ある川のほとりで ~冬


Ⅲ冬

 すっかり寒い陽気が続き、四季は今や灰色の季節となった。冬、僕は冬をあまり好きではない。昔から寒いのが好きではなかったのだが、この川のほとりにきてからはなおさらだ。寒ければせっかく修理したカブに乗るのも大変だし、朝起きるのだって辛いのだから。何より一番嫌いなのは、あの川が夏に比べ輝いていることが少ないことだ。
そんな気分をまいらせる季節であっても、叔母さんは毎日僕が起きる頃には家をあとにしているし、フィッシャーマンも相変わらずだ。
「青年、今日もカブか?」
 水質検査をしている僕の背後からフィッシャーマンが声を変える。
「ええ、今日もカブできました。」
 僕はそう答える。そのやり取りは今や僕らの日課だ。フィッシャーマンは寒くなってくると大きなイヤーパフをしてマフラーを何重にも巻き始めた。セーターの上から分厚いコートをはおり、釣竿を持つ手には手袋だ。それでも寒いのか「へっくしょん」とフィッシャーマンは大きなくしゃみをする。
「まったく・・・なあ青年、物語を聞かせてやるよ。」
そうしてフィッシャーマンの物語もまた変わることはない。
「今日はなんです?」
「寒いからなあ・・・狼なんてどうだ?」
 釣竿を置き、くしゃみでずれたイヤーパフを直しながらフィッシャーマンは話し始める。
「冬の荒野で生きていく狩人さ。やつらは。冬の荒野にはなにもない。生き物の影もなく、ただ真っ白な雪原が広がっているだけだ。吹雪もある。雪崩もある。そんな中を狼は数匹から数十匹の群れで歩き回る。・・・わしは一度雪原にテントを張ったことがあった。オーロラって知っているかね?」
「いえ。」
 僕は素直に首を振る。
「あれはいい。ただ美しい。機会があれば青年も見てみるといい。人生で一度は見るべきものだと思う。空に浮かぶ七色のカーテン。虹なんかとは違う。もっと神秘的なものだ。時間によって色が変わっていくのだから。・・・とにかくオレはオーロラを見るために真冬の荒野にやってきた。雪に覆われた荒野といっても昼間は太陽も照っていて怖くはない。夜になればきっとオーロラが見ることができる、そう胸を踊らせていた。真っ白な雪原の美しさに感動していた。今考えればマヌケもいいところだ。恐ろしさを知らなかったのだからな。大雪原の怖さ・・・氷点下の夜の怖さをさ。その夜、急に天候が変わり、雪が激しくテントを打った。かじかむ手でなんとか火を灯すと生きた心地が戻ってきた。何もない雪原にともされた火は外から見ればさぞ煌々と輝いていたことだろう。外は吹雪が音をたてて吹きすさび、その中でオレは一人テントの中でひっそりと息を潜めていた。そうしている他なかった。まるで誰かに見つかってしまえば、雪がわしを襲って来るような気がした。わしは声を立てず、テントが飛ばないことをただ祈っているだけだった。・・・そしてそれは聞こえてきた。」
「それとは?」
 たっぷりと間をとったフィッシャーマンの語りの続きを促すように僕は聞いた。
「彼らの遠吠えさ。狼の、な。」
 フィッシャーマンはそこで一度釣り糸を引き上げ、餌の調子を見てまた針を投げる。暖かい時期とは違い、餌はまだしっかりとそこに付いている。
「何度も何度も狼は吠えた。一匹だけの声ではなかったからやはり群れだったのだろう。数頭が声を上げ、吹雪に負けないよう遠吠えを繰り返していた。彼らの声はテントを叩く吹雪の中でも不思議とわしの耳まで届いた。それは、この荒野で、この大雪原でただ生きるということにまるで挑むような遠吠えだった。『オレたちはここにいるぞ。どこまでもここで行きていくぞ。例え飢えようと。吹雪が来ようと』まるでそう叫んでいるようだった。」
 フィッシャーマンはそこで言葉を噛み締めるように黙った。僕も何も言わず、川の向こう側を眺める。今日はあの兄弟たちはいない。昼間だから狐のお面をかぶったあの子供たちも。ただ病院の入院患者がゆらゆらと歩き回る様子は今日も変わりはない。
「その遠吠えがやんだときだ。あれだけ激しかった吹雪がとまったのは。嘘みたいに風が凪ぎ、静かに降り積もる雪へと変わったのだ。オレは急いでテントの外に出た。そして周りを見渡し、遠くの雪の丘に彼らの小さな影が並んでいるのが見えた。何匹はわからない。それが吹雪に打ち勝ったあの遠吠えをしていた狼であることがオレにはわかった。彼らは、堂々と雪の丘の上にいた。彼らにはわしが目に入ったのだろうか。吹雪がやみ、静寂に包まれた雪原の中で、彼らはもう一度だけ鳴いた。あの大雪原に響き渡る見事な遠吠えを。」
 フィッシャーマンは空を見上げた。曇り空ではあるが雪は降ってこない。でもフィッシャーマンの目には雪原に降る雪が見えているのかもしれない。
「その後はもう吹雪くことはなかった。わしがその場所でテントを張っている間は一度も、な。わしはそこに何日か留まり、念願のオーロラを目にすることになった。その代わり、狼の鳴き声は二度と聞くことはなかった。」
 フィッシャーマンは曇り空からまた川へ目を戻した。
「・・・そして町へ戻る日となった。食料も残り僅かだからここには残れない。雪原に反射する太陽の眩しさに目を細めながらテントを畳んでいると、また雪の丘の上に姿を見せたものがいた。」
「彼らだった?」
「ああ、狼だ。一匹の狼が雪の丘の上からゆっくりとわしのテントの方に近づいてきたのさ。不思議と怖くはなかった。食われるなんてことは想像もしなかった。なぜだろうな。ただ彼がお別れにきた、わしにはそんな気がしたのだ。」
「狼はどうしたの?」
「ただ近づいてきただけだ。わしがテントをたたむ作業をやめ、近づいてくる狼を見つめていると3メートルぐらい先まで彼は警戒することもなく歩を進めてきた。そして数秒わしを見つめると行ってしまった。本当に痩せていた。骨と皮っていうのはああいうことを言うのだろうな。それでも彼は、わしを喰おうとすることもなく、通り過ぎていった。・・・そのあとさ。テントをたたみ終え、荷造りが済んだ後、荷物を背負い、わしはセスナの着陸ポイントまで歩いて行った。その道すがら、他の彼らの死骸を見つけたのさ。本当にやせ細ってそのまま餓死した狼たちだった。わしにはそれが、あの吹雪の夜、遠吠えをしていた彼らの一匹だと思った。わしに先ほどお別れを言いに来た仲間たちだと思った。それが真実かどうかはわからんがね。」
 ふと耳に冷たいものが触れる。雪だった。ここでは雪はしんしんと降る。フィッシャーマンがいた場所とは違って。ただ同じなのはこの雪も真っ白だということだ。降り積もる雪は川のほとりをゆっくりと白に染め上げていく。
「・・・積もりそうだな。」
 フィッシャーマンはそう口にする。そして続けて言った。
「わしは今でも思っているよ。あの狼たちの遠吠えが吹雪を止めたとね。彼らの渾身の叫びが、吹雪を恐れさせたのだってね。」
 そこで狼の物語は終わる。語りすぎたと思ったのか、それともただ単に寒くなったからなのか、フィッシャーマンは口元をマフラーの中に埋めた。僕はずっと疑問に思っていたことをフィッシャーマンに問いかける。
「ねえ?」
「なんだい、青年。」
「・・・フィッシャーマンはなぜここで釣りをしているの?あの病院を眺めているように見えるけれど。」
 答えはないと思った。雪が全てを覆い隠してしまうように思えたから。でも、だからこそフィッシャーマンは答えてくれたのかもしれない。時間はかかったけれど彼なりの言い方で。
「・・・なあ青年、物語を聞かせてやるよ。」
 いつもの言葉をフィッシャーマンは口にした。そしてこう続ける。
「ある川のほとりで過ごす、一人の釣り人の話しさ。」
雪がフィッシャーマンの言葉を包んだ。しかしフィッシャーマンの影のある表情までを隠しきることはできない。



