泥の春
1 青春時代・群像編 ~恋の行方知れず~
一
大学に貼り出された掲示物。その数字の羅列をたどる細い指が動いた。六桁の数字が書き込まれたメモの番号に何度も目を落としながら、綺麗に等間隔で並んでいる数字を丹念に確認しつつ進む指は、すーっと上から下へと動き、ある番号の所で止まった。
「あった! あったわ」大声で私は叫んだ。
「やったあ! 良かったね、チヅル」友人もえびす顔だ。
「うん、ありがとう」
私は入試の合否結果に対して自信があったが、不安な気持ちもあり、友だちの和美に付き添いを頼んで、キャンパスに来てもらった。彼女は、推薦で別の私大に二ヶ月前に入学が決定しており、私よりも早く大学の寮生活の準備を始めていた。今日は天気も良く、喫茶店で紅茶のケーキセットを奢るからと約束して用心棒として来てもらった。用心棒の割には背が低く小柄だが、私の受けた大学は共学であり、変な男子学生が来れば和美に凄まじい勢いで追い返してもらおうとの期待があった。高校時代、そうした修羅場を何度も彼女の助けでくぐってきた。
私は都内の大学入試を受けた。そして今日、見事に合格の二文字を手にした。二人の通う大学こそ違うものとなったが、変わらぬ友情を深め合う仲だった。まさか、私と友人の距離がどんどん離れて遠くなる未来など、まだ想像できる年頃ではなかった。まだ冷たい春風に薄雲がたなびく中、生成り色のトレンチコートの襟元を立てながら手袋を外した私は、無邪気に和美とハイタッチした。和美は自分が受かったようにピョンピョンと元気よく跳ねて、勝手に他の受験生が撮る写真の端に入り込んだり、わざわざ掲示板まで歩み寄って私の番号を指差し、空いた方の手でVサインを作った。しまいには、知らないおじさんのファインダーにまで収まっていた。
一ヶ月後、広い大学敷地内の並木道をせわしなく歩く私の姿があった。私は聖マドレーヌ薬科大学に合格して新入生となった。一学期のカリキュラムを申請する期間で、カリキュラム表を小脇に抱えて、まだ慣れない建物を東へ西へと移動するので精一杯の毎日を過ごしていた。大学生として忙しい季節が始まっていた。
散った桜の花びらが道路の排水溝付近にたまり、雨で一緒に流れついた土や泥とひしめきあって、春の陽射しを浴びていた。
私が属する教室のクラスメートの一人に、棚橋陽一くんがいた。彼は私の斜め前に座ったり、最前列に陣取ったりして、真面目に一般教養の講義を受けていた。背が高くて色白のお坊ちゃんのようなイメージが漂う彼は、愛知県出身だった。東京に出てきて日の浅い棚橋くんは訛りが抜けず、江戸っ子の湯浅くんたちからいつもからかわれていた。第二外国語がドイツ語で、それは必修科目であった。が、「棚橋は、まず標準語から習得しなきゃならないよね」と言われたり、「その服、ちょっとセンスないよな。だから地方出身者は垢抜けないんだよ」なんて言われたりもしていて、私は棚橋くんが少し可哀相に感じていた。そう言われた本人は顔を赤くしてうつむくと、なにやらブツブツと呟いているばかりだった。
四月の最終週に、私はあるサークルに入会し、歓迎会を開いてもらった。
「さあ、新入生諸君。今夜は先輩たちが君らの酒代を奢りますから大いに盛り上げて下さい。では、かんぱーい」
ジャン、ジャン。グラスやジョッキがぶつかる音が、店内の一角に響き渡る。ここは大学キャンパスから徒歩で三分の場所にある横丁で、端から四軒目の居酒屋、「カスタード亭」という行きつけの飲み屋だった。
「はい。では、乾杯に続いて恒例の自己紹介ね。はい、新入生は手を挙げて。では、そこの君からどうぞ!」
考える間も与えられず、先輩に指を差された新入生の君島くんは、コホンと小さな咳払いをすると、座敷に敷かれた青色の座布団から立ち上がり、自己紹介を始めた。
「えー、私は君島です。マドレーヌ大は名前がお洒落なので入りました。え? サークル? ここのサークルには……。えーと。どうして入ったかは忘れてしまいました。上から書いても下から書いても君島君です。以上、よろしくです」
ワハハハ。おもしれえ奴だ。乾いた拍手の音が鳴る。適当に効果音が挟まれ、それが静まるまで慎重に待っていた可愛い女子が、ニコリと微笑んで立ち上がった。
「はい、皆さん。あたしは、上條佳代です。かみじょうかよー、って言うだけで名前全部になっちゃいます。ジョーカーって呼んで下さい」
「は? 何それ」
「かみ・じょうか・よ。『じょうか』が『ジョーカー』ですからね。トランプのジョーカーみたいにあたしを切り札にして下さい。ウフ」
「おー、可愛いじゃん」
「ああ、なるほどね。では、次の人」
思わず面食らった先輩は、奇抜なアピールを受けて目を丸くしている。初対面で、名前だけでも十数名覚える苦労があるのに、あろうことか渾名までも覚えなくてはならず、呆れ顔の先輩もいれば、えびす顔の優しい先輩もいる。私はそうした先輩たちの反応を見聞きするだけでますます宴会が楽しく感じられた。お酒もすすんだ。しばらく、追加の注文をしたり、トイレのために中座したりで、自己紹介の間があき、私のは忘れられたのかなとほろ酔いでボンヤリしながらお酌をしていた。すると、自己紹介が復活して途切れ途切れで蛇行しながら、やっと私のところにたどり着いた。
「えっと、江畑千鶴です。下の名前だけでも覚えて下さい。コアラが好きです。チヅルちゃんでーす」
両手を広げて軽くウインクした私は、酔いにまかせて女の色気と愛嬌をふりまいてみた。少し卑怯な手段に訴えたかもしれない。内心、小さな汗が垂れかけた。
「チヅルちゃんね。どんな字書くの?」
早速名前に食いついた男の先輩がからんできた。
「千に鶴で『チヅル』です」
私も丁寧に教えてあげた。声が聞き取れない向こうの方の先輩方にも、数回名前の講釈をしてあげた。それが飽きてきて、鞄からルーズリーフの白紙を出し、ボールペンで紙一杯に、「チヅル 千鶴」と大きく書いた。ちょっと恥ずかしい。だって、赤ちゃんの命名じゃあるまいし。でも、覚えてもらえるならと必死になってやりとげた。この空気は壊せないわ。そう観念した。私は、順番が済んでからルーズリーフ披露までの間、舞い上がっていた。サワーを頼んだり、ビールをコップにつがれたり、先輩の話を聞き入ったりで、私の後に行われた自己紹介の続きを真剣には聞いていなかった。
「さて。新入生の自己紹介も無事に終わりました。では、会長の挨拶をお願いします」
「はい、皆さん。宴もたけなわですが、こちらに注目。私が今紹介に預かった会長の川尻です。練習や大会が始まると、私の力が必要になりますので、下級生の方々は今のうちによく顔を覚えておいて下さい」
「川尻さんは長身でハンサムだから、すぐに覚えました!」
なぜか、川尻会長のファンとおぼしき黄色い声が、間髪入れずに私の耳に届いた。気付けば、私の隣にも新入生が座っていた。私の方は、舞い上がるわ酔いが回ってくるわで、女子の先輩と間違え、頭を小さく下げた。
「先輩、はじめまして。チヅルと申します。お名前は?」
私は訊ねた。すると、その女子はケラケラと笑い出して、
「あなたも新入生よね。千に鶴の。私も新入生。マリエと言うのよ。よろしくね」
と明るく言い放ち、私の肩をポンポンと叩いた。ああ、この子も同じだったか。
「あ、そうなんだ。このテニスサークルに入った理由は?」
「うーん。テニスしたことなかったし、信州のペンションとか行ってみたかったし。軽井沢のテニスコートって憧れない?」
「ああ、そうね。そりゃ憧れちゃうわ。私も初心者なの。仲良くしましょうね」
その宴会で隣同士になった夜から、マリエとの付き合いが始まった。彼女とは大人になった今でも時々会ってお茶する程度の交友関係が続いている。宴会のあとで名前の書き方を聞き出して、「万里江」ちゃんだと知った。私が「千鶴」の千で、万里江が「万」だから、千より上の万なのか、と妙に納得した。それで私はマリエに頭が上がらないのかとも思った。それは多少こじつけだが、マリエちゃんは肝の据わったスケバンタイプの女ボス的存在へと成長していった。猫をかぶっていたのは、あの夜の歓迎コンパの時だけだった。実際、歓迎会のあと、すぐにやってきたゴールデンウィークのテニス合宿で、彼女は一年女子のマネージャーのように振る舞いだした。合宿は河口湖で行われた。
テニスコートでは先輩同士のラリーが続き、ボールがコロコロと転がり、散乱する。
「ジョーカーさん。そっちのボールはまかせたわよ」
「はい」
「ああ、だめだめ。君島くんは女子に近付かないの。君は、フェンスを越えてコートの外に出たボールを拾い集めてきて」
「ああ、分かったよ」
「川尻先輩、はい、タオルをどうぞ。他に何か? あ、はい。分かりました。チヅル! ジュース買ってきてちょうだい。炭酸系にしてよ、いいわね。お金? 自分で立て替えなさいよ!」
マリエの的確な指示はこんな具合だった。た、頼もしい番長誕生だわ。当時の私はそう思った。
運動部ないしは運動系サークルに所属する理由は、人さまざまだろうが、スポーツを通じて男女や先輩後輩同級生が仲良くするという大きな目標は、みんな共通している。そのように私は思う。さらに言うと、薬学実験のレポートや、何十年にもわたって行われてきた教授たちの試験問題とその模範解答のコピーというありがたい情報ノートが入手できることは、大いに学業の負担を軽くしてくれると巷では言われていた。私もそれは同感だった。その噂を信じて、当時は文武両道の精神を持って、なにごとにも一所懸命に取り組む私だった。でも、テニスとか合宿とかにも、やはり一種の憧れと刺激を感じて惹かれていたのは確かであり、それは多くの新入生と変わりはなかったと思う。
サークル名? ああ。それをまだ書いていなかったか。聖マドレーヌ薬大にちなんで、私の属したテニスサークルの名は、「バニラ・アンド・ストロベリー(通称バニベリ)」だった。なんだか思い返すと、この大学にまつわるものやキャンパス界隈がすべてお菓子に関する名前や材料の名称で、すごくこっぱずかしい。本当、どうかしてる。初代学長が大の洋菓子ファンでマドレーヌ好きだったから、無理矢理に大学名にその名を入れたという伝説は、学生の間でも有名な話だった。
春の合宿を終了して五月末ぐらいから、ようやく同級生や先輩男女の顔と名前の一致率が上昇してきた。名前が浮かばないときは、マリエを探して彼女に聞いた。「ねぇ、あの人、なんて名前だっけ」。「えー、忘れたの? 〇〇さんでしょ」。百発百中だ。彼女は、薬品の名前もそうだが、固有名詞は片っ端から覚えているように見えた。めっぽう暗記物には強くて得意だったのだろう。だから、頼りにされてたし、彼女の言うことに誰も異を唱える人なんていなかった。分かる気がする。あんなに神経が太くて物怖じしないで、はっきりと口をきけるんだから大物だ。その頃の一年女子の間でも、そんな評判が立っていた。実際、彼女の大物ぶりは、社会人になってから大いに発揮された。製薬会社に就職して五年ほどたち、転職したマリエは友人たちと小さな会社を起業した。今じゃ、そこの女社長をやっている。健康美容会社、「marie & cool」とかいう横文字の会社名だ。最近でも頻繁に女性雑誌やテレビCMに広告が出ている。すごい同期がいたもんだ。どうせ私なんて、しがない勤め人だ。
さて、私、マリエ、ジョーカーこと佳代の三人を中心に、一年女子はバニラ・アンド・ストロベリーで互いの結束と友情を深めていった。もちろん、勉強もたいへんではあった。分厚い専門書をガイダンスのあとに買い込み、三年生ぐらいになると、病気の名称や治療法、健康一般、薬の人体への影響などの知識、新薬の作用などを一所懸命に覚えた。到底二十そこらの大学生が網羅できる分量の知識ではない。だから、××辞典、××便覧は、机上のお供で必携品となる。昔に使われた薬や治療法なんて覚えなくても、今よく使われている薬のことだけを覚えればいいじゃん、と何度も愚痴をこぼしたこともあった。それでも私を始め多くの学生は、与えられた書籍を読みこなし、ある程度の内容と知識を頭に詰め込んだ。薬局で働くため、研究所で白衣を着て三角フラスコや試験管を振るためにだ。病気で苦しむ患者にいい薬を届ける人間になるためには避けて通れない道がある。幾多の先輩方がその道を通り、四年間ないし六年間の薬学を修め、社会人として巣立っていった。それは私に課してきた約束事だ。聖マドレーヌ薬科大学を受験しようと決めた高一の冬からせっせと情報を集め、進路指導を担当する先生の話や薬剤師の知り合いの方の話に耳を傾けるたびに薬学で身を立てると覚悟した。あれをするにはこれをしなきゃならない。そうすると次にはこれとそれが待ち受けていて、それらをクリアしなければその先に行けない。そうした全てをクリアする決心はある。その自問自答の中で見えない承諾書にサインすることを繰り返し、こうして薬大のキャンパスの中で、それに向き合っている私がいる。
書籍や専門書だけではない。実験とレポート作成もとても重要だ。単位を伴うことではあるし、何より、手順書に書かれた通りに実行していかないと思わしい結果にはならない。それなりの基礎技術を実験を通じて習得しておかないと、私の将来において大きな欠陥を抱えることになる。いや、そうだとしたら、もはや薬剤師や研究員としての未来は終わっているのかも知れない。だから、マウスを扱うことにも慣れてきて実験を繰り返して夜遅くに帰宅する生活が続いても、絶対に逃げ出すことは許されなかった。
そうは言っても四年間の学生生活というのは長丁場である。早朝の講義から深夜の実験まで忙しい合間を縫って、私たちはテニスサークルにもたびたび顔を出した。一年生の頃はボール拾いしかさせてもらえなかったが、先輩の綺麗で流れるような打撃フォームやフォロースルーをずっと眺めているだけで心地よく、幸せなひと時を過ごせた。ああ、私も三年生ぐらいになると、ああしてラリーを続けたり、試合形式で打ちあったり、ボレーを決められるんだ。勉学のストレスをコートの中で発散する、若者らしい若者になれるんだと思う私だった。
春のほんわかした空気も落ち着いてきて、授業や課題に苦しみ出していたのは、梅雨入りしていた頃だったか。そんなある日、私はジョーカーとともに、図書室で調べ物ついでに課題として出された英文の和訳――ネイチャー誌に掲載された科学ニュースの和訳――をしていた。
「ねえ。この単語の訳、合ってる?」
「どれどれ。それ、違うよ。cell は細胞」
薄暗い図書室をほのかに照らす白熱灯の下に二人はいた。部屋の中央付近や柱の周りは暗めなのでさけて、灰色の曇り空を背景にした窓際に、私達は席をとっていた。しばらく、二人でお喋りをしたり、有機化学の名称を覚えるコツなどを教え合ったりしたあと、英語の課題に取り組むこと十分が経った頃か。図書室へ続く廊下をコツコツと音を響かせて歩く足音が聞こえてきた。
「誰か来たわね。誰かしら? キミシマくんだったりして」
「なんでキミシマなの? 気があるの? カヨったら!」
「いえいえ、そんなんじゃないけど」
――ガチャガチャ。
錆びた金メッキのドアノブを回す音が、波を打ったかのように静かな図書室の狭い空間に響いた。ツカツカツカと革靴が床を蹴る固く乾いた音が反射して、書棚からこちらへ向かってくる。
「ああ。チヅルか」
音を鳴らすのを止めた足音の主が口をきいた。湯浅くんだった。
「何か用なの?」
少し間延びした誠意のこもらない言い方だったか。それを感じたように、少し口を開きかけて言うべき言葉を呑み込んだ彼は、こう言った。
「あのさ。次の講義は休講。さっき二十四号室に掲示物が貼り出されてたよ」
「えー! そうなの? K先生の無機化学でしょ? もっと早く知りたかったわあ」
「そうよね。どうする、チヅル? フリータイムが伸びちゃったわね」
「うん。どうしよう……。あ! 湯浅くん、時間ある?」
「あるけど、なんだよ」
「空き時間にボウリングでもしない? 渋谷に出てさ」
「オレ、金ないし。いいよ。二人で行ってきな」
「えー、ケチ! 女二人じゃ、つまんないわよ」
「んなこと言われても。じゃあ、棚橋を呼んでくるから。あいつに連れてってもらえよ」
「うん、そうする。棚橋くんと行くもん」
「一コマ九十分だからな。間違うなよ」
「へえんだ。もう慣れたわよお。ちゃんと時計見て確認しながら戻って来るわよーだ」
私は右手で目の下を引っ張って毒づいた。
しばらくすると、湯浅の代役を申しつけられたお人好しの棚橋くんが、汗をふきふきやってきた。
「やあ。待たせたね。そういうわけで、行こうか? 地下鉄で渋谷に出よう」
棚橋くんは、元気に誘ってきた。
「はーい!」
この頃の素直な私にとって、棚橋くんに惹かれているのと遊ぶのは、化学天秤でも水平に釣り合っていた。
そうして三人は連れ立って渋谷に繰り出し、久々の息抜きを楽しんだ。平日の午前中のせいもあってか、ボウリング場は空いていて、待ち時間もなくすぐにゲームを始められた。一ゲーム半を楽しんだ。
「帰りの時間も加味して計算したら、ボウリングを二ゲーム楽しむ時間的余裕はないよ」
棚橋くんは忠告した。実際、すこし時間が余ったが、途中でやめて正解だった。私はストライクがゼロだったが、スペアを二つ取れた。ジョーカーはどちらもゼロでガーターを出しまくり、明らかに場の空気をしらけさせていた。だから、自販機でジュースを買って休憩したり、私のスペアや棚橋くんのストライクに大はしゃぎでピョンピョン跳ね回ることでムードメーカーを決め込んでいるように見えた。勝負の方はと言うと、私がハンディキャップ三十で、ジョーカーがハンデ五十の設定でゲームを開始して、そのハンデを足した合計得点で棚橋くんのトータルを上回り、ジョーカーの判定勝ちとなった。まさに切り札そのもの。帰りの道中ではジョーカーが、「スコアはともかく、勝負は勝負よ。勝ったのは、私。また行きたいね」とはしゃいでいた。私は、はしゃぐ彼女の横で、棚橋くんに小さく折り畳んだメモを彼の手に握らせていた。「こんど、遊びに行きませんか? 〇三ー三八二×―×× チヅル」と書いたメモだ。今でこそ、携帯のアドレスだったり、スマートフォンの番号だったりするらしいが、私の学生時代はまだアナログの時代だ。相手に何かを連絡するのは手紙を投函するか、電話番号を伝えるか、駅の伝言板にチョーク書きするかしかなかった。住所録がたいへん貴重で、個人情報が筒抜けだった。牧歌的で呑気な時代だったと思う。棚橋くんにメモを渡した私は、授業のノートを取っている間も、チラチラと彼の方を見てはその反応を確かめた。棚橋くんは、当時から部活をせず、真面目に勉学と家庭教師のアルバイトのみをしていた。授業は六時限まであり、遅くなると十八時近くになる。そういう状況をみて、彼は生徒の親御さんと交渉した。遅くなる曜日を中心にバイトの日程を組んで、週に三日をアルバイトの時間に割いていた。名古屋の某病院に勤務する医者の息子だからか、親譲りで頭も元々いい。親から仕送りをしてもらえる身分だった棚橋くんは、交渉の場でもう一つ重要な申し出をした。すなわち報酬を千円安くする代わりに、夕飯もご馳走してほしいという条件を出したという。当時の男子学生がよく使った手である。その条件のお陰で、週三日は晩御飯の心配をしなくても済む。これは男子学生で一人暮らしの若者にとって、非常に大きなことだよ、と棚橋くんは周囲に自慢していた。そういう真面目で純朴な所が私の気に入ったところの一つだ。私の足りない、彼を見習って私にも取り入れたい面だった。その頃、ジョーカーに私の気になる人の話をしていた。その話のときは、いつも盛り上がった。
「やっぱり、男の人ってさ。尊敬できる部分が大事よね」
「そうよ。絶対にそう! 『うわあーすごい! 尊敬する』ってところがないと、嫌よ。好きになれないわ」
「カヨもそう? 私もよ。……、それで、Tくんって、いい人でしょ?」
「そうね。真面目だし。純情な田舎青年って感じするし」
「ええー。田舎青年はないよ。カッペじゃないったら!」
「あら? チヅルったら。Tくんをかばってる! しかも顔赤くして。気があるの?」
「い、いやーん。この部屋暑くない?」
「ああ。図星だ。誤魔化せないよ!」
「……」
「Tくんの好きな人。あたし、知ってるもんね」
「えー。誰、誰? 私以外?」
私はジョーカーの肩に両手を掛けて、思わず揺さぶった。よく覚えていなかったが、それはかなりの力だったらしい。真剣だったから致し方ない。
「ちょっと、やめてよ。肩が壊れちゃうわ。で、なんだっけ?」
「じらさないでよお。好きな人よ、Tくんの」
「ああ、それね。実家のお母さんらしいわよ。ふふふ」
「なーんだ。なにそれ? 答になってない! 異性として好きな人は誰なのよっ!」
「鼻息荒い子ねえ。本当に、しょうがないんだから。知らないわよ。ま、噂で聞いた話だと、スポーツ好きでおとなし目の女子ってことになってるけど」
「ガビーン。スポーツしているけど、私、おとなしくないわ」
「そうみたいね。残念ね。ま、次頑張りなさいよ」
「やだ。あきらめないから」
「はあ、その熱意を勉強に向けて欲しいわ。その名前、間違えてるわよ。その化学式はアンモニアじゃないでしょうが。アニリンだから。除光液のアセトンは出来てるね」
だいたいがこの手のパターンで、はぐらかされて終わるのだった。棚橋くんがあのメモをどうしたのかは知らない。一度、夜遅くに誰かから電話が掛かってきた。受話器が何度も鳴ったが、間に合わなかった。お風呂に浸かっていたときだ。電話の主は彼からか、サークルの女子や先輩、クラスメートからか分からずじまいだった。その後も彼からの電話は全然なかった。当時の電話機だと番号は表示されない。かけ直すことも出来ない。だから、鳴るのが命だ。何度も後悔した。留守番機能が付いた新製品の電話機に買い換えておけば良かったと。真面目な彼のことだ。用事がないと掛けてはこないだろう。また、遊びに行く場所を聞いて判断するだろうし、行く場所によっては断ってくることも考えられる。そんな堅物を好きになってしまった私だった。その割に最近の彼ったら、私が他の男子と話し込んでいたら、「何なに?」って割り込んでくるようになったのはなぜだろうか。ときどき私が彼を二、三秒見ていると、彼は顔をそらしたり、下に向けたりする。それも疑問だ。私の思い過ごしなのか。一途な思いを胸に、揺れる乙女心は亀の歩みのようにゆっくり着実にゴール目指して前進して行った。
そして一年の秋、私は友だちを巻き込んで実力行使に及んだ。その結果は期待外れであり、以降は片思いの気持ちを封印して湯浅くんに徐々に接近していくことにした。あれは二年の春過ぎ、Tくんをあきらめて半年我慢してからのことだった。
Tくんへの片思いのもやもやを湯浅くんへのラブモーションにすぐに結びつけなかったが、彼をストレス解消のため、少し不細工なぬいぐるみ人形に見立てて、私はなにかとお節介をかけていた。それが二年の春過ぎ、六月頃のことだった。晴れない気持ちを梅雨のせいにしたこともあったが、あとで振り返ったら、片思いの代償行動だったようだ。例えば、こんなことをしていた。あるとき、バニベリの練習が学外だった。大学構内のテニスコートは幾つかのサークルで共同使用しており、毎月初めの抽選会でくじが外れた場合には、学内コートを使用できなくなることも少なくなかった。そのケースに当たったとき、都内の公園にあるテニスコートを使って、夕方からナイター時間帯での練習が行われた。その練習中に、君島くんと湯浅くん二人は、お互いに示し合わせたのか、他のプレーヤーの試合を眺める上級生たちの目を盗んで、隣のコートに転がっている真新しいおろし立てのテニスボールを自分らのラケットの上に拾い集めては自分たちのコートに運び込んでいた。そういうことは、隣でプレーする別グループからすればはた迷惑で、窃盗と同じだ。スポーツ選手としてはやってはいけないあるまじき行為だ。さも、自分らのボールがよそのコートに迷い込んだから回収していますよ、というような顔をしているが、それら新品のボールはそこで練習しているグループが打ったボールだ。転がって隣のコートの隅にたまっているもので、そのグループが集めるべき彼らのボールなのだ。実際問題、コートが隣り合っていて、同じ色のテニスボールをどちらも使っていると、得てしてお互いのボールが混じり合うことはよくあることだし、多少は避けられない。しかし、その事態をそのグループが見つけて公園の管理人に知らせたら喧嘩になる。管理人によっては今後の聖マドレーヌ薬大の出入り禁止や使用中止にいたる事態に発展することも考えられる。彼らがそうしたトラブルの元をせっせと作っていた。起きた事態に対してバニベリ内で囁かれたひそひそ話を立ち聞きするまでは、そうした事情が飲み込めなかった私だった。すぐに考えが及ばない私は、無邪気な好奇心で二人に近寄り、声を掛けた。
「ねえ。なにしてるの?」
不意を突かれた男子二名は明らかにあわてたらしく、テニスボールをたくさん載せたラケットから幾つものボールがポンポンと落ちては跳ねて転がった。
「え? 別に……」
「私も手伝おうか? 私なら、二人だけでやらずに、みんなを呼んで一斉にやるけどね」
私は二人の顔を見比べながら笑った。あどけなく笑ったらしい。私はただ笑っただけのつもりだったが、あとで私の言動を再現した湯浅くんは、私の幼い声と言葉の連想からか、そう表現した。とにかく、それを聞いて男子たちは吹き出した。ゲラゲラゲラ、とひとしきり笑ったあとで、湯浅くんが近寄ってきて、こう言った。
「面白い子だな。君って」
「そうかしら」
私は自身の性格の特徴を分かってはいたが、わざと懐疑的なイントネーションで言葉を発し、好きな相手に対して可愛らしく振る舞った。
「そうだよ。オレとは哲学が違っているよ」
「なにそれ?」
意味不明の友人に、今度は本気で閉口した。
「そう言うんだよ。物事を通す流儀が違うことをね。親父がよく言ってたぜ」
「そうなの? 初めて聞いたわ」
相手の方が大人な気がした。ここは引き下がろう。私は思った。しばらくたって、ようやく我々のしでかしたことに気付いた上級生らは、すぐに相手グループの所に飛んでいって下級生の不徳を謝罪し、それをなかったことにしてもらったらしい。そして、返す刀で私たちをこっぴどく叱った。なんで私までもが犯人扱いされたのか――。
それから、こんなこともあった。八月に入り、Tくんの見たがっていた映画をチョイスして、マリエに君島くんも誘い合わせて、四人連れで銀座に映画を見に行ったときのことである。湯浅くんは、ちょうどその頃に通っていた教習所で行われていた仮免許の実技試験を受けて奮闘中だった。残念ながら、そちらが優先だ。せっかく誘ってあげたのに。それで、十一時に銀座のマリオン時計台下で待ち合わせをした。君島くんはど派手な洋楽系アーティストのTシャツを着てきた。CDかコンサートのプロモーションのキャンペーンなのだろう。私は英語の音楽に詳しくないので上手く言い表せない。そのグループのエネルギッシュな感じは伝わってくるが、意味が分からない。Tくんはクラシック好きだから落ち着いた感じの格好かしらと思いきや、後ろにいた彼は、こざっぱりした白のポロシャツを着こなして涼しい顔をしていた。マリエは服装に気合いが入ってた。「キスは目にして」を唄ったザ・ヴィーナスのボーカル女性のように、五十年代の「アメリカン・ロカビリー・スタイル」みたいな感じで、ポニーテールにピンク色の水玉模様のスカートだった。すごく目立っていた。隣にいる君島くんは、リーゼントでも革ジャンでもないから、大人しい番犬のように見えた。思わず笑ってしまった。十一時に四人が集合すると、エレベーターに乗り込んで、上の階の劇場まで行った。劇場の前には人があふれていて、ぎゅうぎゅうとすし詰め状態だった。整理員の指示に従い、行列を作って入場し、なんとか席を四つ確保した。マリエは席が確定するや、君島くんにポッポコーンだのジュースだのを買ってくれとねだったりすねたりしていた。私はTくんと映画の宣伝CMを見て、感想やらをあれこれと話し込んでいた。正直、なんの映画だったのか、今ではすっかり忘れてしまった。でも、当時の人気ハリウッド俳優が出演する映画だったのは覚えている。まじめ男のTくんも、たまには若者らしくど派手なアクション映画を見たかったってことだろう。そうするうちに、冷房のよく効いた映画館の緞帳が上がり、映画の上映が始まった。とにかく、予告編からドルビーサウンドがすごくて大きな音で迫力があり、やかましいくらいだった。Tくんが隣でゴニョゴニョいうのが聞き取れない。スクリーンを見ながら彼の解説にときどき適当に相づちを打っていた。前の家族連れのおじさんがひどく汗臭い。もお、って感じでとにかく匂う。男特有で強烈だ。おじさんは風呂に入ってないのか。汗もふいてほしい。シャツに染みついたタバコ臭もひどかった。
そうかと思ったら、横にいたカップルの男性のリーゼントヘアもプンプンと整髪料の匂いがきつい。違う意味での刺激臭だ。若い女性のことも考えてほしい。それに気を取られて映画の筋が飛んじゃうわ、カップルの女性寒い寒いと言い出すわで大変だった。カップルはそれをいいことに抱き合い始めた。ここはホテルじゃないのに。公衆の面前で、そんな恥ずかしいことを。てな具合に、映画を楽しむよりも周囲が気になって映画どころじゃなかった。まあ、夏休みで混んでるし、しかたないかと思って右を見ると、マリエまで君島くんの手を握りしめている始末だ。Tくん、なんとかいいなさいよって思った。
映画が終わると、四人は遅めの昼食を摂るため、銀座のレストランに繰り出した。レストランの中も客が大勢いたので入り口で少しの間待たされたが、奥の四人掛けのテーブルが空いたのでそこに通された。私とTくんが向かい合い、私の右隣にはマリエが、マリエの向こう正面には君島くんが陣取った。この座り位置って、なんだかお見合いのようになっちゃって、改まった感じになった。オーダーを済ませた四人は料理が運ばれてくるまで下を向いたりして一言も口を開かなかった。珍しいことだ。そのうちに、それぞれの料理が運ばれてきた。男子二人は、ハンバーグセットやらタンシチューを頼み、私はグラタンセット、マリエはドリアのセットだった。食べ始めると、マリエが「やっちゃった」と小さく声を上げた。彼女はドリアに付いてきたサラダを食べていたが、そのドレッシングが自慢のスカートにはねちて、オイルの小さな染みが広がったらしい。上品に食べないからだ。私は心の中でそう毒づいていい気味だとまで思ったが、世間知らずのマリエをほっとけない。困った困ったと騒いでうるさいマリエを黙らすために、斜め向かいの君島くんに耳打ちして策を授けた。彼は私の話を承知した様子で、さっそくおしぼりを持って手洗いに向かった。洗面所で石けんをつけ、こちらのテーブルに戻ってきた。ワアワア言うマリエをなだめていた私は、君島くんに目配せをして合図を送る。すると、彼はテーブルの上にあったコップの水を傾けて手に垂らし、石けん水のついたおしぼりに手の水をなじませてくしゃくしゃともみしだくと、少し泡立てた。そのおしぼりをスカートの染みにあてがい、トントントンと汚れの上から軽く叩いて、染みを服からおしぼりに移し始めた。服の上の染みは薄まりながらも次第に色を落としていき、最後には消え去った。染み抜きマジックの成功である。それを見届けた彼は、良かったねとマリエを慰めると涼しい顔をして席に着いた。機嫌が戻ったマリエは満面の笑みを顔いっぱいに湛えた。しばらくはなごやかに会食し、食後のティーブレークへと進行した。わいのわいのと楽しく話し込んでいると、困ったことに、マリエがまたぐずり始めた。
「スカートが濡れたままで気持ち悪いの。乾かしたい」
とマリエは言い出した。ワガママな彼女に従うことになった三名は、マリオンに入っている百貨店の女性服売り場に移動した。
「マリオンで新しい服を買って着替えるのよ。なんか舞踏会に出るみたいな気分ね。あなたたち、ただでいいものを見せて上げるわ」
嫌な予感がして尻込みをする私らを尻目に、意気込むシンデレラは、気に入った服、目にかなった服を次から次へと選んでは私たちに持ってこさせた。あれがどうのこれがどうのと一時間以上にも及ぶ「夏のファッションショー」が始まった。
「このドレス、どうかしら」
「うん。似合ってるわよ」
「じゃあ、これは」
「いいんじゃない」
「そう。ねぇ。君島くんはどう? 私、きれい?」
「ああ。とってもきれいだよ」
こんな会話を合いの手代わりに入れながら、めくるめく美の祭典は女の執念で続けられた。
「これって前から着たかったんだ。着るだけならただよね」
「そうね。いいじゃん」
「あ、そうそう。そっちの色違いのを持ってきてよ」
ヘトヘトになってきた私は、このワガママシンデレラにそろそろ我らの置かれた現実というものに気が付いてもらおうと決心した。
「ねえ、マリエール。もうそろそろいいんじゃないの。どれを買うのか、ひとつに絞ってよ」
「えー? まださあ。迷ってるんだよねえ」
このガキィ、この期に及んで――。
私は怒りのメーターが振り切れ、この厚かましいシンデレラをカボチャの馬車で轢いてやろうかと思った。しばらくはそうしたすったもんだがやり取りされ、やがて、ボーイフレンドが責任とれよな、の視線を浴びせ続けて、ようやく彼氏に説得に当たってもらった。やっとシンデレラの衣装が決まり、ファッションショーのグランドフィナーレを迎えられた。まあ、女の浅ましさたるや、恥ずかしそうにうつむく君島くんに気兼ねすることもない。私と店員は完全に彼女を白眼視して、早く終われの冷たい視線を送っていた。他の客も待っているのに、更衣室を長々と独占して……。因みに、私ら世代の掟破りのひとたちが掛けた迷惑の数々や武勇伝から、たくさんの基準やルール、マナーが整備されたそうだ。
帰りは、マリエールことマリエ一人が大興奮の有頂天で、白のワンピースに包まれて銀座を闊歩する一日となった。スカートをひらひらさせて、元気にはしゃぐシンデレラ。シンデクレ。
