アルマイトの弁当箱

よしの かい

  「アルマイトの弁当箱」


玉子焼きは菜ばしを使うのが基本だ─。
料理人は皆そう言うが香苗はフライ返しを使う。先端がゆるい斜めにカットされ、もう何年も使い込み所々フライパンの熱で溶けたフライ返しだ。
玉子焼きは夫の好物だ。白飯と梅干し、玉子焼きは欠かせない結婚当初からの弁当の定番だった。
器用に生地をクルッと返し油をしいてまた生地を返す。焼き上がったら形を整えギュギュッ、とまたフライ返しで押さえ仕上がりにする。ふんわりしているよりしっかり硬めが好きなのだ。
弁当箱は数年前からアルマイトの大振りな物にしている。娘の分を残してくるためだ。
冷え切った玉子焼きと時間が経って海苔の貼りついた醤油とオカカの旨味がしみ込んだご飯はあかねの大好物だ。夕飯の邪魔にならない程度にほんの一口程度をきれいに残して来てくれる。
小さな口いっぱいに頬張り、嬉しげに見せる片エクボがたまらなく可愛かった。
「─やっぱりお前の玉子焼きでないとあかん。柔っこくて甘うて俺の口にあわんのや」褒め言葉にとっていいのだろうか。人付き合いの良い夫は時折出かける外でも肴に玉子焼きを注文し、しかし帰ってから必ず文句をつけるのだった。
口下手だが旋盤工として腕もよくキャリアも長く、他の工員たちからも一目置かれている。
寡黙だが温厚で、どんなに疲れて帰っても香苗への笑顔と小学校に入学したての一粒種のあかねと入浴することだけは欠かさなかった。
 だが一月ほど前のある晩。夫は固い表情のまま帰宅すると待ちわびていたあかねに黙って弁当の包みを手渡し、台所に立つ香苗をちらと見ただけでくたびれた作業着のまま狭い四畳間に敷いた布団にもぐり込んでしまった。
「─おとうちゃん、どないしたん?」受け取った風呂敷包みと、用意していた湯船に浮かべて遊ぶお気に入りのセルロイド製の黄色いアヒルを両手に持って心配げに小さな眉をひそめてあかねが訊いた。
「─どないしたん?おなかでもいたいん?」半ば泣き出しそうに言ったあかねの言葉に、夫はようやく目だけ布団から覗かせると、
「ごめんな?お父ちゃん風邪ひいたんや─」くぐもった声でそう言うと再び顔を隠した。
泣きそうに丸まった父の布団を見つめ、次いですがるように母を見た娘に声をかけようとした時、ある予感がよぎり香苗は思わず言葉をのみ込んだ。
「─不況でな。ウチもいよいよ来月から人員削減がはじまるらしい」狭い玄関の上がりがまちに腰かけ、汚れた作業靴を脱ぎながら言った数ヶ月前の夫の言葉を思い出したのだ。
香苗は悲しげにいる娘の横に立つと腰を屈め優しく、
「お父ちゃん、お熱があるんやて。今日はおかあちゃんとお風呂しよ?」そう言うと夫のせんべい布団を一瞥しただけで声は掛けなかった。
 翌日、いつものように五時に起き味噌汁の火を掛けながら卵を割っていると背中に視線を感じた。
振り返り見ると夫が立っていた。心なし顔も土気色に疲弊して見えた。
「─おはよう。今朝ははやいねえ」そう言うと、
「─あ。うん」夫は短くそう言った切りでしばらくの間じっと立っていたが、やがてそのまま背を向けると洗面に向かった。
香苗は予感を口にしかけたが危うくのみ込んだ。
朝食の膳でも終始無言だった。普段なら隅々まで目を通す新聞も開いてもいない。
かちゃかちゃと響く茶碗とはしのぶつかり合う音と味噌汁をすする音の間を縫うように、テレビのニュースだけが無機質に流れていた。
あかねも食卓にある良くない空気を察しているのか、時折目を上げて父親を見遣りながら黙って可愛らしいイチゴ模様の小さなはしを動かしていた。
「─おかわりは?」香苗が聞くと、
「─もうええわ。ごちそうさん。─行ってくる」そう言うとおもむろに立ち上がり、玄関の靴箱の上に置いた風呂敷に包まれた弁当と水筒を手にした。
テレビのデジタルを見ると毎日の出勤時間より30分も早い時間だった。
それから一月ほどは何事もないように過ぎた。夫の様子もいつも通りに戻っていたような気がする。
 だがつい二日前の事だ。
「─おかあちゃん、おとうちゃんゴクウゾウのはしにおったよ!きょうはおやすみなん?」まだ半日授業で、思いもかけず大好きな父親を見つけたのがよほど嬉しかったのか玄関の引き戸を勢いよく開けながら息を切らしてあかねが半ば叫んだ。                 
「おとうちゃん!てさけんでんけどな、とおくてようきこえんみたいやった」
香苗は一瞬洗い物の手を止めたが、
「─あ。そういえば言うとったわ。─おとうちゃん、すこしの間おやすみやねんて」そう言うと上がりがまちで足をぶらつかせ嬉しげに母を見上げるあかねに近づき声をひそめ、
「─けどな、お父ちゃん工場の大事な用事で休んでんねんで。仕事やから声かけたりしたらあかんよ?あとな、誰にも内緒の大事な仕事やねんから、あかねもお母ちゃんもおとうちゃんが橋んとこにおったこと、知らん振りしとかなあかんよ?」そう付け加えた。
話が分かったのか分からなかったのか黒目がちの大きな瞳をくるくる動かし、小首をかしげるあかねに、
「ええな?知らん振りやで?」香苗は笑顔を崩さず言いながら黄色い帽子の上から頭を撫でつけそう念を押した。

