彫像の姫君
昔々あるところに、たいそう美しい姫君がいた。
その髪は黄金のように輝き、その瞳は翡翠のように深く、その唇は珊瑚のように赤く、その肌は大理石のように滑らかで、その姿は神の手による彫像のようだった。
人々は姫君の美しさに見とれ、声をあげ、手を伸ばした。少しでも彼女に近づこうと。
しかし姫君は、誰の姿も見ず、誰の声も聞かず、誰の手にも触れず、ただ口を閉ざして虚空を見つめるばかり。
人々は噂した。あれは彫像の姫君だ。
黄金の髪、翡翠の瞳、珊瑚の唇、大理石の肌。
神の手による彫像は、心まで冷たい石なのだ。
あれは彫像の姫君だ、と。
さて、その姫君に恋焦がれる一人の青年がいた。
彼は姫君の館で下働きをしていて、その姿を幾度も目にしていたけれど、声もかけず、近寄ろうとすることすらなく、ただ遠くから眺めているだけだった。
青年は、自信がなかったのだ。取り立てて特技もなく、容姿も自慢できるものではない上に、話が下手で緊張するとどもってしまう。
そんな自分が声をかけても相手にされるわけがない、みじめな思いをするだけだ。ならば今のまま、遠くから憧れているだけでいい。青年はそう考えていた。
ある日そんな青年のところに一人の老人が訪れる。
老人は青年に手鏡を渡して、こう言った。
「その手鏡は、映った者の願いを三度だけ叶えてくれる。だが、必ずしもその者を幸せにはしない。よく考えて使いなさい」
「ばかばかしい。そんなうさんくさい鏡、要るものか」
話を聞いたときには、青年は笑った。
しかし老人はしつこくそれを渡そうとする。
もしも偽物だったなら、売り飛ばしてしまえばいい。それなりの値になるぞ、などと言って。
その押しの強さに負けて、結局青年は手鏡を受け取ってしまった。
その晩、青年は手鏡を見ながら考える。
願いを叶える手鏡、そんなものがあるはずはない。もしもあったとして、俺のような何の取り柄もない男が手に入れられるものか。
だが、もしもこれが本物だったら、俺は一体何を願おう?
思い浮かんだのは姫君の姿。
あの美しい姫君を、意のままにすること。
それはとても魅力的だったが、同時に神聖なものを汚すことのような気がした。たとえば、静かに積もった一面の雪に、自分の足跡をつけてしまうような。
それは青年にとって許されることではなかった。
それでは、どうするのか。
姫君を汚すことなく、あの美しさに少しでも近づくには。
いや、近づいて、それでどうするというのだ。
俺には何もできないではないか。何の芸もなく、話もできず、あがり症でどもりの俺には――。
翌朝のこと、青年に声をかけた同僚の男は驚いた。
だが、それ以上に驚いていたのは青年自身だった。
朝の挨拶ついでにすらすらと言葉が出てくる。それが相手を喜ばせ、楽しませる。
青年が手鏡に願ったのは、姫君の心を動かすような話術。あの手鏡は本物だったのだ。
そのあと何人かと話してすっかり自信をつけた青年は、いよいよ姫君に声をかける。
はじめ姫君は、いつもと同じように眉一つ動かさず青年を無視していたが、彼の話が進むにつれて引き込まれ、わずかに口元をほころばせ始めた。
姫君の微笑みは、彫像のように整った無表情より何倍も美しかった。
もっと彼女の笑顔を見たい。
青年はそう思い、とっておきの笑い話を始めた。その内容はありふれたものだが、今の自分ならば誰だって大笑いさせられる、その自信があった。
果たして、青年の狙い通り姫君は声を上げて笑った。
しかしそれは、若く美しい彼女のものとは思えぬ、しわがれ声だった。
青年は一瞬、目を丸くして押し黙ってしまった。
姫君もさっと顔を曇らせ、青年の表情を見つめる。
一つまばたきをして再び目を合わせたときには、その顔はいつもの彫像に戻っていた。
姫君は幼い頃、悪い病にかかっていた。
長く苦しんだ後にそれは回復したが、彼女の喉には後遺症が残り、歳に似つかわしくない老婆のような声になってしまった。
姫君は醜い声を恥じて口数が少なくなり、徐々に心を閉ざし、誰とも言葉を交わさなくなった。
