、せいぜい一里四方 に満たない。それに、鬼霊の能力 を使わなければ、そもそも気配を感じることはない。
しばらく意識を集中し続けたが、二つの感じ慣れた気配の以外に見出せる物は無かった。東軍の鬼霊がこの世界に来たと判って二日間、幾度となくこうして相手の気配を探ったがまったく手応えなしだ。よほど用心して能力 を使わないのか、あるいはこの街にいないかだ。
跋難陀様は、間違いなくこの街にいると仰るが……
難陀や優鉢羅には幾分劣るが、跋難陀は占術を使い、追っ手がこの街にいることを確認していた。
しかしなぁ、ここまで何にも感じねぇとなると……
跋難陀の占いが誤っているのか、それとも相手は気配を隠す術を持っているか。大身は前者であると思い始めていた。いくら気配を隠す法に長けていたとしても、相手も摩瑜利を探しているのだ。
東軍は当然、摩瑜利を探し出す能力を持つ鬼霊が送り込んだはずだ。その鬼霊は己の能力 を使い続け、八大竜王の出し抜こうとするはずである。いくら上手く隠しても、気配とは完全に消せる物ではないのだ。本当にこの街にいるなら、この二日の間に自分たち四人が誰も気づかないことなど有り得ない。
この街には追っ手も摩瑜利もいねぇのか?
摩瑜利もいないとすれば、難陀と優鉢羅の占術も間違っていたことになる。三人の鬼霊が同時に占術を誤るということはありえない。
畜生。
堂々巡りだ。再び大身は意識を集中し始めた。様々な感覚が通り過ぎていく。二つの鬼霊の気配は相変わらず感じる。と、その時、鬼霊の気配が三つに増えた。一瞬、蝦蟇男はそれは娑羯羅の気配かと思った。非常に似た独特の気配だったからだ。
しかし、それはどこか違っていた。いや、まったく違う。陰と陽、表と裏とでも言えばいいのか。正反対なのに根源は同質の物、そんな感じがした。
その気配は、大身が娑羯羅と別の物と気づいて間もなく消えた。それでも大身は、気配を感じた方向をしっかり覚えていた。
布で隠された蝦蟇男の大きな口に、笑みが広がった。
ひょっとすると、ひょっとするかもな。
一番手柄を挙げる絶好の機会が巡ってきた。蝦蟇男の頭にふと、人を見下したような娑羯羅の姿が浮かんだ。
蝦蟇男は唇を舐めた。あの小生意気なガキを手込めにするのは、この上なく痛快だろう。大身は地位や金銀財宝などに興味は無かった。八大竜王という肩書きもそうだが、そんな物は邪魔くさいだけだ。蝦蟇男の最大の欲望、それは性欲だ。特に高貴な出の者を好んだ。お高く留まっている女を征服することに、至上の興奮と喜びを感じる。
娑羯羅はそんな大身に打ってつけの褒美だ。太元帥の兄弟といえど遠慮はしない。こっちは女神を捕まえるのだ。
それに、娑羯羅はもとは跋難陀の稚児だ。兄の取り計らいで八大竜王にのし上がったが、この件が上手くいけば難陀の政治力はさらに強くなる。娑羯羅は難陀の配下である以上、最終的には従わねばならない。
例え逆らったとしても、太元帥さえ口出しできないようにしてくれればいい。力ずくで己の物にするからだ。抵抗されればされるほど、大身は燃える。蝦蟇男の頭には、娑羯羅に抵抗されれば己の命が危ないなどという考えは、浮かんでこない。
大身は二〇メートル以上ある、給水塔の上から飛び降りた。怪我をするどころか、着地する際にほとんど音を立てなかった。そして猛然と駆けだした。ドロドロとした欲望が胸に溢れていた。
鬼霊の気配は、先ほどの少女が走り去った方角から感じられた。
六
光奈はアイポッドでコンクールの課題曲を聴きつつ、夜の街並みを見下ろしていた。ビックアイの展望スペースも、この時間になると客はほとんどいない。ここに着いたとき、すでに最後の投影が始まっていた。できることなら、入場前に彩香がいるか確かめたかったが、途中で自転車のタイヤがパンクしてしまったのだ。仕方なく、一番近くにあった自転車でパンクを直してもらった。その結果、時間とお金を浪費することになった。
バチがあたったかな?
罰なんてあり得ない、そんなことは解ってる。普段なら神様など余り信じない光奈だが、プリクラのこともあり、ちょっと弱気になっていた。ここで投影が終わるのを待っているのもそのせいだ。ここに彩香がいるという保証はない。それならただボーッと待っていないで、他の場所を探した方がいい。
でも、そういう時に限って彩香がいるような気もする。結局、入場者が出てくるのを待つことにした。昼間ならデジカメで風景を撮影できたのだが、夜だと街のネオンぐらいしか写らない。彩香に何度も付き合わされてきているので、ここからの夜景は結構撮っている。
ちなみに、光奈のケータイにもカメラ機能はある。でも、専門のカメラで撮りたくて光奈はニコンのデジカメを持ち歩いていた。ちゃんと光学ズーム機能もあるし、フラッシュもケータイのよりずっといい。その他にも色々な機能があって使いがいがある。
光奈はケータイを取りだした。
そろそろか……
時間を確認したところで、上の方が騒がしくなった。光奈はプラネタリウムの入り口に向かった。入り口はこの二二階より一階分上の二三階の位置にある。ここから行くにはエレベーターか階段を使わなければならない。光奈は階段の方に向かった。
螺旋階段を登りきりると、ゲートの向こうに、エレベーターを待つ人だかりが見える。光奈はその中に彩香がいないか確かめるため近づこうとした。
「すみません、本日の投影はこの回で終了となります」
スタッフの女性に行く手を阻まれてしまった。
「あたし人を……」
その時、エレベーターが到着し、集まっていた客たちがエレベーターの中に吸い込まれるように入っていった。光奈はその中に、探していた顔を見いだした。
「彩香!」
彼女は光奈に気づかず、隣にいる男性とエレベーターに入っていった。光奈は急いでスタッフを押しのけて、人だかりに向かった。光奈は強引にエレベーターに乗ろうとしたが、太ったおばさんに弾かれた。おばさんは光奈をギロリと睨みつけた。
「あの……」
レベーターの扉が閉まった。光奈は今度、螺旋階段へと急いだ。ここで彩香を見失うわけにはいかない。
光奈は展望スペースに戻ると、大急ぎでエレベーターのボタンを押した。階数表示で、彩香の乗ったエレベーターの位置を確認する。
「あッ」
すでに彩香は二二階より下へ行っている。満員のため、止まったエレベーターを二つやり過ごした。スペースパークに止まるエレベーターは全部で三つ。いずれも直通だが、光奈が乗れたのは、すでに彩香を下に運んだエレベーターだった。
光奈は取りあえず一階におり、ビッグアイの正面入り口を出た。ビッグアイを北に、東側には郡山駅、、西側にアーケード、そして南側にはバスターミナルがある。光奈は辺りを見回した。
夜八時近くになり、帰宅しようとするサラリーマンが結構いるが、視界が利かないほどではない。光奈は、駅前とバスターミナルの間の道を歩いていく、ぶかぶかのシャツとジーンズを着た少女を見つけた。スペースパークでも話していた男が一緒だ。
「彩香ッ」
一〇〇メートル近く離れているし、周りの騒音にかき消され光奈の声が聞こえないのか、彩香は男とどんどん先に行く。実のところ、彩香は男との話しに夢中で、他の音など耳に入っていなかった。
光奈は駆け出した。何としても家に連れ帰えらなければならない。彩香はターミナルを通り過ぎ、新幹線の橋脚とビルに挟まれた狭い路地へと入っていった。
光奈が路地の入り口へ着いたとき、彩香の姿はもう無かった。かなり急いで走ってきたため、光奈は息を切らしていた。大きく息を吐き出し、深呼吸をして心を落ち着けた。
彩香は男と話しながら歩いていたが、光奈は走って追いかけた。脚は早い方ではないが、大分距離は縮まっているはずだ。
彩香の姿がこの路地に消えてからまだ、一〇秒も経っていない。その間にいなくなるということは、角を曲がったか建物に入ったということだ。大通りに出る路、新幹線の橋脚下に作られたヨドバシカメラ、あるいは橋脚の向こう側にある駐車場、そのいずれかに行ったに違いない。
光奈は迷わず橋脚を潜り抜け、駐車場に向かった。彩香がヨドバシカメラに行ったなら、買い物をするか冷やかすつもりだから多少時間がかかる。大通はビッグアイを出てすぐ右に曲がった方が早いので、わざわざ遠回りをしてここまで来ない。駐車場に行ったなら、それは車で移動することを意味する。車に乗られたらもう追いつけない、その前に捕まえなければ。
果たして、光奈の判断に間違いは無かった。
「待って!」
薄緑色の光を放つ外灯が、ガラガラの駐車場を照らしていた。その中に黒のbBがあった。彩香はその助手席に乗ろうとしていたが、今度は光奈の声に気づいて顔を向けた。
光奈は彩香に駆け寄った。
「探したんだよ」
「どおして……」
「どうしてッ?」
この言葉に光奈はさすがにカチンときた。彩香のキョトンとした、自覚のない表情にも我慢ならなかった。
「心配だからに決まってるでしょ! ケータイに出ないし、メールの返信だってしないんだからッ」
「別にする必要ないもの」
光奈から視線をそらし、彩香はクルマに乗ろうとした。
「待ってってばッ」
光奈は彩香の腕を取った。
「放してッ」
「ダメッ、あたしと帰るの!」
「なんで帰んなきゃなんないのよッ」
「当たり前でしょッ、おばさんがどんなに心配してるか解ってるのッ?」
「心配?」
彩香の口に皮肉な笑みが浮かんだ。
「あの女 は心配なんかしてない。わたしがいなくなって、せいせいしてるわッ」
光奈は驚愕の表情を浮かべた。
「なに言って……」
「ホントのことじゃない。今頃、男と楽しくやっているわよ!」
パシッ、という鋭い音が人気のない駐車場に響いた。光奈が彩香の頬をぶったのだ。一〇年以上付き合って来たが、手を挙げたのは初めてだ。
光奈からは想像できない行動に、彩香は痛みも忘れ唖然としていた。
自分でもしたことが信じられなかったが、今度は口が勝手に動き始めていた。
「男と楽しくやってるのは彩香じゃないッ。おばさんがこの四日間、どれだけ心配してるかあたしは見てた。彩香に何がわかるのッ?」
この言葉に彩香は、我を取り戻した。
「光奈こそ何がわかるのよ! うちのママのこともそうだけど、わたしのことだってッ」
「ちょっと君、いいかな」
後ろから男の声がした。運転席に乗っていた男が出てきたのだ。
「伸」
光奈は知らない男の顔を見上げた。シン? 名前を呼びすてで、言い方にぎこちなさがなかった。彩香はずっとこの男と一緒だったんだ。しかも、彩香の着ているぶかぶかの服は間違いなくこの男の物だ。それって、つまり……
「彩香が嫌がってるじゃないか、いい加減にしてくれよ」
整った顔立ちをしており、イケメンと言っていいだろう。だが、光奈は伸の軽薄な口調に嫌悪感を覚えずにはいられなかった。困惑気味の笑みを浮かべているが、その奥には自分の思い通りにならない苛立ちが隠れている。
「いい加減にするのはそっちだよ。彩香は連れて帰る」
伸が何か言いかけたが、光奈は間髪入れずに言葉を続けた。
「邪魔したら駅の交番に駆け込むからね。彩香には捜索願が出されているんだから」
伸が眼を見開いた。今までの優しい仮面にヒビが入った。
「ウソだ……」
「娘が四日間も家を空けているのに、親が放っておくと思った? あんた、二十歳過ぎてるよね」
伸にも光奈が言いたいことが解ったらしい。完全に優しい仮面を外し、凶暴な本性を露わにした。
光奈はしくじったと思った。一気にここまで追いつめるべきではなかった。駅の交番までは一〇〇メートルも離れていない。しかし、交番に行くためには、高架下をくぐり表の通りに行かなければならない。最悪なことに、この駐車場には自分たち三人以外、全く人気がない。
伸が光奈の腕を掴んだ。その力の強さに腕が痛み、光奈はわずかに顔をしかめた。
「光奈なんかムシして行こう!」
伸の変化に気づいていない彩香が割り込み、伸を運転席に戻そうとした。
だが、次の瞬間、伸の身体が宙に舞い、一呼吸おいて向かい側に留めてあるランドクルーザーの屋根に落下した。
ドンッという音と共に屋根はへこみ、弾んだ身体はアスファルトの地面に激突した。
彩香は呆気に取られ、何が起こったのか理解できないようだ。光奈は瞠目した、信じられないモノが目の前にいた。光奈はザ・モールのことを思い出した。
錯角じゃなかったんだ。でも、何でここに……?
そこにはズングリとした忍び装束の男が立っていた。腰には刀身が五〇センチほどの剣、忍び刀を差している。男は頭巾の口元を覆う布をずらし、顔を露わにした。
「うぅ……」
男は後ろで蠢く伸が気になったのか、顔を向けた。
「ヒッ、ヒィイイ……ッ」
伸は這うようにして逃げ出した。
「人の顔を見て逃げるたぁ、失礼な餓鬼だぜ」
忍者は光奈の方に顔を向け、片膝をつき恭しく頭を下げた。
「八大竜王が一人、大身竜王 。摩瑜利 様、お迎えに上がりました」
光奈は彩香を庇うようにして後ずさった。彩香も事態が把握できないにしろ、身に危険が迫ってることだけは理解しているようだ。身体を小刻みに震わせながら、伸が逃げていった方を気にしている。
「あたしたち、マユリなんて名前じゃありません」
大身は身を起こした。顔中が大きなイボがあり、ギョロリとした眼と大きな口が蝦蟇蛙を連想させた。
「ぐっふっふっ……異界で何と呼ばれていようと構わぬ。さぁ、一緒に参られよッ」
手甲がはめられた手が差し出された。むき出しになっている指先にもイボがいくつもできていて、ベトベトとしたの液体が付着している。いや、にじみ出ているのかもしれない。
「いや……」
彩香が泣き出しそうな声を出した。
「人違いです、あたしたちどこにも行きません」
光奈は気丈にも言い放ったが、脚の震えを止めることはできなかった。
「人が下手に出てりゃ……女神だか何だか知らねぇが、大人しく従いて来ねぇとあの餓鬼みてぇに、痛い眼に遭うぜッ」
彩香の眼に涙が滲んだ。
光奈の頭に一つの考えが浮かんだ。大身は自分を追ってきたに違いない。ならば彩香には関係ないはずだ。光奈は湧き上がる恐怖を押し戻すかのごとく唾を飲み込んだ。
「わかった、あたしは行くからその代わり……」
蝦蟇男口に満足げな笑みが浮かんだ。その刹那、蝦蟇男の姿が光奈の視界から不意に消えた。ガツガツッという金属音が響いたかと思うと、bBのドアに金属の棒が二本突き立っていた。
今度は頭上で金属同士がぶつかる音がし、光奈は顔を上げた。影が信じられない速さで視界をかすめた。
「アッ」
彩香が後ろで声を出した。光奈は自分の前に人が立っているのに気づいた。薄緑の着物を纏っている。
いや、外灯の光が真っ白な着物を染めているのだ。手甲も脚絆も同じく白。そして口までも白い布で覆い、覆面にしている。片方の手には抜き身の日本刀が握られていた。
大身は伸がへこませた、ランドクルーザーの屋根に立っていた。こちらも忍び刀を抜き、逆手に構えている。
再び光奈の視界から二人の怪人は消えた。数度、空中で刃と刃がぶつかりあう音が響き、蝦蟇男と白装束の姿が再び現れた。
今度は自分いる場所より少し離れていたので、光奈はハッキリと白装束の姿を見ることができた。
髪は頭の後ろで束ね、背は男にしてはやや小さい。おそらく彩香と同じくらい、一六〇センチほどか。そして、何より光奈の注意を引いたのは着物の襟だった。左襟 が右襟 の前、つまり左襟が直に肌に触れるようになっている。
死に装束……
蝦蟇男が流れるような動作で懐に手を入れ、何かを取りだして投げつけた。死に装束は手にした刀でそれを弾いた。蝦蟇男は八方手裏剣を打ったのだ。
死に装束の姿がまた消えた。大身の姿もそれを追うように消え、今度は何の音も聞こえなかった。
また、違った場所に二人が出現した。蝦蟇男の忍び装束が袈裟懸けに斬られていた。しかし、斬り方が浅かったのか血は滲んでいない。
「ぐっふっふ……」
蝦蟇男は胸を反らし、死に装束に斬られた跡を見せつけた。光奈には見えなかったが、忍び装束は見事に斬られているものの、皮膚にはかすり傷一つできていない。胸も顔同様、大きなイボがビッシリとできていて、表皮をヌラヌラと光沢のある油が覆っている。蝦蟇男は指でその油に触れた。
「どんな鎧よりも頑丈な、大身様の脂鎧だ。貴様の刀も手裏剣も俺には利かねぇぜ」
今度は死に装束が、大身に負けない素早さで脚絆から棒状の手裏剣を取り出し、打った。
蝦蟇男は泰然として動くそぶりすら見せず、手裏剣は眉間の間に突き刺さった。いや、突き刺さるはずだった。
手裏剣は寸分違わず大身の眉間に打ち込まれたが、大身の皮膚に触れた瞬間、つるりとすべりあらぬ方向へ行ってしまった。
脂は大身の顔にも滲み出ているが、それほど厚く覆っているわけではない。そもそも、いくら脂が厚くても、直線的に打った手裏剣が突き刺さらないはずはない。だが、それが現実に起こっていた。この常識を逸脱した脂を出すのも、蝦蟇男の能力 なのだ。
大身が忍び刀を構えた。その眼には勝利を確信した喜びの輝きがあった。
眼にも止まらぬ速さで、二人は宙に舞い刃を交えた。
今まで蝦蟇男と死に装束の動きを視界に捉えることができなかった光奈だが、今度は頭上で何かが閃くのを見た。
死に装束と蝦蟇の姿が再び駐車場に現れた。蝦蟇男の顔には笑みが浮かんでいた。しかし、逆手に持った忍び刀は真ん中から折れていた。
「莫迦な……この俺が……」
嫌な臭いが光奈の鼻を突いた。曾祖母を火葬したときに嗅いだ臭い、人の身体が焼ける臭いだ。
ゴボッと嫌な音がして、蝦蟇男の口から血が溢れた。それだけではない、左肩から袈裟懸けに、太く黒い筋ができ、そこから煙が上がっていた。
大身は折れた刃に虚ろな視線を落とした。
「お……俺は……一人じゃ……死なねぇ……」
そのまま前のめりに蝦蟇男は倒れた。
光奈の思考は完全に停止していた。目の前で起こったことを現実と認識できず、呆然としていた。死に装束と蝦蟇男の対決は、おそらく一、二分にしも満たないはずだ。
「いやぁッ」
彩香の悲鳴に光奈は我に返った。振り向くと、彩香の視線は蝦蟇男の死体を越え、その先に向けられていた。そこには、死に装束が立っていた。
最後の斬り合いで蝦蟇男の刃が掠めたのか、左頬に斬られた跡があり血が滴っていた。口を覆っていた覆面も斬られ、顔が露わになっている。
光奈は思わず息を飲んだ。教室で理恵と里美がしていた話しを思い出した。
ドッペルゲンガー……
死に装束の上に乗っているのは、彩香の顔だ。
光奈はわけが解らなくなり、本物の彩香の顔を見上げた。彩香も光奈に視線を移した。その顔は蒼白で、唇だけが鮮やかに紅くなっている。再び二人で死に装束に顔を向けた。
だが、そこには誰もいなかった。
新幹線の橋脚の上から一部始終を見ている者がいた。死に装束や蝦蟇男でさえ、その存在には気づいていなかった。ましてや、光奈と彩香が気づくわけもない。
その者は満足げな笑みを浮かべ、闇の中に溶け込むように姿を消した。
第二章 異界
一
目蓋を上げると、あまりにも見慣れた天井が見えた。頭がハッキリしてくると、昨夜の出来事がまざまざと甦ってきた。
神 鳥 彩 香 はベットから身を起こした。時計を見ると二つの針が天を指し示していた。ここは彩香の部屋、昨夜遅く、というか今朝の明け方近くに帰ってきた。
蝦蟇男の死体を前に光奈と呆然としていると、警官が駆けつけた。内村伸が駅の交番に助けを求めたのだ。
それから大騒ぎになり、彩香と光奈も郡山警察署に連れて行かれ、延々と質問を浴びせられた。特に彩香は家出のこともあったので、その件についても根掘り葉掘り訊かれた。
警察は彩香を誘導して、伸にそそのかされて家に戻らなかったと言わせようとしていた。彩香は自分の意思で伸のアパートに居たことを強調し、迷惑をかけていたのはむしろ自分であることを切々と訴えた。
やっと事情聴取が終わると、母が迎えに来ていた。光奈の言ったとおりやつれた顔で、髪も乱れていた。母は彩香に何かを訴えかけるように見つめたが、何も言わず、彩香に付き添っていた警官に深々と頭をさげた。彩香は何とも言えない気持ちでそれを眺めた。
それから母の運転する車で帰宅したのだが、その間もほとんど会話らしい会話をしなかった。
蝦蟇男のこと、母のこと、光奈のこと、そして伸のこと。色々なことがとめどなく頭に浮んでは消えていった。疲れ過ぎていたせいで、一つのことを集中して考えることができなかった。睡魔が波のように覆い被さってきたが、彩香は必死にこらえていた。思考力が完全に麻痺していたが、どうしても頭から追い払えないことがあり、彩香は眠気と戦っていた。
あいつは身にまとった着物だけではなく、口も白い布で覆い、白鞘の日本刀を腰に差していた。その姿を見た光奈は、「死に装束」と呟いた。そして、光奈を連れ去ろうとした蝦蟇男と闘い、あらわになったその顔は、彩香の顔だった。
死に装束をまとった自分の姿を、彩香は見たのだ。
あれがわたしのドッペルゲンガー?
そうとしか思えなかった。わざわざ死に装束まで着て現れたのだ、こんなに解りやすいことはない。しかも、蝦蟇男を斃 したあと、忽 然 と姿が消えた。ここまでダメ押しされれば信じない方がおかしい。アレはこの世の者ではない。彩香は眠ってしまえば、二度と目が覚めることはないと確信していた。
だが睡魔は強かった。疲労という援軍と共に彩香を攻め続けた。彩香はついに力尽き、少しだけベットで横になることに決めた。あくまで横になるだけで、眠るつもりは少しもなかった。だが、それが敗北宣言となった。
わたし、まだ生きてる。
彩香はベットの上にあぐらをかいて、胸に手を当て鼓動を確認したり、自分の動く手を見つめたりした。そうしているうちに、空腹であることに気づいた。昨日の昼から何も口にしていない。事情聴取の間、カツ丼は出なかった。それに昨夜はとても何かを食べる心境ではなかったのだ。
耳を澄ましたがしんとして、人の気配はしない。このアパートは3LDKで、母が何かしていれば物音がするはずだ。でも、母はいると彩香は感じた。母とは顔を合わせたくない、食事をするにしてもここでは嫌だ。
彩香は取りあえず着替えて外出することに決めた、伸のことも気になる。
立ち上がると、机の上に視線が行った。そこには、長さが一五、六センチほどの黒い金属の棒が置いてある。ドッペルゲンガーが使った手裏剣だ。手裏剣といっても、蝦蟇男が使った八方手裏剣とは大分形が違っており、細長い円筒形で一方の先端が鉛筆の先みたいに尖っている。
なんでこれを手裏剣だって思うの?
これはドッペルゲンガーが、蝦蟇男の額に打ち込もうとした物だ。先の方に気持ちの悪い油が付いていたが、ティッシュできれいにぬぐっておいた。
彩香はそれを手に取り、ジッと見つめた。時代劇とは縁のない彩香が持つ手裏剣のイメージは、十字型や八方型の車手裏剣だ。棒状の手裏剣があるなんて思ったこともない。
だが、この先端が尖った金属の棒を見た瞬間、手裏剣という言葉が頭に浮かんだ。使われ方が似ていたからだろうか? いや、違う。手裏剣と一緒に何か別の記憶も出てきそうだった。
死に装束の姿が頭に浮かんだ。手裏剣以外に刀を持っていた。死に装束と同じ真っ白な鞘と柄、鍔 だけが黒く、その刃は青白く輝いていた。彩香は違和感を覚えていた。この刀も手裏剣も、死に装束が持っていた物ではない。別の誰か、よく知っているはずの男が持っていた。
「父上……」
彩香はハッとして、手裏剣を机の上に戻した。「父上」、確かにそう聞こえた。でも、自分が言ったのではない。口が勝手に動いたのだ。何かが取り憑き、自分の口を使った……そんな気がした。
わたしの中に、誰かいる!
彩香と光奈の目の前から、忽然と消えたドッペルゲンガーはどこへ行ったのか。ひょっとすると、今は彩香の中にいるのではないか。心の奥底に潜み、彩香の心と身体を乗っ取り、思いのままに操ろうとしているのではないか。
溢れ出す不安を、彩香は押さえることができなかった。
二
望 月 光 奈 は学校の図書館に来ていた。部活に出るために登校したのだが、昨夜の事件が原因で彩香と二人しばらく休部するよう言い渡された。
「望月は問題を起こすような生徒じゃない、それは先生も判っているんだ。でも、コンクールも近いし、部にとっても大事な時期だ。解るだろう?」
わかるわけないだろッ。
光奈はその言葉を飲み込んだ。今度のコンクールに出場することは、光奈にとっても大きな目標の一つだった。しかし、今、自分の周りで起こっていることを考えると、コンクールなどと平和なことを言ってはいられない。
光奈はこの状況を逆に利用することに決めた。それで、気になっていたことを調べるため、この図書館へ来たのだ。
安積中央高校には図書室ではなく、小さいながら図書館がある。休日も生徒に利用させたいというPTAやOBの要望に応え、土曜日も開館していた。
光奈が一〇時頃足を踏み入れると、すでに七、八人の生徒が持ち込んだ参考書と睨めっこをしていた。受験を控えた三年生がほとんどだ。
安積中央高校では、休日も図書室や自分の教室で勉強している生徒が多い。教員も土曜は結構出勤しているので質問もでき、考えようによっては自宅よりも勉強するにはいい環境なのだ。
光奈は図書室の奥まった位置に陣取った。まず、ドッペルゲンガーについて調べた。こちらは高校の図書館という性質上、それほど多くの資料は見つからなかったが、それでも幾つか確認できたことがある。ドッペル《doppel》 とは英語のダブル《double》 に相当する言葉で、ドッペルゲンガーは自分自身の姿を前方に見る幻覚のことも意味する。
だが、多くは死ぬ数日前に現れる自分の分身のことを言いう。その正体については諸説ふんぷんで、残念ながら、今朝インターネットで調べて得た以上の情報は無かった。
光奈が得た情報に、ドッペルゲンガーが連れ去られそうになっている友人を助けたという話しは一つもない。だいたい、出てくるなら彩香と同じ格好で出てきそうな物だが、時代劇がかった白装束で、しかも布で顔を隠していたのも変だ。そして何より、
あごのホクロがなかった……
蝦蟇男のことで動揺していたし、駐車場は薄暗く距離もあった。だが、頬から血が滴っていたので、とっさに死に装束の口の周りを見たのだ。その瞬間は気がつかなかったが、彩香の顔を見上げたときにホクロのことを思い出した。
たぶん……ううん、絶対なかった。
あれはドッペルゲンガーなどではない。では、いったい何なのか。忽然と姿を消した、彩香と同じ顔を持つ人間。それに、大身竜王と名乗った蝦蟇男の正体も判らないままだ。司法解剖が行われているようだが、多分何も解らないだろう。
衣装に似合う時代劇がかった言葉で話していたので、おそらく日本人だろう。しかし、これだけでは何も判らない。彼は一体何者なのか。どうして自分を連れて行こうとしたのか。
インターネットでは、ほとんど『大 身 竜 王 』についての情報を得ることができなかった。ただ、『八代竜王』の名が法華経にあることは判った。そこで光奈は図書館にある分厚い仏教大辞典を開いてみた。それによると八代竜王とは、難 陀 、跋難陀 、娑羯羅 、阿那婆達多 、徳叉迦 、和 修 吉 、優鉢羅 そして摩那斯 こと大身の八人の竜王のことを言うとあった。修験道では弁財天と深いつながりがあるとも書かれていたが、直接あの蝦蟇男に関することはやはり判らない。
蝦蟇男の他に、七人の竜王がいる? 彩香のソックリさんもその一人なのかも。
「摩瑜利 様、お迎えに上がりました」そう、大身は言った。『マユリ』についても光奈は調べていた。
女性の名前としてはたまに使われているようだが、大身が言ったのはおそらく『摩瑜利』のことだろう。
この『摩瑜利』とは、サンスクリット語でクジャクを表す『マーユーラ』の女性形で、『マハーマユリ』は『仏母大孔雀明王』を意味する。また、『マユリ』だけでも孔雀明王を示すこともある。
孔雀明王は役行者が日本に持ち込んだ仏で、こちらも修験道に関わりが深い。
それにしても、どうしてあたしが摩瑜利なんだろ?
カルト宗教に入信したおぼえはないし、ましてや仏さんに知り合いなんていない。もっとも、蝦蟇男が何かの狂信者で、勝手に光奈を女神に奉ろうとしていたのかもしれないが。
なんか変だ、なにかが間違ってる……
「まちがってる」
光奈は何気なく呟いた。
間違い‥‥そうか、間違ってたんだ!
蝦蟇男も死に装束も、そしてあたしも……
信じられないけど、そう考えるとほとんどつじつまが合う。
彩香には、小学校に入学する前の記憶が……
「‥‥望月、望月ってばよ」
光奈は思考を妨げられ、ムッとして声の主を見上げた。
そこには、好 沢 浩 之 が立っていた。アーチェリー部のジャージを着ているところを見ると、練習を抜け出したのだろう。
「合唱部の木村にきいたら、オメが図書室さいるって言ってて……」
何だか様子が変だ、元気がなくションボリしている。
「昨日大変だったな、みんな話してた……オメと神鳥が……」
「ああ、もういい。わかったから」
光奈は浩之の顔の前で手をヒラヒラと振った。人の口に戸は立てられないとはよく言ったもので、すでに昨夜の事件が噂になっている。
安積中央高校は名門校で名が通っている。いい成績を取れる子は頭のいい子、頭がいい子はマジメな良い子。これが世間様の常識らしい。
実際はそれとこれとは別問題で、成績がよくても、タバコを吸うヤツ、万引きをするヤツ、そしてクスリをやるヤツだっている。にもかかわらず、名門校と呼ばれるところで、この手の事件が公になると、大人たちはいつもより余計に大騒ぎをする。
直接殺人に関わっていなくても、今度の事件は色々と憶測を呼ぶのは間違いない。自分はまだしも、彩香はこの事件に遭遇する前に家出をし、同棲までしていたのだ。どんな尾ヒレが付いているかわかった物ではない。
館内を見回すと、昼を過ぎ生徒の数も大分増えてきた。光奈は立ち上がり、積み上げていた本を浩之に渡した。
「戻すの手伝って、ここじゃ話せない」
「で、ここか?」
浩之が周りを見回し、げんなりした声を出した。
「シーズン・オフだから、めったに人が来ないもん」
「そのシーズンって、彼岸のことかよ?」
光奈は浩之を高校のすぐ側にある墓地に連れてきた。確かに人気はなく、聞かれたくない話しをするにはちょうどいい。が、誰もいない墓場に学生服の女子高生とジャージの高校生が二人きり、はたから見れば怪しい上に悪趣味だ。
「噂でヨッシーが彩香のこと誤解すると嫌だから、あたしの知っている限り本当のことを教えてあげる。ただ、嫌な話しもするから覚悟してよ。いい?」
「え? お、おう……」
「ホントにいいの? 後悔しない?」
「やっぱり、すこしまで」
浩之は大きく深呼吸した。
「いいぞ」
光奈はうなずいて話し出した。昨日のことを淡々と話したが、蝦蟇男が光奈を追って現れたくだりにさしかかる頃には、浩之は蒼白の顔をして光奈の言葉が右から左へ抜けていた。光奈は話すのをやめた。
「……なじょした?」
浩之が虚ろな目を向けた。
「聞いてないでしょ」
「いや……」
どちらにしろ死に装束のことは話せないし、話したところで信じないだろう。怪人が謎の人物に殺された、この辺りまで話せばいいだろう。実際、この二人について判っていることはほとんどない。それに、浩之にとって最大の関心事は、『シン』という大学生の事だ。
光奈は自分の憶測も、なぐさめの言葉も浩之に言うつもりはなかった。
「望月、その……ありがとな……教えてくれてよ……。オメに言われっと、あきらめもつく……」
光奈は顔をしかめた。
「なにそれ?」
「なにって、神鳥はその大学生と付きあって……」
光奈の反応に浩之は戸惑っていた。
「そんなんじゃないよ! あたしの話しちゃんと聞いてたッ?」
どいつもこいつも人の気も知らないでッ。何であたしがこんなこと言わなきゃなんないの!
光奈は予定を変更し、彩香は情緒不安定になっていて、伸がそこにつけ込んだに違いないという推理を説明した。
「そんじゃ、神鳥は……」
光奈はやれやれと言いたげにため息をついた。
「これで少しは安心できたでしょ?」
ま、だからって、彩香がヨッシーに振り向くかどうかは別問題だけど。
「そろそろ部活に戻ったら?」
「望月はどうすんだ?」
「調べ物はだいたい済んだから、彩香のようすを見てくる」
またシンのところへ行くはずだから、その前に止めないと。
「じゃ」
光奈はそう言い残すと墓地を後にした。背後に浩之の視線を感じながら。
三
彩香は内村 伸のアパートの側まで来ていた。手には、昨日まで着ていたシャツとジーンズが入っている紙袋を下げている。本当は洗ってから返したかったが、あいにく手元にお金はほとんどなく、クリーニングに出すこともコインランドリーで洗うこともできなかった。家で洗えればいいのだが、着替えるとすぐに飛び出してきてしまった。
彩香の思ったとおり母は家にいた。朝食の支度をして、朝からずっと彩香が起きるのを待っていたのだ。
「おはよう……」
母は腫れ物に触れるかのようにオドオドしていた。彩香は苦い物がこみ上げてくるのを感じた。母が献身的に食事を待っているのも当てつけがましいし、本当は訊きたいことがあるのにわざと訊かず、彩香が自分から言うことを期待しているのも気に入らなかった。
「食事は外でするから」
冷たく言い放った。
「え……? せっかく作ったんだから、食べて……」
「いらないって言ってるじゃないッ。あんたと食事する気分じゃないの!」
「彩香……」
「わたしなんかいない方がいいでしょッ。カレシと上手くやれば! わたしも好きな人と暮らすことにするから」
「待って! あなたが嫌なら結婚なんてしない、別れろっていうなら緒方さんとはもう会わないわ」
彩香は思わず立ち止まった。
「ごめんなさい、あなたの気持ちをもっと考えるべきだったわ。ママをゆるして……」
この女はどうしてここまで卑屈なのだ。この態度が彩香をさらにいら立たせた。
「どうして……どうしてママはそうなの? なんで自分ばっかり犠牲にするのよ! わたしはママの……」
「娘よ…たった一人の、大事な娘よ……」
母の瞳に涙が溢れていた。
「ウソ、それならどうして……」
それ以上は何も言えなかった。さまざまな感情が胸の中に渦巻き、自分が本当に望んでいる事すら判らなくなっていた。ただ、逃げるように家を飛び出した。
そして本来の目的通り伸の家へと向かった。昨夜の事件もあるので、今日は家に帰るつもりで荷物は伸の服以外持っていない。
帰りたくない……
着替えは無いが、やはり伸に泊めてもらおう。そうすればずっと伸を感じていられる。独りぼっちじゃない。母もどうせ緒方を呼ぶだろう。
彩香は伸のアパートに着くとチャイムを鳴らした。中から伸の返事が聞こえ、ドアが開いた。
「オマエ……!」
伸の顔には大きなバンソウコウが貼はられていたが、思ったより元気そうだ。
「伸……ごめん、大丈夫だった?」
「ダイジョーブなわけないだろ、あんな目にあわされて」
彩香は唖然とした。昨日までの伸とはまるで別人のような物言いだ。
「ほ、本当にごめんなさい、わたし……」
伸はわたしのせいで警察にヒドイことされたんだ。
「もう、オレに関わらないでくれ!」
「え?」
「メーワクなんだよ。ケーサツがオマエの家出はオレのせいだって疑ってんだ」
「ごめんなさい。でも、ウソでしょ? 関わるななんて。わたし、警察に家出と伸とは関係ないってハッキリ言ったよ」
「でも、アイツらはそうは思わない」
「伸……」
取り付く島もなく、彩香は不安と孤独を感じ始めていた。
「別にオレのカノジョってわけでもないんだから、もういいだろ?」
信じられない伸の言葉に、彩香の頭は真っ白になった。
「もぉ、ナニやってんのよォ。伸、はやく来てよ~」
部屋の奥から鼻にかかった女の声がした。
「すぐいく。じゃ、そういう訳だから。あ、ちょっとまて」
そう言うと、伸は奥に戻った。
「その生服、アタシに着せるんじゃないのォ?」
「チゲーよッ」
女と伸の会話が聞こえた。再び伸が出てくると、その手にはしわくちゃにされた彩香の学生服が握られていた。
「ほら、こんなのがあったら、またケーサツがうるさいかも知んねーから」
伸は制服を彩香に押しつけると、勢いよくドアを閉めた。
彩香は呆然とたたずんでいた。ドアの向こうから、女と伸の楽しげな声が微かに聞こえた。頬を涙がつたった。彩香は自分が捨てられた、いや、弄ばれたていた事を理解した。
彩香はその場から駆けだした。伸を問いつめようという気力もなかった。自分がとんでもないバカに思えた。彩香は闇雲に走った。恥ずかしかった、逃げたかった。何も知らない、お子様の自分から逃げ出したかった。
だが、生きている限り自分から逃げることなどできない。やがて彩香は息を切らし、人気のない場所で立ち止まった。そこは開発地で、まだ地ならしが済んだだけの何もないところだった。目の前にどぶ川が流れていたので、伸の服が入った紙袋を投げ捨てた。
彩香は自分の制服を胸に抱きしめ、その場に泣き崩れた。すべてを失ったと思った。もう帰るところはどこにも無い。自分はこの世界で独りぼっちなのだ。
死にたい。もう、生きていたくない……
彩香は生まれて初めて、本気で己の死を願った。
どれくらい泣き続けたのだろう、少し落ち着くと背後に人の気配を感じた。彩香は身を起こし振り返った。
立っているものが視界に入った瞬間、背筋が凍りついた。
そこには自分の死んだ姿があった。
「ドッペルゲンガー……」
わたしをあの世に連れ去りに来たんだ。
彩香は自分の死を感じた。帰るところもない、自分を必要とする人もいない、たった今まで己の死を願っていた。にもかかわらず、現実に死が迫ってくると、身体の奥から生きたいという渇望が湧き出した。
「いや……わたし、やっぱり死にたくない……」
死に装束の瞳に冷たい光が宿った。頬には、昨夜、蝦蟇男に斬られた傷が生々しく残っている。血は出ていないが傷口にバイ菌が入ったのか、その辺りが青黒くただれていた。
「おれの心が読めるか。少しは能力が使えるようだな。答えろ、華結羅 は何処 にいる?」
「え?」
言っている意味がわからない。それ以前に、ドッペルゲンガーの口調に違和感を覚えた。それほど声が低いわけではないが……
「聞こえなかったのか、おれの問いに答えろ」
「あ、あんた、男?」
ドッペルゲンガーの眼に、一瞬激しい憎悪が浮かび、彩香は身をすくめた。
「からかっているのか? それとも本当におれが誰か判らないのか?」
「だれって‥‥あんた、ドッペルゲンガーじゃないの?」
しばし死に装束は探るように彩香を見つめていた。
「本当に判らぬのか……それでは、能力は使えぬのだな」
死に装束の顔に失望の色が浮かんだ。
「おれは鳳羅須 。お前はおれの姉だ、摩瑜利」
「マユリ……」
昨夜の記憶が甦った、蝦蟇男が光奈のことをそう呼んでいた。
「ちがう……わたしはマユリなんて名前じゃない。わたしは彩香、神鳥彩香よ」
「それはこの異界での名だろう。お前の本当の名は摩瑜利だ」
「だから、ちがうってば! だいたい、わたしには弟なんていない……」
彩香は立ち上がった。頭の片隅で何かが蠢いた。そうか、本当にそうなのか、そこまで自分の記憶に自信を持てるのか……
「ならば訊く、おまえはどこで生まれ、どこで育った?」
「い、猪苗代で生まれて、六歳のときから郡山にいるわ」
郡山で育ったのは間違いないが、生まれたのは……。
「それ以前の記憶があるのか?」
彩香はドキリとした。表情に出たのだろう、鳳羅須の顔に冷たい笑みが浮かんだ。
「無いようだな。それに……」
「きゃッ」
鳳羅須は彩香の胸ぐらをつかみ、彩香の顔に自分の顔を近づけた。
「何が見える? おまえの眼に映っているのは、誰の顔だッ?」
認めたくない現実を突きつけられた。彩香は否定する答えを見つけ出そうとした。
「他人のそら似だとでも云うつもりかッ。姉を間違えはしない、おれたちは双子だ。おまえにも解っているはずだ!」
「はなしてッ」
彩香は鳳羅須の手を振り払った。小脇に抱えていた制服が地面に落ちた。
「知らないものは知らないのッ。ほっといて!」
彩香は鳳羅須に背を向けて駆けだした。頭は混乱しきっていた。今まで疑問に思いながらも、触れようとしなかったものが眼の前に立ちはだかった。希望と現実、否定と肯定がせめぎ合い、悲しみと絶望、そして孤独を包み込んでいた。
わたしはだれ、だれなの? 神鳥彩香じゃないの? 助けて、助けて、だれかそばにいてよ!
