【宝胤の夢】第一話(試し読み)
1:宝胤の子ども
1 宝胤の子ども
大きな、さかなだったと思う。
それは、灰色や、青や赤に光る、砂つぶの海をわたる。
おおきな、魚。
地上の凡てを灼き尽くすような太陽をものともせず游いでいく。
ぎんいろの、まぶしい飛沫をたて、どこまでもわたってゆく。
雲でできた天上の輪を目指し、ひときわおおきく跳ね、
そうして、僕の顔に夢の飛沫ではない砂つぶが、ざぶんと掛かった。
***
「皇子が落ちた!」
「駱駝を散らせろ!」
兵士たちの怒号が飛び交う駱駝の群れの足元で、唐突に夢から覚めた少年はわけもわからないまましたたかに撲ち付けた体が、一瞬で硬直するのを感じた。
背中から落ちたせいで息が詰まったということもあったが、目の前を、後ろを、あちこちを太い駱駝の足が踏み抜いてゆく地揺れと足音に一瞬で凍り付く。
駱駝から落ちたことを悟り、無防備に緩んだ四肢をぎゅっと引き寄せ小さくなったのは危機に瀕する本能によるもの。ころんと小さな石ころのように丸くなった少年は、どうかどうか踏まれませんようにと必死で祈った。
その祈りが聞き届けられたのか少年が踏み抜かれることはなかったが、蜘蛛の子が散るように方々に駆け去ってゆく最後の駱駝の足が肩を掠め、殴打される衝撃と痛みに砂の中に転がった。詰めていた息が破裂したように吐き出る。
「なんだ、さすが死んでない」
「馬鹿、事故をそんな風に言うもんじゃない」
ゆったりとしてうたうように話す、耳馴染みのよい声だった。絶えず吹き渡る風の中にあってもよく通り、すんなりと耳に届く。反対に、少年と共に砂漠を同行してきた駱駝乗りの男たちはいつも怒っているのか不機嫌そうな低い声で、聞き取りづらい早口で喋るので、ひとしお余裕があるように聞こえたのかもしれない。
痛みに呻きながら顔をあげると、薄く巻き上がる砂埃にかすむ二人分の足が目に入った。
暑い砂漠には不向きそうな黒のすっきりとした長衣だ。薄手の綿麻だろう。足首まで覆う丈の上衣は腰のあたりから裾が前後に分かれている。緩い風に翻り、同素材でたっぷりと布を使った幅広の下衣の揃いは色はともかく涼し気に見えた。
少年はその狭い視界に辛うじて入る初めて見る形の衣服に、砂漠を越えた先にある国、次の目的地であるチェレステ皇国のひとだろうかと頭の端で考える。
二人いる片方がさふさふとやわらかな足運びで歩み寄ってきて、そうっと少年の肩に触れた。痛みに喘ぎ脂汗の滲む幼い顔立ちを覗き込み、視線を合わせてにこりと浮かべられる人懐こい笑みに、痛みに緊張し引き攣る筋肉が一瞬だけふやっと解けた。
「早く連れていって手当てしてあげて。兄さんは俺と先方に」
「いや、きみが連れて行くべきだ。宝胤の子どもの手当てがファランじゃ不安だからねえ?」
でも、と二の句を次ごうとする男を、あとから歩み寄ってきた男が止めた。
「任せてよ。そりゃあきみがいるに越した事はないかもしれないけど」
「わかった、任せる。戦争しないでよ? 武器は抜かない抜かせない。すぐ戻ってきてね」
肩に触れていた手がするりと脇に差し込まれ、驚く程軽い手つきでふわっと少年は抱き上げられた。高い視界に目を丸くすると、先ほどの比ではないくらい近くにある、整った美しい顔立ちに心臓がどきりと跳ねた。
眸は渇き始めの茶を帯びた血色、光の角度で濃い褐色のようにも鮮やかな紅にも緋にも見える、底知れない赤銅だ。光を受けて色が変わるように見えた。
「敵じゃないから安心してね」
返事をしようと思ったが、まともな言葉は出せなかった。痛みで歯を食いしばり、辛うじて呻き声がこぼれないように堪えるのが精一杯だ。敵ではないという言を鵜呑みにするわけではないが、敵だろうが味方だろうが現時点で自分に抗う術などないと少年はわかっていた。
