お子様ランチ 前編

 平日のレストランは確かにテーブルについている客もまばらだが、人目もはばからず厨房から流れてくる美味しそうな匂いを全部吸い込んでしまいそうな勢いで鼻の穴を広げ、恍惚と大きく呼吸を繰り返すわが子の様にはさすがに愕然と肩を落としてしまう。
「─ねえ、母さん今日とても大切な用事があるのよ。お願い!少しでいいから大人しくしてて頂戴、ね?」懇願するようにまだ幼い息子の顔を覗きんだ時、
「─あ!かあちゃん、あのひとハンバーグのこしてるよ!ずいぶんもったいないことするねぇ」席を立とうとしている中年の紳士を指差し突然大きな声を出した。
「─あ、す、すみませんすみません、ゴメンなさいほんとにゴメンなさい─」彩華は立ち上がるとペコペコ頭を下げ謝ったが、客は憮然と彩華たち親子を睨みつけるようにしてレジに向かってしまった。
同時に周囲からクスクスと聞こえてくる嘲笑に見る間に頬が真っ赤に上気し、耐え切れず爆発しそうな感情をわが子に向けようとした時、
「─なんだ、随分と心の狭い人ですね、あの人」背後で突然低いが響きの良いトーンの声が聞こえた。振り返ると長身の男が笑顔を向け立っていた。

「─コウタくん、あ、コウちゃんでいいかな?良かったらこれも食べてくれないかい?」男が優しく笑みを浮かべ、ほとんど手つかずのまだ湯気を上げている実に旨そうなステーキの皿を差し出しても
幸太は強張った表情を崩そうとはしなかった。
あっという間に平らげた大好物のお子様ランチの旗を弄ぶようにしながらほとんど上目遣いで男を睨みつけるようにしている。
「─シャイなのかな?それとももう嫌われちゃったかな?」男が苦笑し皿を自分の手元に戻そうとすると、
「ありがとう、しらないおっちゃん」幸太は無表情にそう言い同時に皿をひったくるように引き寄せた。
「─あ、あのゴメンなさい、ホントに。いつもこんなで、ちっとも言うこと聞いてくれなくて」彩華は今にも消え入りそうな声で詫びた。
「あ、大丈夫ですよ全然。これからゆっくり焦らずに好かれるよう努力していきますから」笑顔を崩さずにそう男はそう応えると彩華の目をじっと見つめ、
「─彩華さん?─イメージしてたよりずっと素敵な方ですね」そう囁くように言った。

 シングルマザーになって既に三年が過ぎようとしている今、彩華は初めてのお見合いに臨んでいた。
お見合いとは言っても登録した婚活のサイトで知り合った相手だ。もちろん立ち会う仲人などいるはずもなく、気に入ったお互い同士が勝手に連絡を取り合い自由に恋愛をするサイトだ。無料だが安全で成婚率も高いと云うネットの口コミ情報で入会してみた。
登録した写真は叔母に友禅の着物を着付けてもらい撮った。友禅は亡くなった母の形見のものだ。濃紺の生地に藤の花の模様が艶やかな色調で刺繍されている。どうやらその写真が好評で、実にたくさんの恋人候補の申し出が届いた。
当初はメッセージのやり取りから気になりはじめた別の男性がいたのだが、強引とも取れる男からの頻繁な話しかけに半ば折れる形で会うことを了承したのだった。
四十を少し過ぎたと言う男は明らかに今まで独り身でいることが不自然に思えるほど端正な顔立ちをしていた。ダークグレーのダブルのスーツを着こなし長身のスタイルも申し分ない。
「─あの、本当に良かったんでしょうか?こんなうるさい子が一緒で」彫りの深い顔を少し上目遣いで窺うように見ながら彩華が口を開いた。
「あ、僕は本当に子どもが好きなんですよ。この歳になってもまだ自分の子を持てないなんて若いときは考えもしなかったんですけどね─」男は柔和な笑みを浮かべてステーキと格闘する幸太を楽しげに見つめそう応えると、次いでさり気なくシュガーポットに華奢な指を伸ばし、
「─いくつ入れますか?」そう言いながら 運ばれてきた彩華のコーヒーカップに穏やかな視線を注いだ。
 わざわざ子連れでの初デートを望んだのは男の方だった。
登録されていた男の写真を見た時から、あまりにも隙のない容姿に不安を抱き今日こうして実際に会うまではあまり気乗りもしなかったが、示してくれる細やかな気遣いと自然に見せる優しさを心地よく感じ始めていた。
「─あの、今まで何人の方と出会ってきたんですか?きっとたくさん申し出がありますよね?」率直な質問だった。男はきょとんと目を上げると、
「─あなたが初めてですよ。─実はあなたを初めて写真で拝見したとき、僕は─」そう言いかけた時、
「かあちゃん、もうかえろ!つまんねえよおれ!」いつの間にか食べ切ったのかステーキの皿をフォークの背でカンカン叩きながら幸太が仏頂面を母に向け、男の言葉を遮った。
「これ、幸太ッ、失礼でしょッ─」思わず怒りの目を向けると、
「あ、ごめんねコウちゃん。あのさ、この後映画でも見に行かない?ゲーセンでもいいけど─」男は柔和な表情を崩さずにそう言って彩華の叱責の言葉を拾った。