四
郡山市の繁栄を象徴するのがビッグアイなら、この街の廃退を象徴するのが白ビルだろう。大型スーパーとして造られたこのビルは窓がほとんどなく、まるで巨大な墓標のようだ。
創業から二〇年、バブルがはじけた辺りから経営状態が手をつけられなくなり、ついには撤退を余儀なくされた。駅前という土地柄すぐに買い手がつきそうなものだが、一〇年以上放置されたままだ。
周りには高いフェンスが張り巡らされ、ホームレスや暴走族などの侵入を防ごうとしている。だが、この建物の中に三つの蠢く影があった。跋難陀と徳叉迦、そして娑羯羅だ。
「今すぐ難陀様を呼び戻してください」
「ならん! 何度も同じことを云わせるなッ」
跋難陀の声が誰もいない建物の中に響き渡った。
日の光を取り込むための窓が存在せず、電気が止まっているので中は真夜中のように暗い。もっとも、スイッチの存在を彼らが知っているのか疑問だし、この闇も彼らには無意味だった。
「お声が大きすぎますよ」
なだめるような口調に、跋難陀は徳叉迦をキッと睨んだ。徳叉迦はおどけたように首をすくめた。
「大身が斃 された今、全力を尽くし追っ手を排除すべきです」
「たった一人の鬼霊に、何を浮き足立っておるッ」
「ただの鬼霊ではありませぬ」
「何だと云うのだ」
「判りませぬか?」
娑羯羅の声に嘲りの響きが含まれていた。
「もし、我らが東軍の立場ならどうなさいます? たった一人、異界に太 元 帥 を捜しに行かせるとすれば誰を選ぶか? 誰が一番適任なのか?」
「そりゃ、娑羯羅さんでしょうねぇ」
ムッツリと黙り込んでいる跋難陀に代わり、徳叉迦が答えた。
よく双子には不可思議なつながりがあると言われるが、娑羯羅と太元帥は人間の双子を超越した結び付きがある。いかに離れていようが例え境界を越えようが、お互いの居場所を正確に把握できるのだ。他にもさまざまな能力が使えるようだが、八大竜王も正確には把握していない。
神として生まれた者に兄弟がいるのは珍しいことではない。だが、双子となると話しは別で、これまで無かったことである。さらに、それだけでは飽きたらず運命はとんでもない悪戯をした。東西両陣営それぞれの神が双子として生まれたのだ。
東軍で娑羯羅と同じ立場にあるのが、
「真 明 鳳 羅須 。追手はあの者以外に考えられませぬ」
「修羅の真明……」
徳叉迦の柘 榴 石 の瞳に好気の色が浮かんだ。
「これ以上説明はいらぬでしょう。さぁ、難陀様に連絡を」
「その必用はないッ」
「大身がどのような成り行きで斃されたかは判りかねます。ですが、真明が我らの摩瑜利確保を妨害しようとするなら、次に狙われるのはあたくしです」
娑羯羅はこの務めで重要な役目を担っていた。娑羯羅がいなくては摩瑜利を西軍に連れて行くことは困難を極める。
跋難陀は鼻で笑った。
「娑羯羅、うぬは己が殺されるのがそれほど怖いか」
「死を怖れているのではありませぬ、務めを果たせぬのを怖れるのです」
挑むような声に跋難陀の殺気が一気に高まった。
が、徳叉迦の陽気な声がその緊張を破った。
「まぁまぁ、お二人とも。ここはアタシに任せちゃくれませんか?」
闇の中で四つの眼が徳叉迦に向いた。
「如何 にするつもりだ?」
「アタシが真明を見つけ出して、始末しましょう」
徳叉迦は上唇をペロリと舐め、柘榴石の左眼を妖しく輝かせた。
「その必用はない、儂が行く」
跋難陀の傲然とした声が響いた。
徳叉迦が口を開きかけたが、娑羯羅がそれを遮るように言った。
「それはなりませぬ、もしもの事があれば……」
「真明ごとき恐れるに足りぬッ」
「どうしてもと云うなら、我ら三人で立ち向かうべき」
「その必用はない!」
娑羯羅が反対すれば反対するほど、跋難陀は頑なになっていく。徳叉迦も思いとどまらせようとしたが、焼け石に水だった。跋難陀は娑羯羅と徳叉迦に手出し無用であることを厳命し、闇の中から消えた。
「跋難陀さまってホントに頑固ねぇ。まぁ、あの方なら例え修羅の真明が相手でも大丈夫でしょうけど。
それで、あなたは何であんなに挑発したの?」
「挑発?」
徳叉迦は意味深な含み笑いをした。
「まぁ、あなたの気持ちが解らないでもないけど。でも、ずいぶん可愛がってもらったんでしょ、跋難陀さまには」
娑羯羅の瞳に殺意が宿った。
「おお、こわい、こわい」
「お前の方こそ、和修吉を憎いとは思わぬのか?」
徳叉迦は嘲笑した。
「フフフ……思うわけないでしょ。東軍に親兄弟を殺され、孤児 になったアタシを拾って育ててくれたのはあの方だもの。そのうえ、八大竜王にまで推薦してくれて、今じゃアタシも一国一城の主よ」
「…………」
「ま、あなたにアタシの気持ちは解らないでしょうね。同じ孤児でも、あなたには神の兄がいる。いずれ高い地位に着けることは、約束されていたもの」
「殺されなければな」
徳叉迦の皮肉に娑羯羅も皮肉で応えた。跋難陀が自分の生命 を狙っていたことは間違いない。おそらく難陀の指示だろうが、娑羯羅は幼いながらに知恵と能力を使い、必死に生き延びてきた。
「アタシは和修吉さまに拾われなければ、とっくに死んでいたわ。それを考えれば、釜を掘られるくらいなんともない。だいいち、アタシも嫌いじゃないしね」
娑羯羅は嫌悪に顔を歪めた。
「ホホホ……娑羯羅さん、あなたこの手の話しになると、まるで処女 みたいな反応するわね。あなたがその気になればアタシ以上に楽しめるのに、相手が男でも女でも……」
徳叉迦は下卑た嗤い声をあげ続けた。
娑羯羅は徳叉迦に背を向けた。似たような境遇に育っても、しょせんこいつと自分が相容れることはない。自分の境遇を嬉々として受け入れるだけの徳叉迦にいら立ちを覚えると同時に、一抹の哀れみを感じた。
五
鳳羅須は摩瑜利を追おうとはせず、彼女が落としていった制服を見つめた。鳳羅須には、これが高校のブレザーであるということはわからない。それどころか高校という存在自体を知らない。ただこの異界の着物が、摩瑜利が元居た世界から完全に決別した証に見えた。
自分を見た途端に死にたくないと言った彼女を見て、鳳羅須は摩瑜利の記憶が戻ったのかと思った。女神の能力を使い自分の思考を読んだと勘違いしたのだ。
しかし、次に摩瑜利の口から出た言葉は、その可能性が無いことを物語っていた。
「あ、あんた、男?」
摩瑜利が記憶を取り戻していたら、絶対に言わない科白 だ。もっとも、鳳羅須を傷つけたいなら話しは別だが。
言い方に、そういった悪意はまったく感じられなかった。
女神の能力は摩瑜利の記憶と共に封印されたままだ。
摩瑜利を捕まえるなら、今の体でも容易くできる。だが、今は彼女を追うべきではない。
鳳羅須は八大竜王に四日遅れでこの異界へと来た。もっとも、昨夜まで西軍が放った鬼霊が、本当に八大竜王だとは思っていなかった。
青黒くただれた頬が焼けるように痛む。摩瑜利と話すのも骨が折れた。大身の刀には毒が塗ってあったのだ。鳳羅須は今までに、何度か毒を塗った武器で傷つけられたことがある。トリカブトなどの猛毒を受けたこともあるが、大身の毒はその比ではなかった。
鬼霊は人間に比べ強い生命力を持つ、その中でも鳳羅須は群を抜いている。過去に毒を受けたときも、その生命力ゆえ死なずに済んだ。
しかし、今回は生き延びられるとは思えなかった。
鳳羅須は大身を斃したあと、人気のない河原までやって来た。そこに流れる川が阿 武 隈 川 であることを鳳羅須は知らなかったが、伸びた草が己の姿を隠してくれるのは間違いなかった。
摩瑜利と異界の少女が一瞬目を離した隙に、闇に姿を隠しここまでたどり着いた。
だが、眼はぐるぐるとまわり、足取りもおぼつかなくなっていた。全身に激痛が走り、ひどい吐き気に襲われた。
枯れ始めている草むらに身を横たえたが、痛みはひどくなる一方で、全身が燃えるように熱かった。そのくせ体の芯は凍えるように寒い。次第に意識が混濁していった。
摩瑜利を見つけ出したにもかかわらず、華結羅のことを訊き出せずに終わるのは無念だが、すでに覚悟はできていた。それはこの死に装束にも現れている。
意識は闇の中に飲み込まれていき、そこに懐かしい顔が見えた。
父上……
父、鳳 炎 は宙に浮く台、飛行石の上に乗せられていた。それは二丈ほどの黒い板で、表面に梵字が刻み込まれていた。乗った鬼霊はその能力が使えなくなり、体の自由まで奪われてしまう。
「ちちうえ!」
幼い鳳羅須は追いすがろうとしたが、一族の者に押しとどめられた。父は東軍幕府の使者と長老と共に連れられて行ってしまった。それが父の姿を見た最後だった。
その日から鳳羅須は牢に閉じこめられ、一日一杯の粥しか与えられなかった。一週間後、父が自刃したこと、そして自分がこの村の近くにある真 明 山 に捨てられることを伝えられた。
大鳥一族は奥州の山間に住んでいる。真明山は小さな山だが、かつては大鳥一族に限らず、この辺りに住む人間たちも信仰の対象としていた山だ。
もともとは『神明山』と書いたのだが、摩瑜利神が唯一信じる神であるということを示すため、『真明山』と名を変えたらしい。この山は神が住むと言われるにふさわしく、小さいながらも険しい山で、鬼霊の子といえども真冬に置き去りにされたら到底生き延びられない。しかも鳳羅須は、手足を縛られ襦 袢 だけしか身につけていなかった。
捨てられて間もなく雪が舞い、ほどなくして吹雪となった。鳳羅須は呪った、こうなった原因を作った母を呪った。父が自刃に追い込まれたのも、自分が腹を空かせながら凍え死ぬのもすべて母のせいだ。いや、あいつは母などではない、父と己の仇だ。
華結羅は姉を連れ、行方をくらませた。姉はただの娘ではない、東軍の女神、摩瑜利の生まれ変わりだ。その姉を連れ去るなど許されない。そのとばっちりを父と自分は受けた。鳳羅須は小さな胸を憎悪の炎で焦がしながら、吹雪の中で凍え死のうとしていた。
神経が麻痺し眠気が襲ってきた。さすがにその頃はまだ死ぬ覚悟などできてはいなかったが、手足を縛られ、自由を奪われた六歳の鳳羅須にあらがう術はなかった。
どれくらい刻が経ったのだろう、生暖かいものが頬に触れ鳳羅須は眼を覚ました。そこに大きな犬の顔があった。いや、犬ではない狼だ、蒼い毛の大狼だ。
おれは、くわれるのか……
すでに感覚も思考力も麻痺し、たいして恐怖は感じなかった。だが、狼が鳳羅須に喰らいつくことはなかった。ただ、頬をなめるだけだ。くすぐったくて狼を手で退けた。
鳳羅須はハッとして自分の手を眺めた。紐が解けている。それだけではない、自分が今いるのは洞穴の中で、焚き火が暖かな光を放っていた。
「お前を見つけたのは天狼だ、礼を云うがいい」
しわがれた声のする方に視線を走らせると、焚き火の灯りの届かぬ闇に、黒いものが立っていた。眼をこらすと、それの背中には翼があることが判った。
その顔は人間のものではなく、鴉のものだった。
「カラスてんぐ……」
鳳羅須は息を飲んだ。蒼い毛をした狼も初めてだが、鴉天狗と会えるとは思ってもみなかった。
鴉天狗は鬼霊より強大な能力を持つが、人間と鬼霊に干渉することはほとんどない。
「なぜたすけた?」
鴉天狗は灯りの中に足を踏み入れた。
「助けたのは儂ではない、天狼に聞け」
鳳羅須は蒼い狼に顔を向けた。天狼と呼ばれた狼は鳳羅須の傍らに座り、尾を振っている。鴉天狗と違い、言葉はしゃべれないようだ。鳳羅須は再び鴉天狗に問いかけた。
「おれをどうするつもりだ?」
「さて、煮て喰うか、焼いて喰うか……どうされたい?」
「おれには、かえるところはない、まっていてくれる人もいない。すきにしろ」
だが、鴉天狗は鳳羅須を喰いはしなかった。それどころか、着る物と食い物を与えてくれた。そして鳳羅須の体力が回復すると、針手裏剣を持って来た。それは父が使っていた物と同じだった。
「喰い物は自分で捕れ」
その日から鳳羅須は雪の中を駆けめぐり、獲物を求めた。
大鳥の庄にいた頃に手裏剣の稽古をしていたが、なかなか上手くいかず、飯にありつけない日が続くこともあった。しかし、狩りの腕はみるみる上達し、手裏剣の技も磨きがかかった。
春が来て、夏が来た。秋が寒い冬を呼び戻し、刻は緩やかに流れ、鳳羅須は一二歳の春を迎えた。
鴉天狗が東軍と西軍の戦が激しさを増し、東軍がかなり追い込まれていることを話した。
神が現世に現れて五〇〇年、その間に彼らは幾度も転生を繰り返し、それぞれが東西両軍に別れて戦いの歴史を刻んできた。西軍の神が太元帥であり、東軍の女神が摩瑜利だ。鳳羅須の姉は七代目の女神だった。
人間のことに干渉しないはずの鴉天狗が、なぜ戦の話しをするのか不思議に思ったが、鳳羅須にはどうでもよいことだった。この六年間で鳳羅須は二つの目的を定めていた。
一つは華結羅を捜しだすこと、もう一つは父の汚名をそそぐことだ。
華結羅の消息は東軍が全力を尽くして捜したに違いないが、それでも見つけることが出来なかった。華結羅が摩瑜利を連れて失踪してから、鳳羅須は姉の存在を感じなくなっていた。それは不思議な感覚だった。今まであって当たり前の物が、突然失われてしまったのだ。自分の中に、ポッカリ穴が開いた感じがした。摩瑜利と華結羅はこの世界にはいない、鳳羅須はそう確信していた。
現状では華結羅を捜しだすことは不可能だ、ならば自分が出来る方を先にやるまでだ。鳳羅須は真明山を降り、大鳥の一族に頼み込み戦に加わった。
鳳羅須はそれから五年間、戦って戦って戦い抜いた。ときには大将を討ち取ったこともある、鳳羅須は手柄を立て続けたのだ。しかし、鳳羅須の手柄は大鳥一族に横取りされてしまった。いくら鳳羅須が手柄を立て、懇願しても父の名誉挽回は叶わず、大鳥一族を名乗る事はもちろん、一族の庄に住むことすら許されなかった。
鳳羅須は父の汚名をそそぐことは出来ないと悟った。大鳥一族は、最初から父を赦すつもりなど無かったのだ。鳳羅須を使える駒として利用しただけだ。いや、冬山に捨てても死ななかった鳳羅須を、西軍に始末させたかったのだろう。
戦えば戦うほど、人や鬼霊を殺せば殺すほど、虚しさと悲しみが募っていった。鳳羅須はやがて自ら死を求め、戦場を彷徨うようになった。
それでも、自ら命を絶つことはしなかった。己の手で命を絶つことは親不孝以外の何ものでもない。ただ己の死を望み、戦い続けた。
いつしか鳳羅須はその無謀な戦いぶりから、修羅の真明と呼ばれるようになっていた。
戦況が悪化する中、鳳羅須は決死隊に組み込まれた。起死回生を狙い、敵陣の大将を暗殺するのがその任務だ。
無論、成功する見込みは絶望的で、案の定、鳳羅須以外の兵士は途中で命を落とした。 鳳羅須は敵の大将を崖の上に見つけた。昇り竜の陣羽織を纏い、一目で指揮官と判る偉丈夫だ。彼は数名の配下だけをそばに置き、眼下に広がる戦場を見下ろしていた。
鳳羅須は手裏剣を使い、瞬く間に配下を始末した。
だが、竜の大将に打った手裏剣はことごとく太刀で防がれた。何らかの力が宿った太刀なのだろうが、それ以上に使い手の腕が優れている。鳳羅須は手持ちの手裏剣を使いきってしまった。
鳳羅須は戦場で拾った小刀を構えた。太刀に対して心細い限りだが、他に武器はなく、防戦になれば勝ち目はない。鳳羅須は宙に身を躍らせた。
その動きは完全に読まれ、竜の大将も跳び上がると、素早く剣を突き出してくる。
鳳羅須は空歩術を使い間合いを取った。
左肩に激痛が走った。見ると己の手裏剣が深々と刺さっている。竜の大将はいつの間にか、鳳羅須が打った手裏剣を手に忍ばせていたのだ。痛みにより集中力が途切れ、鳳羅須は地に落ちた。己の身体を浮かす空歩術には高度な集中力がいる。
しかし、すぐさま身体を回転させてその場を離れた。
その刹那、大将の刃が大地を斬りつけた。
鳳羅須は素早く立ち上がったものの、崖に追いつめられていた。
「死ぬ前に名だけは聞いてやる」
鳳羅須は覚悟を決めた、一か八かだ。
「真明山の鳳羅須……」
鳳羅須は両腕を脇に垂らし、構えを完全に解いた。
「ほう、貴様が修羅の真明か」
竜の大将が真一文字に太刀を振り下ろした。その瞬間、鳳羅須は後ろに飛び退いた。
一瞬の隙が竜の大将に生まれた。
鳳羅須はそれを見逃さず、小刀を大将の顔にめがけ投げつけた。手応えはあったが、おそらく致命傷にはならなかっただろう。
空歩術を使うことができず、鳳羅須の身体は谷底へ真っ逆さまに落ちていった。
鳳羅須は阿武隈川の河原で意識を取り戻した。
夢で意識を失い、現で目覚めるとは面白い事もあるものだ。しかも、あの時と同じく河原で意識を取り戻すとは。
昨夜大身にやられた傷は酷く痛み、身体も思うようには動かなかった。崖から落ちたときは深い傷を負い、血も大量に失った。どっちもどっちだが、今回の方が状況が良くない。あの時は戦のさなかだったが、流されて戦場から大分離れてしまった。そのせいで生き延びた。だが、今回は周りに敵がいる。しかも、それは恐ろしく強力な鬼霊たちだ、戦場のど真ん中にいる以上に危険だ。
八大竜王より先に、もう一度、摩瑜利を見つけなければならない。天を仰ぐと日は高く昇っていた。
意識を失っている間によく発見されなかったものだ。毒のせいで鬼霊の能力も弱まり、逆に気配が消えていたのだろうか。鳳羅須は何か引っかかる物を感じた。
気にしても始まらぬ……
能力が弱まっているにもかかわらず、摩瑜利のいる場所を感じられた。毒が消えていればもっと早く見つけられたはずだ。
摩瑜利は予想通り能力と共に記憶を封じられていた。何とか記憶を取り戻させ、華結羅のことを訊 き出したい。しかし、今は長時間、摩瑜利と接することはできない。先程からあからさまに強力な鬼霊の気配を感じる。今まで押さえていたのを一気に解き放った感じだ。
おれを誘き出す策か?
八大竜王はまだ摩瑜利がどこにいるか突き止められないらしい。出来るなら、とっくに捕まえて自分たちの世界へ戻っている。今は自分との接触しない方が摩瑜利にとって安全だ。
鳳羅須は自分を挑発する鬼霊を無視することに決め、昨夜、大身と戦った場所へ向かうことにした。摩瑜利が記憶を失っていても、彼女と住んでいる男とあの娘なら何か知っているかもしれない。
六
ああッ、もう!
望月光奈はビッグアイの周りをイライラしながらうろついていた。彩香の家に行ったら、すでに彼女の姿はなかった。
「また、出ていったのよ」
彩香の母、神 鳥 由 良 は疲れ切った表情で言った。光奈は由良から内 村 伸 の住所を聞き出した。警察から教えてもらったということだ。なぜ伸のところへ行くことを許したのか、由良を問いつめたい衝動にかられたが思いとどまった。
彩香と由良の間には光奈の知らない溝がある。それは光奈が踏み入れてはならない領域だ。だから光奈は、彩香を連れ戻してくると約束して由良に微笑んだ。
が、伸の家にいざ出向いてみると留守だった。伸のケータイ番号までは聞いていなかったので、しばらく待ってみたが誰も戻って来ない。光奈はまた勘を頼りに彩香を捜すことにした。当然、彩香はケータイに出ない。
例によってビッグアイくんだりまでやって来たが、昨日の状況を考えるとここに伸と彩香が来るとは考えられない。そもそも、彩香と伸は一緒に居るのだろうか。
伸は家出した彩香と居たことで、警察でかなりとっちめられたはずだ。本当に彩香を想っているならそれでも会おうとするだろうが、実際は遊んだだけだ。これ以上、彩香とは関わりたくないだろう。
どうしてあたし、ここに来たかな?
当然、彩香の姿はどこにも無い。光奈はため息を吐いた。気持ちを切り替えて、別の場所へ行くことにした。その時、駅の向かい側にあるアーケードから、見覚えのある顔がこちらにやって来た。
薄暗いところで見た顔だが忘れるはずはない。しかも隣には女を連れている。肌寒いこの時期にヒョウ柄のキャミソールとタイトなジーンズという出で立ちだ。制服のスカートが、ひざ上一五センチの光奈が言ってもあまり説得力は無いが、見てるこっちが寒くなる。
さらに、その後ろに二人の男がいる。一人は茶髪に鼻ピアス、もう一人は金髪でグリーンのカラーコンタクトを入れている。光奈は知るよしもないが、家出した彩香をナンパをしたのはこの二人だ。つまり、伸とこの二人はグルだったのだ。彩香は、今ではコントでも使われないような古典的な手に引っかかっていた。
「待ってッ」
光奈は鋭い声をあげた。
伸は怪訝な顔を光奈に向けた。
「昨日あったのに、あたしのこともう忘れた?」
伸はハッとした。やっと光奈が誰か思い出したようだ。
「だれ~? コイツ~」
見かけだけではなく、しゃべり方も頭が悪そうだ。渋谷や原宿ならともかく、郡山でこの手の女は浮く。
「彩香はどこ? あんたの家に行ったはずだけど」
「しらねーよ」
「トボけないでッ。また警察のお世話になりたいッ?」
「しらねーッつってんだろ! あいつのせいでこっちはひでぇ目にあってんだ」
「自業自得じゃない! 教えないなら、そこの交番に……」
「しつけーんだよッ」
伸は光奈を突き飛ばした。小柄な光奈は吹き飛ばされ尻餅をついた。通行人がチラチラとこちらを振り向く。
「これ以上つきまとうんじゃねぇ!」
そう言い残すと伸は仲間を促し、その場から去ろうとした。
「ちょっと……」
光奈が立ち上がろうとしたとき、伸の前にジャージ姿の少年が立ちはだかった。そのジャージは安積中央高校のアーチェリー部の物だ。
「待で」
相変わらず訛りが強いが、言葉の響きはいつもの浩之とはまるで違う。
「なにコイツ、ジャージで出あるってるなんて、マジダサイんですけど」
「あいつの知り合いだ」
浩之は立ち上がった光奈に顎をしゃくった。
「それに神鳥ともな」
「で、ナンなんだ? オレは忙しーんだよ!」
伸は見上げるように浩之を睨みつけた。彩香の前での好青年ぶりはどこへやら、完全にチンピラだ。
「神鳥はどこさいる?」
「だからしらねーよ、どけ!」
伸は浩之も突き飛ばそうとしたが、浩之はその腕をつかんだ。
「神鳥はどうしたッ?」
光奈は思わず浩之を見直した。アーチェリー部のホープは伊達じゃない。が、次の瞬間、思わず口を両手で覆った。
伸の空いている方の拳が、浩之の頬に叩き込まれた。思わずよろけた浩之を伸は続けざまに殴りつける。後ろの二人もにやけた笑みを浮かべ、浩之をいたぶる仲間に加わった。
「やめて!」
光奈は割り込もうとしたが、鼻ピアスに突き飛ばされた。
「望月ッ」
鼻血を垂らしながら浩之が駆け寄ろうとしたが、伸の膝が鳩尾に入りその場にうずくま
った。伸の連れ《彼女なのか遊び相手かは知らないが》 はこの状況をケラケラ嗤いながら見ている。
「オメーら、マジでうぜぇんだよ」
伸はうずくまる浩之にさらに蹴りを入れようとした。が、その足が浩之に触れるより早く、一陣の白いつむじ風が伸を巻き込んだ。そしてそのつむじ風は鼻ピアスとカラーコンタクトをはじき飛ばし、光奈をも飲み込んで、瞬く間に通り過ぎた。
二人の男は完全に意識を失ってひっくり返っていた。伸の連れの女は何が起こったのか判らずポカンとし、浩之はまだうずくまっていた。
白いつむじ風は瞬く間に、光奈と伸を人気のない路地裏に運び去った。
「うわッ」
伸はフェンスに叩き付けられた。光奈の方は伸に比べればずっと丁寧だが、それでも乱暴に地面に降ろされた。
光奈は白いつむじ風の正体を知った。
「ドッペルゲンガー……」
いや、こいつはドッペルゲンガーなんかじゃない。現に頬に傷跡がある。周りが少し紫色に腫れている。少なくとも幽霊の類でないことは確かだ。
「あなた誰?」
光奈の質問を無視して、死に装束は伸に歩み寄った。
叩き付けられた衝撃で、蝦蟇男にやられた傷口が開いたのか、伸は浩之よりも無様にうずくまり呻き声を上げている。
死に装束は伸の髪を鷲づかみにすると、顔を無理矢理上げさせた。
伸はその顔を見て息を飲んだ。
「あ、彩香……」
「教えろ、その女の母親はどこにいる?」
伸は訳が解らずキョトンとしている。
「そ、そんなこと聞いてどうするの?」
光奈の言葉はまたもや無視された。
「答えろ」
髪をさらに上へ持ち上げる。
「イタタ……ッ」
「やめてッ、あたしが知ってる」
初めて死に装束が光奈の声に反応した。
「それは摩瑜利の……あいつの生みの親か?」
光奈は口ごもった。由良とのやりとりが脳裏をよぎった。彩香と由良の溝、それが何であるのか解った気がする。そして目の前にいるのが誰であるかも想像がついた。
「わからない……でも、彩香を育てた人は知ってる」
死に装束は伸を乱暴に放した。伸はしたたかに額を打ち付け、悲鳴を上げた。
「どこにいる?」
「それを知ってどうするの?」
「質問しているのはおれだ」
光奈は死に装束の眼にただならぬ殺気を感んじた。教えることなんてできない。
「あんたの目的がわかんなきゃ、教えられない」
死に装束の殺気が一段と強まった。光奈は背筋に冷たい物が走るのを感じた。伸よりひどいことをされるに違いない。光奈は身を強ばらせて、由良の居場所をしゃべりそうになるのを必死にこらえた。
「尋ねたいことがある」
そう言った死に装束の瞳は、さっきまでとは打って変わりとても悲しげだった。
「どうしても聞かなければならない事があるのだ。その為に、おれはここまで来た」
光奈はじっと死に装束の瞳を見つめた。彩香と瓜二つの顔をしているが、彩香よりさらに複雑で重い過去を背負っている。
「……いいよ、教えてあげる」
死に装束が何か言いかげたが、言葉が出るよりも早く光奈を抱きかかえて、脇に飛び退いた。
「ぐあッ」
背後でくぐもった悲鳴が聞こえた。死に装束の身体から顔を覗かせると、伸の背中に何かが突き立っていた。中央に握り部分があり、その両端が太い針のようになっている。摩瑜利を調べているときに写真で観た。独 鈷 杵 と呼ばれる密教の法具だ。
死に装束は光奈を庇うように素早く立ち上がり、袖に仕込んであった針手裏剣を打った。
「流石に避けたか。それにしても、つまらん物に刺さったものだ」
そこには僧形の針金のような男が立っていた。死に装束の手裏剣は僧の鼻先でピタリと止まっていた、何もない空中に。
七
鳳羅須は一瞬、我が目を疑った。鬼霊の気配は今まで大分離れた場所にあったはずだ。摩瑜利からも離れていたので油断していた。
「儂がここに居るのが、そんなに不思議か?」
針金のような僧が嘲 りの笑みを浮かべた。空中に静止していた手裏剣が向きを変え鳳羅須めがけて飛んできた。鳳羅須は自分の顔に突き立つ前に、手裏剣を手でつかんだ。手を使わずに飛んでくる物を止めるような芸当は、鳳羅須には出来ない。
目の前の鬼霊は随分と器用らしい。この僧は瞬間移動か気配を飛ばす術が使えるのだ。前者なら大身がやられる前に駆けつけたはずだ、ということは後者だろう。
「貴様、摩瑜利の弟だな」
鳳羅須は表情一つ変えなかった。否定しても無駄だ。顔を見られた以上、この鬼霊を斃さなければならない。
「儂を殺すつもりか? 愚かな……」
吐き捨てるように言うと、僧は印を組み真言を唱え始めた。
「オン ナンダ バナンダ エイ ソワカ
オン メイギャシャニエイ ソワカ……」
真言自体に特別な力はない。真言はハッタリか意識を集中させるために唱えるのだ。そして鬼霊はたいてい二種類の真言を好んで使う。一つは東西どちらかの神の真言、もう一つは己の一族に関わる真言だ。
僧が唱えた真言は八大竜王真言と難陀・跋難陀真言を合わせた物だ。難陀・跋難陀真言を唱えるのはそれを名乗る竜一族、難陀竜王と跋難陀竜王だけだ。難陀が女だということは知っている、ということは目の前の僧は跋難陀竜王か。
鳳羅須は再び手裏剣を打った。今度は空中で止まることなく跋難陀の額に命中した。が、手裏剣は堅い岩にぶつかったごとく跳ね返された。
跋難陀の皮膚の色が黒ずみ、妙にザラザラとしてきた。身体も次第に巨大化していく。
「逃げろッ」
鳳羅須は背後にいる少女に怒鳴った。少女は事の成り行きについて行けず、呆然としている。
「早く行けッ」
少女はやっと我を取り戻し、弾かれたようにその場から駆けだした。
鳳羅須は腰の刀を抜いた。これは大鳥一族の伝家の宝刀、『聖 鳳 』だ。故あって今は手元にあるが、鳳羅須はその秘められた力をほとんど使いこなすことが出来ない。だが、手裏剣が通用しない以上、この剣に奇跡を期待するしかない。
鳳羅須は変化をなし遂げようとしている跋難陀に斬りかかった。ガツッと金属同士がぶつかるような音がして、聖鳳刀は弾かれた。
「オン ナンダ バナンダ エイ ソワカ……」
跋難陀は何事もなかったように真言を唱え続けている。こうしている間だにも彼の身体は刻々と変化していく。三まわりほど大きくなり、ザラザラした皮膚は鱗状になっている。身にまとっていた僧衣は膨張に耐えきれず、すでに破れて鱗に覆われた胸が露わになっていた。
ただ手をこまねいて見ているわけにはいかない。こちらの攻撃が効かない以上、選択の余地はない。
鳳羅須は危険を覚悟で跋難陀の脇を駆け抜けた。少女と反対方向に行くためだ。予想に反し跋難陀からの反撃はなかった。お陰で瞬く間に駅前のロータリーへとたどり着いた。
「待てッ。望月をどこに……」
何者かに左腕を捕まれた。とっさに鳳羅須は聖鳳刀を握ったままの右手でそいつを殴りつけた。
「うッ」
殴られた相手は無様に尻餅をついた。見ると鳳羅須と同じ年頃の少年だ。少年は鼻血を垂らしながら、涙を滲ませた眼で鳳羅須を見上げた。
「か、神鳥……」
見覚えのない少年が自分を誰と勘違いしているかはすぐに判った。
「逃げろッ」
「なに言ってんだ? それに、望月は……」
鳳羅須は強引に少年を立たせた。
「あの娘ならもう逃げた。死にたくなかったらお前も逃げろッ」
少年は狐につままれたようなような顔をしている。摩瑜利を知っているかといって、いつまでも構っているわけにはいかない。跋難陀が狙っているのは自分なのだ。鳳羅須は少年を放っておいて逃げようとした。
その刹那、鋭い殺気を感じ、少年を抱えたまま後ろへ飛び退いた。
轟音と共に眼に見えない何かが通り過ぎた。駅の壁ガラスが次々に割れ、大地がえぐられ、石畳が宙に舞う。その通りにいた人間は十数メートルも吹き飛ばされ、押し潰されたかのように内蔵をはみ出させ、不自然に手脚を曲げて絶命した。
目の前で起こったことに少年は絶句した。
「解ったなら、早く行けッ」
少年はガクガクとうなずくと、はうようにしてその場を去った。
鳳羅須は己が逃げてきた通りに視線を向けた。
そこには五間 ほどもある巨人が立っていた。全身は深緑の鱗で覆われ、頭部から二本の角が生えている。耳元まで裂けた口にはずらりと鋭い牙が並び、瞳は蛇のように縦長だ。坊主頭には長い髪の毛、いや鬣 が生えている。その顔はまさに竜その物だ。
竜巨人は胸を膨らませ息を吸い込み、咆吼と共に鳳羅須に向けて吐き出した。
息は大気を震わせ破壊の波動となり襲いかかった。鳳羅須は再びかわしたが、そこにいた数名の人間が波動をもろに受け吹き飛んだ。鳳羅須を始末するためなら、犠牲は厭 わないつもりらしい。
跋難陀は通りの奥からロータリーへと姿を現した。
続けざまの怪事に人々の視線がこちらに集まる。
鳳羅須は舌打ちし、懐から取り出した布で口を覆った。
跋難陀が再び波動を吐き出す。
鳳羅須はとっさに避けたが、後ろにいた人々が波動の餌食となった。
この状況をやっと飲み込んだ野次馬たちは慌てて逃げ始め、辺りは騒然となった。しかし、中にはとどまって何やら機械を跋難陀に向けている。何を考えているか解らないが、邪魔になるので鳳羅須はどこかへ消えて欲しかった。
そのときパンパンと大きな音が響いた。二人の男が短筒を跋難陀に向けていた。鳳羅須は知るよしもないが、駅前の交番から警官が出てきたのだ。すでに郡山警察暑にも連絡が行っており、間もなく応援が来るはずだ。
「やめろ、こいつに構うなッ」
鳳羅須は叫んだが遅かった。跋難陀は波動を二人の警官に吐きつけた。警官の身体がグシャリと潰れた。
鳳羅須も能力の出し惜しみをしてはいられない。宙を蹴って駆け上がった。これが鳳羅須の能力の一つ、空歩だ。地面と同じように何もない空間、つまり空を歩むことができる。
鳳羅須は跋難陀の眼をつぶすつもりだ。瞬く間に竜巨人の顔へ近づく。
跋難陀は波動を吐き鳳羅須を落とすとするが、上手くかわして死角になる鼻面へたどり着いた。
今度は手で払い落とそうとする跋難陀だが、すばしっこく動きまわり、巨大な眼に聖鳳刀を突き立てようとした。が、それより早く竜巨人の目蓋が閉じた。
聖鳳刀が弾かれ、勢い余ってわずかに体勢を崩した。
跋難陀はこの機会を逃さず、巨大な手で鳳羅須の身体をつかんだ。
「うッ」
メキメキと肋骨が鳴った。まるで体を万力で挟まれているかのようだ。
跋難陀は鳳羅須に息を吹きかけた。
あまりの衝撃に鳳羅須は悲鳴すら上げられなかった。頭がガンガンし、意識が遠のく。耳や鼻から脳みそが溢れ出そうだ。
跋難陀は手加減をしていた。いかに生命力が強い鳳羅須といえども、この距離でまともに波動を浴びたら一溜まりもない。だが、それではつまらないのだろう、跋難陀は思う存分いたぶるつもりなのだ。
どうやった、おれはあの時どうした……
鳳羅須は薄れゆく意識の中で、大身と戦った時のことを思い出そうとしていた。
大身の身体を覆う体液のせいで、手裏剣も聖鳳刀も通じなかった。だが、覚悟を決めて斬り結ぼうとしたとき、頭の中にある記憶が蘇った。いや、蘇ったというのは正確ではない。あれは自分の記憶ではないのだ。
鳳羅須は聖鳳刀を手にして戦場にいた。だが、戦場で聖鳳を持ってるはずはない。この刀はこの異界に来る直前に手にしたのだ。誰か別の鬼霊の記憶だ、この聖鳳刀を持っていた者の記憶。
父上……
再び衝撃が襲った。跋難陀がまた死の息を吹きかけたのだ。
ついに鳳羅須は意識を失った。
「いやぁああ……ッ」
彩香は悲鳴を上げてその場にうずくまった。頭蓋骨を砕かれるような衝撃に襲われたのだ。
何が起こったのか解らない。ガンガンする頭に映像が浮かんだ。
幼い頃の自分が目の前にいる。理由は判らないが泣いている、頭をなでて慰めた。
え? ダレが頭をなでてるの?