雪が積もった川のほとりを僕は歩く。さくさくと、新雪が僕の足の下で音をたてる。今日は昨日とうって変わって快晴だ。川の水を採取できるところまでくると、僕は後ろを振り返る。僕が歩いた雪の上に、僕の足跡が点々と並んでいる。足跡の轍。その足あとは僕が今いるところまでもちろん続いている。
僕はしゃがみこみ、川の水を試験管に採取する。試薬を入れ、ひとふり、色が変わっていくのを観察する。濃いピンクだ。もう一度同じく試験管に川の水を採取し、試薬を入れるがやはり変わりはない。むしろ一層濃い色になった気がする。僕は検査表にバツ印を記入し、その表にもうしばらく×印が続いていることを再確認する。もちろんそのことは先輩にも報告してある。
「オレから伝えておくよ。さすがにこの数値がずっと続いているのは問題だろうからさ。」
先輩はそれだけ言って、僕の検査表を預かる。そしてまた新聞を広げるので、先輩の顔は聞の中に隠れてしまう。退勤時間が来ると彼は退勤していく。僕の検査表はデスクの上に置きっぱなしのままで。

 川の向こうで今日も歓声が聞こえる。あの兄弟がまたほとりに来ていて、川の水を引いた田んぼでスケートをしていた。今日のスケートにはあの妹らしい女の子も参加していて、彼女が一番うまく滑れていた。末っ子もなかなかだが珍しく長男が一番苦手そうだ。両手でなんとかバランスをとろうとして繰り返し転んでいた。その度に次女が近くまできて兄に何か話している。
その光景を見つめながら僕の頭に浮かんだのは昨日のフィッシャーマンの話だ。サケの話ではない。クマの話でも、オオカミの話でもない。ある一人の釣り人の物語だ。
「・・・その釣り人は旅が好きで様々な場所を放浪していた。オーロラを見に行った。荒野をさまよった。この星の果てまでいけると信じていた。そんな中、釣り人は彼女と出会った。」
「彼女?」
 僕は聞いてみる。
「ああ、彼女さ。・・・ある街にその女性は暮らしていて、その町の大学に通っていた。とても頭のよいコだ。学費の足しにとレストランで働いていて、そこで釣り人と出会った。彼女は釣り人の旅の話に心を動かされたらしい。大学を休学した彼女はその釣り人と共に旅に出た。いろんなところを巡った。砂漠を見た。一面の珊瑚礁に触れた。山頂で流星を眺めた。そして彼女が大学を出てすぐ、釣り人は彼女と籍をいれる約束をした。もちろん彼女の両親は反対した。どこの馬の骨かもわからない男と結婚するなんてまっとうな親ならまあ認めないだろうさ。しかし彼女の気持ちは硬かった。彼女の両親は釣り人がその町に定住するという約束でしぶしぶ認めた。その約束も一年ぐらいしかもたなかったようだが・・・。」
 そこまで話し、フィッシャーマンは釣竿を置き、右の手のひらを見つめる。
「そして事故があった。釣り人が彼女の両親との約束を破って旅にでようとすると、彼女は自分も行く、そう言ったのだ。釣り人は止めたが彼女は言って聞くような女性ではなかった。だからまた二人は旅にでたのさ。バイクに乗って。・・・それでその釣り人は右手がうまく利かなくなり、後ろに乗っていた彼女はバイクから投げ出されることになった。対向車の飲酒運転だった。釣り人は避けようとしてバイクごと横転した結果がそれさ。・・・そして彼女は、釣り人がいったいどこの誰なのかわからなくなった。」
 僕はしんしんと積もる雪を見ていた。溶けては降り、溶けては降ることの繰り返しで、雪は徐々に積もっていく。沈黙に耐え切れず僕はフィッシャーマンに言う。
「なぜ釣り人はそのまま付き添ってあげなかったのです?」
「・・・もちろん付き添ったとも。ただその時は彼女の両親がまだいて、両親は釣り人が彼女から離れることを望んだのさ。両親の気持ちを想像してみるといい。定住する、そういう約束だったはずが、一年ももたず約束を破り、その結果、バイク事故を起こした男に、自分の大事な娘そのまま預けておくことはそうないさ。」
「彼女の両親は今?」
「もういない。二人とも彼女の介護に疲れてしまったのさ。肉体的にも精神的にも。父親は他界し、母親はどこかの老人ホームにいるらしい。結果的に残ったのは一人の寂しい釣り人だけさ・・・。」
 マフラーの下に顔半分隠されたフィッシャーマンの本当の表情は僕には見えない。付け加えるようにフィッシャーマンは言った。
「法的には、もうその釣り人と彼女は夫婦ではないことになっている。」
「では誰が彼女を?」
「彼女の両親がそうなる前に彼女に後見人をつけた。事務的なことはお手の物だろう。そしてあの病院のスタッフがいる。安心して任せられるさ。いずれにしろその釣り人ではない。」
「・・・その釣り人は、まだ彼女のことを愛している?」
 フィッシャーマンはしばらく黙っていた。彼の言葉を待ちながら降り注ぐ雪に思いを巡らす。昔から雪が降ったときに思うのだ。なぜ雪はこうも静かに積もるのかということを。それはまるで、町全体にも声を潜めて語ることを求めているかのように、ただ静かに降り続いていく。
「わしにはわからない。もしかしたらそうかもしれないし、そうでないかもしれない。・・・いずれにせよわしに言えるのは、釣り人には責任があるということだ。・・・両親との約束を破り、旅に出ようとしたこと。その旅に彼女を連れて行こうとしたこと。結果彼女を乗せてバイク事故を起こしたこと。彼女が大怪我を負い、彼女が彼女でなくなってしまったこと・・・。すべてにさ。」
「でも・・・。」
 僕の言葉を遮り、フィッシャーマンは言う。
「青年、人生を振り返ったとき、ああしていれば、こうしていれば、と思うことが誰しもあると思う。・・・逆に言えば、そういうものを背負ってみんな今を生きている。多かれ少なかれ。」
それも物語なのだろうか?心によぎった言葉は口にされず、僕の頭の中にゆっくりと沈みこんでいく。
「その釣り人は今どうしているのです?」
 僕はフィッシャーマンが語った物語に合わせるように聞いてみる。釣り人が誰なのか、はっきりとわかっているとしても。
「・・・彼女が暮らす病院は川のほとりにあるらしい。その病院が見渡せる川のほとりで釣れない魚でも釣ろうとしているのじゃないか。どこかの、川のほとりで。」

