銀杏と傀儡

あたしはお兄ちゃんが、好きなんだろうか。それとも、性欲を満たしたいだけなんだろうか。

この「銀杏と傀儡(ぎんなんとかいらい)」は、文学爆弾の記念すべき習作第1作目です。
射矢らたによる書き出し、ロマンチック部長によるラスト。各章はそれぞれの実験的な文章、展開となり、ストーリーは破綻するかも……?

第一章 「暗渠」

お兄ちゃんに彼女ができるってことが、それは普通に考えれば至極当たり前のことなんだけれど、その時のあたしにとっては思いもよらない出来事で、そしてすごくショッキングなことだった。

あたしの左手には、生まれた時からいわゆる小指と薬指ってものがなく、代わりに、とても指とは呼べない、こぶのようなものが小さくくっついているだけなのだけれど、あたしとしては、はたから見ているほどには実生活において不自由だと感じたことはなく、むしろ左手にあと二本、指がある、という感覚のほうがわからないのだけれど、ただ、左手を他人に見られるのはやっぱり嫌だ。

小学三年生のとき、クラスの何人かの男子から、三本指、とか、妖怪人間、とかって呼ばれたことがあって、そのときは、お兄ちゃんが来てその子達をぶん殴ってくれたのだけど、そのときあたしは自分の異質にやっと気づいて、それからは左手を隠して生活するようになったし、あたしのことを常に気遣ってくれるお兄ちゃんを、逆に敬遠してしまうようになった。

お兄ちゃんと始めてセックスしたのは中学三年のとき、お兄ちゃんが高校を卒業する、ちょっと前だった。あたしは高校受験のために勉強していて、随分夜遅くなってからベッドに倒れ込んで、そのまま寝てしまった。下半身に鈍痛を感じて目を覚ましたのは明け方だった。そのときにはすでにお兄ちゃんがあたしの中に入っていて、目が合ったすぐあと、お兄ちゃんは果ててしまった。あたしは、下半身のつっかえが和らいでいくのを感じながら、お兄ちゃんの細い腰に両手を回した。時計を見た。5時を少し回っていた。ぜんぜん、嫌だと思わなかった。どうしてか、ああ、よかった、と思った。痛みが少しあったけど、離れたくなかった。お兄ちゃんは目を逸らしていたけれど、そのうち起き上がろうとするので、あたしは腰に回した手をきつく引き寄せて、待って、と言ってしまった。お兄ちゃんは、ほんの一瞬、あたしと目を合わせて、それからすぐ、がばりと上体を起こし、ベッドの足元に置いていたデニムやTシャツや下着なんかを引っつかんで、裸のまま部屋を飛び出していった。
動けなかった。股のあいだが、漏れ出た液体のためにじくじくと濡れていくのがわかった。
(らた)

第二章 「覚醒」

お兄ちゃんは高校を卒業すると、雪の降る三月の終わりにこの町を出て行った。
三月に降る雪は、お兄ちゃんと離れ離れになるというあたしの絶望をより一層強めた。結局、お兄ちゃんがあたしの中に入ってきたのは、一度だけだった。
自分の指は大嫌いだったけれど、あの日、お兄ちゃんがあたしの中で、思い描いたこともないような激しさで動かしてくれた指は、今思い出しただけでもすぐに自慰したくなるほど気持ちが良かった。
あれ以来、あたしは自慰するときは、大抵、自分の醜い指を下半身のその入り口に執拗なくらい激しく擦りつけながらした。
それは、自分に対する戒めでもあり、醜いモノに犯されているということに、ただならぬ興奮を覚えたからだ。
もしかすると、特異なのはこの指ではなくあたしの欲望に対する変質的な性癖なのかも知れない。

お兄ちゃんがいなくなってから二ヶ月程が経った頃、お兄ちゃんが付き合っていた彼女と偶然会った。相手はあたしの顔を知らなかったけれど、あたしはお兄ちゃんから彼女の写メを見せてもらっていたので、すぐにわかった。お兄ちゃんが他の女に奪われるかもしれないという衝撃が、彼女の顔をあたしの脳裏に焼き付けていた。
やわらかな春の風を頬に感じながら、その顔を横断歩道の真ん中で認識した瞬間、あたしはあたしのこの特異な手で、綺麗な顔立ちをしたその女を殴ろうと思った。しかし、殴るよりもこの指であたしがあたしにしているように、辱めてやりたという衝動にかられた。

