あの頃には帰さない

あの頃には帰さない

初めまして!私、月村鏡(つきむら かがみ)と申します。

本作品は私の長編小説処女作となります。どうか温かい目で閲覧していただけると幸いです。
さて作品についてですが、最初は本作品を書くにあたって高校時代の演劇台本(戯曲)を土台として書き始めました。その際は非常に高校生らしい良くも悪くも落ち着いた恋愛モノでした。
が、構想を経たプロット段階で今の形に変貌させます。具体的には古事記を中心とした神道の概念、死後の話を挿入しています。
正直追加で挿入した死後の話が一番苦労し、混乱しました。慣れない事はするものじゃないですね……一応脱稿した段階である程度納得のいく作品には仕上がらせましたが、読中に疑問を持たれそうな内容について予めネタバレにならない程度の補足と、ガイドラインを提示させて頂きます。
1,登場人物は(那岐を除けば)全員が思考、行動両面で一貫性を持っています。奇怪な行動を取るキャストを見て、「これ、どういう事?」と思ったらそのキャストの今迄の行動を思い返して下さい。きっと納得行く筈です(行くと良いなあ……)
2,世の中の事を気軽に考え、登場人物に共感し、肯定し、否定してみてください。少なくとも何か一つは得るものがあると思います。そんな小説です。

また、この話はファンタジックな点が含まれますがその一部が私の実話を元に作られています。ありがちだけど有り得ない不思議な世界に足を踏み入れで見てください。

※※完結しました!少々長い物語ではありますが、是非最後まで読んでみてください!※※

追記:”聡明な木花”迄の内容を加筆修正致しました。誤字脱字等で読者の皆様にご迷惑おかけして申し訳ありません。今後も出来る限り正しい日本語で、読みやすく、面白く仕上げる為に”狂い出す時計の針”以降も修正を加えると思うので、既読者の方もこれからの方も目を
読んで頂けるのは勿論ですが、一言でも感想を頂けると本当に嬉しく思います!筆者のモチベーションの為に、少しでも興味を持った方はTwitter(@tukimurakagami)をフォロー&リプを頂けると小躍りしますので是非宜しくお願いします。

繋がった

 鋏で切り取られた世界の切れ端に、俺はなる筈だった。全ての祖とされる海の底で、その一部となれば自然に帰れると思っていた。
自分の無力を恨む間もなく、俺は釣り上げられた魚のように地面に衝突する。
体内の水分が逆流する感覚。何が起きたか理解するのに、そう時間はかからなかった。
それでも酸素を上手く送り込むことができずにその場に(うずくま)る。今迄は出来るのが当たり前で、それに何の疑問も起きなかった事が出来ない。人という生き物が実は繊細で、生きていること自体奇蹟的な事象なんだという事を身を以て実感する。
暫くして身体の感覚が戻ってくると、ふと気付いた。俺を飲み込まんとしていた波の音、ずぶ濡れな俺に付着した水分で湿った草木の(むせ)るような香り、どこまでも続くんじゃないかと錯覚させる青い夏の空。
「誰が、俺を助けたんだ?」
海水を飲み込み過ぎたからか、その声は(かす)れ、潮の辛さを思い出して咽る。未だ四肢は満足に動いてはくれない。四肢の震えや痺れ、それにおそらく脱水で身体が痺れてくる。よくこんな状態で声が出たものだ。
典型的な酸欠の症状も重なって頭もクラクラした。寝転がっていながらも頭の中はぐるぐると回って止まらずに、回転式のジャングルジムに乗った時を想起させる。
陸地に上がって多少時間が経っているにも拘らずこんな状態の俺が一人であの暗い海の底から這い上がれる訳が無く、そんな意識も記憶も無い。それに寝たまま首の動く世界しか物も見えないがこの場所には見覚えも無い。
流されていた俺を誰かが助けてくれたんだろうか。
俺はあの時身を投げた。
生憎と走馬燈は見ていないが、全身の力がすぅっと抜けて世界から断絶される感覚だけは今でも憶えている。だが周りには人は愚か、虫一匹も居ない。それどころか、俺以外には生物の気配すら無かった。
手を握り、そして開く。麻痺が少し和らいできた事を確認し、徐々に体を起こしてみる。
気合を入れて無理矢理自分の身体を持ち上げた。気怠(けだる)い身体に鞭を打ち、辺りを見回してみるが、雄大な景色こそ広がれど静謐だ。
今視た世界は俺の記憶には無い場所だ。寧ろ場所と言うより空間と言うべき無機質。
差し詰め無理して起きたからだろうか。傍から見れば危機的なこの状況でも不思議と何事も感じない。脳が怠慢し考えも纏まらない。
無意識に首元に手を掛けると、初めて首元の黒き玉が無くなっている事に気付く。
それは白と黒が対になった勾玉で、俺は黒い方を肌身離さず身に着けていた。落としてしまったのか、少なくとも水滴の付いている周りにそれらしき物は見当たらなかった。既に深い海の底へと沈んでいったのだろう。
途方に暮れる間も無く、すぐに無理が祟って猛烈な疲労と眠気に襲われた。俺はそれに身を任せ、延々と続く微睡(まどろみ)の世界へと堕ちていった。
「……此処は?」
思わず目を見張る。つい口から言葉が溢れ、自らそれを聞くことで此処が現実だと悟った。
眼前には随分と古めかしく、平たく言えば田舎とも呼べそうな場所が広がっている。
だがそれ以上に神聖な空気を帯びており特殊な気配が感じられるこの地に、俺は非常に好感を覚えた。
理屈ではなく本能によって、此処が人の世とは隔絶された空間だと思い知らされる。刹那、死を意識した。
此処は黄泉国(よもつくに)か何かだろう。印象としては高天原(たかまのはら)に近かったのだが、まさか自分が神だのと自惚れはしないしその手の思春期特有の病はとうに卒業している。起きる前の記憶は霞がかっているが、水辺に居たような気もする。三途の川を渡って来たのだろう。
既に俺の身体も魂で、未だ足が生えているのは通説が迷信だったのか。足との卒業は叶わなかった。幽霊学者に教えてやりたいが無念な事にもう教える術は無い。
無意識に俺自身納得しようとしていたのだ。普通に考えれば自分が死んだと自覚するのはおかしい。此処が神聖な場所なら参拝に来たとか色々ある筈だ。
寧ろ俺の趣味や信念からして参拝が一番自然だ。常日頃から地元の神社には頻繁に参拝しており、時間の余裕があれば県外の神社に参拝の足を延ばす事もままある。
なのに参拝と考えるのを俺自身拒否している。記憶を呼び起こそうにも頭に響く激痛が扉を閉ざして、直ぐに俺は死んだのだと木霊して誘導する。
「俺は死んだ」
痛みに耐えかねて半ば自棄になって抵抗を止めると、途端に痛みが引いて楽になった。
何だか身体も軽くなったし、やっぱり俺は死んだんだ。そう納得させられていた。
「本当に来ちゃったのね」
つい先刻まで、神聖な空気しか無かった空間から声をかけられる。不思議と驚く事は無かった。少女の声を聞くのは初めての筈なのにとても赤の他人とは思えないような何故か懐かしい響きですらあった。
俺から数メートル程離れた先に突如現れた少女は、腰までの長くて綺麗な黒髪が似合っていて着物姿であるからこの地にも浮いていない。歳は俺より少し下だろうか。神職に就いているような神秘的な雰囲気が少女を包んでおり、美しくも神々しい。
「君は?」
そう俺は声をかける。この空気感からして人が居れば浮く筈なのだが、少女は随分と此処に馴染んでいた。
「成る程、そういう事になったのね。理解したわ、私は……七代と呼んで頂戴」
七代と自称した少女から、風に乗ってうっすらと聞こえたその苗字を耳にした刹那、今迄霞がかっていた記憶を手繰り寄せられそうになる。
「君は一体―」
「私は七代。貴方の名前は?」
彼女が念を押すようにそう言うと掴みかけた記憶は泡沫(うたかた)の夢のように弾けて消えた。何を掴んだのかという事実すらも一緒にだ。
その代わりと言うように新しい泡が俺の中に入ってくる。
「えっと、俺の名前は、那岐(なぎ)?」
なぎ、その名を言葉にすると妙にしっくり来てそれが自分の名前なのだと自覚する。
どうして自分の名前も忘れていたのだろうか。情けなくもあり、不気味でもあった。
「えぇそうね那岐。でも忘れていても那岐自身の中には存在していたもの、だからいつかは思い出せるわよ」
七代は空漠とした物言いをし、意味深に微笑んだ。俺よりも頭一つ下の背に、白くて綺麗な着物を着つけている様は美しく、仕草にも抜かりはない。故に天の邪鬼な話し方はそれと対照的だったのだが、不思議と見事な調和を生み出していた。
「七代、さん。此処はやっぱり黄泉国か―ええと、天国と呼ばれるような場所なのか?どうやら記憶も曖昧なのだけどそれも俺が死んだからで」
微笑を絶やさない彼女と話すと自然に饒舌となる。孤独かと思った矢先の安心感と言うよりは旧友との再会か久し振りに会えた家族のような関係に思えた。唯一違和感があるとすればその名前だけだ。思い出そうにも脳の門扉が固く閉ざされている。
「七代で良いわよ。それにしても那岐、まさか貴方が此処を見て黄泉国だなんて」
「何か俺変なこと言ったかな」
「いえ、何でもないから安心して頂戴。此処は優しい優しい夢の世界。黄泉国では無いし、那岐が生きている事は私が証明するわ」
七代のその言葉に俺は安堵の息を漏らす。だがそれは俺は生きているという事以上に、七代が死んでいないという事に対する安堵だった。それ程にまで七代は人間離れしており、黄泉国というなまじ現代人では理解され難いであろう言葉も正確に理解していた。
「でも俺さっき頭に痛みを感じたけど目が醒めなかったぞ。これどうやったら起きられるんだ?」
他にも疑問が泡沫のように湧いてくる。夢なのに何故意識がはっきりしているんだろう。
「そうね、その辺りさらっと纏めて話しておくわね。先ず、那岐の思う夢とこの場所は少し違うだろうって事を初めに断っておくわ」
予断は禁物という事だろうか。夢なんだから自由に世界を旅したり魔法が使えるとか、気付いたら目が醒めているという事では無いのかも知れない。
「次に、明晰夢は判るかしら?そう、なら此処は少し制限付の明晰夢と思って頂戴」
俺が頷くのを見て七代が補足をした。一呼吸置くと、突如この地に相応しく無い洋式のテーブルと椅子が用意された。
七代はそのまま椅子を引いて座るが、やはり着物では椅子に座るのは困難に思える。それでも浅く座って帯を潰さないようにしている点に七代が”本物”である事が見て取れる。
「これは?さっきまでこんなの無かったよな」
だが予断として、明晰夢ではこれくらい出来て当たり前で、俺も然程(さほど)驚かずに済んだ。
七代が座るようにと右手を向けたので、勧められるまま彼女の隣に腰を下ろす。正に夢心地と言うべきか非常に座り心地の良い椅子で、浮遊しているような錯覚を覚える。
「テーブルも机も那岐の思う通りよ。ただ試さない方が良いかも知れないわね。此処は心地良いし、自由にし過ぎると外が窮屈過ぎて起きられなくなるわ。多少とは言え痛みもあるし制約もある、外との明確な違いはこの異質な空間くらいかしら。でも、それもすぐに慣れて現実との境が分からなくなる」
現実と夢を明確に線引きしておかないと、待っているのは胡蝶の夢という事か。先程から俺が疑問に思う事の(ことごと)くを七代は先読みして答えてくれている。夢なら可能だろうか。
「俺が考える事先に教えてくれているみたいに感じるんだけど、もしかして七代は俺の心が読めるのか?」
我ながら鋭い考察だと感心したのだが、七代には溜息を吐かれてしまった。
「那岐ってばそんな事まで忘れて……那岐は言いたい事がはっきり顔に書いてあるのよ。本当に表情豊かで飽きないわ」
随分無理矢理だと思ったが軽く視線を外されてはこれ以上詮索しようとも無駄だ。それも察した七代が続ける。
「最後に、起きる時の事ね。これは時と場合に拠るけれど、特に何もなければ飽きた頃にでも起きられると思うわ。何か物語や出会いが用意されていても、夢は気まぐれなのよ。物語の終わりが夢の終わりにもなるし、気付いたら終わっている事もあるし、意図的に終わらせられるものもある。那岐の知っている夢って概念も大体そんな感じでしょう?」
夢が毎度毎度区切り良く終わるかと言えばそんな事は無かったような気もしたが、
「概ね、想像通りかも」と応えておいた。
不思議と七代のこれ迄の説明に違和感を感じなかった。少なくとも俺にとって全て当たり前な事のようである。
「だから安心して。今度夢を見る時はもしかしたら此処以外の場所かも知れないけれど、どの夢も同じ夢で繋がっているわ」
そう言うと七代は俺の方を向き、顔を近付けて俺の視界を閉ざした。七代が俺に触れた。
それは俺自身未経験な筈の事なのに、夢の事や七代の事のように違和感なく俺の中に入り込んで来る。特別である以上に暖かみのある感触の正体は、定説通りの甘酸っぱさは無くて寧ろほんのり甘かった。
「それじゃあ那岐も疲れていると思うから目を閉じなさいね。また夢は歓迎してくれるわ。那岐がそれを望む限り、勿論私も。いつでも、いつまでもね」
七代の言葉を聞き終えた途端、夢の中にも拘らず強烈な睡魔に襲われ、俺の意識は隔絶していった。もう見えない夢の世界が音も無く瓦解していく。
「また明日ね那岐。もう忘れ―」
眠る直前に聞こえた声は誰のものかも分からなかった。

束の間の日常

けたましい目覚ましの音と共に俺の意識は覚醒するが、今日はやけに頭が重い。身体はぐっすり眠った筈なのに頭は徹夜明けの気分だった。それでも記憶は徐々に蘇る。
動揺を抑え込むようにベッドの脇にある目覚ましをいつもより乱暴に止めると、叩かれた目覚ましは派手に転がった。響いた鈍い音が俺の頭痛に追い打ちをかける。昨日はあの夏の空と海の、見覚えのない場所に居た筈だ。
少なくとも外で眠ってしまった筈なのに、目覚めた此処は紛れも無く俺の家だった。昨日の事を思い出すと、あの少女が頭に浮かぶ。
海の底で死にかけた事、黄泉国に来たかと思えばそこは夢だった事、教えてくれたのは少女は七代と名乗った事。
明晰夢。七代はそう言ったが、本当にその通りだ。常識的にそんな事があれば慌てふためくか有り得ないと切って捨てるのに、俺の中ではそれが全部七代の言う通りだと納得して疑問も湧かない。
「あたしが来てるってのに朝から辛気臭い顔してるわねー、おはよ!」
(つむぎ)の声にハッとして、今迄の眉唾な思考も一時停止した。
「え、紬!?ここ俺の部屋、だよな」
「まだ寝惚けてんの?今日はこっちでご飯食べるって昨日の帰りに言ったじゃない」
紬の言う通り俺は未だ寝惚けているのかも知れない。だが昨日の事は死にかけた事くらいしか憶えて無い。あれが昨日なのか、或いはずっと前なのかも曖昧だった。それを気取られないために少し遅れた朝の挨拶をするも、心の中ではずっと不安に(さいな)まれた。
「もう朝ご飯はできてるから、ほら顔洗って」
ぶっきらぼうに言って紬はテキパキとご飯を(よそ)う。未だ頭痛は良くならない。正直己が内なる怠け者に身を委ねてもうひと眠りしたかったが何とか顔を洗おうと洗面所に立った。
朝から蝉の声が頭に響くが、蝉の寿命の事を考えればその煩わしさは低減できる。同じく成虫になってから一週間程の命しかない蛍はあれだけの人気を博しているというのに、蝉の声に喜ぶのは精々虫かごを携えて虫取り網を振り回す子供くらいなのだ。俺にも勝る嫌われっぷりに同情すら覚える始末である。
ひんやりとした水と蝉と蛍のお陰で目も脳も冴えてきたので、気が変わらない内に手早く制服に着替えて食卓に着く。
「頂きます」
二人揃ってそう言って俺は一拝一拍をし、朝ご飯に手を付ける。あまり現代人には理解されないが、一拝一拍をしないというのは日本人らしからぬ事なので俺は欠かさない。
今日は炊き立てのご飯に味噌汁、鯵の開きに冷奴と純和風だ。
洋食、と言うかパンは惰性で食べてしまうが和食は一日の始まりを感じられるから嬉しい。殊に紬の和食は我が家の味と言っても過言じゃない程美味しく、俺の箸も止まらずに進む。
「良かった、那岐ってばホント酷い顔してたんだよ?実はお腹空いてたとか?えへへ」
紬は鯵をつつきながら嬉しそうに話してくる。単純だけど笑顔を絶やさない紬と一緒に居ると不思議と悩みとか不安も幾分か楽になっていた。彼女はこうやって幼い頃から俺に元気を分けてくれて、それは今も変わらない。
「紬の作る和食は好きだから、そんな事より良いのかよ。頻繁に俺んとこに出入りして変な噂立ってるの紬だって知っているだろう?」
人の噂も七十五日と言うが、これは七十五日間にその噂について何も進展しなければ雲散霧消だけだ。それこそ毎日のように朝迎えに来てくれる紬と俺の事は、七十五日を過ぎても校内で絶えず話題になっている。
俺達を知っている人達は俺と紬が幼馴染だってフォローしてくれてはいるが、成果は芳しくなく、一人暮らしの俺の家に毎朝来る紬を見て通い婚だのと騒ぎ立てる奴は全く減ってくれない。微増傾向すらある。
「良いんだよ言わせておけば。それにあたしは別に那岐とそういう風に思われててもー、まんざらでもないって言うか!何と言うか」
頬を若干朱に染めているところを見ると、俺の中の何とも言えない感情が膨れ上がって張り裂けそうになる。紬も黙っていれば可愛いし、現に告白されているのも何度も見かけた事がある。それを全部断っているのも知っており、それでいて俺の傍に居てくれている。つい期待をしてしまうのもしょうがないのだ。
俺達ももう二年生だから紬の女性的な面にも正直興味津々な事もしょうがない。制服というものは反則だとも思う。俺たちの通う葛城主高校は他校よりセーラー服が現代的で平たく言えば凄い可愛い。それを紬が着るとなると、どこかのモデルのように見えるしスカートから覗く綺麗な白肌が一際目立つのだ。
「って、那岐ぃ?」
「な、何だよ」
「今すっっごいエッチな眼であたしの事見てたでしょ?この変態!」
「そんな訳無いだろ?」
さり気なく視線を逸らしたと自負していたのだが案の定気付かれてしまっていた。バレていると思うけど一応誤魔化してご飯をかき込む。いつからだろうか。昔は全く気にならなかったのに、最近紬と一緒に居るとどうしても女の子として彼女を意識をしてしまう。
けれど近くに居るからこそ、その気になれば容易に前に進めるからこそ俺たちの関係はその微温湯(ぬるまゆ)で停滞していた。
「いくら何でも分かり易すぎ!ほら、とっとと食べてガッコー行くよ!」
どれだけ近付いたとしてもお互いにあと一歩ってとこで引いてしまう。それに今日は夢の事もあって紬との会話に集中出来なかった。俺は紬に聞かれないように小さく溜息を吐いた後、七代の放った言葉を一言一句反芻させながら紬について学校へ向かった。

「那岐ってさー」
学生は毎日同じ通学路を嫌と言うほど歩く。だが、かれこれ一年半も見続けている通学路に何故だか今日は見慣れない光景が続く。思い返せば自室でも本棚に知らない本が紛れていたり、今日の朝ご飯も見覚えの無い食器皿に載せられたような気がする。
「夏休み、海!楽しみだね!水着新調したし―」
「そうだな。って!ちょっと待って。俺そんなの聞いて無いんだけど」
ぼんやりとしていたので紬の話は適当に聞き流してしまったが、海の話は初耳だった。
「あ、水着の事?それは内緒にしてたからだよー!えへへ、今年は派手に攻めたからね!お楽しみにー」
笑顔で話す紬は嫌いじゃなくて、寧ろ好きだし最近見た目も女性らしくなってきているから胸元が開いたビキニとかの想像をしてしまうのを必死に堪える。論点はそこじゃ無い。
「海の事だよ。俺、紬にそんな話された憶えが無いんだけど」
これもさっきの見慣れない光景と同じで、実は俺の記憶がどうにかなってしまったのではないかとの不安が蔓延る。昨日の夢といい今日の光景と紬の発言といい、疑心暗鬼に陥りそうだ。先程迄煩わしかった蝉の声も俺達から離れてどこか遠くに聞こえる。
「あたしが決めたんだもん!でも行くでしょ?那岐はあたしの水着姿独占したくない?」
紬が大きな声で言うから周りの同じ制服を着た男子の視線が痛い。真夏の日差しを越える程の視線に刺さり、いつか本当に刺されるんじゃないだろうか。これからは夜に一人で出歩かないようにしよう。
「それで、夏休みに海!行くでしょ?あ、出来るだけ早くに行きたいなー」
そう言って俺の手を取ってくる。余計視線が鋭くなって降り注いできた。これは刺されなくとも単純に寿命が縮んだかも知れない。
「……行く。でもどういう風の吹き回しだ?紬、昨年は俺が誘っても日焼けがどうのとか何とか言って結局来なかったじゃないか」
紬は昔から人一倍美意識が高かった。元々肌は白いのに日焼け止めは欠かさない。肌だけでなく髪型にも拘っている。陶器のようにツルツルした白肌に綺麗な黒髪ロングストレートは多感な時期でホルモンバランス的にも乱れがちなのだが、きっと努力の成果もあり紬はニキビや髪の痛みには無縁のようだ。
今となっては多少慣れたが俺以外に気になる人がいる事に嫉妬したりもしたし、その見た目に男共が釣られるのも我慢ならなかった。俺は多少なりとも重いのかも知れない。
「ほら、那岐だって海行きたいんじゃん!確かに昨年までは行きたく無かったけどね、たまには那岐に美味しい思いさせてあげても良いかなーって!でも日焼けする気は更々無いから那岐が日焼け止め塗ってね?背中とかって自分じゃ塗れないから」
紬はいつもより得意げな口調で、何かサラッととんでもない事言われた気がする。
だが、それに俺が言い返すより早く
「あ!言うまでもないけどあたしと那岐の二人っきりだからね?那岐以外には水着姿なんて見せたくないもん」
それ以上の爆弾発言で俺は二の句が告げなくなった。
「うんうん、その話興味あるなぁ。聞かせてくれないか?たーっぷりと」
夏の猛暑も凍てつくような、殺意剥き出しの笑み。肩に置かれた手の力でミシミシと悲鳴を上げる。
「悠斗か……頼むからほっといてくれないかな」
前髪を立ち上げて爽やかで且つ冷ややかなな笑顔を俺に向ける悠斗。こいつは俺のクラスメイトで思春期の塊みたいなやつなんだが、紬といる時には一番会いたくない。
大抵の生徒は俺と関わりたくないのか紬と居るところを見られてもせいぜい噂話に精を出す程度だがこいつは違う。自分から俺に声をかけてくる数少ない生徒の一人で、しかも全くと言って良い程に空気が読めないやつだから引き際を知らない。朝の占いを見忘れたが、見る間でも無く俺の今日の運勢は大凶だ。貧乏神に憑り付かれて幸運なんて欠片も寄り付きやしない。
「何も言わずに済ます気か?俺はそれでも良いんだけど。それなら刺されないように気を付けろよ」
「言うも何も、俺は紬の事は」
それ以降の言葉は続かなかった。もし続けたら言った通りになるんじゃないかという不安に駆られて雁字搦(がんじがら)めになる。親友、幼馴染、片思い、俺は一体何て言おうとしていたのだろうか。俺と紬の関係はそのどれにも当てはまらない気がしたので、下を向いて誤魔化す。
「悠斗くんおはよー。那岐があたしの事どう思ってるか知らないけど、あたしは那岐の事好きだよ?えへへ」
紬はそれが当たり前のように隠さず言った。傍から見れば恋人にしか見えないのかも知れないが、普段俺や紬は常にその話題を避け続けている。だから悠斗を介してとはいえ、直に好意を伝えてくれた紬に対しての嬉しさの前に俺は妙な違和感を感じ取った。それを裏付けるように悠斗が一番驚いた顔をしている。
「な!?あれ、マジで!?お前達って下手な恋人より恋人っぽい癖に幼馴染の壁に阻まれてたじゃん!遂に越えたのか?もう那岐は魔法使いの可能性を捨てたのか?おい!おい!……あれ?」
酷い言われようだな。と言い返すつもりだったのだが、それは地盤が緩んでしまって叶わなかった。如何やら興奮して俺の肩を掴んだままの悠斗に、グラグラと前後に揺らされて意識が飛びかけているようだ。
夢の事を憶えていて酷くなった頭痛に、一部記憶と異なる光景に大胆な紬にと、ただでさえ精神的にギリギリだったのに物理攻撃まで来たら病弱な俺なのだ。到底耐えられるわけがあるまい。ギブアップを表して地面を叩く。だが悠斗はそれに気付かないのか俺の身体を揺らすのを止めない。
最後に視界に入ったのは悠斗の不快で不適な笑みだった。明らかに故意であった悠斗の行動に憤りを覚えるも、そのまま意識は混濁して落ちていく。
意識が完全に落ち込む直前に何故か、いや、だからだろうか。街の雑踏も紬の声もにっくき悠斗の声も聞こえないのに頭の奥底から七代の声が聞こえた気がした。それは、俺の事を呼んでいるような優しい声だった。