「─ほら、これも!」男が嬉しげに流行のアニメのキャラクターのぬいぐるみを差し出すと、幸太は無表情にそれを受け取りすでに景品で一杯に膨らんだ大きなビニール袋に押し入れた。
「ホントに何よ、その態度!?それあなたが一番好きなキャラじゃないの!もっと嬉しそうにしなさいよ!そんなにたくさん取ってもらって!─」真剣な表情でUFOキャッチャーに向き合っている男の様子を気にしながらそっと彩華がそう耳打ちすると、幸太は今度はこちらに笑顔を向けた男に無遠慮に大きな欠伸をして見せた。
 帰りの車中、彩華はあからさまに不機嫌な表情でハンドルを握っていた。疲れたのだろう、苛立ちの原因である息子は助手席でシートベルトに身を任せるようにして深い眠りについている。見ると緩んだ口元からよだれが垂れている。信号待ちで停車しハンカチを出し拭いてやると突然、ニタッと笑った。
彩華は思わず微笑むとまだ幼くあどけないわが子の顔をじっと見つめた。
 帰宅すると直ぐに男からラインが入った。まるで時間を計ったかのタイミングだった。
「─今日は本当にありがとう。コウちゃんにも会えたし、何より素敵なあなたに逢えた。では、また」
会うと逢う─、男はあえて微妙な文字の使い分けを短い文面の中に示している。そんな繊細さも似合ってるかも知れないと思った時、彫りの深い端正な男の笑顔がふと浮かんだ。

 翌日は朝から忙しかった。幸太を保育園に送り届けた後、急に病欠したパート社員の穴埋めに早出勤務を余儀なくされたからだ。
彩華は地元では中堅クラスの会社の支店の経理をしている。普段は5人でそれぞれの部門を担当しているのだが、その中に一人だけ少し歳下だが直属の上司に当たる男性がいる。
度の強い黒縁の眼鏡をかけいつも神経質そうに眉間に皺を寄せている。
彩華はこの上司が苦手だった。数字を扱う仕事でそれらが全て社の業績に直結するのだからこと細かい指摘は仕方ないが、決して広くない事務室で常に部下たちに目を光らせている印象が強くふと目を上げるとジッとこちらを見ている視線と目が合ったりする。
真面目な人柄は承知しているが月に一度ある全社上げての懇親会に出席しても酒を飲むわけでもなく烏龍茶を前に置きデスクにいる時同然、ほとんど姿勢を崩すことなく難しい顔をしてただ周囲を窺うようにしている。
頬から顎にかけての線が細く男にしては小さな造りの顔に黒縁の眼鏡だけが妙に目立つことから、
見た目のまま「メガネ」と云う渾名をつけられていた。
その日も彩華がチェックした筈の伝票から数字の改ざんが認められる、と見直しと提出先の部署への確認を指示された時、突然マナーモードにしてある携帯が机の上で震えた。