それから、九月の初めにあったのが、バーベキュー事件だった。前期試験を控えた土曜日に、試験前だしスタミナつけて乗り切ろう、と誰が言い出したのか、都内の河川敷に集合して暑気払いの大バーベキュー大会が開かれた。バニベリの先輩方が中心となって、車を出したり、人を集めたりして決行された。バーベキューの会は、先輩やその友人たち、私たちバニベリの後輩数名が誘われて大人数に膨れ上がった。河川敷に着くと、既に薪をおこす煙が上がっていて、キャンプ用のミニテントを張るもの、コンロの準備をするもの、食材を買い出しに行ってきて買い求めた野菜を切るもの、バケツに汲んだ水の中で野菜を洗うもの、肉をナイフでさばくもの、これからジュースなどを人数分の二倍ほど買い出しに行く車、音楽をかけて踊り出すものなど、バニベリメンバーを中心にウジャウジャと人垣が群れをなしていた。
その集団を構成する人の動きに目が慣れてきて分かったことは、指示を与えていたのは経験豊富な川尻キャプテンだった。その指示もあらかた終わり、OBの木下さんが乾杯の音頭を取って、ジュースやウーロン茶で乾杯をした。それからは、焼き肉や焦げた野菜の匂いが河原に立ちこめ、風向きの加減で煙が充満する中、肉や野菜を焼いては食い、食べては飲み、飲んでは焼くというループが何周もぐるぐると回った。記念写真を撮ってカメラに収まったり、何人かでサークルの内輪話に花を咲かせ、そのうち暴露話が始まったり、試験で出そうな所を教えあったりと、残暑の刺すような暑さを跳ね返すほどに若者パワーが炸裂し、聖マドレーヌ薬大有志の喧噪が河原を占拠した。
やがて飲食も終わり、話題も尽きて、片付けが始まった。私は、ゴミ捨て担当となり、あちこちに散乱したゴミや残飯などを大きなビニール袋に集めて詰めながら、会場を移動して回った。一方、薪をおこして出た炭や煤が腕について真っ黒になった男子たちは流し場に向かったが、先にきて食器や調理器具などを洗っていた女子の一部が彼らを見て、
「しょうがないわね、○○君たら」
などと言って男子の腕を引っ張って甲斐甲斐しく水で腕の汚れを洗い始めた。なかなか汚れがとれず、これが意外と時間がかかる。それがまたイチャイチャしてきて、見るに堪えない。これ見よがしの行為に、何名かの女子も同調して、ここぞとばかりに彼氏を水場に呼びつけては、その汚れた腕やら手足やらに水を掛け、洗ったりこすったりを始めた。内心、腹が立つ、見せつけちゃって、と怒っていた。パンパンに膨らんだゴミ袋を揺すりながら歯ぎしりする私を尻目に、あっちこっちでカップルやカップル未満の女たちが百花繚乱、痴態を繰り広げている。いとしのダーリンの腕や足を綺麗にしなきゃ、とかのたまって。煤や染みを落とすだけなのに、嫌らしい目つきでなれなれしく映った。
なんだか、それをしていない女子らは取り残されてしまった感じになって、みんなふてくされて食器を乱暴乱雑に洗っている。その恐そうな顔ったらなかった。女を怒らせると、後が恐い。しっぺ返しがあとで来るから。勝ち組女子はベタベタ、負け組女子はプンプンで、空気が完全に二分されていた。私も負け組女子だ。この険悪なムードはバーベキューの後片付けのあとどうなるのかしらと思っていると、女子キャプテンの沢崎先輩――私らの呼び方では志保先輩――が号令をかけて、
「はーい。皆さん。ご苦労様でした。片付けが終わってそれぞれの道具を元の場所に戻した方から順次解散してくださーい。はい。あと、会費はこちらで後日精算して通知するので参加者はそのときに請求が行きますので」
と宣告した。イチャイチャのままで一緒に駅へと向かうカップルの先輩たちや、怒って一人で帰る女子、あぶれたもの同士でドライブに出掛ける男たち、と解散後はバラバラになった。目的がある程度はっきりすると、いろんな人間模様が浮き彫りにされるものだ。恐い、恐い。
バニベリの同期で男子の仲良しグループがあった。それは、若木良三、星野信吾、清水靖の三人のことを指しており、いつも行動をともにしていた仲間である。男の友情というものだろうか。互いが恋敵やライバル意識を持たずに共生していて、なんとなくいつもくっついては同じ穴の中に首を突っ込んでいる。若木くんは「若くん」、星野くんは「ほっしー」、清水くんは「しみん」と女子の間ではニックネームが付けられていた。三人をひとまとめにして「星水木」と呼ぶものもいた。ほっしーは髪を短く刈り込んだスポーツマンタイプで、東京育ちの江戸っ子兄ちゃんだ。若くんは背が高くて体格のいい大男で浪花生まれの関西人だった。親の跡を継ぐ孝行息子だ。しみんは茨城なまりの抜けない色白な田舎のボンボンで、どこかずるそうでもあり、なんでも抜け目なくそつなくやりそうなタイプだ。
まだ当時は、薬局が自宅を兼ねた店舗形式のところが多かった。二階を住居にして一階を職場にしているのが主流で、一階では○○薬局の看板が大きく掲げられ、化粧品やトイレットペーパーなどの生活品も売りながら市販薬や処方箋に書かれた薬を販売するという感じだった。三人ともそうした薬局の家に生まれた子どもであり、兄弟や自分ひとりで親の跡を継ぐために薬科大を志望した。勉強して薬剤師になれたら地元に帰って親とともに店に立つという。自宅から通う若くん以外の二人は都内にアパートを借りたり寮に下宿していたが、仲良く付き合いだしてからというもの、よく若くんちに泊まり込んでは勉強だの麻雀だのと学生らしい生活を満喫していたという。そういう噂を幾度か耳にした。その三人は一緒のクラスではなかったが、誘い合うように三人揃ってバニベリに入会した。一年生のときはそれほど目立つ存在ではなかった彼らも、学年が上がるにつれて上級生からの信頼も厚くなっていき、頭角を現すというほど大層ではないが、なにかにつけて名前が上がったりして注目されだした。
しみんはジョーカーのことが好きだったみたいだ。一目惚れではなかったと彼はなにかの時にみんなに聞かれて否定したが、彼女の後ろ姿と声と性格にほだされたらしい。はじめの二つは、もろに一目惚れの条件に該当するじゃんと私は思った。でも、彼曰く、ジョーカーの気立ての良さは最初はなかなか「わがらね」かったらしい。その告白の信憑性に関して、彼はずいぶん微に入り細をうがつように周囲から問い詰められた。弁明に四苦八苦している彼の姿が私にはおかしかった。いつもそつなくこなす彼が、いざ色恋沙汰になると途端にしどろもどろになる様子は、すかっとする気がした。あまり好ましいとは言えない感情だが。ジョーカーの方は、しみんが優しく接してくれるので半分気付いていたという。しかし、彼女ときたら相手にしないのだ。彼女には意中のひとがいた。竹富先輩のことだ。先輩は吉野里莉阿という私らより一学年上の女子と交際していた。そのことはみんな知っていたし、佳代も承知の上だったのに、あの子は本当に一途というか、頑固なところがある。絶対に竹富先輩を落とすとか、あたしの方に振り向かせて見せますって大見得を切った。横に片思いの男子がすり寄ってきているのに。
大学三年生のとき、しばらく音信不通だった疋野和美から電話をもらった。私は聖マドレーヌ大の文化祭に来るように言った。ちょうど秋の文化祭シーズンであり、私はバニベリの模擬店でクレープを焼いていた。誰かがコアラの着ぐるみを借りてきたらしく、客足も途絶えてきたので、「江畑さん、コアラ好きでしょ? これ、被って」と無理やりなお願いを先輩女子からされた。仕方なく手を止め、コアラのかぶり物を着た私は、通りすがりの人々にクレープを買ってとせがんだ。
「コアラのマドレーヌです。クレープ買って下さい」
文化祭に遊びに来た和美は、うちの店で買い求めたクレープをほおばり、コアラの格好をしたスカート姿の私を見て、笑い転げていた。
翌日は休講となり、二人で新宿に出た。喫茶店に入り、楽しいお喋りが始まった。
「合格発表以来だね。元気してた?」
私はよく冷えたコーラ・フロートを飲みながら、和美の顔を懐かしい目で見つめた。
「うん。元気よ。チヅルも元気そうね」
「うん」
「今日はこうして会えて、よかったわ。やっぱり、高校の同級生って、ときどき会いたくなるものなのね」
「そうだね。で、今日はなにかの相談?」
「そうなの。大学に入ってさ。チヅルとは違う系統だけどね。それがいろいろあってさ」
わけありのようだ。和美の顔が少し曇る。
「なになに?」
「あのね。好きな人がいてね。付き合ってたけど、フラれちゃった」
「ああ、そうなの。それは残念ね。でもさ。よくあることだよ。クヨクヨせずに頑張ろうよ」
「うん、そうだよね。でも、落ち込んでさ。先に行けないというか。私、大学出たら、仕事の道を選ぶか、お嫁さんになるかって考えて。どっちにしたらいいと思う?」
「えーと……。急に言われても。そ、そうね……」
「チヅルは仕事の方なんでしょ?」
「まあ、薬剤師になりたくて大学に入ったわけなんだけど」
「いいなあ。将来がはっきりと見えてて。私なんて宙ぶらりんよ」
「まあまあ。そう言わずに。若いうちから大きな壁に当たらなくてもさ。そのうち分かるよ。どっちにしたらいいのか。私だって、お嫁さんにもなりたいし、憧れてるよ」
「そうよね。ねえ、チヅルの大学でいい男、いないの? いたら紹介してよ、私に」
「うーん。いるといえばいるし。和美に合うのは、いるのかどうか……」
曖昧な返答にもどかしそうな和美は、スカートの裾を摘まんでは直したり、引っ張ったりして、落ち着かない素振りを見せた。そして、トイレに立つために席を外し、数分たって笑顔で戻ってきた。
「私も、チヅルと同じ大学に行けたらよかったわ。受験勉強が嫌で推薦に申し込んだけど、やっぱり勉強に打ち込んでいたら、違う未来が開けたのかも知れない」
「まあ、そうだけど、それはそれでまたいいじゃんか」
「そうか。そうよね。それはそうと、なにか頼まない? そろそろお腹が空いてきちゃったわ」
「そう? じゃあ、なにか頼もうか」
「あのさ。ホットケーキを頼もうよ。たいがい二枚だから、それを一枚ずつに分けて食べるの。ナイフとフォークをもうひと組もらってさ」
「そうする? じゃあ、それを頼むよ」私は手にしていたメニューを閉じると、ウエイトレスに声を掛け、「すみません。ホットケーキ一つ。それに、ナイフとフォークをもう一つ下さい」と言った。ウエイトレスはオーダーを復唱し、テーブルに手を伸ばして伝票を取り上げ、「ホットケーキ 一」と書き足すと歩いて行った。カウンターのマスターに伝えるためだろう。ホットケーキが来るまで、高校時代の同級生たちのその後の様子や大学時代の友だちのことなどを二つ、三つ話したり聞いたりした。そして、ホットケーキが我々の胃袋を満たすためにやってきた。和美はテーブルの真ん中に置かれた皿を自分の方に引き寄せると、手にしたナイフで二枚のケーキに小さなバターを手早く塗りたくり、色つやのいい方を自分の手前に寄せて、皿を中央に戻した。お先にどうぞ、と言う彼女に従って、私は銀製の容器に入ったシロップを親指と人差し指でつまむと、和美の半分が残るようにと慎重に容器を傾けつつ中の量を計算しながら、飴色の液体を小麦色のケーキの上に回しかけていった。私のその様子をじーっと見守った和美は、「さすがは薬大ね。なんか、実験しているみたい」と茶化してきた。彼女は私からシロップを受け取ると、丸い円盤の中央にそれをドバドバっと最後まで垂らし、バターナイフで蜜をあっという間に周囲に広げていく。その手際の良さ。そして、さっさとホットケーキをめちゃめちゃに切り分け、手当たり次第に口に運び、口に入れてる間も手を動かして次々に切れてない所を切っていった。一つひとつを食べてから、食べる分だけを残りの部分から切り取る私とは、やり方が正反対だった。私と彼女の間のこうした些細な違いに気付いたのは、初めてのことだった。人って、自分と違うことをするんだ。私にはけっこうな発見だった。食べ終えてから、私が写真をポーチから取り出した。さっきの大学時代の話の続きである。これが○○くん、これが○○ちゃんで、と主な人を紹介した。和美は、ワァーと大きな声を上げた。どうやら、気に入った男がフレームにいたようだ。
「この人、紹介してよ。チヅルの親友ですとか言ってさ」
彼女が指を差したのは若くんだった。
「まあ、いいけど。向こうがなんて言うかは知らないよ」
「いいよ。あとは私の力でなんとかするから」
家にいた若くんをいいことあるよと言って新宿に呼び出した。こちらの目的を知らない彼に恋愛チェックをしますといって、理想のタイプを教えてあげると申し出た。適当な物を引き合いに出し、AからCの中から答を選ばせた。
「Bタイプだね。若くんは。ぴったりの子がいるよ。この子、和美ちゃん。あとは若い二人でごゆるりと」
そう言い残し、私は残された二人に運命を委ねて喫茶店を出た。
和美は遊園地に連れて行ってもらい、うまくいったらしい。しかし、そのあと二人の関係は続かず、連絡も途絶えてしまったという。私の方も、和美と連絡を取ることは年に数回ぐらいで、だんだん電話も減り、お互いの学生生活の忙しさも相まって、タッグは解散となった。
音信が途絶えてずいぶんと長いときが過ぎた。やがて彼女の噂を耳にしたときには既に外国の地で旦那子どもと共に暮らしていた。旅先のハワイで知り合った日系人と現地で結婚したという。当時でも国際電話はあったが、掛けるのが不便だったし、第一、番号を知らない。それを知る方法は、結婚後の彼女のことをよく知る人に詳しく聞くしか他になかった。和美の結婚の馴れそめを聞き出すほど厚かましくはない。私は高校の同級生の一人として、友人の幸多からんことを祈り、遠い日本の地でただ安堵するだけだった。
私は一年生のときに、数学でつまずいた。それは、微積分と線形代数、とくに行列だった。行列の階数を求める辺りからチンプンカンになり、早くもクラスメートだったTくんの頭脳を頼っていた。
「ねえ。ここ、わかんないよ。どうやって解くの?」
「ん? ここかい。先生の言うこと聞いてた? 階数って分かってる?」
「それがね。よく分からないの」
「階数ってね。これだよ」
「それって、なに? そこからもう、アウト」
「しょうがないなあ」
そこから彼の講義が始まり、分からない所で私は茶々を入れた。
「ああ、そういうことか! 天才だ、君は。あったまいいよネ!」
と私はしきりに感心して、Tくんのおつむを撫でてあげたが、果たして彼の力を借りずに、自力だけでスラスラと解くことがができるだろうかと疑問に思って少し心配になった。そこで、次回に行われる小テストのときまでに手を打つことにした。
「た・な・は・しくーん。あのさ。相談なんだけど。明後日の夜、ご飯作って上げるからさ。遊びに行っていい?」
「え? どういうこと」私はかいつまんで説明した。
「料理と数学の特訓をさ。ギブ・アンド・テイクってわけよ」
的確な説明に彼は笑って首を縦に振った。こんな感じで、授業でまずい箇所があると、強引に図書室に連れて行ったりして、お邪魔虫を押し付けた私だった。もちろん、Tくんばかりでなく、時にはユアーこと湯浅くんらにも声を掛けて、一緒に復習したりもした。ちゃんと何らかの御礼はしたし、ありがとうの言葉も忘れずに言った。本当にいい仲間たちに恵まれた。でもこんなことになるのなら、もっと高校時代に真面目に数学に取り組んでいたらよかったなと後悔した。それも後の祭り状態だが。男子らもすごく得意ではなかったはずなのに、真面目な大学生になったのか、将来の目標がはっきりしているから身が入るのか、私よりも理解が早くて、びっくりした。彼らは、兄貴たちやお姉様方がいて、その人たちの使っていたノートや参考書やらで補えたのかもしれない。とにかくみんなで互いに助け合って、レポートと小テストなどの小波は乗り切った。問題は試験だ。何問解いたら単位にありつけるのか。それが大事だ。バニベリの先輩方にお伺いを立てて、有り難い話を何度も聴講させてもらった。その結果、数学の担当教官は四問出題されて、そのうちの半分以上解答すれば、あとはレポートや出席の状況で救済するだろう、とのこと。もちろん、解けるなら全問解答するに越したことはない。私は、誰もが解くであろう定積分と行列の階数、逆行列、関数の微分を重点的に山張りをして、それらの演習問題を何度も繰り返し解いた。ときどき、長電話で確認しながら。最後の方なんて、微分の公式と不定積分の公式とが入れ替わりそうになったりして、頭も限界に近かった。まあ、つまずいても転んでも七転び八起きの精神で乗り切れよ、って思わないとやってられないのだ。
数学の次に苦手なのは、物理、情報科学、コンピュータ入門だった。これも公式や論路思考が問われるものらしい。ちゃんとテキストを始めから一行一行読み飛ばさずに追っていかないと、途中で意味不明になる。私流の下手な例えで言えば、それは「見たこともない洞窟の暗がり」の中に迷い込むことに等しく、極めて危険だ。熱力学の第何法則とか、高校でも学習した内容だが、頭の中から抜け落ちていた。また、黒板にチョークで先生方が板書される字の読みづらいことといったら。特に、あのギリシャ文字がなにを指しているのか、いつもなにかとなにかを混同してしまう。Tは絶対温度だとか、外から与えた熱量から外にした仕事を引いたものが内部エネルギーの増加分になるだとか、冷静になれば私もわかる。が、板書やテキストの字面を見てもスラスラとそういう連想が頭に起こらない。モル比熱だの、不可逆だの、光子やα崩壊だの、そんなの高校で習いましたっけっていう言葉も結構あった。コンピュータに関しては、今でこそ、一人一台が当たり前という仕事も遊びもパソコン全盛の世の中になったが、当時は大学の一角に数台のいかめしいコンピュータが固まって置かれているだけだった。私たちはそのパソコンルームに集まり、先生の説明を聞きながら、一斉に同じことを操作するのだ。起動とかログインとか聞き慣れない言葉に戸惑い意味不明のハテナマークを幾つももてあそびながら、ワアワア大騒ぎしてコンピュータなる機械と格闘を繰り広げていた。画面を見るのに起動とか登録とかって、当時は本当に意味不明の日本語だった。その概念が把握できなかった。たくさんのお薬の名称なんかを、将来この大きなブラウン管で処理できるんだねと友だちで言い合ってたのが懐かしい。操作に何分間もかかるのなら棚に順序よく並べてファイリングされた紙の書類をめくった方が早い。マリエールもジョーカーもみんなそう言った。先生の長い説明を聞くよりも、頭の回転が早い男子を捕まえて要領だけを聞いてやる方が理解のスピードが数倍速かった。
一番楽しかったのは、やっぱりスポーツだ。高校時代は、女子の発育上、いや、犯罪防止の上で、男子と女子の体育は別々に行われるのが普通だ。それだからして、久々に男子と一緒に体育をやると、彼らの身体能力の高さ、筋肉の肉体美を十二分に堪能できました。別に、いやらしいとか変な意味ではないけれど。スポーツは球技が多くて、出席して最後までいたら、その頻度や回数に応じてA、B、Cが評価につく。一番分かりやすい。テニスをやったり、サッカーをしたり、女子チームは女子チームでやるけど、同じコートや同じグラウンドに男子と女子がいて、応援し合ったりするのは、やっぱり興奮というか楽しいもんだ。キャアキャア言いながら、あの人は上手いとか、あの子はぶりっ子してるとか、楽しい時間を過ごせた。そういう思い出は、なぜかあまり頭には残らない私であったが、ひとつだけ覚えていることがあった。それは、当時テニスのマルチナ・ナブラチロワという眼鏡をかけた外国人のテニスプレーヤーがダントツに女子テニスの世界では強く、それを真似して右利きの男子学生がテニスの授業でわざと左手にラケットを持ち替えて、サーブをしていた。アン、とか大きな掛け声まで出して。おかしかった。それと、二年前に流行ったルービックキューブを大学に持ち込んだ子がいて、ロッカーに忍ばせていた。いち早く着替え終わると、暇つぶしにか、夢中でぐりぐりとブロックを回してたりする女子もいた。いろんなことをみんなするのだ。てんで勝手に。
専門的な科目もあった。薬学入門では、薬剤師を目指す者として持つべき心構えを教わった。薬剤師の仕事と言えば、病院か小さな薬局で薬を患者に出すぐらいのイメージしか持たなかった私も、今一度姉の働く姿を頭に浮かべて授業に聞き入り、病気で苦しむ人たちを救い、健康な体に戻すという大切な職業であることを再認識した。また、社会の変化に対応し、倫理や法規の変更にのっとって、世の中に奉仕することが一番求められているということも理解した。今後、医薬分業が進めばたくさんの薬剤師が必要になりますよ、と先生はおっしゃった。処方箋をチェックすること、患者の飲まれる薬を見張ることも大事な作業の一つになることも付け加えられた。また、当時こそインフォームドコンセントという言葉も概念もほとんど知られていなかったが、私が薬剤師になって十年目ぐらいから医師が使う言葉として徐々に浸透し始め、今や薬剤師ですら、新しい薬を出す際には、その効能と副作用を患者に対して説明し了承を得ることも増えてきた。そのことは、私たちの社会一般に対する職責や使命の重要性がそれだけ増していることを示す一つの象徴でもあった。分析化学に関しては、溶液反応の平衡論が主たるもので、薬剤の定性および定量分析の基礎を学習した。化学は得意だったので、内容のおおよそが高校化学で習ったことと重複していたこともあり、小テストで出題される範囲に関しては、簡単な計算問題ならば何の問題もなかった。自力ですらすら解けた。解剖生理学においては、細胞の構造と働き、血液とリンパ液の性質、心臓、肺、気管などの作用等を学習した。他の臓器に関しては、引き続いて二年生で学ぶことになる。健康科学は、当時、学説や研究は発展途上だった。運動の重要性、運動と健康に対する社会意識、疲労・老化と疾患、スポーツへの応用とその実践例、骨・筋肉・代謝などと運動との関係に関してレポートを書いたり、用語説明や論述などがテストで出題された。私の叔父は学生時代に国体へ出場した元陸上選手で引退後は大学陸上部のコーチ兼任トレーナーをしていたので、叔父の仕事ぶりを念頭に置いて運動と健康についてレポートを書いた。評価は上々で、自分でもうまくまとめ上げたと自負していた。英語は苦手な科目の一つだった。科学論文が英語主流の世界である以上、避けては通れない。が、私はきちんと発音できないし、音が頭に残らない。英語の得意なマリエールによれば、英語というのは中心となる単語を覚え、派生語なり接頭語なりで意味を類推するらしい。私の感覚が古風だからか、さまざまなメディアで出てくる横文字が何を意味するのか、どうもピンとこない。だから、英語の授業も退屈で苦痛だったのを覚えている。アメリカの英字新聞や雑誌をコピーした副教材をよく読まされたり、テープを回してヒアリングをさせられた。英語のビデオ映画を鑑賞し、その感想を英語で説明したりもしたが、どれも満足の行くレベルには到達しなかった。英検を受ける子もいたが、私の耳と舌は純国産のままだった。いや、日本にいる限り、たとえ外国人の患者さんが薬を取りに来られても、彼らはきっと流暢な日本語で話し掛けてくれるし、こちらの話す日本語をほとんど完璧に聞き取り、理解してくれると高をくくっていた。熱心な指導をして頂いた教官の方々には大変に申し訳ないが、英語はやっぱり苦手のままで卒業してしまった。ドイツ語に関しては、ドイツへの憧れ、城やお菓子に興味があり、うまく行けばドイツ・ヨーロッパ旅行の話がどこからか舞い込み、これから習うドイツ語が役に立つかも、と期待を寄せていた。不純な動機だが、学生なんてみんなそんなもんだから。授業内容は、ドイツ語の柱とも言うべき「格」「性」「数」を習って理解が進むにつれて文法が少し理解できるようになり、単語の発音も簡単で、けっこう楽に習得できそうな気がしてきた。要は、定冠詞を付けて単語を覚えることで「名詞の性」に慣れていけばよかった。十六パターンある定冠詞の使い分けを覚えなくとも、教官の配慮で発想の転換をして特定の規則に応じて単語を覚えていったのでスンナリと頭に入った。理系科目の一つ、生物学では、細胞の構造と機能、細胞各成分の役割、代謝、ヒトの発生、遺伝の仕組み、恒常性と神経、ホルモン、皮膚、免疫などについて学んだ。特に授業が後半にさしかかると、医学的な内容も増えてきて、ちょっとした専門家になったような気分を感じた。体の仕組みの複雑さやその繊細な構造には、改めて驚かされた。ヒトの体って、よくできてる。そう思った。
授業が終わると、さっきまで隣に座り、一緒にピンク色のシャープペンシルをノートに走らせていたジョーカーが、湯気の出ていそうなノートを鞄にしまい、私に向き直ってこう言った。
「あのさ。子どもって、じんましんがでると、なかなかおさまらないのよね。あたしのお姉ちゃんとこの子どもがそうだったの」
「へえ。そうなんだ」
とりあえずそう言うしかないだろう。
「そうよ。だから、病院に連れて行っても、原因不明のままで、様子を見ましょうで帰されるの。とどのつまりが民間療法なのよね」
「えー、なにそれ?」
「チヅル、知らない? 食物アレルギーとかの人は、ぬるま湯につかったり、ゆったりした服とかを着ることでじんましんがおさまることもあるのよ」
「ああ、なるほど。それは聞いたことある。ところでさ。さっき先生が言ってたこと。体温とホルモンの関係だけどさ。あれって、冷え性の人なんかは、やっぱり自律神経がおかしくなっちゃってるのかな」
「さあ。冷え性のことまで先生はおっしゃらなかったね。いい質問よ。そうかもしれない。体が寒いときは、体の方から指令を出して体温を上げようとするもんね」
「それが恒常性でしょ」
「おお、ご名答。そうよ。やるじゃん、チヅル」
「へへ」
「それとさ。女子って、男子よりも少し体温が高いって言うじゃん」
「ええ? なんで私に聞くかなぁ。まあ、そうらしいけどさ。私、男子のことはよくわかりません。ホホホ」
「うそばっかし。知ってるくせに。猫かぶっちゃって」
「ん? なんのことかな」
「またまたあ。ニャンコちゃんが、今度は狐さんになろうとしてるわ。るるる……」
「あんたは『北の国から』の蛍ちゃんですか。全く!」
私は彼女にからかわれて、機嫌を損ねたフリをして席を立ち、教室の出口へと向かった。あとから追いかけてきたジョーカーが、私のスカートの裾を引っ張った。
「怒んないでよ。チヅルちゃんたら大人げない。次の授業が終わったら、お茶しよ! ルシオールに新しいメニュー、入ったらしいよ」
「うん。行こう、行こう」
すっかり元気になった私は、声が上ずった。彼女のてのひらで転がされるお手玉のように、私は心の動きを見透かされていた。しかし、そうと分かっていても、乙女の私はルシオールで食べるケーキセットだの甘いパフェだのを頭に思い浮かべ、口の中に唾液が混じって目がらんらんと輝き出すのだ。彼女に腕を引っ張られるまで、花吹雪の舞うお花畑で遊びほうける夢の世界の中に浸っていた。始業のチャイムが鳴っていることにも気付かずに。
さて、理系科目の大本命、無機化学、有機化学が一年生の講義の大トリである。無機化学は、高校時代の復習内容も含まれていて、周期表、化学結合、化合物・水溶液の性質や反応、各族の特性について学んだ。簡単に書くとそういうことだが、高校の知識をさらに延長したもの、発展させた内容に、ただただついて行くだけで必死だった。特に私の場合、あの反応の色はなんだっけ? となることが多く、テレコで覚えていたりしてずいぶんと損をした。テスト前になると、それらの覚え方を紙に書いたり、トイレにこもって呪文かお経のように何度もブツブツと唱えたりしていた。なんともおかしな呪文の数々がテストに役立ったのは事実だ。数々の化学式と用語が頭を支配し、それらは私の小さな頭をたびたび悩ませた。だからだろうか。今でも、それらを教えて下さった教官の方々がときどき夢枕に立ち、
「江畑さん。○○○は、どうなりますか」
とお告げを宣い、答えられないと首を絞めて、次の瞬間に顔がゾンビに変わり、気付くと大勢の白衣の教官や学生が集合して私も白衣を身にまとって、最後にみんなでマイケル・ジャクソンの「スリラー」を踊り出して気勢を上げる夢を見る。なんだろう、あれは。もう見飽きたのに何回も夢で見てしまう。
話はやや脱線したので、有機化学に話を戻すことにしよう。こちらはこちらで、また覚えることが多い。アルカン、アルケン、アルキン、ジエン、シクロなんちゃら、ベンゼン、アニリン、とキリがない。おまけに、妙な名前の官能基――これ自体がいやらしい響きだ――があり、頭が混乱したし、異性体も区別に苦労した。反応がまたややこしい。あんたら有機族はどんだけ交際範囲が広いのよというぐらいやたらと色んな風にくっつくのだ。ベンゼン環なんてもうやりたい放題だ。大阪の貴婦人みたいにアクセサリーをあっちこっちに付けすぎだ。カップリングなんていう恥ずかしい名称もあった。ねるとんパーティーみたいだ。最後の方でやっと、アスピリンやサロメチールといった薬の話が出てきてホッとした。でも、この有機化合物の分解や精製こそが研究室の決定を左右する重要な動機付けになった。
二年生になると専門科目も増えた。授業の内容もそうだが、学生生活に慣れ、要領というかペース配分が私にも掴めてきた。授業よりもバニベリでの活動の方がその濃さを増してきたのもこの頃だった。
二年生になった昭和五十八年五月、茨城県水戸市を訪れた。春の合宿がそこで行われるので遠征した。電車で現地の駅に着くと先輩方が駅に車で迎えに来られていた。女子の集団は適当に分かれ、めいめいが先輩の車に分乗し、宿に向かった。宿に着いて、幹事さんに手渡された部屋割りの紙を頼りに、合宿参加者はめいめいの六人部屋に入った。私ら女子は三つの部屋に分散した。私が居るのは葵の間だった。しばらくして、葵の間がコンコンとノックされた。畳部屋だが入り口は木製の薄い扉で、和洋折衷だった。中にいる先輩女子が顎でマリエールに指示したので、彼女はジャージの上着を羽織って扉を開け、ひょこっと顔を出した。今、女子は着替え中ですと言うと、その相手――内村功――は、「これ、渡してくれ」と小声で言ったらしく。手紙入りの封筒をマリエールの手に握らせた。彼女は内村に、「誰に渡せばいいんですか」と訊こうとしたらしいが、その先輩は照れ隠しにささっと逃げて行き、たぶん聞こえていても聞こえないフリをして走り去ったという。ひとり残されて困った様子の彼女は、封筒を裏返し、そこに書かれた文字を見て、どうすればいいか分かったようだ。その封筒には、こう書かれてあった。「えばたチヅルさんへ 内村いさおより」。これを見てピンときた彼女は大口を開けて笑いながら封筒を手のひらの上でポンポンと跳ねさせ、こちらへ近づいてきた。私は上半身裸になり、スポーツ用の下着とお気に入りの花柄のTシャツを鞄から出そうと手を伸ばして中身を探していたとき、呼び止められた。
「みっともない格好のチヅルちゃん。白馬の王子様からよ」
「え?」
あわてて裸を手で隠して、その先を続けた。
「ここ、白馬だっけ? 王子様?」
「なに馬鹿なこと言ってんのよ。ラブ・レターよ。内村先輩から」
呆れ顔の友人は、私があわてて着替えるまで待っていてくれて、ゆっくりと配達人のように封筒を見せた。
「ええ! ビックリ。内村さんから?」
「そうよ。ここに書いてあるし、本人が来たわ。ハイ、これ。渡したからね。あとは知んないわよ」
配達人は自分宛でないことを快く思わなかったようで、ぶっきらぼうにそう言って私に封筒を渡すと、ぷいとあっちを向いてその場を去った。なんで、また、私なんかに。心当たりがあるかと問われれば、それはまるで無かった。もっと素敵な子や可愛い子が他にもいっぱいいたし、内村の印象もさして私にはなかったのに。まして、私には同学年に好きなひとが居るのになあ。どうしよう。先輩の好意を受け止めなかったら、練習で厳しくされたりして。自分の思いが相手に届かぬ時は、得てして思いもかけぬ方角から矢が飛んでくるものなのかしらと思った。いったい全体、私を担当しているキューピッドときたら、いい加減でちゃらんぽらんなんだから。封筒から手紙を出すまでにいろいろな考えが頭をよぎった。それもこれも、この恋の申し出という現実をすぐに受け止めたくない気分、言い換えればモラトリアムな気持ちからだった。とりあえず、何も答えられないし、中の手紙を読んだことにして、相手の反応や出方を見てみようか。私は口の開いたままの封筒から覗いている白い手紙の端っこをつまみかけていたが、その手を止め、手紙を封筒の奥深くに戻し入れた。面倒なことは見て見ぬ振りをする。それがいつもの私の悪い癖だった。
やがて、徳子先輩を隊長にして荷物の片付けと整頓のチェックをしてもらった女子たちは、隊長のお墨付きを得て、葵の間を後にした。他の部屋からも女子がぞろぞろと出てきた。そして、一階の玄関へと向かった一団は、階段付近で合流したり渋滞したりしながらどんどん連結していき、見る間にロビー付近に人垣が出来あがった。女子たちはお目当ての男子たちを見つけるや、先輩かっこいいです、などとキャアキャア囃し立てながら、男性相手にお喋りを始めた。それは、まるで餌に群がる小鳥のようだった。かくして群れをなした雀や雲雀たちは、女子キャプテンに促されながら、コートまでの道中を賑やかに歩いた。そのパレードは実にかしましかった。その話の中身たるや、芸能人から家族一人ひとりに至るまで、自分の気になる人の噂話であり、それらを長々と楽しそうに語らう顔は、皆ほころんでいた。もちろん、好きな男子の話も含まれていた。そのときは、声のトーンを一段下げてボソボソと呟き、周囲の反応を確認しながら聞き手の恋愛状況も素早く交換し合っていたのは言うまでもない。男子たちが聞いたら顔を赤らめそうな話もポンポン飛び出していたはずなのに、いざコートに入れば、そんな女子たちは、「先輩。ボール、行きまーす」と澄まし顔で純情可憐な振る舞いをして、ボールを男子の先輩方に投げ渡しているのだった。頭の切り替えが早いのか、はたまた何匹もの猫を自身の懐に飼い慣らしているのか。もしそうなら、それぞれの状況に応じて、あの猫この猫の着ぐるみを被っていたりして。化けて出ないだけでもまだましだが。まさに猫かぶりのオンパレードだ。
