勘違いりんごは夢を見る

勘違いりんごは夢を見る

◯回想
私の名前は倫子(りんこ)。倫理的なこども。倫子は、人の道を外れているでしょうか。汚い人間、いや、獣でしょうか。

最後なのにどうして一番楽しいんだろう。もう会えないのになぜ。恋愛ってこんなものだったんだろうか。
多分、私の「恋愛」は「恋」の部分しかなくて、「愛」の部分が希薄だったんだと思う。幼稚だ。淋しいだけだった。居てくれるだけで満たされた気持ちのつもりだった。愛したつもりになっていた。愛し愛されて、私たちは世界で一番まともでお似合いなんだって思い込んでいたけど、思い込もうとしていただけだったのかもしれない。実情は、淋しい小さな子ども同士、もしくは発情期の獣同士の「おとなの人間」らしくないカップル。「おとなの人間」ってなんなの。自分でも混乱していて、よくわからない。
でも、そんなにさみしくないや。
私の中で子どもが言う。
また、新しいゆりかごを見つければいいや。きっと、見つかるよ。だってわたし「そこそこ可愛いし、まとも」だもん。
我ながらお気楽で浅はかな恋だなと思う。カフェのBGMでバンドマンがラブソングを歌う。私はあんなに苦しくて綺麗に見せられる恋愛の仕方を知らない。
そういえば、心理学で「同調効果」なんて習ったな、と思い出し彼の指先を見つめながら、私は目の前の宇治抹茶をすすった。もちろん、彼の指先は微動だにせず、静かに伏せられているだけなのだけど。
借りていた漫画の話や、彼の友達の恋愛の話題になり、彼は気楽そうに笑っていた。楽しそうだった。彼は普段自分の話をしないけれど、そこで初めて彼の友達の話をしてくれた。私は嬉しかった。その時初めて対等になれた気がした。私は付き合っている間は自分の話は自分から話した。彼は話してくれないので、二人でいてもその空間にひとりぼっちにされたような気分になることが多かった。携帯とにらめっこして、私の顔もそんなに見てくれなかったし、名前すら殆ど呼ばなかった。それでも、踏み込まれたくない部分に触れないように、沈黙が辛くならないように努力したつもりだった。沈黙に耐え切れなくなるとテーブルに置いていた手をもぞもぞ動かして、しばらくすると「何もすることが無いなら帰る?」そんな質問をする人だった。私は沈黙になってしまっても、一緒に居られるだけで良かった。
そう思える理由は、セックスの時言葉が無くても、優しいと思っていたからだった。彼は付き合った経験が無くて、最初はぎこちなかったけれど、学習能力に長けていたし、色欲は充分にある男の子だったから、私に「愛されている」という感覚を与えるには充分すぎるほど、その技術は持っていた。言葉が無いからこそ、私を満足させた。
でもそんなものは。私が欲しかったものは。
向こうは私がひとりぼっちになっていることには一切気づいていないようだった。窓際の隅のカウンター席で、二人だけの空間で、私はひとりぼっち。微塵も悪気なく、屈託無く自分では無い友人の話を続ける。
このひとはどうして自分の話をしないのだろう。
いつか終電を逃して二人で夜道を辿ったとき、彼は「俺は優しくないよ」そう言った。私の「優しいね」という言葉に対して。それはあながち間違いではなかったのかもしれない。
それでもまだ、目の前の笑顔に期待する自分が、はだかんぼの自分が心のどこかでおとなしく話を聞いている。
「勘違いをするな」
はだかんぼのわたしは自分に言い聞かせる。
ここでもしやり直したとしても、私の汚さを消すことは叶わないのだ。
◯楽園
冬の冷たく白い日に、私と彼は出会った。
その日、私は大学の図書館で本を調べていた。旧約聖書について、関連する花言葉をレポートのために探していた。
図鑑のページをめくると、りんごの花言葉は、選択、名声、誘惑、最も優しき女性、という文が目に入ってきた。
アダムとイブ。禁断の果実について、そこには記してあった。
“旧約聖書では、りんごは禁断の果実ということで有名です。蛇に唆されて林檎を食べたアダムとイブは、エデンの園を追放されました。”
そんなものに私は興味を持てなかった。そんなものというのは、何の脈絡も無く突然始まる物語の中だけに存在する愛。アダムとイブにしても、その世界で二人だけしか存在しなかったならば、肉欲に負けてしまうだろう。そんなところには愛情なんて介在されていない。
その時の私は、夢いっぱいの消費されつくした少女漫画やドラマ、原始的で現実には理解し難い旧約聖書の世界での出来事に対して対して興味がわかなかったし、現実においてもそうだった。そういうものは研究対象としてしか考えられなかった。
今まで恋愛をしてこなかった訳ではないし、女を捨てている訳でもない。
ただ、恋愛について思いをめぐらすと、過去の記憶が疼いて、なんとも形容し難い感情が起こって、なにもかも面倒になってしまうのだった。
カウンターへ本を借りに行くと、列で前に並んでいた男性が受付の人と話していた。
