白と黒。

 その書を見た時に初めて感じたのは、所詮凡人の努力なんて、天才、才能のある人間の前では、無いにも等しいということだった。
 その黒い墨で書かれた文字は、大きな条幅に書かれたものではなかったが、半紙の上でそれ以上に大きな存在感を醸し出していた。その存在感は、会場の中でも、威圧的、だった。その書の前だけ、空気が違う。
 動。
 一文字、そう書かれているだけ。
 だが、私はその一文字に目を奪われ、足止めをくらい、もう三十分以上そこに立ち尽くしていた。ほんの少しでも目をはなすと、その「動」という文字に襲われるのではないかと思ったからだ。
「すごいでしょう」
 背後から声をかけられた。振り返ると、私の師匠である嵯峨先生が、いつもと変らないのんびりとした様子で、私の横に立っていた。
「君と同じ小学六年生だそうですよ」
「……そう、ですか」
 先生の言葉に相槌を打ちながらも、私は言葉とは裏腹に心の中で、それを書いた人物が同学年であるということに納得できずにいた。この書を書いた人物は、私より年下、というよりも、むしろ、まだ漢字という概念を知らないに違いないだろうと勝手に思い描いていたからだ。決して、上手な字ではない。でも、その「動」の一文字は、半紙の上で確かに躍動していた。
 嵯峨先生の書道塾に通っている幼稚園の子どもに、先生が遊びで書かせる漢字に酷似しているようにも見えた。彼らは、漢字を字であるとは認識しない。まるで、字を絵のように、自分なりの解釈をもって、白い紙の上にそれを描くのだ。
 そういった子ども特有の幼さと大胆さを、私はその「動」の一文字の中に感じていた。  
 故にこの「動」を書いた人物は、まだ漢字を知らない幼い子どもだろう、と思ったのだ。
 それが、まさか私と同じ小学六年生だったとは。先生の言葉に私は驚きを隠せなかった。
 私には、こんな字は書けない。もちろん、体裁の整った綺麗な字なら、誰にも負けない自信はある。でも、そんな自信がなんの役に立つのだろう。祖父の後を継いで書家になりたいと切に願っている私にとって、綺麗なだけの字なんて必要ない。
 ぎりり。
 思わず、歯噛みする。妬み、嫉み、つまりは、嫉妬。そういったものが私の中に渦巻いていた。初めての感情だった。
 ぽん。
 軽く、肩を叩かれた。嵯峨先生だ。見上げると、大丈夫だよ、というように微笑み、
「僕は、藤原さんの字、とても好きですよ」
そう言った。
 先生の言葉に、私は中央の壁に掛けられている条幅に書かれた自分の書に目を向けた。
「和顔愛語」
 穏やかで、親しみやすい振る舞いのこと。私の好きな言葉だ。その言葉は、「動」と書かれた半紙よりも大きな条幅の上で、上品に綺麗に並んでいる。でも、それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
「私の書は、単に、上手にまとまっているというだけです」
 謙遜でも何でもなく、自分の書を、そう思った。そして、先生が取ってつけたように褒めるのにも腹が立っていた。小学生にしては、あまりにも可愛くない態度なのは分かっていたけれど、誰が見てもこの書の方が素晴らしいのは明白だ。
「藤原さんの作品は、この発墨が、また絶妙にいいですねぇ」
 私の声が聞こえているのかどうか、先生は、ふむふむ、といった風情で顎鬚を撫でた。
「先生、それ、褒めているつもりですか?」
「おや、貴女は師である私の言葉すら信じられなくなっているんですか?」
 問いただしたのに、逆に問い返されてしまった。どう答えればいいのかと、返事に困惑していると、先生は、こう続けた。
「あのね、藤原さん、確かに、この書は素晴らしいです。僕も、初めて見たときには心を持っていかれました、正直ね」
 やっぱり、そうか。
「でも、この書には、書としての基礎がない。感性の趣くまま、己が書きたいように、書きたいままに筆を走らせただけ。結局は、それだけのことです」
「それが、スゴいんじゃないですか!」
 思わず、声が大きくなった。慌てて、口を閉じる。先生は、静かに、といったように、人差し指を口元にあて、
「だから、それだけ、なんですよ」
と、首を左右にふった。
「それだけ?」
 感性のままに、書かれている。それが、この書を構成している全てだ。それに、私も嵯峨先生も魅了されているのではないか。それなのに、それだけ、とはどういうことなのだろう。いろいろ考えを巡らすが、さっぱり分からない。
 自分が想像している以上に、私はよっぽど納得いかない、ひどい顔をしていたのだろう。先生は、苦笑し、床にしゃがみ込み、私の目線と自分の目線を同じ高さにすると、目の前の「動」を見据え、こう言った。
「つまりはね、こういうことですよ。例えば、すごく足の速い人がいたとします。でも、特に練習を重ねているわけでも、何か特別なことをしているわけでもない。ただ、足が速いだけです。その人が、何の下準備もせずに、長い距離を走ったとして、結果が出ると思いますか?」
「……出ないと思う」
 思わず、敬語も忘れてしまうほどに、すぐに口から答えが出た。
「だから、つまりは、こういうことです。確かに、この書は素晴らしいけれど、ここまで。まず、基礎がまったくできていない。基礎あっての応用。何事もそうだと思うんです。だから、現時点でこの書を他と比較すると格段に素晴らしくはあるけれど、では、これからはどうだ、ということ。やっぱり、基礎がなければ、何もならない。その点、藤原さんの書は、長年培ってきた基礎がしっかりしている。後は、経験によって、ますます円熟した深みのある作品が書けるようになると思いますよ。僕は、それが楽しみだ」
 そして、満足そうに、再度、顎鬚を撫でた。
「円熟って、先生、年寄りみたいです」
「そんな意味合いじゃないですけどね。藤原さんは、まだまだこれからってことです」
 たぶん、先生は本心で言ってくれているのだろう。でも、やはり私は納得いかなかった。私には、ないものをこの書の作者は持っている。そして、きっと、それは私がどれだけ経験を積んだとしても手に入れることはできないだろう。天性の才とは、そういうものだ。それを私は持ち合わせていない。ただ、その域に少しでも近づくために、ひたすら努力するしかないのだ。
「先生」
「どうしました?」
「この作者は、どういった子なんですか?」
 私の問いに、先生は、ああ、と頷きながら、右手に抱えていた書類をパラパラと捲っていった。捲りながら、
「実は、うちの秀科会の子じゃないんですよね」と、言った。
 秀科会とは、嵯峨先生が自分の書道塾の中から、特に優秀だと選抜した生徒たちを集めたクラスである。その秀科会の生徒が書いた作品のお披露目が、今回のこの展覧会というわけだ。先生の話が事実ならば、この書は、その展覧会にイレギュラーとして参加していることになる。
「ああ、ありました」
 そう言いながら、先生は書類の中から、一枚の紙を取り出した。出品表だ。
「僕の地元、大阪なんですよ。つい最近帰省した時に、この書に出会いました。その出会いがあまりにも衝撃的で、今回、無理矢理展示することに決めたんです。そうそう、僕には弟がいてて、大阪で塾やってるんですけど。そこの生徒さんなんです」
 先生から差し出された出品表を眺める。確かに、私と同じ小学六年生だった。名前は、殴るように、かなり乱暴に書かれていた。小野春佳、その字は判別するのも難しいほどに汚かったが、そう読めた。基礎がなっていないということは、こういうことか。
 先生の方をみると、ほらね、としたり顔だった。私も、同意の意で、頷いた。
 それから、私は肩に掛けていた小振りのポシェットの中から、いつも持ち歩いている小さく切った半紙を纏めたメモ帖と筆ペンを取り出し、その名前を紙に綴った。
 小、野、春、佳。
 一文字、一文字、丁寧に、心を込めて。そして、書き上げたそれを天井の蛍光灯にかざした。我ながら、上品に美しく書けている。満足だ。
 そして、私は心の奥深くに、万感の思いを込めてこの名前を刻み込んだ。

