エリザベス・ブーリン
弱者とは何か。貧困か。社会的階級か。人種か。性別か。身体障害か。実際には人間においてそのどれもが上辺の弱さに過ぎないのだ。真の弱さとは、誰にも話せない事情を抱えたてしまうことではないのか。
「包帯を取りますよ」
松本の太い指の温かさが、久方ぶりに娑婆の空気に触れる梨乃の頬に伝わった。目だけは覆っていた包帯もよけて巻いていたはずである。それでも心なしか、肌と一緒に眩しさを感じてしまう。さらにはスースーと寒さまでも覚えた。
「これがあなたの新しい顔です」
松本は美容師が仕上がりを見せる時に使うような大きな鏡を梨乃の前に差し出した。梨乃はそこで初めて新しい自分に対面した。
「いいわ、完璧」
梨乃は白い肌に指を這わせた。今までよりも何倍も大きくなった自分の瞳を上下させ、キッと上がった口角を開閉してみた。
「ありがとうございます、先生」
飛び切りの笑顔を作った梨乃に対して、松本は鏡をたたみながら無言で頷いた。
「明日には退院できますよ」
「本当に。嬉しいな。早くこの新しい顔で街を歩いてみたい」
かつての教え子は心底喜んでいるようだ。もちろん、以前よりも何倍も美しい女性になったのだから当然と言えば当然であろう。しかし、美しくなるとは言っても、彼女は一体、どんな目的があってこんなオーダーをしてきたのだろうか。
梨乃はもはや、手術前とは完全に別人である。よほどの理由がない限り、こんなことはしないだろう。果たして今回の目的は何なんだ、と松本は言いかかって、喉もとで止めた。それはなんとなく聞いてはならないことなのだと松本は悟っていたからだ。
お疲れ様、と機械的に梨乃の背に向かって声を掛け、松本は病室を跡にした。
梨乃は退院すると、阿蘇山の麓にある職場へ直行した。貧困や虐待によって両親から引き離された子ども達を保護している福祉施設である。梨乃はここで保健師をしている。
車を職員駐車場に停めていると、車種から梨乃がやってきたとわかった庭で遊んでいた子ども達が手を振ってきた。
「おはようございます、梨乃先生」
子ども達は車の窓越しにも聞こえる元気な声で挨拶をしてきた。梨乃はドアを開け、黒いパンツに包んだスレンダーな脚を覗かせてから、黒で決めた全身を現した。金色に染めたロングヘアをかき上げた時、子ども達が息を呑んだのがわかった。
「おはよう、みなさん」
梨乃は瞳を覆わせているグッチのサングラスを少し下げて、子ども達に目を見せた。子ども達はひそひそと何かを囁いていた。あれって梨乃先生だよね、うん、だって声がそうだもん、と。
駐車場から庭を横切って平屋造りの施設へ入る途中、大きな籠を持った黒服の女性が対角線上から歩いてきた。この施設の母体であるキリスト教教会のシスター、桃佳であった。
「梨乃、おはよう」
桃佳は芝生の上に籠を置き、梨乃とハグをした。籠にはぎっしりと子ども達の洗濯物が入っていた。
「おはよう、桃佳。相変わらずきれいだね」
「梨乃こそ、本当にすごく変わってしまって、びっくりよ」
胸にキリストが架けられている十字架を揺らしながら、桃佳は梨乃の容貌を上目遣いに覗くようにして見た。沖縄出身でオリエンタルな顔立ちをした桃佳のその表情が愛らしく、梨乃は思わず頬にキスをした。キャア、と桃佳は笑った。梨乃も微笑みながらサングラスを外した。
「うそみたい、本人そのものじゃない」
桃佳から笑みが消えた。口に手を当て眉間に皺を寄せている。
「そう、ありがとう。そのものになるようにお願いしたからね」
顔だけでなく、衣服や装飾品、髪型、メークまでも全く同じになるように研究し、投資したのだ、と梨乃は桃佳に説明した。
「もう、準備は完了したの?」
前に桃佳に対して軽くこの計画について話したことを梨乃は思い出した。
「ええ」
「じゃあ、東京に行ってしまうのね」
「そうよ」
桃佳は長い睫毛をした瞳をやや伏せた。
「お別れに来たのね」
幼い頃いじめられていたという桃佳は、心を開いて話せる相手がほとんどいないという。梨乃は自分になついている二十一歳の娘が憐れに思えた。
「そう、ごめんね。でも、また落ち着いたら来るから」
「うん、いつでも待ってる」
桃佳は素直な娘だった。悲しみには涙を隠そうとしない。小麦色の頬に透明な水滴を伝わせた。
「桃佳、元気で子ども達を見てあげてね。あの子達にはあんたしか頼れる人はいないんだから」
うん、うん、私頑張る。と、桃佳は言ったのだが、それは言葉にはならなかった。桃佳にはわかっていた。梨乃がもうここに来ることは二度とないのだ、ということが。
そして桃佳には理解ができなかった。なぜ梨乃がかつて愛していた人に対して、そこまで執着心を持つのかということが。
さらに桃佳は気づいていた。梨乃が過去の恋愛にこだわればこだわるほど、自分がかつての梨乃になっていくということが。
だが、せめて忌みごとが降りかからぬようにと、桃佳は祈ることしかできない。胸の前で十字を切り、アーメンと唱えた。
ハアハアと吐き出される荒い呼吸。バクバクと鳴る心臓の音。滴り落ちる背筋の汗。でも決して足を止めてはならない。立ち止まったらその時は、その時は・・・・・・。
「痛い」
梨乃は頭から派手に転んだ。石畳のひずみに爪先がひっかかったのか、または焦るあまり足が絡まってしまったのか。
「梨乃、大丈夫?」
半歩先を疾走していた青葉が梨乃の異変に気づき、振り返った。すぐさま倒れている梨乃のもとに駆け寄り、上体を起こした。
「青ちゃん、私はいいから、早く逃げて」
肩にそっと載せられた青葉の手の甲を梨乃は軽く指で叩いた。
「何言ってるの。そんなことできないよ」
「お願い、逃げて。あんな奴の犠牲になるのは、私一人でたくさんだから」
「ハーイ、カワイイモンキーちゃん達」
梨乃と青葉の視界に闇が訪れた。途端に梨乃は振り払おうとしていた青葉の手をギュッと握った。お互いにお互いの震動がはっきりと伝わるほど二人はぴったりと寄り添った。顔と顔を寄せ合い、恐る恐る後方を返り見た。
男は二メーター近くある巨漢だった。黒いランニングシャツの下にはこんもりとした筋肉がのぞき、同様に両肩にも丸々とした肉がのっかっている。白い腕いっぱいには漆黒の刺青が広がっている。スキンヘッドにしているせいで、ギョロリとした瞳はさらに剥いているように見える。
恐ろしい。あまりにも恐ろしい。そうとしか形容できない姿形である。
とにかくこの場から逃げなくては。さもなくば命の保証すらないであろう。無言だったが、梨乃も青葉も同じ考えに至ったのだろう。ほぼ同時に二人は立ち上がり、もう一度走ろうとした。運動が苦手な梨乃の背中をスポーツウーマンの青葉がそっと押して逃走を促した。が、そんな努力もむなしいほど、大男のスピードは凄まじかった。
「逃げて」
巨体の隙間から垣間見えた青葉の悲痛に歪んだ表情が梨乃の胸に突き刺さった。私のせいで、青ちゃんがあんなことに・・・・・・。
「いやーっ」
梨乃は惨状に背を向け、走った。今までかつて、出たことのないほどのスピードを出して。青ちゃんを助けなきゃ、その一心が梨乃に力を与えた。
「Help、help us please」
夜の帳が落ちかかっている人気のない通りで梨乃は叫んだ。やっとのことで大きな車道にたどり着くと、レンガの上を猛スピードで駆け抜ける車に向かって両手を振ってアピールをした。やがて一台の白いフォルクスワーゲンが停まり・・・・・・。
ビーッ、ビーッ、ビーッ・・・・・・
梨乃はけたたましく鳴り響くナースコールの連呼で我に返った。いけない、また寝てしまったと呟きつつ、看護日誌を閉じ、病室ナンバーを確認しながら受話器を取った。
「はい、ナースセンターです。どうされました?」
「あっ、梨乃?小百合だけど。三〇二号室の患者さん、始まっちゃったの。悪いけど、来てくれる?」
相変わらず職務中であっても敬語を遣わない小百合に内心ヒヤッとしつつ、梨乃は言葉を続けた。
「今、ここ一人なの。行くには行くけど、小百合もすぐにセンターに戻ってよね」
「うん。じゃないとまたインシデント書かされちゃうもんね」
話し終えるとふうと溜め息をつき、居眠りで乱れた帽子を直すと、梨乃は早足で三〇二号室へ向かった。これからアメリカ人女性の出産が始まる。外国人のお産は重い。果たして今晩中に終えられるだろうか。
背の高い白人男性が闇夜の中に立ち竦んでいた。三〇二号室の前だ。これから出産をする女性の旦那である。中からははちきれんばかりの悲鳴が聞こえる。
さあ、長い夜明けの幕開けだ。梨乃は右ポケットからマスクを取り出し、耳にかけた。
「お疲れ様でした」
夏の高い陽射しが現れた頃、梨乃は病院関係者通用口に置かれているタイムカードを打った。退勤時には自分の名札をひっくり返すのがこの病院の習慣だ。梨乃の名前が昨夜の夜勤組の中で一番最後に退勤を示す赤に変わった。すでに外来は診察も始まっていて、ひっきりなしに患者を呼ぶアナウンスがかかっている。
やはりあのアメリカ人女性のお産は大変だった。なにしろ赤ちゃんが四キロもあるのだ。母親が苦しがるのは無理もなかった。しかも遠い異国で出産をしなくてはならないのだ。彼女の不安は並大抵ではなかっただろう。
東京都心の大学病院では外国人妊産婦を受け入れるのも珍しくはない。だが、実際には彼女達に対応できるスタッフは少ないと言わざるをえない。英語での対応は医師が大概可能である。しかし、細かいケアまでは面倒臭がって引き受けようとはしない。梨乃の勤める病院には英語がわかる看護師は他にいず、また看護助手や事務員の中にもいなかった。そのため外国人の対応はすべて梨乃ひとりの肩にのしかかってくる。お産が入ってしまった夜は、いつもお昼近くにならないと帰途へ就けなくなるのだった。
そんな過酷な労働環境であっても梨乃は少しも不満を抱いたことはなかった。患者さんが発する「ありがとう」を聞くたびに、昇天するほどの喜びを感じるからだ。自分は看護師が天職である、看護師になるために自分は生まれてきた。梨乃はそう信じて疑わない。
昨晩、夜勤に入る前まではしとしとと湿り気のある雨を落としていた空は真っ青な表情(かお)を見せていた。それでも道路の端にある日陰を見ると、黒く濃くなった箇所がまだ残っている。心地よい風の中にももわっとした湿気が六月独特の陽気を思わせる。もう夏がそこまで来ているのだ。
いけない、今は何時だろう。梨乃は眩しい陽光の下、瞳を少し細めながら時計に目をやった。針は「X」の少し前を指していた。急がなくては。梨乃は荷物を肩にかけ直し、御茶ノ水駅を目指して走った。
寮のある中野駅を出ると、梨乃は栄養剤ドリンクを買うためにコンビニに立ち寄った。いつもここで滋養強壮の効果があるドリンクを二本買う。翌日が非番の日は四本だ。朝と晩に一本ずつ必要だからだ。梨乃はこの日もいつものように弁当売り場の横に並べられているドリンクを二本手に取って、レジへ向かった。
店員がレジを打ち、ビニール袋にドリンクを入れている間、梨乃はふとレジカウンター前にあったスポーツ新聞の見出しに目が行った。
エリザベス・ブーリン
白抜きの文字がそう告げていた。
梨乃は店員が値段を伝えてくるのを無視して新聞へとひとっ飛びした。筒状に巻かれている新聞をすっと抜き取ると、すでにドリンク剤をビニールに入れ、梨乃の手に渡そうとしていた店員の目の前に突きつけた。
「これもお願いします」
店員は唖然としていたが、梨乃から新聞を受け取り、すぐに会計をやり直した。
買い物を終えると、梨乃はまっすぐに帰宅した。早稲田通りから一本入った閑静な住宅街の一角にある鈴蘭荘が梨乃達、聖城医科大学付属病院に勤める看護師達の独身寮だ。手洗い付きの二LDKに二人一部屋で、風呂は共同だ。鈴蘭荘のとなりには聖城医科大学付属看護学校の学生寮もある。熊本から上京してきた梨乃はもう十年近くこの界隈に住んでいるのだった。
「ただいま、青ちゃん」
部屋に入った途端、梨乃はムッとしたものを感じた。湿気がこもっていたのだ。すぐさま窓を開けに走った。
「あっ、お帰り」
青葉はタオルで顔を拭いていた。ベリーショートの青葉はスポーツメーカーの白いTシャツに白線入りの黒いジャージを穿いている。ランニングから帰ってきたばかりだな、と梨乃は見当をつけた。
「ドリンク買ってきたよ」
一本を冷蔵庫にしまい、もう一本を二人で使っているちゃぶ台型のテーブルに置いた。それと入れ替えに梨乃は空き瓶をビニールに収納した。
「サンキュ」
青葉は栄養剤を一気に飲み干した。そしてあーっ、と息をつき、靴下を脱いだ。
「ねえねえ、青ちゃん、これ見て」
脱ぎ捨てられた靴下を拾いながら梨乃は先ほど手に入れたスポーツ新聞を渡した。
「エリザベス・ブーリンって書いてあったから、思わず買ってきちゃった。ねえ、どんなことが書いてあったの?」
そう言い終わるか終わらないかのうちに、梨乃の頬に激しい痛みが走った。今、渡したばかりの新聞がばさりと眼下に崩れていた。
「スキャンダルなんか聞きたくねえんだよ」
青葉は梨乃を鋭く睨んでいた。足元に広がる新聞の一面には「エリザベス・ブーリン ヌード写真発見 デビュー前に撮影か?」と笑った文字が躍っている。
「よく見て買ってこいよ」
首に巻いていたスポーツタオルを床に叩きつけ、青葉は自室の扉をドスンと閉めた。梨乃はタオルを回収し、手に握られたままであった靴下と一緒に洗濯籠にストンと入れた。新聞もきちんとまとめてキッチンの脇にあるごみ箱に捨てた。
ああ、また怒らせてしまった。どうして自分はいつもこう、だめなのだろう。梨乃は流し台に映る濁った自分の姿を見て反省した。そして思った。昔はあんなに仲良くしていたのに、と。
居間においてある電子時計がピピピと鳴っていた。梨乃は再び急がなくてはと思った。すでに十二時だ。青葉が夜勤へ向かう前に食事の支度をしなくてはならないのだ。その前までにこんもりとたまった二人分の洗濯物を片付けなくてはならないし、掃除もしなくてはならないし、ゴミも出したかった。夕飯のための買出しにも行きたい。休んでいる暇などなかった。梨乃はそそくさと家事を始めた。
梨乃と青葉は幼友達である。出会いは梨乃が十歳、青葉が十一歳の時だ。青葉は梨乃より一学年上である。二人はロサンゼルスにある日本人学校で出会った。
梨乃の父は医師であり、UCLAに交換研究員として赴任をした。梨乃には五つ違いと七つ違いの兄がいるが、すでに高校に進学していたため、故郷の熊本に残し、梨乃と母親の三人でロサンゼルスに赴いた。
青葉の父は東京の銀行員で、ロサンゼルスには異動で来ていた。青葉は一人っ子であるため、こちらも父母娘の三人で暮らしていた。
熊本の小学校に通っていてすっかり田舎っ子の梨乃には、東京出身の青葉が垢抜けて見えた。自分のようにほっぺが赤くなっていないし、さらさらなショートヘアに顔の面積をほとんど占めているつぶらな瞳がまるでテレビで見る子役のように愛らしかったからだ。
広いロサンゼルスでは子どもがひとりで学校に通うことはできない。日本人学校の生徒達も両親が車で送るか、バスで通うかのどちらかで通学していた。梨乃と青葉はスクールバスを使っていた。二人は同じストリートに面した所に住んでいて、同じバス停からバスに乗り込んでいた。偶然、同じ年頃の女の子は他にいず、いつしか仲良くなっていた。いつも同じバスに乗って学校へ行き、同じバスに乗って帰宅するうちに、放課後を共にするようになった。
二人が住んでいた住宅街の向かいには大きな公園があった。おおよそ日本の公園とは桁の違う広さを持つ公園だった。青々とした芝生がどこまでも続いていて、対岸が見えないくらいだった。梨乃と青葉は学校の帰り、まっすぐ家には帰らず、制服のままその公園で一緒に過ごした。子どもの連れ去り事件が多い米国では、十二歳未満の子どもが大人の付き添いなく外出することは普通ではない。梨乃たち駐在員の子女も然りである。だからこそ子どもだけでいる時間が貴重に感じられた。いけないこととわかっていても、親の目を盗んで落ち合うことがスリリングで、少し大人になったような気分にさせた。
子どもだけの秘密の時間には、日本で買うよりもずっと高い漫画雑誌を回し読みしていた。値段が高いので、お互いに手分けして『りぼん』と『なかよし』を一冊ずつ買い、一緒に読んだのだ。『ちびまる子ちゃん』、『セーラームーン』、『マーマレードボーイ』・・・・・・。故郷で話題のアニメについて異国の公園で語り合った。時には広大な芝生の上に座って、また時にはレンガ造りの舗道に載せられたベンチの上に腰掛けて、二人だけの暗号の時間を毎日毎日楽しんでいた。最初はバスから降りて一時間だけだった。でもいつしか二時間になり、三時間になっていった。無論、お母さんには心配をされ、時には怒られた。それでも二人とも止めなかった。
そんな二人に悲劇が降りかかった。
梨乃が中一、青葉が中二の秋のことであった。いつものように長い密談を終えて家路に就いている途中、性犯罪に巻き込まれたのだ。元々、平日の夕方には人気のあまりない公園であったのだが、特に冬の夕方ともなればほとんど誰もいなかった。通勤も車が中心のロサンゼルスでは公園を横切る通行人もあまりいない。暗くなりかけた公園の中央で梨乃と青葉は貸切り状態でおしゃべりに興じていた際の出来事だった。もう何年も放課後の秘密を始めてから経っていたので、隙が生じたのかもしれなかった。
犯人は地元に住むレイシストの男だった。いつも二人が公園でおしゃべりしているのを遠くから見て知っていて、いつか襲ってやろうと企んでいたのだ、と反省の色も見せずに逮捕後、警察に語ったという。以前にも黒人の少女に暴行した容疑で捕まっており、その当時はまだ執行猶予中だったとのことだ。
梨乃は今も忘れられない。あの秋の夕暮れ、緑の芝生がまるで真夜中の大海原のように不気味に見え、走っても走っても逃げられない地獄を味わったあの日のことが。これは映画のワンシーンを見ているのではないのか、はてまた夢で転んだらきっと開放されるのではないのか。そう何度願ったことであろうか。
でもやっぱり、男が追いかけてきているのは現実だった。梨乃は不覚にも石畳の舗道上で転んでしまった。犯人の男はそのミスをついて二人に襲いかかってきた。その時、青葉は梨乃を庇って助けてくれたのだ。解放された梨乃はとにかく走った。無我夢中で走って、人気のある大通りに出て、車を止め、助けを請うた。しかし、梨乃の必死の救助もむなしく、青葉に救いの手が入った時は、すでに最悪の事態に陥っていた。このことを梨乃は今でも悔いている。私が転ばなければ、青ちゃんは無事だった。十年以上経過した今になっても、梨乃は疲れが溜まったりすると、事件のことを夢に見てしまう。トラウマとなっているのだ。
その日を境に梨乃にとって青葉は命の恩人であり、最愛の人となった。
事件があって以来、二人は冒険の時間(とき)を両親に禁じられた。行き帰りのバスの中という短い間だけしか過ごせるチャンスはなくなった。梨乃、青葉の両親ともに子どもの行動に目を光らせるようになり、バス停まで送迎をするようになったからだ。青葉に対して至極親切に接している梨乃の両親とは対照的に、心なしか青葉の両親は梨乃に冷たかった記憶がある。そのことが梨乃の幼心をさらに悲しくさせた。
青葉は事件があってから一週間ほど学校を休んだ。梨乃は復帰した青葉の顔を見て、まず謝罪とお礼を口にしようとした。しかし、青葉は開口一番、それを拒んだ。事件のことは一切口にしないで、と。梨乃は首を縦に振ることしかできなかった。
それまで少女漫画の話題ばかりしていた二人であったが、青葉はそれを止めた。変わって口にするようになったのがエリザベス・ブーリンである。エリザベス・ブーリンはニューヨーク出身の歌手で、その当時デビューしたばかりだった。長い金髪にスレンダーな長身で、アイリッシュを祖先に持つため誰もが惹き付けられるようなミステリアスな美しさを放っている。本名はエリザベス・マクドナルドだが、あまりにも阿呆な苗字すぎるので、初代英女王にあやかってブーリン姓を名乗っている。
学校に行くバスの中で青葉が話に登場させるまで、梨乃はエリザベス・ブーリンの存在をよく知らなかった。テレビを点けると、しょっちゅう出てくるから、名前はなんとなく聞いていた程度だった。問題のある人である、と。
梨乃は懸命にエリザベス・ブーリンについて勉強した。知れば知るほど、ブーリンの言動に驚かされた。ゴッシップ紙に登場しない日はないほど彼女が取り上げられるのも頷けた。授賞式に現れれば誰よりも奇抜な衣装を身に纏っているし、コメントを求められればその内容は物議を醸す。新曲を発表すればそのプロモーションビデオの放映の可否を巡って必ずと言っていいほどおエライさんどもの論争が沸き起こったし、ライブを開けばド派手な演出で観客の度肝を抜かす。さらに私生活でもメディアを盛り上げている。美容整形を頻繁に行なっているらしく、常に顔の雰囲気が変わっている。もともとメークも厚いが、ジャッケットやテレビに露出する度に別人のように見えている。いわば謎の人物なのだ。
歌唱力はそんなにずば抜けた才能は持ち合わせていないが、ダンスに関しては天賦の才を得ていると言っていい。優れた運動能力と抜群の柔軟力を活かし、また独創性にも秀でている。ポップな曲に乗せて繰り出されるダンステクはダンサー志望の若者のカリスマにもなっている。
