僕とコバルト。

春.Boy Meets Plants.

「……どうしよう」
 美しく七色にきらめく球根、そしてその上で小さく光る銀色の蕾を目の前にして、僕は小さくため息をついた。
「どうして買っちゃったんだろう……」
 結局、買ってしまったという事実があり、この花がここにある以上、そういう言葉は無意味なんだけど、そう呟かずにはいられなかった。別に、植物、ましてや花が嫌いなわけじゃない。ただ僕には、自分でもどうにもできない、植物に対するトラウマがあるのだ。
 植物を素晴らしく育てあげる人のことを、「『緑の指』を持っている人」というらしいが、僕は、その真逆で、育てた植物を必ず枯らせてしまう、「『灰色の指(←僕命名)』を持っている人」なのだと思う。幼稚園児だったころに育てていたヘチマもアサガオも、観察日記を書く間もなく枯れてしまった。大好きだった女の子には、彼女が旅行に行っている間に預かっていたサボテンを腐らせてしまったことで、こっぴどくふられたことさえある。それ以来、僕は悟ったのだ。僕には、植物を育てる才能がないのだと。
 それなのに、それなのに。
「なんで、買っちゃったんだろう……」
 そして、今日、何度目になるのか数えるのもイヤになるほどのため息と後悔の言葉を、僕は吐き出した。その度に思い出すのは、道端でこの花を売っていたおじさんの顔だ。顔といっても、夏の暑い最中だというのに、帽子を目深にかぶり、黒く大きなサングラスをし、あまつさえ風邪のときでもつけないようなでっかいマスクを装着していたから、はっきりとは覚えちゃいない。ただ、見るからに怪しげで胡散臭げないでたちが、閑静な住宅街で異様な雰囲気を放っていたのが印象的というか何というか。
 普段なら、そんなおじさんに声をかけられたとしても、無視して通り過ぎてしまうのだが、その時は違った。僕は、声をかけられるより早く、おじさんの目の前に並ぶきれいな花たちに、目を奪われてしまっていたのである。
 セラミックの細い棒で作られたカゴの中には、七色に光る球根がすっぽりと収まっていた。その根は地面を掴もうとするかのように、空中に柔らかな曲線を描いて揺れ、茎は凛としてまっすぐ天に向かい伸び、その上には銀色の花がまるで僕に微笑みかけるかのように開いている。その様子は、実際よりも大きく、神々しくさえ思えた。
「なかなか地球ではお目にかかれない代物だよ」
 おじさんは、花に見惚れている僕に、嬉しそうにそう話しかけてきた。それから、花たちの中でも一際あでやかなひとつを、ひょいとばかりに持ち上げる。
「これは、エアープランツの一種だよ。たまに霧吹きで、栄養剤入りの水をかけてやるだけでいい。それだけで、こんなにきれいな花を咲かすんだ。それに、この花は一生もんだよ、毎年毎年花を咲かすんだから。素敵じゃないか」
「……」
 熱心に語るおじさんの言葉を聞いて、僕の心は揺れた。「たまに霧吹きで水をやればいい」だけ。それならば、僕でも枯らしてしまうことはないんじゃないかという期待。そして、そんな一生もんだとまでいわれた花を、それでも僕は枯らしてしまうのではないかという不安。『灰色の指』は伊達じゃない。この花を自分のものにしてしまいたいけれど、それは僕にとっても、この花にとっても決していいことじゃない。
「どうした、お金のことかい?それだったら心配いらないよ。こんなに珍しい貴重な花なのに、たったの五百円だよ」
「いや、僕、いらないから……」
 ともすれば、その花を手につかんでしまいそうになる衝動を必死に抑え、僕はその場を立ち去ろうとした。次の瞬間、おじさんが僕の腕をがしりと掴む。
「高いのかね?なら、三百円でどうだ?」
「……いらないです」
 振りほどこうにも振りほどけない。おじさんの力はますます強くなる。買うというまで、手を放す気はないようだ。
「お願いだ、買ってくれ!こうなったら二百円でも百円でもかまわないっ!」
 声はさらに悲痛な様相を呈してくる。
「いや、欲を出した俺が悪かった!君の言い値でいいよ。さあ、いくらだ!頼むから、買ってくれ!」
 そんなおじさんの様子にも、僕はきわめて冷静だった。
「……痛いです。手を放してもらえます?」
「買ってくれるんだったら、いくらでも手を放すよ」
 意地悪そうに笑うおじさんの手に、さらにぎゅうっと力がこもる。
「……この花を買うか買わないかは、おじさんの話を聞いてから、僕が決めます。それに、僕の話も聞いてもらわないと、フェアじゃない」
「君は、確実にこの花たちに魅入られている。それなのに、どうして、この花を買えないというのかね。どうやら、君はワケありのようだ」
 おじさんは手を放しながら、僕の顔をじっと見つめた。その表情は、サングラスやマスクで分からないが、さっきまで感じていた怪しげな雰囲気は消えていた。
「は、じゃなくて、も、でしょ?僕と同じで、おじさんもワケあり、ですよね?」
「そうだな」
 ガハハ、と豪快に笑うと、おじさんはゆっくり身の上を語りだした。
 その話は要約すると、こんなところだった。
 おじさんは、奥さんと息子さん四人、娘さん三人、計九人という大家族の長なのだそうだ。しかし、この不況で食べていくことに精一杯。子供達に満足な学習環境を与えてやることすらできず、それがおじさんの悩みの種だった。さらに。おじさんは不況のさらなる煽りを受け、勤めていた会社をリストラされてしまう。このままでは、食べることすらままならないと考えたおじさんは外惑星への出稼ぎを決意し、今、ここ、地球にいるのだということだった。
 つまり、おじさんは宇宙人ということで、外惑星(つまり地球)に花を売る出稼ぎに来ているというわけだ。まあ、「外惑星に出稼ぎ」それ自体は、大して珍しい話でもない。
「恥ずかしい話、これが売れないと帰ることすらできやしない。たった一つでいいんだ、買ってくれないか?」
 おじさんは、今にも泣き出しそうな悲しげな声を出した。そういう切羽詰った事情があるのであれば、さっきの脅迫まがいに近いような押し売りも納得できないこともないんだけど。ただ、買い手市場の地球。まず、この地球でモノが売れないということはほとんどない。さらに、地球は他惑星よりも貨幣価値が高いから、よほどのことでもない限り、地球に出稼ぎにやって来て儲からなかったという話を、僕は聞いたことがなかった。
「……で、今までいくつ売れたの?」
「……」
 おじさんは、小さく両の手を開いてみせた。その手には手袋がはめてある。こんなに暑いのに。
 十か、おじさんの最初の言い値だったとして、五千円。それだけあれば、他惑星でなら一年は暮らせるはずだ。
「……五千円あれば、十分じゃないの?」
「……違うっ!まったく、売れてないんだよ、地球に来て一ヶ月、まったく売れてないんだ!」
 おじさんは、とんでもないとでも言わんばかりに首をぶんぶんと振り、開いていた両手をも激しく振った。どうやら、さっき両手を開いてみせたのは、お手上げ、すっからかん、という意思表示だったらしい。
「そもそも、これを商売道具として売ろうとしたことが間違いだったんだ。こいつら、お客に対して好き嫌いが激しすぎるんだよ、まったく……」
 どういうことだろう?お客の好き嫌いが激しい?
「これだけ、きれいな花じゃないか。最初は、みんな、ひょいひょい買っていってくれたんだよ。ところが、ものの小一時間も経たないうちに、売った人間全員が全員、返品にくるんだ」
 ぶつぶつと愚痴りながら、その時のことを思い出し苛立ったのか、おじさんは頭をかきむしった。目深にかぶっていた帽子がずれる。僕の目に、見慣れない緑色が映った。その色は帽子の下に。
 ?
 僕の視線に気づいたのか、おじさんは、慌てて帽子を深くかぶりなおす。そして、言葉を続けた。
「……何故だか、買われていった花たちは全て枯れてしまうんだよ。さっきも言ったように、こいつらは好き嫌いが激しいし、自分が敵だと思ったものに対しての抵抗力はすごいものがあるからね。分かってはいたことなんだが。どうも買っていった客が気にくわなくて、仲間のところに戻るためにわざと枯れてみせたらしいんんだなぁ」
 おじさんは、大きくため息をついた。そして、目の前に燦然と咲き誇る花たちを眺め、さらに、ひとつ、大きなため息。
「……不良品だと言われれば、返品を受け付け、お金を返すしかないだろう?それを突っぱねるような悪徳な商売をしてまで稼いだ金で、息子や娘を養うのはワシの道義に反するのでな」
「で、枯れちゃった花は?」
「……君の目の前にある、ほとんどの花が、その枯れてしまった花だよ」
 僕は、風になびく花たちを見た。ゆらゆらと、気持ちよさそうに揺れている。枯れた花なんて一本もありゃしない。
「……枯れてないよ?」
「仲間のところに戻ってくると安心するのか、その返品に来たお客がいなくなるやいなや、枯れた花の下から新しい花を咲かすんだ」
「花に意思があるってこと?」
「さあ、どうかね」
 ふふんと鼻で、おじさんが笑う。何だか、馬鹿にされたような気がした。
「でも、おじさん、だったら僕が買っていっても同じだよね?花、枯れちゃうよね?」
「いや、多分、君は大丈夫だと思うよ」
 自信たっぷりに言うおじさん。
「見てごらん、君の手の中を」
 その言葉を不思議に思いながら、言われるがままに、そっと手をのぞき見る。と、……僕の手の中に、七色の小さな球根があった。無意識に取ってしまったのだろうか?確かに、さっきまで、どうしてもこの花を手に入れたいという欲求が強かったとはいえ、そんな泥棒まがいなことをするなんて!
「ごめんなさいっ!」
 おじさんの鼻先に両手を差し出す僕。だけど、おじさんはそんな僕の両手を優しく包み込むと、僕の方へ押し返した。
「違うんだよ、君が取ったのでも、選んだのでもない。この花が、こいつが君を選んだんだ」
 この花が、僕を選んだ?
「珍しいね、地球人でこいつらと波長の合う人間がいるなんて。まったく売れやしなくって、もう地球じゃ無理だと思ってたよ。月や火星ならば、こいつらの原種もいるし、売れる可能性は高いと思っていたんだけどね。だから、本当は、とりあえず誰にでもいいからどうにかこうにか花を売ってしまう。そして、月までの旅費ぐらいなら悪徳な商売で稼いだ金を使ってやるつもりだったんだが……」
「やっぱり、おじさんは僕をだますつもりだったんだね。でも、そんな話を聞いても、いや、聞いたからこそ、なおさら僕はこの花を買うことはできないね」
 僕は、手のひらの球根を足元の空になっているポットへ置いた。それから、おじさんを睨みつける。
 でも、おじさんはそんな僕の視線に気がついていないのか、微笑んで言った。
「じゃあ、君の買えないワケというのも聞こうじゃないか」
 そして、僕は、おじさんのその言葉を受けて、僕の輝かしくもおぞましい『灰色の指』について語った。ところが、おじさんは切実に語るそんな僕の話を一笑にふしたのである。
「その、灰色…、の指だっけ…」
 おじさんは、笑いを噛み殺しながら、言葉を発していた。聞き取りにくいこと、この上ない。
「……それ、今回に関しては、大丈夫だと思うよ」
「え?」
 おじさんが、僕の手を指差す。そこには、球根が、あった。足元を見る。ポットに置いたはずの球根はない。さっきの球根、それが僕の手の中に。いつの間に?
「君の意思じゃないよ。こいつが、もう君を選んじゃってるから。こいつらは、賢いんだ。自分がもっとも美しく花を咲かせ、実を実らせるために、自分に一番いい環境を選ぶんだ。とりあえず、こいつは君の元で花を咲かせ、実を実らせることを望んでいる。そして、君もこの花に魅入られているんだろう?相思相愛、こんな素敵なことはないじゃないか」
「……そうなの、かな?」
「そうだよ。それから、相思相愛だってことだから、お代は結構!、とカッコよく言いたいところなんだけどね。ワシも、とにかく月までは行かなきゃならんから」
 おじさんは、また豪快にガハハと笑って、指を3本立てた。三百円か。どうにも巧いように言いくるめられたような気もするけど。まあ、高くはないし。僕は、ポケットから財布を取り出した。
「あ、ちょっと、注文をつけてもいいか?」
「……?」
「いや、三百円、全部一円玉で払って欲しいんだ。ワシの星ではアルミニウムは稀少価値が高くてね。多分、三百円分のアルミニウムがあったら、当面の生活費は賄える」
 恥ずかしそうに頭をかく。でも、おじさんの様子は、さっき頭をかきむしったときとは明らかに違っていた。同じようにずれてしまった帽子を、今度は直そうとはしない。帽子がずれ、サングラスがカシャンと、そして、マスクがふうわりと、地面に落ちる。
「……っ!」
 わかっていたことだけど。僕と話をしていたのは、まぎれもない異星人で、しかも僕が遭遇したことのないタイプで、いや、地球に人間型(ヒューマノイドタイプ)以外の異星人がいるって話すら聞いたことはないぞ!いわゆる、つまり、おじさんの顔は、どう見ても、地球で言うところの、両生類。
 カエル、それも、緑色の肌が美しいアマガエル、だった。
 おじさんは、嬉しそうにケロケロと鳴くと、最後にこう付け加える。
「ついでに、水も貰えると嬉しいだけど。いやあ、地球は暑いねぇ」
 おじさんの少し湿り気を帯びた肌が、太陽にキラッと光った。

