(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)④
④漆黒のファラオ
キャロルはイズミルの用意した抜け道を、幾人かのヒッタイト兵達と共にひた走っていた。
メンフィスから逃げ、王子から逃げようとして叶わず、再びメンフィスに追われ、王子に匿われる。自身の行く末を憂慮する間もなく、夜明けの黎明(れいめい)のなかを駆け抜ける。
自分はいったいなにから逃げているのか。思わず天を仰ぎそうになるが、止まればたちまち罪人を引っ立てるかのように急かされるため、キャロルは無理にも足を動かす。
「よし。ここまでくれば我らの領土は目と鼻の先。エジプト兵にも容易にはみつからぬだろう。ここで王子をお待ち申し上げるぞ。」
まだ太陽の姿はみえないが、空が少しずつ白んできている。ナイルの姫を連れた一行が足を止めたのは、まもなく夜が明けようとする頃だった。
淡緑の萌ゆる頃、日に日に水嵩を増すナイル河のほとりで、背高いパピルスの影に身を隠し、兵たちは主の帰還を待つ。
(やっぱりメンフィスは追いかけてきた)
兵士にじろじろと眺められる心地悪さを感じつつ、キャロルはこのあとどうすべきかを必死で考えた。
よもやこのまま、イズミル王子に匿われるわけにはいかない。かといって、王子に捕まったと知れれば、メンフィスは怒って再びこの身を奪い返そうとするだろう。
また、戦争になってしまう。
キャロルの身体が独りでにがたがたと震えだす。
せっかく必死の思いで逃げてきたが、ここは一旦、大人しくメンフィスのところに戻ったほうがいいのだろうか。
これは自分とメンフィス、自分とエジプトの問題だ。ヒッタイトは関係のないこと。恐ろしいことに、彼らは「ナイルの神の娘」という幻の存在に翻弄されているだけなのだから。
(わたしは、そなたを愛してしまった)
先程のイズミルの声が否応にも耳に残る。
優美で毅然としたヒッタイトの王子が、真摯な想いを隠さない。古代にあって拠り所なく、漂い揺れるキャロルを捉え、胸に引き寄せて愛をささやく。そのくちびるを拒めず、腕の中にとどまって身を委ねかけた。
あと少し、彼のそばにいたら心許してしまったかもしれない、そう思うと自分が恐ろしい。
王子…お願い、これ以上わたしを愛さないで。
娘は男の温もりを強く振り払う。もう誰も傷つけたくなかった。
(ああ、でも)
一体、ほんとうに自分はなんのためにここに導かれたのか。
その答えをみつけられない限り、エジプトへ戻ってもメンフィスを説得することはできなかった。
神の娘などでは決してない自分が、この場に導かれたそのわけを。
…メンフィスに愛されるため?
エジプトの民にあがめられるため?
