ある川のほとりで ~初春


Ⅳ初春

 まだ肌寒い日の夕方、夕日が沈む頃、病院の談話スペースで物語会は開かれた。司会をしてくれたのはあの相談員さんだ。今日は髪ゴムをつけず髪を下ろしている。
「皆さんこんにちは。それとも、もうこんばんはかしら。」
 相談員さんはそう話し始める。少し緊張しているのか声が上ずっているようだ。
「今日はこうして皆さんにお集まりいただきまして誠にありがとうございます。ご家族様におきましてもご多忙の中、病院行事に足をお運びいただきまして感謝申し上げます・・・。」
彼女の前置きを耳にしながら僕は会場を見渡す。病院ですれ違った入院患者、病棟の看護師さん、患者の家族さんらしき人も多数いた。そして後ろの方には叔母さんも。業務時間が終了したのか給仕服ではない。僕と目が合うと小さく手をひらひらとふる。そして窓際に目を移すとあの老婦人がいつもの場所に腰を下ろしていた。
「・・・以前皆さんに物語を語っていた職員が退職された関係で今回は中止を検討しておりましたが、お見舞いに来てくれる方のつてで今回こうして開催する運びとなりました。物語を語るのが得意という方が今回特別に請け負って下さっています。私自身もどのような話を聞けるのか正直楽しみにしております。ではどうぞお願いします。」
 一人の老人が折りたたみ椅子をもって廊下の奥からやってくる。釣竿は持ってきていないがその折りたたみ椅子はいつも使っているものだ。小さく何度か会釈しながらその老人は席に着いた。
「・・・どうも、こんにちは。そして初めましてですね。私みたいな見ず知らずの人の話を聞きにこんなに集まってくださって。きっとこの病院の方がとてもいい方々なのでしょう。私には彼らみたいに親身に人に対して関わることは到底できないと思います。・・・私にできるのはそうですね。まあ釣りをすることか、何か面白い話を人に語ることぐらいでしょうか。・・・私が今日、ここに呼ばれたのはそう、その後者の方ですね。ですからまあ一つ聞いていってください。・・・物語を。」
 そう言ってフィッシャーマンは語り始める。あの川のほとりで僕に語ってくれたように。フィッシャーマンは窓際の方に気づいているのだろうか。
「物語を聞いてもらいたい。」
そうして彼は語り始める。僕にあの川のほとりで語ってくれたのと同じように。物語は紡がれ、繋がれ、続いていく。
「昔の話だ。私は何度も何度も旅に出た。いろんな国々を巡った。なかでもある北方の国が私は好きだ。そこには神秘がある。まだ見ぬ景色がある。まだ遠く、遠く、はるか別の国で釣りをしていた時の話だ。川の上流へ向かおうと山を分けいっていたところで、ある若者に出会った。それは私が山の中で鹿が通るのを見かけたときのことだ。大きな銃声がしたと思うとその鹿がドサッと倒れた。私が呆然と立ちすくんでいると、一匹の犬が飛び出してきて、鹿の死体のそばに駆けつけた。犬は鹿のかたわらまで来ると私の方を向き、唸り声をあげた。私が獲物を横取りしようとしているとでも写ったのかもしれない。私は立ち去ろうとすると犬がやってきた方角から一人の若者が姿を現した。彼が鹿を打ち抜いた張本人だ。彼は犬のそばまでくると頭を撫で、犬をなだめた。とたんに犬も大人しくなる。
『すまない。声をかけてしまったら鹿にも気づかれてしまうから。』
『いや、気にしなくていい。このとおり私は生きている。』
『ああ、あなたは生きている。よかった。』
そう言って彼は屈託なく笑い、鹿を担いでその場を後にしようとする。そこで思い出したように僕の方を振り返って言った。『・・・頬は大丈夫かい?』
『頬?』
『ええ、頬に傷がある。』
そう言われ僕は自分の右頬に触れるとそこに傷があるのに気づく。気づくと皮膚が焼けた匂いまで鼻をくすぐる。頬を銃弾がよぎっていったのだ。
『手当しましょう。』
『このぐらいなら大丈夫だ。』
『軽く見ないほうがいい。ここではそんな小さな傷が大きな怪我になることはいくらでもあるから。』
そうして僕は鹿を担ぎ上げた彼の後に続いて森を進むことになった。彼は僕を小さなテントに案内した。ティーピー、そういった方がわかりやすいかもしれない。三角形のとんがり頭のテントさ。そこに一人の老女と彼は暮らしていた。老女は病気なのか体をテントの中で横たえていた。しかし私がテントまで来ると彼女は大儀そうに体を起こし、私の顔を見すえた。