胡蝶の夢

「思ったよりも勘が良いのね」
意識が回復し、陽の光に眼を細めながら開くと、辺りには神社のような神聖な空気が漂う。換えたばかりの少し強めな畳の匂いがする八畳程の和室に俺は身を投じていた。余程良質な枕を使っているのかふんわりと柔らかく温もりまで感じて寝心地が良い。まぁ夢の中のようだが。
「ふふっ。そんなに私の膝が良いの?」
「え?」我ながら随分と素っ頓狂な声だ。
天から声が聞こえて俺は身体が強張(こわば)り、夢心地から一気に現実に引き戻された。まぁ夢の中のようだが。ぼんやりとした視界が固定されると、起きている時にも思い浮かべていた綺麗な黒髪を垂らした七代の顔が目の前に広がった。
状況から察するに、起きる迄の間に所謂膝枕をされていたようだ。イマイチ起きている時の憶えは無いが同じような心臓に悪い事があった気がする。長い間膝枕をしていたのにも拘らず七代は嫌な顔一つせず、表情には微笑みすら浮かんでいる。近くで見ると自然と睫毛の長さや細かな所まで眼がいくが、そのどれもが美しく整っていた。
「ご、ごめん!すぐ起きるから」
夢の中だけど夢心地というのがが相応しい桃源郷から何とか身を起こす。正直名残惜しいが()むを得まい。咄嗟に飛び起きてしまったからか怪訝そうな顔をされたが間も無くいつもの微笑みを取り戻し、七代もゆっくりとした所作(しょさ)で軽く崩していた脚を正座に正す。俺だけ突っ立ったままでは何とも間が抜けているので、七代に倣って座り膝を崩した。
「別にもう少しゆっくりしても良いのに。でもこの時間なら外は朝でしょう。体調が悪かったのかしら?」
七代が現実の事を外と言うのは何故だろうか。直接聞いては無いのだが、雰囲気や所作からして住む世界が違う事が関係しているのかも知れない。俺自身、充分浮世離れしている自覚があるが彼女のそれは俺なんかとは比較にならないのだ。
「ええと、悠斗っていう学校の友人がいるんだけど、そいつの所為だと思う。その悠斗と一悶着あって俺は気絶寸前だったんだよ。それなのに追い討ちをかけられて」
俺は空を相手に肩を揺らす真似をした。事実ではあるにしろ、端的に話していると俺のみっともなさを露呈しているようで少し恥ずかしい。それを見た七代は一瞬遠い目をして、まるでその光景を見てきたかのような素振りをしてみせた。
「それは災難だったわね。でも安心して頂戴。此処は優しい夢の中。夢では気絶も、多分しないし外では芳し《かんば     》くない体調も今は問題ないでしょう?」
多分という事は気絶する事もあるのか、冗談かも知れない。だが一先ずは問題ない事が分かり、現に俺の体調も頗る快調である。
「でも夢なら気絶する寸前に目が醒めないのか?飛び降りる夢を見ると飛び降りたところで目が醒めたり」
俺の考えは我ながら的を射ていると思ったんだけど、端にも掠っていなかったようで七代に軽い溜息をつかれてしまった。
「そう思うのもしょうがないわね。此処は心地の良い場所って昨日言ったでしょう?それはその辺りも踏まえてなのよ。此処は外よりも都合の良い優しい夢の世界。望むのなら此処を現実にする事も出来る。だから簡単に目が醒めないのよ」と、七代は曖昧にかわす。
「でも夢は夢だ。夢であるならいつかは必ず目が醒める」
俺の言葉は本心であると同時に此処に来た当初から蔓延(はびこ)っている不安を消すためのものだった。夢から醒めたくない。そんな感情は誰もが持つところだし俺も例外では無い。
そして眼の前に居る七代こそが、夢から醒めなかったアリスのリーディングケースのように見えた。
「夢は夢ね、でも私は言ったわ。此処は望むのなら現実にもなる」
七代は真剣な眼をして静かに、それでもハッキリと断定した。俺にはその言葉は恐ろしくも魅力的に聞こえた。そんな事が可能なら一から全てをやり直せるではないか、と。
「そ、そんな事より俺はともかく何で七代も今此処に居るんだ?今は朝だって七代も言った筈だろ」
平日の朝に寝ている人というのは夜に働いているか怠け者だ。怠け者には大学生も含まれるが、七代が歳上には到底思えないし夜の仕事なぞ(もっ)ての(ほか)だ。同様に学生だろう。
「昨日言っていなかったわね。でも大丈夫よ、那岐はその答えが分かっている。何故私と話す事に抵抗が無いのか、何故私がこんなにも夢について詳しいのか、そのヒントは」
一呼吸置いて七代が続ける。慣れてきた畳の匂いが少しきつくなった気がした。
「私は那岐とは住む世界が違うわ」
思考が巡り巡る蛍の光のように瞬いて、儚く消えた。
「那岐は気付いているかしら?貴方はまだ僅かな時間しかこの夢の世界に身を投じていない。なのに既に少しずつ、夢と外が曖昧になっている。胡蝶の夢を知っているかしら?」
胡蝶の夢―荘子の説話だか司馬遼太郎の歴史小説だかで聞いたことはあった。響きの美しい言葉で、やたらと耳触りは良い。
「夢と現実の区別がつかなくなる話、だったような」
「そうね、胡蝶の夢は故事成語にもなっているように夢の外の世界の区別がつかない事だったり、他にも人生が儚い事にも例えられているのよ」
胡蝶の夢について七代が鬼の首を取ったように得意げに話す。そんな姿はやはり歳下の女の子らしい微笑ましさを残すが、俺はそれを聞いて怪談話を聞いた時のような変な汗が止まらなくなっていた。
「ふふっ。今は眉唾物だとしても、いつかわかる日が来るわ。那岐が何故此処に来たのかも、これからどう進むべきかも……そろそろこの夢も醒めそうよ?学校、頑張ってね」
「あぁ、そう言われればそんな感じはするな。でも別に眠くないぞ?昨日は起きる時に凄い睡魔があったのに」
七代の言う通り、俺にはまだ分からない事も多い。いつかこの夢も見なくなると信じていた。
「夢だもの、その辺も曖昧よ。すべてこの一言で片付けられるのよ」
「そんなもんか」
電磁的記録のように妙に正確かと思ったら人の記憶のように曖昧になる。
此処はそんな雰囲気を孕んでいる。
「えぇ、そんなもんよ。それじゃあ、また夜に会いましょうね」
あくまで此処は夢なのだからそう都合よく何度も七代と会えるわけでもないだろうが、七代が言うのだから会えるものだ疑いも無しに納得した。
程なく畳の匂いは消え、夢の世界が音も無く瓦解していく。夢が完全に崩れ落ちる迄、七代は俺に向かって上品に袖を持ちながら手を振り続けていた。そして俺は陸とも海とも分からない形の無い空間に身を投じていった。

家には帰れない

 「―ぎ、那岐」
随分と懐かしい声が聞こえる。友達や恋人より親しい、家族の声だ。その声の主は親では無く、もっと若い女の子の声。但し俺に兄妹は居ない、居ないんだ。
声に導かれるように夢の迷路から舞い戻った俺は視界を現実のものに向ける。既に神聖な雰囲気は消え、代わりに薬品らしき匂いの籠った無機質な白い部屋が眼前に広がる。
「……此処は?」と、短い間に随分デジャビュを感じる言葉を吐くと、近くで見知った顔がお返しと言わんばかりに溜息を吐いた。
「やっと起きた。那岐、那岐!此処は保健室だよ。通学中に学校の近くで倒れたの憶えてない?ほら、悠斗くんと出会った事」
今度は奇天烈な場所ではなく紬も居た。一歩か二歩程後ろの隅の辺りに悠斗もいる。改めて此処が夢で無く現実なのだと確認した。
保健室の隅の悠斗は怯えている。察しはついたが何があったかは聞くまい。彼の名誉の為である。
「那岐。良かったな無事で」
「無事なわけないでしょ。なんで他人行儀なの?もしも那岐がこのまま眠ったままだったらあんたどう責任取るって言うの。取れないでしょ?もっと反省しなさい!」
悠斗に被せて紬が言い連ねる。紬が俺の事を心配してくれて嬉しいが、その気迫から悠斗の姿はハートの女王に追い詰められ怯え震える白兎だ。自業自得なのだが、ここまで顕著だと却って気の毒に思えてくる。
「夢は、醒めたのか」つい言うつもりじゃない言葉を口から零す。
悠斗は頭に?を浮かべ、紬は何だか悲しそうな顔を浮かべている。憐れんでいるようなので、脳の後遺症を心配されているのか。
「大丈夫、夢じゃない。もう大丈夫だから」
そのまま俺を抱きしめる紬の眼には滴が浮かんでいる。あの夢から戻った時特有の頭痛の所為で力が入らない俺は、為されるがままに情けなく身を預けた。
「そう言えば、今って何時?」
俺はこっちではどれだけ寝ていたことになるんだろう。紬は授業中など関係無しに看病してくれていてもおかしくないが、白兎とは言え悠斗も居るし一限の開始前か、若しくは一限が終わってしまったのかも知れない。
「今はお昼休みよ、ほら一時前。食欲はある?」
紬が携帯の画面を俺に見せて時刻の確認を求めてくる。時刻の前に待ち受けが目に付いた。紬の携帯は俺の部屋で引っ越しの記念に撮ったツーショットが待ち受けになっていた。その待ち受けの元気な紬は、俺の前でのみ破顔一笑で居てくれる。そんな彼女をここまで心配させているという事実は筆舌に耐え難い。
同時に、待ち受けを俺との写真にしてくれている事に照れ臭くなるも、その予想外の現在時刻に俺は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてその動揺を隠しきれなかった。
「十三時ってことは俺は……」
口にした事で再確認した俺に、夢の中でかいたものと同質の変な汗が流れてくる。汗は身体中にへばりついて制服の下に着ているシャツを濡らす。クーラーが効いており、外と比べると寧ろ寒いくらいの保健室では汗も冷えて涼しくなった。気絶したのは通学時。つまり八時過ぎだったから四時間以上眠っていた事になる。時間感覚の齟齬に俺はどっと脱力感を覚えた。
夢で七代と話した時間はほんの僅かだった。もう少し話していたいと物足りなくなるくらいの限られた時間でしかない。
―「夢だもの、その辺も曖昧よ。すべてこの一言で片付けられるのよ」
目醒める前に七代が言っていた事の通りだ。確かに今までの夢も、ちょっと話しただけの夢が終わったら朝だったなんて事はいくらでもあった。それなのに嫌な予感がするのは気の所為ではあるまい。
あの夢の世界での記憶が鮮明過ぎるから、現実での時間の経過が早過ぎれば誰もが気味悪がる。時間だけは平等であると知っているからだ。今の俺には時間すらも不平等になってしまったのか。
「ほらほら!紬ちゃんが食欲あるか聞いてるだろ!あるなら何か奢ってやるからそれでトントンな」
いつの間にか近くに擦り寄っていた悠斗に声で、俺は思考の海から我を取り戻す。
食欲はと言うと、時間の感覚が狂っていても時は平等に刻んでいるからかお腹が鳴りそうになっていた。頭痛も少し引いてきたので多少は食べられるだろう。
「何その呼び方。名前で呼ぶならせめて”さん”付けにして。それと悠斗君の事はもう一生許さないから」
紬に一括されて悠斗は陸に上がった魚のように口をパクパクさせて項垂れる。
紬は基本俺以外とは仲良くしない。クラスは愚か学外でも他人とは距離を取っている節がある。だからここまで徹底的に拒絶の意思を露わにする紬は非常に珍しかった。
俺は悠斗のフォローも兼ねて食欲がある事を伝える。すると悠斗は水を得た魚のように元気を取り戻した。
「しゃーねーな!学食のAランチくらいなら奢ってやるよ!立て立て」
Aランチはうちの学食の貧困なメニューの中でも特に庶民的なものの一つで、冷凍ものの方が幾分か美味しい程度だが値段は二百円と大変お値打ちだ。こういう時でも若干薄情な友人が少しだけ嫌になる。
「那岐を学食まで歩かせる気?急に立ち歩いたりしたらまた倒れちゃうかもしれないでしょ。顔色がこんなに悪いのにも気付かないの?もう邪魔だから教室にでも帰って」
悠斗にそう言う紬の末恐ろしい剣幕は、言われた本人どころか俺にとっても寝耳に水だった。逃げるように保健室を退出した悠斗を見て、紬が安堵の溜息を吐く。
「ふぅ、邪魔ものは消え去ったね。ねぇ那岐!実はあたし、お弁当作ってきてるんだけど食べるよね?あ、保健室の先生には此処でお弁当食べてもいいって許可は貰ってあるよ!もし起きても歩く気力も無いだろうからって話付けといた」
「助かるよ。紬の弁当なら調子悪くてもいくらでも食べられる」
朝もだけど、一人暮らしの俺を思い遣って紬が昼御飯用の弁当を作ってくれる事も珍しくない。その気持ちが弱っている身に沁みた。
「嬉しいけど無理なら残してくれてもいいんだからね?少しでも那岐があたしのお弁当食べてくれるだけで嬉しい」
嬉しさが彼女の表情から伝わってくる。心なしかいつもより紬も俺に対して優しいようだ。偶には軽く体調を崩すのも悪くない。
「本当にありがとうな。有難く頂くよ」
ここまでしてもらっているのにきちんと想いを伝えられてない俺自身が情けなくなってくる。恋は思案の外、などと誤魔化すにも限界があるだろう。果たしてこの感情が恋なのかは疑問を呈するところではあるが。
 「どうどう?今日は自信作なんだよ!那岐とあたしの好きな物ばーっかり詰め込んだんだから!」
二人分だからと大きな二段の弁当箱を大仰な効果音と共に開けると、中にはこれでもかと言わんばかりに俺と紬の好物達が敷き詰められていた。ハンバーグにエビフライ、ポテトサラダにふわふわの卵焼き。カボチャの煮物も入っている。
「うわっ、これはまた何と言うか……凄いな。朝も俺のとこ来てくれたし、大変だっただろ?」
紬は料理上手だし好みの食べ物も味付けも俺とそっくりだ。無理に味を濃くせずにダシや素材の味を活かす。小学生の頃からそれは変わらず俺の胃袋を掴み続けている。俺にとっては所謂おふくろの味以上に好みの味で何より安心する味付けになっていた。
「前日に下ごしらえはしてあったし、二人分にしただけだよ!那岐とあたしの好みが似てるから迷わず作れるしね」
いつも以上に眩しいくらい満面の笑みで紬はそう言った。
「ありがとう、頂きます」
それに好みが似ているどころか完全に同じ味覚なんじゃないかとも思ったりする事もままある。苦手なピーマンが食べられるようになったのも一緒のタイミングなのだから。
「俺達本当に味覚一緒だよな。小さい頃なんか紬の両親も俺と紬があまりにも好みが似通っているから兄妹みたいだーって言ってくれたのを憶えているよ」
「そんな事もあったねー。それあたしにとっては少し不本意だったよ……あ、那岐と一緒ってのは嬉しいんだからね?でもあたし達血は繋がってないし」
器用にカボチャをつまみながら、必死で弁解している女の子らしい紬の一面が微笑ましい。他に誰かいると、落ち着いた女性の雰囲気を醸し出すからこの紬を知っているのは俺だけだ。
「でもあの頃は本当に兄妹みたいだったよ。今は」
「今は?あたしの事どう思ってる?」
俺が続けようとすると食い入るような紬に言葉を被された。あと一歩の所で引いてしまう俺達にとってここまで踏み込んだのは初めてでは無いだろうか。想像し得なかった言葉と勢いに動揺が隠せない。
「俺は紬の事……」
情けない俺の所為でこんなに我慢させてしまっていたのだから俺が言わないと。そう思うのに口から言葉は出てこなかった。大きな一歩を踏み込んだあの言葉を言おうとすると、夢の少女―七代の姿が目に浮かび、言葉が反芻しては消え、反芻しては消えを繰り返す。
「ゴメン!ちょっと調子乗っちゃったよ。那岐ってばさっきまで倒れてたんだし刺激的だったかな?えへへ、ほらハンバーグ美味しいよ!食べて食べて」
取り繕うようにハンバーグを俺に勧める。また紬に気を遣わせてしまっていたたまれなくなるのと同時に、安心している自分を情けないと思った。
 それからというもの、普段なら食べるのが勿体無いのかと言われるくらい味わって食べている紬の料理なのにも拘らず、どんな味なのかも何を食べているのかも曖昧だった。どんな高級料理よりも美味しい筈の弁当なのに、沈黙も相まって息苦しい。それに乗じて頭痛も酷くなってきた気がする。
「ご馳走様」
何とか全部食べ終え、ようやく言えたのがその一言だった。
「お粗末様でした!あの、美味しかった?」
緊張感は解放されたが、何とも重たい空気の中遠慮気味に聞いてくる。
「美味しかったよ。俺の好きな物は何でも知られているし、胃袋握られちゃったって、こういう事を言うのかな」
この空気を何とかするために努めて明るく接するように心掛けた。だが声音が上ずって、かえって変な雰囲気になってしまう。
「えへへ、なーにそれ!そんなの前からですよーだ!那岐の好みはあたしが一番よく知ってるんだからね!」
俺の気持ちを察してか、紬も俺に負けないくらい明るく返してくれた。こういう熟年夫婦を彷彿とさせるさり気ない気遣いがお互いの関係を長続きさせ、停滞させている。
「あ!そろそろ時間だね、午後の授業出られそう?無理なら眠ってても良いからね。先生にはあたしが伝えるから」
頭痛は酷くなっているが、これ以上紬に迷惑かけるわけにもいかないので俺は授業に復帰する事を選んだ。お弁当を褒めると、紬母願して喜んでくれる。
「頑張った甲斐があるってもんだよ。でも、辛くなったらいつでも言って?先生がなんと言おうが早退させる。付き添いはあたしで!」
そう言うと大仰に袖を捲って握り拳を出して見せたが、綺麗な純白の細腕には筋一つ浮き上がる事は無い。彼女はか弱いのだ。紬も辛い筈なのにこうやっていつでも俺に優しくしてくれている。これも前に進めない理由かも知れないが、今はこの微温湯のような関係が、ただただ有り難かった。
教室に向かう為立ち上がると少しふらつきを覚えたが、これ以上心配かけまいと必死に平静を装う。だがその成果も虚しく、紬の眼は俺のふらつきを敏感に察知した。
「今ちょっと危なかったでしょ?ほら少し体重かけていいよ、少しだけね。今の那岐に体重預けられたらあたし潰されちゃうもん!」
そうお道化て見せながら手を差し出してくる。恥ずかしかったけどそれに応じて歩く頃にはもう先程迄の気まずい雰囲気は何処かへ消え去っていた。