いいえちがう、王家の墓を暴いた呪いをこの身に受けるため…
「みつけたぞ!ヒッタイト兵だ!」
突然、近くの草むらから声が上がった。複数の足音と金物のこすれあう音が聞こえるが、数は多くない。
夜明けの光が、草蔭に潜んだ者達の正体をつまびらかにした。
「キャロル様はどこだ!!」
パピルスを掻き分けて自分を探す声のなかに、知ったひとのそれを見つけ、キャロルは心臓を掴まれたようになった。
「くっ…なぜこんなところにまでエジプト兵が!」
「待ち伏せをはかられたか!メンフィス王め!くそ…夜が明けてこちらの姿が…」
ひとりの若者が、ヒッタイト兵の前に躍り出た。つやかな黒髪を瑞々しく切り揃えた、小柄なエジプト人青年だった。年は15、6歳ほどか。帯刀し、腕や首には武官を示す、控えめだが上等の装飾具を身に付けている。
キャロルをみとめると、彼は黒目がちの瞳を大きくみはり、駆け寄って手を差しのべようとする。だが、武器を持ったヒッタイト兵に阻まれた。
「キャロル様!」
「ウナス…」
青年は驚き、そして安堵を含んだ顔でキャロルを見上げた。
「ああご無事でよかった…!さあ、帰りましょう!我がエジプトへ!」
キャロルはどんな顔をしていいのかわからず、ただ彼の忠実な瞳を見つめ返す。ウナスは、メンフィス王の可愛がる一の側近であった。
「メンフィス様率いるエジプト軍1000余が間もなくここに到着します。ここにいるヒッタイト兵の数はごくわずか。キャロル様を連れ去ったこの野蛮どもをけちらして、ただいまお助けいたし…」
「わたしはメンフィスのところには帰れないわ」
小さいがはっきりした声で、キャロルはウナスの言葉を遮った。
ウナスは驚いてさらさらの前髪を揺らせた。
「なにをおっしゃるのですか!メンフィス王が心配しておいでです。どうかお戻りください…!」
「い、いいえ…わたしはもう戻れない。わたしはヒッタイトに捕まったんじゃないわ。自分の意思でメンフィスから離れたのよ!そして、たまたま捕まってしまっただけ。だから…」
「キャロル様、なんということを…」
ウナスは、キャロルが時空を超えてメンフィスの前に現れたときからずっと、命じられて彼女のそばにいた。メンフィス王がどれほどキャロルを欲しているか、一番知っているのはウナスだった。
忠臣の彼には、なぜキャロルがこれほどまでにメンフィスを拒むのか理解が出来ない。
「メンフィスに伝えて…どうかわたしを追わないで。ヒッタイトと戦わないで、と!」
「キャロル様!過日、メンフィス様が命懸けでイズミル王子から御身を取り返されたのをお忘れなのですか!」
声をあらげて説得しようとしたとき、ヒッタイト兵が彼に斬りかかった。ヒッタイトとしては、大軍が押し寄せる前にこの目障りな小隊を始末してしまいたい。
「おら、お姫さんが戻りたくないって言ってるだろ!大人しく退け!エジプト兵め!」
「どけ!キャロル様に触れるな‼」
次々と剣を抜いて襲ってくるヒッタイト兵に、ウナスが果敢に応戦する様子を見てキャロルは悲鳴をあげる。
「やめて!ウナスを傷つけないで」
少女は腕を掴まれ、引きずられてその場から離される。
(ウナス、ウナスごめんなさい……!)
揉み合いながらキャロルを呼ぶウナスの声が、何度か朝焼けの空に放たれ、吸い込まれるように消えた。
「ちっ、まどろっこしいが……これでよいのだろう、イムホテップ」
あえて粗末に設営された小さな幕舎のなかで、彼は苛々と手にした書簡をもてあそびながら呟いた。
衣装とも言えぬ黒いぼろ布を身体に纏い、室のすみに影のように佇む青年。背丈はイズミルよりは少し小柄で若く、年は17、8歳ほどにみえる。
肌はうっすら小麦に焼けており、夜の闇をすくって流したような黒髪が鎖骨のあたりで揺れている。深くかぶった布から僅かに覗く瞳も、すべてを吸い込みそうなほどに黒い。
顔立ちは女性〈にょしょう〉のように繊細といってよかったが、鋭い眼光は見るものを射る。不機嫌そうにひそめられた眉がいっそう近寄りがたく、また畏怖さえ感じさせる。
彼こそがメンフィス王だった。
そもそも、昨晩ヒッタイトのものとみられる陣営に夜襲をかけたのは別動隊で、メンフィス自身は別のところにいた。さきほど、ウナスがキャロルを見つけた場所から、三里(約10キロ)ほど南下した河畔に船と兵を用意し時を待っていた。
夜襲によって、イズミルはキャロルを河づたいに連れ出すはずだ。
そこでメンフィスは、南の河上へミヌーエ将軍の隊を、北の河下へウナスの隊をそれぞれ派遣し、キャロルを探させた。
南北どちらであれ、河の中ほどに陣取るメンフィスはキャロルのいる方へ急行できるというわけだ。また、敵を挟み撃ちにして逃道を塞ぐ狙いもある。
策を授けたのは、宮殿で留守を護る宰相イムホテップだった。
「メンフィス様!ウナス隊より兵が戻りました。」
「ウナス……ということは、キャロルは河下か‼」
運よくヒッタイトの追撃を巻いたウナス隊の兵が、息も絶え絶えに王の許へ還った。
途端、メンフィス王の瞳が紅蓮に燃え上がる。
「おのれキャロル…よくもわたしから逃げたな…!そしてイズミル王子め、まだキャロルを奪おうと目論んでいたとは……」
視察から戻ったメンフィスは、キャロルが逃げたことにすぐに気づいた。そして自分で自分を殺したくなるほどに後悔した。
キャロルの怪我の処置を申し付けた少年が、身元の定まらぬ者だというのは判っていた。だが、殊のほか有能であったためそのままキャロルの警護と世話役にしてしまった。
キャロルがその従者を気に入っていて、メンフィス自身、彼女に怪我をさせた負い目もあった。
しかし、それがそもそもの間違いだった。
(あの者はヒッタイトの間者だったのだ……!)
メンフィスは、すぐに軍を率いて再びヒッタイトに攻め込むつもりでいた。だが、それを姉とイムホテップに止められた。
姉アイシスが止めるのはわかる。彼女はいまだキャロルとの結婚を認めず、自分に執心だからだ。だが今度はイムホテップも軍を率いることには反対した。
「ファラオよ、二度もナイルの娘がエジプトを去ったとわかれば、軍の士気は落ちまする。」
「だが…では、どうする!こうしている間にも、キャロルはまたどこかへ連れ去られてしまったかもしれぬ」
「メンフィス王、どうかお聞きください。ナイルの娘がなぜこうも我が国をお嫌いになるのかは、わたくしにはわかりませぬ。」
静かにメンフィスの目を見つめ、続ける。
「ですが民や兵は不審に思うでしょう。ナイルの神が娘を我々から遠ざけているのでは、と。」
「なんだと」
イムホテップは、ナイルの娘がエジプトを去る直前、罪人を申し開きもさせず処刑したメンフィスを激しく糾弾していたことを思い返していた。ナイルの娘の意思は、神の意志…
「わたしの、我がエジプトの、なにが悪いと言うのだ」
憮然としながら、首を捩って宮殿の外を睨む若い王に、老イムホテップは穏やかに諭す。
「ヒッタイトも今回はおおげさに娘を奪いに来たわけではありません。どのような理由で再び奪ったかはわかりませぬが……とにかく向こうも大軍を動かすことができないということ。
ならばこちらも、ナイルの娘を密かに探しだし取り返すしかありません。民にナイルの娘の不在を気づかれる前に。」
「どうすればよいのだ」
待ちきれないというように急かすメンフィスを見つめ、イムホテップはすっと目を細める。
生来、政務も軍事も人任せにはしておけず、自分が先導してすすめなければ気がすまない質のメンフィスが、自分ではどうにもならぬ問題にあたり、臣下に意見を請うようになるとは。
「わたくしにおまかせください。」
メンフィスは立ち上がり、身に纏った偽りの黒衣を剥ぎ取って捨てた。
「よし、いますぐに船で河を下り、キャロルを奪還する!準備をいたせ!!」
「はっ!」
メンフィスが率いてきたのは、彼の持つ軍勢のほんの一部だ。それでも事情を知る数少ない者達は、黙々と王の指示通りに動いた。
「メンフィス様、海より風が吹いて参りました。」
「船の速度が落ちぬよう帆をたたみ、準備が整った船から先に河を下れ!イズミルが気づいて追い付く前に、キャロルを見つけ出すのだ!」
彼の身にたぎるのは敵への憎しみか、はたまた少女への愛か、漆黒の瞳のなかに渦巻く想いを知る者はない。
メンフィスは、玉座に就いてからずっと孤独だった。
新時代を担う勇猛なファラオとして振る舞う一方、周囲の者は皆、一様に王の顔色をうかがい、媚びへつらい、罰を恐れるばかり。
いつしか彼は、誰をも信用することなく、力を誇示することこそが王の役目と考えるようになった。傍若無人に思うがまま行動し、それを止める者もいなかった。
しかし、あの娘だけは違っていた。突如としてナイルの岸辺からあらわれたその少女は、真っ向から王に意見し、自身の気持ちをぶつけ、ついには孤独な王の心をこじ開けた。
キャロルがそばにいることで、メンフィスは弱い者達へも目を向けるようになった。人を信じ、人を愛することを覚えた。
それを目の当たりにした王の臣下たちは、誰もが彼女の可能性を信じた。 若く力強いファラオと対なす、優しく可憐な妃。ふたりがエジプトの未来を照らしてくれたなら…と。
