地の濁流となりて #10

第二部 辺境の地編 パガサの焦り

 放牧の民の長パウに連れられた三人が,ヘルバ草原の奥に設けられた「カーザ」と呼ばれる布の家に起居して,一週間になろうとしていた。旅が始まって以来,最初の長い逗留になる。気ままに異風の生活を楽しむマンガラと,じっとしているかと思うと姿を消すカタランタと違い,パガサはこの七日ほどをじりじりする想いで過ごしていた。
 「エル・レイの信書に従い,お前たちが次に向かうべき場所への備えをする。少し時間をいただく。疲れを取るには窮屈かもしれぬが,今後のために体を休めて欲しい。」
 宿営地に着くとパウは民を集めて,マンガラたちを「大事な客人」と簡単に紹介し,皆の前でそう告げた。土の里の者なら,一人どころか数人以上は,彼らを迎え入れる理由を尋ねるところだ。しかし,集められた放牧の民は誰一人として,三人に宿を与える理由も,三人がここへ来た目的さえ尋ねなかった。
 そうして,パガサの心配をよそに,「客人」の日々が始まった。土の民は,農作物の収穫に耕作,草の成長が早い時期は草刈りに草抜きと,陽の光を一時も無駄にしない。しぜん朝は早くなる。放牧の民も同じだった。習慣からパガサが早く目をさますと,すでに人々は寝具を片付け,めいめいが出かける準備にかかっていた。
 空はあのマールがある方角を鮮やかに染めている。その色にカーザの白い生地が彩られる下で,各々の家族がオヴェラ羊の毛並みを整える。動物の方も慣れたもので,自分の飼い主が天幕から現れる頃合いを見計らうように,勝手に集まってくる。
 「こうしてやると,安心して乳を出し,食欲も出てくるのです。いえ,ただ撫でているのではないのですよ。毛の具合から,この子たちの体調も分かるのです。」
 毎朝,することもないので,パガサが朝の仕事を観察していると,民の一人が教えてくれた。最初は特殊な能力かと思ったパガサだったが,土の民に置き換えてなんとなく納得した。自分たちも,作物の茎や葉の状態を見て,水や肥やしの配分を変える。理屈ではなく身についた感覚。そのようなものかもしれない。
 羊の毛の手入れが終わると,男性たちはカーザに戻り,代わりに出てきた女性たちが搾乳した。最初パガサは,羊の足元にしゃがんで乳を絞る姿に見とれていた。器に入る白い液体が,そのままその朝の食事になる。余ったものは,壺に入れられ,一日も置くと,あの発酵した塊に変じた。そして,それがこじんまりした食卓に,焼いた穀物と一緒に並ぶ。
 そのうち,搾乳の間に,男性が何をしているのかパガサは気になってきた。女性に入れ替わってカーザに戻る男性について行くと,そこには別の家族の男性たちが来ていた。ぎゅうぎゅう詰めになった天幕の下で,聞いたことのない言葉が飛び交う。しかし,何日か聞いているうちに,これがその日にどこで羊を放つのかの協議で,分からない言葉は場所の符号だと気づいた。
 三日目にはマンガラも誘って放牧に連れて行ってもらった。しばらく見ていると,羊たちは,草地が広がるなかで,特定のある植物だけを選んで食べている。鎌で草を刈るように,草という草を喰むものだと思い込んでいたパガサは,動物が選り好みするのが不思議でならなかった。近くで見張る者に率直に尋ねてみた。
 「ああ,あれはドフラという草です。栄養分が豊富なのもありますが,成長が早いので,食べさせるようにしつけています。食べてもすぐに生えてくるのです。」
 「食べてもすぐに生える」という表現を,その時のパガサは自然との共生という観点から捉えていた。土の民も取り尽くすことはしない。リーゾの収穫でも,パテタの収穫でも,幾らかは敢えて残す。それが次の収穫につながる。生えにくいものよりも,生えやすいものを優先して与える。そうパガサは理解した。しかし,この民の習慣の真の目的は,エル・レイの話した「痕跡を残さない」ためであった。
 放牧の民の生活を毎日観察するのにも,五日目を迎える頃には,さすがに飽いてくるのを感じた。まるで放牧の民の一員になったマンガラと,忙しくどこかへ行き来しているカタランタを傍目に,パガサには,里を出て以来の「休息」が,いつしか心に重くのしかかっていた。そういう訳で,久しぶりに一緒になったカタランタにパガサは不安をぶちまけた。
 「ねえ,ここへ来てからもう五日になるよ。一体,いつまで待たないといけないの。次に行く場所は決まっているのでしょ。先に出発してはいけないの。」
 矢継ぎ早にまくし立てるパガサからは,つのる焦燥感が体からほとばしっていた。カタランタでなくとも,パガサの焦りには容易に察しがついただろう。しかし,それと知りながらも,カタランタが返したのは,厳しい一言だった。