「毎度、お買い上げありがとうございます♪」
 そして、僕は、嬉しそうなおじさんの声を背に受けながら家路についた。もちろん、手にはあの七色に輝く小さな球根を手に持っている。
 で、話は、最初に戻り。僕は、ため息、後悔の念に苛まれているというわけなのである。
 長い時間。
 球根を目の前にして、僕は頭を抱えていた。けれど、ただその球根を見つめていても埒はあかない。
 僕は、その七色に輝く球根を、とりあえず、即席で作ったセラミックワイヤーのカゴの中へ入れてみた。銀色の曲線が、七色の球根を反射してきらきらと輝く。カゴの下方に足場を作り、机の上にそっと立たせた。それから、おじさんからおまけで貰った栄養剤入りの水を霧吹きで球根に、しゅっと噴きかける。
 ぶるん、と球根が身震いしたように見えた。
 七色の輝きがさらに増したような気さえする。球根はすでに小さな蕾をつけていた。僕を選んだ花に、まだあの店先に見たような花は咲いていない。おじさんの話では、明日にでも花が咲くだろうということだったけど。
 ……枯れずに咲けばいいんだけどな。
 蕾を、右の人差し指でつつきながら、僕はぼんやりと考える。本当に枯れずに、花は咲くのだろうか。
 花が僕を選んだ。なんて素敵なことをおじさんは言っていたけれど、僕は自分の長年培ってきた『灰色の指』の力を侮ってはいない。サボテンさえも腐らせてしまった指だ。どんなに花が咲きたいと願っていても、僕の指がそれを阻害してしまうのではないか。
 ふいに、ぐう、と、おなかがなった。悩んでいても、身体は正直だ。まあ、買ってしまったんだからしょうがない。それに、たとえ、枯れてしまったとしても、花が僕を選んだ結果なんだとしたら、それも、また運命。どうせ、僕のトラウマがひとつ増えるだけのことだ。そして、『灰色の指』伝説もまたひとつ。
 うん、ご飯にしよう。
 窓辺の、一番日当たりのいい場所にカゴを移動させると、僕はヨネさんの名前を呼んだ。
「ヨネさん、おなか……」
「ここにおりますよ」
 台詞を全部言い終わらないうちに、ぬくぬくとした温かな声が返ってきた。声の方に振り返ると、満面に笑みをたたえ、右手にほうきを持った初老のご婦人が立っている。
 ヨネさんは、うちの通いの家政婦さんだ。現在、我が家にはパパとママがいない。パパは植物学の学者、ママは考古学の学者で、二人はそれぞれ研究のために他惑星へと出かけている。おかげで、一人息子の僕は6LDKの半端にでかい一戸建てにほったらかしにされ、これ以上にないほどの放任主義で育てられているのだ。まあ、両親がいないからといって、それほどの不便、不自由さはなかった。小遣いを含めた生活費くらいは自分で稼いでいたし、昼間は学校と研究に忙しかった(ちなみに、僕は学年を八年ほどスキップしている。だから、見た目よりも中身は大人で、今、ちょうどアカデミーの二回生だ)。アカデミーから帰ってからも読まなきゃいけない本や、やらなきゃいけないことでいっぱいいっぱい。逆に、親孝行というサービスをしなくていいだけ、普通の十二歳より楽なのかもしれない。ただ、家事だけは、十二歳の身ではどうにもならないだろうということで、両親がヨネさんに僕の身の回りの世話と親替わりをお願いしているのである。確かに、健康的な生活をするために、衣食住の環境を整えるということは、至極大切なことなのだと思う。どうも、僕にはそのへんの常識が欠落しているようなので、ヨネさんが通いとはいえ、いろいろと世話をやいてくれるのは正直なところありがたかった。
「いつから、ここにいたの?」
 てっきり台所にいるか、書斎でパパの蔵書を整理していると思っていた僕は、あまりにも突然のヨネさんの登場に驚いていた。まさか、この部屋にいるなんて。もしかして、球根を目の前にして百面相しているところも見られていたのかな。
「そうですね、ぼっちゃまがため息を五回ほどつかれたあたりから」
 ニコニコと笑いながら、ヨネさんはそう言った。
「あまりにも真剣な顔で、そのお花を見つめているものですから。お邪魔しちゃ悪いかと思って」
「声、かけてくれればよかったのに。大したことしてるワケじゃないんだから」
 少し拗ねた声を出す。どうも、ヨネさんの前だと、僕は年相応の子供になってしまうようだ。
「申し訳ありません。……それにしても、綺麗な花ですこと。何という名前のお花なんですの?」
「花?」
 ヨネさんの視線の先を見る。その先は、さっき、カゴを移動させたばかりの、窓辺の一番日当たりのいい場所だった。
 カゴはもちろんそこにあって、そして、そこには、さっきまでは姿かたちもなかった銀色の花が咲いていた。花の形は地球のガーベラに似ている。だが、その色は、この地球上には存在しない色に思えた。銀色で、角度によっては透明に、そして球根の色そのままに七色にも見えた。
 枯れなかった。花は咲いた。しかも、その花は、おじさんのところで咲いていた花たち以上に、僕には美しく思えた。

