帰り道
何となく、一人で帰るのが嫌だと思っていた仕事の帰り道。一緒に帰ろうと思う人も居ない。
電車に乗ってさっさと帰るのも嫌で、歩いて帰る自分の手足と頰に、冷たい風がビルの隙間から吹く。特別嫌なことがあったわけでもなく、ただ一人で居るのがその日は嫌だった。でも、近くにいるであろう誰かを呼び出すほどの気力はなかった。
こういう時、自分は損な性格だと思う。極力周りとの関わりを避けて日々を過ごすせいか、簡単に呼び出せる同僚なんてものはできなかったし、心を許している友人には何となく悪いと思ってしまう。
そんなことを考えながら会社の近くをふらふらを歩く私に、朗報が入る。一瞬だけなった携帯の画面を見ると、数秒の不在着信。少しの間自分の脳内に疑問符を浮かべ、画面を見直す。着信とは別にメッセージが届いている。
「いま、どこに居ますか?一緒に帰りませんか?」
私が今、一番欲しかった言葉だった。頻繁に会話をする方でも、呑みに行く様な仲でもない先輩からのメッセージ。何だか少し顔がほころんだ。特別仲が良いわけでもない人からのメッセージに対し、困らなかったのには理由があった。単純に好きとかそう言うわけでもなく、尊敬する人だったから。
メッセージに返信するより早く、私は先輩に向けて電話をした。
「どこに居ますか?戻ります!」
そう言った私に少し気圧された様に間を開けて返事をした。
「後ろ。」
遠目で手を大きく振る先輩を見て、小走りで駆け寄った。寒さで少し赤くなった私の耳を見て、帰り際に通るコーヒーショップに寄って話しながら帰ろうと言う先輩にはい、と返事をした。ロッカールームで見たのに、降りた時にはもう姿が見えなかったこと、突然呼び出したことを悪かったと言う先輩と、そんなことないと返事をする私。コーヒーショップに着くまでの間、すいません、と何度言い合っていたかわからない。この人といると、何だかよくわからない感情が生まれる。人との関わりを避ける私に対し、それでも関わってくれる。自分が自分で居ることを一切否定をしない、心地のいい人だった。
「いつも何飲みますか?」
混雑していない店内で、店員さんの前でメニューを覗き込む先輩に聞かれ、いつも頼むものを指差して説明する。甘いものが好きと言う意外な一面を披露した後に、じゃあ同じもので。と店員さんに伝えた後、財布から二人ぶんのお金を出そうとする先輩を抑止しようとすると、逆に言い返す。
「誘ったのは僕です。もう少し話をしたいので、時間を買われた分だと思って。」
そう言って、店員さんに笑顔でお金を渡す。どうしてこの人は、こんなにもスマートなんだろうか。同年代の人にも、年上の人にもこんなにも柔らかく、恥ずかしげもなく自分の気持ちを伝える人は私の周りにいなかった。その気持ちから、背いて来た私のせいもあるんだろうけど。ただ、この人はガチガチに固まった私の意識に、何の工夫もせずに入り込んでくる。そこがこの人を尊敬する一番の部分だった。誰にでも好かれ、誰にでも分け隔てなく接する。私が一番苦手にすることを軽やかにこなす人だった。
「寒くないです?外で話しましょうか。」
少し離れた席で出来上がりを待っていた先輩を置いて、コーヒーを取りに行った私に店員さんが言った、素敵な彼氏さんですね。と言う一言が、私の頰と気持ちを高揚させた。店員さんの微笑ましい笑顔を背後で感じるのも、正面に座る素敵な人を直面することもできなかった私は、二つ返事で店を後にした。店から少し離れたベンチに隣同士で座り、互いの煙草に火をつけ、煙を吐き出す。仕事のことではなく、自分たちのことばかり話して、コーヒーを飲み干し、手持ちの煙草がなくなった。コーヒーで温まった掌もすっかり冷たくなった頃、立ち上がって私の手を引きながら放たれた一言に、私は一瞬固まった。
「抱きしめてもいいですか?」
当然酔っているわけでも何でもない目の前にいる尊敬する人から放たれた一言に、処理する脳が追いつかなかった。どうすることもできない自分が情けなくなり、うつむいた私を抱きしめた。肯定になったのかとか、何で私なのかとか、いろんな思いが脳内を駆け巡る中、近くに来ないとわからない程度につけられた爽やかな香水で我に帰る。何だか泣きそうになる私に、顔を合わせないまま口を開いた。
「いつも頑張りすぎなんですよね。もうちょっと僕に頼って欲しいんですけど。」
そう行って肩に置かれていた手を頭に置いて、優しく触れる掌に胸が苦しくなった。何でこの状況なのかもわからない私は、顔を上げてやっとの思いで言葉を絞り出す。
「なんか、狡いです。」
呆気にとられた様な顔で私の顔を見て、笑い出す先輩に驚く。ごめんごめん、と言って離れた後、私の手を掴んで歩き出す。びっくりしたか、とか、もう少し時間かけた方が良かったですか。とか、半分敬語をやめていろんなことを話す先輩に、反撃をする。
「意識、します。」
その一言を聞いた先輩は微笑み、そうしてください。とまた敬語で返事をした。掴み所のない人を目の前にして、一人落ち着かない自分に少しの苛立ちを覚えながら、それでも心地のいいことに変わりはなかった。
それから、私は一人で帰ることがなくなった。待ちあわせて、時には互いを待って、帰る様になった。コーヒーショップで熱いコーヒーを買って、寒空の下で互いのことばかり話す。以前と違うのは、”何となく”寂しい日はなくなったこと。コーヒーショップを出た後は、手を繋いで歩くこと。
まだまだ精一杯な私を、まるで子供の成長を見守るみたいに眺める先輩に、いつか仕返しをしてやるんだと、心に誓った。
帰り道
本当は、きっとお互いが大好きすぎて仕方ない理性的なふたりのお話。