さて、私はというと、先輩から告白された(と思っていた)のを逆手にとって、先輩男子の様子をうかがっていた。内村の兄貴分、竹富や川尻は、平然とラリーをしてコートいっぱいに動き回っている。ラリーが終わっても、軽く声を掛け合うだけで、特にこちらを見てきたり、内村と話し込む気配はなかった。なーんだ。内村先輩の単独犯行か。そう思った私は、彼の姿を追ってみると、青いベンチに腰掛けて、テニスラケットでボールをテンテンとまりのように突いている。なんかいじらしくて寂しげねえ、と思った。女というのは、孤独の似合う一匹狼がなんだかいじらしく切なく見えるときがあって、そんな人を思わず抱きしめたくなる瞬間、魔が差す瞬間というものがあるという。姉が愛読していたフランスの小説の中にある一節にそういう場面があったような気がする。
2 青春謳歌編 ~不条理な出来事~
すると次の瞬間、そんな気分を打ち消すかのように、バシっという衝撃が頭に走った。
「ごめんごめん。江畑、だいじょうぶ? ボール、当たっちゃった」
川尻宗一朗の弾んだ声がコートに響いた。危ない恋の橋を渡りかけていた後輩女子を救い出す、純真な一打だった。
川尻キャプテンたら。お茶目ね――。
軽いしびれを頭に感じながら、私は冷静にそう思った。そして、側頭部にジンジンと広がる鈍痛に不埒な自分を戒めながら、改めて自分の気持ちを問い直してみた。それとは別に、なにかを言わねばという思いから口が動いて発したのは、
「大丈夫です、先輩。ありがとうございました」
という返答だった。それを聞いた周囲のメンバーらは、笑いをかみころそうとしておかしな表情になっていた。女子の頭にボールが直撃したので心配そうに私の顔を見つめていたのに、私の答が余りにも当を得ていなかったせいだからだ。自分の気持ちが意味不明な会話となって現れたことに気付いた私は、顔中に血の気が上り、のぼせたままの恥ずかしさでいっぱいになった。穴があったら入りたいとはまさにこのことだろう。
その日も、次の日も、なにかしらのアタック、恋愛を感じさせるような行動は内村から見られなかった。
あの手紙の答を求めていないのかしら――。
私は、自分が不誠実な女に思えてきた。彼の心理状態を察すると、彼は手紙を私が読んだと思い込んでおり、私からの返事をじっと待っているはずだ。そのストレートな思いに対して、ことの成り行きをあやふやにして誤魔化している私という存在は、先輩の告白が片思いにしかならないという結果を知りながら、それを知らせずに相手の方であきらめて引き下がってくれるのを待っているズルい女、ある種の裏切り行為をする女、はぐらかす女を演じている。そんな風に自分の内面を整理した。そして、そうした気持ちと相手の気持ちが、一本松の周りをグルグルと追いかけっこし始めて、世界がねじれていくような感覚に囚われていた。
向こうが何を考えているのかを探ってみたくなった私は、最終日の帰るどさくさにまぎれて、ある作戦を決行した。思い切って相手の陣地に入り、質問をぶつけてみることにしたのだ。宿では帰り支度をする時間帯となり、めいめいが部屋の掃除をしたり、忘れ物がないか点検したり、部屋の片付けをしていた。そのスキを狙って、私は葵の間を抜け出した。部屋割り表が書かれた紙を頼りに、内村のいるであろう部屋、桔梗の間へと向かった。私の荷物はマリエールに預けていた。ルシオールでケーキセットを奢る約束を交わし、内村戦線に共同タッグを組んだのだった。途中、竹富と廊下ですれ違ったが、愛想笑いを振りまいてそこは切り抜けた。
部屋の前に着いた。
中から先輩男子らの笑い声や話し声が聞こえてくる。ドアが半開きになっていた。女子においてはいけないことだが、遊び盛りの男子のことだ。それに、男子たちというのは見られて困るものも、隠すものも特にないのだろう。どうせ、十分後には部屋をもぬけの殻にしてロビーに集まるから。
誰かを呼び止めて伝令係になってもらおうかしら、と思っていたら、渡りに船、いいカモが襖を開けて姿を見せた。上原だった。
「あのお。上原先輩。お願いがあるんですけど」
わざと作ったようにしおらしく喋り、もどかしそうに体をくねらせてみた。
「なんだい? 江畑」
効果てき面だ。上原はくせ毛の頭を撫でながら、不思議そうな目を私に向けてきた。
「あのお……。内村先輩って、部屋の外に呼んでもらうことできますか」
「おう、なんだ。内村か。ちょっと待ってなよ」
気安く答えた上原はすぐに襖を閉めて、その向こうに引っ込んだ。私は、この空間で他の先輩方と鉢合わせになりたくなかった。だから、その場を離れた。ドアの外に出ると、廊下の端っこに寄った。なるべく人目につかないように見せかけるためだ。廊下の壁にもたれてみたり、窓の外を眺めたりして、相手を待った。
「やあ、チヅルちゃん」
渦中のヒトが姿を現した。ちょっと様子が変だ。キョロキョロと辺りをうかがっている。なにかを意識しているろう。
「あのね。先輩、最近なにかありました?」
「え?」
それとなく投げた変化球に対して、内村先輩は面食らった表情を見せた。
「何かって?」
「だから。ウキウキすることとか、ドキドキすることとか」
「ああ。あったと言わなきゃうそになるよな」
「どんなことなんですか? よかったら教えてください」
「ええ? 分かってるくせに。それは、ええと……。あのさ、返事はどうなってるの?」
正直な人。同学年の男子だとしたら、よしよししたくなるかわいさだ。
あの手紙の差出人であるオレが、まさか受取人から問いただされ、このように気持ちを白状させられるとは思ってもみなかった。一体オレは、なんのために手紙を書いて渡したのだろうか。
彼はきっとそんな風に思い、焦りを感じ始めているはず。だって、彼のおでこは脂汗でテカテカしてる。意地悪な私は、さらに非情な現実を吐露した。なるべくオブラートにくるんで。
「そうなんですか。返事をもらいたいんですね。私ね、好きな人がいるんですよ。だけど、いろいろ相談したくて、こうして先輩に相談できたらいいなって思ってお呼びだてしたんです」
女子がこう言う場合、二通りある。一つは相手のことが好きで、その照れ隠しで本人に相談し、その相手とは実を言うとあなたですと最後に打ち明けるパターン。もう一つは、本当に相談することでそれを解決しつつも、聞き手がどれほど親身にしてくれるかを量っているパターン。後ろの場合、もし恋が破れたら親身な方に乗り換える計算が働くときもある。
「そういうことね。……うん、聞いてあげるよ。僕がチヅルちゃんの力になれるのなら」
やさ男の悲しい性が出た。相手はもう、私の方に絡め取られている気がする。冷静な私は、網を張って待っていた女郎蜘蛛が掛かった獲物にゆっくりと歩み寄り、舌舐めずりをして料理法を思案するような動物ドキュメンタリーのワンシーンを頭に思い浮かべた。というのは少し誇張させすぎているが、明らかに自分の優勢が確定したので、この哀れな男性の熱中度合いと思いやりや温かみがいかほどなのかを見極めてみようと考えた。勉強するときのものとは異なった恋愛回路みたいなものがあるとするならば、その回路は男性がしゃべる間にパタパタパタと恋の計算を始めてしまう。男性には信じられないだろうが、太古の昔から種を残してきた遺伝子、母性本能の類いとは、実にシビアだ。
「先輩。私、片思いなんです。実は、去年フラれちゃって。心の傷は新しい恋をして埋めるに限りますよね。その新しい恋の相手にまだ思いを伝えてなくて。というか、まだ伝えられないんですよ。どうしたらいいですか」
この部分に限れば、それはストレートな私の気持ちそのものだった。いきなり予期せぬ展開にあい、内村は少したじろいだ。まるで、テニスの試合で、強敵の相手が左へ右へとボールを打ち分け、揺さぶられながらも何とかネットの向こうにボールを叩き返すのに精一杯になっている感じだった。
「そうだなぁ。オレの経験では……。君みたいな子ってさ。前のヒトに引け目を感じてたりするよな。だから新しい恋に百パーセントの自分をぶつけられないんじゃないの?」
「うーん。そうなのかなあ」
私は歯切れの悪い返事をした。正直に言うと、答を求めてなんていないのよ。分析はいいし、結論もいらない。ただ、一緒に仲間として分かち合って欲しい。共感してほしいだけなんだったら、先輩。そういいたかった。
「そうじゃないのか? まあさ。周囲の目もあるし、すぐに相手を変えるのって、他の女子には悪く映るじゃん。大変だろうけど、頑張りなよ」
「ありがとうございます。先輩って、とってもいい方なんですね」
私の中では、手紙うんぬんはさておき、この人は親切であり、こちらの事情にも分別がある。合格点! そう思った。ユアーにはかなわないけど、もしユアーにもフラれたら、こんな人と巡り合うのも悪くはない。恋愛コンピュータは、そういう判断を瞬く間にはじき出した。
結果として、そのあともあれやこれやの話をし、私は腕時計に目をやると、ロビーで私の荷物番をしているマリエールの元へと向かった。この間のてきぱきしたやり取りは、時間にするとわずか十分足らずだっただろうか。しかし、実に濃密な駆け引きがなされたと私は思う。
鋭く打ち込んだはずのサーブをあっさりと見送られ、逆にこちらの方からサーブを受けた内村さんは、恋というものが一筋縄ではいかないことを身をもって勉強しただろう。ロビーに遅れてきてから帰りの電車の座席で疲れて眠りこけるまで、彼はなにかを考え込むロダンの像のように口を真一文字に結んで、けして開くことをしなかった。内村とのやり取りは無事終了し、私とマリエールは元の定位置へと引き揚げたのだった。
ある日、サークルのテニス練習が終わり、そのあとに、お楽しみ会、すなわち技術と個々人の成長を議論する反省会という名の飲み会が開かれ、いつものカスタード亭はスポーツとアフタースポーツを愛する若人らで賑わっていた。
土曜日の午後八時を回っていた頃か、隣の席で飲んでいた団体の二、三人がこちらのテーブルにやってきた。
「よう、竹富。久し振り」
「ああ先輩。お元気ですか」
「うん、元気だよ。君らもこの店で飲んでるのか。麗しき伝統だな」
竹富に先輩と呼ばれた男は、どうやらサークルOBの方だったらしい。バーベキューの時に見かけたあの方だが、私と会うのは初めてだ。彼の声は朗々として店の隅まで響いた。まるで店内に居たサークルの皆に聞こえるように、激励を広めて鼓舞し、ボリュームを大にして、彼は竹富に語りかけていた。
「いえいえ。代々つづく反省会ですから」
「そうか。その割に、大きな空のグラスが泡をつけて並んでいるが」
「ははは」
「なあ、竹富よ。サラリーマンも大変だぞ。オレはな。お前たちを見ていると、スポーツに明け暮れたり、仲間同士で勉強を教え合ったりしていた学生時代が本当に懐かしくなる。まるで、つい昨日のことのように思えてくるよ」
「そんなもんですか。マック先輩」
OBを紹介したいが、相手がその話を横に置いてずんずん進むので、竹富は会話の中に彼の渾名を挟んだ。彼を知らない周囲を気にしてのことだったのかもしれない。
「あのなあ。仕事っちゅうもんはよ。アルバイトでもそうなんだが、勤務時間内じゃなくても働いてんだよな。分かる?」
赤ら顔のOBは、自身の熱弁がそうさせるのか、ますます体温が上昇したと見えて上着の背広を脱いで横に畳み、ストライプのネクタイを緩め、身振り手振りをさらに大きくして主張した。
「ですよね、分かります。オレも、バイトが終わっても脳がビンビンして興奮状態が続くんです。あれこれ考えて。あのときのあれはああで良かったのか。怒られたことは何が悪かったのか。シフトに入る前も、ああしたらこうするとかの確認ばっかしで。終わったら終わったで、そういうことでしょ。あれがベストの選択でなかったら他になにができただろう、とか悩みますもん。気付いたら午前零時を回っていて、ビールを買いに行ったり、シャワーを浴びたり、深夜テレビを見る。結局、興奮が取れないんです」
「まあ、そうなんだけど。不安から緊張、緊張から反省、興奮で一日が終わってしまう感じになるよな。時間外で体は休めていても、頭の中がグルグル回っているだろ。頭回しても賃金は発生しないのに、どうしても考え込むよな。それは真面目な人間の証拠なんだ。社会人になって現実に働き出しても、しばらくは学生時代の延長戦が続くと思えよ。俺なんかよ。三十五を過ぎて、女房子どもを持ってから数年が経つけど、いまだに、毎日が会社も家も問題の山積だよ。やっと最近、仕事のことは仕事の時だけ、って割り切れるような機会が増えてきつつあるけどな。ずーっと仕事が頭にこびりつくときも多いぜ。本当、疲れてくるんだよな」
マック先輩こと木下はそう捲し立ててから、空のコップを差し出し、竹富に瓶ビールを注がせた。私とマリエールは梅サワー二杯で軽く酔っていたが、横にいた里莉阿先輩から、木下がなぜマック先輩と呼ばれているのかの説明を受けた。その人は、薬大時代にマクドナルドでアルバイトをしていたそうだ。バニベリ内にいた同名の後輩と名前が重複していて混同しないように、マクドナルドの木下をマック先輩と呼ぶことにしたらしい。下級生の方は、単に木下と呼ばれていたという。
私たちは横目で年上男性二人をチラチラ見ては、木下と竹富の会話にときどき相づちを打ちながら聞こえているフリだけして、女子の先輩らとのトークに花を咲かせていた。そのうち彼らの話が伝染したのか、将来の話から就職や仕事の話、さらには仕事の大変さへと話題が移った。アルバイトの大変さも仕事の大変さも結局変わらないという男性陣と同じ結論に至った。私とマリエールは感心した。お金をもらう行為というのは、かくも人々を悩ませるものなんだ。私もそれを実感していた。
女子たちの談義に割り込みたかったのか、持論を聞かせようと私の斜め前に移動してきた木下は、したり顔で色々と解説してくれた。私たちはフンフンと頷き、彼のグラスに適当にお酌をしながら、横で話す人たちの与太話に笑いを禁じ得なかった。もお、あの人ときたらさ。また懲りずにボタンを開けっ放しにしてるのよ。笑っちゃうよね。そんな話に真面目な説教も混ざり、武勇伝や失敗談、恋愛模様に至る雑多な会話が飛び交う社交場は、宴たけなわとなった。しばらくすると木下の紹介があり、弁の立つ木下が製薬会社の営業主任であることが判明した。どおりで、ああいえばこうと、どんな打球でも打ち返してくるはずだった。日頃からお得意先回りの営業で連日連夜人と話すのが商売なのだから、当然ではある。やがて、ひととおりの料理も出尽くし話も尽きてきたので、今後の予定や近況報告などがキャプテンから紹介され、反省会はお開きとなった。
さて、二年から三年にかけては、薬剤師国家試験を睨んで専門科目に気を引き締め、なるべく自分だけの力で薬学を理解しようと努めた。国家試験の合格率はある程度高いものの、きちんと理解してこそ正解に辿り着くだろうし、みんなが解ける問題は絶対に落としてはならないと思った。
有機化学は一年のときの延長であり、さらに各種の分光法や個別の製法、反応などを勉強した。生物有機化学、医薬品化学、分析化学など有機化学の知識を土台にした授業は、さらに詳しい化学の分野を掘り下げて学んだ。分析化学の講義に関して課題として提出を求められたレポート作成のために週末の予定がつぶれてしまったこともある。そのとき、私はコンビニに菓子を買いに行き、炭酸飲料も仕入れて、万全の籠城状態に徹夜も辞さない覚悟でレポートを仕上げようと机に向かっていた。そんな折り、夕方に電話があった。入間市に住む父からだ。父がマンションに偵察に来るらしい。もっとも本人曰く、「今東京にいて仕事中で、真っ直ぐ家に帰ろうかと思ったものの、お前の所を覗いてみたくなった、用事が早く済んだから足を伸ばしてみる」とのことだった。とりたてて隠すものもないし、別に訪ねてきてくれて構わないが、部屋を整理したり、父の晩酌に用意するつまみを用意するなど、それなりに気を遣うのがまた面倒に思えてくる。こっちは勉強も山場にさしかかろうというときに限ってこれだ。まったく父親ってもんは、しょうがない。ブツブツと悪態をつきながら、押入を開け、中からお客さん用の座布団を出してきて、座卓の脇に敷いた。料理もちゃんとしている所を見せようと、冷蔵庫に入っていたインゲン豆で簡単な和え物をこしらえ、ラップを掛けて食卓の真ん中に並べた。まだ来ないので、夜の七時を回っているし、テレビをつけた。ニュースを見ていると、ピンポンとドアチャイムが鳴り、玄関に出て覗き穴を見ると、見覚えのある顔が仏頂面でこちらを見ている。父だ。どうぞと言ってドアを開けると、開口一番、「空気が汚い」と父は言った。私はあわてて窓を開け、換気をした。部屋にひんやりとした夜風が入り込む。気付いていなかった。何時間も部屋の窓を閉め切って、スナック菓子やら煎餅やらをバリボリと食い荒らした。だから、それらの匂いが部屋に充満していた。少し恥ずかしかった。よっこらしょと茶色い座布団に腰を下ろした父は、「土産だ」と言って紙包みをブラブラと私の前で揺らした。文明堂のカステラだった。私の好物だ。いま食べるのと聞くと、「いや要らん、お茶をくれ」と亭主の口ぶりをしてくる。奥さんじゃないのにと思ったが、食卓に置いてあった急須を手にして熱いお茶を注ぎ、四角い座卓に散らばったノートや菓子を脇にどけ、湯飲みをお盆で座卓まで運び、父の手元に置いた。父はすっかりくつろいで、ワイシャツを脱ぎ靴下も脱いで、下着姿でニュースに見入っていた。すっかり、娘の下宿が自宅のようになっていた。そんな姿に母も父の頼りがいを感じたのかしら、と私は思ったりもした。たくましい腕っぷし、胸から腰に掛けての丸々と太って盛り上がった脂肪の稜線、それらが醸し出す中高年の色気と老練さは、まさに一家の大黒柱そのものだった。
父が来た理由には他に大事なものがあった。どうやらそれが本当の訪問理由だったのだろう。それは次のようなことだった。
「お前、本当に薬大を卒業したら、薬剤師になるんだな?」
「うん、そうよ」
「美佐恵はその道を歩んでいる。あれはいい。結婚も近いし、いずれは子どももできるだろう」
「え! やっぱり、そうなの? お姉ちゃん、あの彼氏と結婚するんだ」
「知ってたのか。そうだよ、磯部くんとな。美佐恵は堅実だからだいじょうぶだ。問題はお前だ。チト心配になる」
「なにが心配なのよ」
「頭がいいからな、お前は。考えすぎる所がある。もっと自分の気持ちを前面に出した方が生きやすいぞ」
「そうかもしれないわね。でも、お父さん。私は私なりに、すべて勉強中なのよ。もっともっといろんな人に出会って多くを学び、自分を磨いていくんだから」
「そうか。まあ、そう言うなら構わん。だが、しっかり勉強して一人前の薬剤師になってくれよ。オレの言いたいことはそれだけだ」
「うん、わかった。ありがとう、お父さん」
父の厳しい顔つきが、話の終わりになってやっと和んだのを見て、私も目元に熱いものが少しこみあげた。父は埼玉県入間市で薬店を経営している。薬大を卒業した姉の美佐恵は、父が営む薬局で調剤や薬の販売をしている薬剤師だった。私は、父の薬局と離れた所で薬剤師として働く夢を持っていた。勤務先が他になく、父の所しかないのなら、父に泣きついて自宅で働く手も考えてはいた。が、一応は、姉や父が居る自宅とは違う所で、自分だけの力を頼りにして働きたかった。まだ二十前後の人間だが、薬大生である以上は将来の進路に沿った人生設計を描くのも決して早すぎることではなかった。娘を心配する親心に触れ、私はますますこれから歩む道が眩く照らし出されていくような気がした。父が帰ったあと、いつもの倍ほどの元気が出た。ご飯を二膳平らげた。コアラのぬいぐるみを恋人に見立てて話しかけた。テレビを見て大笑いした。みんな、父がくれたパワーのおかげだったのかもしれない。実際、レポートの続きをやってみるとグングン進み頭はフル回転して、あっという間にそれを片付けてしまった。人との出会いとは、こんなにも刺激をもらえる、力になるんだと思うと嬉しくなる私だった。
物理化学では、相変わらず法則が多くて、数式が板書一杯に飾られていた。
解剖生理学はヒトの体はどのようにできており、そこでどんな現象が起こっているのかを解明し理解する学問だった。微生物学では、微生物は二種類あって、ヒトの生活や健康に資するもの、病気の元となるものに分けられるという基本を習った。よくない菌は今でも新聞紙上を賑わしている。高校の部活で朝に握ったおにぎりを弁当箱に詰めたままふたをせずに放置して用事にかまけ、昼に食べたらお腹が痛くなった体験を思い起こした。食中毒を起こす菌もあれば、ビール酵母やチーズを作るカビなども微生物に含まれる。消毒はコレラなどの感染・蔓延防止を保健所指導で行うし、減菌については、実験において器具を加熱したり、病院での手術や検査などでゴム手袋に放射線を当てたりする場面が浮かんだ。生薬学に関しては、日本薬局方に収載されている生薬について勉強した。製薬企業の人が大学に来て、アロエを成分とする医薬品開発の研究やその他の生薬に関する市場動向などを話された。あのとがった葉のアロエが、生薬として昔から愛用されていたとは知らなかった。
生化学に関しては、生物の仕組みとしてアミノ酸や糖などをどう分解するのかを学んだ。
語学は、英語もドイツ語も一年から三年まで続く。英語は、しだいに専門的な文章を読み、英語ビデオを見ながらのリスニングがあった。外国人ネイティブとのグループディスカッションは苦手だった。ドイツ語はその逆で、ドイツ語で描かれたマンガや小説を読めたときは楽しかった。少しだが、基礎力はついた。大人になり、神戸を観光で訪れていたとき、ちょうどビール祭りが開かれていて、ドイツのケルシュ (ケルンのビール)をおかわりしまくった楽しい記憶がある。心医学では、患者心理を理解することで円滑な対人関係を構築し、患者さんの抱える不安や心配を緩和したり、生活習慣病への助言を行ったり、正しい服薬指導につなげたりすることの重要性を学んだ。製薬社会学では、医薬品の副作用や薬害事例を素材に問題点を解説したり、討論を行ったりした。
さまざまな実習科目もあった。薄層クロマトグラフィーを扱う有機化学実習、漢方製剤の確認を行う生薬学実習、医薬品の確認を行う医薬品化学実習、炎色反応などを調べる分析の実習、物理化学の実習などである。他にも、組織標本を観察したり、菌の培養や観察を行ったり、ラットを用いて免疫を調べたりした。また、保健所の業務の一つで、食品中のタンパク質やビタミンなどの定量、飲料水のpHや塩素濃度の測定などもあった。
薬学実務と薬理学の実習はとてもハードで、私のような若輩者で本当に薬剤師が務まるのかと不安になった。実習中は久々に埼玉県の実家暮らしに戻って親に甘えた。毎朝目覚ましを二つかけて起床し、薄化粧を施してスーツ姿で電車に揺られた。薬局に遅刻せぬよう出勤し、毎日薬局内で挨拶することを心掛け、明るく振る舞いながら笑顔の応対で勤め上げた。お酒も控え、早寝早起きで健康管理はバッチリだった。最後に薬局の方々にきちんと感謝と御礼の言葉を述べ、マドレーヌ大にも感想文と実習日誌を提出した。本当は病院実習と半々の日程で申し込んだが、受け入れ先がまだ少なく、病院が遠方のために断念した。病院実習をこなした人によると、夜勤の薬剤師に怒られた、病棟を間違えた、治験データの扱いが大変そうだったとかの話を聞いた。それでも私はそこに就職したわけで、実態を学生の間に目にすることはなかった。いざ病院薬剤師になったらなったで、夜勤だろうが治験だろうが若さとガッツで乗り切った。
現在の薬学部生は、聞いたところによると、病院実習と薬局実習合わせて数ヶ月単位の長期実習へ移行したそうで、それなりに現場での空気を読んだり体力勝負だったりと大変さもあるらしい。私のいた頃は、現場の業務を覚えたら終わりで、お世話になりましたの短期体験チャレンジだった。
三年生になると、受講科目も専門色が濃くなり、本格的に気合いを入れていかないと留年してしまうものもいる。バニベリの活動に参加する機会も減っていき、キャンパスにいる空間がごく一部に限られていった。大講堂と講義室のある一号館、二号館の研究室、学生食堂の三つである。ちなみに正門に近いキャンパス内の喫茶店は「ル ボン」という。春から夏にかけては、生化学、医薬品化学、薬用植物学、放射薬品学、病原微生物学の講義が行われた。
薬用植物学に関しては、植物のもつ特殊成分を中心に、形態や内部構造から分布、栽培法、化学式に至るまで薬用植物に対する様々な内容を学習した。化学的な内容は退屈だったが、各論に入ると面白かった。トリカブトの話やナツメ、パパイア、ジギタリス、クチナシ、キキョウ、アヤメ、ウコン、ハトムギなど聞き覚えのある植物が次々に紹介された。有機化学が発展する近代以前において、日本のみならず外国においても、人間生活に利用できる植物を探し出し、見つけては改良を重ね、薬用も含めて広く利用してきたことなどの歴史と文化背景の事実がとても面白かった。私にとって特に印象に残ったのは、台湾原産で葉を結核に用いるマンサク、南ヨーロッパ原産で果実を健胃薬にするクチナシ、キキョウ、カキツバタだった。最後の花に関して言うと、非常に昔からなじみがある。クチナシは歌にもあるように純白で香りがよい。どうしてクチナシと言われるようになったのかの説明が分かりやすかった。キキョウは秋に咲き、歌人山上憶良もそれを鑑賞して秋の七草に数えたと言う。カキツバタに関しては、「いずれがアヤメかカキツバタ」と言われるように、どちらもよく似ている美しい花であり、ショウブやカキツバタも含めてアヤメと呼ぶ習慣が広まったらしい。私も混同してしまう。水辺にあるのがカキツバタで、乾燥した場所に咲くのがアヤメらしい。クチナシは果実を消炎や鎮痛に用い、キキョウは根を去痰薬に、カキツバタは根茎をキキョウ同様に用いるという。咳が出がちな私にとっても、それらはよい薬になりそうだった。おばあちゃんが庭にクチナシやキキョウを植えていたのも、私と同じ症状があり、それで……などと想像を膨らませると楽しくなった。実を言うと、私は小さい頃から喘息気味だった。それが大人になって発作となり、持病と化した。なにかをひらめくと急に胸が詰まって苦しくなり、激しく咳き込むようになった。床にうずくまり、しばらく動けなくなるくらいそれが続くと血痰が混じることもある。吐血を伴うことも増えた。その症状を鎮める薬はあっても、一時しのぎにしかならないことを私は知っていた。そうした症状は、新たな発想が生まれ出たサインでありながらも、体の苦しみを誘発し、自身の命をすり減らすかもしれぬ危険信号になっていると思われた。この講義を聴いて海外の植物とその薬効に興味を持ったTくんが同級生の辻本にそそのかされてメキシコへ旅をしたという話は、ずっと後でユアーの口から聞いた。彼本人の言葉を信用した私は、単なる旅行だとしか聞かされていなかった。
病原微生物学では、病原性細菌、ウイルス、その他病原微生物それぞれについての感染症と治療、予防について学習した。リケッチアを保有するダニが媒介する感染症は二十一世紀あたりから被害が急増しており、三年生だった八十四年五月の発見が疫学の歴史を塗り替えたと言っても過言ではない。
三年の秋から冬にかけては、医薬品化学、天然医薬品化学、病態生理学、免疫学、臨床医学概論、薬物治療学などの講義が行われた。
病態生理学では、私たちの身の回りで見聞きするような身近な疾患をいくつか取り上げていた。糖尿病、痛風、高脂血症、肝炎、肝硬変、胆石症、白血病、血友病、血栓、気管支炎、気管支喘息、肺気腫、肺結核、肺がんなどの疾患を学習した。疾患に対する自分の知見に新しい概念と詳しい作用機序が加わり、患者さんを見る目が変わるだろうなとの期待に胸が膨らんだ。その一方で、日進月歩の先端医療と二十一世紀における医療人のあり方がどうなるのかを考えると、責任感で身が引き締まる思いもした。特に、糖尿病に関しては、ジョーカーの祖父が定年前にかかったらしく、彼女が少しかわいそうに思えた。白血病は当時から不治の病といわれ、急激な経過をたどって出血死に至る死亡例が多いのが特徴だと習った。実際、当時の映画やドラマなどでもそのように描かれていた。それが昨今、医療の進歩に伴い、新薬開発、化学療法の導入、輸血、骨髄移植などにより、治癒できる悪性腫瘍という感じに近づいているようだ。実際、医者からの話でも治療成績が向上していて、とても昔とは比べものにならないと言っていた。しかし依然として難病には違いない。
免疫学では、免疫がもたらす感染症やアレルギー、自己免疫疾患などについて学習した。感染症は病原体がいくつかの経路でヒトの体内に侵入することから始まる。例えば、病原体を口や鼻から吸収したり、ヒトの咳やくしゃみを浴びたり、手指で触れたりすることで感染する。そして、病原体と免疫とのバランスが崩れているときに病気が発症する。主な感染症の一つにインフルエンザがあり、それにかかるのを防ぐためにワクチンが開発された。また結核も感染症で、免疫による菌の封じ込めが正常に行われるなら一生発症することはないが、現在でもよく耳にする代表的な疾患だ。さまざまな要因によって免疫不全になると感染症を起こしやすくなり、抗体を注射したり抗生物質を投与することで治療することになる。アレルギーはアレルゲンの増加がかかわっていると考えられ、当時の研究では充分な解明はまだなされていなかった。
臨床医学概論では、さまざまな症状と治療について、薬の観点から学んだ。私の個人的な興味の範囲である気管支炎、肝炎、貧血、白内障に関しては、図書館でさらに詳しく調べるなど、よく勉強した。祖父が肝炎と白内障を患っており、自分は咳き込む発作があるし、母が少し貧血だった。白内障は加齢のせいで水晶体が濁る。確かに、視界がかすむと祖父も言っており、近所の眼科に通って目薬をもらっていた。また、祖父の肝炎はアルコール性ではないが、医者通いをするうちに、職場の同僚と行った南米旅行から戻ってきて以来悪化したことが分かってきて、どうやらE型ウイルス肝炎のようだった。母は貧血で、疲れやすかったり、めまいがおきたりする。ストレスを溜めたからなのか、原因がはっきりしないと母は言う。貧血に関して学習した観点で言うと、無理なダイエットをする人、野菜ばかりの偏食の人、一人暮らしの学生に貧血が多い。母は偏った食事をとってばかりいるから血液に必要な鉄、タンパク質、ビタミン類などの栄養素が不足しているのだ。菓子パンや麺類だけで済ませる昼食を長年続けているのなら、それは改めるべきだと思う。私もそうだが、朝食を抜いたり、自分好みの偏った食事にしているときがあり、栄養上よろしくない。
進路ガイダンスもこの時期に行われた。私は薬剤師志望で、当時は病院薬剤師が不足していたので、実家の薬局に勤める選択肢は最後の手段に回し、都内の病院で出される求人を探すことを前から計画していた。ガイダンスでは聖マドレーヌ大の助教授が司会進行をする傍ら、先輩OG、製薬メーカーの社員、現役薬剤師の方などが登壇し、それぞれの人生における選択、いま知っておくべきこと、業界の実情と今後の展望などをシンポジウム形式で述べ合うことがなされた。また、会場にはブースが設けられ、質問コーナーや薬剤師の歩みや活躍の場をパネル展示するなどちょっとしたイベント会場の様相を呈していた。最後にガイダンス参加のアンケート用紙が配られ、私はその回答欄に薬剤師を志望した動機を丁寧に書いて受付のポストに入れた。
当時の薬大を取り巻く環境のもとではまだ実習期間が短く設定されていて、院に行く修士・博士以外は四年間で終えるカリキュラムだった。毎年三月上旬には薬剤師国家試験が行われ、卒業後の四月に合格発表、就職活動が始まる。我々にとって、卒業旅行は前々から準備しないと国試の手続きと重なってしまうので注意が必要だった。学生の間にやるべきことは、卒業に必要な単位を揃える、研究を行って卒業論文を出す、薬剤師国家試験に合格するの三つだった。三年からすでに勉強をしてはいたが、学生でもあり、用事だのイベントだのがあると、やはり楽しいことにかまけてしまうのは致し方ない。本腰を入れるのは一月下旬の卒論を提出した翌日からで、みんな残りひと月に賭けていた。家に籠もったり、図書館で勉強したり、優秀な同級生を喫茶店に誘い込み、自分が間違えやすいところの解き方を教えてもらったりしていた。計算問題は基礎さえ押さえれば大丈夫だ。暗記物は長い時間をかけてやっても逆効果。薬事法規の毒薬などの区別、届出先による方法の違いなどは早くから勉強しても忘れるぞと先輩からアドバイスを受けていた。しかし実際は、棚橋事件のショックが尾を引き、精神的に勉強は無理だった。受けてよかったのかもしれないが、とても就職できる状態ではないし、周囲からの勧めもあり、一度目になる国試に関しては資格条件こそ満たせど、受験することは見送った。
少し前から小さな事件が起きていた。それが露骨になってきた。
「君が提出したレポートの誤りで、私は学会中に恥をかくことになったよ。レポートに重大な事実誤認があった。いろいろな会議の場で間違いを指摘され、改めて調べさせたら江畑くんが書いたレポートであるらしいと判明してね。各方面にお詫びと訂正した説明をして回らなければならなくなった。さらに、それを含んだ論文数本を撤回せざるを得なくなった。本来なら厳重に処分してもよいところだが、悪意がないようなので今回だけは見逃してやる。まったく酷い学生だな、君は」
そんなデタラメを大学教授が言うものなのか。薬物治療学のI教官のことだ。I教官は私を不満のはけ口にしたかったのだろうか。
Kの友人からも言われた。
「江畑さんが周囲を押しのけて優等生ぶるから、Kさんが単位を落としたのよ」
はあ? こんなことがまかり通るのか。たまったもんじゃない。そんな道理が通るのなら全員が落第だ。急に周囲の風当たりが強さを増した。
話は前後するが、三年生の通年にわたって、衛生化学、薬理学、製剤学の講義があった。夏休み前にはテストがあるので、そこそこ気が抜けなかった。夏休みには千葉へ出掛け、そこでバカンスを楽しんだ。