「いろは、起きて」
 はっとして、目を開けると、日が傾き、西日でオレンジ色に染まる教室にいた。どうやら、うたたねをしていたらしい。うたたねとはいっても、かなり長時間惰眠をむさぼっていたらしく、机の上に置かれた賞状にはうっすらと、よだれの跡後がついていた。慌てて口元を拭うと、私を夢の世界から目覚めさせた天使の顔を見上げる。
「大丈夫、あんまり寝てないんじゃない?」
 書道部唯一の活動部員、真壁亜矢だ。私の顔を心配そうに覗き込んでいる。
「そんなワケでもないんだけど。賞状書き、やっちゃわないと」
 床に雑多に並べられている賞状をため息混じりに眺めると、私は小筆を取り上げた。とにかく、この賞状の山を片付けていかなければならない。
 大きく伸びをする。あと、四枚。締め切りの明日までには、余裕で間に合いそうだ。
「亜矢、帰っていいよ。渡辺くん、待ってるんでしょ」
 そう言うと、亜矢はぽっと顔を赤らめた。最近、付き合いだしたばかりの二人は傍目も羨むほどに中睦まじい。
「いいの?まだ、終わってないよ」
 渡辺の名前が出た途端、亜矢は急にそわそわし始めた。ちらちらと、廊下の向こうをみている。まったく、可愛いなぁ。
「いいよ、展示する作品の準備は大体できたし。あとは、これ書けば終わり」
 ひらひらと、机の上の賞状を一枚振ってみせる。亜矢は、それを聞くや、見るやいなや、
「いろは、ありがとう!じゃあ、明日、また、文化祭、がんばろうね!」
脱兎のごとく、廊下に駆け出していった。愛の力とは、実にもすばらしい。
 さてと。私は、再度小筆を握り直した。ちゃちゃっと片付けて、帰りますか。作業自体は、まったく大したことではない。生徒会が後夜祭で使う賞状を筆で書くだけだ。
 私は、紙に判子で押したような字を事務的に書いていった。あっという間に四枚書き上げ、床にずらりと並べて乾かす。つまんない字の羅列。まあ、賞状の字なんて綺麗なだけのそんなものだけど。
「…すげえなぁ」
 廊下で声がした。文化祭の準備中とはいえ、こんな時間まで文化部棟に残って作業しているのは私ぐらいだ。誰だろう、と、ちょっと気になり、筆を置くと廊下に出る。外はすっかり日が落ちていた。薄暗闇の中、ぼんやりした蛍光灯の明かりが珍客の影を私の足元まで長く伸ばしている。
「すっげぇ、上手やなぁ」
 その珍客は、腕組みをし、壁に貼られている書を眺めていた。短めの髪に、少しの無精髭。明らかにこの高校の制服ではない真っ黒な学ランを着ている。季節外れの転校生だろうか。いかにも運動部、体育会系の匂いがする、ガチ男子だった。まったくもって、書道とは縁遠く見える容貌をしていた。
 彼の視線の先にあったのは、私が書いたものだった。文化祭前に少しでも部員獲得できないかと考え、とりあえず作品を展示しようと、亜矢と二人で、なかばやっつけで書いたものがほとんどだった。数あれば華、というわけではないが、文化祭までの時間がない中、ほとんどがとりあえず、で書いたものには違いない。そう思った途端、その「やっつけ」をじっくりと鑑賞され、さらには感心されていることが急に恥ずかしくなった。
 彼は、私が声をかけるものかどうか思案しているうちに、私の気配に気づかないまま、職員室のある校舎へと向かおうとした。
「あ」
 去るものを追う。彼を呼び止めようとして、何をしようとしているのかと、自分を諌めた。まず、呼び止める理由がない。が、思わず口から漏れた私の声を聞いて、彼が振り返る。驚いたように私の顔を見て、それから、
「自分が書いたん?」
と、一枚の書を指差して私に聞いた。彼が指差したのは、書いたものの中では、比較的まともな方だった。
「そうだけど」
 今、私の顔は、さっきの亜矢よりも赤いに違いない。なぜか、動悸が激しくなった。
「字、上手だねぇ」
 そして、くったくなく笑った。

