夢の中の青い女 新宿物語 3

夢の中の青い女 新宿物語 3

(2)

「霧になるなんて、天気予報ではまったく言わなかったのにさあ」
 男が不満をぶちまけるように言った。
「でも、霧ってちょっと悪魔的ね。みんなを惑わしてしまってさあ」
 女が言った。
「ほら、聞いてみな」
 有線放送がアルゼンチンタンゴから代わってニュースを伝えているのを聞いた男が言った。
「只今、東京都内全域に於いて霧が発生しています。霧は明日の朝まで続く見込みですが、この深い霧のために電車はすべて時速十キロの、のろのろ運転をしています。なお、都内のあちこちで自動車事故が多発している模様です。運転をされる方はくれぐれも御注意下さい。出来れば車を離れ、徒歩で帰るようにと、警視庁では勧めています」
「まったく、これじゃあ、車の運転なんて出来ないよ」
 男が素直に同意した。
「なんでまた、霧なんか出たんだろう?」
 バーテンダーが言った。
「なんだか、急に気温が下がって来たな、と思っているうちに、どんどん霧が深くなって来たのよ。それは驚くほどだったわ」
 女は出されたカクテルを口に運びながら、まだ蒼白んだままの顔で言った。
「今夜、帰れるかしら?」 
 佐伯の前にいたホステスが言った。
「大丈夫だよ。のろのろ運転でも電車は動いているから」
 男が言った。
「でも、あまり霧が深くなれば、電車だって止まってしまうでしょう」
「霧の夜には街中に死人の山がいっぱい出来るんですって、さっき、電器店の店先でテレビが放送していたわ」
 女が言った。
「街を歩く人が濃い霧の中で呼吸が出来なくなって、窒息してしまうんだってさ」
 男が続けた。
「だから、霧の夜が明けた朝は、街中のいたる所に出来た死人の山を片付けるのに、衛生局では清掃車を出して、死体を寄せ集めに行くんだって」
 女が言った。
「テレビで言ってたの?」
 バーテンダーが聞いた。
「ええ、さつき、電器店の前を通った時に言ってたわ」
「いやだわ、そんなにならないうちに早く帰りたいわ」
 佐伯の前にいるホステスが言った。
「いよいよになったら、ここへ泊めて貰えばいいさ」
 佐伯は言った。
「佐伯さんも一緒に泊ってくれる?」
 ホステスが営業用のお愛想を言った。
「いいね、一緒に泊まるのもいいね」
 佐伯は帰るために、半分、腰を浮かして言った。
「でも、霧は悪魔のようにドアの隙間からも押し入って来るんですってよ」
 客の女が言った。
「街中にあふれた霧は悪魔のように膨張して、行き場がなくなるとドアの小さな隙間を見付けて、家の中にもぐり込むんだってさ。だから、各家庭では厳重に注意して、隙間という隙間にはガムテープを張って、霧が入らないようにして下さい、ってテレビで言ってた」
 男が言った。
「そんなの、嘘だよ、嘘に決まってる」
 バーテンダーが笑い飛ばした。
「そうだよ、嘘だよな」
 男も言った。
「霧の中にはどうやら、濃い硫酸が混じっているようです。街を歩く人は水中眼鏡などで眼を防御して、ガーゼを三枚以上重ねたマスクをするように、都の衛生局では緊急警報を出して、注意を呼び掛けています」
 ラジオの男性アナウンサーが言っていた。
「なお、都合の付く方は一刻も早く家へ帰って冷水で眼を洗い、うがいをしてお寝(やす)みになるようにとの事です」
 アナウンサーは続けた。
「しのぶちゃん、あんたはもう帰りなさい。チーフ、看板の灯を落として、今夜はもう閉めましょう。美紀ちゃん、亜紀ちゃん、さっちゃん、あなたたちも早く帰りなさい」
 中年のママが言った。
「どうやら、早く帰って寝た方が良さそうだなあ」
 チーフの奥村が四十代らしい落ち着きをみせて言った。
「佐伯さん、お車ですか?」
 ママが聞いた。
「いや、飲む時は車は使わない」
「ああ、そうね。でも、佐伯さんのところは総武線で江戸川を超えて行くのでしょう。川を越えてしまえば、もう、安心ね」
「うん、霧は都内だけのようだから」
 チーフが言った。
「そうよ、だから家が都内でない人は早く帰った方がいいわ」
 しのぶが言った。
「俺たちは都内だから、何処にいてもおんなじだ」
 客の若い男が投げ遣りに言った。
「でも、早く帰って厳重に戸締りをした方がいいわよ」
 しのぶが言った。
「佐伯さん、追い出すようで御免なさいね」
 ママが謝った。
「いや、いいんだ。もう帰ろうと思っていたところだ」
 佐伯はスツールを降りて言った。
 酔いで足元が少しふら付いた。
「大丈夫ですか?」
 ママがカウンターの中から声を掛けた。
「大丈夫、大丈夫」
 佐伯は殊更にしゃんとした姿勢を取って答えた。いくぶん口調が乱れた。
 しのぶに送られドアの外へ出ると、街は確かに霧の一色だった。街灯の明かりを受けて流れる霧が、街全体を灰色の影にしていた。青や赤、黄色や紫のネオンサインが霧にぼやけて滲んでいた。
「確かにこれは、ひどい霧だ」
 佐伯は思わず呟いた。

夢の中の青い女 新宿物語 3

夢の中の青い女 新宿物語 3

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-08-12

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