 御供僧橋は酒匂川と云う太い満々とした本流からの支流の一つに架かる橋で、かつては生活用水が混濁する汚い水質だったが数年前の夏、いたずらに釣り糸を垂れた地元の子どもが鮎を釣り上げた事から,地域の自治体の申し出により役場が水質改善を推進した。
結果現在では放流された色艶やかな鯉が泳ぎ、6月の解禁日になると結構な数の太公望で賑わいを見せる。
春には背を伸ばしたタンポポが川面を見下ろす風情で見事な黄色をまとい、風に揺れるその花に時折、ツイーーッと細い音を響かせてカワセミがとまり、整備されていない川沿いの林立した桜の花を愛でに結構遠くからも人が訪れる。
逆に冬場には住宅地から離れていることもあってか人の通りも少ない閑散とした風景に変わる。
川を挟んだ反対側に少し歩くとまばらだが数軒家が点在し、そこにあかねの友だちの家がある。あかねは学校帰りに寄り道し遠目に父を認めたのだろう。
欄干にもたれるようにして夫はいた。
香苗は伸びきったススキの茂みを探してそっと窺い見るように佇んでいた。さわさわと冷たい風が頬に当たる。風に乗って離れた場所にある公道の音が聞こえていた。
しばらくすると夫は丸いエボシの横に風呂敷包みを置き包みを解くと弁当箱をじっと見ていた。
やがて箸を取り出すと玉子焼きを口に入れ、味わうようにゆっくり口元を動かしながら目を閉じた。
飲み込むと目を開け、時折流れる水面を見下ろしながらまた箸を動かす。水筒のお茶を蓋に注ぐとゆっくり啜り今度は普段あまり開かない携帯を取り出し、どうやらどこかの番号を検索しているようだった。
 高校を卒業してからもう二十余年、今の工場で旋盤工として勤めてきた。
よほどの事がないと休みもとらず有休も溜まりに溜まっている。たまのつきあい以外ほとんど家を空けることもなかった。
「─うん、ほんまに旨いなぁ」毎日決まってビールの小瓶一本と、あてに玉子焼きをつまみながら目を細めて言う。タバコは好きで毎日かなりの本数を吸っていたが香苗の妊娠を知った日にぴたりと止めた。
「─ええことないからなぁ。おまえと、お腹の子ぉに」そう言って笑っていた。 
 解雇の憂き目をみたのは明らかだった─。
地元では大きな親会社を通じて通告されたのならやはり一月前、様子がおかしかったあの日なのだろう。
一体いつ、どのタイミングで言い渡されたのだろう─。その時あの人は一体どう応えたのだろうか─。はたしてどんな気持ちだったのだろうか─。さぞかし無念で真っ先に私たち家族を想い浮かべたに違いない─。
「─いやあ、旦那さんが仕切ってくれとるからホンマに助かるわ!職方皆の手本、ウチの会社の宝や!」いつだったか家族同伴の懇親会で親会社の社長から言われた言葉だ。
「─なんや、何が宝や。─みなウソっぱちやないか」香苗の口から思わず言葉が漏れ同時に、不意に大粒の涙がこぼれた。
「行ってくるよ─」今朝も独り抱えた不遇をおくびにも出さず、何事もないように弁当を手に家を出て行った。
あかねが認めてからとうに一週間は過ぎている。
早朝から退勤時間までの長い時間を見計らって、毎日ずっとここにいるのだろうか─。それとも少し離れてるが街まで歩き、どこかで時間を潰しているのだろうか─。
「ごまかしのきかん人やからなぁ─」そう呟き、家族を慮る故の精一杯の不器用な行動と気持ちとを考えるとまたやり切れない悲しみが迫り上がり涙がとめどなく溢れ出た。