ブーリンが他の女性歌手と一線を画している大きな理由は曲に込められた歌詞の衝撃さもある。ブーリンは普通の女性歌手のように恋愛を主題とした歌など歌わない。多くが社会に対する批判や矛盾を歌ったもので、音楽に合わせて踊ろうよという内容のものが多少あるくらいだ。特に女性やゲイコミュニティ、有色人種といったマイノリティに対する差別を痛烈に批判する曲を数多くリリースし、その度に厳しい批評に晒され続けながらも、その姿勢を一貫して変えなかった。結果、現在では人種や性差別を解放するために大きく貢献した人物として評価を受けている。
しかし、十三歳の梨乃にはブーリンはあまりに強すぎる刺激だった。青葉が持ってきた米国の女性週刊誌に「女であることが不利になるなら、私は女だけを愛し続けるわ。だってそうすれば世界が消えてくれるもの」という彼女のコメントが大きく書いてあったのを読んだ時はかなり戸惑った。九州大学病院の医師である父と同じく九州大学病院で事務員として働いていた母というお堅い梨乃の両親が理解できる人物ではない、と判断した梨乃は、なるべく親の目を盗んでブーリンを見るように心がけた。雑誌を見るときは必ず自分の部屋でこっそりと見て、まるで男の子のようにベッドの下にその雑誌を隠した。
事件があった翌年の三月、青葉の父は異動を命じられ、帰国していった。当然のことかもしれないが、最後の最後まで青葉の母親は梨乃に対して冷たかった。梨乃が母とともに挨拶に行っても素っ気なかったし、土産の菓子折を渡してもお礼もそこそこであった。東京の名門女子大学を出て、都市銀に勤め、社内結婚したという青葉の母親は、髪を縦巻きロールにし、服のセンスもよく、実年齢よりもはるかに若く見え、美しかった。田舎育ちで、しかも高卒で病院事務をしていた梨乃の母親は、体型も服装もおばさんだったし、化粧気もない。そもそも事件があるずっと前から梨乃の家族のことを小馬鹿にしていたふしがあった。事件によってそれがより顕著になったのかもしれなかった。
青葉が一足先に帰国すると、二人は文通するようになった。最初の手紙は青葉から来た。青葉は両親がマンションを買い、埼玉の大宮に住んでいた。そして帰国子女受け入れ枠のある都内の女子校に編入したこと、だがいかんせん入試をくぐり抜けて入学したわけではないので授業についていくのが大変で落第しそうだというようなことが書かれていた。
その一年後、梨乃も帰国した。今度は熊本と埼玉で手紙のやりとりをした。梨乃は地元の公立中学に進学したため、高校受験をすぐに控えたので、返事を書くまでのスパンが少しずつ長くなっていった。そうしているうちにお互い疎遠になっていき、年賀状のやりとりぐらいしかなくなっていった。
梨乃は県内でもトップレベルの県立高校に進学した。二人の兄は父と同様、九州大学医学部に進学していた。梨乃も素晴らしい成績を誇っていたのだが、女の子なのであえて医師の道を進まなくても構わないというのが両親の意向であった。特別何かやりたいことがあったわけではないが、梨乃は漠然と周囲のみんなと同じように東京の有名私大にでも進もうかと考えていた。
そんな梨乃を一変させたのはまたしても青葉であった。梨乃が高二のお正月、高三の青葉がよこした年賀状にこう書かれていた。
「この春から聖城医科大学付属看護学校に進学します。私、白衣の天使になるよ」
それまでいまひとつ身の入らぬまま受験勉強をしていた梨乃に衝撃が走った。私も看護師になろう、と決めた瞬間でもあった。この学校に行けば青ちゃんにまた会えるだろう。一緒に看護師になってお仕事をしたい。梨乃を看護学校進学という目標へと奮い立てた。
医師の父と兄、医療事務員だった母は梨乃の決意を歓迎した。兄は梨乃ちゃんも一緒に仕事できるかもしれないと思うと嬉しいな、と笑顔で言ってくれた。
一方で、学校の先生は梨乃の希望に難色を示した。成績優秀だった梨乃がイレギュラーな進路選択をしてしまうと、学校自体の進学実績に響きかねない、と田舎の県立高校の教員達は考えたのだ。
「お前なら早慶だって入れる。今からでも遅くない。考え直せ」
高三の十二月まで何度こう梨乃に浴びせたであろうか。それでも梨乃は怯まなかった。
青葉が聖城医科大学付属看護学校に入った翌年の四月、梨乃も晴れて同じ学校へ入学を果たした。
「青ちゃん、私、看護師になるために上京しちゃった」
桜の花が舞い落ちる木の下で、二人は再会した。予め手紙と電子メールで連絡をし、梨乃の入学式があった翌日に聖城医科大学付属看護学校の校門で待ち合わせをしたのだ。
「梨乃、全然変わってないね」
二人は手を取り合って再会を喜び合った。梨乃は中学生の頃と変わらず、長い髪を二つに結び、踝まで隠れるような長いスカートを穿いていた。女の子は冷えてはいけないけど、おしとやかでいなくてはならないのよ、という母の言いつけを守って、この格好を続けていた。元々、痩せてはいない梨乃だったが、成長期を経てさらにふっくらとしてしまったため、体型を隠すためにも服装は変えなかったのだ。
青葉は相変わらずショートカットであったが、ジーンズにTシャツといういでたちで、昔よりボーイッシュな印象になっていた。ほっそりしていた身体はさらに締まっており、日ごろから鍛錬している様が窺えた。顎のラインもすっと細く、小顔であり、大きな瞳がよく映えている。丸顔で細目の梨乃にはうっとりするような麗しさだった。
青葉は埼玉の実家から新宿区牛込にある看護学校まで、埼京線と地下鉄を乗り継いで通学していた。高校時代の友人達はこの周辺にある大学に結構在籍していて、顔を合わせるとばつが悪いんだよね、と笑いながら話した。青葉は高校で成績が低迷していたため、大学に入るほどの学力など到底なく、なんとか推薦してもらえたこの看護学校に来たのだった。だから私、劣等生なんだよ。授業も実習も足引っ張っちゃっててさ、というのが青葉の口癖であった。
医師の娘であり、生まれながらに秀でた学力を有する梨乃は看護学校でもトップクラスであった。単位を落としている青葉のお手伝いをしてあげることなど、難なくできた。試験前には一緒に図書館や中野にある梨乃の学生寮で勉強もした。青葉が国家試験に合格できたのも梨乃なしには成し得なかったであろう。
卒業後、青葉は御茶ノ水にある系列の聖城医科大学付属病院に就職した。将来的には助産師の資格を取りたいという希望もあり、産婦人科・小児科外来に配属された。就職と同時に青葉は実家を出て、鈴蘭荘で暮らすようになった。
梨乃も一年遅れてやはり同じ病院に籍を置くこととなった。最初、外科外来に配属となり、三年経って産婦人科・小児科外来に異動した。時を同じくして、梨乃は青葉と寮でペアとなった。毎年四月に行なわれる部屋替え、ペア替えで偶然にも起きた出来事であった。
梨乃は嬉しかった。追いかけて追いかけてやっと一緒になれたと思ったからだ。きっと楽しい日々がやってくる、そう確信していた。
だが、現実は全く違っていた。
看護学校を卒業するまで実家暮らしであった青葉は家事が大層苦手であった。どころか、片付けの「か」の字も知らないのかというほど、青葉は身の回りの整理整頓ができない。脱いだ服は畳むことはおろか脱いだ所にそのまま脱ぎっぱなしであるし、食べかすをゴミ箱に捨てることもしない。今までのルームメイトはこんな調子で文句ひとつ言わなかったのだろうか、と梨乃はいらぬ心配までしてしまうぐらいだ。
梨乃は懸命に尽くした。炊事・洗濯・掃除と家事全般を請け負った。それでも青葉は礼のひとつも言わず、それどころか殊に料理に関してはケチばかりをつけた。好き嫌いが多く、しかも舌が変に肥えているためだ。梨乃は一生懸命に青葉の好みを作れるよう、研究をしているが、まだまだである。
さらに幼い頃から感情の起伏が激しいとは感じていたのだが、年齢とともにひどくなっているようだった。何かのはずみで怒らせてしまうと、ヒステリーを起こし、自制が効かなくなるのだった。その度に梨乃は胸が締め付けられるような悲しさに捉われるのだった。どうしてだろう、自分は青葉に対して何をしたのだろう、と。
「ご飯できた?」
眠っていたのであろうか、青葉は目をこすりながらベッドルームから出てきた。ナイキの赤いTシャツと黒いジーンズに着替えていた。手には今朝方着ていた白いTシャツと黒いジャージを持っていて、梨乃に向かって放り投げてきた。コンロで鍋を見ていた梨乃は、自然に服が自分の足元に滑り落ちるのを待った。
「もうちょっと待って。今、コロッケを揚げたらおしまいだから」
本当は味噌汁もまだできていない。だが、もうすぐ食べられるから、とアピールした方が青葉は無駄な労力を要さなくて済むだろう、と梨乃は考え、咄嗟に言葉を変えた。
「わかった。テレビでも見てるわ」
カラカラと油が弾く音が耳に絡まっているため、マフラーを通してのようにしか聞こえないが、青葉はテレビを点けたらしい。電子音と笑い声が入れ替わり、立ち代わりに響いてきた。その音で梨乃は少し眠気を覚ました。夜勤明けから帰ってきて、溜まっていた洗濯を片付け、掃除をし、買い物に行って、料理をしているのだ。休憩など全くしていない。この後も、乾いた洗濯物を取り込んで、食器の洗い物もしなくてはならない。また、明日、夜勤明けから帰った青葉のために、朝食も用意しておいてあげたかった。寝られるのはいつもの感じからすると、早くて十一時だろうか。明日は日勤であるから、もう少し早くしたいものだった。
揚がったコロッケを菜箸で皿に移し、今度は味噌汁を作るために鍋に水を汲んだ。鍋をコンロにかけると、梨乃はさっき青葉が出したTシャツとジャージを回収して洗濯籠に入れた。
「マジ、ちょーやったあ」
梨乃が再び火元に戻ろうとした時、テレビの前に座っている青葉が大きな声を上げた。洗濯籠からガス台までの動線上はテレビがよく見える位置だった。梨乃は後方から画面を見た。
芸能ニュースであった。笑っているような文字が小さく右上にあり、その真下に顔写真が貼り付けられている。画面には外国人の女性がアップで映っていた。
「ブーリン、来日決定だって」
青葉は立ち上がってポンポンと跳ねながら、万歳を梨乃にして見せた。
「よかったじゃない、青ちゃん。いつ来るの?」
「九月」
あと三ヶ月先だ。チケットはもうじき売り出すのだろう。
「青ちゃん、行くの?」
「もちろん」
ロスでのあの事件以来、口を開けばブーリンの名前ばかりをしていた青葉である。お騒がせセレブの生き様を「かっこいい」と、崇拝してやまないのだ。
「ねえ、私も一緒に行っていい?ブーリンのコンサート」
ブーリンのダンスに没頭している青葉に、梨乃は直立不動で呼びかけた。踊っていた青葉の身体が止まった。
「うん、いいよ。一緒に行こっか」
「ありがとう。楽しみだね」
凍りそうなほど緊張していた梨乃の心臓は、溶けて正常に動き出した。青葉がどういう反応をしてくるのか、想像もつかなかったからだ。物が飛んでくるかもしれない、とまで想定していた。鍋に入れた水が沸いていることにその時やっと気がついた。
本来、梨乃も青葉も聖城医科大学付属御茶ノ水病院産婦人科・小児科外来所属の看護師である。三百六十五日、二十四時間が勤務時間である看護師はシフト勤務体制であり、外来所属といえど日勤だけでなく、夜勤をすることもある。さらに日勤であっても、人員の足りない診療科へ借り出されることもある。そのため、同じ科に属していても勤務時間と場所が重なることは多くない。特に近年、縮小傾向がある産婦人科・小児科外来では、二つの科を合わせて十人の看護師しか抱えていない。そのうち五人が日勤、三人が夜勤、二人が休みというのが通常の勤務体制だ。すなわち、梨乃と青葉がそろって日勤という日は少ない。さらに二人と仲の良い小百合もシフトが重なるという日は大変珍しい。
その稀有な日を梨乃は密かに心待ちにしている。二人が一緒に日勤だと、梨乃は青葉と多くの時間を過ごせる。朝、家を出る時から電車に乗って病院に行くまでの間も、ロッカーで制服に着替えて朝礼を受けてから仕事をしている間も、さすがに昼食は交代になるから別々だが、片付けをして家に帰るまでの間もずっと一緒だからだ。同居しているとはいえ、不規則な職に就いている身の上、顔を合わせる機会は少ない。逆に出勤中の方が、接している時間が長いのだった。
七月の中旬に梨乃、青葉、小百合が日勤で重なった日があった。あとの二人は、産婦人科・小児科外来師長の上岡由紀子と助産師資格を有し青葉の先輩格に当たる武田綾奈だった。二人とも青葉と小百合にあまり評判が芳しくない。
上岡は五十を過ぎたオールドミスだ。体格がよく、声も大きい。メガネをかけ、パンパンに張った顔立ちは、白衣を脱げばどこにでもいるオバちゃんといったところだ。仕事に関しては完璧であり、患者受けがよく、医師と事務職員たちからの人望は厚い。その反面、ナース、とりわけ若手層には容赦なく厳しい。ミスをしようものなら、長く苦しく辛いお説教を聴かされる破目になる。梨乃は手強い上司であるとは思いつつも、上岡の持つ看護哲学には共感ができる
ため、尊敬する医療従事者の一人だとみなしている。
だが、青葉と小百合は目の仇にしている。青葉は生来のものぐささやそそっかしさのため、ミスをしてしまうことが多いため、しょっちゅう注意を受けてしまうからだ。一人っ子で我の強い青葉は指摘を「はい、そうですか」と聞き入れるほど素直ではなく、むしろ言い返してしまうため、上岡と言い争うこともしばしばある。小百合はそこまで仕事ができないわけではないが、怠け癖があるため、患者対応をいい加減に行なうことがある。それが上岡には気に入らないようだ。また、小百合は垂れ目を気にしていて、いつも漆黒のアイラインをぐるぐると目の回りに塗りたぐって外来に立つため、素行の面でも目をつけられている。そのため、二人は上岡のことを「カミババ」ないし、「カンババ」と呼んで陰口を叩いているのだった。
看護師たちは出勤するとまず白衣に着替える。そして日勤の場合は受け持ちの診療科へと行き、朝礼を行なう。聖城医科大学付属御茶ノ水病院では看護師のための部屋はなく、各科の処置室で朝礼は行なわれる。朝礼ではその日のシフトを確認することと、診療が行なわれる医師の事務連絡を行なう。大学病院は数多くの医師を抱えているため、曜日によって医師が全く入れ替わってしまう。一日しか来ない医師もおり、同じ医師でも曜日によって診療室が異なるケースもあるため、必ず毎朝ナースは確認をするのだ。また予約患者の中に要注意人物がいれば注意喚起もこの時にする。締めには病院の看護師専用のスローガンを全員で唱和する。
「注意に注意を、確認に確認を。医療は連携がミスをなくす。自分がミスをしない保証はどこにもない。今日も私から声をかけて万全の体制を」
唱和を終えると、司会が「今日も一日頑張りましょう」と言い、幕を閉める。朝礼の司会はその日のシフトで一番位の高いナースがする。とはいっても産婦人科・小児科外来の場合、おおむね師長の上岡が行なうのだが。
午前九時に診療が始まる。院内放送にて始業を告げるベルが鳴る。と同時に看護師と事務職員が一斉に外来受付窓口の前に並んで、患者に朝の挨拶をする。
梨乃と青葉はこの時、いつもとなりに並ぶ。この日は小百合もいたため、三人でズラリと横一列になった。
朝の挨拶はその日出勤している外来ナースの中で一番位の高いナースが行なう。つまるところ、院内で一番位の高いナースが、と言った方が正しいだろうか。聖城医科大学付属御茶ノ水病院の看板診療科は循環器科である。複数の教授を抱え、所属医師数が断トツナンバーワンだからだ。現院長も循環器科所属だ。次に現副院長を擁する内科が続く。そして神の手の異名を持つ医師がいる眼科、国会議員の妻を持つ医師がいる外科、以下医師数と患者数を加味して、整形外科、泌尿器科、皮膚科、産婦人科・小児科、最後に精神科となっている。ナースもこの格付けに従って組織されている。よって、朝の挨拶を行なうのは必然的に循環器科の看護師外来師長の任務になっている。
青葉はこの朝の挨拶を楽しみにしている。彼女の憧れの先輩がこの大役を務めているからだ。
スラリと長い手足を白い制服に包み、背中をピンと張って、両手を胸の前で組んだ細面の女性が壁に貼り付いた看護師の中から一歩進み出た。循環器科看護師師長の椎名茉莉だ。梨乃の横で青葉がせわしなく首を動かしていた。茉莉は組んでいた手をほどいてから一礼した。
「おはようございます。只今より本日の診療を開始致します」
茉莉が穏やかで上品な声で診療の開始を宣告すると、看護師と事務員がお辞儀をした。すると、院内はたちまち喧騒に包まれる。これが毎朝の光景だった。
「ねえ、梨乃、確認できた?」
処置室に下がるなり青葉は大声を上げた。梨乃は事務員が回してきたカルテを開きながら、青葉の目を見た。
「うん、やっぱりまだないみたいだね」
梨乃はそれだけ言うと、またカルテに視線を戻した。朝、事務員が回してきたカルテは予約の入っていない患者だ。急患の可能性もあるため、医師に見せる前に少し状況を把握しておけば診療がスムーズに進む。病歴を確認して、緊急性がある患者かどうかを見極めなくてはならないのだった。
「ああ、よかった。今日もほっと一安心」
青葉はそう言いながら両手を上げて伸びをし、処置用のベッドに腰掛けた。青葉は循環器科外来看護師師長の椎名茉莉にお熱を上げている。ブーリンの熱狂的なファンである青葉は、病院のスターにも気持ちをストレートに表していた。さすがに本人にはまだ思いを伝えていないらしいが、周囲にいる梨乃や小百合には、包み隠さず自分の気持ちを言葉にしている。そして、日勤の挨拶時に茉莉の左薬指に何の指輪も嵌められていないことを毎回確認しては大騒ぎをする、これが青葉の日課となりつつあった。
梨乃は緑の制服を着た看護助手に、カルテが回ってきた患者の画像データを出し、担当医師の部屋に持っていくように指示を出した。待合室にいる患者は女性機能関係の疾患があった。急患で来たということは、何かしら急変があったのかもしれない。まずは検温をして、容体を訊かなくてはならない。梨乃が体温計の準備をしていると、奇声が処置室に響き渡った。
「青ちゃん、梨乃、大変。大ニュースだよ」
ゼエゼエと息を切らしながら、小百合がやってきた。小百合はさっき、地下にある放射線検査室に患者を送り届けに行っていた。そこから走って帰ってきたようだ。仕事に集中していた梨乃は、小百合の大声に一瞬肩をぶるっと震わせてしまった。
「何、小百合」
青葉は処置室のベッドから元気よく飛び降り、瞳を輝かせながら小百合に向かい合った。
「循環器のナースが噂してるのさっき偶然聞いちゃったんだけどね、茉莉さん、うちらのお仲間みたいよ」
梨乃は体温計を床に落としてしまった。お仲間とは梨乃、青葉、小百合の三人で作った暗号で、レズビアンを意味している。梨乃と青葉は、お互いに胸のうちを開け放したことはないのだけれども、あの事件以来、自然に二人ともそうなったということをなぜか以心伝心していた。小百合がレズビアンであることを梨乃は青葉経由で知った。梨乃が産婦人科・小児科外来に来る前のことであるらしい。青葉が何気なく質問した「彼氏いるの?」に対して自分の性癖をカミングアウトしたのだという。それから小百合と青葉は親密になったとのことだった。それまで青葉は厚化粧で媚びるように話す小百合をそう好いていなかった、と後に語っていた。
小百合が同性愛者になった経緯は明らかではない。ただ、左手にタバコを押し付けられたような痣があるのを青葉が見たらしく、そこから父親に虐待を受けていて、それが起因しているのでは、と推測されている。あまり自分のことを話さない小百合であるが、自分の性的志向について格別隠す素振りはなく、むしろオープンであった。現在は以前にこの病院で看護助手として働いていた美砂代という女性と同棲しているらしい。美砂代は今、介護施設に転職し、いずれ小百合と結婚したい、と話しているそうだ。
「やばい、チョーうれしい」
青葉は小百合に抱きついた。小百合も青葉を抱き締めた。
「青ちゃん、やったじゃん。これで堂々とアタックできるね」
小百合は矢継ぎ早に青葉にねぎらいの言葉をかけた。梨乃はその様子を黙って見つめた。
「うん、頑張っちゃう。ありがとね、小百合」
全くレアなことがよく起こったものだと梨乃は思った。これを僥倖と呼ぶのだろうか。普通、自分のような境遇を背負っていると、なかなか他人に対して心を開けないし、同じカルマをおんぶした同士に会えずにいるものであると、熊本にいる頃、梨乃は思っていた。もちろん、求めれば可能ではあるが、勇気のない梨乃は初めの一歩を踏み出せないまま、悶々と一人で黙考していた。東京に来てまさか自然に自分と同じ嗜好を持つ友人と出会え、しかも職場に複数いるとは、信じられない思いでいっぱいになった。青葉と小百合というポジティブで開放的な性格の仲間を持ったことが梨乃を助けてもいるだろう。
だが、新しい仲間が見つかったとはいえ、梨乃には茉莉という存在が引っかかった。茉莉は青葉の意中の人である。行動力のある青葉ならば、すぐにアピールをしに行く可能性もある。梨乃は漠然とした焦りを感じずにはいられなかった。
「何をしているのですか、あなたたち」
