2nd吹きの憂鬱〈上〉

ちぃひろ

一、

それは小さなミスだった。
僕はさすがの朝比奈先輩も今日ばかりは緊張しているなと思いながら、次の吹き出しに向けて楽器を構えた。
ミスと言ってもたった一音を外しただけだ。そのソロの中で一番高い音が、掠れて音にならないままトランペットのベルから放り出された。けれども、朝比奈先輩は落ち着き払った様子で舌を突き直し、次の音から危なげなく、朗々と吹き切った。相も変わらず、聞く者の指先に痺れを残すような、心打つ音色だった。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」冒頭部のトランペットソロ。哀愁あるメロディーをゆったりと歌いあげる。数ある吹奏楽コンクールの定番曲の中でも、これほど精神的な負担を要するソロはないだろう。
このソロは一人席を抜け、舞台脇で吹くことが慣例になっている。周りに仲間のいない場所で、そして伴奏も殆どいないという場面で、否が応でも自身の音と向き合わなければならないこのソロは、奏者に凄まじいプレッシャーを与えるはずだ。今の僕には、正直遠い世界の話だ。
そんな高度なソロを朝比奈先輩はいつも美しく歌いあげてた。
今日だって、このコンクール会場のリハーサル室での最終調整という場面で、これほどの演奏ができるのは、とんでもないことだ。勿論、さっきのミスを含めたとしてもだ。
朝比奈先輩は、昨年までは然程目立たぬ存在だった。当然彼女が上手いことには誰だって気づいていたが、それは「それなりに上手い」という評価に留まっていた。1stを吹くこと自体が珍しく、ここぞという大曲では常に2ndを吹いており、彼女はいつも補佐する役だった。
そんな先輩がこのコンクールでトランペット1stパートの軸となるーすなわちバンド全体の軸となるートップに選ばれたのは、たった三ヶ月前のことだ。同期の後押しもあり、2nd吹きだった彼女は突如としてトップの席に座るようになった。
彼女の本当の才能が開花したのはそれからだ。特に、このコンクール自由曲の冒頭部にあるソロに関して言えば、文句の付けようがない。練習の際、柔らかく、そして切ない旋律に心惹かれ、僕が自分の演奏を忘れてしまったのは一度や二度ではなかった。
だから、立派にソロを終えてトップの席に戻ってきた先輩の息漏れが、曲が進むにつれて、段々激しくなり、そして終いには音が出なくなっていることに気がついた時に、僕はどうしていいかわからなくなった。全身で感じるほど心臓が激しく脈打ち、僕は縋るように横目で先輩を見た。
先輩の顔は真っ青だった。手が震えていた。不自然に揺れる目が不気味だった。僕はその背中に大丈夫だと声をかけてやりたいと思ったが、演奏中にそれはできないことだった。
不意に先輩の顔が強張った。音を無理やり出すために、力んだのだ。途端、盛大に外れた音が、先輩のベルから飛び出ていった。
バンド全体が不穏な空気に包まれた。
指揮者のツノムーの眉が上がり、指揮棒が下され、演奏が止んだ。
「朝比奈。B♭六拍」ツノムーはさっと腕を振り上げ、拍子を刻んだ。
朝比奈先輩は、音を伸ばすただそれだけのことができなかった。何度か挑戦したが、大抵は音を外したし、当たった時も音が定まらず、真っ直ぐに六拍伸びなかった。
ツノムーはしばらく顎を撫で考えていた。僕は腹の底が冷たくなるのを感じた。
「ラッパの座席を変える。高市、トップに座れ」
「はい」僕の名が呼ばれた。声が震えないようにと、思い切って返事すると変に大きな声が出た。
「その横に立花、朝比奈はその横だ」
立花、朝比奈先輩もはっきりとした声で返事した。
「朝比奈。無理して音を出そうとする必要はない。きついところはオクターブ下げろ。朝比奈が下げたところは、その分トップで音量を調節しろ」
はい、という朝比奈先輩と僕の短い返事が重なった。
「それから……ソロは、豊田。お前が吹け」2ndの豊田先輩が、息を飲む音が聞こえた。けれども、豊田先輩は怯むことなくはっきりと「はい」と答えた。
「よし、本番前に一度だけ冒頭やるぞ」
「はい」バンドのみんながそれぞれの不安を押し殺し、力強く返事した。


二、

また寒さをぶり返した五月初めのある日のことである。
「朝比奈をトップにだと?」ツノムーが、気難しそうに机を指で叩いた。
「そうです。朝比奈の実力は、側で吹いてる俺が保証します」豊田先輩が声を張り上げた。
先日、八月初旬に行われるコンクールにむけた部内セレクションが行われた。今年はトランペットから八人がコンクールメンバーに選ばれた。トランペットが八人と言っても、この八人全員が全く同じ楽譜を吹くわけでない。今年の楽譜は、1st、2nd、3rdの三パートに分かれており、八人のそれぞれのセクションを決めるために、トランペットパートのパートリーダーである豊田先輩と次期パートリーダーの僕は音楽準備室へ呼ばれていた。
1st、2nd、3rd、どれが偉いというわけではないが、やはりメロディの主となる音を吹く花形は1stで、その中でもその軸となるトップは、パート内で一番上手い者が吹くのが常であった。
「朝比奈を1st、トップにか?もし、同期の好でいっているんだったら……」
「同期の好なら、太田にだって1st吹かせたいです。だから、そんな甘い考えで言っているわけじゃないんです」豊田先輩は顧問兼指揮者の角田先生の言葉を遮り言った。
角田先生は相変わらず険しい顔をしている。もともと、仏頂面のツノムーではあるが、今日はいつも以上に愛嬌のない顔をしていた。けれども、普段は素直に顧問の指示に従う豊田先輩が全く引く様子を見せなかった。
僕は黙って事の成り行きを見守っていた。豊田先輩の真意を知りたかったからだ。
豊田先輩の押す朝比奈先輩は確かに上手い。けれども、ここ一番の大曲で1stを吹いているイメージはなかったし、昨年のコンクールでもトップを務めた豊田先輩と比べたら、かなり線が弱い。
けれども、あの豊田先輩がこれだけ推薦しているということは、僕には気付けない何かがあるのだろうとも思っていた。
豊田先輩は本当に凄い。僕より頭一つ分背の高い先輩は、その体格にしても、少しくしゃくしゃの髪も、顔つきも、よく動く口元も、何もかもがトランペットによく似合う。
そして、とにかく上手い。昨年のコンクールで二年生にして、このバンドのトップを任された。本人はお金がないからと断っていたが、トランペットレッスンの先生は豊田先輩に、然るべき師匠についてもらって藝大に行くことを勧めていた。吹奏楽界の甲子園である普門館に、昨年このバンドが行けたのも、正直豊田先輩の力が大きい。
僕はありがたくも、昨年のコンクールで先輩の横の席で吹くことができた。その音は伸びやかで華やかで、本当に同じ高校生なのかと疑うほどだった。
それでいて先輩は、優しかった。上手いからといって、威張ることはない。勿論、音楽に対しては、いつも真剣だった。けれども、下手な者を締め出そうとするそんなやり方ではなく、どんな時も今のメンバーで、最上の音楽をする方法を考えていた。
だから、そんな豊田先輩が朝比奈先輩をトップに押すのであれば、何かそれに値する充分な理由を持っているのだろうと思ったし、僕はそれが何なのかを知りたかった。
しかし、朝比奈先輩をトップにするという豊田先輩の申し出に、ツノムーは不満の色を顔に出した。
「俺は別に朝比奈の実力を疑っているわけじゃない。朝比奈の繊細な表現力は本物だ。フリューゲル(フリューゲルホルンの略。トランペットパートの人が持ち替えで吹くことが多い)なんかを吹かせたらお前でも勝てないだろう」
豊田先輩は頷いた。
「はい。それに朝比奈の周囲に合わせて吹く能力は僕にはないものです。今年の自由曲をカヴァレリアにするつもりなら、木管ラインの動きを意識して演奏できる人間がペットのトップに立つべきです」
「それくらいお前もできるだろう」ツノムーが言った。
「けれども、この曲の音色に合うのは、俺より朝比奈でしょう。それに俺はこの曲で朝比奈のソロが聞きたいんです。絶対、あいつの音、合うと思うんです」
「じゃあ、わかった。もし仮に朝比奈をトップにしたとする。たが、そうなると2ndの軸は誰にするんだ。軸になるようなやつはいるか? 高市、こいつは……」ツノムーは僕を指差した。
「こいつは、それなりに実力はあるだろうが、2ndがなんたるかをまだ掴んでないぞ。そりゃ、こいつは努力するだろうが、総合的に見て、朝比奈トップはマイナスだ」ツノムーは目の前で大きく手を振った。
ツノムーの言うことはやはり最もだと僕が納得したとき、豊田先輩がはっきりも言った。
「だから、俺が2ndに降ります」
「え」短い叫び声を発したのは、僕だった。ツノムーの太い眉が大きく吊り上がり豊田先輩を睨んだ。
「その覚悟なんだな」
「はい」豊田先輩は何のためらいもなく言い放った。僕は二人を交互に見遣った。どちらもしばらく動かなかった。
ボーと、遠くにトロンボーンのロングトーンが響いた。続いてパーンと張り切ったトランペットの音が聞こえた。ああ、あれは立花の音だな。そんなことを考えた時に、漸くツノムーが机を叩いた。
「よし、わかった。1stは朝比奈をトップに、あとは高市と、立花。2ndはおまえと榮、3rdは伊豫田が軸で、安西、太田だ。席順は今、名前を挙げたその順だ。これで文句ないな」ツノムーの目がギラリと光る。
先輩は満足気に笑った。「はい」
ツノムーは目の前の紙にメンバーを書き込み、一度力強く頷いた。
けれども、しばらくそれを眺めて、やっぱり不安そうにそれを指で何度も弾いた。ツノムーの表情は二転三転した。朝比奈先輩をトップにしてよいのか、豊田先輩を2ndに降ろしてよいのか、まだ迷っているようだった。
「練習に戻れ」やがてツノムーはメンバー表を睨んだまま唸った。僕らは挨拶し、部屋を後にしようとした。
しかし、ツノムーの声が僕らを引き止めた。
「豊田。やっぱり、朝比奈にトップは厳しいかもしれない」思いの外、普段の彼に似合わぬ優しい声だった。
「先生は仰ったことを覆すっていうんですか」
「いや、そうじゃない。でもな。ずっとトップを吹いてきたおまえにはわからんだろうが……、やっぱり。やっぱり、トップは凄いんだぞ。おまえが考えているよりずっとな」
「先生は朝比奈では足りないと仰るんですか」
「そうじゃない。そうじゃないんだ。だが、誰にでも出来るもんじゃない。トップに必要なのは、腕だけじゃない。背負うものが……」
「みんな朝比奈を理解していない。彼女なら、絶対にやってくれます」豊田先輩はそう言い切った。そして苛立たしげに挨拶をし、部屋を立ち去った。
「角田先生……」僕は先生を見た。
見慣れたしかめっ面が迷っている。ツノムーは、気難しい。けれども、決して愚鈍ではない。いつも的確で、優れたこのバンドの指揮者だ。情も現実もひっくるめて全てを抱えてタクトを振るのが彼という人物だ。
果断に富んだ彼が、迷っている。
「高市」不意にツノムーが僕の名を呼んだ。鋭い声だった。
「朝比奈の横で、勉強しろ。豊田の言う通り、確かに朝比奈は良いものを持っている」
「はい」僕は強く頷いた。

三、

自由曲カヴァレリアの初合奏の日、僕は豊田先輩の正しさを知った。
冒頭部のソロ。朝比奈先輩は、それを朗々と吹ききった。けれども、それは決して横暴ではなく、とても繊細で、切なくて、なんだか胸を締め付けられるような寂しさを孕んだ美しい調べだった。
先輩がソロを吹く間、目を閉じると、音が心に沁みた。なんだか、感傷的になって、胸を掻き毟りたくなった。
唐突にわっと音が周囲に広がった。気づけばトゥッティになっており、僕は慌てて楽器を構えた。横目で右を見ると、豊田先輩も入り損ねているのが見えた。ラッパパートの音はいつもよりかなり薄かったので、僕や豊田先輩以外にも入り損なっている人がいるに違いない。
ツノムーが指揮棒を下ろすと、ラッパを握った指先に鈍い痺れを感じた。
ああ、僕は朝比奈先輩を理解していなかった。
毎日ひたすらロングトーンや基礎練習をしていた先輩の姿が頭に浮かんだ。派手なハイトーン練習や、超絶技巧の曲練習をしている姿はあまり見ない。だれよりも基礎に忠実に、真っ直ぐに努力してきた先輩が、どれほど力を持っていたか、同じパートにいながら気付けなかったことが悔やまれた。
けれども、朝比奈先輩の本当の才能は、合奏する度に徐々に明らかになっていった。
ある日の合奏で、コンサートマスターであるクラリネットの友人が、突然後ろを振り返った。一瞬僕の演奏にミスがあったのかと、どっきりしたが、直ぐにそうではないことがわかった。振り返った彼の顔はどこか嬉しそうであり、同時にどこか意地悪なところも持ったなんとも言えない表情をしていた。
あとで聞くと、朝比奈先輩が、あまりにも自分の演奏に合うように寄せてくるので、面白くなって振り返ったとのことだった。
その日を境に、各パートのトップ勢がこぞって朝比奈先輩を褒めるようになっていった。そして、彼女のアンサンブル力は凄いと口を揃えた。
僕も合奏が始まって二週間ほど経った頃、バンド全体の音色が絶妙に混じっていることに気がついた。
そこで、ようやく僕は豊田先輩やトップ勢のいう朝比奈先輩の本当の実力を知った。


四、

六月のある休日練習終わりのことだ。僕は、太田先輩とこっそり買い物に出かけた。朝比奈先輩にパートからの誕生日プレゼントを買うためだ。トランペットパートは全員で十四名いるが、塾やら補習やら、髪を切りに行くやらなんやらで、中々みんなの予定が合わず、結局二人で買いに行くことになった。豊田先輩は塾の補講が終われば合流すると言っていた。
「まず、百均行くよ!」太田先輩は僕を勢いよく引っ張って、商店街の奥にずんずん進んでいった。
店舗に入っても、先輩の勢いは止まらない。
「はい、これ着せ替え人形」
「はいこれ、足ツボマッサージャー」
「はいこれこれ、虫かご」
「そんなもの、絶対いらないでしょう」
「まじめなもんばっか渡しても面白くないでしょ」
太田先輩は、本当に楽しい人だ。よく手を叩いて、笑って、いつも賑やかだ。
けれども、楽器は吹けない。
トランペットを始めて六年目になるが、高い音が全然当たらない。吹きやすいはずの音域も息漏れが激しく、スカスカの音が出る。勿論、練習不足というわけではない。人並み以上に練習するし、音痴というわけでもない。
でも、トランペットの音は出ない。
太田先輩は、恐らく三年生だからという理由でコンクールメンバーに選ばれた。ツノムーはそうだとは絶対に言わないが、本人もみんなも薄々気づいている。
でも、朝比奈先輩はコンクールメンバーの発表の時に、太田先輩がメンバーに入っていることを知り、泣いて喜んだ。自分がトップに選ばれていることは、聞き漏らして。二人は本当に仲が良い。
「あとは……。一つくらい真面目なのも買った方がいいよね。そういえば、アサヒ、トランペットのネクタイピン欲しがってたから、楽器屋いってもいい?」
「別にいいですよ」楽器屋までは少し歩くが、楽しそうに騒ぐ先輩の意見を覆したいとは思わない。
ポケットの中が震え、中のスマホを見ると、豊田先輩からメールが入っていた。今補講が終わったから、あと半時間ちょいで着く、と。
僕は指で画面をなぞり、楽器屋に行くことを伝えた。

