わんす あぽん あ たいむ。

 むかしむかし、ある村に、晋太郎というとても腕のいい鍛冶師がおりました。
 ある日、晋太郎は山に出かけました。すると、山の中腹に大きな池があり、その中ほどに見事なハスの花がひとつだけ咲いています。
(なんて美しい花だろう。これを摘んで帰れば、おっかさん、きっと喜ぶにちがいない)
 晋太郎は池の土手を下りていきました。
 池の辺に生えている蔓草を掴み、ハスの花に手を伸ばしましたが、届きそうで届きません。晋太郎は花を採りたい一心で、水の上に身を乗り出しました。ようやく花に手が届いたものの、今度は手折ることができません。
 そこで、もう少し、と乗り出した途端、ドブン、池の中に落ちてしまいました。池の水が波打ち、ハスの花もゆらりと揺れていますが、晋太郎の姿はどこにもありません。
 晋太郎は溺れてしまったのでしょうか。
 さて、晋太郎が落ちた池には、娘の河童が一匹住んでおりました。娘はずっとひとりで池の底で暮らしていました。でも、寂しいと思ったことはありません。なぜなら、娘はあまりにも長い間ひとりだったので、それを当たり前のことだと思っていたからです。
 ちょうど晋太郎が池に下りてきたとき、娘は頭の皿の日光浴をしていました。晋太郎が美しいので手折りたいと思ったハスの花は、娘の皿から生えていた花だったのです。暖かな太陽の光を皿に浴びていた娘は、何かが近づいてくる気配を感じ、そっと水面を見やりました。すると、どうでしょう。何やら分からぬ得体の知れない生き物が、自分の頭の花に手を伸ばそうとしているではありませんか。
 あまりにも突然の出来事に、言葉を失った娘は何もできず、じっとその生き物を見ていると、生き物は水の上に身を乗り出し、ようやっと娘の花に触れました。
 ぞくり。何だか気持ちのいいような、悪いような、不思議な感覚が娘の背中に走りました。次に、その生き物は、懸命に自分の頭の花を手折ろうとします。が、なかなか手折ることができません。そのうちに、あまりにも身を乗り出しすぎた生き物は、大きな音をたてて、池の中に落ちてしまいました。
 びっくりしたのは、娘の河童です。自分の花を手折ろうとして、見たこともない大きな生き物が目の前に落ちてきたのですから。生き物は、ぐるりと水の中を旋回すると、その顔をゆっくりと娘の方へ向けました。
 どきり。
 娘の胸が高鳴りました。生き物は、とても美しい顔をしていました。が、次の瞬間、その顔が苦痛に歪むのが、娘には分かりました。この生き物は、水の中では生きることができないのかもしれません。その美しい顔が、壊れてしまうのが怖くなった娘は、深く暗い水底に沈んでいこうとする生き物の身体を抱きかかえると、急いで水面へと上がっていきました。娘は懇親の力で、池の淵まで生き物の身体を引きずり上げました。美しい顔は青白く染まっています。娘は、その口元に耳を近づけました。息をしていません。
 娘は、生き物の胸の部分を強く押しました。何度も何度も、繰り返し押しました。娘が、もうこれ以上押しても無理か、と諦めかけたとき、ようやく生き物は水を吐き出しました。それから、生き物は目を開けると、大きく咳き込みました。息もしているようです。
 生き物の青白かった顔に徐々に赤味が戻るのを、娘は嬉しい気持ちで見ていました。生き物も、身体の中に入っていた水をすべて吐き出すと、娘の顔を見ました。
「お前が、おいらを助けてくれたのかい?」
 娘は、頷きました。生き物が何を言っているのかは分かりませんでしたが、自分に敵意や悪意を持っていないことは分かりました。
 太陽の光の下であらためて見た生き物は、やはり美しく眩しく見えました。娘は、ずっとこの生き物と一緒にいたいと思いました。
「ありがとな。おいらの名前は晋太郎だ」
 シンタロウ。それがこの生き物の名前のようです。
「で、お前さんは?」
 娘は、なぜか名前を聞かれたのだと分かったので、晋太郎の真似をし、口を開きました。
「レンゲ」
 それは、頭の皿に咲いている花、ハスを指す名前でした。娘が皿を日光浴しているとき、水面の向こうから「綺麗なレンゲやなぁ」という声を、何度も聞いていたのです。そして、娘は、それがどうしてか自分の名前のような気がしていました。
「そうか、レンゲか。綺麗な名前や」
 晋太郎は、レンゲに手を差し出しました。
 それが、すべての始まりでした。