 「備えがなくては,次の場所へは向かえない。それだけだ。待て。待つことが大事な時もある。そして,今がその時だ。」
 まる一日姿が見えないほど,外で何か忙しなげにしているカタランタであればこそ,自分の気持ちに共感してもらえると思っていた。それだけに,パガサの落ち込みようはひどく,夕方に放牧から帰ってきたマンガラを心配させるほどだった。もっとも,マンガラのかけた言葉は,およそ今のパガサを慰めるのとは程遠い,「お腹減ったの」というものだったが。
 さらに二日が過ぎた。この間に,パガサは,ヘルバ草原のおそらく中ほどに設けられている宿営地を見回っていた。放牧の暮らしに,民の生活に飽いたというよりは,長パウを探していたと言う方が正しいだろう。直談判とまではゆかなくとも,せめてこちらの切迫した事情だけでも伝えたかった。しかし,パウはいくら探しても宿営地では見つからなかった。時おり,あの遭ったときの土を響く馬の足踏みを感じたが,それも焦りからくる勘違いだった。
 「そんなに焦っても仕方がないよ。休めって言われたのだから,休んでおこうよ。」
 その夜,昨晩から眠つけなくなっていたパガサは,天幕の上に開いた,空気を取り入れる穴から月を見上げていた。寝ていなかったのか,途中で眼を覚ましたのか,マンガラが小さな声でパガサに囁いた。青白い月明かりを浴びて,わずかに冷めていた心に,再び熱いものがこみ上げてきた。
 「こうしている間にも,里にはあの病が広がっている。元気だった若者たちも,喉に硬いものができたり,首が大きくなったりして,そうして,そうして,動けなくなっていくの。お前のお父さんやお母さんだって,病にかからない保証なんてどこにもない。それなのに。休んでなんかいられない。」
 叫びたくなるのを必死でこらえながら,パガサは小声で言った。無理な力がこもっていたので,自分の聞いたことのない低い音が漏れていた。マンガラに当たるのは間違っている。しかし,パガサには他に気持ちのやり場がなかった。
 「ここはね,パガサ。すごく落ち着く。なんか里にいるみたい。朝早く起きて,羊をさすってやる。乳を絞って,みんなで食事をする。それから,草原に出て草を食べさせる。ここには緑があって,その下に土がある。誰もがこの生活を共にしている。里もそうだったよね。」
 声の調子からマンガラが寝る姿勢を変えて,自分と同じく月を見ていることにパガサは気づいた。
「マンガラ。」
 パガサは小さい頃のことを,まだ「輝石」が発見されなかった頃を思い出した。元気な父が鍬や鎌を全部一人で抱えて畑へ急ぐ。ぼくは遅れないように,一生懸命走る。けれど,追いついた母が抱きかかえて,「お父さんはせっかちね,早く耕したからって,早く芽が出るわけじゃないのに」と優しい顔をする。でも,ぼくは父に追いつきたくて,母の腕をすり抜けて走り出す。「まあまあ,パガサもせっかちね」と母がぼくの後ろから,困ったように笑い声をかける。
 「パガサ,今は待とうよ。カタランタは嘘をつかないよ。あまり話さないけど,今までずっと一緒にいてくれたじゃない。」
 紅潮していたパガサの顔を涙がつたっていた。マンガラの何気ない言葉から,パガサ自身気づいていなかった事実が,もしかすると,気づいていながら知らないふりをした事実が,にわかに意識された。そうなのだ。この放牧の民のなかに混じっていると,嫌でも里のことを,それも皆が活き活きしていた里のことを思い出してしまう。だから,だから焦る。そこまで考えると,憑き物でも落ちたように,パガサは急な睡魔に襲われた。
 八日目の夜のことだった。月を眺めているうちにウトウトしてきたパガサは,差し込む月明かりの他に照らすもののないカーザのなかで,小さな物音を聞いた。誰かが床を離れて動いている。と,一つの影が,天幕の入り口に忍び足で向かい,隙間からするりと抜け出した。パガサは横で寝ているマンガラを揺さぶった。
 「マンガラ,マンガラ。誰か外に出て行ったよ。こんな夜中に。ねえ。」
 里でのような規則正しい生活を一週間も送っていたマンガラは,熟睡しているようだった。パガサの揺さぶる腕を振り払って,かけていた布で頭まで隠してしまった。
 仕方がない。一人で行くか。でも,誰がどこへ行こうと言うのだろう。
 その影と同じ要領で天幕から出たものの,パガサは完全にその人物を見失っていた。等間隔で設けられたカーザの群れが,月夜に青白く浮かびあがる。草のなかで虫たちが,いつもの音楽会を催している。誰かが起き上がったりしなければ,とても安らかな夜の一幕。パガサは自分が外を歩いている理由を危うく忘れそうになった。