怒鳴り声とまではいかないまでも、どすのきいた声が青葉と小百合の背中を刺した。すぐさま二人はくっつけていた身体を離した。青葉と小百合がレズビアンハンターという俗名をつけた、上岡由紀子が太い腕を組み、処置室に現れた。
「あなた方は何度言ったらわかるのですか。今は勤務中ですよ。ここはおしゃべりをする場所ではありません。そんな所でベタベタと張り付いていないで、患者さんや先生のご用を聞いてくるべきでしょう」
「わかりました。すいません」
いかにも不貞腐れた言い方でそれだけ吐き捨てると、小百合はその場を離れた。
「全く、感じ悪いんだから」
上岡は丸顔をさらに膨らませて小百合の背を睨んだ。
「上岡師長、小児科四診の関野先生が呼んでます。お願いします」
「あら、武田さん、ありがとう」
白衣にピンクのカーディガンを羽織った武田綾奈の登場が上岡の顔を綻ばせた。綾奈はスレンダーな長身で切れ長美人である。人当たりがよく、気の利く性格であるため、上司からの評価は高い。近々、他の病院でやはり看護師として働く男性と結婚を控えているとのことで、最近は心なしか表情が和らいでいる。綾奈を可愛がる上岡は殊更彼女の結婚を喜び、さらに目をかけるようになった。
綾奈は青葉の新人教育を担当していた。その研修が大変厳しかったとのことで、青葉は綾奈を嫌っているのだった。その綾奈が結婚することを喜ぶ上岡に対しても、更なる憎悪が生じている。
「くそっ、カンババのヤツ、綾奈ばっかり贔屓しやがって」
ゴツン、という音がした。青葉が診療台に拳をぶつけていた。梨乃は目を合わせないように青葉を見た。
「アイツ、古いんだよ。女はみんな結婚して子ども産む人生を歩むべきだって思っていやがる。自分は独身のくせしてさ。ブーリンは言ってる。男と女で恋愛しなきゃいけないって神が決めてるのは、その目的が子どもを作るためだけだからだって。子どもを作ることが恋愛の目的じゃないなら、愛の形は自由だってことさ」
そうだよ、その通りだよ。
でも青ちゃん、ここでそれを言っちゃいけないよ。そう言いそうになって梨乃は口をつぐんだ。青葉の逆鱗に触れるのを恐れたからだ。
性別なんて生物学的にあるだけでしょ。愛に性別は関係ないじゃない。
ブーリンはそんなことも言っていた。梨乃も青葉も、そしておそらく小百合もブーリンに賛同するだろう。しかし、皮肉にも三人はその生物学に基づいて物事を処理しなくてはならない職場にいる。
上岡は青葉と小百合が同性愛者であることを薄々感じつつあるようだ。二人が開けっ広げにそういう話題をしているから無理もない。そのため、青葉と小百合が少しでもくっついて私語をしていると、目くじらを立てている。青葉曰く、上岡は青葉と小百合が院内に悪い虫を撒いていると決め付けている、という。無論、青葉も小百合も自分たちの仲間を増やそうと目論んでいるわけでも何でもない。ただ、自分の気持ちを素直に話せる相手がいる、純粋にそのことが嬉しいだけなのだ。実際には上岡が偏見的な思想の持ち主かは明らかではない。こちらの言い分を何も与せずして、その反面で、綾奈のように気立ても仕事の要領もいいナースには目をかけているのが青葉からするとえこ贔屓されていると取れるようだ。
青葉にも短所はある。それは青葉に肩入れしている梨乃でも感じる。だからといって、上岡が青葉の性的志向を根拠として気に入らないのだとしたら、梨乃は許せないと思う。小百合にしても然りである。だからこそ梨乃は仕事には手を抜かない。上岡に対する無言の抗議になると思うからだ。
いたたまれない気持ちで青葉をひと目見てから、梨乃はカルテに体温計を挟んで、患者の対応へと足を向けた。
九月、エリザベス・ブーリンが来日した。ワールドツアーでオーストラリアからやってきたブーリンが日本に降り立った日、マスコミはこぞって空港に押しかけた。十年ぶりに降臨した世界的な大スターを一目捉えようと、テレビ局は生中継にてブーリンの一挙手一投足を実況し、スポーツ新聞は一面にてその様子を掲載した。
青葉はワイドショーで流れたブーリンの一部始終を録画し、何度も繰り返して見ている。また来日した様子を写したスポーツ紙の一面を大切そうに切り抜き、ダイニングルームの壁に貼った。長い金髪のストレートヘアに、黒いグッチのサングラス、黒い半袖のサマーニットに黒いスキニーパンツと、全身黒づくめの姿で現れたブーリンの写真を見て、ああ、素敵、本当に愛してる、と時折独り言を発していた。
ライブの日が近づくにつれ、青葉は何度もCDをかけ、ブーリンの曲をかけて歌い、そして踊っていた。当日、会場でノリノリのダンスを披露するつもりであるらしい。
青葉が跳ねているその横で梨乃は針仕事をしていた。ライブに着ていく衣装を用意しているのだった。青葉はとびきり目立って一目でもいいからブーリンの眼中に入りたいと主張した。元来、異彩を放ったファンの多いことで知られるブーリンである。少し際どく、奇抜な格好をしていくだけでは、他と同じ仮装大賞のいち出場者で終わってしまい、埋没してしまう危険性があった。逆に意表をついたアイディアコスプレで対抗した方が、大観衆の中でも目につきやすいのでは、という結論に達した。すなわち、梨乃と青葉は日本的な、しかしモダンな衣装を身に纏うことに決めた。シンプルに紫紺のブレザーに赤いチェックのミニスカートという学園物アニメのような、あるいはどこぞの女子高生アイドルのようないでたちにしたのだった。ブレザーは中野の商店街にある安物衣料品店で仕入れ、スカートは気に入ったものがなかったので、手芸ショップで赤いチェックの生地を購入し、梨乃が手作りすることになった。この作業により、梨乃は八月の盆頃から非番の日はほとんど手を動かさなくてはならなくなった。
幸か不幸か青葉は盆の時期を留守にしていた。聖城医科大学付属御茶ノ水病院ではお盆の期間、休暇・休診制度は採っていない。いつもと変わらず、診療を行なっている。医師と看護師、事務員は交代で夏休みを連続して三日間取れる。梨乃は八月の最終週にまとめて取った。青葉はあえて盆の真ん中で三日間にした。一般企業に勤める高校時代の友人と旅行に行く約束をしたから、とのことだった。その間、梨乃は日勤で、家事にも手が抜けたため、衣装を作るのに大変捗った。
スカートにファスナーをつけ、仕付け糸をほどいて、完成した翌日、ついにライブがやってきた。
二日間ある公演のうち、梨乃と青葉は二日目のチケットを買った。そこしか二人の休みの予定が合わなかったからだ。その日、梨乃は日勤で、青葉は非番だった。
梨乃は病院の更衣室で衣装に着替えると、人目を忍んでそそくさと退勤した。太い自分の太股が露わになった姿を誰かに見られたくなかったからだ。梨乃はいつもロングスカートしか穿かない。太めの体型を隠すのに一番適したアイテムであるし、冷えに過敏であるけれども、女性としてのマナーを身につけるにはロングスカートが最適と信じて疑わなかった母の言いつけを今でも忠実に守り続けているためでもある。学生時代、どんなにミニスカートが流行っていても、決して膝小僧より上になるスカートは穿かなかった。むしろ、制服のスカートからふくらはぎが見えてしまうのが恥ずかしかったぐらいだ。今日が初めて梨乃がミニスカートに脚を通す日である。これが最初で最後かもしれない、とさえ思う。
コンサートが行なわれる東京ドームは、聖城医科大学付属御茶ノ水病院から目と鼻の先だ。七時の開演に日勤上がりの梨乃は歩いても十分間に合う。それでも梨乃は白山通りを疾走して、逃げるようにして東京ドームに逃げ込んだ。まだ涼しいというほどではない季節であるけれども、妙に脚がスースーした。お腹に冷えるからミニスカートを穿いちゃだめよ、と母が何度も口にしていた理由がわかった気がした。お母さん、ごめんなさい、今日だけはミニスカートをお赦しください、と梨乃は心の中で母に謝った。
青葉はドームのアリーナ席を予約していた。ロッカーで携帯電話のメールをチェックした時、青葉はすでに席に着いているから、という連絡をしてきていた。梨乃はチケットに打ち出されたナンバーに従ってゲートに入り、ぎっしりと並べられたパイプ椅子の中をくぐり抜けて自分の席を探した。
「梨乃、こっち、こっち」
梨乃がだいぶ席に近づいた時、すでに待機していた青葉が手を上げた。アリーナのちょうど真ん中のいい席だった。パフォーマンスが行なわれる舞台までは近からず、遠からずといったところだ。観客が出入りするための細い通路から数席入った所に、青葉がおり、その周囲にもすでに人は来ていた。梨乃は自分が入るために身体を寄せてくれた隣席の人に、「すいません」と言いながら青葉のもとにたどり着いた。
青葉も衣装を着ていた。梨乃はそれを見て、自分の口角がほころぶのを感じた。いつもジーンズかジャージしか穿かない青葉が、ミニスカート姿でいる珍しい光景だ。しかもそのスカートは梨乃のお手製である。携帯で写真を撮って、小百合に見せてあげたいとも思うが、きっとそれは青葉が拒むだろうから、梨乃は言葉にしなかった。
それにしてもスラリと手足の長い青葉は何を着てもよく似合う。二十代も中盤であるというのに、まだ少女のようにしか見えない。こういう制服ファッションに身を包んでいると、まだ女学生と言っても通ってしまうのではないか、とすら思えてしまう。
「ミニスカートなんて高校生以来、何年ぶりだろう」
と、青葉は呟いていたが、それも滑稽に聞こえた。愛らしい青葉と一緒にこの格好でいると、梨乃はさっきまであれだけ恥ずかしがっていたこと自体が馬鹿馬鹿しく感じ、自分の脚の太さなんてど
うでもいいことのように思えてきた。
日本にもブーリンの熱狂的なファンは多い。女性が中心だが、特にデビューしたての頃、性の解放を歌った曲が多かったことから、同性愛者からの支持も高い。彼らも数多く会場に姿を見せている。
ブーリンのプロモーションビデオには印象的な衣装が多く、そのコスプレをしている観客も目についた。さらには和服や学ラン、アニメキャラや着ぐるみなど、多種多様な服装で大スターの登場を待ち侘びていた。
「梨乃、うちらも負けてられないよ」
お洒落なような、個性的なような、とにもかくも異様な会場の熱気に、青葉は呑まれまいと梨乃を鼓舞した。青葉の隣には、つまり梨乃から見て隣の隣にいる二人組の女性は、明治時代の女学生を連想させる羽織袴を身に纏い、頭には大きな紅いリボンをつけている。青葉はその二人をジロリと見てから、パイプ椅子の上に置いていたアパレルショップの紙袋から帽子を二つ取り出し、梨乃の胸にグッと押し付けた。小百合が去年のクリスマスに恋人の美砂代とディズニーシーへデートに行ったお土産として梨乃と青葉にくれた、アニマル柄にミニーマウスの耳がついたニット帽である。梨乃にはピンク、青葉にはグレー、小百合はベージュで、美砂代は単色の黒を買ったとのことで、四人でおそろいなのだ。しょっちゅうディズニーリゾートに出かけている小百合と美砂代は、もうすでに何度もこの帽子を愛用しているようだが、梨乃と青葉は未使用だった。お互いに無言ながら箪笥の肥やしになっていたところを今回のイベントに使わないか、と持ちかけたのは梨乃だった。肌寒くなってきた先週、衣服の整理をしている最中に抽斗の奥から発見したことがきかっけであった。髪のアレンジをどうしようか、と悩んでいた青葉はすぐにこの提案に飛びついた。
青葉はベリーショートの小さな頭にすっぽりとグレーの帽子を被った。小顔の青葉は帽子の淵で目が隠れてしまいそうになっている。それが大きな瞳と長く上をよく向いた睫毛を際立たせている。梨乃も二つに結った髪の上に帽子を載せた。まるでディズニーリゾートが学生限定キャンパスデーパスポートの広告を打っていた時の女の子達みたいないでたちになった。二人は得意になって女子高生がプリクラを撮る時のようなポーズを取った。横にいる大学の卒業式風の格好をした女性は梨乃と青葉を見て、目を丸くしていた。年のころは梨乃達と同年代のようだ。彼女たちが自分たちを見て、何かをヒソヒソと囁き合っているのを、青葉は目で合図して、くすりと笑った。
そんなことをしていると、照明がふっと消えた。その瞬間、ざわついていた会場内が鎮まり、青葉も黙った。あまりに突然のことであったので、梨乃は何が起きているのか判然としなかった。すると、どこからともなく重低音が轟いた。突如訪れた暗闇に、声を失っていた観衆から拍手が湧いた。青葉が手を打っているのを見て、梨乃も同じようにした。やがて球場内中央部に造られた舞台上に銀色の閃光が走った。目の奥がチカチカとしてしまうほど強い光だった。徐々に光は和らいでいき、観客の目がなれてきたころ、今度は場内に割れんばかりの歓声が上がった。いつの間にかブーリンが舞台上に出現していたのだ。
青葉は叫んだ。興奮して飛び跳ねもした。梨乃の手を取り、腕ごと揺さぶった。梨乃も嬉しくなって、一緒に小躍りした。
舞台の両隅に設置された巨大スクリーンにブーリンの顔がアップになって映し出された。黒い大きな蝶の形をした仮面で顔を覆い、長い髪は夜会巻きにしている。そのブーリンを取り囲うようにして、中世ヨーロッパ風の衣装を身につけた男女が現れた。みな仮面を被っている。男性はモーツァルトのような巻き髪のかつらに白タイツを履き、女性は裾の大きなロングドレス姿である。動きやすい、とは言いがたい格好であるが、みな機敏なダンスを繰り広げている。当のブーリンは長身をすっぽりと包み込む長い金のマントを羽織り、細い身体には胸から腹部にかけてラメの入った黒いレオタード、黒い編みタイツに黒いピンヒールのロングブーツを身に纏っている。ブーリンを引き立てる舞台セットには、ヨーロッパの古城によく見られるシャンデリアとゴシック様式の支柱である。仮面舞踏会を模したダンスを披露しているのだが、流れている曲はかなりアップテンポで現代的だ。また、シャンデリアから発せられている灯りは、ミラーボールよろしく彩っている。さらに伝統的な衣装や舞台セットとは裏腹に、パフォーマンスしている曲も自由を追求することがテーマである。そのコントラストが絶妙だった。
曲のラストにブーリンはマントを脱いだ。その背中には羽がついており、ブーリンは羽ばたかせて宙に浮いた。このイリュージョンにまたしても観客は息を呑んだ。
ブーリンは宙吊りになったまま舞台上を移動し、中央奥に置かれていたバルコニーのような所に降り立った。そして蝶型の仮面を外した。仮面はブーリンの手を離れると、これまた独りでに浮き、ひらひらと舞いながら舞台の天井めがけて消えていった。
ブーリンが降り立ったバルコニーには白いカーテンがあり、それが一瞬ふわりと波立った。それに合わせてブーリンは一回ターンをした。すると、カーテンはブーリンの身体にピタリと張り付き、白いドレスへと様変わりした。Aラインのドレスになったため、ブーリンの身体のラインがくっきりと浮き出て、スタイルの抜群さが際立っている。
ブーリンの眼下、すなわち舞台上には黒いタキシードを着た男性が数名おり、上にいるブーリンに向かって真っ赤なバラを捧げていた。
ほどなく、曲が始まった。ブーリンがブレイクするきかっけとなった曲だ。彼女の代表曲であり、今や彼女の代名詞ともなっている女性解放を歌った問題作である。オリジナルは十年以上前に発表されていて、当然今からすると古めかしいメロディーである。常に完璧を保つブーリンがその汚点を正さないはずがなかった。曲は現代風にアレンジされていた。リリース当時にポップ調であった曲の原型は、ハードなロック調に編曲されていた。ブーリンは音楽に合わせてバルコニーの柱を使ってポールダンスを始めた。ダンスとともにブーリンの長い脚に純白のドレスがするりと流れ落ちた。見事な美脚が露わになった。またその身体能力はとても四十代であるとは思えなかった。
締めににブーリンは白いドレスを脱ぎ捨て、下にいた男達をすっぽりと包み込んだ。純白のドレスを脱いだブーリンの体は、漆黒のチュチュに様変わりした。背中にはやはり黒い羽根が生えており、まるで小悪魔なティンカーベルのようであった。その羽根を羽ばたかせ、ブーリンは飛び、天井へと消えていった。そこに目を奪われている間に下にいた男性陣もいなくなっていた。この曲芸ぶりに青葉はおお、と声を上げ、拍手をした。梨乃は何が起きているのかもわからず、ただ興奮をするのみであった。
少し照明が落ち、今度はニュース番組のジングルらしき音楽が流れた。キャスターの早口とともに舞台にある画面には戦争の様子が映し出された。銃声、爆発音、サイレンがけたたましく会場内に鳴り響き、人々の叫び声と血しぶき、黒煙が代わる代わる観客の目に飛び込んでくる。やがて空いっぱいに軍用機が埋め尽くし、それらはひっきりなしに爆弾を落としていった。その爆弾の中の一つをカメラが追い、閃光が走り、噴煙と化した時、ステージ上にスモークが焚かれた。
白煙とともにブーリンが現れた。軍服を着ている。その軍服は迷彩模様のように見えるが、実際には文字と写真で作られていた。各国の新聞紙が貼られている。戦争やテロについて書かれている記事のみを貼り合わせているようで、爆弾の煙や壊された建物の写真が見える。ブーリンを囲むようにして現れたダンサー達はみな市民の恰好をしている。ある人は顔に、ある人は胸に、ある人は脚に、大きな血糊がついている。その血糊がついている箇所を庇うようにして踊っている。彼らの瞳は怒りとも、絶望とも、悲しみとも言えないような暗い色を灯している。
かくして今回の世界ツアーの中で最も物議を醸している演出が始まった。会場の誰もが息を殺しているのが窺がえた。日本の歌手なら絶対にありえないパフォーマンスだ。たじろぐのも無理はなかろう。
だが、ブーリンのボルテージは上がるばかりだった。曲は平和を願う歌詞である。スローなバラード調だったオリジナルはアップテンポなディスコ調に編曲されている。音楽に爆撃音や戦闘機の轟音がうまく調和しており、ダンスの振り付けも心なしか軍隊の動きを取り入れている。
曲が中盤に差し掛かった頃であった。ブーリンは突如マイクを観衆に向け、
「 Shout,we wish peace!」
と要求してきた。大人しい日本の観客は英語の聞き取りもできないことも手伝って、蚊の鳴くような声しかブーリンに返さなかった。青葉ぐらいしか言わなかったかもしれない。ところがとある小細工が会場の風向きを変えた。場内カメラが観客の様子をフラッシュで映し出したのだ。目立ちたがり屋の多いブーリンのファン達はこの小細工にすぐに飛びついた。会場中が一斉に立ち上がり、みな思い思いのポーズを創り、ブーリンにアピールをした。
「梨乃、うちらも映ろう。ブーリンが見てくれるかもしれないよ」
青葉は梨乃におでこの上で斜め型のピースを創るように指示した。梨乃はすぐにそのポーズを取った。ブレザーにチェックのスカートを穿いて、頭にはミニーの帽子を被った二人は、まるでかの有名なアイドルグループのように見えた。こんなことをしていればブーリンの目に留まるかもしれない、そんな青葉の必死さが伝わった。
スクリーンには様々な観客が目まぐるしく映る。学生服姿で額に日の丸を描いた鉢巻を巻いた男性。キャバクラ嬢のように縦巻きにした金髪でラメの入ったドレスを着た厚化粧の女性。かつてブーリンがプロモーションビデオの中で来ていた衣装を模したコスプレをしている男女のグループ。黒髪におかっぱ頭で半分顔を扇にうずめた和服姿の女性。人気アニメのコスプレをした男性。入れ代わり立ち代わり観客が映し出される中、曲は終盤に差し掛かっていった。
青葉と梨乃は諦めずにあれこれとポーズを取り続けた。「We wish peace!」と唱え続けながら。
キンニクマンに出てくるような肉襦袢を肩につけた男性が映ったその直後のことであった。ミニーマウスの耳がついたアニマル柄の帽子が大きくスクリーンに躍り出た。帽子の端にはぴたりとピースサインが貼りついている。女子高生風の恰好をした女性二人だ。
梨乃の心臓が高鳴った。自分が映っている。慌てずに隣にいる青葉がしている通りに従った。
青葉はスクリーン上で目線を確認したらしく、カメラにきれいに映れるような視線を送り、ポーズを決め直した。梨乃は無言でそれに倣い、姿勢を正した。
それまで観客にマイクを向け続けてきたブーリンが、梨乃と青葉が大画面に映し出された瞬間にくるりと振り返った。そして二人が映し出されているスクリーンを見ながら、頭の上で何度か手を上下させながら打った。再びブーリンが踵を返した時、カメラは切り替わり、今度はニューハーフであろう、厚化粧の男性がアップになった。
「どうしよう、ブーリン見てたよ」
まるで小さい子どものように青葉は足を地団駄しながら叫んでいた。頬は紅潮している。瞳にはうっすらと涙さえ浮かべていた。
「やったね、青ちゃん」
「うん。梨乃が頑張ってこの衣装を作ってくれたおかげで目立てたんだと思う。ありがとうね」
「うん。私も青ちゃんがブーリンに見てもらえてうれしい」
梨乃は親指を立てて見せた。隣いる羽織袴を着た女性達は青葉を恨めしそうに眺めていた。
青葉は本当に幸せそうだ。青葉が幸せなら自分も幸せである、と梨乃は思っている。梨乃はブーリンを見て、聴いて喜ぶ青葉が好きだからだ。だから、ここに来てよかった。梨乃はそう思おうとした。いや思うべきだと考えた。歓喜に酔いしれている青葉を横目に、梨乃は努めて笑顔を絶やすまいと、ただそれだけを心に念じていた。