すぐに屋根のあるところへ運ばれる。砂漠の真っ昼間、日射しから逃れるだけでほっとする。肌を焦がす強い陽光に長時間晒され続けるだけで体力も精神も削られていく。
もうひと月近くも、少年はこの熱砂の海を渡ってきていた。
患部を見るため服を破るよと伝える間にも少年の衣服をびびびと簡単に引き裂き、彼は酷く鬱血しはじめた肩をしげしげと眺め、やわらかく清潔な綿布をあて、次に添え木をして肩周りを動かせないように固定する。しゅるしゅると巻き付ける薄布から、鼻が奥まですっと通るような澄んだ薬草の香りが漂った。
「俺たちはチェレステ皇国の者なんだけど、きみはディンガディンガの皇子で間違いないね?」
湾曲した壁際にとびきり厚い敷物を敷き、わた入りの掛布やまくらをありったけあつめた場所に少年を寝かせ、一応の確認といったふうの声色で問う。
女神も嫉妬するだろう女性的な美貌だがやはり男性らしいことをその声色で認識しつつ、少年はずきんずきんとうずく痛みに眉を寄せつつどうにか肯く。
「そう、ならいいんだ。痛み止めを作るから、少し我慢していてね」
鎖骨の中心から肩の端まで、身体を前後から挟む添え木はがっちり固定され非常に居心地が悪い。壁と壁の狭い隙間に無理やり詰め込まれたみたいだったおまけに痛みはこれでもかと激しくなり、最早痛いのか熱いのかわからなくなっていく。
眩暈もする。頭痛もある。頭の中身が熱を持ち膨らんで、このまま膨らみ続けて破裂してしまうのではないかと馬鹿な不安がよぎるほど。
自分が今きちんと呼吸しているのかすらわからず喉が引き攣る。額を、頬をだらだらと伝う汗が気持ち悪いのに、手足は冷え切ってしまったように感覚がなく力が入らない。駱駝の足が掠めただけで、こんな状態になるんだ、と固い骨の内側で苦しく詰まる頭で考えた。
相当痛んでいるのだろう少年を横目に、彼は手元に引き寄せた薬箪笥から既に練ったり擂ったりしてある薬草を必要な分だけ取り合わせ、更に練り合わせて小さな丸薬を作った。
まな板で目釘を打ち込まれた魚のように硬直し動かない少年を抱えて上体を起こし、慣れた手付きで水と共に飲ませてやる。ほっと息を吐いた瞬間を狙って後頭部の下、うなじよりも少し上のやわらかいところを指で突いた。チェレステ流の応急処置だ。
敵意も何もないひと突きに少年はあっさりと意識を失う。人間の急所、その中でも秘孔を的確に突くのは難しいが、彼は手慣れていた。
酷い怪我の時、下手に意識があると変に身体に力を入れるせいで無駄な体力を消耗する。怪我人をどうしても自力で歩かせなければならない状況でない限り、意識を失わせ仲間内で運ぶのがチェレステ軍の常だった。目を覚ます頃には薬も効いて痛みも抑えられているだろう。
適当に投げてあった外套を引き寄せ、畳んで少年の背にいれてやる。背側にある添え木でせっかく寝かせているのに身体に変な負担がかからないように。意識がない間は寝返りも打たない。これで患部を休めるには充分な環境が整った。
「大人しく引き下がったよ。なんとなく不満そうではあったけどね」
男二人は戻ってくると、寝かされている皇子を見やった。顔色が悪く唇は青い。壁際に集めたふかふかのやわらかな布ものの海に顔だけ出して埋められたような姿だ。無防備な寝顔がひどくあどけない。
手当を済ませた彼は薬箪笥の抽斗をきちんと押し込み、扉を閉じた。
「手綱オレとるぜ。どこに向かう?」
「とりあえず今夜は一番近いところで休もうか。なるべく早く戻りたいとは思うけど、あんまり揺らして怪我が痛んだらかわいそうだし」
了解した、と三人のうち末弟であるファランは御者席に移り、長兄シデが次男ルディの側をすり抜け奥へ乗り込んだ。
彼らの乗り物はチドぞりと呼ばれる。チェレステ皇国に程近い地帯に局部的に棲息するチドという大型爬虫類を飼い馴らし、手綱をかけ曳かせた大型のそりだ。
