星降り猫のアルペジオ

ーー曲が流れていた。弾んで、跳ねて、また弾んで。指が滑るように転がっていくのがみえるような、そんな旋律。
やがてそれは弱々しくなり、私の体が意識をとり戻すとともに、遠くへと消えて行く。

その旋律は少し前までは時々流れてくるくらいだったのに、最近ではほぼ毎朝、軽快なステップで頭に流れ込んできて朝を告げていく。
でも別にそれが不愉快だということは無いので、少し疲れているのだろう、と特に気にしていない。むしろ快いと感じていたかもしれない。なぜだか懐かしいとさえ感じていた。
いつもと同じ朝だった。いつもと変わらない部屋。いつもと変わらない、一階から漂ってくるコーヒーのかおり。
ただ、目の前の景色がひっくり返っていた。寝相が悪いのだ。昨晩は買ってきたばかりの小説を夜通しで読みふけっていた。おかげで首と肩が痛む。
カーテンを開ける。そこにはいつもと変わらない景色が広がっていた。はずだったが、視界の端でなにかがもぞりと動いた。
 猫だった。ビー玉みたいに澄んだ瞳の中に、私の顔が映っている。首輪がないから多分野良猫だろう。どうやら雄らしい。毛色は烏みたいに真っ黒で、瞳はカナリーイエロー。  
カナリーイエローの瞳は、なにものにも捕らわれないような、強い色を湛えていた。
いや、猫がそんな意志をもっているかどうかなんて、私にはわからないけれど。
それと、前足を庇っているようだった。怪我でも負っているのだろうか。
猫はしばらく私の顔を見つめたあと、ひょいと、まるで自分の家に入るかのように私の部屋に入った。体が汚れているので、歩き回るたびに床に足跡の模様が描かれていく。鮮やかにやってのけるなぁ…。感心している場合ではない、消さないと。
私が床の模様と半泣きで格闘している間に、猫は一階へと降りていった。
まずい、珠緒。妹の珠緒は猫が苦手だ。もしかしたら嫌いかもしれない。小さい頃に集団ネコパンチに遭ったからだとか、好物の鯵の開きを横取りされたことがあるからだとか理由はよく知らないけれど、それ以来猫がだめらしい。
「ひいやああああっ!?でっかい毛玉!誰か…っ!!!」
遅かった。一階に降りていったときには既に珠緒は部屋の隅に避難していた。
「昴姉……?こっこっこ、この毛玉は…?」
昴というのは私の名前。ニワトリのような声を発した珠緒の眼には涙が滲んできている。
「や、なんか勝手に入ってきちゃってさ。どうする?」
「ぽいっと逃がしてきちゃって!ううううう」
猫が体を摺り寄せてきた。私は猫が別に嫌いではないけど、苦手かもしれない。なんかこう、甘えられるとどうしていいかわからず、戸惑ってしまう。猫は憂いを帯びたようなカナリーイエローの瞳でじぃっと私を見つめた。くそっ。ほっとけない。甘えられるのは苦手だけど私はこういうのに弱い。ズルイぞ、猫。
「でもなんか怪我してるみたいだし。それに見てみな、この目。この目に見つめられてもまだ逃がしてこいなんて言う鬼畜がいたらこの目で拝んでやりたいんだけど」
にやりと珠緒のほうを見る。もう泣きそうだ。私は姉の特権を噛み締めながら、勝利を確信した。ふっ。鼻で笑ってみる。
「もういいよ。でも、あたしは関係ないからね。世話しないからね。くれぐれも夕食を強奪したり、拳を振るったりする(注・ネコパンチ)子には育てないでね」
「わかってるよ。ね、名前どうする?…キミは、どうしたいの?」
猫の眼を覗き込んでみる。
そのカナリーイエローに、引き込まれる。 
黒い毛並みの中に光る、黄色の瞳。カペラだ、と思った。真っ暗な夜空に瞬く黄色の星。御者座の一部だということを理科の授業で習った記憶がある。
「…カペラにしようか。ぎょしゃ座のカペラ。まずは、汚れを落とさないとね。これ以上部屋に足跡の可愛い模様をペイントするのは許さないよ」
カペラを浴室に連れて行き、温かいお湯で流してやる。がしがしっと丁寧に毛を解して首の辺りを掻いてやると、気持ちよさそうにあくびを一つした。可愛い。
でも前足にはやっぱり触れさせてくれなかった。見たところでは傷があるという訳では無さそうだけど、何か異常があるみたいだ。