ブーリンのライブがあってから、青葉は以前にも増して、ブーリンに熱を上げるようになった。あのスクリーンに映った一瞬をブーリンは見てくれた、自分のことを見てくれただろう、と繰り返し梨乃に問い、肯定させては一人で舞い上がった。
ライブのあった九月以降、梨乃と青葉はあまり顔を合わせなく。なった。十月のシフトがいまひとつかみ合わなかったことにも一因ある。梨乃が夜勤だとその前日か翌日青葉が日勤、その逆もあり、お互い日勤であっても梨乃は内科や外科にお手伝いへと駆り出されてしまうといった具合であった。また日曜の休診日が二人とも仕事が入っていなかった貴重な日があったが、青葉は友人の結婚式に招かれていたため、一日留守をしていた。
そんなこんなで青葉以外の親しい人が東京にいない梨乃は、一人で過ごす時間が長くなった。だからこそ、クリスマスぐらいは自宅、病院を問わず、一緒に過ごせれば、と梨乃は願っていたのだ。その希望もはかなく砕け散ったのは、イブの日に梨乃が夜勤と決まり、さらに青葉にクリスマスの日から連休を取って新潟へスキーに行ってしまうと宣告された十一月の終わりのことであった。せっかく何か御馳走でも振る舞ってあげようと考えていたのだが、結局ひとりぼっちで聖夜を過ごさなくてはならなくなった。
イブの日の夜勤は梨乃、上岡師長、綾奈の三人であった。上岡は大事な日なのに婚約者さんと一緒にいられなくて悪いわね、と終始綾奈のことをねぎらっていた。当然、梨乃に対しては何の慰めの言葉はない。青葉であったらまたしても依怙贔屓だと言いだしかねないだろう。そもそもスキーに行く青葉とディズニーランドで美砂代とデートをする小百合が早々に休暇申請を取っていたため、人員が足りないため、綾奈が出勤を名乗り出てくれたため上岡は気を遣っているに過ぎないのだが。
この日は午後七時から小児病棟に入院している子ども達を集めて、クリスマス会を開く。これには綾奈とインターンの医師が出席することになった。そのため梨乃は上岡と産婦人科のナースコールに備えて、ナースセンターで居残りをするはめになった。
シンとしたナースセンターで梨乃は上岡と二人きりで取り残された。上岡はあまり自分たちのことを好いていない、と青葉や小百合が四十噂しているのを聞かされているため、梨乃は緊張した。色々な醜聞が飛び交う上岡であるが、実を言うとは梨乃はあまり会話をしたことがない。業務上で必要な最低限のことだけしか言葉を交わしたことがないのだ。それは梨乃が優秀なナースで、上司に注意されるようなミスを滅多に侵さない故でもある。しかし、青葉と小百合の言い分を聞いている限り、仕事の出来いかんに関わらず、自分に対して上岡はいい印象を抱いているとは思えなかった。綾奈がクリスマス会から上がってくるまでの二時間あまり、上岡と顔を突き合わせながら自分は何を言われるのだろうか。梨乃は漠然とした不安に襲われた。
「大谷さん、ちょっといいかしら」
梨乃は久々に自分の苗字が呼ばれたような気がした。青葉や小百合には専ら名前で呼んでくるためであり、また医師は自分の名前など覚えず、「ちょっと」としか自分を呼ぶ際に声かけしないからでもあり、そんな呼ばれ方に慣れてしまっているためでもある。青葉と小百合以外の同僚とはあまり交わらない梨乃は必然的に苗字で呼んでもらえる機会も減るのだった。
患者が心臓に入れているペースメーカーの音が廊下に不気味にこだましている。病棟に入院中の患者がトイレに向かうため移動しているのだろう。上岡はそんなことに全く気に留めてもいないように沈黙を破ってきた。
即座に梨乃は緊張した。何を言われるのだろうか。青葉や小百合とつるんでいることに対して嫌味を言われるのだろうか。それとも日頃、梨乃自身は気づいていないが、上岡のお眼鏡に適わない行動に対して、お小言を申すつもりなのだろうか。看護要綱を書こうとしてペンを執っていた梨乃は、震える指で必死にペンの蓋を閉め、右隣にいる上岡に向き直った。
「あなた、看護師としてどんなビジョンを持っているの?」
梨乃は拍子抜けした。怒られると思って気構えすぎていたためだ。だが、上岡はこの答え次第で自分を見極めているのかもしれないと考えられた。
「ビジョンですか・・・」
梨乃は言葉に詰まったため、お茶を濁した。曖昧でいい加減な回答をしたら、普段の態度がなっていない、など厳しい注意を受けるのでは、と推測したからだ。
とはいえ、看護師としてのビジョンなど梨乃は考えたこともなかったことは事実である。梨乃は自分では仕事を精一杯やっているつもりである。でも、上岡からどんな評価を得ているかは想像し難い。どう答えてよいのかわからず黙っていると、上岡が先に口を開いた。
「そんなに考えこまなくてもいいのよ。大谷さんは本当に真面目なのね」
上岡に言葉に詰まっていることを悟られぬように視線を下げていた梨乃はびっくりして顔を上げた。上岡の瞳は柔らかく梨乃を見つめていた。
「私は若手のナースみんなにこの質問をするの。新卒で入ってきたナースには、出勤初日に聞いてる。もちろん、その時は大したことを言えやしないんだけどね。学生時代の目標達成への抱負に毛が生えたような回答しか得られないけど。それでもいいのよ。この仕事はきついから、ちゃんとしたビジョンや希望を持ってないと、続かないじゃない。だからこんなことを聞いてるの」
梨乃は気抜けした。上岡は自分が想像していたほど深い意味があってこんな質問をしているわけではなさそうだ、とやっと気がついたからだ。
「ほら、あなたは四月にうちの科へ移ってきて、新卒ではないからすぐに業務に就いてもらってしまって、ゆっくり面談をする機会もなかったじゃない。今日はたまたま二人きりになる時間ができたから、少しお話ができればな、って思ってるのよ。そんなに緊張しないでざっくばらんにおしゃべりしましょう」
梨乃はようやく表情を緩ませた。そして自分が看護師になって感じていることを素直に上岡に語った。この仕事が自分の天職だと思っていること、その理由は患者さんが「ありがとう」と言ってくれることが何よりの生き甲斐であると思っているためである、と。上岡は時折、うなずきながら真剣に梨乃の話に聴き入っていた。しかも梨乃が話している間中、上岡は終始笑顔を崩さなかった。
梨乃の話が済むと、上岡は深く目じりの横に刻まれた皺のはじに架かっている黒縁眼鏡の端っこを人差し指で上げた。これは上岡が真面目な話をする前の合図である。青葉や小百合が叱られる兆しはこの上岡の癖でわかってしまうのだった。それを青葉と小百合はコントにしているのであった。
「大谷さん、あなた自身は今後、看護師として、またこの病院で働いていくにあたって、どのような考えを持っているのかしら?それを聞かせてくれないかしら」
「そうですね。大きな目標とかは今のところないですけど、日々の業務をきちんとこなして、この病院で長く働いていければと思います」
看護師は終身同じ職場でそのキャリアを終える者は少なく、より条件のいい職場を求めて転職を繰り返していくのが一般的である。夜勤がある、休日出勤も当たり前など、ことに規模の大きな病院になればなるほど労働条件が過酷なことがその背景にはある。また、一度離職しても次の職がいくらでも見つけられるため、転職に対する抵抗感がないことも一因であろう。最近ではより大きなステップを求め、海外に飛び出す看護師も珍しくない。
梨乃の父と二人の兄はいずれ三人で小さなクリニックを開業予定である。二人の兄はすでに娶っているが、嫂たちは看護師ではない。そのため是非、梨乃に帰ってきてもらって、看護師として働いてもらえれば、と父は期待を寄せている。だが、梨乃は今のところその話に乗るつもりはない。まだまだ看護師として一人前ではないため、大学病院で修業を積んで、スキルをつけたいと考えているからだ。
「今年から産科に回されたけど、大谷さんとしては助産師の資格を取るつもりはあるのかしら?」
「そうですね。もともと取得する希望はなかったですけど、せっかくの機会ですので、検討してみたいとは思っています」
それも父の提案に乗れない理由の一つでもあった。父は内科医であり、兄も同じ道を歩んでいる。開業するにしても、内科クリニックになる。梨乃はこれまで外科と産婦人科しか経験していないため、自分のキャリア路線とは異なってくる。
「そう。では大谷さん自身として看護師としてこの科でやってみたい、というような理想はないわけね?」
「まあ・・・、そういうことになるかもしれません」
梨乃は看護師が自分の天職だと思い込んでいながら、自分が看護師になったのはどういう目標があってか、と言われれば答えが明確に出ていないことにはっとした。そもそも看護師になったきかっけは何であったのであろうか、と詰問されると、回答に苦しくなる。青葉を追って、東京に出てきたいと思ったのが単純な答えなのだ。それが看護師でなく、美容師であってもそうしたかもしれない。どうにもこうにも苦手で手が出そうにない体育大学への進学を青葉が選ばない限り、梨乃は青葉と一緒の進路を選んでいただろう。
最初はそんな動機であったと思う。だが、よく考えてみると、あの時、青葉がくれた年賀状に何気なく看護師になると書かれていたのを見て、「これだ」と、自分の適職を直感で見つけたということは、単純に青葉を追って看護師になったのではなく、自分は看護師になりたかったのだろう、とも言える。ひょっとしたら自然に看護師という進路を選択していたかもしれない。その証拠に一般の大学受験をするための勉強は身に入らなかった。
「大谷さん、あなたはご自身ではわかっていないかもしれないけれど、私から見て、うちの科に置いておくのはもったいないと思っています」
上岡の自分に対する評価の意外さに梨乃は瞬きを繰り返した。
「大谷さんは大変優秀です。それはあなたがまだ外科にいる頃から院内で評判になっていました。松本先生をはじめ、各ドクター、ベテランナースともに大絶賛でした」
松本は三十代後半のドクターでありながら、すでに次期外科部長かと目されているほどの実力者である。彼の手術を受けたいがために日本全国から患者が聖城医科大学病院に押し寄せてくるのである。新患ともなれば予約は一年待ちとも言われている。
その松本をして、梨乃は今までの中で最高のナースと言わしめた、と今日梨乃は上岡によって初めて知らされた。何度かのオペにおいて、梨乃が素晴らしい働きを見せたためだと言う。梨乃自身には身に覚えがないことであったため、いささか戸惑いを感じざるを得なかった。
「どうしても助産師になりたいという希望をお持ちかしら?」
「そうですね、取れれば取りたいですけど」
上岡は俯いた。数秒後、意を決したように梨乃とまっすぐ目を合わせた。
「大谷さん、私はあなたが循環器に移ってみてはと思っているのだけれども」
「循環器ですか?」
循環器と聞いて梨乃の声は上ずった。聖城医科大学の循環器科はすべての診療科の中で一番力が強く、ナースの質も一番高い。高位に就いているナースの推薦がなければ配属されることはできない。それだけ医師がナースに求めるレベルが高いからでもあり、聖城医科大学の看板診療科であるため、病院側の期待も背負っているためだ。循環器に推薦されるのはこの病院のナースにとってなによりの光栄であり、弱小診療科にいる梨乃にとっては栄転である。
「そう。だってあなたは心電図も読めるでしょ」
どうして上岡がそんなことを知っているのだろう、と梨乃は驚いた表情をしていたらしい。上岡は苦笑した。
「あなた、私が何年この仕事をしていると思っているの?あなたよりもはるかに何十年もキャリアも人脈もあるの。新人のナースがどのぐらいの実力を持っているかなんて見てればわかるし、それを調べられるぐらいの情報網だって敷いてあるのよ」
「すいません」
「いいえ、謝ることじゃないわ」
上岡は笑顔だった。思ってたより癖のある顔立ちをしていない。どころか大変穏やかで、優しそうな瞳をしている。いつも青葉と小百合にきつそうに接している姿ばかり目にしているから怖そうに見えていたにすぎなかったのだ、と梨乃は悟った。
「私も二十歳(はたち)からこの業界に入って、三十年ちょっと経つけど、あなたほど優秀なナースはいたためしはないわね。ミスはないし、一言えば十理解できるし、患者さんからの受けもいいしね。普通のナースはどこかしらに欠点があるものよ」
「聖しこの夜」を合唱しているのが聞こえた。一年で一番楽しいはずのこの日にこんな所で過ごさなくてはならない子ども達を思うと不憫だった。きっと今、どこの病院の小児科病棟でも同じ光景が繰り広げられているのだろう。そのクリスマス会が行われている間、このナースセンターは上岡に籠城されているのだった。
「実は恥ずかしながらね、私も心電図は読めないのよ。助産師免許はあるにも関わらずね。あなたは前も外科だったじゃない。どこで習ったのかしら?」
看護師といえど、すべての者が心電図は読めるわけではない。そこが医師との格差なのかもしなかった。
「何かの役に立てるかと思って、学生時代に勉強しました」
実際に役に立っていた。外科時代に手術に立ち会った際、人手が足りなかったため、梨乃が心電図のモニタリングをしていたことがあった。この時のことが松本から人伝に上岡の耳に入ったのだろう。
「まあ、そう。独学で?」
「いいえ、父と兄が医師なので、教えてもらいました」
「そうなの」
上岡は関心したように目を細めた。
「今から私が話すことはあなたの胸にしまってもらってもいいかしら」
「はい」
梨乃は姿勢を正し、背もたれのない丸椅子に座り直した。
「あなたをこの科に入れたのは理由があります。それはあなたにではなく、この科にいる他の二人の若手ナースにあります。松井さんと浜中さんにです」
青葉と小百合のことだった。仲間うちでは苗字を使っていないので、一瞬誰のことかと梨乃は考えてしまった。
「彼女たち二人はあなたもご存じの通り、大きな問題を抱えています。勤務態度が不真面目であることは言うまでもなく、看護師としてのスキルにも欠けています。注意や指摘をしても素直に聞き入れることはなく、どころか口答えをしてくる始末です。当科の他のナースとも親交を図ることもなく、孤立しています。当然、医師からの受けも、患者さんからの受けもよくありません。ナースの素質云々の前に社会人として失格の域にあるでしょう」
残念ながら上岡の青葉と小百合に対する評価は的を得ていると言わざるを得なかった。どんなに大目に見ている梨乃であっても、二人に対する客観的な意見は梨乃も同様であるからだ。それでもやはり上岡に冷たくそう言い放たれるのは梨乃にとって辛かった。
「私はあの二人の対処について他科のナースや当科の医師、外来事務長などとも協議しました。その結果、彼女たちと同年代で、群を抜いて活躍しているあなたを置くことで無言のプレッシャーをかけてみよう、ということになりました。真面目に働くあなたの姿を見れば、二人も心を改めるかもしれない。私達はそんな一縷の望みにかけました。でももうじき一年が経ちますが、どうやら私達の想定も間違いであったようだ、という結論に至りそうです」
梨乃でさえ多忙の時、一刻の猶予も許さない事態が起きた時など、青葉と小百合の働きぶりの悪さには苛立つことがある。どんなに忙しそうに梨乃が動いていても、二人とも知らん顔でおしゃべりに興じていることが間々あったからだ。ましてや管理職として二人のミスも負わなくてはならない上岡は、苛立ちを通り越し苦しみに変わっていたのであろう。
「あなたが一生懸命働いている姿を見て、二人とも関心するどころか、あろうことかそんなあなたをいいように使っています。仕事を押し付けて見て見ぬふりをしているでしょう。特に松井さんはひどいわね。だからあなたと松井さんは人数の少ない夜勤には絶対に一緒にならないように配慮してシフトを作っているのです」
確かに四月、五月ぐらいまでは青葉と一緒に夜勤をすることもあった。夏ごろからなんとなくシフトが合わなくなったと感じていただが、それは間違いではなかったのだ。青葉と過ごせる時間が減らしたのは上岡だったのかと知り、梨乃は悔しいようなはがゆいような複雑な気持ちに捉われた。
「浜中さんは来年から助産師の勉強を始めたいと申し出てきました。でも松井さんはその気配すらありません。もともと助産師志望であるから当科にやってきたのにも関わらずです」
確かに青葉は助産師になりたいと学生の頃から口にしていた。だが、その兆しすら見えない。梨乃もそのことについて気になっていたが、逆鱗に触れるのが恐ろしくて、聞かぬようにしていた。
「大谷さんも助産師を取ることを検討しているのかもしれないけど、もし学生時代からそれが目標であったのでないなら私はおすすめしません。というのもこの病院でずっと働いていくつもりなら助産師としてやっていくのは将来的にどうかと思うからです。だってあなたも知っての通りこの病院での我々の扱いはこんなだから」
あえて明るく上岡はぼかした。それが今、自分達の置かれている状況の深刻さを暗に表していた。予算・人員の削減、囁かれる閉鎖計画。医師不足。過酷な勤務体制。あまりにもいい話がなかった。命の誕生を扱う感動的な診療科という神話は医療を知らない人間が無責任に発する美辞麗句である。現実的には採算が取れず、ただでさえ赤字が続く大学病院にとって、産科はお荷物の他何者でもないのである。外国人のように両掌を上に向けて上岡は笑っていたが、その目尻には悲しみが滲んでいた。困り果てて苦笑するしかない、といった表情でしかなかった。
「この御茶ノ水はもう何年かしかもたないだろうけれど、吉祥寺はおそらく切ることはないと言われています。おそらく私は数年以内に吉祥寺に移るのだろうと思います。でも吉祥寺もそんなに定員は多くないだろうから、転職していくナースは相次ぐでしょうね」
「そうなんですか」
吉祥寺には分院がある。聖城医科大学は現在、新宿区に大学と看護学校のキャンパスがある。一九七〇年代までは同じ場所に病院も併設されていたが、八〇年代のバブル期に土地の一部を売却し、医学部一・二年生のキャンパスと病院を武蔵野市吉祥寺へと移設した。表向きには病院の老朽化と大学の定員数増加が移設の理由とされているが、実際には都心の土地高騰による売却益に経営陣の目が眩んだのだろうということは院内の誰もが知るところであった。吉祥寺の分院は病床こそ御茶ノ水より広く、そしてきれいであるが、その扱いはあくまで分院である。医師はインターンばかりであるし、外来を持っているのも新人医師が主であり御茶ノ水に来る前の修業として持っているにすぎないとの認識が強い。看護師も異動で行くこともあるが、どこか左遷を暗示しているように解釈されていた。
「今は少子化だから産科と小児科はどこの大学病院でも似たような状況でしょうね。助産師は不足しているから引っ張りだこだけど、過酷な労働環境が待っている。それを考えると、私はこの診療科はあなたには少しもったいない気がします。だから私が自信持って事務長と椎名さんに推薦してあげましょう。あなたを循環器に回すように」
椎名茉莉・・・・・・・・。
梨乃はその名前にためらいを感じた。それは青葉の意中の女性(ひと)であるからだ。青葉が茉莉に対してどの程度の気持ちを抱いているかはわからない。エリザベス・ブーリンに対しての憧れと同じような表現を口にはしているが、梨乃はその想いが異なるのだということぐらい見通している。梨乃が循環器に移るとしたら青葉は嫉妬に狂うだろう。梨乃は青葉にそんな風に思われることが嫌だった。
「突然だものね。戸惑うのも無理ないわ。いいのよ、お返事はいつでも。三月の異動があったあとでも構わないわ。あなたが行きたいと思った時を尊重してあげたいと私は思うから」
「はい、ありがとうございます」
俯いていた梨乃に上岡が優しく微笑みかけた。相槌を打ちながら軽く会釈をしていると、梨乃は急に激しい尿意を感じ、トイレに向かうため席を立った。
冬の青空を梨乃は仰ぎ見た。クリスマスとは思えないほど陽射しが暖かかった。それでも外気は冷たい。朝風に靡かれた時、梨乃はキャメルのダッフルコートに身をうずめた。寒空を見上げながら、今日は青葉がいないし、明日は非番だから少しゆっくりできるかな、と考えていた。
御茶ノ水駅に向かう道すがら、ちょうどニコライ堂の横に差し掛かった時である。梨乃の隣にサックスのAラインコートを羽織った女性が近づいてきた。
「お疲れ様です」
背筋がピンと伸び、ほっそりした身体つきをしている。茉莉だった。髪の毛を下しているため、院内とは雰囲気が違っていた。
「あっ、お疲れ様です」
この人が私の新しい上司となる人かもしれないのか・・・・・・。この人に青葉は熱を上げているのか・・・・・・。そう思って梨乃は茉莉の容貌をまじまじと見た。よく青葉と茉莉についての噂をしているが、こうして眼を合わせて話をするのは初めてだった。
「ねえ、大谷さん。ちょっと時間もらってもいいかしら」
梨乃は茉莉とこれまで接点がない。名前すら憶えてもらえているのだろうか、と思っていたのだが、向こうはすでに自分のことを知っているようだ。水面下で梨乃の異動話が進められている様子が垣間見えた。