チドは鼻先から尾先までが実に十ジラー(※一ジラー約五十センチ)をゆうに越える砂漠適合動物で、巨大な蜥蜴の姿をしており、大きな鱗はひとつひとつが人の拳ほどもある。とりわけ大きな個体ともなると十六ジラーから二十ジラーにも及び、これほど大きくなるとおおよそ人間の手には余る。凶暴で飼い馴らすのが難しい個体であるため国内には、皇帝のそりを曳くための特別な二頭だけが存在する。
チドに繋げるのはラッパ型のそりで、この形が最たる特徴だ。あちこちから吹き付ける砂漠の風の中を走るため高さは無く前後に長い。すぼまった方に御者席があり、内部は成人男性の二三人が横になれる程度の大きさがある。
屋根の形に工夫があり、ゆるくとがる山形はすなわち船底の形をしていた。特にやわらかい砂地を走る時、中に仕込んだ床板を引き抜き、本体の上下をひっくり返して走るのだ。
出入口となるそりの背はまっすぐ見ると上下から軽くつぶした楕円形で、出入り口はそり板か船底のどちらが上下にあろうと開くよう上下左右四つに分かれた観音開きとなっている。
チド一頭で成人男性の七八人が乗るそりまで曳くことができ、国家要人などを乗せる特別重厚なそりを曳く際はチドを二頭三頭と増やせばいい。太く短いが俊敏に動く脚で砂上を滑るように移動するチドは、砂漠において最も優れた運搬能力を持つ生き物であった。
チドを見るなり狂乱し騎乗した男たちを振り落として逃げ惑う駱駝たちを追いかけ奔走している隣国ハレルンの使いを後目に、チドぞりはなめらかに砂地を滑って進み始めた。
「嵐が来そうな感じだねえ」
ざあざあざあざあ。そり板が砂地を嘗める音、頭上に吹き荒れる風の音が絶えず聞こえるそりの中で、シデがのんびりと声をあげる。
御者席のある前部と、自分達が座し少年を寝かせている後部には砂が入り込んでこないよう入り組んだ空気穴があり、走るとそり内の空気が常に循環するように造られている。風が通ってさえいれば、長時間日光を浴び続けても殆ど熱を伝えない樹を素材にしたチドぞりの中はかなり快適に過ごせる空間となる。乗り込んでいる二人はとても砂漠の最中に着るものではなさそうな軽い衣服で寛いでいた。
兄の言う《嵐》が物理的なものかそうでないものか、どちらを指すのか考えつつ、適当に相槌を打つルディは少年の額や首筋に滲む脂汗を水を切った布でとんとんと拭ってやった。痛みにあえぐように浅い呼吸を繰り返す姿を見下ろし、赤銅色の眸が憐れみに暗く沈む。
「来ないといいよね、辛い嵐は」
兄弟の属するチェレステ皇国は、大陸ナーナの東端にある小さな果ての国だ。
国土は北方一帯を砂漠の側にあるというのに頭に年中雪を頂くデマルガン山脈、東南を赤い海レーデレーデ、西を大砂漠ヴァスティエという過酷な自然に押し込められる形で、平地から山裾にかけ猫の額ほどに展開している。
対して駱駝乗りの隣国ハレルンの使いたちが帰っていく国は、チェレステから遙か西、大砂漠ヴァスティエの次に塩湖群をいくつも越えた先にある。北にある大塩湖アヨ・ヒから南へとまっすぐ下る塩河を擁すが、この水が含む塩気のため土地は耕作に適さず、細々と製塩業を営む王国だ。
様々な自然に押し込められるチェレステ皇国と異なり、ハレルン王国は大陸の中央に荒々と広がる平地を中心とした広大な国土を持つが、人は比例して少ない国であった。それでもチェレステ皇国の何倍もの人口ではあるけれど。
とみに貧しく食うに困るほどではないと聞くものの、国民の殆どが製塩業に携わるハレルン王国の生活様式は、山からは金属や宝石を産出し、海からは海産物を得、国土の半分近くを占める美しく整えられた海岸部には数多の船が出入りする港を擁し、外海を渡った先のあらゆる国と貿易で繋がり、国民の数に反比例する富を生み出す経済構造を持つチェレステ皇国とは大違いであった。
内陸で細々と製塩を営むハレルン王国と、大陸の端で海を越えた先の国との貿易によって栄えるチェレステ皇国とでは国力にも経済にも大きな開きがあった。