この辺りの楽器屋といえば、ここしかないが、店舗自体はそこそこ大きい。六階建ての建物で管楽器のフロアはその五階にある。騒がしいCD販売のフロアを抜け、狭いエスカレーターで、上へ上へと登ると、やがて落ち着いた空間が現れる。ショウウィンドウには、今日も金銀に輝く楽器が飾られている。僕は自分の楽器を持っているけれども、店頭に並んだそれを見ると、やっぱり欲しくなる。そして、値段を見て、やっぱり溜息をつく。
「いいよ、楽器見てて。買ってくるから」太田先輩は雑貨売り場に駆けて行った。僕はもう一度ショウウィンドウを眺める。買うことはないだろうけども、吹いてどんな音がするのか試したくなる。
見た目は似ていても、楽器というのはそれぞれ出る音が違う。値段の高い楽器がいい音がするというのは当たり前のことだけど、曲との相性もある。好みもある。僕は、もし次に買うならと勝手に仮定して、あれこれを見比べて、それを吹く自分を想像して一人楽しんだ。
暫くして、太田先輩が手を振り戻ってきた。
「ほらみて、これ。可愛いっしょ。アサヒが欲しがっていたネクタイピン」太田先輩が掌の上にケースに入ったトランペットの形のネクタイピンを取り出した。店内の照明に金が眩しい。
「僕もそれの銀色持ってます」僕がそう言うと、太田先輩は「あんた、本当にラッパ馬鹿ね」と呆れた顔で笑った。
店舗の奥に、細いエスカレーターがあって、僕らはそれに乗って下へ降りた。降り口手前のショウウィンドウにBachのトランペットが飾ってあって、エスカレーターに乗る直前で、僕はまた足が止まりかけた。先を行く太田先輩の姿を見て慌てて飛び乗ったが、首が楽器を追ってしまった。
太田先輩が僕を振り返ってまた笑った。
「先輩は、自分の楽器、欲しくなったりしないんですか」僕は尋ねた。
太田先輩は、ずっと学校の楽器を使っている。学校の楽器は古くて、臭い。メーカー的には、そう悪くはないけれども、やっぱり自分の楽器が欲しいと買う人は多い。他の楽器と比べると、トランペットは安価なものも多く、高校生にもなると自分の楽器を持っている人は多い。
「マイ楽器かあ。今更買ってもねって思うわけよ。吹いてもあと数ヶ月だし」太田先輩はリュックの中を探りながら答えた。
「卒業したら、ラッパ、辞めちゃうんですか」僕は尋ねる。
「まぁ、私は専門学校だし、たぶん部活ないんじゃないかな。もし、どっかの楽団入って続けるにしても、次はホルンかユーフォかな。私って、ラッパの才能ないじゃん」先輩はふっくらとした唇を尖らせて言った。
僕は咄嗟に返すことができなかった。
「あ、トヨ、もうすぐ着くらしいよ。公園で落ち合う感じでいい?」先輩の声に僕は頷いた。店を出ると、昨夜の雨のせいか、この時期にしては少し冷めた心地よい風が吹いていた。

公園のブランコに二人並んで座って豊田先輩を待った。
太田先輩は足を地面から浮かせて、ブランコを揺らめかせた。ほんのり冷たい風が、太田先輩の一つに束ねられた髪を柔らかく靡かせた。
「先輩と朝比奈先輩って、本当に仲いいですよね」僕は言った。
「そう見える? 見えるだけかもよ」そう言いながらも、先輩は嬉しそうだった。
「プレゼント選びに迷いがなかったじゃないですか」僕は言った。
「そりゃ、だって中学の時から、ずっと一緒にラッパ吹いてんのよ。好みとか趣味くらいは知ってるよ」先輩は得意げに鼻を鳴らした。
そうだ。二人は同じ中学校出身だった。
僕にとって、朝比奈先輩は入部した時から先輩だった。しっかりしているし、楽器もそこそこ上手いし、中学生のような幼い面影を感じたことはなかった。それでもやはり、先輩にも中学時代はあったのだ。
「朝比奈先輩って中学校の時、どんな感じだったんですか」
「まんま、まんま。しっかりしているようで、結構抜けてるとことか、中身は全然変わってない」当たり前のことだけれども、太田先輩にとって、今の朝比奈先輩は昔の続きなのだ。それがちょっと面白い。
「本当に昔から仲が良かったんですね」僕はそう言った。
「だって、弱小校で人数も少なかったから。一年生の時に、三年生の先輩がいただけで、先輩が引退してからはラッパパートは私とアサヒの二人しかいなくてさ」太田先輩は思い出すように青空を眺め、ブランコの鎖をぎりりと握り、足を伸ばしたり曲げたりしていよいよ大きく漕ぎ出した。
「その、アサがよ、今や名門校のトップよ。凄くない? 強豪校で勝ち抜いてきた面々差し置いて、うちのエースって。そりゃ、アサよりトヨの方がトップに向いてるって言う人がいるのも、まあ分かるけど、でも、なんやかんや言われても、それなりに立派に務めてるじゃない」先輩が声を張り上げた。
ブランコは少しずつその振り幅を大きくしていった。高く上がったスニーカーの赤が空に映えて美しい。
「昔はね、二人しかいないもんだから、常にニコイチで、アサが1st吹いて、私が2nd吹いていたの。勿論、アサヒはあの時から上手くて、私は下手だったんだけど、それはそれで楽しかった。ラッパ二本しかいないから、合奏は基本いつも隣同士でしょ。だからね、パート練習はもちろん、合奏の時も、アサの音を聞いて、徹底的にアサに合わせんの。アサの音って本当に良いから、あんな感じで吹きたいなって思いながら。それでも下手くそだから、中々上手くはいかないんだけど、タイミングとか音程とかね、時々ピッタリ合うことがあるの。そしたらね、アサヒ、楽器吹きながら、ちょっと笑うの。子どもみたいに。それが嬉しくってさ。ああ、今は端と端で遠く離れちゃって、そんなことできないけど。アサはどこまでいっちゃうんだろう」思いっきり漕いで息を切らした太田先輩はやがてゆっくりと、元の位置に戻った。
僕はふと、トップ席に座ってなお、クラリネットやトロンボーン、様々な楽器に目をやる朝比奈先輩の姿を思い出した。
「だから、朝比奈先輩は色んな人に合わせるんですね。太田先輩に合わせられる面白さを教えてもらったから」僕はそう呟いた。
朝比奈先輩の強みは、そのアンサンブル力だ。華なら、豊田先輩には全く敵わない。でも、今年の自由曲は、華やかさより、バンド全体の音色の質、つまり音の混ざり方が問われる。そう踏んだからこそ、豊田先輩は朝比奈先輩をトップに薦めたのだ。今なら、それがよくわかる。
中学で合わせられる面白さを知り、今までの高校生活で2ndとして合わせる面白さを知り、そして卓越したアンサンブル力を身につけてトップになった。朝比奈先輩は太田先輩なしでは、生まれなかっただろう。
ふと携帯を見ると、五分ほど前に豊田先輩から、最寄りの駅に着いたとの連絡が入っていた。
「先輩。豊田先輩もう着くそ……」そこまで言って、振り返って、僕は初めて太田先輩が泣いているのに気がついた。
顔を掌で覆っているが、手首を伝っている涙と、隠しきれない紅い耳が先輩が泣いていることを示していた。
「太田せん……ぱい?」
声をかけた瞬間、先輩は酷くしゃくり上げた。
僕が戸惑っていると、先輩は髪をかきあげ、顔をぐしゃぐしゃに潰したままこちらを向き、僕をぽこぽこと叩き始めた。
「もう。本当嫌。高市嫌い。なんで、そういうこと言うかな。ほっんと、嫌」
先輩は笑っていた。笑っていたけど、泣いていた。口だけあははと笑っていて、涙を流していた。僕はどうすることもできず、されるがまま叩かかれていた。