その日からあたしは彼女に近づき、従順で素直な妹を演じた。お兄ちゃんと彼女は、遠距離になってもまだ付き合っていた。
早く別れろと心の中で呪いの言葉を唱えていたが、彼女の前ではいつも屈託のない笑顔を見せた。
彼女の名前は裕子。地元の大学に通いながら何不自由なく青春を横臥している。指も健常者のそれと同じだった。
あたしは、高校の授業が終わると、家の最寄駅にある昭和な雰囲気をそのまま残した喫茶店で、週に二度は裕子と会って、くだらない話をしていた。彼女からお兄ちゃんの近況を聞かされるたびに、あたしの指が疼いた。早くその女の恥部を味わいたいと叫んでいるようだった。
あたしもお兄ちゃんとはもちろん連絡をとっていたけれど、裕子が話すお兄ちゃんは、あたしの知らない世界に生きているようだった。それが無性に悔しかった。
裕子は身長が160センチ程の細見で、色が白く、腰の少し上くらいまで伸びた黒髪を清楚な髪留めでひとつに結わえていた。
胸はそれほど大きくないけれど、張りがよく形はよさそうに思えた。

この女の身体をもうすぐ自分のこの醜い指で辱められると思うと、あたしの中の変質的な性癖が、まるでもう一人の自分となり、この世界に降りたとうとしているように感じられ、にやりと口角があがった。

(ロマンチック部長)

第三章 「悋気」

家に帰って、ただいま、と言う。少し間があって、お母さんが、あら、おかえり、と言う。お兄ちゃんのいなくなった家は、めっきり静かだ。お父さんも、お母さんも、やっぱりお兄ちゃんのことばかり気に掛けていたんだなあ、と、今更ながらに思う。まだ、私が上で、お兄ちゃんが末っ子ならマシだったかも知れない。末っ子の女の子なんて、表向きチヤホヤされるけど、本気で育てられることはない。それは、どんなに叫んだってどうにもならないことで、仕方がないことなのだ。
夕飯の支度を手伝う。お父さんが帰ってきて、三人で夕飯を囲む。お母さんは、きまって、
「康介は今ごろ何してんのかしらね。ちゃんとご飯食べてるのかしら」と、お兄ちゃんの心配を口にする。
「そりゃ。一人で好きなようにやるだろ。あんまりごちゃごちゃ言うんじゃないぞ」
お父さんはそう言うけれど、あたしはわかっているのだ。お父さんも、お兄ちゃんの話をしたがってるのを。仕方がない。そこにあたしが入っていく余地は、ない。
あたしは、黙ってご飯を食べ終え、お皿を洗って、お風呂に入る。
鏡をタイル床に置いて、その前に座り、大きく股を開く。すぐに、あたしはあの時のことを思い出せる。思い出していると、いつの間にかあたしの秘部は粘っこくなっていて、無意識のうちに中指を付け根のところまで全部入れる。
最近は、どうやったら一番早くオーガズムに達するか、わかってきてしまった。それに、何度もそれを味わうこともできるようになった。そして、その度に、あたしはお兄ちゃんのことを想像する。お兄ちゃん以外の男との経験がないから、そうなのかも知れない。でももしかしたら、お兄ちゃん以外の男との経験があったとしても、あたしはお兄ちゃんを思いながらするのかも知れない。それは、わからない。
三度、オーガズムに達して、それから、しばらくへとへとになって、そのあと体を洗った。腕が少し震えていた。震える腕の先の、左手の、小さいこぶも震えていた。あたしはそのこぶで、また自分の秘所を探ってみる。裕子の、それを想像する。みんな、同じような形なんだろうか。だとしたら、この、赤く腫れたような突起を、このこぶで挟みつけ、じわりじわりと押し上げながら、中指を奥深く差し入れる。裕子はこれでオーガズムに達するだろうか。あたしと同じように、感じるのだろうか。
鏡を見ながら、こぶを擦り付ける動作と、中指を出し入れする動作を早めていく。裕子の苦悶する顔を想像する。お兄ちゃんに、どんな風にしてもらっているのだろう。お兄ちゃんは、どんな風にしてもらっているのだろう。お兄ちゃんのペニスが、裕子の中に根元まで入っていく、その様子を想像した瞬間、あたしはまた、イッてしまった。