『お婆様、森で鹿を打つ際、彼の頬を銃弾が掠めたようです。』」
若者が伝えたのはそれだけだったが、老女には通じたのだろう。彼女の開いているのか、開いていないのかかわらない目が私を貫いていった。
『どれ、診てみよう。』
そう言って老女は私の頬に触れた。彼女の小さな手は私の頬の傷口をなぞったと思うと、私の額を軽く押す。そして彼女は一度だけ咳込むとこう言った。
『単なる火傷じゃ、そう時間はかからないじゃろうて。すぐよくなる。』
そう言ってまた体を横にした。
『それまでここで養生するといい』
それっきり黙り、しばらくすると老女から寝息が聞かれる。
『お婆様がそう言うなら大丈夫。あなたには本当に悪いことをした。』
若者はそう言って頭を下げた。」
「その老女はいったい何をしたのだ?」
入院患者の一人から声が上がった。横にいたもう一人の病院着を着た人がその人に向かって、口元で指を立て、静かにするよう身振りで示していた。そこでまた静かになる。病院の夕暮れ時、誰も声を上げるものがいない中の静寂。その中で凛と響くフィッシャーマンの声だけを、僕だけでなく、ここにいる皆が聞いていたいのだ。
「さあ、わからない。何かのお呪いだったかもしれないし、長年の経験から、傷に触れるだけである程度は傷の状態がわかるのかもしれない。目が見えていなかったとしても。」
フィッシャーマンはまた物語へ戻る。
「そうして私は短い間ではあったが彼らとともに暮らすこととなった。最初はその老女と若者だけの暮らしだと思っていたがそうではなかった。もう数組の家族が周りに身を寄せ合っていて、彼らから少し距離をおきテント生活をしていた。
『僕らは定住することはない。昔ながらの山の恵みで糧を得、生き、暮らしていく。』
『昔はもっと仲間がいたのかい?』
『・・・ええ、今ではこれだけだ。少なくとも僕らの家族と呼べるものは。皆出て行ってしまった。平地へ。町へ。』
『寂しくないかい?』
『子供の時に比べればもちろん。でも僕には
お婆様がいるから。この一匹の犬がいてくれるから。』
そう言って彼は自分の犬の頭を撫でた。」
フィッシャーマンはそこで一呼吸おく。先ほどのようには聴衆から声が上がることもない。談話ルームの影が広がり、橙と陰影は一層濃くなる。僕の立っているところから見える聴衆は皆、フィッシャーマンの話に引き込まれていた。相談員さんも、僕の叔母さんも。ただ一人僕からは、ちょうど影になっていて見えない人がいた。あの老婦人だ。彼女の表情まで。僕は見ることができないでいる。
「・・・私はその集落で釣りをし、鮭を釣っては彼らの若者に分け与え、若者のテントに泊まり、一緒に暮らした。面白い日々だったと思う。自分とまったく違う生き方をしている人たちの傍にいるのは興味とても深かいことだった。彼らの考え方は私たちとはまったく違う。それは何も、彼らだからというわけではない。風土が慣習を作り、生活様式が決まる。だから四季がある地域、寒い地方の地域、熱帯地方の地域・・・それぞれで暮らしは異なり、価値観も違う。だとしても・・・」
フィッシャーマンは大げさに間をとり、そこに何かがあるかのように両腕を開いた。
「人の営みに変わりはない。」
 団地群の灯りそれぞれにそれぞれの生活がある一方でその中心は変わらないように。
「・・・私の頬の傷が癒えた頃のことだ。星がここではありえないほど瞬いていた日、その集落で一人の馬の赤子が生まれた。ただその赤子はあまりに弱々しく立ち上がることもせず、ほとんど呼吸をしてもいなかった。皆生まれてすぐ亡くなるものと思った。母馬も憔悴しきり、ぜえぜえ、喘いで昏睡状態だった。仕方なく若者と私がその幼馬を老女のもとへ連れて行った。テントの中に入ると老女は珍しく体を起こしており、曲がった背中をできる限りまっすぐのばしてそこに正座していた。
『お婆様・・・。』
『うん・・・わかっている。その子をここに、私の前へ・・・。』
若者が、抱いていた幼馬を老女の前に差し出した。そして老女は小さな声で祈り始める。若者と私はテントの外へ出て待つほかなかった。」
 フィッシャーマンの視線が窓際に向く。一瞬彼は目を見開いたようであったがまた前を向き、話を続ける。