ルディは少年の世話を焼きながら思案する。無事にこの子供を預かり受けられたことは良かった。まさか遠目にチドを見ただけで狂乱し暴れ出すような駱駝を使っているとは思ってもみなかったが、頭を蹴られたり内臓を踏み潰されたりしなくて本当に良かった。鬱血はそれなり酷いが、治らないものではない。
少年はここ大砂漠ヴァスティエから極西、ハレルン王国を越え、小国群を越え、チェレステ皇国とは真反対の大陸の西の端、半島国家ディンガディンガの第三皇子である。そんな場所から供の一人もなく、訪れる国々の助けを得てここまで来た。
彼は預言を享けた宝胤の子どもだった。
各地の神殿では信奉する神こそ違えど、神拠り人と呼ばれる地位にある人間が存在し、それは神官や神仕、神子などとは本質的に異なる。神拠り人は文字通り神の憑代となり預言するために存在するもの。多くは神官や神仕を兼ねるが、やはり別格の扱いを受ける。
神が直接人に言葉を伝えるなど、滅多に起こることではなく、少なくともここ数百年、神拠り人に神が降りた例はなかった。だが、ディンガディンガの神拠り人に神は降りた。
絶対豊饒の約束である神紋を、これを享けるに相応しい国に達した宝胤の子どもを介して授けることを祝りあげられた。
この神託によって宝胤の子どもに選ばれた皇子は旅に出ることとなり、絶対豊饒の約束を欲する各国が彼を援助する。中には手厚く歓待し、ひと時でも長く自国に滞在させようという下心を見せる国もあった。
チェレステ皇国の富裕に臍を噛むハレルン王国にしても、神が直接与える豊饒の約束は喉から手が出る程欲しいものであったろう。逆に言えばハレルン王国ほど神による豊饒の約束を必要としている国は、経済状況から鑑みるに大陸ナーナ上に他にはなかった。
ハレルン王国は大陸の中央にありながら、他国とはどこからもそれなり距離があり密な交易を結ぶには遠く、孤立している。大塩湖アヨ・ヒから流れる塩河の水で作る塩はそれなりの品質でしかなく、薄い繋がりだけでは輸出もたかが知れている。
人々は他国へ流れたくても、最も近い隣国へたどり着くまでの糊口を凌ぐ食糧も金銭もない。食うに困り餓え死ぬほどではないとはいえ、辛うじて死なない、辛うじて生きていられる程度のギリギリを生きる貧国なのであった。
そりが緩やかに停まった。少年をハレルン王国から引き受けた時より一刻程が経ち空はもうすっかり暗く、外は衣服を重ね、更に毛織の厚い外套を羽織らなければ凍えるほどの気温になっていた。
断熱性が高く粘りの強い木材で造られたそりは中にいる分には比較的快適に過ごすことができるが、日が落ち冷えた空気が通ると、凍えるほどではないがそれなりに寒くはなる。
そり内のルディとシデは下がる温度に合わせて適当な服を重ね着し、すっかり夜の装備だ。少年は早々にわた入りの掛け布の上を更に毛布でくるまれている。
ルディは外套を羽織り少年の様子見を兄に任せ先に外に出た。風は比較的ゆるく吹き付け、吐く息が白く濁る。砂埃に煙る空に月が霞んでいた。
御者席から降りたファランがチドを労いベルトを外してやっているのを手伝う。そりは屹立する岩壁のすぐ足元に沿って停められ、突風で転がったり飛ばされたりしないよう、あとで岩壁に杭を打ち込み綱を張って固定する。
自由になったチドはさほども離れない場所に腹が埋まる程度の浅い穴を掘り、休む場所を整え始めた。
岩壁の足元には砕けて落ちてきたのであろう大小様々の岩が転がり、ルディは自身の身丈の何倍もある巨石の陰を覗き込んで声を上げる。
「ここだよ」
ハレルン王国とチェレステ皇国の間には、世界で最も広大な砂漠、ヴァスティエが横たわっている。あまりに広大で苛酷な環境であるため、特別強靭な砂漠品種の角駱駝や、チドやアガドといった大型砂漠動物に頼らなければ、人の足では横断も縦断も難しい。水が湧く場所は殆どなく、オアシスも存在しない。二国は国土も貧富も差が大きいが、争いが起こらないのはこの砂漠があるからだ。