 一週間経って、花は枯れた。それは、まあ、自然の摂理で、枯れるべくして枯れる運命だったのだから、別段気にはしなかった。少し寂しくはあったけれど、枯れたのが僕の『灰色の指』のせいではないことは明白だったし。
 花が枯れてしまった後、僕の次の楽しみは、その実が成ることだった。おじさんが言っていたことが本当ならば、この花は、地球の花とは違い、花が枯れてしまった後、実を成し、その実から、次の花を咲かせる球根ができるのだという。
 僕は、日に日に大きくなっていく実を毎日観察していた。あまりにも、僕がその実を見つめつづけるので、ヨネさんに「そんなに見つめていると実に穴が開いてしまいますよ」と、からかわれてしまうほどだった。
 でも、そんなからかいもまったく気にならない。
 僕は、本当に嬉しかったのだ。花が咲いている間、その花弁に何度もキスをしてしまうくらいに嬉しかった。植物を育てることなんてできないと思っていた僕に、この花は喜びを、自信を与えてくれた。その花と、この先ずっと過ごしていけるのだ。そう考えるだけで、胸がドキドキする。まるで、愛しい恋人を待っているかのように。
 そして、ついにその日はやってきた。
 その日は、朝からすこぶるいい天気だった。僕は、日課になっている「おはよう」の挨拶と朝の水やりをしようと、愛しい恋人が待つ窓辺へと近づいていく。
「おはよう、今日もいい天気だよ」
 でも、そっと霧吹きで水を吹きかけようとした僕の目の前に、恋人の姿はなかった。
 え?
 セラミックワイヤーのカゴと緑色の茎と葉があるだけ。
 慌てて、周囲に目をやる。近くに落ちてはいない。昨日の時点で、かなり大きく、実はニワトリの卵くらいの大きさにはなっていたので、落ちてしまうかなぁと危惧していたのに。もっと早く、支柱をつけてあげるなりしなければならなかったはずなのに。
 僕は、愚かだ。
 花が咲いたことに満足していた。実がなったことに満足していた。自分の指が『灰色の指』でなかったことに安堵していた。もっともっと他にしてあげなきゃいけないこと、気がついてあげなきゃいけないことがあったはずなのに。
 懸命に部屋の中を探す。カゴを置いてあった窓辺の周囲、その下、カーテンの陰、ベッドの下、テーブルの下、部屋のありとあらゆるところをしらみつぶしに探した。でも、七色の実はどこにも見つからなかった。
 こぶしをぎゅっと握る。爪が手のひらに食い込むくらいに強く。胸が痛くて、悲しくて、自分自身に腹が立って、僕は泣いた。泣いてどうなるものでもないけれど、泣くことしかできなかった。やっぱり、僕は『緑の指』にはなれない、しょせん植物を死に追いやるしか能のない『灰色の指』の持ち主でしかないのだ。
 泣きながら、キッチンへ向かう。キッチンからは、甘いスクランブル・エッグの匂いがした。ヨネさんが、朝食の支度をしてくれているのだ。
「この実は、どんな球根になるんでしょうねぇ」
 僕の話を聞いて、ヨネさんも、あの実の成長をとても楽しみにしていたのに。だからこそ、無くなってしまったことをきちんと説明し、謝らなきゃいけない。
「ぼっちゃま、おはようございます。まあまあ、どうなさいましたの、そんなに目を泣き腫らして……」
「……ごめんなさい、僕……、僕、あの、あ…」
 しゃべろうとすればするほど涙が出てくる。嗚咽がこみ上げてきて、止まらなかった。
「あらあら、男の子が泣いちゃいけません。そんなに泣いたら、お花さんに笑われてしまいますよ……」
 真っ白なお皿に黄色いスクランブル・エッグを盛り付けながら、ヨネさんはニコニコと笑う。そして、僕に軽くウィンクをして、机の上にある透明なボールを指差した。
 ボールの中には水が並々と注がれていて、その真ん中には七色の実がゆらりと気持ちよさそうに揺れていた。
「ヨネさんっ!?」
「朝、台所の床にころころと転がっていましたの。それで、きっとお水が欲しいのかしらと思って……」
 ヨネさんは、ゆっくりとボールから七色の実を取り出すと、僕の手のひらに置いた。七色の実は、冷たい水の中に浸かっていたとは思えないほど、ほんのりと温かかった。まるで、生きている卵のように、というよりも卵そのものに思えるほどに、その七色の実は、トクントクンと脈打っているように感じる。
 え、トクンって?脈打つって?そう思った瞬間。
 ぱしゅん。
 僕のてのひらで、微かな音をたてて、実に小さな亀裂が走った。
 ばしゅん。
 ぱりん。
 かしゃん。
 ぱりん。
 ぱしゅん。
 そして、あれよあれよという間に、実には幾筋もの亀裂が走り、そこから割れ、はじけ、その中から。
 新しい七色の球根は。
 出てこなかった。
 その代わりに、中から銀色の花が咲いたのである。
 いや、正確に言うと、銀色の花を頭に咲かせた小さな小さな人が出て、もとい、生まれてきたのだ。その小さな人は、身体にまとわりつく実の欠片を、身体をぶるっと震わせて落とすと、僕の顔を見て、ニッコリと笑った。その髪は、コバルトブルーで、瞳も同じ色をしている。
 僕は、ドキドキしながら、その小さな人の前へ、驚かさないように、そっと、人差し指を差し出した。その指を、小さな人はぎゅっと両の腕で握る。まるで、よろしくと言っているかのように。
「……君は、あの銀色の花なの?」
 小さな人は、一瞬、不思議そうに首を傾げ、それからコクンと頷いた。
「まあまあ、なんて可愛らしいことっ!」
 ヨネさんの声が遠くに聞こえる。
 くらり。
 眩暈がした。
 っていうか、いったい何なんだ!この状況は!
 これは、植物じゃないの?球根ができるんじゃなかったの?
 頭がパニックで、ぐるぐる回る。そして、思い出されるのは、言うまでもなく、あの緑色をしたカエルおやじの顔だった。
「あのカエルのやつ~!だましやがったな~っ!!」
 そして、僕の指は『灰色の指』でないことが、見事に証明されたのである。
 だって、植物じゃなくて、人(ちっちゃいけど)が孵っちゃったんだしね。 

 結局、アカデミーの総合図書館で、文献を調べてみた結果。
 僕が買った植物は、おじさんの住んでいる星(「グリーンプラネット」という水と緑豊かな辺境の惑星である。おじさんから名前だけは聞いていたのだ)に自生しているエアープランツの亜種で『Human‐Plants』という名前だということが分かった。この植物は、個体数が決まっていて、気の遠くなるほどの長い年月を、花を咲かせては実を成し、実から球根を成し、また花を咲かすということを繰り返しているのだそうだ。ただ、実から球根への移行期に、球根になるためのエネルギーを蓄積するためと外敵から身を守るため、二~三年人型に擬態して生活するという稀有な特性を持っているらしい。
 で、おじさん曰く、僕は「この人のところなら、球根になるのに十分なエネルギーを蓄えられるゾ♪」と、この『Human‐Plants』に思われたのだということになる。つまり、波長が合うというのは、そういうことだったのだ。
 僕は、彼(性別ってあるんだろうか?わからないので、とりあえず男の子ということにしておく)に名前をつけた。その深い澄んだブルーの色、そのままに。
「君の名前はコバルトだよ」
 彼は、ちょうど窓辺に座って光合成をしている最中。僕の声に反応すると、まるで葉笛のような高いキーの音を出して、まさしく花のように笑った。

夏.あらしのあとに。

 長い梅雨の合間のある日のこと。
 ぱらぱらと雨の降る音で、僕は目が覚めた。
 時計を見ると、まだ午前六時。
 あふぅ。
 小さく欠伸、それから大きく伸びをして、眠い目をこすりながら窓の外を眺める。と、雨が降っている様子は「ぱらぱら♪」なんてかわいいものじゃなかった。
 風はごうごうと音をたてて吹き荒れ、雨はまるでバケツの水をひっくりかえしたかのようにという古典的表現、まさしくそのままに降っている。
「……台風?」
「そうみたいですね、台湾の方に向かっていたのが、昨夜のうちに急に進路を変えたらしいですよ」
 まだベッドの中にいる僕を追い立てるように手を振ると、そんな最新お天気情報をヨネさんは教えてくれた。それから、僕がまたベッドに入ってしまわないように、ヨネさんはいそいそとベッドメイキングを始める。
「ヨネさん、コバルトは?」
 起きるしかなくなった僕は、しょうがなくクローゼットから服を引っ張り出しながら、小さい友達の所在をヨネさんに聞いた。コバルトは、いつも夜寝るときには僕のベッドの書棚に置いてある、真綿をたっぷり入れたカゴの中で寝ている。が、その日、僕が目覚めたときには、すでにそこにコバルトの姿はなかった。いつもなら、僕が目を覚ますまで、コバルトも眠っているはずなのに。
「今朝は姿をお見かけしていませんわよ」
 ヨネさんも、そういえば、といったように、不思議そうに首をかしげ、僕に言葉を返す。
 遠くで雷が鳴った。風も雨も、次第に激しさを増していく。
「……コバルト?」
 僕は、十二センチの友達の名前を口にした。
 そして、次にそれよりも少し大きな声で、もう一度、彼の名前を呼んだ。
「コバルト!」
 ぴー。
 コバルトの、まるで葉笛のような声が微かに聞こえた、ような気がした。
 もう一度、さらに大きな声で。
「コ、バ、ル、トー!!」
 僕は耳をすます。
 ぴー。
 今度ははっきりと。コバルトの声が聞こえた方向へ急いで向かうと、隣の居間にある出窓にたどりついた。そこに掛けられているカーテンの端が小刻みに震えているのが見える。驚かさないように、そっとカーテンをめくると、涙(?)を目にいっぱい浮かべ、コバルトは庭を眺めていた。僕の顔を見ると、安心したかのように、一瞬、笑ったが、すぐに悲しそうな顔になる。
「どうしたの、何かあったの?」
 そう問いかけると、視線はまっすぐ台風で荒れ狂う庭に向けたまま、コバルトはすっと右手である一箇所を指差した。
 そこには、桜の木があった。樹齢何百年かの、立派な巨木である。パパ曰く、とても資産価値のあるものだって言ってたっけ。そんなどうでもいいことを思い出しながら、僕はコバルトの指し示すがままに、その桜の木を眺めた。
 そして、ようやく、僕はコバルトの涙のわけに気がついた。
 桜は、その両の腕を失っていたのである。つまり、左右に大きく堂々と突き出していた枝が、折からの強風、突風で、まるで最初からそこには無かったとでも言うかのように、折れてしまっていた。
「……コバルト?」
 僕の声に反応するでもなく、コバルトは辛そうな痛そうな、そんな顔をして桜をじっと見ていた。
 そういえば、『Human-Plants』は、感応能力が高いと、この間読んだ本に書いてあったような気がする。もしそうであるならば、同じ植物として、コバルトは桜の木の痛みを悲しみを、今、この小さな身体で一身に受けているのかもしれない。それに、コバルトの仲間が多く生息している『グリーンプラネット』の気候は、温暖で四季の移り変わりなんてないような穏やかな星らしいから、台風なんて嵐自体、コバルトの長い人生(植物生?)の中でも、初めての体験なのだろう。
 そんなコバルトに僕は何も言えなかった。ただ、いっしょに、ずっと、桜の木を眺めること。それしかできなかった。

 次の日。
 台風一過、見渡す限りの青空が広がった。
 コバルトも、今日は光合成ができるからか、少しだけ元気になったように見える。
 ヨネさん特製のサーモンサンドイッチを食べた後、僕はコバルトを手のひらに乗せ、庭に出てみた。
 庭は、すごいことになっていた。どこから飛んできたのか分からない看板やビニールシート、ゴミなんだかそうじゃないのかすら、すでに判別不能。いや、さすがにそれは分かるか。
 コバルトがしきりに地面に降りたがるので、一言、
「気をつけるんだよ」
 そう言って、地面にそっと降ろしてあげた。どうやら、水溜りで遊びたかったらしい。
 僕は、コバルトの動きに注意しながら(庭にはコバルトの天敵が多いし、気をつけないと僕が踏んでしまうこともあるからだ)、ゆっくりと桜の木に近づいていく。
 桜は、近くで見ると、さらに痛々しく見えた。昨日まで、あれほど立派に見えていたのがまるで嘘のように、小さく、みすぼらしく見える。
 でも、こんなに立派な木なんだもの。
 何かないかと、少しでもコバルトが元気になる何かがないかと、僕はじっと桜の木を見つめ続ける。
 と、そこに僕は素敵なものを発見した。
「コバルト、おいで!」
 僕の声に気づいたコバルトが、不思議そうな顔をしながら走ってくる。そして、僕の元へ駆け寄ってこようとして、そこが昨日の桜の木だと分かると、コバルトは顔をゆがめ、いやいやをした。昨日の痛みがよみがえってきたのだろうか。
「大丈夫だから、おいで」
 僕が、手を差し出すと、コバルトはしぶしぶといったカンジで、手のひらにのってくる。
「ほら、見てごらん、すごいよ」
 僕は、桜の枝の付根にコバルトを降ろした。昨日、折れてしまった枝の付根だった。
 そこには、緑色の小さな小さな、本当に目をこらさなければわからないくらいに小さな芽が生えていたのである。コバルトはびっくりしたかのように、その緑色の芽を見つめ、そして僕の顔を見た。
「すごいね、君の友達は」
 僕がそう言うと、コバルトはまるで自分が褒められたかのように笑い、えっへんとでも言わんばかりに胸をはった。
 さっきまで、いやだって顔をしてたのに。
 そんな得意げな様子のコバルトを見ると、僕まで何だか嬉しくなって、桜の周りをぐるぐる回りながら、僕もいっしょになって笑った。
 コバルトも、枝に腰掛けたままで、そんな僕と桜を交互に見ながら、光合成をしている。コバルトブルーの髪が、なおいっそうその輝きを増した。
 
 人間万事塞翁が馬。
 人生楽ありゃ苦もあるさ。
 なんて、大それたこと語るつもりもないけれど。そんな長い人生経験があるでなし。
 悲しいことは二人でいたら半分で、嬉しいことは二人でいたら倍になるんだなということが、何となく分かったような気がする。そして、幸せって、こんなものかもしれない、なんて、ちょっとだけ思ってしまったのだった。
 そう、あらしのあとに。

秋.シード・シード・シード!