衛生化学では、個々の栄養素、経口感染や食中毒、発がんと食物の関連、添加物の汚染と危険性、生体の毒性、化学物質の毒性と体内動態、酵素の活性化と発がんの機序などを学んだ。また、各器官の器官毒性も学習した。食の安全も学んだ。サルモネラ菌やブドウ球菌、カンピロバクター、腸炎ビブリオ、セレウス菌などの感染型・毒素型の細菌を習った。これらはメディアにもよく登場しているので私も名前だけは聞いたことがあったが、こうした病原体が食中毒を引き起こす元凶である。これらは概して熱に弱く、中毒被害の発生時期も夏に多い。手洗いと消毒も大事だし、調理の際は加熱することで食品に付着した菌を死滅させることも重要だ。食中毒以外にも、コレラや赤痢、チフス、ウイルス肝炎などの経口伝染病や回虫などの寄生虫病といった食品にまつわる健康被害も後を絶たない。近年多いもののひとつにノロウイルスが挙げられるが、嘔吐、下痢、発熱といった症状があり、施設では神経をとがらしているようだ。食中毒もあるが、糞便と嘔吐物などで発生したホコリを介した経口感染による二次的な集団発生被害が恐い。私が卒業してから、特に中毒や集団感染の被害が増えてきた感じがする。O一五七やノロウイルスなどは社会現象にまで発展する事件となった。保健所に勤める友人も、予防啓発や電話相談などの場を通して、責任の重さを感じると言っていた。生活習慣病についても触れられて、栄養の取りすぎによる健康リスク、過剰摂取が肥満症状を経て動脈硬化や心臓病の要因になる事例をいくつか紹介された。
佐倉先輩が四年になって、卒論生として研究生活にドップリと浸っているとき、朝まで実験したり研究室で寝起きしてはコンビニ弁当を食べるという生活サイクルが続いたらしい。その結果、野菜不足となり、ニキビ、肌荒れが悪化したとか。あれはビタミンCの不足かもしれない。先輩曰く、野菜を補うために、野菜ジュースを毎日飲んでいたというがそれではダメだ。マリエールによれば、「そりゃあ、ダメじゃん。肌の大敵。これからは飲める健康食品が必要な時代よ。将来、きっと出てくるわ。もしなけりゃ、私が作っちゃう」ということらしい。いかにもマリエールの言いそうなことだ。
薬理学では、薬を服用した場合,人体にどのような反応が見られるかを中心に講義が行われた。
製剤学では、投与された薬剤が溶け、コロイド粒子として生体表面へ吸着されるメカニズムを学んだ。
バカンスはユアーと遊んだ。思う存分にはじけていた。男三人、女三人で九十九里浜に出掛けた。ユアーが車を運転して房総まで行った。ワゴン車をレンタルして。クラスメート、山上貴子の実家がそこにあった。二晩泊めてもらった。帰省も兼ね、彼女の家に仲良しグループでお邪魔した。貴子の姉がバニベリの徳子先輩だった。彼女はバイトの予定が詰まっていて帰省しなかった。
夏の海は楽しかった。
波打ち際をユアー、Tくん、君島くんの三人が駆けっこをした。フライングディスクを飛ばし合って、キャアキャアはしゃいだりもした。わざと失敗して海に飛び込むものもいた。私は、少し離れた所の浜辺で、枯れ木をペン代わりに手紙を書いた。文字通り、砂に書いたラブレターだ。数分後に波にかき消された。見つかると恥ずかしいので、小さな文字で「私を愛してね」と書いてすぐにみんなの所に戻った。夜は花火をし、満天の星空を見つめた。流れ星が出るまで夜空を見つめ続けた。首が痛いよ、と愚痴を漏らすものもいたが、明け方にその時がきた。
「あ! いま、流れたよ」
「え? どこ、どこ?」
よそ見をしていたTくんは、ジョーカーの甲高い声に反応し過ぎて流れ星を見落とした。
「もう遅いよ。無理だわ、棚橋くん。また来年ね」
私は意地悪な言葉を投げては彼に哀れな目をして見せた。Tくんは諦め、夏の大三角形を探し始めた。ユアーが彼の様子に気づき、
「そりゃ、お前。夏の三角関係だよ」と大声でわざと間違え、皆を笑わせた。ユアーの高笑いに引きつり笑いをするTくんは、「三角形の内角は足すと百八十度」と私に向き直って言ってきた。真意をはかりかねた私が、
「どういう意味があるの」と小首を傾げると、
「たとえ三角が崩れても、力を合わせればいつも真っ直ぐなんだ」と売れない詩人のような屁理屈をこねた。……。どういうことだろう? 三人のバランスが釣り合ってるのかしら。
あとでジョーカーにそれを吐露すると、
「気にんすんなって。大丈夫よ、チヅルは」
とポーンと肩を叩かれた。その励ましが、キャンパス内にある「ル ボン」ていう喫茶店で交わされ、そのあと、ジョーカーがトイレに立っているときに流れてきたのが、杉真理の「ラブ・ハー」だった。切ない曲だねと言うと、「それこそ、ナイアガラトライアングルじゃん。フフフ」と笑われた。あれは男三人の友情でしょ。そう思ったが、それ以降、彼らの音楽を耳にするたび、「内角の和は百八十度」のフレーズが耳にこびりつき、そのフレーズが呪文のように音楽にかぶさって頭が混乱する私だった。
貴子の父が車を出してくれて男子らは夜釣りに出掛けた。一日目のことだ。房総半島の磯釣りで、釣れたのはキスやヒラメ、スズキ、ガシラ、イサギなどだった。釣果が上がるまで長かった、と言っていた。二日目の夕食にそれらが登場した。夕方、それらを刺身、唐揚げ、煮付けにしている間、山上邸の庭に育っていたキュウリやオクラ、トマトなどを女性陣が収穫し、きれいに洗ってサラダを作った。二日目の晩ご飯は、自然の恵みあふれる料理が並んだ。都会から少し離れるだけで自給自足の生活もできる貴子の実家の暮らしぶりが、正直、うらやましく見えた日だった。
もちろん、一日目と三日目は存分に海水浴を楽しんだ。遠泳する君島くんは我が道を行き、私とジョーカー、貴子は優雅に泳いだ。甲羅干しをしたり、砂浜で砂の城を作ったりもした。ユアーとTくんは、クロール早泳ぎ対決をしていたはずだが、浮き輪を膨らませ、頭をそこに突っ込んで逆立ちをしてふざけだした。ユアーは女子の視線を一身に浴びたかったのだろう。Tくんはそれを見て、八墓村だと言って腹を抱えて笑った。沖から戻り、浜辺に腰掛けていた君島くんも、笑い声を上げていた。夕方になり、クーラーボックスから冷えたビールやジュースを取り出すと、皆で飲んでは騒ぎ、踊ったり歌ったりを繰り返した。酔った勢いで、ジョーカーはどこからか持ってきた新聞紙で一芸を披露した。三角に折り畳んで「幽霊」と頭に当てたり、「三角ビキニ」と称して水着の胸元にくっつけたり。しまいには、ギザギザに蛇腹折りしてハリセンを作り、Tくんをパシパシ叩きだした。
そんな間抜けで滑稽な私たちを上から眺めるかのように、天高く円を描いて海鳥の群れが優雅に舞っている。のどかな夏の風景がそこにあり、それは穏やかに過ぎていった。
三日目の昼食を終えると、山上さんのご両親への感謝も込めて食器を洗い、床の雑巾掛けや庭掃除をし、元気に挨拶して東京へと車に揺られた。
三年から四年にかけて、選択科目として機器分析学、漢方医学入門、有機合成化学、化粧品学、薬局管理学の五つを受講した。
機器分析学では、各種の分光光度計や解析法、MRI、X線造影などの画像診断分析などを一通り学習した。
漢方医学入門は中医学の思想と生薬の用い方に関する内容が中心だった。気、血、水を基本概念にして、鍼やツボなどの施術を行うのだ。経路とツボを学んだとき、ジョーカーが手足のツボや耳のツボを押してきた。ダイエットに効くとか消化不良に効くと言っては、肌の上から強く刺激してくる。が、爪が当たって痛い。
「鍼灸師じゃないんだからさ。いい加減、下手な刺激は止めなさい」と私も応酬する。
「煙草の吸い殻でお灸をすえるよ!」
最後は脅しでツボ刺激を止めさせた。
化粧品学では、人の皮膚や肌を清潔に保ち、化粧品と薬学との関わりを中心に据え、種類、開発、技術、安全性、機能の説明などについて学んだ。講義が終了し、教室の隅でマリエールと談笑していた。
「肌の敵は、紫外線、酸化、乾燥だって」
私が言うと、マリエールは言い返した。
「そう言えば、千鶴の頬にニキビが吹き出てるよ」
「えっ。そ、そう?」
私は冷や汗をかいた。最近、それを気にしてるのだ。実際、疲れか心の乱れからなのか分からぬが、最近生活リズムが悪化している。ここで引き下がれぬ私は、嫌味を言ってみた。
「マリエール、毛穴が目立ってるよ。黒ずんでる。美人が台無し」
私は逆襲に出てやった。マリエールはトイレに駆け込み、鏡とにらめっこしたようだ。
今にして思えば美容や健康に関す言葉も増えた。「活性酸素」「ネイルアート」「環境ホルモン」「コラーゲン」「SPF値」「アトピー性皮膚炎」「アロマテラピー」「アーユルヴェーダ」「アンチエイジング」など数々の言葉が生まれ、化粧品の世界も変わった。私も正しい意味と理解を深めるため、成分ガイド等の化粧品解説本を自宅の書棚に並べ、時々調べたりしている。
少し前に百貨店に寄ったとき、私は化粧品売り場で声を掛けられた。
「お肌をチェックされませんか」
「ええ」
「ストレスや運動睡眠不足は大敵です。肌のはりがなくなり、シワやシミのもとになりますから」
「ええ。知ってます」
椅子を引かれて後に引けず、私は座らざるを得なくなった。
「では」
機械が私の肌を映し出す。
「毛穴の少し大きい所がありますね」
「そうですか」
そう言われ、私は海で日焼け止めクリームを塗らなかった時代を思い出した。
「それと、お客様の肌は少しカサカサ肌のようですね」
「そうなんですか」
「ええ。この化粧乳液をご存知ですか」
そこから長い説明があり、要するに、シミ、ソバカス、くすみが三悪人ってことらしい。
「メラニン退治。それしかないです」
「はあ」
「自分の肌質を知り、正しいスキンケアを行うことが大切ですから」
最後はよくある言葉で締められた。
私が薬剤師として働いていた平成十三年に規制緩和があり、ユーザー側の使用責任が大きくなった。「知る権利」「PL法」「自己責任」という流れに沿い、私たち自身がものを見極めなければならなくなったのだ。社会で何が起きているかを理解し、何気なく使うもの、口にするものの安全性を考えることが求められている。
薬局管理学では、医薬品情報、疑義照会、服薬指導、関連法規、などに関する内容を教わった。医薬品情報は大切な伝達内容で、今でこそパソコンによって情報が豊富に入手できるようになっているが、当時の医薬品情報は、学会に発表される論文や学術誌などに掲載された研究事例を参考にして書き取りを行う地道な作業が主流の時代だった。あるいは、特定の新薬などに詳しい人やベテラン薬剤師と会い、じかに効能や副作用などを聞いたり、その道の権威と呼ばれる方々の出版した書籍も大いに参考にした。服薬指導は平素から患者さんとの間に壁を作らず、話しやすい関係を築いておくことが前提で、そうした会話力に加え、患者さんの言葉遣いや様子など些細なことをキャッチする敏感さや観察眼といった力量も問われることになる。とにかく、薬に携わる人間として最低限知るべきことは学んだ。当時薬局と言えば、病院内にある薬局か、昔ながらの薬局しかなかった。私も薬局実習になったものの、病院薬剤師になるつもりでいた。その後、保険薬局へと移ったのも成り行きと言えば成り行きだったが、全国各地に保険薬局やドラッグストアができ、長く薬剤師として働ける環境が出来上がったのはたいへん喜ばしい。病院では、たくさんの患者さんや医療従事者に囲まれ、緊張の日々がしばらく続いたが、保険薬局になると、白衣を着た薬剤師と待合室の患者さんを合わせても数人程度だ。それだけ、患者一人あたりの薬剤師数が改善されてきた裏付けなのかもしれない。講義が進むにつれ、職業人としてそのスタートラインに立つ日が近づいていることをひしひしと感じるようになった。講座の最後にあたり、教官は幾つかのエピソードを披露した。それは、今後の業界展望、薬剤界という成長分野の発展、人材育成の教育的観点から見た学生の心構えなどだった。
「お金・健康・薬の関係性、選択の基準、適度なバランス。それらは、常に国民一人ひとりの考えるべき課題です。以上で、本講義を終わりにします」
客観的把握に定評のあるその教官は締めの言葉を我々に贈った。
いざ私が現場に配属されたとき、医療の担い手として、きちんと薬事法規や薬の情報を伝えられるだろうか。薬局に佇む姿は様になっているだろうか。遠くて近い未来に思いを馳せていると、ジョーカーに腕を鉛筆で突かれた。なによ? とノートを見たら、「薬」の字をイタズラ書きで「楽」に変えられてあった。思わず笑ってしまった。
四年になると、棚橋事件のショックで講義の出席が欠けてしまい、友人にノートを借りるなどの助けを頼りにして残りの課目で単位を辛うじて取り、なんとか苦しい難局を切り抜けた。それらはもう講義もロクに覚えておらず、ただただ専門知識が紙の上だけで流れ、自分が薬科大の学生である自覚すら失っていた。だから、それらの学問に関しては割愛する。申し上げられるほどの勉強はしておらず、それらに関しては不充分だった。
卒論前の出来事として話しておかねばならないことに、学内いじめがあった。それはまさに出口のない回廊巡りのような仕業だった。廊下を歩いていたとき、すれ違いざまにひどい皮肉を聞かされた。私じゃないわ、と言い聞かせた。試験期間中に入ると答案用紙が直前で足りなくなる意地悪をされたり、落とした消しゴムを誰かに蹴飛ばされたりしたときは、冷静に落ち着けと何度も自分で自分を励ました。女子トイレの個室に水を入れられたこともあった。結局、真面目でスイスイ生きてるように見える人は攻撃対象になりやすい。しかし、真面目が悪いのなら言い返してやれと思い、現場を差し押さえたこともあった。有無を言わさず相手の髪を掴み、数本の毛を引きちぎってやった。相手は餓鬼のような血走った眼で私を蔑み、服の乱れを整えると静かに立ち去った。あれこそが人間の本性。そうした主題のドラマがあっても少しも驚かないし、むしろ昔も今も、泥沼を題材にする作品は不変で万人受けする。憎しみを抱く人間も悪いが、人間の心を作った神様がいちばん悪い。争いながら生きるように心を作ったのだから。
大学二年生だった頃の私は、アルバイトをせず、仕送りだけに頼る、しがない学生暮らしを送っていた。なにぶん不器用な私はアルバイトが長期に続かず、友人に紹介された単発のアルバイトをやっては当座の家計不足分を補っていた。
春の桜も散り、薬剤師国家試験のテキストと問題集の代金が嵩んできて、テニスサークルの飲み会、合宿費用のダブルパンチで財布が圧迫されていた頃だった。ふだんは話さないグループの女子から突然に、「チヅルさんのせいで、好きになった彼が私の方を振り向いてくれなくなったのよ」と言われた。また、「江畑がHさんの交際相手をばらしたせいで、Hさんは迷惑してる。怒ってるんだぞ」と、全く身に覚えのないことを一方的に言い寄られた。なんなんだ、この人たちは。人違いも甚だしいと思ったが、友人らが気にしなくていいよ、と取りなしてくれたので放っておいた。勘違いだろうと高をくくった。でも、「私、知りませんから。いい加減にしてください」と相手を睨みつけたり、「喧嘩を売る気ですか」と相手ににじり寄ることもした。そうでないとなめられる。極めつけは、「あなたの男にK先輩は乱暴されそうになったのよ」などと酷い罵声を浴びせられた。私はそう話す女を羽交い締めにし、三発の平手打ちを食わせてやった。相手は、「ごめんごめん」となぜか謝り、逃げていった。ヤクザの恫喝。そんな言葉が浮かんだ。あの相手とは二度と口をきかなかった。卒業して会ったら、また張り倒してやろうと思う。
そのような嫌な思い出も薄れかけ日々の忙しさに紛れていた頃、私の発案で、あのクラスメートたちを集めてもらった。そのときの経緯の方こそが、春に後悔心を引き起こす本当の原因だった。毎年、花見の季節になると、のどかな風景とくつろぐ人々とは裏腹に、私の心に引っ掛かったとげが、あの夜の秘密と謎の死の記憶を伴って心を埋め尽くす。
大学四年生の春に、入学したクラスの仲間たちが集まり、夕方から花見をした。そして、私、ユアー、Tくんの三人は板橋区にあるTくんの下宿に集まり、三人で飲み直した。Tくんは煎餅布団を枕にし、灰皿を側に置いて、寝そべりながら缶ビールを飲み干した。夜が遅くなり、ユアーは私を送っていった。酔っ払ったTくんは下宿で寝たのだろう。次の日の朝のニュースでは、「東京都板橋区の住宅で未明に火事がありました。住宅の焼け跡から一人の遺体が見つかり、消防と警察は行方不明の棚橋陽一さん(二十二)とみて調べを続けています」と報じていた。まさか、彼が火事の死亡人になってしまうなんて。駆け付けた私とユアーは、焼けて煤だらけの真っ黒焦げの建物を見て、呆然となった。私もそうだったし、彼も頭の中が真っ白になったろう。涙が止めどなくユアーの頬を伝う。テレビ放送で聞いた「東京都板橋区で未明に火事」の事故報道をうそだと思った私は、首を左右に激しく振り続けた。何かをわめき、嗚咽を漏らして震えが止まらない。真っ赤に泣き腫らしたユアーは、その廃墟を見て絶句した。なんてことをと言い、私の黒髪を撫でてくれた。
私が覚えてるのはそれだけだ。あとはショックでよく覚えてない。Tくんと私の秘密を知っているのは、私だけだった。彼にも私にも秘密があった。ユアーと駆け付けたときには、変わり果てたTくんの真っ黒焦げの遺体があった。それを前にして、恐怖と絶望と信じがたい気持ちが洪水のように私の心を襲った。花見で浮かれた季節に、何でまた……。しばらくショックで就職も研究も手につかなかった。大学にもしばらく出てこられなかった。当時の恋人だったユアーと私は、交わす言葉もなくしていった。心の不安定と動揺が続き、やせ細っていくばかりの身体は生きているのが不思議なくらい衰弱した状態となり、就職が決まっていたT病院の内定を棒に振った。みんな私を哀れんだ目で見ていたが、そのうちに卒業していった。先生や友人からずいぶんと心配され、連絡も受けたが、事情の概要を知る人らはそっとしてくれた。学生課にいた渡辺朱美という事務員の女性がいなかったらどうなっていただろう。彼女と面談し、そのお陰で期限付きで学内事務員を世話してもらった。そして一年後に国家試験に受かり、薬剤師の道が開けた。私には人に話せない心の痛みがあり、それを心の中に宿しつつも何とかその痛みを和らげる方法を探しては何度も試み、試みては挫折することを繰り返しながら独身を貫き、今に至っている。
さて、話を戻すことにしよう。学業が手につかなくなった私だが、なんとか研究をして卒業論文を書き上げた。留年せずにすんだ。
小さな事件が起きたのは、卒業論文の発表の日だった。私が卒業研究の発表プレゼンテーションを行っていると、会場に学生が乱入してきて、「江畑さんの薬事実験はデータが不正で捏造論文だ」と根拠のないデタラメをわめいて場内の空気を乱した。その数分間の中断で、私の晴れ舞台は台無しになった。卒業してしばらくしてからユアーに事情を教えてもらったが、どうやら学科の主任教授が仕込みの学生を乱入させて妨害を指示したという。当時、若くて気の回らなかった私には、Tくんの事故死の前後も、一連の嫌がらせの根っこが一つの塊から伸びていること、それが深く広く張り巡らされていたことに考えが及ばなかった。また、棚橋くんの事故死のショックを引き摺っていた私には、別のことを気にする気力もなかったし、まだ気力が回復していなかった。とにかく、私は不可解な妨害に落胆した。発表が終わり、研究室の机の上で呆然とした私は、卒業できるのかそればかりを思案した。卒業さえできれば、あとは学内事務員の仕事が内定しており、仕事と勉強を両立させればよい。受ける機会を逃した国家試験を受けて薬剤師を目指すという未来が待っている。意地悪されたことよりも、友の死を胸に、最終的に資格を得て就職を果たすことが一番の供養になると自分に言い聞かせた。薬科大に入り、薬剤師になる夢が私にはある。入学した目的を果たさないと、故郷から四年間、せっせと働いて仕送りを送金してくれた両親に合わせる顔がない。そう思うと、おかしな人たちには何も感じなかった。研究室の竹村教授が私にかけてくれた言葉は、「学内での会議が異例に長引いたが、僕が反対する教授らを説得したから大丈夫だよ」だった。
発表の翌日から冷静に戻った私は周囲のことは気にせずに、残された実験結果の整理と三年生への引き継ぎをこなした。研究室においては、幸いにも先輩や担当教授に恵まれた。竹村教授は本当に人間的に良い人で、彼の教育者としての正しさにはただただ頭が下がるばかりで、温情に感謝するしかなかった。あの時、ちゃんとお礼の言葉を伝えただろうか。とにかく、その年の三月には、卒業に必要な単位の揃った通知表を受け取り、無事に卒業を迎えた。
少し、私とTくん、ユアーの関係の経過をおさらいしておこう。
私は大学一年生の頃、クラスメートと仲良くしていた。テニスサークルよりもクラスの和を大事にしていた。なぜかと言うと、テニスサークルは先輩たちを含めて人数も多く会話もそれほど交わしていなかったからだ。練習も球拾い以外は出来ない状況で、一年女子の結束はあってもそれほどに顔を出すことは多くなかった。むしろ、毎日授業で顔を合わせるクラスの仲間の方に親しみを感じ、これから四年間の長い道のりを一緒に過ごすという自覚が芽生えていたので、クラスメートの方を重視した。というと聞こえはいいが、早い話、素敵な男子が三人、クラスに居たからだ。そんなもんだ、女子たちって。それで最初に好きになったのが加藤くんだった。彼は男らしくて豪傑だったけど、他に好きな子がいてもおかしくないくらい女子にモテていた。だから、相手にされないと思い諦めた。のちに、加藤は辻本と付き合っているらしいことを友だちから聞いた。次に好きだったのがTくんだった。彼はすごく真面目な人だ。それがのちのち私の助けになる。この頃は彼の真面目さがすごく尊敬の対象だった。でも、若者として、男子学生として、何かに燃えているとか何かをしているときに目が輝いているといった顔つきを、私は最後まで見なかった。どうしてだったのか。少し醒めたところがあり、人がワイワイ話したり興奮して騒ぎ出したりするのを、ニコニコ微笑んで見ていることはあっても、どこか一歩ひいて冷静に振る舞うところがあった。だから、そこだけが嫌いだった。でも、いつも誰にでも優しく分け隔てなく接している姿を見ると、胸がキュンってなる。それで、彼に告白して交際を申し込む作戦をジョーカーと練った。
「ねえ、ジョーカー。話したとおりの真面目なTくんなんだけど。いい作戦てないかしら」
「ふんふん。まあ……。ないこともないよ」
「本当? ね! 教えて、教えて!」
私は彼女の袖を両手で掴んで揺すったり腕を抱きしめたりして、甘えてみた。
「そうね。いくらなら出す?」
ジョーカーは冷静だ。
「えー、お金とるの? そんなに持ってないよお」
私は鞄から財布を取り出して、中身を覗くフリをした。だいたいが底をついていることは分かっていた。仕方ない。ふうーっとため息をついて、少し演技をした私は、
「はい、これ」
と言って、まだ見慣れない重みのある硬貨を取り出した。
「わあ、なに? おもちゃみたい。これって、ひょっとして……」
「ジャーン。五百円玉よ」
「うわあ。やっと手に入れた。これで、みんなに自慢できるわ。ありがとね」
「うん、よかった。じゃあさ。教えてくれる?」
私は運良く手に入れた新硬貨の五百円玉を、ここぞの場面で惜しげもなく送り込んだ。当時新しく導入された五百円玉は人気が出て、手にした人は滅多に使うことなく仕舞い込んだため市中に出回らず、新硬貨は貴重な存在だった。それをジョーカーの小さな手に握らせたのだ。すると、ジョーカーは大事そうに貰った五百円硬貨を財布にしまうと、少し上を向いて左の人差し指を立てて、私に作戦を授けた。
「あのね。まず、かますのよ。私にはいま、大事な人がいますって」
「へえー。それで、それで?」
「まあまあ。落ち着きたまえ。でさ。その大事な人は、かくかくしかじかの人なんですけど、あなたなら、私とその人のことをどういう目で見ますか? お似合いですかって聞くの」
「すごいな。ジョーカーって」
「すごい? ふふ。カードを切るのはこれからよ。そう言って、じらしといてね。じゃーん。実は私の大事な人は君のことなんですって告白するじゃんか。でさ。びっくりした彼の手を握るとかして。あとは上手くやればいいのよ。そんなもんよ」
「うん、分かった。上手く行きそう。サンキュー」
私は彼女に礼を言うと、頭の中で台詞を繰り返しながらブツブツと呟き、両手で小さくガッツポーズの態勢を取った。
「頑張れよ! うぶな田舎モン!」
「ちょ、ちょっと。うぶでも田舎者でもないもん!」
私は少し拗ねた顔をして、頬をふくらませたあと、照れ笑いを浮かべた。
かくして、Tくんへの恋愛大作戦はスタートを迎えることになる。昼休みの間中、ジョーカーの言葉を真に受けて幸せなときの訪れをひとり噛み締めた。そんな馬鹿な私は、昼明けの最初の講義中もその台詞ばかりが頭を巡り、目で彼をさんざんに観察し尽くし、講義の終わりを待ちわびた。講義が終わり、席を立った私は、彼をそっと追いかけて、窓際でユアーたちと話をしていたTくんを手招きした。
「ねえねえ、棚橋くん。ちょっと話があるんだけど、あっちに行こうよ」
私はコケティッシュに唇を丸めると、彼の腕を引っ張って廊下に連れ出した。「あのね。私、いま大事な人がいるの」
「そう。良かったね」
「え? それだけ? 何よお。それでいいわけ?」
「僕は、毎日出会う人がみんな大事だけど」
「僕のことじゃなくて、ワタシの大事な人のこと、言ってるんだけどな」
「うん。それで?」
「私の大事な人はね。○○でね。○○でさ。すごく、○○なんだけど」
「あのさ。僕、忙しいんだけど。もう、いいかな?」
「えっ! ちょ、ちょっと待ってよ! 続きがあるのよ」
「なに? 手短に、結論から言ってよ」
「あのお。その大事な人がきみなの。棚橋くんのことなの」
「うん。分かった。ありがとう。僕も君を大事だと思っているよ。じゃあ、また」
そう言い残したクールなTくんは、その場を去って教室に戻っていった。
フラれたの? 何、今の――。
非情にも授業開始のチャイムが鳴り響き、私は力なく教室の席に着いた。
私は確かに告白した。それは夢でもない。彼も告白をちゃんと聞いてくれた。しかし、ジョーカーの作戦通りには行かなかった。呆然となったまま彼を見送るしかなかった。私は、彼の公平な人付き合いを理解するのにまだ時間がかかりそうだということ、自分が彼にとっては大事な人たちの一人であって特別な存在にはならないということを受け止めなくてはならなかった。
Tくんのバカ! ――。
そう叫びたかった。ひとりきりになれるのなら。
こうしてTくんへの告白作戦は失敗に終わった。私はジョーカーにその状況を逐一報告した。彼女は言った。
「気にするな。男なんて星の数。チャンスは無限にある。あの男も、いつか君を女として見る日がくるかも知れん。君は勇敢に立ち向かった。これからも迷わず惑わず、文武に励めよ」
こういう感じで応じ、さらに調子づいて慰めてくれた。
結局Tくんへの思いは片想いとなり、私の愛を彼が受け容れることはなかった。だが、その思いはくすぶり続けたままだったのに、私の脳は違うターゲットを目指すよう指示を与えてきた。あっちがダメならこっちがあるじゃないか。キューピッドが弓矢を構えて狙いをつけたのはもうひとりの好きな人、ユアーだった。三番目になったものの、Tくんと同じくらいに気になっていた人だ。どうしてTくんよりも先にこちらに声を掛けなかったのだろうと悔やんだ。後々ジョーカーが指摘した私の特徴として、「チヅルはいつも、確率が低い危険な方からまず試そうとするよね」というところが私にはあるらしい。
それはともかく、ユアーに告白するのは自分の力だけでやろうと考えた。人に頼って失敗すると、人のせいにしてしまう自分がいる。やっぱり最初から最後まで自分で計画を立てて実行に移し、結果が成功しても失敗に終わっても全責任は自分が負うべきだ。そう思うことにした。
ユアーとの距離を縮めたのは二年生の前期試験前だった。それまではひたすら待った。すぐに相手を変えると悪い噂が立つ。あの子、すぐに目先を変えたわねって。私もそんな悪女に見られたくはなかった。そんな所だけは変に気が回る。素敵な男性をただ眺めるだけであれこれ思うだけでいい。それが青春というものだ。
さて、私を振ったTくんは、一年生のときから計画を綿密に立てて、薬剤師国家試験に向けての準備、すなわち勉強をしていた。彼は勉強とアルバイトだけの生活を送り、勤勉で実直だった。だから、私はフラれた後も尊敬していたし、告白前と同様の友人関係を保とうとそれなりの努力をした。夏休み、ユアーと三人で映画を見に行った。ユアーとのデートにも時々はTくんを混ぜて、三人でドライブすることもあった。真面目男だから彼が根を詰めないかと心配してのことだった。でも三人で遊んでいても、妙な気を回さず普通に仲良くしてくれて、それはこっちも助かった。本当に素直でいい人だった……。Tくんに女っ気がなかったのは確かだが、女性に興味がまるっきし無かったわけじゃない。ちゃんと興味を持ってはいた。ただ理想が高いのか、好きな女子のタイプが偏っているのか。詳しく聞いたことはなかったが、彼が私やマリエール、ジョーカーらの仲良しグループ以外の女子と何かしているのを、学内でも外でも見かけたことは一度もなかった。他の子が恐かった? それともシャイなんだろうか? いテレビに出ている人には憧れの目を持ってたようで、ある女優が好きだとは言っていた。
Tくんの一番好きなことは、モーツアルトとかクラシックを聴くことだ。彼によると、クラシックとは人生そのものを五線譜という縮図に描くために設計されたもので、喜びや悲しみなどの波瀾万丈を演奏する音楽らしい。クラシック以外でも、有名なポピュラー歌手のコンサートには嬉しそうに付いてきたが、彼の本当に愛する音楽はあの時代の古典派音楽なのだ。それを聴いていると、自分の過去を回想したり、未来の進路が開けてくることがあったりすると言っていた。彼は、N響アワーとか新春ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の新春コンサートって言葉を聞くだけで、心が弾んで目が輝く。確かに私が聴いても、あの音楽は荘厳でスケールの大きな音楽だとは思う。あまり若者っぽくはないが。それに彼ったら、薬事実験のときに撹拌棒を指揮者が使うタクトのようにして振り回すのだ。あれはよした方がいい。ちょっと、みっともないから。
私が二年生の頃、マリエールは君島くんと付き合っていた。あの腰の低い男子のことだ。付き合っていたのは前から知っていたし、四人で行った銀座のときにはすでにいい仲だったからさして驚くこともないのかもしれない。が、改めて考えると、あのおとなしい君島くんのお相手があのスケバンのマリエールなんだから、男と女なんて分からないものだ。従順な君島くんを手下にしたのか、と女子の間で噂が立った。「さぞかし、棚橋くんにきび団子でもあげて、お供を連れて鬼退治にでも行くのよ」と口の悪い仲間に言われていた。私もそう思っていた。が、あるとき見かけた二人はまるっきりあべこべだった。君島くんがふんぞり返って、あれこれと気を揉んで甲斐甲斐しく世話を焼くマリエールに対して細かく指示を与えていたのだ。夫婦でいうなら夫唱婦随、亭主関白とでも言うべきか。まさに、言うのと聞くのとでは正反対だった。こんなことがあるのだろうか。桃太郎が家来の犬に顎で使われるているなんて。何があったんだろう? いくつものハテナマークが頭からフワフワと生えてきてはポヨンポヨンと飛び出し、宙をさまよった。この光景は見てよかったのかしら? 思わず口を押さえ、壁に身を寄せて隠れるフリをした。これを人に説明しようにも全く説明のしようがない。お互いが入れ替わってしまったのではと思うような場面だから。気を取り直して今みた寸劇を茶番だと思い、その場を通り過ぎた。
しかし、同じような光景を見たという証言はあちらこちらから上がっていた。ちらほら聞こえてくる噂に耳をそばだててみると、こういう話だった。
「万里江ちゃんでも、案外ダメな所ってあるのねえ。好きな男には」
女子更衣室のむせ返る熱気の中、細長いロッカーの棚に置かれたビニールバッグに自身の汗臭いTシャツを折り畳んで入れながら、山上徳子は皮肉たっぷりに笑みを浮かべた。「さすがの女弁慶も、義経にはかなわなかったのね」
着替えをしながらの吉野里莉阿は、三色のアメリカ国旗を思わせるタオルで首回りの汗をふきふき嬉しそうに喋っている。
「そうよ、そうよ。暴れ姫も猛獣遣いのムチには大人しくなるのよ」
部屋の中央にある青いベンチに置かれていた炭酸飲料のカップを手にして飲み干しながら、岩本慶子も口を挟んだ。
「ウフフ。まるでサーカスみたいね」
なにを想像したのか、佐倉安南は大口を開けて笑っている。本当だったんだ! あのときの二人の様子こそが人に見せない真実の姿であり、当人たちにしか理解できない上下関係だったんだ……。食べたものが腹から逆流しそうになった。その後も一つ上の先輩女子四人衆の品定め談義は延々と続けられた。先輩方の例え話は上手だが、少し品の欠ける物言いだわ、と私は思った。
やがて、女子キャプテンの志保先輩が手を叩いて注意を喚起し、お喋りを終わらせた。
「はいはい。お喋りやめえ!」
ざわざわしていた一同は水を打ったようにシーンとした。
「女子の皆さん。来月からインカレの大会が始まります。シングルでエントリーする人は早めに私まで。あとジョダブ(女子ダブルス)のペアは二年生以上。変更も受け付けてます」
女子キャプテンの低い声が更衣室内に轟いた。この人の前でヒソヒソ話すと後で男子の先輩に告げ口されてコートでスマッシュの雨嵐が飛んでくる。女子の間ではこのように井戸端会議が繰り広げられて、悪口も含めた情報交換とその共有がなされていた。
私は二年生になりユアーと付き合いだしていても、勉強やスポーツと恋愛のバランスが崩れることのないように、満遍なく気配りをすることを心掛けていた。三つ上の姉、美佐恵から忠告されていたことがある。「恋や愛に溺れたりうつつを抜かしても、未来の花嫁になれる保証なんてどこにもないよ」とか、「勉強をさぼると一生後悔することになるよ」とかだ。姉の立ち居振る舞いを見て育ってきたせいもあった。ある意味、その教えを守り抜こうと努力したからこそ、青春時代が充実していたと自負できるのだろう。