「悪いね。遅れた」
不意に豊田先輩が背後から現れた。
泣いている太田先生を見て、先輩は大きくため息をついてみせた。
「太田。高市に泣かされたのか」
「そう。フラれたの。ひどくなあい?」太田先輩はそう言い、豊田先輩のブレザーに縋り付いた。
豊田先輩は、小指の変形したトランペット吹きのその手で泣きつく太田先輩の頭をそっと撫でた。
「高市、先輩振るとか最悪やな」豊田先輩が言った。
「え……いや、そんな……」
先輩と目があった。穏やかな目が今は何も言うなと諭していた。僕は自然と頷いた。そして、豊田先輩は手を振って、僕に席を外すように促した。
 僕はどうしようもなく、公園の入口に立ち、二人が出てくるのを暫く待った。五分ほど話していたようだが、やがて二人揃って公園から出てきた。 
 豊田先輩は僕に並ぶとすぐに言った。
 「よし。じゃあ、早く飯行こうぜ」
 それを聞くと、太田先輩はまだ少し紅い顔をあげ、白い前歯を見せ笑った。
僕らは三人並んで、近くのファミレスに向かった。その間太田先輩はいつも以上にお喋りだった。さっきまで泣いていたことを隠すように、よく笑った。
そして、唐突に、我慢できなくなったように声を張り上げて言った。
「ああ。高市、あんたの唇が欲しいよう」
何を言っているか、僕にはわかったが、周囲を歩いていた人は一斉に振り返った。
「ちょっと、もう先輩」僕が太田先輩をぎろりと睨むと、先輩二人の笑い声が高らかに響いた。
ひとしきり笑ったあと、豊田先輩が言った。
「で、その唇でアサの隣で吹くわけだ」
太田先輩がわざとらしく舌打ちした。
太田先輩は、全部わかっている。朝比奈先輩の隣で吹くどころか、彼女の唇はトランペットには向かないということ、コンクールに出ることができるのはただの同情に過ぎないということ、そしてそれがみんなの足手まといになることを意味しているということ。わかった上で、全部胸にしまって合奏に臨んでいた。
どんどん伸びてゆく朝比奈先輩を羨ましく思わなかったはずがない。けれども、妬まず、逃げ出さず、声に出さず今日までやってきた。
さっきの僕の一言は、どれほど残酷だったであろうか。
太田先輩は、はりきった足取りで、僕らの少し先を歩いた。そして、歩きながら、僕らを振り返って、「もし、今日のこと誰かに話したら、マウスピースにワサビ詰めるからね」と言った。
豊田先輩がくすくす笑った。そして、太田先輩が前を向いた隙に、僕を指差しズボンのポケットを叩いた。
僕がポケットからスマホを取り出して、指でなぞると豊田先輩から新しくメールが入っていた。
ーありがとうー
僕が豊田先輩の方を見ると、先輩は嬉しそうに頷いた。


五、

梅雨も過ぎた頃である。コンクールの課題曲「南風のマーチ」、自由曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」は共に順調に仕上がり始めていた。
今日は課題曲の合奏があった。朝比奈先輩のアンサンブル力を知ってから、僕も少しはそれに近づこうと思って、とにかく先輩の吹き方に揃えるように心がけていた。トップの隣の席だ。こんなに朝比奈先輩を学べる席はない。
合わせて吹くということを強く意識するようになってから、今まで朧げにしか感じ取れていなかったものが、はっきりとわかるようになっていた。たとえば、クラリネットやトロンボーンのトップも朝比奈先輩をよく聴いて吹いているということ、トップ同士が互いの形を揃えることで指揮者が指示を出す前にこのバンドの方向性を形作っているということ、などなど。
また、どんなにトップだけが上手くても、それは意味がないことも知った。
豊田先輩はやっぱり凄い。豊田先輩は徹底的に朝比奈先輩に合わせている。それが実に上手い。音程、音形、音量、全てがトップの音と最高のバランスになるよう調整している。最も豊田先輩の言い分によると、そのテクニックを教えてくれたのは朝比奈先輩だと言う。
ずっとトップの席で吹いてきた豊田先輩は2nd吹きの朝比奈先輩にアンサンブルの面白さを教えてもらったと言っていた。
また、豊田先輩が朝比奈先輩に合わせるそれに、3rdの軸である伊豫田も負けじと食らいついていた。1st、2nd、3rd、それぞれがそれぞれの役割を確実に果たすことで、美しいハーモニーができあがる。こうしたトップを軸とした纏まりあるサウンドが、このバンドの魅力なんだと今更ながら痛感した。
3rdの伊豫田は僕と同期の二年生だ。僕は伊豫田の音が結構好きだ。豊田先輩や一年生で1stに選ばれた立花のように、ずば抜けたテクニックがあるわけではないが、音色がクリアで聴いていて清々しい。高音域も安定しているので、コンクールで1stを任されたとしても、トップでなければ十分立派に務めることができるだろう。
だからこそ、3rdの軸として選ばれた。
今もあの先輩衆に遅れをとることなく、3rd吹きとしての役割を果たしている。伊豫田にこんなにもアンサンブル力があったとは、正直意外だった。思い返して見ると、伊豫田はこの前の冬に行われたアンサンブルコンテスト(3〜8人の小編成で行うコンテスト)で朝比奈先輩とタッグを組んでいた。あの時は伊豫田が1stで朝比奈先輩が2ndだったから、その時にアンサンブルの仕方を学んだのかもしれない。
こういう層の厚いバンドにいることのありがたさを最近ひしひしと感じる。
そんなことをぼんやりと考えていると前方で、ツノムーの指揮棒が大きく振り上がり、僕は慌てて楽器を構えた。
爽やかな木管の旋律が奏でられ、僕らはその旋律と旋律の合間にタラランと短く華を添える。一瞬の出番だが、音楽的には大切なフレーズだ。トランペットは案外こういったメロディ以外の仕事も多い。
ツノムーが指揮棒を左右に振って、演奏がやんだ。そして、ツノムーの声が飛ぶ。
「そこ、トランペット! もっとキラキラさせろ。今のじゃ、ぬるい。息の初速を少しだけ速めろ」
僕は朝比奈先輩なら、これにどう応えるだろうと考えて、その通りに吹いた。
一回目。先輩と少しずれた。なるほど。そう吹くのか。了解。
それならと、イメージを修正しての二回目。結果、上手くはまった。そして、僕と同様に豊田先輩や、伊豫田も上手く合わせてきたことに気がついた。
いいバランスだ。うん、楽しい。
ツノムーも心地好さそうに、指揮を続けていた。