 今日は、アカデミーでゼミの研究発表の日だ。
 教授も学生も、みんな一様に疲れた様子で、今日という日を迎えていた。そんなに直前にバタバタするのならば、もっと時間的に余裕をもって準備すればいいのにと思わなくもないけれど、それが大人、というものらしい。同級生の猿渡くんは、そう僕に教えてくれた。彼は、人差し指を僕の鼻のまん前に持ってくると、にやりと顔をゆがめて笑った。そして、出身地であるナニワシティのお国言葉で、こう言った。
「ええか、こういう苦しい状況も楽しめるようやないとアカンねん。いくら頭がエエゆうても、せやないと大人とは言われへんで」
 そして、彼の爽やかな(たぶん彼的には)笑顔とともに、僕の「もっと時間的余裕をもって準備をしましょう!」という案は、ものの見事にゼミメンバー全員一致で却下されたのである。
 やっぱり、大人っていうのは難しいな、と十二歳の僕はいつも思う。苦しいことが楽しいなんて。どこかおかしいとしか思えない。それとも、やっぱり子どもには分からないことで、僕のほうがおかしいんだろうか。
 でも、いくら僕が子どもだからって、あそこまで子ども扱いすることはないと思うんだよね。いや、確かに子どもなんだけど。身長だって百五十センチもないけど。夜九時になったら眠くなっちゃうけど。でも、今は知能指数二二〇もある天才児だなんて言われてるけど、もしかしたら「二十歳過ぎればただの人」になっちゃうかもしれないし。皆よりもほんのちょっとだけ、ほんの八年遅く生まれてきたってだけなのに。
 とりあえず。あんなことやこんなことを考えながらも。その「苦しい状況を楽しく♪」、というゼミ精神の影響を受け、僕も、ここ一ヶ月ほど、毎日図書館と自宅の書庫で本に埋もれる生活を余儀なくされていた。
 だけど。
 それも今日、この学会さえ終われば、解放されるはず。それを考えると、僕の心は高鳴った。あれもしよう、これもしようと、いろいろ思いあぐねていたのに。
 今になって「大きな問題」が起こってしまったのである。
 まあ、アカデミーでの問題というのではなくて。いわゆる、家庭内不和、って言えばいいんだろうか?
 研究と文献に追われ、振りまわされる日々。
 当然。家族サービスからは縁遠くなり、コバルトにかまっている時間なんてあるはずもない。
 ということは、遊び相手のいないコバルトの不満は日に日に積もっていくわけで。それでも、まだ最初のうちは窓辺で光合成をしたり、眠ったり、庭を散歩したりと、僕がいないことにも気がつかないくらいにのんびりと過ごしていたらしい。でも、昨日、急に思い出したかのように、ストレスを爆発させたのだと、ヨネさんが僕に語ってくれた。
「ええ、びっくりしましたのよ」
 大きな目を、さらに大きく見開いて、ヨネさんは言葉を続ける。
「昨日のことですけど、ぼっちゃまのお帰りを私と一緒に待ってらっしゃいましたの。そう、そこで」
 彼女が指差したのは、食卓の端にポツンと揺れる小さな安楽椅子だった。コバルトのために、僕が作ったものだ。今はそこにコバルトの姿はなく、主のいない椅子は寂しそうにユラユラと揺れている。
「今、コバルトちゃんのお気に入りはチョコレートで。昨日もそこに座って、チョコレートを食べてましたわ。自分の顔と同じくらいの大きさのチョコレートを食べる様子はとても可愛らしくて可愛らしくて……」
「それで?」
 僕は、ヨネさんに次の言葉を促した。
「それが、食べている途中で、突然立ち上がって。いつもより少し高い声を出しながら、外へ出て行こうとしたんですの」
「外へ?」
「ええ、外へ。でも、もう夜八時を回ってましたし、最近、この界隈にもノラ猫やノラ犬が多くなっておりますでしょう?コバルトちゃん、一見植物には見えませんから、きっと彼らからみたら、美味しいご馳走にみえるにちがいないでしょう?もし、食べられでもしたら大変ですもの、私、慌てて止めましたの。そうしたら、コバルトちゃんが私の指を……」
 そう呟いて、ヨネさんは右手の人差し指を撫でた。
「……噛んじゃったんだよね」
「大したことはないんですのよ!私も驚きましたけど、コバルトちゃんの方がもっと驚いてましたし。自分がそういうことをしてしまったことが、よほどショックだったのか、お部屋にこもったまま出てきませんもの……」
 そして、僕とヨネさんは顔を見合わせて、二人でため息をついた。

 それが昨日の夜の話だ。
 あの後、コバルトのことを心配しているヨネさんを駅まで送っていった後、コバルトの部屋(おもちゃの家を改造したものだ)をそっとのぞいてみると、コバルトは何か茶色いものを抱きしめたまま、泣きながら眠っていた。コバルトの健康バロメーターである頭の銀色の花は元気なく、少しくすんで見える。
 僕は、小指でコバルトの柔らかな頬に触れた。
「ごめん、明日の学会が終わったら、一緒に公園に行こう」
 コバルトが小さく寝返りをうつ。
「僕、約束するから」
 指きりをするかのように、僕はコバルトの両の手に小指をそっと近づけた。
 そして。今日の学会、研究発表!コバルトは、朝、僕が出かける時には、まだ寝てたみたいだけど。とにかく約束したんだから、さっさと発表を終わらせて帰らなきゃ!家庭サービス第一!
 よしっ!とばかりに気合を入れると、僕は発表に使うスクリーンを抱えた。
「猿渡くん、プロジェクターとスクリーンの準備するのを手伝ってほしいんだけど」
「よっしゃ!俺に任せとき!」
 朝食代わりのサンドイッチを慌てて口に詰め込みながら、猿渡くんが親指を立てオーケーサインを出す。他の皆も、最後の準備に余念がない。
 学会開始まで、あと二時間。

 研究発表に使われる第二十七教室は、ゼミ棟、一階の一番奥にあった。僕は教室にスクリーンとプロジェクターの設置をすべく、猿渡くんと二人でそこに向かっている。スクリーンは、幅二メートルはあるだろうか。重さはそれほどでもないけれど、いかんせん幅がありすぎる。僕の身長よりも、はるかに長い。それをふらふらとしながら、何とかバランスを保ちつつ、僕は歩いていた。
 横で、プロジェクターを抱えている猿渡くんが心配そうな顔をしているのが分かる。あまりにもあまりな僕の様子を見かねたのか、
「大丈夫か?変わったろか?」
猿渡くんは、身長百八十五センチの高見から、僕にそう言った。だけど、どうにもその態度と言葉が気にくわない。俺は大人なんだから、子どものお前は引っ込んどけ!、とでもいうようにしか僕には聞こえなかった。どうせ、僕は百五十センチもないですよ~だ。この怒りにも似た感情、苛立ちが、単なる僕の被害妄想だということを頭では理解していたけれど、心では理解できなかった。僕だって、大人なんだ!家族を犠牲にしてまで、がんばってるんだ!と大きな声で叫びたい気持ちで、胸の中はいっぱいだった。
「……別に、大丈夫」
 僕は、首を振る。平気だ、という精一杯の自己主張だった。別に、スクリーンが重くて、それで言いたいことが言えないわけじゃない。
 僕のその自己主張を、猿渡くんは、ふーん、という風に軽くかわす。そして、
「ドア、俺が開けたるわ。カギ、それ貸してや」
ヒョイと、事も無げに片手でプロジェクターを抱えなおし、空いた方の手で鍵を回すそぶりを見せた。
「大丈夫、僕、開けられるから」
 僕も、片手でスクリーンを抱えようとする。一瞬だったら、大丈夫。左手でスクリーンの真ん中あたりを持って。それから、右手で、ポケットの中のカギをまさぐった。
 ゆらり。
 スクリーンの重さにつられて、バランスを崩した僕の身体が何の抵抗もなく、左の方へ傾いた。そのまま、スクリーンごと、床に倒れ込む、はずだった。
 が、触れたのは床の冷たい感触ではない。
「アホたれ!」
 僕の身体は床に倒れることなく、猿渡くんの腕に抱きとめられていた。というと、何だかとてもロマンチックな様子が想像されそうだが、実際のところ、猿渡くんの右手はスクリーンを、そして、僕の身体は、彼の立派な右足が僕の背中を蹴るような感じで支えているだけ。お世辞にも、格好いいもんじゃなかった。
「何をアホなことやってんねんっ!」
 すごい勢いで怒鳴られる。
「出来ひんときは、出来ひんって言わなアカンやろ!せめて、スクリーン下に置いてからにしいや。カッコつけてケガなんぞしたら、その方がアホらしいわ」
「…………」
「それから、助けてもらったときは、何ていわなアカンのん?」
「…ありがとう、ござい、ます」
 僕は憮然としたまま、謝った。
「せや、で、ドアは俺が開けたるから。カギ、どこや?」
「……上着の右ポケット」
「最初から素直にそう言えばエエねん」
 猿渡くんは、そう言いながら、でっかい手を僕のポケットに突っ込んだ。チャリンというカギの音と、それから、
「っつぅ……った~」
という、猿渡くんの痛そうな声。
「ポケットに何入れてんねん、何か、思いっきし指に刺さったで」
 え?カギ以外に何か入れてたっけ?
 僕は、(しょうがなく)いったん、スクリーンを下に置いてから、そっとポケットに手を差し入れてみた。硬い金属質のカギの感触と、それからやわらかい、ふうわりとした、何度も触れたことのある感触……。
 ハンカチ?ティッシュ?違う、これは!
「コバルトっ!?」
 僕は、大切な家族の名前を口にした。その声を聞いてか、ポケットから、ひょっこりとコバルトが顔を出す。
「……コバルト、何で、こんなところにいるの?」
 僕と目が合うと、何もかも許してしまいたくなるような顔でにっこりと笑って、それから、トン、床に飛び降りると、ものすごい勢いで走り出した。
「え、ちょ、ちょっと待ってよ、コバルト~っ!」
 慌ててコバルトを追いかける。と、がしり、強く腕を掴まれた。
「ちょ、ちょっと、何、え、猿渡くん?」
「……あれ、何だ?」
「だから、今はそれどころじゃないんだってば。早くしなきゃ、コバルトがぁ~」
 コバルトは、小さいのに、いや小さいからか、とてつもなく足が速かった。僕が、猿渡くんに足止めされている間に、どんどん僕の視界から遠ざかっていき、廊下の端の方でとうとう見えなくなった。
「あぁ~、コバルトォ~」
「だから、何なんだよ、その、何?コバルトって?」
「うるさい、その手、はなし」
 そのとき。
 ぴろりろ、ぴろりろ。
 携帯が緊張感のない着信音を奏でた。何だって、こんなときに。
 ピッ。
「……はい」
「ぼっちゃま?ヨネでございます。大変ですわ、コバルトちゃんがいませんのよ~」
 ヨネさん、遅いよ~!
 学会開始まで、あと一時間。