洗い終わってドライヤーで乾かすと、烏みたいだった黒が気高い獣の漆黒に変わった。本当に綺麗というか、いや、綺麗という感じよりもどちらかというと鋭い雰囲気だ。夜の闇が似合いそうな、そんな野生的なものを感じてしまった。ちょっとドキッとしてしまった。猫にときめく自分が悲しい。毛並みも羨ましいくらいつやつやとしている。
それからしばらくして昼食を摂り、なんだか演技が大袈裟すぎて笑えてくる昼ドラ(よい子は見ないほうがいい。)を見て、寝て、三時のおやつを食べて、また寝て…というようにしていたら、時計は五時を回っていた。
バイトのことを思い出し、急いで着替え、バイト先に自転車を走らせた。因みに、私は十六歳だ。
でも高校生をやってるわけじゃない。かといって、なにも目的もなく日々をダラダラ過ごしてるわけでもない。じゃあ何をしているのか。
実は、アコースティックギターを弾いている。
ただ、独学でやってきたため、あまり上手くない。上達するためには音楽教室へ足を運べばいいのだけれど、あいにくお金がない。その資金を積み立てるために、バイトをしている。ギターは元々兄さんのものだった。
でも数年前に兄さんが忽然と姿を消したときから、私のものになった。いなくなった理由は、よく知らない。覚えているのかもしれないけれど、思い出したくない。記憶を引き出したら、いけないような気がする。
いつもの商店街を自転車でかっ飛ばしていく。
すると、いつも誰もいない場所に、たくさんの人影が見えた。通り過ぎるときに人だかりの中心をちらりと見る。
――そこには、少年がいた。
あぐらをかいて、アコースティックギターを掻き鳴らして、夕映えの中で、空に向かって唄っている。
そして、彼の指が紡ぎだす旋律は、紛れもなく、毎朝流れてくる旋律と同じだった。
夕焼けの空と、時と、音が流れていく。
私はただ呆然として、そのまま唄を聴き続けた。その少しぎこちなくも柔らかな音色にとらわれて、バイトのことなどすっかり忘れてしまった。
やがて演奏は終わり、少年の姿は夕闇にとけこんでいった。バイトに行ってからも夕陽に映える少年の姿が頭から離れてくれなくて、仕事が全く手につかなかった。仕事どころではなかった。
翌日、カペラの世話をして、昨日少年が唄っていた時間と同じくらいの時刻、同じ場所に出向いた。
鈴虫がりんりんと鳴いている。他にもツクツクホーシとかが鳴いていて、夏虫のオーケストラだな、なんて思った。
案の定、少年はやってきた。近くで見ると年の頃は少年の方がやや大人びていた。ひょろりとした体格で、猫背だ。真っ黒な前髪がしっとりと顔を隠すように長くかかっている。
少年は掌をじっと見つめ、指を片方の手で包み込んで、ため息をもらした。
私は昨日の曲について尋ねてみようと思っていた。
でもなかなか話しかけるタイミングというものがつかめなくて、自動販売機の飲み物をどれにするか迷っているフリをしたけど、十分ほど立ち尽くしていたのでさすがに変だと思われたのか怪訝そうにこちらを見てきた。
「あの…飲み物買いたいんで、どいてください。あ、あと、どれにするか迷ってるんでしたら、ラムネはどうです?」
「へっ?あっ、ありがとうございます。じゃ、ラムネにしようかな…。あ、あと、昨日ギター弾かれてた方ですよね。あの…すごかった、です。」
突然話しかけられて、稚拙な言葉しかでてこなかった。『すごい』の一言で済ませたくはなかったのに。ラムネを手にとる。少年は、独り言のように呟いた。
「あんなの、空っぽだ」
言葉の意味が解らなかった。
ただ気付いたら、言い返していた。
「どうしてそんなこと言うんですか」
少年はすこし驚いたように目を丸くした。それでも、私の口は止まらなかった。
「私なんかどうしようもないくらい下手で、なんか、そういうのって…ずるいし、贅沢だと思います。…あんなに、心地いいのに…」
私は言ってから、はっと我に返り、「あ…すみません」と一応謝った。
でも間違ってはいないと思う。少なくとも、“心地いい”というのは嘘じゃない。
少年の目つきは鋭くなった。
