夢の中の青い女 新宿物語 3
夢の中の青い女 新宿物語 3
(4)
佐伯はなおも霧の中を歩いて行った。ときおり大きなビルの影が眼の前に現われる。これはいつも見馴れているあのビルだろうか? 想像力を働かせる。この角を曲がれば駅の建物が見える靖国通りへ出るはずだ。佐伯は深い霧の中で実体のないように見えるビルの角を曲がる。しかし、その先を見通す事は出来ない。霧が視界を遮っている。
佐伯はなおも歩いて行く。通りの両側に建ち並ぶさまざまな飲食店や遊技場などの入った建物は、乳白色の霧に包まれていて、まったく見えない。まさしく霧の海だ。霧の海に溺れてしまいそうだ。--死人が多く出るというのは、このためなんだ、と佐伯は納得する。
霧はその間にも、ますます濃度を増して来た。皮膚に粘り付く感触がいっそう濃密になって来て、不快感が否応なしに増して来る。佐伯は口に当てたハンカチで顔から指の先までこすって、粘つく感触を拭き取ろうとする。しかし、霧はその後すぐに、冷たい感触で衣服から出た皮膚という皮膚にまとわりついて来る。これでは限りがない・・・そう思っているうちに、臭気さえもが増して来たようで、佐伯は思わず顔をしかめた。その刺激の強さに咳き込んだ。その上、眼も沁みるように痛くなって来た。多分、硫酸のせいに違いない。あまりに長く霧の中を歩いていたので、肉体が持ち応えられなくなって来たんだ。
早く駅に着きたいと焦ったが、足が前へ進んでいる感覚がまったくなかった。目当てとなる建物も見えなくなっていて、まさしく五里霧中を歩いていた。
おや ! と佐伯は思った。前方に微かに黄色い灯の色が見えていた。ああ、そうだ、きっと、駅前広場の近くにあるあの信号灯だ、すぐにそう納得した。ようやく、駅前広場が見える所へ来たんだ。
佐伯は意気込んで歩いて行った。ここまで来てしまえば、いかに霧が深くても迷うはずがない。あとは眼をつぶっていても新宿駅に辿り着く事が出来る。--だが、眼の錯覚だったのか、黄色い灯の色は佐伯が歩いて行っても、歩いて行っても、近付いて来なかった。いったい、どうなっているんだ ! 佐伯はやたらに遠ざかって行く黄色い灯に向かって不満をぶちまけた。黄色い灯は追い掛ければ追い掛けるほど逃げて行く逃げ水のようだった。あるいは余りに深い霧のために、距離感覚がつかめなくなっているのだろうか?
--佐伯は思わず息を呑んでたじろいだ。突然、眼の前に林立する巨大なビル群が立ち現れた。霧の深いこの夜の中でもそれは、意外なほどはっきりとした輪郭を見せていた。佐伯は一瞬、霧が晴れたのかとさえ思ったほどだった。慌てて周囲を見廻すと、だが、ネオンサインや信号灯は相変わらず乳白色の厚い帯になって流れる霧の中でぼやけていた。佐伯は頭が混乱する思いで、さっきまで見えていた黄色い灯は何処へいってしまったんだ、と改めて思わずにはいられなかった。しかも、今見ている眼の前のこの建物は、普段、見た事もない建物ばかりだ。いつの間にか俺は、何処か、とんでもない所へ来てしまっていたんだろうか? だが、新宿周辺の街で、知らない街なんて何処もない。それに、歩いた距離から考えても、そんなに遠くに来るはずがない。それなのに、この見た事もないビルの林立する街の様子は、いったい、どういう事なんだ。何処の街なんだ?
あるいは、俺は夢を見ているのだろうか? それとも、霧の中に含まれているという硫酸のために、早くも頭がおかしくなって来ているのだろうか?
佐伯は自分自身が分解してしまいそうな不安を抱きながら、とぼとぼと歩き出した。それにしても、このまま歩いて行ってもいいものだろうか? 何処へ行けばこの霧から逃れて、新宿駅に辿り着く事が出来るのか? 普段、知り尽くしているはずの新宿の街がまったく分からなくなっていた。妻や子供達が居る家庭が限りなく遠いものに思えて来て絶望感に襲われた。
佐伯はそれでもなお、歩いて行った。歩くより仕方がなかった。この、刺激の強い悪臭に満ちた、皮膚に粘り付いて来る感触を持つ霧の中では、ひとところにじっとしていれば、自分自身が溶けてしまいそうな気がした。車のヘッドライトの明かりが、しきりに佐伯の腰の高さの辺りを流れて行った。
夢の中の青い女 新宿物語 3