「あれ、先輩戻られたんですね」
教室に戻る。いや、教室に辿り着いたら本来此処では見ない咲耶が声をかけてくる。少し短めの毛先だけ緩く巻いた髪が風に靡く。
「とんだ災難だったよ。咲耶が此処にいるの珍しいな、何か用だったか?」
咲耶と俺は部活動やアルバイト等をしていないから特別な関わり合いは無いが、趣味の一致から気が付けば仲良くなっていた俺にとっては数少ない貴重な友達である。
咲耶と話しながら悠斗の方を軽く見たが、何事も無かったように友人と談笑しているのが眼に入った。それを見た紬が怒りを堪えて席に戻る。もし他のクラスメイトが教室に居なければ今頃悠斗が俺と交代で保健室送りにされていただろう。
「うわぁ、先輩自惚れてますねぇ。でもそうなんです!実は私、先輩を待っていたんですよ……どうです?ドキッとしましたか?可愛い後輩にそんな事言われて今度は良い意味で保健室に逆戻りですか?キャーキャーッ」
 教室内の室温が十℃程下がったのは確認するまでもない。紬の席の方を中心に冷気が漂い始めてそれ以外の、主に男子のクラスメイトからは俺への鋭い眼光と殺意を感じる。
咲耶は紬とは違った元気の良さがある。けどれそれに深い意味を伴わせる点からして本質的には七代に似ているのだが、そんな事は露知らずのクラスメイトは薄情な事に誰も救いの手を伸ばしてくれない。それを見て咲耶は同情の視線を寄せてくるが、そもそもこんな空気になったのは紛れも無く彼女の所為だ。
そんな事より自分で可愛いは無いだろう。確かに咲耶はお世辞も身贔屓も抜きで可愛いけれども。俺は吐き出したくなる溜息を堪えながら冷え切った教室を適温にする事に尽力する事にした。
「で、何の用なんだ?俺が戻るの遅くなったからで悪いけど、もう予鈴なりそうだから手短に頼むぞ」
「冷たい……でも先輩の優しさに私は気付いてますよっ。何だかんだで先輩ってば私の事大好きですもんねぇ」
そう言った後に漸く咲耶も紬の殺気に気付いたのか、サッと視線を逸らして紬を背にする位置まで素早く移動した。そして「コホン」と咳払いして一呼吸置いて言った。
「すみません、本題なんですけどね?あのぉ、変な意味ではなくてですねー。そのぉ」
その口ぶりは、いつもハッキリとものを言う咲耶にしては異様に歯切れが悪い。もし俺が倒れた事についてだとしたら理由が理由だけに気まずい。数少ない友人且(    か)つ後輩だからこそ、出来れば情けない姿を見せたくはないものだ。それが複雑な男心である。
「何で二の足を踏んでいるんだ?俺の事なら気にしなくていいぞ」
「そうですか?ならズバリ聞いちゃうんですけど先輩は最近、いえ昨日あたりからですかね。何か可笑しな経験をされていませんか?」
急に息を潜めて言う咲耶の眼は真剣そのものだ。俺の第六感が、咲耶も夢の事を知っているのではないかと予感した。同じ夢では無いにしろ、もしかしたら同じ様な夢を見ている人はいないのだろうかと考えていたのが確信に変わる。仮に紬に聞かれたら誤魔化すかもしれないが、生憎咲耶は俺にとって遠慮のいらない相手だ。
「……実はな、多分昨日から変な夢を見るんだ。それより、夢の世界でも俺は生きているって言う方が正しいのかな。別の世界で生きているような」
俺は出来るだけ他の人には聞かれないように息を潜めて事の顛末を伝える。口にすればする程眉唾物なのだが、やはり咲耶も思うところがあるようだ。聞いた咲耶は疑うでも頭の方を心配するでもなく、納得した表情でボソッと独り言のように声を漏らした。上手く聞き取れなかったが夢の事を知っているのだろうか。それを聞こうとしたのだが、すぐに咲耶はいつも通りのテンションに戻っていた。
「なるほどぉ!つまり先輩は怖い夢でも見て寝不足って事ですね?いやはや、先輩にも可愛い所あるんだなぁ。あははは」
「そ、そんなんじゃないって」
「そんな事は誰しもあることですよっ!私にだって……おっと、もう時間ですし私戻りますね。そうだ先輩っ、貴方は此処を選ぶべきと今の私は思います。ではではっ!また近いうちに会いましょう」
 結局最後に意味深な事を言って咲耶は足早に俺達の教室を後にした。俺が言うのも変な話だが、咲耶はアレでも俺と同様に交友関係はほぼ皆無だから本当にギリギリまで粘っていったのだろう。クラスメイトの視線を華麗に無視し、椅子に座って思案に耽る。あの咲耶の真面目な顔からして、まず間違いなく何か知っていると考えて良い。それでも敢えて俺に伝えなかった。咲耶は聡い子だから伝えなかったのにも理由がある筈だ。都合が悪いのか七代のような夢の世界の人に止められたのか、何らかの言えない理由があるのは確かだ。
「木花さんと何を話していたの?何かよくわかんない話だったけどまた神話絡み?」
自分の席で咲耶とのやり取りを思い返していると、気付けば紬が真正面から俺を見つめていた。教室だと少しだけ声のトーンを落とすのが紬の常なのだが、焦りもあってかいつもと変わらない調子だ。
「うん、まぁそんなとこ。それで紬、もう授業始まるのにどうしたんだ?」
俺と咲耶は神話好きって言う何ともマニアックな趣味が合う。神話といってもそれは神道であってギリシアやケルトのそれとは大きく異なる。俺と咲耶が揃うと古事記だとか日本書紀だとか、日本史で嫌われる様な事が語らわれる。
「って何ぼんやりしてるの。次の授業!移動教室だよ!もう、ほら那岐とっとと立つ!」
そう言って俺の右手を取ってそのまま繋いで来た。何で周りを気にしないのかと思うも気にかける対象が居なかったのだから当然だ。現に教室にはもう俺と紬しか居ない。
夏だからか少し暑いくらいの手の温もりを感じて胸が高鳴りながらも、あの夢についての事が頭から離れなかった。

「よっ那岐!折角だからどっか寄って行かね?」
放課後は学校に残る予定も無いのでさっさと帰ろうとしていたのだが教室を出る所で悠斗から声をかけられた。部活にも入ってない俺は、偶に咲耶が連れ回してくれなければ他に友達も居ないし紬と帰る。最近ではそれも俺に声をかけ辛い原因になってしまっているのではないかと思うようになった。それは悠斗も例外ではなく、恐らく帰りに声をかけられるのはこれが初めてである。
「うーん、場所にも依るけど」
悠斗が朝の事を負い目に思ってくれているのは嬉しいが、夢の事もあってあまり乗り気では無い。忘れるように心掛けてはいるから気にならない程度ではあるが、慢性的な頭痛は今も尚続いている。騒がしい所へ行くくらいなら帰って眠りこけたいと思うのは、インドアの常だ。
「ゲーセン行こうぜゲーセン。もう何人か誘ってるんだけどお前好きだろあーゆーの」
「悪い、俺ゲームセンター行かないし」
俺はゲームセンター、所謂ゲーセンが好きじゃないと言うか嫌いだ。ゲームは大体各国の神や日本の神の名前を適当に使うのだがその神らしさが欠如しているのだ。
同じ理由で咲耶もゲーセンとか俗世っぽいものは好きじゃない。紬も苦手な分野なので、年頃の高校生にしては珍しく無縁だ。
「ん?遠慮すんなって。偶にはパァーっと気晴らししないと」
「悠斗くん?悪いんだけど今日那岐と約束しているから、次の機会にして」
困っていたところに紬が助け舟を出してくれた。今朝の件で随分機嫌が悪そうだが、それに目を瞑ればこれ程頼れる相手は居ない。それが女の子である事は情けないが。
「そっか、そうだよな!悪い。うん、それじゃ那岐と紬ちゃん!またな」
紬の可愛らしい見た目とは対照的で恐ろしい一括を食らった悠斗は逃げるようにクラスメイトを連れて帰る。彼には悪いがお陰で俺の中の神話が冒涜されることが無く安心する。
「さて、邪魔ものは消えたし!あたしたこ焼き食べたいなっ」
「助けられたし、お礼に奢るよ」
 紬の歩幅に合わせて教室を後にする。紬に助けられっぱなしなのにそれを察してか、偶に何かを強請ってくれるお陰で負い目にならないようにしてくれる。勿論お互いの好みは一致しているから俺もたこ焼きは好物だ。
廊下に出ると生徒の数が疎らだったので、折角の機会だから俺の方から紬の手を握る。
「あっ……えへへ。嬉しい」
見ているこっちが恥ずかしくなるような笑顔を浮かべてくれた。多少勇気を振り絞ってみた甲斐もある。
「那岐は気付いて無いかも知れないけど、那岐からあたしの手を取ってくれるのすっごい久しぶりだよ?何年ぶりだろうねー……」
「ぷっ、そんなにだっけ?」
お年寄りみたいに遠い目をしてお道化てみせたが、紬の見た目や性格に面白いくらい似合わなくてつい吹き出しながら、のんびりと他愛もない話に包まれ校門を出た。

繁華街とは言え、夢の世界程ではないにしろ田舎の香りのする街で二人のお気に入りのたこ焼き屋に訪れた。勿論二人分を俺が奢る。
クーラーの効いている店舗内だとしても、暑い夏に熱いたこ焼きを食べるのは何とも滑稽だ。それでも紬が喜んでくれているようなので良しとする。
はふはふと夢中でたこ焼きを頬張る紬を見る。俺は汗が少し滴ってくるのだが紬にはそんな様子は一切無い。元々彼女の代謝の悪さが影響している。
男女の体感温度の差もあるのだろうか。カップルが部屋で一緒に居る時、クーラーの温度差一つで喧嘩になるとか聞いたことはある。けれど紬は一切そういう事は言わない。今度からは少しクーラーの温度を上げてみよう。
「ご馳走様!んんー、美味しかったぁ。ありがとね那岐!那岐も顔色良くなってるよ」
「紬のお陰だよ。いつもお世話になっています」
「いえいえ」
仰々しい一連の茶番を息ピッタリで交わした後、紬を駅まで送っていく。俺の家は学校からすぐ近くなのだが紬の家はそこから三駅先、俺の実家の真向かいにある。
「あーあー、那岐が実家のままだったら家まで一緒に帰れるのになー!」
「拗ねるなよ。うちの親と叔父さんには逆らえないんだし」
俺も一人暮らしなんてするつもりは無かったのだが、お互いの家族に無理矢理追い出されたようなものだ。幾ら抵抗しようとも、俺は未だ親に扶養されている身だ。子供の戯言なぞ大人には言うだけ無駄なので、俺は諦めて一人暮らしに甘んじている。
―「那岐くん、紬の為に一人暮らしをしてはくれないか。ほら、紬も年頃の女の子なんだ。相応しい人が現れても、このままじゃ君に遠慮してしまうだろう?」
自らの親には畏れられ、紬の父親にはお願い、と言うより強制されて今に至る。これも学校での扱い同様、俺の雰囲気が原因だろう。
片や学校内外問わず憧れの存在、片や近寄り難く何処か世間から浮いた存在。俺を紬から離れ一人暮らしさせたのは、有体に言えば厄介払いという事になる。
「那岐の何がいけないんだ」
それはいつもの軽い口調では無く、圧のある重い言葉。紬は親を恨んでいる節があるし、その反抗心からなのか、ちょくちょく俺の所に来てくれる。だがそれもいつ禁止されるか。
「親達は離そうとしたけどさ、それでも紬は傍に居てくれるだろ?俺にはそれが支えになっているんだぞ」
「うん!なんか今日の那岐、優しいね」
いつもの調子に戻った紬に俺は安心した。暗くてじめじめしたものは俺が引き受ければ良いのだから。
「いつもこんな感じだろ?ほら、電車来たぞ。早く行かないと乗り遅れる」
学校前の駅から紬の地元までの電車は田舎故に、一本乗り遅れると次来るのは一時間後になってしまう。だからこそ一本早くするという名目で朝早くに紬が来てくれるのだが、不便には違いないのだ。
噂によると、都会は二分おきに来る電車もあるらしい。規模が違いすぎて見当もつかないが、そこ迄電車を過労死させる意味があるのか。それ程に都会は喫緊の課題が山積みなのか。
「また明日ね!」
そう言ってどちらかともなくそっと手を離す。解放された手にひんやりと夏の風が入り込むのが、もう傍に紬はおらず俺一人であることを実感させた。電車が見えなくなるまで。そして見えなくなっても少しの間、紬が乗っていく電車の方をじっと見続けた。

聡明な木花

俺は新しい夢へと醒める。
眠れば例の夢の世界だという覚悟があったからか、今迄の夢よりはっきりとした落下感と浮遊感を感じる余裕ができた。この感覚は現実では中々味わえないだろう。宇宙の無重力空間はこんな感じだろうか。
若干麻痺した感覚を落ち着けるためにゆっくりと息を吐き、夢の舞台を確認する。今日の舞台はいつもとは一線を画すものだった。
すっきりとした野原に何故か場違いな一軒の建物。暗くてよく見えないが、あれはルネサンス様式だろうか。海外の建造物には疎いが、中心に城を構え左右の塔が突き出て調和を感じる建築様式は教科書で見た憶えがある。 この夢のいつもと同じ点を挙げるとしたら、神聖な空気を帯びている事だけだ。この空気感が無ければ、想像から離れ過ぎて却って現実的にすら思えてくる。落ち着いて考えれば野原にルネサンス建築なんて現実離れしているし、その規模の大きさも問題であるのだが。
不思議の国で知らぬ間に小瓶に入った飲み物を飲んでしまった時のサイズ感だ。或いはガリバーと小人の国か。自分が小人になった錯覚に苛まれて周りを歩いてみると、このルネサンスは野獣の王子様の根城に酷似している事に気付く。夢の世界とは言えこの壮大な城の主はどんな化け物なのか想像もつかない。
ひたすら続く庭をさすらうのに疲れ果てて―実際は夢だから然程疲れてないのだが、やがて眼前に城門が聳え立った。俺が触れるまでもなく、その城門が徐々に古風な音を立てながら開き始めた。
「やっぱり。来ちゃったんですねぇ」
明るさと同時に何かを悟ったような、大人びた雰囲気にどこか子供染みた身なりの少女が現れる。
「咲耶……?」
化け物の正体は咲耶だった。吃驚する前に、唖然として二の句が継げなくなる。同時に昼間言っていた「近いうちに会えそうです!」という意味深な発言の意図を悟った。
「えぇ、先輩!こんばんは。こんな時間に可愛い後輩と密会だなんて、先輩もやることやってますねぇ」
お道化た態度の咲耶は言葉と裏腹に、どこか寂しそうな表情をしている。
「こんばんは。密会も何も、俺達約束すらしていないんだぞ?」
「もう!先輩は女心分かって……無いわけじゃないんですけどねぇ。夢の中では初めまして、ですよね?」
咲耶は俺と紬の事を知っている。彼女に話す事じゃないのは分かっていたのだが、それでも受け止めてくれた。俺が何を話そうと変に気を遣う訳でも非難する訳でも無く、構わず普通に接してくれている。以前はそんな聡さは咲耶特有のものと思っていたが、七代の聡さに似通っているとも言える。
「ん?あぁ、そう言えばこんな所で会うのも珍しいよな。此処が咲耶の家なのか?」
咲耶とは仲が良いと言えども、あくまで先輩と後輩である。断っておくが、常識的なラインは一切超えていない。
「え!?まぁ夢の中では此処を拠点にしているというか、縛られているというか。もしかして以前にその事話しましたっけ?」
「いや、俺も咲耶もお互いの家行くような仲じゃないだろ?初めて聞いたよ。それにしても立派な家だな」
立派と言うより最早世界遺産クラスといっても過言じゃないし、実際その通りかも知れない。咲耶の節々に現れる品の良さはお嬢様特有のものだったのか。
「何か噛み合ってない気がするけど夢の中だし……まっいっか!何なら入ります?お茶くらい出しますよっ!」
咲耶の中では質問では無かったのか、俺が応える前に彼女は迎え入れる為に更に門を開いた。紬を家に呼んでる俺が言えた事じゃないが、こんな遅い時間に女の子の家に入るのは褒められたものじゃないだろう。
「流石にこんな遅い時間にお邪魔するのも悪いし、遠慮しとくよ」
「はぁ……先輩って夢の中でもそんなに奥手なんですかぁ?気にしなくて大丈夫です。私ずっと一人で寂しかったんですから」
そう言われるともう拒めなくなる。俺は咲耶に連れられて、導かれるようにその重々しい門の中に入っていく。
城内では開いた口が塞がらなかった。外からでは城の正面しか見えていなかったが、中に入ると奥行きも広場になる程の規模に気付いた。左右の扉は各部屋に繋がっているようで、正面の階段を上った先にある扉を開くとダンスホールがあった。何よりも特徴的なのは螺旋階段だろうか。ただの螺旋階段でも驚くが、此処のはそれが二重になっている。プライバシーを配慮したものなのか、ドレスが引っ掛からないようにする為なのものなのか、小市民の俺には見当もつかない。
「はい、どーぞ!」
「ありがとう」
東西に聳え立つ塔の東の方を咲耶に案内され、俺は彼女の正面に座って淹れてもらった紅茶を頂く。広大な城とはいえ居住の用に供されている室内を歩くだけで汗は出ないにしろ、こんなにも疲れたのは初めてだ。多分東西の塔を除いた城だけでも学校より広い。
暖かくて味わい深い紅茶の香りが、この理不尽な疲れを癒してくれた。一口で笑みが広がる。
「美味しいですよね!私のお気に入りなんですよ」
咲耶のお気に入りと聞いて改めて紅茶を口にする。今迄の俺は、恥ずかしながらインスタントか安い喫茶店の紅茶しか飲んだことが無かったので知らなかったが、全く別の飲み物だ。五感に染み込んでくる。多分値段を聞いたら飛び上がってしまうような代物で、どんな感想を言うか迷う。
「あぁ、今迄の紅茶の常識を覆されたよ」
結局お茶を濁したような感想になってしまったが、それでも咲耶は嬉しそうに笑ってくれた。
家庭の事情に入り込むようで少し聞きにくいが、咲耶にならいいかという気持ちで先程城内を案内してもらった際に湧いた疑問をぶつけてみる。
「咲耶は此処に一人で住んでいるのか?」
先程咲耶が言ったあの言葉。
―「私ずっと一人で寂しかったんですから」
こんなにも広い家と言うか城で一人。部屋は何十何百とあり、城内を目的地迄歩くだけで疲労を覚える程の広さにたった一人で暮らす事に違和感を隠し切れなかった。
「はい、そうですよ?ちょっとだけ不便には思いますけどぉ、それはそれで女王様になった気分です!本当は神社に住みたかったんですけどね。”私は神じゃ無い”って認識が強過ぎたんだと思います」
俺も咲耶も日本神話や神道への関心は勿論の事、基本的に親日家だ。確かに愛国心溢れる咲耶としては、これほどの城に住めるなら神社に住みたいと思うものだろう。だがそれよりも気になる事がある。
「”私は神じゃ無い”か」
自身に巣食う時たま思う違和感を思い起こす。これは咲耶と神話やら古事記やらの話をしていると感じるものだが、咲耶は神と自分に一線を置いている。古事記を読まずともそんな事当たり前だと分かり切っているのに、俺は何故か神と自分を別のものとは思えないでいて、これがその違和感の正体だった。だからこそ此処の神聖な空気に馴染んでいた七代に出会った時、とても他人とは思えない存在と思ったのだろう。咲耶や紬とは本質的に違う、もっと深い部分の繋がりを感じた。
「もしかしたら先輩は神かも知れませんね」
咲耶の突然の言葉に心臓を掴まれた。気紛れにからかっているのだろうか。
「そのままの意味ですよっ!例えば先輩は殆ど友達が居ない。先輩は確かに多少変わっているかも知れませんが、それだけで近寄り難い、畏れ多いなんて思われないとは思いませんか?」
さらっとすごく失礼な事を言われたがそれは流しておく。
「なんてね!すみません、変な事言っちゃいました。私だって友達は居ませんでした。忘れて下さい!
 っと、私はそろそろ起きる時間みたいですね。それでは先輩!此処は自由に使ってくれて構いませんが、くれぐれも西の塔には行かないで下さい。約束ですよ?ではっ!」
有無を言わせずにそんな約束を取り付けるや否や、咲耶は逃げるようにそそくさと部屋から出て行った。

「困った子ね……」
一人城に取り残されて手持無沙汰にしていると、どこからともなく七代が現れる。いつ用意したのだろうか俺や咲耶が使っていたものとお揃いのカップに紅茶、お茶請けにスコーンまで用意して俺の隣に座った。主が退席して静謐な部屋の空気の糸が引き締まる。
「生憎だけど家主は出掛けたぞ。咲耶と知り合いだったのか?」
「咲耶?あぁ、件の家主さんね。此処に誰か住んでいる事は知っていたけれど、それが誰かなんて知らないし興味も無いわ」
「じゃあ何で勝手に此処に―」
「那岐、また忘れているのね。此処は夢よ、夢の世界。だから私が突然此処に来ても然程おかしくは無いし、別にこれは不法侵入にもならないの。夢の中は治外法権ね」
そうだった。此処は夢の世界で、俺の現実には紬や咲耶、後は誰かいたか憶えていないが、交友関係の狭いあそこが現実。頭では理解している筈なのに納得はできず、俺は暗澹たる思いでいた。
「”すぐに慣れて現実との境が分からなくなる”私はそう言ったわよね。那岐は既にそうなりつつあるのよ。このままじゃ本当に外が夢に、夢が外になるわ」
七代はまんざらでもないかのように言った。七代の言は確かに的を射ている。夢の居心地が良いからだけでは無く、恐らくこの夢の影響だが眠っていても意識がはっきりしている事で、脳が休まらず現実では頭痛が起きる。
「すり替えのトリックを脳が勝手に受けてしまう」
「良い表現ね。私は那岐が夢を選ぼうが外を選ぼうがどちらでも良いけど」
さもありなん。七代からすれば夢の俺にしか会えないのだろうし、個人的には嬉しい限りである。すり替えなんてのは推理小説なんかによくあるトリックだが、脳が自然な反応でそれを処理したらどうにもなるまい。トリック部分が記述されていないのに、すり替えだと言われても対応のしようが無いのである。
「仮に、夢を選んだとしたらどうなるんだ?」
夢を選ぶとはつまり、此処を現実とみなす事だ。そうすれば、今迄通り現実を生きてきた俺はどうなってしまうのか。
「那岐ってこんなに理解力無かったかしら?」
皮肉では無く当たり前の評価のように言った。そもそも出会って間もないのだから、そう思われているとすれば見た目に反してという事なのか。若しくは、出会って間も無く黄泉国だのとのたまう割に稚拙で背伸びをしていると思われたのか。
「そうね。夢を見ている時というのは、那岐は何をしている時かしら?」
「それは眠っている時だろ。起きていては夢は見られない」
白昼夢なんてものもあるが除外していいだろう。例外を列挙するとキリがない。
「まだ完全に夢には染まってないようね。夢を見ている時、つまり今。外に居る那岐は眠っているわ」
外、現実に居る俺は確かに眠っているだろう。例えば今、紬が俺の部屋に来たとして紬が見るのは此処で七代と清談に耽る俺では無く眠っている俺だ。
「そして今の那岐は一応外を現実の自分として捉えている。そうすると、夢の那岐は差し詰め虚像か何かになるわね。さて改めて聞くわ。夢を選んだらどうなるかしら」
「現実が夢に、夢が現実になるって事か」
正に驚天動地が実際に起こる訳だ。
「ご名答。と言いたいけれど及第点ね」
「概ね合っていたなら問題ないさ」
「そうね。それで那岐はどうするつもりなの?」
「どうって?」
分かってはいるが、つい聞いてしまう事も屡々あるだろう。何せ夢と現実の事、どういう因果かは知らないが夢の世界にも身を置くことになったのだ。
「ふふっ、また顔に出ている。例えば……そうね、あの咲耶って子。あの子はまだ決めかねているでしょうけど、私には彼女が外を選ぶとは到底思えないわ」
「と言う事は、咲耶は夢を選ぶって言うのか?」
意外では無かった。俺同様咲耶も年頃の子と比べれば浮世離れしている。咲耶の間延びした話し方等、表面化もしている。
「夢の世界が現実染みているのは未だ那岐が選んでいないからよ。夢に堕ちれば堕ちる程、夢の世界は思い通りのものになるわ。それって素晴らしいと思わないかしら?」
七代の言う事は間違っていない。中途半端に夢と外を同居している事で、夢と現実の境が曖昧に、胡蝶の夢のようになってきていた。
「この城がその証拠ね。夢の世界に身を任せれば、このくらいの建物を生み出すくらいわけないわ」
だが何か引っかかる。理屈の上でなら夢を現実とするのも悪くは無い。最もそれは道徳や倫理観なんぞで語るものでも無い。
此処は治外法権で、道徳等と言った俗世的なものは介在しないのだ。
「……此処には誰も居ない。以前は居なかった。咲耶は”ずっと一人で寂しかった”って言った。だから―」
「だから、夢を選ぶのは間違っている?咲耶も那岐も外での悩みは差し詰め疎外感でしょう。此処はあくまで夢なんだから、勿論友達や家族に囲まれたいと思えばそうなるわ。今は無理でも、夢を選べば簡単に叶う。
 何なら那岐も此処に居れば良いんじゃないのかしら?咲耶と趣味、合うみたいだしね」
俺の懐の中にある考えさえも、七代には予想の範疇を越えないものなのか。ここまで呆気ないと狐につままれている気分だ。
確かにまだ短い時間だが、此処の魅力を語るには充分だ。唯一心残りなのは紬が居ない事か。だが本人曰く現実に七代は居ない。どちらにも一長があり、一短がある。
「深く考えないで頂戴。気付かない内に那岐は夢の世界に引き込まれる。現実に無い魅力が此処にはある、何せ試験も何にも無いんだもの。ふふっ」
「七代もユーモア溢れる事言うんだな」
いつもは普通の人間と一線を画すような七代が、てんで冗談めいた口調なのは新鮮だった。試験も何にも無いのはお化けだった筈だが……まぁ此処にも無いのは分かるが、夢とお化けが同一とは不気味な話だ。
「あら、だって本当なんだもの。試験のある夢が見たいなら見られるけど……あ、そうだったわ」
ユーモアを披露して少し上機嫌になった七代は、閃いたように微笑んで立ち上がり俺の目の前まで来た。
「那岐がこの夢に不信感を持たなくなったら。外を捨ててこの夢の世界を選んだのなら、その時は私とデートしましょうね」
途端に顔が真っ赤になるのが俺自身はっきりと分かった。知ってか知らずか七代との距離は数十センチ程。綺麗な黒髪からはシャンプーとはまた違った不思議な良い匂いがし、その大きくて黒い瞳は俺を飲み込もうとしているようだ。
「那岐は外の彼女と夢の私、どちらを選ぶのか。あぁ、とっても楽しみ。未だあの子とは彼女じゃ無いんだったかしら?まぁどっちでもいいわ。あの子とも居たいなら、夢ならそれもできる。咲耶や私も一緒に。ね?」
「……俺はそんな節操無しじゃないぞ」
不意な事で反応が遅れた。いや、一瞬想像してしまってまんざらでも無かったからだと、心の中では告白しておこう。
人としてどうかと言った考えもよぎるが、それこそ俗世的だ。夢なら関係無く、俗世でも流動的なのは歴史を見ればわかる。そして夢なら、望みがそのまま現実に変わる。
「迷ったわね、ふふっ。これ以上虐めて嫌われたくないし、そろそろ起こしてあげるわ。私、那岐に後悔だけはして欲しくないし。それじゃあ良い外の世界を」
起きるのは気まぐれと言っていたのにそれを支配しているのは七代のような口ぶりだ。それを問いただす間もなく城が、夢の世界が音も無く瓦解していく。もう俺の喉から言葉が漏れることは無かった。