「よく、わかりませんね」
私の方を見ずに、そう吐き捨てた。目はぼんやりとして、何を捉えているのか分からない。もう構わないでくれ、さっさと消え失せろと言われている気がした。
同時に、そんな人を寄せ付けない空気が、彼をあやふやなものに見せているとも感じた。今もぼんやりと虚空に目をやり、気付いたら空中を漂っていそうだ。踏み込んだら、触れたら、消えてしまいそうな危うさをまとっている。
それでも私は引き下がらなかった。曲について尋ねたかったし、なによりも彼を放っておいてはいけない気がした。
「あの…聞きたいことがあるので、唄も聴きたいので、名前教えて下さい。」
「え?あー……。えっと………」
「えっ?」
「…虹大」
なぜか躊躇いがちに彼は言った。指を固く包み込んでいる。癖だろうか。
「私昴っていいます。星の昴。じゃあ…また、来ますから」
そうして背をむけた。振り返ると、虹大の姿はもう無かった。なんてすばしっこい。ラムネは温くなってしまって、微妙な味わいだった。
家に帰ると、カペラが「今日のお土産は」というふうに迎えてくれた。可愛い。一方、珠緒はというと、ソファーの上でブーともニャーともとれる気の抜けた音色を尻で奏で、「オーウ、ダイナミック・サウンド、ボンバー。(カタコト)まさにガスだね。」という意味不明なひとり言を発して、可愛げのかけらもなかった。そしてそのガスの香りから、ポテチ(梅塩味。夏季限定)だ、と推測する私。楽しみにしていたのに。本当に、意地汚い妹だ。
自室に入ると、いつもと変わらず正面からギターが出迎えてくれた。艶のあるメープル色のボディに、細く、だけど強くしなやかに張られた六本の弦。急ぐ必要は無いのだけれど、なるべくなら早くこいつと仲良くなりたい。
ギターを抱きかかえ、弦を弾いていく。丁寧に、一本ずつ。悲しいかな、情けなく「びよーん」と音がこだまするだけだ。解決策が見つけられない。一人ではどうにもならない。何か、誰か頼れるものは…――
あの少年の顔が頭を掠めた。
「いや…いきなり図々しいよ…やめようよ」という私Aと、「ものは試しだ!当たって砕けろよ。あ、でも砕けちゃ駄目」という私Bが、にらめっこする。その横から、「考えんの止めて、お茶飲も…」と私Cが入るけど、すぐにAとBに吹っ飛ばされる。依然続く両者の鬩ぎ合い。さあ、どうしようか。
そうこうしているうちに、夕飯の時間になった。下から漂ってくるこのかぐわしきかおりから推測するに、本日のディナーは近所のラーメン屋「漢(おとこ)・岩田さんのラーメン屋」のチャーハンだ。一言言っておくと、チャーハンは絶品だけど、ラーメンはスープという海がモヤシ帝国に埋め立てられているので、あまりおすすめしない。
一階に降り、食卓につく。予想は当たり、やはりチャーハン。そしていつも空いている席にカペラがちょこんと座っている。
しかし正面には悪の権化、珠緒。
「何か、昴姉さん、ぼーっとしてるよ。物思いに耽ってるの?はっ!まさか恋わずらひ?いいね、若いって」
「私が恋してるのはこのチャーハンだけ。恋わずらひじゃなくて…う~ん」
「あたし、チャーハンよりラーメン派。昴、本当にぼーっとしてる。何かあった?」
「んー、なんでも無い。どうしたらこんなに上手く炒められるのかなって」
我ながら少し無理のある言い訳だと思ったが、私が何となく言いたくないのを察知してか、珠緒はそれ以上特に聞いてこなかった。
食事を終え、自室にこもる。そして先ほどのにらめっこ再開。さっき、珠緒に少年のことを打ち明けなかったことを後悔した。虹大といったか、前髪の長い猫背の少年。ピリピリしていた。ピリピリしていたけど、今思えばなんと言うか、よくは分からないけど、とにかく必死に見えた。何かを守ろうとしているように思えた。瞼を閉じて、考える。浮かぶあの夕映えと少年。そして旋律。やっぱり聞きたい。話してみたい。忘れられない。
ここでようやく二人の私のにらめっこは終わり、一件落着だ。三人の私は仲良くお茶を飲み始めた。
私は頭の中をエンドレスで流れる旋律に身を委ねて、眠りに落ちていったー―。
 