「なあ、イヨ。自分、腕あげたなあ」合奏が終わり、僕は雛壇上で楽器の片付けをしていた伊豫田の背を叩いた。
「なあにが、腕あげたよ。こちとら、あんたら化け物についていくのに必死よ」伊豫田はトランペットの管に溜まった水滴を、雑巾に捨てながら言った。
「化け物って僕も入ってんの?」
「入ってるに決まってんでしょ。いつも涼しい面で吹いてる人に褒められたって、腹立つだけだよ」伊豫田は片付けの手を止めて、きりりとこちらを睨んだ。
伊豫田の後ろで、楽器ケースを担いだ本物の化け物豊田先輩がにやけた顔でこちらに近づいてくる。
「まぁ、でも本当に伊豫田は上手くなってるよ」先輩は伊豫田の肩を叩いた。
「あざーす」伊豫田は照れを隠すように大きく敬礼して見せた。どうやら、僕に言われるのと違って、先輩に褒められるのは嬉しいらしい。
伊豫田は一通りの手入れを終わらせ黒いケースをパチンと閉じると、そっと僕を小突いた。
「今日この後いける?」
「今日はいけるよ」
「じゃあ、軽く食べに行こ」
「了解」

伊豫田と僕が向かったのは近所のファーストフード店だった。僕たちはMサイズのポテトフライとバーガー、ジュースをそれぞれ買って席に着いた。
席に着くなり伊豫田は言った。
「で、どうなのよ。1st勢の感じは」
「音の通りだよ」
伊豫田に誘われた時から、話題は大体分かっていた。今年のコンクールについて、伊豫田が何らかの意見を持っているのは、前々から感じていたことだ。こういう時の伊豫田のアドバイスは、ためになることが多い。そして結構面白い。
次年度のパートリーダーは僕だが、結局伊豫田の掌の上で踊ることになる気がしてならない。前にぐいぐい進み出る性格ではないが、何事も起こさず平然と彼女の考える方向にみんなを導いてゆく、そういうことができる人間なんだと思う。
さすが、未来の副部長。
伊豫田はポテトフライを勢いよく紙の上にばら撒いた。そして嬉しそうに舌舐めずりをした。真っ紅な唇がてらてら光った。合奏で痛めつけたその唇に塩気は少々辛そうだった。きっと僕も同じようなものだろう。
伊豫田はそんなことには頓着せず、ポテトフライを何本も掴み、勢いよく頬張った。
僕もポテトに手を伸ばし、大きめに口を開けて中に放り込んだ。時々ポテトが唇に当たって、その度にやはり、ぴりりと沁みた。
「音の通りね。確かに。……ね、あんたは朝比奈先輩のことはどう思う」伊豫田が僕に問うた。
「上手いよ。学ぶところが多い」僕は答えた。
伊豫田は、暫く何も答えずに摘み上げたポテトのその先端を面白くなさそうに眺めていた。そして「上手い。そうだね。上手いのは間違えないけど」と呟いて、黙りこくってしまった。
僕は伊豫田の言葉を待った。伊豫田は何か言いにくそうに、俯いて考えあぐねていた。けれども、そのうち伝える覚悟をしたと見えて、ちょっと顔を上げて、僕を見つめて言った。
「やっぱりさ、私は、タカチは朝比奈先輩に合わせて吹くの、止めた方がいいと思う」
「へ?」僕は飲み込んだレタスを思わず喉に詰まらせそうになり、ジュースで無理矢理奥に押し込んだ。
僕の焦り苦しむ様子を、伊豫田は腹を抱えて笑って見守った。やがて互いに落ち着いた頃に言った。
「えっと、だからね。あんた最近、吹き方を、かなり先輩に寄せてるでしょ。あそこまで寄せなくていいよ。もっとあんたの地で吹きなよ」
「え。何言ってんだよ。もっと合わせないとダメだろ」
徹底したアンサンブル。それがうちのバンドの魅力だ。それなのに、トップを無視しろだなんて、意味がわからない。
伊豫田は首を振った。
「あんたは普通に吹いてもそれなりのアンサンブルができるよ。たぶん。ねぇ、どうして今年が朝比奈先輩が1stになったのか考えたことある?」
「それは、勿論、朝比奈先輩のアンサンブル力が買われたから……」
伊豫田はまた首を振った。
「勿論それは第一だけど。でも、それだけじゃない。豊田先輩は、あんたを将来2nd吹きに育てるつもりだよ」
「へ? どういうこと? 豊田先輩がなんか言ってたの?」
「こら。そんな間抜けな顔するな。先輩は何も言ってない。でも、豊田先輩は恐らく来年のことまで考えて、朝比奈先輩を1stに押している。勿論、ツノムーも」
「どういうこと」
「来年のコンクールはあんたじゃなくて、立花がトップになりそうだってこと」
「立花? まあ、実際腕はあるからなあ」
「でも、立花の音は粗い」
「確かにうちのバンドっぽい音ではないよな。まだ。みんなと合わせるってキャラじゃないし」
伊豫田は頷いた。
「だから、逆にトップじゃないと立花は使いにくい」伊豫田は落ち着いた声で言った。
僕にも漸く理解できた。
「だから、朝比奈先輩の横に僕をつけ、僕のアンサンブル力を強化して2nd吹きに育てようとしている、って言いたいわけだ」僕は言った。
「そう。豊田先輩は自分たちの代さえ強ければいいとは思っていない。いくら朝比奈先輩が上手いと言っても、やっぱりよりトップ向きなのは豊田先輩の方だよ。もし、本当に今年の勝ちだけを考えているなら、このセクション配置はありえない」
その通りだろう。ツノムーは豊田先輩のそういう意図もわかって、案を受け入れた。
「そうか。それに、もし今年全国にいって、来年も行けて、そしたら……」
伊豫田が深く頷いた。
「そう。三出。三年連続で普門館にいったら、その次の年は、その学校はコンクールには出られない。順調にいけば立花が三年生の時に、私たちの学校はコンクールに出られない。だからこそ、来年のコンクールは下級生の育成が重要課題になる」
「立花の下の代が、一年空いてもその後のコンクールで結果を残せるよう、立花の代にそれだけの力をつけさせたいってことか」
何を言っても、コンクールに出ないと部の力は弱まる。だからこそコンクールに出られない一年間が勝負になる。どれだけその力を維持できるかが、その部の真の実力といってもいい。
ツノムーや豊田先輩は立花に普門館を経験させたいのだ。その場所を、トップの席から見える景色を、後輩たちに伝える者として。
「立花トップか。立花はまだまだ中坊だけど、来年には間に合うかもしれないね」一年生ながらに、堂々とトランペットを吹きこなす彼の姿を思い浮かべながら僕は言った。
不意に伊豫田は動きを止めた。そして静かに僕を睨み、凄んだ。
「それでも、私はあんたがトップがいい」ドキッとしてしまうような、鋭い眼差しだった。
「だってさ、どうせさ、合わせるならさ、タカチの音に合わせたいもん。私、あんたの音、結構好きだし」
今度は思わずジュースを噴き出しそうになって、慌てて紙ナプキンで口元をおさえる。
「何照れてんの。少なくとも、独りよがりの演奏しかできない立花よりかは、一緒に吹いてて楽しいよ」
顔が赤らむのを感じた。立花よりかはという前置きは付いているものの、一緒に吹いて楽しいと言われたことが、素直に嬉しかった。
それにね、と伊豫田が続ける。
「私は、やっぱり来年は私たちの代に活躍して欲しい。そういうの良くないとは思うけど、それでも自分の代が可愛いよ。一緒にここまで過ごしてきたメンバーだもん」
ああ、そういうことか、と僕は思った。
「つまりは、今ここにいない三人も、ってことだね」僕が言った。
伊豫田が苦々しく笑った。
「勿論。甘い考えだとわかっているけど。今年の三年は三人だったから、三年全員がコンクールに乗れたんだと思う。でも、私たちの代は五人。そのうち今年のコンクールに乗っているのは私たち二人。それに対して一年生は三人」
「コンクールに全員では乗れないかもしれないってことか」
「同情で乗せるのに五人は多すぎるってこと。あるいは同情で乗せたなら、普門館にいけなくなるかもしれないってこと」
「厳しいところだね」僕も頷いた。
「ツノムーは今まで、三年生は殆どコンクールに乗せてきたよ」
「ほとんど、でしょ。全員じゃない。それに、乗れたとしても、普門館に行けなきゃ意味がない」伊豫田は言い切った。
「普門館、ね」
「私も、一度だけ普門館で吹いたことがあるからさ。違うじゃん。普通のステージとは。感動っていうのかな。ああ、凄いってなったわけ。だから、なんとかみんなで味わいたい。私たちの代、五人で。勿論、後輩も先輩も大好きだけど、それでも同期の五人は特別なんだよ。普門館でみんなに自慢したい最高の同期なもんでさ」
伊豫田はそこまで言ってのけると、ジュースのストローをキュッと咥え、大きく啜った。
僕もジュースを飲もうとして、もう中身がないことに気づいた。カップを振ると、シャカシャカと氷の音がした。僕は蓋をとり、若干溶けた冷たい氷を口の中に流し込み、ついでに上唇を冷やした。
伊豫田の言いたいことはよく分かった。同じパートの同期をそんな風に思ってくれているのかと嬉しかった。ここにいない三人の顔を思い浮かべる。三人とも決し下手ではない。けれども、さして上手いわけでもない。パッとしない。高校から吹奏楽を始めたメンバーもいる。名のある中学でばりばりと吹いてきた一年生に、セレクションでは負けてしまった。
でも、確かにいいメンバーなのだ。みんな優しくて、あったかくて、何より楽器に誠実な、大切な同士だ。
伊豫田が言うように、五人で普門館にいけたら、どんなに幸せだろう。
そして、伊豫田は僕にトップを吹いて欲しいと言った。己の代が築いてきたものを、皆に見せつけるのだと。
確かに、自分たちの代の色を引き出すのであれば、立花より僕が適任に違いない。
けれども。
「だからって、2nd吹きにならないように、今からもっと我を張って吹けって? 僕はそんなことはしたくない。今がベストの演奏をしないと。気を抜くと今年だっていけないかもしれない。それが普門館だ。今、来年のことまで考えている余裕はないよ」
伊豫田はやはり不服を顔に表した。そして、言った。
「じゃあ、タカチ。あんた自身は、普門館で、トップで吹いてみたいって思わないわけ」
当たり前のことなのに、急に聞かれて驚いた。今まで考えてこなかったことだった。
「あんたはトップの席に座りたいって思わないの」伊豫田は繰り返した。
僕はそっと眼を瞑った。
1stの軸であるトップに選ばれるのは名誉なことだ。重圧も責任も大きければ、やりがいも大きいに違いない。僕はそれを任されたいとは思わないのだろか。
自身に問うてみて気がついた。
ーおまえにはこれをお願いしたいー
僕はそう言われるのが好きなのだ。他人に求めらることが嬉しい。何を求めらるかは重要ではない。
もし、与えられたのが2ndであるなら、僕は喜んで2nd吹きになるだろう。
僕は顔をゆっくり上げて首を振った。
「2ndでいいよ。それがこの部のためになるのならば」
そう言ってから付け足した。
「それに来年の話はまだ早いよ。 伊豫田は普門館、普門館っていうけれど、来年までに何があるかわからない。台風や地震で潰れたり、意外と経営難とかでコンクールが中止になっているかもしれない」
「そんなありえない可能性の話……」伊豫田の声を僕は右手を上げ制止した。
「ありえない話だよ。けれども、今年のコンクールは今年だけだ。先輩達にとっては、最後の普門館のチャンスだし、僕らにとっても、このメンバーで、この曲たちを普門館で吹ける最初で最後のチャンスだ。今は今のベストを尽くそう。今の僕たちでできる最高の演奏をしよう」
伊豫田は薄い唇の端を微かに引き揚げて、可笑しそうに笑った。