そして俺は再び眼を醒ま―「……あれ?」
眼が醒めたら自分の部屋で起きる筈が、眼前には見覚えの無い場所が広がった。赤と黒が入り混じった、まるで夢の中と現実の両方の雰囲気を孕んだ空気感。まるでそれは、
「私や先輩の心のよう。現実でも夢でもあり、そのどちらでも無い」
急になのか、俺が来た時には既に居たのか、目の前に咲耶が現れる。
「先輩こんにちは!で良いんですかね?」
「こんにちはで良いと思うよ。さっきはごめん。七代に……夢の世界の人に気付かされる迄、夢って事を忘れていたみたいなんだ。変な事を言っちゃったと思う」
咲耶が気まずそうにしている原因はこれだろうと、高を括って伝えておく。七代が俺の言いたい事を先読みしていたのも、こんなロジックなんだろうか。
「やっぱり、私よりよっぽど重症ですね。それと七代さん?ですね。私直接お会いしたことは無いんですけど知っています。最近と言うか先輩の所に来てから、何となく覗かれているなーって思っていたんですよねぇ」
自分の夢を覗かれるという感覚。これも夢が身近に感じられるからこその感覚だと思うが、俺はそれよりも重症だという事か。それに咲耶は既に七代の事も知っていた。
「咲耶の方が前から夢の世界に居るんだろ?あの城も咲耶が夢の中で生み出したものだって。俺にはあんな事出来ないから、そこまで重症だとは思わないんだけど」
咲耶は困ったように少しはにかんだ。
「うーん、近いうちにその事も話せると思います。それまで待っていてくれますか?」
「分かった。それに、こんな夢とも現実ともつかないような場所で長話するのも変だしな。待っているよ」
咲耶も此処の事は知らないようだし、七代は俺を起こそうとしていた。此処はイレギュラーで生まれた空間だろう。そうなら夢のように明確に形付いているわけでもないし、話し中に強制的に遮断される事もあり得る。そうしたら後味も悪い。
「それに、その事については話すのに相応しい場所もあるんです!だから忘れないでくださいよ?」
「それは厳しい注文だな。頑張るから出来るだけ早めに頼むよ」
これは冗談では無く割と切実な願いだ。夢の世界に来るようになってからかその前からか、俺の記憶は憶えているべき事を忘れていたり、忘れるべき事を憶えていたりする。
夢見は脳の整理とも言うが、忘れられないとなると疲労も溜まる。それが頭痛になっているのか、慢性的な頭痛もある。
「わっかりました!っとと、此処どうやら崩れてきているみたいですねぇ」
咲耶が言った通り、鏡張りにしてどこまでも続くよう細工されたようなこの空間が足元から消えていく。離れた場所から崩れ、今の足場も完全に消えて無くなるだろう。
「なぁ咲耶、これ俺達大丈夫だよな?」
つい不安になって咲耶に聞いてしまう。年齢的には先輩かも知れないが、夢の中では咲耶が先輩みたいだ。
だからこういう風に崩れるのも咲耶にとっては日常茶飯事かも知れない。
「大丈夫!!多分」
「た、多分って何だよ!?」
「だってこんな所に来るの初めてですし。それに夢の中で誰かに会ったのも初めてなんですよ!?私だって分からない事だらけなんですから!」
「夢なら多少思い通りになるよな?」
「此処が夢なら、ですね。此処は夢なんでしょうか?」
一通り意見をぶつけ合って一瞬考え込んだ時には、この夢とも現実とも言えない空間は完全に消え去っていた。その答えを出す間もなく、俺達は赤と黒と一体化し、音も形も無い虚無へと身を共にした。

狂い出す時計の針

 ―ピピピピピピピピ
目覚ましの音が鳴り響く。相変わらずのけたましい音が脳に直接響いて、その刺激で頭が割れそうになるも何とか理性的にタイマーを止めた。
ゆっくりと体を起こすと、昨日よりも頭痛が酷くない事に気付いた。
完全に未知の環境である夢の中で数少ない友達である咲耶に出会えたからか、()しくはあの赤と黒の空間のどちらかだろうか。
頭の中を整理しながら一人分の朝食を用意する。視界の隅で光っている携帯を確認すると、紬からのメールが来ていた。受信は今日の朝五時で、内容は予想通りで今日は来られない旨のものだった。
そりゃあ毎日のようにうちに来ていたらすぐにおじさん達の耳にも入るからしょうがないのだが……
「不味い」
俺も一人暮らしが板についてきて、料理が出来ないわけじゃない。問題はその味で、紬のそれとは天と地ほどの差があった。
パサパサで味気の無いパンと焦げ気味のベーコンエッグは、男の一人暮らしにしてはまだマシな方かも知れないが。
それに夢の中で飲んだ紅茶が美味しすぎたからか、今迄気に留めていなかったうちの紅茶が酷く不味い。
パサつきを誤魔化すために、何とかパンも一緒にして流し込んだがまた調子が悪くなった。
「行ってきます、はぁ」
習慣で俺は誰も居ない家に出発の挨拶を告げる。
一人暮らしをすると独り言が増えると言うが、本当にその通りだ。元々口数も少なければ交友関係なんて言うまでも無い。
そんな俺でも独り言が出るんだから、騒がしい人は独り言だけで俺の一週間の会話量を超えてしまうんじゃないだろうか。
そんな馬鹿げた事を考えながら通学路を越えて学校へ向かう。
今日も今日とて見覚えの無い光景―だがそれにも慣れたのか、昨日程焦る事も無くなった。
昨日と言えば夢の世界での城の方が刺激的過ぎて、此処の光景なんて気付けばもう背景と化している。
「―ふふっ」
一瞬七代の声が聞こえた気がした。
だが周りには七代は勿論居ない、此処に七代が居ない事は知っている。
頭痛も残ってるし空耳もだなんて此処はなんて不便なんだろう。夢の世界に居る時にはまるで感じないストレスに苛まれて俺は此処に嫌気が差していた。
 期末試験も終わった夏休み前の学校では、授業も適当に行われるし生徒は夏休みの予定が専らの話題になる。一部の生徒は補修が用意されているが、成績に関しては高水準を保っている俺には関係ない。
幼い頃から背伸びして古典文学やらを読み耽っていたからか、地頭の良い俺は勉強せずとも悪い点を取った記憶は無い。
夏休みに夢も希望も無いし、有るのは宿題だけな俺には行く意味なんて無いんじゃないだろうか。紬と海に行く約束もあるからそれは楽しみだが、紬の事だ。
いざ当日になって
―「やっぱり日焼けしたくないし止めとくー」
とか平気で言う子なのである。紬が夢の世界にも来られたら何時でも一緒に海にでも山にでも行けるのにな。
と、蒸し暑い日本の気候にも負けず熱心に白球を追っている野球部の姿を見ながらのそのそと教室に向かう。


「おーっっす!おはよう」
俺が教室の扉を開いた瞬間―野太く無駄に大きな声が俺に向けられ、馴れ馴れしく肩に手が置かれる。
お情け程度のクーラーの風が彼の熱気で台無しだ。
「……あぁ、おはよう」
「何だよつれねぇなー。昨日の事は悪かったって!じゃーな」
それだけ言うとクラスの輪の中に入っていく。いや、戻っていった。
それが俺には眩しく見えた。彼にはこの教室内に戻るべき場所があるが、俺には無い。それに、彼とは誰だったか。
友達が少ないと言うかほぼ皆無な俺にとってまず間違いなくどうでもいい存在なんだろうが、同じクラスなのに忘れてしまう程俺は薄情な奴なんだと考えると気分が悪くなる。
「那岐……お!は!よ!う!」
彼の大声を遥かに超える半ば怒鳴るような声が俺に向けられた。
今度は誰なんだと思って振り向くと、見知った顔だったので安心した。
「紬か、おはよう。そんなに大きな声だと目立つぞ」
一抹の不安を抱えながらも出来るだけ軽く挨拶をしたがそれが彼女の逆鱗に触れてしまったのか。
「呑気に”おはよう”だなんてどれだけ惚けてるんだよ!
 今朝一緒に学校行く約束してたの忘れちゃったの!?何で勝手に行っちゃうのー!」
そう言って肩を震わせながらこっちを睨んでくる。
紬は若干男言葉が混ざる事がある。普段は隠しているが、殊に俺を怒る時なんかはそれが顕著に表れた。心なしか見た目を気にする紬にしては珍しく髪を乱している。もしかして探してくれたのだろうか。
「ご、ごめんって!でもほら、もう教室だし。後でお詫びもするから」
他にも人が居るのにそれも忘れてこんなにご乱心なのは珍しいが、そもそも約束なんてした覚えが無いし朝はキチンとメールを確認したのだ。
自惚れと言われても仕方ないが、紬は俺の事になると少々周りが見えなくなる事がある。今回もそういう事なんだろうと安易に考えていた。
「またそうやって誤魔化す!これを見なさい!
 メールで連絡もしたし、那岐からの返信も来てる!何処か行っちゃったんじゃないかって本当に……本当に心配したんだから!那岐の馬鹿!大馬鹿!」
感極まったのか、今度は泣き出してしまった。
果たして紬はこんなに感情を剥き出しにするタイプだっただろうか、それ程までにそのメールは紬にとって重大な事だったようだ。嫌な予感がするも紬の携帯を確認する。
「……何だこれ」
文面を一読した後、思わず差出人を確認してしまう程、記憶に齟齬が生じていた。
―「ごめん!今日は部屋行けないー……」
紬から俺宛のメールで、これは俺にも憶えがあった。
毎日一時間も早く学校に行けば不振がるかも知れないからと、来てもらうのは多くとも隔日程度にしてもらっている。念の為毎日こんな内容のメールはしているし返信もした。だが問題はその返信だ。
―「そっか、残念……なら一緒に登校しないか?」
俺から紬宛のメール。のようなのだが、そっか以降の文に問題がある。俺はこんな内容の文面を書いた憶えが無かった。
最近記憶が曖昧だし、頭痛の影響もある。だがそれを鑑みてもだ。恥ずかしながら俺は恐らくメールで紬を誘った事が無い。何事も初めての事というのは人間の記憶の奥深くに浸透する。
初代天皇が神武天皇なのは歴史で習って知っている人も多い筈だが、第二代が綏靖天皇な事を知る人は少ないだろう。それだけ初めてというのは語り継がれるし、記憶にも残るのである。
因みに第十代の崇神天皇が初代だとか第十五代の応神天皇が初代だという考えを信じていないのでそこは割愛させて頂こう。これ以上は自らの妄想と言えど、俺が止まらなくなる。
「あ、那岐!今絶対いつもの歴史だの何だのについて考えてたでしょー?ちゃんと反省して!」
「いや、初代天皇と俺が初めて紬を誘った事に関連付けて……ごめんなさい」
なんて姑息な誘導尋問なんだ……
俺の覧古孝新(らんここうしん)な精神を利用してくる高度技術は、確かな裏付けと長い付き合いを彷彿とさせる。
「初めてだったのは憶えててくれたのか、えへへ。
 じゃなくて、初めてだったから本当に楽しみにしてたのに!那岐の阿呆!」
馬鹿の次は阿呆と来ると豆腐よりも強固な俺の精神をもっても流石に凹む。
話の内容が内容だし、紬の本性を知らなかった殆どのクラスメイトや近くのクラスの連中が何事かと騒ぎ立てている事に気付いた。紬の大声が止まった後、クラス内は騒然とした。
学校のアイドル化している紬を泣かせた最低男とか那岐絶対刺してやるとか末恐ろしい声が聞こえてきた。更に紬が初めてなんて言葉を使うから、俺達が付き合っていて紬の事無理矢理俺が押し倒したなんて話まで発展している。
話に尾鰭(おひれ)がついてもう収拾がつかない。直接的な男の妬みはかくも恐ろしいものか。
そんな青天の霹靂(へきれき)から俺を救い出す始業のチャイムが鳴って一旦全員座るものの、今日一日噂話が絶える事は無かった。


「那岐、ちょっといい?」
一日中何となく、そう何となく紬を避けることになっていた。休み時間の度にギリギリまでトイレに籠ったり図書館に行ったりしたのは、あくまでお腹が痛かったのと知の探究の為なのだ。
こんな偶然が重なればほとぼりが冷めるだろうと高を括っていたのだが、そうは問屋が卸さなかった。これが女の子の恐ろしさである。
「あ、あぁ」
「一緒に帰ろう?今日は朝話して以来一度も話せてないんだよ。
 それにあたしも那岐も授業中発言してないからお互いの声も聞いてないの。だから沢山話そー!」
紬は寂しそうに、そして何故だか得意気な様子だった。
紬にこんな思いをさせてしまって俺は自分自身に対する憤りが止まらず、そして情けなかった。
「わかった、本当ごめんな」
何でこんな大切な事を忘れてしまっていたのだろうか。何か原因があるとしたら間違いなく夢の影響なのだろう。
「ううん!わかってくれたらそれで良いんだ!
 それに、あたしがしっかりしてなかったのも良くないんだよね。もう忘れないように、忘れさせないようにするからね!」
「うん。うん?」
紬はいつからこんな調子だっただろうか。昔は紬はどうだろう、少なくとも俺には純粋無垢で明るい屈託のない笑顔を見せてくれていた。
それなのにいつからか、紬も変わってきている。表面上大きな変化は無くても、一緒に居たからこそわかる小さいが絶大な変化が彼女に起きていた。
今も紬の事を好いているのは紛れもない事実なのだが、この短期間でそれが揺らいでしまっているのも事実だ。もし仮に、夢の中に紬が居たとして、紬は純粋な紬で居られるのだろうか。
「あ、まーた難しい顔してるー!
 もしかして隠し事してるの?してないよね?」
「してないって。紬に嘘はつかないよ」
まただ。つい最近なのかずっと前からなのか、将又(はたまた)今日の件が原因なのか。それも思い出せない程に此処での俺の記憶はあやふやとは言え、紬の様子がおかしいのは分かる。
突拍子も無いように思えるのだが、突拍子の無いものの塊とも言える夢の世界に身を置くようになって、それにまだ慣れてもいないから現実での感情の区別がつかない。
思考の雁字搦(がんじがら)めに合って動けないでいると、急に左手の体温が上昇した。
いつものようなただ単に繋ぐものでは無く、恋人がする指を交互に絡めるものだ。紬としてはずっと考え事をしていたのが不快だったのか、頬が少し膨れていた。
それからもずっとぼんやりとしながら紬と何言か話し、駅の方まで送っていった。
真っ赤な夕日を帯びた空が、全反射して銀色に染まっていた。

掌で踊る

 ―俺の言葉に咲耶の眼が学校の時と同じ真剣なものになる。
少し足元を確認するそぶりを混ぜて一呼吸置いてから口を開けた。
「認識力の違い、ですかね。
 私は夢の世界で何かを成すことに長けている。先輩は夢の世界に自らを成す事に長けている、という事でご理解頂けないでしょうか」
成す―俺達日本の神話や文化を愛する者の使うそれの意味は作るや生むという意味だ。
「つまり平たく言えば、咲耶は国生みをしている」
「そうです、それが得意なんです。そして先輩は自分を夢の世界に存する事、己とは言えそれは神生みです。
 神の(まつりごと)に私達が優劣をつけるなんて無粋ですし畏れ多い」
同世代のこれらに興味の無い人達―所謂最近の若い者が聞いても頭上に?が生まれるだけかも知れないが、俺と咲耶が話す時はこの表現が常である。
「それに私はずっと前から、それこそ何か月も試してあの城を生みましたから。それに神社生めませんでしたしねぇ。
 ただこれを夢だと意識している所為ですかね、私にはこれ以上何も生めないんですけど……あっ、先輩?折角ですしそのぉ、試してみます?」
「え、え?いや、いい大丈夫」
急にいつもの咲耶に戻ったから反射的に同意しかけたが、完全にセクハラだ……それを仕向けるのは本来俺の役目では無いのだろうか。
「あはは!先輩はやっぱり可愛いですねぇ。ねぇ先輩?気付いていました?私達、夢の中では神様です!」
(ようや)くいつもの調子に戻った咲耶が玩具を与えられた子供のような純粋無垢な瞳で訴えかけてくる。
「夢の中なら、誰でも神だろ」
「全然違いますよぉ!普通、夢は醒めますよね。どれだけ素敵な夢も、幸せな夢も、それらは全て槐安(かいあん)の夢。
目が醒めれば待っているのは辛い現実。私は、現実が辛くても頑張るぞ!なんて風には考えられないんですよ」
実は咲耶と出会ってから半年も経って無いけれど、彼女について知っている事は割と多い。
俺と似た女の子で、その小さな身体にどれだけの精神的負担を押し込めていたか。俺には紬が居た、でも咲耶にはそういう相手が居ない。
それだけでもとても耐えかねない凄惨な状況を物語っており、その過酷な状況は筆舌に耐え難い。
「咲耶は夢を選ぶのか?外の世界での自分を捨てて」
まだ俺はどちらを選ぶか決めかねているし、そもそも選ばないという事も有りかしらんとさえ思っている。
故に、ずっと一人で戦ってきた咲耶を責める事なんてできない。それが、例えどんな選択になろうとも。
「はい。ってまだ決断には至ってないんですけどねぇ!心残りと、問題があるものですから」
「問題?」
「先輩に関わるのは心残りの方なんですけどねぇ……
 まぁいいか!問題ってのは簡単です。さっきも話したんですけどぉ、国生みに関わる話です」
咲耶は身振り手振りを加えながら、感情をコロコロさせて話した。
本当に子供の様に大人びた話をするものである。
「私、所謂神生みが出来ないんです。だから夢を選んだら、素敵な紅茶やお刺身は食べ放題なのは嬉しいんですけどね?でも、それを共有する人は居ないだろうって。
あぁ、私は結局夢の世界でも孤独を謳歌することになるんだなぁって。(いた)く皮肉ですよね」
咲耶は刺身が大好きで、日本文化含めてよく日本人でよかったぁ……ってしみじみ言うような子だ。
だが、孤独で居る事が何よりも辛いと一番知っているのは咲耶なのに、夢でも孤独に苛まれるというのは成る程……確かに皮肉な話だ。孤独に憑り付かれているきらいさえある。
「それって深刻なんじゃないか?まだ外の方には実際に人が居るんだからさ。
 国生みだけで安直に夢を選べるほど簡単な問題では無いだろう」
俺が言えた話ではないのだが、外の世界で生活していればいつか咲耶にも、俺にとっての紬のような存在が見つかるかも知れないのだ。
話が合わなくても人が居れば気が合う人を見つけられる可能性は(つい)えない。だが誰も居ない場所に身を置けば、その可能性の芽を自ら摘むも同義の始末である。
「言いたい事は何となく分かりますよ。でも私にとっては―先輩?貴方が居れば良いです。勿論人には囲まれたいんですけど、真の理解者は貴方以外に有り得ません。
 話が合わない人との会話は疲れますし、つい色眼鏡で見てしまいます。沢山の人が欲しくなれば成せば良いんですよ。為せば成る!なんちゃって、あははは」
俺が咲耶の心を埋めていたのは純粋に嬉しかった。
咲耶は俺にとっても気兼ねなく何でも話せる大切な存在なのだから。心細い現実の世界でも未知の領域である夢の世界でも、離れずに付いていてくれる彼女の存在は決して切って捨てる事が出来ない。
「俺も咲耶は大切だから嬉しいけど、人を成すのは―神生みをする事は咲耶には出来ないって―」
咲耶は自分の事を言っているのではなかった。彼女の強く見つめる視線の先にそれができる者がいた。
助けてくれるのか―そもそも不確定要素だらけで未だ未知である七代や、未だ見ぬ存在すら危うい俺たち以外の夢の世界の住人よりもよっぽど適任である。
「はい!先輩、私と一緒に夢を選んで下さい。そうするのが最も都合が良い。そうは思いませんか?」
確かにそうかも知れない。でも本当にそうだろうか?
結局俺はまだ決めかねている。何処を見てもそこに答えは無く、きっと答えも無いような問いだ。
「夢の中でなら、嫌な事は……今迄の現実で俺達が感じてきた疎外感は存在しないだろうな。
 でも、嫌な事を耐え抜いてそれでも幸せを手に入れる。俺達の幸せは、俺達自身の手でもって掴み取らなければ意味が無い。違うか?」
「違いません」
幾重にも絡ませた論理の蔓の末に、やっと言ってもらえそうな言葉が咲耶の口からあっさりと出てきてしまう。
かくもあっさり事が進むとなると、却ってこっちが面食らってしまった。
「それなら―」
「”外の世界では”違いません。
 先輩ってずぅっと夢の世界の価値観に触れてきて、説得する時にだけ都合よ外の世界の価値観を持ちだすんですから、もう本当に驚いちゃいました。
夢にはそんな教科書通りの理論は存在しません。あるのは各々のエゴとリビドーってとこでしょうか?良くも悪くも治外法権なんですよ。
正解も不正解も無い。寧ろそれらは自分で作れるのが夢の世界ですから」
咲耶の言っている事には、俺が指摘できるような稚拙な間違いなんて微塵も無いのだろう。
それに、一週間か一か月か将又(はたまた)それ以上か。咲耶は夢の中でも俺が来るまでずっと一人だったのだ。
居たのは直接顔を合わせてすらいなかった七代だけで、それでも誰も居ないよりはずっと安心するだろう。それ程に一人と二人の言葉の重みは変わってくる。
さて、俺はどうだろうか?自分では自身の事を孤独だと思っていたし、思い込んでいたし、思い込もうとしていた。
だが今こうして思い返してみれば、外の世界での事は記憶が薄いとは言え紬と咲耶、それにクラスメイトにも僅かばかり話す相手がいたような気さえする。
夢の世界では七代に咲耶が居てくれて、少ないながらも俺には常に繋がりが存在していた。
咲耶と俺には、俺が思う以上の深い溝があった事を思い知る。俺が出来る事と言えば、精々溝に気持ちばかりの土を埋める事くらいだろう。
「咲耶ごめん。俺、咲耶の事分かったような事言ってあんまり分かってあげられていなかったと思う」
「先輩、大丈夫ですよ。
 他人の事なんですから分からなくて当然ですし、先輩に関して言えば充分に分かって貰えています。
私の事をこんなにも真剣に考えてくれるのは先輩だけなんですから。
私の世界は、夢でも現実でも、先輩唯一人なんですから」
「都合の良い話かも知れないけれど、どちらを選ぶにしても一緒に居よう。
 それで、どっちにするにせよ絶対大勢の人に囲まれて暮らすんだ」
決して一人じゃない。常に誰かが傍に居て、常に誰かが自分の事を想っている。
そんな些細な当たり前の為に、俺達は夢にまで来てそれを叶えようとしている。そのささやかで愚直なまでの願いが叶わないなんて、そんなものは現実では無い。寧ろそれこそが悪い夢なのだ。
「はい、分かりました」
それだけ言った咲耶は、眼を糸のように細めて優しく笑ってくれた。此処に来て、初めて心からの笑みを見られた気がする。
それと同時に足元から地面が崩れ去り、俺達の世界を再構築する。それが夢の終わりを告げる合図となった。