「というのが、我が家のルーツです」
 池辺先輩は、そう言うと、真面目な顔で話を終え、手元のお茶をずずず、と飲み干した。
「……はあ、河童、ですか」
 先輩が単なる民話を話しているのだと思い、のんびりと聞いていた私は、その突拍子もない締めの言葉に動揺を隠せなかった。これを面白いジョークだと思って、笑い飛ばせばいいのか。それとも先輩への認識を「優しい図書委員長」から「危険な人」だと改めて、今後一切の関わりを持たないように、ここは大人な対応で軽く受け流すのか。
 いくら考えても、当然、すぐに結論は出ない。仕方ないので、とりあえず心を落ち着かせるため、湯飲みのお茶を一口飲もうとして、
「だから、僕と付き合うならば、天華くんも覚悟を決めて河童一族の仲間入りをしなければならないんです」
先輩が続けて言った言葉を聞き、思いっきり噴き出した。
 このペースに引きずられてはいけない。あくまでも冷静に。自分にそう言い聞かせながら、濡れた口元をぐいっとハンカチで拭うと、私は居住まいを正し、先輩に向き直る。
「それは、どういう意味ですか?」
 もしかしたら私の聞き間違いかもしれない。
「だから、君も河童一族としてですね」
「って、どうしてそこで私と先輩が付き合うとかいう話になるんですかっ!」
 思わず声が大きくなる。ああ、この先輩相手に、冷静に、なんて土台無理な話だ。
「僕が君のことを好きだからですよ」
 何をいまさら当然のことを。そういった風情で、にこり。先輩は私が目を逸らしたくなるほどに眩しい笑顔で答えた。そのあまりの屈託のなさに、こちらが赤面してしまう。
「あの、だから、それは、どういう」
「君も僕のこと嫌いじゃないでしょう?」
 確かに嫌いではないけれど。でも、嫌いじゃないイコール好きという方程式は、この場合、成り立たないように思うんだけど。
「というわけでよろしく、天華くん」
 先輩は右手を広げ、私の方に差し出した。