チェレステ皇国はしかし、この砂漠のあちこちに滞在できるよう備えた野営地を常に幾つも隠し備え管理している。ここもそのうちの一つだった。
巨石の陰になった岩壁には人が半身になって滑り込めそうな幅の、縦に走る亀裂があった。ルディの頭の上にランプを掲げるファランは兄の頭越しに覗き込んで場所を確認するが、巨石の陰にある亀裂の奥は、掲げた明かりだけでは見えなかった。そこにはただただ底知れぬ真っ暗闇が満ちている。
するりと身を滑り込ませ、内側から腕を伸ばしてルディがランプを受け取った。
「明かり点けとくから、兄さん呼んであの子と荷物運び入れてくれる?」
「了解」
そりに向かって砂を蹴散らす足音を聞きながら、ルディは人工的に穿ち広げた洞窟の壁に埋め込んだランプの油が駄目になっていないか確認し、手持ちから火を移して回った。洞窟内六箇所のランプに火が入ると中は充分明るく照らされ、出入口の亀裂横に転がされ、砂埃を被った置き荷が確認できた。中央には布で覆われ、すぐ火を入れられるよう積まれた薪がある。
大砂漠ヴァスティエの、ハレルン王国に近い地区にあるここは、使用されることは殆どない。チェレステ皇国が砂漠に漕ぎ出すのは、限られたチド狩りの季節と、細々とだが交易のあるハレルン王国よりも向こう側の小国群へ荷を運ぶ時くらいだ。
それでも遭難者などがあったときのため、置き荷の中身は定期的に交換されるが、泥封にある刻印は、もうあと半月ほどで設置から丁度一年が経つ日付であった。
ルディは一番大きな甕を薪のそばで横に転がし、剣の鞘で叩き割った。中に入っていた金属の調理器具や様々な道具を整理し、腰に提げた火打ち鎌で火を入れた薪周りに支柱を立て鍋を吊る。
そりに載せていた荷をどやどやと運び込んできたファランから一番に受け取った水をなみなみと注ぎお湯が沸くまでの間に、壁際の砂の地面を掘り下げ敷物を敷いた。洞窟内は暑いからと早々にファランが脱いだ毛織の外套も重ねて敷いてしまう。
「皇子そこ?」
「うん」
すっかり整えられた場所に少年が寝かされ、そりの中同様にわた入りの掛け布などをたっぷり使ってもこもこと周りを固める。
少年のあとにも荷を運び込むために何往復かした後、シデはファランとそりを固定し、状態を念入りに確認した。そりは重たいが、ヴァスティエの強風はそれすら容易くさらって破壊することがあるからだ。
特に、どんな拍子で発生するのか未だ解明されていない、地表の砂を巻き上げ滑るように近づきながら大きくなる衝き波などは非常に危険な風だ。
衝き波の中は不規則に激しく渦巻く暴風に満ち、どんなに重たいチドぞりでも風向きによっては一瞬で転がされてしまう。何より巻き上げられた砂や礫は皮膚に直接やすりをかけるが如く荒々しく、御者殺しとも呼ばれ恐れられていた。
「あー腹減った。これ開けていい?」
「いいよ。ついでにそのへんの荷物こっち寄越して」
「あいよー」
焚火にかけた鍋の番をしているルディのそばに、ファランが置き荷の壺をごろごろと転がしていく。置き荷には誰が来ても必要なものが揃えられ、使った者が国に帰って報告をすると、管轄者が後日新しいものを届け、またいつでも使えるように備えられる。
万が一の遭難などの避難先にも想定してあるため、乾燥させた豆類や穀物、乾物を始め、あらゆる保存食が細かく分けられ壺や甕に密封して置かれている。ルディは小麦粉と干し肉の壺を開け、食事の準備を始めた。
シデは自分の場所を整えるなり焚火を背に横になって休んでいる。ルディは時折少年の様子を見つつ、沸騰し始めたお湯でひとくちサイズに千切った干し肉を戻し、持ち込みの根菜類の皮を剥き小さく切って一緒に煮込む。