何も思わず、誰とも打ち解けなければ、声を出す必要もない。自分の醜さを誰かに知られることもない。
幼かった姫君にとって、それが唯一安息を得られる方法だった。
青年は、手鏡を前に悔やんでいた。
どうしてあんな顔をしてしまったのか。せっかく姫君が笑ってくれたのに。俺はなんということをしたのか。
姫君は怒っただろうか。悲しんだのだろうか。自分がどう思われたのかより、姫君を傷つけてしまったことがただただ悔しかった。
どうすればいい。何を願えばいい。
また姫君に話しかけ、また姫君に笑ってもらい、それでも彼女を傷つけないで済む方法。
俺が、驚いた顔をしなければ――。
手鏡には、くしゃくしゃに歪んだ青年の顔が映っていた。
翌日、姫君の元を訪ねた青年は、笑顔で謝罪の言葉を口にした。
「昨日はとても失礼なことをしてしまいました。この屋敷であなたと言葉を交わせたものがいないので、その声を聞けただけで感動して何も言えなくなってしまったのです」
もちろん姫君はその言葉を信じず、彫像のような顔で青年を一瞥しただけだった。
しかし彼は笑顔のまま、姫君に昨日の続きをお聞かせしたい、と提案した。
姫君が答えずにいると、彼は勝手に語り始める。
その語り口が素晴らしかったので、姫君は昨日と同じように、だんだん物語に引き込まれていった。
そして、昨日と同じように口元をほころばせ、昨日と同じように、声を上げて笑ってしまった。
自分の声に気づいて、姫君は顔を曇らせる。昨日と同じように。
しかし青年は、そんな彼女ににっこり笑いかけた。
「よかった。また笑っていただけましたね」
あなたにお話を聞いていただけるのなら、私も笑顔になれます。青年はそう言った。
彼の二つ目の願いは、どんなときでも笑顔でいたい、というものだった。
決して姫君を傷つけないように。また姫君に笑ってもらえるように。
それから青年はいくども姫君の元に通い、いくつも物語を聞かせた。
姫君はその物語に笑い、泣き、ときどきは青年に言葉をかけるようになった。
そして彼女の変化は青年だけでなく、屋敷のほとんどのものが気づくような形として表れ始めていた。
相変わらず青年以外に声はかけないものの、美しい花に微笑み、それが枯れれば眉をひそめ、人間らしい表情を少しずつ見せるようになっていたのだ。
そんな姫君を見た何人かは、彼女の変化にあの青年が関わっていると気づいたが、あえて青年を問い詰めるような事はしなかった。
ただ一人、姫君の父親である屋敷の主を除いては。
彼は父親として姫君の幸福を願っていたし、姫君が幼い頃のように笑顔を見せるようになったのは、彼にもとても嬉しいことだった。
しかし同時に、姫君に近づく青年に不信感を抱いていた。
この男は何が目的なのだ? 娘に何をするつもりなのだ?
彼の疑念は、ただ姫君の幸福を願う心から出たものだった。
そして屋敷の主は青年にそのことを問いただした。
相手が下男であり、娘に近づく不届きものだという考えも頭の片隅にあったため、その口調はいくぶん強いものだった。
しかし問いただされた青年は、物怖じしない笑顔で答えた。
「私は姫君に幸せになっていただきたいだけです。あの方の笑顔を見られれば、他に何も望まない」
ひょうひょうとした青年の態度に、主の疑念はかえって深くなった。
語気を強めていくつも質問を重ねたが、青年は笑顔のまま、その全てに淀みなく答えた。
結局その言葉に流された主は、青年に下心のないことを念押ししてから、これからも彼が姫君に会うことを認めた。
実際のところ、問い詰められている間じゅうずっと、青年は生きた心地がしなかった。心臓はすくみあがって頭の中は真っ白になり、泣きながら許しを請いたい気持ちになったし、問われていることになんと答えればいいか分からなかった。
しかしそんな心中とは裏腹に、彼は笑顔を崩せず、思考の外から湧き出たような言葉でその場を切り抜けてしまった。
自室に戻ると、青年は自分の言葉を繰り返し思い出した。
姫君に幸せになっていただきたい。
本当に、俺はそう思っているのだろうか?