フィッシャーマンの最後の答えを思い出していたときだ。また兄弟たちの歓声があがり、僕の意識はフィッシャーマンが語った物語から引き寄せられる。何度も転んでいた兄がスケートを諦め、雪玉を末っ子にぶつけたらしい。妹にも当てようとするが妹は見事な滑り方でそれを避ける。笑い声が川のほとりに響いていく。
僕は試験管内の液体を雪の上に捨てた。その液体が捨てられた場所は、川のほとりの雪をピンク色に染めていった。
 雪の足あとを逆に辿り、僕は事業所に戻った。戻ってみればもう退勤時間を過ぎていて。もちろん先輩はもういない。僕は自分のデスクに座り、今日の分の日誌を記入しようとすると、僕のデスクの上に一枚のFAXが置いてあることに気づく。手に取ってみるとどうやら工場からの通達らしい。そこにはこう書いてある。
《水質検査の結果について今後の対応策を検討中。》
 それだけだった。すでに退勤している先輩に、このFAXについて確認するのは次回顔を合わせたときになるだろう。先輩は本当に水質検査の結果を報告しているのだろうか。頭によぎった疑問の答えに、僕は確信を持てないでいる。



仕事から帰ると、叔母さんはまだ起きていて、居間で小麦をこねている。もちろんビールを飲みながら。
「おかえり。」
「叔母さん、ただいま。」
 僕はそう返事をする。
「何を作っているのです?」
「これ?うどん。寒くなってきたからさ。温かいものを食べたくなってこない?」
「ええ、でも粉から?」
「そう、明日休みだからね。んん。」
 そう言ってビールを一口のみ、力強く混ぜる。僕は叔母さんのそばに腰を下ろし、叔母さんが小麦粉を練る様子を見つめる。揉み、ひっくり返し、固め、また揉む。繰り返し繰り返して練りこまれて、うどんの元になる。
「叔母さん、一つ伺ってもいいですか?」
「・・・んん?」
 叔母さんはそう返事した。“いいわよ”そう応えたのだと思って僕は聞いてみる。
「叔母さんの務める病院はどのような病院なの?」
「あら、精神科よ。それも記憶喪失とかそういう人が多いかしら。認知症とかの人はあまりいないわね。」
 なんでもないとでもいうような口ぶりで、叔母さんの意識はうどんを練ることに集中している。
「じゃあ若い人もいるの?」
「ええ、今は若い人も多いわ。」
「逆に年配の人はいない?」
「そうね。うちでは四、五人。」
 叔母さんは一瞬手をとめて考える。
「その中で女性の人は?」
「確か三人ほどね。私も詳しいことはわからないけれど。・・・何かあったの?」
「いや、今日、川のほとりから見ていて、とても綺麗な人がいたから。」
 僕の答えを特に不審に感じなかったのだろうか、叔母さんは何も言わずまた鼻を鳴らしたような声をだしてうどんに力を込める。
「・・・んん。」
 今、叔母さんが言った中にフィッシャーマンの言っていた女性はいるのだろうか?
 居間を出ようと立ち上がったとき、僕はふと思い立ち叔母さんにこう聞いた。
「叔母さんは何か耐えられないぐらい辛いことって今まであった?」
 僕の質問に叔母さんはうどんをこねる手を止め、僕の顔をじっと見つめていった。
「・・・んん、まあね。」
 叔母さんはそれ以上何も言わない。僕も踏み込めずに自分の部屋へ戻る。窓を通してベランダにあの烏が止まっているのがわかる。
「坊ヤ、シテイイ質問ト、シテハイケナイ質問ガアルモノダ」
 そう窓越しの烏は僕に言ったようだ。