――猫が歩いている。
黄色の瞳をした真っ黒な。カペラ?
周りは見知らぬ景色で、すぐにああこれは夢か、と気付いた。
カペラらしき猫は私に気付かずに歩いていく。
その先では、刃物が鈍く光っていた。
止めようとして私は駆け寄る。
間に合わない。
猫が刃物の上に前足を踏み下ろす――

そこで私の意識は戻った。外に目をやると、カーテンの隙間から光が漏れている。朝だ。
身支度を整えて、椅子に座って一息つく。今日、突き止めてやる。あの旋律の正体を。大きく深呼吸。吸って、吐いて。
カペラが足に擦り寄ってきた。そして上目遣いで私を見つめる。可愛すぎる。と、思っていたら、彼が見つめていたのは私ではなく餌の缶詰だった。めげるな、私。
しかも、牛乳の開ける側を間違えた。最悪だ。不安が膨らむ。一日の初めがこんなんでいいのだろうか。いや、よくない。
カペラの世話を済ませ、ぼけっとしてテレビを点ける。ブラウン管の中で、偉そうな人達が今の世の中について何やら熱い討論を繰り広げていた。政治家の言葉は軽くて、国民の不安を誘致するなど。難しい話だ。チャンネルを変える。
それからいつものようにギターの練習をして、お昼を済ませ、陽が落ちるのを待った。日没してから、すぐに自転車に飛び乗って街へ走らせた。
虹大はまた、唄っていた。虹大の金属と波璃でできた声が、辺りに響いている。
湧き上る拍手に、彼は軽く会釈して、また夜に染まっていく。私は急いでその背中を追い駆けた。
「ちょ、待って…こ、虹大!…さん。」
立ち止まる。私は彼の手を掴んだ。途端、ものすごい勢いで振り払われた。
「触るな…っ!」
彼は右手をポケットに突っ込み、私を睨みつけた。そんなに不愉快だったのか。私は訳が解らなくて、呆然とその場に立ち尽くした。
彼のポケットから、包帯でぐるぐる巻きの手がわずかに覗き、小刻みに震えていた。
「…どうしたの、その手。怪我?震えるほど酷いキズなの?」
手をのばす。彼は数歩後ろに退いて、片方の手で震えている方の手をぎゅうっと握り締め、目を逸らした。
「なんでも無いんだ。本当に」
何でもない訳が無い。彼の目を見て、明らかに動揺していることが分かった。大切な何かを隠して、それがばれたというような動揺の仕方だ。
「何が、怖いの?手が触れることが、そんなに?」
虹大の目をじっと見据える。彼は俯いたまま地面を見つめて動かない。ああ、まただ。また、虚空を漂って。結局は逃げようとしてるだけじゃないか。自分で思ってから、ふと気付いた。
何から?
何から彼は逃げているのだろう?
「あの、何か…手伝えるようなことって無い?あの、ほら、ギター弾くのに手って大事だし…演奏聴いてたいし……何かあるんだったら、助けたい」
「助けるって、例えば?」
「え……」
「何を知っても、絶対に助けるって言い切れるのか」
「……」
「出来ないんだったら、初めからそんなこというな」
無機質な瞳が静かにそう告げた。何か言うことはあるはずだったのに、喉が細い紐できりきりと締め付けられたようで、何も言葉が出なかった。
直後、軽はずみに、無責任に“助ける”と言ってしまった恥ずかしさに気付いて、顔が火照った。
私はどれだけ馬鹿だったら気が済むんだ。無責任に投げ付けられた言葉は、きっと彼を傷つけた。
「というか、何しに来たんだ」
睨まれる。声を絞るようにして、答える。
「演奏を聴きにっ。あと、色々とギター弾くコツとか詳しく教えてもらえますかっ?あの、私もギター弾くんですけど、なんか…よく…分からなくて…」 
言いながら、やっぱり図々しいのではないかと不安になって、声が弱くなった。しばらくの間、沈黙が降りた。そして、虹大はこちらをちらっと見て言った。
「上手く教えられないから、駄目だ」
ああやっぱりか、と私は肩を落とした。同時に、あまりに浅はかなさっきの自分を叱咤した。
私がぼんやり突っ立っていると、虹大が弦を爪弾き始めた。繊細なアルペジオ。アルペジオというのは、ギターの弦を一本ずつ弾く弾き方のこと。
奏で始めたのは、あの旋律だった。
ギターに触れる時の虹の目は真っ直ぐで、澄んでいて、それでいて優しくて、思わず見惚れた。
ゆるり、ゆらり。ふわり。なんだか心地よい。景色が揺れている。いや、揺れているのは私の体だ。ゆらゆらゆらゆら、くるくる、ゆら、くるり?世界が廻る。
意識が、遠のく――。