六、

七月に入り、暑さと共に音楽室の熱気も自然と高まっていった。今年もこの季節が来たのかと、胸がざわめきだす。このどこか落ち着かない感覚も、人生四回目となるともう慣れた。
音楽室正面の壁には、県大会までの残り日数を示した部員お手製の日めくりカレンダーがかけられ、目の前の譜面は音符が読み取れないほど書き込みでいっぱいになった。
今年は比較的順調な仕上がりだった。金管楽器を中心にアンサンブルに長けたメンバーが揃っていたので、木管楽器を軸とした美しいサウンドを作り出すことができていた。
ー情熱に冷静を越えさせるなーこれがツノムーの常日頃からの教えであり、まさにそれを体現するバンドになっていた。
オーバーブローのサウンドは、この学校のサウンドではない。徹底したアンサンブル、どこまでも纏まった美しいサウンドこそが、うちの魅力なのだ。
けれども、全体が纏まれば、纏まるほど、今まで隠れていた朝比奈先輩の弱点が目立ってきた。
指揮台の上のツノムーが顔の前で大きく腕を振る。演奏が止まった。
「トランペット、弱い。ここはおまえらが主役だ。吹け。もっと吹け」
最近、合奏の度に怒鳴られている。
いくら木管を軸としたバンドだといっても、絶対的なトランペットの音が欲しい瞬間がある。朝比奈先輩はそんな時に、人より進んで一歩前に出ることができない。他人に合わせて吹くのは上手いが、自身を軸とさせるのは得意ではない。
そんな場面は正直僕らはやりにくい。トップを基準にして、それに合わせて吹いているので、先輩より前に出ることはしないが、生温い音楽になっていることは明白だ。だから僕は多少煽っている。豊田先輩も、伊豫田も煽っている。
それでも、朝比奈先輩はトップとして、人より前に進み出ることができない。
ツノムーの指揮で演奏が再開する。顔を赤くして、もっと吹けと指揮棒を持たぬ左腕で必死でになってトランペットを煽っている。
でも、まだ足りない。物足りない。指揮者の熱にこちらが追いついていない。
僕も吹きたい。もっと吹きたい。
先輩、吹けよ。
そう心の中で毒づいた時、右席から激しい音がした。反射的に顔が強張る。
ツノムーがまた演奏を止めた。
「立花」まだ一年生の彼の名を呼ぶ声は、明らかに苛立っていた。
「何度言ったらわかるんだ。音を割るな。破裂音は音じゃない」
立花はすぐに声を張り上げて「すみません」と答えたが、そこには明らかに不服の色が混じっていた。
立花が現状を不満に思うのもわかる。
立花は決して下手なラッパ吹きではない。中学時代のコンクールでは、高校生でも中々手を出せない恐ろしい難曲でトップを務め、ソロも堂々と吹き切り、部を全国金賞まで導いた。その腕前はうちの学校でも、入学前から噂になっていた。
自負もあったことだろう。けれども、立花の学んできたものは、うちの学校では役に立たなかった。寧ろ相性が悪かった。立花の中学とこの部とでは目指す音楽が違った。超絶技巧でも、他を圧倒する音量でもなく、どこまでも洗練された美しいサウンドで魅せるのが、僕たちだ。
立花が中学で讃えられた迫力あるサウンドは、ここでは雑音でしかなかった。
ツノムーは立花を睨んでいる。ちらりと横を見ると、立花も今にも噛みつきそうな目で睨み返している。
 ツノムーは言った。
「立花。お前は六割でいい。六割の力と音量で吹け。今後、俺がいいと言うまで、それ以上で吹くな」
 立花がぎりりと歯を噛む音が小さく聞こえた。