次の日、僕はカブに乗り、ダストマンに会いにいくともう彼はその場にはいなかった。
「ここにいたやつ?もういねえよ。」
「むしろそんなヤツいたのか?」
 トラックから廃棄物をおろしていた作業員に聞いてみるとそんな答えが返ってくる。彼らは僕をいかがわしそうに見つめ、それだけ言うとまた作業に戻っていく。いつの間にか廃棄物ははるか山に積み上げられている。
「今にも崩れそうだな。」
「ああ。まあオレらは上の命令を聞くだけさ。」
彼らの会話の断片がゴミ捨て場の前に佇む僕の耳にも聞こえてくる。彼らの口調はまるで事業所の先輩にそっくりだ。誰も自分のこととは思っていないし、自分の関わるべき範囲内でしか物事に関わろうとしなかった。
川沿いを戻ろうとすると、あのフォルクスワーゲンバスもなくなっていることに気づく。もしかしたらあのバスが実は動いて、ダストマンはそれに乗ってどこかへ旅立っていったのかもしれない。
 僕は試しに持参していた検査キットでこの場所の川の水を測定してみる。僕が予想したとおり、下流にあるいつもの川のほとりよりさらに悪い値が示されていた。

翌日も翌々日も事業所に先輩は出勤しなかった。その次の日はさすがに来ており、先輩がいなかった数日の水質検査記録と先日届いたFAXを僕は先輩に見せる。ここ数日の検査記録も×ばかり、規定値を超えた記録が並ぶ。
「そうかそうか、あまりいい結果とはいえないな。」
 先輩は訳知り顔で検査結果を見つめる。僕は先輩にここ数日どうしていたのか質問する。
「今までどうしていたのですか?」
「ん?ああ、言っていなかったか?・・・ちょっと研修があったからな。」
「研修?」
「ああ、水質検査に関する研修さ。今後今までの検査キットじゃなくてこれを使えとさ。」
 同僚はそう言うと小さなダンボールをデスクの上に置き、中から新しい検査キットを取り出す。
「・・・今までとどう違うのです?」
「ああ、まあ今までの検査キットだとだいぶ厳しい検査結果がでるのだ。法律のはるか上の厳しさらしい。」
 先輩は法律というところを、若干力をこめて口にする。少し誇らしそうに。
「厳しいから新しいものを使えと?」
 僕の声は納得していないことがはっきりとわかるものだったようだ。先輩は不機嫌な声をだす。
「そういう意味じゃないだろ?いずれにしろ法律に準拠したもので、上はこれを使えと言っているのだ。オレらは従うしかないのだよ。」
 僕は先輩のデスクの上に置かれた新しい検査キットと今まで使っていた検査キットをそれぞれ手に持ち見比べる。新しいものは電子計のようなものがついている。
「それで図るのさ。数値もより正確だ。オレらの目よりは、な。」
 そう言うと先輩はデスクから立ち上がり、僕が持っていた古い検査キットを取り上げると、それをゴミ箱に放り投げた。投げ入れるとまたデスクの椅子に座り、新聞を広げる。これで話し合いは終わりの合図だ。
 僕は先輩が新聞を広げているうちに、気づかれないよう静かにゴミ箱からまた検査キットを拾い上げる。僕の手の中にすっぽりとまた収まった検査キット。こういうのをなんというのだろうか、そう、「親和性」だ。そして僕はまたそれをカバンにしまう。

 フィッシャーマンの話以来、僕は川の向こうの病院をよく眺めるようになる。三人の老女性がいてそのどれかがフィッシャーマンの奥さんかも知れないのだから。
 新しい検査キットを使うがどうにも慣れない。だから僕は古い検査キットも使用する。この作業が好きなのかもしれない。新しい検査キットの結果は基準内だが古い検査キットの結果は少し前からずっと変化はない。基準値を超える値のままだ。試験管に川の水をすくう。試験管に試薬を入れる。色が変わるのを待つ。結果を検査表に記入する。慣れ親しんだ試技は、僕にとってまるで何かの儀式のように感じる。はたまた祈りとかそういうものなのかもしれない。
 病棟の三階の老婦人が僕の方を見ていたような気がした。気のせいなのだろうか。今日も試験管内の水は濃すぎるピンクだ。