目が覚めると、天井があった。それですぐに、ここは自分の部屋だと気付いた。まだぼんやりと旋律が流れていて、夢現だ。
ドアが開いて、なんだかいやらしい笑顔の悪の権化が部屋に入ってきた。ニタニタして
いる。
「おはよう、昴姉さん。帰りが遅かったけど、何をしてたの?」
「え…あれ、何だっけ」
「覚えてないんだ?なんかねぇー、黒髪の綺麗な男の人が昴姉さんのこと届けてくれたんだよ。かっこよかったなぁー。いいなぁー」
ようやく思い出した。虹大の演奏を聴いたまま眠ってしまって…それからは記憶に無い。
でも多分、珠緒の云っているかっこよさげな男の人は虹大だ。でもだとしたら、なぜ家の場所がわかったのだろう。
あと、旋律について分かったことは心地よくて眠ってしまうということだけ。なんだか悔しい。右手のことについても、はぐらかされた気分だ。
「どうしたの、またボーッとしちゃって」
「ううん、何でもない…」
なんだかわだかまりが、解けきらずに沈んだ食塩みたいに残っている。自分から聞かなければ、そのわだかまりは解けないだろう。
それにしても、本当になぜ家の場所を虹大が知っていたのだろう。そのことについても念のため尋ねてみよう。私は日没後に、あの場所へ向かった。
 