「どのくらい経っただろうか。山の向こうが明るくなり始めていた。明け方だった。うとうとしていた私を、若者が起こしてくれた。
『終わったみたいだ。』
若者の後について私はテントに入った。そこにはテントにかつぎ込んだ時の、生を終えようとしている幼馬はいない。代わりに、なんとか四本足で自分の体を支えようとしている幼馬と、肩を落とし穏やかな表情をしたあの老女がそこにいるだけだ。彼女は正座姿を崩さずそこにいた。呼吸を失っていてもなおそのままで。若者は老女の肩に布をかけた。
『お婆様、ありがとうございました。』」
 談話スペースは水をうったように静かだ。この物語がどこに向かうのか、誰もが固唾をのんでいた。
「そこでの生活中、例の老女、あのお婆様の調子がひどく悪くなっていたとかそういう様子はなかった。とは言っても、もしかするとちょうどその夜が彼女の生の終わりの火であったということはあり得るだろうし、それが、幼馬がたまたま生気を取り戻した瞬間と重なっただけだったのかもしれない。・・・ただその集落にいた人は誰もそのようには考えなかったし、その場にいた若者も、もちろん私もそう思わなかった。老女が自分の残りの命をその幼馬に差し出した、我々は等しくそう感じたのだ。・・・その後の老女の弔いは盛大に行われた。集落の者だけでなく、遠くから別の集落の者もきて、さらにはその集落をあとにし、町へ降りていった者まで彼女の最後を悼みにこの森まで足を伸ばしてきた。夕方から葬儀は始められ、暗闇に染まると、皆頭をたれ、それぞれがひそやかな声で祈りの言葉を唱えていた。その日も空には満天の星があった。天の川が森の空を横断し、いくつもの流星が尾を引いて流れた。朝方老女は川に葬られた。川を流れていくのを我々は見送った。」
 フィッシャーマンは一息いれ、また語り始める。
「全てが終わった頃、私はこの集落を出ようとあの若者に声をかけた。彼はあの幼馬を世話していて体を洗ってあげているところだった。
『行くのかい?』
『ああ。そろそろ頃合だと思う。』
『お婆様の葬儀にまで参列してくれてありがとう。あなたとともに過ごすことができて光栄だった。』
『いや、むしろ部外者がすまない。こちらこそ貴重な体験をさせてもらって。・・・なあ?』
 私は若者に聞いてみた。
『・・・君らにとって、あの夜のことはどう考えられることなのだろう?』
『どう、とは?』
『君のお婆様が亡くなり、あの幼馬が生気を取り戻したことが、さ。』
『・・・いのちは巡る』
『え?』
『お婆様の命がこの馬に引き継がれた。そういうことだと思う。・・・それは何も特別なことではない。全ては巡っている。山に雨がふり、川は山の生き物の亡骸や腐葉を運んでいく。その過程で生き物を育み、海へ注がれる。海でまた空へ水が上り、また山へ注がれる。』
 若者は空を見上げる。そこに何かがあるとでも言うように。
『鮭は冬をこそうとする熊が食べ、熊は死ねば、虫がその死体を食べ、木々の力となる。それはあなた方の方が詳しいはずだ。』
『・・・』
『私たちはそれを感覚的にわかっている。だからこそお婆様の死はまた新しい始まりに過ぎない。』
『・・・それはそう考えないとやりきれないからでは?』
 若者はしばらくその私の質問について考えた。そしてこう言った。
『そうかもしれない。ただそうではないかもしれない。・・・例えそうであったとしても、私たちはそれを受け止めこれからを生きていく。・・・もちろん、少しの寂しさとともに。』
 その後何の会話をしたかはもう覚えていない。覚えていられないような、たわいのない別れの挨拶だったのだろう。唯一はっきりと覚えているのは、私たちが最後に握手をしたことで、若者の手がひどく力強い手に感じたことだ。・・・彼は老女の次の、その集落の指導者となるのだから。」
 フィッシャーマンはそこで口をとじ、聴衆を見渡して言った。
「これでおしまいです。ご清聴ありがとう。」
静けさからそれを破るように斑な拍手がおき、それは徐々に広がり、大きな拍手となっていく。フィッシャーマンは照れくさそうな素振りもみせず、彼が目を留めたのはただ一点だ。あの老婦人、彼女もまた拍手していた。しかしやはり僕のいる場所からは表情はわからない。叔母さんや相談員さんや他の入院患者と同じく、彼女も僕と同じ気持ちだったのだろうか。