「えー、転校生を紹介する」
 担任は、教室に入ってくると、開口一番、そう言った。
 それを聞き、男子は転校生が女子か男子かで賭けをし始めるし、女子は女子で転校生が男子と決め込み、その容姿について頬を赤らめ妄想している。私はといえば、昨日の彼のことなんだろうと思い、そういえばどんな顔をしてたかな、と反芻していた。たぶん、クラスの女子たちが思い描いているに足るだけの容貌をしていたように思う。
 そんなことをぼんやり考えていると、
「おの、入って来い」
担任が、ドアの向こうに声をかけた。程なく、ガラリと音をたててドアが開くと、のそりといった風情で、黒い塊が姿を現した。
 想像していたとおり、昨日の男子だった。まだ、制服が間に合わなかったのか、昨日と同じ、前の学校の学ランをきっちりと着込んだ彼は、教室にいる他の男子に比べると、妙にストイックに見えた。周りの女子が、かっこいいよね、と囁き合っているのも、ブレザーを見慣れているので、彼の新鮮な学ラン姿に目が眩んでいるだけに違いない。
 当の本人はというと、そんなクラスの様子はどこ吹く風で、担任の横に立ち、クラスを品定めするかのように、眺めている。そして、集団の中に私を見つけると、あ、と口を形作り、ぶんぶんとばかりに手をふった。瞬間、クラスの視線が、私に集まる。私は、軽く彼を睨みつけると、しっしっと犬を追い払うように、彼とは違う意味で手をふった。
 彼は、一瞬悲しそうな顔をし、それから、担任の方に向き直る。担任は、
「転校生のおのはるよし。おの、自己紹介」
黒板に彼の名前を漢字で書きながら、彼に自己紹介をするように促した。頷く彼。
 小。
 野。
 春。
 佳。
 お世辞にも上手とは言えない文字が、黒板の上に、彼の名前を象っていく。
 小野春佳、おのはるよし。
 え?
 黒板に並んだ文字が名前として意味を持った時、私の眠りかけていた脳が目を覚ました。
 小野春佳。忘れようにも、忘れられない名前だ。鞄の中を探り、財布を取り出すと、私は外ポケットに入っているボロボロに千切れかけた紙片を摘み上げた。そこに、書かれた名前。
 小野春佳。確かにそう書いてあった。あの、初めて嫉妬という感情を覚えた日に自分で書いたのだから間違いない。あれ以来、この名前の持ち主は、私の師であり、ライバルであり、そして何よりの励みであったのだから。
「大阪から来ました、小野、春佳です。えーっと、大阪の人間は、基本、おもろい人間や思われてるみたいやねんけど、自分はそんなおもろい人間とちゃいますんで。期待せんといてください。まあ、よろしく」
 小野は、大阪人的な、いかにもな挨拶をすると、ぺこりと頭を下げた。それを受けて、クラスの女子から、かわいい、と黄色い声が上がる。男子は、複雑そうな表情を浮かべ、小野の動向をうかがっている。
 そして、私はというと、何も考えられず、ただ小野春佳という名前を持っている彼を、じっと見つめていた。
 彼が、私が目標としていた、小野春佳、本人なのだろうか?あの展覧会以来、小野の書いた作品を私が目にすることはなかった。嵯峨先生曰く、小野は体験入塾で数週間ほど通っていただけの生徒で、あの「動」という書を書いた後、先生の弟さんが経営する塾に通ったというわけではないらしかった。
 先生はしきりに、残念ですねぇ、と言っていたけれど、私の方が先生以上にショックを受けていた。そして、同時に激しい憤りも感じていた。あれだけの才能を持ち合わせていながら、書を書かないなんて許されないことだ。私がどんなに努力しても、決して手に入れられないものなのに。
 私は、小野の姿をじっと眺めていた。担任に席を指示され、小野がその席に座る。私からは、彼の背中しか見えない。が、私はそれでも、彼の背中をずっと見ていた。座る瞬間、私の視線に気づいた小野が嬉しそうに、私に微笑みかけたけれど、それに微笑み返すことはしなかった。彼は、不思議そうに首を傾げると、まるで何事もないかのように席に座った。すぐに授業が始まったけれど、もちろん授業の内容なんて、私の耳には入らない。頭の中にあるのは、彼は、私が目標としていた「小野春佳」なのかということだけだった。