火が通るまでの間にまな板の上で小麦粉と水を合わせて練り、平たく伸ばしたものを砂に埋め、燃えている薪を幾つかその上に移した。
鍋の中の具材に火が通ったら小麦粉を少しずつ溶かしこんでとろみをつけ、塩とスパイスで簡単に味を調えて完成だ。
「兄さん、ファラン、食事できたよ」
椀や匙を用意するのを弟に任せ、ルディは埋めた小麦粉の練り物を掘り起こした。
砂の中で薪の熱を受けこんがりといい具合に焼けたその表面についた砂を丁寧に布巾で落としていく。この無発酵の麺麭はクマッチと呼ばれ、チェレステ皇国では食事に欠かせない主食だった。熱々の羹や、砂糖を溶かしたお茶に千切ったクマッチをじゃぶじゃぶ浸して食べるのが好まれる。
国内に流通している小麦は東の大陸から船で持ち込まれる輸入物で、何も混ぜずともほんのり甘く、焼くと香ばしさと共に甘みが際立つ。
牛や羊など家畜の乳や酪と混ぜ合わせ、発酵させ成形したものを鉄鍋などに詰めて焼いた、ふやふやとやわらかい麺麭も街中では食べられるが、こと砂漠において乳類はすぐ腐って駄目になることを思えば、やはり昔ながらの水のみで練って焼くだけの素朴なクマッチが利便性に長ける。
何も混ぜ込まず生地だけを焼いたものが定番だが、細かく叩いた肉を包んで焼いたものや、擂った香草類を混ぜ込んだものなど、手持ちにある具材で何とでも工夫が利く。チェレステ人なら老若男女問わず誰もが作れる定番料理でもある。
三人で焚火を囲んで慣れた食事を摂り、食べ終えたあとの片付けをシデとファランがやってくれている間にルディは焚火に砂をかけ、壁のランプの明かりを落とした。火を残した手持ちのランプを、片付けを終えて毛織の外套と襟巻で厳重に防寒対策をしたシデが当たり前のように受け取って一人外に出た。不寝番をするのだ。
一番大きな熱源である焚火を消すと、洞窟の中はしんと静まり返った。出入口からひょうひょうと風の音が聞こえるくらいだ。
すっかり温まった空気の温度はこれから時間をかけて下がっていく。出入口の岩壁の亀裂にはシデが外から布を張ってくれた。これで朝になって日が昇り、暑くなる頃にはちょうどいい気温になるだろう。
真っ暗闇の中、ファランは既に整えてある自分の場所で横になり、ルディは少年の側で剣を抱え壁に背を預けて目を閉じた。
そよ・とわずかばかりの冷気が頬を撫ぜる感覚でルディは浅い眠りから目を覚ました。不寝番の交代の時間だ。
血縁でいる時は生まれの早い順に、仕事の関係でいる時などは位の高い者から順にするのがチェレステ流である。少年の様子が変わらないかみてから、中に戻ってきた兄が羽織っていた分厚い毛織の外套を貰ってすっぽりくるまり、襟巻を巻いてフードを被った。
「皇子は?」
「薬が効いているんだろうね、呼吸は随分落ち着いたけど、一応みててあげてね」
「わかった」
ルディは外に出た。ごつごつと転がった岩の、ひときわ大きな岩影に腰を下ろし、月明かりだけが寥々と降り注ぐ砂漠の景色を眺める。絶えず吹き荒ぶ風は昼間よりなんとなく静かに感じられ、巻き上げられた砂埃が晴れた夜空を霞ませていた。
チェレステ皇国側に広がる砂漠は礫の多い荒々しい白灰の砕石地帯だが、ハレルン王国側にあるこの辺りは柔らかい赤茶の砂地がゆるやかな丘陵を作る砂の海であった。砂漠とひと口にいっても様々な姿があり、勿論乾いた砂や岩石だけではない。場所によっては草木が茂り、季節が良ければ花も咲くし川が走るような場所もある。無論そこに至る為にはチドやアガドの足が必須だが、人足を拒む苛酷な環境なればこそ誰の手にも脅かされない美しい場所も多い。
これから皇子を連れて一度チェレステ皇国に戻り、怪我の具合によってはしばらくの療養した後、はるか北西にある永世中立国ラトムールを目指すことになるだろう。地理的にはハレルン王国の真北に位置するが、この二国の間にはハレルン王国の国土と同じほど大きい塩湖アヨ・ヒが横たわっている。