 ヨネさんに一通りの事情(と言っても大した事情じゃないけど)を説明してから、僕は電話を切った。コバルトのことが心配で、今すぐにでもここに来ると言うヨネさんを説得するのは並大抵のことじゃなかったけど、「コバルトが、もし家に帰ったときに誰もいないと大変だから、ね?」と言うと、しぶしぶ自宅待機を承諾してくれた。
「それじゃあ、コバルト、見つかったら必ず連絡するから」
「わかりました。……ぼっちゃま、コバルトちゃん、必ず見つけてくださいましね」
 電話の向こうで、ヨネさんが鼻をちーんと噛みながら、強い口調で僕に言う。
「うん、必ず見つけるよ」
 さてと。
 僕はコバルトが消えていった廊下に、とりあえず視線をはしらせた。もちろん、コバルトの姿はない。見つけるといっても、どこをどうやって探せばいいのやら。
 まあ、いくら足が速いとはいっても、あのサイズだと移動できる距離にも限界はあるだろうし。多分、賢いコバルトのことだ。何か目的があって行動してるとは思うんだけど。
 とにかく、じっとしていても埒はあかない。急いで探さなきゃ。
 携帯電話をジーンズのポケットにしまう、と、電話を切るタイミングを待っていたかのように猿渡くんが呟いた。
「……ジュニア、何やの、あれ」
 僕は、コバルトのことに頭がいっぱいで、すっかり猿渡くんの存在を忘れてしまっていた。ちなみに、ジュニアというのは、僕の通称だ。パパもママも、このアカデミーの卒業生ということ。そして、分野は違うけれども博士号を持っていて、この大学の客員教授であること(プラスどうやら二人ともアカデミーでは有名な変わり者だったらしい)などから、僕は入学したときから、この通称で呼ばれている。実のところ、僕のオリジナリティが認めてられていないようで、あまり好きな呼び名ではなかった。
「ごめん、僕、ちょっと行かないと……」
 コバルトが消えていった方向へ走り出そうとする僕。
「……待てって」
 止める猿渡くん。
「発表、どないするつもりや?」
「それまでには戻ってくるよ」
 あと一時間弱。それまでにはコバルトを見つけて、ヨネさんに連絡をして、コバルトを迎えに来てもらって、多分、何とかなるはずだ。
「せやなくてやなぁ……」
 猿渡くんは、眉根に皺を寄せて、アカンなぁ、と呟く。
「……アカンって、何が?」
「せやから、ジュニア、今、俺ら何しようとしてたか分かってるん?」
「あ……」
 そうだった、学会の会場準備をしようとしてたんだっけ。それを中途半端なままにしたままで、僕はコバルトを探しに行こうとしている。でも、コバルトは大事な家族で。だけど、学会の準備もおざなりにしていいことじゃなくて。
 頭の中がぐちゃぐちゃになる。
 急がなきゃ、コバルトはどこかに行っちゃったし。
 急がなきゃ、学会は始まっちゃうし。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。どうすることが一番良いことなんだろう?分かんない。
 ぐっと、歯を食いしばる。思わず、涙がこぼれそうになるのを、我慢して、でも我慢できなくて、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
 くそう、泣くな、僕。
「……ジュニア、泣いてる場合やないんちゃう?」
「……でも、だって、どうしていいか、分かんない」
「あーもーっ!」
 猿渡君に、両肩を掴まれる。すごく強い力で、むりやり猿渡くんに正面を向かされた。猿渡くんは中腰になっていて、僕の目の前に彼の顔があった。
「あのな、ジュニア、自分、何か勘違いしてるんとちゃうか?」
「……?」
「俺は、両方ともやれ、言うてるんとちゃうねんで。……だから、いつまでたっても子どもやっちゅーねん」
 僕は、猿渡くんを睨みつけた。それは、今言うことじゃない。僕が、子どもか大人かなんて。
「それが大アリなんや」
 まるで、僕の心を読んだかのように、猿渡くんは言う。 
「ジュニアは、大人なら、こないなときにはどないすると思ってんねん」
「……両方とも、きちんと片付ける」
「はい、不正解」
 ブーっと、不快なブザー音を口で出しながら、猿渡くんは頭の上に両手で大きなバツを作った。
「……なら、大人なら、猿渡くんなら、どうするの?」
「昔から、言うやろ?二兎追うものは一兎も得ずってな」
 うんうん、と自分に酔っているかのように頷く猿渡くん。さすがに国文科の人間だけあって昔の言葉を知っている。慣用句、だったっけ?
「そういう場合、大人はまず優先順位を考える。で、優先順位の高い方だけに集中すんねん」
「だったら、もうひとつは?どうするの?」
 僕の中の優先順位で考えたら、どう考えたってコバルトの方だ。でも、学会の準備だって……。
「もうひとつは、信頼できる人間に頼むとか、そんなこっちゃ」
 当然というように、猿渡くんが言った。それから、僕の顔をじっと見る、すごく真剣な顔で。
「……あのちっこいの、俺には何かよく分かれへんけど、ジュニアの大切なもんやねんなぁ?」
「僕の、大切な、家族だから」
「だったらもちろん、ジュニアが探しに行かなアカンわけやろ?せやったら、学会の準備は?」
 学会の準備は、そう。そうだ、大きな声で。
「……猿渡くん、お願い!」
 僕は、両手をパンっと合わせた。
「あのちっちゃいのは、僕の大切な家族で、僕が最近かまってあげてなかったから、それで淋しくてアカデミーまで付いて来ちゃったんだと思うんだ。だから、猿渡くんが噛まれちゃったのも僕の責任だし。僕が探しに行かなくちゃいけないから。だから、発表が始まるまでには帰ってくるから。ゴメン、後の準備は任せてもいい、かな?」
 一息つく間もなく、一気にそれだけの台詞を吐き出すと、僕は大きく息をついた。それから、猿渡くんの目を見つめる。
 その僕の言葉を聞いて、猿渡くんはニヤリ、と笑った。
「オーケー、ジュニア!」
 それから、携帯を取り出し、
「……あー、もしもし、未谷?今から、二十七教室まで来いや。え?ああ、ジュニアは、ちょっと急用できてもうてん。それから、烏丸とか犬上は?いけんねやったら、ヤツらも一緒に頼むわ。ほな、あとでな」
 ピッ。
「って、ことやから、安心してエエで。はよ、あのちっこいの、ああコバルトだっけ?探しに行ってき」
「猿渡くん、ありがとう!」
 お礼の言葉が、すんなりと言えた。
 照れ臭そうに、猿渡くんは、右手の人差し指で僕のおでこを、軽くピーンとはじく。
「……いたっ」
「ま、大人への第一歩指南ってとこやな。今回は大まけにまけて、タダにしといたるわ」
「……僕、大人になったの?」
「まだ、はじめの一歩、ちゅうところやけどな。自分が子どもやってことを自覚できてからが、大人へのファーストステップや」
 片目でウィンク。その仕草が、妙にサマになる。それが、猿渡くんなのだ。
「大人って、難しいんだね」
 それが僕の素直な感想。
「まあな、っていうか、ジュニア、はよ探しにいかなアカンとちゃうの?」
「あ」
 慌てて立ち上がる。
「後は、俺らに任せときって!なっ?」
 うん、僕は頷くと、廊下を走り、コバルトの後を追った。

 コバルトが消えてしまった廊下の端まで来ると、僕は、無理だろうなぁと思いながらも、コバルトの名前を呼んでみた。
「コバルト?」
 もちろん、返事はない。
 さて、どうしよう?とりあえず、コバルトが行きそうな場所を考えてみた。
 コバルトは、もともと植物だ。ということは、水辺か土のあるところか。そう考えてみると、このコンクリートだらけのアカデミーでは場所も限られてくる。
 !
 農学部の温室、だ!
 僕は踵をかえし、農学部棟へ向かおうと振り返った。
 その瞬間。僕が向かおうとした方向、つまり農学部の温室がある方向から、ぼうんっ、という何かが弾ける音。そして、バツンという亀裂音が、その後に続く。……多分、温室のビニールが破れた音。
 絶対に間違いない、コバルト、だ。
 僕は、コバルトがそこにいることを確信して、嬉しい半分、不安半分で一目散に走り出した。