 退屈な授業が終わり、休み時間になると、当然のように小野の周りは黒山の人だかりとなった。中心にいるのは女子がほとんどだったが、ちらほら男子も混じっている。私はというと、その輪の中には入っていかず、かといって関心のないふりもできず、彼らの会話に耳を傾けていた。何か有意義な情報はないかと聞いていると、陸上部に所属している女子の一人が、
「小野くんは、部活どうするの?」
と聞いていた。とたんに、他の女子や男子も口々に、自分の所属する部活をPRし始める。あまり部活動の盛んな学校ではないので、どのクラブも部員集めには必死なのだ。でも、名乗りを挙げているのは、ほとんどが運動部だった。それも当然かもしれない。小野の容貌は、いかにも、誰がどう見ても体育会系だからだ。だからこそ、私の中の「小野春佳」と、目の前の小野が結びつかないわけなのだが。いや、だからこそなのか。あの出品表に書かれた、殴るような汚い字は、体育会系の彼と重なるようにも思える。私が、そんなことを思い巡らしていると、
「部活、入ってた方がええんかな?」
周囲の勧誘にちょっと驚きながら、小野は最初に部活の話をふってきた女子に聞き返した。その女子、相田さんは、
「もちろん、その方が内信にもいいし、高校生活も楽しいと思うよ」
「せやったら」
 そう言うと、小野はやおら席を立ち上がり、私の方に向かってきた。え、こっちに来る?なぜか、つられて私も席を立ち上がる。
「自分、書道部に入るわ」
 は?
 私の肩を事もなげにぽんぽんと叩くと、小野は、そう言った。
 くらり、眩暈がする。頭を抱えた私の耳に、 えー、といったクラスメイトのブーイングが遠くに聞こえた。