地下鉄新御茶ノ水駅入口にあるエクセシオールカフェに梨乃と茉莉は入った。梨乃はココアを、茉莉はダージリンを頼み、人目につかない奥の席に着いた。まだ早朝ではあるが、出勤前のサラリーマンがコーヒーを嗜んでいたり、リクルートスーツに身を包んだ女子学生がモーニングを食べながら日経新聞に目を通していたりと、
都会の一日の始まりを感じさせた。
茉莉は水色のコートを脱いで椅子の背にかけてから梨乃の向かいに座った。水色のウールコートの下は白いハイネックのニットにグレーのフレアースカートを穿いていた。常日頃から細い人だな、と梨乃は思っていたが、こうして間近で見ると茉莉の細さは一層はっきりと確認できた。コート、トップスのニット、スカートともにラインがきれいに出るものを選んでおり、透き通るような白肌がよく映える色の服を合わせている。茉莉は自分を美しく見せる術を知っているのだ。
「お話ってなんですか?」
小腹の空いていた梨乃はココアの入ったマグカップを唇と歯で挟みながら上目使いに茉莉を見た。茉莉は取り立てて美しいとは言えない容貌(かおだち)の女性である。年齢は三十代中盤であると人伝に聞いた。だが、その白い肌は手入れが行き届いており、シミやシワなどのトラブルは見当たらない。のっぺりとしていて平凡な造りであるにも関わらず、そのもち肌ぶりが品の良さを際立たせている。また茉莉はバレエを長年していて、その腕はプロ級であるという。その鍛錬から醸し出す仕草は気品がある。扁平な顔もメイクをすれば華麗に豹変するだろうと思われた。
「とぼけないで。聞いてるんでしょ、上岡師長から。異動の話を」
「あっ、はい」
「それでどうするつもりなの?」
今日は人の本性をよく見てしまう日だ、と梨乃はつくづく思った。長所を発見できた人もいれば、その逆の人もいた。
「まだ未定です。保留にしてます」
「そう。受ける気はあるの?」
「わかりません。ゆっくり考えます。上岡師長も時間をかけて構わないと言ってくれてますから」
普段、茉莉は長い髪をひっつめてナース帽の中にしまっているが、仕事が終わるとほどくのだろう。腰近くまである黒髪がいやに目に付いた。真っ白な肌とは対照的に黒々としている。しかも量が多く、太く硬そうだ。まるでかの悪名高い宗教団体の代表や、お化け映画のヒロインを連想させないとも言えなかった。そして手入れの行き届いた肌にはどこか不釣り合いに見えた。
ふと梨乃は以前に小百合が教えてくれた情報を思い出した。茉莉は入っていたバレエ団でプリマドンナ獲得争いに敗れ、退団したのだと。実力ではナンバーワンであったにも関わらず、ライバルのナンバーツーが監督に身体を使って役を奪っていった。茉莉はその不条理を受け入れられず、バレエから足を洗った。すでに成人していたため、大学に入り直すのも癪であったため、看護業界に方向転換したというのだ。今度こそトップを、と必死に勉強し、見事看護師長にまで上り詰めたという逸話だ。
背を弓のようにぴんと張り、両手を前にクロスさせている茉莉は優雅だ。しかし垂直に伸びた背筋からは、その芯の強さをも感じさせた。
梨乃はココアのマグカップを抱え込むように背中を丸めてから、猫背がちな上背を頑張って伸ばした。梨乃はいつも寡黙だ。職場の同僚とは事務的な会話がほとんどだ。気の利いた言葉をかけることや雑談をすることは苦手だ。だが、なぜか茉莉にだけは毒をつきたくなった。
「私、今は仕事より恋愛のことで悩んでるんです。だから仕事にはできるだけ波風立てなくないんで」
小百合と青葉が噂していた茉莉の性的嗜好を梨乃は試してみたくなった。茉莉はまだ梨乃がいくらなんでも同人種であるとは知るまいであろう。
「恋愛のこと?あなたには恋人がいるの?」
茉莉は馬鹿にしたような目で梨乃を見ていた。それがより梨乃の心に火をつけた。
「いえ。片想いですね、多分」
「多分って?」
梨乃は言葉を選びながら発言した。
「幼馴染なんです。私は昔から好きでした。好きだからその気持ちをわかってもらいたくて頑張って尽くしてるんです。でも・・・」
「でも?」
「気持ちが伝わってないみたいで・・・。すごく辛いんです」
隣で日経新聞を読んでいた女子学生が、椅子と机をガタガタと音を立たせながら立ち上がり、黒い鞄に荷物をまとめ出した。新聞と大学ノートやA4クリアファイルを乱暴に詰め込み、黒いコートとマフラーを左手に掴んで、白いコーヒーカップと皿の載った茶色い盆を右手に抱えて、その手で返却口に置いた。コートを着込みながら店の自動扉をくぐり、その背中をまばらな店員の「ありがとうございました」が追いかけた。真っ黒な服を着て、背中を丸めながら低くしばった髪の毛と首の間にマフラーを巻きつけている女子学生の姿は、なんとなく貧相だった。
「あなたは自分の気持ちがその人に伝わってないと言うけど、どうしてそう思うの?」
梨乃は窓の外の女子学生を目にしながら、机の下で拳を握りしめた。
「他の人に夢中なんです。私に対しては冷たいですし、恩を仇で返してくることもあります」
「まあ、本当に?それは辛いわね」
演技をしている女優のように茉莉は気の毒そうな顔をした。茉莉の召し物はぱりっとしていて見たからに高価そうだ。きっとデパートに入っている高級メーカーの物に違いない。中野の商店街で適当に買った緑のトレーナーとGパン生地のスカートを穿いている梨乃は気が退けた。青菜がこの女になぜ惹かれるのか、わかった気がした。
「大谷さん、あなたは嫌いな人にはどんな態度で接してしまうかしら?」
それまでまっすぐに梨乃に向き合っていた茉莉が、面を三十度ぐらいに傾けて斜めに見ていた。首を動かしたせいで胸に付けている蝶型のネックレスが揺れた。
「そうですね。冷たくなっちゃうかもしれないです。なるべく出さないようにはしますが」
「じゃあ、本当にすごく嫌い、顔も見たくない人に対してはどうするかしら?」
「接さないようにしますかね」
「そう。じゃあ、わかるんじゃない?あなたが好きな人がどうしてそういう態度をあなたに対して取るのか」
「はい?」
梨乃は語尾を上げ、疑問の素振りを示した。意味不明だが、意味深長な茉莉の質問責めに不快感を込めたつもりだった。
「だって、大谷さんは普通の感性をお持ちじゃない。今の私の質問をよく整理してみれば、意中の人があなたをどう思っているかぐらい理解できるでしょ」
「どういう意味ですか?」
梨乃の語気が震えた。ついでに声が裏返った。滅多に感情を表に出さない梨乃であるが、この時ばかりは興奮した。全身がぶるぶると振動しているのを感じた。
「賢いあなたなら、とっくにわかってるでしょうが」
それまで聞いたことのないような恐ろしい話し方を茉莉はした。小百合はこうも付け加えていた。茉莉は役を奪ったライバルを中傷するビラを配って、監督もろともバレエ団から追い出した。自分もすでに退団すると決めていたにも関わらずにだ。さらにそのライバルの靴の底に油を塗っておき、階段から落下させ、二度とバレエのできない身体に貶めたというのだ。もちろん根も葉もない噂話ではある。しかし、それだけ茉莉に激しい気性が流れていることは間違いないのであろう。
この女を敵に回すのは危険すぎる。梨乃はちょうどヒーターの通気口の真下に位置する席に座っているのに、下半身から底冷えを感じた。
「私、タバコ吸いたいから出るわね」
茉莉は椅子を引いて立ち上がった。背にかけていた水色のコートを手に取り、素早く着込んだ。背中に巻き込んだ黒い髪の毛をバサッという音を立てながらコートから引き出すと、茉莉は梨乃の頬に顔を近づけてきた。
「これ以上、私が何か言うのを聞きたくないでしょ」
ヤニ臭さが鼻を刺激したのと同時に、梨乃は背中に何かがすうっと走ったような不気味さを味わった。再び直立不動の姿勢に戻った茉莉は不敵な笑みを浮かべて梨乃を見下ろしていた。
私はこの人にすでに嫌われている?
梨乃の直感はそう告げていた。でも、何故?上岡に気に入られ、循環器に移ることが気に障るのか?それとも・・・。
「私、これからスキーへ行くの。帰って支度しなくちゃいけないからこれで失礼するわ」
すでに茉莉は梨乃に背を向けていた。さっきは気づかなかったが、茉莉の肘にはシャネルの黒いハンドバッグがかかっていた。それを見て梨乃は、もう一度だけ悪態をつきたくなった。
「そうなんですか。私のルームメイトも今日、スキーに行くって言ってました。いいですね、クリスマスにスキーなんて。サンタさんにばったり会ったらよろしく伝えてください」
茉莉は少し振り返り、ふっと馬鹿にしたように鼻を動かし、踵を返した。
茉莉が店を去ると、梨乃は姿勢を崩して椅子になだれ込んだ。店の外で白い煙が立ち上がるのが横目で見えると、梨乃は俯いて唇を噛んだ。
ハート型の鉄器に湯せん状にしたチョコレートを流し込む。熱気を帯びた黄金色のミルクが鼻腔にとろけるような香りをもたらした。
梨乃は明日に迫ったバレンタインに向けてチョコ作りに励んでいた。今年、梨乃が作るチョコは二つ。一つは友チョコ交換をしようと誘ってきた小百合へのもの。もう一つは青葉へのものだ。
梨乃は明日、自分の気持ちを青葉にぶつけてみようと思っていた。年末に茉莉から言われた通り、自分には望みは少ないことはわかっている。でも、この十数年ずっと想い続けていて、一度も気持ちを伝えたことはないため、青葉は自分の想いに気づいていない可能性が高かった。このまま勝負もせずに、逃げてしまうのは梨乃のプライドが許さなかった。
ルームメイトになって約一年。お互い一緒に暮らしているとはいえ、忙しい身。近くにいるのに遠い存在。そんな表現がぴったりの二人の関係に梨乃はどうしても終止符を打ちたくなったのだ。
当の青葉はといえば、茉莉にチョコを渡すらしい。ここ一週間、どうやって渡そうかと何度もシミュレーションをしている。梨乃の顔を見れば、梨乃に茉莉役をやらせ、チョコを渡す練習に付き合わせるのだった。困ったことに演じている梨乃が自分の思った通りに動かないと、青葉は癪に触るらしく、物を投げつけて怒り出す。おかげで梨乃の腕は痣だらけになってしまった。
そんなこんなで梨乃は自分に勝ち目などないことは百も承知している。それでも退くつもりはなかった。あの茉莉に対する意地が働いているのだった。青葉の想いを寄せている相手が茉莉ではなく、誰かほかの女性(ひと)であったなら、梨乃は身を退いていたことであろう。茉莉でなければ、青葉の気持ちを応援してあげたいと梨乃は思っただろう。エリザベス・ブーリンに対してと同じように。
青葉が自分にチョコを用意してくれるかどうか梨乃は知らなかった。小百合が友チョコ交換をしようと声をかけてくれているのだから、梨乃にもくれるのだろう、とは思う。だがしかし、果たしてどんなチョコレートをくれるのかどうかについては想像もつかなかった。料理の苦手な青葉のことだ。手作りはないであろう。買った物だとしたら、どんなチョコをくれるのだろうか。案外にグルメな青葉である。梨乃の知らない最新の流行店で買い付けてくるのだろうか。それともかわいいキャラクター物だろうか。または・・・。
小百合のために星形の型へチョコレートを流し込んでいた梨乃は一瞬その手を止めた。そして屈んでいた背中を一度伸ばして、目をつぶって軽く頭を振った。
もし百円ショップで買った物とかだったら・・・。
梨乃はもらったチョコで青葉の中での自分に対する価値を思い知らされる気がしたのだ。
出来上がった青葉へのチョコに真っ白な文字で「大スキ」と描いた。ハート型の真ん中へ、にである。そのチョコを水色のハート柄の模造紙にラッピングするつもりだ。東京の洒落たパティシエが作ったチョコレートを購入しようにも店がわからない上にセンスのない梨乃は、自分にできる愛情表現は一生懸命かわいいプレゼントを手作りすること。これぐらいしかないと思っていた。ハート型のチョコ作りがひと段落し、梨乃は束ねた髪をかき上げた。
バレンタイン当日、梨乃は小百合とともに夜勤であり、青葉は日勤であった。青葉はその翌日が夜勤の予定である。梨乃はバレンタイン翌日の夜勤明けの日中にチョコを青葉に渡そうと決めていた。
その前の夜勤中、小百合に友チョコをあげた。ピンクの花柄の包装紙にくるまれた手作りのチョコを見るなり、小百合は「かわいい」と歓喜の声を上げた。包みを開けて、星型のチョコの中央部にピンクのペンで梨乃が描いた「いつもありがとう」のメッセージを見て、小百合が瞼にぎっしりとつけた付け睫毛が一斉に上を向いた。
小百合からはディズニーランドのバレンタイン特製チョコをもらった。ピンクのハート柄の箱の中に、ミッキーマウスとミニーマウスを象ったチョコレートが入っていた。青葉には同じシリーズのシガーラチョコレートをあげる予定だと語っていた。
梨乃はそれとなく小百合に恋人の美砂代にはどんなものを贈るのか、聞いてみた。小百合は真っ赤に塗ったチークの頬をさらに紅潮させて答えた。
「もちろん、特別なの買ったよ」
聞けばディズニーアンバサダーホテルのバレンタイン限定商品を購入したという。小百合同様、ディズニーリゾートマニアであるという美砂代は、すでにパーク内で売られている菓子類は期間限定物も含め、賞味済みであるため、それ以外の商品を当たることになった。そこでいくらディズニーコレクターといえど、直営ホテルの限定商品までおさえることは難しいので、そこに目をつけたというのだ。回転の速いディズニーパーク内グッズを追うだけでも手一杯なためである。熱心なファンでもパークのイベントに参加することやパーク内の土産品に精を出しているため、意外にディズニー直営ホテルには立ち寄らずに舞浜を去るという。美砂代も御多分に漏れずそのタイプであった。すでに小百合は昼間、そのチョコを美砂代に渡したとのことで、美砂代は小百合のギフトにご満悦の様子だったという。
「やっぱり特別な女性(ひと)にはそれなりの物をあげなきゃね」
と、小百合は締めくくった。普段、おっとりしている小百合だったが、意外にも気が回る子なのだと知り、梨乃は感心した。
小百合は梨乃が今年のバレンタインで大切な誰に贈るつもりなのかと問うた。梨乃はそこで自分が小百合に対して青葉への想いを打ち明けていないことに気が付いた。ミーハーな小百合に面白そうな情報を与えれば事が面倒になりかねない。梨乃はぼんやりと「まあね」とだけ答えた。
気まずくならないうちに梨乃は話題を変えた。もうすぐ三月で異動が発表になるね、と話を振ったのだった。
小百合はおそらく吉祥寺に転勤になるだろう、と口にした。来年度から小百合は助産師の資格を取るために勉強を開始する。吉祥寺には助産師コースの学校があり、聖城医科大学病院に勤めるナースは仕事と両立させながら勉強を続けさせてくれるように時間の融通を利かせてくれるのだ。その代り、吉祥寺の分院に転勤することが条件となる。
数少ない東京で話せる相手である小百合がいなくなってしまうのは、梨乃にとってショッキングである。それでも小百合の夢は応援してあげたかった。「頑張って」と小百合の肩に手を置いて伝えた。
梨乃は去年来たばかりだからまだ異動はないだろうね、と小百合は呟いた。上岡は梨乃の動向について誰にも漏らしていないのだ、と梨乃は知った。その後、梨乃は上岡に自分の意志を伝えていない。もう二か月近く経つが、態度は保留にしている。上岡もあえて梨乃に回答を求めてはこなかった。茉莉の下で仕事をする気は今の梨乃にはなかったし、青葉と離れるのも嫌だったからだ。
私はまだ覚えることもあるし、助産師を取るかどうかも決めていないし、取るとしてももう少し後になるからしばらくはここにいるんじゃない、と梨乃はしらを切った。小百合は梨乃なら優秀だからいつでも大丈夫だよ、と言って白い歯を見せた。梨乃は何も言わずに笑顔でそれにうなずいた。
夜勤を終えて寮に戻ると、青葉は日課であるランニングを終えて戻ってきたばかりだった。走ってきたその足でシャワーを浴びたらしい。タオルで髪の毛を拭いていた。梨乃はいつものようにちゃぶ台の上に栄養ドリンクを差し出した。
部屋にはエリザベス・ブーリンが大音量でかけられている。
いつも会っている青葉なのに梨乃はひどく緊張した。キャメル色のダッフルコートを脱ぐ手が震動している。何と言って渡せばいいのか思索していたからだ。
そんな梨乃の心中は露知らず、青葉は首に巻いていた白いスポーツタオルをくちゃくちゃに丸めると、梨乃が座っている方向を目がけて投げた。そして大きくジャンプしてちゃぶ台の前にあるラジカセの横に立った。
「イエーイ」
陽気な声を上げながら、青葉はブーリンの曲に合わせて踊りだした。青葉が最も好きなブーリンの曲がかかったのだ。女性の自立について謳った歌だ。彼女のキャリアの中で世界的に最も成功を収めた曲の一つでもある。
今日の青葉は機嫌がよさそうだ。梨乃は張りつめていた分、拍子抜けしたが、円滑に事を運ぶためにはこのまましばらく躍らせておいた方がいいだろうと判断した。
踊っている青葉は幸せそうだ。青葉は本当にブーリンが好きなのだろ。梨乃はブーリンが好きな青葉が好きだった。では、茉莉が好きな青葉はどうなのだろう。考えかけて梨乃はすぐにやめた。
ブーリンの曲が終わりかけた時、梨乃は冷蔵庫の中から近所のスーパーのビニール袋に入れた青い包みを取り出した。包みを覆う袋を取り払いながら、梨乃はそっと青葉の背に近づいた。
次の曲はブーリンにとって数少ないバラードである。ここで青葉はいつも小休憩を取ってドリンクを飲む。さらにその後の曲で再び踊るからである。何千何万回とこのアルバムを青葉とともに聴いているため、梨乃はパターンを読んでいるのであった。
「青ちゃん・・・」
「梨乃、大ニュース」
青葉はジャンプをして、梨乃の方に回転した。梨乃は慌ててサンタクロースを信じる子どもにプレゼントを隠す母親のようにチョコの包みを背中に回した。
「ブーリンがね、ロンドンで新曲のレコーディングに入ったんだって。年末にはニューアルバムが発売になるよ」
青葉は両手ともにvサインを作って、その腕を梨乃に向かってぴんと伸ばしてきた。瞳はキラキラと輝いている。ハイテンションな時の青葉の表情(かお)だった。最後に青葉がこんなに高揚しているのを見たのはブーリンのコンサート以来かもしれなかった。
「よかったね、青ちゃん。またCD買って一緒に聴こうね」
青葉が喜べば梨乃は自然と一緒に嬉しくなる。だから梨乃は青葉を幸せにしてくれるブーリンが好きだと思った。
「うん。またダンスマスターしてみせるよ」
小躍りしながら青葉はニッと笑った。梨乃は無言でうん、うんと頷いた。そしておもむろに手を前に回した。
「青ちゃん、これ・・・」
「何?」
珍しい物でも見せられたように青葉は屈んだ姿勢で梨乃の掌に載った小包を凝視した。
「これ、受け取ってくれるかな?」
高校生の時に踊った扇を使った浪曲のポーズを想起させるように梨乃は両腕をまっすぐ前に伸ばし、腕の間に頭を埋めた。普段使っていない筋肉が刺激されるのか、ピンと張った贅肉のついた二の腕が小刻みに揺れている。
突如、梨乃の太い腕は震災に見舞われた。頭を上げるとすでに青葉が包みを手に握っていた。
「マジ?ちょーうれしいんだけど」
梨乃は一難去った右手を今度は左胸に押し当てた。迫りくる未知の津波に耐えるためである。
青葉が包装紙をバリバリと破く音がやけに梨乃の耳についた。その音が大きなブーリンの高音美声をウミネコが彼方へ避難していく如く遠のかせていった。
「すっごいじゃん。これって手作りかよ」
「うん・・・」
「ちょーかわいいじゃん」
青葉はハート型のチョコを顔の横に並べて梨乃に見せた。小さな青葉の顔はチョコと同じほどの大きさだった。「大スキ」の文字が小さく跳ねる青葉のリズムに合わせ、滑稽に振動している。
梨乃はどのような反応が返ってくるのかと想像し、怖くなって首をすくめた。青葉は笑顔でチョコを見ているが、格段コメントを発する様子はなかった。
「あっ、そうだ。ちょっと待ってて」
青葉はちゃぶ台にチョコを置き、いそいそとその場を離れた。自室に入り、何やらゴソゴソとやっている。数分後、「お待たせ」と言いながら再び梨乃の前に立った。
「梨乃、これ。あたしからの気持ち」
青葉は赤と緑のチェックの手提げ袋を梨乃の前に差し出した。伊勢丹の包装紙だ。袋の中には小さな四角い箱があった。
「ありがとう。なんかすごく高級そうだね」
ピンクの包装紙にくるまれた小さな箱に、ラメの入った白いリボンがかけられている。リボンにはタグがついており、フランス語で何かが書かれていた。
「新宿の伊勢丹のデパ地下で買っちゃった。小っちゃいけど、何気に高いんだぜ。パリで一番人気のあるお店で、日本で販売するのは初めてなんだってさ」
「すごい。青ちゃん、ありがとうね」
「いやいや、こちらこそいつも梨乃にはお世話になってるからさ。ささやかながらお礼にと思ってフンパツしちゃったよ」
頭の後ろを掻き毟りながら、青葉は白い歯をニッと見せた。その姿はタッチの上杉達也みたいだった。梨乃は込み上げてくるものを必死に抑えながら、朝倉南ばりに気丈に振る舞った。
「さあさあ、早速食べてみてよ」
「うん」
梨乃は白いリボンをほどいた。ピンクの包装紙の下はこげ茶の箱だった。箱の素材は硬く、簡単に型崩れしそうになく、さすが高級品といった感じだ。四角い箱の中にはピラミッド型に六つの小さなトリュフが並んでいた。