 仕事が休みの日、僕は橋を渡り病院へ向かうことにする。橋の上は自動車も通るので雪は横に履けてあるが、歩行者は逆に歩きにくい。その日、病院は通常の外来の休診日であった。病院の玄関をくぐった先のロビーには数名の見舞客が自動販売機前やソファーに座っていたが、それ以外は誰もおらず閑散としている。
「こんにちは、いかがしました?」
 受付の中年女性が僕に声をかける。ふっくらとした笑顔をたたえる優しそうな女性だ。彼女の言葉で、会いたいと思ってきた女性の名前を僕は知らないことに思い至る。僕がどうしようか思案していると受付の女性もいぶかしげに僕を見つめる。
「どうしました?どなたかのお見舞いでしょう?」
その通りだが僕には見舞いたい人の名前が出てこない。仕方ないので僕はこう口にする。
「あの、給食で働いている叔母さんにちょっと用事が・・・。」
そう言って叔母さんの名前を伝える。出まかせもいいところだが、受付の中年女性はまたあの柔和な笑顔に戻る。彼女はスタッフ名簿らしい資料を確認し、僕に栄養科の場所を教えてくれる。
僕は彼女の案内しくれた場所へ進むふりをしてエレベーターに乗る。エレベーター前には各階の状況が記載されており、三階建ての病院の一階が外来、二階~四階が入院フロアとなっていることがわかった。僕はそれを確認してから、エレベーターの三階のボタンを押す。こないだ川のほとりから見えた老婦人がいたのは確か三階だったはずだ。
エレベーターが三階に着くといかにも精神科らしい重々しい扉があるが、今は開錠されていた。もしかすると今日が休日で見舞い客が多いからかもしれない。僕は中に進み、三階のフロア図を確認して進んでいく。若い女性看護師とすれ違うが忙しそうに小走りで廊下を駆けていってしまい、特に注意を受けることもない。
外見も古い病院であったが、内側はいっそう古めかしい。昼間の割に廊下は薄暗く、壁の色もくすんで見える。天井にもどうやって出来たのかわからない汚れが目立つ。時折、病院着を着た入院患者らしき人が僕のそばを反対方向へ向かい歩いていく。穏やかな微笑みをたたえた女性、気難しそうな若者、様々ではあるが一様に前かがみの姿勢で足を滑らせるように進んだ。
僕が目指していた場所は看護室の先、角を曲がったところにあった。開かれた談話スペースで、入院者とその家族らしい見舞客が会話をしていたり、入院者同士でお茶を飲んだりしていた。僕は彼らの腰掛ける椅子の間を縫うように進み、窓際まで行く。窓の外を見れば、そこにはあの川があり、僕がいつも水質検査をし、フィッシャーマンが釣りをするほとりがある。この談話スペースから見渡せる川のほとりは雪景色で染まり、ところどころに黒い点々がある。足跡かもしれない。遠くには僕が下宿する叔母さんの団地群らしきものも見えた。今日は川のほとりにフィッシャーマンはいない。もちろん僕自身も。いつも僕らは物語を語り合いながらこの病棟を見つめていたのだ。
僕はそれだけ確認すると窓の眺めから目を逸らす。窓際にはもう一人女性がいるから。僕があの時見つけた老婦人が僕から少し離れたところで窓の外を眺めていた。僕が彼女に視線を移すと彼女の方もそれに気づいたのかしばらくして視線を僕の方に向け微笑んでくれる。
「こんにちは。」
僕は彼女に近づき挨拶する。ダストマンへ挨拶したときより幾分親しみをこめるように。「ええ、こんにちは。」
その老婦人も微笑みをと切らすことなく挨拶を返してくれる。
「・・・きれいな雪景色ですね。」
「ええ、本当に。あなたはおいくつ?」
「まだ18です。」
「お若いのね。・・・おかけになったら?」
 老婦人は僕に、自分が座る椅子の向かいの席を勧めてくれる。僕はそこに腰を下ろし、失礼にならないよう控えめに彼女を見る。きっと若い頃とても美しい人だったのだろう。今でも顔にシワは少なく、無駄な贅肉もついていないスマートな体型をしていた。髪の白髪だけが老婦人の年を強く感じさせる。
「どなたをお尋ねなの?」
「ここで働く叔母さんに・・・いえ、あなたに会いに。」
「私に?」
「ええ。」
 そこで彼女は私の顔を眺め、何かを思い出そうと首をひねる。もちろん彼女は私の顔を知らない。僕だって彼女の顔はこの前川のほとりから一目見ただけだ。
 周りの人々の会話は聞こえてこない。皆一様にヒソヒソ声で、声を落とした会話をしている。これがこの場所で過ごすルールなのか、彼らに特有なことなのかは今日初めて来た僕にはわからない。
「どこかでお会いしたかしら?最近忘れっぽくていけないわ。」
「そうですね。きっと物語の中で、でしょうか。」
 そう言うと彼女は一瞬、キョトンとした表情を浮かべたがすぐにまたあの笑顔を浮かべる。
「まあ、それは素敵ね。」
 僕は彼女が着ている入院着から覗く腕に目が行く。左腕にブレスレットのようなタグをしていて、そこに書いてある名前を読み取る。
「でも私を訪ねてくれる人がいて嬉しいわ。最近はあまりいらっしゃる方もいなくて。」
「そうなのですか?」
「ええ、昔はよく来てくれた人がいたのだけど。」
「どなたです?」
「ええ、そうね。あら・・・?」
「どうしました?」
「いえ、ちょっと思い出せなくて・・・。どなただったかしら・・・。」
「ご両親では?」
 僕は彼女の記憶を呼び起こす手助けになればと問いかける。
「え、ええ・・・。そうかもしれないわね。」
 老婦人は僕のフォローにほっとしたように答える。でも、ならなぜ今両親はこないのかというところまでは老婦人の意識は向かない。彼女にどこまで記憶があるのか僕にはわからなかったが、思い出せないということはひどく彼女をうろたえさせることらしい。
「ねえ?あなたは今どんなお仕事をしているの?それとも学生さん?」
「いえ、もう働いています。水質検査のお仕事です。」
「水質検査?」
「ええ、ほら。この窓から見えるあの川の検査をしているのです。」
「あら、とても大事なお仕事じゃないかしら。」
 僕のことについての会話は和やかに進む。もしかするとそれは老婦人の記憶に関係があるのかもしれない。
「そんな体したものではないですよ。」
「そうかしら?この川はたくさんの人や生き物の拠り所になっているのではなくて?その水を検査するのだからとても重大なことだと思うのだけれど。」
「そう思いますか?」
「もちろんよ。」
 老婦人はそこでまた微笑む。
そこで僕と老婦人は小一時間程度会話をした。彼女の疲れが見えるまで僕は彼女との会話を楽しんでいたように思う。フィッシャーマンは物語を僕に聞かせるが、老婦人の方は僕の話を引き出すように話す。
 僕は時計の針を見るようなフリをして席を立つ。
「・・・そろそろお暇させていただきます。あまり長い会話はきっとお疲れになるでしょうから。」
 僕がそう言うと、彼女も少しホッとしたようだ。
「そうね。長い時間ありがとう。またいらしてくださる?」
「ええ、喜んで。」
 窓から見える川のほとりは、冬の早い日没に備え、夕日を反射し始めていた。

それから僕は、休みの日を見つけては老婦人のお見舞いに定期的に行くようになる。老婦人は僕が訪問する午後の時間にはいつも談話スペースにいて窓の外を眺めていた。そこが彼女のお気に入りの場所のようだ。
二度目の来訪の時も、多少不安であったが、彼女は僕のことを覚えてくれていて、一度目の時と同じように拒むことなく受け入れてくれる。
「あら、またいらしてくれたのね?」
「ええ、ちょうど休みだったので。」
「お仕事は順調?」
「まあまあです。」
 そんな挨拶から始まる会話の中で、僕は少しずつ彼女の昔の話を聞こうとする。その度に彼女は緊張したように固まってしまうか、うろたえることがある。なんとかフィッシャーマンとの接点を探そうとするが、彼女にはあるときの“昔”がないことが僕にもわかる。だから会話は自然と僕の話となる。
「原動機付自電車を自分で修理したのです。」
「あら、すごいじゃない。随分時間がかかったでしょう?」
「ええ、たぶん二ヶ月ぐらいは。」
「すごいわねえ。乗り心地はどうなの?」
「あまりシートは柔らかくないけれど、初めて乗ったときは風が気持ちいいです。」
「冬は大変じゃない?」
「本当に。」
 