「書道部は何か文化祭でおもろいことは、せえへんの?」
 不思議なことに、私は放課後の教室で、小野と膝を付き合わせていた。あの小野の放った爆弾発言の後、渋る私に、小野は入部を迫り、結局根負けした私が、仮入部ということで、小野の入部を受諾したのである。そして、唯一幽霊部員ではない亜矢は、今日は用事があると言って帰ってしまった。薄情ものめ。
「文化祭は明日から。今回も今までと変わらず、この教室で作品の展示のみ。以上」
 事務的な口調で、私がそう告げると、小野はいかにも不満げな様子で、がたんがたんと椅子を鳴らした。五月蝿い。
「小野くんは、ちなみに作品、どうするの?今日書けば、展示することもできるけど」
 あれだけ書道部入部をごり押ししてきたのだ。きっと、書く気満々に違いない。やはり、彼は彼なのか。私は、あなたの作品なんて全く興味ありません、という声音で、小野に字を書くように、暗に勧めてみた。書かれた字を見れば、あの「小野春佳」なのか判別がつく。私には、その自信があった。
「うーん、いろはちゃんには悪いねんけど」
 は、いろはちゃん?いつから、私と君はそんなに親しくなったのだと思いながら、
「悪いって、何が?」
と、笑顔で返す。
「おれ、書道まともにやったことないで」
「え?」
 予想外の答えに、言葉に詰まった。書道、やったことがない?やっぱり、あの「小野春佳」ではないのか。このまま考えていても埒が明かない。事の真実を確かめようと口を開きかけると、それを遮るように小野が言った。
「それより、正月にテレビでやってる、書道甲子園っていうの?あんなんやったら、目立つし、新入部員も入ってくるんちゃう?」
「まず、人数が足りない。場所もない。それから、私が基本、あれ、好きじゃないの」
 私は、小野の提案を間を置かず却下した。
「……どないして?」
「あ、否定する気は全然ないんだけど。あれはあれで日陰的な書道に一条の光明を差してくれていると思うし」
 ただ、私が目指す書の世界ではない。その私の思いを感じ取ったのか、小野は腕を組むと、次の私の言葉を待っているようだ。つられて、自分でも思いがけない言葉が口をついて出てきた。
「どうせなら、お客さんにも書を身体で感じてほしい、かな」
 小野は、分かんないといった風に首を傾け、私の顔を覗き込んだ。その顔が近すぎて、ちょっとだけ動揺する。それを小野に悟られないようにしながら、
「当然といえば当然なんだけど、どうしても、書って受身、お客さんは見てるだけになっちゃうでしょ?作品の展示にしても、書道パフォーマンスにしても、わーすごい、わー上手、で終わる。それって、楽しくないよな、と」
私は普段から感じていたことを口にした。なぜか、いつもより饒舌になっていた。こんなこと、亜矢にも言ったことはない。今年も作品展示でいいよね、と二人で決めたというのに、いまさら新入部員を相手に何を言っているのだろう。まだ、彼があの「小野春佳」だという確証もないのに。それとも、私は無意識に、あれは彼だったと認めているのだろうか。だから、こんなにも書道について、自分の思いを熱く語ってしまうのだろうか。
「具体的には?」
 小野は、さらに私の言葉を紡ぎ出させる。私も、それに応えた。
「本当にやりたいことは、お客さん参加型、かな。お客さんにも、書道の楽しさを一緒に体感してもらう。例えばだけど、教室一面、に真っ白い紙を敷き詰めて、ありとあらゆる筆で好きなように字を書いてもらうの」
 小野は、ニヤリと笑った。してやったりという表情だった。
「せやったら、やったらええやん」
 文化祭は明日に迫っている。まず、今からの変更は無理だろう。そう思いながら、私は、どうすればそれが可能か考え始めていた。
 