 大泣きしている子どもと、腕組みをして憤りを露わにしている母親を目の前にして彩華は蒼白に立ち尽くしていた。
泣いている子どもは男の子で額が赤く腫れ上がり、うっすら血が滲んでいるようにも見える。
「─本当にどういう教育してるんですッ!?」開口一番の母親の言葉だった。

 夫婦仲も良く家庭生活が順調に行っていた時は全く問題なかったが、離婚ししばらくすると幸太の行動に粗暴さが見られるようになって来た。保育園で友達に手を上げ平身低頭、頭を下げたのは今回が初めてではなかった。
片親での子育ての難しさに考えを巡らせていると、またふと男の笑顔が脳裏に浮かんだ。
 テーブルの椅子に腰掛け悄然とうなだれる母の前で、幸太は古い携帯電話で遊んでいる。
中身が押し潰されひしゃげ壊れてしまった携帯電話だ。幸太はそれを何よりも大切にしている。彩華にとっては前夫との別れを決意させたやるせない想いの籠もった物になる。
あの晩の出来事は恐らくこの先もずっと引きずっていくのだろう。激昂した怒声が今も耳から離れない─。
 三年前の梅雨の日のことだった。
出勤する夫を送り出した後、寝間に幸太の様子を見に行くと布団でぐったりしている。妙に思い熱を計ると四十度近い高熱があった。起こそうとしたが苦しげに熱く荒い呼吸を繰り返すばかりで中々目覚めない。
慌てて救急車を呼ぶことを考えたが先ず夫への連絡を優先することにした。職場までは車で二十分ほどの距離で既に到着しているはずだったが、応答がなくしばらく呼び出した後留守電になった。メールで急を報せてみたががやはり返信がない。
少し考えた後、タクシーを呼んで総合病院に向かった。
車中でも幸太は熱にうかされ意味不明なうわ言を繰り返していた。脳裏に小児が重篤に陥ると云う病名が次々に浮かんでは消え、彩華はじっとしていられない張り裂けそうな不安に必死に耐えながらフロントガラスに打ちつけてはワイパーに遮られ流れ落ちる雨雫を見つめていた。
 夫からようやく連絡があったのは昼を少し過ぎた時で、幸太の容態も緊急措置により落ち着き始めた頃だった。
「─何やってたのよ!どうしてすぐに連絡してくれないの!?」詰るつもりなどなかったが思わず強い口調の言葉が出た。
「─言ってあっただろ?朝から販売会議があるって!俺だって直ぐに連絡したかったんだよ!」返ってきたその言葉には明らかに苛立ちがあった。
 夫は結婚して間もなく給金の優遇された仕事を考え、勤めていた会社の事務方から転職し地元では大手の工務店の営業職に就いた。だが高給に見合う毎月のノルマはやはり厳しいもので、隔週二日の休日以外は早朝から夜半までの勤務を強いられ、それでも中々達成できない目標に日々悶々とする生活を送るようになった。後日判った事だが勤めた工務店は社員の定着率が低く、実際果たしていつ唐突に言い渡されるやも知れぬ解雇通告に絶えず恐々としている社員も少なくないのだと聞かされた。
夫もその頃思うように実績が伸びず、少しずつだがその鬱積を家にも持ち込む様になって来ていて、つまらない事で腹を立てては彩華ともしばしば衝突するようになっていた。
 「─とにかく二、三日は入院しなくちゃならないみたいだから、今晩は早く帰って来てちょうだい。わたしも一旦帰るけど、色々準備してまた病院に戻らなくちゃならないから」気を取り直し懇願するように言うと、
「─分かった。夕方からはアポが一件あるだけだから、そのまま病院に向かう」夫は落ち着いた声を戻してそう言い電話を切った。  
 だがその晩、夫が病院を訪れたのは面会時間がとうに過ぎた頃だった。時計を気にしながら何度もメールを入れても一向に返信のないことに腹を立てながら病室を出、ナースステーションで挨拶を済ませ階下へのエレベーターを待っているとどこからか院内に反響した言い争うような声が聞こえてきた。振り返り聞き覚えのあるその声の方に向かうと、階段を駆け昇って来たのか息を荒く切らした夫が面会の受付で声を荒げていた。
慌てて取り成しに近づいたその時、あろうことかその身体から深い酒の匂いが漂って来た。 