単にナイルの神の娘というだけでなく、その小さな身に秘められた知勇に期待を寄せた。
ファラオには、彼女が必要だった。
「いやっ、はなして!はなしてよ!」
「おとなしくしろ!ナイルの娘!」
ウナスの捜索隊から引き離されたキャロルは、ヒッタイト兵の一人に捕まったままだった。両者交戦の隙になんとか逃げ出そうとしたが、兵士は王子が執心の娘を逃がすまいと動かない。
(どうしよう、じきにメンフィスがここまで追いついてきてしまうわ)
そう思って後ろを振り返ったそのとき。忍び寄る小さな影をキャロルの目がとらえた。その影は素早くヒッタイト兵の背後に回ると、一瞬と置かず脇腹の鎧の隙間へこぶしを叩き込んだ。
ばす、と乾いた音がして、ヒッタイト兵は大きく目を見開くと、そのまま気を失ってその場にくずおれた。
「ルカ!!」
「キャロル様…」
少年はその場に膝まずいて、王子の愛する姫に敬意を示す。しかし、すぐに立ち上がってこの場を離れるように促す。
「逃げましょう。さっき、あちらに抜け道を見つけました。」
「ああルカ…無事だったのね!よかった…」
ルカは彼女の白い手をとると、ぬかるむ地面に足をとられぬよう気遣いつつ、急いでその場から連れ出す。
手を引かれながら、キャロルはルカの小さな背中を心から頼もしく思った。
イズミル王子は不測の事態に備えて、自分が行くまで姫を護るようにルカに命じていた。
そうとも知らぬキャロルは、素直にルカとの再会を喜ぶ。いく日ぶりかに、その頬が花のようにほころんだ。
「ルカ…ルカ、いままでどうしていたの?ヒッタイト兵に酷いことされなかった?」
「…え、ええ。監視はされていましたが、大丈夫でした。」
よかった、と何度も呟くキャロルに、隠密の少年はいよいよ罪悪感を禁じ得なくなっていた。果たしていつまで、ヒッタイトの、王子の手の者であることを打ち明けずにいられるだろうか。少年は、自分を信頼する少女の眼差しを避けるように、前だけを見つめて川べりの湿地帯を突き進む。
やがて、太陽を遮らんばかりに高く伸びたパピルスが囲む小さな船着き場へ出る。陸からは死角になっているため、ふたりはそこで一息ついた。側には幾船かの船が打ち捨てられている。
河の水には濁りがあり流れは速い。田畑の糧となる黒土をその身に抱いて、きらめきながら地中海へと注いでいる。
「キャロル様。ここから川を下りましょう。」
「えっ…でも、そっちにいったらヒッタイト領よ。兵がきてしまうのではないかしら。」
「しかし、進むほかに道はありません、姫。ヒッタイトとエジプトの兵が小競りあっているそのすきに、ここを離れて、地中海の沿岸にでも身を潜めましょう。」
「……」
もともとは自分のせいで二国が争っているというのに、それを尻目に逃げるなんて、と思うキャロルであったが、その場にいてもなにかできるわけではない。それどころか、きっとさらなる混乱を招いてしまう。
どんなに訴えようとも、メンフィスもイズミルも一向に自分を諦めようとはしてくれない。
「キャロル様、お早く。」
ルカが先に船に乗り、使えるかどうかを十分確かめると、キャロルに手招きする。キャロルは少しためらったがルカの言う通り小船に乗りこんだ。
(ごめんなさい…どうか、わたしを忘れて)
ゆっくりと船が岸から離れるとき、キャロルはエジプトとヒッタイトの両方に、そう心で呼び掛けた。自分が忽然と姿を消してしまえば、きっとふたりとも諦めてくれる。そしてまた、古代歴史は元の営みに還る。どうか、わたしが現れる前の日常へと皆が戻れますように…。