土曜日、裕子と三番街のツリーで待ち合わせして、リプトンのカフェに入った。あたしは、かねてから聞きたかったことを、なんでもない風に、妹のただの好奇心という風に、ついに聞いた。
「ねえ、お兄ちゃんってさ、どんな風にするの」
裕子はさすがに面食らったみたいに、ストローをくわえたまま一瞬動きが止まり、目だけであたしを見て、それからゆっくり、確かめるようにストローを口から抜いて、言った。
「実はね、私たちまだなのよね。でもね、別に焦ってはないよ」
あたしは拍子抜けしてしまった。ずっと、そのことばかりが頭にあったのだ。そればかりを考えて、生きていた。なのに、二人はまだ未経験で、あたしだけが、お兄ちゃんと経験があり、お兄ちゃんとのことを想像してオーガズムに至ったり、裕子とのことを想像してオーガズムに至ったり、していたのだ。
あたしは、一体何なのだろう。
「はやく、できるといいね」
何故そんなことを言ったのかわからないけれど、あたしはそう返した。
「うん。したら、教える」
目の前の美人は、そう言って屈託無く笑う。その笑顔を見て、あたしは、急に腹が立った。裕子には、未来があるのだ。まだ、これから、お兄ちゃんと二人で、未体験のことができるのだ。そうして、お兄ちゃんはあたしのことなんて忘れるのかもしれない。どうしてあの時あんなことをしたのだろう。そう考えると、今まであたしがしてきたことが本当にバカみたいに思えてきた。
「裕子ってさ、今まで、したことあるん?」
ええー、なによ、と茶化す裕子の顔をじっと見た。裕子は、少しはにかんで見せ、まだない、と答えた。
「お兄ちゃんはね、あるよ。裕子の前にも、いろいろあったし」
「そうなんだ」
「だからさ、裕子もある程度、わかってたほうがいいと思うんだよね」
「うん、それはそう思う」
裕子はまるで未就学の子どものように頷く。
「教えてあげよっか」
裕子が明らかに顔をしかめたのがわかった。けれど、裕子の性への好奇心がその瞳の奥に光ったのを、あたしは見逃さなかった。
(らた)

第四章 「儀式」

その日の夕食はカレーだった。お兄ちゃんがいなくなっても、お母さんはお兄ちゃんが好きだった甘口のカレーを今も当然のようにつくる。あたしは本当は中辛が好きだったけれど、何も言わずに甘いカレーを食べて、お風呂に入ったあと、いつものようにリビングで仲良くテレビを観てわらっているお母さんとお父さんに、おやすみ、と言って二階に上がった。自分の部屋に入る前に、あたしはお兄ちゃんがいなくなってから毎日の日課のように、以前、お兄ちゃんが使っていた部屋に入ると、部屋の隅に置かれたタンスの一番上の引き出しから、お兄ちゃんの下着を取り出した。そして、自分の股に直に何度も押し当ててから匂いを嗅いで、それをまた引き出しに仕舞ってから、自分の部屋の布団に入った。

小さい頃、お兄ちゃんとケンカをすると、親に怒られるのはいつもあたしだった。友達にそのことを話すと、普通は、怒られるのは年上のお兄ちゃんかお姉ちゃんだとみんな言っていた。それなのに、うちは、妹なんだからお兄ちゃんの言うことを聞かないあなたが悪いのよ、と母はあたしを叱った。
お兄ちゃんは、誰から見ても真面目で優等生だった。だから、あの日、お兄ちゃんが強引にあたしを犯してくれるなんてことは、夢にも思わない嬉しい事件だった。でも、最近になって、きっと、お兄ちゃんもあたしと同じなんだ。きっと、自分の中の変質的な性癖を今まで抑え込んで生きてきたんだ。この町を出る前に、お兄ちゃんは真面目な自分を捨てる儀式として、あたしを犯したに違いない。そう思うと無性に嬉しくなった。
裕子はまだお兄ちゃんのペニスを知らない。あの指の動きを知らない。あたしは、裕子に勝っているという満足感もあったけど、それ以上に、綺麗な裕子の秘部が気になった。まだ男をしらない裕子の穴。どんな色をしているんだろう。どんな匂いがするんだろう。あたしはまた裕子のことを想像して興奮している。美人がオーガニズムに達した時の、理性が飛んだ卑猥な表情を思い浮かべて、あたしは布団の中で下着を脱いだ。もうすでに溢れ出ている愛液を、異様に突起した指にたっぷり擦りつけて滑りを良くしてから、ひっくり返った蛙のように仰向けで両足を広げると、拳をつくるようにして、その指を一気に肉ヒダの奥にねじり込んだ。声が出そうになるのを我慢したけれど、舌をだして白目になっているのが自分でもわかった。早く裕子にもこの快感を教えてあげないと。その夜もあたしは三度オーガニズムに達した。
(ロマンチック部長)

