ボタン
もう、死にたい――。
この冬、一番の寒さとなった東京の街を俺は身体をすぼめ、うつむきながら何の目的もなくただ歩いていた。流行おくれのダウンジャケットと薄汚れて、よれよれになったスニーカー、毛玉だらけのニット帽。絵に描いたような、しょぼくれた中年おやじ。傍からはそう見えるだろう。
何もかもうまくいかない。俺は自分の人生に絶望していた。
四十二歳。フリーター。独身。つい先月、不況のあおりを受けて会社をリストラされたばかり。こんな情けない男になってしまったのは世間のせいでも神様のせいでもない。不甲斐ない自分の生き方のせいなのだ。俺は充分にそれを自覚していた。
それでも、俺は四十二年の今までの人生を無気力に過ごしてきたわけではなかった。自分なりに精一杯の努力をして生きてきたつもりだった。
ただ、間の悪さ、要領の悪さ、運の悪さとここぞという時のひと踏ん張りができなかったのが今の惨めな状況を作ってしまったのだ。
疎外感が心だけではなく全身を蝕んでいた。自分には社会的価値も人間的価値も全くない。俺がこの世からいなくなっても、何も変わらない。その思いが頭の中と心の中を占拠していた。
「何かお悩みのようですね」
うつむきながら歩いていた俺の耳に突然その声は聞こえてきた。
なんだか聞き覚えのあるような声だが、その顔を見ると全く知らない人間だった
「どなたですか?」
「だれでもいいじゃありませんか。いや、あなたがかなり思いつめた表情で歩いていらしたのでね。つい声をかけてしまいました」
黒のスーツに黒のネクタイ、小太りで色白の男。なんだ、コイツ?マンガに出てくる奴みたいだな……。
「私の後をついてきていただけますか。あなたの望みを叶えることができる場所へご案内いたしますよ」
もちろん怪しいとは思ったが、なぜかその男の言葉に惹かれて俺は後をついて行ってしまった。
繁華街を抜け、古びたビルの前でその男は立ち止った。その時、妙な視線を感じて道路の反対側に目をやった。すると、空き地の前にラーメンの屋台がでており、おやじが麺を茹でながら、こちらを見ている。不気味に思っているところに、あの男の声が耳に飛び込んでくる。
「さあ、着きましたよ。ここの二階です」
そこは真っ白い壁、真っ白な床。広さ二十畳ほどでなにもない無機質で空気が冷たく不気味なまでに静まり返った部屋だった。
後方には壁一面にはめこまれた大きなガラス窓。その向こうにはどうやら何人かの人がいるようだ。
それは俺が知っている人間だった。田舎で一人暮らしをしている母親。三十五年の付き合いの友人である武。そして、五年間付き合って同棲している恋人の由紀子。
母親の顔を見るのは五年ぶりだ。父親の葬式で実家に帰って以来、しばらく連絡を取っていなかった。心配をかけてはいけないと、自分の今の状況を知らせることもできなかった。
変わりなく正社員で立派に働いていると母親は思っているだろう。リストラされて、四十代でフリーターだなんて言えるはずもなかった。
携帯の留守電に入っているメッセージを一方的に聞くだけで息子である自分の声を聞かせてやることもしていなかった。それこそが母親に心配をかけているじゃないかと自覚もしていた。
武とは三ヶ月前に久しぶりに電話で話しをした。実家の電気屋をついで、嫁さんをもらうことになったと、再来月に結婚式をするから待っているぞと幸せそうな声で話していた。
もちろん行くよ。と返事をしたがご祝儀を出す余裕もないし、なによりこんな自分だ。あわせる顔がない。
由紀子とはついさっき、別れ話をしたばかりだった。どうしようもない俺をずっと励まし支えてくれた由紀子。
由紀子の為にも何とか頑張って人生を成功させるんだと思っていたが、どうにもうだつが上がらず、このままでは不幸にしてしまうと思い、自分から別れを告げたのだった。
今の俺に女性と付き合う資格なんてない。
しかしなぜこんな場所に彼らがいるのだろう?
俺がこの部屋に来るなんて知らないはず。俺に声をかけてきたこの男が仕組んだのだろうか?
訳もわからないまま、部屋をよく見渡すとガラスとは反対側の壁に一つのボタンと二行ほどの文章が書かれていた。
”このボタンを押せばあなたはまったく苦しまずに今すぐ死ぬことができる”
”どうしますか?ボタンを押しますか?”