「コバルトっ!」
 案の定、やっぱり、コバルトはそこにいた。温室の真ん中、大きな、僕が今まで見たことのないようなでっかい木の枝につかまって、くるくると回ったり、枝を滑り台にしたりして遊んでいる。僕に気づくと、ぼうんと、そのまま僕の手のひらに飛び降りた。
「……何しているの?」
 僕は、怒っている声のトーンでコバルトにそう言った。
「?」
 コバルトは、どうして怒られているのか分からないと言ったふうに、首を傾げる。そして、僕の鼻先にそっと両手を差し出した。その手のひらには、銀色に光るモノが載っている。
 僕は、それを手にとってみた。それは、それ自体が銀色に光っているわけではなくて、何かに銀色のアルミ箔のようなものが巻かれている。そのアルミ箔のようなものを剥がすと、中からは茶色いモノが現れた。
 ふわっと甘い香り、チョコレート?
「コバルト、これって?」
 僕の言葉を聞いて、コバルトは目の前の木を指差す。つられて、僕もその木に視線を移した。
 その木には、鈴生りにという言葉ぴったりに、銀色の実がたくさん揺れていた。それは、僕の手の中にあるチョコレートと同じもので。ということは、これってチョコレートの木、なの?
 そういえば、「コバルトちゃんの最近のお気に入りはチョコレート」、ヨネさんが、そんなこと言ってなかったっけ?
 でも、どうして、カカオの木ならいざ知らず。そんな途中過程飛び越えて、チョコレートが生ってるんだ?しかも、ご丁寧にアルミ箔もどきまで付いて。
「コバルト?」
 頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになりながら、コバルトの名前を呼ぶ。コバルトはそんな僕の気持ちを察したのか、今度は、薄い茶色のアーモンド型をしたモノを取り出して、僕に見せた。いや、それは間違いなく、正真正銘のアーモンドだ!
 僕の手のひらから飛び降りると、そのアーモンドをコバルトは僕の足元に埋めた。それから、そのアーモンドを植えた周囲をクルクルと踊る。
 ピョコ!
 芽が出る。
 パッ、ピョン。
 葉が出て、双葉になって。
 ニョキニョキニョキ~。
 コバルトの踊るリズムに合わせ、それはみるみるうちに成長して、つぼみになって、花が咲いて、あっという間に銀色の実を実らせた。
 コバルトを見ると、いかにも満足げだ。そして、僕と目が合うと、「食べて」、とでも言いたげに、万歳をした。
 もちろん、そんなコバルトの様子に僕が勝てるわけもなく。僕は、チョコレート?を口の中に放り込んだ。
 チョコレート?は、口の中で柔らかく溶けた。甘い、優しい味がした。
 これは、チョコレート?なんかじゃない。まさしく、正真正銘のチョコレートだ!
 溶けたチョコレートの中には、アーモンドが入っていて。ああ、そうか、このアーモンドは、チョコレートの種なんだな、と思う。僕たちには無理だけど、コバルトになら、このアーモンドはチョコレートの種になるんだ。
 何だか、幸せな気分になる、そんな味。ふと、猿渡くんや、ゼミの皆に食べさせたくなった。
 コバルトは、そんな僕を見て、ニコニコ笑うと、手の中にあったチョコレートにかぶりついた。

 その後。
 ヨネさんに、大量のチョコレートとコバルトを引き取って貰い、僕は急いで二十七教室に向かった。発表はちょうど、猿渡くんの出番が終わったところで、僕は何とか自分の出番までには間に合った。
「危機一髪やで、自分?いけんのか?」
 壇上に上がろうとする僕とすれ違う瞬間、猿渡くんが呟いた。すかさず、僕はこう返す。
「こういう苦しい状況も楽しめるようじゃないと、大人じゃないんだよね?」
 で、片目でウィンク。猿渡くんの十八番。
 おっ、と、少し驚いたような顔をして「ちょっと大人になったやん」と、猿渡くん。
 不謹慎ながらも、小気味いい、軽いぱんっという音をたてながら、僕たちは手と手を打ち合わせた。
 そして、学会はとりあえず大成功の内に幕を閉じた。僕たちの忙しい一日が終わる。ほんの少しだけ大人になった僕、というオマケ付きで。
 でも、大人までの道のりはまだまだ、みたい。
 でも、しょうがないよね、だって、まだ、十二歳なんだもん。

冬.猿渡くんの日常。

 その日は朝から雨だった。
 雨が降ると、コバルトは元気がなくなる。それは、お日さまが大好きで、光合成が大好きな植物のコバルトなら当然のことなんだけど。それ以上に、その日は、機嫌までも悪かった。
 朝、洗面所で日課の水浴びをしていたコバルトに、
「おはよう、コバルト」
と、声をかけたのに、いつもの可愛い「おはよう♪」のポーズもなく、ぷいっとそっぼを向かれてしまったのである。
 で、そのまま、コバルトは自分の部屋に閉じこもってしまった。僕が何度名前を呼ぼうとも、出てくる気配すらない。
 ちなみに。コバルトの部屋は、いわゆる○○ちゃんハウスというものを僕が改造したものだ。余談だけどね。
「ねえ、今日はどうして機嫌も悪いんだろうね?」
 僕はヨネさんお手製のマーマレードを、これまたヨネさんお手製の極上クロワッサンにたっぷり塗りながら、コバルト不機嫌の理由を考えていた。
「そうですわね」
 ヨネさんは、うーんと考え込むポーズをしながら、当然のように、
「まあ、理由は、これ、しか考えられませんわね……」
そして、「これ」のところで、僕の横に目をやる。
「んあ、何やて?」
 ヨネさんの視線の先には、頭に寝癖をつけ、僕の小さなパジャマを窮屈そうに着た猿渡くんが座っていた。
「ん?どないしたんや?」
 熱いブラックコーヒーを口に運びながら、とても興味深いとでもいうように、猿渡くんがあたりを見回す。
「どないしたんや、じゃなくて、もう……」
 僕は、クロワッサンの最後のひとかけらを口に入れると、猿渡くんの顔を見て、大きくため息をついた。

 どうして、我が家の楽しい朝の食卓に、いかにも場違いな猿渡くんがいるのか?
 それは、昨日の夜のこと。
 ピンポーン♪
 決して人の家のチャイムを高らかに鳴らしてはいけない、とても非常識な時間に、なぜか我が家のチャイムはいつも通り軽やかな音をたてた。
 ちょうど、ヨネさんが家事をすべて終わらせて帰る時間で、僕はコバルトといっしょにヨネさんを玄関まで見送ろうとしていた。
 そのとき。チャイムが鳴ったのだ。
「……誰だろう?」
 と、僕。
「……最近、不審者が多いそうですし。子どもと年寄りだけだと思ってのことかしら?」
 と、ヨネさん。
「?」
 と、コバルト。
「とにかく、私、出てみますわね……」
 ヨネさんが、インターホンの受話器を取り、通話ボタンを押す。と、その受話器の向こうから、
「じゅ、に、あ~~~~~~っ♪」
 脳天から突き上げてくるかのような、でっかい声が聞こえてきた。は?じゅにあ、ジュニア?ってことは、僕の知り合い、
「猿渡くんだよ~ん♪」
……、猿渡くんだ。
 僕は、頭を抱えながら、ヨネさんから受話器を受け取った。さっきの脳天突き上げ声が耳にきたのか、ヨネさんは目を白黒させている。確かに、お年寄りに、あの猿渡くんの声は凶器だ。
「……僕だけど」
「おおっ、じゅにあ~!自分なぁ~」
 相手が僕に代わったことに機嫌を良くしたのか、猿渡くんの声は一段と高く大きくなった。と、ふいに、そのむやみにでかい声がくぐもった声に変わる。どうやら、インターホンの向こうには、猿渡くん以外にも誰かいて、その誰かが五月蠅い猿渡くんの口を何らかの方法で塞いだようだった。
「ごめん、ジュニア、未谷だけど……。本当に夜遅くごめんね」
「あ、未谷くんも一緒だったんだ」
 未谷くんも、僕や猿渡くんと同じゼミに所属している。猿渡くんなんかと違って、すごく大人で落ち着いた雰囲気の理想のお兄さんといったカンジだ。アカデミーの中にファンクラブがあると言う話も聞いたことがある。実は、僕、確かに、カッコいいとは思うんだけど、ちょっと完璧すぎるような気がして苦手だったりするんだよね。
「うん、僕だけじゃなくて烏丸と犬上もなんだけど」
 ごめんね、と何度か繰り返しながら、未谷くんは続けて言った。
「ねえ、ジュニア、迷惑かけついでに悪いんだけど。この粗大ゴミ、今夜一晩預かってくれない?」
 粗大ゴミ=猿渡くん、のことか。なるほど、言い得て妙だ。
 って、感心している場合じゃない!
「え?どういうこと?」
「もう、疲れちゃったんだよね、いいかげん、これの面倒見るの」
 未谷くんは悪びれもせず、さらっとそんなことを言う。多分、あの、いつもの涼しげな顔で、ちょっと笑顔を浮かべながら言っているに違いない。
「いつもだったら、駅にでも捨てとくんだけど。猿が、『じゅにあ~!』ってずっと叫んでて。で、よくよく考えたら、ジュニアの家、近かったよなぁと思って」
 ニッコリ。
 悪魔の微笑みが見えるような気がした。
「ここ、玄関先に置いておくから。何か、猿、たった今寝ちゃったし。まあ、もしイヤだったら、ほっといていいよ。大丈夫、そう簡単に人間って死なないから」
「え、ちょっと、未谷くんっ!」
「じゃあ、おやすみ、ジュニア」
 未谷くん、ばいばい、とばかりに手をひらひら。
 ぷつっ。
 インターホンが切れると同時に、僕は玄関へ向かった。勢いよくドアを開けると、黒い物体がゆらりと倒れ込んでくる。
 猿渡くん、だ。
「おやすみ~♪」
 遠くから、声の三重奏。慌てて、声の方を振り返ると、未谷くんと烏丸くんと犬上くんが大きく手を振りながら、闇に消えていくところだった。