姉も薬剤師で奇しくも同じ道を私は選択した。私にとっては良き手本がすぐ目の前にあり、Tくんやユアー以上に姉という存在が心強いものに感じられた。姉を尊敬し、信頼もしていた。姉は大学を出て故郷に帰り、薬剤師になった。住んでいる場所が異なるけれど、休日に東京から電話を入れたり、私が帰省したときには二人で色々と話し込むことも多かった。
二年の前期試験が終わった秋口に、私はユアーにアタックを開始した。今回はTくんのときと趣向を変えて、告白抜きで行う計画を練った。マリエールやジョーカーに特別な相談を持ち掛けることもなかった。
バニベリの夏合宿が終わったその晩、合宿に持参した膨らんだ鞄を抱えたままの私は、いつもの居酒屋に寄った。そして、酔った勢いでユアーをカスタード亭に呼び出した。合宿の疲れを吹き飛ばすかのような黄金色の飲料で乾杯した私とマリエールは、六時過ぎから飲み始めて夜の八時過ぎにはもういい具合に酔いが回り、すっかり出来上がっていた。この時間帯になると、女子ペアはお互いの恋愛話に花が咲いていた。
「私はさあ。彼氏が居るからさ。心配ないのよ。心配なのはチヅル。誰か好きな人はいるの?」
目の周囲を真っ赤っかにして猿の顔をしたマリエ―ルは、焼き鳥を頬張りながら酒臭い息を私に吹きかける。
「へ? 私? うん、まあね。まだ形になってはいないけど」
「ふふん。やるわね。お主も。で、誰? 若くん? それともほっしー? まさか、竹富先輩や川尻会長じゃないよね?」
「なんでよ! 先輩二人には彼女が居てるじゃんか。あり得ませんよ。若くんやほっしーでもないよ」
「そうだよね。ユアーだもんね、本命は」
「どうしてそれを……」
「見てりゃ分かるわよ。簡単よ。アナタって単純なの。私も鈍感じゃないし」
エヘンと咳払いをしたマリエールは、すぐに出てきたオーダー済みのピザが載った皿を自分の前に引き寄せた。指で一片を摘まんで口を寄せつつ垂れたチーズを舌でキャッチし、つまらなそうな目を向けて私の脇を小突いてくる。
3 青春時代~社会人編 ~Tの悲劇~
「な、なによ」
酔いが醒めかけたていた。意中の人を言い当てられて勢いを盛り返した私は心までが熱くなってきた。
「分かってるくせに。どこまで行ってんの? 二人は?」
「ええ?」
「早く吐きなさい。カツ丼出そうか? 警察署の取調室みたいに」
目を細めながら友人を揶揄するマリエールは、だんだんと本領を発揮して図々しくなってくる。形勢が悪くなる前に反撃しようと拳を固く握りしめた私は、
「どこまでも何も、まだなーんもしてないもん。これからが勝負なのさ。見ててご覧なさい」
と曖昧な大見得を切った。
「よっしゃ、そうか。やったれよ!」
意味不明の掛け声を掛けた彼女は、パンパンと私の頬を軽く叩いた。そして、長皿に等間隔で並べられた焼き鳥の串の一つを指で摘まみ、居酒屋の天井に向け、エイエイオーと言わんばかりにリズムを刻んで突き上げた。その無言の雄叫びに気を良くした私は、気が付くとカスタード亭の入り口脇に置かれたピンク色の公衆電話に駆け寄り、メモ帳を出して「ヤ行」をめくっていた。「YUASA:〇三ー××二六ー×五×三」の番号を見て、すぐに数字を押し始める。
十分後、酔いどれペアにユアーは呼び出された。彼は最初こそ、場の雰囲気に圧倒されて戸惑っていたものの、三十分後には酔いどれトリオを結成していた。
「なんだか、男一人が両手に花なんてさ。今夜は楽しいな。ハッハッハ」
呼び出しにあったユアーは上機嫌となり、両隣の女子たちの肩に手を回した。昔はそんな風に彼氏彼女が居ても自由に振る舞うのが普通で、それが許される時代だった。何せ、まだ携帯電話も写メもない時代だ。証拠も何もないし、口裏合わせは日常茶飯事だ。
こうして恋人がおる輩もおらぬ輩もひとつの卓を囲んで皿をつつき合い、赤提灯の下で互いの結束を固めて誓い合う夜は、熱く熱く更けていった。
さてこれだけでは私のユアーに対する思いは伝わらなくて当たり前だ。それは私にも分かっていた。だから、なにかにつけて彼が友人たちと談笑している場に顔を出したり、マリエール情報で彼の居場所を掴むと、その場所にさりげなくお邪魔することを繰り返すという地味な活動を繰り広げ、それを続けていった。告白はしていないのに、いつもあの娘が○○のそばにいるよな。そんな風に周りから言われたかった。思われたかった。この「顔出し作戦」を実行していく過程で、幾つかの明らかなラブモーションも仕掛けていった。姉の美佐恵に見つかったら絶対に怒られて説教されたことだろう。が、恋に夢中になると、空からピンク色のオーロラがキラキラ舞い降りてきて、外からの声が聞こえなくなっちゃうような気がするのだ。そんな幻想的な世界に包まれる。北欧の神秘的な恋のカーテンなんて詩的だが。
それでは、ラブモーションの話をしよう。その第一弾は次のような場面から始まった。
ある日、来週の月曜日が休校になるのをいいことにユアーをデートに誘った。池袋駅に朝九時半に待ち合わせをして、二人で遊園地に着いたのが十時過ぎだった。駅から真ん前にゲートが伸びている。回転木馬の屋根やら観覧車やらが既にこちらを向き、早くおいでよと手招きせんばかりにぐるぐると回っている。子どもでなくても遊園地までのプロムナードを走り出したくなる。が、乙女だから自重して澄まし顔でこらえ、彼の手を引いてしゃなりしゃなりとスカートを風になびかせて歩いた。それって誰が見てもカップルのはずだ。その辺は、「顔出し作戦」が効いたと見えて、鈍いTくんとは大違いだった。鋭敏なユアーだからして、私がどういう存在で、この一連の行動が何を意図しているものかぐらいは充分に分かっていたようだった。
とにかく、ゲートの前まで来た。ここが肝心。入場料を払うのは、どっち? 私が誘ったから、これを奢ってもらうわけにはいかない。だから、お互いが顔色をうかがいつつも、冷静に鞄から財布を取り出して「大人二枚」の入場券を買うときに、何食わぬ顔をして私が彼の手に一人分のチケット代金を滑り込ませた。係りのお姉さんもそういう光景をずいぶんと見飽きるくらいに見てきたからだろう。その素早い動きに微笑みを口元に浮かべながら、明るい声で、「三千円です」と告げた。そして、湯浅くんが差し出した代金と入場券二枚を交換してくれた。実はそうした駆け引きは当時の若者雑誌でもたびたび取り上げられる「デート・マニュアル」なる恋愛指南記事に登場する場面の一つだった。「どちらが○○を支払うか? その代償としてなにを要求できるか? 女(男)は、それを求められたときどういう顔をしてお洒落に決めるか」なるテクニックが掲載されていたらしい。毎度まいど、デビュー仕立てのフレッシュな男女はその図式を演じきることがスマートな若者と言われていた。私もそういう知識は見聞きしたが、男子が必ずそうしたマニュアルを参考にしていたとは知らなかった。あとでユアーから聞かされて少し恥ずかしさを感じた。そんな流儀に男ってこだわるものなんだ。この場面においては入場券を割り勘にしても、全部割り勘でいいという発想は当時なかった。それをすると男女の仲が醒めてしまうし、女が男に依存しなさすぎるのも可愛い女とは呼ばれない。割り勘は始めだけとか大きな金額のときだけとかにして、少額だったりは男に出させる風潮が強かった。また当時から、女の方が男に甘えて、「仕方ねえなあ。○○ちゃんには負けるよ」などと言わせるスタイルが定番となっていた。
かくして、乗り物代金はユアーが四回払い、私が二回払った。私は四勝二敗だったわけだ。ゲームコーナーも含めるとさらに一勝積み上がる。昼食はあまり料理の得意な方じゃなく腕前も大した自信はなかったからして、サンドイッチを二人分作った。玉子のサンドイッチ、ハムときゅうりのサンドイッチ、レタスとトマトの野菜サンド。唐揚げチキンも入れた。冷凍のチキンをレンジでチンしたものだ。お弁当箱は籐製の編み籠タイプのを二つ用意した。バッグの下の方にレタスとトマト、唐揚げ入りの箱を入れ、上の箱には玉子サンドとハム・きゅうりサンドの方を入れた。飲み物は冷蔵庫で冷やした紅茶を赤い魔法瓶に入れて持参した。当時、まだペットボトルがなく缶ジュース全盛の時代だった。簡単に自販機で飲み物を買うことはしなかった。
その遊園地で最初に乗った乗り物が、「スイングするボート」だった。立ち止まってお客さんたちが悲鳴を上げたり、絶叫しているのを眺めていたら、「チヅル、乗ってみるかい?」って優しく言うのだ。私は心臓が強いからなんでも来いだけど、ユアーは大丈夫なのかしらと思った。度胸ある人だとも思った。動き方が珍しい。円を描く乗り物だ。最初は横にぶらんぶらんと揺れる。太い支柱から伸びた柱時計の振り子みたいな棒が左右にボートを揺すりそれが激しく左右に振られていくうちにぐるっと一回転する。驚いた。こんなの、ありかなって。スイングから一周しちゃうのだから。体操選手みたい。遠心力らしいが、ボート自体は逆さにならず、柱が円を描く。乗ってみた感想は、途中までの左右の揺れからギュイーンと一周するときのスピードとのギャップがすごかった。私はキャアキャアと絶叫して楽しめた。が、ユアーは黙ってニコニコしながら平然と構えていたのに、一周したときの顔ったら引きつっいて痛々しく見えた。絶叫系の乗り物はまだまだあってこんなの序の口なのに、乗り物系の免疫がユアーにはないのかしらと思った。少し落ち着いてから、口数が少なくなったユアーを「ジャイアント・スイング海賊船」に乗ろうと誘った。これぞスイングのみの絶叫系決定版だ。ある高さで船が止まってから、だんだんと加速がつくときのフワッと体が浮くような高揚感がある。一番下の位置に戻って通過するときの疾走感も凄い。アメリカ人というのはこういうのを考え出すと天才的だと思った。どうなるか知らない子どもたちがポップコーンなんて片手に持って座っていたらフワッとした瞬間にパラパラパーンて宙にポップコーンが散らばるわ飛び跳ねるわで大変な目にあっていた。それもおかしくて楽しかった。ユアーは椅子の前にあるバーを両手で強く握りしめ、必死の形相だった。髪の毛も逆立っていた。私はストレスやうさ晴らしによく乗ってたから平気だった。これぐらい朝飯前のへっちゃらだ。
そんな感じで、普段は態度の大きいユアーも次第にプラレールで遊ぶ子どものようにおとなしく従順になってしまった。
いつまでもこんな風にできないから、お弁当を食べたらゲームコーナーや木陰でいちゃついたりしてトーンダウンした。でも私がいちばん楽しかったのは、絶叫系じゃなくて、密着系の乗り物に乗っているときとサンドイッチの甘いランチタイムだった。
二人乗りの変な乗り物があった。よく分からない原理でカップルを乗せた円筒がゴロンゴロンとレールの上を回転する。スカートを履いているとめくれる。それを押さえたり見えたりするスリルがあるのと、遊具が回転していると天井や壁にぶつかるし、その勢いで相手にもぶつかる。当然、何回もユアーの体に触れたし、ぶつかったりぶつかられたり、押し合いへし合いだ。肉弾戦で楽しかった。やっぱり、ここだけの話、ふだん触れることのない異性の体を思いっきり触れ合えるのってドキドキする。気持ちいい。いい体験をした。
いい時代だった。もうこの頃になるとカップル成立だ。でも女という生き物は「好きです」の言葉を欲しがる。その一言の担保が欲しくなる。それを言わせるが為に、第二弾の作戦が待っていた。
第一弾から数週間後、よく晴れた秋の日。
ジョーカー、マリエール、君島くん、ユアー、私の五人で、山梨県のブドウ狩りに出掛けた。レンタカーを借りて。マスカットとか巨峰とかブドウにもいろいろある。たわわに実った果実を獲る男性軍ってなんか目つきがやらしく見えた。どうせ、私の果実はたわわじゃない。都内からレンタカーでくねくねとドライブして行って果樹園に着いた。そこでは一時間で取り放題、一人頭二千円だった。最初は安いって思った。でも業者も頭がいい。食ベ切れないのだ。ブドウばっかり、二千円も。二房食べた頃からお腹がチャッポ、チャッポ鳴る始末。無理だ。一房五百円にしても、四房二千円。不可能だ。元を取れるとか、持ち帰り不可だから食いだめとか、そんな浅ましくてもほとんどがギブアップ。よく出来たシステムだ。それで二房目あたりから胃袋が気になりだして、ゆっくり味わいながらも、巨峰やデラウェアの甘さが逆に気になりだしてくる。一口で二つを同時に放り込んでみたり、種を口にためて遠くへ飛ばすゲームを始めたりと、男子らは脱線する。
ドライブしながらの我々は、運転手を除くと、ワイワイ騒ぐチームと、次のレクリエーションを考えるチームに分かれてきた。ジョーカーとユアーがワイワイチームで、マリエールと私が考えるチーム。君島くんはボックスカーの運転手だった。マリエールとまたしても相談した。この間の遊園地カップリング・デートを説明して笑い転げた。上出来でしょって。
「それで、今回のドライブのブドウ狩りを第二弾にして企画してみたの」
「えー、そうだったの?」
「そうよ。だから、これからがカップリング・タイムなの」
「ちょっと、まさか、このまま君島ドライバーに指示してホテルへ行って……」
「やーん。そんな訳ないじゃん。一人余るし」
「なに言ってんの」
「だから違うって。ジョーカーは余るけど、もっと健全かつ低コストのカップリング・タイムを設定するにはさ。何すればいいと思う?」
「うーん。分かんない」
そんなことを言い合いながら適当に道沿いの喫茶店にしけこんだ五人衆だった。
ウッド調のカナディアン・ログハウス風喫茶店、「グラン・モンテ」に入り、窓際に陣取った私たちは、白に花柄のエプロンを着けた女子高生風のアルバイト店員にメニューを渡された。私とジョーカーはミルク・ティーを、マリエールはホットココアを頼んだ。男性陣は君島くんがホットコーヒーをミルク付きで頼んだ。テーブルのシュガー・ポットをこねくり回す君島くんを横目に、ユアーはなにを考えていたのか、もう二度と来ることはないであろうこの田舎の鄙びた喫茶店のメニューを隅から隅まで眺め尽くしたのちに、ホットケーキとウインナーコーヒーを注文した。しばらく、ブドウ園での様子やら、おかしな食べっぷりをしたのは誰で上品に食べて少しだけ残したのは私よなどと、とりとめのない振り返りをしていた。少し時間が立って、ようやく注文した飲み物が一枚の銀のお盆に載せられて運ばれてきた。五人衆に注文されて戸惑ったかしらと思いきや、その店員は注文票にどんな目印を付けたのか、ちゃんとオーダーした人を覚えていて、何も見ずにそれぞれの席に正しい注文品を並べていった。普通は、「ホットコーヒーの方は? ミルク・ティーの方は」と聞いてくる。それがなかった。素晴らしい! この手際に田舎の店といえども侮れないわとみな感心していた。後で気付いたが、服の色や顔の特徴、髪型などけっこう私たちってバラバラなのだ。オーダーの横に短くメモでもしてその場で記憶したとしたら、この子は接客業に向いているかも知れないと私は思った。どおりでひげ面のオーナーも安心しきって、ゆったりとサイフォンでコーヒーを沸かしていられるはずだ。かくして、田舎の、静かでのどかな喫茶店に現れた都会育ちの珍道中一行は、ワイワイ騒ぎ立てながらお喋りを繰り返しては、秋の夕景色を眺めてくつろぎのティータイムを過ごした。
さて、マリエールと私が考え出したラブ・モーション。それは次のようなものだった。
まず、五人衆で乗った車で、適当に人を降ろしていく。そして最後にカップルを残す。自宅や下宿が近くだからとか、適当な用事があるとか言って。確か君島くんが都内の調布市だから、彼を調布駅付近で降ろす。君島くんが降りた時点でドライバーは私の恋人ユアーに交代している。ジョーカーは明大前だからその次に降ろす。あとの三人のうち、マリエールが邪魔になるので、彼女に遠慮してもらって、用事のある適当な駅で降りてもらう。あとはユアーが運転して助手席には私がちょこんと座り、二人だけのドライブは、レンタカーを乗り捨てる適当な駅まで自由に制限時間内までお楽しみという手はずだ。
ドライブインでの休憩中、ユアー以外の四人は、隙を見て打合せをしていた。完璧。こういうときには、本当にマリエールの友情に感謝、感謝だ。彼女だって君島くんと二人きりのデートをしたかっただろうに。でも姉御肌の彼女はかわいい子分のためならと、ひと肌脱いでくれた。
そういうわけで、計画は順調に進み、最後には私とユアーの二人が残った。都内の道をドライブする二人はデートを楽しんだ。二人きりの狭くて熱々の空間を独占し共有した若きカップルは、車内で好き放題の甘い時間を過ごした。もちろん、根回しできるメンツを最初から選ぶのと、あとで協力者たちにお礼とちょっとしたプレゼントを渡すぐらいの器量がなければあとでみんなから恨まれるだけだが。
それでレンタカーのワゴンの中はというと――。
「今日は楽しかったね」
「ええ。良かった、ユアーが楽しんでくれて」
「うん。とても楽しかったよ。チヅルは?」
「ええ。私も楽しかったわ」
「そうか。よかったよ……」
「……」
「ちょっと寒くない?」
「うん」
「これ、着るかい」
ユアーは片手で薄手のセーターをつまんで見せた。ジャケットの下に彼が着込んでいたのだ。
「え? いいの?」
「構わないよ。ちょっと待ってね」
そう言うと、紳士ぶる彼は車を信号手前で路肩に寄せて、停止のランプを点滅させた。
「あ。いいのよ、そのまま……」
私はユアーの腕にしがみついて、そっと顔をくっつけた。
「あ……」
小さく声を漏らした彼はハンドルから手を離すと体を捩って右腕を伸ばし、私の頭を軽く撫でた。日の落ちた暗がりが車の中でしっかりと抱き合う二つのシルエットを包み込み、その影は彫像のように周囲の時を止めていた。
私は彼と口づけを交わした。興奮と喜びに恥じらいも混じり、顔が火照ってくる。私の唇は彼のそれを求め、互いのものが合わさった瞬間、しっとりとした潤いがそこから顔全体に広がり、異性の血潮が自分の体内に溶け込んで一つになるような錯覚に私は浸った。
どちらからともなく口と口を離すと、私は訊いた。
「ねえ。私のこと、どう思う?」
「チヅルのこと、好きだよ」
やっと言った――。
私は心が落ち着いて安堵した。キスと告白の順番が逆かなとも思ったが、すべてはこの二つをしてもらうがために今日という一日を迎えたからそれでいい。
そのあと、いろいろ二人で話し込んでいると、時計が夜九時近くを指してきた。車を返却する予定時刻だ。ユアーは都内の道路に詳しかったのですぐに車を出すと大きな駅前に出て、レンタカーの営業所を示すサインランプを見つけ、返すことができた。
私は彼とラブラブのままで電車に乗り、最寄り駅まで電車に揺られた。駅からマンションまではあっという間だった。送ってもらっている間も、車の中でのことが頭に焼き付いていて、レンタカーを返してから何を話したのかはすっかり忘れてしまった。ただ車での睦まじい言葉と甘いムードは今も大切な宝物として心に残っている。
二年の後半からユアーとの付き合いが始まり、三年生、四年生へと交際は続く。あのTくんの事故死までは以前と変わらずの生活を送っていた。すなわち、バニベリでのテニス練習や合宿、薬学の基礎勉強、ガイダンスなどを始めとするOBとの懇親会、ユアーとの交際などをバランス良く続けていった。それは、友の事故死と研究室配属まで、変わることはなかった。当時の三角関係は、恋愛状態にあった私が欲張りだったのか、最初に好きだったTくんも幸せにしてあげたいというお節介の気持ちと彼への捨てきれぬ思いがこんな風に反映されていたからこそ産み出されたのだった。
私には誰にも言えない秘密があった。
発端は、私の成績にまつわることからだった。三年生の冬、一月にあった学科の単位を落としかけた。十二月にどうしても避けられぬ用事が入り、南雲助教授の講義を二コマ続けて欠席した。しかも、年明けの試験のできが悪かった。若くて精力的な先生はテストと授業の出席率を加味して私にDの評点を与えた。学生指導にも手を抜かない南雲先生らしい裁定だった。困っていた私は思いついた。全ての講義に録音機を持ち込み、テープを回している友だちがいたのだ。それが真面目男のTくんだった。感謝、感謝、とうわべのお世辞と愛嬌を振りまいて、私は彼のテープコレクションの中から「南雲助教授 昭和五十九年度免疫学第十一回~十二回/十五回」とラベルが貼られたテープを貸して貰える約束を取り付けた。これで二月の追試に間に合う。安心したら頭は桜の花見にユアーの側にいたいという若者思考になってしまった。しばらくの間、薔薇の花だの菜の花だのが咲き乱れる真っ白な空間に遊ぶような少女漫画のワンシーンに浸りかけた。事は筋書き通りに進む。真面目な友人の厚意に甘えてテープを受け取り、講義内容で足りない部分を埋め合わせて補った私は、追試に受かり単位をもらえた。
礼が延び延びになり、四年生の花見の季節を迎えた今、この少しのんびりした時期に礼がしたかった。それを兼ねて私が花見を企画した。もうすぐ研究室配属となり、しばらくは皆にもご無沙汰になるだろう。だからこの機会を利用してそれまでの三年間でお世話になった仲良しグループのクラスメートをユアーに集めてもらった。花見の席でみんなに礼を述べた私は、適当な場面で追試に役立ったテープの礼としてプレゼントをTくんに贈るはずだった。しかし例の如く、酒と春の陽気に心がざわめいた。缶ビール、ユアーの優しい言葉と笑顔。頭に花が咲き、用事は吹っ飛んだ。挙げ句に三人で二次会を開こうとTくんの下宿にまで押しかけたのに、また渡すのを忘れた。本当に私ったら馬鹿なんだから。「お酒や恋も大事だけど、卒業を左右する単位も大事だよ。誰のお陰でここまで来れたの?」。実家の母がパンチパーマの菩薩となって、女神のように優しく私に語りかけている気がした。ちゃんと卒業して国家試験に受かり、病院か薬局の薬剤師として働く。留年したら親に怒られるし、仕送りも大変なのだ。今年は卒業よ、しっかりしなきゃ、千鶴。賢い自分が怠惰な自分を叱っていた。かくして、何度もプレゼントを渡しそびれた私はユアーにラブラブでマンションまで送ってもらった。恋心に酔いが回り、渡すのを失念していたが、部屋の床に無造作に置かれたピンク色の袋に目が行った。あれ、これ何だっけ。家で酔いが醒め、やっと用事を思い出す始末となった。我に返った私は自分に言い聞かせるように呟いた。マメ男のTくんに早くプレゼントを渡さなきゃ! 私はあわてて地味な鼠色のパーカーを羽織ると、女の色気を消しつつ、今し方の帰り道を引き返すことになった。幸い誰にも呼び止められず誰にも会わずに、Tくんのアパートにたどり着いた。途中で降り出した小雨が強くなって、アスファルトを激しく叩いた。アパートの二階横に付けられた外階段を静かに上がり、入り口の扉を開けると、廊下の突き当たりのドアが目に入った。鍵がかかっておらず、半開きだ。男子学生はみんなこんなものなのか。不用心……。中から音は聞こえない。クラシック演奏会のポスターが貼られたドアを回して中に入ると、暗闇に人影が横たわっている。Tくんだ。手に持っていたピンク色の袋からプレゼントを取り出し、布団に寝そべる彼に毛布を掛け、その傍らにプレゼントと手紙を置いた。すると、彼は物音に目を覚ました。起き上がった彼は私を泥棒と勘違いしたのか素手で殴りかかってきた。
「いやあ、きゃー!」
黄色い声を出す私に対し、彼は女と分かると、今度は私のスカートに手を掛けてきた。甚だしい勘違いだ。物取りでないなら、女が暗闇にいると犯すのか? こんな形で自分の片思いを成就させ、彼を受け容れたくはなかった。だから私は思いっきり彼の立っている布団の端を引っ張った。ステン。かれは背中から転倒した。とっさにひるんだTくんを近くに転がっていた酒瓶で叩いた。が、暗闇で半分顔を背けての反撃は運悪く彼の頭に命中する。
「ああああ……」
頭を押さえて片膝をついたかと思うと彼はすぐに口から泡をぶくぶく噴き、倒れて失神した。片手で口を塞いだ私は、何秒も声が出ず、時は流れた。気が動転した私はちゃぶ台にあったクスリの袋を破って、反射的にマグカップに入れると一目散にドアに向かった。その辺から、よく覚えてない。なぜそうしたのか分からない。あとで自分の行為をたどると、もしかしたら薬を飲めば失神が治ると思ったのだろうか。しかし、失神したままで服薬は出来ない。けれど他に出来ることがなかった。冷静に彼の体を何度も揺すり意識を戻してあげれば良かった。何度も何度もそう思った。後悔した。今もそう思う。しかしあの時は、犯されるかもという恐怖心が勝り、反撃という行為を正当防衛化してしまったようだ。被害者と加害者の立場が一瞬で入れ替わってしまうと脳が混乱する。どちらの立場にいても早く立ち去りたかった。反射的に薬をコップに入れたのも、もし刑事に問い詰められたら説明のつかない行為だった。大急ぎでアパートの外付け階段に急いだ私は、誰にも会いたくなくて足早に降りた。一段一段、降りる足の運びが、長い長い嫌な作業に感じられた。頭の中が混乱しながらアパートの敷地を出た私は恐る恐る振り返ってみた。誰もそこにはいなかったが、雨に濡れて葉を揺するタンポポだけが私の姿を恨めしげに見送っていた。ただ、あのあとになぜ部屋から出火して、Tくんが火事で死ぬことになったのか。それは、タンポポにも私にも分からぬことだった。
Tくんの事故死で慰めの言葉より冷笑や嘲笑が多くても気にも留めなかった。というよりは、自分が恋人として選んだユアーより前に好きになった片想いの相手を不慮の事故でなくしたばかりの大学生にとって、周囲の反応などを冷静に分析するような余裕は皆無だった。事件はテレビや新聞等で報道され、一般の人々にも知られることになった。他人が邪推する範囲の事柄と警察や消防が現場で調べ上げた報告に基づいた事実の間には明白に境界線が引かれた。当時の私には難しいことは分からずじまいだったが、事件の概要の一部は感覚的に掴んではいた。翌日のニュースでTくんの死亡を知り、下宿に駆けつけるとあまりの惨状に茫然自失になった。下宿は真っ黒に焦げ、辺り一面が異様な匂いと熱気で覆われていた。真っ黒な炭と化した友人の亡骸は原形をとどめていなかった。彼の死を契機に私の情緒も乱れ、当時の彼氏だったユアーとの関係は崩れていった。結局、就職先のT病院の内定を辞退し、私は学内で事務員として働き、国家試験の勉強をやり直すことになる。あの夜、自分の取った行動がTくんを死に追いやったとしたらという罪の意識を引き摺ったままで私は卒業研究をやり、就職した。毎年、花見の季節になるたびに心が痛み、彼が事故死した真相を知りたいという気持ちと呵責の念に苛まれている。あの夜、何があったのか。私は友の死を乗り越えようと必死の思いで都内の薬局で働いた。あの当時の秘密を私は人にもユアーにも話せなかった。秘密が悩みとなり、それを抱えたままでずっと心の中で答を探す自分がいた。
春が近づき、雨が降ると足元がぬかるむ季節は、泥のようなどんよりとした空気が、会社、病院、薬局に漂う。「泥の春」だ。そう感じて三十年が過ぎた。ぬかるむ土、淀む空気、華やぐ子どもらの声。ビルの外では若い男女らが賑やかに歩き、以前から勤める社員に新人も加わって愉快そうに花見の場所へと向かう。楽しげな光景の裏で、私にとっての春はちくちく痛む思い出が巡る季節でもあった。泥の春だと思うのは、自分の不誠実な心が春先の雪融けや雨上がりの泥水のようにぬかるんでいるからだった。
報道では棚橋陽一という大学生が下宿のアパートで火の不始末で火事を起こして亡くなったというよくある事故としか伝えられなかった。しかし、深層には別の事実が存在していた。火事を起こす前に人の出入りがありTくんが最後に出会った人物こそが私であること、そのときに起こった私しか知り得ない事実、私が帰ったあとに彼がとった行動の事実といった内容は、公にされることはなかった。私は内心ヒヤヒヤしていたが、私のところには警察からの連絡はなかった。その未知なる闇の事実たちは、私にとっては奇々怪々な事件として、泥のようなぬかるみの心痛を伴い、しばらく私の中で留まっていた。
二十五年後の集まりをきっかけに、止まったままの時計が少しだけ動き出し、また止まってしまう。Tくんとは真剣に付き合う機会が一度も訪れなかったが、何かあれば身近な相談相手として電話をする仲だった。
「あの、棚橋くん。相談があるんだけど」
「うん。なんだよ?」
「あのね。夏休みに北海道へ旅行に行く計画を立ててるの。友だちと。でね。北海道旅行のお土産だけど、なにか欲しいものある?」
「北海道ね。そうだな、お菓子でいいよ。安くていいから」
「うん、分かった。ところでさ。四年になったら、どこの研究室に行きたいの?」
「それが本来の相談事なんだろ? うーん。まだ決めとらんよ。免疫学教室あたりがいいのかな」
そんな風に気軽に相談できる間柄だった。
だから、まだ彼があのようにして亡くなったことを現実のものとして受け入れられない時期も長く続いた。その期間は、ふさぎ込んでしまっており、ユアーともロクに会えない状態で過ごさざるを得なかった。私がTくんを振り向かせられなかったから、彼は死を選んだのか? いや、あれは事故死だ。自分で火をつけて自殺したんじゃない。彼は酔っ払ったまま煙草を吸っており、火の不始末で寝ている間に焼け死んだか、煙を吸っての一酸化炭素中毒で死亡した。警察も、そのように詳しい経緯を説明してくれたではないか。実際、私があの晩に下宿を見た限りでは、部屋は雑然としていて宴会の後片付けもなされずに散らかった状態で布団が敷かれ、そばに灰皿と吸い殻が数本揉み消してあったと記憶している。だけど……。彼の部屋にいたのに、私は彼を助けることが出来なかった。私が間違えてあんなことをしなければ。あの失神騒動が起きなければ私の体に触れている内に正気に戻って……。私のしたことは過剰反応、行き過ぎた正当防衛なんだろうか? 今思い返してみても、当時の私の頭の中はというと、自分を責めたり相手を思いやったりの繰り返しの毎日だった。
彼の葬式には出た。斎場では涙があふれてフラフラになり、喪服を着たユアーに抱えられながら、どうにか焼香をした。ご遺族の方々にどんな顔をしてよいか分からず、うつむいたままで頭を下げて自分の席に着いた。ごめんなさいと言えばよかった。何度も後悔した。Tくんが死亡した日から二、三週間は大学を休み、家に閉じ籠もった。自分が塞いでいても彼がまた私らの前に姿を現すことはないが、それを分かった上で、なおやるせない気持ちでいっぱいで生きる気力が削がれていた。何もかもが手につかなかった。ユアーからの慰めの言葉を電話の受話器越しに聞いたが、届いた声は左の耳から右の耳へと抜けて行くばかりだった。手紙も友だち数人から届いた。その行為自体には、ありがとうと心の中で手を合わせた。肝心の励ましの内容は、やはりすぐにどこかに消えていった。病院に行ったらと見かねて言う人もいたが、なんとか生活できる状態を取り戻しつつあった頃でもあり、それを実行に移すことはなかった。
相変わらずの元気のない姿でありながら、顔を洗い薄化粧を施して、また大学に通える日が訪れた。三週間ぐらいたったころか。前日の晩、母から電話があった。あれこれと話をして、私が大学に行くと約束すると、母はこう言った。
「明るめの服を着なさいよ。着ると心まで明るくなるわ」
娘を思う励ましの言葉だった。その言葉に希望が湧いた。かけてくれた言葉に親としての愛情や年長者の教訓が滲み出ていた。もう一つの言葉にも、沈んだ私の顔を上げさせてくれて思わず嬉しくなった。「暗い気持ちのときでも人に悟られず、明るく振る舞うことが世間様への礼儀だよ」というその時代の常識がそれだった。
さて、大学に行くと研究室の手配は終わっていて、事故の前に提出した希望申込み通り竹村研究室に決まっていた。とりあえず研究室を訪ね、先生や先輩、仲間に挨拶をした。
「江畑千鶴といいます。一年間お願いします」
いろいろと自己紹介を聞いたが、自分のことで精一杯でほとんど記憶に残らなかった。少しずつマイペースでやれよ。そういう言葉だけが耳に残った気がする。そうした紹介や挨拶が済むと、みんなで食べようと昼食に誘われた。明るい陽射しのカフェテリアで数名が長いテーブルを囲んだ。私は先輩のまねをして定食を頼んだ。先輩たちの談笑が始まりそれに耳を傾けながら、肉や野菜を箸で口に運び、どうにか食事を喉に通した。まだ、個々の研究内容や竹村教授らの専門分野は皆目理解できていなかったし、ほとんど把握もしていなかった。が、卒業研究でお世話になるからして、周囲に迷惑を掛けることだけはしないようにしようと思った。いや、もう最初から充分に厄介をかけているのは明白なんだけれど。
さて、環境の変化に慣れてきたのは六月の終わり頃だっただろうか。研究室の同じ部屋に、藍澤さくらという女子がいて、その子に誘われて大学近くの喫茶店に入った。「ロメロ」という名の喫茶店に入るのは私には初めてだった。さくらはズケズケと奥に入っていき、店内をキョロキョロする私を手招きして奥のテーブルソファに座ると、テーブルに立ててあるメニューをつかむや私に渡して、こう言った。
「ロメロっておかしな名前でしょ。先輩方は、『メロメロ』とかって呼んでんだよ」
顔をクシャクシャにしてゲラゲラ笑う快活なさくらは、手を叩いてまだ思いだし笑いを続けている。私も少しはにかんだ。
「あ、笑ったね。そう、その元気」
さくらはささいな私の変化を喜んだ。私もその意味を悟った。
さくらは、その後もテレビや映画の話から自分の研究内容までを詳細に語ってくれた。私を励ますために誘ってくれたのか。そう思って、オーダーして運ばれたミックスジュースを飲んでは相づちを打っていた私だった。
数週間が過ぎた。ロメロにさくらといたときだった。
「そろそろ、チヅルも研究テーマを決めないとね」
さくらの言葉に焦りを感じて強ばった顔をしたからか、彼女は続けて、「犬飼先生は親切だよ」と付け足してにっこり笑った。そして、注文したケーキセットのチョコレートケーキをフォークで崩しながらパクついた。
その笑顔つきの助言に私は安心した。その言葉を信じた。とにかく自分の判断はまだまだ未熟だから。
研究室に戻った私は、犬飼助教授と書かれた白いプレートが貼られたドアの前に立つと、指を折り曲げて二度ノックした。
「犬飼先生、失礼します」
先生が電話で喋り終わるまで待ち続けること数分後にようやく一声を発した。