「また来たのか」
虹大は演奏のあと、休んでいるところだった。慎重にギターの手入れをしている。ふと包帯の巻かれていた右手に目をやると、今日は何も巻かれていなかった。
ただ、無数の切り傷が虹大の右手を食っていた。いくつもの長さがまちまちな細かい傷が、手の甲に散っていて、きつく手を締め付けていたのか、赤い線の包帯の痕が痛々しかった。
「別にいいでしょ。どうしても、気になることがあって。それでさ、もしかして昨日家に届けてくれた?」
「あー…ああ」
「なんで家の場所知ってたの?私教えて無かったのに」
彼は視線をギターに向けて、黙ってしまった。これは何かある。私はまたはぐらかされるのが嫌で、咄嗟に強く彼の右手を掴んだ。
途端、触れた手に一瞬熱を感じた。どこからか声が聞こえた。その声は、虹大の声で、「昔住んでいたから、覚えてるにきまっている」と言っていた。それなのに、彼は口を開いていない。
まさか。
虹大は顔を硬直させて、私を見た。お互いに何も言わずに、黙っていた。
私は、手を離して、虹大の瞳を見て、問いかけた。
「心が、伝わってしまうの?」
虹大は視線を逸らさずに、ゆっくりと口を開いた。
「そうだ」
「じゃあ、その右手の傷は」
「自分でやったんだ。でも駄目だった。そのうちに何もかも嫌になって、誰も信じられな
くて、怖かった。それがばれるのも嫌で、ごまかすようにギターを弾いてた。結局、何のためにギターを弾いてるのか分からなくて、途方に暮れてた。もう何もかも滅茶苦茶だった。自分のことさえよくわからない。何も、分からない」
ずきり。苦しい。喉の奥から、心臓のあたりまでが、苦しくなって、呼吸が、しにくい。
彼は今まで、誰の手にも触れなかったのだろうか。触れること、想いが相手に伝わってしまうことに怯えて、いくつもの日々を耐えてきたのだろうか。
たった、独りで?
“昔住んでた”という言葉を反芻する。鼓動が、速くなる。目を閉じて、その言葉の意味を考える。
兄さんだ。
全て思い出した。
あの旋律も、私が幼いときに兄さんが子守唄としてギターで弾いてくれていたものだった。
あの日、兄さんは家族には何も言わずに家を突然飛び出していった。そのときは悩みを抱えているなんてみんな気付かなかったから、驚いていた。捜索願いも出して、必死になって捜した。それでも、見つけることはできなかった。それきり、兄さんはずっと家に戻ることはなかった。事故に遭って、亡くなった。信号無視の車に撥ねられて、野良猫みたいに、独りのまま。
なぜ気付けなかったのだろう。私は、いつもバカだ。
「…虹大兄さん」
声が震えた。喉と瞼が熱くなる。呼吸がさっきよりも苦しくなって、嗚咽が漏れる。吐きそうだ。涙が走るように零れ落ちていく。鼻水が垂れて、自分でもみっともないくらい泣いている。抑えられない。
「ごめん。ごめんな」
涙が、静かに兄さんの頬を濡らしていた。ギターに雫がぽつぽつと落下していく。嗚咽を噛み殺して、肩を震わせて泣いている。
「俺は、何も知らない父さんと母さん、珠緒、そして、昴を酷く傷つけてしまった。他にも、たくさん傷つけてしまったかもしれない。心配する人がいるって知ってたはずなのに、俺は家を飛び出したんだ。何も、知ろうとしなかったのは、俺の方だった。自分のことばっかりで。何も見ようとしなかった代償として、たくさんのものを失くしてしまった」
兄さんの言葉を聞いて、私は泣き続けた。兄さんは、亡くなってからも、これほどまでに家族のことを想っていた。そして、自分のやってしまったことを悔やみ続けていた。
私は、前に言おうとして言えなかったことを言うために、声を絞りだした。
「想いが伝わってしまうって、確かに怖いことかもしれない。言葉で、想いを正確に受け取ってもらうのって、困難だと思う。でもさ、たとえば、誰かが泣いていても、言葉につっかえることがある。つっかえるたびに、不安で、自分が嫌いになる。だったら、何か伝えた方がいいと思えるの。その言葉が嘘くさく感じるくらい陳腐でも、誰かが泣き止めばそれでいいと思う。いい人ぶってる訳じゃなくて、少なくとも私は、そう思う。そうでも思わなくちゃ、やってけないよ」
「俺にも、伝えなくちゃいけないことがある」
兄さんは、そう言って右手で私の手を強く握った。
“俺は、家族やみんな、昴のことを、決して嫌ってはいなかった。むしろ大好きだった”
そう傷だらけの右手は教えてくれた。
「そんなの、みんな知ってたよ…」
私は、またしゃっくりあげた。さっきとは、違う涙を流した。
兄さんは、柔らかくはにかんだ。
「…ありがとう」
そう言って兄さんはギターを弾き始めた。優しい、でも軽やかで跳ね回りたくなるよう
な旋律。
兄さんが空を見上げた。私も、見上げてみる。