「タカチ。立花連れて飯行くか」帰り際にそう声をかけてきたのは、豊田先輩だった。
僕も苦笑して答える。「そうですね」
先輩が選んだのは、学生に人気の中華料理屋で、僕たちはみな五百円の日替わり定食を注文しようと決めて店に入った。今日は唐揚げ定食だった。夕方の今、店内は空いていて、僕らと奥に大学生らしき人が一人いるだけだった。
席に着くなり、立花は愚痴をこぼし始めた。
「角田が吹けって言うから、吹いたのに、むちゃくちゃですよ。全く」薄い唇を大きく尖らせて立花が言う。立花は、ぐいと水を呷り、コップを無造作に机に置いた。水がちょっと跳ねて溢れた。
「まあなあ」豊田先輩と顔を見合わせる。
立花はトップに合わせて吹く吹き方に慣れていない。朝比奈先輩を平気で遥かに超えて前に出てしまう。吹きたい気持ちが前面に出てしまうのだ。そして、その進み出た音があまりよろしくない。荒い音なので悪目立ちしてしまう。
「ツノムーの言い方は確かにキツイけどな、高校のコンクールだと音色は結構問われるよ? 今すぐは難しいかもしれないけど、慣れなきゃならない部分もあるさ」豊田先輩がたしなめた。
「そうかもしれないですけど。あの場面は、思い切り吹いた方が絶対気持ちいいじゃないですか。このバンドはサウンド、サウンドって言って、結局音楽できてないんですよ」
「音楽?」
「ハートっすよ。ハート。根本がなってないんっす。このバンドは。音楽ってのは、もっと気持ちいいもんでしょ。俺らがキモチーと思うことをすれば、当然、俺らのテンションは昂ぶる。その昂りを楽しむのが、音楽ってもんじゃないですか。コンクールに目が眩んで、ハートを捨てた演奏しかできなくなってるんですよ、このバンドは」
僕と先輩は顔を見合わせて苦笑した。
僕らは彼が言う音楽を音楽とは認めない。
乱れることのない音色、音程、音形を目指す行為、これが音楽だと思っている。
正直、そんな音楽しか、もう美しいと思えないのだ。力任せに吹かれた音には苛立ちさえ感じてしまう。
決してコンクールの結果を思うが故にこうなったわけではないのだ。
けれども、音色重視の演奏の良さをいくら今の立花に唱えたところで伝わらないだろう。
立花の吹き方は立花が中学校で三年間かけて学び得たものだ。
「立花、このバンドでやっていくのは辛いか」僕は尋ねた。
 立花は悔しそうに唇を噛んだ。そして、机の水滴を指先で弾き、やがてこくりと頷いた。
「正直、選択ミスったなって思ってます。俺にとっても、このバンドにとっても」この学校に入ったのが運の尽き。そう思っていることだろう。今の立花と最も相性の悪いバンドが、このバンドに違いない。
勿論三年間かけて、立花は学び、慣れ育ってゆくだろうが、なにせそれまでは辛い。もしかすると途中で折れてしまうかもしれない。
どうやって伝えていけばいいのだろうか。拘ったサウンドで音楽を創る面白さを。綺麗なハーモニーを奏でた時はこんなにも気持ち良いのに、彼にはそれが伝わらない。
もどかしさを感じ、思わず立花から顔を背けてしまった時、不意に豊田先輩が言った。
「立花。おまえ、定演のメイン曲は3rdをやってみろ」
僕は驚き豊田先輩を見た。伊豫田の話もあったし、豊田先輩は立花には1stを吹かせるとばかり思っていた。
豊田先輩の瞳は茶目っ気たっぷりに輝いていた。
「おまえって意外と3rd向きだと思うんだよね。低い音だとあまり音が荒れている感じがないし、何より全体的に音が太い。音程も安定している。根音(ハーモニーの土台となる音)吹かせたら、最強だと思うんだよな」
1stのイメージの強い立花だが、確かに一理あると思った。3rdなら立花の良さを活かした上で、アンサンブルすることの魅力を知ってもらえるかもしれない。
「まぁ、2ndみたいに周りを伺いながら音程取ることは、おまえには、ひっくり返ってもできないだろうけど」
豊田先輩は言った。負けず嫌いな立花に火を付けたかったのかもしれない。僕も腕を組んで改まった風を装って頷いた。
「無理ですな、絶対無理です。立花君には絶対2nd、できない。いや、だからこそ、見てみたいですな。立花君が一体どんな風に吹くのか」
立花の頰が軽く膨らむ。
「ちょっと、酷くないですか。そりゃ、先輩方みたいに上手く人に合わせて吹ける気はしないですけど」その愛らしい頰には、まだ中坊だった頃のあどけなさが残っていて、それがなんとなく面白かった。
でも、そのあどけない少年はこう続けた。
「それに俺、やっぱり1stが好きです」生意気だ。先輩を前にして、このバンドで1stが吹きたいだなんて、いい根性している。図々しいにもほどがある。
けれども、それは決して傲慢からくるものではなくて、立花自身が感じた自身の特性からくる確かな事実なんだとも思う。
勝気で、肝が座っていて、その性格通りの音を出す立花。しかし、彼の音に悪意がないことは、僕だって気づいている。
立花。面白い子だ。嫌いじゃない。
「弱点克服」僕は思わずほくそ笑んだ。
「え」立花がこちらを振り返った。豊田先輩は愉快そうに二人を交互に見ている。
「立花がアンサンブルをマスターすれば、最強だろうなってことだよ。うわあ。面白そう」
「だろだろ、タカチ。俺の卒業までに、立花が2ndも吹けるようになったら最高だろ」
「いや、さすがにそれは間に合わないんじゃないですか」
「いけるだろ。問題は誰をつけるかだな。タカチ、お前立花を鍛えろよ」
「いや、こういうのはおそらく、僕より伊豫田の方が上手いですよ」
「確かに。伊豫田くらいキツくないと、こいつは手に負えなさそうだもんな」
「ちょっと。何、勝手に人の話で盛り上がってるんですか」立花が大きく手を振って割って入る。その動作が愛らしくて、ついつい笑ってしまう。豊田先輩もクックと身を捩って笑っている。
でも、本当に彼がアンサンブル力を身につけたら、凄いに違いない。想像しただけで面白い。立花が化けたら、向かう所敵なしだ。
見てみたいと思った。後輩はライバルであるのかもしれないが、その成長がなんとも待ち遠しい。
突然バンと派手な音がした。店員さんが水のピッチャーを机に置いたのだ。無造作に置いたので、ピッチャーの周りについた水滴が辺りに飛び散っている。僕たちの声が煩かったか、なかなか注文しない僕らに腹が立ったか。いや、両方だろう。
僕らは、慌てて日替わり定食を頼んだ。そして頼んでみて、自分たちが腹ぺこであることを思い出した。