「あら、江畑さんね。待ってたわよ。そろそろ来る頃かなと」
「え? そうなんですか」
「いえ。竹村先生の弟子は、もう一杯よ。残ってるのは私の所だけ。まあ、掛けなさい」
黒髪をお団子にまとめた先生は手を広げて歓迎した。まるでジュディ・オングのように白衣を広げ、そばのソファを示した。少しその自己妄想で吹き出しながら、アイボリーのソファに腰を下ろした私は部屋を見回した。書棚には難しそうな題名を冠した薬学の本が並び、幾冊もの分厚い論文集が重そうに鎮座していた。まもなく秘書の方が日本茶を運んできた。それを啜り、助教授が考えている研究テーマの解説を一時間ほど拝聴しただろうか。ようやく終わったので頭を下げて助教授の部屋をあとにし、自分の部屋に戻って深呼吸をした。やった。研究テーマをもらえた。そして、あとはそれについて理解を進めていけば研究を行える。安心した私は鞄を開けてノートを取り出し犬飼助教授がさきほど解説された内容を頭の中で思い出しながら、話の要点をいくつかノートに書き込んでいった。それを読み返すうちに、今度は新たな疑問点が沸いてきた。幾つかの専門用語は知らなかったし、他の研究事例との関連性が自分の考えで合っているのかを誰かに聞いてみたくなった。そこで談話室に行くと、コーヒーを飲んでくつろいでいる講師の江藤先生がいた。絶好の質問相手とみるや、私は果敢にも自己紹介をして、今年一年間研究室でお世話になるのと、思い付いた疑問点を尋ねてみた。
「私は『メチシリン耐性ブドウ球菌へ投与する抗生物質の感受性試験』を卒論でやるんですけど、ブドウ球菌とはなんですか」
「ああ、それね。ブドウ球菌ていうのはブドウの房のように連なった細菌で、黄色ブドウ球菌は特に毒性が強くて抗生物質が効かないのよ」
「分かりました。これから勉強します。ありがとうございます」
江藤智美先生に礼を述べて彼女を見送ると、私は椅子に腰掛けた。談話室に置かれたテーブルに自分のノートを置いて、疑問に対する回答を忘れぬように赤色のボールペンで書き足した。これで具体的な実験のイメージを固定させた私は少し遅くまで研究室に残り、竹村先生や犬飼先生が発表した論文、研究室の先輩たちが過去に行った実験の足跡をたどってみた。どれも非の打ち所のないようなしっかりとした科学論文に感じられた。
翌日の放課後、さくらに昨日の礼が言いたくてロメロにまた立ち寄ってみた。奥のテーブルで仲間と談笑していたさくらをみつけると、空いている椅子に座り、話に割って入った。
「昨日はありがとうね。犬飼先生ったら、素敵な方ね。私、あこがれちゃうわ。研究の意義や背景をきちんと説明してくださるのよ」
「あら、そう。あたしさ。犬飼っていう名前が好きでね。いぬをかう、ペット好きみたいで」
「なによ、それ。ただのダジャレじゃない。そんなので犬飼先生を薦めたわけ?」
「え? まあ、女の先生で気が合うならよかったじゃん。結果オーライ」
あきれ顔の私は、さくらにまんまとかつがれたが、残りものには福と内心ではほくそ笑んでいた。Tくんの他界で低空飛行だったから、ふんわり吹いた上昇気流で少しは高く飛べそうな気になってきた。なにしろ卒業まではまだ一年という時間が残っている。気落ちすることはたびたびあるだろうが、最後の砦である卒業研究の単位を修めねば先が見えてこない。
七月に入ると、研究室に泊まり込むことが多くなった。男子禁制の女性仮眠室があることもそのときに知った。夜の一時を回ると、自家用車で帰宅する江藤先生の講師室に三台のパイプベッドが持ち込まれて、最低三名は仮眠できる即席の女子キャンプ場がこしらえられる。部屋の扉には、江藤講師のプレートを隠すように、「ただいま乙女が仮眠中。男子禁制」の吊り看板が掲げられるのだった。
また、夜十時を回り、徹夜組が出そうなときは、たまに犬飼先生や江藤先生が気を回されて、菓子の差し入れなどをして頂くこともある。プリンだったり、マドレーヌだったりがそれだ。その意味でも、聖マドレーヌ薬科大学というのはそこから来ているのか? それは違うだろうが、なにせちゃんと差し入れは人数分以上はある。そのときは死ぬほど年上の女性が神々しい女神のような、菩薩のような方たちに見える気がした。しかし、差し入れで余った分の一個、二個を巡ってじゃんけんバトルが起きることもあった。その意地汚い争いも場数を踏めば、冷蔵庫に入れておいて、翌朝来られた先生か男子に残しておこうという麗しき結論に落ち着いた。
さて、肝心の研究内容はというと、メチシリンという抗生物質の勉強から始めて、黄色ブドウ球菌に関するさまざまな論文を読みあさった。アメリカ発祥のテーマで学者の研究事例が多く、英語で書かれた論文を学内の図書館から取り寄せたり、先生から論文のコピーを頂いたりした。が、なにせ英文のため、翻訳に苦労した。そこは私の腕の見せ所で、色々な同級生やら先輩やらに拝み倒して、分からぬ箇所を教えてもらった。専門用語は数をこなせばだいたい分かるが、ちょっとしたニュアンスの言葉、米国流の考え方など、科学のスタンダードという台上に載らない単語にはずいぶんと悩まされた。
暑くて体から湯気が上るような八月の時期から、メチシリン耐性を持ったブドウ球菌を培養してそれを打ち負かす抗生物質を一つひとつ調べ上げ、試験を行っていった。もちろん、自分一人で抗生物質を一から作るのではない。さまざまな過去の事例を参考にして製薬メーカーが開発中のもの、国立感染研究所が作り上げた抗生物質を特別に借りて、分けてもらったものを用いて感受性試験を行い、耐性を持たぬような抗生物質を見つけるのが今回の研究目的だった。それは犬飼先生からレクチャー済みであり、変わることはない。また、共同研究者として都心医大の桐村白銅さん、株式会社ライバン製薬研究員の井ノ月亘氏も加わって三名で研究実験を行った。主たる実験者は私と桐村さんだったが、感受性ディスクを用いるディスク拡散法の難しいところなどはベテラン研究員である井ノ月氏の力を借りることもあった。簡単に書いたが、菌の冷蔵室や実験室での温度・品質管理、菌の培養、阻止円の計測や判定などに神経がすり減った。途中スタミナ補給にケーキ四つを頬張ることもあったが、それでも持たぬくらいの疲れと緊張に襲われるのだ。若さと体力勝負の夏と秋が一日いちにちとカレンダーの日付をめくるように過ぎていった。国内での類似研究例がまだまだ少なく、某製薬会社の研究所に何度も足を運んでは結果を見せて、研究員の方々に助言をもらったり、社の研究風景を見学させてもらったりと本当にお世話になった。犬飼先生までが、
「エバタ製薬さん。お加減はいかが?」
と半分からかいながら声を掛けて下さった。
その研究における権威のアレックス=モーガン博士が秋に来日したとき、食事会が都内のホテルで開かれた。なんと私も招かれたのだ。いや、犬飼先生がモーガン博士のナビゲーターを務めていた関係で、その付き人として鞄を持ったり、タクシーやホテルの手配をする役が私にも回ってきた。事前に秘書の方に大半を予約してもらったとはいえ、当日の手配などは私が代行したから、少し手に汗を握った。もちろん、モーガン氏には遠く及ばぬものの、博士と同じテーマを研究する学生として犬飼先生が特別な配慮で選んで下さったのだろう。今の研究の疑問点などは聞ける立場でないと充分承知の上で、研究の方向性についてモーガン博士に聞いてみたいと内心思っていた。その機会をうかがっていると、食事会後に博士が周囲と談笑していたので、通訳さんを押しのけて、拙い英語で突撃取材を敢行した。
「モーガンさん。メチシリン耐性ブドウ球菌に対する抗生物質についてなにか考えはお持ちですか」
「ああ、君がその研究をしているのかい? いい質問だ。それはエンドレスだ」
とだけ彼は言った。最後の単語だけは、その後の研究中で何回も頭の中で再生される言葉になった。
エンドレス。なんと、実に残酷な! ――。
博士の考えでは、いくら抗生物質を特定して投与しても終わりがない、つまり、必ずブドウ球菌の方がその抗生物質に耐性を持ち、いずれそれは効かなくなる、ということだ。要は、私の研究も長い目で見れば、一時的な結果を示すデータ、その場しのぎの抗生物質の発見にしかならない。私は医者でも製薬会社の研究員でもない。お偉いさん方が見つけた薬を、患者に投薬できるか、有効と言えるかのための治験という小さな小さな手伝いを短期間しただけなのだ。そう自分に言い聞かせた。だって、アメリカの権威ですら「エンドレス」のお手上げ状態なのだ。一介の女子学生が立ち向かったところでびくともしないのは分かり切っている。私は、ぶ厚いベルリンの壁に小さな蟻がたかってその顎で小穴をいじましく掘るさまを頭に思い浮かべ、苦笑した。
後日、江藤先生と研究の意義や結果に対する考察などについて議論することがあった際、彼女は面白いことを言った。
「江畑さん。人類の敵と思われている細菌だけどね。菌をやっつけるばかりが薬じゃない。リスクを低くして悪玉菌と共生することもできるの。童話の『北風と太陽』にあるでしょ。強さや攻撃じゃなく、自然と敵の働きを変えたり鈍らせたりすることも考えるべきなの。抗生物質や除菌で善玉菌までも殺しちゃうと、患者はもっともっと重篤になるわ。痛めつけない感染防御もあるわけ」
「へえ。先生、おもしろいです。私も小さい頃、いじめっ子にいじめられまして。最後は一緒に遊ぶようになったらいじめられなくなりました。似たことですかね」
「ふふ。まあ、そんなもんね。ブドウ球菌なんて平常時でも健康な体内にいっぱい存在しているわけだから。悪い子もいい子も、仲良くしないとね」
「はあ」
私は話がすり替わりそうで、それ以上なにかを言うのをやめた。この世の生き方にも通ずるような割り切り方が、自然界でも人の世でも求められると解釈した。
また、竹村先生と廊下ですれ違ったときには、こんなことを言われたことがある。
「江畑さん。真理の扉というのはね。権威ある人間に開かれるものでなく、真理を求めようと努力を重ねる求道者に開かれるのですよ」
「はい、先生」
「だから、江畑さんも研究に疑問が湧くたびに調べ、努力を怠らずに進んで下さい」
こういうことをサラッと言えるのだ。竹村先生は。
昭和六十一年二月、ようやく、「メチシリン耐性ブドウ球菌へ投与する抗生物質の感受性試験とその検証について」なる卒業研究が完成し、学部の講堂で研究発表を行った。
その研究は引き続き行われ、社会的にも広く認知される大変重要な研究テーマとなった。学生時分は、黄色ブドウ球菌が食中毒や感染症で人々をこれほどに悩ますとは正直思っていなかった。それは薬剤師になった今でも、次々に抗生物質へ耐性菌を作り出すブドウ球菌が恐ろしい存在であることを認めざるを得ない反面、抗生物質の正しい使用量、使うタイミング、人間が備える免疫力を維持する健康作りの大切さに改めて気付かされた。そして、それも含めた薬への正しい理解と啓発のために、今日も薬局に立ち、患者に薬を届ける仕事をする私がいる。そう思って働く毎日だった。
さて、卒業後は、薬剤師国家試験に備えて浪人と社会人を兼ねた生活が始まった。聖マドレーヌ薬科大学で事務員として採用され、学生課で働いた。事務作業の毎日ではあったが、研究生活とは正反対で、規則正しい毎日がスタートした。
下宿を朝八時に出て大学に向かい、到着して十時から受付業務を始める。それまでは、資料のコピーや伝達事項の確認、学生の問い合わせへの回答作成などのデスクワークに追われる。帰宅したら夕飯を済ませ、薬学の復習と試験対策の勉強をした。
ついこの前までキャンパスの主役だった私もそのときは学生を管理する側になり、学生らが安心して過ごせるように手伝いをしている。そういう意識を持って仕事をこなしていた。
ある日、大学入試のデータをパソコンに入力する作業を二時間ほどやっていたときだった。女性職員、渡辺さんが歩いて私の横を通り過ぎるとき、私のパソコンを覗き込んだ。
なにかしら。まずいことをしでかしたか――。
隣で立ちつくす渡辺さんを振り返る不安顔の私に、「あなたって一途ね」と言う先輩は、長い髪を束ね、長い睫毛をパチパチと上げ下げして瞬きをした。私は仕事の手を止めた。「そうですか」
「ええ。まるでよその国の人みたい」
「え?」
私は、先輩の唐突な言葉に眼鏡がずり落ちそうになった。
「そういうタイプもいる。自分なりの哲学があるんだよね?」
私と先輩のやり取りに耳を傾けていた学生課長は、大きな腹を揺すりながら近づき、年上らしい物言いで宥めてくれた。
「あ。それ……」
「ん? どうかしたか?」
「いえ。同じようなことを、昔いわれた気がして」
まだ付き合う前のユアーだった。あれはあながち口から出任せではなかったのか。
あとで疑問が湧いた。なんで一途なの? 私が脇目もふらずにパソコンに向かっているように見えたのかしら。少しして何となく分かった。私がここに来た理由を課長から聞いたのだろう。学業が疎かになってもくじけなかった事情、薬剤師になりたい理由ぐらいは耳に挟んだのかな。それともバニベリのことまでが筒抜けだったりして。昼の休憩時、隣のソファーに腰を降ろし、テレビを観て屈託なく笑う渡辺さんの横顔に、社会人の温かな眼差しを発見したようで嬉しい気分になった。
学生課の受付に立つとさまざまな学生がやって来る。奇抜な格好の男子、お嬢様のような女子、リクルートスーツを着た就職活動の学生などだ。一年目の私は業務に不慣れなところもあり、用件を手短に頭でまとめて整理した上で、渡辺さんなど後ろに控える職員にすぐ繋げるよう指示されていた。私の窓口は三番だ。ほとんどの対応が追加試験の日程確認や証明書などに関する告知、手続きなどだったが、月や年度を言い間違えて学生から叱られることもあった。
それでも数ヶ月もすればデスクワークや受付業務に慣れ、平常通りの仕事に追われる毎日が単調に過ぎていった。
そうした職場において、ある事実をベースに、渡辺さんと課長との間に大人の関係があるのに気付いた。渡辺さんは父を早くに亡くしている。あの課長に父親像を重ね、異性への信頼や不足していた愛情を求めた結果、年の離れた夫婦のように振る舞い、そうした関係すらも受け入れることが可能だったのではないか。そう推測した。
ある事実とは幾つかある。まず、課長が出張のときには必ず渡辺さんが休みを取っていた。彼女が課長の独身アパートで留守番をしていたのか。現に、その近くで夕飯の買い物をする姿が目撃されている。次に、課長が外に飲みに行く日は必ず同席し、同じタクシーに乗り込んで帰る。これはすぐに怪しいと噂が立った。
本人たちは、「家が近くで同方面だ。不適切でない」と言っていたが、仲良さげに車窓の内側で笑い合う二人の様子は、単なる上司と部下、酔い客同士ではないのかもと思わせる雰囲気があった。
これらの事実から、私は渡辺さんと課長とが内縁関係にあると結論づけた。周囲もそのように陰口を叩いていた。この学生課で働く関係者の誰もが知っていて、職務上誰も口に出せない秘密。そうした大人の事情を遠ざけたい気持ちと、年がいけば理解してしまう自分の姿が混在し、そのギャップに少し戸惑いと怯えを感じる私だった。
渡辺さんは私の身の上話を最初に相談した人で、世間をよく知る姐御的な存在だった。仕事が忙しい時期や給料日のあとなどには、私を連れて赤坂や六本木などをよく飲み歩いた。そういうときは金払いもよく、彼女が年上の分、私より多めに払ってくれた。いつもJCBのカードを赤い財布から取り出して支払いをする姿を、私は何度も見かけた。ふだんはお堅いイメージである大学職員なのに、いざ遊ぶときは色気の漂う大人の女に変身していた。美貌もさることながら、艶やかな化粧、長い髪、グラマーなボディと脚線美で、すれ違う男性を虜にしてしまうほど、夜の街に溶け込む渡辺さんだった。他にも、何度か合コンに呼んでもらったし、彼女の知り合いのパーティーに紛れ込ませてもらったこともあった。そのパーティーでトイレに立った私は、会場に戻るときか、ハンカチを落としたらしく、そのまま気付かずに帰宅した。どこかでなくしたものと思ってやり過ごしていたら、一週間後、事務員の女子更衣室で着替えをしているとき、渡辺さんが近寄ってきて、「パーティーで落としたわね。ハイ」ってアイロンがけした私のハンカチを彼女から渡された。それを受け取ったときすごくハンカチが柔らかく、彼女がつける香水の匂いが染みていて、ポッと赤くなってしまった。もしハンカチを落としたのが私でなく渡辺さんだとしたら、きっと素敵なシンデレラが誕生していたのかも。そんな妄想も浮かんできて、真面目な顔をして上司に昨日の業務報告をしている彼女の姿を見ると、思わず口元を押さえてしまったものだった。そんな時に限ってつまらない取り違えをしでかし、上司に見つかって大目玉を食らう。一年目の私は気の緩みからそのように些細な失敗を犯してしまうが、その日はなぜか六年目の渡辺さんさえも入力ミスが多発してしまったようで、あとで上司に怒られていた。
「でもさ。怒る課長と怒られる渡辺さんができちゃってるんだから、あとで埋め合わせるのはいとも簡単よね」
帰りの更衣室で、他の女子職員同士がキャッキャといやらしい話を膨らませていた。
昼の顔と夜の顔、事務員部下と内縁の妻を使い分ける人もいれば、公私とも裏表なく明朗快活な態度で働く人もいた。また、子育て中ながら、渡辺さんと同じくらい仕事のできる主婦事務員の方も数名いたし、独身で四六時中結婚したいと言いまくる目がハートの女性事務員もいた。
そんな中、人生に早くもつまずいた私という存在は本当にヒヨッ子であり、早く仕事や世間に慣れ、上手に世渡りできたらいいな、と思って働いた。
事務一年目の私は任される仕事の重さも責任も小さく、たいして学生課には貢献できていなかったと思う。そんな私を置いていて下さった課長や女性職員の皆には、本当に世話になったし感謝している。決して私が薬剤師国家試験を受けなかったことや棚橋事件に巻き込まれたことなどを口にする人などおらず、短い間ではあったが、気持ちよく仕事をさせてもらった。腰掛けのつもりで働いたわけではないし、ここで社会勉強をできたこと、仕事の基本、決まり、重要性、厳しさなどを学んだこと、人間として尊敬できる先輩方に恵まれたことを嬉しく思った。
さて、薬剤師国家試験は初めての挑戦となり、四年生の時に開講する国試の対策講座を特別措置で受講させてもらった。苦手な箇所や間違いやすい盲点は反復して解いた。また、受験生が確実に正解する問題は落とさぬように、過去問を定期的に解くことも忘れず、授業や参考書で得た知識が頭から抜け落ちないように努力を重ねた。社会人になっても浪人生の身分であり、学内で毎年おこなわれる直前講習会には、OGながらも参加の許可を頂き、出席できた。
冬場になると気分も沈みがちになるので、就職した友人らに頼み込んで、方々を案内してもらったり、遊びに付き合ってもらった。そうすることで、息抜きとリフレッシュをして体を休ませることも欠かさなかった。むしろ、その為に勉強しているような感じもした。
また、夜型生活ではなかったものの、早朝に起きられるように早寝をし、ちゃんと毎朝の食事を摂ることも心掛けた。半分眠気をかみ殺して仕事をすることもあった事務と違い、試験直前は受験生との二重生活で、試験時間に合わせてすっきりした気分で試験当日に臨めるように整えた。早朝型に慣れた上で、夜の誘惑も封印し断ち切ったお陰で、生活リズムは安定した。
そして本番当日の朝を迎えた。
三月の空はどんよりと薄曇りで、冷たい風を吹かせていた。沈丁花の花が咲き、大学入試の受験生と思われる一群が地下鉄に混じっている。喋りながら余裕をかます者あれば、参考書を読み耽って最後のふんどしを締め直す者もいる。気合を入れた顔つきで念を籠め、有名神社のお守り袋を静かに握りしめる者もいた。私は五年前に経験したあの若き日が蘇った。
大学入試は広々とした講堂の静粛な空気の中で行われた。シャープペンシルを走らせて一所懸命に問題を解答する。大きなミスがないことを確認する。試験官が筆記用具を置いて下さいと厳かに号令をかけ、試験用紙が集められる。すると蜘蛛の子を散らすように若者らはその場を立ち去り、教室は閑散とする。肩の荷が下りた私は友だちとその日に放送されるテレビ番組の話をして帰宅した。そして、週末を待たずに次の日に遊園地へ行き、キャアキャアと友人と騒いだ。その友人の一人が他大学に推薦枠で入学が決定していた疋野和美で、彼女らと観覧車に乗った。私たちの組は先に乗り込んだ。てっぺんに来ると、下や遠くを見てははしゃぎながら写真を撮った。富士山がかすかに見えたのに、あとでネガを現像したらなんにも写ってなかった。でも、和美は観覧車の中で、意気揚々と語った。
「めったに見られない富士山が見えたんだよ、すごいじゃん。私たち、天下を取れる。日本一になれるよ」
興奮気味に話す彼女は小さな部屋で立ち上がり、小躍りして喜んだ。ゴンドラは激しくその躯体を揺らし出した。危ない。注意しなきゃ。
「分かるよ、その気持ち。だけどさ。揺らし過ぎだって。まあ、落ち着きなさいって」
私は和美を宥め、両手で彼女の肩を押さえて力尽くでシートに座らせた。
ああ。あの頃は、まだまだ子どもだったな――。
現実に戻った私は、資格を取得しても遊園地のようなご褒美がないことにガッカリした。遊んでいられるのももうおしまい。遊んでいい季節は過ぎ去り、薬剤師として一日も早く世に出て働かねばならない。
そんな風に、試験や合格うんぬんより待ち受けている仕事や職場のことばかりが頭をよぎり、そうした先のことを考えながら電車に揺られた。そして、試験会場に到着した。いざ、試験が始まると問題が違った風に見えた。もちろん過去の出題傾向と大きく変わってはいない。ここ数年の出題とさして変わらないはずなのに、なんだか簡単に見える。問題が頭にどんどん入り、これならここ、あれならそれと手がスイスイと動く。不思議なことに、犬飼助教授が藍澤さくらの前で熱血指導する家庭教師のようなシーンが頭に浮かんだ。正解を間違えると、「こらこら、さくら。だめじゃんか」と叫ぶ魂が消しゴムを持たせ、間違った番号を消し去り、持ち替えた鉛筆できちんと正しい番号を塗り潰していく。研究室の人間関係が空想の物語となり、解答用紙の上で指人形となってちょこまか動く寸劇を演じている気がした。それほど心はリラックスしていたのだろう。実際、試験会場を後にすると、正解を確かめるよりもどこが間違えたかを覚えていて、そこを参考書などで調べるほどに余裕があった。つまりは、よく出来ていたのだろう。
もともと、薬剤師国家試験というのは合格率が高い部類に属し、一度目にして私は合格通知を受け取ることができた。こうして薬剤師の資格取得手続きを経て薬剤師となったのは四月だった。四月に学生課に届けを済ませ、退職願いを提出した。
桜はすでに散り、雨風に吹かれて道端の隅に積もっている。ゆるやかな小川に流れるものは河口へと旅をし、旅を嫌がるものは小さな岩場に身を寄せ合って最後の別れを惜しんでいるかのようだった。ピンクの塊の群れは、それがまだ四月であることを告げていた。
春の空気はますますのどかになるが、街の雰囲気は入れ替わっていく。行き交う人々は新年度の学業や仕事に精を出し、新旧世代が活発に動き回っている。
これから私を薬剤師として受け入れてくれる求人を探さねばならないが、昨年内定を受け取っていたT病院に連絡を入れ、行ってみたら、こちらの身の上話を聞いた上で簡単に内定通知を出してくれた。いわゆる第二新卒の扱いだったのだろうが、あまりにもあっけなく就職が決まってしまい、拍子抜けした顔で実家に帰宅した。母にその報告を済ませると、私は茶の間の畳にヘナヘナと座り込んだ。別に腰が抜けたわけでもなかったが、無駄に力を入れる必要がどこにもなかった。こんなにすんなりと就職が決まる様は、エスカレーターが来てスーッと上へ登っていく感覚とでも言えばよいのだろうか。
その晩、実家に泊まり、家族で特上寿司を食べた。ささやかな宴会をしてもらい、ぐっすり眠った。
翌日から下宿の整理に追われた。引っ越しをする。むろん、学生と事務員として通った聖マドレーヌ大学からT病院へと日中働く場所が移動するだけだ。が、あれこれ考えて親を適当な理屈で説得した。第一、乗車する路線が異なってくるし、気分も変えたかった。娘の固い引っ越しの決意に、親は白旗を上げた。
自由の身になると、それなりに悩みもある。何を基準に選ぶか。それは正直迷った。薬剤師は長時間勤務と聞いている。白衣が頻繁に汚れたらどうしよう。遅い時間帯でも開いているクリーニング店が自宅の近くにある方がいいだろう。いや、それも大切だが、食事の問題が! 朝晩にすぐ食べ物を買い求めることができるスーパーやパン屋、コンビニがないとダメ。いろいろ考え出すとしんどくなり、けっきょく先輩に電話して助け船を出してもらった。
「何を最優先するかよ。それはあなたが決めなさいね。どのエリアに住むと満足感が大きいかってとこかしら」
先輩の言葉を電話口で必死にメモした。
少し家賃が高くても、治安や交通、買い物に便利な街を一つに絞り込み、そこから近い大きめの不動産会社の支店に駆け込んだ。
四月というのは、学生らは既に住み始めており、転勤族のサラリーマンも然りだ。この時期に空いてる物件は、売れ残ったもの、高いもの、人気がないもの、なにかのいわくつきのもの。そこで、不動産屋である程度の譲歩をしながらも、こちらの職業をアピールした。薬剤師という職業の雇用的な安定面、収入面はもちろんのこと、医者と結婚したらまたここに来る、とか色々言った。医者のくだりでは、とびきり高いマンションがいいとか、一戸建てなら資産家の多い住宅街を照会してもらいますからと先のことまで話を大きく膨らませた。話だけでなく、私の癖で小鼻が膨らんでいたのかもしれない。
よく喋る人だと横柄な口を利いていた販売員も、医者とか玉の輿というフレーズに食いついたのか、少し身を乗り出し、重い腰を上げると、分厚い方のファイルを棚から取り出してきた。パラパラと手早くめくっては早口で要点だけを説明してくれた。私もさすがにその金額のゼロの多さに目が飛び出そうになり、あくまで仮定の話だからと恐縮してそちらの線を引っ込めさせた。
いざ、物件を見て決めたいと申し出て外に出ると、狭い車に乗り込んだ。少しして、変な空気が流れた。それでも私は、果敢にお色気作戦に出た。相手より優位に立ちたかった。本気のところを見せたかっただけだが。眼鏡をかけた中年の販売員が雑談しながら運転し、だんだん話すことがなくなると、煙草に火をつけてあげたり、ボタンをひとつ外して胸元をチラチラ見えるように体勢を変えてみたりもした。そうした努力の甲斐もあってか、だんだんいい物件が巡ってきて、ここらでいいかなと思ったので、「それにしましょう」と胸を叩いた。本当は、これ以上時刻が遅くなるとその中年男に危険な時間帯になる可能性が否定できなかった。でも、最後は真っ暗になり、かろうじて形の残る月夜の中、引っ越し前の下宿に送ってもらった。きょう知り合った男の車から降りるのは気が引けた。
翌日に、実印を持って再び不動産会社に出向き、契約書にサインをした。難しい契約事項にも目を通したが、大人の決め事は二十歳そこらの人間が理解するには難しすぎた。判子のついた契約書を実家に郵送し、連帯保証人の欄にサインと印鑑をもらい、新しい自宅が誕生した。メゾン・シナモンクレープ。そういう名前だった。これも美味しそうな名前だ。大学もそうだったし縁があるようだ。シナモンクレープに住み続けること十数年、そこの借り主の元締めになってしまうとは思っても見なかった。いや正確に言うと、「このアパートを潰します。頼む、出て行っておくれ」とオーナーに泣きつかれた。こりゃしょうがないなと思って、出る踏ん切りをつけた。気が付いたら干支が一周以上していた。それからも、あちらのマンション、こちらのマンションと渡り歩き、それぞれで長期ステイを繰り返す私だった。賃貸の広告にやたらと詳しくなり、地下鉄別の引っ越し攻略法も持論を有し、年下にはアドバイザーとして解説してあげた。「やどかりさん」という変な渾名を頂戴するようにもなった。それを聞いたときは変に納得してしまった。
薬剤師として都内近郊で働きだした私は、規模が大きいT病院内の薬局カウンターで働き始めた。
東京に住んで長く暮らしたが、学生時代や事務員時代と違い、病院という職場は拘束時間が長い。いったん病院建物に入り、作業衣に着替えると、建物から抜け出すことはタブー視された。目立つし、患者に気付かれたり、通行人にジロジロと見られてしまう。そういう規則はなかったが、会社の制服のような事務員は別として、明らかに専門系の服を着た医療関係者は、服を脱がないと出づらかったのは事実だ。緊急時以外は篭の中の鳥で、出勤から退勤まで金を下ろすのもトイレやちょっとした買い物もすべて院内で済ませなければならなかった。それも長くかかると、あとでビシビシとキツい小言を言われるからうかうかできない。つまり、それだけ目の前にある業務に集中できるし、顔を合わせる人間も自ずと限られてくるというわけだ。数人のドクター、検査技師、看護師、同僚の薬剤師、製薬会社の営業マンや納入担当など、いつも同じ顔ぶれが挨拶してくる。顔ぶれで何曜日とか何日だったとかを再確認していたぐらいだ。だから、担当が交代すると、いろいろな噂や憶測が飛び交った。いや、私が流す側に回ったこともあったかもしれない。
あのドクター、○○病院へ転勤するらしいのよ。へえ。すごいじゃない。栄転よ、栄転。さすがにT病院のホープと言われただけのことはあるわね。それよか、○○製薬の担当がSさんからIさんに交代したでしょ。そうそう。Iさんて子連れのおじさんらしいわよ。えー、本当? そうなのよ。昼に働いていて子どもはどうするのよ。そりゃあ、出勤前に保育園に預けるでしょうが。それでさ。帰りに迎えに行って、スーパーに寄って惣菜かなんかを買ってさ。家で親子でご飯食べてんじゃないの。わあ、侘しそう。でしょ? いい再婚相手が早く見つかるといいわね。あなた、そういう気はないの? え? 私? Iさんはちょっと……。子持ちもなしね。いきなりは無理よ。そうか。そうよねえ。あなたはまだ半人前だし、料理もしないんでしょ? いえ、いえ。休みの日にはちゃんと作りますよ。肉じゃがとかおでんとか。あら、おでんは料理のうちに入らないわよ。アハハ。先輩、ひどいです。ひどくない! いいこと? こどもに食べさせるってのは、オムライス、グラタン、ハンバーグ。これくらいササッと作れなきゃ泣かれるわよ、子どもに。それぐらい出来るようになってから料理をするって口を利くのよ。……。担当が代わるだけで、話の矛先が自分に向けられたり、だれそれの悪口だの、学歴や年収、異性関係、それはもう薬剤師と無関係の話が延々と続き、薬剤師長がストップをかけないと終わらない。長が席を外しているときなどはときに聞きたくない話まで聞かされての作業となり、どこまで続くのと言いたくなった。そうしたコアな人間模様にも終止符が打たれるときがやがてやってきた。病院内の薬局が外へ移される話が持ち上がったのだ。
さて、私の姉は地元埼玉の薬局で働いていたが、私は都内の仕事を探した。昼は埼玉県内で働き、夜に実家に帰るという生活を私が好まなかったからだ。姉はそうして結婚し、子育てでしばらく仕事を離れ、十二年後に復職し元の薬局でパートの薬剤師として働いている。そういう生き方もあるし、そっちの方がいいよ、と何人かには薦められた。が、棚橋くんの事故死もあり、それを引き摺ったままで自分の幸福などを考えてはいけないという贖罪の意識がまだまだ強く、都内で独身生活を送りながら日々の仕事に打ち込みたかった。実家に暮らして、親や姉夫婦に甘えていたらいつまでたっても自身の人間的な成長が見込めない。そう思っていた私だった。
T病院では優秀なドクターが多く、たくさんの薬を出し検査も多かった。いつも患者の処方箋を過去のものと見比べたり、他の科から出されている薬とこの処方箋の薬とが相互作用で悪影響が出ないか、薬価基準で調べたり、ドクターに聞いたりと、大病院ならではの忙しさがあった。薬はいっぱいあっても、患者は一人であり、健康になるためならと精一杯の気持ちで相手と接し、ひたすら奉仕の精神で身を粉にして働いた。大手製薬会社の社員も頻繁にT病院にきてはたくさんの薬とそれに関する情報をもってきた。もちろん、部外者には話せないマル秘事項もいっぱいあった。新薬開発の治験のときなど、複雑な手続きや検査手順、薬事規定などを確認する事務作業を手伝うときは、薬の安全性が保たれますようにと本当に神様に祈りたいぐらいの気持ちでことの成り行きを見守った。結構な数の優秀なスタッフが周囲にいて、緊張感に包まれながらの調剤作業や事務作業で一日が終わると、若いながらも疲労が溜まっていたと思う。
しかし、そんな仕事漬けの毎日に、ふって湧いたような恋愛事件が起きた。
ある日、病院の休日に出勤し残務整理をしていたら、白衣の影がツカツカと廊下を響かせてやって来る。休日出勤の当直医ね。
「あら、先生」
向こうで看護婦が呼び止める。しばらく音がせず薬の棚を確認していると、扉を開く音がしてスーッとドアが開いた。そこに、日頃見かける人が立っていた。
ドクター。白衣を着た若手の先生だ。胸元の名札には円城寺と書いてある。
彼は腕を後ろに組んでもじもじすると、両腕を前に出して振り上げ私の肩に降ろした。え? おっ。そんな小声を消したいと思うくらい、恥ずかしさが見えない霧のように私の体を包んだ。そして彼は言った。
「江畑さん、前から君が好きだった。そばにいていいかな」
私は痛かった。顔が突っ張ってきた。赤みが差したのは見なくても分かる。
「え? もう一回言って下さい」
手をスカートのポケットに突っ込み、汗ばんだ手はハンカチをぎゅっと握りしめている。そうしろと命じた意識も飛んで、頭の中は、告白以外受け付けていない。
「ああ。何度でも言おう。江畑さんが好きだよ」
「恥ずかしい……」
長らく連れ添う夫婦ですらも、そうした言葉が支えになるという。それで幾多の試練を乗り越えたか。どれだけ励みと支えになったか。叔母の話ではそうらしい。今、その甘い告白が私の身に起きている。神様、ありがとう。生きていて良かった。