第五章 「奸計」

(気象庁は今日、関東甲信地方と北陸地方、それに東北地方の南部が梅雨入りしたとみられると発表しました。平年に比べると、関東甲信地方は一日遅く、北陸地方は…)
テレビは梅雨入りの報せばかりしている。金曜の夜から、雨は降り続いていた。お陰で土曜はどこにも行かなかった。今日も一日降るらしい。
今日は昼過ぎから、裕子と会うことになっている。お兄ちゃんの誕生日のプレゼントを、選びに行くというのだ。
「気が早くない?」
裕子と傘をさして歩きながら、あたしはもう一度念を押して裕子に言った。お兄ちゃんの誕生日は、ひと月も先なのだ。何を焦っているんだろう、と思った。
「いいの。今、選んでおきたいの」
裕子は真っすぐ前を向いたままそう答えた。その言葉の意味を、あたしはその時自分の頭の中を駆け巡っていた、裕子のそれとは多分別の焦燥感から、よく考えようとしなかった。あたしはただ、裕子に手柄を取らせたくない、と思っていたのだ。
お兄ちゃんが欲しがりそうなものはあまり知らないけれど、いらないと思うものはわかっていた。お兄ちゃんは気に入ったものしか使わないし、気に入ったものならすっかりダメになるまで使い続けるたちだ。だから、財布も鞄もいらないはずだった。
あたしは、裕子に皮の財布を勧めた。
「黄色はお金が貯まる色だよ」
裕子はそのかなり高価な、カーフとかいう皮の、滑らかな手触りの黄色い財布を喜んで買った。
あたしは、黒のかっちりとした折り畳みの傘を買った。

「康ちゃん喜ぶかなあ。早く渡してあげたいな」
スターバックスでアイスラテをすすりながら、裕子は赤いリボンをかけた深い緑色のプレゼントの包みをしげしげと眺めて言った。あたしはそれを見て、クリスマスみたいだ、と思った。
「夏休みに入ったらすぐに帰ってくるらしいね」
裕子のその言葉に、あたしは耳を疑った。知らなかったのだ。いつ帰ってくるのかなんて、聞いていなかった。
「うん……そうだよ。お兄ちゃん、裕子にも言ってたんだ」
「うん。こないだ電話で言ってたよ。早く会いたいねーって、二人でハモったりしてさ。可笑しかった」
裕子が、とても遠いところにいるような気がした。いや、そうじゃない。
あたしだけが、遠いところにいるのだ。お兄ちゃんと裕子は、すごく近いところに二人でいて、あたしが、ただあたしだけが、地球の裏側にいるのだ。
お兄ちゃんが、自分の財布を今でも大事にしていればいい。むかしお年玉で買った、プラダの黒のナイロンの長財布を、今でも使っていればいい。すごく気に入っていたから、きっと使っているはずだ。お兄ちゃんに黄色なんて、似合わない。

夕食は座敷席でおソバを食べた。裕子はせいろを頼んだ。
あたしたちの会話の、半分はお兄ちゃんの話だった。裕子が、お兄ちゃんについて、その幼少期からのいろいろなことを聞きたがった。あたしは得意になって、なんでも話した。
「ねえ、亜衣ちゃん、こないだのこと、覚えてる?」
不意に裕子がそう言って、目配せをしたように見えた。それで、あたしはすぐにわかった。
「覚えてるよ」
「教えてよ。私なんにも知らないのよ」
「いいの?」いいの? と聞いてから、ぷっ、と笑いが込み上げた。裕子も、笑った。
「いいよ」

