夢の中の青い女 新宿物語 3
夢の中の青い女 新宿物語 3
(6)
「いいえ、わたしも今来たばかりなんです」
治子もまた、普段、佐伯に見せた事もない幸福感に輝く笑顔を浮かべて言った。
「そうですか、でも、良かった。これで佐伯さんの葬儀もとどこおりなく済んで、これからは誰にも気兼ねする事なく会えますよ」
「そうね、せいせいしたわ。今まではどうやってあの人の眼をごまかそうかって、そればかりに気を使っていたから」
「でも、今までに気付かれた事はなかったんでしょう」
「ええ、それはないわ。なにしろ、その方面に関しては鈍感な人だったから」
治子も小宮も佐伯の間抜けさ加減を嘲るように声を合わせて笑った。
「仕事、仕事の毎日なんて、どうにかしてますよ。あれでいいと思っていたんですからねえ」
「まったく、バカバカしいわ」
「ところで、お子さん達は?」
「奥の部屋にいると思いますわ。こんな霧の深い夜だから何処へも出ないでしょう」
「そうですか、それなら安心だ。今夜は二人だけでゆっくり楽しみましょう」
「そうね、さっき、ラジオで言ってましたわ。こんな霧の深い夜にはセックスが最適だって」
「ああ、言ってましね」
「今夜は誰にも邪魔される心配がないから、存分に楽しめるわ」
「期待してますよ」
「何を?」
「あれを」
「まあ、いやな人 !」
治子はそう言って、軽く小宮をにらみ返すと、手に手を取って何処かへ消えて行った。
佐伯は茫然自失でその場に立っていた。もぬけの殻になった舞台が眼の前にあった。異様に明るい照明が、もぬけの殻以外に何も映し出していなかった。佐伯は今、手を取り合って何処かへ消えて行った二人の後を追うように、舞台の方へ歩いて行った。その袖から段梯子を踏んで舞台へ上がって行った。二人が消えた方角を見ると、闇があるだけで何も見えなかった。佐伯がそこでも茫然自失の体でいると、またクスクス笑いが何処からともなく聞こえて来た。明らかに妻に浮気をされた間抜けな男を笑っている声であった。佐伯は次第に大きくなって来るその声に耐えられなくなって、舞台の右手の暗闇の中に飛び込んで行った。しかし、暗闇だとばかり思っていたそれは、次の部屋とを仕切る黒幕であった。分厚い感触のその幕を両手で分けると瞬時に、百畳ほどもあるかと思われる座敷が眼の前に開けた。そこでは大勢の人達がさまざまな料理を前に酒を酌み交わしていた。誰もが喪服に身を包んでいた。明らかに通夜振る舞いの席らしかった。正面のテーブルには一対の花籠に挟まれて、黒いリボンを掛けた額縁に入った写真が置かれていた。佐伯は先程、妻と小宮が話していた事が気になって、もしや、と思いながら近付いて行った。次第にはっきりして来るその写真は、紛れもなく自分のものであった。佐伯は体中が熱くなる程の激怒に襲われた。我を忘れて叫んでいた。
「いったい、これは、なんの真似なんだ。こんな写真を飾って ! おれはちゃんと、ここに居る !」
酒を呑み、料理を口に運んでは談笑に夢中だった人々の視線が一斉に佐伯に向けられた。座が静まり返った。
「おれはちゃんと、ここに居るんだぞ。それをいったい、なんの真似なんだ。こんな事をして !」
「誰? あの人」
人々が口々に囁き合った。
「酔っ払いじゃない?」
あちこちで声がした。
「おい、その男を摘まみ出せ 。気違いだ ! 気違いだ !」
一番前の席にいた年配の男が立ち上がって佐伯を指差しながら指示をした。
佐伯の近くにいた男がすぐに飛び掛かって来て、腕を取った。
「あっちへ行け ! ここはお前なんかの来る場所じゃない」
佐伯が睨み返すと、男は毎日顔を合わせている課長の富田信二だった。
「なんだ、おまえは富田じゃないか ! なんだって、こんな事をするんだ 。いったい、これはなんの真似なんだ ! おれはちゃんとここに居る」
佐伯は腕を振り払おうとしながら言った。
「何を訳の分からない事を言ってるんだ ! さっさと、あっちへ行け」
富田は佐伯の言葉も無視して強引に連れ出そうとした。佐伯が力の限り踏ん張って抵抗すると、更に二人の男が立ち上がって来て佐伯を捕まえた。
「さっさと、あっちへ行け ! 馬鹿野郎 ! おまえなんかの来る所じゃない」
佐伯は男達に取り囲まれ、引きずられて、むりやり座敷の外の闇に連れ出された。男達はそこで佐伯を突き飛ばすと、自分達は再び座敷に戻り、大きな音を立てて扉を閉めた。佐伯はすぐに扉の把手(はしゅ)を握って開けようとしたが、扉はびくともしなかった。中でみんなの一斉に笑う声がした。佐伯は怒りに満ちて扉をたたき、蹴飛ばしながら、なおも開けようとしたが、扉は依然として開(ひら)かなかった。佐伯は諦めると、その前を離れた。また、とぼとぼと歩き始めた。むろん、この暗闇が何処に続いているのか、分かるはずもない。絶望感だけが深かった。誰からも見放されてしまった気がして惨めだった。いったい、これからどうすればいいんだ ! 何もかもが分からなかった。
そのうちどうやら、自分が細い廊下のような所を歩いているらしい、という気がして来た。左右に壁のような何かがあるような気がする。しかし、手を延ばしてみても触れる事はなかった。いずれにしても、この暗闇を歩いて行くより仕方がない。いつかは何処かへ出られるだろう。自分が今、追い出されるようにして後にして来た場所には未練はなかった。嫌悪感と強い忌避の思いを抱いてその世界を振り返った。愚劣だ ! 何もかも愚劣だ ! 彼等に追い出されたせいばかりではなかった。世の中全体に対する拒絶の思いが強かった。それより、今はむしろ、こうして歩く事に満足していた。こうして歩いて行けば、やがて何時かは、別の世界へ出られるだろう。そう考えると闇の中を歩く事も苦痛ではなかった。
おや ! と佐伯は思った。小さな点になって、滲む灯りが見える。なんの灯りだろう。部屋の入り口に点る明かりのようにも見えるが・・・・。近付くに従って、それが、豆電球の明かりである事が次第にはっきりして来た。佐伯は気持ちの救われる思いがした。この暗闇の中でも灯りを点している部屋がある。闇一色に馴れた眼には、小さな点のような明かりであっても、張り詰めた心のほどける思いがした。--ようやく灯りの下に立つと佐伯は、分厚い木製の扉を前にして一瞬、戸惑った。このまま声を掛けてもいいのだろうか? 中にいる人達はもう、こんな闇の、深い夜の中では眠ってしまっているのではないか、そう考えたが、この闇から抜け出るためには、何処へ行けばいいのか、聞いてみるより外に手段はない、そんな気がした。
佐伯は思い切って扉をたたいた。中からはすぐに返事があった。
「どなたですか?」
若い女性の声がした。
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