「すごい。精巧だね」
白、黒、ピンク、青、黄、赤の薔薇の花をしたチョコレートが三角にアートを描いている。小さなチョコレートの一粒に一枚ずつ細かな花びらが彫られているのだ。
青葉に薦められるがままに、梨乃はその中の一粒、ピンクを食してみた。ストロベリーの香りが口中に広がった。その甘いフレーバーの影から、ほのかにラズベリーの甘酸っぱい香味もあった。にも関わらず、吐息は薔薇の香りを帯びていた。明らかに普段、コンビニで買っているグリコや森永の菓子類とは次元を異にすると、それらしか食べない梨乃にもわかった。この複雑な食感は梨乃が初めて経験するものだった。
「おいしい。ほっぺたが落ちそうだよ。ありがとう、青ちゃん」
感動で涙が出そうになるのをひた隠しながら、梨乃は青葉に向かって合掌した。
「いいえ、どういたしまして」
こんなに素敵なギフトをくれるなんて、自分は幸せ者だ。青葉の深い愛情を大切に育むためにも、梨乃はチョコレートを一日一粒ずつ六日間かけてゆっくりと食べた。
梨乃が青葉に渡したチョコレートを、青葉が食したのかどうかついぞ梨乃は知ることができなかった。食べている姿自体は目にすることはなかった。
梨乃は青葉からもらった高級チョコを食べ終わる頃、自分があげた物の稚拙さと粗雑さに恥じらいを感じていた。それ故、青葉があれについてどのような印象を受けたのか気がかりであった。
そしてもう一つ懸念事項があった。青葉が果たして茉莉に告白をしたのかどうかである。何度も少女マンガの主人公のようなリハーサルに付き合わされたものの、その結果については何も知らされていなかった。素直な青葉のことだ。うまくいっていれば大騒ぎをして報告をするだろう。何も語らないということはいい返事をもらえなかったことを意味するのだろうか。
あの後も青葉は相変わらずだ。格段、梨乃の渡したチョコレートの意味を問おうともしないし、梨乃自身もそれについて何の言及もできなかった。結果としては何の変化も見いだせなかったと言えるだろう。梨乃は自分の不甲斐なさが情けなくもなっていた。
季節(とき)は三月になり、異動が発表された。やはり小百合は吉祥寺に異動になった。その別れを惜しむ一方、綾奈が結婚のため退職することも明らかになり、青葉は天敵が消えると喜んでもいた。
梨乃は結局、自らの意志を上岡には伝えなかった。逆に二月の中旬頃、上岡の方からいつでもあなたの気持ちが固まり次第、言ってくれればいいからと伝えてきた。それに対し梨乃は、はあとだけ答え、お茶を濁しておいた。
梨乃、青葉ともに異動はなく、このままあと一年は産婦人科・小児科外来に留まれることになった。とはいえ、寮のペアは毎年組み直す。退職や新入生と出入りがあるためだ。つまり一緒に暮らせるのは四月までと、あとわずかとなった。毎日、カレンダーを見てはあと何日で青ちゃんとお別れだと、梨乃は溜息をつく日々を送っていた。日常生活では離れてしまうのだから、せめて職場では青葉とともに過ごせれば、そんな気持ちが梨乃の中に芽生えてきた。
夜勤のために午後四時に梨乃は出勤し、ロッカーで白衣に着替えながら、梨乃は日勤から上がって家に帰る青葉を思った。夕食の準備はした。今晩と明朝のための栄養ドリンクも冷蔵庫に入れておいた。明日の朝、ランニングに行くためのジャージとTシャツも洗っておいたし、朝食用のリンゴも皮を剥いておいた。
大丈夫。完璧だ。
ロッカーに立て掛けてある鏡で、頭の頂に載る帽子の角度が決まっているのを確認して更衣室を出た。今ではナースが制帽を被る病院は少ないが、聖城医科大学病院では理事長の考えが古く、制帽の廃止を許さない。それに対し、看護師陣の意見は賛否両論だ。梨乃個人としては幼い頃の看護婦さんのイメージがあるため、制帽は嫌ではなかった。今はまだ真っ白な帽子だけれど、頑張っていればそこに藍色の二重線が刻まれる日が来るかもしれない、という密な夢も持てるから、帽子はいいものだと梨乃は思う。
財布とハンカチを入れたミニトートバッグを手に持ってエレベータを待っていると、鉄筋建造物独特の響いた音響が自分の名をコールしているのに気が付いた。梨乃が振り向くと、息を切らせながら綾奈が駆けてくるのが見えた。
「大谷さん、緊急ミーティングがあるので、一度病棟に上がる前に外来処置室に来てもらってもいいですか」
綾奈は今日、日勤組であった。日勤組はもうすぐ退勤時間であるが、その前に夜勤組を入れてのミーティングをするなど今までに例のないことである。緊急とはいえ、いったい何があったというのか。事態の深刻さが窺がえた。
外来処置室には同じく日勤であった上岡や青葉をはじめ、これから一緒に夜勤で病棟に上がる小百合の姿もあった。この日に非番である二人を除いて産婦人科・小児科外来に所属する全員が集合していた。
看護師たちは処置室のベッド一台を取り囲むようにして並んでいた。そしてその輪の中には、循環器科外来師長の椎名茉莉と外来事務長の井上も加わっていた。現場は只ならぬ空気が流れていた。茉莉と井上の表情がいつになく険しく、不穏な状況を醸し出していたからだ。
「椎名師長、全員揃いました」
上岡が梨乃と綾奈の到着を確認し合図した。茉莉はそれを聞くと輪になっていた看護師たちを見回し、一呼吸置いてから口を開いた。
「みなさん、日々お疲れ様です。日頃、業務に精を出され、尽力していることに心より感謝を申し上げます。ですが、そんなみなさんに今日は残念なお知らせをしなくてはなりません」
茉莉は少し瞳を伏せた。数秒の沈黙を入れた後、意を決したように言葉を続けた。
「実は産婦人科外来で患者さんの内診を盗撮し、ネットに流出させているという情報が入りました」
悲鳴のような叫び声が一同から上がった。うそお、信じられない、だれえ、と。
「犯人はまだ特定されていはいません。もちろん、その忌まわしいサイトは削除しております。安心してください。早期の解決のためにも、そして二度とこのような事態を起こさないためにも、みなさんの持ち物をチェックさせていただきます」
ワタシタチハウタガワレテイル。
今度はしんと静まり返った。しかも犯人は私達の中にいるかもしれない。それを自覚するとみな隣の者の顔すら見ようとしなくなった。
「別にみなさんを疑っているわけではありません。私も井上事務長もこんなことしたくてするわけではないんです。むしろみなさんの潔白を証明するためにこうするよりないと思ったので行うことにしました。それはわかってください」
茉莉は必死に正当性を主張しようとしているが、それは建前であると誰もが感づいていた。みな俯き加減のまま微動だにしなくなった。
「そうですよ。疑ってなんかいません。だから刑事告発もするつもりはないんです。今のところこの話を知っているのは私と椎名外来師長のみです。婦長や医師などの耳には入っていませんし、口外もするつもりはありません。こんなことが公になったら病院の風評に傷がつきますからね。だからこそ内々で静かに事を片付けたい。我々としても今回の対応は苦渋の決断だったことをご理解いただいてご協力をお願い致します」
禿げ上がった頭を上下に揺らしながら事務長の井上は話した。黒縁眼鏡をかけた初老の井上は風貌もどこにでもいる日本のサラリーマンといった感じであるが、態度もまた然りであり、何かにつけてトラブルがあると必ず二言目には「病院の風評に傷がつくと困るので」と口にするのだった。医療ミスが起きても同じ言い分で隠蔽しかねないのでは、と専らナースたちには不評な男だった。
「それでは急で申し訳ありませんが、みなさんのロッカーを見せてもらいます」
茉莉がそう言うと、それぞれ腑に落ちないものを胸に抱きつつも一同は地下二階にある更衣室に向かって無言で行進した。
更衣室に入ると茉莉はチェックをする者を一人ずつ呼び、それ以外の者は廊下で待つように指示した、一人一人じっくり時間をかけて中の確認を行った。上岡や綾奈などのベテラン勢が率先して受けた。案の定、誰からも何も見つかることはなかった。青葉と小百合も終わり、残りは梨乃だけになった。
梨乃は無言で扉を開き、茉莉と井上に手でどうぞと合図した。茉莉はついさっきまで梨乃が身に付けていたキャメルのダッフルコートやグレーのチェックのロングスカートと白い羊毛のセーターを触り、ハンガーから外して井上に手渡していった。
梨乃はロッカーに白衣の替えと、その日自分が着てきた洋服と靴に通勤用カバンしか置いていない。みなのように化粧品や鏡などの雑貨は全く入れていなかった。私物が少ないのだからどうせすぐに済んでしまうだろう。そう、梨乃は踏んでいた。十人近くの看護師たちのロッカーを調べ、結局何も見つけられなかったのだ。梨乃もそれに続くに決まっていた。
茉莉が、今日梨乃が穿いてきた白いニューバランスのスニーカーを下から引きずり出したその時だった。眉間に皺を寄せた表情で屈んでいた茉莉が梨乃を睨んできた。そして梨乃のロッカーに顔を突っ込んだ次の瞬間、白いビニール袋を手に提げ、梨乃の鼻先に押しつけてきた。梨乃は何が起きたのかわからなかった。もちろん、そんなビニール袋に見覚えはなかった。
茉莉はおもむろに袋を開けた。中からは黒いプラスチックコードが現れた。
「これは?」
茉莉がつまんでいるコードの先には小さなマイクのような物がついている。さらにその先端にはわずかにツヤが覗いている。茉莉はその部分をつまみ上げ、まじまじと観察した。
「大谷さん、これは小型カメラよ。どういうこと?」
いったい何が起きているというのか。梨乃には全く身に覚えがない。こんなビニール袋、見たことも触ったこともない。どうしてあんなものが自分のロッカーに入っているのか。さっぱりわからなかった。
誰かが忍ばせたのであろうか。でも誰が?いつ?何のために?
さっきまで自分は着替えのためにロッカーを開けていたではないか。あの時には全くあんな袋のことは気が付かなかった。すでにあったのだろうか。でもいつから?昨日も出勤だったが、あのビニールは目にした記憶はない。では日勤だった昨日、上がった後からさっき出勤するまでの間に仕込まれたのだろうか。
ハタシテダレガ?
わからなかった。
言いも知れぬ悪寒が梨乃の腹の底から湧きあがった。私を誰かが陥れようとしているのか?
いつの間に看護師たち全員が梨乃を取り囲んで円陣を組んでいた。みんなが強張った表情で梨乃を凝視していた。
梨乃は声を出さず、涙も出せず、とにかくひたすら頭を横に振り続けた。
梨乃の荷物に紛れていた小型カメラはその後茉莉と井上により解析され、やはり例の内診の映像が収められていたと報告を受けた。だが、梨乃が隠し撮りをした犯人であるという確たる証拠は結局なく、また映像を観た上岡が梨乃ではない別の看護師が患者の内診を誘導していると強く主張したことから、今回の件は濡れ衣であったのだろうという結論に落ち着いた。看護師たちのロッカーには錠前が付帯されていないという事実にも救われた形となった。上岡は特殊解析をかけて、誘導した看護師の声を分析し、盗撮した張本人を割り出すべきではとも提案したが、これ以上の波風を立てたくない井上の取り計らいと、ロッカーからカメラが発見された梨乃が濡れ衣であるなら内診を誘導している看護師にしても犯人とは限らない可能性があり得ると茉莉が判断したため、事件自体雲散霧消にされることとなった。
とはいえ、梨乃を取り巻く職場の環境が一変しないはずがなかった。梨乃の仕業ではないという結論に落ち着きはしたものの、やはりあのカメラが梨乃のロッカーからひょっこり出てきたという衝撃的な事実が変わったわけではないのだ。しかもその実物は同僚たちの面前で見つかり、確認もされている。頭ではみな濡れ衣であったのだと理解してはいても、心なしか梨乃に対する態度はぎこちなくなっていた。庇ってくれる小百合と無実を信じきっている上岡を除いて、なんとなくみんなの視線や態度が冷たいのを梨乃は肌で感じた。
学生時代はほとんどずっといじめられっ子で、仲間外れやシカトは普通に喰らっていた梨乃であるから、冷淡な態度を取られるぐらいではへこたれない。看護師になってからだって仲良しこよしで働いていたわけではない。小百合以外に親しくなった同僚などいたわけではない。一人ぼっちにも慣れている。
それでも看護師になって今の今まで仕事が辛いと思ったことは一度だってなかった。ましてや辞めようとは夢にも思ったことはなかった。梨乃にとって仕事は誇りであった。ナースという職業が生き甲斐であり、次々と退職していく同級生を横目で見て、悲しくもなったものだ。
それが今、大きく転換しようとしている。それも誰かの策略によってだ。病院に来ることが疎ましくなってしまった、そう自分が感じていること自体が梨乃は悔しかった。
一体、私には何が降りかかっているのだろう。
事件があって最初の非番の日、梨乃は居間にあるちゃぶ台にうつ伏せになって堂々巡りに思索を繰り返していた。
その日、青葉は日勤だった。その前日は梨乃が日勤、青葉は非番であった。昨日青葉はパソコンいじりをしていたのであろうか。二人のちゃぶ台にはノートパソコンが開いたままの状態で載っていた。ランプが休止状態の色に点灯していることから、電源も落としていないのだと知った。片付けずにそのまま青葉は放って寝てしまったのだろう、と梨乃は予想がついた。
片そうと思って梨乃は伸ばした腕に自分の片頬を載せたまま、空いている方の手でエンターキーをつついた。
ブーンという音を立てながら黒い画面に小さな光が瞬き出した。画面が明るくなると同時にパラパラとアイコンが整列した。アンダーバーにはインターネットを立ち上げていることを知らせるメニューも明かりを灯していた。梨乃はそこをクリックして全面に広げてみた。出てきた画面はヤフーのメールフォームであった。いけない、青葉のプライベートメールアカウントを覗いてしまうことになってしまう、と咄嗟に画面を閉じようとしたその時、梨乃は異変を感じ取った。
青葉へ
お疲れ様♡
これって誰だろう、と梨乃はいけないと思いながらも好奇心の昂ぶりを抑えられなかった
作戦成功したね^^
これでお邪魔ちゃんも消えてくれるだろうね(笑)
早く一緒になろうね!
Love マリリン より
「マリリン」とは誰なのか?お邪魔ちゃんとは誰なのか?
梨乃はそのまま受信箱を押下した。縦一列に並んだ履歴には一様に「マリリン」名義の差出人からのメールのオンパレードであった。ほぼ毎日のように受信している。梨乃はすでにこれが青葉の受信ボックスであることを忘れてメールを一つ一つ読み漁った。
三月も中旬を迎え、そろそろ花粉症の患者にはむず痒い季節だと感じるぐらい暖かくなってきた。今年も暖冬で春が早くやってきた。この分だと桜の開花も間近かと思われる。今咲いてしまえば、もちろん入学式まではもつまい。卒業生が桜の下で別れを行えば、新入生は裸の木々に出迎えられることになるのだ。
梨乃が東京に来た春は運よくそんな事態は避けられた。暖冬ではなかったため、春の訪れが正常の時期であったからだ。でも一年下の学年はやはり今年のような気候であり、散った後の不気味な桜に出迎えられての入学であった。
弥生の空は蒼く澄み渡り、一年のうちで一番美しい時期に差し掛かっていた。しかし吹きゆく風はまだ晩冬の冷たさの余韻を残し、体感温度を下げている。しばし吹き荒れる暴力的な風がそれを助長していた。
この時期の風は花粉や黄砂といった様々な外敵を含み、人間を攻撃し、苦しめる。特にそれらは四方を高層ビルに囲まれた聖城医科大学付属御茶ノ水病院の屋上になみなみと降り注いでいた。
毒を含んだ強風が吹き荒れるこの屋上に誰が好き好んで落ち合う約束をするというのか。あえて人目を避けて密会をしたい際にしか選ばないであろう。または、秘密裡に対峙をしたい時には最適な環境かもしれなかった。
耳元を目に見えないが渦を巻きながら抜けていったと思われる轟音を立てながら風音が襲った時、疲れた顔をして肩をほぐすための腕の旋回運動をしながら、屋上に通ずる階段を有する縦型の小屋から青葉が現れた。
「青ちゃん」
バタバタと振動音を立てながら波打つ真っ白なシーツの合間から梨乃は青葉に声をかけた。真っ青な空を流れる白雲と同じぐらい純白な制服を身に付け、欄干にかかったシーツと同化してしまいそうなくらい白々しかった。
「よう、梨乃。何だよ、改まって話って?携帯にメールしてこんなとこ呼び出すなんてさ。ルームメイトなんだからかしこまんなよ」
春一番はとっくに過ぎていた。春何番目かの生暖かい風が梨乃のお下げ髪を逆立てた。青葉は首を左右に倒しながら立ちはだかっている梨乃に向かい合った。
「ふざけないでよ」
ヘラヘラ笑っていた青葉が凍てついた。音のない風が二人の間から引いていくのが体感できた。まだ冬の名残を含んだ冷たい風が瞬時に退散していく。
「どうして私がここに呼び出しているかなんて、抜け目ない青ちゃんならとうに承知しているでしょうが」
青葉は俯き加減になりながら、歯を「イ」の形にした。そして足元にある欄干の支え棒を蹴った。患者のシーツを干している物干竿にである。梨乃はますます腹立たしくなった。
「青ちゃん、なんであんなにひどいことをしたの?何か文句があるなら、青ちゃんこそ直接言ってくれればいいじゃない。それこそルームメイトなんだから。それに私達は単なるルームメイトじゃないでしょ。長年の、少女の頃からの付き合いじゃない」
梨乃は初めて青葉に対して剣幕を露わにした。今日はいつもの自分のようではなく、思っていることを全てぶつけなくては、と覚悟を決めているのだ。緊張で身体に小刻みな揺れをも感じている。
「うるせえんだよ」
梨乃はたじろいだ。青葉の眼光が正気のものではなかったからだ。怒りとか憎しみといった単純な言葉では表現できない、もっともっと深遠な何かを宿している。
また大きな風がひゅうっといいながら二人の間をすり抜けた。梨乃の右肩に木綿のシーツが叩きつける。
「パソコンを偶然見てしまったの。断っておくけど悪意があったわけではないから。青ちゃんがリビングに置いたままにしておいていたから、片そうと思って触ったらプライベートなファイルが開いていたから見てしまっただけだからね」
実際には、メール受信箱で茉莉と青葉のやり取りを確認した後、フォトフォルダーも覘いてしまっていた。そこには問題となった内診の様子を盗撮した忌々しいムービー画像が収められていた。上岡や井上が確認したという問題の盗撮である。確かに女性看護師の誘導によって内診を受けている女性の姿がそこにはあった。顔は看護師、患者ともに見えなかったが、その看護師の声に梨乃は聞き憶えがあった。機械音がかかり、聞き取りずらかったが、あれは確かに青葉であった。
信じられなかった。愕然としたと言うより、呆然とした。内診の一部始終が映されていた。婦人科というデリケートな診療科は来院するだけでも患者にとって勇気がいる。その上、屈辱的ともいえる内診を受けなくてはならない患者の、女性のプライバシーを踏みにじった許されざる行為であった。医療関係者として、こんな画像をネットに投稿するなど言語道断である。
梨乃はわからなかった。自分を疎ましいと思い、追い払おうとするなら、なぜこんな小癪な手段を使うのだろうか。自分に対して意地悪を面と向かってすればよいではないか。看護師という聖職を汚すような悪事になぜ青葉は手を染めたのか。
「青ちゃん、どうして自分の沽券に関わるようなリスキーな事件を起こすわけ?いたずらにしても程がありすぎるでしょ。看護師としてのプライドだって疑ってしまう。どうしてあんな馬鹿なことをしたのか教えて頂戴」
「難しい単語をガタガタ並べるんじゃねえよ。自分が頭いいことを鼻にかけてるようでむかつくぜ。こっちが頭悪いと思ってバカにしてんだろ」
「そんなことない。どうしてそんなひどいことを言うの。ねえ、お願いだから教えて。なんであんなことをしたのかを」
「叫ぶな、本当にぶっ殺すぞ、テメエ」
梨乃の頬に冷たい衝撃が走った。小さな感覚しかなかったが、それは鋭い激痛を伴った。カランという音が足元に響く。そこにはボールペンが転がっていた。
「テメエ、自分の価値観だけで物事を捉えようとするなよ」
ボールを投げ切った時のピッチャーの姿勢で青葉が梨乃を睨みつけていた。
「お前のようにキレイごとを抜かして看護師になったヤツばかりじゃないんだぜ。そんなこともわかんねえのかよ」
「どういうこと?意味がわからないわ」
「お前のように医療に従事してることでハッピーだなんて思ってるヤツばっかじゃねえってことだ。患者が喜んでくれるのが生き甲斐だと考えてるからこの仕事を選んでる看護師なんて、そうはいねえんだよ」
「えっ・・・・・・」
「なりたくて看護師になってるわけじゃねえヤツもいるってことだ。ゼニを稼ぐための手段としてしょうがなくやってるのが普通ってもんさ」
「青ちゃんもそうだって言うわけね」
上空を通過する雲が太陽を隠した。青天に突如、暗雲が立ち込めた。
「当たり前だろ、バカ。こんなストレスばっか溜まる仕事、誰が好き好んでやると思ってんだ」
「じゃあ、青ちゃんが看護師になった理由は何?」
「一生食ってける仕事だからに決まってんだろ。お前、考えてもみろよ。うちらみたいな女が普通の大学出て一般企業でお勤めというわけにゃいかねえよな」