「本当ですよ。あの壁に書かれている言葉は」
俺をここに連れてきた男がニヤニヤしながら話しかけてきた。
「あなたの望みが叶うんですよ。」
にわかには信じられなかったが、壁に書いてある文章の通りになったなら幸せだろう。楽になるだろう。そう思った。
俺は今までに起こった様々な出来事を思い出していた。辛いこと。苦しいこと。ささやかではあるが幸せであると感じたこと。
迷っていた。そのボタンを押そうか押すまいか。
しかし……、俺が死んだら母親はどれだけ悲しむだろうか……。夫を亡くし、一人っ子の息子までも先にあの世に逝き……、残される母親のことを思うと胸が痛くなった。
結婚が決まって、やっと幸せをつかんだ友人の武にも、水を差してしまうようで迷惑をかけてしまうだろう。
そして、恋人の由紀子……。彼女はもしかしたらまだ、俺のことを思ってくれているかもしれない。本当は別れたくなどなかったのだけど、不甲斐ない俺を励ましてくれた笑顔が、それに応えられない自分が情けなくて、由紀子と顔を合わせるのが苦痛になってしまったのだ。
こんな自分にも関わってくれる人間がいる。どんなに辛くても、やはり死ぬべきではない――。
うっ、ううーっ。思いとどまろうとしたその時、また違う感情が心の底から湧きあがってきた。天使が心の外に押し出そうとした膿を悪魔が引き戻してしまったようだった。
でも……、でも……、生きているのが辛い。楽しいことなんて何もない。充実感を得ることなんて何もない。俺は、俺はもう無理なんだ。
次の瞬間、電車が鳴らす警笛のような大きな音が建物内に響き渡った。
俺は――。
そのボタンを――。
押したのだ。
しかし、自分の身には何も起きない。なんだ、何も起きないじゃないか。その時、後方で何か物音がした。人が倒れるような音。振り向くと、母親と武と由紀子が倒れていた。
「なぜだ! 俺が死ぬんじゃないのか! おい、どういうことなんだ!」
俺をここに連れてきた男を捜すがいつの間にか姿が消えていた。
「ひどいじゃないか……。死にたいのは俺なんだ。あいつらは死にたいだなんて思っていない。これじゃあ、俺が殺したみたいじゃないか」
このボタンを押したせいで――。
俺はもう一度壁にあるボタンを見た。すると、ボタンの上に書いてあった文章の内容が変わっている。
”このボタンを押せばあなたの大事な人を助けることができる”
”しかし、あなたは二度と自分で死を選ぶことはできない”
”どうしますか?ボタンを押しますか?”
「本当ですよ。あの壁に書かれている言葉は」
いつの間にかあの男がさっきと同じ笑みを浮かべて話しかけてきた。
「初めに書かれていた文章は嘘だったじゃないか!」
俺は男の胸ぐらを掴み、涙を飛ばしながら叫んだ。
「でも、あなたの大事な人を救うためには押すしかないんじゃありませんか?あのボタンを。ただ、この先あなたがどんなに辛い人生を送ったとしてもあそこに書いてある通り、自分で死ぬことはできなくなりますけどね」
迷いはなかった。
次の瞬間、またも電車が鳴らす警笛のような大きな音が建物内に響き渡った。
俺は意識を失いその場に倒れこんだ。
冷たい水滴が右手の甲を突き刺した。俺はびくっとして意識を取り戻した。誰も居ない公園のベンチで眠っていたようだ。なんでこんな所にいるのだろう?さっきの出来事はなんだったんだ!みんなはどうなった!あの男はどこにいる!周りを見渡してもそこには誰もいなかった。
とりあえず、母親に電話をかけてみよう。ポケットから携帯を取り出し開くと留守電のメッセージが三件入っている。すぐにメッセージを再生した。
「母です。変わりはないかい? 昨日、あなたが自殺する夢を見てしまってね。不安でいてもたってもいられなくなって電話してしまったの。何か困ったことがあったら、相談してね。そうじゃなくても声だけでも聞きたいからお願いだから連絡をください」
一件目は母からだった。十分前に残されたメッセージだった。良かった母親は無事だったんだ。
二件目は武から、同じような内容のメッセージだった。そして最後に入っていた三件目のメッセージを聞こうとしたその時だった。
目の前に今にも泣き出しそうに眼に涙を浮かべた由紀子が立っていた。
「健ちゃん……、もう五年も付き合っているんだから、健ちゃんのことはよくわかってる。要領が悪くて、曲がったことが嫌いで、仕事がうまくいかなかったよね。でも何時でも一生懸命で優しくて、私のことを思って頑張ってくれていた。そんな健ちゃんを見て、私も頑張ろうって思えた。だから、私は健ちゃんと一緒にいたい。別れるのを考え直してもらえないかな……」
俺は立ち上がり、由紀子の体をぎゅっと抱きしめた。涙が自然とこぼれ落ちた。
「濡れたら、風邪ひいちゃうよ。帰ろう」
そう言って、由紀子は付き合い始めたときからずっと、失くしもせず、壊しもせずに二人で使っている大きな赤い傘をさした。
家へ帰ろうと公園を出ようとした時、ふと公園の向かい側を見ると、見たことのあるおやじが屋台でラーメンを出しているところだった。はっとして、まだ聞いていなかった三件目の留守電のメッセージを聞いてみる。
「いやあ、お元気ですか」
あの男の声だった。
「あなたが死ぬことはあなたの母親にとっても友人にとっても恋人にとっても、自分が死ぬのと同じくらいショックな出来事なのではないですか?あの時、あなたが最初にボタンを押した時に彼らが倒れたのはそういうことです」
三件目のメッセージの声は死んだ父親の声にそっくりだった――。
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