――星屑が、降っている。
夜空に浸透していくアルペジオ。
星屑と音がひとつひとつ紡がれて、天を支配した。

「星屑を、掴めたらいいのに」
兄さんは宙に手を伸ばした。掴むような仕草で、拳をつくった。
「そういえば、なんていう曲なの?」
よくぞ聞いてくれましたというように、兄さんは笑った。
「『星降り猫のアルペジオ』。あ、御者座。隣に、昴が瞬いてる」
「えっ!はっ、ほんとだ!かに座の魂緒も。
そういえばね、御者座って片足が不自由だったんだよ。それでも、勇敢に戦った。儚げに瞬くから虹星ってよばれてるカペラも、儚げながら、必死に光ってるよね。なんか、ちょっと似てない?」
そこまで言って、私にある予感が舞い降りた。いや、まさか、と思いつつ、尋ねてみる。
「ねえ、カペラって、知ってる?」
兄さんは、そっぽを向いて、答えた。
「御者座って、何か言いにくいな。御者座、御者座、ぎょちゃじゃ。あ、噛んだ」
「…」
「ごめん。これだけは知られたくなかったから、黙ってた。カペラは、俺だよ…」
何たることか!あまりに残酷な事実だった。
「今頃どうしてるかって気になって、だからといって人の姿で行くのもなんか怪しくて。だから…」
「じゃあ、足に擦り寄ってきたりしたのはなんだったの」
「魔がさしたんだ。まあ、猫だから本能で懐いちゃったんだな、多分」
「やっぱりそうか。夕方からしかみかけないなんて、夜行性かって実は思ってた」
他愛のない会話。他愛無いけど、幸せだ。兄さんが冗談を言い、心からの笑顔を見せている。
「じゃあ、そろそろいくよ」
私ははっと顔を上げた。気付けば、夜明けが近い。
「伝えたかったことは、もう全部伝えたから。もう、充分だ。最後に、アルペジオのコツは、“優しさを持つこと”。そのギター、やるよ。それじゃ」
そう言って、暁の空に兄さんの姿は消えた。
ギターだけが、その場に残された。
私は、ギターにもたれかかって泣いた。
そうして、夏が去っていった。

いつもと同じ朝だった。いつもと変わらない、一階から漂ってくる、コーヒーのかおり。
ただ、二本のギターが私におはようと告げた。
 
ときに、言葉は気持ちと裏腹だ。伝えようとすればするほど、掴もうとすればするほど
相手が遠くなってしまうことなんか日常茶飯事で、そんな中でも、どうにかして、もがい
てる。
無理に着飾らずに、ありきたりでいい。私はシンプル・イズ・ザ・ベストでいく。
失敗した昨日なんて、笑って吹っ飛ばせるように、今を抱きしめて、明日に怯えずに、受け止めてやる。転んでも、その姿が無様でも、這い蹲っていけばいい。
 
黒猫が、軽快なステップを踏んで横切った。

さあ、行こうか。

星降り猫のアルペジオ

星降り猫のアルペジオ

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-14

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