 その日の晩、小瓶に残ったビールを注いでやりながら、
「─なあ、あんた?わたしも少しだけやけど外に出ようと思うとんのやけどな」わざと目線をコップの中味にそそいだまま香苗が口を開いた。差し出さしたコップを持つ手を止めた夫が自分を見つめているのを感じたが、
「あかねも学校に行くようになったし、ただ家にいるだけの時間ももったいないやろ?今はあんたの稼ぎで十分楽さしてもろうとるけど、ゆくゆくのために、な?」目線を上げずにそう続けた。暫くの間の後、
「─ああ、お前の考える通りにしたらええ」いつもの穏やかな声色でそう返答があった。
「─わしもな、」その声に香苗が目を上げると、
「─あ、いや、─どうともない」夫は言いかけた言葉を泡立った苦い液体と一緒に飲み込んでしまうと俯き、手元に目を落としたまま押し黙ってしまった。
「おとうちゃん、あかねもうねむたいわ」テレビを見ていたあかねが目を擦りながら振り返ると夫は途端に相好を崩して、
「─よしゃ!ねよねよ─ホレホレ」そう言いながらあかねを立たせ、後ろから長い両腕で包み込むようにして狭い寝間に追い立てた。
 あかねは昔から近隣にいる腕のいい産婆さんがとりあげた。
まだ残暑が残る九月─。早朝から間隔をあけた陣痛が始まり、その日だけは夫も工場を休み香苗の傍にいてくれた。
「─しんどいなぁ、香苗。辛抱やで─頑張るんやで」そう励ましてくれながら一時も休まずに腰をさすってくれていた。
結婚して五年目にやっと授かった子だった。夫の喜びはひとしおで、へその緒を切ったその日からずっと毎日我が娘に添い寝している。
あかねは父親の肘が大好きで、尖った骨のところをまさぐり丁度キスをするようにしながら深い眠りにつくのだった。
赤子の時から夜中どんなにぐずろうが夜泣きをしようが疲れて眠たい身体を起こしてくれ、飽かずにあやしてくれた。母乳だけではお前の身体がもたん、そう言って間隔の短い授乳時間にミルクを温めてくれていた─。
香苗より九つ歳上で四十を過ぎている。不況の真っ只中、多分再就職は楽ではないだろう。だがかけがえのない家族を守るため間を置かず動き出すに違いない。
「─仕事はな、銭カネだけやない。事に仕えるちゅうことや。お前がこしらえたもんが世の中に出て、きっと今も誰ぞの役に立ってるんやで?本気で想像して見い?お前がたった今、誰ぞの役に立っとるんだと。─もっと胸を張らんか!」
いつだったか仕事に行き詰まりを感じた若い職方を家に呼び、そう励まし笑っていた。
自身のその公言の通り自負を持ち誇りを持ち家族を守り、そして今までを勤めてきたのだ。あまりにも唐突に置かれてしまった納得行くはずのない境涯に恐らくは疲れ憔悴している今、少しだけでも休ませてあげたい。
寝かしつけながら自分も眠りに落ちてしまったのだろう。締め切った襖の向こうで立てているかすかなイビキを聞きながら、香苗はそう考えていた。
 翌々日は灰色の重たい雲が垂れ込め、空気も朝から痛いほどに冷え込んでいた。
さっそく見つけた近所のスーパーのレジ打ちのパートの面接に向かうため身支度を整えている時だった。鏡台の鏡に映る窓ガラスの向こうに白いものがちらついて見えた。
予感がして立ち窓を開けると入り込む寒風に混じり風花が舞っていた。
「─きれい」そう呟き同時に今朝も変わらぬ風を装って家を出た夫が今、橋で寒さに耐えながら佇んでいるやも知れぬ姿を想い浮かべ眉をひそめた時、不意に玄関の呼び鈴が鳴った。
あまり建てつけの良くない引き戸を開けると立ったいたのは若い女だった。
女は香苗を認めると深々と頭を下げた。
寒風にさらされながら歩いてきたのだろう。頬は寒さに紅潮していた。
マタニティの様相から妊婦であることは直ぐに分かった。
「─あの、ご主人様は」第一声だった。
「─出かけとりますけど?」言いながら改めて女の顔を怪訝に窺うと、女はすぐに以前何度か家に来た事のある若い職方の名を名乗りもう一度深く頭を下げた。
大きく膨らんだお腹に目を遣りすぐに上がってもらおうとしたが、何故か彼女はそれを頑なに拒んだ。
仕方なく狭い上がりがまちに座布団を敷くとようやく腰を下ろし、呼吸を整えるように大きく息を吐いた。隙間風が音を立てて入り込んでいた。
「─冷えとるとようないよ?」香苗が言うと彼女はじっと俯いたまま、時折お腹をかばうように撫でしばらくの間言葉を探しているようだったが、
「─さ来月が予定日なんです」顔を上げずにやっとそう言った。
「なら余計に大事にせんと─」香苗が言うと目線を上げたが、その瞳には溢れんばかりの涙が揺れていた。

