夢の中の青い女 新宿物語 3

沢 良

夢の中の青い女 新宿物語 3

(3)

 人と人との距離感が掴めなかった。街ゆく人の誰もが亡霊のように形がなく見えた。ときおり、車のヘッドライトが浮遊する人魂のように、ゆっくりと霧の中を走り抜けて行った。佐伯は霧の中には多量の硫酸が含まれている、と言っていた男性アナウンサーの言葉を思い出して、急いでハンカチを取り出し口に当てた。眼を保護するものは何もなかった。とにかく、一刻も早く駅へ行って電車に乗ってしまおう、そうすれば電車は江戸川を超えて、家のある街の駅まで運んでくれるだろう。川を渡ってしまえばもう安全だ。霧は都内だけの事だと言っていた。
 霧は体に粘り付くような感覚で不快にまとわり付いて来る。これではたちまち生身の人間にも黴が生えて来そうだ。
 佐伯は狭い路地を抜けて広い通りへ出た。深い霧がまったく街の中を見えなくしていたが、何度も通っている道だけに駅へ向かう方角は分かっている。いかに霧が深くても、あの巨大な新宿駅の建物なら見分けが付くだろう。
 佐伯は不意に顔をしかめた。この粘り付いて来るような感じの霧が異様に臭いのは、多量に混じるという硫酸のせいだろうか?
硫酸が、この饐(す)えたような、ハンカチを口に当てていてもその上から鼻を突いて来る、強烈な臭いを発散しているのだろうか? それとも、早くも街の中には死体の山が築かれていて、その死体が臭気を発散しているのだろうか? 霧の夜には死人が数多く出るという事だった。
 佐伯は考えた。霧の夜に死人が多く出るというのは、霧が人の口を塞いでしまうばかりではないのではないか?  人々は霧の中で周囲の状況が見えなくなり、何も分からなくなった孤独の中で、その孤独に耐えられなくなって自殺をしてしまうのではないか? 現に、自分がそうではないか。この、すべてを知り尽くしたような街の中を歩きながら、奇妙な孤独感に囚われている。まるで、何処か知らない街を歩き廻っているようだ。新宿駅はすぐ近くにある。それが逃げてしまう訳のものでもない。そして、電車に乗れば一時間もしないで自分の家に帰り着く事が出来る。家には家族もいる。それなのにいったい、この、体全体に染み込んで来るような孤独感と不安感はなんなのだろう? 新宿駅が永遠の彼方にあるような気がして来る。妻や子供達が彼岸にいるようだ。いつもは深夜になっても人通りの絶える事のない新宿の街で、こうして眼の前を塞がれていても、人とぶつかる事のない不思議さ・・・・。人々が亡霊のように消えてしまっているのだろうか? あるいはみんな、この深い霧を警戒して家へ帰ってしまっているのだろうか?  まるで自分一人が世間からはぐれてこの街を歩いているようだ。そう言えばラジオはこんな事も言っていた。
「こんな霧の深い夜は戸締りを厳重にして、愛する者同士、しっかりと抱き合ってお寝(やす)み下さい・・・・気象庁ではそう呼び掛けています」 
 ある識者はこんな事も言っていた。
「霧が深い夜にはセックスが最適です。セックスは体と体で互いを確かめ合う事が出来るので、孤独を意識しなくてすみます」
 そうだ、その行為はまったく、視界を塞がれていても、言葉を遮断されていても、相手の存在を確かめる事が出来る。そして、肉体と肉体で相手の存在を確かめ合う喜びは、このような夜にこそふさわしいに違いない。今この瞬間、家に帰りそびれてしまった恋人たちは、公園のベンチで、あるいは街角の路上で、セックスにふけっているのだろうか? それがこのような夜の中では死をまぬがれる最良の方法である事を、多分、愛する者たち本能で知っているに違いない。--自分はだが、この深い霧の夜の中で愛を交わすような人は何処にもいない。今はただ、一刻も早く家へ帰るより仕方がない。家へ帰れば深い絆と深い愛情で結ばれた家族がいる。そして、そう思うと佐伯は一瞬心が暖かくなり、眼の前を見る事も出来ない、この霧の中でも孤独を感じなくてすんだ。

夢の中の青い女 新宿物語 3

夢の中の青い女 新宿物語 3

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-08-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted