壁に落書きはいらない
「あれ~。また落書きしやがった、こん畜生め」
大家の悪態が聞こえてきた。
家を囲む塀に絵を描いていく者がいるのだ。子供の落書きのような、普通の人なら恥ずかしくて人前にさらせない出来の絵を。
そのたびに大家は、人を雇って消させる。
それは壁の所有者と無縁の者が、無許可で描いたものだったから。
ある日、大家は犯人の正体を突き止めた。
服部高貴(はっとり・たかたか)。
近所に住む絵描き志望というか、何もせずに家の中で未熟な図画ばかり描きためているニートの若者だった。
夜中にこっそり、画材と照明をたずさえてきて、頭の中でこしらえたイメージを壁画さながら等身大で表現する。
今度の絵は大作で、未完成だった。きっと犯人は描き足しに来ると思い、物陰に潜んでいた大家。服部が塀に向かって創作に没頭、ようやく完成させた頃合をみはかるように、背後から躍りかかって押さえつけた。若い頃に鍛えあげた筋骨だ。熟年の今でも、体格や腕力は相手を圧倒している。
ひょろひょろした身の若者は暴れる甲斐もなく組み伏せられた。
「きさま! なんで俺の家の塀に落書きなんかする?」
「落書きじゃありません。塀を芸術表現のキャンバスに使わせてもらったんです」
「なんだと」
「この場所は大勢の人が通る。みんなに、ぼくの絵を印象付けられる」
「俺の家の塀だぞ。勝手におまえのもので印象付けていいと思うのか?」
「残しておけば、将来は画壇の寵児たる服部高貴(はっとり・たかたか)の青年時代の習作として誇りにできますよ」
大家はゲタゲタとあざ笑い、その生理的現実感が服部の心をいたく傷つけた。
「アタマ大丈夫か?」
「あんたには芸術がわからないんです」
「なーにが芸術だ。ほれ見い!」
大家は相手のひ弱な両腕を引っつかむようにして起き上がらせ、塀に描かれたものを示してみせる。
「なんだ、この恥ずかしいお絵かきは? 小学生だって、もっとマシなもの描くぞ」
「あんたの鑑賞眼は小学校で止まってるんだよ」
「黙れ、馬鹿! 恥さらし! 無職の役立たず! 落ちこぼれの穀つぶしが!」
大家はあらんかぎりの罵倒を浴びせ、最後通達を申し渡した。
「落書きを消せ。消せば、とりあえず許してやる」
服部の立場と体力で逆らうわけにはいかない。
服部が死ぬほど情けない思いでせっかくの労作を無に帰す作業を強制される間、大家は背後で腕組みしたまま睨みつけている。
二晩かけた創作の成果はさしたる手間もかからず消えうせた。
「いいか。今度やったら、警察に突き出すからな」
服部をさんざん罵ったあげく、尻に蹴りを入れるようにして追い払う。
服部は涙にかき暮れた。
二度と描いてやるもんか。あんな芸術に無理解な奴のところになんか……。
彼はさすがに懲りたらしく、二度と大家の塀をキャンバスとはしなかった。
それでこの件は片が付いたはずだった。
しかし。
「おい。また、おまえだろ」
大家が服部を捕まえにきた。
否定しても襟首をつかんで引きずるようにして、壁の前に連れて行かれた。
たしかに壁には絵が描かれてる。
大家は殺さんばかりの剣幕で罵り散らかす。
「性懲りもなくまた、こんな真似しやがって」
でも、言いがかりだ。
服部はこんな絵は描いてない。なんといっても、ものが違う。
あきらかに画才ある者の手になる作で、服部とは次元が異なるほど上手かった。
大家はかまわず、消去剤やブラシを持ってきた。
「わかってるだろ。消さないと、今度こそ警察呼ぶぞ」
「俺じゃない、俺じゃない、俺じゃない……」
「まだ言うか。こんな馬鹿な絵、おまえ以外に描く奴いるか?」
それは上等な風刺画で、政界の状況をみごとに戯画化したものだった。服部の描いたものとは志しからして別なのだが、大家の目にはどれも同じ落書きにしか見えないようだ。
「ほんとに俺じゃないったら」
「うるさい。警察呼ぶぞ」
そのとき。
二人が言い合うそばで壁の絵を眺めていた近所の老人が、悲鳴にちかい驚きの声をあげた。