病院への来訪の回数が増えるごとに知り合いができる。病棟のスタッフらしき人がしばしば三階談話スペースに姿を現す僕に気づいたのか、帰りがけ僕に声をかけてくる。
「あなた、〇〇さんのお知り合い?もしかしてご家族なの?」
 僕は不審がられているのかと思い、恐る恐る説明する。
「いえ・・・古い友人の知り合いというか。僕の知人が彼女の友人で、でも知人はとてもここには来られないので代わりに僕が来ています。」
「ふーん、そう・・・。私はこういう者なの。」
 彼女は胸に抱える分厚い書類のファイルを脇に抱え、自分の首に下がっている名札を僕に見せる。この病棟の生活相談員、ソーシャルワーカーであるらしい。顔を見れば僕より少し年上だろうか。髪を仕事の邪魔にならないよう、ポニーテールに後ろで束ねている。
「ソーシャルワーカーさん?」
「そう、ソーシャルワーカー。知っている?あまり馴染みのない名前よね。私もここでこんなの下げて働き始めるまで漠然としか知らなかったもの。」
「どういうこと仕事なのです?」
「あら、いい質問ね。まあ疎外された人や生活に不安を抱える人に社会的関係を築いていってもらうための支援をすることかしら。大まかに言えばなんでも屋だけれど。まあ長いから相談員とでも呼んで。」
「何か大変そうですね。」
「わかる?本当にいろいろな人に板挟みになって困るわ。・・・あ、そんなことより、あの人のことよ。あなたがお見舞いに来てくれている人。」
「・・・それが?」
 僕はきっともう面会を断られてしまうのではないかと不安に思う。
「最近とてもいい表情なの。たぶんあなたが来るのを待っているわ。あの人の両親が来るのが難しくなってから誰もお見舞いにきていないのよ。それももう二,三年になるかしら。そんな中であなたが最近よく来てくれるようになった。少し彼女の表情が明るくなったのよ。」
 僕は小さく頷く。
「ここの人たちにとって一番大事なことって人との関わりなの。みんな大なり小なり傷を負っている。だからここにいるの。みんな本当に傷つきやすい、繊細な人たちなの。新しい傷を負いたくないと思っている人も多いわ。でもやっぱり人との関係は絶やしちゃいけないのよ。」
「・・・ではまた来て大丈夫ですか?」
 僕は面会謝絶ではないことがわかり胸をなでおろす。
「うん、ぜひ来て。来て彼女とお話してあげて。」

 老婦人との話は途切れることがなかった。もちろん彼女が疲れを見せ始めるまでなので、長い会話はできないということもあったが、彼女は本当に素晴らしい聞き手で、僕の話に的確な相槌をいれ、より深い話を引き出してくれる。つい僕も調子に乗って大げさな話をしてしまいたくなるほどだ。老婦人もそのあたりをわかって、僕が話題を膨らましすぎるとあの柔らかな微笑みとともに話を元に戻してくれる。

もう何度目かのお見舞いだろうか。2F病棟の掲示板にこんなものが貼られていることに気づく。
《物語会 〇月×日予定 職員による本の朗読会を開催します。》
 僕がその掲示を見つめていると相談員さんが通りかかり、こう説明する。
「あら、また剥がし忘れているわね。それ、ちょうどこういうのが得意な看護師さんが退職しちゃって中止になるのよ。みんな楽しみにしていたのだけど。」
 僕はふと思いつく。
「あの相談員さん、例えばこれはボランティアとかでも構わない?」
「ええ、大丈夫だけど、知り合いにいるの?得意な人。」
「たぶん。」
 僕はそう答えると、もうしばらくこの掲示を貼っておくよう相談員さんにお願いする。
「いいわ、ただ早めに実際にやれそうか返事を頂戴ね。みんなへの連絡もあるから。」
「かわりました。」
「それはそうと・・・」
 そう言って相談員さんは話題を老婦人に向ける。
「彼女、本当によく笑うようなったわ。」
「そうでしょうか?」
「ええ、本当よ。あなた、私なんかより人と話をする才能があるわ。」
「あの人がとても楽しそうに聞いてくれるから。」
 相談員さんはそれを聞いてこう言った。
「私は思うのよ。・・・病的なものにしろ、精神的なものにしろ、傷を負わせるのも人なら、傷を癒せるのも人だって。そしてそのひとつの方法が他者との関係を気づくことであって、それは会話だってこと。人は孤独の殻の中で生きていくことはできない。・・・きっとどこかに無理が生じてしまうから。」
そう言うと、他のスタッフに呼ばれて、彼女は行ってしまう。振り返った相談員さんの後ろの髪を束ねるゴムに小さな花飾りがついていることに僕は気づく。オレンジ色の造花、あれはガーベラだろうか。



 その夜の帰り道だった。もう舗装された道の上の雪は溶けており、久しぶりにカブに乗って帰っている途中、川のほとりに子供たちを見かける。あの狐のお面をかぶった子供達だ。川のほとりには、路面と違いまだたっぷりと雪が残っている。団地群からのあかりを頼りに彼女たちはその雪で雪だるまを作って遊んでいた。
 僕はカブを脇に止め、いつもの川のほとりへ降りていく。狐のお面の子供たちも気づいたのかゴロゴロと雪の上を転がし、大きくしていた雪玉作りの手を止め、僕の方へ顔をあげた。
「雪だるまかい?」
 僕が声を変えると、狐のお面の少女は大きくうなずき、また雪玉作りに精をだす。今日の彼女は大きなどてらを着て、藁で編んだ深靴を履いている。僕は彼女を見て思い浮かべたのは座敷童子だ。年長らしい狐のお面の少年が一際大きな雪玉を作り、その上に一番小さい狐のお面の少年が雪玉を載せる。狐のお面をかぶった少女は、彼らとは別に一人で別の雪だるまを作っているらしい。僕は少女に協力して彼女の作っている雪玉の土台になるくらいの雪玉を作る。まず小さな雪玉を作り、それをゴロゴロ転がし、だんだんと大きくしていく。雪玉を転がしたところの雪の層が薄くなり、薄くなった分だけ雪玉が大きくなる。しばらくすると川のほとり雪玉が通った轍がいくつもできていく。狐のお面の少女からまた歌声が聞こえると、それに合わせて他の子供たちからも声があがり、重なっていく。僕はその歌を聞きながらさらに雪玉を大きくする。