開けたら戻せない


 今日も咲耶の淹れてくれた紅茶を飲みながらスコーンを口にする。
咲耶が成した城に通う事数週間、にも拘わらず此処での生活は未だに新鮮そのものだった。その多くが城に繰り返し赴くようになって初めて知るもので、この紅茶もその一つである。
最初にこの紅茶を飲んだ時、俺は五感に染み込んでくると感じた。だがそれは此処の紅茶の入り口に過ぎなかった。
「今日の紅茶は自信作なんです!
 私が小さい頃に父が英国の某高級百貨店で買ってきてくれたアッサムを再現しているんですけどね、濃厚でさっぱりとしていて渋みが流れていく。
初めてその通りの味と香りを再現できたかも知れません!飲むとあの頃を思い出します」
「うん。今迄のも美味しかったんだけど今日のは特別に美味しいよ」
夢の世界では自分の想像や記憶力が大きな影響を与える。だから夢は記憶の整理だといわれるのだろう、記憶に無い物は上手く再現できないのだ。
ミルクティーで頂くアッサムはさっくりとしたスコーンにとても良く合っている。
「それに此処ではいくら食べても太りませんからねぇ。あはは、私油断しているとすぐお腹に余分なものが付いちゃって」
「咲耶は気にする程でも無いと思うけど。それにちゃんと食べないと背も伸びないだろ?身長も気にしてたじゃないか」
咲耶は同年代の子と比べると全体的に小柄だ。痩せすぎなんて事はない程度には健康的であるが、背は俺と比べると頭二つ分くらい低い。
初めて咲耶に出会った時もウチの高校の制服を着ていなければ精々中学一年生くらいにしか見えなかっただろう。
「もう少し先輩はデリカシーって言葉の勉強した方が良いと思いますよぉ!
それに私はこれで良いんです。需要に合わせたまでですから」
咲耶はでっぱりの無い胸を精一杯張って言う。
女の子は身長が低くてもあまりコンプレックスに感じない人も多いらしいが、この辺りが男とは違うところなのだろうか。
男は身長絶対主義的なところがあるし、いじめなんかが起きる時もターゲットは大抵小柄だったり身体的にコンプレックスのある人だ。
「あっ、今先輩すっごく失礼な事考えませんでした?主に私の胸囲に関して!」
鋭い……我関せずだ。触らぬ神に祟りなしである。
「兎も角!紬さんはスタイル抜群でモデル体型でしょう?七代さんも女の子らしくて素敵な身体付きをしています。正直羨ましいです!
 でも先輩はぁ、好みもマニアックな筈なんです!趣味がマニアックな人は九十六%くらいの人がそうなんです」
「人を勝手にマニアック扱いするなよ」
咲耶にはそう言ったが、実際人には理解されない趣味に全力を注いでいる俺は確かにマニアックかも知れない。数字は適当だとは思うが、それを言うなら咲耶も同族じゃないだろうか。
「まぁまぁ!でも先輩は七代さんが好みなんですよね?」
七代が好みならマニアックと言うより正統派では無いかと思いながらも、七代との関わりを思い返した。
ここ数週間、いつからだったか七代は咲耶の前にもコロッと姿を見せるようになっていた。
七代が着物姿なのに咲耶が食いついて、二人はあっという間に仲良くなっていた。
「まぁ、咲耶じゃないけど俺も着物は好きだしな。
 七代と話していると落ち着くとは思う。とても他人には思えないと言うか」
お陰で俺も含めて三人共が着物を(あつら)えている。
本当は七代と二人で会った時みたいな和室に行ければ趣があるのだが、どうしてか咲耶は城から離れる事が叶わなかった。七代曰く城への思い入れが強すぎるらしく、同じ夢を繰り返し見る現象に近いようだ。
咲耶が外国の建造物に依存するなど納得できなかったが、夢なんてそういうものだろうと今は受け入れている。
死にたいわけじゃないのにやたら死ぬ夢を見るのもそういうものだし同じようなものだろう。いちいち理由を求めるのも無粋なものだ。
「見た目は?先輩ってこういう話になると奥手ですよねぇ。
同じ日本でも神や天皇の話になれば目の色変わるのに」
「見た目もそりゃあ綺麗だと思うよ。ただ七代の事は未だ何も知らないしな。
自分の事語るような子じゃないから生い立ちすら知らないし、俺は咲耶と話しているほうが楽だよ」
そう言えば此処で咲耶と異性の話をするのは初めてではないだろうか。
趣味も合うし話しやすいし尚且つ夢の世界という異質な空間も共有している。今まで考えなかったわけでは無いが咲耶ともう一歩進んだ関係になるのも有り得る話なのかも知れない。
そう意識すると、今迄当たり前のように楽しんでいたお茶会が実は殆ど二人きりで開催されていた事に気付いて顔が主に染まっていく。
実際には何も変わっていないとは言え、何だか途端にこの部屋が桃色空間のような雰囲気を醸し出したように思えた。
「嬉しい事言ってくれますねぇ。
確かに私は女の子としての魅力はあまり無いかも知れませんが、私で妥協しても良いんですよ?」
意識の一致が起きた。丁度俺も考えていた事だったとは言え、今迄浮いた話の一つもしなかった咲耶にそんな踏み込んだ話をされるのは一驚(いっきょう)を喫した。
恋愛感情が無いからこそ成り立つ男女の友情が、少なくとも俺の考えていた俺達の関係であった。
だが積極的にそう言われると、過剰に意識してしまうのが男としての本能というものだろう。
「ほ、ほらっ!神というのは一夫多妻制でより国を発展させるでしょう?それと同じです!
一応断っておきますが、私は石之日売命(いわのひめのみこと)のようになりふり構わず嫉妬する!なぁんて事はありません。そりゃ妬きますけど、偶に私の事を思い出してくれればそれで良いんですよねぇ。いいえ、私にはそれを願う事すらも烏滸(おこ)がましい」
「……咲耶?」
もう中身は入って無いであろうティーカップの取っ手を持ってクルクルと回して、意識は残った僅かばかりの茶葉にあった。
咲耶のような、俺にとっては気を惹かれる程に魅力的な女の子に好意的に接してもらえるのは嬉しかったが、最後に言った謙遜の言葉と今の行動が咲耶の本質を表している気がしてならなかった。
「先輩っ!そんな暗い顔しないでくださいよぉ!
折角渾身の古事記ジョークを織り交ぜたんだから笑ってくれれば良いんです」
俺の感情の変化を悟ったのであろう咲耶は急に取り繕って二人の空気感を元に戻すように努めていた。また変な心配をかけてしまった。
今思えば、半ば無理矢理に古事記のネタをぶつけてきたのも彼女なりの気遣いだったのだ。見た目は子供っぽいかも知れないが、中身は俺なんかよりもずっとできた聡い子なのだ。
「ははっ、咲耶には敵わないよ」
そう言って照れを隠しながらスコーンを齧る。
話す事に夢中になって放置しようが、紅茶もスコーンも時間が経っても冷めないしパサパサにもならないのは夢の中ならではの特権だ。
「いえいえ、先輩の優しさに助けられていますよっ!っと、そうだ!七代さん曰く私はこの城に思い入れが強すぎるって事で此処に縛られて他の場所に行けないって話、覚えています?」
「あぁ、少し意外だと思ったよ。咲耶なら真っ先に神社と一体化していそうだ」
俺と咲耶が出会ったのは神社だったのだが、平凡に参拝しているところで偶然出くわしたわけでは無かった。
あれこそ運命的というか、出会うのは必定であったと言わざるを得ない。
「あれは、お恥ずかしい限りです。って先輩!それは忘れるお約束だったじゃないですかぁ!」
「あんな衝撃的な事、忘れられる訳無いだろ?幾ら此処の影響があって俺の記憶が曖昧でも絶対忘れない。と言うか、忘れられない思い出だよ」
咲耶に出会ったのは地元の神社の中でも知られざる秘境、とも言える土蜘蛛塚だった。至る所にあり、逸話もそれぞれだが所謂豪族の塚だ。塚とは高い盛り土の墓で、所謂西の都には観光スポットにもなっているものもある。
だが俺達の出会った土蜘蛛塚はガイドや案内板も無く、人の往来なぞ滅多に無い。
咲耶はそこで他に誰も居ないのを良い事にうつ伏せになりながらも器用にエビ反りになって塚を見上げていたのだ。
確か先住の方々と交信したかった、なんて言っていたかしらん。
「もぉ!話が脱線しちゃいました。
 神社じゃなくてこの城の話です。お・し・ろ!」
「悪い悪い、城から出られない話だったな。それがどうかしたのか?」
咲耶は偶に見せる真剣な話をする時の表情へ顔を変化させた。それはとても綺麗で、咲耶特有の緊張感から自然と背筋が伸びてしまう。
「はい、七代さんとこの前居た時に出られない事が話題に挙がったんです。先輩が居ない時だったんですけど、夢というものは気まぐれだと言っていました。
 でもその割に私は此処から出られない、そういうルールの下にある」
 それから、咲耶は滔々とその時の事を話した。
 夢の特性や、外で為されている夢の研究と此処の相違点がその主な点である。
夢の特徴については初めて夢の世界に訪れた時に俺も七代から聞いていて、咲耶のした話は俺も知る所であった。
「その原因を解けば、此処のような洋風の城では無い和室や神社にも行けるのかと思ったんです。
 夢は気まぐれでも、多少は思い通りになりますから舞台くらいは用意してくれるものかと。何なら私が成しますし」
「そうだな、夢を見れば大体は何かしら形となる舞台はあるだろうし、無くても此処から出られさえすれば方法は幾らでもある。
 咲耶は城から出られない原因に心当たりがあるのか?」
当然理由が無ければ咲耶はこんな話はしない。もしするとすれば、もっとお道化た顔で面白そうに語るのだ。
咲耶の話とは洗練された書物なのである。話の内容、その言葉選び一つ一つ、どれを取っても理由があるのが咲耶という存在と言えよう。
「流石にその点に関しては鋭いですね」
皮肉という訳でもなく、正当な評価をして咲耶は続けた。
「実は、先輩がこの城で行った事の無い場所が一箇所だけあります。
 先輩は気付いていましたよね?この広い城をほぼくまなく踏破していたのに、あの部屋にだけは入らなかったし入れなかった。あはは、実は先輩の様子は逐一、(うかが)っていたんですよ」
勿論俺にも憶えがあった。最初にこの城に招かれた時に咲耶が去り際に放った一言である。
―「西の塔は行かない方がいいですよ」
西の塔には咲耶と居る時のみ少しだけ訪れた。但し二階の一部屋を除いて、だ。
「城の東西にそびえ建つ二棟の塔、西の塔二階の最奥の一室です。
 先輩気になっていましたよね?偶に近くまでは行っていましたもの」
「だけどあそこは開かないだろ?他の部屋には無い特別な鍵がかかっていた」
 俺は自分の夢の世界では正確な記憶を確認するようにそう告げる。
あの部屋を除いて全ての部屋に行き終えた後に一度扉の前まで行った事があるが、夢の世界にも拘わらずその扉だけはピクリともしなかった。
これ程の城だから勿論鍵のかかった部屋はあったが、それらは適当な鍵を連想して開くと思えば開いたのだ。それだけ俺は夢に馴染んでいる事の証明でもあり、あの部屋の特別性の証明となる。
「実はあの開かずの扉、今の私なら開けられると思うんです!と言っても七代さんのお力添えがあっての事なんですけどね」
七代が此処に現れるのは夢の世界と同じくらい気まぐれなのだが、生憎今此処には居ない。
折角咲耶と意気投合したというのに、色々忙しいと理由付けしているので数日に一回紅茶を頂きに来る程度でしかなかった。頻度で言えば次に来るのは明日か明後日か。
「今の私ならって言っても、その七代が今は居ないだろう?」
「それは今から詳しく話します。
 では先輩に問題です。鍵のかかった扉を開けるにはどうすれば良いでしょうか?」
「ん?そんなのちょっと念じれば勝手に開くだろ。それか扉を無いものと考えて無理矢理入るか」
これがこの数週間で俺の得た知識だった。此処は居心地が良くて形も明確で酷く現実的だから忘れがちだが、元を正せば夢なんだから多少の事は思い通りにできるのが寧ろ自然の摂理だ。
「先輩……最近何時間起きていますか?いつも此処に来たら先に来て手持無沙汰に座っていますし」
「起きているも何もずっとだよ。
 咲耶が居なくなるまでは咲耶と居て、後は七代と話したり、誰も居ない時は此処の図書館の書物を漁っているよ。
日本の本は少ないけれど古代史や天皇、神話なんかについては専門的な物が多いし助かる。俺英語は苦手だし、ましてやフランス語はボンジュールとメルシーしか知らないんだよ」
ここ最近は専らそんな生活を繰り返していた。此処なら眠らなくてもいいし、意識しなければお腹も空かない。
仮に空いても食事には困らないし、この城には巨大図書館まであっていつまでも好きな本が読んでいられた。
但し蔵書の殆どがフランス語なのである。読めると念じても読めないし、翻訳能力のある便利な蒟蒻(こんにゃく)も無い。一から学ぶのは億劫だから日本語の本を抽出する事のみに気力を割いている。
「はぁ。私もそろそろ選ばないとだし、良い機会かなぁ」
咲耶が何やらぶつぶつと言っていたが、俺の耳までは届かなかった。
「知っていますか先輩、鍵のかかった扉を開けるには鍵が必要なんです」
当然だ、と言い返す前に咲耶は俺の目の前に一本の鍵を見せ付けてきた。それを注視して見ると鍵は真鍮製で古びてはいるが、大変立派なものだという事が素人の俺にでも分かる。
「今思えば、実物の鍵で開けるなんて考えてなかったよ」
こっちに入り浸っている内に、既に夢の基準が俺の基準になっていた。
外の基準なんて考えもしなかったが、普通開かない部屋には鍵を使うものだ。こんな事は常識を通り越して前提に存する概念だというのに、俺の頭からはすっかり抜け落ちていた。
「お気持ちは分からないでもないですけどぉ……どおりで外に先輩の姿が無いわけですよねぇ。
 それは良いとして、この鍵の事ですよ。実はこれ七代さんに貰ったんですけどね?
  ”これがあればあの部屋にいける。但し、行く時はそれなりの覚悟をして行って頂戴”って言っていました」
あの部屋、というのは西の塔二階の部屋と考えて良いだろう。
七代はその事も既に知っていて、更には俺達の行動を先読みした。挙句、鍵まで用意する始末だ。
「それなりの覚悟って言うのは―」
「恐らく、私がこの城に対して思い入れが強いとする原因がその部屋に隠されている、という事でしょうね。
 心の宝箱かタイムカプセルか、将又(はたまた)トラウマか。
 私としては早く神社に移住したいので何でも来いっ!って勢いなんですが先輩はどうでしょう?」
七代が覚悟をしろと言ったという事は、それ相応のものがあの部屋には眠っているのだろう。
先ず、此処は咲耶の夢と考えて相違ない。そして夢の中とはいえずっと此処にいられる保証もない。ならば俺の答えはもう決まっている。
「行こう」
俺はそれだけ口にした。俺達の仲ならそれだけ言えばもう充分伝わる。
現に俺が立ち上がるよりも早く咲耶は椅子から飛ぶように降りた。
「はいっ!此処から一緒に出られたら、最初は二人であの神社に行きたいですっ!」
「それならとっとと此処とはおさらばしないとだな。
 此処も居心地は良かったけれど、やっぱり物足りない」
 俺も咲耶に続くように椅子から降りて立ち上がる。
此処から出られた暁には、二人の出会いの場である神社に行く約束をして俺たちは歩を進めた。
 西の塔に行くには一度エントランスにまで戻る必要があり、そこから西の階段を登る。二階まで上がって奥の廊下をずっと真っ直ぐ行けば部屋に到着だ。
「準備は良いですか?」
夢で準備とは何をどうすればいいんだと思ったが、この扉をくぐった先は本当に未知なのだ。
夢は外とは異なり法も化学も常識も介在しない事が多々あり、突拍子も無い事がごく日常的に起こる。俺は覚悟の表れとして声を発さずに頷いた。
咲耶も緊張した面持ちで、恐る恐る探るように七代から譲り受けた鍵を部屋の鍵穴に差し込んだ。
―カチッ
存外呆気ない音と共に、今まで開かなかった扉が開く。その若干錆びた音が、長年放置されてきた事を証明している。
開かれた扉から中を覗くと、部屋の中は豪華だが他の部屋と比べれば味気の無い室内と言える。ただ明らかに他の数百の部屋とは異なる点が一つあった。
「あはは」
渇いた笑い声が室内に響き渡る。
咲耶がこんなにも生気の無い笑い方をする事は未だかつて無かったので、室内の異常よりもそっちに意識が集中してしまう。
笑い方とは対照的に表情は嬉々としているので、それが賤しく見える程にあからさまな笑みを浮かべている。
「あはは」
その笑いは決して連続では起こらず、それでも確実にその渇いた笑いは続いた。
その標的は、明らかにその異常に向けて送られたものだった。
しかし、その異常はと言えばこの部屋の扉が開いた時と同様に、鳩が豆鉄砲を食らったような面持ちを続け全く動こうとはしない。いや、動きたくとも動けないのだ。
それは細かく震えてはいるが、凍りついたように動けない。俺も咲耶を見続ける事が精一杯だった。
「どうしたの?何で黙っているの?
 お父さん?可愛い可愛い一人娘との運命の再会でしょう?つまりこれは……あはは、ふふ、あはははは」
お父さん―咲耶曰く、その異常は咲耶の父親だった。
咲耶の家は母子家庭だと聞いていて父親については聞くことは無かったが、咲耶の父親は帰らぬ人となったのだと俺は直感で悟っていた。
俺の想像通りなら父親に会いたがっていた娘というのはごく自然な結果だ。
だが、俺にはとてもそんな美しい家族愛には見えなかった。
家族崩壊を経験した者ならば分かるであろう、苦々しい空気が部屋中に漂っている。
「それが、咲耶の父親か?」」
その父親はあまりにも生気が感じられなかったのだ。人にあるべき生命力や存在感、そう言った人ならば当然有するものだと定義付けられたものが、咲耶の父親からは全く感じられなかった。
「えぇ、そうですよぉ。
 色々すっ飛ばして私の家族に挨拶だなんて、先輩は思ったよりも大胆ですねぇ!」
心底嬉しそうに咲耶が告げた。吊り上げられた口元は今にも裂けんとしている。
その父親は人と言うよりは人の形を模した人形にしか見えず、生命体と捉えるにしても植物と解するのが限界だ。
動いているのが不自然で、どこにワイヤーが付いているのか探すように俺の眼は目まぐるしく動き回ったがそんなものは見当たらない。
そして、それ以上に異常なのは咲耶だ。
この部屋に入った途端、ある種の狂気と言えるほどの感情を(あらわ)にしている。そしてそれは目の前の父親には向けられていない。
父親に向けられているのは、その止まらない渇いた笑い声だけだった。
「ほらお父さん?先輩が面食らっていますから、何か喋ってよ。
 積もる話もあるんでしょう?もう二度と会えないと思っていたでしょうからねぇ。あはははは」
咲耶からはいつまで経っても笑いが止まらない。
普段の育ちの良い上品さはすっかり消え失せ、異常な性癖を露呈するかのような賤しさが表立っている。
父親の方は夢の中だからだろうか、何故か形を成しておらず次第に崩れ去っていく。
視力の(すこぶ)る悪い人が見る世界という画像を見た事がある。その画像は、すぐ目の前もぼやけていて左右にぶれる。だから対象物が幾重(いくえ)にも見えるのだ。
俺はその画像を見てから急に怖くなって、その日から夜に本を読む時必ず電気を付けるようになった。咲耶の父親が正にその画像のようだった。一人なのか二人なのか、生命が宿っているのかどうかも分からなくなっていった。
「先輩、私凄い事に気付いちゃいました!」
俺は怪訝そうな顔をするのみで声をあげなかった。
今の咲耶は俺の知っている咲耶と大きく異なるためか、声をかけられただけで俺は吃驚して何を返せばいいのか分からなくなっていた。
「私が一人ぼっちにならない方法です。あっ、勿論先輩も一緒ですよ?
 私にとって先輩は初めて出来た本音を語れる仲なんです。ねぇ?」
咲耶はそう口にする事で再度それを認識したのか、嬉しそうにまた渇いた笑いを続けた。
「それなら良いんだけどな。そこには七代も居るのか?」
「えぇ勿論!先輩優しいですから、皆で一緒じゃないと気になっちゃいますもんねっ。全く、先輩にはヤキモチが止まりません!」
俺が優しいかどうかは別として、それには少し安心した。七代さえ居ればどんな状況も解決できる根拠の無い自信がある。
それに、もし七代を仲間外れにしたら、彼女はその可愛らしい顔を苦虫を噛み潰したような顔に変えて執拗に追い回してくるだろう。そもそも七代は神出鬼没だから、彼女の前では逃げる事が何の意味も成さなくなる。
「それじゃあ先輩!一旦この城から離れてみましょう。
 ちょっと試してみたい事があるんですけど、詳しくはそこで」
俺も咲耶が城から離れられるか気になったので、首を縦に振った。
咲耶の試してみたい事も興味深いが、何よりこの気味の悪い部屋から出たかったのだ。この城には良い思い出しかないから、良くない思い出からは眼を背けたい。それは今の咲耶に対しても言える。今の咲耶からは目を背けたかった。
「それじゃ咲耶、離れた場所に出ちゃうかもしれないから待ち合わせをしておこう。
 そうだな、俺達の出会いの場所に集合しよう」
「了解です!それではまた後で」
そう言って俺達は二人で部屋から出る。その先が別の場所に繋がっていると強く意識すれば、その先が俺達の見知った城の廊下では無くなった。
一旦立ち止まって咲耶が城から離れられた事を感じ取った俺は歩を進める。真っ暗に崩れ落ちながら意識が城の外へと向かっていった。

