無垢な季節
ふわり、と香る、君の残り香とあの声が僕を夢の中へと引き戻す。
「あのキスはなんだったの?」
一度限りの、うたかたの夢。
「ねぇ、パパ。パパの恋のお話をして?」
「ママとのことかな?」
「違うよ、信ちゃんが言ってたの。大人の男の人には忘れられない恋があるって。」
「幼稚園の子かな?おませさんだね。忘れられない恋か、あるかなぁ。」
「パパはママ以外と恋をしなかったの?」
「さぁ、どうでしょう。」
小さな娘に小さな嘘を一つ。
僕の手を引く小さな娘に、まだこの話は早いとつむじを見つめながら考える。
忘れられない恋ならある。
あのユリの香りと彼女の吐息。
「ねぇ、教えてよ!」
「君が大きくなったら、その髪の毛から香る香りの話をしてあげる。」
「ママとの話?」
「どうして?」
「私とママは同じシャンプーだから香りが一緒だもの!」
「…かもしれないね。ほら、もう寝る時間だろう?ゆっくりおやすみ。」
「はーい。」
寝室から出て行く小さな娘に手を振った。
「有里華、寝に行った?」
「行ったよ。和葉はまだ寝ないの?」
「もう少しだけ、パソコン触ったら寝るよ。」
街で香ったユリの香りに振り向いた先に居たのは君ではなく、僕の妻だった。
僕が覚えているのは、同じ香りだけど違う、君の髪の先から香る甘いユリの香り。
「どうしてキスしたの?」
「…なんとなく?」
「そういうことしちゃダメだってば。」
いつだって他の誰かのものの君は、そうだからこそ美しかったのかもしれない。
触れたあの時もそうだった。
「彼氏さんに、怒られるよ?」
「もう別れているようなものだもの。」
「いつもそうやっていうくせに別れないくせに。」
「だって…ねぇ?」
結局あのひどい彼氏のこと、君は好きなんでしょう?なんて聞けるわけもない僕に、体重を預ける君が天才的に可愛くて。
あれから、一度も帰ってこないラインを僕だけ何度も見返して。
僕は、君以外の人と結婚した。
「どんなことがあったとしてもあなたは私が好きなんでしょう?」
なんて、嗤ってくれたらこの思いも静まるだろうか。
なんて、ぼーっとしていた僕に寝室の妻が話しかける。
「ねぇ、涼。あなたの同級生の小百合さん、結婚したそうよ?」
「え?」
「ほら、夏美さんがフェイスブック更新してる。随分顔が若いのね。」
「見せて。」
写真の向こうで笑顔で微笑む君は相変わらずの姿でフラッシュバックを起こさせる。
お風呂に入ったばかりの妻の髪から、あのユリの香りがする。
「良いわねぇ、幸せそうで。Have you been happy?I had been the happiest ever.ですって。」
「君は幸せでしたか?か。」
僕は、この思いもこの思い出も過去にしなきゃいけないらしい。
「… 」
「なんて?」
「なんでもないよ。」
僕は君と同じ香りの和葉を抱きしめる。
甘い甘いあのユリの香りを。
無垢な季節
あなたの答えを聞かせてよ。