「……『旧約聖書と花言葉』という本を検索して頂けませんか?ネット予約して、あること確認したんですけど棚に置いてなくて」
その本は今私が手に持っている本のことだった。どうしよう。三日後に提出するレポートのためにやっと見つけたけれど、この男性は予約したと言っている。
受付の人が、私の手元の本に気づき、気まずそうに私の方を見つめた。私は受付の人が口を開く前に言った。
「この本ですよね?」
前に立っていた男性がこちらを振り向く。一瞬、え、という顔をして、少し迷ったような表情になってから数秒して言葉を発した。
「……その本、あの、……俺に貸して頂けませんか」
そう言ってから、すみません、テストに間に合わなさそうなんです、単位を落とせないんです、お願いします、そう言って私に頭を下げた。
そうは言われても、こちらだってレポートがあるのだ。困ったことになったな、単位を落とせないならもっと早くに借りろよ、そう心の中で悪態を吐きながらもなんだかぼさぼさ頭で眼鏡をかけた悪人ではなさそうな彼のことが少し可哀想になり、言葉を詰まらせ黙っていると、彼が口を開いた。
「あ、……もしダメそうなら大丈夫なんで……」
人間というものは不思議と予想していなかった言葉、特に下手に出られると寛大になってしまうもので、私は考えるより先に思ったことを口に出してしまっていた。
「シェアしましょう。あなたが嫌でなければ」
自分でも人が良過ぎるなと思う。見ず知らずの他人にそんなことを言うのは、普段の私ならしないことだった。
ただ、単位を落とすという言葉を聞いて、妹が落単して留年したことを思い出してしまって口走ってしまったのだと思う。
目の前にいる男は僅かに安堵したような表情をして、ありがとうございます、と二度目のお辞儀をした。
◯アップルパイとイチジクのタルト
私たちは大学の近くのカフェに入って本を広げつつ話を少しした。
話を聞くと、彼は別の大学の人間だった。提携サービスで、うちの大学図書館に本を借りに来ていたのだった。
名前は藤本伊織。学年は私の一つ下。留年も浪人もしていないので年齢も一つ下。喉仏が印象的だった。髪の毛には寝ぐせがついていて、黒縁の眼鏡に薄灰色のダッフルコートといういでたちだった。
伊織はあまり口数が多い方ではなかった。私と向かい合って座っていても、テスト勉強に夢中で、しばらく沈黙になった。
見ず知らずの人となぜこんなことになったのだろう、私がシェアしようと言ったからか。そう思いながら沈黙を気まずく感じた私はアップルパイをつつきながらテキストと本を見つめる伊織に話しかけてみた。
「ここのケーキ、おいしいですね」
気の利かない、何の捻りも無いありきたりな話しかけ方だと自分でも思った。
でも、ケーキのことについて以外、話題が何も見つからなかった。私は話が上手な方ではない。
「そうですね。甘いものが無いと俺はダメです」
伊織はテキストから顔を上げ、小さめの声でもそもそと返した。そして、頭をよく使うので糖分が足りなくなるのだと、目の前のアップルパイをつつきながら話した。私はイチジクのタルトを丁寧にゆっくり、そして崩さないようフォークで一口食べた。間をもたせるために、ゆっくりと崩していった。
沈黙が気まずく、なんとなく緊張し始めて、気を遣って世間話でもしようと思いふたたび私は口を開いた。
「学部では何を研究しているんですか?」
「マクロ経済学ですね」
「経済なのになんであの本を借りたんですか?花言葉とか、旧約聖書とかって関係あるんですか」
「専攻ではないですけど、必修で選択しなければいけない科目だったので」
彼はどことなく面倒そうに見えた。実際、飲み物についていたストローの袋を三角に折り、手で弄んでいたし、私と目を合わさないようにしているようだった。それに、受け答えも必要以上の返答はせず、話が広がっていくことはなかった。私が人文・芸術系を専攻していることもあり、共通の話題がそれ以降出ることは無かった。
彼は黙って、テーブルの下で携帯をいじって何かを見ていた。何を見ていても別に構わない。
ただ、人と会話している時にそれは、相手が誰であってもマナー違反ではないだろうかと私はぼんやりしてきた頭の中で思った。人に対してこんなに関心が無く、失礼な態度を取るそれなりの年齢の大学生は、私が苦手とは感じないが、むしろ普段関わることのない、自分の中で存在感の希薄なよくわからない生き物だった。
ふたたび沈黙が降り、彼はテキストとのにらめっこを再開した。私もレポートとにらめっこして構わないと思った。
カフェで若い男女が二人でケーキをつついて座っていれば、多くの人はそういう関係なのだと思うだろう。
けれど、私と伊織はさっき出会ったばかりで、私たちの間には何も無い。それ以上でもそれ以下でも無い。
今考えるべくはレポートのことだ。周りの人間にどう思われようが、関係無い。
私も伊織も自分の目の前の課題に集中し、もう何も話さなかった。