だが、キャロルのその願いは届かなかった。
舵を操っていたルカが唐突に船を漕ぐ動作を止めた。
すぐ側の岸辺に、船団のものとおぼしき帆先が幾つも見えたのだ。
「…い、いけません!引き返しましょう。」
「ルカ!? どうしたの?」
そう問いかけると同時に、陸の方からがさがさと草のこすれる騒がしい音がし始める。はっとふたりは先ほどいた岸辺を振り返る。
目線の先で、昇る陽光に反射してなにかが眩しくひらめいた。林立するパピルスの間からあらわれたのは、壮麗な黄金の甲冑に身を包んだメンフィス王、その人だった。
その後ろから、大勢のエジプト兵が鬱蒼とした草木を剣でなぎ倒しながらやってくる。白いネメス(頭巾)がはためき、甲冑や武器の硬い光がぎらぎらと跳ね返り目を刺す。
「キャロル!」
メンフィスが獅子のように叫ぶ。
こうなっては、ルカは必死で船を漕ぎ、岸から離れるよりほかない。すると、メンフィスはその場で身に付けた重い鎧を脱ぎ捨てた。さらに腰に縄をきつく巻き、その縄の端を従者に握らせて、激流のナイルへばしゃりと飛び込んだ。
「メ、メンフィス様!!」
増水が始まったナイル河の水流は、人ひとりを押し流すことなどいとも容易い。兵達はあわててファラオの命綱を握り合い、共に川へ半身を沈めながら踏ん張った。
メンフィスはと見れば、恐るべき膂力(りょうりょく)で水をかき進み、存外やすやすとキャロルとルカの乗る船へとたどり着いた。
「そんな、メンフィス…!」
キャロルは青ざめた。小船にのし上がった水浸しのファラオが横にいるルカを睨み付ける。
「そなた…後で覚えておれ」
王の愛する姫を密かに連れ出した少年は、その殺気に満ちた憎しげな双眸に思わず怯む。そして、岸から命綱をつけた兵たちが次々に川へ飛び込むのを認めると、ついに観念した。
ああ逃げ切れなかった。王子になんといって詫びればよいのだろう。己の不甲斐なさに憤り、肉に爪が食い込むほど拳を握りしめる。
「ルカに縄を打て!」
メンフィスは、キャロルを抱きかかえて岸に上がると、部下に命じた。
「メンフィス!やめて!ルカはなにも悪くないわ。わたしが連れていってと頼んだのよ!」
キャロルがすぐに訴えたが、メンフィスはそれを無視した。そして、なにも言わず娘の青く澄んだ瞳を見つめると、ナイルの急流をものともしなかったその逞しい腕で彼女をかき抱く。
「……!」
キャロルは驚いて声をあげようとするが、あまりのちからの強さに息ができない。
キャロルを再び腕に捕らえたら、なぜ逃げたか、なぜ自分をそこまで嫌うのだと、詰問して罰を与えてやるつもりだった。だが少女が無事で目の前にあらわれた途端、愛しさが勝り、キャロルを己に還してくれたナイルの神に祈る心地になる。
少し離れていただけでも恋しいと思う、小さく華奢な身体、柔らかい金色の髪、白い肌の甘い匂い。そのすべてを全身で味わうようにして抱き締める。
腕を緩めると、呼吸できなかったのかキャロルは小さく喘いでいる。それを見て、今度は本当に罰を与えたくなった。
「メンフィス…やめ…」
苦しげに息をするその口許を唇で強く塞ぐ。
見ていた兵達が驚いて、気まずそうに目を伏せるが一向に構わない。