「─でかい契約の懸かったアポなんだよ。同行した主任が思い立って急に軽い接待を提案したんだ。─これでも早めに切り上げてきたんだ」夫は居間のソファに身体全体を預けるように深く腰かけ、今更ながら彩華からのメールを確かめる素振りで携帯をいじりながら大して悪びれもせずそう口を開いた。
「─自分の子どものことでしょう?悪化したら髄膜炎になる可能性も言われたのよ?家族が苦しんでる時にまで優先する仕事なんて─」そう言い掛けた時、
「その家族のために働いてんだ俺は─」低く抑えた、しかし憤りのこもった言葉が遮った。酔眼が彩華を見据えていた。
蒼白に見返すと、
「─毎日毎日下げたくもねえ頭下げて回ってんだよ!お前に何が分かるんだよッ」携帯に目を戻しまた何やら操作しながらそう荒げた言葉を続けた。次の瞬間、彩華の中で懸命に耐えていた何かが弾けた。
「ねえちょと、真剣に話してるのよッ、携帯いじるの止めなさいよ─!」感情のまま言葉が出た、
長い間が流れた。怒りを孕んだ切ないいたたまれない感情が湧き上がっていた。
夫は一瞬鼻白んだ様に彩華を見ていたが、間もなく頬を紅潮させ立ち上がると持っていた携帯を力任せに壁に投げつけ、立て掛けてあったゴルフクラブを手にすると、
「いるかッこんなものッ!こんなものッ─!」激昂した声を上げ、何度も激しく携帯を打ちつけた。
これまで何度も些細なことで諍いはあったが、明らかに異常とも取れる行動に一瞬膝が震えた。
目の前でひしゃげていく携帯のその様を見ながら彩華は大切に築き上げて来た筈の夫との関係が音を立てて壊されて行くのを感じ、思わず床にひざまずくと両手で耳を覆い泣き出していた。
学生時代から付き合いはじめ想いを伝え合い、手をつなぎ口づけを交わし、卒業の日に初めて結ばれた─。本当に幸せになるために、長いこれから先の人生を生涯支え合い共に過ごして行くための結婚だったはずなのに─。
抑えきれない涙に咽びながら描いていた幸福の全てが潰える兆しを目の当たりにしていた。
 三日後に退院してきた幸太がゴミ箱におざなりにしてあったボロボロの携帯を見つけ、以来大切にしている。
正式な離婚の前から始まった別居生活になってからは、宝物みたいに扱うようになった。

「─幸太、やっぱりお父ちゃん欲しい?」そう訊くとちらと振り向いただけで応えず、また聴こえない携帯に耳を当てたりしている。
今でも父親を慕い会いたい筈なのに時折掛かる夫からの電話には出ず、会うことを望まれても決して首を縦に振らない。明らかに母である自分を気遣う幼心がいじらしくまた、切なかった。                                                                
 初めて男と並んで歩いた時、まだ真新しいグレーのスーツからフワッとオークモスの香りが漂って来た。落ち着いた雰囲気で彩華の好きな香りだ。
「─今日、コウちゃんは?」背が低く短い歩幅の彩華に合わせゆっくりした歩調で歩いてくれながら男が笑みを向けて来た。
「─あ、今日は近所のお友達の家に遊びに行ってます」男との身長差を気にして履いてきた慣れないヒールの足元を気にしながら少しだけ上目遣いで男を見て彩華が応えた。
『─なんだよ、またあのおっちゃんにあうの?ヤダよオレ、オトナのくせにじぶんのことボクなんていうヤツ、キモいし!かあちゃんひとりでいって、オレユウトんちいってくるから!』幸太はそう言うと壊れた携帯を持って家を飛び出して行ったのだった。
「─じゃ、今日は少し大人なデートをしましょう」男はそう言うと彩華の背にそっと腕を回してきた。