「で、そのかなり痛い感じの匂いがする池辺先輩と付き合うことになったというわけか」
 先輩から衝撃の告白を受けた次の日の放課後。私は、友人の眞子に昨日の出来事を話した。所詮、眞子に話したところで、何がどう解決するとも思わなかったが、とにかく自分の心の内だけに留めておくに、アレはかなりのインパクトだったのだ。ただ、とりあえず先輩の名誉のため、一応の弁明はしておこう。
「確かに池辺先輩は、ちょっと変わってるけど、それほど痛い人じゃないし。付き合うといっても、一緒に帰ったりするだけだよ」
「君々、それを世間の人々は付き合っているというのだよ」
 私の鼻先で人差し指を左右に振りながら、眞子は言った。
「それにしても先輩は本当に河童なのかね」
 腕を組み、眞子は探偵さながら首を傾げた。
「河童なんているわけないよ」
「でも、先輩はそんな冗談を言うようなタイプではない」
「まあ、そうだけど」
「で、証拠は見せてもらったの?先輩が河童だっていう、しょ・う・こ」
 いちいち言葉を区切りながら迫ってくるのが甚だ鬱陶しい。私は眉根に皺を寄せながら、
「まさか」
と、呟いた。
 途端、眞子の大ブーイング。クラスメイトの視線が私たちに突き刺さる。私にしてみれば、先輩よりも眞子の方がよっぽど痛々しい。
「だって、何を聞けばいいの」
「例えば、頭の皿を見せろとか、背中の甲羅を見せろとか」
「そんなもんあるわけないでしょ」
「それもそうか。もしあったら、池辺先輩、人気者だよねぇ」
 ふむふむ、とひとりで勝手に納得している眞子を横目に、私は内心ドキドキしていた。実は、先輩が河童であるかもしれない証拠を、私は見てしまったのだ。
 衝撃の告白の後、差し出された先輩の右手に、その証拠はあった。
 指と指の間に薄い半透明の水かき。それは、そこにあって当然と言わんばかりに、堂々と鎮座していた。たぶん蛙ほどに立派ではないけれど、これがあるから河童なんだと主張されれば、「はい、そうですか」と納得出来得るほどには立派に見えた。そして、それは何よりも先輩の細く長い指に、よく似合っている。私は、そのあまりの美しさに、穴があくほど先輩の手を凝視した。自分でも、こんなに手フェチだったのかと驚いたほどだ。それほどまでに、先輩の水かきは美しかった。
 そんな私の視線に気づいたのか、先輩は怪訝な顔をしながら、
「天華くん?」
と、私の顔を覗き込む。私は動揺を隠しつつ、慌てて視線を逸らした。
 それから、再び、先輩は、
「よろしく」
と、言った。そして、私は、吸い込まれるかのように、その先輩の美しい手を柔らかく握り返してしまったのである。それは、先輩の告白への肯定の意を表していた。
 先輩の正体を、ああでもない、こうでもない、と私の横で右往左往しながら思案している眞子を尻目に、私は深い溜息をついた。
 どうして、あの時、先輩の手を握り返してしまったのか。自分でも、何を今さら、とは思うが、いくら先輩の手の美しさに惑わされたとはいえ、あまりにも軽率ではなかったか。やはり、魔に魅入られたとしか思えない。
「本当に?いいんですか?」
 自分で強引に持ち込んだシチュエーションなのに、喜びで大きく見開かれた先輩の瞳。若干上がった口角。微妙なガッツポーズ。
 あの後の先輩の微妙なテンションの上がり方を思うと、どうにも早まったような気がしてならなかった。
 今日は部活が終わった後、図書館で業務をこなしている先輩を迎えに行って、一緒に帰る予定だ。付き合ってみよう、ということにはなったが、一体何をどうすればいいというのだろう。哀しいかな、お互いそういった経験が少ないので、いまいちよく分からない。
 ただ、「うちに遊びにでも来ますか?」と言われたのは、流石に丁重にお断りをした。何だかこのままだと、家に遊びに行ったが最後、気がついたら婚約とか結婚とかいう話になってしまいそうだったからだ。池辺先輩相手だと、冗談でなくそうなるような気がする。
 とりあえず、いったん考えるのはやめよう。私は、そそくさと机の上、中の荷物をまとめた。部活で汗を流せば、このもやもやした気持ちも少しは落ち着くかもしれない。
「どこ行くの?問題は解決してないよ」
「プール。これでも水泳部のホープです」
 私がそう言うと、眞子は目を見開いた。
「先輩の正体も分かってないのに、部活に行ってる場合?天華、先輩と部活、どっちが大事なの?」
 呆れて言葉も出ない。どっちが大事かって、まず基準としていろいろ間違っている。そんなこと、比べられるものではないし、そもそも比べるものでもない。
 さっき以上に大ブーイングで抗議し始めた眞子に頭の上でひらひらと手を振ると、私はさっさと教室を後にした。
 いや、しようとした。瞬間、視界が揺らぐ。床がワックスで滑りやすくなっていた。ええい、本日の掃除当番、きちんと後始末しておくように、と思ったけれど、時既に遅し。身体がぐらりと傾いで、左肩に掛けていたカバンを下にし、床に身体が落ちようとする。
 ヤバイ。カバンの中には、家庭科実習で作ったケーキが入っている。大したものではないけれど、先輩にあげようと思ってとっておいたものだ。そんなことを瞬時に思い巡らし、やめとけばいいのに、思わずカバンを庇ってしまった。結果、つまり、私の身体は自然と不自然な方向に曲り、そのまま床に崩れ落ちる。ケーキは守られた。でも、それと引き換えに、ぞくり、凄まじい寒気が背筋に流れる。
 周りで皆が騒いでいた。恥ずかしさも手伝って、慌てて立とうとする。が、立てない。痛い。かなり、痛い。というか、麻痺していて痛いのかどうかも定かではなかった。それでも右足を踏ん張り、何とか立ち上がり、左足を踏み出した瞬間、左足首に強烈な激痛。そして、そのまま、その痛みで私は失神した。
 