現世は夢

 俺は新しい夢へと醒める。
非常に不愉快な頭痛と日本特有のじめじめとした夏の匂い、それらが俺の不快指数を加速度的に増加させていった。
時刻は午後の九時。もう太陽は家に帰っているというのに、何処かでじっくり見張っているような蒸し暑さだ。何やら妙な違和感があったが気にしている時間も無い。
汗だくのまま出掛けるのはだらしがないので手早くシャワーを浴びて汗を流し、着替えてから待ち合わせの場所へと向かう。
本当はもう少しゆっくりしていたかったのだが、咲耶も同じ不快感を共有しているわけだしあまり待たせるわけにはいかなかった。
何より、此処でもあの部屋の咲耶と変わらぬ様子だとしたら本当に刺されてもおかしくない……
「あー、しまった」
自転車を駐輪場に止めてあるにも拘わらず、俺は走って目的地に向かってしまった。 中学時代に使っていたもので、一応一人暮らしの際にも持ってきたのだが忘れていた。 気付いた時には既に遅く、引き返す暇も無いので諦めて暗くて狭い道を走り抜けた。
距離的には走って間もなく着くとは言え、着いた頃には汗が垂れそうになっていた。そして俺の到着のすぐ後に小さなハンドバッグを掛けた女の子も到着した。
「せんぱーいぃぃ!!!
 って、もしかして走って来たんですか!?汗かいちゃいますよ、あまり外で無茶しないでくださいね」
そう言うや否や、小さなハンドバッグからこれまた小ぶりのタオルを取り出して俺の額の汗を拭いてくれる。
この優しさは俺も良く知っている咲耶そのもので、途端に緊張の糸が解けた。同時に汗も流れてきたが、それも一緒に咲耶が拭いてくれた。
此処での咲耶の恰好はラフだけど、胸元にとても可愛らしいリボンのついたワンピースを着ていた。
そして、タオルからは咲耶の甘い匂いがして、それだけで何だかくすぐったかった。
「そう言えばあの後、咲耶も家に着いたのか?」
「咲耶”も”って事は先輩もなんですね。はい、私は城暮らしが長かったものですから失念しかけましたけど、帰るべき場所はやはり家ですからねぇ」
咲耶も俺と同じ事を意識したようだ。咲耶程では無いにしろ、俺も城暮らしが長かったので久し振りに家に戻って起きたかったのもある。
時間が無くて余韻にすら浸れなかったのが些か残念ではあったが。
「それで咲耶、さっき城で言ってた試してみたい事って何なんだ?」
待ってましたと言わんばかりに咲耶は笑顔になったが、直ぐにそれを抑えて微笑みへと変える。
「まぁまぁ先輩!私は随分久しぶりに城から出られたんです。
そして此処は何処ですか?はい正解!神社です。つまり私は今、和を感じています。そこに言葉は必要でしょうか?はい正解!不要です」
咲耶の一人クイズには呆気にとられたが、確かに俺達にとって日本人の心である和を感じられない場所は苦痛だ。
「分かった、じゃあ少し歩こうか。そうだなぁ、あの土蜘蛛塚まで」
「はいっ!
 でもその前に折角ですから参拝しに行きませんか?」
一段と元気な声を返してくれた咲耶の願いを承諾し、彼女と共に夜の神社への道を練り歩く。
道を囲うように植えつくされた太くてしっかりとした杉並木は、俺達の祖父母よりもずっと歳上である事をその太い根付きに顕していた。参道を潜り抜け、境内へと向かう。
勿論、営業時間―と言うのは神に失礼だし参拝時間だろうが、そんなものはとっくに過ぎてしまっていたがこの際気にしてはいられない。思えばこんな夜遅くに神社に来るのは初めてだった。普段から来ていた所に、普段通りで無い時間にわざわざ来た事になるが参道一つとっても新たな発見が多い。
この砂利道がいい例だ。普段は足元も木漏れ日もしっかり視界に入ってくるが、夜は暗くてそれが叶わない。
眼に映るのは専ら、杉並木の奥に(そび)え立つ鳥居であった。日中に参拝に来て見ると白っぽい鳥居には若干緑がかっており、周りの木々と同化して見える。
だが今は違う。真っ暗な闇にも燦然(さんぜん)と輝く鳥居は正に神域を隔てる門として相応しかった。作り物の真っ白とも違い、俺は嘆息の息を漏らした。
鳥居と正面に対峙するまで歩を進めると、すぐ左隣を着いてきていた咲耶は俺より一歩先に左へ逸れた。神の通る参道を許された時間外に通った事が、鳥居を前にすると若干の罪悪感となって立ち込めた。だが咲耶は気にも留めていないようなので、俺も咲耶に追従する事にした。
田舎とは言え随分危機管理能力が無いものだ。
柄杓を手に取って正しい手順で禊を済ませて、改めて歩を進める。元々禊は全身を清めたのだが、現代では手さえ清めれば良い事になっている。現代でも全身を清めなければならないとすれば、参拝客は俺と咲耶以外途絶えていただろう。
「あは、先輩っ」
鳥居を潜り、拝殿を目指し境内を歩く道程で咲耶に呼ばれてそちらを見ると、咲耶の手が勿体ぶるように少しずつ俺の手と重ねられた。
夜も遅いし危ないからと言うのを心の中で口実とし、その小さな手を壊れないように優しく握った。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)の伝説よろしく、女性である咲耶から誘わせてしまったから災厄が降りかかるのではないかしらん。臆病な結果にはなったが言い訳をすれば、暗がりで男女二人が仲睦まじくなるのは必定であると言いたい。
俺達にとってこの高天彦(たかまひこ)神社は、由緒正しき天上界である高天原(たかまのはら)から先ず向かわれる場所として縁深い所だ。
とは言え高天彦神社やこの一帯はそんな事も(つゆ)知らずな人々からすれば、周りは田んぼと伸び切った雑草に囲まれている辺境の地にしか見えない。バスはこの時期では日が照っている時間に終バスが来るし、頻度はきっかり一時間に一本だ。
ましてや夜。辺りに電灯なんてあるわけないし昼間でも観光客が少ないのだ。
県内でも有数のマイナースポットとされているし、神社布教系の本にも名を連ねる事は少ない。だから人目を気にしないで済む。
「いつ来ても此処は、凄い」
普段言葉に気を付けている俺も、此処に来るとその威厳に我を忘れてしまう。七代の住処になっているあの神聖な空間と良く似た感覚―此処が人々の住む世界とは隔絶された、神々の世界である事を思い知らされる。
「えぇ、帰ってきたぁ!って気分にさせてくれますね」
その言葉に俺も納得した。常に疎外感に(さいな)まれていた俺や、それ以上の疎外感を感じていたであろう咲耶なら尚更、家や学校といったコミュニティーに自分の居場所は無いのだ。あったとしてもそれは偽りで、どこかでどうにもならない抑圧があって落ち着いて腰を下ろす事すらままならないのだ。
「ははっ、じゃあ俺達の居たあの城は高天原だな。そして高天彦神社に訪れた」
「それ面白いですね!まぁ私達も神染みた事出来ますしねぇ」
そんな本気とも冗談ともつかないような事を語り合い、咲耶と共に拝殿にてお参りをする。賽銭の額は通例に計らってお互い二十五円を賽銭箱に投じた。
諸説あるだろうが、二十五円を超す額は賤しいと捉えられることもあるので俺達はいつも二十五円だ。二重のご縁を俺と咲耶にかけてもいる。
―願わくば、今後も咲耶とこうして居られますように。なむなむ!
夢の中でお祈りをしてどれ程の効果が見込めるのかは分からないが、こういうのは気持ちが大切だ。叶うか否かは、自分の意思が強く関わる。強く生きなければならない。
俺が顔を上げた少し後に、咲耶も願いを終えてゆっくりと顔を上げた。何を願ったのかを聞くのも無粋であるので、鳥居の前で一礼をしてそそくさと退散する。
小さな神社なのであっという間に外へと出てくる事が出来た。境内からの帰り道をそのまま行き、田んぼを横目にしながら当初の目的地へと向かう。
林の立ち並ぶ獣道(けものみち)へと歩を進める。足元が暗いのが若干気にはなるが、多少の事で動揺するような夢見の悪さは無い。
手を繋いだまま土手を登って慣れた足つきで林の中に潜ると、そこにぽっつりと佇む土蜘蛛塚―俺と咲耶が初めて出会った場所が見えた。
「此処に来ると、先輩との馴れ()めを思い出しますね」
「馴れ初めって……でも最初は吃驚したな。
 土蜘蛛塚に俺以外の人が居るだけでも初めての事だったのに、まさかこんな可愛い女の子があんな恰好で先住の人々と交信しているんだから」
あの時は出来る限り平静を装っていたけれど、普通の観光客なら走って逃げた挙句、近隣の警察へ通報されていただろう。
あんな珍妙な出会いがあったが故に、咲耶と今もこうして仲良くしていられるわけではあるが。
「あぁぁぁぁぁ!!!
 また先輩はその話をするぅ!城でも言いましたけど、それは忘れるお約束だったじゃないですかぁ!」
「俺も城で言ったけど、あんな衝撃的な事、そう簡単に忘れられると思うなよ?」
二人で城の時にも言った言葉を言い合うのは滑稽だったが、それも単純に楽しい瞬間だった。抑圧も無ければ気兼ねも無く、ついお互いに笑い合ってしまう程に俺達の距離は縮んでいた。
それも落ち着いた頃合いを見て、先程湧いた疑問を咲耶にぶつけてみる。
「それで、何で此処だったんだ?
 神社に来たいってのは嘘じゃないんだろうけど―」
「まさかそれだけじゃ無いだろう―ですよね?」
時々咲耶にはこうやって俺の言わんとする事を先読みする。
七代に至っては出会ってすぐに思考を見抜かれてしまったが、俺はそんなに顔に出てしまっているのだろうか。
「あぁ、流石だよ。何せ此処は咲耶も知っている通りあまり縁起のいい場所ではないからね。良い話をするのには向いていないだろう?」
「土蜘蛛塚―此処は古代に、そんな土蜘蛛を埋めたとされる場所。
土蜘蛛は妖怪だなんて言われていたりするけれど、実際は朝廷に反旗を翻した土豪(どごう)を代表とする逆賊の蔑称―《べっしょう  》という事は先輩もご存知ですよね?」
俺が日本の神話に興味を持って間もない頃、この地に所縁(ゆかり)のある神社に(まつ)わる神話から紐解いた。随分幼かったので意味はあまり分からなかったが、今となっては当然知っている内容だった。
思うに、地元が神話に深く関わる地で無ければこんなにも興味を抱く事すらなかったとのでは無いだろう。
「それにその土蜘蛛は先住の人々で神武天皇の朝廷達の皇軍に敗れた者達だな。
 此処は高天原の範囲ではあるが、土蜘蛛は葛城の名前の由来にもなっている」
そもそもいつ俺は興味を持ったのだろうか?ランドセルを背負う前から、気付けば父の書斎にあった古代や神道の本を読み漁っていた事は憶えていた。
「流石に先輩は博識でいらっしゃいますねぇ!その通りです。
 土蜘蛛は死して尚も由緒正しき葛城の御名の元となり、その代償と言っては無粋ですけど自らはこんな私達しか来ない辺境の地へ追いやられた」
現在の天皇陛下と当時の神武天皇の様々な違いを感じ取れる点に関しては興味深いし、葛城と言う名は学校にも用いられている為俺にとっても親しみ深い名前である。
ただ俺は、個人的に土蜘蛛と言った蔑称をあまり好意的に受け取っていない。やはりどれだけ古きを温める俺でも、差別について重く考える現代人の血は(ぬぐ)えない。
「つまり此処には差別されたような人々が眠っているんです。
 ねぇ先輩、人間は本当に皆平等なのですか?」
咲耶の口から今迄の本質的な話から、急に普遍的な質問が発せられる。
「どう、なんだろうな」
俺は答えられなかった。答えはみつかっていても、それを自分の口で言う事は自動的に世間の抵抗を止める事になる。
「私はね、平等なんて存在しないと思っているんです。良くある勘違いした子供の戯言ではなくてですね―勿論日本国憲法第十四条くらいは知っています。法の下では平等でも、社会の中では平等では無いんです。
 治外法権なんてものは、夢に行かなくても日本中何処においても存するものなんですよ」
「生まれた時から、人間は不平等って事だな」
咲耶の言いたい事は何となく分かった。
ただ上辺だけの軽い言葉なんかでは無い、知識と、経験、そして夢のような現実の世界で些細な自由を手に入れた事で思い知らされる。何せ俺と咲耶は似ているんだ、だから彼女も俺の知らない環境で必死に抵抗してきた事が分かる。
「先輩もやっぱり分かっているみたいですね。
 ただ運動神経が良い、ただ頭が良い、ただ要領が良い、こんなものはただの適正です。こんなものを比べて平等だの何だのと言うのはちゃんちゃらおかしいですよね、あはは」
咲耶から思わず零れた笑い声は、あの城で父親を見た時のそれにそっくりだった。冷たく、渇いた笑い声は暑苦しい夏の夜をも冷たく冷やす。
千載(せんざい)に渡って問題視され続けてきたのはもっと―さっき先輩に質問したような本質的なものです。
 性や、人種差別。アメリカなんかがその辺り顕著ですよね。勿論晩年に渡ってそれは姿かたちを変えてきましたが、問題の本質は全て孤独と迫害に繋がります」
「確かにその通りかも知れない。だけど、なんで今此処でそんな話をするんだ?」
咲耶との会話は手間がかからない。
遠慮の介在する余地は無いから聞かない事は分かっていると解されるし、逆に聞いた事は純粋に分からない事、真に聞きたい事だと解される。
「蛇足が付いてしまいましたね。
 有体に言いますと土蜘蛛なんかはその迫害の温床だって事です。
  つまりは、私が愚直に考える上で一番不必要とされた存在なんです」
「それで、それと試したい事の間には何の関係があるんだ?」
やっと聞きたかった事が言えて、俺の双肩の荷がどっと下りる。
思った以上に今の咲耶と話をするのは根気が要った。
「此処なら居ると思ったんですよ。試しに殺しても何ら問題無い人が」
「……殺す?」
咲耶の口からあまりに単純で、絶対的な死を表す言葉が発せられた。狐につままれる思いである。
それに加えて日本の、特に古事記の時代の歴史を土足で踏み荒らすような行為を咲耶がすました顔でしようとしていた事に困惑してしまう。
「私、此処が―土蜘蛛塚が大好きなんです。でも残念な事に、此処は迫害の象徴でもあります。私と此処は似た者同士なんですよ。
それが好きにも繋がるんですけど、前に一度言ったかも知れませんが私は先輩以外の似た者に(かま)けていられる程に器用ではありません」
「好きなのに、殺すのか?」
俺は咲耶の言葉に一種の狂気を感じ取った。それは父親に出会った時のものとも違う、もっとはっきりと見えるものだ。
それに此処には人っ子一人居ないのに、一体何を殺すというのだろうか。
「あははは、先輩は私に怯えすぎですよぉ!そんなんじゃありません。
 此処に来ると見えるんです、聞こえるんです、土蜘蛛たちの品の無い(うめ)き声が。土蜘蛛塚は残すべきだし大好きです!でもこの声は神聖な高天彦神社を冒涜している、だから殺します。そして私はある一つの仮説を証明します」
「その両方が、咲耶の試したい事か」
それにしても、俺だって参拝の折には頻繁に此処―土蜘蛛塚に訪れていた。にも拘わらず、そんな声が聞こえるなんて知りもしなかった。
俺の耳が悪いのか、咲耶には何か見聞きしてはならないものが見聞きできるのか。或いはただの妄言か。そのどれかは俺には推し量れない。
「あの城での件に戻りますが、私の父についてです。
 あの人は既に死者となってしまいましたから二度と会えない筈でした。が、開かずの部屋に籠っていたとは言え、夢の中でなら会えた。
じゃあ外に居る筈の人を夢で殺したらどうなるのかと言う事ですよっ」
もう既に俺には咲耶の言っていることの意味が分からなかった。
ひんやりとした息苦しい汗が背中から伝ってくる。
「夢とは記憶の整理、つまり夢の中のものは思い出なんです。勿論此処に居る私と先輩は違います!
 私にとって先輩はかけがえが無くて……えっとですね、それで私が思う一番それが強く印象に思い出として残る行為は殺す事なんです。
だから土蜘蛛達を殺してみます。そうするとあら不思議ぃ!私の記憶に思い出として根付いた土蜘蛛達が、意識しなくとも夢の世界の登場人物になる!って算段です」
「それは、とんだ眉唾(まゆつば)物だな」
「えぇ、でも一見の価値あり!そう思いませんか?」
思わない訳じゃ無かった。
俺だって聖人君子は愚か、できた人間ですら無い。孤独は人を歪ませるのだ。
こうなった事にも理由があるとは言え、神のような力があるというのに倫理や道徳観なんて俗世のもので抑え込む事なんてできやしない。
人間なら箱が在ったら開ける、本が在ったら読むし、力が在ったら使うものだ。外の人がそれを行使しない時は、より強い制裁を行使されるからである。
「そう言えば、こんな感じで夢の中で大規模な事をするのは初めてだな」
俺は咲耶にも聞こえないほど小さな声でぽつりと呟いた。
何者にも縛られない夢の中で自由に振舞えるのにも抱わらずした事は紅茶飲んだり雑談したりと、随分小心者である。
思春期染みた桃色の妄想を叶えようともしていなかった。
「ほぉら。先輩も乗り気になってきましたよね?
 と言う訳で、此処に一本の神器が御座います」
丁寧な物言いで咲耶が小さなハンドバッグから取り出したのは、咲耶が家庭で使っているのではないかというような少しだけ小ぶりな包丁だった。ご丁寧なことで(さや)に納められている。
「この包丁は自分で取り出したんじゃなくて持ってきたのか?」
「はい、こんな銃刀法に抵触する物を持ち歩く恥ずかしい趣味はありませんよ。
 なので家にある物を適当に拝借してきました」
咲耶は慣れない手つきで鞘から包丁を引き抜く。
気の所為だろうか、少し赤黒いものが付着していたように見えたが暗いので確認する術も無い。
「あっ、あと先輩?折角私が神器って言ったのに包丁だなんて酷いですよぉ!
 そうですねぇ……草那芸之大刀(くさなぎのたち)か草薙剣か、()しくは天叢雲剣とでも呼んでください!」
 神話を知らなくても耳にする名称ではないかしらん。
天孫(てんそん)降臨の折に天照大御神が邇邇芸命(ににぎのみこと)に授けた鏡、勾玉、剣の中の剣だ。
三種の神器なんて呼ばれていて、だから咲耶は神器なんて呼称をした。
社会で習う家電の三種の神器もこれを基に名付けたのだろう。
「全部同じじゃないか……じゃあ、草那芸之大刀で」
 それら三つの呼び名は全て同じものを指す別称だ。古事記や日本書紀等で記述が違うってだけの同一物である。
現在は熱田神宮っていう高天彦とは比べ物にならないくらい大規模な神社の御神体になっている。いつか咲耶を連れて拝みに行きたいものだ。
「あっ!流石です、古事記の記述は草那芸之大刀ですもんねぇ!それとも先輩が那岐だからですか?
 那の字が同じですもんねっ、あぁ羨ましい!」
煽られているのかも知れないが、咲耶に言われるとまったくそんな風には聞こえなかった。
それよりも普段から先輩って呼ばれているから、名前を忘れられていなかった事に安心する。
「古事記だからだよ。折角神社に居るんだしな」
「それもそうですねっ。また話が逸れちゃいましたよぉ!」
一旦包丁―じゃなくて草那芸之大刀を鞘に戻し、パンッ!っと咲耶が一度手を叩いて仕切りなおす。
「おっほん!と言う訳で、この由緒正しき草那芸之大刀で土蜘蛛を試し切りしたいと思います!
 いいですよね?那岐先輩っ!」
普段とは違う呼ばれ方にドキッとしながらも、俺は首を縦に振った。
外では酷く現実的な俺達でも、此処では理性を遥かに超える好奇心を持ってしまう。後先の事を考えないで済むとなれば、人はそれこそ何でも出来てしまうのだ。
「―咲耶?」
突如―塚の入り口の方から俺のものとも咲耶のものともつかない声が聞こえた。
暗くてはっきりとは見えないが、声音からして大人の女性だ。
俺の両親より少し歳下だろうか。身長が低いからかどことなく咲耶に似ている。
「咲耶の知り合いか?」
こんな夜中に絶妙なタイミングで声をかけられたから吃驚したが、確かにあの人は咲耶の名前を呼んだ。
これ迄の話を聞かれてはいなかっただろうか。
「貴方!こんな遅くに咲耶を人気の無い場所まで連れてきて何をするつもりだったんですか!」
咲耶が反応する前に勢いよく声を荒げられる。確かに、この状況では誰から見ても俺が咲耶を誘拐したか襲おうとしている風にしか見えないか。
「私は那岐先輩とお話していただけですし、別に那岐先輩となら何かあっても問題ないですからねぇ」
決して気負いする事も無く咲耶は大仰に肩をすくめながらそう言った。ちょっとドキッとしたが、まぁ咲耶の感覚からしたら此処での事は一夜の夢程度に思ってしまっているのかも知れない。
現に俺がそうなのだから。
「咲耶!貴女もなんて事を言っているの。  帰るわよ!この件は警察に連絡させて頂きます」
そう言って突如現れた女性は咲耶の手を取って引き返そうとする。
ただ俺も咲耶と手を繋いでいたから、反対から引っ張られて思わずよろけた。
引っ張り返しても良いのだが、それだと咲耶が痛いからそれは出来ない。
女性は切羽詰まっていてその事に気付いていない。
「先輩っ……ん!はぁ、はぁ、那岐先輩!この人、土蜘蛛ですよ!そうに違いありません」
確かに此処は気まぐれだが丁度土蜘蛛を求めていたのは確かなのだ。
ただ一つ気になる事がある。
「でも咲耶、この人土蜘蛛にしてはやけに現代的じゃないか?」
土蜘蛛どころか古代の人は書物でしか見た事は無いが、少なくとも目の前に居るこの人は現代人と大差ない。
もし昔の人が洋服を着ていたら拍子抜けである。
「いい加減にしてください!
 大体何ですか土蜘蛛って。私は咲耶の母―
「やっぱり土蜘蛛ですね。訳の分からない事に惑わされる前にさっさと試しちゃいましょうか」
最後まで言う前に咲耶がそれに被せる。もし仮に此処で通報されたらどうなるだろうかと、いたく現実的な事が頭をよぎった。
未成年という事を差し置いても俺や咲耶の弁明に聞く耳を持たないだろう。そうすれば折角手にした抑圧の無い世界をまた俺達は失う事になる。それだけは許されなかった。
この土蜘蛛は黙らせないといけない。
「あははは、またこの快感を味わえるなんて(たま)りません。あはは」
聞こえないくらいの声で咲耶が何か言った後、渇いた笑いが続く。
そしてさっきとは打って変わって素早く包丁―草那芸之大刀を鞘から引き抜いた。その横顔には微笑みが見て取れた。
「さ、咲耶?何それ……き、」
「き?」
「きゃゃゃゃぁぁぁぁ!!!」
恐怖に怯える土蜘蛛とそれを楽しむ咲耶―既に此処は絶対的な死が蔓延(はびこ)る空間と化していた。
「あはははははは、あはは?どうしましたぁ?逃げちゃったら試せないんだけどなぁ」
「すいません、土蜘蛛の貴女に何の恨みも無いんですけど」
常識からすれば俺達のしている事は猟奇的殺人にでも見えているのかしらん。
だが今この瞬間ではその行為がしても良い事で、モラルも法律も関係無い治外法権なのだ。
何か考えがあるらしい咲耶はこんなにも生き生きしている。俺にとってはそれが今この世界での全てだ。
「ひ、ひぃぃぃぃぃ」
逃げ惑う土蜘蛛に咲耶はうんざりしてしまっていた。口に草那芸之大刀を(くわ)え、地面を思い切り蹴って土蜘蛛を押し倒す。
二人とも身体が小さいから遠目に見ると夜に野良猫がじゃれ合っているようにしか見えないが、その中では恐怖と悦楽が同居している。
「はいっ、もう鬼ごっこは終わりですよ。私としてもあまり高天彦神社や土蜘蛛塚を荒らしたくないんですよねぇ。
 此処は神の住処ですし、それに那岐先輩との出会いの場所ですから」
そう言い終えると咲耶は草那芸之大刀の刃先を土蜘蛛の首筋に突きつける。
「止めなさい咲耶!貴女はそんな子じゃ無かった!
 やっぱり神社なんかに来るのがいけないのよ、そうだわ。」
諦めの境地か将又(はたまた)最後の抵抗か、土蜘蛛は恐怖をかなぐり捨て発狂するかのように叫んだ。
「今からでも遅くない、神社だの神話だのって趣味を捨てなさい、そして私と……お母さんと―」
辺り一面が赤く染まり刹那―更に黒々とした世界とヘモグロビンに含まれた鉄の匂いが鼻腔を激しく襲う。
土蜘蛛の首から吹き出る赤黒としたそれが更に吹き出し―咲耶が追い討ちでもかけたのだろう、消化器官を切り裂いた事により腐臭も周りに立ち込めた。
「そうやって簡単に綺麗事を言っちゃって。言う方は楽だよ?
 私の事なんか考えもしないでただ自分だけの正義を振りかざす。それが正しい事だって思っている事が本当に質が悪い。
此処や、此処をきっかけにして得た知識と那岐先輩―それが私の全てなの。そんな事も知らずに自分の言いたい事ばかり言って一人で悦ん《よろこ    》じゃって、そんなに気持ちよかったの?あはは、止まらないねぇ」
官能的な表現を使いながら、咲耶は何度も何度も自らの正義を力に変えて振るう。
そのたびにドロッとした鉄の液が漏れだして止まらない。
「貴女の世界には―自分しか居ないのね。貴女の眼に映っていた私は貴女の作り出した虚像だよ」
そう吐き捨てると、またあの渇いた笑いを始めた。
「……咲耶、大丈夫か?」
俺は言葉が見つからなくて、ついつい当り障りのない事を口にした。
不安と、寂しさから漏れた言葉にも拘わらず、咲耶はそれを聞いて渇いた笑い声を止めて優しい笑顔に戻った。
「心配してくれて嬉しいですっ!
 ちょっと汚れちゃったんで、お風呂かシャワーにしたい気分ですね」
咲耶はそう言うとそのまま俺に身体を寄せてくる。
身体や衣服にこびり付いた特に濃い鉄の匂いがしたが、それが咲耶のものだと分かれば全く苦じゃなくなった。


