森カラ

(TO-BE小説工房 第29回お題「かさ」にてまんまと落ちたものです)

 その女はいつも傘を抱いていた。
それはたぶん五十センチメートルもなくて、何の絵かは分からないがポップな水色が目立っており、だからすぐに幼児のものと分かった。

天気に関わらず、その人はいつも左脇にそれを抱えていた。さしているのも開いているのも見たことがない。いつもそれをただ抱えて同じ時間に同じ道を歩いていく。

今朝も七時にぼくの家の向かいのぼろアパートを出たその人をぼくは二階のカーテンの隙間から骨まで透視できそうなほど凝視した。
だが帰りはいつなのか、どんな仕事をして、そのときも傘を手放さないでいるのか、何も知らない。

「あの傘、殺した子供のやつらしいよ」

 教室に入ると、リーダー格の橋本純穂が口元をニヤニヤ歪ませていた。

「神名(じんな)さあ、家向かいでしょ。今度聞いてみてよ」

 机の上に座ったまま自信に満ちた顔で橋本はぼくに言った。
自分にはすべてを面白がる資格があるとでも言わんばかりのその目に見下ろされて、瞬間的に目を突きたい衝動に駆られた。

瞬く間に熱くなった身体を沈めるのに集中を割く。
中は熱いのに不思議と冷たい唾液が喉を流れて五月蠅い鼓動が少し和らいだのでホッとする。

「嫌だよ」
「はあ?」
「大体そんな理由があったらこんな全部筒抜けになるような田舎に来るわけないだろ」

 言ったときにはもう橋本は机の周りを取り囲む女たちと顔を寄せ合って笑っていた。ぼくの言い分などそもそも必要ないのだ。
マジ怖いよねなどと繰り返しながら、彼女たちの表情がいつもより軽やかなのを唾棄したい気持ちで見た。


 真っ直ぐ帰る気にならず、六時を過ぎても公園裏の雑木林に作った秘密基地にいた。
キッズ携帯がもうずっと鳴りやまない。煩わしさで苛立ちが逆なでされる。
その苛立ちがなぜか傘を抱いた女に向かっていくのでまた別の苛立ちが生まれる。

無暗に叫び出したいのを堪えて噛みしめた歯が痛い。
いっそこの急なけもの道を駆け降りてやろうか。そうすれば骨くらい折れるだろうか。
思ったとき木々の隙間から傘を抱く女の姿が見えた。

同時に身体の先まで強く瑞々しい力が漲るのを感じた。
一歩を大きく踏み出したとき、すぐに飛べるような感じさえあった。
まるで引き留めるみたいに腕や脛を引っかく小枝や草に構いもせず、身体が動くに任せて駆け降りた。

一枚一枚何かが剥がれ落ちるように軽くなっていく。
胸を叩く未知への強烈な期待と張りつめた五感でぼくは完璧だった。
その全部をぶつけんばかりに無心で女の前に飛び出した。瞬間、頭と首に衝撃を受けた。

身体が斜めへと飛んだのが分かった。
バランスを崩して転がって、しんとなり、温く湿った大気の流れを頬に感じたとき呻き声が耳に届いた。
めまいで揺れる視界の向こうであの人が倒れていた。傍らにはあの傘が落ちている。
思わず這っていき、そこに描かれた絵を理解した瞬間、心臓が殴られたように痛んだ。
それは幼い頃よく観た機関車が喋る外国のアニメの絵だった。

 何を期待していたんだ、ぼくは。

 不意にそんな思いが過ぎった。この人のどんな事情もぼくのつまらない日常を壊すために犠牲になっていいものじゃない。そんなことはわかっていたはずだ。それなのにぼくは、きっと飛ぶ瞬間、橋本たちのように下衆な笑いを湛えていたんじゃないか?

「大丈夫?」

 絞り出すような声でいいながら額を押さえて身体を起こした女の目がぼくのそばの傘を見た途端鋭く光った気がした。

「すみません、ごめんなさい」

 慌てて傘を差しだそうとして突然強烈な痛みが右腕に走った。掴もうとしても力が入らない。
興奮が和らいだせいなのか、肩まで倍に膨れたかのような熱と痛みで意識が飛びそうだった。
身体に力が入ると、激痛と同時にギイギイと硬いものが擦れあう感じがする。そのとき女がぼくの腕に触れ、

「折れちゃってるね」

 ピンポン玉ほどに腫れた彼女の額は割れて血が出ていた。血に濡れた顔でぼくを見ながら、その人は少し迷った様子でぼくの腕を柔く掴んだ。

「いくつ?」
「十一です」
「十一歳の骨って、こんなに太くなるのね」

 言って拾い上げた傘を誰もが分かるほど強く抱く。抱かれた傘がギイギイと鳴った。
まるで骨が鳴っているようだった。

 さっきあれほど軽くなった身体は、もうぼくになかった。
かわりに拭っても張りつく日常が皮膚を這う感触が戻ってきていた。
声が漏れると同時に、涙が頬を伝っていった。(了)

ここまで読んで下さった方がいらっしゃいましたら、本当にどうもありがとうございました。
ギリギリまで何も思い浮かばず、最後の五日間溺れっ放しのようでしたんですが、そんな苦しんだ跡しか見えない自分の発想力のなさや短編小説への理解度の低さにがっくがく震えながら、なんとか今月もまだキーボードを叩きたいです。

向かいの家に越してきた、いつも子供用の傘を抱いている女。それはぼくだけの不思議だった。 しかしそれが崩れ、女を勝手に語られ始めたとき、ぼくはひどい苛立ちに苛まれる。 そのとき、ぼくは自分の奥底に隠れていた下卑た欲望と、ひとつの可能性を知ることになる。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-09

Copyrighted
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