 僕はあえて移動してまで老婦人の顔を見ようとはしない。代わりにざわめき始める談話スペースを出ることにする。階段を降りるともう外来は終わっている時間で、一階には誰もおらず、照明もまもなく落とされることだろう。夕日が玄関の窓から忍び込んでくる中、僕は病院の玄関に向かった。誰かが呼ぶ声が聞こえて僕は振り返る。きっと誰もいないだろう、そんな気がしたが、奥からかけてくる相談員さんの姿が目に入る。彼女はやっと僕のそばまで来ると、荒い呼吸を整え僕に声をかける。
「急にいなくなってびっくりした。何かあったの?」
「いえ、特に何も。」
 僕は嘘をつく。いや嘘ではないかもしれない。この場では何もなかった。何かあるのはこれからだ。
「そう、それならよかった。あのおじいさんのお話、とてもよかった。きっとみんなも楽しめたと思う。」
「それはよかったです。」
「また頼んでもいいかしら。」
「ええ、ぜひ。直接彼に確認してみてください。きっといやとは言わないでしょうから。」
 僕はそう言って彼女に会釈する。
「色々ありがとうございました。」
「急にどうしたのよ?感謝するのは私の方。あなたが来てくれるようになってあの人も明るくなったし、こうして物語会を行えたのだから。」
「・・・はい。でもしばらく行かなければならないから。」
「行くってどこへ?どこか旅行するの?」
「さあ、・・・ちょっと川を下って、海でも見てみようと思うのです。」
「あら、それはいいわね。海はいいよ。ずっと見ていても飽きないから。」
「・・・楽しみです。」
 僕はそれだけ言って、彼女にぺこりと頭を下げ、そのまま病院を出る。追いかけてくれたのが彼女でよかった、そして彼女で胸が痛んだ、そんな気持ちをよぎらせながら。
「くらやみ、くらやみ、か。」
ポツリと無意識に呟く。そして薄闇に向かって僕は歩き出す。
 いつの間にか川のほとりまで僕は着ていた。いつ戻ってきたのかそこにはダストマンがいて僕の方をつまらなそうに眺めている。彼がゴミ捨て場以外にいるところを僕は見たことがなかったのでつい彼に尋ねる。
「どうしたのです?」
「・・・あのじいさんが、これを君にとさ。」
 ダストマンが座っていたのはあのカブであった。あの原動機付自転車だ。
「・・・修理したのさ。あのゴミ捨て場の部品と、あり合わせのもので、な。」
 ダストマンが立ち上がり、タバコに火をつけながら僕にカブのシートを譲った。僕は腰を下ろし、ささったキーをひねり、エンジンが入ることを確かめる。
 ダストマンの方を見ると、奥の電信柱に烏が一匹とまっているのが目に入る。
「坊ヤ、行ッテキナ。」
 僕は地面を蹴り、カブのステップに足を載せる。そうして僕は川のほとりを後にする。
「さようなら」
 あの狐のお面の少女が残していた言葉を僕も残して。