キャロルは拳でメンフィスの胸を叩いて抗議するが、なかなか離してはくれない。ファラオの焼けるような唇と、周囲から注がれる視線に少女の頬は発火しそうなほど真っ赤になる。やがて長い罰を終えると、乱暴にその腕を引っ張り連れていこうとする。
「エジプトへ帰るぞ」
「メンフィス!」
「ナイルの氾濫期に、ハピの娘たるそなたがいなくなって、我がエジプト中が不安に駆られておる。キャロル、そなたのせいだ。」
「メンフィス、わたしはハピの娘などではないわ。そんな風にあがめられるためにここにいるんじゃないのに!」
ひきずって連れていこうとするが、キャロルは赤子のように泣いて首を振り、その場を動こうとしない。
「痛っ…!メンフィスはなして!」
若い王は聞き分けのない娘の細腕を掴むと、鼻先が触れるほど顔を引き寄せて睨み付けた。
「言うことを聞かねば、再びこの唇を奪う」
王を見つめる碧い目が怯えて揺れる。悔し涙に濡れたその顔を見ていると、愛しいと思うのと同時に、もっと泣かせてしまいたい、という気持ちが抑えきれない。わたしのために、もっともっと苦しめばよい。
懲りずにまだなにか口ごたえしようとする、その小生意気な唇にもう一度噛みついてやろうと思ったその時、
「メンフィス様!」
ひどく慌てた様子の兵士が息切らせて駆け寄ってきた。
たしか、軍船の番を言いつけた者のひとりだ。
「どうした!」
「メンフィス様!…ふ、船が奪われました!」
「なに!?」
ファラオはつと押し黙り、耳を澄ませてみれば、船を停めてある方から兵の争う喚声が聞こえてくる。
まさか、そんなはずはない。仮に敵が襲ってきたとしても、河の上流にはミヌーエの船団を控えさせている。だが…
「キャロルは保護した!全員、船へと引き上げよ!」
メンフィスの号令に、エジプト兵達は一斉に船へと駆け戻る。その騒然とした様子に、キャロルの白い頬はますます青白く血の気が失せていく。
「キャロル、くるのだ」
メンフィスもキャロルをひっぱり船を停めた場所へと引き返す。
途中、行く手を阻む邪魔なパピルスをなぎ倒すと、すっかり昇りきった太陽が朝露を蒸発させて、むわりと青臭さが立ち込める。嫌な胸騒ぎがした。
ぬかるむ足場に難儀しながら、ようやく船着き場へたどり着くと、果たしてそこにいたのは、あの長い髪の青年だった。
「遅かったな、メンフィス王」
ファラオの軍船を占拠して居座り、悠然とこちらを見下ろしているのは、間違いなくヒッタイトのイズミル王子だ。
「おのれ…」
その足元には、ヒッタイト兵に敗れたエジプト兵が何人も倒れて転がっている。
メンフィスは身体の芯が熱され、溶岩のように熔け出すのを感じた。キャロルを奪い、痛めつけてなお、エジプトを手に入れようと画策する男。この男だけは生かしてはおけない。
船上のイズミルは立ち上がって、メンフィスを見、そしてその傍らにいるキャロルを見た。冷徹な瞳の奥に黒い炎がゆらめいてる。
ついに顔を合わせてはならないふたりが出会ってしまった。戦を、無用な血が流れるのを恐れる少女は、青ざめて震えながらもなんとかこの場を収められる術はないかと考えを巡らせる。
二つの国の剣先がじりじりと触れ合うのを横目に、ナイルはただ滔々と流れる。
毎年、人家を飲み込むかわりに、肥沃な黒土を運んで田畑を耕し、命を繋ぐ穀物をもたらすナイルの神。
この古代において、人を生かすのも、殺すのも神だった。
(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)④