「─おかあちゃん、どないしてん?めめまっ赤やで。ないたんか?」夕刻になって鼻の頭を真っ赤にして遊びから帰って来たあかねがそう言いながら心配げな顔を寄せてきた。
「なんでもないで、ちょっとゴミが入っただけや─。なんやあんたこそトナカイさんみたいなお鼻して」香苗はそう言うと娘の鼻の頭をちょん、とつついて笑った。
「おかあちゃん、ゆき、つもるんかなぁ─」楽しげに母を見上げてあかね言った。
縁台に向かうすりガラス越しに冬風にちらちら舞いはじめている粉雪が見えていた。
 その晩、帰宅した夫が肩の雪も払わず背を丸めて作業靴を脱いでいる姿を台所に立ち見ながら朝方の訪問の件りを話すべきか考えあぐねていたが、それは何よりも自分たち家族を優先し案ずることのないよう心を配って行動してくれている夫の内情を先回りして突きつけるだけのような気がした。
「─おかえんなさい、寒かったやろ?」香苗が声をかけると、
「ああ、なんや雪がつもりそやからな─」夫は羽織っていた防寒着を脱ぎながらそう応え、急いで出迎えたあかねの頭を優しく頭を撫でながら弁当の包みを渡した。

「─なあ、あんた?」珍しく遅い時間、二本目のビールの栓を抜きながら香苗が口を開いた。
「なんや?どないした?もう二本目やで。わしはもうええがな」夫が言うと、
「いや。今晩はウチもちょびっとだけ─」香苗は持ってきた自分のコップにビールを注ぎ、泡だけ舐めるように口をつけると小さく息を吐き、
「─ウチな、あんたと一緒んなって─ホンマ良かったわぁ」呟くようにそう言った。言い終わると自分の頬が自然に火照るのを感じた。
「─あ?なんやそりゃ、なんやこそばいなぁ」夫はそう言いながら職人にしては華奢で長い指の先で右の耳を掻きながら、本当に久方ぶりに目を細めて笑った。
 夜寝床に入ってもポッカリ目を開け、点っている頼りない橙色の小さな電球をぼんやり見ながら中々寝つけずにいた。
「─ありがとうございます。ご主人に、─本当に助けていただきました」涙で詰まりながら繰り返しそう言っていたか細い声が耳に去来する。
 実情は鹿島と云う若い職方が今回の人員削減の対象だったらしい。
「─真面目やし、見どころのあるやつなんや」時折家に招き送り出した後、夫が良くそう言っていたまだ二十代半ばの若者だ。
人員整理の対象についての規定は良く分からないが通告は恐らく本人にとっても目をかけていた夫にとっても青天の霹靂だったに違いない。
通告を知った夫は即座に工場長に掛け合い、親会社にまで直接出向いたという。
そこで人事部の責任者と口論になり激昂した掛け合いの末、自分が代わりに退職することで鹿島の在籍をほとんど無理やり認めさせたのだという事だった。
「─なんや、眠れんのんか」まだ起きている気配を察したのか、夫が声をかけてきた。
「─うん、少し考え事しとった。あんたこそどないしてん?まだ夜中やで?」真ん中で小さな寝息を立てているあかねを挟んで顔だけ傾け笑みを向けると暫くの間の後、
「─香苗わしな、工場辞めたんや」ポツリとそう言った。知っていた事とは言え、思わぬ夫の唐突な告白に戸惑い返答をあぐねていると、
「─すまんな。今まで黙っとって─けど心配せんでええ、あんじょうするさかいな」夫はもう一度それだけ言って寝返りを打つと壁側に顔を向け、それきり身じろぎもしなかった。
しばらくして小さなイビキが聞こえてくると香苗は身を起こしそっと布団を掛け直してやりながら、
「─いつもおおきに、あんた。ホンマに誇らしいで」そう小さく呟くと、
「─じきに子ぉ産まれるんや。放ってはおけん」そう返す声が聞こえた気がした。

