聖名
ルカ。
もちろん、本名ではない。
派手でも上品でもないピンク色の名刺に白の明朝体で刻まれたルカの文字を目にしながら、青年は無意識の意識で「はじめましてルカです」の声に神経を集中させていた。
彼はこのクラブに自分より年下か、あるいは同じ年頃か、いずれにしろ極端に世代の違わない女の子とただただしゃべるためだけに毎回何万円も自腹で支払う馬鹿馬鹿しさを半ば楽しんでいるつもりで通っている。酔狂。
つもりといった曖昧さの滲む表現だけに、正直なところ本当のところはよく分かっていない。その店に通う言い訳を探し、あれこれと自己正当化するために考えるようで考えない体で今日も店のドアを開けていた。
ルカと会うのは初めてだ。新人だろうか。この店に前からいたようには思えない。ルカといえば、青年がクリスチャンでもないのに親の脛をかじりながら通っていたキリスト教の学校で、毎日礼拝堂で開いていた、正確には開かされていた聖書を思い出す。
ルカって、男の名前じゃなかったっけ。
そもそも、ルカって誰だ。
知識の乏しい自分を今更恥じたが、そんなレアな疑問もチープな悔恨も軽く吹き飛ばすほど、青年の横に座るルカは、ルカという名以外考えられないほどルカ然としていた。しっくりくる。ぴったりだ。
薄暗い店内でもルカの素肌は、色白でガラスの様な透明感を解き放っていた。尋ねるでもなく聞くところによると北欧の血が少し流れているらしいのだが、顔は紛れも無く和だ。目は切れ長だけれど冷たい印象とはほど遠く、どことなく男をほっとさせる柔和な表情はプロフェッショナルのなせる業なのかもしれない。
「えーバイクに乗るんですか。わたしもなんです。自由になれるとか風になるっていう感覚はあまりないんですけど。良いですよね。今日も乗ってお店に来ました」
やばい。青年は、ルカの話す内容とは無関係に彼女の声色と話し方にすっかり魅了されていた。なんだろうこの感覚。演奏が始まったクラシックコンサートのホールで味わった異界に吸い込まれる感覚に似ていると思った。そんな快い動揺を悟られたくない一心でウイスキーの氷を指先で掻き回す。この場を制御する指揮者のつもりかって。もう酔ったのか。今夜はこれまでにないほど心地良いのに、どことなく落ち着かない。
当然話しの流れでバイク話で盛り上がる、でもなく、いつの間にか港町の単車集団のF氏の話しになり、やがて「男は意外性」という句がルカの口から自然と発せられた刹那、束の間の後になぜか彼は軽いカタルシスのような感覚を覚え、今日は元が取れたとひとり納得していた。御馳走様と言ってカードを取り出す。
会計を済ませ、エレベーターまで送りに来たルカは、業界特有のあの癇に障る甘えるような猫なで声ではないのに甘美な響きで、またの来店を心の底から願うように聞こえる蠱惑な言葉を紡ぎ、ドアが完全に閉まるまで手を振っていた。エレベーターが動き出す。彼女がまだ踵を返していない事を勝手に想起した。いや、懇願した。
タクシーで帰れば良いものを1時間もかけて歩いて誰もいない部屋に帰り、青年は飲み足りなくて冷蔵庫の中の麒麟を取り出した。カシッという音がしてプルタブを引き起こした瞬間、彼はルカが発した別の言葉を思い出す。
「アルミの微粒子は、体内に蓄積するとアルツハイマーを誘発する原因になるらしいんです。本当かどうか、知らないけど。ねえ、どう思います」
午前2時32分、1200キュービックセンチメーターの排気量のある銀色の巨塊が鎌倉街道を南西に向かって制限速度を少し上回るスピードでクルーズしていた。ロコスタイルの上半身に着古したレザージャケットを羽織ったスレンダーな女性ライダーは、顎を引き真っ直ぐ前を向きながら全身から平和な闘志をゆるやかに解き放っていた。腹に響く重低音ながら、湿った夏夜に歯切れの良い乾いた音だけをいつまでも残して。
「ねえ、どう思います」
聞きたい。
今すぐ。
ルカの声。
了
聖名