「はぁぁぁ」
事を終えた俺達が戻って来られた時には時計の針は既に()の刻を過ぎ、(うし)の刻へと針を進めていた。咲耶が気怠そうな声を漏らしている。
「疲れましたねぇ……」
「あぁ、久し振りにこんなに疲れたような気がする……」
此処では多少の事では疲労なんて微塵も感じない、筈だったが頗る疲れた。外だったら死んでいるのではないだろうか。
咲耶も、例の包丁は自分では生み出せなくて家から持ってきたと言っていた。
少なくともあの城の中では紅茶やお菓子をいくらでも出せたのに、此処では何も出せない。あの城から出た時のように意識しても、移動すら出来ないから徒歩だし、夏の蒸し暑さもある。
この感覚はすごく久しい気がして、すごく不快だ。
「これは早くシャワー浴びないと立ち上がれなくなるな。咲耶、先にシャワー浴びてきてくれ」
帰りには体力が限界で二人共俺の部屋に来たのだ。
こんな遅い時間に女の子を一人で帰す程薄情では無いし、刃物まであるのだ。且つ血塗れである。
言い訳染みているが、住宅街からも多少離れている俺の部屋に来てもらったのは妥当な判断だろう。
「えぇぇぇぇぇ」
同意のえぇでは無い気怠そうな声が室内に響く。
こうダラダラしていると良からぬ事になってしまわないかと考えてしまう。幾ら中身が老いぼれても肉体の若さ故のものは抑制できない。
「風呂だと時間かかるだろ?風呂が良いなら俺がシャワー浴びている間に沸かしておくけど―」
「違いますぅ!
 ほら、私も先輩も今なかなかホラーな見た目ですよ?」
返り血を受けた咲耶は勿論、その咲耶をそのまま抱きしめた俺も同じような事になっている。
匂いがある分、派手なホラーゲームにもグロテスクな画だ。
「だぁかぁらぁ、一緒に浴びましょ。お風呂も沸かしながら!ぱぁーっと」
「そ、それはダメ」
願ったり叶ったりな提案だが、余りにも強引な事を言うせいでつい反射的に断ってしまう。
「何で?私とは裸の付き合いNGなんですか?」
「私とはってなんだよ、ダメダメ」
「分かった!私の身体が乏しいからでしょう?
 それは確かに自信ないですけど……損するって事でも無いでしょう?良いじゃないですか」
「違う!咲耶の身体……それなんだよ!」
俺は古臭いスケベ親父染みた誘い文句を垂れる咲耶に、耳まで真っ赤にしてそれだけは言い切った。
「それ?」
「深夜に二人で一つ屋根の下ってだけで大変なのに、そんな事したら抑えられないっての」
溜息が語尾に混ざった。
俺はその手の事に関してはごく一般的な倫理観を持っている。勿論経験も無ければ、強引に欲に任せるような度胸も無い。
「ふぅん、確かに大変ですねぇ」
咲耶は明らかに俺の一部分を見ていた。
そこを凝視してから上目遣いで俺を見るのは反則だろう。その所為で余計に俺の一部分は暴れていた。
「あっ、そうだ。あはは、先輩はとっとと入っちゃって下さい。
 正直身体も(だる)いですし後先の事は置いといて綺麗にしちゃいましょ」
咲耶はスカートの裾を上品に持ち上げてそう言った。
気になる表現ではあったがそれを気にしていられる程、俺の体力にも精神力にも余裕は無かった。
「じゃあお言葉に甘えて先にシャワー行くから、適当にくつろいでいて。血とかは気にしないし座ってていいぞ」
「はい。行ってらっしゃい!」
疲労の色は見えたが咲耶が笑顔だったので安心する。
部屋は広くないから服を脱ぐのも風呂で済ませよう。こんな事今迄考えなくてよかったから変に緊張する。
「冷たっ……」
シャワーの水が温まるのを待つのも億劫で、風呂場に入るや否やシャワーの水を身体にかける。咲耶を待たせるのも悪いし、()むを得まい。
それに、慣れれば嫌な汗をかいた身体にはこの冷たさも気持ち良かった。咲耶は俺以上に気持ち悪いだろうし、早く出てこの気持ち良いシャワーを早く浴びさせてやりたい。
「失礼しまぁす」
「え?」
ふいに声をかけられるものだからつい後方を振り向いた。
俺の眼前には久し振りになった部屋の風呂場の窓が見える筈なのだが、それは叶わない。代わりに眼前に入り込んだのは、ここ最近毎日のように顔を合わせている咲耶の綺麗な白い肌だった。
「ご、ごめん!声かけられたからつい」
俺が入った訳でも無いが見てはいけないものを見てしまったので、その僅かに残った理性で謝った。
これだけ見れば俺は被害者かも知れないが明らかに役得だし、もしかしたら俺の無意識の欲望が淫夢と化してしまったのかも知れない。
そうしたら俺は加害者だ。幾ら謝っても許されるものではないし、遂に刺されるかしらん。
「何で那岐先輩が謝っているんですか?私がいきなり入ってきちゃったんですし気にしないで下さい」
「確かにそうなんだけど……って、うわっ!?」
「あはは、那岐先輩暖かいです」
あろう事か咲耶は俺に突撃してきた。
結果としては俺の背中に咲耶が抱きつく形になり、全身のありとあらゆる部分が硬直して動けなくない。
暫くの間、シャワーヘッドから出る心地の良い(ぬる)めのお湯の音だけが浴室内に響き渡った。
「咲耶」
「先輩、私疲れたんです。だからもう少しこのままで」
先輩呼びでそう言うと、咲耶は力を抜いて俺の背中に全体重を乗せて寄りかかる。華奢な咲耶が重いとは微塵も思わなかったが、それでもしっかりとした重みがあって命の重みを実感する。
本人も気にしている胸は薄いかも知れないが、綺麗な女の子らしい四肢にはその魅力が溢れている。
お互いの事は結構分かり合っているつもりだったが、俺は咲耶についてまだこんなに知らない一面があったのだ。
「ん、那岐先輩の心臓すごくバクバクぅって叫んでいますね。
 私の貧相な身体でも、男の人ってそんなになっちゃうものなんですか?」
「咲耶だから、こんなになるんだよ……」
俺の事はすっかり咲耶にはお見通しだったらしい。言葉の力とは恐ろしいもので、それを言うとより一層俺の心臓の鼓動は強まり、歯止めが利かなくなってきた。
「嬉しい事言ってくれますねぇ!
 優しい嘘でもないですよね。だって先輩、嘘なんかつける程の余裕無いでしょうし」
咲耶はもたれかかってから空いている両の手で俺の身体を這うように触ってくる。
それだけでまた俺は動けなくなり、細くて小さな咲耶の手の行く末を、ただ目で追っていた。
「あは、那岐先輩。続きは後でにしないと風邪!ひいちゃいますよ?」
「あぁ、それもそうだな」
安心した気持ちと少し、否、かなり残念な気持ちになりながらも紛らわす様にシャワーを浴びる。
「続きは拒否しないんですね、あはは」
咲耶はそう言いながらも俺に負けないくらい顔を真っ赤にしていた。
俺以上に孤独を感じていた咲耶は当然そんな経験は愚か、話題に挙げる事も無かっただろう。俺よりも殊更に恥ずかしいに違い無いのだ。
それ以降は出来るだけ咲耶の身体を見ないように、素早く互いに汗のかいた身体を洗い湯を張らせた風呂に入る。少なめに見えた湯船も、二人で入ればアルキメデスの法則でかさが増して丁度いい量になった。
先程迄の会話が嘘であるかのように、二人共々恥ずかしがってそれきり会話は途切れたが居心地が悪かった訳では無いのは自明である。
「ふぅ、いいお湯でしたねぇ」
着替えを終えて安心した咲耶が呑気にそんな事を言う。
着替えとは言え服なんて勿論持って来てはいかった。服くらいなら出せるのではないかと、一応試してみたがやっぱり駄目だった。
その顛末(てんまつ)を見た咲耶には呆れられる始末である。此処はメルヘン要素禁止区域か何かなのだろうか。偶に酷く現実的な夢があるがきっと今がその瞬間だ。
そういう事で、已むを得ず出来るだけ小さくて色々と目立たなそうなシャツとジャージを貸した。
ナンセンスな組み合わせにしてでもサイズを優先したのに、それでもぶかぶかだ。しかも余計に背徳感を感じる。
「あぁ、寿命が半年は縮んだ」
「役得だった癖にぃ!なんて。
 確かに半年分くらいは心臓鳴ってましたもんねぇ」
ほんのりと上気した俺と咲耶からは同じ匂いがして、頬はぽっかりと火照っている。
外はまだ暫くは真っ暗だろう。時計の針は丑三つ時を指している。
「咲耶はさっき疲れたって言ってたし、もう眠いか?」
それが帰って来た時の事か、将又(はたまた)風呂場での事を指すのかは敢えて口にしない。
「もう大丈夫ですよ。
 私、お風呂浸かったら気持ち良くて元気になりました!比較するなら旧咲耶の百倍です!」
咲耶が何処かの動くパンの話をするから思わず吹き出した。咲耶となら本当に何の話をしていても、面白くて気が楽になる。
「じゃあ……」
「……はい」
もうお互いに余計な言葉は要らなかった。そうして長い時間をかけて、ぎこちないながらも俺は今迄に誰も知らない咲耶を知る事が出来、咲耶は今迄に誰も知らない俺を知る事が出来たのだから。
そうして卯の刻近くに俺達は力尽きてそのまま眠ってしまうのであった。