 日曜日の翌朝、目覚めると外はシン、と静まり返っていた。普段なら聞こえてくる外の喧騒も何故か押し黙っているみたいだった。部屋が妙に冷え込んでいる気がしてふと見ると夫とあかねは布団はもぬけの殻だった。旧い柱時計を見ると時刻はまだ七時にもなっていない。立ち上がり台所に向かうと、
「─おかあちゃん!ゆきやゆき!おおゆきや!」いつの間に起きたのだろう、外からあかねのはしゃいだ声が聞こえてきた。同時にガラッ、と玄関の引き戸が開き入ってきたのは頭から雪を被った夫だった。
「─おうおう、えらいつもっとるわ」あちこちに付いた雪を手で払いながら珍しい満面の笑みで香苗を見た。
「─おかあちゃんもでてきなよ!」あかねの声に誘われるまま外に出ると、辺りは一面白銀に覆いつくされていた。雪は止んでいたが空にはまだ厚い雪雲が垂れ込めていた。
「かまくらも作れそうやな─」そう言って後ろで笑う夫の手が自然に香苗の左の肩に置かれた。香苗はその指に自分の掌を乗せるとそっと自分の頬に寄せた。
 その日の昼過ぎ、また降り出した雪の中再び意外な訪問客があった。
来客は工場長だった。鹿島を伴っていた。
工場長は夫を認めると凍てついた狭い玄関の床に着かんばかりに深々と頭を下げた。

 十数年に一度の大雪は子どもたちを大いに喜ばせたがその後片づけも実に大変で、香苗もここ数日は汗にまみれ経験のない雪かきやら溜まりに溜まった乾きの遅い洗濯物に追われていた。
「─おつかれさん、行ってくるよ」穏やかだが張りのある声に振り返ると夫が立っていた。優しい笑顔を香苗に向けている。
玄関先の日陰で凍てつき、中々溶けようとしてくれない雪の塊と格闘し額に汗をにじませている香苗にスッと近づくと、腰にぶら下げたタオルで汗を拭いてくれ次いで大きな掌で頭をポンポン、と叩いた。何だかあやされているみたいで嬉しいような恥ずかしいような感情が湧き上がり、香苗は思わず頬を赤らめた。
 夫の退職は工員達にとっても大変な衝撃で、夫の尽力により残籍になった鹿島が先頭に立ち署名を募り夫の復職を願い出たのだと云う。行員一丸になっての異例な申し出に親会社の人事も動かざるを得なかったらしい。署名には工場長も率先して加わったとの事だった。

 その晩、夫は帰る早々嬉しげに、
「─なんや、皆でわしの復職を祝うてくれるそや」そう言って玄関先であかねに弁当の包みを差し出すと、そのまま忙しげに出かけて行った。

「─なあ、おかあちゃん?おかあちゃんはなんでおとうちゃんとケッコンしたん?おとうちゃんのどこがすきなん?」旨そうに海苔のついたご飯を頬張りながらあかねが母を見た。香苗は少しの間言葉を探したが、
「─お母ちゃんな、お父ちゃんの優しいとこと、大きな手が好きやねん。」素直にそう応えた。
「おおきな手?」円らな瞳を動かしてあかねが聞き返した。
「─うん、大きな手ぇや。おかあちゃんよりずっと大きうて、けどゴツゴツしてへん優しい手━あかねを抱っこしたりな、お母ちゃんを支えてくれる━いつまでも頼もしい大きな手━」そう言い娘に笑顔を向けると、
「あかんて!─」不意に大きな声を出してあかねがキッと見た。香苗がきょとんと首を傾げると少しの間の後、
「─ならええわ、おかあちゃんはおててな?けどひじはあかん!ウチのやで、な?」そう言うと片エクボのできる左の頬にご飯粒をつけたまま母を見つめ、味噌っ歯を見せてニッと笑った。

        

                    了

アルマイトの弁当箱

アルマイトの弁当箱

  • 小説
  • 短編
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