 目を覚ますと、保健室。ベッドの横には先輩が座っていた。保健の先生はいない。
「先生は会議に行かれたので、僕がここに。君が来ないので、教室に行ったら、面白いお友達がいろいろと教えてくれました」
 きっと眞子だ。好奇の眼で、嬉々として先輩に私のことを話す姿が脳裏に浮かんだ。
「で、どうして左足靭帯切断とかいうことになったんですか」
「……ごめんなさい」
 私は必要もないのに謝った。それから、おずおずと、ぐしゃぐしゃに潰れたケーキの入った小さな箱を先輩の目の前に差し出す。
 それを無言で受け取ると、先輩は不思議な面持ちで、その歪な物体を眺めた。そして、目で、これは何だと私に訴える。
「さっきまで、ケーキだったもの、です」
「……」
 長い、長い沈黙。その後で、
「天華くん」
先輩の、なぜか怒気を孕んだ私を呼ぶ声が保健室にゆっくりと響いた。
「……はい」
「まさか、これのためではないですよね?」
「……これのため、です」
 先輩は、溜息混じり、呆れた声で、
「……馬鹿ですか、君は」
額に手を当て呟いた。昨日とは逆に、先輩にしてみれば今はどうやら私の方が相当痛い人らしい。その表情から、そう思っているのがありありと読み取れた。それから先輩は「注意力にかける」だの「落ち着きがない」だの矢継早に説教をし始めた。が、その様子が嬉しそうに見えるのは私の考え過ぎだろうか。
 一通り言いたいことを言い終えると、満足したのか、先輩は、
「じゃあ、帰りましょうか」
と、私のカバンと自分のカバン、それを両手に持ち立ち上がった。私は、先輩に頭を下げ、脇に立てかけられた松葉杖を手にした。
 保健室を出て、一応私を気遣いながらも、自分のペースで下駄箱へと向かう先輩の背中を見つめながら、私は、
「帰る前にプールに寄ってもいいですか?」
と、訊ねた。振り向いた先輩は、何のことかと、怪訝な顔をしている。私は、手で水を掻くように、空を一掻きしながら、
「競技会が近いから、さすがに今日は無理だとしても明日からは練習したいんですよね」
と、先輩に告げた。
「……やっぱり馬鹿です、君は」
 さらなる呆れ顔。私はその顔に背を向け、先輩がついてきてくれることを確信しながら、松葉杖でひょこひょことプールへ向かった。

 プールでは、すでに練習が終わり、一年生が掃除と片付けをしていた。私は、プールサイドにコーチの姿を見つけ、事の次第とこれからのことを話した。先輩は、付人のように、私の後ろに立って黙って話を聞いている。コーチに明日からの練習の許可を貰い、先輩を振り返ると、納得いかない顔で私を見ていた。
「……僕には、かなり理解不能です」
 どうやら怪我をおしてまで練習しようとする私の姿勢に、頭の中がハテナマークでいっぱいといった感じだ。
「ギプスだと無理なんじゃないですか?」
「明日病院に行って、着脱可能なものに換えてもらうから、平気ですよ」
 何が問題なんだ、というように平然として受け答えする私に、先輩はさらに頭を抱える。
「じゃあ、帰りましょうか」
 今度は、私が先輩を帰宅へ促す番だった。松葉杖を使い、出口へ方向転換しようとして。
 あ、滑った。
 水で濡れた床が松葉杖を受け付けなかった。つまり、杖は床を蹴り、空回りし、私はそのまま、ドボン、プールへとダイブした。
 普段なら、水泳部のマーメイドと言われている私だ。水は友達、不意にプールへ落ち込んだとしても全く問題ない。しかし、いかんせん、今はいつもと状況が違う。足が動かない。服を着ている。さあ、ぜひとも溺れてください、というシチュエーション満載だった。
 案の定、足が攣った。水を吸った服が重い。
 がぶり。大きく息を吸い込み、もちろんそれと一緒に水も否応なしに口に、鼻に入り込んでくる。プールサイドでは突然の出来事に驚いて、誰もすぐには対処できないようだった。このまま溺れて死んでしまうのかもしれないという最悪の事態が脳裏を過った。
 目の端に先輩の姿が見える。いつもの先輩に似合わず、青褪めた顔で私を見ていた。
 さよなら、先輩。短い間でしたが、お世話になりました。先輩にそう手を振る。と、影が動いた。先輩の身体は何の躊躇いも見せず、大きく弧を描いて、プールへとダイブした。
「大丈夫ですか、天華くん」
飛び込んだまま、そこにいた私を抱きしめると、先輩はそう言った。が、私に答える間も与えず、私を抱えたままで沈んでいく。
 もしかして、先輩、泳げない?
 本当にお仕舞いかも、と覚悟した直後、ようやく事態を把握したコーチ、水泳部員やらがプールに飛び込み、私たちは何とかプールサイドに引き上げられた。
「大丈夫か、国北」
「はあ、何とか」
 げほげほと水を吐き出し、肩で息をしながら、やっとの思いでそれだけ言う。ただ、私の横で横たわっている先輩は目を開けていなかった。息をしていないのは明白で、コーチが人工呼吸をし、心臓マッサージをしても、先輩の目は開かない。唇は紫、肌は青白く、それらの色は、もう先輩がここにはいないということを示しているようだった。
 遠くから救急車のサイレンが聞こえる。それを私は、他人事のように聞いていた。