 結局、心の優しい僕は、猿渡くんをそのままにしておくこともできず。よだれをたらして、幸せそうに寝ている、その未谷くん曰くの粗大ごみを往復ビンタで起こして、家の中にひっぱりこんだ。そして、そのままの格好じゃあまりにもひどかったので、むりやり僕のできるだけ大きめなパジャマを着せ、キッチンのソファーに毛布をかぶせて寝かせたというわけだ。
 で、朝のあの情景に戻るのである。
 猿渡くんは、ブラックコーヒーを飲みながら、まだ、周囲をきょろきょろ見回している。身体からは、かすかに煙草とお酒の臭いがした。
 それから、コーヒーの最後のひと口をグイっと飲み干すと、猿渡くんは、なぜかひそひそ声で僕に聞く。
「……ジュニア、ここってどこやねん?」
「……」
 僕は、頭を抱えた。何で、何にも覚えてないわけ?あれだけのことしといてっ!
「……ここは、僕んちだよ」
 納得いかない、憮然とした声で僕は答えた。目は完全に猿渡くんを睨んだままで。
「ええっ!?ジュニアんちかいな?」
 心底驚いたとでもいうように、大きい声を出し、猿渡くんが目を丸くする。そして、その自分のでかい声が頭に響いたのか、あいたたた、という情けない声を出しながら、机に突っ伏した。
「……で、未谷たちは?どないしてん?」
「粗大ゴミを僕におしつけて、すぐに帰ったけど」
「粗大ゴミって……」
 俺?とでも言うように、人差し指を自分に向ける。
 僕はいっさいためらうことなく、大きく頷いた。
「あちゃー……」
「何が、『あちゃー』なの?」
 まさか、『あちゃー』なんて言葉が出てくると思わなかった僕は、思わず問い返す。しまった、まだ怒ってるはずなのに。
「……いや、こないだの学会のとき、あれだけジュニアに大人とは何たるかを散々語ったってのにな。俺がこれじゃ、まったく説得力ないなぁと思って」
 ああ、そういうことか。
 どうやら、猿渡くんは、こんな醜態を僕にさらしてしまったことを、かなり後悔しているらしかった。机に突っ伏したままで、「でもなぁ~」とか「未谷め~」とかぶつぶつ言いながら、頭をかきむしっている。
「猿渡さま、でしたかしら?コーヒーのおかわりはいかがです?」
 ニッコリ。
 場の雰囲気を変えようと、ヨネさんが、猿渡くんにコーヒーのおかわりをすすめた。
 猿渡くんはボーっとした顔でヨネさんを眺めて、それから思い出したように、
「せやったら、コーヒーにブランデーたらしてもらえると、ごっつ嬉しいねんけど」
と、呟く。
 え、どういうこと!
 呆れた顔で、僕が猿渡くんの顔を見ると、猿渡くんはニヤリと笑った。
「今、二日酔いでごっつ頭痛いねん。こういうときは、迎え酒や!」
「……あいにく、この家にブランデーはございませんわ」
 ヨネさんも呆れた声で、猿渡くんのふざけた要求を突っ返す。おそるおそるヨネさんを見ると、ヨネさんの目は確実に僕にこう言っていた。
『ぼっちゃま、こういう方とお付き合いしてはいけません!』
 僕も、そうは思うんだけどね。
 思わず、苦笑い。
「そっか、せやな、ジュニアは酒飲まれへんしな。なら、エエわ」
 猿渡くんは椅子から立ち上がると、さっきまで寝ていたソファーへと移動した。
 どうしたんだろ?
 それから、ソファーの背にかけていたジャケットやズボンをごそごそと探っている。
「あれ?ないな~」
 どうやら、何かを探しているらしい。
 はあ。
 もう、付き合ってらんないや。
 僕は、何か探している猿渡くんを無視して、ヨネさんに聞いた。
「コバルトは?」
 ヨネさんも、とりあえず猿渡くんはいないものとすることに決めたらしい。ちょっと悲しそうな顔をして、
「まだ、ですわ」
と言って、首を左右にふった。
「でも、おかしいよね。こんなに機嫌悪いなんて」
「ですわね。いくら雨と、これ、のせいだとしても」
 確かに。
 でも。もう、雨はそろそろ上がろうとしている。雲のすきまから、お日さまが少しだけ顔を見せていた。
 もしかしたら、そろそろコバルトのご機嫌もなおっているかもしれない。
 窓辺の一番日当たりのいい場所に置いてあるコバルトの部屋に、そっと僕は近づく。小さなコバルトハウスは、雨上がりのあたたかな陽光を受けて、きらりと光っていた。
「コバルト?」
 名前を呼ぶ。
 すると、いつもの可愛らしいピーっという高い音ではない、とても不機嫌そうな、低い音が聞こえた。
「……コバルト?」
 もう一度、呼んでみる。
 ごそり、と中でコバルトの動く音がした。窓をのぞくと、ちょうどベッドから起き上がったばっかりのコバルトが、顔をくしくし、していた。それから、んーっと背伸びをする。
 あ。
 コバルトと目があった。コバルトは、しまった、とバツの悪そうな顔をして、それから慌てて柱の影に隠れる。片目だけは僕の方を見たままで。
 まったく、世話がやけるんだから。
「コバルト、おいで。もうお日さま出てきたから、あったかいよ」
 僕が小さく、おいでおいでをすると、コバルトはそーっと柱の影から出てきて、そして僕が開けておいたドアから部屋の外へと姿を見せた。
 半日ぶりの対面。僕は嬉しくて嬉しくて、コバルトへ顔を近づけた。
「コバルト!」
「…………ッ!」
 コバルトが、僕の声に反応して、イヤイヤをしながら頭を抱え込む。目にいっぱいの涙をためて。
 ぷーんと、コバルトから何かのにおいがした。それは、昨日から、何度も嗅いでいるにおいで。そして、それは、僕があんまり好きじゃないにおいで。
 まさか、まさか、まさかっ!
 慌てて、コバルトを手のひらにのせると、思いっきりコバルトのにおいを嗅いだ。いつもだったら、お日さまをいっぱいに浴びたあたたかな草の香りがするのに、今日の、この不快なにおいは、間違いなく。
 お酒だっ!
 でも。まさか、コバルトが自分からお酒を飲むわけもないし。考えられる犯人は、どう考えても、一人しかいないけど。
 でも、どうやって?
 ふと、コバルトの花瓶が見えた。花瓶と言っても、ちょっと普通とは違う。つまり、植物であるコバルトがいつでも栄養たっぷりの水が飲めるように、ヨネさんが新鮮な水が入った深めのお皿を常時準備してくれているのだ。
 その花瓶の横に銀色に光る缶のようなものが転がっている。
 それは、ブランデーとかウイスキーとかを携帯して持ち歩くフラスコだった。不思議に思いながら、手にとってみる。逆さにすると、一滴、琥珀色の液体がポトリと落ちた。
 中身は、ない。
 中身は、どこにいった?
 ヨネさんが毎日換えているはずの花瓶の水は、きれいな薄い琥珀色に染まっている。
「コバルト?」
 ひっく。
 名前を呼ばれると、コバルトはちっちゃなしゃっくりをした。それから、何ともしまりのないげっぷも。そのげっぷは紛れもなく、お酒のにおいしかしなくて。
 ふーん、そういうことをするのか。
 僕は、そのフラスコを手にとると、
「……猿渡くん?」
僕の大事なコバルトをこんなにした悪の元凶の名前を呼んだ。
「ん?あ、ジュニアが持ってたんやな?それなぁ、未谷からもろうてんけどなぁ」
「これ、猿渡くんのなんだよね?」
 僕はもう一度確認する。
「せやな、とりあえず、今は俺のもんやな」
「昨日の夜は、この中いっぱいだったの?」
「おう!けっこう高いブランデーを店で入れてもらってん」
 なぜか誇らしげに言う猿渡くん。
 僕は、もう一度、猿渡くんの目の前でフラスコをひっくり返した。
 今度は、一滴も落ちない。
「え、何で?何も入ってへんの?」
 すぱぁーん。
 次の瞬間。
 僕は、猿渡くんを平手で叩いていた。
 
 後日。
 僕は、猿渡くんから、「ごめん、俺が全面的に悪かった」メールをもらった。
 でも、当分、許してあげる気にはならない。だって、僕の大事な家族をあんな風にしちゃったんだから。
 それを許してあげられるのが大人だよって、未谷くんは言ってたけど。
 もし大人になるってことが、そうなんだったら、僕は別に大人になんてならなくていいもん。
 そして。多分、僕は大人になっても、お酒は飲まない。絶対に。
 そんな誓いを立てた、十二歳の冬だった。
 酔っ払いなんて、大嫌い!