抜けるような高い空にぽっかり浮かんでいる鰯雲でさえどこか楽しげに見える。
舗道に林立し色づきはじめた街路樹の銀杏の葉の間を縫うように、夫婦なのであろう四十雀が仲睦まじく互いに纏わりつきじゃれ合いながら枝を渡る様が微笑ましく目に映る。
彩華は温みのある柔らかな口づけの感触を思い返すように自分の唇にそっと右の人差し指で触れてみた。
「─僕はこれから先、あなただけを見て生きて行きたい。あなたもどうか、僕だけを見つめていて欲しい」そう囁かれた甘い言葉が耳に蘇る。
自然に頬が火照ると、浮き足立った気持ちも抑えようがなくなるのだった。
 その日、定時よりも少し早めに出勤すると事務所の中が騒然としていた。
年の瀬を翌月に控え突然、本社から会計監査が入ると通達があったのだ。いずれ立ち入りが予測される外部監査への準備と称し不定期に実施される内部監査で、矢面に立つのはやはり彩華たちの所属する経理部だ。
「メガネ」は普段にもまして神経質な面持ちで既にパソコンの画面に向かって作業し始めていたが、出勤した彩華を認めると手を止め席を立ち上がった。

「─どうしたんです?ここ数日、あちこちに誤謬(ごびゅう)が目立ちますけど─。ベテランの域にあるはずのあなたが─」デスクに肘をつき少し上目遣いで彩華を見つめ、メガネがいつも通りのゆっくりした口調で口を開いた。
「─え?そんなにありました?誤謬」率直に驚きそう応えると、
「はい。本当にあなたらしくありませんね─」静かにそう言い、
「─プライベートで何かあるのでしょうか?」そう言葉を続けた。プライベート、と云う言葉を聞いた時瞬時に男の顔が浮かんだ。咄嗟に返答に窮していると、
「─私はあなたの人生の邪魔をする気なんてありません。むしろ応援したいと考えています。─何かあるのでしたら、その、─いつでも相談して下さい─」何故か途中で不意に彩華の視線を外しながら、少し口ごもるようにそう言った。
誤謬があると指摘された最近の帳票を慎重に見直しながら、彩華は先刻のメガネの言葉の真意を探ろうとしていた。言葉尻に詰まり少しうろたえた様な表情は初めて見た。
メガネは二つ歳下で、三村と云う。本来は本社のISO取得のための特別顧問として在籍していたのだが、取得後経験のある経理に責任者として異動して来た。
顔の造り同様身体の線も細くいつも紺系のスーツを着、ネクタイも好みのように地味な柄のものばかり締めている。堅物でただの仕事人間だと思っていた三村の意外な人間性を垣間見た気がして、彩華は思わずデスクを振り返った。

 内部監査も無事に終わり地獄の様な年の瀬の繁忙期も半ばを過ぎようとした頃、三村が突然声をかけてきた。事務所の中には残務処理に追われ残業を余儀なくされた彩華と二人きりだった。
「─あの、富樫さん」パソコンのキーボードに置いた手を止めた三村が彩華を呼んだ。また何かの指摘だろうと席を立ちデスクに行くと、
「─あの、これなんですけど」ちらとこちらを見ただけで視線をディスプレイに戻し、封筒をスッと手渡して来た。封緘(ふうかん)はされていない。
「─何でしょうか?」怪訝に訊くと、
「─あの、お子さんと、─どうぞ」そう言って何故か何度も瞬きをした後、初めて目を向けてぎこちなく笑った。首をかしげながら席に戻り中身を取り出すと、幸太が大好きな戦隊ヒーローのショーのチケットが入っていた。だがチケットは何故か三枚ある。
「あの、ありがとうございます!これ子どもが大好きなんです!」素直に礼を言うと三村は手だけひらひらさせ、パソコンに向かってまるではにかんだ子どもみたいに笑った。
「─あの、だけど何で三枚─?」少し間を置いてそう問うと、三村はキーボードに指を置いたまま目を向けずに、
「─あ、もしも、です。もしも、他に行く人がその、─いなければ。その。─いや、何でもありません、あ、─誰かにでも上げてください」
何故かたどたどしくそう言って、激しく眼鏡の奥の目をしばたたかせた。 
ショーの日にちは丁度イヴに当たる。幸太の喜ぶ顔が目に浮かんだその時、マナーモードの携帯が震えた。 着信は男からだった。



          以下、後編へ                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

お子様ランチ 前編

お子様ランチ 前編

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-28

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