頭をなでている人物の顔が見えない。それもそのはず、記憶の中で頭をなでているのは自分なのだ。よく見ると、目の前の自分には顎にホクロがない。これは自分ではない、これは……
鳳羅須……
別の映像が頭に浮かんだ。巨大な竜の顔が眼の前にある。
なにこれ……
頭だけではなく急に胸が苦しくなった。何かが溢れ出そうとしている。彩香は必死にそれを押しとどめようとした。
鳳羅須……
誰かに呼ばれたような気がして鳳羅須は意識を取り戻した。目の前には巨大な竜の顔がある。
あれだけ痛手を受けたはずなのに、頭は意識を失う前よりスッキリしている。そのお陰で、大身を斃したときの記憶を鮮明に思い出せた。
鳳羅須は大身と斬り結んだ瞬間、父となり別の戦場にいた。そこで父は聖鳳の力を解き放ち敵の鬼霊を斬った。すると現実の世界では大身が斬られていたのだ。
あのときの感覚、戦場で聖鳳を使った父の感覚を必死に思い出そうとした。
そうだ、あれは……
意識を聖鳳の刃の内側に向ける。そこには信じられないほど広大な世界が広がっていた、一つの宇宙と言っていいだろう。その世界には一羽の巨鳥が住んでいる。その世界の主である鳳凰だ。その巨鳥見つけ出し、一体となるのだ。
跋難陀が息を吹きかけた。だが、その衝撃を受けることはなかった。鳳羅須の身体は光の膜で覆われていた。聖鳳刀が灼熱の輝きに白く染まる光刃となった。
胴体を握られている鳳羅須は、光刃を思うように扱えず、跋難陀の腕に押しつけるのが精一杯だ。だが、腕の鱗から煙が上がり、跋難陀は叫びながら鳳羅須を放した。
鳳凰と一体化した鳳羅須は、体勢を崩すことなく空中に舞い上がった。跋難陀の腕が届かないだけの間合いを取り、聖鳳を八双に構えた。
跋難陀も顔を歪め、息を吸い込む。
光刃が輝きをいっそう増した。
跋難陀が波動を吐き出すのと同時に、鳳羅須は聖鳳を振り下ろした。聖鳳から放たれた光刃が波動を斬り裂いた。光の刃はそれだけでは止まらず、鋼の鱗を貫き跋難陀の頭を真っ二つにした。
鳳羅須は消滅しかかった波動のあおりを喰らい、きりもみ状態で地面に叩き付けられた。
脳漿と血をぶちまけながら、跋難陀は闇雲に波動を吐きまくった。波動は郡山駅とビッグアイを含め、周囲の建築物を破壊した。
そして力尽きたのか、跋難陀は仰向けに倒れた。すると瞬く間に、空気が抜ける風船のごとく体が縮まり、本来の針金のような細い身体に戻った。
悪夢から覚めたかのように静寂が街を包んだ。
竜巨人は姿を消したが、破壊された建物や辺りに転がる無惨な死体が、今起こった事が現実であることを物語っていた。
サイレンが遠くで鳴り響いた。
第三章 使命
一
白ビルの四階から徳叉迦 が飛び出してきた。アーケードの屋根を駆け抜け、駅前のロータリーに面した入り口へ向かう。
ロータリーはひどい混乱状態にあった。車が折り重なるように溢れかえり、逃げまどう人々が徳叉迦の足下にあるアーケードの入り口でごった返している。
徳叉迦はすぐに無惨な姿で横たわる跋難陀 を見いだした。
二〇〇メートル以上離れているが、柘榴石 の瞳は頭部の傷をよく診ることができた。刃物で斬られたようだが傷口が炭化している。この傷は普通の武器で出来たものではない。
神器 と呼ばれる特殊な力を秘めた武器でやられたのだ。たった一人の鬼霊しか送れなかった東軍にすれば、それぐらいの餞 別 を与えるのは当然だ。
それにしても……
跋難陀を斃 すとは、真明鳳羅須 の能力 は計り知れない。徳叉迦は娑羯羅と白ビルの中で、二人の鬼霊の戦いを感じていた。
彼は気配を飛ばし、撹 乱 する策に出ていた。真明はまんまと罠に掛かり、よりにもよって白ビルのそばでその気配を感じさせた。
その時は跋難陀が殺られるなど思いもよらず、高見の見物を決め込んでいた。
「徳叉迦、そんなところに立っていると人目につく」
背後から娑羯羅の声が聞こえた。
「誰もアタシのことなんか見ちゃいませんよ」
徳叉迦は振り向き、娑羯羅の隣に並んだ。
「オメデト、あなたの思い通りになったわね」
娑羯羅の瞳が剣を帯びた。
「そんなに睨まなくたっていいでしょ。別にあなたを責めてるわけじゃないんだから」
「当たり前だ。あたくしは……」
徳叉迦は掌を娑羯羅の顔に突き出し言葉を遮った。
「それで、これからどうするつもり? 難陀さまを呼び戻すのはいいけれど、指をくわえてみていれば、真明に摩瑜利をくれてやることになるわね」
「だからと云って、これ以上危険は犯せまい。お前は、難陀様たちがどこにいるか知っているのか?」
「知るわけないでしょ。あなたの方こそ見当ついているんじゃない?」
「………………」
「まぁいいわ。どのみちアタシもあなたの駒として使われるんだから」
「あたくしは何もしていない、勝手にお前の妄想で話しを進めるのはやめろッ」
吐き捨てるように娑羯羅は言った。
徳叉迦は口元を歪めた。
「妄想ね……なら、その妄想をもう少し我慢して聞いてちょうだい。アタシは真明と戦うわ。あぁ、面倒だから止めなくていいわよ、別に難陀さまに告げ口なんてしないから」
娑羯羅は憮然とした面持ちで徳叉迦の顔を睨んでいる。徳叉迦は娑羯羅の事などお構いなしで話しを続けた。
「アタシはね、なにも色事にしか興味がないわけじゃないの。強いヤツと闘うのも大好きなのよ。正確に云えば、強いと思い込んでいるヤツが、泣き叫びながら命乞いをするのを見るのがね。跋難陀さまを斃したほどの相手なら、殺り甲斐があるってモンでしょ」
「お前が殺られた場合はどうする? あたくしに責任を押しつける気か?」
「フフフ……その時のことはちゃんと考えてあるんでしょ?」
そうはならないけどね、と徳叉迦は心で付け加えた。
徳叉迦の柘榴石の瞳は、人の心の奥底までのぞき込むように輝いていた。娑羯羅は言葉に詰まったかのように口をつぐんだ。
「じゃ、そういうことで」
徳叉迦は娑羯羅をその場に残し、立ち去ろうとした。
「待て、あたくしも行く」
「だからいいって、そんな演出は」
「お前にここで死なれては、あたくしの計略も狂う」
徳叉迦は不審の顔を向けた。
「安心せよ、お前の邪魔もしないし、背中を狙ったりもしない」
二
難陀は和修吉 、優鉢羅 、そして阿那婆達多 と共に東京へ向かった。別にそこが日本の首都と知っていたわけではない。彼女はある思惑のために人間が多く集まるところに行く必要があった。難陀は境界を越えたときから己の鬼霊の能力 を使い、目的に叶う場所を探っていた。そして、自分の望み以上の場所が存在することを突き止めたのだ。
郡山から東京までおよそ約二〇〇キロ離れている。その距離を数時間で駆け抜けてきた。難陀と優鉢羅はことさら動きにくい格好をしているが、それも彼らの動きを鈍らせる役には立たなかった。
そして今、四人は東京都に隣接する埼玉県和光市に身を潜めていた。四人がいるのは武蔵野神社の本殿だ。開成山大神宮がそうであったように、この神社にも近づく者も無ければ、社務所に人の気配も無かった。
神社の鳥居を始めあちこちに護符が貼られ、その魔力により人を遠ざけていた。そこは言わば異界と化していた。すぐそこに在るはずなのに、行くことはおろが近づくことすら出来ない。護符の魔力により眼に見えない境界が生まれ、人は無意識に武蔵野神社を避けるようになる。たとえ何かを見たとしても、それは瞳に映るだけで注意を一切向けない。
開成山大神宮とまったく同じに思えるが、一つだけ違う点があった。大神宮では神主たちは社務所や本殿に出てこないように、奥に追いやられていただけだ。が、武蔵野神社の神主や巫女たちは、今朝から敷地の片隅に居る。それも変わり果てた姿で。
彼らは木乃伊 のように全身が干からびていた。難陀の秘術によって全身の精気を奪われ、このような姿になってしまったのだ。
難陀たちは人目に付くのを避けてきた。そのため人を殺めるような目立つ行動は極力慎んでいたのだが、二〇〇キロという距離を駆け抜けるのは、この四人にとっても決して楽なことではなかった。神主たちは彼らを回復させるための糧にされたのだ。
難陀は、今、御神体の前に座り、掌にある水晶玉を見つめいた。この水晶こそ竜一族の神器、如意宝珠 だ。神主たちを木乃伊 にした秘術も、この如意宝珠を使って行われた。
如意宝珠に不吉な影がよぎった。難陀の青白い顔がいっそう蒼白さを増す。
「いかがなさいました?」
優鉢羅 が気づかわしげに声をかけた。
「跋難陀の身に何事か起こった……」
難陀は優鉢羅 の手をすがるように握った。
「御前は何も感じぬか?」
優鉢羅 はおもむろに立ち上がると、御神体の鏡の脇に立った。鏡の端に触れ、半眼を閉じる。
しばらくすると、御神体の表面に波紋が幾重にも広がり、郡山の街並みが映し出された。映像は拡大され、破壊された駅前が現れた。
「む? あれは……」
そこには瓦礫の下敷きになったり、跋難陀 が吐いた波動により殺された人々の亡骸が幾つも横たわっていた。ところが、御神体の表面が泡立ったかと思うと、その映像は途切れてしまった。
「………………」
「御前の能力 でも駄目か」
「どうなっとるんだ?」
和修吉が訝 しげに太い眉を寄せた。
「何者かが私たちの邪魔をしている」
「邪魔?」
「ああ、どういう意図があってかは判らぬが、難陀様と私の千里眼を妨げた」
「難陀様とおぬしを妨げた?」
和修吉は納得できないようだった。難陀は言うに及ばず、優鉢羅 も西軍で指折りの千里眼の使い手だ。それを妨害できる者がこの世界に居るのか。
「修羅の真明、あやつの仕業なのか……」
難陀 の呟きに今まで沈黙していた阿那婆達多 は、無意識に額の傷跡を指で触れた。
「一度、跋難陀 様の処へ戻りますか?」
優鉢羅 の問いに難陀 は視線を掌の上の如意宝珠 に落とした。蒼白の自分の顔が映るばかりだ。
「……いや、このまま我らが目的を優先させる」
「しかしッ」
「和修吉、考えてみよ。ここからあの地までどれだけかかる? 万が一、跋難陀 の身に何か起こっていても到底間に合わぬ」
鬼霊の中には縮地 という、瞬く間に別の場所に移動する能力 を持つ物も居る。だが、この四人は強大な鬼霊であるものの、その能力 はない。
「されど、摩瑜利 はまだ敵の手に落ちたわけではありませぬぞ。大身 に娑羯羅 、それに徳叉迦 がおります、ここは我らが戻り確実に‥‥」
「大身 はもうおらぬ」
優鉢羅 の声に和修吉は眼をむいた。
「昨夜から奴の気配を感じぬ、まさかとは思ったが……」
修験者の格好をしている和修吉 だが、優鉢羅 や難陀 と違い千里眼の能力 はまったく無い。
「残るは娑羯羅 と徳叉迦 のみ」
「難陀 様ッ、徳叉迦 をお見捨てになさるおつもりか!」
うろたえる和修吉 を、難陀 は氷刃 の瞳で睨みつけた。
和修吉 は思わず息を飲んだ。
「私 とて実弟を見殺しにしておるのじゃッ、それでも竜一族のことを思い耐えておる。己の感情に流されるでない!」
「………………」
和修吉 はうつむき沈黙した。
「しかし、娑羯羅 がいなくなっては、玄翁石 を境界としないかぎり、我らが世界に戻ることはかないませぬ」
「ふふふ……境界の向こうには、恐らく東軍が手 薬 煉 を引いて待っておろうな」
難陀 は蒼白の顔をしたまま、凄然と笑みを浮かべた。
「望むところじゃ、東軍に目に物見せてくれよう。例え摩瑜利を奪われようとも、我らが目的さえ成し遂げれば、西軍の優位は変わらぬ。太元帥も我らに重罪を科すことなどできぬ。むしろ、摩瑜利が東軍の手に落ちれば、私 がより必要となるはずじゃ」
難陀 は如意宝珠を目の前に掲げた。その眼にはすでに弟に対する憐憫 は消え、野心のみがギラギラと輝いていた。
仲間の竜王や弟の命よりも優先させる目的とは何か、難陀 は何を目論んでいるのか。
「もうすぐ日が落ち、闇に紛れて自由に動ける。一刻も早く、呪界を張るのに適した場所を探し出せッ」
三
望月光奈 は安積中央高校の保健室にいた。室内は夕日でオレンジ色に染まっている。もうすぐ夜のとばりが降りる。
「そいつ、ダレだよ? 彩香とソックリだけど」
「兄弟だよ、多分……」
光奈は石川理恵 の質問にうわの空で答えた。真明鳳羅須 のことは名前以外は何も知らない。彩香との関係についても、まだハッキリとは聞いていなかった。
理恵と加 藤 里 美 は、ベットに横たわる血だらけの鳳羅須が見えないよう顔を背けている。浩之がアーチェリー部の先輩に見つかり連行されてしまったので、光奈は一人で鳳羅須の手当をしていた。
「多分? ハッキリ判らないのにここに連れてきたのかッ?」
「やっぱり、病院へ連れて行った方がいいよ」
里美も不信感を露わにしている。
「でも、約束したから……」
跋難陀 の波動に吹き飛ばされた鳳羅須を見つけたのは好沢浩之 だ。浩之は次々とやってくる救急車に鳳羅須を連れて行こうとしていたが、鳳羅須は断固として拒否していた。光奈はちょうどそこで鳳羅須と再会した。
鳳羅須は頬の傷に加え、下腹部にも深い傷を負っていた。破壊されたビルに使われていた太い針金が突き刺さったのだ。鳳羅須はそれを自力で抜いたようだが、死に装束は朱く染まっていた。
「早くお医者さんに診せないと、バイ菌が入って感染症になるよッ」
「おれに関わるな」
鳳羅須は倒れたまま痛みに顔を歪め、自分で動くこともままならない。
「そんな事できるわけないじゃない!」
鳳羅須は光奈を見上げた。不思議そうな眼で、光奈の顔を見つめた。
「なぜだ? おれに関わるとろくな事にならないのが解らないのか? 今度は命を落とすぞ」
「だからって、目の前に怪我人がいるのにほっとけないでしょッ」
鳳羅須はこの理由では納得できないようだった。いくら説得しても、医者に診られることを拒否するので、光奈は妥協案としてこの保健室に応急手当のために連れてきた。
「約束とかそういう問題じゃないよ」
里美が諭すように言った。もっともな意見だが、やはり本人の同意がないと医者に診せることはできない。
そもそも、なぜ理恵と里美がここにいるのかというと、鳳羅須を運び込むところを見られてしまったからだ。二人はテニス部の練習で学校に来ていた。テニス部のコートは保健室のすぐそばにある。なるべく目立たないように、カバンと浩之の身体で庇いながら保健室に入ったが運悪く目撃されてしまった。
今日は土曜日なので保健の先生はいないが、保健室の鍵を浩之に借りてきてもらって入ることができた。
鳳羅須は横になるとすぐに意識を失った。出血が多いせいかもしれないが、意外に傷口は浅い。
光奈は鳳羅須の下腹部の手当をしようとして、あることに気づいた。思わず声を上げそうになったが、何とかそれを飲み込んだ。
今、うわの空なのもそれが原因だし、鳳羅須を病院に連れて行かないと決めたのもそれがあったからだ。
光奈は動揺を悟られないようにしながら、すでにカサブタになっている頬の傷の手当もした。傷口にガーゼを貼ると、顔の半分が覆われ、鳳羅須は誰だか判らなくなった。
「救急車じゃなくて警察だよ」
理恵の声は強ばっていた。
「えッ?」
「だってそうだろ。身元もハッキリしない、ケガして血だらけ、オマケにあんなブッソーなモノ持ってんだから!」
光奈は鳳羅須が寝ているベットに立てかけた日本刀を見た。何とか鳳羅須を助けたいが、理恵の言うことはもっともだ。
こまったな……
四
鳳羅須は竜の大将との戦いで崖から落ちたせいで、しばらく真明山 で養生しなければならなかった。数年を戦場で過ごした鳳羅須にとって、天狼と過ごすことのできる真明山は安らぎの地だった。
真明山にはいくつか狼の群れがあるが、どの狼も天狼には敬意を払う。そのせいか、鳳羅須に狼たちはなついていた。傷がある程度よくなった鳳羅須は、彼らと山を駈けめぐった。鳳羅須は失った家族を取り戻したような錯覚を覚えた。
鳳羅須には本当の意味で仲間と呼べる者はいない。東軍に属してはいるが、誰も鳳羅須を仲間とは認めていない。大鳥の一族はその最たるものだ。
狼たちは狩った獲物は必ず分けてくれる、鳳羅須を仲間として受け入れているのだ。鳳羅須は狼に生まれてこれなかったことを悔やんだ。狼ならば、父の名誉回復のため戦場に行かなくてもよい、周囲からひどい目に遭わされることもない。常に仲間といられる、孤独にさいなまされることはない。
だが、鳳羅須は鳳羅須だ、決して狼にはなれない。傷が癒えれば、いずれ戦場に戻らなければならないのだ。取り戻すことのできない物を取り戻すため、敵の命を奪わなければならない。
真明山に留まることもできる。しかし、それでは臆病者のそしりを招くこととなる。今の望みはただ一つ、己の討ち死にのみだ。
そうすれば不甲斐なさを許してはもらえないまでも、あの世で父に追い返されることはないだろう。
傷が完治し、鳳羅須は絶望しか見いだせない戦場へ戻った。東軍の旗色はいっそう悪くなっており、鳳羅須の所属した部隊もすぐに敗走を余儀なくされた。
その夜、鳳羅須はいつものように他の兵士から少し離れたところで、一人野営をしていた。
食料も尽き、腹は鳴りっぱなしだが鳳羅須は無視して横になっていた。例により鳳羅須は、まだ食料に余裕があるうちから支給を停止されている。初秋の今なら、森や林に入れば食べられる木の実や草がある。だが、敗走する中で充分に食料を確保することは難しい。
突然、鳳羅須は背後の藪に向け、手裏剣を打った。
何かが木の上へ舞い上がった。
「ふふふ……少しは腕を上げたな」
細い枝に鴉天狗が立っていた。鴉天狗は鳳羅須の眼の前に音もなく降り立った。
「従 いて来い」
「断る」
天狼と共に自分を救ってくれた鴉天狗だが、鳳羅須はこの妖怪を信じることができなかった。天狼と違い、やたらと人間のことに精通しているし、何を考えているか解らない。
「母の行方に関わることでもか?」
選択の余地はなかった。父の汚名をそそぐのが不可能と悟った今、わずかでも華結羅 の行方を知る手がかりがあるのなら、どんな事でもする。
こうして鳳羅須は戦場を去った。鴉天狗が連れて来たのは意外な場所だった。
そこは陸奥の安達ヶ原で、人里はなれた場所に出城がぽつんと建っていた。要害の地というわけではないが、それでも減りつつある領地のことを考えれば何としても守りたいのだろう、警備はことのほか厳重だった。
鳳羅須は鴉天狗に導かれるまま入城した。むろん、妖怪の鴉天狗が堂々と入ることはできない。忍び込んだわけだが、鴉天狗がたどり着いた一室にいた十数名の男たちは、鴉天狗の到来を驚きはしなかった。むしろ待ちわびていた様子だ。
そこにいる者たちは身につけた物から、高位の人間であることがうかがえた。表の警備が厳重なのは、この地を守る以上の意味があるのだろう。
「八咫 殿、その者が……」
「摩瑜利 の弟よ」
集まっている人間の中で、最年長の男が鴉天狗に問うた。顔には幾筋もの皺が刻まれモゴモゴと話しているが、眼光は爛々としている。鳳羅須が幾度となく見てきた、欲望に取り憑かれた人間の眼だ。
「本当にこのような小童 で大丈夫なのか? 西郷様、私が以前から申している通り、そもそも摩瑜利の弟であることは、この務めに支障を招きますぞ」
ここに集まった男たちの中では若いが、それでも三十路を過ぎた角張った顔の男が言った。
「坂上 殿、その事についてはもう充分話し合ったはずじゃ。八咫殿の申す通り、この者を使わなければ西軍を出し抜くことはできぬ」
西郷という老人の言葉に、坂上はムッツリと黙り込んだ。
鳳羅須は戸惑いを感じずにはいられなかった。自分が話題の中心にいることもそうだが、それ以上にこの人間たちが、これほどまでに鴉天狗に敬意を払うことが信じられない。
妖怪は人間や鬼霊に干渉することがほとんどない。人に姿を見せることも稀で、こんなきな臭い場所へ出入りすることなどあり得ない。人間の方もやはり妖怪とは距離を置こうとする。ましてや、ここにいるのは幕府の要人たちだ。
それに鳳羅須は、今までこの鴉天狗に名があることさえ知らなかった。鳳羅須の中で鴉天狗に対する不信感が、いっそう高まっていった。
「真明の鳳羅須と名乗っておるそうだな。一つ儂の問いに答えよ」
西郷はその鋭い眼光を鳳羅須に向けた。試すような眼だ。鳳羅須は怖じ気づくこともなく、まっすぐにその視線を見返した。
「お主、姉が憎いか?」
予想外の言葉に一瞬答えにつまった鳳羅須だが、ぞんざいに問い返した。
「何故 そのようなことを訊 く?」
「口を慎め!」
坂上が怒鳴った。他の男たちも鳳羅須の物言いが気にくわなかったのか、部屋の中は騒然とした。
それを制したのは八咫だった。鴉天狗がさっと片腕を上げると、波が引くようにざわめきが去った。
「鳳羅須、東軍は今、窮地に立っておる」
「この十年、有利だった事などあるのか?」
八咫の言葉に鳳羅須は皮肉で応えた。
「今までとは違う」
鳳羅須はここで初めて、西軍の鬼霊が東軍の領地に侵入したことを知った。その鬼霊たちは全部で八人おり、東軍の一隊が始末しようとしたがまったく歯が立たなかった。ただちに鬼霊三〇人を向かわせたが、二六人の鬼霊が殺され、生き残った四人の鬼霊も重傷を負った。
西軍の鬼霊たちは、その後まもなく猪苗代にある玄翁石を境界とし、異界へと向かった。
「それが摩瑜利と、どう関係ある?」
「何故 それほどまでに強力な鬼霊達が、わざわざ敵地まで侵入し、異界へと向かわねばならなかったのか、解らぬか?」
ここまで言われれば、おのずと答えが浮かんだ。
「華結羅 が境界に使った物なのだな、その玄翁石は」
八咫は重々しくうなずいた。つまり、摩瑜利も玄翁石の向こうの世界にいるということだ。
「なるほど、それでおれが必要なのか。おれなら摩瑜利がいる世界にいけば、居場所を感知することができる。西軍の鬼霊どもを出し抜けるというわけだ」
「その通り、お主には行ってもらわねばならぬ」
西郷の言葉には有無を言わせぬ響きがあった。どちらにしろ、華結羅の行方を追えるなら鳳羅須は断るつもりはない。
「西軍の八人の鬼霊とは、恐らく八大竜王」
この八咫の言葉を鳳羅須は真に受けなかった。話しから察するに、強力な鬼霊が東軍の領域を侵し、境界を越えたのは間違いない。
だが、八大竜王と言えば、西軍で最も強力とされる鬼霊たちで、西軍の神、太元帥の側近中の側近だ。彼らは太元帥の護衛はもとより、西軍の政 にも深く関わっている。
そんな大物たちが、いくら女神を手に入れるためとはいえ、敵地にのこのこ赴くとは思えなかった。
「お前が生きて戻れるか……」
「構わぬ。だが、摩瑜利が帰って来るか、約束はできない」
西郷の口元が不気味に歪んだ。
「我らも、お主が姉をこの世界に戻せるとは、思うておらん」
鳳羅須は、この老人が姉のことを一度も摩瑜利と呼ばないことに気づいた。摩瑜利というのは、鳳羅須の姉の名前であると同時に東軍の守護神の名でもある。西郷からは摩瑜利に対する信仰心も敬愛の念も感じられない。ただの道具としか考えていないのだ。
「無論、姉を生きて連れ戻せるならそれに越したことはない。じゃが、異界へ行くのはお主一人。万に一つも姉を連れ戻せる見込みはない」
さすがに鳳羅須は驚いた。八人の鬼霊の実力をあれだけ見せつけられているのに、異界へ送る鬼霊が自分一人とは。
だが、境界を作り出す能力を持つ鬼霊はかなり稀で、しかも一人を境界越えさせるためには、最低でも五、六人の鬼霊が必要らしい。東軍が確保できたのは、一人を送るのが精一杯の数ということか。
たった一人で、摩瑜利と己を境界越えさせた華結羅の能力 は、異常に強力なのだ。
八人もの境界越えを成功させたとすると、西軍には華結羅並みの鬼霊が最低でも四人はいることになる。あるいは、太元帥が力を貸したのかもしれない。
「ならば、おれに何をさせたい?」
西郷は歯のない口を醜く歪めた。運命に翻弄される鳳羅須を嘲笑しているのだ。人の定めを支配するのは自分で、貴様は駒の一つに過ぎない。この老人の眼はそう言っていた。
「我らが望むのは、西軍の手に落ちる前に、お主が姉を殺すことじゃ」
鳳羅須は一瞬言葉を失った、こいつらは己の保身しか考えていない。
女神が敵の手に落ちれば、数百年続いた戦はめでたく西軍の勝利で終わるだろう。そしてこいつらは今の地位から引きずり降ろされ、権力から遠ざけられるか、さもなくば殺される。
そうなるくらいなら、いっその事、摩瑜利を始末してしまえば、東軍の勝利は望めないまでも、時間を稼ぐことはできる。
鳳羅須の姉が死んでも、不滅の神の魂は転生し、再び摩瑜利はこの世界に誕生する。こいつらは、転生した摩瑜利が再び成長するのを待つつもりなのだろう。
しかし、摩瑜利が再び能力 を発揮できるその日まで、生きている奴がこの中に何人いるか。
「フッ、フハハハ……ッ」
乾ききった、地獄の底から湧き出すような嘲 い声が、鳳羅須の口から発せられた。
「何が可笑 しいッ、姉を殺すことが出来るのかッ、それとも……」
鳳羅須はそこにいる男たちの顔を見回した。誰もが鳳羅須を探るように睨みつけている。ただ、八咫だけは、鴉の顔から何の感情も読み取ることはできなかった。
「父が自刃に追い込まれ、己が冬山に捨てられた子の憎しみが、貴様らに解るかッ? 父の汚名をそそぐため、命がけで立てた手柄をいつも横取りされる悔しさが解るかッ? すべてに絶望し、死を求める者の虚無が解るかッ? 誰のせいだ、誰のせいでおれはこんな思いをしている? 華結羅……そして摩瑜利のせいだ!」
鳳羅須の全身を黒々とした憎悪が包んでいた。その場にいた誰もが、不敵な西郷までもが、鳳羅須の殺気に気圧された。ただ、八咫のみが泰然と見つめていた。
「心配せずともお前らの望みを叶えてやる。摩瑜利は、殺す」
そこで鳳羅須は言葉を切り、虚空を見つめた。
「ただし、二つ条件がある」
「な、なんじゃ?」
何とか威厳を取り戻そうとして西郷は胸を反らせた。
「まず、鳳炎の名誉の回復。取り上げた領地や財産を返還し、今の長に、父の財産がおれの物であることを保証させろ。もう一つは聖鳳刀だ」
「よかろう。ただし、うぬはまだ務めを果たしておらぬ。領地返還はそれが出来てからじゃ」
「解っている。だが、空手形はもうたくさんだ」
今まで、さんざん手柄を横取りされ、数々の約束を反故にされてきた。そう簡単に約束を信じることは出来ない。恐らくこれが、父の名誉を回復する最初で最後の機会なのだ。
鳳羅須は生きて帰れるとは思っていない。にも関わらず遺産の相続を望んだのは、それを名目だけでも引き継ぐことで、大鳥一族に鳳炎の名誉が取り戻された事を示すためだ。
「大鳥の長、鵬翼 を呼んでくれ」
「いま呼べというのか?」
「当たり前だ、おれが異界に行ったあと、貴様らが約束を守るとは思えない」
「無礼者ッ、鬼霊ごときが図に乗りおって!」
ついに我慢ができなくなり、怒鳴りながら坂上が立ち上がった。
鳳羅須は眼にもとまらぬ速さで、手甲に仕込んであった針手裏剣を打った。
「ぬあ……」
手裏剣は立ち上がった坂上の股ぐらを貫通し、背後の柱に付き立った。
「あ、あああ……」
坂上はガクガクと震え、股間がぬれだし、そこから滴った液が足下の畳を汚した。周りにいた男たちが慌ててそこから離れた。
「手元が狂ったか、それともお前のモノが小さすぎるかだな」
坂上は慌てて己が股間をまさぐった。そして、自分自身が無事である事を確かめた。
「やり過ぎだ」
八咫が鋭く言ったが、鳳羅須は気にしなかった。異界に行く事は決めているが、それだけでは済ませられない。この機会を逃すことは絶対に出来ないのだ。
この場にいる男たちは、何があっても鳳羅須を異界に送り込もうとしている。ならば、かなり無茶をしても、異界に行かせないとは言わないはずだ。
「どちらにしろ、おれは間もなく死ぬ。異界で死ぬか、戦場で死ぬか、それともこの場で戦い、お前に殺されるか……おれにとっては、どれも同じだ」
鳳羅須は八咫を睨みつけた。
「やめよ、お前の考えは判っておる。駆け引きをする必要はない、お前の望む物は、とうにそろえてある」
鳳羅須は訝しげに眼を細めた。
その時、背後の襖に人の気配がした。
「大鳥一族の長、鵬翼殿が参りました」
鴉天狗の至れり尽くせりの対応に、鳳羅須は舌を巻いた。八咫は何も言わず、冷ややかな視線を返した。
しかし、それから順調というわけにはいかなかった。鵬翼は、鳳炎の遺産を鳳羅須が引き継ぐことに簡単には同意しなかったのだ。
もとはと言えばすべてが鳳炎の失態から始まったことで、そもそも大鳥一族には何の咎もない。故に領地と財産が戻ったとしても、それは現在の長である自分の物だと主張した。
だが、これについては西郷が一歩も引かなかった。これは幕府の命であり、従わぬのなら反逆と見なすと言い渡した。
そこまで言われればもうどうしようもない、鵬翼は渋々鳳羅須に鳳炎の遺産を渡すことを約束し、証文に血判を押した。
「これとて、貴様が摩瑜利を首尾よく殺せたらの話だ」
鵬翼の皮肉を鳳羅須は気にも留めなかった、後は結果を出すだけだ。
「鳳羅須、受け取れ」
八咫が聖鳳を鳳羅須に差し出した。すでに準備されていたのだ。
「これは大鳥一族の長が持つべき物。追放された者は、指一本ふれることすらゆるされぬ物です!」
聖鳳を受け取った鳳羅須を見て、鵬翼はつばを飛ばしながらまくし立てた。聖鳳刀は代々一族の長が持つことになっている。本来ならば、現在の長である鵬翼の手にあるはずだ。
しかし、聖鳳の力を引き出すことは長でなくとも出来る、大鳥の血を引いてさえいればいいのだ。
「おれは何一つ父の形見を持ってはいない、だからこれをもらって行く」
「莫迦者ッ、それを鳳炎の形見などにされてたまるか!」
「おれは正式な一族ではないのだろう? ならば、お前がどう思おうが関係ない」
「貴様……」
「鵬翼、この務めを成功させるためにも、宝刀は鳳羅須に渡した方がよい。鳳羅須の手に渡らぬなら、これまで通り幕府が所持することになる」
八咫の言葉に鵬翼は口を閉じた。
鳳羅須が摩瑜利を殺せれば、没収された領地や財産が返ってくる。鳳羅須は生きて戻ることはないのだから、先ほどの血判もそれほど意味はない。それに、鳳羅須が失敗しても、今回は大鳥一族が咎められることはない。つまり、自分が損をすることはないのだ。
それなら、自分の物にはならない宝刀にこだわることもない。そう思ったのだろう、鵬翼は聖鳳を渡すことに同意した。
ようやく鳳羅須は異界へ向かうことになった。
玄翁石がある場所は、ここからさほど離れてはいない。鳳羅須は聖鳳刀の他に白装束を用意してもらい、左襟 が直に肌に触れるように着た。死に装束の着方だ。その他にもいくばくかの金子を西郷は用意していた。地獄の沙汰も金次第ということか、異界でも金子は強力な武器になるだろう。
鳳羅須は明け方に出城を発った。来た時とは違い、馬で堂々と出ていく事となった。坂上を始め、先程の部屋にいた数名の男たちも護衛の兵士と共に従いてきた。
八咫は鳳羅須が出城を後にする前に、密かに闇の空へと舞い上がって行った。それが八咫の見納めとなった。八咫が何を望み何を企んでいたのか、最後まで解らなかったが、鳳羅須にとってそれはどうでもいいことだ。
玄翁石の前には五人の鬼霊がいた。そのうちの四人は女だった。境界を作る能力は女性に出やすいのか。
鳳羅須が着くと儀式が始まった。玄翁石の表面になにやら複雑な文様を描き、呪文を唱えだした。
本来このような事をしなくても、鬼霊は能力 を使える。精神を集中させるだけでいい。ただ、複数の鬼霊が一つの目的のために能力 を合わせる場合、呼吸を合わせなければ充分に能力 を発揮できない。そのためにこのような儀式は役に立つのだ。
五人の鬼霊たちは呪文と共に精神を高ぶらせ、忘我の状態になった。身体を激しく揺さぶらせ、大声で呪文をわめき続ける。
玄翁石の表面に変化が現れ始めた。わずかに振動をし始めたかと思うと、水面のように波打ち始めた。境界が作り出されたのだ。
鳳羅須は玄翁石の波打つ面に飛び込んだ。
うっすらと目蓋を開けると、誰かの顔がボンヤリと見えた。何とか焦点を合わせると、それが光奈と名乗った少女であることが判った。視界が狭くなっている。手で触れると布が貼り付けてあった。どうやら顔の傷を手当てしてくれたらしい。
「あッ、気がついた」
光奈は不安げな顔をしていた。
「だいじょうぶ?」
「アタシ、先生に言ってくる」
光奈の背後からいら立ちと不安の混ざった声がした。鳳羅須が視線を向けると、そこに二人の少女が立っていた。声を出した少女は褐色の肌をしており、気の強そうな顔をしている。もう一人は、光奈ほどではないが色白でオドオドしていた。
「理恵!」
「好きにさせろ」
鳳羅須は寝台から起きあがろうとした。下腹部に鋭い痛みが走り、頭もまだ割れそうだ。
「ダ、ダメだよ寝てなきゃ!」
「光奈、いい加減にしなよ。どう考えたって、そいつフツーじゃない。警察よんだ方がいい」
理恵と呼ばれた少女の視線は、ベットに立てかけられた聖鳳刀に向けられた。
「なにも、そこまでしなくても……」
もう一人の少女は、理恵の言動に不安をかき立てられているようだ。
「だって事実だろ。光奈だってそうだ、やっかいごとを学校に持ち込むようなマネはするなよ」
「そんな……」
光奈は途方に暮れたような顔をした。
「お前の云う通りだ。呼びたい奴がいるならさっさと呼べ。だが、そいつらが到着する前におれはここを出ていく」
鳳羅須は光奈を押しのけて立ち上がった。
「まってッ」
光奈は鳳羅須を押し戻そうとした。
「おれは……」
光奈はわずかにうなずいた。あたしに任せて、そう光奈の瞳は言っていた。
鳳羅須は再びベットに横になった。なぜ自分がそうしたのか解らない。本来なら、このまま立ち去っている。
怪我のせいだけではない、いくら傷が痛んでも動くことができればここにいるべきではない。自分は八大竜王に目をつけられている、一カ所に留まるのは危険だ。自分の側にいる者も巻き込むことになる。光奈も危険なのだ。
光奈……何故 、おれはこの女の云うことに従うのだ……
鳳羅須は今まで経験したことのない感情に戸惑っていた。
五
神鳥彩香は頭を抱えながら歩いていた。頭が割れそうに痛い。頭蓋骨が砕かれるような衝撃が走ってから痛みは治まらず、頭の中には様々な映像が浮かんでくる。
映像……そう、これはただの映像、幻覚よ。絶対にわたしの記憶なんかじゃない!
「わたしは彩香、神鳥彩香。摩瑜利なんかじゃない、摩瑜利なんて知らない……」
彩香は自分に言い聞かせるように言った。高校に来る間中、呪文のように何度何度も口にしていた。しかし、この呪文は唱えれば唱えるほどその効力は薄れていく。
本当はもう解っているはず。あなたは摩瑜利、この世界の人間じゃない。
頭の片隅で何者かが囁く。
「違う、信じない」
自分をいつまで騙し続けるつもり?
「ダマしてなんていない、わたしは……」
神鳥彩香、そう云いたいのでしょう。でも、それはこの異界での名前。あなたの養母が付けた名前。
「ママが付けた名前だけど……でも、わたしはこの世界の人間よ」
何を根拠にそう云うの?