 一人の少年が泣きながらトボトボと歩いている。どうやら他の子供たちに虐められたらしい。両手で目の涙を拭いながら歩いていると、とある老人が川で釣りをしているのに出くわす。
「なあ、そこの坊や、どうした?そんなに泣いて。」
「泣いてなんか・・いない。」
やっとのことで少年は答える。涙でぐずりながら。少年は、泣くことが恥ずかしいことを知っている。でも涙は止まらずとめどなく流れていく。
「泣きたいときは誰にでもある。思いっきり泣けばいい。」
 そう老人は言って少年の頭を撫でた。少年は老人の大きな手に驚く。不思議な安心感で包まれるのを感じる。子供は泣き止み、不思議そうに老人の顔を見つめ、その横に座った。
「少しは落ち着いたか?・・・なあ少年、なあ青年、物語を聞かせてやるよ?」
 老人はそう声をかける。どこか別の場所ででそうしてきたように。
「さあ、よしよし。まあ元気を出せ。そうだなあ・・・今日はある青年の話をしよう。」
 そう言って老人は話し始める。
「その青年と、わしはある川のほとりで出会った。ひどくもの静かな青年だった。ただ仕事は正確で丁寧だ。彼は川の水の検査を仕事にしておった。」
 少年は目の前の川を眺めながら考える。川の水を検査するなんて酷く汚い川だったのだろうか。しかしその想像を裏切るように老偉人は話を進める。
「その川の水は本当にきれいな水だった。最初は、な。次第に汚れていったのだ。目に見えない何かでな。上流に工場を建てようとしていたからか、その完成した工場の排水か、捨てれていた産業廃棄物か・・・。まあわしには定かではない。ただその青年は、工場側に雇われていた。」
「なんで川を汚す工場が川の水を検査する人を雇うの?」
少年の質問に老人は丁寧に答える。もう涙は止まっているようだ。
「そうだなあ。逆に工場の人はきっと自分たちが川の水を汚していないということをアピールしたかったのではないか・・・。まあ、だからその青年は最初のうちは川の水の変化にも何も言わなかった。」
「・・・知っていて黙っていたの?」
「まあ上には相談していただろうが、な・・。でももちろん上の人も工場とグルだ。言っても聞いてはくれない。」
「その人はどうしたの?」
「新聞に投書したのさ。工場とも戦えるような大きな新聞社に、な。」
 老人は懐かしむように目の前の川を眺める。あの川とまるで同じ川であるとでも言うように。
「しばらくその街は大混乱さ。たくさんの新聞やテレビが詰めかけ、水の専門家の人たちもきた。役所の人が工場の検査にも入った。」
「どうなったの?」
 少年が老人の顔を見て言った。老人は言葉を続けようとしたが、急に老人の持つ竿がしなる。急いで老人は竿をひき、格闘する。少年も立ち上がり、老人を応援するが、急に竿に力がなくなり、魚が逃げてしまったことに気づく。老人は空を一瞬見つめると小さくため息をつき、釣り糸を回収する。釣り針には餌がもうついていないことを確認すると眉間にシワをよせ、釣り針にミミズをつける。動いていたミミズが釣り針に刺さると一瞬激しく痙攣してしばらくすると静かになる。そして老人はまた川へ釣り針を放り投げる。
「・・・・何も起きなかったのさ。」
「・・・え?」
「結局は工場の息のかかった連中がうまくテレビや新聞を見方につけてその場をうやむやにしてしまったのさ。」
「そんな・・・」
 少年が憤慨したように大きな声をあげる。
「大人の社会にはそういうこともあるのだ、少年。」
「・・・でも!」
「ああ、『でも』だ。それでもその街の人たちは戦ったよ。テレビや新聞が敵になっても。嫌がらせを受けても。・・・今、工場はそのまま稼働している。でももう水は汚していない。」
 少年は老人の顔をじっと見つめていたが、彼の表情から何かを感じ取ったのかまた川の方をみた。もう少年を虐めていた他の子供の姿は見えない。
「お?」
 また老人の釣竿がしなる。今度は老人がしっかりと合わせられたようだ。川からつきでる釣り糸がピンとはり、右に左に動いていく。
「久しぶりの獲物だ。」
 老人はそう歓声をあげる。少年は老人に言われるままにそばにあるネットを拾い老人に差し出す。
「よし!」
釣り糸の動きが鈍くなってきた。徐々に岸に近づくように誘導すると大きな魚体があらわになる。それを老人は慎重にネットですくう。
「すごい!これは何の魚?」
 少年が興奮しながら聞く。
「鮭さ。でもかなり大きいな。きっと海から登ってきたヤツだろう。この川には珍しいが。」

老人はきっと、この後また鮭の物語を少年に語るかもしれないし、それだけでなく鯨や狼の物語まで語るかもしれない。もしかすると、ある釣り人が、病院で最後まで妻を看病したことも話してしまうかもしれない。
そうやってつながっていく。川も海も人も物語も。

川の水面は、今日も太陽の光を反射し、美しく輝いていた。


(了)

ある川のほとりで ~初春

ある川のほとりで ~初春

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-09

Copyrighted
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