その後、伊織はテスト勉強を終え、初めからそうすればよかったのだが、資料を何ページかコピーして、私はレポートを無事終わらせた。
もう会うことは無いと思った。これでおしまいだ。この寡黙な正体のつかめない男とはもう会うことはないだろう。そう思っていた。
会計のためにレジへ向かい、財布を出すと彼が手を遮った。なんだろうと思って顔を見ると、出します、と一言だけ言った。
あまりにも意外だったのでわたしは呆気にとられた。こんな失礼な奴に恩を売られてたまるか、自分の分くらい自分で払う。そう思い、いえ、いいです、払いますから、と返すと、俺の友達はみんな女性に奢るし、本を貸して貰ったので、となかば強引に会計を済ませてしまった。
そして私たちは店を出て、別れた。

私は電車に揺られながら、今日の出来事が腑に落ちず、自分のイレギュラーな行動の原因も掴めずに、男子大学生という生き物の行動様式について思いをめぐらせていた。
◯懺悔
私は長らく恋愛という「儀式」に参加していない。
以前はそういう「儀式」、誰もが一度は通る「通過儀礼」に憧れ、その世界に飛び込んでみた時期もあった。
けれど、現実は夢見がちな少女の脳みその中ほど甘くはなかった。

三年前の春、ずっと片想いし続けていた先輩に卒業式に告白し、それは成功した。
甘い言葉を沢山囁いてくれた。憶えている限りでは、好きだよ、とか愛してるとか。華奢な体つきだった私に、スタイルの良し悪しは付き合う上で関係ない、とか。
だけど、それは思いもよらない形であっという間に崩れ落ちた。
付き合って一週間目、会って二度目の日、私は先輩とカラオケボックスに二人でいた。
密室で二人きりだった。
私は、のぼせていたのだ。
初めての恋で、しかもそれが上手いこと実って。でも現実は少女漫画じゃない。
二、三曲歌い終わったあたりで、先輩は黙って私の腕を掴んで身動きをとれなくし、シートに思い切り押し倒した。
無言だった。
いつもの囁くような、甘い言葉も無く、先輩は黙って真顔で私の服を剥がしていった。
作業だ、と思った。
私はベルトコンベアーの上にいて、開梱されている商品。
作業は手早く終わらせる必要があるから、手つきは自然と乱暴になる。
私は抵抗出来なかった。
心のどこかで、この作業が終われば優しくしてくれる、ここがどこであるかなんてどうでもいい、そう思っていた。
「口でしてくれる?」
先輩がカラオケボックスに入って初めて言葉を発した。意味は理解出来た。
従えばきっと優しくしてもらえる。
素直にそう信じていた。
愛されたかった。
寂しかった。守られたかった。
ただ、抱きしめてもらえるだけでも良かった。
私は淡い期待を胸に秘めたまま、言われた通りにした。
その後、最後までした。

先輩は一度も口づけをせず、黙って「作業」に勤しんだ。

私は初めて、そういった「作業」「儀式」を遂行したが、最後に残ったのは下半身の鈍い痛みと、胸の疼き、虚無感、ただそれだけだった。

途中で店員が入ってきて、作業は中断された。
最悪だと数秒たってから認識し、先輩が苦虫を潰したような顔で舌打ちしたのを私は見逃さなかった。

カラオケボックスを出た後は、路地裏に連れ込まれ作業の続きを遂行した。
先輩はずっと眉間に皺を寄せ不機嫌そうだった。
「小さいんだよな」
「何がですか」
「言わなきゃわからない?」
まるで私が不良品の人形みたいな言い方だと思った。
私はなんとなくわかっていた。先輩が私の体に不満を持っているということは、カラオケボックスの中で「作業」していた頃から薄々気づいていた。

翌日、私は先輩にメッセージを送ったが数日立っても返信は来ずに、そのまま音信不通になった。

それ以来、私は少女としての体も、心も失い、そういうものは持ってはいけないのだと感じている。
◯蕾綻

勘違いりんごは夢を見る

勘違いりんごは夢を見る

  • 小説
  • 短編
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2017-08-14

Copyrighted
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