 それからが大変だった。急な変更は生徒会に言っても無理だろうと思った私たちは、ゲリラ展示でいくことにした。まあ、たかが文化部、書道部のやることだ。バレたとしても、大した騒ぎにもならないだろうというのが私たちの見解だった。次に、亜矢に電話をし、事の成行きを話した。亜矢は話を聞いて、驚いたようだったが、すぐに賛成してくれた。ただ、後から、なぜ最初に自分に相談しなかったのかと、かなり責められたけれど。彼女は彼女なりに私のことを気遣ってくれていたらしい。それから三人で壁、床、天井に新聞紙を何重にも貼り重ね、さらにその上に半紙を貼っていく。教室は、一面の雪景色のようになった。料理部から貰った着古した割烹着をお客さんの服が汚れないように準備し、部室からあるだけの筆、筆洗を揃える。
 最後に、床に座り込んで、大量の墨を磨った。それを、筆洗の半分に入れていく。教室に、甘い、泥臭い匂いが広がる。それを私は大きく吸い込んだ。大好きな匂いだ。
 初めての冒険、ささやかな反抗。どうなるのかわからないけれど、明日どうなったとしても、今、私の心は満ち足りていた。小野の顔を見ると、小野はまるで悪戯をしかけた子どものように、無邪気に笑っていた。
 
「あー、めっちゃおもろかった」
 運動場では、後夜祭。キャンプファイヤーの火が、赤々と校舎を照らし出している。亜矢は、渡辺と恒例のフォークダンスを校庭で踊っていることだろう。窓の外からは、楽しげな声と呑気なオクラホマミキサーが聞こえてくる。私は、小野と二人で、墨臭い教室の中、電気も点けずにジュースを飲んでいた。
「なあ、いろはちゃん、おもろかったなぁ」
 まるで、ジュースにアルコールが含まれているんじゃないかと疑いたくなるほど上機嫌で、小野が話しかけてくる。
 ゲリラ展示は、思いの外大盛況だった。展示を見るだけのつもりでやってきたお客さんのほとんどは、「ご自由にどうぞ」と書かれてある看板を不審げに見た後、教室を覗くと、嬉々として割烹着を着込み、服が汚れるのも構わず、筆を振り回していた。ストレス社会の現われかと、こちらがびっくりしたほどだ。生徒会からも、軽い注意だけですんだ。というより、生徒会長自ら、率先して筆を振るっている始末。果たして、この学校大丈夫かと、小野と顔を見合わせ、ちょっと不安になった。
「やって良かったやんなぁ」
 私は、小野の言葉に頷くと、ごくりとジュースを飲んだ。何だか、小野があの「小野春佳」でも、そうでなくても、よくなっていた。
「よーし、俺も書くぞー!」
 小野はふらつく足で立ち上がると、一番大きな条幅用の筆を取り上げた。そして、それを筆洗に並々と作られた墨の中に、どぼんとつける。周りに、黒い水玉模様が出来るのもお構いなしだ。本当に筆で字を書いた経験があまりないのだろう、おぼつかない、慣れない手つきで、あまり残っていない白い空間を探し出し、そこに筆を立てる。
「あ」
 何を書くのかと見守っていると、彼は、
「動」
と、書いた。それから、
「物万歳」
 ……何、それ。
「思い出したわ、俺、昔、書いたことある」
 遠い記憶に思いをはせるように、小野は目を閉じた。
「かあちゃんに無理矢理連れてかれた書道塾で、『動』って書いたよ」
 小野は自分の書いた字を満足そうに眺め鼻の下を子どもみたいに擦った。指についていた墨が、まるで海賊の船長のような髭になる。
 ああ、やっぱり彼だったのだと、私は確信した。あの「小野春佳」は彼だったのだ。
 私は、そっと、春佳の隣に立った。手には春佳が持っているのよりも、一回り小振りの筆。それから、春佳の書いた「動物万歳」の横に、「和顔愛語」と認めた。春佳が、これは何だ、という顔をしながら、まじまじと私の字を見ている。でも、恥ずかしくはなかった。今の私の最高傑作だ。
「俺な、いろはちゃんの字に一目惚れして、書道部に入りたいと思ってん。何か、おもろいことやれそうやなって。その選択、間違いやなかったわ」
 春佳は、照れくさそうに笑う。
「俺、やっぱりいろはちゃんの字、好きや」
「私も、小野くんの字、すごい好き」
 衒いもなく、素直にそう言えた。春佳は私の突然の告白に一瞬驚いたようだったが、その大きな身体とは不似合いに頬を赤らめると、
「おおきに」と、言った。

白と黒。

白と黒。

藤原いろは。 書道家を志す彼女は、ある日、自分にはない才を持った書と出会う。 でも、その書の作者は正体不明。その日から、いろはは、その作者を思い続ける。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-08-19

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