「ごめん、さっぱり意味がわからないわ」
梨乃は素直に眉間に皺を寄せて見せた。
「バカか、お前。うちらぐらいの年齢になりゃ普通は結婚の話で持ちきりなんだぜ。お前、会社とかでそんな話題を振られたらどうする?何も言えねえだろ。周囲とうまく話題合わせられなきゃ会社にもいられないんだぜ。同期にもお局にも上司にもあれこれ変な噂立てられて、最後にゃいられねえような状況に追い込まれちまうのがオチだぞ。もちろん大学に入れるような頭がなかったから看護学校を選んだっていうのも本当だけど、それだけでなく将来のことも見据えてこの世界に入ったってのが本音だ。当然、親は反対したぜ。三流の女子大でもいいから行けってよ。でもこのご時世、大したことねえ女子大なんて出たってまともに食ってける仕事に就くのは難しいじゃねえか。仕事見つかったって碌でもねえ会社に入って、トラブって辞めちまったら次の就職先が見つからねえなんてことはよくあるだろ。無職になりゃ嫁に行かされるのがオチだぜ。そんなの真っ平御免じゃねえか。わかったか?親兄弟に歓迎されながらこの業界に入って、喜んで働いているお前とは住んでる世界が違うってことが。それから言っとくけどなあ、他の看護師だって動機なんて似たようなもんだからな。小百合だってずっと続けられる仕事だし、転職が利くから選んだって言ってたからな。お前が尊敬してる先輩方だってそうだぜ。綾奈は姉貴が短大出て就職で苦労してんの見てうんざりしたから、上岡は実家が貧しいから給料がよくて安定しててしかも学校の学費がかからねえって理由で看護を選んだっていう話だからな」
「そう。よくわかったわ。でもだったら青ちゃんはなんでちゃんと仕事に取り組まないわけ?仕事に生きようって覚悟で看護師になったのなら、あんなにいつもだらけてる態度と動機が矛盾するように感じるけど。他の人たちはそれなりに頑張って働いているでしょ。理由はどうあれ看護師という職業を選んだのなら、それなりの責任があるじゃない」
梨乃は溜まりに溜まった不満をぶつけた。プライベートではいくら頼られても構わなかった。でもやるべき仕事はきちんとこなして欲しかった。確かに青葉は看護師としての素質がそんなにあるわけではないと梨乃はさすがに知っている。それでも真面目に、勤勉に仕事に取り組む姿勢を見せて欲しいと梨乃は常々切に願っていた。梨乃は青葉が少しでも自身の評価を自分の力で上げていって欲しいと思っていたからだ。だが、青葉は一向に態度を変えないため、梨乃はカバーをしてきたのだった。それもこれ以上青葉の評価を下げたくなかったからだ。
「だから言ってるだろ。看護師っていう身分が欲しかっただけでこの仕事は好きじゃねえって。お前みたく出来がよくねえからもうやる気も起きねえんだ。まあ、上岡の手下であるお前にはわかんねえだろうけどよ」
「上岡師長は青ちゃんが思っているより理不尽な人じゃないでしょ。きちんとやった分だけ評価してくれる器の大きい人なのよ」
「小百合だって言ってんだぜ。お前もお仲間なのになんで一人だけ贔屓されてんのかねってよ」
小百合まで自分の悪口を言っているのだろうか。青葉と小百合がそんな風に自分を見ていると思うと怖くなった。
「上岡師長が偏見のある人なのかどうかは私は定かではないと思う。でも仮に偏った思想の持ち主であって、私達に対して色眼鏡で見ているとしたら、それに対抗するには黙々と仕事に徹することではないかしら。私はそう思ったから必死に業務に取り組んで文句を言わせないまでに成長したの。それだけよ。別に上岡師長に気に入られようとか取り入ろうとしたことは一度もないから。もちろん彼女の看護哲学に関しては尊敬できるし、目標としている看護師の一人ではある。でも、青ちゃんが私を上岡師長の申し子とでも考えているとしたら、それは心外だわ」
「さっきも言ったけどよお、あんま難しい言葉を並べんなよな。あんたと違ってこちとら頭悪いんだからよ」
青葉は軽蔑したように上斜めから梨乃を見た。
「ところで偉そうなお説教をほざきまくってたけどよ、本当にそれがお前の本心なのかねえ」
「どういう意味?」
梨乃は頬がひきつるのを感じた。
「お前こそ本当はどういう動機で看護師になったのかって聞いてるんだよ。お前頭良かったんだろ。普通に有名大学入れるぐらいの成績だったっていうじゃねえか。高校のセンコーからも看護学校に行くことを反対されたって前に話してたじゃねえか」
「漠然と大学に行くのが嫌だったの。青ちゃんもよくご存知だと思うけれど、うちは医療一家で父も兄も賛成してくれたし、将来的にはみんなで開業する可能性もあるから、その時の足しになればなと思って志したのよ」
風で口元に絡まるしばった髪の毛を、懸命に振り払いながら梨乃は言葉をつなげた。
「でもよお、看護学校なんて地元にもあっただろ。なんでわざわざ東京に出てきて、それもこの学校を選んだんだ?お前なら看護大学とかも受かっただろ」
「いい学校はたくさんあって迷った。もちろん、地元で通うことも考えた。でもどうせなら一流の学校に行きたかった。だからいろんな学校を調べたけど、聖城に決めたの。聖城は日本屈指の医大だし、高名な医師もたくさん輩出しているから安心して預けられるって父が薦めてくれたからでもあるのよ」
「じゃあ、お前が親父に聖城を提案したのはなんでなんだ?そもそもどこで聖城の名前を知ったんだ?」
「それは・・・・・・」
青葉がくれた年賀状に聖城の名前があったから。ここに行けばまた青葉と会える。また少女の頃の、あの日のように青葉とキャンパスライフを送れる。それを夢見て上京しようと決意したというのが真実ではないのか。
「つまり愛しの青ちゃんを追いかけるために聖城に来たんじゃないのかよ」
梨乃は何も答えられなかった。青葉の着ている白衣の白さばかりが急に目についた。強風に乗って階下の病棟から匂ってきた慣れているはずの屎尿がこびりついたような病院臭が梨乃の胸を刺激し、突然吐き気を催した。
自分は青葉と同じ白衣を身に付けている。これまでそれが嬉しかったはずだ。再び現れた弥生の青空を仰ぎながら、梨乃は何度もしかめ面を浮かべた高校の先生の顔が脳裏にちらついた。
「お前バカじゃねえの。そんなヤツいねえよ」
青葉は腹を抱えて笑った。手を叩いて跳ねてまでいた。
「梨乃、お前は自分では何も決められねえヤツなんだよ。子どもの頃からそうだろ。人の真似ばっかりしやがってよ。大好きな青ちゃんが読んでるマンガを必死になって読んで、話合わせて、ブーリンが好きだって言ったから自分もファンになった。青ちゃんが看護師になるから自分も看護師になろうと決めた。青ちゃんが聖城医科大付属看護学校に行くっていうからそこに行くことにした。青ちゃんが聖城大学付属病院に就職したからそこで働くことにした。青ちゃんが産婦人科小児科外来にいるから自分もそこに来た。そうやっていつもいつも金魚のフンみてえに青ちゃんの猿真似しかできねえで人生を送ってきた。それがお前だよな」
「違う、そんなことない。確かに青ちゃんの年賀状がきっかけで看護師になろうと決意したのは本当よ。でもそれが興味のない分野であれば私は志すことがなかった。配属診療科だって私はどこだって構わなかった。別に青ちゃんと同じ産婦人科・小児科外来を希望していたわけじゃない。どんな科であっても配属されたところで精一杯頑張って、自分のスキルをちょっとでも上げていかれれば、とそれしか考えていなかった」
「本当にお前そうなのか?看護学校じゃなくて普通の大学でも追ってきてたんじゃねえのかよ。そう思うとお前怖いぜ」
青葉の言うことは満更でもない。どこの大学であっても追わないと言える自信はなかった。さすがに体育大学に青葉が進むと知らせてこなかった限りは。梨乃は自分のしでかした事の愚かさを初めて噛みしめた。
「お前は幼馴染の大切な青ちゃんとか思ってるのかもしれねえけど、こっちはそんなことちっとも思ってやねえんだ。どころかお前のことなんか大っ嫌いなんだよ」
わかりきったことだった。だが、直接そうぶつけられるとやっぱりかなりしんどかった。
「わかってたよ、そんなこと。でも帰国してからも文通してたし、毎年年賀状をよこしてくれたから・・・・・・。私にとっては書面であっても青ちゃんと交流できてたことが嬉しくて・・・・・・」
青葉は舌打ちをした。
「お前と同様、中高時代は寂しかったから魔がさしちまったんだよな。アメリカから帰ってきて、日本の学校に馴染めねえし、授業はついていけねえしよ。お袋の見栄に付き合わされてわけわかんねえ女子校に編入させられて、最悪だったんだ。帰国子女のわりには大したことねえってばれてからみんなしてバカにしてきやがって。どんなに辛かったことか。言ってみればお前ぐらいしか話せるヤツがいなかったからやってたんだよ。まったく、今思えば迂闊だったぜ。あの正月に進路先なんて年賀状に書かなければ、お前と再会することになんかならねえで済んだのによ。お前が聖城に来るって次の年の年賀状で知った時はマジかよって何度も自分の目を疑ったからな。メールで再会の予定を打ち込んでる時は半信半疑だったんだ。まさかそんな馬鹿なことをするほどお前はアホじゃねえってまだ信じてた。近くにある大学に受かったって意味だろうって思ってたからな。でもあの桜の木の下で新入生のしおりを持ったお前と再会した時はぎょっとしたぜ。ああ、現実だったんだなって呆れた。こいつストーカーかよって、気持ち悪くなった。そしてお前とまた顔合わせなきゃなんねえのかって思ってうんざりした。でもこれで救われたかもって思ったから我慢して付き合うことにした。あの当時、授業についていけなくて落第しそうで困ってたんだ。お前が来てくれたことでてんでわかんなかった勉強がついていけるようになったからな。かろうじてではあったけどよ。国家試験に通れたのはお前のおかげだしな。苦労したかいはあったって感じだぜ」
嫌味そうに青葉は鼻を震わせた。
「そう、そんな風に青ちゃんが私に対して感じていたのね。気持ちを考えないでまたあなたの目の前に現れてしまったことは本当に申し訳ないと思う。でもだからって私の仕事の邪魔をすることは話が違うと思う。私はプロとしてこの仕事に誇りを持っている。それは事実よ。だからこの仕事と私のキャリアを汚すような罪を青ちゃんが犯したことは許せない。いくら嫌いだからって、あんな手段を選ぶなんて姑息よ。私は青ちゃんの好きな茉莉さんがいる循環器に異動しようなんて露ほども希望してないの。たまたま上岡師長からそういう話をいただいた、ただそれだけの話なのよ。このまま産婦人科・小児科外来にいても構わない。どこの診療科にいたって、私は看護師として誇りと責任を持って仕事に取り組むつもりなのよ」
青葉と茉莉のメールのやり取りを梨乃は盗み読んでいた。メールは去年の八月から始まっていた。その頃、どういう経緯があったのかは不明だが、青葉は茉莉とつながったらしい。ちょうど茉莉が同性愛者と判明した直後である。青葉は梨乃に内緒でこっそりアプローチしていたのだろう。八月の盆時期に家を空けていた期間や、休みが重なった日曜日に友人の結婚式に出席すると言って出掛けた日も、クリスマスに行ったスキーも、全て青葉は茉莉と行動を共にするための口実だったと梨乃は知った。もっともスキーは本当に二人で行っていたらしいが。今年に入ってからは二人の話題は梨乃の悪口が中心となっていた。
茉莉はかねてから梨乃のことを嫌っていたらしい。理由は上岡をはじめ、ベテラン看護師が軒並み梨乃を気に入っていることにあった。病院側はすでに梨乃を主任として推薦する動きにあり、将来的には幹部にまで昇進させようと目論んでいるらしい。その一環として、まずは花形の循環器に異動をさせようと事務長の井上が計画をしていることが、循環器科外来師長である茉莉の神経を逆なでしているのだ。茉莉はやっと手に入れた自身の地位を梨乃が脅かそうとしていると取ったらしい。
院内では梨乃の評判はうなぎ上りであり、梨乃を忌み嫌う茉莉は孤立してしまっていた。そこに梨乃の過去を知る青葉が現れ、茉莉は形勢の逆転を謀るためにも青葉に近づいたようだった。そのうちに茉莉と青葉は親密さを増した関係になっていったのだ。
茉莉と青葉はメールで梨乃の悪口を楽しんでいた。日に日にエスカレートした表現で梨乃を二人はこけにしていた。当然、梨乃が青葉に渡した手作りのバレンタインチョコレートについても散々の言われ様をしていた。そしてついに梨乃の追い出し計画に至っていった。ただ苛めるだけでは梨乃は気に病むほど敏感ではない。それは子どもの頃から散々苛め抜いてきた自分が身を持って言える。あいつは鈍感だから、苛め程度では気がつかねえんだ。だからもっとビッグなサプライズを用意するしかない。あいつが公的にも貶められ、私的にも傷つき、この病院で働けないような窮地にまで追い込まないとだめだろう。そう、青葉は茉莉に告げ、盗撮犯に仕立てる計画を企てた。青葉が内診を盗撮し、茉莉がロッカーに潜ませたのだ。
メールの中で青葉は何度も茉莉に梨乃のことをこう罵っていた。うざいと。それが青葉の梨乃に対する本音なのだろう。
メールの中では茉莉と青葉が四月から同棲する計画も立っていた。それも梨乃にはまだしらされていない事実だった。すっかり二人は一線を越えた恋人同士になっているのだ。
梨乃はすでに青葉と関係を修復することはできないとわかりきっていた。もうおしまいだ。何を言っても無駄なのだろう。
「あれぐらいしなきゃ、お前は懲りねえし、消えてくんないだろ」
あっちへ行けというように青葉は手をパタパタとさせた。
「青ちゃん、あなたが私を嫌っているのはわかっているわ。でも、最後にこれだけは言わせて。私はロスで青ちゃんに助けられて以来、ずっと青ちゃんに感謝してる。ありがとうなんて言葉では言い尽くせないぐらいに。今も、これからもそれはずっと変わらない。だから青ちゃんに再会できて、今度は私が恩返ししてあげたい、そんな気持ちで東京にやってきた。青ちゃんが国家試験に通れて、一緒に看護師として同じ病院で働けて、それが幸せだった。でも、それがあなたを傷つけていたのだとしたら、私は本当に青ちゃんに申し訳ないことをしたと思う」
青葉が梨乃によって傷ついたという事実を顧みずにのこのこ上京してきた自分を梨乃は恥じた。そうである。青葉は梨乃を深く恨んでいて当然なのである。梨乃とてそのことについて一日たりとて忘れたことはないし、贖罪しなかった日はない。あの忌まわしい出来事が起きたあの事件が梨乃と青葉の間に大洋を横たわらせてしまったのだ。
「おまえさあ、やっと気づいたわけ。本当に呆れるほど鈍いな」
「ごめん、本当にごめん。私が悪かったと思ってる」
「今更なんだよ。何度あの時、お前と入れ替わってやればよかったと思ったと思ってんだ。そして本当に悪かったと思ってるんだったら、普通は追って来たりなんかしねえぞ。お前はマジで人の気持ちがわかんねえヤツなんだなって、それが感想だぜ。ガチで反省してんなら、お前、消えろよ。お前が近くにいると、あの日の悪夢を思い出しちまうんだよ。仕事のやる気がなくなったのも、お前が絡んでいるとも言えなくもないぜ。同じ院内にいるって考えただけでも気持ち悪いんだ。やる気なくなるよな」
「ごめん、そんなこと考えもしなかったの。私は青ちゃんとまたあの少女の頃のようにおしゃべりがしたくて、そして今度は私が青ちゃんの支えになってあげたくて、それだけだったの」
「ああ、もう十分恩返ししてくれた。おばあさんとおじいさんのために機織りした鶴以上だね。国家試験も通ったし、落第もせずに済んだし。今年は家事もしてくれたし、仕事も被ってくれたし。それで満足でしょうか?」
梨乃は溢れてくる涙を抑えながら、うなずいた。青葉はそれを見てふうっとため息をついた。
「それから言っとくけどな、お前が嫌いなのは何もあの事件だけが発端じゃないからな。そこは勘違いすんなよ。あの事件がある前から嫌いだったからな」
「その理由は何?」
「むかついてたんだよ、単純に。お前んちは家族仲良くしててよ。いっつも楽しそうにしてやがって。ダサいお前のお袋はお前を溺愛してるし。親父も優しいし。しかも兄貴まで」
「家族だもの。仲良くしてるのは当然じゃない」
梨乃は忘れていた記憶の片隅を辿った。梨乃の兄二人は一度だけロスまで遊びに来た。その時、梨乃は嬉しくて兄を青葉に紹介したのだ。青葉にはそれが自慢のように感じたのだろう。
「うちは全然違ったんだよ。お袋と親父は学校の成績の話ばっかり気にしやがって。親父は会社で、お袋は日本人婦人会の中で張り合うことばっかりが話題の中心。息苦しくて死にそうだった」
確かに梨乃の母も日本人会の女性部は息が詰まるほど切迫しているとは話していたのは聞いたことがある。梨乃の母親は芯の強い女性であったからプライドの張り合いみたいな女の溜まり場はバカバカしいと言って、あまり出席していなかったようだ。しかし、青葉の母親のように女子大出の社交性がある女性だと、そういう場が好きであっただろうし、それによってストレスを感じてきてしまうのも理解できた。大学の研究員として招かれた梨乃の父親と会社の転勤で来ていた青葉の父親という立場の違いも少なからず関係しているだろうが。
「そんな時、お前の優しい兄ちゃんが来てくれて、どんなに心惹かれたことかお前にはわかんねえよ」
嘘。梨乃は顔を覆った。兄は二人いる。そのどちらに対してなのか、あるいは二人ともに対してなのか。青葉がそんな想いを抱いていたとは夢にも思っていなかった。
思い起こせば、青葉がまたお兄ちゃん来ないの、と訊いてきたことが何度かあった。その時、青葉はいつも短くしていたはずの髪を少し伸ばしていたような気もする。
私は大変なことを青葉にしてしまったのだ、と梨乃は実感した。梨乃は青葉の一生を百八十度転換させてしまうきっかけを作ってしまっていたのだ。恨まれて当然だ。どうして聖(こ)城(こ)に来るなんて馬鹿な選択をしてしまったのだろう。私のキャリアなんて汚されて当たり前なのだ。
「お前と一緒にいればまた兄貴と会えるかもしれない。そんな下心があってつるんでたのがいけなかったんだ。そのせいで、あんなことに巻きこまれて。こんなことになっちまって。お前、どう責任とんだよ」
風に靡いて青菜の声がこだました。青葉は掌を天に向けた。
「おい、そこで何やってる」
罵声が二人の背後から轟いた。びっくりして振り返ると、屋上に造られたプレハブの医局から老医師が二人を睨んでいた。
「診療時間はとっくに始まっている。患者さんが来ている傍らで立ち話をしているとは何事だ。君たちは看護師失格だぞ」
「すいません」
久々に聞くような剣幕で医師は怒鳴った。その医師は院長だった。循環器にはこの人がいるのだ。そんなことが梨乃の頭に掠めた。
「外来ならさっさと持ち場へ、夜勤明けならすぐに退勤して明日以降の仕事に備えなさい。一刻も早く屋上からは立ち去ること」
「はい、すいません」
梨乃は院長に頭を下げて謝罪した。顔を上げて、踵を返した時、すでに青葉はいなくなっていた。
梨乃は聖城医科大学付属御茶ノ水病院を辞めた。
年度末まで幾日もない日であったが、あの屋上で青葉と口論した日に上岡に三月いっぱいでの退職を申し出た。無論、上岡は仰天し、理由を問いただしてきた。そんなことを言わないでくれと上岡は何度も諌めた。梨乃はあくまで母親が急病のため、急遽帰郷するため退職を決意したとの姿勢を貫いた。三日ほど上岡は説得にかかったが、梨乃の回答が変わらなかったことから意志の固さを感じたのか、退職を赦してくれた。
退職の日、小百合と綾奈、そして上岡で小さな送別会を開いてくれた。みんな本気で梨乃の母親が病に臥せっていると信じているため、梨乃は片腹痛い思いでいっぱいになった。最後に外来看護師みんなが作ってくれた寄せ書きをもらった時は思わず涙が出てしまった。大好きだった職場を離れなくてはならない自分の弱さへの情けなさと、白々しくメッセージを書いていた青葉に対する怒りを通り越した悲しみが込み上げてきたからだ。
青葉はあの日以来、梨乃が部屋にいる間は寮へは戻って来なかった。梨乃が仕事から戻ると、冷蔵庫の中身が減っていたり、洗濯物が共同スペースに落ちていたりすることがあったりしたため、どうやら梨乃が不在にしている間に帰宅していることがあるようだった。梨乃は洗濯物が落ちていれば従来と同じように洗ってやったし、恒例のスポーツドリンクの補充も続け、そのゴミの片付けも行った。たが、それは愛情からではなく、梨乃自身の日常における家事の一環としてしているにすぎないという概念に変わっていた。
寮の引き払いを行う三月の末日、梨乃は郷里の熊本に帰った。学生時代は盆暮れ正月には帰省をしていたが、社会人になってからは仕事優先のため一度も帰っていなかった。梨乃が看護師になって少しした頃に、立て続けに兄たちが結婚したが、結婚式の日も仕事が入っていたため出席しなかったため、実に五年以上ぶりに故郷の地を踏んだ。
久方ぶりの郷里は相変わらず田舎だった。それでも店や道路など変わっているところも散見された。どことなく寂しい風景にしか見えないのは梨乃がすっかり東京の景色に見慣れてしまったからなのだろう。