 ゆきだま ゆきだま
 ころころ ごろり
 おおきくそだてや
 ころころ ごろり
 おおきくそだてば
 いのちは つづく
 ゆきだま ゆきだま
 ごろごろ ごろり
 みじかいいのち ゆきだるま

 歌が繰り返された後、僕の雪玉の土台は完成する。土台を見て、狐のお面の少女は僕の土台の上に彼女が作った雪玉を載せる。年長の少年がどこからか枝を二本持ってきて僕の作った土台に突き刺し、腕を作る。上の雪玉には、少女が丸い石を二つ使い、目を作る。まるまる太った雪だるまだ。
 少年たちが作った雪だるまと少女と僕が作った雪だるまが少し離れて二つ。少年たちのものの方が時間をかけたからより大きい。お面の子供たちは二つ出来上がると手を叩いて歓声をあげた。
 ちょうど雲がながれ、月が顔をだした。満月に近い月はよく雪だるまを照らし、雪だるまも一層輝く。狐のお面の少女が僕の右手をとり、年少の少年が僕の左手を握る。二人の逆側の手には一番年上らしい狐のお面の少年の手が握られ、少女と僕の雪だるまを囲み円が作られる。歌を歌いながら僕らは回る。月光に照らされた雪だるまの周りを。

くらやみ くらやみ
 あかりに ともしび
 しろいじゅうたん
 かぜかぜ ふけふけ
 かわながれ

 くらやみ くらやみ
 またたき ひかり
 おとない ゆうべ
 ゆきゆき ふれふれ
 かわながれ

 いつの間にか月は隠れ、また雪が舞う。僕は狐のお面の少女から手を放し、広げた手の上に白い粉雪が落ちるのを見つめる。あっという間に溶けていく雪。手のひらから顔を上げるとお面の子供たちが遠くにいて手を振っていた。狐のお面の少女の声は僕の耳まで届かない。雪は本当に静かに降るのだから。少女はお面をずらし、口をお面の脇から覗かせて僕に叫んだ。やはり声は聞こえない。でも口の形でなんとなく伝えたいことがわかる。僕が読み取れたことがわかったのだろうか、お面をかぶった子供たちはまた闇の中へ駆けていく。そして消えてしまう。狐のお面の少女が伝えたかった言葉。
「さようなら。」
 僕にはそう読み取れた。取り残された僕と雪だるま。その雪だるまの枝に一匹の鳥が舞い降りる。あの烏だ。
「正解ダヨ、坊ヤ。」
 それだけ言うと、一枚の羽根を残してまた飛んでいった。



翌々日、あの川のほとりでよく遊んでいた兄弟たちのうち、少女が誤って川に落ち、亡くなったことを僕は知る。
「なんでもスケートをしていて、急に氷が割れて、田んぼに落ちたらしくて。もちろん水が冷たいでしょ。ただそれだけでなくて田んぼの水をたくさん飲んでしまって。」
 叔母さんは僕にそう話始める。今日、叔母さんは仕事が休みで珍しく僕と遅い朝食を共にしていた。
「・・・田んぼで溺れてしまったの?」
 僕は自分の心臓が激しく打ち付けているような気がして手を胸に当てる。
「んん・・・。そうらしいよ。でも川の水から引いていた田んぼの水があまり綺麗じゃなかったみたいな話もあるらしいよ。」
「川の水が汚い?」
「ああ、そういえば君は水質検査してたんだけ。じゃあそんなことはないわね。・・・んん。」
 そう言って叔母さんはまたきゅうりのぬか漬けを一つ口に運んだ。僕は、途中から食が進まずにいつもならすべて平らげるご飯も半分ほど残してしまう。
 いろんなことが頭に浮かぶ。最後に浮かんできたのは、抑えた胸がいつの間にかいつもどおりの鼓動を刻んでいることだ。もしかしたら最初から激しく打ち付けてすらいなかったのかもしれない。全ては僕の気にしすぎで、思いすごしであるのかもしれない。

 その日は休みであったが、僕は病院に行くのをやめ、川のほとりに向かった。古い水質検査キットをもってだ。水をすくい、残り少なくなった検査薬をいれる。少し試験管をふる。僕はその作業をできるだけ、慎重にゆっくりと行う。目を閉じ、色がかわるのを待つ。まるで悼むように。時計の針が一周回るくらいの時間が経ったあと、目を開け、試験管内の色を見つめる。はっきりとしたピンク色。それをまた川のほとりに撒く。今まで繰り返してきたのと同じように。そしてその足で事業所へ向かう。
 今日も先輩は新聞を読んでいた。僕の来訪に一瞬驚いたような表情を浮かべ、新聞から顔を上げたが、また新聞に顔をうずめてしまう。
「・・・失礼します。」
「おう、今日は休みじゃなかったのか?」
 先輩の表情はまだ新聞に隠れたままだ。
「あの・・・水質のことですけど。」
 そこでやっと同僚は新聞からもう一度顔をのぞかせる。
「お前、まだ気にして・・・いったいどうした、その顔は?」
 よっぽど僕はひどい顔をしていたのだろう。先輩は僕の顔を見て慌てて質問する。
「ええ、大丈夫です。・・・とにかく水質検査のことで。」
僕の返答に、先輩は小さくため息をつき、新聞を脇においた。そしてデスク越しに僕をまっすぐ見据える。
「あの件はもう片付いただろう?新しい検査キットじゃ問題ない数値がずっと続いているのをお前も知っているじゃないか?何がそんなに気になるのだ。」
「・・・途中から検査のやり方を変えるっておかしくはないでしょうか?」
 僕は自分がこんなにはっきりとものを言うことがあることに驚く。先輩もそんな僕の言い方に驚いているのが僕には伝わってきた。
「そんなのは上の判断だ。オレらがとやかくいう問題じゃあない。・・・なあ一つ考えてみろよ。お前もこの街の人間じゃないのだろ。はっきりいってオレらには関係のない話なのだ。だからすべて上に任せればいい。・・・それが仕事ってもんさ。なあお前はまだ若い。」
 そのとおりかも知れない。先輩の言うとおりかも知れない。でも僕にはどうしようもなく納得できなかった。
「お前もオレも上から給料を貰って暮らしているのだ。お前はまだ一人だからいいかもしれないが、オレには遠くに子供がいる。例え会ってくれなくても、な。」
 先輩の表情から笑顔が消え、声に真剣味が増していくのに気づく。彼にも譲れないことがある。
「・・・お前が納得できないとしても何も変わらんよ。違う人間が来て、またお前の仕事を引き継いでいくだけだ。お前が何言おうと聞く耳をもつヤツなんか誰もいない。誰からも信じてもらえなくなるだけさ。それがオレらなのさ。上に言わせればオレらの代わりはいくらでもいるってさ。」
 自分の仕事を思った。水質検査の仕事。川の水をすくい、試験管に試薬をいれ、軽くひと振り、液の色が変わるのを見つめる仕事。見つめるだけの単純な仕事。確かにこの仕事に代わりがいないわけがない。誰でもできる仕事なのだから。でも、だからこそ嘘はつけなかった。
 僕は小さく会釈をして事業所を後にする。唇を噛みながら。鉄のような味がしたのは気のせいだろうか。そんな僕の背中に向けられる先輩からの視線を、僕は最後まで感じていた。