 先輩はかなり大量の水を飲んでいたのもあり、念のため精密検査を、ということで、一泊入院することになった。詳しいことは分からないけど、先輩は元々何らかの持病があって、どうやら掛かりつけの病院がここらしい。
 自分の診察が終わった後、先輩の病室を訪ねると、先輩のお母さんがベッドの傍らに座っていた。私が頭を下げると、「あなたが国北天華さん?」と、私の名前を口にした。私は頷くと、今回の件を詫び、勧められるままに、お母さんの横に座った。
「真太郎は本当にあなたが好きなのね」
 毛布を掛け直しながら、お母さんは言った。
「河童のこと、話したんでしょう?」
「あ、はい、告白されたときに」
 告白。その言葉をお母さんに使った途端、私は急に恥ずかしくなった。先輩がマザコンだと思っているわけではないが、世の中の息子を持っている母親は、その彼女に対してどういう気持ちなのか、と考えてしまったのだ。
「河童の話はあの子にとって鬼門なのよ」
 そんな私の気持ちを察したのか、お母さんは微笑み、目を細め、先輩を見つめた。
 柔らかな寝息をたて先輩は眠っている。そんな先輩を優しい表情で、お母さんは眺めていた。暖かな空間。そして、そこに自分が存在していることが、私はなぜだか嬉しかった。
「でも、鬼門って」
「泳げない河童って、可笑しいでしょ?」
 ああ、そういうことか。納得する。
「ご丁寧に立派な水掻きまであるっていうのに、泳げないのが我慢ならなかったのね。まあ、しょうがないことなんだけど」
「しょうがないこと、なんですか?」
「あの子、先天性の心疾患を患っているの」
 心疾患。思いもよらなかった言葉に私は途惑った。どんな顔をすればいいのか分からない。お母さんは、そんな私の動揺を見抜いたのか、慌てて、次の言葉を紡いだ。
「大丈夫、もう心配するほどのことでもないの。でも、あの子、知っての通り、素直だから。自分は河童の末裔なのに、加えて大層な水掻きもあるのに、泳げない、という事実が我慢できなかったらしいわ」
 最後は苦笑混じりだった。その言葉で、ようやく私も笑うことができた。
 お母さんは笑みが戻った私に安心したのか、もう一度先輩の布団を掛け直すと、「国北さん」、再び私の名前を呼んだ。
 改めて名前を呼ばれると、やっぱり緊張してしまう。まるで背中に長い定規を入れられたかのように、背筋がぴんと張った。もし、先輩と結婚云々とかいうことになったら、この人がお姑さんになるのか、などと余計なことを自ずと考えてしまう。
「あのね、あの話には続きがあるの」
「続き、ですか?」
 さっきとは違う、さらなる動揺に気づかれないようにしながら、私はお母さんの言葉をそのまま返した。あの話とは、先輩が私に話してくれた河童の話のことだろう。ふたりが結ばれ、それで終わりではなかったのか。
 もし、あの話に続きがあるのならば、それを聞いてみたかった。そして、どうして先輩がその続きを私に語らなかったのかも、気になった。その話の続きの中に、先輩の真実があるような気がする。
「お母さん、続き、教えて貰えますか?」
 私は、そう請うた。多分、先輩に聞いたとしても、いつものようにはぐらかされ、有耶無耶にされてしまうだけのような気がする。
 私は、いまだベッドで眠り続ける先輩の顔を見た。本当のことを私は知りたい。私の知らない先輩を知りたい。だから、
「お願いします」
私は、もう一度、それを願う。心から。
「もちろん、そのつもりよ」
 そして、お母さんは、続きを語り始めた。