「あれあれ? 大家さん。これ! その人の絵じゃないよ、座間アミロの絵だ!」
大家は空耳したらしく、怒りが老人のほうに向けられた。
「なんだって。ざまあ見ろだと?」
「そうだよ、座間アミロだよ」
「こいつ!」
大家は今度は、老人の首根をつかんで締め上げる。
居合わせたみんなで大家を止め立てし、老人は「ざまあ見ろ」ではなく「座間アミロ」と言ったのであり、それが覆面芸術家の筆名でいかに凄い評価を得ているか説明しなければならなかった。
たしかに、壁になされた落書きの片隅に「座間アミロ」と署名がある。
座間アミロの名はたいていの人が知っている。
民家や公共施設の壁にまるで実物のようにリアルな絵を描きくわえ、ひとつの風景として成立させてしまう正体不明の覆面芸術家。
いや、人騒がせな愉快犯には違いない。しかし専門家からは高い評価を受け、一作ごとの価値は何億円にも見積もられるという。しかもアミロが絵を描いた場所は、押し寄せた無数のファンにより「聖地」となって観光名所のように賑わうのが常なのだ。
大家は事情がわかると、態度を変えた。
乞食に小便されたと思ったら、福の神がご利益をもってきたのだ。
それから、塀の絵を消すよう言われ道具をもたされはしたが、なお躊躇する様子の服部に、あわてて言い放った。
「おい、やめろ。消すんじゃない、ボンクラ。そいつはただの落書きと違う。高名な天才画家、座間アミロ大先生の傑作だぞ」
疑って悪かったとか謝罪の素振りなどまったく見せはしない。
「いいか、いじるなよ! その絵は俺の家の財産だ。変な真似しやがったら、タダじゃおかねえから」
うひょ~~♪ こりゃ~、我が家にも運が向いてきた。俺の家の前は名所になって日本中から人が押し寄せる。観光地みたいに賑わい、大儲けになるぞ。よ~し。とうちゃん、座間アミロ饅頭を売っちゃうからな~♪
大家は有頂天になって家の中に駆け込むと、あちこちの放送局や新聞社に電話をかけまくった。自分の家の塀に、あの覆面芸術家の落書きがされたと伝えるために。
集まった近所の人たちも福運にあやかろうとするように、大家の家の玄関前で群れている。
塀の前、いや座間アミロの絵の前には、服部ひとりが残された。
眼前にあるのは、かねてより憧れる座間アミロの手になる壁画。彼が他家の塀になど絵を描くようになったのも、もとはといえばアミロに影響されてのことだ。
さすがに俺の描いたものと違う。これには到底かなわない。認めねば。
でも……この名画は、こんなところにあっちゃいけないんだ。
服部はその全貌をしっかりと目に焼き付けた。
それから。
彼は迷わず、絵に、いや落書きに大量の消去剤をぶっかけた。
力いっぱいブラシを握りしめ、これほど力を出したことはないというほど精魂こめて、座間アミロの作品を消していく。
大家が戻ったとき、絵はまったく痕跡も残っていなかった。
この瞬間の大家の身体的衝動がいかなるものかは想像にかたくない。
「き……さ……ま……」
服部高貴がどんな姿になったかは書くまでもなかろう。
しかし大家は服部から賠償だけは一銭も取り立てられなかった。
「まったく、何てことしゃーがるんだろ。座間アミロの絵ですよ、座間アミロの。え、知らないの? あの超有名な天才画家! わたしの家の前は聖地として繁盛するはずだった。マスコミの報道も、全国から押し寄せる巡礼者の大群も、観光収入も……あのニートが消してしまったせいで、み~んなパーだ!」
だが。
大家が警察に泣きつき、いかに大損害をこうむったか必死で言い立てても、担当官はこう答えるばかり。
「損失には計上されないでしょう。しょせん落書き、してはいけないものなのです」
それは壁の所有者と無縁の者が、無許可で描いたものだったから。
( 完 )
壁に落書きはいらない
自宅の壁に変な落書きをされた家主が渋面で消そうとしたところ、
それが高名な覆面画家バンクシーの作だとわかり途端に態度を改めたという海外ニュースに触発されました。
いきおいで書き上げたので、いろいろアレなところ多しでしょうけど。