「そっちこそ、わたしが異世界の人間だなんてバカげたこと……」
人間じゃないわ、あなたは女神。
「そんなことあり得ない」
では、鳳羅須の事はどう説明するの? あなたと瓜二つの顔をもち、あなたを姉と云った鬼霊。
「タチの悪いイタズラよ……」
違う、あなたはもう思い出している。鳳羅須という双子の兄弟を、鳳羅須という自分の影を、鳳羅須という自分の分身を……
「知らないってば知らない!」
「なにを知らねぇんだ?」
聞き覚えのある声に彩香は我に返った。すぐ側に好沢浩之が立っていた。
「あ……わ、わたし……」
辺りを見回すと、自分が安積中央高校の敷地内に来ていることが判った。日も落ち、夕闇に校舎が沈んでいる。
「どうしたんだ? すごく顔色がわりぃぞ……そうだッ、お前とソックリな……ええと、なんか中国人みたいな名前のヤツが保健室にいっぞ」
「それって……鳳羅須のこと……?」
「そうそう、そいつだ。やっぱり知ってんのか、アイツのこと」
「知らない! あんなヤツ、わたしの兄弟なんかじゃない!」
彩香は思わず叫ぶように言った。浩之は彩香の激しい反応に困惑していた。
「あ、ご、ごめんなさい。わたし……どうかしてるよね。本当にごめん、いきなり大きな声だして。それで、なんでここの保健室にいるの?」
鳳羅須がここにいる、彩香の胸の鼓動は高鳴った。もう会いたくない、このまま逃げればいいのに……。そう思いもいながらも、彩香は浩之に鳳羅須がいる理由を尋ねていた。
「ニュースとかで知ってかもしんねぇけど、駅前に怪獣がでたんだ」
「えッ?」
「そんな顔すんなって。信じられなきゃテレビを観てみろ、ズッとニュースが流れてるよ。ゴジラみてぇなやつで、二本脚で立っていて、顔はもっと竜に近い。ゴジラほどデカくはねぇけど……」
あのとき、頭の中に現れた怪物だ。離れたところにいたのに、彩香は怪物を見ていた。
「どういうこと……」
「そいつと戦って、あいつはケガしたんだ」
浩之は、彩香の呟きを鳳羅須に関する質問と勘違いしたようだ。
「ケガ……」
なぜか胸に不安が拡がっていく。
「ああ、もっと信じられねぇと思うけど、あいつ、怪獣をやっつけてよ。すごかったんだ、まるで特撮のヒーローみてぇ……」
「そんなことより、ケガの具合はどうなのッ?」
鳳羅須の身が心配だ。どうして心配しているのか、心配しなければならないのか解らない。でも、心を満たす感情を無視することはできない。
「あ、ああ、下っ腹に太い針金が刺さって、それで救急車に乗せようとしたんだけど、すごく嫌がってよ。で、取りあえず、望月とここの保健室さ運んだんだ」
彩香は浩之の言葉が終わる前に駆けだしていた。頭の痛みもどこかへ吹っ飛んだ。鳳羅須の安否をこの目で確かめたい。だが、彩香は不意に脚を止め、追いかけてきた浩之を手で制した。
「な、なんだ?」
「しッ」
彩香の眼は、学校の建物に入っていく二つの影を捉えた。それが何なのか、今の彩香にはハッキリと判った。
「好沢くん、お願い……」
六
徳叉迦 と娑羯羅 は鳳羅須 の気を追ってきた。跋難陀 との戦いで流れた鳳羅須の血を見つけ出し、そこから感じるわずかな鬼霊の気配を追ってきたのだ。鳳羅須が自転車に乗せられたこともあり、血が途切れ追跡は困難だったが、それでも彼らは鳳羅須がいる建物を見つけ出した。
建物の中にはいると、鳳羅須の居場所が手に取るように判った。二人は廊下を滑るように進んでいった。
「大分弱っているようね。これじゃ楽しめそうもないわ」
徳叉迦 のつまらなそうな口調に娑羯羅 は顔をしかめた。
「だからといって、油断すると足元をすくわれるぞ」
徳叉迦 はやれやれと言いたげに肩をすくめた。
廊下の角から一人の少女が姿を現した。
その刹那、少女と徳叉迦 の視線が交わった。徳叉迦 の柘榴石の瞳が、その瞬間妖気を含む輝きを放った。少女はまるで糸の切れた操り人形のように、ぐにゃりとその場に崩れた。
「キャッ」
倒れた少女の声ではない、別の誰かが後ろにいたのだ。徳叉迦 は角の向こうを覗き込んだ。
「理恵、どうしたのッ?」
倒れた少女かたわらに、もう一人の少女がかがみ込んでいた。徳叉迦 の気配を感じ、その少女は徳叉迦 を見上げた。再び視線が絡み合い、徳叉迦 の瞳が妖光を放つ。
かがんだ少女も、次の瞬間力なく仰向けに倒れた。
徳叉迦 の口元が淫靡 に歪んだ。それはぞっとするほど艶やかで、冷酷な笑みだ。
「あらあら、はしたないわね。かわいい女の子がこんな所でお漏らしして」
最初に倒れた少女のスカートははだけ、あらわになった太腿は本人の身体から流れ出た液体で濡れていた。二人目の少女も己が作った水たまりに横たわっている。
「感謝するのね。二人ともそのかわいい姿のまま、永遠に歳を取らないんだから」
「徳叉迦 !」
「いいじゃない、実戦の前に腕が錆びついてないか確認したかったのよ」
「ならもっと離れたところでやれ。真明が気づいて逃げたらどうする」
「フフフ……逃がしゃしないわ」
徳叉迦 と娑羯羅 は二人の少女を振り返りもせず、鳳羅須のもとへと向かった。
彩香は廊下の暗がりに身を潜め息を殺していた。何が起こったのか即座に理解できた。二人の鬼霊が廊下を曲がると、彩香は体勢を低くし廊下を進んだ。異臭が鼻を突き、そこに在るものを眼にし、口を両手で覆った。
「理恵……里美……」
まさか自分のクラスメイトだとは思いもよらなかった。
「神鳥ッ」
浩之の声がした。彩香が頼んでいた物を持ってきてくれたのだ。彩香は唇に人差し指を立て、黙るように合図した。
浩之は困惑しながらも口を閉じ、彩香の隣に立った。
「おい……」
「死んでるわ」
七
鳳羅須がベットに横になると、理恵と里見は職員室へ向かった。。
「ごめんなさい、こんなことになっちゃって。今のうちに逃げて」
光奈は慌ただしく自分のカバンを小脇に抱え、身体を起そうとする鳳羅須を手伝った。一時的に鳳羅須をベットに戻したのは、理恵と里美を油断させて、その隙に逃がそうと考えたからだ。
鳳羅須は聖鳳に手をかけ、動きを止めた。
「逃げる暇はないようだ」
「まだ警察は……」
「違う、もっと会いたくない奴らが来た」
今度は二人でお出ましだ。厄介なことに、摩瑜利まで近くに来ている。
「お前は逃げろ」
鳳羅須は里美が出ていった廊下と逆の方向に顎をしゃくった。保健室は一階にあり、廊下の反対側には校庭への出窓がある。
「誰が来たの?」
「いいから、お前は今すぐ行けッ」
跋難陀 と戦ってから、まだ数時間しか経っていない。強い生命力を持つ鳳羅須でも回復できるわけがない。それどころか、昨夜受けた大身 の毒も、まだ完全に消えていないのだ。
いくら聖鳳の扱い方が少し解ったからといって、八大竜王二人を相手に勝機があるとは思えない。
死の覚悟はとうに出来ている鳳羅須だ。だが、目の前にいる少女だけは何としても助けたい。
「でも……」
「時間がない、早く!」
鳳羅須は光奈を校庭側の出窓へ連れて行こうとした。しかし、表に出す間もなく、廊下側のドアが開けられた。
「あら、修羅の真明が敵に背を向けるの?」
妙に甲高い男の声に鳳羅須は振り返った。
保健室の入り口に眼をつむった妖童と、彼より少し年下の美しい少女が立っていた。二人とも陣羽織をまとい、妖童は腰に脇差を、少女は小太刀を差している。
「それとも、駆け落ちの途中だったのかしら?」
青年がまぶたを上げた。
鳳羅須は直感的に己の目蓋を閉じ、光奈の眼を手で覆った。
「奴の眼を見るな!」
「アタシの呪眼に気づくなんて、噂も多少は当てになるわね」
鳳羅須は光奈を自分の背後に追いやった。二人の竜王の足元に視線を落とし動きを伺っう。ただでさえ不利な状況なのに、このままでは敵の動きもまともに把握できない。一刻も早く呪眼を潰さなければ。
鳳羅須は手っ甲に忍ばせた手裏剣を眼にも止まらぬ速さで打った。が、手裏剣が届く前に視界から二人の脚が消えた。
しまった、と思った時はもう遅かった。呪眼の鬼霊がすぐ目の前に姿を現し、脇差しの柄が鳩尾に叩き込まれた。
「ぐふッ」
鳳羅須は一声呻くと床に転がった。
「ふふふ……たわいもない、もう少し楽しませてくれると思ったのに」
気配で呪眼が脇差しを抜くのが判った。手裏剣を抜こうとしたが、その手を踏みつけられた。
「八大竜王を二人も殺したのは褒めてあげる。でも、もうお遊びはおしまい……」
呪眼が脇差しを振り上げた。
「やめて!」
八
光奈は思わず声を張り上げていた。
呪眼の妖童と緋袴の少女が光奈をに顔を向けた。光奈は思わず息を飲み込み、カバンを抱きしめる腕に力が入った。妖童の右眼は普通の日本人と同じ茶色なのに、左眼がガーネットのように朱い。
しかし、光奈の身に変化は起きなかった。彼女は知るよしもないが、徳叉迦 の呪眼は己の意志でコントロールできる。
「あ、あなたたち目的は摩瑜利なんでしょ?」
緋袴が光奈を鋭い目で睨んだ。
「何故 、そのようなことを知っている?」
「この子から聞いたのかしら?」
呪眼が鳳羅須の頭を踏みつけた。
光奈は昨夜の出来事を思い起こした。蝦蟇男 は光奈を摩瑜利だと思いこんでいた。彩香は摩瑜利という言葉に何の反応も示さずにいた。つまり、彩香は……
「いいえ、蝦蟇男……たしか、タイシンとかいう忍者が言ったの」
呪眼は訝しげに眉を寄せたが、緋袴は大身 と聞いたとたん嫌悪に顔を歪めた。
「あたしが摩瑜利だよ」
「莫迦 ッ、余計なことを……」
呪眼は一旦足を浮かせ、再び勢いよく鳳羅須を踏みつけた。くぐもった声が鳳羅須の口から漏れた。
「あなたが?」
呪眼は胡散臭 さげに、つま先から頭のてっぺんまで光奈を見まわしてから、足元にいる鳳羅須を見おろした。ガーゼで覆われているので、顔はほとんど判らないはずだ。
「双子のわりには似てないんじゃない?」
光奈の顔に冷たいガーネットが向けられた。その瞳は心の奥底まで見透かしているようで、光奈は丸裸にされた気分になった。それでも自分の脅えを悟られないよう、必死に平静を装った。
「あたしもよくわからない。思い出したのは、自分の名前と鳳羅須っていう双子がいたこと……それから、母のことだけ」
鳳羅須が彩香と双子だということは今知った。それに鳳羅須は、彩香の養母に母親のことを尋ねたいと言っていた。少しでも真実味が増すよう、相手が口にしていないことを光奈は話しに混ぜた。
「でもあなた、異人の血を引いてるみたいに見えるけど。真明の両親は異人じゃないわよ」
「あたしにそんなこと言われたって困るよ」
しばし呪眼は光奈の顔を見つめていた。
こんな時まで自分の容貌が災いを招くことを、光奈は内心毒づいた。
「娑羯羅 さん、どう思う?」
緋袴もさきほどから腕を組み、光奈の顔を見つめていた。
「取り敢 えず連れて行けばいいだろう。難陀 様か優鉢羅 なら見分けることもできよう。それに真明さえ始末すれば、この娘が摩瑜利でないなら改めて捜せば済むことだ」
「ダメッ、鳳羅須を殺さないで!」
「可哀想 だけどそういう訳にはいかないの、こっちは二人も殺 られてるんだから」
呪眼の陽気な口調が、いっそう光奈の恐怖をかき立てた。
「なら、あなたたちとは一緒に行かない!」
「フフフ……力ずくで連れて行くからご心配なく」
光奈は目の前がまっ暗になり、自分の浅はかな考えを呪った。こんな見え透いた取引に乗るやつはいない。
「徳叉迦 、その娘の云う通りにしろ」
娑羯羅 の言葉に呪眼が顔をしかめた。
「こいつが何をしたか判ってるんでしょ?」
徳叉迦 は鳳羅須の脇腹を蹴った。意識を失ったのか、鳳羅須は呻き声すらださなかった。「だからこそ、こいつは生かしておく価値がある」
娑羯羅 の瞳を徳叉迦 は覗き込んだ。ガーネットの視線を娑羯羅 は泰然と受け止めている。
光奈は自分の置かれている状況を忘れ、思わず見とれそうになった。それほどまでにこの二人は美しかった。中性的な少女と女性的な青年、言わば娑羯羅 が薔薇 で徳叉迦 は鳥兜 だ。各々が美しさに、鋭い棘と猛毒を秘めている。
「いいわよ、死にかけたヤツをいたぶっても大して面白くないし。それじゃ、自称摩瑜利さまを連れて、難陀 さまたちと合流しましょ」
光奈は胸をなで下ろした、ひとまず鳳羅須を助けることができたみたいだ。光奈は徳叉迦 のかたわらにしゃがみこみ、鳳羅須を顔を覗き込んだ。何とか意識を保っていたが、だいぶ弱っている。
「これは預からせてもらうわ」
徳叉迦 は鳳羅須の刀を奪い取った。
光奈は鳳羅須を助け起こそうとした。
「あッ」
光奈は小脇に抱えていたカバンを落とした。カバンの口が開き、中身が散らばった。
「ご、ごめんなさい」
光奈は慌ててカバンの中身をかき集めた。
「どんくさい女神さまね」
上手く入りきらず、デジカメはストラップに手を通してぶら下げた。
「何だそれは?」
娑羯羅 が警戒の声を上げた。
「ただのデジカメだけど……」
「デジカメ?」
「そう……知らないの?」
時代錯誤な格好と言葉づかいをしているが、デジカメを知らないとは思わなかった。
「悪いけど、アタシたち別世界から来てるのよ。この異界は珍品だらけね」
「それは武器ではないな?」
「はい……」
前後を徳叉迦 と娑羯羅 に挟まれる形で光奈は保健室を出た。光奈は鳳羅須に肩を貸しながら歩いた。
階段にさしかかったとき、凛とした声が響いた。
「鬼霊ッ、わたしはここよ!」
とっさに徳叉迦 が階段を見上げた。その刹那、何かが徳叉迦 の顔面に突き刺ささり、鳳羅須の刀を落とした。
「ぎゃッ」
光奈は驚きつつも、この機会を見逃さなかった。背後にいる娑羯羅 に向けてデジカメのシャッターを切った。フラッシュがまばゆい光を放つ。
娑羯羅 はとっさに眼を覆った。
鳳羅須は光奈から離れ、刀を拾い上げると同時に、脚 絆 に忍ばせておいた手裏剣を娑羯羅 めがけて打った。
「早く逃げろ!」
鳳羅須は踊り場にいる二人の人影に向かって叫んだ。自らは光奈の手を引いて駆けだした。
九
好沢浩之は踊り場でおののいていた。自分のしたことが信じられなかった。
アーチェリーを始めてから今日まで、人に矢を向けたことはない。ましてや、故意に人を射ることなどありえない思っていた。
「あいつら、好沢くんが見た怪獣の仲間なの、あいつらも化け物なのよッ。お願い、力を貸して。好沢くんのアーチェリーの腕が必要なの!」
彩香の言葉を信じることはできなかった。しかし、彼女に頼まれれば嫌とは言えない、急いでボウとアローを取ってきた。そして、廊下で異様な死に方をしている石川理恵と加藤里美を発見し、考えが一変した。
と言っても、彩香の話しが事実だと思ったわけではない。いつの間にか異次元の扉を開き、別世界へ足を踏み入れたような気分だ。
彩香は保健室の手前まで行くと、浩之に待つように指示した。
「神鳥、やっぱ警察呼んだ方がいいって」
「ダメ、到着まで待ってられないし、ヘタに先生たちがさわいで保健室に近づいたりしたら、死人が増える」
浩之は彩香に違和感を覚えていた。これは本当に神鳥彩香なのか? 何かが違う、鳳羅須のように瓜二つの顔を持つ別人というわけではないが、別の人格が取り憑いているようだ。あるいはこの彩香は異次元の彩香かもしれない。そうだ、この少女は異世界の彩香、別世界の彩香だ。
彩香は学校を休んでいる間に、別の彩香と入れ替わった。同棲していたというのも浩之が知っている彩香ではない。
しかし、目の前にいるこの少女が彩香であることは間違いない。彩香であって彩香ではない少女。
「好沢くん、踊り場に行って」
浩之は我に返った。彩香は保健室のドアを凝視していた。
言われるままに浩之は、階段の踊り場でカーボン製の矢をつがえた。
「いい、わたしが背中を叩いたら矢を放って」
「だ、だども……」
矢を人に向ける、これは絶対にやってはならないことだ。野外で行われるターゲットアーチェリーでは、三〇、五〇、七〇、そして九〇メートル先にあるターゲットを狙う。だが実際には、この弓で二〇〇メートルぐらいの距離は飛ばせる。それぐらいの威力がアーチェリーにはあるのだ。
「大丈夫、心配しないで。あいつらは人じゃない、好沢くんがやってくれないと鳳羅須が……光奈の命が危ない」
「望月はまだ保健室にいるのか?」
「うん、まだ無事よ」
まだ、か……
胃袋が鷲づかみにされたような感じがする。インターハイでの緊張とはまったく違う嫌な気分だ。彩香は化け物と言うが、姿は人間と同じらしい。竜巨人のように一目で化け物と判る姿なら、矢を放つのにも迷いはなかっただろう。
浩之は限界まで弓を引いた。
保健室のドアが開く音が聞こえた。浩之の腕は震えた。視界に着物姿の人間が入ってきた。
「鬼霊ッ、わたしはここよ!」
遂に浩之の背中が叩かれた。浩之は矢を放った。震えていたせいで、狙いは外れたと感じた。ところが、矢は先頭にいた人影の頭部に突き刺さった。
甲高い男の悲鳴に続きフラッシュがたかれ、女の悲鳴が上がった。
「早く逃げろ!」
鋭い声が鼓膜を打った。腕だけではなく今や全身が震えていた。浩之は動くことができなかった。
「なにしてるの!」
彩香に腕を引かれ、浩之はよたよたと階段を上がっていった。
一〇
「ぎゃぁああ……顔が、アタシの顔がぁッ」
徳叉迦 が突き刺さった矢を握りしめ、のたうち回っていた。
娑羯羅 は右の太腿に突き刺さった針手裏剣を引き抜き、それを握ったまま徳叉迦 に近づいていった。
暴れる徳叉迦を押さえつけ、首筋に針手裏剣を突き立てた。
徳叉迦のわめき声が不意に途切れ、動かなくなった。
「徳叉迦 、お前の云った通りだ。お前は、あたくしの望む通りに動いてくれた」
一一
鳳羅須は光奈の手を引き校門へと向かった。
「あとは一人で逃げろ」
「真明くんはどうするの?」
「奴らを食い止める」
まだ、摩瑜利が中にいる。八大竜王に渡すわけにはいかない。摩瑜利は記憶を封じられているが、華結羅 の唯一の手がかりだ。
しかし、訊き出す時間がおれにあるのか……
記憶の封印の解き方はまるで判らない、それに加え八大竜王が二人も迫っている。敵の眼を欺き光奈を連れ出した鳳羅須だが、回復したわけではないのだ。相変わらず頭と下腹部の痛みはひどく、意識を保っているのが精一杯だ。にもかかわらず、これだけの動きができたのは奇跡としか言いようがない。
「だいじょうぶなの?」
「ああ」
光奈の真摯な視線を感じる。鳳羅須はそれから逃れるように、校舎へ向けて歩き始めた。
勝算はまったくない。己の使命は、摩瑜利を助けることでも連れ戻すことでもない、殺すことなのだ。
摩瑜利が西軍の手に落ちれば、鳳羅須は務めを果たせなかったことになり、父の名誉は回復できない。
それだけは出来ぬ、例え命に代えても。
気づくと光奈が並んで歩いていた。
「あたしも行く。彩香とヨッシーを助けに行くんでしょ?」
違う、殺しに行くのだ、とは言えない。なぜかこの少女に、姉を殺すところを見られたくはなかった。
「お前は帰れ」
「いや、彩香とヨッシーを見捨てられない!」
「お前がいると足手まといだ」
光奈は鳳羅須の腕をつかみ立ち止まり、強ばった顔をして鳳羅須を見つめた。
「それだけ?」
光奈は探るように聞いた。
「あたしを連れて行かない理由は、本当にそれだけなの?」
鳳羅須の胸に不可解な不安が拡がった。幼い頃、親に知られたくない悪戯 がばれそうな時に感じた、恐れをはらんだ不安だ。
「助けるんじゃ、ないんだね」
鳳羅須はハッとした。光奈は知っているのだ、自分がやろうとしていることを。
「真明くん、うわごとで言ってた……摩瑜利は殺すって。それは彩香を殺すってことでしょ?」
「………………」
肯定も否定もできなかった。東軍の老いぼれたちには平気で言い放つことができたのに、光奈には真実を告げられない。かと言って嘘を吐くこともできない。自分でも理由は解らない。ただ、鳳羅須は沈黙した。
「どうして? どうして、彩香を殺さなきゃならないの?」
「………………」
「やめて、そんなこと」
「光奈!」
鳳羅須はハッとして声の主に振り向いた。摩瑜利が校舎から出てくる、後ろには血の引けた顔の浩幸がいる。鳳羅須は聖鳳刀の柄に手をかけた。が、その手の上に光奈の手が重なった。
視線を光奈に移すと、光奈は首を左右に振った。
光奈の力では、どうあがいても鳳羅須を止めることは不可能だ。振り払おうと思えば簡単に出来る。
今なら八大竜王に邪魔されることなく、摩瑜利を葬ることが出来る。それですべてが終わる。華結羅の事は判らず終いだが、少なくとも父の名誉は回復できる。一度はあきらめた悲願が叶うのだ。
だが、鳳羅須はそれをためらった。こんなことは今までに無いことだ。
「光奈、何してるの……」
摩瑜利は光奈が鳳羅須の手を押さえているのに気が付いた。ピタリと立ち止まると後ずさり、後ろの浩幸にぶつかった。
鳳羅須は、飛行石に乗せられ去りゆく父の後ろ姿を思い出した。吹雪く真明山で凍え死のうとしていた幼い己を思い出した。命がけで立てた手柄を横取りし、一族の庄に住むことすら許さなかった大鳥一族のことを思い出した。摩瑜利を殺せと命じた人間たち、聖鳳は渡せぬと怒鳴った鵬翼の欲望を剥き出しにした顔を思い出した。
そうして己の心に宿る闇を、憎悪を奮い立たせた。
鳳羅須は光奈を払いのけ、抜刀した。
「ダメ!」
光奈は彩香の前に両腕を広げ立ちはだかった。
「退 けッ」
「いや! なんで自分の兄弟を殺そうとするのッ?」
「お前には関係ない、退け!」
鳳羅須は聖鳳刀を振りかざした。
「いやッ。彩香を斬るなら、あたしを斬ってからにして!」
光奈は瞬きもせずに鳳羅須の瞳を見つめている。
鳳羅須は両腕に力を込めた。
だが、聖鳳刀が振り下ろされることはなかった。鳳羅須は刃先をゆっくりと地面に向けた。
六つの瞳が鳳羅須に向けられていた。光奈はジッと鳳羅須を見つめたままだ。その相貌には強い意志が溢れている。その後ろで摩瑜利が怯えた顔をしている。さらにその後ろには、状況にまったくついて行けず、混乱した浩之の青白い顔があった。
鳳羅須は三人の脇を通り過ぎ、校舎へと踏み込んだ。
第四章 異邦人
一
石川理恵 と加藤里美 の合同の通夜がしめやかに行われている。葬儀場には校長を始め、担任やクラスメイトが集まっていた。悲しみが溢れるこの会場で、彩香と光奈に向けられる視線は決して暖かいものではなかった。
二人は二日続けて警察に事情聴衆をされた。しかも、殺人事件と変死事件だ。周りの人間が冷たい反応をするのも当然と言えば当然だ。
光奈の機転で理恵と里美の第一発見者は浩之ということにした。そして、彩香はたまたま学校にいたということで口裏を合わせた。
前日、殺人現場に居合わせた人間が、変死の第一発見者になれば警察の取り調べはいっそう厳しくなる。別にやましいことは何もないが、事実を話しても警察が信じてくれるとは思えないし、鳳羅須のこともある。
鳳羅須 については厄介で、保健室に運び込むところを何人かの生徒に目撃されている。光奈と浩之は、鳳羅須 が何者なのか厳しく問いただされたようだ。この事についても、三人はあらかじめ口裏を合わせていた。
学校の近くで倒れているのを発見し、救急車を呼ぼうとしたが、本人が嫌がるので取りあえず保健室に運んだ。途中、理恵と里美がこの事に気がつき保健室に来た。鳳羅須 が眠ったところを警察に通報してもらうため、光奈を残し、理恵と里美は職員室に向かった。浩之は部活に戻ったものの、光奈たちのことが気になり再び保健室に行こうとし、途中で変死している理恵と里美を発見。光奈に報せ、二人で職員室へ報告に行った隙に鳳羅須 は姿を消した……と、これがでっちあげたストーリーだ。
かなり無理のある内容だが、強引に話しを押し通す事にした。どちらにしろ、光奈と浩之は鳳羅須について詳しいことは知らないし、理恵と里美を殺した犯人ではない。
二人は娑羯羅 と徳叉迦 のことは警察に話した方がいいと言った。すべてを語る必要はないが、不審人物として警戒してもらえば安全性が高まると考えたのだ。しかし、彩香はこの意見に反対した。
「たぶん、わたしたち以外、あいつらに気づいていない。わたしたちだけ見たって証言したら、余計にうたがわれる」
浩之は納得しかねていたが、光奈はすぐに賛同してくれた。大身と遭遇したことが影響しているのだろう。だが、彩香自身はこの意見に疑問を感じていた。
それは自分が言った内容に自信が無いからではない、自信があるからだ。なぜ、自分は二人の鬼霊が他の生徒に気づかれていないと判ったのだろう。あらかじめ知っていたかのように、すんなりと頭の中に浮かんだ事実だった。
知るはずのないことを知っている。彩香は自分の存在のあやふやさを感じずにはいられなかった。
わたしは彩香、神鳥彩香 よ……
彩香は、今までの常識が、信じていたものが、この一週間に満たない間にガラガラと音を立てて崩れていくのを感じていた。
理恵と里美の死は、自分が招いたと言っても過言ではない。八大竜王と鳳羅須 の目的は自分なのだ。自分さえいなければ、こんなことにはならなかった。
彩香は内村伸 の死については知らない。光奈は彩香の心情を考えると言うことができず黙っていた。また、この五日間テレビや新聞、それにネットなどでも、郡山駅前での事件は報道され続けているが彩香は一切見ておらず、伸が死亡者リストに載っているのを目にすることはなかった。
それでも彩香は耐えきれないほどのショックを受けていた。理恵の強気な発言も、里美の優しい笑顔も、もう見ることは無いのだ。
わたしは、ここにいちゃいけないの?
とめどなく涙が頬をつたい、口から嗚咽が漏れる。
「彩香、だいじょうぶ?」
光奈の声に我に返った。いつの間にか隣に立っていた光奈が、心配そうに見上げている。その瞳は充血しているが、涙は流していない。
光奈は声をひそめて言った。
「いい、自分をせめちゃダメだからね。彩香はなんにも悪くないんだから、悪いのはあたしなんだ」
「光奈……」
彩香には光奈が解らなくなっていた。なぜこんなに献身的なのか、ありがたいと思う反面、重荷になっていた。家出した彩香をしつこく追いかけて来たことしかり、鳳羅須 が彩香を斬ろうとしたときその前に立ちはだかったことしかりだ。
鳳羅須 が振りかざした聖鳳刀―なんで名前を知っているの?―を降ろし、校舎の中
へ姿を消すと、彩香は光奈に尋ねた。
「どうして……どうしてこんなことするの?」
顔を向けた光奈は苦笑していた。
「おなじような事きくね、真明くんと。やっぱり双子なんだ」
「ちゃんと答えて!」
光奈は困ったような顔をした。
「それより、真明くんを追わないと……」
「鳳羅須 ならだいじょうぶ、他の鬼霊はどこかへ消えたから」
「なんでわかるの?」
光奈の疑問は彩香をドキリとさせた。二人の鬼霊の気配が消えているので、彼らがいないのは確かだ。さっきから鬼霊の気配を感じていて、それが当たり前に思えていた。
「それは……とにかくわかるのッ。光奈、答えて!」
「そう、真明くんは安全なんだね」
光奈はあっさりと彩香の言うことを受け入れた。
「ねぇ、どうして彩香はあたしを助けてくれたの?」
「え?」
光奈を助けた覚えなどない。
「真明くんとあたしが、あの二人に連れていかれるところを、ヨッシーと助けてくれたじゃない。どうして?」
「それは……」
解らない、なぜ自分があんな行動を取ったのか理解できない。そもそも助けたという意識すらなかった。
光奈が心配だったから、確かにそれはある。認めたくないが、鳳羅須 も同じだったのかもしれない。
二人の鬼霊に近づくことが危険なのは解っていた、下手をすれば自分が連れ去られたかもしれないのだ。にもかかわらず、彩香は浩之と共に光奈たちを助けに行った。あの時はそうするのが当然に思えた。
「たぶん、あたしが彩香をかばったのも、おなじ理由だよ」
光奈はくったくのない笑みを浮かべた。本人はまったく理解していないが、人の心を惹きつけてやまない魅力的な微笑みだ。
だが、彩香にとってその微笑みさえも不可解な物に感じられた。光奈の言っていることが解らないわけではないが、あの時の鳳羅須 は本気で彩香を斬るつもりだった。
直接的な殺意にさらされた光奈と、人の助けを借り、しかも奇襲をかけた彩香とでは比較にならない。自分なら脚がすくんで何もできないはずだ。事実、鳳羅須 が抜刀したとき、動くことができなかった。それは単に殺意を向けられたという恐怖ではなかった、自分の兄弟から命を狙われたのだ。
兄弟? わたしは、あいつを兄弟と認めてるの?
「彩香、本当にだいじょうぶ?」
光奈の声が彩香を現実に引き戻した。
「家に帰った方がいいよ。顔色、すごく悪い」
「光奈……」
本当は光奈だって辛いはずだ。光奈は理恵と里美の死は自分のせいだと思っている。自分が鳳羅須 を保健室に連れて行ったのが原因だと考えているのだ。
光奈が解らなくないといっても、一〇年間のつき合いで考えていることは多少は判る。光奈の生真面目な性格から考えて、彩香以上に自分をせめ続けているに違いない。
それに周りの冷たい視線は、彩香以上に光奈に向けられている。光奈は不審人物を校内に引き入れたことになっているのだ。もちろん、不審人物と二人の死を結びつける証拠は何もない。警察も参考人として行方を追っているが、理恵と里美の死は多数の疑問を残しつつも心筋梗塞 として片づけられた。だからといって、周りの人間が光奈に対する感情を和らげることはなかった。
でも、光奈はそれを誰にも見せず気丈に振る舞っている。
「うん……そうする……ごめん……」
彩香は担任に話し、葬儀場を後にした。警官が家の近くまで尾行してくるのを感じたが、アパートの中に入るとすぐに引き返してしまった。
彩香は一度も振り返ることなく、警官の動きを正確に把握していた。
時代劇の剣豪じゃないのだからそんなことは出来るはずがない、きっと気のせいだ。色んなことが起こりすぎて、被害妄想になっているのだ。
そう思うとしたが、それが明らかにごまかしなのは解っていた。
もういや……わたし、どうすればいいの……
すべてが嫌になった、すべてから逃れたかった。だが、自分からは逃れられない。それでも彩香は、逃げ出したい気持ちを振り払うことはできなかった。
二
真明鳳羅須 は郡山市の郊外にある大日寺という寺に向かっていた。顔の傷は薄い筋となり、腹部に至っては跡すら消えていた。驚異的な治癒力を持つ鳳羅須 だが、以前にもまして生命力が強くなっていた。その要因が摩瑜利 との接触にあるのは明らかだ。
摩瑜利 を斬ろうとした鳳羅須 だが光奈に止められ、勝ち目のない戦いを挑むために安積中央高校の校舎へと戻った。
ところが、そこにあったのは針手裏剣を首筋に突き立てられた徳叉迦の亡骸だけだ。
殺ったのは娑羯羅に違いない。だが、何故こんな事をしたのか理由はが、八大竜王がまた一人減ったことだけは確かだ。
鳳羅須は取りあえず、異界の者である徳叉迦の遺体を人目につかない所に処分することにした。大身の時は気にかけなかったが、どういう訳か光奈の事が頭によぎり、そうしなければならない気がした。
普段なら人一人の死体を処分する事など訳もないが、傷付き力尽きた鳳羅須には骨の折れる作業になった。あと二人の少女の遺体を何とかするのはさすがに無理だった。
娑羯羅の動きが気になったが、他の八大竜王を含めこの五日間姿を現しておらず、気配すら感じられない。
これで終わったとは到底考えられないが、回復した鳳羅須 は自分の目的のため動くことにした。摩瑜利 の居場所はいつでも判る、鳳羅須 は昨夜、摩瑜利 の長屋を突き止めた。鳳羅須 がこの異界に来た日、摩瑜利 は伸の長屋にいた。養母の長屋は伸の長屋より古びていたが、もっと部屋の数も多く片づいていた。
鳳羅須 は摩瑜利 と顔を合わせるのをためらい、彼女が出ていくのを待った。摩瑜利 が出かけると玄関の扉を叩いた。中から女性の返事が聞こえ、扉の向こうにその気配を感じた。
女性はこちらの気配を伺っているようだった。鳳羅須 は知らないが由良 は、覗き窓から鳳羅須 の姿を見ていたのだ。由良はゆっくりと扉を開けた。
「あなたは……?」
「鳳羅須 と言います」
由良は無言で鳳羅須 の顔を見つめていた。鳳羅須 は一切の感情を表さず、その視線を受け止めた。
「……あがってください」
鳳羅須 は食卓をはさんで由良と向かい合った。血だらけの白装束に帯刀までしている。そんな鳳羅須 を、由良は大事な客として丁寧に扱ってくれた。そこには不信感などはなく、来るべき時が来たという覚悟が感じられた。
「彩香のご家族ですね?」
「はい、双子の……弟です」
「あの子を向かえに来たんですか?」
「……いえ、今すぐというわけでは」
鳳羅須 は視線を落とした。本当の目的をこの女性に言うことはできない。
「そうですか……お父様はお元気なんですか?」
「父、鳳炎は、すでに他界しています」
「それは……お気の毒に……。すみません、余計なことを」
「いえ」
由良の声は落胆していた。
「あの……」
「お母様のことですね?」
「ええ……母、華結羅 は今どこに居るのですか?」
今度は由良がうつむいた。
「申し上げにくいのですが……」
由良は一〇年前の冬のことを話し始めた。
玄翁石の前に突然姿を現した女性と子供、それが母子だということはすぐに判った。由良は救急車を呼んだが母親の命は助からなかった。しかし、子供は意識を失っていたものの命に別状はなかった。問題は子供が記憶を失っていたことだ。通常、記憶を失っても習慣は失われない。子供は言葉をしゃべれたが、自動車やテレビなどありふれた物の記憶も無くしていた。医師も不思議がっていたが、それ以外いたって健康だった。
流産したばかりの由良は、この子供が神からの賜り物と感じ、自分の娘として育てることにした。
「でも、あの子はあなたにとっても、たった一人の家族なんですね」
そう言った由良の瞳には涙が溢れていた。鳳羅須 は由良から華結羅の遺骨を預けてある寺を教えられた。
鳳羅須 が玄関から出ようとしたところで、由良は思い切ったように尋ねた。
「彩香の……いえ、あの子の本当の名前はなんというんですか?」
「摩瑜利 です」
「摩瑜利 ……」
神鳥由良 と話していたら、なぜか華結羅と話しているような不思議な錯覚を覚えた。華結羅が生きていれば、由良と同じくらいの年だ。しかし、顔はまったく似ていないし、雰囲気もまるで違う。それでも鳳羅須 は由良と華結羅が似ていると思った。
由良と華結羅、名は似ている。鳳羅須 たちの言う『異界』とは別世界とは異なる。もとは同じ世界だったが、途中で歴史が分岐した世界、つまり並列世界、パラレルワールドだ。
鳳羅須の世界は神の出現により、この世界とはかけ離れた歴史を歩み、まったく違う文化、文明を築いてきた。
だが、神が降臨する前の歴史はこの世界とほぼ同じだ。だからこそ時代がかった口調をしていても日本語で話しをしているし、両方の世界に共通して存在する物もある。
例えば玄翁石、これが鳳羅須の世界とこの世界に存在したからこそ、『境界』として利用できた。
『境界』とは、共通して存在する物から生み出すことのできる、二つの世界の架け橋だ。
そして、共通して存在する人物もいる。華結羅と由良がそうなのかもしれない。由良は子供を流したと言っていた。摩瑜利 の誕生より六年もずれがあるが、その子こそこの世界の摩瑜利 だったのかもしれない。
由良が摩瑜利 を拾ったのは偶然などではなく運命だと、鳳羅須 は思った。そして由良と華結羅に共通して感じたもの、それは母という存在だ。
鳳羅須にとって母とは憎悪の対象でしかない。にもかかわらず、由良には好感を覚えた。できることなら摩瑜利 と引き離したくないとまで思った。しかし、鳳羅須は摩瑜利を殺さなければならないのだ。
由良から与えられた地図を頼りに鳳羅須 は、大日寺という寺にたどりついた。そこは小さい寺で、裏に猫の額ほどの墓地があった。
鳳羅須 は本堂へと向かった。だが、そこには人の気配はなく住居の方へ行こうとした。
「何だ、オメはッ?」
住居から小柄な老人が姿を現した。袈裟をまとってはいないがこの寺の住職だろう、鳳羅須 を怯えながら睨んでいる。無理もない、鳳羅須 は血だらけの死に装束姿で刀まで持っているのだ。
鳳羅須 は懐に手を入れた。住職はビクリと身体を強ばらせが、出したのは一枚の金子だった。それを差し出したが、老人は懐疑的な視線を向けているだけで、受け取ろうとはしない。
「危害を加えるつもりはない。役人を呼びたければ呼んでもいいが、その前に一つ訊きたいことがある」
老人は身体をこわばらせた。身に危険が迫ったら逃げ出すつもりだ。それが無駄な努力であることを、鳳羅須はあえて指摘しようとは思わなかった。
「一〇年前、ここに女の無縁仏が預けられたはずだ。それの墓はどれだ?」
「無縁仏……」
ここで初めて住職は視線を鳳羅須 から外した。地面を見つめ記憶を呼び起こしているようだ。
「たしかに無縁仏を預かった、だども墓はね。オメはあの仏の縁者か?」
鳳羅須 はうなずいた。
「従 いてこ」
鳳羅須 は住職に従いて本堂に入った。案内されたのは、本尊の裏にある小部屋だった。そこには棚が作られ、いくつもの骨壺が並べられていた。住職は指で確認しつつ、その一つを降ろした。
その骨壺は見覚えのある布で包まれていた。一〇年もの歳月が流れているのにもかかわらず、鳳羅須 はその布が何かすぐに判った。華結羅の着物の切れ端だ。行方をくらます前に着ていた着物の柄に間違いない。
住職はそれを無言で差し出し、鳳羅須 も何も言わずに受け取った。手にしていた金子が落ち、床に当たって甲高い音を立てた。
やはり、死んでいたのか……
最初から生きているとは思っていなかった。由良の話しはその考えが正しかったことを裏付けていた。にもかかわらず、心のどこかで華結羅の死を認めていなかった。鳳羅須 は華結羅の死を初めて実感した。
「持って行って、御先祖の墓に入れてやれ」
老人は金子を拾い上げ、しげしげと見ている。
変わり果てた華結羅を抱え、鳳羅須 は大日寺を後にした。
鳳羅須 は骨壺を抱えたまま、行く当てもなく彷徨 った。いつの間にか人気のない森に足を踏み入れていた。
布の結び目をほどき、骨壺をだした。
骨壺を見ていると、胸の奥からどす黒い憎悪が突き上げてきた。おもむろに持ち上げ、近くの石に叩き付けた。
骨壺は砕け、華結羅の骨が地面に散らばった。
鳳羅須 は狂ったようにそれを踏みつけ始めた。
「何故 だッ、何故死んだッ? お前のせいで父上は殺された! おれは山に捨てられ死にかけた! おれが……おれが今までどんな思いで生きてきたか解るかッ? おれがどれだけ苦しんだか解るかッ? おれの手がどれほど血で汚れているか解るかッ?