主に見せた笑顔は俺自身の顔ではない。あの手鏡に作られたものだ。
本当の俺ならば、あんな場面でひょうひょうと笑ってなどいられないだろう。
主に答えた言葉は俺自身の考えではない。あの手鏡があつらえたものだ。
本当の俺ならば、なんと答えていいかも分からず口ごもるだけだろう。
なのに、それが俺の本心だと言えるだろうか?
あの手鏡を手に入れてからの言葉は、全て偽物かもしれない。姫君に語った物語も、主に答えた心中も、毎日の些細な会話も。
そんなもので、姫君は幸せになるのだろうか?
青年は、言葉には出さず考える。
一度口にしてしまえば、心地よい言葉で自分自身さえ誤魔化してしまうだろうから。
姫君の幸せの為に、俺は何をすればいいだろう。
あの手鏡に何を願えばいいのだろう。
答えはすぐに思い当たった。
彼女の憂いの原因は、あの老婆のような声だ。ならばそれを癒すことができればいい。
姫君に手鏡を渡し、そう願ってもらえばいいのだ。
そうすれば姫君の憂いは取り除かれ、誰にでも心を開けるだろう。
だが、青年はすぐに頭を振る。
それは、嫌だ。
姫君の声は、俺にとっては天の恵みなのだ。
彼女が俺以外のものに心を閉ざしているのは、その声ゆえに。
それを癒してしまったら、今のような関係を続けられるだろうか。
否。きっと、俺よりも優れた人間が現れるだろう。
手鏡の力を借りただけの偽物は、見向きもされなくなるに違いない。
それは、嫌だ。
青年は頭を抱えた。
やっぱり、俺の言葉は偽物じゃないか。
幸せになっていただきたい、などと。
姫君を幸せにする方法があるのに、それを拒んでいる。
自分のわがままの為に彼女の幸せを拒絶する、醜い男。
それなのに、手鏡で彼女を奪うようなこともできない、小心者。
そんなどうしようもない人間が、どうして彼女の側にいられるだろうか。
偽物の言葉と偽物の笑顔で醜さを覆い隠して、結局あの姫君を冒涜しているのではないか。
そんな男が、そんな醜いものが、あの美しい姫君に語りかけていいはずがない。
俺は彼女の側にいてはいけないのだ。
青年の手が、手鏡に伸びる。
鏡が笑っている。
苦悩する青年を嘲るような笑顔。鏡に映った彼自身の顔。
馬鹿な男だ、と。
もう嫌だ。
青年は手鏡に願った。
俺をここから消し去ってくれ――。
次の日、姫君は待っていた。
いつもの場所で、青年が来るのを。
その次の日も、更に次の日も。
それから毎日。
笑顔を思い出させてくれた青年を、ずっと待ち続けた。
そのことを青年が知ったのは、ずっと後になってから。
青年にとっては、ほんの少しの間のこと。
手鏡に願った彼は、朽ち果てた自分の部屋に座り込んでいた。
外を覗けば、蔦に覆われてすっかり変わり果てたお屋敷。
その中を探し回っても、誰の姿も見えない。
全てから逃げ出した彼は、屋敷に誰もいなくなった未来に飛ばされていた。
あたりをさまよう内に、やがて彼は墓地にたどり着く。
整然と並んだ墓石たち。
彼はその中に、姫君の名前を見つけた。
冷たい石に刻まれた言葉は、彼女が一人で生きて、一人で死んだと語っていた。
姫君は誰にも心を開かなかった。
神の手による彫像は、心まで冷たい石なのだ、と。
それを最後まで読み終えた青年は、力なく立ち尽くした。
立ち尽くして、ただ声もなく笑い続けた。
彫像の姫君
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