ラブホテルの部屋で、裕子は、やっぱり嫉妬するくらい、綺麗だった。二人ではしゃぎながらお風呂にお湯を張った。それから一緒に、お互いの枚数を数えながら同時に服を脱いでいって、同時に全裸になった。二人で髪をまとめて、肩を並べて湯に浸かり、お湯の中で手をつないだ。あたしの三本指の左手を、裕子は優しく握りしめていた。
「あったかいね」
「うん。あったかい」
それから、裕子のまっすぐに高い鼻を、本当によけるようにして、彼女のくちびるを吸った。すごく長いあいだそうして、くちびるを離すと、裕子は名残惜しそうな、潤んだ目であたしを見た。くちびるが震えていた。
そのあとは、ベッドのうえでひたすら裕子の生暖かい身体を貪った。裕子は声を出さず、じっと耐えていた。ベッドシーツが彼女の秘部から溢れ出る粘った液体で色濃く染みていった。あたしは裕子の表情を確かめながら、秘部に指や舌を入れて夢中で掻き回し続けた。
裕子は目をきつく閉じていた。今、裕子の脳裏に浮かんでいるのは、お兄ちゃんなんだろうか。なぜか、あたしはお兄ちゃんに嫉妬していた。こんなに可愛くて綺麗な女の子を、お兄ちゃんに奪われたくないと思った。それは、初めて湧いてきた感情だった。あたしの指や舌の動きにじっと耐える裕子を、愛しいと思った。
舌の動きを速めると、裕子は小さく声をあげ、自ら腰を上下させ始めた。オーガズムが近いのだ。あたしは急に興奮して、自分の秘部に中指を差し入れて中を掻き回した。
「裕子、一緒にいこう、一緒に」
それから、あたしは裕子のために舌と指を動かし続け、彼女の太ももが痙攣してあたしの顔を挟んだとき、あたしもイッてしまった。

ホテルの出口から外を覗くと、雨はやんでいて、人通りが増えていた。あたしたちは通行が途切れるのを見計らって素早くホテルを出て、商店街の中を歩いた。どちらからともなく、手をつないだ。手をつないで歩くということが、幸せだと思った。裕子の手は白くて細くて潰れてしまいそうだった。
駅の改札で別れた。裕子はその白い手を小さく振った。別れ際、彼女の提げた買い物袋を見て、その中にはクリスマスプレゼントのような包みが入っているのだ、と思うと、少し胸が痛んだ。
(らた)

第六章 「受粉」

黒板に響くチョークの音が聞こえる。あたしは昔からこの音が好きだ。乾ききった黒板に、石膏がぶつかる音。間違いだらけのこの世界で、この音だけは、いつも正しさに導いてくれる気がした。
その音に耳を傾けながら、あたしは窓につたう雨粒の行方を見るともなく見ていた。となりの雨粒とすぐに交わるもの、交わりそうで気まぐれに逆を向いて離れていくもの。それはまるで、男女の出会いと別れのように思えた。
あたしは裕子とのセックスを思い出していた。いや、果たして女同士でもセックスと呼ぶのだろうか。ふと、国語辞典を落書きだらけの机の中からそっと取り出した。現代国語の授業で良かったと、ひとり心で笑った。

① 生物上の男女・雌雄の別。性。
② 性交すること。
③ 性器。

授業中にこんな言葉を調べている自分にほんの少しの興奮を覚えながら、続けて性交のページを捲った。

性交ー男性の勃起した陰茎を女性の腟内に挿入して前後に運動させ,最終的に射精する行為。

「前後に運動させて」の部分に、危うく吹き出しそうになった。顔を前に向けると、定年を迎え、今年がこの高校での最後の授業となる国語教師で、その年齢や見た目から「じいじ」と呼ばれている波多野が黙々とチョークを動かしていた。
やっぱり、セックスって、男女の交わりを意味するんだ。じゃあ、あたしと裕子のあれは一体何と呼べばいいんだろう。あたしの左手の、指とは呼べない醜い突起物が、疼いた。傷跡のような痛みを伴う疼きではなく、何か別の生き物が中で蠢いているような、そんな疼きだった。
湿気が多い日は、この左手から特に饐えた匂いが放たれる。あたしはそれが嫌だった。しかし、その匂いは時折、花粉のような甘い匂いを醸す時もあった。裕子とした時がそうだった。あたしは裕子の体を思い出してため息をついた。綺麗だった。その指先までもが。
お兄ちゃんが帰ってくると、裕子はお兄ちゃんとセックスするんだ。あたしはお兄ちゃんと裕子の二人を一辺に奪われる気がして、体全体に梅雨の湿気がまとわりついたように不快になった。
三時限目の現代国語の授業の途中から降り出した雨は、その日の深夜まで降り続いていた。
あたしと裕子は、週末になるといつも同じラブホテルで一緒にオーガズムに達した。体を重ね合わせる度に裕子をすごく近くに感じられたけれど、心はどんどん離れて行く気がした。
七月に入ってからもずっと雨の日が続いていた。二十二日連続の雨を観測したのは四十年振りだと、テレビのニュースで、今年から新しくお天気お姉さんになった新人アナウンサーが何故か嬉しそうに笑っていた。