 晋太郎とレンゲは夫婦になりました。
 それから長い年月が経ち、二人は可愛らしい男の子にも恵まれ幸せに暮らしていました。
 ある日のことです。
 二人の村に嵐が来て大雨が降りました。雨はまるで止むことを知らないかのように何日も降り続けました。村の川は水嵩も増し、ごうごうと激しい音をたてながら流れています。
 レンゲは、その日、朝から寝込んでいました。長く降り続ける雨のせいでしょうか。どうにも、具合が悪かったのです。
 晋太郎は大雨の中、仕事に出かけています。レンゲは息子に、外には出ないようにと言い聞かせると、そのまま寝入ってしまいました。大きな雨音で目が覚め、周囲を見回すと、どうでしょう、家の中に息子の姿が見えません。
 レンゲは息子の名前を呼びましたが、返事はありませんでした。狭い家です。もちろん、隠れるところもありません。
 そのとき、外から大きな声がレンゲの耳に飛び込んできました。
「大変だ。川で子どもが溺れているぞ」
 その声を聞くやいなや、大雨の中、レンゲは着の身着のまま外へ飛び出しました。
 きっと息子だ。そう確信したのです。
 息子は人間と河童の子どもでしたが、泳げませんでした。レンゲがそうしたのです。息子が水に入ってしまえば、いいえ、水に近づいただけでも、河童に戻ってしまうかもしれない。もちろん、自分も。だから、晋太郎と夫婦になってからというもの、レンゲは川や池には一切近寄ろうとはせず、息子も同じように川や池へ近づけなかったのです。
 川べりには、すでに多くの人が集まっていました。人々の視線は川の中ほどに注がれています。その先には、水面から突き出た岩に必死で縋り付いている子どもがいました。
 息子でした。
 レンゲは息子の名前を叫びました。息子も母の声が聞こえたのか、川べりに母の顔を見つけ、母を呼び、助けを求めました。
 レンゲは、周囲の制止を振り切り、川に飛び込みました。自分は河童に戻ってしまうかもしれない。でも、そんなことは、レンゲにとって大事なことではありません。もし河童の姿に戻ってしまったら、もう晋太郎の傍にいられなくなることは分かっていました。それが、人と妖との理。誰に教わったわけでもないのに、レンゲはそれを妖の本能として知っていました。それでも、レンゲは川に飛び込まずにはいられなかったのです。
 水を一搔きするごとに、青褪めた息子の顔が徐々に近づいてきました。そして、自分が次第に妖へと戻っていくのも分かりました。レンゲの頭には皿が現れ、口元には嘴が象られ、背中ではめきめきと音をたてながら甲羅が盛り上がっていきます。
 息子は、最初、そんな母の様子に驚いたようでしたが、すぐにそれを自然なことと受け止め、母へと手を伸ばしました。レンゲの手が息子の手を掴み、自分の胸元へ引き寄せます。どうやら、それほど水も飲んではおらず、思ったよりも元気そうでした。
 レンゲは、息子を抱え、川岸まで泳いで連れて行きました。そこには、晋太郎がいました。晋太郎は何も言いません。レンゲも何も言いません。レンゲは、息子を晋太郎に渡すと、そのまま川の上流へと泳いで行き、二度と村へ姿を現すことはありませんでした。