おれが‥‥どれほど己の死を望んでいるか解るかッ? 全部、貴様のせいだ……何故、おれを捨てた……おれが不具の子だからか……」
鳳羅須 の双眸から涙が溢れ出た。鳳炎が連れて行かれたあの日以来、流したことのない涙だ。うずくまり、子供のように声を上げて泣いた。一〇年もの歳月、押さえ付けていたものが一気に吹き出してきた。
たった独りの時も、狼たちといるときも、鳳羅須 は涙を流さなかった。真明山を除けば、誰も居ない場所こそが鳳羅須の居場所だった。
独りということは、周りに敵がいないということだ。しかし、敵はいつまでも居ないわけではない、いつ現れるか判らないのだ。隙は誰にも見せられない、鳳羅須 はたった独りの時でも弱さを表に出さないようにしていた、泣くなど以ての外だ。
にも関わらず、憎悪の対象としていた華結羅の前で鳳羅須 は泣いた。
なぜ自分が泣いているのか、鳳羅須 自身にも解らなかった。
華結羅を己の手で殺せなかった事が悔しいのか? 己を捨てた理由を訊き出す機会を永遠に奪われたことが無念なのか? それとも母に二度と会うことができないのが悲しいのか……
どうしても、止めどなく涙が流れ、嗚咽を抑えることもできなかった。
鳳羅須 は泣き続けた。それは鳳羅須 にとって、ある意味で甘えだった。
「何故、おれを捨てた……」
華結羅が居なくなってからの記憶が、次から次へと甦ってくる。どれも辛い記憶や悲しい記憶ばかりで、楽しい物はまったくと言っていいほど無い。安らぎを与えてくれる記憶は唯一、天狼たち狼と過ごした日々だ。そしてもう一つ、望月光奈のことが脳裏に浮かんだ。
それは安らぎを与えると同時に、鳳羅須 をさらなる苦悩へといざなった。鳳羅須 は光奈に対する己の感情を認めていない。それは今まで感じたことがないものであり、鳳羅須 自身はその感情が自分とは無縁のものと思っていた。
「おれが不具の子だからか……」
鳳羅須 は男として育てられ、男として生きてきた。
だが、鳳羅須 は生まれながらにして性器が無い、性別がないのだ。
鬼霊の子が不具として生まれた場合、間引かれることになる。だが、鳳羅須 は女神の双子だ。西軍の太元帥も双子として生まれ、その兄弟は生かされている。両軍の神が双子として転生した。そこには運命の意志が存在する、東軍の首脳部はそう判断し、大鳥一族も鳳羅須 を間引くのをやめた。
鳳炎はこの命拾いした子供を、男の子として厳しく育てた。だが、そこには父の深い愛情が秘められていた。そして、母も姉と分け隔てなく愛してくれた。そう信じていたが、それは突然裏切られた。華結羅は鳳羅須 と鳳炎を捨て、摩瑜利 を異界へと連れ去った。
父を失い、絶望しか見えない戦いの中で、鳳羅須 の心はすさみ、闇へと沈んでいった。そして父の汚名返上と、華結羅に恨みを晴らすことだけを目標に生きてきた。
鳳羅須 の力の源は憎しみと怒りだ。だが、華結羅が死んでいた以上、恨みを晴らすことはできない。
鳳羅須 は泣いた、涙が枯れ果てるまで泣き続けた。
そのお陰で、わずかではあるが気持ちが軽くなった。もう思い残すことは何もない。あとは父の汚名を返上するだけだ。そのために摩瑜利 を殺さなければならない。
そう思うと心がわずかに痛んだ。自分を見送った由良の顔が忘れられない。あの女性は娘が弟に殺されたと知ったらどう思うだろう。
鳳羅須 は由良のことを無理やり頭の隅に押しのけた。すると代わりに、摩瑜利 を斬ろうとした時の光奈の顔が浮かんだ。鳳羅須 は鍵をかけ、心の中にいる光奈を胸の奥に封印した。こんな感情に惑わされるわけにはいかない。
どういう理由か解らないが、八大竜王は今大人しくしている。だが、それがいつまで続くかは判らない。こうしている間にも活動を再開し、鳳羅須 に襲いかかってくるかもしれないのだ。
あと一歩で願いは叶う。父の名誉は回復され、大鳥一族の長として歴史に名を残せる。鳳羅須 は大鳥一族の庄に住むことをゆるされ、父の領地だった土地を与えられるのだ。
もっとも、そこに自分が住むことは永遠にない。鳳羅須 はこの異界の地で果てるつもりだ。大鳥一族が勝手に分配するだろう、あるいは鵬翼が独り占めするのかも知れない。
だが、それでも構わない、鳳羅須 にとっては父の名誉挽回が何よりも大事なのだ。
彼は腰にある刀に視線を落とした。大鳥一族の宝刀、聖鳳は代々一族の長に継承されてきた。本来なら、村八分にされている鳳羅須 が持つことはありえない。
これは父上の形見、大鳥一族には渡さぬ。
幕府に取り上げられていたが、この使命に赴くことを条件に手に入れた。これはもう自分の物だ。この刀は数少ない神器である以上に、父の唯一の形見なのだ。
そこまで考え、鳳羅須 は風に飛ばされ枝に絡まっている、華結羅の着物の切れ端を見上げた。
それを枝から外し、砕け、散らばった骨の中から、一番大きなかけらを包んで懐にしまった。この時、鳳羅須 は、なぜ自分がこんな行動をしたのかまったく理解できなかった。
父が自分を死に追いやった華結羅と共にいたいとは思えないし、己も華結羅の形見など欲しくはなかった。にも関わらず、鳳羅須 は着物の切れ端に包んだ骨を大事に懐へしまった。
そして己の望と使命を果たすべく、その場を立ち去った。鳳羅須の顔に先ほどまで泣いていた少年の面影はない。
能面の奥に隠された殺意。そこに居るのは、死を求め戦場を彷徨 う修羅の真明。
冷たい風が、華結羅の粉砕された骨を巻き上げ、どこかへと運んで行った。
三
娑羯羅は難陀たちと合流していた。
無論、歓迎などされない。刺客を殺し損ね、仲間三人を見殺しにして逃げてきたのだ。
もっとも娑羯羅に言わせれば、難陀が自分の意見に聞く耳を持たなかったのがそもそもの原因だ。
「あたくしは二手に分かれることに反対したはず、それをお聞き入れにならなかったのは難陀様ではありませぬか」
「だから全ての責任は妾 にある、そう申すか?」
難陀は憎悪を込めた眼差しを娑羯羅 に向けた。
「違うと?」
娑羯羅 は冷ややかな視線を返した。
「たわけ! 跋難陀 が真明のもとへ赴こうとした時、何故 、無理にでもついて行かなんだッ? 何故、真明を捕らえた時、すぐに始末しなかったのじゃッ」
「跋難陀様は、あたくしが三人で真明に臨もうと申したのを一切聞き入れず、自分が真明より劣ると云うのかと一喝なさいました。難陀様同様、あたくしの言葉など歯牙にもかけなかったのです」
「何と……」
娑羯羅 の無遠慮な物言いに。難陀は面食らったようだ。ここまで露骨に難陀を非難したことは今まで無かった。
「真明に関しては、殺すには惜しい鬼霊、摩瑜利 と共に連れ帰ればよい土産になると思ったのです」
「勝手なことを……」
「確かに。それで真明に不意打ちを喰らったのはあたくしの責任、それについて言い逃れするつもりは毛頭ありませぬ。が、勝手な手土産を太元帥様に持って帰ろうとしているのは、何もあたくしだけではないはず」
難陀の顔が怒りのため青ざめた。
「だまれッ、だまれ、だまれ、だまれッ。己の落ち度を棚上げしおって!」
「罰ならいくらでもお受けし致します。首を刎 ねるなり、頭をかち割るなり、好きになさいませ。ただし……」
冷ややかな娑羯羅 の瞳に炎が宿った。
「手土産を勝手に持ち帰ることが罪だというなら、御自分がやろうしている事も直ちにお止めいただきたい。そして、摩瑜利 を捕らえるため、今すぐあの街へ戻られよ!」
結局、娑羯羅 の処分は保留にされ、鬼霊の能力 封じの結界を施された部屋に閉じこめられた。
そして、難陀は摩瑜利 を捕らえようとはせず、己の目的を優先させた。
四
「彩香、まだ帰ってないんですか?」
望月光奈 は今までとは違う由良の顔に、何か不安なものを感じた。この一週間、由良は彩香のことを心配し、憔悴しきっていた。それでも理恵と里美の事件があった夜からは彩香が家にいたため、少し落ち着いたように思えた。
だが、今の由良の顔にあるのは安堵でも不安でもない、あきらめとも覚悟ともとれる不可解な表情がだ。
「ええ」
そう言った由良の口調はしっかりしていた。由良が何の覚悟をしているのか、光奈には尋ねる勇気がなかった。それでも、脳裏に真明鳳羅須 の姿がハッキリと浮かんだ。彩香の双子という事実は光奈以上に、由良には衝撃的なはずだ。
もちろん、由良は鳳羅須 に会ったなどとは一言もいっていない。だが、彩香に養母がいることを鳳羅須は知っている。住所などは教えていないが、彼なら突き止めることなど朝飯前のはずだ。
あの日の記憶が鮮やかによみがえる。鳳羅須 は彩香を斬ろうとした。光奈が必死に止めなければ、今ごろ彩香も葬儀場に横たわっていたはずだ。光奈は胃が重くなるのを感じた。刀を振り上げた時の鳳羅須 の冷酷な瞳が忘れられない。
そんなことない、まだ大丈夫。真明くんより先に彩香を見つけないと……。
その気になったら、鳳羅須 の方が彩香を早く見つけられるのは判りきっている。だが、それでも光奈は最悪の事態が起こっていないことを信じようとした。
やっぱり、あたしも付いてくるべきだった。
後悔先に立たずだ。光奈は急いで自分の家に戻った。光奈の家と彩香のアパートは二〇〇メートルも離れていない。
念のためケータイに連絡を入れたが、相変わらず電源が入っていないか圏外とのアナウンス。
光奈が家の車庫に置いてある自転車に近づくと、庭の方から甘えた犬の鳴き声が聞こえた。光奈は眉をしかめたが無視できず、庭へまわった。
そこには行ったり来たりしながら、全身で喜びを表している秋田犬の雑種がいた。光奈が鎖が届く範囲まで近づくと、覆い被さるように飛びついてきた。
「もう、マサムネは甘えん坊なんだから」
マサムネは後ろ脚で立ち上がると、身長一五二センチの光奈とほぼ同じ大きさがある。
非常に警戒心が強いマサムネはなかなか人に懐かないが、光奈には子犬のようにじゃれついてくる。一歳を過ぎたばかりのこの犬は力の加減が解らない。光奈よりも力が強いので油断していると怪我をさせられる。
光奈は押し倒されそうになりながら、顔を一心不乱に舐めるてくるマサムネの頭をなでてやった。
「おう、光奈、おかえり」
マサムネの騒ぐ声が聞こえたのだろう、祖父の哲治 が窓から顔を出した。
「ただいま、おじいちゃん。また、すぐに出かけなきゃいけないんだ」
「彩香ちゃんが、なじょかしたか?」
哲治は穏やかな表情のままで言った。祖父は人の心に安らぎを与えるこの不思議なほほえみを、滅多に絶やさない。
「ごめん、帰るのが遅くなるかも」
「わがった、気をつけなんしょ。婆 さまには言っとくから」
不意にマサムネが光奈の体から離れ、体勢を低くして唸り始めた。その視線の先には庭に植えられた柿の木がある。柿の実はほとんどが取られ、鳥たちがついばむ分を木の上方に残しているだけだ。
その柿の実が付いている枝よりわずかに下の枝に、白い影が立っていた。柿の木はもともと折れやすく、影が立っている枝ではどう見てもその体重を支えられる強度はない。しかし、影はその枝をほとんどきしませることもなくそこに立っている。
「真明くん……」
鳳羅須 は柿の枝から身を躍らせた。マサムネは牙をむきだしさらに唸る。この秋田犬の雑種は、しょっちゅう遊びに来ていた彩香にさえ懐かず吠えるのだ。
光奈はマサムネが鳳羅須 に襲いかかると思い、鎖を引っ張っり遠ざけようとした。本気で飛びかかるマサムネを光奈の力で御せるはずがない、光奈の方が引きずられることになる。が、光奈は鎖をにぎったものの、引きずられることも引っ張る必要もなかった。
鳳羅須 が手をマサムネの頭に乗せると、マサムネは又の間に尾を垂れ、仰向けになって腹を見せた。完全服従の姿勢だ。
「これは、また変わったお客さんだない」
これだけのデモンストレーションを目の当たりにしても、哲治は穏やかな表情をほとんど変えず、まるでテレビでマジックショーでも見ているような口ぶりだ。光奈はこの手のことは大分経験したはずだが、まだ慣れることができない。
鳳羅須 は哲治にわずかに頭を下げ、光奈の方に向き直った。
「摩瑜利 がここからずっと離れているところへ移動している。何処 に行こうとしているか判らぬか?」
光奈は鳳羅須 の瞳にただならぬものを感じた。彩香に刀を振り上げたときの輝きがあるのだ。
「真明くん、彩香のお母さん……由良さんにあったでしょ?」
「今はそれどころでは……」
「いいから答えて!」
光奈は鳳羅須 に声を荒げた。目の前の少年がどれほど恐ろしい相手か解っているが、不思議と恐怖はなかった。
「ああ、会った。それがどうした?」
鳳羅須 は、どうでもいいと言いたげに答えた。
「何を話したの?」
「どうでもいいだろう」
「よくない! 真明くん、また彩香のこと斬ろうとしてるでしょッ? それを由良さんに言ったの?」
「……いや」
光奈は取りあえず胸をなで下ろした。鳳羅須 はそこまで残酷ではないのだ。
「どうして彩香を殺そうとするの? 彩香は……摩瑜利 は真明くんのお姉さんなんでしょ?」
鳳羅須 は視線を落とした。
「お前には関係のないことだ」
「大ありだよ! 彩香はあたしの親友なんだ。小学校のころからズッと一緒の学校で、ほとんど同じクラスで、部活だって一緒だし、真明くんより長く彩香に接してるんだよ。時間が長けりゃいいってモンじゃないけど、最近の彩香のことはあたしの方がよく知ってる」
鳳羅須 は冷たい瞳を光奈に向けた。気にさわることを言っているのは判っている。でも、言わなければならない。
「彩香は人に命を狙われるような、家族に斬られるようなことは何もしていない」
「お前には解らぬ」
「取り込み中、悪いんけんども、おらもその話しに混ぜてもらうぞい」
今まで黙っていた哲治が、穏やかな口調で割り込んできた。
「斬るとか斬らないとか、随分と物騒な話しをしているようだども、オメさんは独りで背負いきれない荷物を、むりに担ごうとしているように見えっぞい」
鳳羅須 は話しに割り込んできた哲治に、剣のある視線を向けた。
「話しだけでもしなんしょ。背負った荷物を下ろすことはできんでも、少しは気が晴れっぞい。おらたちでいいなら、いくらでも聞いてやっから」
「なぜ、何も知らぬお前たちに……」
「知らねぇからこそ、何を話してもいいんだべ。おらたちに判るのは、オメさんが彩香ちゃんの姉弟だってことだけだ。何を話しても影響ねぇはずだぞい」
鳳羅須 は沈黙したままだ。その瞳には不信感がハッキリ現れていた。
「話してよ、真明くんの力にはなれないかもしれないけど、一緒に悩むことはできる」
鳳羅須 の瞳から不審の輝きは消えないが、拒否しないのは迷っているのだろう。
「ねぇ、話したくないなら、その理由ぐらい教えて」
わずかにためらったものの鳳羅須 は口を開いた。
「どうして、おれにそこまで構う?」
「そんなの決まってるじゃない、彩香の家族だからだよ」
「たったそれだけか?」
「あたしとおじいちゃんはお節介だもん」
そう言って哲治に顔を向けると、哲治は同意するようにうなずいた。
「別に話して不都合がないなら、時間を少し無駄にして、咽が渇くだけだべ? 時間はどうにもなんねけど、お茶ならだすから」
この言葉に鳳羅須 はわずかにほほえんだ。光奈は、鳳羅須 の笑顔らしき物を初めて見たと思った。
五
鳳羅須 は着なれない服に戸惑っていた。血が染みついた白装束では目立つと光奈に言われ、浩之に用意してもらった物を着るはめになったのだが、どうもしっくりこない。
「うん、死に装束よりずっといいよ」
光奈が笑顔で言った。ここは光奈の家の茶の間だ。浩之が用意してくれたのは、黒のデニムジャケットとジーンズ、それに白のティーシャツだ。
鳳羅須は浩之より小柄なので多少ブカブカだ。
「これで動きやすくなったでしょ?」
光奈は嬉々として言うが、鳳羅須 は着慣なれた和服の方がありがたかった。しかし、言うことを聞かぬと、彩香のことを教えないと言うので素直に従うしかない。
浩之が来る前に、鳳羅須は光奈と哲治に己のことを話していた。自分のことを他人に話しをしたことがない鳳羅須 にとって、これは大変な作業だった。しかもそれが異界の人間なら尚更だ。
たぶん哲治はほとんど鳳羅須 の世界のことを理解できなかっただろうが、最後まできちんと聴いてくれた。光奈は話しの途中から涙を流していた。
なぜ光奈が、自分のために泣いてくれるのか鳳羅須 は理解しがたかったが、心の奥に暖かい物を感じた。それは生まれて初めての感覚だった。
「真明くん、自分の生き方を変えられない?」
鳳羅須 が話し終えると、光奈が涙を拭きながら言った。
「今更どうにもならぬ」
「どうして? 彩香を殺したってお父さんは帰ってこないんだよ。名誉を回復したって、真明くんが死んだら何にもならないじゃない」
「他にどうしろと? おれはそのためだけに生きてきた。父の汚名返上と母への復讐、それだけがおれの支えだ」
そして、その一つは失われた。
「それじゃ、悲しすぎるよ。きっとあるはずだよ、彩香を殺さなくてもお父さんの名誉を回復させて、真明くんが生きのびられる方法が」
「あるとすれば、摩瑜利 を生きたままおれたちの世界へ連れ戻すことだ。しかし、八大竜王がそうさせてはくれない」
光奈は唇を噛みしめた。八大竜王の恐ろしさは、身をもって経験している。あいつらに話し合いなど通じないし、戦って勝てる見込みがないことも判っているのだろう。
「彩香の記憶が戻れば、女神の能力 も復活するんだよね、それってどんな物なの?」
「さあな、おれも詳しくは知らん。ただ、鬼霊の能力 を遙かに凌ぐものだということだ」
「八大竜王を足したよりも?」
光奈が何を言いたいか鳳羅須 は理解した。
「しかし、記憶の封印を解く方法が判らぬ」
「きっと見つかるよ、ううん、あたしが見つけてみせる。だから、彩香を斬るのはやめて」
光奈のこの言葉に従っている自分を、鳳羅須 は信じられなかった。摩瑜利 の動きはすでに止まり、今なら光奈に頼らずとも摩瑜利 を追いかけることができる。ここから随分離れているが、一晩も走ればたどり着くことができる距離だ。
初めは摩瑜利 の能力が戻ったのかと思ったが、どうやら違うことに気づいた。この異界には鳳羅須 の想像を絶する物が多くある。人を乗せて動く鉄の箱、うなり声を上げて飛ぶ魚に似た形の乗り物。摩瑜利 がそういった乗り物を使ったと、鳳羅須 は直感的に感じた。そして、それを確かめるため光奈のもとへ来たのだ。
「望月、本気か? こつと神鳥を捜すなんて」
浩之が不審をあらわに鳳羅須 を睨みつけている、光奈の家に来てからずっとこの調子だ。鳳羅須 はこの手のことにはなれているので、それほど気にはならない。
「彩香を連れ戻さなきゃなんないの。それに真明くん一人だと、また彩香を斬ろうとするかもしれないじゃない」
「だったら、オメも危ねぇべ!」
「そう思うなら、ついてきてあたしを守ってよ」
「なんでオメを守んなきゃならねぇんだ? それに、オレの服をそいつに貸す理由もわかんね」
浩之は憮然としている。
「理由はカンタン。うちには真明くんが着られるような服がないからだよ。さ、彩香を連れ戻しに行きましょう」
郡山駅のロータリーの周囲は、跋難陀によってつけられた傷跡が生々しく残っていた。
道をふさぐ瓦礫やつぶれた車、そして殺された人々はすでに片づけられ、従来通り車が行き来している。だが、ビッグアイや駅ビルを始めとする周囲の建物はブルーシートで覆われ、その傷口を隠そうとしていた。
特にビッグアイは、ガラスの壁がサウロンの眼のところまで割れ、眼球自体もつぶされている。応急処置で目玉が落ちないように固定されてはいるが、安全のため建物に近づくことができないよう策が設けられていた。
光奈たちはビッグアイの反対側から回り込んで郡山駅へと入った。鳳羅須 はここまで彩香が来て、南へ向かったことを察知していた。
「南、かぁ……」
方角から言えば東京だが、彩香の目的地はそれより先だ。
「富士山に登るつもりなんだ」
「なに言ってんだ、オメ?」
好沢浩之が不審をあらわに光奈を見下ろす。浩之はブツブツ言いながらも光奈と鳳羅須 についてきた。鳳羅須 はまるで相手にしないが、それが返って浩之の神経を逆なでするらしい。それでも浩之がついてくるのは、光奈ではなく彩香が心配だからだ。
浩之は、キャスター付きのアーチェリーケースも持ってきている。護身用と言うことだが、準備に時間がかかるので役に立つか疑問だ。
逆に光奈は小さなショルダーバック一つだ。中には鳳羅須から預かった物が入っている。それは鳳羅須が懐に入れていた物なのだが、服のポケットだとはみ出してしまうので預かってくれと頼まれた。色あせた布に包まれているが、何だか大切な物のようだ。
「悪いけど、ヨッシーよりずっと彩香とは親密につき合っているんだからね。あたしの推理に間違いないの」
浩之はいら立ちと嫉妬の入り交じった視線を光奈に向けた。光奈はそれを尻目に新幹線の券売機へ向かった。
鳳羅須 と浩之がそれに従う。鳳羅須 の肩には剣道の竹刀を入れるケースがかけられている。もちろん中身は聖鳳刀だ。
光奈は鳳羅須 から金子 を数枚もらっていた。いらないと言ったのに、どうせ自分が持っていても使わないと言ってきかない。
金子など高校生の自分が持っていても何の役にも立たない。たしかに綺麗だが、このままではアクセサリーにもならないし、持ち歩くこともできない。それに下手に持っていることがバレたら、また警察のお世話になりかねない。どちらかというと、光奈にとっては迷惑な物だ。
鳳羅須にその辺の事情を説明しても全く理解しないので、とりあえず受け取るだけ受け取って、あとは哲治に任せることにした。
哲治は金子の代わりというわけではないが、光奈に充分なお金を渡してくれた。それで三人分の新幹線の切符は余裕で買える。
十数分後、光奈たち三人は新幹線で東京へと向かった。
六
神鳥彩香 は夕闇に沈む東京の街を、当てもなくさまよっていた。
巨大なビルが建ち並ぶその景観はひどく現実感を欠いたもに思えた。彩香にはそれが白ビルより巨大な墓標に思えた。白ビルと違い、それらは生きた建物だ。大勢の人々が出入りし活用している。にもかかわらず、どこか空虚で殺伐としている。
一皮むけば、欲望や絶望、憎しみや悲しみが渦巻き、眼に見えない形でこの街を支配している。彩香にはそう思えてならなかった。
自分の中で何かが大きく変わりつつあった。だが、神鳥彩香はそれを望んではいない、そう望んではいないのだ。望んでいるのは摩瑜利 、神鳥彩香の中に眠るもう一人の自分だ。 うそ、そんなのいない……
そう心で呟いても、もう一人の自分が嘲 る声が聞こえる。
嘘を云っているのはあなたでしょう。
いくら自分を騙そうとしても、これ以上騙すことは出来ない。
あなたはわたくしの存在に気づいてしまった。
どんなに否定しようがわたくしはここに居る。
わたくしだけではない、鳳羅須 も、あなたの弟もこの異界に来ている。
あなたの居場所はここではない。
自分の居るべき場所に、あるべき姿に戻りなさい。
自分自身からは逃れることはできないのだから。
「いや!」
思わず大声を上げた。周りを行く人々が、彩香を奇異な眼で見て通り過ぎていく。
彩香はいたたまれなくなり、足早にそこを立ち去って人気の少ない裏路地へ入った。
はたから見れば、情緒不安定な少女に他ならない。そうだ、わたしはおかしくなってしまった。今すぐ病院へ行くべきだ。
まだ、現実から顔を背けるの?
また声が聞こえる、これが証拠だ。ここは東京だし、きっといい精神科医もある。そうすればこの声も聞こえなくなる。
無駄です、わたくしを消すことは誰にもできない。
何故なら、わたくしはあなた自身なのだから。
今までも、わたくしはずっとあなたと共にあった。
ただ、記憶と共に封じられていただけ。
記憶と共に眠っていただけ。
わたくしはもう目覚めてしまった、あなたの記憶と共に。
「わたしは、神鳥彩香かのままでいたいの」
彩香は視線を上げた。夕日に空があかね色に染まっている。それは美しく、そして不安をかき立てる色だった。
葬儀場から一度はアパートに戻った彩香だが、後をつけてきた警察官の姿が完全に無くなるとビッグアイへと向かった。
現実から逃れるため、星を見ようとしたのだ。ところがプラネタリウムは破壊されていた。この破壊に直接ではないが彩香は関係している。ここでも認めたくない事実を突きつけられた。
彩香は衝動的に切符を買い、新幹線に飛び乗った。すべてから逃げ出したかった。目的地は富士山だ。以前から観たかった、日本で一番空に近い場所で、星を眺めようと思ったのだ。
しかし、富士山に登る装備も、その前にどうやったら富士山までたどり着けるかも判らなかった。旅行会社にツアーの予約をしておくか、少なくても前もってどうやって行くのか計画を立てておけば何とかなるが、余りにも衝動的すぎた。
結果、彩香はこの街をあてもなくさまようことになったのだ。財布を見ると、帰りの新幹線代はない。そもそも、郡山には帰りたくなかった。あそこには向かい合いたくない現実が待っている。
ここに居ても何も変わりません、すでに安らぎの時は過ぎ去ったのです。
また声が聞こえた。彩香はそれを振り払おうと頭を振った。
空を仰ぐ。晴れた空に、わずかに三日月と金星の姿があるが、他の星は見えない。まだ、夜のとばりは完全に降りてはいないし、この街は夜空の星が見えないほど明るい。
それはまるで、夜空の星が地上に落ちてきたかのようだ。しかし、地上の星は美しくても人工的で、天のそれには及ぶべくもない。
「わたし、どうすればいいの?」
わかっているはず、本来の自分に戻りなさい。母上もそれを望んでいます。
「ママが?」
いいえ、あなたの本当の母、華結羅が望んでいるのです。
「わたしの本当の母親はママよ!」
彩香の瞳に涙が溢れた。
由良も言っていた、「娘よ…たった一人の、大事な娘よ……」と。
「ママ……」
彩香は今すぐ由良に会いたいと思った。由良のその胸に飛び込んで行きたい。そして子供のように甘えたかった。
「ママ……帰りたいよ……」
七
武蔵野神社の御神体の表面に波紋が現れ、二人の少年と一人の少女を映し出した。
「この娘が摩瑜利 ?」
訝しげな声を難陀は上げた。それに徳叉迦 は大きくうなずいた。
「真明に少しも似ておらぬな」
それどころか異人の血が入っているような容貌だ。
「アタシもそう思いました。しかし、本人がそう申し、真明もこの娘を必死にかばったことを考えると……」
「やつを殺し、その娘を連れてくればハッキリします」
和修吉が身を乗り出す。
徳叉迦は和修吉に顔を向けたが、和修吉は彼を見ようとしない。徳叉迦 が本殿に入ってきてからずっとそうだ。その左眼は今は手当てされ包帯で覆われている。それでも和修吉は見たくないのだ。
「事はそう単純ではない、なぜ真明がこちらへ来た?」
「どうでもよいではありませぬか、真明を殺し、あの娘を調べれば済むこと。何か罠を用意していても、我ら八大竜王に通用するはずがございません」
「和修吉、油断するな。あの真明は我が弟を、いや、八大竜王を二人も殺したのじゃ」
「ならば、私と和修吉、それに優鉢羅の三人で参りましょう」
御神体を喰いいるように見ていた阿那婆達多の声は、わずかだが感情の高ぶりが感じられた。阿那婆達多は、額にある傷跡を指でなぞっている。それは鏡面に真明の姿が映ってからずっと続いていた。
「ふん」
和修吉は一人で行けないことが不満そうだ。
「待て、妾 も行く」
この言葉には、普段は表情を変えない優鉢羅と阿那婆達多もわずかに驚いた顔をした。
「しかし……」
「優鉢羅よ案ずるな、何も自ら真明と戦おうというのではない。妾 の目的は摩瑜利 じゃ。本物かどうか一刻も早く調べたい」
優鉢羅は安堵したようにうなずいた。もっとも、修羅の真明と言えど、難陀をそう簡単に傷つけることは出来まい。
「難陀さま、アタシも参ります」
徳叉迦 の言葉に難陀は眉を寄せた。
「気持ちは解るが、うぬはここに残れ。傷もまだ癒えぬし、第一、娑羯羅 を見張る者が必要じゃ」
徳叉迦 はさも残念そうな顔をした。我が眼を、美貌を奪った真明に、一矢報いてやりたかった。それが滲み出るような顔だ。
何をするかが決まった途端、四人の鬼霊は疾風のごとく武蔵野神社から姿を消した。
徳叉迦 は独り卑屈な笑みを浮かべた。難陀のあの口調、徳叉迦 を気づかっているように聞こえるが、本当は徳叉迦 が足手まといなだけだ。
もし、本気で娑羯羅 のことを気にしているなら、徳叉迦 ではなく他の誰かを残したはずだ。今の徳叉迦 には八大竜王としての能力 はない。
でも、これでアタシの思い通りになるわ。
徳叉迦 は御神体の脇に置かれていた、娑羯羅 の小太刀を取り上げた。これは竜爪刀 と呼ばれ、如意宝珠と共に竜一族に伝わる神器の一つだ。
竜爪刀を手にし、徳叉迦 は娑羯羅 が閉じこめられている部屋の前に立った。四畳半のその部屋の襖には、優鉢羅が書いた鬼霊封じの護符が貼ってある。
その護符をはがし、徳叉迦 は襖を開けた。中にあった物は全て運び出され、畳には結界が描かれていた。薄暗い部屋の中央に娑羯羅 が背を向け正座していた。
「ずいぶんしおらしくなったじゃない、どういう風の吹き回し?」
徳叉迦 の声に、娑羯羅 はわずかに首を後ろに向けた。
「勝手に封印を解いてよいのか?」
その声には一切感情が込められていない。
「ふん、どうして勝手にやったって判るの?」
「難陀様が、これほど早くあたくしを自由にするはずがない」
「ダレも自由になんかしないわよ、この裏切り者。アンタ、アタシの能力 と美しさを奪っておいて、次は何を企んでいるの?」
娑羯羅 は首を前に向け沈黙した。徳叉迦 に何か話すつもりはないらしい。
徳叉迦 は娑羯羅 の肩に手をかけると、無理矢理自分の方に向けた。
「アンタのそういうところが気に入らないのよッ」
徳叉迦 は竜爪刀を抜き、娑羯羅 の左眼を突いた。
娑羯羅 は呻き声をわずかに洩らしただけで、残った眼で徳叉迦 を静かに見つめている。
徳叉迦 は竜爪刀に付いた血をペロリと舐めた。
「なに、その眼は? 片眼つぶされたぐらいじゃ、あたくしは堪えませんてこと? フン、そうよね、アンタは眼がつぶれたって能力 を失わないもの。そもそも、その傷だって簡単に治せるんでしょ」
「お主の気が済まぬなら、あたくしを殺せばいい」
娑羯羅 はあくまで落ち着き払った声で言った。
「フフッ、フハハハハハ……!」
徳叉迦 は狂ったように嗤い出した。
「殺す? アンタを殺すですって? そんな事しやしないわ。だって、アンタにはこれから、やってもらうことがあるんだから!」
眼を潰された痛みでも表情を歪めなかった娑羯羅 が、初めて顔をしかめた。
「ふん、アタシの望みがわかっているようね。そうよ、摩瑜利 を殺すのを手伝ってもらうわ」
娑羯羅 は口を開きかけたが、徳叉迦 はそれを許さなかった。
「おトボケはもうたくさん、時間がないのよ。どうせ気づいてるんでしょ、真明とアタシの眼を奪った坊やがこの街に来てるの。偽者の摩瑜利 サマも一緒よ。でも、そいつが本物だって難陀さまには言っといた。難陀さまが気がつく前に本物を始末するのよ」
「お前、自分の云っていることが解っているのか?」
「もちろんよ。アタシはね、こんな顔なら死んだ方がマシなの。でも、ただでは死なない、アタシの顔をこんなにしたヤツらを八つ裂きにしなきゃ、死んでも死にきれないのよ!」
徳叉迦 の眼は常軌を逸していた。
「難陀が偽物に気づく前と云っても、本物の居場所が判るのか?」
「だからアンタの力が必要なんじゃない、それだって知ってるんでしょ?」
「知らぬ」
「なら、捜してよ。見つけてくれないなら、難陀さまにアンタが故意に摩瑜利 を逃がしたことをぶちまけるわ」
「そうすれば、お前も嘘を云ったことが……」
「かまわないわ。云ったでしょ、アタシはこんな顔で生きていたくないの。でも、アンタはどうかしら? 摩瑜利 を故意的に逃がし、アタシを傷つけ、跋難陀さまを挑発して死に追いやった……。これだけ証拠がそろえば、太元帥さまでもアンタを庇いきれないわ。だって、アンタは太元帥さまの命令にも背いているんだもの」
「………………」
「さあ、どうする? アタシに協力する? それとも、お兄さまの立場を悪くして、難陀さまの立場をよくするのに一役買う? 好きな方を選ぶといいわ」
娑羯羅は潰れていない方の眼で、狂気に歪む徳叉迦の顔を見つめた。
第五章 覚醒
一
光奈 たちは東京駅に到着し、東海道新幹線に乗り換えようとしたが、鳳羅須 がそれを止めた。
「どうしたの? 急がないと……」
「この近くに、この街のどこかに居る」
鳳羅須は眼を半眼にした。
「人が多すぎる、それに得体の知れない騒音が邪魔だ。しかし、摩瑜利 の存在を間違いなく感じる」
「ホント?」
鳳羅須は東京駅の人波をすり抜けながら歩き出した。
「どこさ行ぐッ?」
不満そうな浩之を尻目に、光奈は鳳羅須の後を追いかけた。
「おい、望月ッ、オメまで……ったく」
浩之 はキャスター付きの鞄を引いている、アーチェリー用の鞄だ。
鳳羅須は改札を抜けようとしたが、切符を入れるのを忘れ、改札機に行く手を遮られた。光奈が素早くどうすればいいのかを教えたので、何とか通過することができた。
「すまない……」
クールな鳳羅須だが、さすがにばつが悪そうだ。
その様は今までの鳳羅須からは考えられないほど無様で、浩之は優越感に浸りきった顔で改札を抜けてきた。
気を取り直し、鳳羅須は彩香を捜し始めた。東京駅から出た光奈は、鳳羅須の背中を追い続けた。鳳羅須は早足で歩いているようだが、光奈は駆け足でなければついて行けない。
不意に鳳羅須が立ち止まった。
「見つかったの?」
「いや、見つけられたのはおれだ」
「え?」
鳳羅須の顔を見上げると、眼が合った。
浩之の服を着てから、鳳羅須は後ろでまとめていた髪をほどいている。そうしていると、ますます彩香にそっくりだ。その美しい顔に、思わず胸が高鳴った。だが、鳳羅須はすぐにその視線を、後ろから渋々ついて来る浩之に移した。
「あいつと一緒におれから離れろ」
「どうして?」
この謎めいた言い方をやめて、解るように言って欲しい。その方がこっちも納得ずみで、素早く行動できるのに。
「おれを見つけたのは、奴らだ」
『奴ら』が誰れなのか、さすがにすぐ解った。戦慄が全身を駆けめぐる。
「どうしてここに居るの……?」
「おれたちか摩瑜利がつけられたんだろう。さぁ、早く行け」
光奈を浩之の方に押しやると、鳳羅須は踵 を返し、影が闇に溶け込むように素早く人混みに消えた。
「真明 くん……」
「あいつ、なじょした?」
浩之の口調は、あからさまに非難めいている。
「竜王があたしたちに近づいているって」
「えッ? それって駅前の怪獣と学校にいた……」
「そう」
「オレたちを追っかけてきたのか?」
「知らないよッ。それより、真明くんを……」
光奈は鳳羅須の姿が消えた方へ駆けだした。
「あいつ、自分だけ逃げたのか?」
「まさかッ。真明くんは一人であいつらと戦うつもりなんだ」
「ちょっと待て!」
浩之は腕をつかみ、光奈を立ち止まらせた。
「なにすんのッ、早くしないと……」
「行ってどうする?」
「どうするって……」
考えてなどいない。ただ、鳳羅須を一人で竜王に立ち向かわせるわけにはいかない、そう思っただけだ。
「あんな化け物を相手にするのに、オメなんか足手まといになるだけだ。だいいち、狙われているのは神鳥じゃねえべ?」
鳳羅須は彩香が見つかったのかという質問に、見つかったのはおれだと答えている。その言葉から察するに、八大竜王が追って来たのは鳳羅須だ。
「たぶん」
「なら、ほっとけ」
浩之の冷たい言い方に、光奈は自分の耳を疑った。
「なに言ってんのッ?」
「考えてみろ、今までの事件の原因は誰だ?」
「真明くんだって言いたいわけ?」
「ちがうか?」
「当たり前でしょ!」
「そうか? あいつが現れてから、おかしなことが起こり始めた」
「真明くんのせいじゃないよ」
時期的には合うのは、鳳羅須が八大竜王を追ってきたからだ。事件は竜王が起こしている、鳳羅須はむしろそれを止めているのだ。
「本気で言ってんのか? あいつを保健室さ連れて行かなければ、石川と加藤はまだ生きてた」
浩之の言葉が光奈の胸に突き刺さった。
この五日間、その事実を必死で見ないようにしてきた。眼の前には常識で推し量る事のできない問題が山積みになっている。自分の罪が償える物ではないことは解るが、これ以上被害を出さないために、今はできることを精一杯やらなければならない。だから、あえて眼を逸らしていた。
だが、理恵と里美が殺された原因が誰にあるのかと問われれば、眼を開いて向かい合わざるえない。
「違う……二人はあたしのせいで死んだんだ……」
声が震え、必死に押さえようとしたが涙が溢れてきた。
「あたしが、真明くんをムリに保健室に連れて行ったからだよ。だから、理恵と里美はあんなことになった、二人はあたしが殺したんだ!」
浩之は静かに首を振った。
「病院に連れて行きゃ、別の誰かが殺された。そして何もしなければ、あいつに神鳥が殺された」
たしかに、鳳羅須がこの世界に来た時点で誰かが死ぬ運命にあったのだ。
「これでわかったべ? あいつがすべての元凶だ」
それは明らかに間違っている。八大竜王がこの世界に来なければ、鳳羅須が現れることはなかった。いや、それを言うなら、すべては彩香を中心に起こっている。彩香……摩瑜利がすべての元凶と言うべきだろう。
その摩瑜利ですら、自分の意志でこの世界へ来たのではない。母、華結羅 により連れてこられたのだ。華結羅がこの世界に来た理由は判らないし、本人が他界した今となっては知ることもできない。
そもそも誰が元凶かを特定したところで、何の解決にもならない。
こうしている間も、鳳羅須と八大竜王とのも戦いで新たな被害が出かねない。そして、彩香は独り悩み、傷つき、苦しんでいる。
光奈は涙を手で拭った。
「でも、殺さなかった。真明くんは、彩香に手を出さなかった」
まだ泣けない、泣いてはいられない。
「オメが止めたかんな」
「もし、本気だったら、あたしが止めたって彩香を斬ってたよ」
「だからって、必要以上にあいつと関わることはねえ。化け物退治ならなおさらだ」
「彩香はどうするの?」
「さっき言ったとおりだ。ホントにあいつが化け物を引きつけるつもりなら、神鳥とは逆の方へ行ったはずだ」
「彩香をさがすつもり?」
「あったりめーだ、そのためにこんな所まで来たんだ」
浩之は東京の人口の数を知らないのか、漠然と捜しても彩香を見つけられるはずがない。
「オメはどうする?」
「だから、真明くんを助けないと」
「さっきも言ったべ、オメが行っても足手まといだ」
光奈の脳裏には今まで出会った八大竜王が刻みつけられている。蝦蟇男 の大身、怪獣としか言いようのない跋難陀 、美しく残酷な徳叉迦 、そして謎めいた娑羯羅 。浩之の言うとおり、自分にできることはないのかもしれない。
光奈は武器になるような物は何も持っていないし、持っていたとしても使えない。また、相手が光奈の頼みを聞いてくれるこなどありえない。
それでも……
「あたしは真明くんを追う。ほっとけないし、彩香のいる場所を正確に突き止めるには真明くんの能力が必要だよ」
浩之はあきらめたように溜息を吐いた。
「じゃ、これからは別行動だな」
「え?」
「オレは神鳥をさがす、オメは好きにしろ」
浩之はアーチェリーのケースを引きながら、足早に鳳羅須と逆の方向へ向かった。
「そんな……」
何だかんだ言っても、浩之は自分に従いてきてくれると信じていた。光奈も本当は八大竜王が怖い、だから浩之にそばにいて欲しかった。
光奈は人混みに浩之が消えるまで見送った。そして完全に見えなくなると、鳳羅須を追いかけて駆けだした。
二
鳳羅須は、摩瑜利の気配と逆の方向へと疾風のごとく駆けていた。案の定、鬼霊は自分を追ってきている。八大竜王は摩瑜利がこの街にいること、少なくとも正確な場所は把握していないのだ。
もっとも、それは大した慰めにはならない、鳳羅須の目的は摩瑜利を殺すことだ。追ってくる八大竜王は四人、前回の二倍の竜王が居る。
あの時とは異なり怪我も回復し、以前にも増して能力が高まり、地の利もこちらにある。鳳羅須は知るよしもないがここは秋葉原の電気街。大小様々なビルが乱立し、そのため路も入り組んでおり、街中に人が溢れかえっている。これを上手く利用すれば、八大竜王を分散して一人ずつ戦うことができるはずだ。
だが、一人ずつと戦うことができたとしても……
背筋に冷たい何かが走った。鳳羅須は一人の竜王の気配に覚えがあった。いや、それは忘れることができない鬼霊の殺気だ。
鳳羅須の脳裏に、一人の男の姿が浮かんだ。
竜の大将……
崖の上で戦ったのは八大竜王だったのか、あの陣羽織の竜はそれを示していたのだ。
鳳羅須が生き延びられたのは、まさに奇跡と言っていい。捨て身の戦法で相打ちを狙ったが、それが不発に終わったことは先刻承知済みだ。再度戦って勝つことができるのだろうか?
それは否と言わざる得ない。竜の大将との力の差は、それほどまでに大きい。
なぜ、おれは摩瑜利を追わなかった?
八大竜王より一瞬でも早く摩瑜利にたどり着くことができれば、それで決着がついたはずだ。すべてが鳳羅須の思惑通り、すべての望みが叶うはずだった。
何故だ、何故おれは……
後悔しても始まらない、今さら摩瑜利の方へ行こうとしても竜王に追いつかれる。鳳羅須は決死の戦いを目前にして、戸惑う己の心を押さえつけた。竜の大将だけでも鳳羅須の手に余るのに、さらに三人の竜王がいる。いずれも竜の大将に劣らぬ殺気を漂わせている。
鳳羅須は電気街の裏通りに入り込んだ。
竹刀のケースから聖鳳刀 を取り出すと同時に、一人の男が目の前に立った。
「久しぶりだな、真明」
男の額には醜い傷跡がある、以前はなかった物だ。己が付けた物であることはすぐに判った。
鳳羅須は聖鳳を抜刀し、鞘を捨てた。
「剣で俺に挑むか」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。竜の大将も力の差をハッキリと判っているのだ。
「この傷の借りは返させてもらう」
竜の大将も腰に差した太刀の柄に手をかけた。あの時と違い、着流し姿だがその殺気はいささかも劣らず、わずかな隙もない。
「ハッ」
鳳羅須は、眼にも留まらぬ速さでデニムジャケットに忍ばせた手裏剣を取り出し打つと、間髪入れずに斬りかかった。
竜の大将は手裏剣を左手でつかみ、右手で抜刀し鳳羅須の一撃を受けた。
「たわけた真似を……今度はこっちから行くぞ」
「待て! 阿那婆達多 、そいつはわしが殺る」
背後から野太い男の声がした。ガッチリとした体格の修験者が立っている。
鳳羅須は周囲の様子がおかしいことに気づいた。そこかしこにあった人の姿がなくなっている。
結界か……
ということは自分を追ってきた四人は、跋難陀 と違い騒ぎは起こしたくないのだ。
「殺す前に訊かねばならぬ事がある」
さらに二人の鬼霊が現れた、巫女装束の女と狩衣の男だ。
鳳羅須は内心舌打ちをした。機敏に動き回り八大竜王を攪乱 するつもりだったが、すっかり取り囲まれてしまった。やはり八大竜王に小細工は通じない。
「摩瑜利は何処じゃ」
巫女の問いに、鳳羅須は沈黙で答えた。
「云わぬか、ならば云いたくなるようにしてやろうッ」
「む?」
突然、身体が金縛りにあったかのように硬直した。巫女が念力を送っているのだ。鳳羅須は気力で金縛りを弾き返そうとしたが、指一本まともに動かせない。
「無駄じゃ。摩瑜利の血を引く者といえど、この難陀 の術を破ることは出来ぬ。今のうちに摩瑜利の居場所を云えば、苦しまずに死なせてやる」
鳳羅須は無言のまま、巫女を睨みつけた。
「なるほど、ならば望み通りしてやろう。和修吉 、こやつを可愛がってやるがよい」
「はッ」
修験者の姿をした和修吉 は、玩具を与えられた子供のように微笑み、金縛りで立ちすくむ鳳羅須に右腕を伸ばした。
すると、右腕が瞬く間に鱗に覆われ、掌が風船のようにどんどん膨張していく。指が完全に埋没すると、中央からまっぷたつに割れ、そこにいくつもの突起物が生えた。その突起物は牙だ。和修吉 の腕は竜の首に変化していた。
それは和修吉 の他の部分とは別の生き物のように動きだし、伸び、そして鳳羅須の身体に巻き付いた。
竜の首は金縛りに負けない強さで、鳳羅須をしめつける。
「ぐぐぐ……」
思わず呻き声が、口から漏れた。
「おっと、これくらいで摩瑜利の居場所を吐くな。徳叉迦 の苦しみは、まだまだこんな物ではないぞッ」
からみついた竜が鳳羅須を宙に持ち上げ、壁に勢いよく叩きつけた。
「うぐッ」
路に落ちた鳳羅須を竜の腕が素早くからめ捕り、今度は地面に叩きつける。竜は幾度となくこの動作をくり返した。
その度に全身を砕かれるような痛みが、鳳羅須を貫く。
「ぐは……」
「クックックッ……どうじゃ、摩瑜利の居場所を云いたくなったかえ?」
「いやぁッ」
神鳥彩香 は全身が砕けるような痛みを感じ、その場にしゃがみ込んだ。
行く当てもなく、お金もない、不安だけを抱えた彩香は街をさまよい、日比谷公園へとたどり着いていた。
「う……あッ……いや……」
痛みは何度も何度も波のように押し寄せてきた。彩香は、今、何が起こっているのかハッキリと理解できた。
鳳羅須が傷つけられている……
それもかなり強烈にだ。巨大な竜の顔が見えたときと違い、今回は周りの風景がグルグルと回り、何が起こっているのかよく把握できない。それでも、この痛み、この苦しみ、鳳羅須がひどい目に遭っているのだけはたしかだ。
鳳羅須を助けなさい。
もう一人の自分が命じる。
「できない……」
出来る、あなたは忘れているだけ。思い出しなさい、それはあなたにとって呼吸のようなもの。
再び激痛に襲われ、目の前が真っ暗になった。
「難陀 様、いくら痛めつけたとて口を割るような奴ではありませぬ。早々にとどめを刺し、摩瑜利を捜しましょう」
「私もそれがよろしいかと」
阿那婆達多 ともう一人の鬼霊の声が聞こえる、鳳羅須は己が闇の世界から舞い戻ってきたことを悟った。
和修吉 の拷問に、意識を失っていたのだ。今は腕の竜もからみついてはおらず、難陀 も油断したのか金縛りを解いていた。
「とどめもわしがさす」
阿那婆達多 に和修吉 は威圧するような視線を向ける。
「俺も真明と決着をつけたいのだがな」
和修吉 に睨みつけられても、阿那婆達多 は全く動じない。
誰も鳳羅須が意識を取り戻したことに気づいていない。この千載一遇 の機会を逃すことができるものか。
鳳羅須は素早く立ち上がり、難陀 めがけて手裏剣を打った。この巫女が八大竜王の長であることは先刻承知している。頭を斃し、少しでも時間を稼ぐつもりだ。
しかし、手裏剣は難陀 をすり抜け、背後に並べられていたパソコンケースを貫いた。
「あれだけ痛めつけられたにもかかわらず、まだそれだけ動けるとは、流石に神と血を分かち合っただけのことはある」
狩衣の竜王の背後から、もう一人の難陀 が姿を現した。すると、今までいた難陀 の姿が揺らめいて消えた。
難陀 は跋難陀 の姉だ。跋難陀 と同じく、気配を飛ばすことが出来る。しかも、己の姿も映し、同時に金縛りも使える。これは鬼霊の能力が単に高いというわけではなく、優れた技術を持っていることも示している。
跋難陀 以上の化け物か……
鳳羅須は腰に手をかけようとして、何もないことに気づいた。今、着ているのは浩之の洋服だ、それ以前に聖鳳は己の手にあったはずだ。
「お前が探しているのはこれか?」
阿那婆達多 の手に、鞘に収められた聖鳳が握られていた。
あれだけ痛めつけられれば手放さない方がおかしい。
残る武器の針手裏剣はあと三本、鳳羅須は両手で手裏剣を逆手に構えた。
「悪あがきを」
難陀 が嘲りの笑みを浮かべた。
無駄なあがきと解っていても、大人しく殺される修羅の真明ではない。狙うはただ一人、難陀 竜王だ。
「たぁッ」
鳳羅須は空歩術で空中へと駆け上がり、奇襲をしかけた。しかし、難陀 に到達するより早く、和修吉 の竜が伸びてきて、攻撃を阻もうと身体に巻き付く。一本の手裏剣は難陀 めがけて打ち、残りの一本で竜の片眼をつぶした。
難陀 へ打った手裏剣は阿那婆達多 が聖鳳で弾き、眼をやられた腕の竜はからみつく力を弱めた。
鳳羅須は竜を振り払い、難陀 に襲いかかった。だが、難陀 の前に阿那婆達多 が割り込み、聖鳳を振るった。
間一髪、鳳羅須はその攻撃を避けた。
これだけの出来事が一秒にも満たない間に起きた。
鳳羅須は最後の手裏剣も逆手に握った。
その時、他にも鬼霊の気配を感じた。過去に感じたことのある気配、これは娑羯羅 だ。それに微かだが徳叉迦 の気配も一緒に感じる。
八大竜王が六人。今でさえ、絶望的に勝ち目がない状況で、さらに竜王が増えるのか。しかし、二人の気配は別の場所へ向かっている。その先に何があるか、鳳羅須はすぐに察した。
摩瑜利が見つかった。
「娑羯羅 と徳叉迦 が動き出しました。恐らく奴らの狙いは……」
「皆まで云うな、優鉢羅 。お前は妾 と共に来い。阿那婆達多 、和修吉 、真明は御前たちに任せた」
「御意」
「こんな小童ごとき、わし一人で充分。阿那婆達多 は難陀 様と共に……」
眼をつぶされた、腕の竜を見ながら和修吉 は憎々しげに言葉を漏らした。
「たわけッ、その小童は我が弟を殺した鬼霊じゃ!」
「は……」
和修吉 が叱られた子供のような顔をする。
「だからお主は、そのようなつまらぬ傷を負う。八大竜王の名を汚すような真似はするでないッ」
その言葉が終わらぬうちに、難陀 と優鉢羅 は姿を消した。
鳳羅須は難陀 を止めようと身を躍らせた。それと同時に阿那婆達多 が聖鳳刀で斬りつける。
とっさに避けたがかわしきれず、鳳羅須は腕を斬られた。
「くッ」
傷口は大して深くはないが、よもや聖鳳で斬られるとは思わなかった。
「阿那婆達多 、こいつはわしに殺 らせてくれ」
「難陀 様の言いつけ、もう忘れたか?」
「忘れてはおらぬ……おらぬが、どうしてもこいつだけは、この手で殺したい」
一瞬運、和修吉 と阿那婆達多 が視線を交わした。そして、阿那婆達多 は構えを解いた。
「恩にきる」
一人ずつ戦ってくれるのはありがたいが、聖鳳刀はまだ竜の大将の手にある。鳳羅須にあるのは、二本の針手裏剣だけだ。
「真明、徳叉迦 の恨み、今こそ晴らしてくれるわッ」
和修吉 の左腕も右腕のように変態し始めた。いや、左腕だけではない、顔も鱗で覆われている、恐らく鈴掛で隠れている身体全体が変容しているのだ。
和修吉 の両脚が伸び、二つの竜の首になった。さらに、背中から四本の首が加わる。両腕と本来の首も加え、九つの首を持つ大蛇 に和修吉 は変貌をとげた。
こんな化け物の相手をまともにしてはいられない。鳳羅須は和修吉 が変容し始めた途端に、その場から逃げ出した。
竜の大将は追ってこない、本気で和修吉 にすべてを任せる気なのか。
また、鳳羅須は自分の治癒力の高まりに驚かされていた。さっき阿那婆達多 に斬られた傷が、もうふさがっている。聖鳳で斬られた傷だからなのか、それとも摩瑜利の力が影響しているのか、それは判らない。
背後に和修吉 の殺気を感じた、早くも追いかけて来たのだ。九本の竜の首がのたうつように動き、細い路地を曲がってくる。想像以上に動きが速い。敏捷性に優れた鳳羅須に追いつこうとしている。
鳳羅須は空歩術を使い、空中へ逃れた。和修吉 は空歩術が使えないようだ。ならば、手の届かないところへ行き、あとは難陀 を追えばいい。九つ頭の化け物に構っている暇はない。
ところが安全な間合いをとる前に、和修吉 は一本の首を伸ばし、鳳羅須の足首に噛みついた。
焼けるような痛みが走り、鳳羅須は再び地面に叩きつけられた。そのまま、立て続けに地面や壁に打ち付けられ、最後に硝子窓を打ち破り、建物の中に突っ込んだ。
鳳羅須が勢いよく飛び込んだせいで、ところ狭しと並んだ商品棚が将棋倒しになり、居合わせた店員や客が騒然となった。
わずかな隙を突き鳳羅須は、足に喰いつく竜の眼に再び手裏剣を突き立てようとした。
が、今度は素早く目蓋が閉じ、鋼のような鱗に阻まれた。
「くッ」
次に鳳羅須が狙ったのは、竜の口元だ。足首に喰らいついているせいで、わずかに鱗がない部分が露出している。
鳳羅須は、二本の手裏剣を同時に突き刺した。竜はシャッという悲鳴に似た音を発し、足首を放した。
這いずるようにして、店内の奥へ移動しながら、鳳羅須は武器になる物を探した。聖鳳は奪われ、手裏剣も尽きてしまった。
しかし、そう都合良く武器が置いてあるわけがない。ここはパソコンのパーツショップなのだ。周りにあるのは、PCケースや電源ユニットだ。
その中を進んで行くと、少しは役に立ちそうな物が眼にとまった。五寸釘のような物に柄が付いている。釘の先端は針のように尖ってはおらず、十字型になっている物と平たい物があった。鳳羅須が見つけたのは、大きめのドライバーだ。
混乱している店内を尻目に、ケースに入ってぶら下がっているマイナスドライバーを数本をむしり取り、鳳羅須は階段へ向かった。
三
「あぁ‥‥」
彩香は大きく喘ぎながら、ヨロヨロとベンチから立ち上がった。幻覚と幻聴がやっと治まった。
そうよ、こんなことが現実のわけない‥‥わたし、病院に行った方がいい‥‥
では、高校に現れた二人の怪人も幻か、ここへ来る前にも見た、郡山駅の惨状も妄想なのか。駅前は恐竜のような怪物に破壊されたと聞いている、それは彩香が視た幻覚と一致していた。
彩香は周りの風景を見まわした。外灯に照らし出せる深緑の空間。でも、すぐ向こうに木よりも遙かに高い、コンクリートの森が広がっている。
どこかで、鳳羅須が傷つけられている‥‥
彩香は焦燥を押さえ込み、頭を振った。鳳羅須は高校での一件以来、姿を現していないし、東京にいるはずがない。
あれだって幻覚。鳳羅須なんていない、わたしに兄弟なんていない。わたし、おかしくなってるんだから‥‥
心に和服の女性の姿がよぎる。
だれ?