お兄ちゃんは、地元の工業高校を卒業すると、ブラジルでの水事業に参画している東京の下水道サービス会社に就職した。
いつかの電話で、休日出勤もあって大変だと言っていたけど、裕子から聞いた話では、お兄ちゃんが勤める会社は、夏になると、各グループで仕事の進捗状況に応じて個人個人で自由に夏休みをとることができるらしく、来週からようやく九日間の連休をとることができ、久しぶりに地元に帰ってくるらしい。お兄ちゃんに会えることはもちろん嬉しかったけれど、プレゼントのことを考えると、あたしは少し複雑な気持ちになった。

(ロマンチック部長)

第七章 「猜疑」

「康介、月曜にこっちに帰ってくるって」
ただいま、と言ったあたしにお母さんは、くつくつと音を出す鍋から目を離さずにそう言った。カレーの匂いがした。また、カレー。
「月曜日?」
おかえり、の言葉がないことなんてどうでもよかった。お兄ちゃんの帰る日が、裕子の話と食い違っていると思った。こないだの裕子の話だと、土曜には帰ってくるはずだ。
「月曜日じゃないでしょ」
「そう言ってたわよ、電話で。一週間、休みが取れたからって。あら、なに? あんた康介から連絡あったの?」
そうか。
あたしは、ふうん、とだけ答えてそのまま自分の部屋に入った。お母さんはバカだ。喜んでカレーの練習なんかしている。お兄ちゃんはあたしや親たちに隠れて二日早く帰ろうとしているのに違いない。
あたしは電話を取り出し、すぐに裕子に連絡した。五回のコールののち、裕子は電話に出た。
「ねえ、裕子。お兄ちゃん、土曜に帰ってくるじゃん、三人で遊ぼっか。どっか行こうよ」
あたしはまくし立てた。
「え……あれ、土曜って言ってた? 康ちゃ……お兄ちゃん、亜衣に、土曜に帰るって言った?」
電話先の裕子の頭の中が、ぐるぐる回っているのがわかる。
「うん。さっき電話があってさ。土曜に帰るって言ってたよ。ほら、裕子も言ってたじゃん、九日間休み取れるって。土曜から九日間休み取ったからって言ってたよ」
「月曜って言ってなかったかな。なんか、私そう聞いてたような気がした。勘違いかな。休みは土曜からでも、帰るのは月曜からなんじゃない?」
裕子の探るような物言いが、癪にさわる。
裕子は嘘つきだ。お兄ちゃんは嘘つきだ。絶対、二人では会わせない、と思った。二人きりで会わせるくらいなら、お兄ちゃんも裕子も、死んでしまえばいい。許さない。あたしだけをのけ者にするなんて、絶対許さない。
「違うよ、土曜だよ、裕子勘違いしてる。待ち合わせしようよ、一緒に迎えに行こう?」
「土曜……」
裕子はそう言ったきり、じっと、黙ってしまった。沈黙の時間が、嫌だった。裕子に何かを考えさせるのが怖かった。
「ねえ、裕子、裕子。聞いてる? 待ち合わせ、どこがいい? ねえ、いつものカフェにする? そこで朝ごはん一緒に食べてさ、それから行こうよ。プレゼント持ってこなくちゃダメだよ、一緒に渡そうよ、一緒に」
興奮して喋っていて、電話が切れているのに気がつかなかった。いつの間に切ったのか。あたしはスマホの画面を眺めたあと、受話器に左耳を長い間押し付けてみたが、電話はやっぱり切れていた。
裕子は電話を切ったのだ。

その夜、お兄ちゃんから直接あたしに電話があった。お兄ちゃん、と言ったあたしの言葉を遮るように、お兄ちゃんは話し出した。
「亜衣、母さんから聞いた? 俺月曜にそっち帰るから」
「月曜に?」
「うん」
「わかった。お母さん、最近カレーばっか作ってるんだから。早く帰ってきてくれないとずっとカレー食べさせられるよ」
「ははは。言っとくよ、カレー以外のもの食わしてって」
お兄ちゃんの笑う顔が思い浮かぶ。その隣に、裕子の顔を並べる。二人は向き合い、くちびるを重ねる。一度その妄想を始めたら、やめることはできない。頭の中で、二人の行為はどんどんエスカレートしてゆく。
「ねえお兄ちゃん」
「ん?」
「会うんだよね、裕子と。本当は土曜に帰ってきて、裕子のとこ行くんでしょ」
「え? 違うよ……月曜に帰る」
「本当のこと言ってよ。お母さんには言わないから」
「何言ってんだよ。亜衣、勘違いしてるよ。休みは土曜からだけど、帰るのは月曜」
「そうなんだ。そっか」
それから、くだらないことを少し話して、電話を切った。それから数日の間に二回、裕子からの電話があったが、あたしは出なかった。