実家には一人暮らしで体調を崩してしまったので、退職して地元で働ける病院を探し直したいと退職の理由を説明していた。両親は真に受け大変心配した。その姿を見ても心が痛むことがなくなってしまった。それぐらい梨乃は荒んでしまった。
変わってしまっていたのは実家の状況も同様であった。兄たちは結婚していて、すでに子どもも生まれていた。上の兄は梨乃のすでに他界した祖父母がかつて暮らしていた離れを改装し、また下の兄は梨乃が子ども時代に過ごしていた家の一階に住んでいた。家自体は二世帯住宅用に建て替えられており、二階に住む梨乃の両親とは生活を分離させていた。梨乃の部屋は昔と変わらず二階にあった。両親は梨乃が東京に出ている間、部屋をほとんど触らないでいてくれたようだ。ベッドも勉強机も本棚もそのままになっていた。
とはいえ、上の兄には四歳と二歳の男の子が、下の兄にも一歳になる女の子がそれぞれ生まれており、毎日が子ども達を中心の生活になっていた。基本的には衣食住を分離した生活にしているとはいえ、同じ敷地に住んでいるのは事実。夕食はどこかのお宅でご一緒なんていうのも日常茶飯事であった。
梨乃は実家に帰った最初の夜に初めて嫂二人に顔を合わせた。二人とも医療関係者ではなく、地元の文系大学を出て、一般企業に勤め、現在は専業主婦をしている。化粧気がなく、服装も主にズボン穿きで、生活の臭いが染みついている。医者の妻とはいえ、兄は勤務医であり、開業資金も貯めているため、余裕はないのだろう。梨乃の目には二人とも冴えない女性と映り、あまり仲良くしたくないと思った。
梨乃自身は野暮ったいままの容姿であったが、東京にいる間に知らずに美的感覚が養われていたのだと気づき、驚いた。そして梨乃はこんなダサい嫂とここにいて同類となっていくのは避けたいと心に誓った。
梨乃のいぬ間にすっかりこの家はよそ者に占領されてしまっていた。もはやいまだ独り身で東京からの出戻りであえる梨乃の居場所はないに等しいのだと実家に帰って一週間もたたないうちに梨乃は悟った。食事以外の時間は自室にこもっていることしかできない。歯痒い気持ちが梨乃の胸を襲った。
いつしか昼間はふらりと外出するようになった。父が帰郷とともに譲ってくれた真っ赤なBMWに乗って出かけた。行先はデパート。きらびやかな化粧品売り場をぶらついた。
きれいになりたい。
これまで一度も思わなかったことを梨乃は願った。でもどうやったらなれるのか、その方法がわからず、ただ闇雲に化粧品ばかりを見て回った。化粧を碌にしたことのない梨乃はメイクをするためにどれを買ったらよいのかさえわからないのだ。
売り場を彷徨って四日ほど経った日、梨乃はあるメーカーの前で立ち止まった。エリザベス・ブーリンが広告塔を務めるメーカーである。売り場のバックには濃くメイクしたブーリンがデカデカと貼り出されている。
素敵。
見とれて立ち止まった。そのうちに厚化粧をした美容部員に話しかけられた。
ブーリンみたいになりたいんです。そう梨乃は口にした。
ええ、なれますとも。うちの商品を使っていただければ、ブーリンみたいに美しくなれますよ。梨乃と同じ年代と思われる美容部員の彼女は、キリッと上がった目尻を緩ませた。そして梨乃の素顔に次々と塗りたくり、十分後には自身と同じような姿へと変身させた。別人へと変身した梨乃は感動し、基礎化粧品からメイクアップ用品に至るまで合計十万円ほどの化粧品を購入した。
化粧を覚えると、その自分の顔に着ている服がそぐわないと梨乃は思い始めた。今度は洋服をショッピングセンターに行き買い込んだ。そこでも何を買ったらいいかわからないため、とりあえずブーリンが着ているような黒いパンツや流行しているプリント柄のカットソーなどを揃えてみた。いずれもこれまで身に付けたことがないものだった。母の好みであったロングスカートとトレーナーやセーターは、いずれも何年も着込んでいたものであったため、この機会にすべて処分した。
自室に籠っている時はブーリンの曲を聴いて過ごした。歌はうまいとは言えない方だが、ブーリンのようにメイクして、ブーリンばりの服装をしていると、まるでブーリンになったかのような錯覚を起させた。
帰郷して一か月後の五月の連休明け、梨乃は社会復帰した。父の伝手で見つかった仕事で、阿蘇山の近くにある児童養護施設の保健師をすることになったのだ。平日のみで朝九時から午後五時までの勤務。夜勤はなし。看護師よりは給料が下がるが、それでも月給三十万ほどはもらえた。
そこは戦国時代にキリスト教が伝来した際に建てられた教会によって戦後開かれた児童養護施設であった。子どもの面倒を見ているのは主にシスター、つまり修道女たちであった。シスターのほとんどは高齢者であったが、ひとりだけ若い新人の修道女がいた。聞けば去年入ったばかりで二十歳だという。沖縄出身で、米軍の落とし子だという桃佳はすぐに梨乃と仲良くなった。桃佳は黒人の米兵の血を引いているため、オリエンタルな顔立ちをした美女だった。米軍相手の水商売をしていた母が不注意で孕んでしまったとのことで、当然私生児として生まれ育ち、常に学校でいじめに遭い続け、誰にも愛されることない幼少時代を過ごしたという。どこかに救いを求めたくて、ひとり教会に通い続け、高校を卒業と同時にここの修道女として入所した。夢は誰かに尽くしてあげることだった桃佳は、この修道院に入ってから、毎日子ども達を愛してあげることができ、充実していると満足気に話していた。
その桃佳が梨乃に好意を抱いているとわかったのは、梨乃が施設に来てひと月ほど経った頃であった。いつも黒衣を身に纏い、素顔で過ごしていた桃佳は、梨乃と接するとソワソワし、頬を紅に染め上げた。小学生のようなわかりやすさであったが、それが微笑ましく映った。桃佳にはきれいに化粧をし、流行の洋服に着飾った梨乃が垢抜けて見えたようだ。
不思議なことに好意の視線を浴びれば浴びるほど、梨乃は美しくありたいという意識が高まった。素敵な服を着こなすのにふくよかな体型は不似合だと感じ、ダイエットを始めた。簡単だった。憂鬱な家族団欒の夕飯を抜いたのだ。残業だ、友達との飲み会だと嘘八百を並べ、毎晩のように食べなくした。梨乃のためにと、ラップをかけて料理が台所に置いてあったこともあったが、明らかに嫂が作ったとわかるものは、母は煮物など和食しかこしらえないため洋食が置いてあればすぐにわかった、容赦なくビニール袋に入れ、廃棄した。夕飯代わりに梨乃はジムとエステに通った。その甲斐あって、梨乃は劇的な減量に成功した。
やがて梨乃はヘアケアやネイル、バックや靴などの持ち物に至る細部まで抜かりなく気を配った。そのひとつひとつに桃佳は憧憬の眼差しを向けた。
自分を好いていると感じるほど、梨乃は桃佳を弄びたくなった。もじもじしながら梨乃を見る桃佳に対して、梨乃はわざと気のある素振りをしてみたり、逆にクールな態度をとってみて桃佳をどぎまぎさせてみたりした。その様子を観察することが楽しかった。自分に対して従順な子がいるとはこんなに面白いものなのだ、と梨乃は知った。なるほど、青葉も少なからず自分に対してこんな気持ちを持っていたのだろうかとも思ったりした。
対照的に梨乃の家族は変身した梨乃に戸惑いを隠せなかった。母親はそれまで自分の言いつけを几帳面に守ってきた娘に対し、厚化粧に染髪・パーマに眉を顰め、嫌味を吐いてきた。梨乃はそれを無視した。嫂たちとその子どもどもは梨乃を見ると怯えたような表情を見せるようになった。目も合わせなくなり、明らかに嫌っていると態度で表すようになった。きれいになる努力もしていないくせに、お前たちなんて私より下だ。梨乃はいつも彼女たちの背中に無言でそう叫んだ。梨乃の前だと口をつぐむくせに、いつも階下では大騒ぎしている子ども達の声を聞くと、小憎らしいと梨乃は感じ、殺してしまいたくもなった。
メイクにも慣れてきて、きれいになる術を身に付けるほど、梨乃は自分の顔の造りが気になり出した。アイメイクをしている時、垂れ目を指で上げてみた。金髪に染め、巻き髪にしたヘアを手入れしていると鼻筋の太さが目に付き、つまんでスリムにしようと試みた。ルージュを引く際はおちょぼ口が気に入らず、リップを引っ張った。当然、そんなことをしても暖簾に腕押しなのだが。寝る前にメイクオフをしてしまうと更に自分の不細工な顔立ちに苛ついた。お多福のような容貌の上、最近は眉を剃りこんでしまっているため、化粧を落とすと完全に「麿(まろ)」と化してしまうのだ。
顔自体を代えなければ、私はブスなままだ。そう梨乃は信じて疑わなくなった。
そんな時であった。小百合から一通のメールが来た。ちょうど、梨乃が熊本に戻ってから半年ほど経った秋の夕暮のことであった。
梨乃が新人ナース時代に世話になっていた外科医の松本が病院を辞めたというのだ。そして松本は故郷である福岡で美容整形外科を開院したと。なんでも松本は大学病院の流れ作業的な医療サービスに飽き飽きし、真のホスピタリティを提供するために美容クリニックへと転向したのだという。が、それは建前であり、実際には金銭目的でその道に手を伸ばしたのだろうと囁かれていると小百合は締めくくっていた。
小百合への返信メールもそぞろに、梨乃は松本が開院したという美容整形外科についてインターネットで調べた。確かに福岡市内のビルの一室にそのクリニックはあった。院長である松本の写真がトップページにデカデカと掲げられ、「優しい院長は腕も一流!キレイになるならマツモトにお任せあり」と紹介されていた。
梨乃はメニューをまじまじと拝見した。二重術、目頭切開法、団子鼻解消法、フェイスライン矯正と自分の悩みがほぼ解決する手術が用意されていた。
もう、やってしまうしかない。新しい自分になって、今までのことを全部捨てるにはメイクでもダイエットでもファッションでも足りない。根本から問題を取り除くしかないんだ。ブスな自分にセイグッバイすれば私は徹底的に生まれ変われる。
梨乃は松本のクリニックの門戸を叩いた。松本も変わり果てた梨乃を見て驚いた。再会した当初は梨乃が誰だかわからなかったぐらいだ。それでも松本は梨乃に対して以前と変わらぬ態度で接してくれた。
鼻・目・骨格を手術を合わせて、二百万近くかかった。東京時代、地味にしていた梨乃は一千万以以上の貯蓄があったから余裕で支払える金額であった。
松本は梨乃に、理想とする整形後のイメージはあるかと尋ねた。最近は特定の芸能人の写真を持参し、「この人みたいにしてください」とお願いしてくる患者が多いためだ。梨乃はすかさずエリザベス・ブーリンにしたいと答えた。突如、外国人の名を口にしたため、松本は不意を突かれたような表情を見せたが、近ごろでは人種や性別を超えるような手術も可能だ、逃亡していたテロリストでそんな噂があったヤツもいたしな、と切り返してきた。その返答が気に入り、梨乃は松本の下で手術を決意した。
手術は目の二重及び切開から始まり、数回に分けて鼻とフェイスラインまで行うことになった。梨乃は手術をすることを桃佳だけに打ち明けた。節制した生活を送る桃佳ではあったが、やはり若いだけあり、梨乃の語る東京のことや、ファッションには興味を示していた。今回の整形騒動にもすぐに食いついてきた。エリザベス・ブーリンのように美しい梨乃になることに桃佳は自分のことのように期待した。
しかし、梨乃は桃佳にとって驚愕の宣言をした。ブーリンになったら、東京に戻るという計画を発表したのだ。桃佳は嘘であって欲しい事実であった。ブーリンになってキレイになることが梨乃の願いなら、それを叶えて欲しいと桃佳は思う。でも、大好きな梨乃が消えてしまうのは残念だった。
その気持ちを桃佳は心にしまった。口にしない方が梨乃を想う者にとって最善だと考えたからだ。
それでも尚、桃佳は梨乃に相容れないものを感じた。整形した後のプランが理解しがたかったからだ。梨乃はブーリンに整形して、青葉に逢いに行くというのだ。梨乃は、自分の正体を明かさずに青葉にブーリンの姿で現れたら、青葉は喜ぶに違いない、そう言い切っていた。そんなことしても何にもならないんじゃない、と梨乃と青葉の過去について漠然と話を聞かされていたさすがに桃佳は言いたくなった。
梨乃が手術を開始し、少しずつパーツを変えていく度に、桃佳はただ祈った。教会で、キリストの十字架を前に跪き、両手を合わせ「アーメン」と呟いた。神よ、救いたまえ、という祈りを込めて。
桃佳の祈りが実ったのか、梨乃の手術は順調に進行した。目は大きくつぶらな瞳へ、鼻は細く通ったものへと変貌した。最後のフェイスラインも松本の腕が立ち、無事成功を収めた。
ノーメークでいてもブーリンそのものであったが、メイクをすればまさに本人にしか見えないぐらいになった。彫りの浅さと肌の黄味からようやく東洋人とわかるほどだ。二十数年つきあった醜い自分がこんなに生まれ変われるなんて。梨乃は自分の顔を何度も鏡に映してはうっとりした。
家族には黙って手術を受けていた。いつも医療用の大きなマスクをつけ、グッチのサングラスをかけ、顔を隠した。なるべく誰とも会わないように出勤・帰宅時間を選び、自室のある階上へ昇降するための足音を殺した。
整形が終わり、いよいよ東京に飛び立つ準備も整えた。家には黙って去るつもりでいた。失踪ということにしようと考えている。母は警察に届けてしまうかもしれないが、別に構わなかった。公開捜査されても、自分のなりでは捕えることなど不可能に等しいからだ。松本か桃佳が裏切らない限り。二人の気性を考える限り、それはあり得なかった。
職場へは休職願いを出した。理由は述べず、ただ少し休みますとだけ伝えた。形骸的に看護師という身分を置いているに過ぎない施設であるため、文句も言わずに受理してくれた。
桃佳はやはり別れを惜しんだ。行ってしまうのね、と涙を流した。自分のために泣いて悲しんでくれる桃佳が愛おしいと梨乃は思った。反面、泣かせている自分に快感でもあった。
梅雨のぐずついた鼠色の空の下、梨乃は羽田空港に降り立った。約一年ぶりの上京であった。マスクで顔を覆っているにも関わらず、排ガスが鼻についた。看護学生になるために初めて上京した時以来の敏感さであった。一年のブランクを肌で実感した。
羽田からお台場を経由して都心に向かう途中、東京に帰ってきたという興奮で梨乃の胸は高鳴った。この姿になってから熊本では職場と家の往復で、しかも早朝と夜に自家用車で移動していた。昼間に堂々と人目に触れるのはブーリンになってから今日が初めてなのだ。飛行機では出張帰りと思われるスーツ姿の男性が梨乃を凝視していた。羽田からのモノレールでも心なしか注目を浴びていた。現在はストレートロングにしている金髪を掻き揚げながら思わせぶりな流し目をしてみたりと、調子に乗っていろいろ試してみた。オヤジから子どもまでみんながそれとなく梨乃を見ていた。それが鳥肌が立ちそうなくらい気持ちがよかった。
梨乃はあらかじめ計画を立てていた。
しばらく都内のホテルに滞在し、看護師の求人を探すつもりでいた。かなりハードに整形してしまったため、数年置きに顔のメンテナンスをしなくてはならない。それには結構な金額が生涯に渡ってかかる。高給な美容整形クリニックでの看護師の口を見つけなくてはと梨乃は考えていた。見つかったら、アパートを借り、熊本には退職届を出そうと思っていた。
そして肝心の目的である、青葉に逢いに行くことについては、明日にでも早速行う予定であった。
小百合に事前に連絡を取っていた梨乃はそれとなく青葉が今どうしているのか聞き出していた。人のいい小百合は普通に返信してきた。それによると、青葉は聖城医科大学付属病院を去年の年末に辞め、すでに別な病院に転職したということだ。個人経営の内科クリニックという話だった。夜勤がないところを希望していたらしい。 そして、梨乃が去る前に宣言していた通り、青葉は茉莉と東急田園都市線沿線の横浜市内で同棲を始めていた。さすがに小百合は詳細まではわかりかねたが、それも梨乃は難なくクリアした。茉莉が開設しているブログを見つけ、そこには無防備にも引っ越しのこと、また新居の最寄駅名まで公開されていたからだ。時折、アップされている近隣の写真などとグーグルのストリートビューを照らし合わせ、大体の位置は把握できた。あとは現地に向かうのみであった。
朝、通勤のために家を出てきた青葉の前に髪を耳にかけながら、何気なく現れるつもりでいた。太陽のまぶしさを気に掛けるふりをしながらサングラスに手をかける。その時そっと青葉に目をやりながら、ブーリンアイをのぞかせる、というシナリオを梨乃は何度も頭の中でシュミレーションした。
きっと青葉はくらいつくはずだ。声をかけてくるだろう。日本語だろうか、それとも英語で話しかけてくるだろうか。どちらでも構わなかった。
ブーリン本人のふりをするつもりはなかった。大宮アンナという源氏名を名乗る予定だ。アメリカ人の父と日本人の母を持つハーフの女性。両親は離婚し、現在は母と二人暮らし。家計を支えるために看護師をしていると。
虚構でもいいから、青葉に喜んで欲しかった。日に日にその想いは増した。アンナは青葉と友達になって、青葉と楽しい日常を送るのだ。別に茉莉から青葉を奪うつもりはなかった。友達で構わない。青葉が自分に対して好意的でいてくれればそれでいいのだ。
東京に着いた翌日に作戦を実行するつもりであったが、さすがに土地勘のない場所でいきなり青葉と茉莉の愛の巣を発見することはできなかった。二人の住居を見つけるのに丸々一日かかった。ブログにアップされたのと同じ、白い壁で造られたヨーロピアン風のお洒落なアパートであった。ちょうどアパートが見える位置にある公園にて張り込みをし、青葉がそこに住んでいることを確認した。この計画を実行したのが夏であって幸いだった。
久々に見る青葉は細いジーンズにラメ入りのTシャツを身に付けていた。相変わらず抜群のスタイルを保っていた。背筋をシャンと伸ばして歩くその姿は以前より自信に満ちているように見えた。公私ともに充実している様が窺がえた。
もうすぐ私がもっと幸せにしてあげる。あなたの本当に愛する女性(ひと)が手の届くところに来るのよ。こんな奇跡ってないでしょ。そして私は愛してあげる。少女時代から憧れのブーリンから愛されるのよ。青ちゃんの夢が叶うの。
青葉の背を見ながら、梨乃は早くも無言で茉莉に対して宣戦布告をしたのだった。
決行の朝、梨乃はジバンシーの黒いパンツと、オフショルダーの幾何学模様が入ったカットソーを身に纏い、シャネルマークの黒いピアスをつけ、顔面には例の如くグッチのサングラスをかけた。伸ばした金髪のロングヘアは結ばずに垂らした。昨晩、念入りにシャンプーをしたため、ほのかにローズの香りがする。メークもばっちりした。ダークブルーのアイシャドウを瞼に入れ、濃い漆黒のアイラインを引いた。リップには真紅のルージュを入れ、口角をきれいに整えた。
完璧。絶対にばれない。
大谷梨乃なんてこの世に存在しないんだ。私は今、この瞬間から大宮アンナに生まれ変わったんだ。青ちゃんに愛してもらえる大宮アンナに。
午前七時半、白塗りの扉が開いた。色の薄いジーンズを穿いた青葉がグレーのリュクサックを背負い表に出てきた。梨乃にも見覚えのある鞄だ。ルームメイト時代から使っていた、青葉のお気に入りのスポーツメーカー製のリュックだ。
あとから忌まわしい黒髪の女が続いた。電柱の陰から様子を覗いていた梨乃は固唾を呑んだ。茉莉だった。まだ櫛を通していないのか、その髪はゴワつきがひどかった。ネグリジェのようなサテン地のワンピースを着ていた。中衣にスリットが入っていたため、隙間から脚がのぞき、やけになまめかしかった。この時間でも着替えもしていないとは、今日は非番なのか夜勤なのかであろう。遠目であったが、まだ身支度を整えていない茉莉は少し老けたようであった。自慢の白肌にどんよりとしたくすみが現れているのが見て取れた。小百合によると茉莉はまだ聖城医科大学の循環器科で働いているらしい。夜勤のきつい病院であったから、さすがの茉莉も年齢に勝てなくなったということか。梨乃は鼻で嗤いたくなった。
まもなく、青葉は「行ってきます」と茉莉に言うのが聞こえた。腰を屈めていた梨乃は背中を伸ばした。茉莉は青葉にキスをした。そして「いってらっしゃい」と手を振りながらドアを閉めた。
二人が一緒に出勤しなくてよかったと梨乃は思った。もしそうであれば、また出直さなくてはならなからだ。
青葉が最寄りの駅に向かって歩き出した。梨乃は茉莉が部屋のドアを閉め、完全に室内に入ったのを確認し、電柱から離れた。
青葉はいつもと同じように出勤するために駅へと急いでいる。その背後を梨乃はぴたりと追った。
下り坂にさしかかる少し手前で、梨乃はピンヒールの靴をカツカツと鳴らしながら青葉の左前に出た。右手で髪を振り上げ、右斜め後ろに顔を傾けた。そしてまた右手でサングラスを直すふりをして、瞳を露わにした。
一瞬ではあったが、青葉があっと言う形に口を開けているのが見えた。梨乃は振り返らずにそのまま歩を進めた。数秒後、背中に人の手が触れるのを感じ、ニヤリとした。
エリザベス・ブーリン
平凡なんてない。ステレオタイプなんてもってのほか。そんな概念が閉塞感のある社会を生み出すんだ。意地とプライドの張り合いばかりしている毎日を、おかしいと言いたいから、文字に込めてみた。読んでくれた方々に伝わっていたら嬉しい。