 カーザを設置するときに踏みしだかれた草の上を進むと,二つ先のカーザの隙間から差す明かりが,そこだけ緑を橙色に変えていた。こんな時間に起きて何をしているのだろう。パガサは音を立てずに,その明かりに近づいた。なかから声が聞こえる。
 「カタランタ,これへ。お前に二つの物を渡しておく。今日,早駆けでようやく手に入った物だ。」
 見つからないように覗き込んだパガサは驚いた。片膝をつく後ろ姿はカタランタ,その向こうにパウが台に座っている。これまで散々探して,それでもどこにも見つからなかったのに。
 「これがヴァルタクーンの王宮の見取り図。王宮内に張り巡らされた通路も網羅されている。そして,これが古文書博士への私信だ。封蝋に用いられた王印を示せば分かる。後は。」
 そこまで話すと,突然パウは青い眼を上げ,カーザの入り口に向けた。あのカタランタが持っていたのと同じ透明な箱に揺れる炎が,その青をひときわ光らせた。パガサは慌てて天幕の横へ身を滑らせた。見られただろうか。それにしても,王宮の見取り図とか言ってなかったか。古文書,私信。パウの「備え」とは,カタランタに示したあれらなのだろうか。
 「お前の仲間は好奇心が旺盛だな。さすがに選ばれた者だけはある。だが,旺盛なあまり,失敗せぬよう,しっかりとその身を守るのだぞ。じきに時が至る。」
 横にずれたせいか,それ以降の言葉は聴き取れなかった。もしかすると,こちらに気づいていて,敢えて聞かせる部分は声高に,秘密はカタランタにのみ囁いたのだろうか。カーザのなかの様子に集中するあまり,横から声をかけられたとき,パガサは飛び上がりそうになった。
 「おい。俺たちのカーザに戻るぞ。」
 ゆっくり声のする方を向くと,そこにはカタランタがため息をつきながら,苦い顔をして佇んでいた。やっぱりパウに気づかれていたのだ。盗み聞きは良くない。それは民や部族が変わっても同じだろう。となると,何からかの罰が。
 「ぼく,聞いちゃった。見取り図とか,古文書とか。」
 罰を受けるよねとパガサが,不安げに続けて言おうとすると,カタランタが少し強く言葉を重ねて遮った。
 「マンガラには言うなよ。質問攻めは勘弁だ。次にはマールの北東部にあるヴァルタクーン王朝を目指す。侵入するための道具立てを,パウが揃えてくれた。明日,ここを出る。」
 てっきり責められると考えていたパガサは,カタランタの態度に拍子抜けした。いろいろ訊きたいことがあったはずなのに,パガサを置いてカタランタはカーザに帰って行く。けれど,とパガサは思った。今回はきちんと,ではなくとも,教えてはくれた。拒否も拒絶もされなかった。まあ,ついて行けば分かるか。とにかく,ようやく出発だ。
 翌朝,まだ薄青の空が広がっている頃,三人を見送ろうと放牧の民がカーザの周りに集まっていた。一週間ほどだったのに,名残が惜しい気がするのがパガサには奇妙だった。あれだけ出発を焦っていたのに。民と同じ生活を毎日送っていたマンガラは,パガサの知らない何人か民と一緒に声を上げて泣いていた。
 「さらなる旅へ祝福を。辺境の一部族より心を込めて。」
 長パウの言葉に民全員が和した。声が止むとカタランタが無言で一礼したので,パガサとマンガラもそれに倣った。体を起こしたパガサは,ふとパウの開けている長衣から見えている,長い紐の先についた装飾品に目をやった。それは,見知っている形状をしていた。だが,それが何であるのか思い出せなかった。
 カーザの群れを後にして,再び草をかき分けて進んで行く。今度は王朝。どのくらいかかるのだろう。そう思いながらパガサは,先行するカタランタの腰のあたりを見て,あの装飾品が何であるか思い出した。そうだ,あれは卍を象った物だった。なぜパウがカタランタと同じ卍の形の物を。
 またしても増えた謎。パガサは頭を抱えたくなったが,マンガラが発した言葉に,まあ良いやと考えるのを,今は保留することにした。
 「ねえ,朝ごはん,まだ食べてないよね。」

地の濁流となりて #10

地の濁流となりて #10

ヘルバ草原の奥。次の旅先への準備のために,放牧の民のところで留まることになったマンガラ一行。民と同じ生活をするマンガラ,目的は分からないが,東奔西走するカタランタ。彼らをよそに,パガサは過ぎ行く時間に焦りを感じ始めていた。第二部「辺境の地」編完結。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-08

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