 数日後のことだ。事業所に止めていた僕のカブがその場から姿を消した。少し離れた川のほとりに、まるで鉄の棒でボコボコにされたように捨てられていた。この状態ではとてもエンジンがかかるとは思えなかった。試しに一度エンジンをかけてみると、鈍い音がして停止する。ゴミ捨て場から持ってきたエンジンは、声を上げるのをやめてしまった。もともと登録をしていない原動機付き自転車だ。警察に言ってもきっと取り合ってくれないだろう。
「青年、どうしたこんなところで?」
 そんな僕にフィッシャーマンが声をかけてくれる。僕が立ちすくむのを怪訝そうに眺め、そして僕が見つめているものを脇から見る。
壊れたカブはフィッシャーマンにどう見えただろう?
「・・・青年、これはどういうことだ?これは青年が必死にがんばって修理したやつじゃないのか?」
 その通りだった。でも誰かに壊されてしまった。
「・・・そうだけど、もうエンジンがかからなくて。きっとこの寒さにやられたのだ。それで滑ってここにぶつかってしまって。」
 フィッシャーマンにはそれが嘘だとわかっただろうか。僕自身が、誰も信じないでまかせを口にしたと思っているのだから。でも僕は真実を言うつもりはなかった。
「そうそう、僕はおじさんにどうしても頼みたいことがあるのだ。」
 僕は話を変える。これ以上、この死んでしまったカブについて聞いてもらいたくなかった。
「頼み?」
「うん、重大な頼みだ。」
「青年の頼みなら、なんだってするが・・・。わしに出来ることなら、な。・・・いや、でもこれは・・・。」
 フィッシャーマンに向けた僕の笑顔はどんな表情だったのだろう。哀しみだったのか、苦しさだったのか。それ以上フィッシャーマンは何も口にできなかった。僕は小さくお辞儀をした。
「宜しくお願いします。あなたしかできないことだから。」
 僕はそれだけ言い残しその場を後にする。フィッシャーマンと、壊されてしまった原動機付自転車を残して。

 川のほとりを歩きながら、僕は川を見つめる。夜がまたやってくる。遠くの団地の光を反射するものの、その光が時間とともに消えていき、黒が一層濃くなる川。皆、もう寝る時間なのだ。きっともう叔母さんも布団の中だろう。橋を渡る電車が通り、数秒間眩く照らされた川のほとり。まだ少女たちと作った雪だるまは溶けながらもそこにあり、川の水とともに輝くものの、電車が行ってしまうとまたもとに戻る。僕は雪だるまに触れながら、川に向かい、川の水に手を浸した。どろどろとしたように見える夜の川。もちろん昼の川の水と感触は同じはずだ。ただその時の僕はその川の水に触れずにはいられなかった。まるで暗闇に惹かれているとでもいうように。
「坊ヤ、暗闇ニ惹カレテイルノカ?」
 また烏が雪だるまの腕に止まっていた。その重みで雪だるまの腕は少し傾き、その拍子に溶けかけた雪だるまの頭が崩れた。しかし雪だるまの腕はなんとか烏の体を支えている。
「惹かれている?そうかもしれない。」
「モット手を奥マデ伸バセバ楽ニナル。」
「うん。」
 烏の提案は心地よく僕の耳に響いた。僕はさらに奥まで川の中に手を入れようとする。まるで体ごと川の中に飛び込もうとするくらいまできたとき、あの歌が浮かんだ。
「・・・くらやみ、くらやみ・・・」
 僕は頭に浮かぶ節を口ずさむ。あの狐のお面をかぶった少女が唄っていた歌を。

 くらやみ くらやみ
 あかりに ともしび
 ・・・
 かぜかぜ ふけふけ
 かわながれ

 くらやみ くらやみ
 またたき ひかり
・・・
 かわながれ

 もちろん完全に覚えているわけではない。おぼろげな記憶を頼りに浮かんできた歌詞を口ずさむ。わからないところはハミングする。それでも唄は風にのって川を渡っていく。もしかしたら川の流れのままにフィッシャーマンが教えてくれたあの海まで運ばれていくかもしれない。
 僕は川の水から手を引き、ズボンで手を拭った。冷たい水に手をどのぐらい漬けていたのだろう。かじかんだ手が震えていた。その手をズボンのポケットにしまう。
「イイ選択ダヨ、坊ヤ。」
 烏はそう言うとまた飛び立っていく。
「選択か・・・。」
 僕は烏の言葉をポツリと口に出し、川から離れていく。団地群の灯りを目指して。僕は叔母さんのいる家に足を向けた。あの病院で行う、物語会について考えながら。そしてその後のことについても考えながら。
 歩きながら、土手の草が溶けた雪を上に持ち上げているのに気づく。春はもうすぐだ。

ある川のほとりで ~冬

ある川のほとりで ~冬

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-09

Copyrighted
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