春.そして、また春が来る。

 パパとママから電話が入ったのは、三月も終わり。そろそろ、桜の開花宣言が南の方から聞こえ始めてきたころだった。
 そのとき、ちょうど僕は、もうそろそろ寝なきゃとばかり、しゃかりきに歯を磨いているところだった。最近、ゼミの皆との付き合いでスィーツの食べ歩きをさせられているせいか、どうにも虫歯が気になってしょうがないのだ。やっと、生えそろったばかりの永久歯が虫歯にでもなったら、たまったもんじゃない。ヨネさんには、「そんなに磨いたら、血が出ますわよ」と心配されてるけど、磨き始めてしまうと、妙に歯ブラシを握る手に力がこもっちゃうんだよね。
 そんな僕の横では、コバルトが不思議そうな顔で、僕の様子を眺めていた。確かに、コバルトは外見上、まるで小さな人間にしか見えないけれど、実際のところ、彼(いや、その性別すら不明だけど)は植物。僕の生理現象なんて理解不能なんだと思う。そういえば、あまり深く考えたことはなかったけれど、コバルトの身体内部っていったいどうなってるんだろう?人間みたいに食べたり飲んだりしてるけど、それはどうなるんだろう?
 僕は、歯を磨いていた手を止め、コバルトをじっと見つめた。コバルトも、僕を見つめ返す。が、僕の視線がいつもとは違うものだと感じたのか、その顔に一瞬、怯えが走り、コバルトはあわててヨネさんの後ろに隠れた。
 研究してみたい……。
 一度考え始めると、その思考のサイクルは止まらなくなってくる。それは、学者一族に生まれたものの性なのかもしれない。
 と、
「ぼっちゃま、失礼します」
 ぺちん。
 軽く、ほっぺたを叩かれた。
 それは、ごくごく軽い平手打ちで。大して痛くもなかったのだけれど、そのおかげで、僕は我に返った。
「あ」
「ぼっちゃま、しっかりしてくださいませ」
「……ごめん」
 ヨネさんが、手の上に座って、僕をおそるおそる見ているコバルトの頭を優しく撫でながら、
「悪い人の目になってましたわよ」
と、言った。
「ごめんなさい」
 再度、謝る僕。
「謝る相手が違いますでしょう」
「……ごめんね、コバルト」
 コバルトは、いいよ、という風に、ふるふると頭を振ると、ヨネさんの手から、僕の手へと飛び移ろうとする。それを僕はいつものように受け止め、コバルトに、もう一度謝ろうした。
 と。
 りーん。
 旧式の黒電話の呼び出し音にも似た、高い機械音が鳴った。
 りーん。
 かなりけたたましい音に違いないのだが、この音を快感だと思う人間もいるらしい。
 りーん。
 ……この電話の相手、うちのパパだ。
 ぴっ。
 僕は、テレビ電話のモニターをつけ、その前に座った。パパからの電話なんて久しぶりだ。この前、電話をもらったのはいつだっただろう?そんなことを考えていると、モニターにパパの顔が映し出された。
「ハロー、ぼうや、元気にしてるかい?」
「ハローって、こっちは夜なんだけど」
 相変わらずのパパの能天気さに、頭が痛くなってくる。
「おまえは、どうしてそんなにクールなんだい?パパは、こんなにもおまえのことを思っているっていうのに」
「……で、用件は?」
「なくちゃ、かわいい息子に電話をしちゃいけないのか?」
「っていうか、そうでもなきゃ電話してこないのはパパでしょ?」
 冷たいかなぁ、と思いながらも、そっけない言葉しか出てこなかった。長くいっしょにいないと、ついついこうなってしまう。目の端に、大きくバッテンを作って、「だめですわよ」と口パクで言っているヨネさんの姿が見えたけど、ここはあえて無視。
「えーっ、でも、それは……」
「はいはい、代わってちょうだい」
 思いっきり抗議の声を上げようとするパパを制して、向こう側のモニターとパパの間に誰かが割り込んできた。
「ごめんね、パパだとまったく話が進展しないわ」
 やれやれといった呆れた様子で、その割り込んできた誰かはそう呟く。
「……げ、ママっ?」
 その誰かは、まぎれもなく、僕のママだった。
 え?ママ?それから、パパ?
「げ、って何よ。……そんなにビックリしなくてもいいでしょ?オバケが出たわけでもあるまいし」
 ママ、僕としては、オバケが出た方が驚きません。だって、そもそも、どうしてパパとママがいっしょにいるの?二人とも、まったく別の惑星で、まったく別の研究に勤しんでいるはずでしょ?
 ?が頭の中で目まぐるしく回っている僕の様子を見て、苦笑しながら、ママは言う。
「ああ、落ち着いて、聞いてちょうだい」
 落ち着いて聞けるワケない。
「でも、ママ、どういう……」
「わかったから、とにかく話を聞いて」
 ママは、困った子ね、といった顔を僕に向けて、それから、後ろで何かしら叫んでいるパパの首根っこをつかんで(まさしく、そのままに)、モニターの前に座らせた。
「ここからは、貴方のお仕事です。いいこと、しっかりと父親としての威厳を持って」
「えーっ、こういうことは君の方が得意でしょ?」
「得手とか不得手とかの話ではなくて、貴方は父親でしょ?こういった大事な話は、父親がきちんとすべきです」
 相も変わらず、ママが主導権を握っているところが面白い。離れていても、二人は夫婦なんだなぁと、僕は思った。
 ママに諭され、パパは「うまく話せるかなぁ……」と、ぼやきながら、モニターごしに話し始めた。
「何から話せばいいのかな?……うん、つまり、パパとママは地球に帰ることになったんだ、二人そろって、いっしょに」
 つまりって、何がつまり?
 地球に帰ってくるって、どういうこと?
「研究が一段落したから、長期休暇か何かで、たまたま二人の休みが重なって、それでいっしょに帰ってくるってこと?」
 パニックで少し早口になる僕。そんな僕を見て、ママは優しく言う。
「……違うわ。半永久的に、たぶん、ずっと地球に、あなたのそばにいれると思う」
「偶然にも、ある惑星でパパとママはいっしょになったんだ。もちろん知ってのとおり、パパは植物学、ママは考古学、全然別の分野。だが、お互いに調査していくうちに、どうやら、研究対象が同じだということに気が付いたんだよ」
「研究対象?」
 僕の問いに、パパはゆっくりと僕を指差した。いや、僕じゃない。パパの人差し指は、僕の手の上に座っているコバルトを指していた。
 しまった!
 僕は、あわてて、コバルトを背中に隠す。ああ見えて銀河系の中でも植物学の権威であるパパが、コバルトたちのことを知らないはずもなく、謎が多い生命体(?)である彼らが、パパの研究対象であったとしても、まったくおかしくはなかった。でも、ママは?
「ああ、あの惑星、グリーンプラネットの古代遺跡が、地球に現存する遺跡と至極酷似していてね。それに関わっていたのが、そこにいる彼ららしいのよ」
 そして、ママも、彼ら、というところで、僕を(正確には、僕の後ろにいるコバルト)指差す。
 ママのその言葉を最後に、僕たち三人の間に長い沈黙が続いた。最初に口火を切ったのは、僕だった。
 僕は、背中に回した手の上にコバルトの重みを感じながら、
「コバルトをどうしたいの?」
と、聞いた。研究対象、そう二人は言った。ということは、僕からコバルトを奪い、切ったり貼ったり、何やかんやの悪行三昧をコバルトに強いるに違いない。僕は、きっと、二人を強くにらみつける。
 とたん、ふたりが顔を見合わせて、大爆笑し始めた。
 ?
 どういうこと?こっちは必死だっていうのに!何で、笑ってるの?
「しないしない、そんなこと絶対にしないってば」
 まるで、僕の考えが読めているかのように、笑い涙をぬぐいながら、ママが言う。
「いや、絶対にありえないから」
 パパも、同じように、
「だって」
涙をぬぐいながら、
「こんなに」
次の瞬間、モニターがプツンと切れた。そして、同時に、バーンッと大きな音をたてて、玄関のドアが開く。
「いるんだしね」
 ドアの向こうには、懐かしい顔。パパとママの顔があった。そして、そのパパとママの手の中には、たくさんの七色にきらめく球根。
 ぴーっ。
 いつの間にか、僕の手の上から床に降り立ったコバルトが、仲間の元に走っていく。
 ぴーっ。
 高い葉笛のような、コバルトの声。それに反応してか、七色の球根は、パパとママの手からこぼれ落ち、ぱりん、かしゃん、ぱりん、 ぱしゅん、と、空中で弾け、割れ、地面にぽうんと降り立った。
 次々と。
 何人、ううん、何十人ものコバルトたち。彼らは、お互いに手をつなぎ、ぐるぐると弧を描きながら踊っている。
 僕が驚いた様子でその様子を見ていると、パパも、僕の横に並んで、こう言った。
「大丈夫だよ、僕もママも、彼らに魅入られたんだ。つまりは、相思相愛だってこと、だよ」
 そして、僕の肩をぽんっと叩いた。
「それって、あの、おじさん?」
 パパの口から出た言葉は、あのアマガエルのおじさんの台詞と同じだった。
「そう、いわゆるアマガエルのパンツォーナ・ゴライアスさんだよ」
 ……おじさん、そんな大層な名前だったんだ。変なところに、思わず感心。
 パパが、話を続ける。
「グリーンプラネットで『Human‐Plants』を調査しているときに、彼らの権威として紹介してもらったのが、パンツォーナさんだったんだ。で、彼と話をしていくうちに、彼の命の恩人が、どうやら僕の息子らしいということになって、そうなら、信用できる人だって言ってくれてね。で、こんなことになったというわけなんだ」
 ……どういうわけ?
「つまりはね、パンツォーナさんから、研究に不自由しないであろうだけの、彼らを譲っていただいたの」
 ママが、パパの話に補足説明。いつものことだけど。
「もともと、パパの今までの研究はひとえにこの『Human‐Plants』へのためだったわけだし、ママの研究も、彼らの文化や生態、それを知ることが一番の近道だったりするのよね。ゆえに、パパもママも他惑星に長期滞在しなくても良くなったというわけ。調査対象が、自分たちを好きになって付いてきてくれたんだし。まあ、しばらくは短期で出かけることはあるかもしれないけれど」
 ママが、僕をぎゅっと抱きしめる。その抱き合った二人を、パパがさらにぎゅっと抱きしめた。
「……ずっと、さびしい思いをさせてごめんね」
 ママ。
「ひとりっきりにして、ごめんな」
 パパ。
「大丈夫だよ、ヨネさんもいたし。アカデミーの友達も、それから、コバルトも」
 僕。
 最後の方は、言葉にならなかった。不覚にも泣いてしまった僕の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、それを、僕はママのシャツで拭く。困った子ね、そんな顔をしながら、ママも、シャツでそのまま僕の顔を拭いた。
 不意に。
「あ」
 パパが思い出したかのように、ポケットに手を突っ込んだ。そこから、おもむろに何かを取り出すと、僕の鼻先で、
「誕生日おめでとう!」
パァーンッ、と破裂音を響かせた。
 クラッカー、だ!
 僕は、目をしろくろ。見ると、コバルトたちも大きな音に驚いたのか、奇妙なダンスがさらにエスカレートして、てんでばらばらになってしまっている。
「ああ、そうね。そうね。間に合って良かったわ。誕生日、おめでとう」
 突拍子もないことをしたパパのおでこをぺチンと叩きながら、ママが、僕のおでこにキスをする。
「誕生日、僕の?」
「そうよ、自分の誕生日、忘れてるの?」
 壁にかけられた、デジタル時計。時間はいつの間にか十二時を過ぎていた。ということは、すでに次の日で、今日は。
「あ、僕の」
「誕生日、でしょ?昔から、自分のことにはまったく興味ないんだから。しょうがないわね、そんなところはパパにそっくり」
 ママが呟く。それから、あらためて、パパとママ、二人で、僕の前に並んで、声を合わせて、こう言った。
「未来、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
 すごく久しぶりに名前を呼ばれた気がした。そう、僕の名前は未来。運命を自分で切り開いていくように。そう願って、パパとママがつけてくれた名前。
「まあまあ、未来ぼっちゃま、お誕生日おめでとうございます」
 家族水入らずを邪魔してはいけないと思っていたのか、今の今までドアの影に隠れていたらしいヨネさんが赤くなった鼻と目をこすりながら出てきた。
「ありがとう、ヨネさん」
「すっかり、立派になられて……」
 僕がポケットの中から出したティッシュを渡すと、ちーんと小気味よく鼻をかむ。
「十三歳といえば、もう大人ですものね」
 コバルトたちも、頭に咲いている花をきらきらと煌かせながら、僕の周りをぐるぐると踊っている。
「お祝いしてくれてるの?ありがとう」
 そう御礼を言うと、コバルトたちは、さらに花を色鮮やかにしながら、舞った。その様子は、まるで虹が地上に降りてきたかのように綺麗だった。
「それから、プレゼントなんだけど」
 ママは、照れくさそうに顔を赤くして、こう告げた。
「弟か妹になりそう、なんだよね」
「え?弟、か、妹?」
 あまりのサプライズに目を見開いて、パパを見ると、パパも僕と同じように目を見開いて、呆然としてママを見ていた。
 ……どうやら、ママから男二人へのサプライズプレゼントだったらしい。
 何じゃそりゃー!
 そして。
 いくら年が十三歳になったとはいえ、なかなか、そう簡単に子どもから大人になれるものではないらしい、と僕は悟ったのであった。まあ、つまりは、子どもか大人かなんて、そう大したことじゃないのかもしれない。

 そして、この奇妙な、でも可愛らしい、小さな人「コバルトたち」と僕たちの同居生活は、ずっと続いていくんだけど。
 それは、また別の話。

僕とコバルト。

僕とコバルト。

近未来。主人公の「僕」は、八年も学年をスキップしてアカデミーで研究に勤しむ、いわゆる天才児である。両親とも学者で、他惑星で研究しているので、ほぼひとりきりで生活している十二歳の「僕」は、いやでも大人にならなければならなかった。そんな完璧な「僕」にも、苦手なことがあった。それは、植物を育てることである。「僕」曰く、自分は、育てた植物を必ず枯らせてしまう、「『灰色の指(←僕命名)』を持っている人」なのだそうだ。そんな「僕」が、ある日、他惑星から植物の行商に来ていたおじさんから、不思議な美しい七色の球根を買ってしまう。最初は、花を枯らせてしまうんじゃないかと危惧する「僕」だが、「僕」の心配とは裏腹に、蕾は美しい花を咲かせ、大きな実をつけた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 春.Boy Meets Plants.
  2. 夏.あらしのあとに。
  3. 秋.シード・シード・シード!
  4. 冬.猿渡くんの日常。
  5. 春.そして、また春が来る。