その日の帰り道、二人きりになった時に豊田先輩は言った。
「俺、朝比奈を1stに押して良かったと思っているんだけどさ、一つだけ、悪かったなと思うことがあってな。それが、立花のことなんだよな。あいつの音とアサヒの音ってめちゃくちゃ相性悪いじゃん。もし、俺が1stになっていたら、立花はもう少し吹きやすかっただろうなって思うわけ。そう考えると可哀想なことしたよな、俺」
僕も思っていた。もし、トップが朝比奈先輩じゃなかったら、立花の音色はここまで荒く聞こえなかっただろう。朝比奈先輩の音色が純粋な分、立花の音は悪目立ちする。
豊田先輩は朝比奈先輩より、もっと音量が出るし、前に進み出る演奏をするだろうから、先輩がトップだったら立花はずっと吹きやすかったはずだ。
そして、恐らくそれに立花も気づいている。気づいていて、今日もそれを訴えることだけは我慢していた。
 自分の上手くいかないことを、他人のせいにはしない。立花はそういうやつだ。それに、わかりにくいが、情だってある。思うところはあっただろうが、それはぐっと飲み込んで、黙っていた。
朝比奈先輩は吹くべき場面ではもっと吹くべきだ。僕だってそう感じていたじゃないか。
「朝比奈先輩って、やっぱり2nd吹きなんですかね」僕は言った。
豊田先輩は何も答えてくれなかった。


七、

コンクール当日というのは、実は、音楽よりもそれ以外のことが忙しい。
 僕たちは昼過ぎの本番だったけれども、朝8時には学校に集合し、軽く音出しをしてから、合奏をした。そして、その後、本番で使う楽器すべてを四階の音楽室から一階に降ろした。
この時、打楽器で大きいものは、安全に運べるように解体し、ケースに入れたり毛布で梱包したりしておく。また梱包してしまうと、中身が何かわからなくなることがあるので、わかりにくいものにはガムテープを貼ってラベリングしておく。
小物楽器や、スティック、マレットの忘れ物にも注意しなければならない。音楽室でパーカッションパートの人が漏れがないようチェックしてから、それぞれ纏めて収納してゆく。そして、パーカッションパートから許可をもらった物から、下に降ろしてゆく。
僕たち男子は専ら大型楽器の運搬要員だ。解体仕様のないハープや、大型のケースに入れられたティンパニなど、いかにも腰に悪そうなものばかり運ばされる。当然、男子だけで重い物全てを運ぶのは難しいので、女子もあれやこれやと逞しく運んでいる。
下に降ろすとそこでもパーカッションパートが待機していて、積み込むものが全てを降りて来たかの確認をし、また、どの順でトラックに積んでいくかテキパキと指示を出していた。音楽室から降ろした楽器を大型トラックに積めるだけ積み込んでゆくのだが、これが案外難しい。なるべくたくさん積めるよう、そして、何より絶対に楽器が傷つかぬよう、パズルのように考えながら乗せていく。そうすると、なんとかアルトサックスくらいまでの大きさの楽器は積み込むことができる。
しかし、トランペットはぎりぎり乗せてもらえない。だから僕らは、会場まで自分の楽器を自分で持っていかなければならない。
これが楽器積み込みの過程だ。
そして積み込みがあれば、当然積み降ろしもある。
各自会場に移動し、搬入口に再集合する。ここからも大変だ。
他団体に迷惑をかけぬよう、決められた時間内で素早くミスなく楽器を降ろす。管楽器は女性陣が次々受け取り、楽器置き場に運んでゆく。打楽器はパーカッションパートと僕ら男子組、コンクールメンバー外の一年生で舞台裏に運び込み、解体してある打楽器の組み立てを手伝う。
この時周りを見渡せば、演奏を聞かずとも、どのバンドがどれくらいの実力なのか大体わかる。
 上手いバンドは、楽器の扱いに慣れている。楽器の移動は早いし、安全だ。間違えてもティンパニのヘッドを持つことはしない。
そして何より、持っている楽器に差が出る。ティンパニにゲージがついているか。ハープがあるか。チェレスタは? やはり上手い団体ほど、楽器が揃っている。いやらしい言い方をすると、お金がかかっている。
僕ら管楽器の男子組は、ある程度打楽器搬入が落ち着くと、梱包に使っていた毛布や、トラックに戻せなかったケース類を持って管楽器のケース置き場に移動する。
楽器置き場までは、階段を上り下りしなければならず、白ブラウスが汗だくになった。
しかも着いた楽器置き場は、冷房が効いておらず、蒸し暑かった。そしてここで、しばらく待機となった。待ち時間に本番用のブレザーが配られたが、それを着るのは勿論、持つのも嫌だった。
そんな状態だったから、リハーサル室に入ってまず初めに感じたことは、その部屋の涼しさへの感謝だった。漸く寛いだ気分になって、これからが本番だということを、一瞬忘れそうになった。
周りも同じようなものだった。
このバンドから然程緊張は感じられない。コンクール当日というより、地域の音楽祭に出演した時の感覚に近かった。
ツノムーがまだ曲を完全には仕上げにかかろうとしなかったこともあるだろう。県大会はあくまでも通過地点というつもりなのだと思う。ここ最近も合奏より、個人練習やパート練習の頻度の方が高かったし、合奏でも音楽表現的な指示より基礎的な奏法の指導に時間が充てられていた。また、昨日も本番直前とは思えないほど、みんなを休ませることなく吹かせていた。
曲を完成させて県大会に持って行くつもりはなかったらしい。それでも県大会は充分に通用すると思っているからだろう。ツノムーが見ているのは、あくまでも普門館で振ったときに見える景色なのだ。
勿論、だからと言って今日の気持ちに緩みやたるみがあるわけではない。変に浮き立った感じはないが、代わりにある落ち着いた自信と誇りが僕らを堂々と振る舞わさせていた。
このくらいが心地よい。腹の底に燻る静かな緊張と興奮を飼い馴らし、それを上手く使うのだ。
とは言え、流石にソリストたちだけは、緊張しているように見えた。サックスの先輩なんかは目に見えて苛立っている。
でもまあ、それも心配はないだろう。このくらいの緊張を昇華させるくらいの術は持ち合わせている人ばかりだ。みんな、本当に凄い。
ソリストの中では、朝比奈先輩は比較的落ち着いている方だった。慣れた様子でバズィングを始め、今はロングトーンで口をほぐしている。
僕も本番に備えて音出しを始めた。
そこで漸く初めて、今日はコンクールなのだという実感が湧いてきた。何せコンクール当日は、慌ただしいのだ。

2nd吹きの憂鬱〈上〉

2nd吹きの憂鬱〈下〉に続きます。

2nd吹きの憂鬱〈上〉

ある高校の吹奏楽部のトランペット吹きの話。 2nd吹きとして舞台に上がることが多かった朝比奈先輩だがコンクールではトップを任されることになった。朝比奈先輩とその周りのトランペット吹きの物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-29

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