塩湖アヨ・ヒは極めて高い塩分濃度を持ち、更に水温も非常に高い。大砂漠ヴァスティエが隣り合うため熱による水分の蒸発量も多く湖の水は肌に触れると痛みを感じるほどで、殆どの物は浸けておくだけで傷んだりとけたりしてしまう。下手をすると延々と砂漠が続くだけのヴァスティエよりもよっぽど危険な場所である。
当然どんな素材の船もすぐに傷んでしまうため湖は越えられず、迂回するにしても相当な距離となってしまう。故に二国間には殆ど交流がない。これはチェレステ皇国を含んでも同じことで、ハレルン王国、永世中立国ラトムールとの三国には、それぞれの間に人間では到底太刀打ちできない苛酷な自然環境が横たわり、これによって殆どの交流を諦めざるを得ないのが現状であった。
ただ、チェレステ皇国から永世中立国ラトムール、またその逆に限っては、ハレルン王国までよりも距離は遠いのだが、互いにチドやアガドの足を持つためにほんの僅かばかりではあるが、年に数度挨拶程度の使節のやりとりがある。逆に言えばそれしかない。
皇子はさらにずっと西の方、それこそ地図で言えばこの大陸ナーナの最西端に位置する半島国家から北へ南へとじぐざぐに国々を渡り、ハレルン王国を通り、大陸の最東端にあるチェレステ皇国まで横断してきた。実際のチェレステ皇国はまだ遠いが、チドぞりがあるのでそれも余程天候や不運に恵まれない限りは半月ほどで到着する。
チェレステ皇国で休養をとったら、この大陸ナーナ上で皇子が向かうべきは残すところ永世中立国ラトムールのみとなる。そこに至ってもまだ神紋が降されなければ、海側へ出て森深き島国エ・ト・ヴォを始めとして小さな島に点在する国を渡りながら、東の大陸オーラムでも目指すことになるだろう。
まだあどけなさの残る少年は十を幾つか越したくらいだろうか。ディンガディンガの王制がどうなっているか知らないが、第三皇子とはいえ神に選ばれたからと手離すのは惜しまれたろう。会話も殆どしていないが、目を見れば賢い子供だということはすぐにわかった。
ルディやシデ、この兄弟を始めまだ皇子を見ぬ高官たちも皆、皇子がチェレステ皇国で神紋を得ることはないだろうと考えていた。それでなくとも神の恵みに浴した土地であり、神による豊饒の約束など頂かずとも既に富貴な国であるからだ。
傲りともとられかねない考えではあるが、只管の事実でもあり、皇帝からして兄弟に「皇子を無事保護し、次へ送り届けるよう」との勅命を下すあたり神紋を欲してもいなければ必要であるとも考えていない。
あからさまに言えば通り過ぎるだけのものなのだから、最小かつ上等な手段で確実に次国へ渡ってくれればそれでいい。
三人兄弟は、そういった理由で選ばれた最小規模の送迎者であった。三人それぞれが普段から割と自由のきく地位にあり、戦力があり、判断力がある精鋭中の精鋭。
「ルディ兄ィ……おはよ。そろそろ交代する」
ばさっと出入口の布を避けてファランが出てきた。
考え事をしている間にあっという間に時間は過ぎ去り、月は殆ど傾いて地平線のそばまで落ちてきている。深い深い紺碧に星を散らした天上の絨毯は色合いを滲ませ、空気を青く染め始めていた。
月が地平線に落ち、ぐっと一際暗くなったあと、朱金の光条を射殺さんばかりに大きく広げ射す太陽が顔を出すだろう。
不寝番用の外套をファランに着せるとルディは洞窟の中に戻った。日が射し始めても暫く氷点下の気温は続く。すっかり冷え切った身体には、ゆるやかに温度の下がった洞窟の中も暑く感じるくらいだ。
しかしそれも一瞬で、すぐに肌がぬるむ。出入口から見て一番奥に皇子、傍にはシデがついている。ルディは先ほどまでファランが休んでいた火の消えた焚火そばの敷物に横になり、今度こそしっかりと眠った。
【宝胤の夢】第一話(試し読み)