ドクター円城寺は皮膚科の医師で、何度か声を掛けてもらっていた。ただ、誰に対しても分け隔てのない方で、自分を特別視しているなんて知らなかった。上の人にも下の事務員に対しても公平に接する態度に、以前から好感を抱いていたが、本当に私を見初めるなんて、と思った。
病院なんて大所帯で異動も多いし、あまたの医者が勤務している。三十人はいただろうか。その中で、円城寺ドクターは私を相手に選んだ。医者ならば、自分と同レベル、同クラス、知的ハイソな階級でしか知り合わない。そういう人としか釣り合わないものと思ってたから……。はっきり言って、舞い上がった。跳ねるようにステップを踏む自分を、暫くのあいだ抑えきれなかった。デートした場所は美術館や博物館、相撲の国技館、ホテルのラウンジなどだった。こう言っていいのか分からないが、大人が満足するところでないと嫌がる主義のようだった。若い割に意外と古風なろころがある。敬語に気をつけて話し掛ける私に、医者なら至って普通だよと彼は言う。澄まし顔で髪をいじる彼は、インテリと和風をミックスしてスマートさで割ったような感じがした。私のどこに惚れたのか、最後まで聞けずじまいだった。看護婦にも若くて綺麗なのもいるのにどうして私なんかに、と思う。
が、現実に円城寺さんを受け入れることはなく、外で会うばかりのデートを数回して、それ以上の進展はなかった。やはり、棚橋事件が尾を引いていたのだろう。思い切り自分の気持ちをぶつけることが叶わなかった。頭のいい彼は、私のふがいない態度に失望したらしく、残念だという趣旨の手紙を医局の封筒に入れ、薬局の未使用ファイルに忍ばせた。巡回が終わって薬局に戻り、未使用ファイルに気付いた私だったが、心の中ではドクターを引き留める勇気が友人を偲ぶ自責の念を上回らなかった。こうして恋は終わり、また仕事に追われる日々が始まっては終わり、一定の周期で進んでいった。
私が二十九のときにマリエールが結婚した。彼女はその二年前に起業し、会社を経営していた。それは聞いていた。実業家として忙しくしている時期だったのは分かっていて、こちらも遠慮して連絡は取ってなかった。大まかなことはジョーカーから伝え聞いていたが、恋愛の方は進展中か迷走中なのか、私になにも言ってくれなかった。そして、長らく連絡も取らず、急に結婚通知のはがきが郵便受けに挟まっていた。驚いた。そういう展開か。君島くんとは上手く行かなかったのか。バニベリに顔を出さなくなってから、二人のことはどうなっているのか気がかりではあったけれど。
そこに書かれてある差出人の名は、「星野万里江」となっていた。ほっしーの方とくっついたのか。同級生、薬局のボン、星野信吾。あの短い髪をしたスポーツマンのほっしーか。ということは、ほっしーは薬局の跡取りであり、女社長の旦那ということにもなる。マリエールは無難な選択をした。チャキチャキ兄ちゃんとスケバンのカップルか。実際、手紙には、短い言葉で、「卒業後、星野くんと縁があり、いいお付き合いを経てこうして人生の門出を迎えました。今後は、私の会社ともども公私にわたり、ご指導頂けたら幸いです」と綴られてあった。マリエールらしい。そう思うとあの当時を少し思い出し、感慨深かった。
その後、marie & cool というマリエールの会社は順調に業績を伸ばし、星野万里江という名前がたびたび雑誌などのメディアに登場した。その後は堅実に顧客の要望に応え、充分な財をなしたそうだ。星野くんも薬局をチェーン展開し、夫婦そろって仕事が盛んだった。
私の方は、病院薬局の時代が十年以上つづく中、転機が訪れた。医薬分業の黒船がきて、この病院でもそれを進めることになった。その計画では、T病院の三十メートル先に、小さな調剤薬局を作り、待ち時間を軽減させるというものだった。当然、私はその新薬局に行くことになった。
新しい職場、N薬局で勤め出すようになってからはドクターの所へ行くこともなくなり、処方箋に関する問合せのほとんどを電話で済ませるようになった。限られた少人数の薬剤師だけで行う作業となり、患者も遠方の方など他の駅前に出来た調剤薬局に行かれる人も増え、見慣れた顔も少なくなっていった。
職場の環境はと言うと、これが良好だった。幸いなことに職場の上司に恵まれて、長く勤めたい気持ちが芽生えた。裏を返せば、薬の種類と処方に熟達し、患者の顔一人ひとりを覚え尽くしたベテランは少数派で、結婚や育児を理由に辞めていく中堅薬剤師も多い中、この薬局で長期間にわたって働き続けることを内心は望んでいた。上司にも、そのような希望は出していた。もちろん、いったん育児で離職してから復職なさるパートの方も多数いらっしゃったが、遅い時間などに対応できる人材はかなり絞られてくる。この熟練さに縛られて、次に勤めた薬局においてもいい戦力として重宝がられた末、最後には薬剤師長に抜擢されることになる。
N薬局への転勤はT病院の仲間も連れての異動となったが、ドクターや一部の薬剤師とは別れることになった。異動が正式に決定した三月、T病院の年度末に行われる合同送別会の場では、ふだん真面目で折り目正しいドクターや看護婦がおかしな格好をしたり、酒の勢いで踊り歌い、派手に騒ぎまくる。退職して新しい病院などに異動なさる方もいるのに、それはそっちのけだ。おとなしい私はいつも圧倒されっぱなしだった。
私が送られる最後の送別会の二次会は行きつけのカラオケスナックで行われた。赤や紫のカクテル光線が飛び交う中、無礼講の宴たけなわとなり、酔った看護婦にしなだれかかられ、失恋話の聞き役に回っていた。その看護婦が最後に言ったのは、
「あのさ。マスカラつけてる美人の薬剤師さんはね。もてマスカラ。なんちゃって。アハ、アハハハハ」
だった。変な冗談を言われ、私は引きつり笑いをを浮かべながら、お酌をすませ、トイレに立った。トイレで病院関係者は誰もいないことを確かめ、あの黒タイツの看護婦の太股にぶっとい注射針を打ってやりたいわと毒づいて用を足した。
宴会場所に戻ると、なに食わぬ顔で、昨年のレコード大賞のカラオケを歌いきり、拍手喝采をあびて場を盛り上げた。
4 薬剤師編 ~最期の真実~
N薬局に移り、T病院の薬局時代とはだいぶ雰囲気が異なった。T病院にいた頃と比べると少人数での業務となり、任される仕事の裁量も増え責任も重くなり調べることも増えた。その分、薬剤師としての自覚が芽生えたと言えるのかもしれない。N薬局という店舗を構え、方々からいらっしゃる患者もいて、緊張感もあり、逆に馴染みの患者もできて親近感も湧いたりする。
そういう意味では、患者との距離もより近くなり、さまざまなことを見聞きする機会も増えていった。仕事のこと、生活のこと、家族や子どものことなど、薬を介してその人の周囲が見えてくると、患者に寄り添いたい人情が湧き、病気になったときの不安や将来の心配などの痛みが分かってきた。本当にこの薬であの患者を救えるのだろうか。いや、何とかして健康に戻して差し上げたい。まだ、あの患者は老け込むには若すぎる。あなたの経験を必要とする世代は、その気力と働きを欲してますよ。急ぐ必要はないから、元気になって世の中に戻って下さいね。家族も社会もそれを待っているんですよ。そんな風に何度も声にならない台詞をテレパシーのようなもので念じ、送り続けていた。単純に笑顔で笑いかけているだけに見えていたとしても。幼い子どもを連れた主婦などの後ろ姿を見送るときなど、苦労を思うと目元がウルウルして涙がこぼれそうなときもあった。また、患者側の立場からすれば、私という存在はどのように映っていたのか。安心感があるのか、話し掛けられたり、世間話を少ししてから帰られる方もいて、改めて社会人としての常識や良識が問われていたのかもしれない。独身のやどかり女でも、ニュースや新聞で情報を得ることはやめなかったし、Sというベテラン上司とのやり取りで、芸能や流行などへの目配りと総括の仕方を鍛えてもらった。言い過ぎたら怒られたりもしたが。日々の新薬などへの対処より、年相応の女性として見られること、その道のプロであること、薬から健康まで長く見ている伴走者であることなど、いろいろな場面での演技が要求され、それは舞台やドラマで演技をする女優のような気がしていた。いや、そこまで言うと美化しすぎで少し恥ずかしくなる。
N薬局の時分、上司Sは絶対的な存在だった。プライベートの話や社会のことなど、なんでも聞きやすい方ではあった。が、こと仕事に関しては彼女は厳しく私を指導した。
「いいこと? 疑問が少しでもあればなんでも調べなさい。それから確認も大事です」
自主性を促すように持って行くSは、些細なことでも自分で考えて決めなさい、と私たちに言っていた。いざとなったら、たった一人でも決断できることを重んじた。夜一人きりになっても、おっかない患者に対しても、きちんとした応対ができ、素早く的確な措置を行う。それができてこそ一人前の薬剤師だ。そうみんなに言い聞かせた。
あるとき、私がうっかり新薬の薬効を訊ねたら、
「それぐらい自分で調べなさい」
と突き放された。それもそうだ。どうしてSに甘えてしまうのか。私は己の甘さに落胆した。
彼女は私以外にも、上に聞かず自分から進んで調べる姿勢を求めていた。自発的、能動的に仕事に取り組まないといい加減になってしまう。患者の健康や命に関わる我々にそんな態度は許されない。Sの丸くて小さな背中に、その強い意思が滲み出ている気がした。私が、同僚のKにそれを話すと、「なるほど。Sと唐獅子牡丹。背中にネコの刺青があったりして」といって茶化したが、「でもその話はいい話ですね。私も鑑にしなきゃ」とKは真顔に戻った。ちなみにSは大の猫好きで、キティちゃんがお気に入りだった。私のコアラ好きは実際の動物よりアニメキャラやイラスト等で癒やされる方で、二次元でも三次元でもOKという彼女の方は堂に入っている。実際、事務用パソコンの待ち受け画面にもキティちゃんのイラストを使っている。四十を回った主婦ながら、そういう趣味にも興味を示すSだった。そう言えば、薬局前を野良猫が横切ったとき、彼女はいつになく笑顔を見せていた。本人は至って生真面目であり、猫のような気紛れさはかけらもない。それでも疲れたときに時折みせる邪心のない表情は、優しい母の顔で、仕事と無縁の世界でノンビリと寝そべっていそうな猫好きの顔立ちのようでもあった。
若手のKにとっては上に私がおり、さらにその上にSがいて、テキパキとこなす先輩たちに振り回されながら、必死に仕事を覚え、頑張っていた。会話も慣れないうちは聞き役に回り、S世代の話にも耳を傾け、分からないことを素直に訊ねては年上を立てる度量を持ち合わせていた。一方で、若いKの考えることや最新の流行にはこちらも驚かされたり、苦笑したりした。また、若者たちの選択に口を開けて?然としつつも、ただひたすらに過程を見守るだけしかできないこともあった。しかし、次代を担う社会人だからこそ、その成長を見つめてあげたい、たくさんの経験を積んでグングンと伸びていって欲しいという思いから、ニコニコして相づちを打ったものだった。Kの方も、同年代の話し相手が周囲にいないからといって嫌そうな素振りなど少しも見せなかった。愛くるしい笑顔を振りまき、きびきびした行動を常にとり、打てば響くし、まめで義理に厚い所のある女性だった。
私は上にも下にも恵まれ、このままここに居たかった。結果として、四年という短い期間しか勤務することはできなかったが、出来ることならばN薬局に居続けたかった。自分以外の悩みは少なく、本当に心地がよかった。しかし、棚橋事件の影響は時が経つにつれて薄らぐどころか、ますます自分を苦しめていった。それは正体不明の透明な縄となり、掴みようのない浮遊物となって私を縛り上げ、忘れられない過去を幾重にも塗り替えては疑念の風紋を残した。私は一人、砂漠に取り残される思いを味わうこととなった。Tくんはなぜ死ななければならなかったのか。どうして自分はあんなことをしたのか。彼を救うことはできなかったのか。
とある晩に見た夢は奇妙なものだった。私は夕陽が映える丘にいた。白い十字架がそこにあり、私はそこに張り付けにされている。それを見上げて祈っている者も私で、二人の私が涙を流しながら先ほどの自問自答を再現している。なんとも異様で不思議な光景で、夜中に大汗をかいてガバッと飛び起きた。そのまま台所に行き、蛇口をひねって水を出し、コップの水を一気に飲み干した。落ち着くと、夢に出てくるのが自分しかおらず、Tくんもユアーもジョーカーもいないことに気付いてより一層悲しくなり、半泣きしてバスルームへ向かった。パジャマを乱暴に脱ぎ捨て、意味もなくシャワーを浴び続けた。そして寝床に入った。湯の温もりでしか心を落ち着かせるものがなかった。
仕事で多忙なときはそんな悪夢や不安感を払拭できたし、寝ても覚めても平凡で穏やかに暮らすことができた。しかし、静かで淡々とした毎日が続いていくと、心の中に小さな黒いシミが広がるようにして、青春の影が姿を現すことが幾度もあった。
そうした様子を心配したのか、Sも相談にのってくれたり助言してくれた。それは本当にありがたかった。ただ、聞いてくれても、大変なことを経験したわね、という慰めで、忘れたらいいじゃないのとか、もう大丈夫だからとか言われても、深く刺さった心の傷は簡単には癒えなかった。
そうした背景もあり、途中でパートを配置する計画とあいまって、私に転勤の話が回ってきた。いま所属している会社の登録をやめ、別会社に再登録し直した上で、Sの知り合いが勤める近郊の薬局に行かないかという話を頂いた。私はそのとき、四十手前だった。
いろいろと考えた末、上司の勧めに従うことにした。
「お世話になりました。Sさん、今までありがとうございました。次の職場でも教えを守り、薬剤師としての務めを果たしていきます。Kさんもありがとう。みんなのお陰でここまで来られて、幸せでした。まだまだ先は長いけれど、ここの思い出をお守り代わりにして、残りの薬剤師人生も気を抜くことなく最後まで勤め上げたいです。今はそんな気持ちでいっぱいです」
そう述べて、私の胸は一杯になった。いつも笑顔のKもこのときばかりは涙を押し殺していた。手にはカードと花束を抱え、彼女はそれらを渡すとき、こう言った。
「江畑さん。これからも頑張って下さい。江畑さんは……どこに行っても……必要とされる方……です」
途切れ途切れの言葉の裏に、この子の謙虚さを感じ取り、Kの気持ちが嬉しくてまた泣き顔になる私だった。こうして感動的な別れがあり、ドーナツ薬局という新しい勤務先の扉を開ける一歩を私は踏み出した。N薬局時代で充分に磨き抜かれた基礎を元手に、ドーナツ薬局では何をとってもそつなくこなし、上司や後輩に大きな迷惑を掛けるようなことは、二、三を除いては起きなかった。起きたことの一つは人間関係で、それが大きなしこりとなって事件が起きた。私と相手の至らなさからだった。それは周囲の誰しもが認めるところだった。そうした心のもつれが学生時代の悪い記憶を呼び戻すきっかけになったと思う。自分の欠点を見つめ直し、それと正面から向き合うことを避けて通れなくなっていたのは否めない。
それはひとまず横に置き、ドーナツ薬局に勤務する関係者は、年上の上司である島本に、私より少し年下の知念、その下にA、Bがいて、私がドーナツに勤めだして十五年してから角本という若い女性が入ってきた。聖マドレーヌ大と菓子の由縁ではないが、この薬局名が「ドーナツ薬局」になった経緯はこうだった。近くに小児科があり、子連れのお母さんがよく来る。お年寄りにも覚えやすくて分かりやすい名称がよいだろう。更には患者の未来が見通せるという縁起担ぎの意味合いも込めようとなり、その名称が支持を得たからだ。少しおかしくもあり、メルヘンでもある。最近は、カタカナや平仮名の名称を入れた薬局も増え、小さなお子さんの中にも、「ドーナツだ」と叫びながら元気よく入ってくる子もいる。嬉しくなった子らは踊り出したり、カウンターに置いてある飴を親にせがんだり、キャラクターが描かれたポスターを指差して興奮したりと、ちょっとしたお祭り騒ぎになることもあった。
「はい。ドーナツ薬局です」
「お菓子の会社ですか」
「いえ。薬局です。薬をお渡しする店です」
こうした電話応対もしょっちゅうあり、そうしたものには慣れっこになった。相手もこちらも少し噴き出しそうになりながら、ユーモラスな感覚を電話口で共有できる瞬間だった。
結局ドーナツ薬局には定年まで勤め、終盤には長にもなって薬局の責任者として統括する立場にまで上り詰めることになる。ここが薬剤師としての終着点になったとも言える。業務的には会社に申告したり注意勧告を受けるような失敗は少なかったが、小さな波風に晒されては、それが立ったり収まったりを繰り返した。
ここで、風変わりな患者をたくさん見てきたし、癖のある老人に振り回されることもあった。
老人に関して言うと、この方はどこまでを自覚し、どこからボケられているのかが判別できないケースをときどき経験させられた。
「お金が足らないんですが」
私は患者の老婦人に告げた。
「ええ? いま何て言ったの?」
「五十円足りませんけど」
「ええ? 百円出したろが」
「お婆ちゃん。これ、五十円玉。五十円でしょ」
「はあ? おや。おかしいね。確かに出しましたよ。誰か取り違えて。あんたかい?」
「いいえ。私は何も。こちらは手を触れておりません。お婆さん、大丈夫ですか? 家の方に来てもらいましょうか? それとも、お巡りさんを……」
「いやいや、ごめんなさい。ちゃんと出しますから。それだけは勘弁してよ」
お年寄りの気紛れか、話をしたいためのからかいか、本当に単純に間違えただけなのか。人生の黄昏には喜劇役者も顔負けの出来事が往々にして起きるものなのか。私は年老いた両親の顔を思い浮かべ、少しこの老婆とダブらせてみもした。お年寄りが悪いからといって、不親切に接するつもりはない。高齢化が進めば年配が多数派を占めるのは当然のことだ。若い世代の論理が通用しなくなり、多数派に嫌な顔をされぬようこちらが気を付け、工夫していかねばならない。
それにしても、世の中の電子化、パソコンによる管理化が進みすぎてやしないか、と思うのは私だけなのか。機械に急かされたり、人的ミスをメッセージや音で毎回知らせてこなくてもいいのではないか。一日にそういうことが何回も起きる。私、そんなに失敗してないよ。無茶なことしてないでしょ。ピピピと音が鳴るたびにそういう愚痴もこぼしたくなる。昔のことを知る世代としては、人間が努力して経験を積み、一人前の職業人として仕事を行うことが優先されていた。素人でも電子情報を頼りに、簡単操作を行えるというのは、ある意味便利だが危険という諸刃の剣にもなっている。すぐに答を求めようとする風潮も、私にはどうなのかなと思う節がある。もう少し経験をしてから、自分で考えたことで答を出しなさい。Sに言われたことだ。とにかく、膨大なデータが積み上げられ、何もかもが大衆に晒される世では、人は慎重に判断し、失礼のない言動をすることが求められる。一歩間違うと、さまざまなクレームが来てしまうから、ハラハラすることも増えた。その分、年齢も重ね、言い返したり訂正したりと図太くなってはいるが。
そんな中、ある年に、幾度も巡る泥の春の痛みが少し和らぐことが起きた。事故後二十五年たっていた。それは、ドーナツ薬局に勤めだして八年後であり、私が四十七のとき、Tくんの二十五周忌があったからである。健在である名古屋のご両親から、私の実家に連絡があり、母が私の自宅番号を教えたそうだ。
「もし、江畑さんがよろしければ、参列なさりますか」向こう様はそう問うてきた。
「はい。棚橋くんの思い出話など、差し支えがない範囲で伺いたくもありますし」私は答えた。名古屋へ行くのか、と私は思った。大阪で働くユアーに連絡を入れた。
二
泥の春も二十五回を数え、春の淀んだ空気と暖かさの中、四月の最終日曜日に彼の実家にて法要が営まれた。しめやかに読経が行われ、袈裟を着た高僧が席を外した。一同は礼をし、ご両親は玄関まで見送られた。親戚縁者の方たちが帰られてから、喪服を着たご両親に応接間へ案内された。そこに置かれてあったソファーに座り、壁の油絵などを見ていると、茶が運ばれてきた。
一人っ子だったTくんの亡くなる前、つまり大学時代を知る人間でその場にいるのは私とユアーだけだった。その二名が当日に都合を合わせて伺っていた。自然とTくんの学生生活に話の花が咲き、こんな話も飛び出した。
「あるとき、私が陽一の下宿を訪ねていったんです。一人暮らしの様子を見ようと。そしたら、部屋に通され、本棚に偶然に目が行きました。並んでいた専門書に混じって、『○○デートマニュアル』なんていう本があって」
「へえ、あいつもそういうの読むんだ。まあ、それが普通でしょ、当時は」
「そうなんですか。どこそこに行って、夜景が見えるレストランだのバーだの、密会する男女が行くホテルだの。そういう記事にいっぱい付箋紙が貼ってありました。息子も人並みにこういうことをするようになったかと」
「はあ。まあ、青春ですから」
気の抜けたような生返事をしたユアーに代わり、私は、
「なるほどね。彼がよく手帳を見返していた理由はそれだったのか。そういう情報をメモして、頭の中で予行演習をやっていたんですね」
と補足した。
「チヅルさんも陽一に巻き込まれたんですか」
「いえ、そんな。私はデートを申し込んで、健全なお付き合いをしたまでで。最終的にはフラれましたし」
肩の凝らない話が弾み、当時の自分たちの様子を忘れていたことまで思い出していた。いろいろあった。そして、青春の日々を静かな目を持って懐かしく語れたり俯瞰できるのも、私たちが充分に成熟したからなのかも知れなかった。ひとつ腑に落ちたことがあった。それは焼死直前の状況である。もちろん誰も見ていないはずだ。その日推察したことで、当時の状況のうち重要な一端が垣間見えた気がした。
「棚橋くんはね。あの当時、少し太っていましたよ。そうだろ、チヅル?」
ユアーは思いつきで語ったにしては自信ありげだった。
「え? そう言えばそうだったかしら。ああ、そうね」
「本当ですか。あの子は実家と離れて下宿だったから詳しいことは私らにも話さなかった。昔から痩せてて、好き嫌いが多かったんです」
Tくんの母は身を乗り出した。
「あら。じゃあ、湯浅くんの話が正しいなら大学から太りだしたことに」
私は二人の話をまとめ、突き合わせてみた。
「そうみたいだな。あいつ、夜更かしが多くて偏食とかもあってさ。死ぬ一年前ぐらいから太りだした気がする」
「なにを食べてたんですか? よろしければお聞かせ願えますか」
「まあ普通に食べるのは食べてて、それに加えてインスタントのカップ麺が好きで。チヅルも知ってただろう? 部屋にいっぱい容器が転がってたし。コンビニの袋やら知らない文字の小袋とかあって」
「もしかして、メキシコの……」
「そうそう。メキシコ産のラーメンなのかな。アルミの薬袋みたいなのもあったよ。オレはラーメンのかと」
「それだ!」
私は叫んだ。
「なんだ? あれはメキシコのスープか調味料の袋じゃ……」
「違うのよ。大切な証拠品かも」
「え? どういうことだ」
その途端、私は咳き込んだ。喘息の発作が私を襲った。背中を丸め苦しむ私を、ソファーに寝かせ付けたユアーは、介抱しながら複雑な面持ちをしたように見えた。彼は何がどう結び付くのかがまだ理解できていない様子だった。両親は顔色が変わり、ソファーに寝てから落ち着いてきた私に、せがんだ目で覗き込むように顔を近づけてくる。
「早合点しないで下さいね。あくまで私の推理ですから。まだはっきりしたことは私にも分かりません。だけど、彼の事故死には幾つかの謎もあるんです。その謎の一つを解く鍵になります。そのアルミ小袋が」
「えええ! 続けてくれよ」
腕組みをして考え込むユアーは驚き混じりの低い声で私を促した。
「つまりね。それがラーメンでなく、メキシコから彼が持ち込んだ何かの袋、例えば薬の粉袋とかだったとしたらどうなりますか? 彼が誤ってそれを破って中身を飲んじゃって。意識が飛んで火を点けちゃったとか、誰かが点けた火を消せなかったとか」
「おおおお。そういうことか!」
「そうなんですか」
私を除く三名は興奮して立ち上がったり、顔を見合わせてお互いを見つめたりしている。
「ちょっと待って。まだ仮の話で確かな根拠はないですから。私がこしらえた作り話に終わるかもしれません。これから少しずつ調べられることを当たってみましょう」
「お願いします。あんなに真面目な息子が理由もなしに火を点けるとか自殺するなんて、私らには到底……。あんなことが……」
ご両親は肩を落として涙ぐんだ。
「そう悪い方に考えなくてもよくなりますよ。きっと何かの理由があったはずです。亡くなった故人は戻らないが、残された私らがその理由だけでも知ることは、彼の最期を理解し供養にもなりますよ」
私は皆を慰め、その場を取り繕って、
「棚橋くんは今も私のそばにいて、私の健康と安全を守ってくれています」
と言い添えた。私はご両親にそう話すと、Tくんの母は、
「あれから二十五年たちました。入学式の日に大学の正門前で撮った記念写真も色あせ、ボロボロになってしまいました。陽一が生きていれば、あの子の好きなマドレーヌを作ってやったのに。薬大に入学したことをあれほど喜び、誇りにしておりました」
と話し、声を詰まらせた。あとはむせび泣きが小さな体から漏れ出た。私は決意を固めた。
「お母様。必ず真相は解明します。私、ぜったいに諦めませんから」
ソファーから手を伸ばし、彼女の腕を優しく取った私は、仇討ち気分で宣言をした。
具合が戻り、帰りに名古屋市内の喫茶店に寄った。ユアーと二人で判明したことや仮定推論などを話し合っていると、さらに重要なことが判明した。
ユアーが言った。
「いや、いろいろあるもんだな。あいつさ。メキシコへ行くって言い出したのは、何とかいう女のせいで、その女に誘われたからって」
「え! なんですって。自分が計画したんじゃなくて?」
「なんだ、驚かせるなよ。知らなかったのか? なんとかいう女子学生にパンフレットを見せられた上にな。向こうで落ち合う約束まで交わしていたんだ」
「どうしてよ。どうして早くそれを言わなかったのさあ。そういう所がユアーは鈍いんじゃんか」
「そんな大事な事かよ。チヅルが傷付くと思ってたし。あいつのこと好きだったんだろう?」
「もう! それはこの際、関係なしよ。女子学生の件は大事なことに決まってるでしょうが。いい? アルミ小袋―メキシコ―旅行―謎の女子学生。彼が女子の罠に嵌められた可能性が出てきたわ」
「なるほど。だけど本当なのか? それなら大変だ。裁判になっていたら、判決が覆りそうな逆転満塁ホームランだ」
昼下がりの喫茶店で急に声が大きくなったユアーは周囲を見回して肩をすぼめた。一つ咳払いをした彼は私の説明を再確認し、今度はそこから思い付く可能性を話し出した。二人の話は長時間に及び、彼の煙草ケースが一つ空になってしまった。Tくんは女学生にたぶらかされた。それか、彼を嫌う一味が学年に存在し、その中の誰かが部屋に忍び込んで……。私が彼の下宿に戻り、再び帰宅してから、何かが起きたのか。喧嘩か、恋人争い? 薬を飲ませての放火? 自殺に偽装して……。
テレビドラマの探偵さながらに、たくさんの推理シナリオが同時に頭の中を乱れ飛んだ。単純な動機から複雑怪奇なものまで幾通りにも推察できた。それは取りも直さず、証拠品が不充分でロクに集められていないままだということを意味している。ユアーと話し合って、彼はそう指摘をした。ユアーと別れた後、新幹線に揺られながら色々と考えているうちに東京に着いた。
棚橋事件から二十五年を迎え、Tくんのご両親らに会い、冥福を祈った。そしてアルミ小袋や謎の女子学生などのヒントを得た。
これから、やっと、彼の歩んだ足跡を辿っていける。最後に彼が迷い込んだ洞窟を見つけたとでも言うべきか。ドーナツ薬局で勤務中にときどき手を止めては、ユアーが話したことやTくんが巻き込まれた真相を考えてみた。仮説は幾らもありそうだったし、私が文化人や識者だったならばその説がいま有力ですよと言えたのだろう。だが、どんな人をしても解き明かされることはなく、謎は深まるばかりだった。小さなジグソーパズルのピースは何片かが得られたものの、全体をイメージするには程遠く、多くのピースが欠けているように思われた。また機会を設け、ユアーと会い、それらを探し出すことを再開せねばならない。
それから何ヶ月にもわたって、重たげな雷雲と澄み切った青嵐、葛藤と清廉が格闘する日々が続いた。
アルミの袋には何が入っていたのか。それを飲むとどんな作用が起きるのか。そもそも使用目的が何であるのかも分かっていない。それが火事のさいに全て焼けてしまったのか。恐らくそうだろう。粉も袋ごと灰になってしまったに違いない。黒い炭と消防車の放水した水たまりを見た。あの焼け跡でユアーと二人で警察官の立ち会いのもと確認したことだ。警察の資料にも記録されている。失われてしまったものをいまさら探ろうにも跡形もないし、手掛かりもない。当時のTくんを知る人物などにしらみつぶしに当たってみるとかで、断片的にでもアルミ袋に関することを聞いて回るしかないのか。
警察じゃないし、犯人を特定する、追い詰めることはもう無理だ。それは諦めている。しかし、知ってしまったことは気になる。もしかすると、なにか話せないことを知っている人がいるのかもしれない。そして、メキシコ旅行と女の存在である。ひょっとするとユアーは女のことも何か掴んでいないか? メキシコとアルミ袋のことも少しは知っているのだろうか。何か特別な大人の事情が存在し、話す機会を逸している。もしそうだとしたら……。知りたがる私を暴走させないために私とペースを合わせ、話を小出しにしている。本当はもっと先まで見通していて、もっと速く走ることが出来る。彼には彼なりのゴールがあり、私のそれとは違う地点にある。元恋人は、私という人物すべてを信頼し切り、ありのままの事実を一度に打ち明けるような真似をやらないだろう。少しずつ、人と人の繋がりが、距離を置くという意図が見えてきた。私はそれらを見越した上で、ユアーに都合のいいこと、悪いことは何かを深く考えるようになった。私が知りたいTくんの真相がユアーにとって都合の悪いことだった場合、彼は話さない。あるいはうそをつくだろう。純粋な青春時代を過ごしたと自負する私にとって、それは認めたくないことだった。が、この世に生きる大人の九割以上は、皆そうして生きているではないか。
家に居ても、そうした考えばかりが私の頭を支配した。ふと、窓の外を眺めてみた。流れる雲の一つが年老いた父そっくりに見えてきた。その雲が天の声を発するように、私の心に訴えかけてくる。
そうだよ。みんな、賢く生きているのさ。女子学生の件もね。きっと、悪気があってやったんじゃないよ。棚橋くんのことが気になってただけさ。千鶴と一緒だって。
父の顔のように見えた雲は私にそう呟いた。正気に戻った私は、手紙をしたためた。
「湯浅くんへ」
一行だけ書いて胸が詰まった。震える手で机の引き出しを開け、手紙を中にしまい込んだ。のちのち、何回か引っ張り出しては続きを書き足した。用件と結論が整うまでに数年の星霜が流れた。ドーナツ薬局の裏庭に植えられた桃の木は大きくなり、数カ所に小さな実をつけた。
やがて私の手紙は実を結ぶことになる。
棚橋事件の真相追究もさることながら、本業でも苦しいことがあった。卒業論文作成中、アメリカ人学者に言われたエンドレスという言葉。それが私の脳の中に糸を吐き、玉虫色の繭を紡ぎ出す。まさに終わりのない人間の諍いという醜悪な行為が小世界に存在するのに気が付いた。
その日はいつものように順調に仕事が進んでいた。
知念が出勤して一時間ほどたったとき、なじみの患者が現れた。
Nというお年寄りは、よたよたとカウンターに近寄り、処方箋を置いた。「いつものです。お願いします」「はい」そう言った同僚のAは、それを後方の調剤室に回した。私がそれを見て、白い棚に行き、たくさんの仕切りの中から薬剤名の略称が小さく書かれたシールを確認すると、その棚から処方箋に記載された薬剤を取り出した。四週間分だ。二十八個を十個のシート三枚から一枚だけ二錠外して、必要な分を揃えた。そして小皿に患者氏名の印字された包みと共に置いた。もう一種類も同じように用意した。
ここまではなんの問題もなく、ストレスなしにできた。それがスムーズに行えれば取り立てて困ることはない。しかし、きょうは違った。
「あれ? なんかいつものと違ってるなあ」「え? そうですか? 処方箋通りだとは。このダイレトンとプレカネインを四週間ですよね?」「うーん。そうじゃねえよ。一つは正しいが、も一つは昔の方だな」「あら!」「あのさ。このプレカネなんとかは黄色い錠剤。半年前によお。ヨウカイなんとかちゅう、白い錠剤に変えてもらっただろが」「ああ。すみません。いつもの担当に確かめ、薬歴もすぐに調べ直します」
おっかしいなあ。処方箋が違ってるのかな? 確かに、Nの薬に間違いはないんだが――。
私は後方に引き下がり、もういちど処方箋とNの薬歴をパソコンで表示させて見較べてみた。すると、あることが分かった。Nが言った通り、黄色いプレカネインは半年前に投与中止になっており、そこからはジェネリック医薬品であるヨウカイトインに変更されていた。これは、どういうことだ? 改めて処方箋を見ると、日付が八ヶ月前になっていた。そんなバカな。過去に打ち込んだ処方箋は破棄しているのに。なんで切り裂いて捨てたはずの……。
だいたいの筋書きが頭を巡り、顔がみるみる赤らんでくるのが分かった。しかし、念のため、医院に電話をし、さきほどの診察で処方されたものを聞いた上で処方箋を再発行してもらい、ドーナツ薬局に届けてもらった。
捨てるべき処方箋を隠し持ち、古いままで保管し、それをいますり替えたヤツがいる。この薬局内に。それは当然、内部の犯行で規律違反だ。薬剤業務の足を引っ張る薬剤師同士の嫌がらせなのは明々白々だった。それまでにこうしたことが、ここドーナツで行われたことはなかったはずだが、過去に他の薬局でそうした事件があったことは聞いていたし、だからこそ患者から受け取った処方箋はすぐにパソコンで入力し、用済みの処方箋はシュレッダーで破砕した上でゴミとして捨てている。規約を破った人間がいる。この部屋の中に。その薬剤師とは誰なのか。怒りで茹で蛸になった私も、接客と違反報告まではきちんとやり通さないとならない。それは分かっている。くそおと思った。