そのイメージは瞬く間に消え、思い出せない夢のように指の隙間からこぼれ落ちた。
彩香は現実に再び戻り、違和感を覚えた。
改めて辺りを見まわす、特に変わったところは見あたらない。いや、一つだけ大きな違いがある。
だれもいない……。
間違いなくさっきまで人の姿があったはずだ。そもそも、夜の七時にもならないこの時刻に、日比谷公園から人の姿が消えるのはおかしい。
「お久しぶりね、摩瑜利さま」
背筋に冷たい物を感じ、彩香は声のする方へ顔を向けた。
「あら、うれしい。アタシのこと覚えていてくれたみたいね」
そこに、忘れたくても忘れられない二人が立っていた。左目を包帯で覆った男と女、高校に現れた二人の鬼霊だ。
女の包帯は血が滲み、生々しく朱く染まっている。
「わ、わたしは‥‥」
「摩瑜利じゃない、なんて云ってもムダよ。ちゃ~んとアタシには判ってるんだから。あなたには、このお礼をしないとねッ」
男は包帯をむしり取った。そこには眼球はなく、不気味な洞があるばかりだ。
彩香は思わず息を飲んだ。
鳳羅須は足首の痛みを無視し、狭い階段を駆け下りていた。包装を乱暴に外し、ドライバーを服のあちこちに忍ばせる。ドライバーは全部で四本、多くはないが手裏剣と違い、柄がかさばるし、着なれない洋服は和服と違って忍ばせにくい。
表に出ると、竜の首が三本、突然襲いかかってきた。和修吉 が待ち伏せをしていたのだ。
鳳羅須は二つの竜の首をかわし、残りの頭にドライバーを打った。
ドライバーは鱗に弾き返され、竜の首が口を開け、鳳羅須に噛みつこうとする。
鳳羅須はこの瞬間を待っていた。ドライバーの一本を、素早く竜の口内に突き立てる。
竜は血を口から溢れさせのたうち回った。
和修吉 が鳳羅須を攻撃する方法は二つ、巻き付いてしめ上げるか、噛みつくしかない。とっさに攻撃する場合は後者だ。
そして、噛みつく以上、口を開けねばならず、口の中には鋼のような鱗はない。鳳羅須は先ほどの経験から、マイナスドライバーでも深手を負わせることが判っていた。
頭が九つでも身体は一つ。和修吉 のやられていない首も痛みに怯んでいる。この隙に鳳羅須は大通りへと駆け抜けた。
光奈は人混みの中をさまよっていた。鳳羅須を追うにも移動速度が違いすぎる、もともと脚は速い方ではない。
「ハァ、ハァ、ハァ‥‥」
十字路にさしかかり、立ち止まった。
どっちに行ったの‥‥
その時、サイレン音が響いてきた。
徳叉迦 は狂気にギラつく眼で、摩瑜利の首を右手でしめ上げていた。指が首筋に食い込み、摩瑜利は苦しげに喘いでいる。
「難陀 さまや太元帥さまはお怒りになるだろうけど、アタシには関係ない。アンタにはここで死んでもらうよぉ」
「い……や……」
「思ったよりいい声で鳴くじゃない。安心おし、すぐには殺さないから」
徳叉迦 は突然手を放した。
摩瑜利はその場に崩れた。
「ゴホッ、ゴホッ‥‥」
「フン」
「ぐふッ」
咳き込む摩瑜利の腹部を徳叉迦 は蹴り上げ、胸ぐらをつかむと無理やり立たせた。
「アンタ、よく観ると、キレイな顔してるわね。特に眼が美しい‥‥」
「うう‥‥」
摩瑜利はやめてと言いたいのだろう。しかし、腹を蹴られた痛みから、言葉もまともに喋れないようだ。
娑羯羅 は、徳叉迦 の拷問に為す術もない摩瑜利に半ば失望し半ば感心していた。
摩瑜利が能力をここまで抑制されているのは、何者かがそれを妨げているからだ。それは間違いなく、摩瑜利の実母・華結羅だ。
神の能力がどれほど物か、太元帥 と血を分けた娑羯羅 はよく知っている。その能力がわずかでも使うことができれば、呪眼を失った徳叉迦 など物の数ではない。
摩瑜利は何度か能力を使っている。跋難陀 と真明が戦ったとき、徳叉迦 の眼を射抜いたとき、そしてほんの少し前、恐らく再び真明を救うためにそれを使っている。鬼霊が感知できないほど僅かではあるが。
娑羯羅 がそれを察知できるのは、もう一人の神と密接なつながりがあるからだ。しかし、今の摩瑜利からは神の力をほとんど感じない。
「その眼‥‥キレイなその瞳をアタシにちょうだい!」
徳叉迦 は指を摩瑜利の眼に突き立てようとした。
「ギャッ」
徳叉迦 が手を放し、摩瑜利の身体が地面に放り出された。だが、悲鳴を上げたのは摩瑜利ではない。
徳叉迦 の右肩に金属の矢が刺さっていた、彼の左目を奪ったのと同じ矢だ。
「神鳥!」
洋弓を手にした少年が駆けてきて、摩瑜利を引きずるようにして逃げていく。
「ぐ、ぐぅう‥‥あ、あいつは‥‥」
徳叉迦 は眼を奪われた少年に、再び傷つけられた事に気づいた。肩から矢を抜くと、駆けだした。
娑羯羅 は、摩瑜利が逃げるのに必死で後ろを気にしていないことを確かめつつ、駆け出す徳叉迦 の背後に迫った。そして、懐に忍ばせておいた真明の手裏剣を、徳叉迦 の首の後ろに突き立てた。
「ガッ」
徳叉迦 は短く声を発すると、そのままつんのめり動かなくなった。
摩瑜利たちは公園を出てた、二人とも娑羯羅 が何をしたか気づいてはいない。
娑羯羅 は徳叉迦 を見下ろした。
「お前の云った通りだ……お前もあたくしにとって、ただの駒に過ぎぬ」
手裏剣は寸分違わず急所を貫いていた。
四
真明 鳳羅須は、警察の目をすり抜けることに成功した。
成功と言っても障害があったわけではない、警察は鳳羅須をまったく意識していなかったからだ。彼らの全神経は和修吉 に、いや九つの頭を持つ大蛇に向けられていた。
鳳羅須は和修吉 から逃れ、路地裏から大通りへ飛び出した。そこは秋葉原を訪れた人々で溢れかえり、和修吉 が姿を見せると混乱が波紋のように広がっていった。
それが思わぬ助けとなった、鳳羅須は巧みに人混みをかき分けて進んでいく。普段の半分の速さもないが、巨大な和修吉 はそれ以上に身動きがとれなくなっていた。
この異界の人々を九本の首ではねとばし、和修吉 は追いかけてきた。ところが、その事に夢中になる余り、身体を車道にはみ出させ、通りかかったタンクローリーに追突された。
爆発が起こり、鳳羅須も吹き飛ばされた。が、すぐに体勢を立て直し、すぐさまその場を後にした。
鋼のような鱗を持つ和修吉 にも、この爆発は大きな痛手を与えた。
その直後、鳳羅須の鼓膜をサイレンが振るわせた。警察が出動したのだ。
鳳羅須は光奈から、警察という組織については聞いていた。この異界の治安を守る組織なのだそうだ。この世界は鳳羅須の居た世界とは違い、内乱は百数十年に渡り起きていない。それ以後、海を越えた国々との戦が始まったが、それすら直接兵士が戦ったのは六〇年以上も前とのことだ。
これだけの長期間、戦がないとは信じがたかった。そして、今、駆けつけた警官たちは兵士ではない。兵士は自衛隊という組織に属し、ほとんど戦場には行かず、もっぱら災害救助を務めとしているらしい。
警官たちは駆けつけるなり、円錐状の道具で声を大きくし、混乱する人々を誘導し始めた。
光奈に無理やり着替えさせられたのと、聖鳳を奪われたのが幸いした。警察はまったく疑わず、鳳羅須が和修吉 から逃れるのを助けてくれた。
背後に車や建物が破壊される音と人の叫び声を聞きながら、鳳羅須は秋葉原から離れていった。今は何よりも摩瑜利を優先しなければならい。もっとも、難陀 より先に摩瑜利を見つけたとして、決着をつけられるのか、今の鳳羅須には確信がなかった。
だが、それ以前に、摩瑜利の所へも行けぬか‥‥
鳳羅須は立ち止まり、雑居ビルに挟まれた細い道の先にある闇を見据えた。
そこから、一人の男の影がゆっくりと近づいてくる。
気持ちは逸るが、この男が自分を阻止するのは間違いない。鳳羅須は和修吉 のせいで周りが騒がしいのに、鳳羅須が居るこの路地だけ異様に静かなのに気づいた。
結界か‥‥
「もう、邪魔の心配はない。今度こそ決着をつけてやる」
竜の大将 阿那婆達多 は、額の傷跡を指でなぞった。右手には鞘に収まった聖鳳が握られ、腰には太刀が差してある。
こちらの武器は袖に忍ばせたドライバーが一本だけ。それでも鳳羅須は身構えた。例えこの男に殺されるされるにしても、一矢報いてやる。
阿那婆達多 は立ち止まると、おもむろに聖鳳刀を鳳羅須へ放った。
受け取ると、再び手にした聖鳳は、己が物にしてから十日も経っていないのに、とても馴染み深い感触がした。
「丸腰の貴様を斬っても面白くない」
では、散々痛めつけられた後のおれと戦うのは面白いのか。
次の瞬間、鳳羅須は身体がそれほど痛まないことに気づいた。鋭い牙で噛まれ、固い壁に打ち付けられ、さらに爆風に吹き飛ばされた。身体中が傷だらけで、肋骨も何本か折れていたはずだ。
まさに化け物じみた、非常識な治癒力だ。
とは言え、自分が有利になった訳ではない。万全の状態で戦ってもこの男に勝てる見込みは皆無だ。崖の上での戦いは奇蹟と言っていい。
鳳羅須は聖鳳刀の中に意識を伸ばし、鳳凰を捉えた。刃が白煌を放つ。
竜の大将は、まだ剣を抜いてすらいない。
鳳羅須は聖鳳の力を阿那婆達多 に叩きつけた。
この炎の力をまともに喰らえば、竜の大将と言えど無事では済まないはずだ。だからこそ、鳳羅須はこの一撃に懸けた。
白煌は阿那婆達多 に到達し、その身体を突き抜けた。
だが‥‥
「フフフ‥‥」
鳳羅須は我が眼を疑った。阿那婆達多 が涼しげな顔をして、そこに立っている。
「何を驚く。俺が火竜であることを、お前は知らぬか?」
誰が何竜かなど大して興味は無いが、火竜については少しばかり聞いたことがある。
竜とは水に属するもので、平時は海、湖、沼、川などに棲み、時に天に昇る。
それに対し、鳳凰は炎に属する。故に聖鳳刀の力も高熱と炎だ。火は竜にとっては苦手なもので、鳳羅須が八大竜王に対し有利なのはこの一点のみである。
それでは火竜とは何か。火竜とはその名のごとく、例外的に火に属する竜だ。西洋のドラゴンに近いと言っていいだろう。
ドラゴンは訳されるとき、相当する言葉が無かったため、比較的似ていると考えられた『竜』の名を当てられた。
竜は元を質せば蛇だが、ドラゴンは蜥蜴だ。どちらも爬虫類なので似てると言えなくはないが、竜とドラゴンではその性質は全く反対なのだ。
ドラゴンの能力を持つ火竜は、炎で傷つけることができない。聖鳳の力は通用しないのだ。鳳羅須は唯一の強みさえ失った。
竜の大将は口元に不敵な笑みを浮かべ、悠然と己の太刀を抜いた。その刃が妖しい光を放つ。
「はッ」
阿那婆達多 が裂帛の声を発し太刀を振り下ろすと、焔の刃が鳳羅須を襲った。
「くッ」
焔が鳳羅須の身体を包む。しかし、それはまるで鳳羅須の身体に吸収されるように消え、火傷はおろか衣服さえも燃えていなかった。
鳳羅須は狐につままれたような面持ちで、己の身体を見まわした。
「我が竜焔の力を受け付けぬとは、やはり貴様は俺と同様、熱悩の苦とは無縁か」
何がどうなっているのか正確なところは判らないが、ようは聖鳳の影響で火による攻撃を受け付けなくなっのたと言うことだろう。
鳳羅須は聖鳳を正眼に構えた。
「我が竜焔と貴様の刀、最早ただの剣に過ぎぬ。だが、決着をつけるに不都合はあるまい」
阿那婆達多 は八相に太刀を構えると、一気に間を詰めてきた。
「ハッ」
鳳羅須は振り下ろされた竜焔を、聖鳳で何とか受け止めた。
「ふふふ、流石に速いな真明。だが、いつまで持つ?」
矢継ぎ早に阿那婆達多 は斬り付けてくる。鳳羅須はその攻撃についていくのが精一杯で、完全に防戦一方になっている。
「どうした、守るだけでは俺は斃せぬぞ」
鳳羅須は、竜の大将が全力で戦っていないのに気がついていた。猫が鼠をいたぶるように、鳳羅須を弄んでいる。やろうと思えば一撃で済むことをわざとじらし、絶望感を煽っているのだ。
不意に阿那婆達多 の攻撃に隙ができた。だが、鳳羅須はそこを突きはしなかった、それが罠であることを知っていたからだ。
竜の大将は口元に笑みを浮かべた、鳳羅須が己の考えを見抜いた事を察したのだろう。今度は攻撃の激しさを増した。
鳳羅須は必至に聖鳳を振るい竜焔を防いだ。怒濤の如く繰り出される一撃いちげきが、信じられない力が込められている。腕が次第に痺れてきた。
と、不意に攻撃が止んだ。鳳羅須は身体のバランスを崩し、わずかによろめく。
そこへ、更に鋭い一撃が振り下ろされた。
鳳羅須は受けとめたもののその威力に耐えきれず、片膝をついた。
「俺の買被りだったようだな。もう、お遊びは終わりだ」
阿那婆達多 が聖鳳を薙ぎ払った。
鳳羅須の手から放れ、弧を描くようにして宙を舞う。
それを追おうとして、鳳羅須は立ち上がる。
阿那婆達多 は竜焔を上段に構え、鳳羅須の背中を斬りつけた。
「ぐぁッ」
うつ伏せに鳳羅須は倒れ、それでも聖鳳に近づこうと藻掻く。
阿那婆達多 は鳳羅須の傍らに立ち、とどめを刺すべく竜焔を構えた。
「フゴッ」
空気が漏れるような不快な音が、阿那婆達多 の口から漏れた。
咽から異様な物が突き出ている。
いや、突き刺さっているのだ。それはマイナスドライバーだった。
鳳羅須は瞬時に立ち上がり、竜焔を奪うと阿那婆達多 の胸を貫いた。
五
和修吉 は、血まみれの身体で隅田川のに這い上がった。
胸には一枚の護符が貼ってある。優鉢羅 から渡された姿隠しの呪符だ。本来ならこんな物に頼らなくても、己の身を守ることは出来る。
しかし、タンクローリーの爆発で少なからず傷つき、さらに駆けつけた兵士に大筒で攻撃され、かつて無いほどの深手を負っていた。
自衛隊は郡山駅前の怪物の事件を受け、巨大生物に対抗するためなら災害出動規定を拡大解釈し、戦闘行為が可能になっていた。
和修吉 はこの異界の人間を完全に見くびっていた。簡単な結界にも気づけず、鬼霊もいない。そんな世界の人間たちなど恐れることはないと思い込んでいた。
鬼霊の能力はなくても、彼らにはない科学力と軍事力をこの異界の人間たちは有している。和修吉 の鱗でも、ロケット砲の威力を完全に無効にはできなかった。
「く、くそッ、このわしが‥‥」
和修吉 は修験者であるが、難陀 や優鉢羅 のように呪術は使えず、大身のように特殊な液を分泌することもできない。
今、九頭竜王と呼ばれ、恐れられた和修吉 竜王は、異界の地で、たった一枚の札を頼りに人の手から逃れようとしていた。
「こ、このままでは済まさんぞ……」
視線を腹部に落とす。人の姿に戻ってから彼は己の腹を押さえ続けていた。そうせねば、傷口から内臓がはみ出してくる。
「こ、このままでは……」
和修吉 の身体には他にも無数の傷があった。右足を吹き飛ばされ、左脚もふくらはぎの肉がえぐり取られている。腕にも相当の怪我を負っていて、腹を押さえている右手の小指は付け根から無くなり薬指も半分の長さになっていた。左手は人差し指と中指、それに親指の先がちぎれている。
人間より遥かに生命力の強い鬼霊だが、これだけの傷を負えば普通は生きてはいられない。現在の真明に及ばずとも、和修吉 の生命力はかなりのものだ。
和修吉 は文字通りはいながら進み始めた。できることなら、こんな無様な姿を難陀 たちにみられたくはない。しかし、己だけでは思うように動くこともままならない。どこかに身を潜め、難陀 たちの救援を待つしかないのだ。
「おのれ……」
和修吉 はクルマの騒音がひどい橋の下にたどり着いた。
その時、妙な臭いを感じた。血の臭いだ、自分以外の何者かの血の臭いがする。
和修吉 は臭いのする方へ顔を向けた。
誰かが倒れている。
和修吉 はひどい胸騒ぎを覚えた。
なぜなら、倒れている者が身につけている物に覚えがあったからだ。
「そんな馬鹿な……あいつがここに居るわけが……」
血の筋を残しながら、和修吉 は倒れている者へ向かいはっていく。
次第に倒れている男の顔がハッキリと見え始めた。
そこにあったのは、かつて自分が最も愛し、今は最も疎んでいる者の顔があった。
「徳叉迦 ……!」
和修吉 は何とか膝立ちになり、ヨタヨタと徳叉迦 に近づいた。
「徳叉迦 ッ、徳叉迦 ッ、返事をせんか! わしの……わしの声が聞こえんのか、徳叉迦 ッ!」
和修吉 に徳叉迦 は何も答えない。和修吉 は我を忘れて徳叉迦 を抱き抱えるようにして、激しく揺さぶった。
それでも徳叉迦 が動くことはないが、和修吉 は徳叉迦 の首の後ろに金属の棒が突き立っているのが見えた。
「これは真明の……やつが徳叉迦 を……」
わしが異界の人間と戦っている間に、徳叉迦 は真明に殺されたのか?
しかし、娑羯羅 の姿が見あたらない、それにあいつの気配はもっと別の場所で感じた。和修吉 には徳叉迦 の気配は微弱で感じとることができなかった。
なぜ徳叉迦 だけここで殺されているのか、娑羯羅 はどうしたのか、不自然な点が多いが和修吉 には深く考えるだけの余裕はなかった。
光奈は鳳羅須を追おうとしたが、逃げ惑う人並みに飲まれ、思わぬ方向に来ていた。
ここ、どこなんだろ?
何とか人波から外れ、一息つける場所に来た。
そこは細い路地で、左右には七、八階ぐらいのビルが並んでいる。
光奈はケータイを取り出そうとバックを開いた。そこには鳳羅須からあずかった、布の包みも入っている。
光奈は鳳羅須から、大事な物ということと開けないで欲しいという希望だけ聞いていた。
それほど大きくないし、かなり軽い。中身が気にならないと言えば嘘になるが、他人のプライバシーを覗くような真似はしたくない。
光奈はケータイを取り出すと、GPSで自分の居場所を確認しようとした。
「あれ? 圏外だ」
もっと空が見えるところに移動しないとダメらしい。
光奈は路を抜けようとした、すると光奈の行く先に何者かが立ちはだかった。
「どこへ行く、摩瑜利?」
聞き覚えのある声が凛と響いた。
学校に現れた鬼霊だ、名前は確か娑羯羅 。左眼を血の滲む包帯で覆っている。
光奈はとっさに逆の方向へ駆けだした。
が、突然眼の前に娑羯羅 が立ちはだかった。まるで、テレポートでもしたみたいだ。
「あたくしから逃げられると思っているのか?」
光奈はジリジリと後ずさった、すると娑羯羅 がにじり寄ってくる。
どうしよう……
自分が追いつめられたことを光奈は、ひしひしと感じた。
「おのれ、小賢しい真似をッ」
「娑羯羅 が、これほどまで見事な気配飛ばしが使えるとは、やはり太元帥様の影響でしょうな」
難陀 と優鉢羅 は、娑羯羅 と徳叉迦 の気配を追い、日比谷公園まで来ていた。
ところがそこに、娑羯羅 たちの姿は無かった。難陀 は、娑羯羅 の気配飛ばしの術にまんまとかかったのだ。
この術を得意としている彼女にとって、これはかなり屈辱的な事だった。
「それより、和修吉 と阿那婆達多 の気配が消えたことが気になります」
「阿那婆達多 は真明に、和修吉 はこの異界の人間に殺られたようじゃな」
難陀 の声に仲間を失った哀しみはない。そこにあのは、己の命に背き、事態を悪化させた愚かな部下への怒りだ。
「修羅の真明、こちらの予想を超えています」
「いや、この異界に来てから強力になったのだろう、摩瑜利との接触があやつの能力を飛躍的に向上させたのじゃ」
「娑羯羅 と同じ?」
「うむ、恐らく神と血を分けた者に共通することなのだろう」
「いかがします、八大竜王は娑羯羅 を含めても三人」
「娑羯羅 は太元帥の間者じゃ、我らの足を引っ張ることはあっても、力になることはありえぬ。現にこうして我らを混乱させておる」
「やはり、真明との戦いは避けるべきでしょう」
「そこまであやつを恐れる必要があるとはどうしても思えぬ」
「解りました、いざとなればこの優鉢羅 、一命に代えても難陀 様を御守り致します」
「期待しておるぞえ」
難陀 は妖艶な笑みを浮かべると、優鉢羅 に身を寄せ、己の唇を相手のそれに重ねた。彼女の舌は蛇のごとく優鉢羅 の舌をからめ捕り、唾液がどっと流れ込んでだ。
難陀 が唇を離した後も、二人を銀の糸が結んでいた。
「頼りになるのはそなただけじゃ」
娑羯羅 が光奈の手首をつかんだ。
「ヤダッ、離して!」
「おとなしく、あたくしと来い」
華奢な外見には似合わず凄い力だ、いくらもがいても娑羯羅 の指は光奈の腕に食い込むばかりで、少しも緩まない。
「イタイ、離して……」
不意に腕の痛みが消え、足元の近くに何かが突き立った。
見ると今まで娑羯羅 が立っていた場所に、ドライバーが突き刺さっている。娑羯羅 は光奈から五、六メートル離れた場所に飛び退いていた。
「さがれッ」
背後から鋭い声が響いた。
「真明くん!」
鳳羅須が光奈をかばうようにして立ちはだかった。
彩香は好沢浩之と共に、東京の人ごみにまぎれ八大竜王から逃れようとしていた。
浩之は矢だけをしまい、ボウは手に持ったまま移動していた。この人混みでアーチェリーを使うことはできないが、それでも持っているだけで気が休まるのだろう。
警察に質問されたらやっかいだが、矢は番えていないので何とかなるだろうと彩香は思っていた。
「あッ」
不意に立ちどまると、釣られて浩之も歩みを止めた。後から来た人たちがぶつかりそうになり、顔をしかめて横目でにらんで行く。
「なじょした?」
「別に……」
そう答えたものの、彩香は再び歩き出すことができなかった。
なぜなら、鳳羅須が同等以上の力を持つ鬼霊と対峙しており、さらに強力な鬼霊二人がそこへ向かっているからだ。
この三人が相手では万に一つも鳳羅須に勝ちめはない。それどころか、逃げる事すら不可能だろう。
わたしに何ができるっていうの?
そうだ、自分にできる事など何もない、ただの人間に過ぎない自分には。
違う、あなたはただの人間などではない。現にこうして、見えない場所の事を正確に把握している……
彩香はもう一つの心の声に慌てて耳をふさいだ。
わたしには何もできない、何も……
そのとき、彩香はあることに気づいた、鳳羅須のそばに自分がよく知る人間がいる。
光奈!
「神鳥、本当にだいじょうぶか? オメの顔、マッサオだぞ」
「好沢くん……」
光奈は体をはって、彩香を鳳羅須の凶刃から守ってくれた。その光奈が鬼霊たちの争いのどまん中にいる。
どうすればいいの?
「わたし、行かなきゃ……」
口が勝手に動き、体がひとりでに走り出していた。
「おい、神鳥!」
鳳羅須は聖鳳を抜刀し、正眼に構えた。娑羯羅 はそれに呼応するよに小太刀を抜き、逆手に構える。
「難陀 では、貴様を倒すこと叶わぬようだな」
小太刀の刃が怪しげな輝きを放つ。鳳羅須は相手の武器も神器であることを悟った。
「だが、あたくしは貴様と同じ神と血を分けし者、他の竜王とは違う」
「ほう、どう違う?」
「それは貴様がよく知っておろう? 神の能力が開眼されれば、我らの能力もその影響を受け強くなる。つまり、完全に覚醒している兄を持つあたくしと、不完全な状態でいる摩瑜利の姉弟である貴様では、その能力に明らかな差がある」
なるほど、これで自分の能力が高まっている理由の裏付けが取れた。やはり、摩瑜利の影響だったか。
鳳羅須は、光奈が充分自分たちから離れた事を確認した。
「勝負は能力だけで決まるものではない」
一気に間を詰め斬りかかる。娑羯羅 はギリギリで避けると鳳羅須に小太刀の切っ先を突き出した。
「くッ」
絶対に刺さらない位置にあったにもかかわらず、鳳羅須の右肩から血が噴き出した。娑羯羅 の小太刀は聖鳳と同じように、刃が触れずとも相手を攻撃できるのだ。違いは聖鳳刀が光の刃を放つのに対し、竜爪刀は何も見えない。
「見たか、我が竜爪の威力。貴様の聖鳳など恐るるに足りぬ!」
「真明くん!」
離れたところで見守っていた光奈が声を上げる。
「大丈夫だッ、お前は充分離れて……うッ」
腹部から背中にかけて激痛が走った。見えない刃が腹を貫いた。
「人の事を心配する前に、己の心配しろ」
鳳羅須は痛みを無視し、意識を聖鳳刀の内部に集中した。聖鳳の刃が輝きを増す。
「タァッ」
聖鳳は竜爪で受け止められた。二つの刃が交わると凄まじい閃光が辺りを包んだ。
「ハッ」
幾度となく聖鳳を振るうが、ことごとく娑羯羅 は小太刀で受け止める。竜の大将とは一味違うが、かなりの手だれだ。
再び腹部に激痛が走り、鳳羅須はとっさに娑羯羅 と間を取った。
「聖鳳刀の力、使いこなせてはおらぬな」
大きなお世話だ、聖鳳刀を手に入れ十日も経っていない。神器がそう簡単に使いこなせてたまるか。
鳳羅須は竜爪刀の間合いを慎重に計っていた。あの小太刀は直接触れることなく相手を突き刺すことができる。だが、単筒や弓矢ほどの射程距離は無いようだ。現に竜爪で攻撃を受けたのは、娑羯羅 と接近したときだけだ。
「残念だったな、竜爪の間合いはお前が思っているよりも広い」
とっさに身をかわしたが避けきれず、頬が焼けるように痛んだ。
「なるほどな……」
さらに数歩、後にさがる。
「そんな事をしても無意味だ」
竜爪が向けられ、見えない刃が放たれる。
鳳羅須は聖鳳を一閃した。何の変化も音も無かったが、確かな手応えがあった。
娑羯羅 の顔が一瞬こわばり、再び竜爪を向ける。
聖鳳が閃き、見えない刃はまた叩き落とされた。
「くッ」
幾度となく娑羯羅 は小太刀を向けたが、その度に素早く振るわれる聖鳳に阻まれ、見えない刃は鳳羅須に届くことはない。
「莫迦な……」
鳳羅須は娑羯羅 が竜爪を向けてから、見えない刃が届くまでの時間を見切っていた。
今度は聖鳳から光の刃が放たれた。
娑羯羅 は竜爪でそれを阻む。
が、光の刃すぐ後ろに鳳羅須がいた。彼は放った刃を追ってきたのだ。
娑羯羅 に体勢を整える暇は無かった、聖鳳刀の実刃が首に迫った。
娑羯羅 の首が宙に舞うのを光奈は呆然と見ていた。
何が起こっていたのか、光奈の眼はほとんど捉えることが出来なかった。
ただ、鳳羅須の身体が突然あちこち出血し、それが娑羯羅 の仕業だということだけは理解していた。
そして、その娑羯羅 の首は放物線を描いて地面に落ちた。
ほんの一瞬の出来事だが、光奈にはその部分だけスローモーションのようにゆっくりと感じられた。
血まみれの鳳羅須が、幽鬼のように立っている。
真明くん……
声をかけようとしたが、口が強ばって動かない。
気付くと全身が震えていた。
まさに悪夢だ、出来る事なら早く覚めて欲しい。
だが、今は泣き事は言ってられない、彩香を見つけなければならないのだ。
光奈は震えを無理やり押えつけようとした。
「くそッ」
悪態が聞こえ、眼を向けると、鳳羅須が反対側の路を凝視している。
「ホホホ……我が弟だけではなく、大身、阿那婆達多 、遂には娑羯羅 まで斃すとは、流石、修羅の真明よのう」
この声を聞いた瞬間、背筋が凍るような思いがした。低く、威厳に満ち、他の者を圧倒するような響き。
鳳羅須の視線の先には、巫女装束の女と狩衣姿の男が現れた。
巫女と陰陽師だ。
光奈はとっさにそう思った。
「西軍の最強の鬼霊、八大竜王を四人、和修吉 も含めて五人を葬るとは、うぬの能力、妾 の予想を大幅に超えておる」
「……………」
鳳羅須はこわばった表情のまま、巫女を睨みつけている。光奈は自分たちが置かれた状況が、今までよりもさらに最悪であることをヒシヒシと感じていた。
「殺すには惜しいが、生かしておけば必ずや禍となろう。うぬにはここで死んでもらう。その上で……」
巫女は視線を光奈に向けた。
「そこにおるのが、本物の摩瑜利か確かめさせてもらう」
この言葉が終わる直前、陰陽師の手元から何かが飛び出した。それは一瞬にして膨張した。
鬼……?
それは巨大な鬼に見えた。大鬼が三匹、鳳羅須に襲いかかった。
が、次の瞬間、鬼たちは燃え上がり、かき消すようにいなくなった。まるでマジックでも観ているみたいだ。
光奈に見切ることは出来なかったが、鬼たちは聖鳳で斬られ、本来の姿の呪符に戻り、燃え尽きたのだ。
「く……」
うめき声が鳳羅須の口から漏れた。急に時が止まったように、ピタリと身体が動かなくなった。
「フフフフ……まだこの難陀 の術を破るほど、力は強くなっておらぬようだな」
巫女は歩み寄り、その手から聖鳳刀を奪い取ると、鳳羅須の首筋に刃を当てた。
「うぬが娑羯羅 にしたように、その首、刎ねてくれようか。同じ神と血を分けし者、同様の末路がよいじゃろう。それとも……」
難陀 は刃を鳳羅須の首筋から離し、今度は頭に乗せた。
「我が弟と同じく、その頭叩き割ってくれようかッ」
光奈には解った。難陀 は抵抗できない鳳羅須の恐怖を煽り、いたぶろうというのだ。
「優鉢羅 」
難陀 は聖鳳を背後で控えていた陰陽師に渡した。
「真明の両腕両脚を斬り落とし、頭をかち割った上で首を刎ねよ」
「御意」
優鉢羅 は聖鳳刀を振りかぶった。
光奈は震えを押し殺し、何とか声を振りしぼろうとした。
「やめて!」
空を裂くような叫び声が響く。しかし、それは光奈の口から出た物ではなかった。
六
「やめて!」
彩香は思わず大きな叫び声を上げた。狩衣を着た男が刀を振りかぶり、鳳羅須に斬りつけようとしていた。
しかし男は動きを止めず、刀は鳳羅須の右肩に振り下ろされる。彩香はあの得体の知れない感覚で、鳳羅須が動けないことを察知していた。
よけて!
ダメッ、斬られる……
が、鳳羅須の右腕が肩から離れることはなかった。
刃が触れる直前、鳳羅須はわずかに身体を反らし攻撃をかわすと、狩衣の男に当て身を喰らわせた。体勢を崩した男の手から刀を奪い取り、間合いを取った。
これは一瞬の出来事で、彩香の後ろにいる好沢浩之の眼はその動きをまったく捉えていない。
「うぬは……」
狩衣の男のそばにいた巫女が彩香の顔を凝視した。
「そうか、貴様が本物の摩瑜利か」
「わたしは……わたしは神鳥彩香ッ、摩瑜利なんて知らない!」
「なるほど、見事に記憶と能力を封じられておるな。これなら如意宝珠の力を持ってしても見つけられぬわけよ。しかし、偽物とは明らかに違うな」
巫女は鳳羅須の向こうにいる少女に視線を向けた。
光奈!
浩之から鳳羅須を追って行ったと聴いていたが、合流していたのか。こんな危ない場所にいて欲しくはなかった。
「飛んで火に入る夏の虫、我らと共に来てもらおう」
「いや!」
「ならば力づくで連れて行くッ」
巫女の腕が彩香に伸びた。が、彩香の前に黒い影が立ちはだかり、彼女を後ろに突き飛ばした。
鳳羅須だ。
「離れろッ」
彩香はとっさに後ろに身を引いた。
鳳羅須は輝く刃で斬りかかるが、巫女はまるで舞うような不思議な動きでそれをかわした。
脇から、小刀を抜いた優鉢羅 が襲いかかってきたが、鳳羅須は難無く避け、刀を一閃した。
「うッ」
何が起ころうとも、ほとんど変化の無い顔が苦痛に歪む。
「優鉢羅 ッ!」
巫女の悲痛な叫びが響き、優鉢羅 の右腕が宙に舞った。
「おのれ、真明ッ」
巫女は水晶球を取り出し、正面にかざした。そこから稲妻のような紅い閃光が走り、鳳羅須を直撃した。
「くッ」
鳳羅須は吹き飛ばされ、電柱に叩きつけられた。
「鳳羅須!」
「真明くんッ!」
光奈の悲鳴を聞きながら彩香は地に伏した鳳羅須を抱き起こした。息はあるが、口の端から血が滴っている。
「しっかりッ」
その声に、鳳羅須はうっすらと眼を開いた。
「う……何故、おれを助ける?」
「なぜ……?」
それは、以前、彩香が光奈にした質問だった。
彩香はこの少年を自分の弟と認めたわけではない。彼のせいで理恵と里美を始め大勢の命が奪われ、彩香自身も殺されそうになったのだ。
例え本当の姉弟だとしても、助ける必要などない。なのに自分はこんな危険なところへ来てまで、その少年を助けようとしている。
なぜ?
光奈に答えを求めた時、彼女は彩香に同じ質問で返した。どうして鬼霊から、あたしを助けてくれたのと。
あの時と答えは一緒だ。
「わからない、そんなのわからないよッ」
鳳羅須はかすかに微笑んだ。
「あいつと同じだな……」
光奈のことを言っていると彩香は確信した。
「別れは済んだか、摩瑜利?」
すぐ後ろに巫女が立っていた。
「難陀 ……」
「悪あがきここまでじゃ真明、引導を渡してくれるッ」
難陀 は再び水晶をかざした。
「ダメ!」
彩香はとっさに自分の身体を盾にして鳳羅須をかばった。
「退けッ」
難陀 の掌が頬を打ち、彩香はその場に倒れた。光奈のビンタとは比べようもない痛みと衝撃に涙がにじんだ。
「フン、能力を封じられら御前に何が出来る。大人しく、弟が殺される様を見物するがいいッ」
彩香は痛みをこらえ、なおも難陀 を阻もうとしたが、今度は足蹴にされ踏みつけられた。
「うぅ……」
「不様な女神よ」
その刹那、金属の矢が難陀 の髪をかすめた。
「神鳥!」
アーチェリーを手にした好沢浩之が立っていた。武器の準備をしいたので着彩香より遅れたのだ。
「好沢……くん……来ちゃ……ダメ……」
浩之は素早く次の矢をつがえ、難陀 に狙いを定めた。
「神鳥からはなれろ!」
難陀 は表情一つ変えず、浩之を見据えている。
「人間風情が……」
「え?」
浩之はぎこちない動きでボウを放り投げた。
「か、体が……」
痙攣するように震える手で、矢の先端を己の首に突きつける。
浩之はすでに難陀 の術中にあり、完全に身体をコントロールされていた。
「やめて……」
「クックックッ……先ずはこの生意気な人間を始末してくれる」
彩香はとっさに意志を浩之の矢を握った手に飛ばし、難陀 の術から解放しようとした。
「うあッ」
だが、浩之は自分の首筋に矢を食い込ませた。血が溢れ出て、衣服が朱く染まる。
「少しは能力の使い方を知っておるようじゃな。が、その程度ではこの難陀 の術を破ること叶わぬ」
眼に見えない力のうねりを彩香は感じた、浩之がさらに腕に力を込める。
「ぐぁあああ……」
矢がより深く浩之の首筋に食い込んでいく。
「むッ?」
突然、力のうねりが途切れ、彩香の顔の上にあった難陀 の足がどけられた。
「これ以上、あたしの友達を傷つけないでッ!」
光奈が難陀 に身体をぶつけていた。
「この小娘!」
ヒステリックに叫び、難陀は光奈の頬を打った。
尻餅を突いた拍子にバックの中身が散らばる。
その中に彩香の視線を釘付けにする物があった。
それが何かすぐに解らなかった。いや、実際には一瞬にして思い出しているのだが、それは永い永い時間に感じられた。
なぜなら、それは失われた年月を全て思い出させる時間だったからだ。
自分が誰で何者なのか、どうしてここに居るのか。その謎が彼女の中で明らかになっていく。
そして、今まで自分で拒んでいたものが、他の何ものでもない、己自信だったことを彼女は悟った。
二つの意志、二つの人格が入り交じり解け合い、今一つになった。
彩香は、いや、摩瑜利は改めて地面に落ちたそれを見つめた。
それを見忘れるはずはない。それは彼女が摩瑜利として見た、最後の記憶にある物だった。
「母上……」
摩瑜利の双眸に涙が溢れた。
第六章 龍神
一
眼の前で摩瑜利 が難陀に踏み付けられるのを、鳳羅須 は為す術もなく見ていた。
好沢浩之 が無謀にも洋弓で難陀に挑んだが、二本目の矢は射られることはなく、己の手で首に突き立てられようとしている。
浩之がかけられたのは、金縛りと似たような術だが、それよりも複雑で拘束力も弱い。強力な鬼霊であるなら打ち破るのはたやすいが、人間の浩之ではどうしようもあるまい。
優鉢羅 を含め五人の竜王を斃した鳳羅須 だが、難陀 にはまるで歯が立たなかった。
水晶の光に打たれた途端、内側から切り裂かれるような痛みが全身を駆けめぐり、立っていることすらできなくなった。
叫び声を上げのたうち廻りたいが、舌が麻痺しうめき声すら出せず、身体も指先一つ動かせない。しかし、眼も見えれば音も聞こえる。意識は苦しみの中で、しっかりと存在している。
今まで様々な苦痛を経験してきたが、ここまで強烈物はない。
あの水晶玉には、聖鳳刀 に劣らぬ能力があるのだ。
摩瑜利 の能力さえ戻れば……
鳳羅須 は難陀 の足元にいる摩瑜利 に、唯一動かせる視線を戻した。
何度か女神の能力を発現した彼女だが、今それは完全に沈黙している。やはり記憶の封印を解かなければ、摩瑜利 は思うままに能力を使うことは出来ないのだ。
これまでか……
己が任務を遂げられないことを、鳳羅須 は認めざるえなかった。
八大竜王が相手にもかかわらず、幾度も摩瑜利 を殺す機会があった。しかし、鳳羅須 が姉を手にかける事はなかった。修羅の真明 ともうあろう者が、何と不甲斐ないことか。
父上、申し訳ありませぬ……
汚名を晴らすどころか、恥の上塗りだ。不具の息子は、しょせん出来損ないと、謗 りを受けることだろう。
余りの情けなさに痛みも麻痺し、涙も出ない。
と、その時、鳳羅須 の鼓膜を聞きなれた声が振るわせた。
「これ以上、あたしの友達を傷つけないで!」
光奈が難陀 に体当たりをした。一瞬、わずかによろめいたものの、最強の鬼霊である難陀 竜王に対抗出来るはずもない。
すぐさま難陀 は手を振り上げた。光奈は持っていた手提げでそれを防いだが、その威力に尻餅をついた
携帯電話やデジタルカメラに混ざり、鳳羅須 が預けた着物の切れ端も飛び出していた。母の遺骨を包んだ着物の切れ端だ。
なぜ、こんな物を光奈に預けたのか、鳳羅須 は自分でも解らない。赤の他人である少女に、母親の骨のかけらを持たせるなど悪趣味もいいところだ。
「母上……」
鳳羅須 の鼓膜が再び震えた。その声は、この異界に来てから幾度か聞いている。だが、同じ声でありながら、今までにない懐かしい響きがそこにあった。
と同時に全身を束縛していた激痛が消え、代わりにかつて感じたことのない強大な力がみなぎってきた。
これは?