土曜の朝早く、あたしは裕子のマンションの前で、彼女が出てくるのを待った。今までの雨が嘘みたいに、雲一つなく晴れた。向かいに小さな公園があって、蝉の声がひっきりなしに鳴っていた。日傘を持ってきたらよかった、と思い、建物の軒下へ入った。裕子はきっと、出てくるはずだ。お兄ちゃんを、迎えに出るはずなのだ。今日と明日、どこかに二人で泊まるのだ。あたしだけのけ者にして。
何人か、マンションから出てくる人が前を通り、通路にしゃがみ込んでいたあたしはその度に立ち上がって素知らぬふりをした。ずっと同じ場所にいるのが気まずくなって、裕子の部屋がある階まで上がった。通路から真下の道路を見ていると、日通の大きなトラックが来て停まり、配達員がアマゾンの大きな段ボール箱を抱えて軒へ入っていく。しばらくすると、エレベーターがあたしのいる階で止まって、アマゾンの箱がにょっきり顔を出す。あたしはまた立ち上がる。
正午になっても、裕子は出てこなかった。あたしはお腹が空いてきて、考え込んでしまった。あたしの思い過ごしだろうか。裕子やお兄ちゃんの言うとおり、本当に月曜に帰るんじゃないだろうか。あたしはここで何をやってるんだろう。チャイムを押して、裕子の顔を見てやればいいのに、なんで待ち伏せなんてしてるんだろう。
急に、バカらしくなって、お腹も空いて、あたしは踵を返した。もう、どうでもいいと思った。エレベーターのボタンを押して待っていると、ガチャン、カシャン、と鉄の扉を閉める音と、次いで錠の下りる音がした。その音だけで、慌てているのが充分にわかった。エレベーターホールからは見えなかったが、直感的にわかった。あたしはエレベーターの方をまっすぐ向いて、身体をこわばらせて待った。走ってきたのはやはり裕子だった。
「えっ? 亜衣ちゃん?」
裕子が間抜けな声を上げる。あたしは真顔のまま、おはよ、と言った。エレベーターが上がってきてドアが開き、あたしは先に中に入った。あたしが目配せすると、裕子はおずおずと無言で入ってきた。
「行こっか」
裕子に背を向けたまま、あたしは1階のボタンを押した。
(らた)

最終章 「雨乞」

エレベーターの階数ボタンが一階を指すまで、あたしと裕子は無言だった。お互いにドアが開くのを合図に何か話そうとしているのがわかった。先手を取ったのはあたしだった。ドアが開いた瞬間、
「お兄ちゃんとどこで会うの?」
あたしは彼女を睨んだ。
「ごめんね。亜衣ちゃん・・・・・・」
あたしと目も合わさずに裕子は歩き始めた。
「どこに行くの?」
徐々に早足になる彼女を追いかけながらあたしは叫んだ。裕子は立ち止まり、少し振り返ると寂しそうに呟いた。
「亜衣ちゃん、昔、お兄ちゃんとしたんでしょ?
あたし、もう亜衣ちゃんとは会いたくないの」
彼女は寂しそうに微笑むと、すぐに前を向いて走り出した。高校時代は陸上部だった裕子にあたしは呆気なく振り切られた。それでもあたしにはふたりが待ち合わせる場所に心当たりがあった。お兄ちゃんと裕子は、高校時代、いつも駅前の本屋で待ち合わせをしていた。あたしは国道まで出ると、二台目で見つけた空車のタクシーに乗った。
急いで下さい、と運転手に告げ、駅前のロータリーに向かった。
お兄ちゃん、裕子に話したんだ。あの日のこと。
少し強くなってきた午後の陽ざしを車中で受けながら、あたしは窓の外の景色を、遠い過去を思い返すかのように見ていた。
小学生の頃、いじめられていたあたしをいつも助けてくれたお兄ちゃんは、その大きな手であたしの頭を包み込むように撫でてくれた。あたしはお兄ちゃんのそんな手が大好きだった。他の誰の手とも違う世界でひとつだけのお兄ちゃんの特別な手。
気が付けば私は涙を流していた。