「その後、晋太郎とレンゲの子どもが、先輩たちのご先祖様になったんですよね?」
「まあ、そういうことになってるわね」
 お母さんは、私の質問に答え、
「うちの田舎には河童信仰というのがあって、その信仰対象が大地主の池辺の家になってしまったみたい。ただ、本家とはいっても、主人は三男で後継というわけでもないし、真太郎が気にすることは全くないんだけど」
と、付け加えた。やれやれ、といった感じだ。
「でも、僕にとっては重要なことです」
 いつの間にか、先輩が目を覚ましていた。憮然な面持ちで、私とお母さんを見ている。私たちは、まるで悪戯を見咎められた子どものように肩を竦めた。それから、お母さんは、後は若いふたりで、とでも言わんばかりに、「花瓶の花を換えてくるわね」と、そそくさと病室を出て行く。
 二人きりの何となく気まずい空気。
「天華くん、大丈夫でしたか?」
 先にそれを破ったのは、先輩だった。その言葉を受けて、私の中に溜まっていたものが、どっと口から溢れ出した。
「大丈夫も何も、先輩の方が死にかけたんですよ?泳げないのに、何でプールに飛び込んだりするんですかっ!」
 涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「僕は、君を失いたくなかったんです、晋太郎がレンゲを失ったように。同じ名前を持っているから、僕も彼と同じ運命を辿るような気がして」
 ゆっくり言葉を選びながら、先輩が呟いた。
「どうして、私なんですか」
 直球過ぎるとは思った。でも、どうしても聞いてみたかった。なぜ、私だったのか。
 先輩は赤面しながら、私から視線を外し、
「見えたんです、僕には」
 何が見えたって?
「プールで泳ぐ君の頭に河童の皿が、背中に甲羅が、そして綺麗な指に水掻きが」
 驚いて自分の身体を見回す。まさかと思ったが、もちろんそんなものは存在しなかった。
「例えですよ、例え」
 先輩が笑った。満面の笑み。
「君に会って、この人が僕のレンゲなんだ、そう感じた。運命の人、君といっしょになれば、僕は本当の河童になれるんだって」
 そういうことだったのか。先輩は不完全な自分が完全になるための誰かを探していた。
 それが、私。先輩が探していた半身。
 だったら。とことん付き合ってやろうじゃないか。先輩の代わりに、私が水の中を支配してあげよう。河童にはなれないけれど、河童のように、ううん、河童以上に水の中を泳ぎまわろう。先輩のために、私のために。
 私は、水掻きのない手を先輩に差し出した。
 先輩は驚いたように私の顔を見た。それから、見惚れるほどに美しい水掻きのある手で、先輩は優しく私の手を握り返した。
 それが、これからの物語の始まりだった。

「ママ、今日、彼氏ができた」
「そう、どんな人なの?」
 ママは、夕食の準備の手を休めずに、そのままの姿勢で私に聞き返す。特に驚いた風でもなく、まるで「今日はいい天気だったよ」「そうね」といった感じの返答だった。でも、その社交辞令的な問いに対する、
「えーっとね、河童の末裔なんだって」
という私の答えを聞くと、手を止めて、私の顔を見た。常に冷静なママのめったに見ることのできない目を大きく見開いた驚きの表情に、逆に私の方が驚いた。ちょっと優越感。
「河童って、まだいたのね」
 ママの顔、感心とも、呆れともつかない、複雑な顔だ。
「みたいだよ。私もびっくりした。まあ、何代にも渡って人の血が混じってるから、すでに妖というより人だけど。私もすぐには気がつかなかったし」
「そう」
 それから、ママは何事もなかったかのように、また夕食の準備を始めた。
「あ、アイスクリームとロックアイス、買ってきてくれた?」
 忘れてた。ママに頼まれてたんだっけ。慌てて、机の上に置きっぱなしにしておいたコンビニの袋を開ける。棒アイス、カップアイス、ロックアイス。
 全部、情けないくらいに溶けかけている。
「……ごめんなさい」
 ここは素直に謝っておこう。
「しょうがないわねぇ」
 やれやれ、といった風に、ママが私から袋を受け取る。と、それらに「ふーっ」と、息を吹きかけた。ママの口から、真っ白く冷たい、小さな粒状の氷が混じった息が、零れ落ちる。袋は、すぐにそれで満たされ、中のものはあっという間に、凍りついた。
「さすがだねぇ」
 参りましたとばかりに、私が賞賛の拍手を送ると、ママは、
「天華、貴女も早くこれくらいのことはできるようにならなくてはね」
と、呆れたように窘められた。
 その言葉に、いつものように、はいはい、と返す。
「それから、その河童の末裔くんとの付き合いだけど」
 ママは、さらに言葉を続ける。
「よく考えるのよ」
「わかってる」
 私は、ママが、池辺先輩との付き合いに、きっといい顔をしないだろうとは思っていた。この純潔な血の中に、多種族の血が混じると考えただけでも、ママにとってはおぞましいことなのだろう。特に、異種族との恋が、悲劇で終わってしまった典型的な逸話を持つ、雪女としては。
「でも」
 私から視線を外すと、遠くを見つめるかのように目を細める。
「そんなこと気にする時代でもなくなったのかもしれないわね」
 そう、ママは呟いた。

わんす あぽん あ たいむ。

わんす あぽん あ たいむ。

国北天華は、ある日、委員会の先輩である池辺真太郎から、交際を申し込まれる。しかも、真太郎は自分が「河童の末裔」だというのだ。自分のルーツについて語る真太郎に、徐々に天華は巻き込まれて……

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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