考えるより先に身体が動いた。
そばに転がっている聖鳳を拾い上げると、難陀 竜王に斬りかかる。
難陀 はとっさに水晶玉で刃を受けた。
それぞれの神器に宿る力がぶつかり合い、激しい光を放つ。
「ぬッ」
女神の加護を得た聖鳳刀に圧倒され、難陀 はよろめいて後ろへ引いた。
鳳羅須 は一刀両断にしようと剣を振りかぶった。
「真明ッ」
突然、巨大な肉の塊が頭上に現れた。
肉塊は地響きを轟かせ、鳳羅須 と難陀 の間に落ちてきた。
「和修吉 、まだ生きておったのかッ?」
彼の身体は部分的に竜に変化しているが、首の数は五つしかなく、それもかなり傷ついている。
「徳叉迦の仇!」
三本の竜の首が襲いかかる。
鳳羅須 が聖鳳を閃かすと、三つの首は和修吉 の身体から離れた。
「ぐぉおおお……貴様だけは……貴様だけは、この手で……」
なおも和修吉 は突進し挑みかかってくる。が、鳳羅須 が本来の首を刎ねると、あらぬ方向に突き進み、壁に激突して動かなくなった。
鳳羅須 は再び難陀 と対峙した。
摩瑜利 がいつの間にか隣に立っている。
「わたくしは貴女達と西軍に行くつもりはありません」
今までとは別人のように、威厳と神々しさに満ちている。これが摩瑜利 本来の姿なのか。
「フン、来たくなければ来ずともよい。貴様など、二の次じゃ」
「どういう……」
摩瑜利 が問いただそうした刹那、難陀 の背後で悲鳴が上がった。
視線を向けると、光奈が優鉢羅 に首をつかまれ、持ち上げられている。
「光奈!」
摩瑜利 の声が彩香に戻った。
「少しでも動けば偽物の命はない!」
光奈は苦しげに顔をしかめている。よく見ると、鋭くのびた優鉢羅 の爪が首筋に食い込んでいた。
貴人然とした優鉢羅 だが、何と言っても竜王である。その腕力は屈強な男の何倍もあるはずだ。光奈の首を握りつぶすなど瞬時にできるだろう。
「そいつの息の根が止まる前に、おまえの残った腕も斬り落とす」
聖鳳を握る手に力が籠もる。
「試すか、真明」
「やめなさいッ」
摩瑜利 が間髪入れずに止めた。
「光奈を危険にさらしてはなりません」
鳳羅須 は横目で摩瑜利 を睨んだ。
「物解りがよろしいですね。
難陀 様、ここはお引きをッ」
不快げに眉をひそめたものの難陀 は小さくうなずくと、優鉢羅 の位置まで後ずさりした。
「摩瑜利 、真明、この借りは必ず返させてもらう」
捨て台詞を吐くと、難陀 と優鉢羅 、そして優鉢羅 に首をつかまれたままの光奈の身体が闇に溶け込み始めた。
鳳羅須 は逃すまいと踏み出したが、摩瑜利 が手で制した。
三人の身体は完全に闇に溶け込み、鳳羅須 ですら見分けがつかなくなった。
二
首に刺さった矢を抜くと、意識を無くしたまま浩之はうめき声を出した。制服が溢れた血で汚れるのも気にとめず、摩瑜利 はその傷口に手をかざした。
まるでビデオを高速再生しているみたいに、みるみる傷口が塞がっていく。鳳羅須 の治癒力以上の早さだ。
「ん……神鳥?」
摩瑜利 の膝に抱かれた浩之が、うっすらと目蓋を開いた。
「気分はどうですか?」
「オレ、いったいどうして……」
夢見心地でしばらく摩瑜利 を見上げていたが、やがて意識がハッキリしてきたのだろう、浩之は摩瑜利 の膝から飛び起きて己の首をさすった。
「なじょしたんだ? ありゃ、夢だったんか?」
「夢ではありません」
浩之は訝しげに摩瑜利 の顔を見た。神鳥彩香との違いに気づいたのだ。
「好沢君、先に郡山に帰ってください」
「先にって、オメは?」
「わたくしには、やらなければならない事があります」
浩之はしばらく摩瑜利 を見つめていたが、おずおずと尋ねた。
「オメ、ホントに神鳥か?」
摩瑜利 は少し悲しげに微笑んだ。
「そうとも言えますし、違うとも言えます」
浩之が狐につままれたような顔をした。
「わたくしは……わたし、小学校にあがる前の記憶が無いの」
「えッ、記憶喪失? オメが?」
「うん。でも、ある物がきっかけで、以前の事を思い出したの」
摩瑜利 はスカートのポケットから、着物の切れ端に包まれた華結羅の遺骨を取り出した。
「光奈のお陰で思い出せた」
「そう言や、あいつは?」
浩之はやっと光奈が居ないことに気づいたのか、キョロキョロと周りを見回した。
「いないわ、わたしのせいで連れて行かれたの、あの人たちに」
浩之の顔は青ざめた。摩瑜利 が言っているのが、難陀 たちであることを察したのだろう。
「光奈ならだいじょうぶ、大切な人質だからそう簡単に殺されたりしない」
「だども……」
「うん、わかってる。一刻も早く助け出すから」
「じゃ、オレも」
摩瑜利 は首を横に振った。
「これは人間同士の戦いじゃないの、好沢くんは一刻も早く安全なところへ行って」
「でも、オメたちだけじゃ……」
「さっきも言ったでしょ、わたしはもう今までのわたしとは違うの」
「だから、どう違うんだ? たしかに、なんつうか、雰囲気は変わったけどよ、オメはオメなんだべ」
「記憶と一緒に、人を超えた能力 を取り戻したから心配しないで」
「ナニ言ってんだ?」
「わたしには、弟と同じような能力 があるの」
実際にあるのは、それよりも遥かに強大な化け物じみた能力だ。
摩瑜利 は後ろに影のように立つ、鳳羅須 を振り返った。
弟は冷たい視線を返すだけで、その表情からは一切感情が読めない。しかし女神の能力 を使うまでもなく、双子である鳳羅須 の気持ちは痛いほど解っていた。
自分に対する様々な怒りが渦巻いている。特に怒っているのは、光奈を優鉢羅 から取り戻そうとしたのを止めたことだ。
たしかに、女神の能力 とシンクロした鳳羅須 の能力 なら光奈を無事助けられたかもしれない。だが、向うには難陀 竜王がいた。
彼女は鬼霊だが、あなどれない能力 を持っている。殺さないまでも、警告のために光奈を傷つけることは充分考えられた。
光奈の安全を第一に考えればこそ、摩瑜利 は鳳羅須 を止めたのだ。
「オメ、アイツのこと、弟って認めたんだな」
浩之の声はどこか悔しそうだ。
「うん、鳳羅須 はわたしのたった一人の家族だから」
「じゃ、オメのオフクロさんは?」
摩瑜利 の心を貫くような痛みが走った。浩之は華結羅のことを言っているのではない。
「ママは……由良さんは、わたしを育ててくれた大事な人だけど……わたしにとってはもう一人の母親だけど……」
由良との記憶が一気に脳裏に溢れ出した。今まで我がままな彩香を本当の娘のように、いやそれ以上に愛情を込めて育ててくれた。
熱を出したとあれば付きっきりで看病し、どんなに忙しくても参観日や運動会に必ず顔を出し、夏休みとなれば必ず彩香に合わせて休暇を取り旅行へ連れて行ってくれた。
由良はこの十年間、彩香のために生きてきたのだ。
それなのに、自分は由良に恋人が出来たことに腹を立て、家を飛び出してしまった。その挙句、悪い男に引っかかり弄ばれた。
光奈の言った通り、自分は最低だ。
由良はまだ若く美しい。もっと自分の人生を大切にし、楽しむべきだ。自分は誰よりもそれを応援しなければならなかったのに、まったく逆のことをしていた。
女神の能力 を持ってしても、時間を巻き戻すことは出来ない。自分が由良にしてやれるのは、彼女のこれからの人生に幸多きことを祈ることぐらいだ。
摩瑜利 は溢れ出す涙を、何とか堪えようとした。
「神鳥?」
浩之が不安気に見ている。
今は泣けない、泣いている場合ではない。光奈を何としても無事助け出さなければならないのだ。
「そう、ママはこの世界のたった一人の家族。でも……しかし、わたくしは光奈を助けたら、己の世界へ戻らなければならないのです」
彩香の口調が摩瑜利 に戻った。
「自分の世界へ帰るって、オメ、かぐや姫じゃねぇんだから」
浩之は完全に困惑している。
「と、とにかく、細かけぇことは後だ。望月を助けるならオレも絶対に行ぐ」
どう説得しようが浩之の意思は変わりそうにない。摩瑜利 は彼の素朴で頑固なところに好感を抱いた。
鳳羅須 に視線を向けると、弟は促すようにうなずいた。
摩瑜利 は覚悟を決め、浩之に優しく微笑んだ。
「好沢君、今までありがとう」
「オメ、今度はなじょした? いきなり礼なんか……」
「光奈の事をお願いします」
「なんでオレが……」
浩之の顔から表情が消え、おもむろに立ち上がるとそのままスタスタと歩き出した。
摩瑜利 はその後ろ姿を見えなくなるまで見送った。彼女の能力 により、浩之は操られ、強制的に駅に向かわされたのだ。浩之がそれに気付く頃には全てが終わっているはずだ。
「あいつの居場所は判るのか?」
今まで沈黙を守っていた鳳羅須 が口を開いた。
「いいえ、上手く隠しています」
「ならばどうする、当てもなく捜すつもりか?」
押し殺した感情の中にいら立ちが垣間見える。鳳羅須 の身に起こったことを考えれば、感情をここまで抑制しているのは流石だ。摩瑜利 を殴っても、いや、本来の目的を果たそうとしてもおかしくない。
なぜ、華結羅 は摩瑜利 を連れこの異界に来たか、その理由を話したいが、今その時間はない。もっとも、それを聞いたところで鳳羅須 がそれを受け入れ、心を開いてくれるかどうか判らないが。
「見つけられないわけではありません」
「では、早くしろ」
摩瑜利 は意識を集中し、光奈の行方を探った。鬼霊とは異なり、彼女は人の気配も追うことが出来る。とりわけ光奈は、この異界で最も親しくしていた人間の一人だ。その気配を見分けるのは容易い。
ただ、難陀 と優鉢羅 は見事に光奈の気配を隠している。神の能力 への対抗手段が慣れている、恐らく太元帥に対しても似たようなことをしていたのだろう。
難陀 と優鉢羅 の気配も探りながら、摩瑜利 の思考はまったく別の場所へ向かった。
彼女が気になっているは、光奈に対する鳳羅須 の感情だ。摩瑜利 は神鳥彩香の記憶も持ち続けている、つまり弟が異界に来たばかりの状態も覚えているのだ。
あの時の鳳羅須 なら、怒りと憎しみ、そして悲しみに心を支配され、他人の身を案じることなど無かった。この十日足らずの間で何かが変わったのだ。
変えたのはもちろん光奈だ。彼女の思いやりや優しさが、鳳羅須 の凍てついた心を溶かし始めたのだろう。
それだけなら大変喜ばしいことだが、問題なのは鳳羅須 が光奈に抱いている感情だ。本人は気づいていないか否定しているが、その感情は明らかだ。
鬼霊を忌み嫌う人間は多いし、概ね鬼霊は能力的に劣る人間を見下している。にも関わらず、この二つの種が恋に落ちることは決して珍しくはない。鬼霊と人間はそれほど大きく違うわけではないのだ。結婚し、子を得る事もある。
だが、異界の人間との恋となれば話しは別だ。文字通り住む世界が違う。それに加え、鳳羅須 には肉体的な問題もある。
それだからこそ、自分の気持ちに気づかぬふりをしているのですね……
神の能力 の一つが記憶の継承だ。つまり神鳥彩香は、今まで摩瑜利 と呼ばれた者の記憶を持っている。この能力ゆえに、神は『転生』すると言われるのだ。
さらに神鳥彩香は摩瑜利 以外の記憶も持っている。それが鳳羅須 、血を分けた双子の弟のものだ。
と言っても、彼の記憶は過去の摩瑜利 と違い増え続けている。それをリアルタイムで得るとすれば、摩瑜利 は同時に二つの物事を体験し続けなければならない。
これには精神的負担も大きく、神鳥彩香としては無視できないプライベートの問題もある。
鳳羅須 は摩瑜利 の記憶を得ることはないが、だからといって自分が弟の全てを知っていいことにはならない。なりはしないが、この十年、鳳羅須 の身に何があったかは知っておく必要があった。
そのため、鳳羅須 の記憶をかいつまんで共有していた。それだけでも弟の悲しみと苦悩が、嫌と言うほど伝わっていた。
摩瑜利 は、どうすれは鳳羅須 にとって一番いい結果をもたらせるか思いをめぐらせた。
残念ながら女神と言えど全知全能ではない、本心を指摘してはやれるが、身体を変えたり、この異界で生きて行くことを認めてやることは出来ない。この件に関して摩瑜利 は神鳥彩香と違いはない。
わたくしにしてやれることはないし、すべきでないのかもしれない。
これは鳳羅須 個人の問題だ、たった一人の肉親であっても口出しすることではない。女神に覚醒したにも関わらず、己の無力さを感じた。
弟と親友のことなのに、見守ることしか出来ないなんて……
摩瑜利 の心に一抹の不安がよぎった、望月光奈の親友は神鳥彩香であって摩瑜利 ではない。彼女は今の自分を友達と思ってくれるのか。
その上、光奈は摩瑜利 のせいで難陀 たちに連れ去られてしまった。はたして自分に彼女の親友を名乗る資格はあるのか。
今は、光奈を無事助け出さなければ……
摩瑜利 は迷いを頭の隅に追いやり、意識を集中させた。
三
望月光奈は寺の本堂に監禁されていた。今ここにいるのは、鳳羅須 に片腕を斬り落とされた優鉢羅 と彼が呼び出した二体の式神だけだ。
ゴブリンみたい……
光奈がこの式神を見た感想がこれだ。大きさは光奈の身長の三分の二ほどで、猫背で細長い手脚をしている。皮膚の色は死者のように青白く、耳元まで裂けた口からは、不揃いな牙が突き出していた。
二体は光奈が動かなければ、瞬き一つせず銅像のように立っている。ところが、少しでも動こうものなら、唸り声を上げて威嚇する。
一方、優鉢羅 は眼を閉じて、座ったまま柱に寄りかかっていた。グッタリしたその様子から、大分弱っているのが窺える。
その証拠に、難陀 は優鉢羅 を連れて行かなかった。
光奈はこの寺に連れられて来てすぐに、難陀 と優鉢羅 が言い争うのを聞いていた。
「私も参ります」
「無茶を言うな、その身体で何が出来る?」
「すでに呪界は完成しております、後は難陀 様が発動させるのみ。それをお助けするだけなら、片腕だけで充分です」
「それなら、私 一人でも差 し支 えない」
「しかし……」
「摩瑜利 のことなら案ずるな、あの子娘がこちらの手にある限り、手出しはせぬ」
「………………」
「御前 の為すべきこと、解ったな?」
「御意 ……」
そして難陀 は一人、寺から出て行った。
優鉢羅 は光奈の監視を式神に任せ、眠っているように見える。
光奈は優鉢羅 の右腕があった場所を見た。
肘より少し上から無くなっていて、難陀 が妖しげな術を使い治療していた。それが効いたのか、傷口を覆うガーゼや包帯に血はにじんでいない。
が、今まで大量に出血したために、優鉢羅 の顔は死人のように蒼白で呼吸も荒い。
光奈は、自分の側に立つ二体の式神に視線を移した。
こちらは相変わらず置物のように、ピクリとも動かない。
あの鬼霊はかなり弱ってる、このゴブリンにさえ気づかれなければ……
「シャーッ!」
突然、二体の式神が牙を剥き出し威嚇した。
「きゃッ」
光奈は驚きの余り腰が抜け、動けなくなった。
「フフフ……私を見くびらないほうがいい」
優鉢羅 は眼を開くと、ゆっくりと顔を光奈に向けた。
「貴女 の考えている事など、手に取るように判る。私を出し抜いて、逃げだそうとしても、そうはいかない」
寝ているか、意識を失っているのだとばかり思っていたのに、優鉢羅 はそんな光奈の考えを見透かして脅しをかけてきた。
「大事な人質と言っても、逃げられては元も子もない。必要とあらば、式神に貴女の脚を喰らわす、いいですね?」
いいわけない!
光奈は心の中で叫んだが、実際には震えながら何度もうなずいていた。単なる脅しでないのは、血走った眼を見れば明らかだ。
難陀 に置いて行かれたことがよほどくやしいのか、それとも出血のせいで冷静な判断力を失っているのか、とにかく刺激しない方がいい。
光奈の中で急速に希望がしぼんでいった。
結局、足手まといになっただけだ……
込み上げる涙を必死に堪える。優鉢羅 に脅えて泣いていると思われたくない。
彩香とヨッシー、それに真明くんはどうなったんだろう?
光奈は図らずも、鳳羅須 と約束した通り摩瑜利 を覚醒させた。しかし、彼女はその事に気付いていない。
彩香が記憶を取り戻している最中、光奈は難陀 にぶたれ、優鉢羅 に首を絞められと、周りに注意を向ける余裕など無かった。
あたしが人質にされているってことは、少なくとも彩香は無事ってことだよね。
もし、摩瑜利 である彩香が殺されていれば、光奈に人質としての価値はない。鳳羅須 に関しては判らないが、あのピンチを脱したとすれば彼の活躍があったはずだ。つまり、鳳羅須 も生きているはずだ。
でも、ヨッシーは……
光奈が最後に見た浩之は、自分の首に矢を突き立てていた。それで思わず難陀 に飛びかかってしまったのだ。
その後、彼がどうなったのか光奈は知らない。
浩之を巻き込んだのは自分だ。鳳羅須 と二人だけで上京すれば、彼が危険な目に遭うこともなかった。もし、浩之に万が一のことがあれば……
あたしは、また友達を殺した……
胸が張り裂けそうだ。理恵と里美に加え、浩之までが自分のせいで命を落としたのかもしれない。自分には友達を持つ資格も、誰かを好きになる資格もない。
出来ることなら、涙が涸れるまで大声で泣きわめきたい。そうでもしなければ、とても正気を保っていられそうにない。
しかし、自分は人質にされ、監視人は自分より先に正気を失っている。
光奈は必死に心を落ち着けようとした。
彩香と真明くんが生きているんだから、何とかヨッシーを助けてくれたかも。ちゃんと確かめるまで、うかつなマネしちゃダメ。
光奈は己を叱咤した。希望を捨ててはいけない、鳳羅須 がきっと助けに来てくれるはずだ。
四
難陀 竜王は眼下に広がる異様な街並みを見下ろしていた。
日が落ち闇に包まれるはずが、これでもかと言わんばかりに明かりを点け、夜空の星々を覆い隠すほど光り輝いている。
それだけではない、難陀 が今立っている山のように高い建物には、不吉な赤い光が無数に灯されていた。
難陀 には巨大な墓標に、鬼火が漂っているように思えた。
まさに魔都 よ……
これからやろうとしている事に、これほど相応しい場所はない。
難陀 は改めて己が立っている建物に視線を落とした。
恐らく城であろう、城壁はないが堅固で人を威圧する一際大きな建物だ。木材などは使われず、石のような物で造られている。この異界にはこのような建物が多いが、取り分けこの城は奇怪だ。
特にそれを象徴するのが、建物の上にそびえる二つの塔だ。それは太い角のようで、この城が鬼の顔のように見える。
偽の摩瑜利 を優鉢羅 に押し付け、難陀 竜王はこの魔都―新宿―に来ていた。彼女が
鬼の顔をした城と称したのは、東京都庁第一本庁舎で、今立っているのは南北の展望室がある棟の谷間だ。
この日のために、難陀 は十数年もの長きに渡り準備をしてきた。本来なら東軍のどこかの街でそれを実行するつもりであったが、難陀 がしたことが明らかになれば、西軍の中からも批判の声が上がるのは避けられない。
いつどのように実行するか、難陀 は優鉢羅 と共に最終的な詰めに入っていた。ところがそこに、姿を消している摩瑜利 が異界に居るのを発見したとの報せが入った。
異界でなら西軍の対立する勢力に知られる恐れはない。仮に知られたとしても、それは異界での事、難陀 たちが住む世界には関係ない事と突っぱねる事が出来る。
突然与えられた絶好の機会に、難陀 は罠かと疑ったが、太元帥の小童が何を企もうと切り抜ける自信はあった。故に、あえて目の前にぶら下げられた餌に食い付いついたのだ。
案の定、太元帥は八大竜王全員を連れて行く事を条件にした。つまり、お目付役に娑羯羅を同伴させろというのだ。
確かに煩わしい存在であるが、何といっても八大竜王の長は難陀 だ。それが揺らぐことはないし、娑羯羅の後見人である跋難陀 に対応を任せておけばいい。太元帥の居ない場所であるなら、全ての決定権は彼女にある。
娑羯羅が何を言おうがこの異界で気にする必要はなく、事実そうしてきた。
その娑羯羅も、もう居らぬ。
居なくなったのは娑羯羅だけではない。跋難陀 を始め、阿那婆達多、和修吉 、徳叉迦、大身も真明に殺された。残った優鉢羅 も片腕を失い、八大竜王としての能力 を失った。
だが、それが無駄だった訳ではない。この異界に来た本当の目的を、今、難陀 は果たそうとしている。
呪界は既に完成した、後は発動するのみ。
視線を右手にある如意宝珠に移す。
竜一族に伝わるこの神器には、人の生命力を吸収する力があり、それを己や他の者に分け与える事が出来る。
他者の生命力を得た者は、瞬時に体力を回復したり、一時的に己の限界を超えた能力 を発揮する。
難陀 はこの点に注目した。如意宝珠を使い恒久的に己の能力 を高められないかと。
様々な呪術や実験を繰り返し、難陀 は己の肉体を改造することに成功した、己を巨大な力の器に変える事に。
同時に難陀 は力を集める方法も模索した。こちらは手段自体は簡単に見つける事が出来た。それが呪界 だ。
呪界とは呪術をより効果的に発現する空間の事である。基本的には結界と同じで、呪符や地面に描いた文様などで作り出す。
しかし、呪符や文様ではそれほど強力な呪界は生まれない。難陀 の望みを実現するには、最も強い呪力が必要だ。
それを実現する物は、鬼霊の命の源、即ち心臓を使った呪界だ。
それも並み大抵の鬼霊では駄目だ、最大の呪界にするためにはより強い鬼霊の心臓が要る。
難陀 は跋難陀 、阿那婆達多、そして優鉢羅 と共に強力な鬼霊を求め戦場をさまよった。鬼霊は東西どちらに属していようが構わない、東軍ならば戦闘で殺すなり暗殺するなりし、西軍なら濡れ衣を着せるなどあらゆる手段を講じ、心臓を手に入れた。
必要な心臓の数は一〇だが、実際はその数倍の鬼霊を手にかけた。
相手に抵抗され心臓を傷つけてしまうこともあるし、保存するための加工に失敗する場合もある。特に保存の加工は複雑で、なかなか上手くは行かなかった。
本来なら、まだ脈打つ心臓を地面に埋め呪界を生み出すのが理想だ。しかし、強力な鬼霊一〇人を生贄のために常に用意しておくのは不可能だ。
そこで心臓を取り出し、宿る力を損なわぬように加工する。
それには娑羯羅の血を利用した。娑羯羅の血には、他の者の傷を癒す能力 があり、それを鬼霊の心臓に数滴垂らすと数時間は脈動を続ける。
その間に難陀 は呪術を施し、心臓を乾燥させる。これにより呪力は損なわれず、大きさも赤子の拳よりも小さくなる。
難陀 たちはこの街の一〇ヵ所に鬼霊の心臓を埋めた。
その場所を線で結ぶと巨大な五芒星になる。
予想を上回る損害を出したが、これさえ成功すれば全てが報われるのだ。
跋難陀 、御前たちの死を無駄にはせぬ。
難陀 は如意宝珠を取り出した。
「オン ナンダ エイソワカ
オン メイギャシャニ エイソワカ……」
宝珠が巨大な墓標に灯る鬼火のように、赫く輝きだした。
五
真明鳳羅須 は周囲に異様な力を感じ視線を走らせた。
近くに鬼霊はいない、その気配もない、ではこの力は何だ。皮膚がヒリヒリし、身体から力が抜き取られるような嫌な感覚だ。結界に入った時に似ていなくもないが、こんな感覚は初めてだ。
「……これは呪界です!」
「何だそれは?」
聞きなれない言葉に鳳羅須 は思わず問いただした。摩瑜利 はこの異界と本来いた世界の記憶、知識を合わせ持っているので、今言ったのがどちらに属するものなのか判断できない。
「特殊な呪術に使われる結界と考えてください。ただ、これほど大規模な物はわたくしの記憶にもありません」
つまり、歴代の摩瑜利 の知識にも無いとんでもない代物の中に自分たちは居るのだ。
「おれたちをどうするつもりだ?」
「わたくしたちは巻き込まれただけです。恐らく難陀 の目的はこの異界にいる人間たちでしょう」
鳳羅須 は状況を確かめるべく駆け出した。今、彼らがいるのは皇居の森の一角だ。摩瑜利 が意識を集中するために静かな場所へ行きたいと言ったので、ここへ来ていた。
疾風のごとく森を駆け抜け、囲いを超えて通りに出た。
「難陀 の狙いは人間の精気です」
瞬間移動の能力 を使ったのだろう、摩瑜利 はぶつかり合う車や倒れている人々を見つめていた。
「どれぐらいの規模でこれは起こっている?」
鳳羅須 はガードレールに激突している車を覗き込んだ。
中に居る男は口から泡を吹き、白目を剥いて痙攣している。この男だけではない、道端や建物の中で倒れている人間たちも同じだ。
「東京二十三区全体くらい……いえ、この大きな街全体に広がっています」
初めに言ったのはこの異界の用語だろう、とにかく大掛かりな事を難陀 は始めたのだ。
「難陀 の居場所はまだ判らないのか?」
「彼女は都庁と言う、この都を治める場所に居ます。姿を隠すつもりは、もう無いようです」
この派手な呪術は摩瑜利 に対抗する能力 を手に入れるための物で、難陀 はそれを達成したということか。
「難陀 の傍 にあいつは居るのか?」
あいつとは光奈のことだ、摩瑜利 にはこれで通じる。
「いいえ、難陀 は一人です。光奈は優鉢羅 とこの呪界のすぐ外にいます」
「そうか、おれをそこに飛ばせ」
「駄目ですッ、貴方はこの呪界を解いてください」
「それはお前がやれ」
摩瑜利 は顔をしかめた。
「ここまで強力になるとわたしでも……この呪界の性質さえ解れば何とかなりますが」
「ならば放っておけ」
突き放すように鳳羅須 は言った。ここは自分たちにとって異界だ、何の義務も義理ない。
己がすべきなのは、摩瑜利 を生きたまま東軍へ連れ帰ることだ。これ以上の手柄はない。今回ばかりは、鵬翼たち大鳥一族も邪魔は出来ないはずだ。だからこそ、これ以上危険を冒すべきではないのだ。
父上の無念を晴らす、それがおれに取って何より大事なはずだ……
「それは出来ません!」
摩瑜利 が大声を上げた。
「この世界はわたくしたちの争いとは無関係です。なのにこれ以上、被害を拡げることは許されません」
「誰が許さない?」
「誰が汚名を返上してくれと貴方に頼みました?」
「お前……」
殺意を込めた眼差しを摩瑜利 に向ける。
だが、彼女は毅然とそれを受け止めた。
「鳳羅須 、わたくしたちはこの世界の草木一本傷つけてはならないのです、わたくしたちは異邦人なのですから」
摩瑜利 は一瞬、何処か遠くを見るような眼をした。
「異邦人が干渉すれば時空に歪みが生じます、それがこの世界とわたくしたちの世界に良い影響を与えるとはありません。一体この事件がどんな影響を及ぼすか、わたくしにも予想がつかないのです。ですから、難陀 竜王を何としても止めなければ」
「おれには関係ない」
「いいえ、大ありです」
摩瑜利 は辛抱強く言った。
「この世界は光奈の属する世界です。そしてここは、彼女の住む国の中心地です。鳳羅須 、貴方は光奈を助けようとしましたね? 同じようにこの都を、この異界の人々を助けてください。光奈の世界を守ってください」
認めたくはないが、鳳羅須 は光奈を助けるのを当たり前のように考えていた。しかし、それはやらなくてもいい事だ。
「……お前がどうにも出来ない呪界を、どうやっておれが解く?」
頭では解っていても、口は正反対のことを言っていた。
「鳳羅須 ……。難陀 を斃してください。そうすれば、被害を食い止められるはずです」
「わかった、あいつを助けたら、すぐに難陀 を……」
「それでは遅すぎます。一刻も早く呪界を何とかしなければ、この中に居る人々はの命が危険です。光奈はわたくしに任せてください」
「戦う事が、お前に出来るのか?」
今まで鳳羅須 は、摩瑜利 から幾度も限界を超えた能力 を与えられ、窮地を救われた。しかし、一度として摩瑜利 自身の手で助けられた事は無い。
これは太元帥も同じで、彼の武勇伝を聞いたことがない。それは現在の太元帥だけではなく、過去に置いても同じだ。神は常に他者を使い奇跡を起こす。強靭な兵士を生み出し、瞬時に軍隊を移動させ、天変地異を起こし、未来を予知する。だが、自ら先陣を切って戦うことはない。
逆に、神が人により殺された史実はある。これは神自身がそれほど高い戦闘能力を持っていないことを意味するのではないか。
「それは……」
案の定、摩瑜利 の表情が曇った。
「お前が傍に居なくても、おれの能力 は変わらない。だが、お前が殺られれば、それを失う」
「優鉢羅 は片腕を失い、頼みは式神だけです。呪術で生み出されたものなら、わたくしの能力 で何とかなります。光奈を安全な場所へ移動させるだけで、無茶はしません」
摩瑜利 の言っていることがいかに危険なことか、鳳羅須 は指摘しようとしたが結局首を縦に振った。
「お願いします」
摩瑜利 が手をかざすと、鳳羅須 の視界は闇に覆われ、次の瞬間、異様な姿の建物の上に立っていた。
「推参 な」
鳳羅須 の視線は、鈍く赫い光を放つ如意宝呪を手にした難陀 竜王を捉えた。
六
摩瑜利 は異様なほど静かな神社の境内へ足を踏み入れた。
呪界のすぐ外側に位置することから考えて、ここは二十三区から少し離れた住宅地のようだ。周りにはアパートやマンションよりも一軒家が多く、それも割と古い。
実際に彼女が居るのは、板橋区に隣接する埼玉県和光市なのだが、首都圏の地理について、彩香は決して詳しいとは言いえない。女神の能力 が覚醒したからといって、あらゆる知識が身に付くわけではないのだ。
あくまで摩瑜利 にあるのは、過去の摩瑜利 だった者たちと、自分自身の記憶と知識だけだ。つまり、この異界について摩瑜利 は彩香以上の事は知らない。
鳳羅須 を難陀 の処へ送ってすぐ、光奈の居場所を摩瑜利 は突き止めることが出来た。次の瞬間、彼女はその付近に移動していた。
光奈を瞬間移動させ、優鉢羅 の手の届かないところへ逃がすというのが、摩瑜利 の立てた作戦だ。光奈の安全を最優先させるなら、なるべく彼女に近づいて能力 を使った方がいい。そのために、摩瑜利 は武蔵野神社のそばへ移動した。
ところが、状況は摩瑜利 が考えていたほど甘くはなかった。彼女の能力 が通じなかったのだ。
光奈は結界の中に居た、それだけなら摩瑜利 も予想していた。だからこそ、手間を取り、光奈に近づいて能力 を行使したのだ。彼女の見込み違いだったのは、この至近距離でも結界に女神の能力 が妨げられた事だ。
優鉢羅 、いや、難陀 は過去の摩瑜利 が遭遇したどの鬼霊より、対神術に精通している。
さすが西軍で、最高の権力を手にしているだけはありますね。
摩瑜利 には十年前の難陀 の情報しかない。その時すでに難陀 は、相次いで両親を亡くした太元帥の後見人となり、政敵を見事に排除していた。
恐らく彼女は太元帥を研究し、その能力 に対抗する手段を身に付けているのだ。太元帥と摩瑜利 の能力に大きな違いはない。太元帥に対抗できるなら、摩瑜利 に対しても当然出来る。
摩瑜利 は優鉢羅 と直接対峙する覚悟を決め、武蔵野神社へと足を踏み入れた。
想像通り、呪符で人払いの結界が張ってあったが、摩瑜利 にとってもそれは都合がいい。結界はそのままにして、摩瑜利 は本殿へ近づいて行った。
途中に干からびた人の亡骸が数体あった。難陀 たちが精気を吸い取ったのだろう。これが呪界の中に居る人々の最終的な姿だ。
摩瑜利 は賽銭箱の置いてある本殿のすぐ前に立った。
武蔵野神社は社務所もある大きな神社だ。正月になれば、付近の住人が初詣に訪れ賑わうのだろう。
しかし、今、本殿の扉は固く閉じられ、中の様子は窺うことは出来ない。
光奈の移転に失敗した時点で、優鉢羅 は近くに摩瑜利 が居るのを知っているはずだ。次に取る行動は判りきっているので、当然それなりの準備をしているだろう。
にも関わらず、この神社は静か過ぎる。もちろん、誰も居ないなどという事はあり得ない。本殿の中に光奈の気配と他の者たちの存在を感じる。
しかし、他の者たちは優鉢羅 ではない、恐らく彼の式神だ。上手く気配をぼやかしているが、人や鬼霊と違うのは間違いない。
では、優鉢羅 はどこに居るのか? 摩瑜利 は意識を研ぎ澄まし、気配を探ったが、どうしても見つけられない。
これだけ近くに居るのに、感じられないとは……
光奈を一人残し優鉢羅 がどこかへ行くはずはない。あるとすれば、鳳羅須 にやられた傷が原因で命を落とした可能性だ。
確かに、死んでしまえば気配は消えるけど……
術者の優鉢羅 が死んでなお、彼の作った式神は存在し続けるのか。それより、光奈はなぜ逃げ出さないのか。
別に、おかしくはない……
術者が亡くなっても、効果を持続させる呪術はある。それに、式神に見張られていれば光奈は逃げる事は出来ない。
でも……
やはり優鉢羅 が死んだとは思えない、これは摩瑜利 を油断させるための罠だ。
ならば彼はどこだ。摩瑜利 はある事に思い当たった。
これだけ近づけば、呪術で消そうとしてもわたくしに気配を悟られる。でも、存在自体を一時的に無くす事が出来れば……
摩瑜利 は閉ざされた扉の向うに優鉢羅 が居ることを確信した。
鳳羅須 に指摘された通り、摩瑜利 には直接戦う術は無い。相手は片腕と言えど八大竜王の一人、直接戦えばやはり自分が不利だ。こちらは弟の考え通りには行かないだろう。
それでも、光奈を救うためにやらなければならないのだ。
摩瑜利 は覚悟を決めた。
七
鳳羅須 は聖鳳を抜刀した。
「愚かなり、真明。この私 をそんななまくらで斬れると思うてか」
難陀 の口元に嘲りの笑みが浮かぶ。
無言のまま聖鳳を振りかざし、鳳羅須 は踏み込んだ。
が、次の瞬間、眼に見えない壁のような物にぶち当たり、身体が吹き飛び、危うく都庁から落ちそうになった。
やはり、な……
どうやら呪界は既に難陀 に新たな力を与えたようだ。摩瑜利 が覚醒した事で、鬼霊の能力 が飛躍的に増している鳳羅須 を前に、これほど余裕だったのはそのためだ。
「フフフ……この力、この圧倒的な力こそ、まさに神の力じゃ。そうは思わぬか、真明?」
難陀 はうっとりと赫く光を放つ霊玉を眺めた。
「太元帥の小童子や摩瑜利 の子娘に神が務まる訳がない。この難陀 こそ、神に相応しい。いや、私 こそ真の神、龍神なのじゃッ」
難陀 の瞳が狂気の色に染まった。
前にも同じ眼を見た事がある。大鳥一族の鵬翼が、そして鳳羅須 がこの異界に来る前に会った東軍の人間たちが同じ眼をしていた。
難陀 もあいつらと同じ、権力の亡者だ。
鳳羅須 にとって西軍の御家事情など知った事ではない、東軍の命運すらどうでもいいのだ。難陀 が太元帥と権力争いをしたいなら好きなだけやればいい。
では何のために、おれは戦う……
父の汚名を晴らすため。
いや、違う。それならば、摩瑜利 が何を言おうが異界の事など放って置いて、力尽くでも自分たちの世界に連れ帰るべきだ。今、鳳羅須 がやっていることは、本来の目的を阻害することだ。
おれは何のために……
摩瑜利 の言葉が頭を過ぎる。
光奈の世界を守ってください。
そうだ、鳳羅須 が今戦うのは誰でもない、光奈のためだ。
光奈は凍てついた鳳羅須 の心に、温もりを与えてくれた。それは無意識の内に何よりも求めていた物だった。
そしてこの時、己が光奈に抱いている感情を、鳳羅須 ははっきりと自覚した。
この想いを光奈に伝えることは永遠にない。だが、彼女のために戦うことは出来る。
父上、おれはどうしようもない愚か者で親不孝者です。
鳳羅須 は立ち上がると、聖鳳刀を構えた。
八
「光奈!」
突然名前を呼ばれ、望月光奈は口から心臓が飛び出しそうになった。
彼女が振り向くより速く、二体の式神が声の主に襲いかかる。
が、どちらの式神も相手に触れる前に元の呪符に戻った。
なぜそこに神鳥彩香が居るのか、考えるより前に彩香の左肩に短刀が突き刺さった。
「うッ」
制服に血がにじんでいく。
「彩香ッ!」
「フフフフ……案の定、仮死状態では気配を感知出来なかったようですね」
先ほどまで、死んだように動かなかった優鉢羅 が立ち上がっていた。片方しかない手にはもう一本の短刀が握られている。
「まさか、貴女が独りで来るとは思いませんでしたよ。真明は、神が自ら戦う能力 が無いことを知らぬのか……それにしても、利き腕ではないとは言え、一撃で仕留められないとは私の腕も落ちたものです」
優鉢羅 がゆらりゆらりと近づいてくる。
「まあ、いいでしょう。次で確実に貴女を亡き者にしますから」
光奈は彩香に覆い被さった。
「どいて、光奈!」
「いやッ、これ以上、あたしのせいで誰かを死なせなたりしない!」
優鉢羅 の口から嘲笑が漏れた。
「丁度良い、偽物が貴女の目覚めた能力 でどれだけ使えるか、試してみなさい」
次の瞬間、何が起こったのか光奈には理解できなかった。
彩香を抱きかかえるようにして、本殿の片隅に跳んだのだ。
それは光奈自身の意思でした事ではなく、誰かが光奈の身体を勝手に使って行ったように感じられた。
「ほう、思ったより役に立ちましたね」
優鉢羅 の手に握られた短刀は、さっきまで光奈が居た場所を突き刺していた。
「そんな……」
彩香の口から戸惑いの声が漏れた。
「どうしました、ひょっとして瞬間移動に失敗しましたか?」
「一体何を……」
ここで光奈は、ようやく彩香の様子がおかしい事に気付いた。原因は怪我ではないようだ。
「神の能力 を完全に封じるのは至難の技ですが、一部だけなら鬼霊にも可能なのですよ。それを応用すれば、鼠取りのような罠を張ることも出来るのです」
神の能力 ……?
ってことは、彩香は記憶を取り戻したんだ!
しかし、喜んではいられない。今の状況はかなりのピンチだ。
「わたくしは罠にかかった鼠というわけですか」
傷が痛むのだろう、彩香の声が震えている。血もさっきよりにじんでいる。早く手当をしなければ大変なことになる。
「そのようですね、素直に観念なさい。それとも偽物を使いまだ抵抗しますか? ああ、それから、お気付きだと思いますが、私を操ろうとしても無駄ですよ。片腕になろうとも、己の呪術に関する防備は弱まっていません」
どうすればいい?