駅前に着くと、今夜の花火大会を前に、浴衣を着た気の早い人達で溢れていた。あたしはタクシーを降りると、走ってロータリーの端にある本屋に向かった。
お兄ちゃんだ!そう思った時、お兄ちゃんの車に裕子が乗り込んでふたりはそのままロータリーを出て行ってしまった。
悔しさと嫉妬で、あたしは銀杏のような形をした、
時々異臭を放つ指を強く握りしめて立ち竦んだ。
本屋の軒先に影がさした。空を見上げると、鬱屈したような暗い雲が、徐々に空を覆い始めていた。
大雨が降って、花火大会なんて中止になればいい。あたしは心の底からそう願った。

「ただいま」
家に帰ったあたしは、頼りない声でリビングに入った。その日の夕食は、昨日の残りのカレーだった。
もううんざりだ。何もかもがうんざり。
おかえり、と言うお母さんの顔も見ないで、あたしはそのまま自分の部屋へ向かった。
そして、いつのまにか眠りに落ちた。

翌朝、あたしの体を揺さぶりながら、何かを叫んでいるお母さんに起こされた。その言葉を聞き取るのにかなり時間がかかった。
お兄ちゃんが死んだ。そして、裕子も死んだ。
嘘だと思った。そう思いたかった。
けれど、この世界では、死は生よりも遥かに確実
なものだった。
警察の調べでは、昨日、あたしを振り切った二人はこの町から二時間程の温泉旅館に向かっていたらしい。その旅館の予約名簿にふたりの名前があったのだ。そこへ向かう途中、夕方から激しく降った雨のせいで土砂崩れが起こり、二人の車はそれに潰された、とのことだった。
病院でお兄ちゃんと裕子を見た。二人とも体のほとんどの部位が潰れていた。ただ、トランクにあった裕子からの誕生日プレゼントと、何故かお兄ちゃんの右手だけは無傷に近い状態だった。
お父さんとお母さんは強く反対したけど、一週間後、あたしはお兄ちゃんの小指と中指を自分の銀杏のように突起した指の代わりに移植してもらった。移植してももちろん指は動くわけではないけれど、その指は確かにあの日、あたしの中で激しく動いていた愛すべき指なのだ。もう誰にも渡さない。
あたしはあの日から、お兄ちゃんではなく、お兄ちゃんの指を愛していたのかもしれない。
お兄ちゃんの右手は、生まれつき全ての指が一般的な人間の指の長さの倍くらいあった。
子どもの頃は、あたしの指と同じように、お兄ちゃんも、クモ男とか妖怪指長男と言われてからかわれていた。
あたしは、裕子と関係をもったあと、これまで抑え込んでいた性の欲求を解き放つように何人もの男とセックスをして、何度も愛撫をされて来たけれど、お兄ちゃんの指程、あたしの奥を満たしてくれる男の人はいなかった。
これからは、毎日、このお兄ちゃんの指に犯されるのだ。そう思うと、また、あたしの中の変質的な何かが怖ろしい程口角を上げた。その瞬間、あたしの左手のお兄ちゃんの指がザザザと動いた気がした。

(気象庁は今日、関東甲信地方の梅雨明けを宣言しました。昨年よりも十日遅い梅雨明けとなり・・・・・・)
その日の夜、テレビはようやく明けた梅雨の報せ一色だった。部屋に、天気予報士の弾んだ声だけが静かに流れていた。

あたしは明日、三番街に夏服を買いに行くための準備をしていた。お気に入りのバッグを取り出して、黄色い皮の財布と黒い折り畳み傘を丁寧にしまった。
(ロマンチック部長)

銀杏と傀儡

ちょっと、のっけからエロに振りすぎました。書き出した自分が戸惑っています。しかも書くペースがやたら早い笑。とてもよいウォーミングアップになりました。これからいろいろなジャンル、長さのものを書いていきたいと思います。次作はロマンチック部長の構想、書き出しで始めます。ロマンチックなストーリーになる、はずです。ご期待ください。
(射矢らた)


初めての小説リレーでしたが、まさか、いきなりエロ全開で始められるとは思いもよりませんでした笑

序盤はなかなかうまく展開できずに、ずっとエロを引きずっていましたが、最後は何とか文学的に?締められたかなと思っています。
14,000字に満たない短編ではありましたが、ふたりのリレーで5日で書き切れたのは、第1作としては上出来かと。内容は置いといて笑。
次作は、切ないラブストーリーを構想中。
(ロマンチック部長)

銀杏と傀儡

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2017-08-31

Copyrighted
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  1. 第一章 「暗渠」
  2. 第二章 「覚醒」
  3. 第三章 「悋気」
  4. 第四章 「儀式」
  5. 第五章 「奸計」
  6. 第六章 「受粉」
  7. 第七章 「猜疑」
  8. 最終章 「雨乞」