犯人捜しが始まり、すぐに証拠は挙がった。知念のロッカーを当番用のマスターキーで開けると、中から捨てるはずの処方箋が山のように出てきた。異様な光景である。押し込められていた。確信犯。知念による犯行で裏切り行為としか言いようがない。知念は、Aが回したNの当日分と、保管しておいた過去分とをすり替えた。シュレッダーをとめ、裁断しなかったのか。捨てるべきものを隠し持ち大切な本物とすり替えるなんて、極悪非道もいいところだ。
私は知念をなじり、電話を掛けた。非番の島本師長が飛んできた。まさに、業務妨害行為だった。さきほど患者に平謝りした私は、怒りが収まらなかった。なんでこんなことが……。そんな、同僚が取り違えを行うなんて。でも、日頃のおかしなことを思えば、思い当たる節もあった。それらが高じて、このようなルール違反を知念が犯した。
そういえば、このドーナツ薬局に来てから、おかしなことがたくさん起きた。あれもこれも。
以前から勤めていた古株の知念は、中途でやってきた年上の美人がしゃくに触ったという。「絶対やってやろうよ」。そう言ったらしい。グループのボスは下の連中を巻き込んだ。いびりと嫌がらせ。高い化粧クリームが買える人は除外せよ。一緒の時間に食事の輪に加わらないのは仲間じゃない。マークして痛めつけろ。たぶんそんな台詞で命令していたのだろう。私の勤務二日目には、ボールペンが白衣から抜き取られ、床に捨ててあった。中身の芯はインク切れのものにすり替わっていた。それから、飲みかけのジュースが棚の上に置きっぱなしで、私はそれを捨てた。その三日後、私が使うロッカー前の床に違うジュースがこぼしてあった。椅子に掛けておいた白衣の糸をむりやりほぐしたり、ロッカーの鍵を壊して白衣を取り出し、汚い白衣と取り替えてあったこともある。傘立ての雨傘をねじ曲げる。私からお金を借りておいて踏み倒す、とぼける。私が買い求めたサンドウイッチの上からよそ見した知念が鞄で押し潰す。あーごめんなさーい。謝る前から計画的だ。知らなかったじゃあ、済まないだろうが。こんなこともあった。あんなこともあった。悪女の嫉妬。やはりそうだったか。
島本の取り調べが始まり、知念の自白から判明したことは、次のようなことだった。
年上で優しい人間、美人、中途から働き出した人間。これらは知念グループの洗礼を浴びせる。自分らに手をついて謝らないと徹底して痛めつける。嫉妬、嫉妬、嫉妬。そうした嫉妬と、知念の過去の事情が今回の事件を引き起こしたと言ってよい。
学生の頃、知念は私が取った態度と同じことをしていたようで、それが理由でいじめを受けた。彼女の顔から笑顔が消え、友人も去ったらしい。知念は、私にうそ泣きで述懐した。それ以上、知念は語らなかった。
それより先は私の推測だが、誰にも優しくて愛想のいい美人がそばにいると、同じ目に遭わせてやる。そう思っていじめや嫌がらせを繰り返した。グループを形成し、恐怖政治で鉄の掟を作り、命令役として君臨した。
「そういうことだから。まさに悪女だな」
島本も呆れていた。しかし、いかなる理由でも、私の激怒は収まらなかった。あれもこれも、このオンナの仕業であることは知っていた。それを黙って耐えていたのがいけなかった。
卒業式の訓辞で、学長が言った言葉が忘れられない。
「……というわけです。これから社会に出られる皆さん。アメリカ大統領もこう言いました。『あなたの敵を許しなさい。しかし、決してその名を忘れぬよう』。私は、敵が改心してあなた方の元に現れたとき、その者の態度をよく見極めよ、という風に解釈しました。人間というもの、うわべだけではわからぬものです」
その言葉を贈られた当時は、ただ心に留めただけだったが、十年経ち十五年経ち、その訓辞が私の過去や未来にも活かされる処世訓で、敵は多くとも許そうと努力する気骨こそが今の私を支えていると信じている。だが、そうは言っても相変わらずいじめを受ける側から逃れられない。
「災難だったな。こういうことは男女を問わずどこでも起こる。昔からある。どの社会でもどの集団でも起きるもんだ。止められない。やる奴も決まっている。そいつらはどう責められても、死ぬまでやり続けてしまう。まあ、うまくやってくれ。事件は上に報告しておくから」
島本師長はそう言って和解を促した。島本の前で恥をかきたくない知念は罪を認め、素直に謝罪した。島本は知念の転勤や出処進退も含めて処罰を考え、派遣登録の会社に打診した。しかし、会社側から大きなお咎めもなく、仲間外れはやめましょうという簡単な島本の言葉で不問となった。
しばらくは穏便に運んだ。私も、自分の態度を謝り、知念のグループに入れてもらった。同じグループでは結束があるらしい。嫌がらせもほぼなくなった。ただ今回、自分のところにばかり降りかかってくる厄難に閉口するだけで終わらせたくなかった。
反省もした。学生時代にあった揉め事、社会人時代のトラブル、それらは特殊なパターンでなく、される側の私に問題が解決されていなかったから災難が降りかかってくる。そう考えれば落ち度はあった。周囲の人間にきちんと何をするのかを説明して確認する。同意を得る。誰かを置き去りにせず、仕事を分け合う。全員参加で生まれる達成感や喜びなどの結束を口に出し、褒めたたえ合う。そうした配慮が私に欠けていたのかもしれない。ひと言でいえば協調性の欠如だ。そのような私が一部のグループから嫌われ、彼らが私やTくんのようなタイプを憎んだのは、仕方のなかったことなのかもしれない。
知念が私を裏切ったことは許せないが、その裏にはやはり事情があった。彼女なりのやむにやまれぬ事情。小さい頃に親から虐待を受けていたらしいよ。AとBのひそひそ話を盗み聞きした。幼少期のトラウマからくる抑圧崇拝。トラウマが思考を支配し、人を苦しめたりいじめたりすることで相手を従わせることしか考えない。そうした邪悪で倒錯した思考の連鎖を断ち切れない知念。
ただそれだけだ。しかし、人というのはそんなもんだ。少しの違和感や疎外感があるだけで、簡単に距離を置いてしまう。それが修復されないまま放置されていると、今回の裏切りのようなケースになってもおかしくはない。
「死にたい」
罪がばれたとき、知念は絞り出すように呻いた。いっそ生まれてこなきゃよかったんだよ。そう言い返せたら楽になれる私だった。
やがて、私が本来の力を発揮できるようになった。年長者として波風を押さえ込み、あるときはきちんと言い含めるなどして、揉め事を収めていくようにした。
ここに来て十年たち、十五年たち、島本がいないときは、私がこの薬局を牛耳るようになった。私が厳しいルールを定めた。ゴミ捨て、掃除、ロッカーの整頓、鞄の中身をチェックしたり、靴をただしく履いているか、身だしなみは乱れていないか、などなど。従わないものには反省書を書かせる。まるで校則の厳格な学校にいる生活指導係よろしく、ビシビシと鞭を振るった。知念のような嫌がらせを徹底して嫌い、根絶した。その結果、思い描いたように仕事も対人関係も円満に進められるようになり、知念とも気楽に話せる間柄になった。
事故から三十年のときがたち、私が定年を迎える二年前、引き出しにしまわれていた手紙を投函することにした。その頃、ユアーは東京に戻って働いていた。
手紙が彼の元に届き、証拠に繋がる可能性の高い品を専門家に調べてもらうという決断を下させた。大きな果実の収穫だった。事故からずいぶんとたち、私たちは彼が所有していたTくんの形見――部屋で焼け残って茶褐色になった粉末――はメキシコ産の草だということを突き止めていた。Sという東横大学教授に鑑定を依頼していたユアーは、結果が得られるのを待って、きょう七月三十一日に皆を呼び出した。
報告書を持って現れた彼を待っていたのは、私ほか二名だった。私とユアー、ジョーカー、マリエールの四名が席を同じくしていた。四銃士は喫茶店ロメロに集合し、顔を合わせた。
「やあ、元気か。久しぶり」
「それよか、どうなったのよ」
今か今かと鑑定結果を待ちわびて、一同は彼を急かした。
「びっくりすることがあったのね?」
はやる私の気持ちを察したマリエールは、
「チヅル。まあ、落ち着きなさいよ」
と私を宥めた。その結果、次のようなことが判明した。
・メキシコ産の薬草は、ベガルタリスという多年草である。
・ベガルタリスは、マヤ時代から栽培されていた。
・麻薬作用があり、危険な薬草である。
・種子も薬草も輸入は出来ず、規制対象である。
・棚橋陽一はメキシコ帰りに税関検査をすり抜け、薬草の種を密輸したと思われる。
考古学が専門のS教授によると、太古のマヤ時代からベガルタリスに麻薬作用があるのを人々は知っていて、儀礼や遊興目的で使用していたものらしい。ベガルタリスの種子かその草の粉末を口にした棚橋は幻覚に襲われたのだろうか。いずれにせよ、棚橋は危険な薬草に手を出していた。
「二十五周忌に浮上した謎が解けたわ。女に唆されたTくんはメキシコで危ない薬草を手に入れ、日本へ持ち帰った。彼の下宿にあったアルミの小袋にその種子が入っていたのよ」
私はみんなを代表して語った。メキシコでそうしたものを入手した経緯と女子学生の関連性は依然として不明のままだった。それが真相の一部だ。パンドラの箱はその蓋を開き始めた。喫茶店で報告書に釘付けとなり、椅子に根を下ろして固まっていた各々は、こう言った。
「棚橋の野郎、やばいことしやがって」
ユアーは机をドンと叩いた。
「信じられる? あの真面目な棚橋くんがよ」
「そうよ。なにかの間違いよ。薬学研究のためとか、誰かに持ち込まれたとか」
「私もそう思いたい。でもね。事実はそうで、彼の指紋もたくさん付いている。否定できないわ」
「何かの事情で下宿に持っていたとして、それと火事とはどう結び付くんだ? 麻薬で気が狂い火を自分で点けたんじゃないのか」
ユアーの発言がきっかけで、みんながそれぞれに火事の原因を喋り出した。薬草と火事を結び付けるもの、それとは無関係で、寝込んでしまって火の不始末で火事になったと唱えるもの、薬草を密輸した証拠を隠滅し別事情により自殺放火したと言うもの。諸説が出た。私も仮説を立ててみた。メキシコ旅行でその種子を手に入れたTくんはそれを自室で栽培し、研究と実益で使用していた。彼が残した薬草の粉末を混乱した状況下で私が勘違いしてマグカップに入れてしまう。暗がりの部屋の中、私を強盗と勘違いし強姦しようとして彼は襲ってきた。私は揉み合った末に気絶させてしまう。マグカップの粉末を飲んで、彼は幻覚に襲われた。そして、なにかのはずみで部屋に自ら火を付けた。そういう筋書きを今になって導いた私だったが、仮説は仮説だった。当時出動した消防と警察の現場検証では、失火による事故死と断定され、出火元の確認と写真撮影、遺留品捜索以外の目立った捜査は何も成されなかった。検証範囲外の焼失した証拠品もあったのかもしれない。しかし、たとえ警察が事故を不審に思い遺体を司法解剖に回そうとしても、監察医に麻薬を含む薬物反応など期待することはできない。彼は黒焦げの焼死体だった。私は重い気持ちを振り払い、慎重に言葉を選んで当時の状況を説明し、導き出したシナリオを語って見せた。一同は、何とも言えない顔をして、俯いたりかぶりを振ったりした。
「あのさ。警察の発表を覆すようなシナリオを立てても誰も得をしないんだよな」
「せめて、チヅルの罪の意識が薄らぐのならいいのにね。大変だったね」
皆は、そう声をかけてくれた。次のような仮設が有力だった。あの晩、マグカップに入っていた麻薬粉末の溶けた水をTくんは飲み、しばらくして幻覚作用に襲われた。そして何かのはずみから部屋にライターで火を放ち、狂乱した状態で炎に包まれ、焼死した。警察の見立てを裏付ける意見だ。消防の発表によれば全焼で、火元は寝床のライターだから、寝たばことみられた。そこが違うだけで自殺か事故死かは不明だが、彼が起こした過失という前提は覆らない。しかし、この仮説は一部の証拠より導いたもので想像の域を出ていない。真実は藪の中、事故は事故のままで当時の再現は頭の中で投影される悲劇のストーリーでしかなかった。筋は繋がるも他人には理解しづらいものだ。実際あのときに、Tくんに何が起きてどういう異常行動に発展したのかは本人しか知り得ない。また、悲劇の仮説も百%そうだとは限らず、仮説を崩す反証は幾らもある。四名は一様に口を閉ざし、もう藪をかき回すことも、あの事故を振り返ることも止め、重い足をそれぞれの家路へと向けて立ち去るのみだった。
あれから誰一人として、事故を語ることはなく、余計な詮索は誰もしなくなった。全てを知るものは骨となって、この世にいない。あの時と同じく、淡い色をした桜の花が少し淀んだ曇り空に咲いている。奇妙な行動の結末は、説明を逃れるかのように語り部の口を灼熱の炎で塞ぎ、彼の身体は灰燼となった。喫茶店の道端に咲いたタンポポがあの夜のように雨に打たれて葉を揺すっていた。再鑑定の五年前、私は薬剤師長に就いた。もはや、ドーナツ薬局の表裏を知り尽くすものは、私と知念だけになった。あとは、新入りと若手ばかりが数年周期でやめたり入ってきたりの繰り返しが続いていた。島本は退職し、若手も入れ替わる中で、角本が入ってきた。そして私は業務指揮官として、業務管理、人材の育成、指導、監督の日々が始まった。それは同時に忍耐と失望の日々で、命をすり減らす思いも経験させられた。
あるときには、新薬に関する情報漏洩の疑義を持たれる事件が起きた。長になって二、三年経ったころ、上から圧力がかかった。上というのは登録していた調剤の派遣会社でなく、厚生労働省だ。いわゆる権力のトップ、最高機関からの圧力だった。私が患者に代わって新薬の照会を行った。それを会社に申告し、その是非に対する判断が延期され、厚労省側から却下してきた。会社から言われた。正確には、「未承認薬の存在を認めてはならない。また、その説明責任に関してはそれを行う義務はない。新薬に関する何らの情報も提供してはなららない。そうした情報提供を自粛するように」との通達が出された形だ。
長として製薬業界の未達事項を漏らすつもりなど毛頭なかった。ただ患者の立場に立ち、なんとかして病気を治して上げたい気持ちから、治癒の可能性を熱弁する余り、患者の口車に乗せられてしまったというべきか。私のミスは認める。が、厳格な意味ではルール違反と呼べないし、結果として行政機関から待ったがかかっただけだ。患者の知る権利と医薬情報提供サイドの秘密保持義務が対立する構図となった。悩ましくあり、難しくもあるテーマだ。会社には迷惑を掛けたこともなかったはずだが、事態の収拾が長引き、途中から雲行きが怪しくなってきた。事件を契機に私がここを去れば事は丸く収まるという類いの話を登録会社の幹部から聞かされた。私も悩み、知念らと話し込んだ。
彼女は言った。
「長として江畑さんがいないとダメなんです。このドーナツ薬局は。お願いだから仕事を辞めずに、このままここに居て下さい」
たったひと言。私はそれを待っていた。目の前で言われたかった。そのときまさに知念が口に出してくれた。あなたが必要だ。その言葉を同僚の口から聞きたかった。
薬剤師としてここに二十年勤務し、上から圧力がかかった。私が退職すれば済んだことなのかもしれない。しばらく休職し、ほとぼりが冷めた頃に別の会社にパートとして登録さえすれば、新しい職場が紹介され、そこで薬剤師として再スタートを切ることは出来る。ただ、島本や知念らの思いはどうなるのか。それがあったからこそ頑張れた。そこには個人の責任の取り方だけでは済まされぬもの、友情と信頼、チームワークがある。それを積み重ね、歩んできた。私ら一人ひとりの薬剤師が何か悪いことをしたのなら先程の話でいいのだろう。事実はそうでない。残された若手、ドーナツ薬局に勤め始めて間もない角本はどうなる? いろいろと考え、悩み、残る決断をした。ここを辞めることなく反省文と報告書を書き上げ、以前と変わらずに長として勤めることを許してもらった。私は厚生労働省という横綱、登録派遣会社という大関に詰め寄られながらも、周囲の声援を受けて徳俵で堪えきり、うっちゃった。そんな気がした。勝負には負けたのかもしれない。が、ドーナツ薬局に残ることはできた。私は知念に感謝の意を表した。昨日の敵は今日の友。そんな言葉が頭に浮かんだ。
話はレベルが落ちて卑近なことに移るが、知念の娘は成人し女優を目指して演技の腕を磨いていたらしい。何度もオーディションを受けては落ちることの繰り返しで、時給八百円のアルバイトをやりながら、明日のスターを夢見ているという。実家暮らしだから、家族の支えと理解があってこその話だが、娘と知念は意見が対立し、喧嘩することもたびたびで、口答えも絶えなかったとか。深夜の帰宅は当たり前で、ときに家出しては友人宅やオールナイトの店に入り浸ることもあったみたいだ。姉から貰った土産を頑張る娘さんにどうぞとお裾分けしてあげもした。それを受け取った知念は涙目になり、裏に走って行った。それをして彼女を泣かせることになったようだ。母親として、子育てに悩みがあった時期を思い出したのだろう。ロッカーの裏で彼女はむせび泣いていた。床には、ポロポロと流した涙が小さく溜まっている。子どもが小さく、躾が上手くいかないとこぼしていた頃の記憶が蘇ったのか。そんなときに私に激しく当たり、嫌がらせをすることでストレス解消をした。例の処方箋事件あたりのことである。親として、社会人として、最低だった。そんな自分を許し、こうして優しくしてくれるなんて。背中を向け、人の優しさに触れて思わず涙し、素直な気持ちを認める彼女に対し、私は言った。
「私も悪かった。決して、知念を拒否したわけでも認めなかったわけでもないのよ」
私は彼女の肩に優しく手をかけた。
その頃から反省し始めたのだろう。以降の彼女は見違えるような成長を遂げた。自覚を持って仕事に取り組み、責任ある言動が目立ってきた。「人の道っていうのかな。娘の成長と共にそれが心に染みてきたのよ」。そんな言葉を、知念が私や周囲に語ってくれるようになった。そんな風に明るく前向きになった彼女を見て、よかったと安堵した。
さて、私は定年までドーナツ薬局で働き続け、とうとう退職の日、三月三十一日を迎えた。その日は早春の寒さも緩み、年度末の風景、例えば、引っ越しのトラック、花束を手にしたOLを見かけた。そして、最後の奉公をすべく、薬局への道を踏みしめながら歩を進めた。さまざまな思い出の一つひとつを頭でキャプチャしては注釈をつけているうちに、ドーナツ薬局の前に来ていた。
「さて。やっと引退記念日か」
呟きに呼応する二、三羽の雀がチュンチュンと相づちを打つ。業務が始まり、なぜか静かなままで時が流れていく。あのN薬局時代を彷彿とさせる気がした。仕事は午後五時で終え、引き継ぎも終わった。ふだんは角本がやる床の掃き掃除を、最後は私にやらせてと懇願し、私が決めたルールを自身で実行した。六時まで残務をしようと思っていたら、花束を持って微笑む女が進路に立ちはだかった。
「江畑さん。お疲れ様でした。お別れですね」
「そうね。ここは長かった。たくさんのことを学んだわ。患者から、あなたから」
「あら。私もです。フフフ」
「頑張ってね。後はまかせたわ」
そう告げて、知念から花束を受け取ると、肩が震えて背中が曲がった。ハンカチで口元を押さえ、避けるようにロッカーで着替えをした。かくして私は薬剤師を辞め、一般人となった。退屈な日々をどうにかやり過ごしながら、私も老いていった。
三
退職から三十年。老いた私は、病気に冒されたらしい。覚えてない。覚えることもできない。そういうことが病気であるのも、病名も分からない。自分で判断する能力を失った。認知症とか言うらしい。なんだろう、それは? そして、ここからの話は、物心を失った私の世話をして下さった実習看護学生の手により書き足された物語である。本にして配ってね、と私はミチルさんに頼んだ。
私は、埼玉県内にある有料老人施設、瑞光園に入所していた。ときどき家に様子を見に来ていた姉に紹介されたらしい。認知症の私は、時間や場所の記憶が曖昧になり、食べてもすぐにご飯を催促するようになるなどして、周囲を悩ませていた矢先のことだった。瑞光園では、多くの人と触れ合う機会が増え、ミチルさんをはじめ、たくさんの若い職員が手を取って私を誘導してくれた。また、毎日が穏やかな時間の中でケアと介護が行われ、私の行動を温かく見守ってくれた。何より、常に言葉を投げ掛けてくれる存在がいることは、とても安心だった。若いスタッフに囲まれて、新しい環境で日々が過ぎていった。
ある日、施設にベレー帽をかぶった俳優のような老人が現れた。私がケンさんと呼んでいたその方は、記憶のどこかで引っ掛かるものがあったが、私の力では思い出せなかった。私よりも頭のしっかりしたその老人は、自分の名前も生年月日も家族構成もぺらぺらと喋れるし、この施設に入る目的や意味も自身の口からはっきり言える好々爺だった。ただ彼は、足腰が悪くて一人で家事が出来ない状態で、実家で面倒を見てくれる子どもさんもいないために、ここに来た。その日からケンさんに心がときめいた。千鶴さんに笑顔が戻ったよ、と言われることが増えた。自分ではあまり意識していなかった。ああ、こんな素敵な人、初めて! 生きていて良かった。何度も誰に対してもそう言った。純粋に恋をした。日誌にすらそのように書かれたらしい。老いらくの恋が始まった。
ある朝、ロビーへ向かって歩くケンさんを見かけ、呼び止めた。
「ケンさん。ケンさんですよね」
「え? ……。ああ、そうですよ」
「お話をしてもいいですか」
「どうぞ何なりと」
二人は窓際のソファーに腰を下ろした。私は、どうしてここに彼がいるのか分からなくなった。
「ケンさん。用は何ですか? 私のこと、気になるかしら」
「別に。……。いや、やはり気になる。君に渡すものがあった。思い出した」
「なあに?」
「あとで読んでくれたらいいから」
彼は藍色をしたウエストポーチの中から折り畳まれた手紙を取り出し、私に差し出した。
「あなたには私が必要なんだわ。そうでしょう?」
「そうだな。昔もそうだったし、今もそうかもしれない」
私は手紙より、今という瞬間を大切にしたかった。
「なんだか私たち、他人の気がしませんね。二人はお互いを分かり合えるというか。そのために私たちはここで出会ったのかしら」
「きっとそうだろうな」
「ケンさん、こっちへ」
私は老人の手を取り、自分の身体へ引き寄せた。
山のようなシーツを抱えて運びながら、ニコニコ見守るミチルさんが、ソファーの横を通り過ぎる。私は口づけこそしなかったが、その代わりに赤く塗った唇に人差し指をギュッとつけ、その指をケンさんのほっぺたに押し当てた。
「ハンコを押すみたいだね」
「愛の誓いです」私はケンさんに思いを伝えた。
「ハハハ。これはこれは」
照れた目元に走る皺が、笑顔でさらに数を増している。私は立ち上がるとケンさんを手招きし、廊下の隅まで誘導した。よくぞここまで、というぐらいに大胆な行動を取ろうとしていた。廊下の隅にある部屋の主はチカさんだ。いつも昼まで寝ている。それを知っていた私は、その居室のドアノブを静かに回した。九十度ぐらい開けた。二人の老人をロビー側から見えぬように隠し、ドアの向こうで老いらくのランデブーの続きを繰り広げる。そのつもりだった。
「ケンさん、ありがとう」
私は無抵抗で為すがままの男性の手を取り、左右に揺すってみたり、私の背中に回させて抱かせたりした。
「ダメよ。ダメ、ダメ。はい、そこまでえ!」
若い声がし、異変に気付いたミチルさんがドアの向こうに立っていた。彼女はドアを閉め、二人を引き離した。私の企みは中途でへし折られた。あと少しだったのに。残念そうな顔をする私を彼女は簡単に叱った。あとで、「チヅルさんの問題行動」として日誌に書かれるのだろう。別にいいよ。どうせ先が短いからね。
そして、死ぬ一月前に、私の病気は一時的に正常に戻る。自分で何をしているか、次に何をしたらよいかが判断できるようになった。それをミチルさんに言うと、あわてて長に報告しに飛んでいった。そして、帰ってくると、私にこう言った。
「チヅルさん。このまま退所なさって一人で暮らす? それとも、回復を隠したままここに居たい?」
「隠すわ。私、認知症だったんでしょ? 演技する」
余りの正確な言い回しに目を丸くして、口から唾か涎をだしたミチルさんはただただ首を何度も上下に振って、私の肩をさするように撫で続けた。
結局、私は居続けた。この暮らしを手放せない。死ぬまで続けたい。そして、あの人と死ぬまで一緒に寄り添いたい。彼に望むことは私の側にいて欲しい。それだけだった。
やがて、彼が見せてくれた手紙の意味がのみ込めた。そこに書かれていたこととは、次のようだった。
「前略、チヅルさん。あなたが抱えていた悩みを僕なりに理解した。そして、これを届けること、伝えることが君のためにできるたった一つのことだと思う。これまで、会えずにそれを伝えられなかったことを申し訳なく思う。あの事件。棚橋くんのことだが、あれは仕組まれたものではないか。それが僕の見立てだ。証拠と呼べるものはなく、周囲の証言だけが頼りだし、もう死んだ者もいて、当時のことを正確に再現することは不可能だ。しかし、君のしたことは何も悪くない。あの当時、棚橋のことを悪く思うやつがいた。加藤だ。加藤輝義。加藤が辻本を使って、棚橋に接近させた。そして、あの晩、待ち伏せていた辻本が、棚橋の部屋から君が出たのと入れ違いに侵入し、倒れていた棚橋に薬草を飲ませた(中略)。たぶんそのように自殺偽装をし、加藤の計画を実行した。辻本は部屋に放火した。警察も事故死と片付けたので、彼らに捜査の手は及ばなかった。僕も、加藤がそれほど棚橋を憎んでいたことをごく最近まで知らなかった。人間て、わからないものだ。棚橋の実直さを憎んだらしい。下世話な見方をすれば、君のことを好きだった加藤が、君の恋愛対象の棚橋を憎んだと言った方がいいのかもしれない。そして、本当に謝るべきは、自分の不実である。自分は入学時からC製薬に入りたかった。加藤輝義の父は当時C社の人事部長で、入学して以来、僕は加藤に取り入った。君らは気付かなかったかもしれない。君という存在を不満分子らのスケープゴートにしてしまった。加藤と君らの間で僕の心も揺れた。もしやと思ったが、言う勇気がなかった。たとえ証拠を集めても、加藤親子はC社の重役と社員で、自分もその会社に勤める身だ。どうにもならなかった。許してくれ。いまでも後悔している。輝義も僕も同じC社員だったのは、本当に君たちを不幸な目にあわせてしまった。そして、少し前、輝義は副社長になり、役員の僕に圧力をかけてきた。僕は、家族や人生を抱える身を案じ、やむを得ず君へ協力することを諦めた。すまない。あいつらにしても、若さ故の暴走かもしれない。加藤も辻本も後ろめたさを抱えたまま社会に出て、普通に暮らしていた。彼らが根っからの悪人であるわけでもない。ただ、あの頃、加藤らが抱いた嫉妬心は、彼らですらその恐ろしさを充分理解できなかっただろう。善良な者への当てつけだったかもしれないが、あんな結末を迎えてよいはずがない。加藤や辻本も、高齢で既にこの世にいない。僕も含めてみんなを許してやってくれ」。
そうだったのか。辻本香里がTくんにメキシコの魅力を吹き込んだのも、メキシコ旅行に途中から偶然を装って合流したのも、すべては辻本と加藤の策略だったか。そうとは知らなかった。彼がメキシコで手に入れた薬草を自分であの晩飲んだのでなく、あとから部屋に来た辻本に飲まされて昏睡状態にさせられた。辻本は部屋に火をつけ、棚橋は焼死せねばならなかった。放火殺人と偽装工作を実行した辻本、それを指南した加藤は、それぞれ事故や病気で既に亡くなり、私が復讐する機会も与えられない。Tくんと対立していた加藤輝義も悪いが、そいつの野心を少しでも気付いてあげられたら。いや、Tくん本人にその警戒心があれば……。いろいろな感情が、年老いた私の頭でゆっくりと渦を巻き、消えては浮かび、浮かんでは消えていく。私だって、足の悪いケンさんがこうして老人ホームに入所してこなければ何も知らなかった。自分が事故死の引き金を引いたと責め続けたまま、一生を終えるところだった。しかし、すべては、白髪の王子、ケンさんが認知症の私の前に現れ、彼が推測した棚橋事件の真相を知らせてくれた。一時的に症状がひいた私は、それを理解して思った。生きていくために私をいじめるしか仕方のなかった人たちがいる。長い人生、色々と言いたいことも互いにあっただろう。が、いつの世もそうして人は生きてきたし、これからもそれは変わらない。あの頃、人はああ言ったし、別の人はこんなことをしてきた。それもこれもみんな何かにぶつかりながら逞しく生き、いずれは死んでいく。誰が正しかろうと悪かろうと、人は人を傷つけながら何かを為す生き物だ。誰をも責めることはできない。でも、そこに私がいたことも忘れないでよね。
私は肩を落とし、老人ホームの窓に沈む夕陽を見つめた。私は救われた。と同時に、もはや何のわだかまりもなくなり、自分の悔恨の人生、苛まれ続けた人生はいったいなんだったろうかと思った。皺だらけの波打った肌にきれいな小川が目から流れ出し、いくつかに分かれて流れ落ちた。ポタポタ、ポタポタ。それを見たミチルさんが、優しい言葉をかけてくれた。
「チヅルさん、泣かないの。神様がぜーんぶ、許してくださるのよ」
ヒトの心は決して綺麗ではない。いじめ、対立、葛藤。毎日生きていれば誰しもが遭遇する。ユアーを始め、死んだ加藤や辻本、そのグループの連中までを、私は慈悲の心で許した。私は、真面目でいられたことを親に感謝する。どんなに攻撃されようと、やってはいけないことまでやらなくて済んだ。嫉妬、憎悪、神の仕業。ヒト同士が争うように仕向けられたのは、きっとそう。私は思った。人間が全てを滅ぼすほど強いから、人間同士を争わせる汚い心を神が持たせた。正義や芸術、科学が美しいのは汚い心から解放された結晶なのかもね。なにかを思案しては、笑いがこみ上げて微笑む姿に、みんなは呆気にとられていた。
一週間後、私はだんだんに考えていることが薄れだした。いけない。元に戻る。そこでミチルさんに書いてもらったメモ紙をポケットから出して、くしゃくしゃのそれを広げて皺を伸ばした。ああ、これだけは言わなくちゃ。メモをミチルさんに見せびらかすと、彼女は満面の笑みに大きな身振りで、「チヅルちゃん、ファイト」と言った。私の弱々しい小さな両手が咲き終えた花のようにゆっくりと閉じた。それを見たミチルさんはベッドに寄り添い、私の手を自分の手でそっと覆ってくれた。
その翌日、ホールにいたケンさんを呼び止めて、メモを見ながら私は言った。
「ケンさん。一緒に踊ってくれますか」
微笑んだ私は彼に歩み寄ると、彼の長い手を取ってワルツのステップを踏んだ。むろん、彼は足が悪いので、長い手を左右にスイングして私を振り回すだけしか出来ない。彼が人形遣いで、私は糸の付いた操り人形のように操られて、踊りを楽しんでいる。一人でユラリユラリと体を揺らした。知っていた。私のダンスパートナーが、湯浅淳平であることを。だけど言わない。言えない。ここに居たいから。病気の振りをしてでも、ユアーとの最後の想い出を、あの世まで持って行きたい。気分は高揚していた。しかし、それを邪魔する白い閃光が走った。次の瞬間、白い視界が辺りを包み、私は胸を押さえてうずくまる。発作。激しく咳き込んだ。苦しい。だ、だ・れ・か……。肺の辺り、胸。そこら辺を押さえ、呻いた。あわてた職員が駆け寄り、私の身体を抱きかかえ、自室のベッドまで運んでくれた。しばらくすると鈍痛は治まり、ボンヤリとした時が流れる。時計の針だけがコチコチと定期演奏を奏でる。すると、聞き覚えのある声がした。
「お姫様、大丈夫かい」
ケンさんだった。心配して、長い間、付き添ってくれたのか。その日は、食事の時に起きる以外はずっとベッドに身体を横たえて安静に過ごした。私が姫で彼は王子か。それが本当ならば、夢の中でも現実世界でも、私を襲う病魔を退治してほしかった。王子の力で。王子の剣で。魔物をひと突きにしてほしい。私の願望が甘い妄想を誘い込み、夢見心地のままで夜を迎える。私はウトウトと眠りこけ、朝まで起きなかった。いい思い出もそこまでだった。
二日たち、三日して、私の表情も乏しくなっていたらしい。食欲は落ち、老人の悲しい現実が私を揺さぶった。私の病気は進行した。もうダメかもしれない。ああ、私の人生はなんだったのだろう。そばにいる、この女の人は分かるが、ときどき手をとってくれる老人は誰なんだろうか。認知症が、時をユアーが来る前に戻してしまった。やがて体が重くなり、ベッドで寝て過ごす日々が何日か、何週間か続いた。
ある日、気持ちの良い朝が来た。ミチルさんは、窓をあけて空気を入れる。なんにも考えず、天井を見つめていると昼になる。食事をとった。また流動食だ。しばらくすると、足の悪い老人が部屋を訪れてくれた。元気そうな彼は部屋に入ると、私のベッドに近寄ってくる。私は目を閉じて眠っていた。彼は言った。
「現実はいつも残酷だ。しかし、ごく稀に希望が天使に姿を変えて僕に囁いてくる。それは気まぐれでいつ起こるとも知れない。天使はこう言う。『さあ、立ち上がってよ。元気を出して前を向くの。きっと報われるから』と。そんな空想を思い描ける人はきっと幸せなんだ。僕もそうだし、チヅルさんもそうなんだよ」
私の頬を指でトントンと叩いたミチルさんは、
「チヅルさん、良かったね。『あの世で会いましょう』って」
と、元恋人の優しい言葉を単純な言葉に翻訳して伝えてくれる。既に意識のなくなっていた私の顔を、午後の陽射しが照らし出した。ベッドで安らかに眠る横顔を見て、私があの世へ旅立ったとミチルさんは思ったらしい。彼女は私の顔を手で柔らかく包み込むと、こっくり頷き、ゆっくりした足取りで瑞光園のリーダーを呼びに行った。その日が、九十二歳の生涯を閉じる日となった。
(了)
泥の春