おくれる

 たいていの企業では、遅刻はペナルティの対象になる。月に三回で一日欠勤扱いだったり、精勤手当カットだったり、ボーナスの査定に響いたり。
 初めて勤めた会社では、タイムカードの代打というのが女子社員の間で密かに行われていた。最寄りのバス停から職場まで五分ほどの道のりを、これに乗れなければアウト、というバスから降りた数名が走る。そして朝っぱらからもう無理、となった先輩から「カードお願い!」という声が飛ぶと、後輩がスパートをかけ、08:57、08:58という具合にタイムカードを連打するのだ。
  
 そうまでして遅刻を避けるのが会社員という生き物だが、これが給与や賞与に響かないとなると、遅刻を恐れる必要もなくなる。
 実際、私が以前に営業事務として働いていたところはスタッフわずか三名で、出欠を記録する制度そのものがなかった。給与は年俸制だし、社長はよそにいるので、勤務態度は同僚が密告しない限り伝わらない。
 それでも社会人たるもの、顧客もいるのだし定時に出勤するのは当然である。そう思った貴方はまだ甘い。世の中には色んな人がいて、私の同僚の一人は定時に出勤しないタイプだった。いや、定時に出勤する日が多かった、というべきだろうか。とにかく週に二、三回は「すいません何分遅れます」というメールが来るのだ。
 遅れる時間は十分だったりニ十分だったり、三十分のこともある。二十代で共働きの彼女にしてみれば、朝のうちに家の事を色々片付けていれば、出るのが遅くなるのも仕方ない、という事らしかったが、営業担当としてはいかがなものか。当然、朝一番で電話してくる顧客もいる。
 彼女としては電話をとった私かもう一人のスタッフが、うまくはぐらかすべきだと期待していたようだが、私は気心の知れた得意先には「まだ来てないんです」と率直に伝えていた。
 そうしたのは、会計事務所がいちど、彼女の給与明細を私に渡すというミスを犯したせいでもある。月給にして約十万円の差があった。当時、売り上げは右肩下がりで、その上ここまで遅刻を繰り返されて、毎日定時に出勤しているのが馬鹿らしくなっていた。
 それでも彼女の遅刻は続き、専用フォルダに集めたメールの数は百を超え、二百を超えた。その頃ついに社長から「業績が悪いので給与を見直したい」という話が出たが、とっくに仕事は激減していて、出社して一時間もすればする事がなくなる、という毎日だった。
 給与引き下げには同意できないので、私は解雇してくれるよう社長に願い出た。そうすれば失業保険がすぐにもらえる。遅刻メールをため続ける生活はもうたくさんだった。

 仕事での遅刻に比べると、プライベートでの遅刻は大した問題ではない。
 かなりの頻度で待ち合わせに遅れて来る友人がいるが、彼女との付き合いはけっこう長く、もしかすると私はのべ二十四時間以上彼女を待っているかもしれない。
 遅れる、という連絡が出発前なら話は簡単。こちらも遅く出ればいいだけだ。しかしたいがいの場合、待ち合わせの時間が迫った頃にメールが入る。人によってはそういう相手なら自分も遅めに目的地に着く、という対応もあるらしいが、それも大人げない気がする。
 誰と待ち合わせをする時でも、私は定刻より少し前に着くようにしている。相手を待たせたくないのはもちろんだが、それよりも時間ぎりぎりになって焦るのが嫌なのだ。
 このバスはニ十分で着くはずでしょ?なぜ今日に限って二十五分?三人も横並びで歩いたら邪魔なんですけど!この信号、長すぎる!
 急いでいなければ気にもならない事に、いちいち腹が立つ。これほど不毛なこともないので、私は余裕を持って家を出る。
件の友人も、遅れた時は「ごめんごめん!」と息を切らせて現れる。彼女は彼女なりに、定刻に集合するつもりではあるらしい。いちど単刀直入に「もう少し早く出たらいいだけじゃないの?」ときいてみた事がある。
「でもね」と彼女は言った。
「家を出るまでにどういう時間配分をすればいいか判らなくて、気がつくと時間がなくなってるの。だからって早く準備しすぎると今度は手持無沙汰になるのよね。で、今日は天気がいいからベランダのバラの植え替えを始めたんだけど、やっぱり時間なくなっちゃって」
 いやそんなもの、毎日出勤する時の要領と同じでしょ。そう思うのだが、まあ自分の時間感覚が万人に通じるものでもないので、なるほどね、と頷いておく。来ると判っているなら、十分ぐらい待つのは許容範囲である。
 ところが別の、これまたよく遅れる友人がある日こんな事を言った。
「うわあ遅れる!って猛ダッシュして、間一髪で電車に乗れると、すごい爽快感があるの。これが癖になって、時間ぎりぎりに出るのがやめられないのよね」
 彼女の趣味は競馬だった。根っからのギャンブラー気質らしいが、さすがに彼女の脳内麻薬放出にいちいち協力していられない。それ以後、一緒に出かけた事はほとんどない。

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待ち合わせ、時間通りに行きますか?

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-12

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