気持ちは焦るが何も思い浮かばない。彩香は苦痛に顔を歪ませながら、優鉢羅 を見据えている。
「光奈さえ無事解放してくれれば、わたくしはどうなっても構いません」
「ダメだよ彩香!」
思わず大きな声が出た。
彩香は血の気の失せた顔でニッコリ微笑んだ。
「立場が逆なら、光奈だって同じ事を言うでしょ?」
口調がいつもの彩香に戻った。
「でも……」
「お願いします、光奈を助けてください」
彩香の視線は光奈を通り越し、優鉢羅 に向けられた。
「お断りします」
彩香の顔に失望がよぎる。
優鉢羅 の瞳に強い殺意が宿った。
「さぁ偽物と共にこの世から消えてしまいなさい、難陀 様の為に!」
九
聖鳳の刃が赫い光に阻まれ、斬りかかった何倍もの力で跳ね返され、鳳羅須 は体勢を崩し都庁から転がり落ちた。
眼下には人の動きが途絶えた死の街が広がっている。
何とか空歩術を使い、地面に激突するのは避けられた。が、背中に違和感がある。思わず視線を走らせると、左右から光の翼が伸びている。これも摩瑜利 の影響か。
光の翼を羽ばたかせ、鳳羅須 は難陀 の居る場所へ舞い上がった。
「フフフフ……流石にここから落ちた程度では終わらぬか」
「貴様を斃すまではな」
「世迷い言を。まぁ、それぐらい威勢がいい方が、我が能力 の試しがいがある」
如意宝珠 から赫い光が放たれる。
鳳羅須 は素早くかわすと、聖鳳の力を引き出し斬りつけた。
難陀 は放たれた光刃を避けようとすらしなかった。身体が縦にまっぷたつに斬れた。
「フフフ……」
脳天から顎にかけ、一直線に傷が走った顔で、難陀 は不気味に微笑んだ。
傷口から白い血肉が覗いている。いや、皮膚の下にあるのは肉ではない、鱗だ。
難陀 は光刃で斬られ、はだけている巫女装束を脱ぎ捨てた。
闇の中に妖艶な裸体が露わになる。
傷は顔だけではなく、見事に胸の双丘の谷間を走り、下腹部の繁みへと続いていた。
「冥土の土産に龍神の姿、たっぷりと拝むがいい!」
難陀 の傷口が広がった。いや、難陀 の身体が膨張し、表面を覆う皮膚が引っ張られているのだ。
間もなく蛇の脱皮のように皮膚が剥がれ落ちた。傷口だけではなく、全身が鱗で覆われている。その姿は次第に竜のそれへと変貌していった。
鳳羅須 は難陀 の力が無尽蔵に高まっているのを感じた。難陀 を中心に周りから力が流れ込んでいる、この街に数十万居る人間たちの生命力だ。
既に手に余る状況なのに、これ以上強力になられては適わない。難陀 を斃せる可能性がまだあるとすれば、変態の途中の今だけだ。
再び聖鳳に意識を集中しようとしたその時、激しい痛みが肩を貫いた。
「うッ」
摩瑜利 ……!
この痛みが己の物でない事はすぐに判った、姉が傷付けられたのだ。
致命傷ではないが、かなりの深手だ。その証拠に背中にある光の翼が消滅した。
やはり、おれの見込みは甘かったか……
片腕になったとはいえ優鉢羅 は八大竜王だ、直接戦う術や身を護る術を持たない摩瑜利 を独りで行かせたのは無謀すぎた。
今さら後悔しても遅い!
摩瑜利 はまだ殺られてはいない、多分、光奈も無事なはずだ。鳳羅須 は己にそう言い聞かせ、心を鎮めようとした。
今やらなければならないのは、目の前に居る敵を斃 す事だ。
早く仕留めればその分だけ、すぐに助けに行ける。摩瑜利 との間にある距離は敢えて考えない。
意識を何とか聖鳳刀に集中させ、光の刃を再び難陀 に放った。ところが、無防備な状態にもかかわらず、難陀 の身体にはかすり傷一つ付かない。
「くそッ」
立て続けに光刃を放つが、結果は同じだ。
もたもたしている間に、難陀 は変態を終えようとしている。
その姿は最早人でははなく、完全のそれ竜だ。跋難陀 や和修吉 を凌ぐ、巨大な白竜に難陀 は変貌を遂げていた。
こんな状況でなければ、鳳羅須 は美しいと感嘆しただろう。全身を覆う鱗は白金の如く輝き、紅玉の眼には縦長に金の瞳が輝いている。頭からは二本の乳白色の角が突き出し、同じ色の牙が耳元まで裂けた口からはみ出している。
以前の名残は、右手──右前足──に握られた如意宝珠だけだ。
〈フフ……感じるか、この強大な力をッ。太元帥や摩瑜利 などに決して劣りはせぬ。いや、奴らを遥かに上回っている!〉
口から出た言葉ではない、鳳羅須 の頭に直接話しかけているのだ。単に肉体が強化されただけではなく、能力 も拡張されている。
確かに摩瑜利 と違い、簡単に傷つける事は……殺す事は出来ぬか。
それだけでも充分に厄介だ。
難陀 には未だに力が流れ込み続けている。彼女はこうしている間にも、更に強くなり続けているのだ。
違う……強くなってはいるが、力が流れ込んでいるのは、あの珠だ。
鳳羅須 は聖鳳を構えた。機会は恐らく一度きりだ。
摩瑜利 が覚醒した時の記憶が脳裏をよぎる。難陀 は回復した鳳羅須 の一撃を宝珠で受けた。つまり、あの珠にはそれだけの耐性があるのだ。
やるしかない……
空歩術を使い白竜の顔めがけて駆け上がる。
その巨体からは信じられない速さで竜の尾が行く手を阻む。
鳳羅須 は間一髪その攻撃をかわし、更に顔に近づく。
今だ!
顔を攻撃されると思っている難陀 は、如意宝珠を持った手をがら空きにしている。
鳳羅須 は身体をひねり、攻撃の矛先を宝珠に変えた。
光刃を至近距離から放つ
が、突然背中に激しい衝撃を受け、そのまま地面に急降下した。
空歩術を使おうとしたが上手く行かず、不様に第一本庁舎と都議会議事堂の間を走る道路に激突した。
「ぐ……ぁ……」
呻き声が口から漏れた。
全身に激痛が走り、身体がバラバラになったかのようだ。
いや、事実バラバラだ。左腕はあらぬ方にねじれ、左脚も膝が逆に曲がっている。肋骨も確実に何本か折れており、口の中に血が溢れてくる。
そして背中からは肉の焦げる臭いがする。白竜は雷を放ったのだ。
難陀 は鳳羅須 の考えを見通し、罠にかけたのだ。
〈クックックッ……浅はかよのう真明。私 が貴様ごときの考えに、気付かぬと思うか?〉
白竜が優雅に都庁の上から降りてきた。
おのれ!
全身を駆けめぐる痛を、悔しさが凌駕した。しかし、鳳羅須 はまともに動くことすら出来ない、生きて意識を保っているだけでも奇跡なのだ。
〈案ぜずともよい、姉弟仲良く地獄に送ってやる。私 が龍神となった今、摩瑜利 を連れ帰っても意味が無い。あの小娘が居らずとも、この能力 で東軍を惨敗させ、全てを掌握してやるわ〉
ここまで摩瑜利 の影響が弱まっていては、短時間での回復は望めない。
唯一の救いは、難陀 が姉を殺すつもりでいる事だ。これで本来の目的であった摩瑜利 抹殺は果たされる。東軍の望みは叶えられる。
東軍と鵬翼に没収された鳳炎の財産は嫡男である鳳羅須 の物とし、何処に打ち捨てられたか判らぬ亡骸を大鳥の庄に長として埋葬し直される。これで父の名誉は取り戻されるのだ。
昨日までの鳳羅須 なら、それで満足していただろう。
だが今は違う、鳳羅須 の望みは摩瑜利 を、そして望月光奈を救う事だ。
もっとも、こんな化け物を見逃せば、父上の名誉回復もなしか……
鳳羅須 は自分の右手に聖鳳が無い事に気付き、周囲に視線を走らせた。
幸いすぐそばにそれは転がっていた。
聖鳳を再び手にするために右腕を伸ばしたが、目と鼻の先にあるにもかかわらず、今の鳳羅須 には果てしなく遠い場所になっていた。
〈何をしておる、そんな身体でまだ私 と戦うつもりか?〉
だまれッ。
そう言おうとしたが、口から出たのは情け無い呻き声と口の中に溜まっていた血だけだ。
何時でもとどめを刺せるはずなのに、難陀 は何もしてこない。あがく鳳羅須 を嘲笑し、見下ろしているのだ。
「くッ……グッ……うゥ……」
聖鳳に指が掛かった。
必至の思いで手繰り寄せる。
再び聖鳳刀の柄の感触が右手に甦る。
鳳羅須 は力を振り絞り、顔を上げた。
しかし、それまでだった。
鳳羅須 は再び地に伏した。
眼が霞み、意識が朦朧としている。立ち上がろうとするが、まったく力が入らない。気付けば痛みも感じなくなっている。
〈どうした、もう終わりか。修羅の真明もこれまでか〉
霞む意識の中でも、難陀 の声はしっかりと頭に響く。
何とか一矢報いたいが、指一本動かすことが出来ない。
摩瑜利 ……光奈……
〈これで終わりじゃ、真明〉
一〇
難陀 は口から赫い稲妻を吐き出した。
雷鳴が轟き、激しい光の中に横たわる真明の姿は消えた。そこに残ったのは、えぐれた地面だけだ。
白龍はそれだけでは飽きたらず、今度は全身から雷を四方八方に放つ。
都庁に隣接している、新宿NSビル、京王プラザホテル、住友ビルなどはもちろん、東は新宿伊勢丹、西はオペラシティタワーまでもが瞬く間に瓦礫と化した。
建物という建物が破壊され、呪界により精気を奪われた人々は雷撃で、または瓦礫の下敷きになり命を完全に奪われていく。彼らは逃げることが出来ない、真明と同じく動けないからだ。
炎が吹き出し、煙と埃が激しく舞い上がる。何万人もの命が一瞬にして奪われた。
〈クックックッ……これこそが真の『力』よ。いかに器用に働こうが、人心を操れようが、破壊と創造を直接出来ぬ物など神の力とは言えぬッ。わが能力 こそ、いかなる物をも破壊し屈服させるこの能力 こそ神の力、私 は龍神に生まれ変わったのじゃ! フ、フハハハ……アーッハッハッハッ!〉
難陀 は遂に大願成就を果たした、永きに渡り待ち望んだ瞬間が訪れたのだ。
それは彼女の様相を遙かに上回る破壊力をもたらした。
弟や優秀な部下と引き替えにしてたが、それ以上の価値はあった。
龍神となった今は、太元帥に何ら引けを取らない。奴の能力 に頼らずとも、五〇〇年に及ぶ東軍との戦いを、己の能力 で勝利に導き、自らが唯一絶対の支配者となる。
〈太元帥はもう用済みよ、新しい歴史がまさにこの瞬間に始まったのじゃ。我こそが、世を統べる運命に……〉
難陀 は違和感を覚えた。
〈ん……〉
今まで無限に流れ込むかに思えた人間の精気が、途絶えている。
〈そんな莫迦なッ〉
呪界が消滅していた。
〈あり得ぬ、術は完璧だった、途中で消えるなど……〉
永きに渡り心血を注いで完成させた術が自然消滅するはずがない。何者かが手を下したのだ。
〈しかし、誰が?〉
一番可能性が高いのは摩瑜利 だ。しかし、女神と言えどそう簡単に呪界を破れるはずはない。
呪界を消すには使われた鬼霊のを見つけ出し、そこに宿る能力 を消滅させなければならないのだ。無論、神の能力 を持つ者にも感知されぬよう対策をしてある。
〈まさか優鉢羅 が……〉
冷たくあしらわれた腹いせに、このような大それた真似をしたのか。
難陀 は意識を拡げ、優鉢羅 の気配を探った。
本来居るはずの武蔵野神社に彼の気配はなく、また呪界の要となる十カ所にもその気配は無かった。
気配が無いということは、死んだか仮死状態にあるということだ。優鉢羅 は仮死状態になり、気配を消す術を体得している。
〈違う〉
難陀 を欺くため優鉢羅 が死を装っていることはあり得ない。何故なら、摩瑜利 の気配も消えているからだ。
〈よもや、摩瑜利 に殺されたのか?〉
片腕になってしまっても、優鉢羅 は八代竜王だ。それに相応しい能力 が無くなったとはいえ、戦闘能力を持たぬ摩瑜利 に殺られるはずがない。
〈真明以外に、東軍の刺客が現れたのか?〉
その可能性も充分ある。東軍の鬼霊には、時空移動の能力を持つ者は多くはない。その証拠に、真明ただ一人をこの異界に送り込んできた。が、それから一週間以上の時間が経っている。術を使った鬼霊立ちが回復し、第二の刺客を送ってきたとしても不思議ではない。
〈じゃが、その気配は無かった〉
難陀 は真明と摩瑜利 、そして娑羯羅以外にも、己の邪魔をしそうな者を警戒していたが、ついぞそのような輩 は感知出来なかった。
〈では、一体誰が?〉
「わたくし以外に考えられますか」
凛とした声が響き、龍神はその方へ長い首を巡らせた。
瓦礫の山の上に、一人の少女が立っている。
〈摩瑜利 !〉
「難陀 竜王、あなたの味方はもう居ません」
〈貴様……優鉢羅 を殺したのか。あり得ぬ、神に戦う能力 は無いはず〉
「では、あの鬼霊は何処にいます? 今のあなたには感じ取れるのでしょう」
答えはすでに出ている、優鉢羅 は存在しない。
〈……ほぅ、私 は御前を見くびっていたようじゃ。しかし、何故ここへ来た? 東軍へ戻れば良いものを〉
「知れたこと、難陀 竜王、あなたを斃 すためです」
〈戯言 を。なるほど、私 にはもう手駒は無い。だが、それは御前とて同じ。如何にしてこの龍神と戦う、如何にして殺すのじゃ?〉
難陀 は嘲笑を押さえることが出来なかった。
どうやったか知らぬが、摩瑜利 が優鉢羅 を始末したのは事実だろう。だが、隻腕 となり、鬼霊としての能力 を著しく失った優鉢羅 と、膨大な人間の精気を吸収し、神を凌駕する能力 を得た自分を一緒にするとは何と愚かな。
摩瑜利 がどうあがこうが、万に一つの勝ち目もない。
〈己の身の程を知るがよい!〉
難陀 は赫い稲妻を口から吐き出した、真明と同じ最期を迎えさせてやろうというのだ。
摩瑜利 が立っていた瓦礫の山が跡形もなく消え去り、えぐれた地面だけが残った。
〈姉弟仲良く地獄で暮らすせ〉
難陀 の心に満足感が溢れた。真明を消し去ったり、異界の街を破壊し、何万もの人間を殺したのとは訳が違う。
自分は女神となり、今、もう一人の女神を斃 したのだ。
女神は……いや、神は一人で充分よ。
「身の程をわきまえるのはあなたです」
〈何ッ?〉
難陀 は長い首を上に向けた。
己の上空に摩瑜利 が立っている。
「神に呪力が効かない事を忘れましたか?」
〈莫迦 なッ、これだけ強力なら、いくら神でも……〉
「当たらなければ意味がありません」
摩瑜利 は瞬間移動を使い、雷を避けたのだ。
〈おのれッ〉
難陀 は飛翔した。
耳元まで裂けた口を大きく開け、摩瑜利 を己の牙で噛み殺そうとした。
しかし、閉じた顎に摩瑜利 は居なかった。
また瞬間移動を使ったのだ。
〈何処に行きおったッ?〉
「ここに居ますよ」
今度は下から摩瑜利 の声がする。
視線を走らせると、涼しげな顔をした摩瑜利 が瓦礫の中に立っている。
〈小娘ッ〉
怒りにまかせて雷撃を放つが、結果は最初と同じだ。
龍神には、瞬間移動の移動先や、他の神の考えを読む能力はないようだ。
幾度も攻撃を繰り返すが、摩瑜利 は存外素早く、難陀 の攻撃が当たる前に瞬間移動で逃げてしまう。
瞬間移動程度の能力 なら封じるのは容易 い。とはいえ、何の準備もなく出来るものでもない。難陀 の苛立ちは募っていった。
摩瑜利 は鬼ごっこをする子供の如く逃げ回る、難陀 はそれをムキになって追いかける。
どれぐらい、この遊技が続いたろう。頭に血が上った難陀 には何時間にも感じられたが、実際には四半刻も経ってはいなかった。
〈何故、摩瑜利 は攻撃して来ぬ?〉
鬼ごっこをしている間に、難陀 の頭も大分冷えてきた。
〈判りきっておる、彼奴 は攻撃をする手段を持たぬからじゃ。では、何故このような無意味な、時間稼ぎにしかならぬ事を……〉
幾ら刻が過ぎようが関係ない。呪界が消えたとしても、如意宝珠には何万人もの精気が集められている。どれだけ摩瑜利 が逃げ回っても、それが尽きることはない。
白龍の尾が今まで摩瑜利 の立っていた地面を叩く。
「どうしました、もう息切れが切れましたか?」
今度は上から摩瑜利 の声がした。
この繰り返しだ、摩瑜利 は一度難陀 の攻撃から逃れると、必ずある程度離れたところに姿を現し挑発する。しかし、どこかへ誘導しているわけではない。むしろ、行ったり来たりを続け、難陀 をこの場所に釘付けにしているように思える。
〈何を待っている?〉
「え?」
〈御前を助けに来る者など居らぬはず、なのに何故時間稼ぎをするッ〉
難陀 を見下ろすように空中に立つ摩瑜利 の顔に、動揺が浮かんだ。しかし、それは瞬く間に消えた。
「何も待ってはいません」
〈嘘を吐くなッ〉
「本当です、何故なら……もう、目的は達成しましたから」
摩瑜利 の姿が突然消えた。
難陀 は胸の近くで凄まじい殺気を感じた。
視線を落とすと、そこに聖鳳刀振りかざした真明の姿があった。
真明が狙っているのは、難陀 が右手に持つ如意宝珠だ。
難陀 はとっさに宝珠に集まった精気を表面に集中させ、聖鳳を防ぐたのめ壁にした。
「たぁッ!」
真明が裂帛の気合いを入れ、宝珠を斬りつけた。
赫い光が火花のように飛び散り、金属がぶつかり合うような音を立てたが、精気の壁に強化された如意宝珠はこの一撃を防いだ。
〈たわけッ、幾らやっても同じじゃ、そんななまくらの攻撃なんぞ……〉
次の瞬間、宝珠に一筋の罅 が入った。
〈なにッ?〉
それは今の一撃だけで入ったのではない。
摩瑜利 が覚醒した時、真明が斬りつけて作った見えないほど微かな傷と、宝珠の表面に集められた弾けんばかりの精気の圧力により出来たのだ。
〈しまった……〉
そう思った時はすでに遅かった。罅 は一瞬にして如意宝珠の全体に拡がり、激しい爆発が起った。
一一
聞いたこともないような轟音が響き、南の空に赫い一筋の光の柱が立った。
「なにが起っているの……」
望月光奈は武蔵野神社の本殿から飛び出し、この異様な光景を目撃した。
彩香と鳳羅須 は心配いらないと言い残し、文字通り姿を消した。でも、この状況でどう考えたってそれはムリだ。
二人とも無事でいて……
ここは何処だ……
視界が暗いのは夜のせいばかりではない。
鳳羅須 はわずかに首をずらし、周囲の状況を確認しようとした。
薙ぎ倒された多くの木々に混ざり、瓦礫や人の亡骸が散乱している。
おれも、もう直ぐああなるのか……
ここは代々木公園があった場所だ。如意宝珠の爆発により、鳳羅須 はここまで吹き飛ばされていた。
難陀 の雷撃に止めを刺されそうになった瞬間、摩瑜利 の能力 で瞬間移動をさせられた。移動先はどこかの神社で、そこには姉と光奈が居り、優鉢羅 の死骸もあった。
摩瑜利 はとにかく鳳羅須 に休むように命じ、自ら瞬間移動をした。彼女がどこへ行き、何をするつもりかは予想がついた。そのため敢えて光奈に何も訊かず、身体を横たえて休んだ。
摩瑜利 の能力 は確実に蘇っており、鳳羅須 の驚異の治癒力も戻っていた。
彼女の左肩には血が滲んでいたが、出血は止まり痛みも無いようだった。どうやって治したのか判らないが、そんな事はどうでもいい。
覚醒した摩瑜利 の影響は大きく、四半刻もかからずにほぼ傷は癒えた。そして鳳羅須 は再び摩瑜利 に呼び出された。
いきなり眼の前に白龍の姿が飛び込んできたが、その時は身体が勝手に動き聖鳳を抜刀していた。
摩瑜利 のお膳立ては完璧だった、眼と鼻の先に如意宝珠が在った。
鳳羅須 は輝きを増す刃で斬りつけた。
その後、どうなったか思い出すことは出来ない。気がついたらここに仰向けに倒れていた。
身体に力が入らない、また全身に激しい痛みを感じる。いや、正確に言えば、痛みは厚い膜の向こうにあるようだ。どうやら感覚が麻痺しているらしい。
何とか首を起こして己の身体を見た。腹が裂け、千切れた臓物がはみ出している。さすがにもう助からないだろう。
やっと終わるのか……
夜空を見上げると満天の星空が見えた。
白龍の雷撃と如意宝珠の破裂によりライフラインが破壊され、東京は闇に包まれていた。そのため普段は見られなくなった星々が、一際美しく瞬いている。
鳳羅須 の心は今、安らぎに満たされていた。
摩瑜利 の存在を感じる、姉は無事だ。これで目的以上の働きをしたことになる。それに摩瑜利 が居れば、東軍の狒々爺 どもや鵬翼 ら大鳥一族も約束を簡単に反故 にはすまい。
ただ一つ、心残りな事があった。
あいつに、別れを言いたかった……
だが、そんな事をしてもどうにもなるまい。これでいいのだ、自分は堂々と父に顔向け出来る。
星が見えない、雲が立ちこめたのか。いや、眼が霞んでいるのだ。
静かに最期の時を迎えようとしたその時、凄まじい殺気を鳳羅須 は感じた。
「ぉおぉ……おぉぉ……おおぉおおぉぉ……おぉ……」
気味の悪い呻き声を上げながら、それはゆっくりと鳳羅須 に近づいて来た。
「おおぉおぉ……おおぉ……ぉぉおおぉ……おおお……」
こいつも、まだ生きていたのか……
鳳羅須 の霞む眼では確認出来できないが、それはもはや龍の姿はしておらず、人のそれに近い。とはいえ、爬虫類の縦長な瞳で、頭からは角が生えている。着物は一切身に着けておらず、身体の半分は剥がれかけた鱗に覆われ、尻尾もある。右腕は跡形もなく、右胸から右脚にかけ肉がえぐれており、骨や臓物が露わになってる。
生きていることだけでも奇跡だと言えるのに、それはよろめきながらも二本の脚で立ち、歩いている。
彼女を動かしているのは、野望を止められた激しい怒りと憎しみなのだ。
「ぉおおぉ……ぉおおぉぉ!」
左腕を伸ばし鳳羅須 の首にかける。
お互い放って置いてもそう長くは無いのに、どうしてもその手で宿敵の命を奪いたいのだ。
難陀 ……
「おおおぉ……!」
鳳羅須 は抵抗しようとはしなかった。もともと出来ないが、するつもりもない。
勝ったのは自分だ。難陀 がどうあがこうが、もうそれは変えられない。
鳳羅須 は勝利を、難陀 は敗北をそれぞれ手にして地獄に落ちる。
「がっ……ががが……」
鳳羅須 の命の灯火が消える寸前で、突然難陀 に変化が起こった。
彼女の身体が砂のように崩れ始めたのだ。
それは瞬く間に全身に拡がり、難陀 は一握りの砂と化した。
「確 りしろ、真明。お前に死なれては困る」
誰だ、女のようだが摩瑜利 ではない。
次第に意識がはっきりし、それと共に感覚も戻り、全身を激痛が駆け巡りだした。
「っく!」
「我慢しろ、すぐに痛みも治まる」
鳳羅須 は傍 らに立つ人物が、手首からあふれ出る血を自分に浴びせている事に気付いた。
その血にはどういった能力 があるのか、はみ出した臓物が本来あるべき場所に戻っていき、剥がれた肉や折れた骨も修復されていく。
「馬鹿な、お前は死んだはず……」
その少女は笑みを浮かべた。
「それを言うなら、お前は何度死んだ?」
「おれはお前の首を刎ねたッ。それなのに何故生きている、娑羯羅 ッ?」
鳳羅須 に血を浴びせ、回復させているのは娑羯羅 竜王だ。
「あの程度ではあたくしは死なない、それはお前も同じだろう」
「そんな事が……」
「無いというのか? 確かに首を斬り落とされたままなら命はないが、少しの間なら生きていられる。その間に首と胴をつなげれば、元通りになる。それが我らの生命力、神と血を分けた者の能力 だ」
まさにこうして話しをしている間にも、鳳羅須 の傷はみるみる回復し、娑羯羅 の言葉通り痛みも消えていく。
「無論、そのための代価を払わされたが」
娑羯羅 は血の出ている己の手首を押さえた。すると、すぐに血は止まり、傷口も塞がった。
「代価?」
鳳羅須 が問うと、娑羯羅 は帯をほどいて緋袴を降ろし、着物の前をはだけた。
「お前は……」
思わず絶句した、娑羯羅 の身体は鳳羅須 と正反対だった。
娑羯羅 の胸には女性の膨らみがあるが、股には男性自身が付いている。彼女は半陰陽
両性具有 なのだ。
「そんなに驚くな、真明。お前は男でも女でもなく、あたくしは女であり男なのだ。これもまた我らの宿命よ」
自嘲めいて言いながら、娑羯羅 は着物を手早く元に戻した。
「この身体のお陰で、跋難陀 には良い玩具にされた」
その言葉が何を意味するか、鳳羅須 にはすぐに解った。
娑羯羅 も鳳羅須 同様、茨の道を歩んで来たのだ。
「何故、おれを助ける?」
「質問が好きだな、お前はもっと無口な奴かと思っていた」
鳳羅須 は立ち上がった。身体中に生気が満ちあふれ、何事も無かったかのようだ。瀕死の状態からこの短時間でよく回復したものだ。摩瑜利 の影響で生命力が非常識に強くなっているが、娑羯羅 の血はそれを何十倍、いや何百倍も強力にした。
「時と場合による。娑羯羅 竜王、お前は何の理由も利益も無く、おれを助けはすまい」
この異界の人間ならともかく、娑羯羅 は鳳羅須 と同じ世界の鬼霊だ。困っている者を放っておけないから助けた、などということは決してない。
「難陀 竜王を殺してまで、おれを生かす目的とは何だ?」
「逆だ、あいつを屠 ることこそ、あたくしがこの異界に来た最大の目的」
「八大竜王の長を殺す事が?」
「修羅の真明ともあろう者が、『仲間なのにどうして』などと、青臭い事を抜かすつもりではあるまいな」
さすがにそこまで光奈に毒されてはいない。
「難陀 はどちらにしろ死んでいた、おれを助ける必要はない」
「この戦を終わらせるために、お前が必要なのだ」
娑羯羅 が言っているのは、己の世界の五百年以上に及ぶ東西両軍の戦だ。
「戯言を、そう言う事は東軍のお偉方とでも話せ」
「だからそうしている、真明」
「おれは一介の雑兵だ」
「今まではな」
鳳羅須 はこの時初めて気づいた。自分は死ねなかった、それは摩瑜利 を生きたまま連れ帰れるという事でもある。
そうなれば、女神の弟である自分は嫌でも権力に近づくことになる。
もっとも、娑羯羅 が何を企んでいるか判った物ではない。命拾いしたのかまだ確定したわけではない。
「命の恩人をそのような眼で見るな。殺すつもりなら、助けたりはせぬ」
確かに一理あるが、これから娑羯羅 が出す条件次第では、結局殺される可能性も充分考えられる。
「まぁいい、すぐに信じろと言っても無理だろう」
口元に皮肉な笑みが浮かべた娑羯羅 だが、すぐに真顔に戻った。
「摩瑜利 を守れるのはお前だけだ。同じように太元帥を守れるのはあたくしだけ。それが我らが創られた理由だ」
鳳羅須 はわずかに眉を寄せた。娑羯羅 の言葉の真意を計りかねたのだ
「お前は、偶然二人の神が双子で生まれてきたと思っているのか?」
その事を不自然に思ったことはあった。しかし、鳳羅須 の人生はそんな事よりさし迫った問題がいつもあり、さほど気にしたことはない。
「我らは彼らによって創られたのだ」
「摩瑜利 と太元帥が? そんな事がどうやって……」
鳳羅須 は娑羯羅 の背後に不可思議な力を感じた。摩瑜利 から感じる力に似ているがどこか違う。それは瞬く間に人の姿になった。
「前世によりそれはなされた」
娑羯羅 の背後の人物が前に出てきた。鳳羅須 は初めて会うが、それが誰かは一目瞭然だ。
「太元帥……」
娑羯羅 と瓜二つの顔をし、そして摩瑜利 と似た気配を持つ。そんな奴は一人しか居ない。
鳳羅須 の手は無意識に手裏剣を探った。だが、手裏剣もドライバーも使い果たし、聖鳳刀までも手元にない。
「やめろ、あたくしたちがお前の敵でないことは判るだろう。優鉢羅 を殺し摩瑜利 を助けたのも、呪界を破ったのもあたくしだ」
たしなめるように娑羯羅 が言う、だからといって彼らが味方とも思えない。もっとも、鳳羅須 には味方などほとんど居ないが。
どちらにしろ、太元帥を屠るには娑羯羅 とも戦わなければならない。能力 が互角としても、娑羯羅 は小太刀を腰に差している。あれは神器に違いない、明らかにこちらが不利だ。
差し違えても太元帥を仕留めることが出来れば……
その功績は計り知れない、父の汚名返上し、さらに己の名を歴史に刻む事が出来る。
にも関わらず、鳳羅須 は何の行動も起こさなかった。
彼らを信用したからではない、かと言って娑羯羅 が命の恩人だからでも、ましてや自分の命が惜しいわけでもない。
娑羯羅 と太元帥を信じることは出来ないが、娑羯羅 の「摩瑜利 を守れるのはお前だけ」という言葉は事実だ。
摩瑜利 には鬼霊を超えた能力 がある、人や鬼霊の心を操る事が出来る。
しかし、それに対抗する術も存在し、西郷たちがそれを使わないはずがない。どんな手段を以てしても、摩瑜利 を己たちの都合の良いように利用しようとするだろう。
無論、鵬翼 たち大鳥一族が彼女を助けるなどあり得ない。何とかお零 れにあずかろうと、権力に擦り寄るのが関の山だ。
損得抜きで摩瑜利 を守ろうとする者など、鳳羅須 の世界には居ない。摩瑜利 を守るためには、まだ死ぬわけにはいかない。つい数刻前まで殺そうとしていた相手の身を案ずるのもおかしな話しだが、事実、鳳羅須 は姉のために生きようとしていた。
「どうやっておれと娑羯羅 を創った?」
「言葉で説明するのは難しい。しかし、朕 と摩瑜利 が直接会わなくても、意思の疎通が出来る」
可能だろうが、その内容を盗み聞きする鬼霊も居るはずだ。
「簡単には行かぬから、これが出来たのは先代の晩年だった。我らの能力 が弱まり、周りの者たちが油断したところで、摩瑜利 の方から朕 に話しかけて来た」
鳳羅須 の考えを察知したのか、太元帥は付け加えた。
「我らの気持ちは同じだった。もう人々が殺し合うのは見たくない、旗印にされるのもうんざりだ」
「兄と摩瑜利 は目的達成のために、信頼出来る、露骨な言い方をすれば絶対に裏切らず、どんな汚れ仕事も厭わない手下が必要だったのだ」
「それが、お前とおれか」
娑羯羅 は無言で頷いた。
「だが問題が起きた、朕 たちの両親が難陀 に暗殺された」
それはよくあることだった。
太元帥は西軍の、摩瑜利 は東軍の領地に必ず生まれるが、特定の鬼霊の家系には生まれない。どの家系に生まれるのか、そえはまさに神のみぞ知るだ。
その世代の神を生んだ鬼霊の一族は権力を増す。もちろん、その中で一番発言力を得るのは神の親だ。
だが、この事がきっかけで同族の中で権力闘争が起きることも珍しくない。
竜一族の長である難陀 は、太元帥の両親を暗殺し、後見人なることで己の権力を強めたのだ。娑羯羅 は弟の跋難陀 に託され、そして虐待を受けたのだろう。
「我らの計画が漏れたわけではないが、娑羯羅 の命を守るのに苦労した。当時は完全に覚醒していたわけではなかったからな。これは西軍に限って起ることではない」
「解るか、真明。これがどういう事か」
似たような話は東軍でも聞いたことがある、それがどうしたと言うのだ。
「いいか、お前の両親はお前と摩瑜利 を守るために命を投げ出したのだ」
娑羯羅 の言葉に鳳羅須 は絶句した。
「何を言っている、父上は華結羅 の裏切りによって……」
「違う、お前の母は父の指示に従っただけだ」
「ふざけるなッ、何故そのような事がお前らに判るッ!」
「それはわたくしが説明します」
太元帥と娑羯羅 の話しの内容に衝撃を受けていた鳳羅須 は、自分の背後に摩瑜利 と光奈の姿があるのに気がつかなかった。
「鳳羅須 、貴方は母上が、父上と貴方を陥れるため、わたくしをこの異界に連れ去ったと思っていますね」
「違うという証拠でも在るのか」
「証拠はありません。ですがわたくしは、父上が母上に指示しているのを聴いていました」
「…………!」
「貴方はまだ幼すぎてので、父上は何も告げないことに決めました」
「お前とて幼かったはずだッ」
摩瑜利 は首を左右に振った。
解っている、姉は出来損ないの自分とは違う。当時、五、六歳だが、摩瑜利 はわずかながらも覚醒し、実際の年齢を遙かに上回る知性を身に着けていた。
「大鳥の庄でも、わたくしが生まれたせいで不穏な空気が出ていました。父上を決断させたのは言、やはり太元帥殿の両親の死です」
鳳炎は彼らの死の真相を悟り、いずれ自分の身にも同じ事が起こる可能性を憂慮した。自分が殺されるだけならまだ良い、しかし華結羅 と鳳羅須 も命を狙われるのは必至であり、摩瑜利 は命の心配は一応無いが政争の道具として使われ、どんな目に遭うか判った物ではない。
鳳炎は大鳥一族は勿論、東軍の目を眩ませるため大胆な策に出た。
華結羅 に摩瑜利 を異界に連れて行かせたのだ。
鳳炎はこれにより、自分と妻の死を覚悟した。事実そうなったが、摩瑜利 は己の記憶を封印し、異界で人間の娘として健やかに成長した。
一方、鳳羅須 は摩瑜利 ほど恵まれたわけではないが、鳳炎は八咫 と天狼に息子を託していた。つまり、鳳羅須 が冬山で彼らに助けられたのは偶然では無かったのだ。
「そんな……おれは……おれは……」
何のために苦しみ、何のために戦って来たのか。今まで自分が信じてきたもの、憎み恨んできたものは一体何だったのか。さすがに鳳羅須 は打ちのめされた、先ほどまでの死にかけていた状態の方がまだましだ。
「真明くん……」
光奈が鳳羅須 を支えるように寄り添った。
「恨みたいのなら、わたくしを好きなだけ恨みなさい。全ての原因はわたくしにあります、父上と母上の死も、そして貴方の苦しみも。しかし、父上と母上を憎んではなりません。二人とも貴方を本当に愛していました、それだけは間違いないのですから」
「………………」
それから鳳羅須 は一言も口を利かなかった。
すでに必要な事を話し終えていたのか、太元帥は摩瑜利 と二言、三言、言葉を交わすと娑羯羅 と共に姿を消した。
鳳羅須 は視線を天に向けた、東の空が明るくなり始めていた。
一二
摩瑜利 はドアノブに手をかけた、鍵は掛かっていない。そのままドアを開けた。
「お帰りなさい、彩香」
奥から由良が出てきた。もう明け方だというのに、昨日から寝ずに待っていてくれたのだ。
「ママ……」
思わず神鳥彩香としての言葉が出た。
「お腹すいていない? お風呂もすぐ沸かすわよ、それともまずは寝る?」
「ママ……」
彩香は玄関に立ちすくんだ。
ダメ、ちゃんと言わなきゃ。そのために来たんだから、時間が経てば経つほど言えなくなる。
「どうしたの? 早く上がりなさい、怒ってなんて……」
「違うの……わたし……わたしは……」
涙が溢れてきた。言えない、言いたくない、自分は摩瑜利 ではなく神鳥 彩香でいたい。
しかし、それは許されないことだ。父と母の思いを裏切ることになる。
じゃあ、ママの気持ちは踏みにじっていいの?
もちろん、それも許されることではない。二つを天秤にかけることなど出来ない。
それでも……
「お別れを言いに来ました……由良さん」
「彩香?」
「こんな我がままなわたくしを育ててくれて……何とお礼を言えば……」
「お礼なんて言わないで」
由良は優しく微笑んだ。
「あなたが居てくれて、わたしは本当に幸せだった」
「由良さん……」
「だからお礼を言うのはわたしの方。ありがとう、彩香、ううん、摩瑜利 さん」
「鳳羅須 から聞いたんですね?」
由良はうなずいた。
「帰るのね、自分の世界に」
「はい……」
「もう、こっちへは来られないの?」
「多分……」
「そう……わたしのこと忘れないでね……」
由良の眼にも涙が溢れた。
「もちろん……絶対に忘れません」
「うん……さぁ、行きなさい。弟さんが待っているんでしょう?」
「はい……お元気で……これからはご自分の幸せのために生きてください。あの……恋人とお幸せに……」
「うん、わたしなら大丈夫よ、さようなら」
摩瑜利 はドアを開け階段を降りた。後ろ髪を引かれる思いがするが、鳳羅須 の所へ行かなければならない。
「彩香!」
振り返ると、由良が階段を駆け降りてきた。
「由良さん……」
彼女は摩瑜利 を抱きしめた。
「彩香……行かないで! あなたはわたしのたった一人の娘なんだから」
「ママ、わたしもずっとここにいたい!」
彩香は母の胸で、子供のように泣いた。
光奈は重苦しい沈黙に耐えかねていた。
代々木公園からずっと鳳羅須 は口を利かない。何とかなぐさめる言葉をかけたいが、何を言えばいいのか判らない。
いや、むしろそっとしておいた方がいいのかもしれない。今まで自分が信じてきたものを一瞬にして覆され、鳳羅須 も混乱しているはずだ。
「お前には、感謝している」
「え?」
唐突に鳳羅須 が礼を言ったので、光奈はどぎまぎした。
「摩瑜利 の記憶を取り戻してくれた」
「あたしが?」
何のことだか解らない。
「そうだ」
鳳羅須 の顔に笑みが浮かんだ。
光奈はそれにホッとした、同じ顔を彩香が見せるときがある。それはケンカをして仲直りしたときや、二人で何かを成し遂げたときだった。
「あたし、なんにもしてないけど……」
鳳羅須 は包みを取り出した、昨日、彼から預かっていたやつだ。代々木公園から郡山にテレポートする前に、彩香が鳳羅須 に渡していた。
「この中におれたちの母親が入っている」
「お母さんが?」
遺影でも包まれているのか。
鳳羅須 は意味ありげにうなずいた。
「この中身を見て、摩瑜利 は記憶を取り戻した。お前は約束を果たしたんだ」
「ああ、そうだったんだ。でも、お礼なんて言わなくていいよ。あたし、何も知らなかったし、偶然だもん」
「偶然であれ、お前が居なければ、おれは生きてはいなかった。難陀 も、もっと大きな被害を引き起こしていたはずだ」
新宿がメチャクチャになったが、それでも彩香の超能力で被害をかなり押さえたらしい。
本当なら東京二十三区が壊滅していたと言うことだ。
「お前は多くの人々の命を救った」
「あたしじゃない、真明くんと彩香が救ったんだよ」
鳳羅須 は何か言いかけたが、道の向こうに彩香の姿を認め、口を閉じた。
彩香の眼は泣いたために腫れていた。
「ちゃんとお別れ言えた?」
「ええ」
「うん、それじゃあ帰るんだね」
「はい、光奈さん、あなたもお元気で」
「だからやめてよッ、『さん』付けなんて」
摩瑜利 は微笑んだ。さっきの鳳羅須 と同じ顔だ、やっぱり二人は姉弟だ。
「光奈、元気でね」
「彩香も……また、会えるよね?」
「わたくしは、この世界に属していないのです」
「たしかにそうだね、女神の摩瑜利 はこの世界にはいなかった。でも、神鳥彩香はこの世界の人間だよ」
「…………!」
「彩香はこの世界の望月光奈の親友だし、神鳥由良の娘なんだ。だから、帰ってこないといけないんだよ、この世界に」
「光奈……」
「だからあたし、さよならなんて言わない」
光奈はあふれ出そうな涙をこらえ、無理やり笑顔を浮かべた。
「またね、彩香」
「うん、またね」
彩香は鳳羅須 を促した。
鳳羅須 は姉のかたわらに行こうとして、足を止めた。
「光奈、おれも再び会えると信じている」
「真明くん……」
「達者でな」
鳳羅須 が彩香の隣に並ぶと、二人は光に包まれ、次の瞬間その姿は消えていた。
「彩香、真明くん、必ずまた会おうね」
終章
望月光奈 は神鳥由良 と共に、福島県猪苗代町にある玄翁石 の前に来ていた。
彩香と鳳羅須が自分たちの世界に帰り、すでに半年が過ぎようとしている。
季節は巡り春が来た。この辺りでは桜の開花までまだ間があるが、明日から新学期が始まる。
光奈は進級するのではなく、もう一度高校二年生をやることになった。
彩香たちが去った後の彼女は魂の抜け殻のようになり、そこには今までの快活な少女の姿は無かった。
利恵と里美を始めとし、多くの人たちの死が光奈の心に重くのしかかっていた。口には出さなくても、ほとんどの生徒が利恵と里美の死に光奈が関わっていたと思っており、彼女を白い目で見た。
学校へは行けなくなり、引きこもるようになった。それに自殺を考えたことも一度や二度ではない。
そんな光奈を支えてくれたのは、祖父の哲治を始めとする家族と神鳥由良の存在だった。それに好沢浩之もよく顔を見せ、光奈を励ましてくれた。
一時期は本当に深刻だったが、それでも光奈は少しずつ生きる気力を取り戻し、再び登校出来るまで回復した。
今日はその報告のため、全ての始まりの場所であるこの玄翁石の前に来たのだ。
玄翁石は森の中にある墓地に向かい合う位置にある巨石だ。
「ここで彩香とあの子の母親を見つけたの」
由良は十数年前に思いを馳せているようだ。
光奈は玄翁石に手を触れ、今までの事を報告した。
こんな事をしていると、まるでお墓にお参りしているような気持ちになる。
バカッ、彩香は死んだわけじゃないんだから!
そう、きっと再会出来るはずだ。
その時は真明くんとも……
光奈の心に変化が起きていた。
浩之に以前のような感情を抱かなくなっていたのだ。
代わりに想うのは真明鳳羅須だ。
真明くん、彩香、待ってるから。あたし、二人が帰ってくるの待っているからね。
「光奈ちゃん、そろそろ行きましょうか」
「はい」
暖かな風に送られ、光奈はその場を後にした。
光奈と由良が去って数刻後、突如地響きのような音が轟き、玄翁石の表面が嵐に乱される湖面のように波立った。
―完―
鬼霊戦記
最後までお読みいただき、誠に有り難うございます。
この『鬼霊戦記』は私が10年以上構想し書き上げた作品です。
ご満足いただけたとは思いませんが、何かしら感じていただければ非常に嬉しいです。
2017年9月 大河原洋