彼女も戻れない


 「―――さい」
声が聞こえる、懐かしい声。
「――なさい」
懐かしい声なのに、聞き覚えの無い声音(こわね)だ。
「―きなさい」
俺にはこんな冷徹な声音の知り合いが居ただろうか。
居たとしても、ずいぶん昔の事だろう。
「おきなさい」
ああそうだ咲耶だ。昨日あのまま寝てしまったから少し気まずいなぁ。
俺の寝相が悪かったのかな、そうだとしたら早く謝らないと。
「おはよう、咲耶……」
寝惚けていたから、普段より幾分か鈍い声になってしまった。乾いた喉が気になる。俺はいつも眠ると口が開いてしまうのだ。
身体を起こそうにも重たくて起き上がれない。
「――っ」
咲耶が大きく息を吸い込む音が聞こえた。叩き起こされるのかしらん。
そもそも眠るのも久し振りだった。そう言えば夢は見ていないし、それ程にぐっすり眠ったのか。否、此処が夢なのだから夢中夢なぞ見るわけもなかろう。
此処には未だ昨夜の不快な感じが残っているし湿気でじめじめする。いつになったら戻れるのだろうか。お腹も空いてきた。
「いいから起きなさい!」
咲耶の鬼気迫るものを感じる声を聞いて、反射的に飛び起きる。重たかった身体が一瞬にして軽くなったので、危うく転げ落ちそうになった。
怒声の後で重苦しい空気の所為もあって、その後の俺は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。
「おはよう」
「おは……あれ?」
声の主は咲耶では無かった。咲耶よりも背が高く、尚且つ俺の見知った顔がベッドのすぐそばから顔を出している。
「紬?」
「えぇ」
俺の記憶にある明るくて屈託のない笑顔を浮かべている彼女とは異なっていたが、忘れる筈も無く紬本人だった。
どちらかと言えば、例えばクラスメイトと接する時の距離を取った紬に見える。少なくとも俺は、こんな表情で紬に見られた事は無かった。
「それで、これはどういう事?昔のよしみで弁明くらいはさせてあげるよ」
その声の冷たさに俺は面食らってしまったが、成る程。
今の”俺達”はかなり不味い状況だった。さっき起き上がれなかった理由は疲労もあったが咲耶が俺に抱きついていたからで、紬に起きなさいと言われて軽くなったのは彼女が咲耶を退かしたからか。
「那岐はいつ裸族になったの?」
嗚呼、紬は少しずつ俺を追い詰めてくるようだ。咲耶と俺は服を着直す間も無く寝てしまったし、俺が裸族でない事くらい勿論紬は知っている。
咲耶とこうして居る事で全てバレてしまっているし、それは誤解でも何でも無いのだから弁明の余地は無い。
「弁明する事は何もございません」
そそくさと、(めく)れかけていた布団で身をくるみながら言った。
詰まる所、俺には正直且つ丁寧に謝る他にやれる事は一つとして無かった。
脳が完全に起きてくれた事が不幸中の幸いだろうか。寝惚けたまま紬を咲耶と勘違いしたなら、いい加減な言い訳をしていたかも知れない。最悪そのまま押し倒そうとしていたかも知れない。
どちらにせよ俺には刺される未来しか見えなかった。そしてそれはあながち間違っていない。
「そう。一応聞いておくけど那岐とその子は、木花さんだっけ。付き合ってたの?」
「え、どうなんだろう」
咲耶とここまでしておいて何をそんな事をと思ったが、咲耶と俺はそう言う話をした訳では無い。
咲耶がどう思っているかはともかく、俺にとっては大切な人なのは確かだ。でもそれは恋とか愛といった浮いたものでは無く、もっとしっかり根を張った仲間や、家族のような意識ではないか。
「……貴女、何で此処に居るんですか?」
先程迄、隣で寝ていた咲耶が女声にしてはどすの効いた声で以て紬に問いかける。
寝惚けた様子も無いので、恐らく紬に退かされた時には既に目を覚ましていたのであろう。知らぬ間に布団にも包まっている。
咲耶は紬に負けないくらいの冷たい声を発したが対峙するのは仮にも所謂”出来る”先輩だ。
幾ら威勢が良くても心細いのか、咲耶は俺の腕にぎゅっと絡みついた。
「何でって、それはあたしが聞きたいんだけど。部外者はあんただ」
紬が良く部屋に来ていた事も、俺達が幼馴染の事も咲耶は良く知っている。
だがそうでは無い。少なくとも此処の住人は俺達の知る中では俺と咲耶、七代に、カウントすべきか迷うが咲耶の父親、それと咲耶の事を知っていた土蜘蛛だけだ。
それに此処では服は愚か、出し慣れた紅茶やお菓子を出す事も出来なかったのだ。
俺の知らない夢の世界が、此処には詰まっている。
「咲耶、やっぱり此処はなんか変だぞ」
あの城でも紬や俺達の知っている人を呼び出せないか試みた事はある。だがその際俺は七代に、
―「此処に来れるかどうかは一種の才能のようなものなのよ。
  夢を選んだならともかく、少なくとも今の那岐にはその紬さんを呼び寄せる事は無理ね」
と、あっさり言われてしまっている。
起きる筈の事が起きず、起きない筈の事が起きる此処は皮肉な事に夢のようだ。
夢が常識となった俺達が夢と感じるという事は、此処は一体何なのだろうか。夢を相手にどれだけ真剣に思考を張り巡らせても、暖簾に腕押しだった。
「適当な事言って誤魔化すなよ。どういう事か説明する迄、あたしは帰らない」
「どういう事も何も」
弁明する事は無いとさっきも言ったし、実際紬に言う事なんて何一つ無かった。
服は着ていないが昨日の事もあってなのか今日も非常に不愉快な頭痛が止まらないし、嫌な汗もかいたからシャワーを浴びたくてたまらない。
「見た通りですよ?話す事は何もありませんし……あぁ!強いて言うなら、もう那岐先輩に付きまとわないで結構です」
「那岐にとってはもう貴女が居るからあたしは不要だと?」
「少し違います。迷惑って事です。これ以上那岐先輩を困惑させないで下さい」
二人が俺について争っている事も煩わしくなっていく。
此処が暑すぎるのがいけないのだ。早くあの城に戻って土蜘蛛を確認したいし、七代や咲耶とお茶を頂きながら今後の事を考えたかった。喉の渇きと空腹とが俺の焦燥感をより一層助長させる。冷蔵庫に何か入っていないだろうか、せめてそれだけでも確認したかった。
「紬、悪いけど帰ってくれないか?
 俺はここ数週間紬の事忘れていたし、昨日は色々あって疲れたんだ。早く戻って確認したい事も―」
「何を言ってるのか分からない。今朝あんなメール送っておいて何?
 あたしの事を裏切るなんて、そんなに木花さんがいいの?こんだけ人の心弄んどいて、聞くくらい良いじゃないか!」
「今朝?メール?」
紬は一体何を言っているのだろうか。俺はここ数週間城で過ごしている際にメールは愚か携帯すら触っていないし取り出してもいない。
今迄の冷たい汗を上書くように嫌な汗が滝のように流れ出す。
「那岐の事、絶対に許さないから。許さない」
紬の声音に鬼気迫るものを感じる。嘘を言っているようには見えなかったが、それでも信じられやしない。
そんな俺の表情を見て取ったのか、紬が自分の鞄から乱暴に携帯を取り出す。更に乱暴に操作して俺に見せてきたのは、受信されたメールの画面だった。
「―」
俺は開いた口が塞がらず声も出ず、意識は完全にその画面に張り付けられた。夢でも見ているのではないかしらんと、皮肉な感想が脳をよぎる。
―「ごめん!今日は部屋行けないー……」
紬から俺宛のメール。この文面は未だ記憶に残っている。
―「そっか、残念……なら一緒に登校しないか?」
このメールもだ。それにこのメールは紬の携帯で見た憶えがあったし、日付も間違い無い。
あの城では時間を意識しなくていいから間も無く時間の感覚は消え失せた。だから多少の誤差はあると思うが、間違いなく数週間は城内で過ごした。
それにこれは過去の記憶の筈である。まさか此処は過去だとでもいうのだろうか。
「流石にこれは憶えがあるんだね?今朝那岐があたしに送ってくれたメールだよ。あたしこのメール送った時凄い落ち込んでた。
夏休みになれば学校に行くって口実が無くなるからさ、余計に那岐の部屋に行けなくなる。
だけど那岐はそんなあたしの事もちゃんと考えてくれてたんだなって!必要としてくれてたんだなって、信じてたのに!こんな裏切り方って、無いよ……」
未だ見ぬヒステリックな紬は咲耶のものともまた異なった重たい狂気を放ちながら、ブツブツと何か言って自分の世界に閉じこもってしまった。声をかける事すら許さない、有無を言わせぬ凄みがある。
だが俺はそんな事気にしていられない。時間が巻き戻っている事に対する不安と恐怖が収まらなかった。
事の顛末を知らない咲耶にも、(たま)らずにそのメールを見せる。咲耶にも事の重大さが伝わったようで、より一層表情が深刻なものへと変貌した。
「那岐先輩?まさか私達、此処から出られないなんて事には、なりませんよねぇ?」
「何を言ってるんだ?」
必死の形相の紬は無視して咲耶は努めて自然だった。
と思ったが、多少は気にしているのか声は小さい。
「無難というのも変ですが、例えば別の時間軸に迷い込んだと言うのはどうですかね?多分、私達は自分の時間軸に戻れなくなるんですけど……」
自然を装っている割に言っている事が滅茶苦茶で言動がまるで一致していなかった。SFの世界に迷い込んでしまったようなものだし無理も無い。
咲耶が言いたいのは多次元解釈―所謂タイムパラドックスだろうか。この次元の夢に迷い込んだ俺達には普通の夢しか体験できないのかも知れない。そうすればこの夢がいたく現実的な事にも納得がいく。
それにしても、SFなんてぶっ飛んでいる考えを良く現状に当て()められるものだ。咲耶の聡さには感服せざるを得ない。
「此処の時間軸の俺達も存在して、その俺達と元の時間軸の俺達が入れ替わったも知れないと」
「まぁ入れ替わったかどうかは分かりませんが。仮に私達の世界、私達をそれぞれAとa。この世界とその私達をそれぞれBとbとします。
普段ならAaとBbの区分になっているのに、今は少なくともBaになっているのは間違いなさそうです」
突飛な考えだが、俺は間違っているとは思わなかった。過去に迷い込むよりは幾分かまともですらある。
それに辻褄さえ合えば真偽はどっちでもいい。戻れるかどうか、それが問題だ。
「なら仮に―」
「何をコソコソ……」
自分達の話に夢中になっていた所為で、眼前にもう一人潜む悪魔の事を忘れてしまっていた。
「……相談してるんだ!」
「―っ」
紬が言い切った刹那―鋭い銀の刃が俺と咲耶の間に飛び込んできたが空を切る。
あと数センチズレていたら、どうなっていただろうかを考えただけでもぞっとする。投げられた刃はベッドに隣接した壁に着地し、それが包丁である事を、壁に突き刺さったままのその切れ味をもって俺達二人に認識させた。
「那岐は弱いんだ。親にも見捨てられて、誰も那岐には近付かないし近付けない。だからあたしが一生傍に居てあげる。
 だから邪魔者は―」
紬は台所から包丁を取り出す。いつも俺に朝ご飯を作る際に使っていた包丁だ。
「排除しないとね」
「やめろ紬!落ち着け」
「えへへ、これ以上何を落ち着けって言うの?
 那岐と木花さんの弁明は聞いた。寝ている間に排除しても良かったのにグッとこらえたんだよ?褒めてくれるよね?あたし那岐に褒められた事って料理くらいしか無いから褒めて欲しくてさー」
十余年の付き合いでも見た事の無いような下賤な笑みを浮かべて俺達の元へ近付いてくる。
ゆっくり一歩ずつ歩いても所詮俺の部屋は狭いから、ものの数歩で手の届く距離に達してしまう。
咲耶が堪らず布団の中に隠れてしまったから俺はその咲耶をかばうように構える。震えで余計な不安を与えないように血が出る程に唇を噛み締めたが、心臓の鼓動は早鐘のように激しく打ち鳴らされる。
「事が済んだらあたしの頭撫でてねー!
 それからご飯食べてー、学校なんか休んじゃってー、木花さんと同じことしてあげるよ。
  えへへ、那岐はそんな貧相な身体で満足できないでしょ?早く上書きしてあげるからね」
「紬っ」
勢いよく振り上げられた包丁が俺の隣、咲耶の元へ下ろされた。掛け布団が豪快に貫かれ、身体が大きく前へ傾く程に包丁を突き刺し()じ込む紬―俺が擦れて消え入りそうな声を出せたのはそれから何秒も後になってからだった。
「えへへへ。ってあれ?木花さん子供っぽい身体だから刺した感覚も殆ど無いんだー、こんな安っぽい命が那岐を誑か《たぶら    》していたなんて……
 もうただの蛋白質(たんぱくしつ)の塊の癖にね!ねぇ?えへへ」
そのまま何度も何度も包丁を振り下ろし続けた。俺はそれを確認する事も逃げる事も出来ず、勿論止められもせずにただ茫然としていた。
咲耶が死んだらあの父親と同じ所に行くのだろうか。戻れるならどれだけ良い事か。
もう二度と会えないかも知れない、そう考えると俺の眼からは壊れた蛇口のようにポタポタと涙が垂れてくる。それだけ咲耶は俺にとって大切な存在になっていた。
「あはは!那岐先輩って、思っていたよりも随分ナイーブなんですねぇ」
「咲耶!?」
幻聴か、それとももう幽霊にでもなったのか。いつもの明朗快活な咲耶の声が聞こえてきた。
「なんで!どうして!?」
紬が動揺している事から少なくとも幻聴では無い事に気付き我に返る。気付いた頃にはもう咲耶はベッドにはおらず、紬の隣へと移動していた。
未だ信じられないと言った顔の紬は、口をパクパクさせながら咲耶と刺し過ぎて羽毛が舞い上がっているベッドを交互に見遣っている。
「私が華奢とは言え、ベッドに居ない事にも気付かなかったんですか?
 我を忘れてしまった貴女には、お仕置きが必要ですかねぇ」
華奢な身体を利用した咲耶の作戦が紬を欺くのは、再三咲耶の身体について馬鹿にした紬にとって、何とも皮肉な結末だ。
「五月蝿い……死ね!」
羽毛塗れのベッドから素早く引き抜いた包丁をそのまま横に()ぐ。
だが怒りで我を忘れ、続けざまに包丁を振り下ろし続けて疲れていたのだろう。紬の一振りはいとも簡単に咲耶に受け止められてしまう。
どこで覚えたのか手首を押さえつけて紬から包丁を取り上げた。
「さっき貴方が言っていた事を私風にアレンジして返します。
 こんな下品な身体付きの雌豚が那岐先輩を誑か《たぶら    》していたなんて……もうただの蛋白質(たんぱくしつ)の塊の癖にねぇ!あははははっ」
そのまま取り上げた包丁を何の抵抗も無く紬の心臓に抱きつくように突き刺した。
女同士とは言え一回り以上の体格差は力不足が否めないが、それを補うように体重を預けて倒れこんだ。昨日の土蜘蛛のものと比べれば濁りの少ない、生々しい色の血が吹き出てくる。
「あーあ、二日連続でこの仕打ちは無いですよぉ。身体中また血でドロドロです。この匂いは好きですけどぉ」
そう言うと咲耶は顔にかかった血を人差し指ですくって美味しそうに舐める。
鉄の匂いや味が俺にはどうも受け付けないが中毒になる人とも言うし、咲耶はその部類だろう。
その姿は淫靡で、一糸纏(いっしまと)わぬ咲耶の身体にべっとりついた血も(さま)になっていた。人が死んでいる事も吐き気を催す血の匂いも忘れて、俺はその姿に見惚れていた。
「咲耶」
「わわっ!これまた二日連続で、乱暴ですねぇ先輩は。普段はもっと紳士的なのに……おぉよしよし」
「大丈夫だったか?」
「えぇ、これも那岐先輩が居てくれたお陰です」
咲耶にとっては痛いくらいに抱きしめているのに、構わず手を伸ばして頭を撫でてくれた。
その時にはもう紬が死んだ事なんて気にならなくなり、暖かい気持ちで一杯になっていた。
「俺には何もできなかったよ。咲耶を護らなきゃいけなかったのに」
「そんな事無いです。那岐先輩はちゃんと護ってくれましたよ?
 いくら私がちっちゃくても、那岐先輩が庇ってくれなかったらベッドの中に居ない事に気付かれていたでしょうし。何より泣いてくれました」
咲耶が刺されたんだと勘違いした事は俺にとっては恥ずかしかったが、寧ろそれを話す咲耶の方が泣きそうな顔をしている。
「私、今迄死ぬ事なんて怖くなかった。何せずっと一人でしたから、生きていても死んでも、誰も私の事を知らないし気付かないんです。
 でも、那岐先輩は私なんかの為に危険なのに庇ってくれて、護ってくれて、泣いてくれました。だから私も生きなきゃなぁって思えたんです!」
常に孤独が纏わりついていた咲耶にとって俺は気付かぬ間にかけがえのない存在になれていた。そして、それは俺にとっての咲耶と同じだ。
「あ、でもごめんなさい……無我夢中でしたから、つい紬さんを刺してしまって」
「そんな事はもういいよ。
 それに咲耶の予想が正しければ、あの城に居るんだろ?それが此処での死の形だ。でも俺達は死んだら、いや死ななくても戻れないかも知れない。俺達が無事に戻る方が大切だ」
「あはは、やっぱり先輩淡白ですなぁ。でも此処で先輩と暮らすとなると……うぅん、ちょっと厳しそうですよねぇ」
咲耶となら何処でも楽しく過ごせる。それは確信しているが、此処で暮らすのは居心地が悪すぎる。
数週間前まで二十年近く過ごしたあの世界にそっくりな此処は、自由も利かずに息苦しくて嫌な思い出しか無い世界だ。
「そう言えば昨日から那岐先輩って呼んでくれてたよな?」
異常な状況の中で俺の頭は思考を放棄していた。
「あはは、現実逃避してますねぇ。
 確かにそう呼んでいますけど、もしかしてその呼び方嫌でした?すみません、もう呼びませんから……」
咲耶は手持無沙汰そうにその場で縮こまった。
最近知ったのだが、俺が思っている以上に咲耶は弱い子だ。聡いし度胸もあるが、彼女の過去の環境を鑑みるにそれは当然の事なのだ。本当の咲耶は此処で縮こまっている見た目そのままで小さくか細い。
「いや、そうじゃ無くて那岐で良いよ。
 その方が呼びやすいだろうし、そう呼んで欲しいから」
「え!?良いんですか?
 でもなんか畏れ多いような……ってすみません。な、那岐さん?」
嗚呼、本当に咲耶は聡い。畏れ多いに敏感に反応するし、こういう些細な気遣いがお互いを心地良くしている。
「うん。ぎこちないけど及第点かな」
「那岐さん那岐さん那岐さん那岐さん」
「え、何?」
「完璧ですっ。
 早くぎこちなさを無くして那岐さんに気に入られたいなぁって思って!ほら、今のなんて結構自然に言えましたぁ!」
快活に笑う咲耶だが、最後に俺の名前を呼んだ時は少しひきつっていて自然とは程遠かった。
「要練習、かな」
「ちぇー」
「そうだ咲耶。もしかしたら俺達戻れるかもしれないぞ」
さっきは咲耶が俺を護ってくれた。だから俺が咲耶を護る番だ。
それに男が女に頼りっぱなしなのも後味が悪いものだ。男はいつの世も見栄っ張りである。
「え!?何ですか何ですか?教えてくださいっ」
俺は咲耶に説明を始める。
俺が今迄感じてきた違和感や、どうして此処は思い通りにならないのか。それを踏まえての結論をゆっくりと紐解く。考えを言葉にする事で、バラバラだったものが形付いていくようだ。
「つまりタイムパラドックスの修正ですかね。ずれた原因を戻すには、同じようにずらせば何とかなるかも知れない。と」
「あぁ。正直理系の考えが俺には全く理解できないけど、元々この世界は俺達がある程度自由に動ける筈だろ?でもそう上手くはいかない。
 だから意識の問題だと思うんだ。分からないけど上手くいく。
此処に迷い込んだきっかけを修正すれば帰れると思う」
確信は愚か理屈にすらなっていないのだが、それでも、
”物語の終わりが夢の終わりにもなる”
七代の言った言葉を信じる他無かった。
「下手に考えるより良いですねぇ!
 恥ずかしながら、私も理系はさっぱりなのでその方が手っ取り早いですし」
「じゃあ文系らしく整理しようか。
 咲耶は自分の家で目覚めたとは言え、俺達が此処に迷い込んだ直前直後に何をしていたのか」
折角文系脳が二人集まっているのだからそれを最大限に利用する。言葉の解釈は歴史を紐解くうえでの重要なファクターだ。
「直前はあの城の事ですね。お父さんが滑稽でした」
あはははと笑う咲耶を落ち着かせながら、あの時の事を思い出す。
偶に頭のネジが外れなければもっと良いのだけれど。
「試してみたい事があるーって咲耶が言って―」
「部屋を出ましたよね!あの時は崩れる感覚の後に真っ暗になって、気付いたら家に居ました」
俺と咲耶の記憶は概ね一致しているようだ。そうすると自然に問題が浮き彫りになってくる。
「直後は、目覚めだな。二人で居たのに離れた場所で目覚めた。
 あの時俺は咲耶が城から離れられるか確認したくて一歩遅れて部屋を出た。俺だけ出ると咲耶を一人にさせてしまうから」
「あはは!那岐さん優しすぎてドキドキしちゃいますねぇ。
 でもこれではっきりしましたね?那岐さんと私は離れていた」
二人共同じ結論に達したようだ。
二つの考えが一つに纏まる。それは答えに限りなく近い形になっているだろう。俺は咲耶と顔を見合わせて微笑んだ。
「そう言えば咲耶血塗れだしシャワーあびなきゃだろ?気が利かなくて悪い」
「いえいえ、それにきっと戻ったら綺麗になっているでしょうし大丈夫ですよ」
俺の突拍子も無い発言にも咲耶は優しく対応してくれた。それだけでも場の空気が和んでいるのが分かり、気が楽になる。
「よし!善は急げという事で」
俺は紬の虚ろな目に手を当て閉じさせる。せめてもの情けと言うよりは、俺達が気を逸らしたと同時にまた動き出すんじゃないかと思ったからだ。
 「もし物語としての体裁を取っているなら、私達と言うか私を殺そうとした紬さんを退治してめでたしめでたしって事ですかねぇ」 「あぁ。引っ越し当時からとは言え紬には鍵を渡していたし、シャルル・ペローの青髭のような物語だな」
「うわっ!妬けますねぇ。
 那岐さんには私が居るから良いんです。それに私は紬さんとは違いますからね、沢山の人達に囲まれて幸せに暮らしましょう!」
俺も咲耶も孤独を知っていた。
だから周りに沢山の人が居る未来を考えると自然と笑顔がほころんだ。
「あぁ。じゃあその為に、寝よう!」
「きゃっ」
俺はそのまま咲耶ごとベッドに倒れ込む。流石に血塗れで愛し合うのはホラー映画じゃあるまいしそんな気は起きないが、咲耶とくっついていると心が落ち着いて安心して眠れる気がした。
そのまま身体と唇を重ねてゆっくりと二人で微睡みの中に堕ちていった。意識が完全に閉じる寸前に城で感じたものに似た崩れ落ちる感覚があったお陰で、安心して意識を手放す事が出来た。

素敵な紅茶にはいちご大福を添えて

 「とんだ災難だったようだな」
俺と咲耶の意識は覚醒する。
目覚めたのがいつもの咲耶の夢―城だった事に俺達は安堵の息を漏らした。頭痛も無ければ記憶もはっきりしている。
折角和を感じられたのに、さっきまでいたあの場所は不快な思いしかしなかったから皮肉にもこの洋風の(たたず)まいに安心する。いつもの部屋だ、一人の男を除いては。
声をかけてきたのは見知らぬ顔だがどこかで見たような青年だった。
少なくとも此処ではなく昔の知り合いに雰囲気が似ている。どこかで見たような……だが妙なメイクが原因で誰だかまるで分からない。
「ええと、貴方は?」
少し、いやかなり派手な舞台衣装のような洋服を着た青年は、面白いものを見るような眼で俺達をじーっと見つめている。
咲耶は俺の後ろに隠れ、俺は警戒心を解かないでいた。
「あぁ、これは失敬。
 私は藤沢と言う者だ。七代嬢の命に従って君達の事を観察させてもらっていたよ。何せ彼女はこの世界から出られないからね」
藤沢と自称した彼は右手を前に左手を後ろにし、まるで魔術師のような大袈裟に礼をした。
どこかで聞いたような苗字だが、特段珍しいものでも無いし地名にもあるから気にしない事にした。何せ他にも突っ込みどころが満載過ぎるのだ。
「あのぉ、観察って何を見ていたんでしょうか?」
咲耶は俺の後ろからは動かず遠慮がちに聞いた。メイクもばっちり決めて、見た目も所作も完璧なサーカス団の一員のような話し辛い見た目の藤沢は嫌でも目を引く。気になるのも当然だろう。
俺達が過去に暮らしていた街にそっくりなあの夢で、確かに俺達は傍から見ればとんでもない事をした。欲望の徹頭徹尾を見られているとなるのかも知れないのだ。
「心配するなよ咲耶嬢。私が見たのは君達が気にする余地も無い、瑣末な事だけだ。
 とは言え、君達が親密になっているところから色々察することはできるがな」
藤沢が人を不快にさせるような賤しい笑みを浮かべるのは常のようだ。作り物のような笑みが板についていて、気心が知れない。
「いつから俺達を?直接会ったのは初めてですよね?」
それこそ瑣末な事かも知れないが、親密になっている。と言う表現は親密ではない頃の事を知らなければ用いられない表現だ。
言葉の綾のような部分に、人の本心は如実に表れる。
「いつから?最初からだ」
「え、最初から!?那岐さん」
後ろから咲耶が困ったように上目遣いを向ける。
咲耶が驚いたのを見て藤沢は余計に嬉しそうな表情をする。適当な事を言って楽しんでいるのは明らかだ。
「藤沢さん、本当はいつからなんですか?」
俺は溜息交じりに確認する。
咲耶との出会いの時は間違いなく二人きりだったし、土蜘蛛塚には殆ど人が来ないから誰かいればすぐにわかる。居るとすれば、それはマニアックな観光客かストーカーか土蜘蛛くらいだ。
「ほう、那岐くんは中々鋭いようだね。
 実は君達が此処に迷い込んだ、と言うよりは此処を求めた、と言うのが正しいかな。その際に一度見ているのだよ。
二人で居るのを見たのは外で一度きりだよ。あの時は仲の良い先輩後輩だっただろう?今はもっと発展しているようだ」
「発展ですかぁ。
 確かにその通りですけど、改めてそう言われると照れちゃいますねぇ」
先程迄見ていた事は、既に言ったから言うまでも無いという事か。全く食えない奴である。
振り返り気を取り直して、咲耶には素直に喜んでいる癖にと言おうとして俺はその言葉を飲み込んだ。彼女の笑顔を見ればこれまた言うまでも無かったのである。
「そう言えば藤沢さんは七代の命で観察していたって言いましたけど、七代の部下か何かなんですか?」
此処には上司だの部下だの面倒な関係は無いと思っていたが、藤沢は七代をそれこそ崇拝しているかのように見受けられた。
七代の命と言った時の彼の顔は、敬虔(けいけん)なクリスチャンがイエスを語るような口振りだった。
「そのように思ってもらって構わない。
 私はその辺り明確な住み分けができているからな。外でも此処でも、自由自在に飛び回れる!それを買われてスカウトされた、ようなものだ」
此処にも色々な上下関係があるのだと、それ以上深く聞いても答えてくれなさそうだった。
俺も最初に七代を見た時は特別な感覚に襲われたし、まだ知らない事だらけのこの世界を咲耶と一緒に紐解くのはとても楽しみだからそれで良しとする。
それから多少の沈黙が訪れたが、藤沢はこちらから支線を外そうとはしなかった。かくも露骨に観察されると居心地が悪い。元々日本人は視線は外すものだとされているが、その辺りの常識も通じないようだ。
 沈黙が金どころか毒にしかならなくなったのを見かねた咲耶が、遠慮気味にその禁を破る。
「折角だしお茶にしませんか?
 あの街では心休まる時間無かったですし、見た目はこんなでも藤沢さんは悪い人じゃ無さそうですから」
「そうだな、藤沢さんはまだお時間ありますか?良ければ是非お茶にしましょう。咲耶の淹れてくれる紅茶は絶品ですよ」
俺がそう言うと咲耶は照れながらも張り切ってティーカップを三人分取り出し、お茶菓子用の皿もその通りに用意する。
俺達は意識すれば紅茶やお菓子が出せる。だが味や細かい香りは、その意識の明確さや繊細さがそのまま影響される。
だから俺の出す紅茶はくどいし、七代の出す紅茶は味気無い。性格も反映されるのかしらん。
「良いのかい?
 そう言う事なら、是非お言葉に甘えさせて頂こう」
そう言うとゆっくりと椅子を引いて俺達の向かいに当たる位置の席に腰を下ろした。
衣装のような服が引っかかりそうだが、此処ではその辺りも問題無い。
俺達もこの城では好んで着物を(あつら)えているが気にせずに椅子に座れる。そういうものだと思えばこの世界では細かい事に気にしなくてよくなる点も、正に理想の世界だ。


「紅茶入りましたよぉ」
咲耶はそう言うと、俺たちの前で丁寧に淹れてくれた紅茶を手元へ寄せてくれる。
此処では茶葉から淹れなくても完成品の紅茶をポットの中に意識すればそれで終わる。寧ろ茶葉からだとイメージがし難い。茶葉の味や香りは分かり難いし茶葉の味がそのまま紅茶の味になるというのも少し違う。
此処では余計な工程はすっ飛ばすべきなのだ。
「ほう、これは素晴らしい。香りだけでも楽しめるな」
「えぇ。咲耶の淹れてくれる紅茶を飲んだら他の物は飲めなくなりますよ」
「那岐さんも藤沢さんも恥ずかしい事言わないでください」
所謂お外行きの丁寧な言葉の端々に、嬉しさを漏らす咲耶に俺と藤沢は同時に笑みをこぼした。
紅茶は飲み物にも拘わらず、咲耶の紅茶は飲まずとも香りだけでその魅力を存分に発揮する。お陰で藤沢が居ても気にせずにリラックスができるようになった。
「それでは頂くとしよう。
 うむ!これは美味いな、確かに那岐くんが言った通り癖になる味だ。他の物とは一線を画している」
「そんなっ、お世辞でも嬉しいです。ありがとうございます」
「いや、本当に美味しいぞ。これから他の場所にも行くだろうし此処に定住はしないけどさ、和室で暮らしても紅茶は淹れてほしいくらいだ」
ただ美味しいだけじゃなく、この紅茶には日本人の心とも言える素朴さがあった。
今は藤沢も居るので、この味と香りを独占できないのがそれも含めて誇らしく思う。
「折角ですし紅茶に合わせたお菓子もどうぞ。
 ダージリンのストレートには、アップルパイのような果物の入ったお菓子が合いますよ」
「こちらも美味そうに出来上がっているではないか。ありがたく頂こう!」
興味津々と言った様子で、咲耶が出したアップルパイを置かれて間も無く頬張る。
以前によく飲んでいたアッサムと比べると香りが強く渋めのダージリンとアップルパイは絶妙の組み合わせだ。藤沢もギリギリ上品さを保てる程度の素早さでその二つを味わっていた。
「それと、那岐さんにはサービスして……はい」
「え?これって」
咲耶のサービスに眼を見張った。
俺の眼前に出されたのは大福餅で餡と苺を包んだもの。紛れも無くいちご大福だ。
確かにダージリンに果物のお菓子は定番だが、これはどうなのだろう。当てつけなのかしらん。
「那岐さん?今絶対私の事疑ったでしょ!いいから一回食べてみて下さい。騙されたと思って!」
「騙すのかよ!」
「えっとぉ、それなら土蜘蛛塚に埋められたと思って?」
紅茶の香りのお陰で咲耶もリラックスしたのか、既に所謂お外行きの口調は取り払われている。
身長差があるとは言え首を(かし)げて上目遣いで俺を見つめてくる咲耶の反応は反則で、多少の無茶なら寧ろ喜んでやりたくなってしまう。それに和菓子とは言え、いちご大福なら紅茶と合ってもおかしくないと思えるし、咲耶は理由も無い事をする子では無いと俺は知っていた。
「それじゃあ、頂きま―むぐっ」
恐る恐る口の近くにいちご大福を運ぼうとしていたら、隣から思い切りそれを口の中に突っ込まれた。
思わずむせそうになるのをぐっと堪え、息ができる余裕が出来る頃には優しいいちご大福の味が口の中に広がった。
「美味しい」
「でしょー?そもそもこの紅茶も和菓子に合わせようと思って淹れたんですから当然です!」
「ほう、愛だな」
「はいっ、愛です!」
もう藤沢はアップルパイを平らげて話に参加してくる。
確かに紅茶と合わせてみても違和感は全く無いどころか、単体だと口の中でどうしてもパサついてしまう餡が紅茶のお陰でしっとりして非常に後味が良い。俺の中で紅茶の株が急上昇する瞬間だった。
「こんなに合うなんて予想外だ。それにこのいちご大福、俺の知る中で一番美味しい」
「それも当然ですっ!
 那岐さんの好みに合わせて意識しましたから!餅は弾力しっかり。餡は甘さ控えめで、苺はとびっきり甘いものを!」
咲耶は控えめな胸を大仰に張ってそう言った。確かに完璧に俺の好みを理解してくれている。
「でも俺、いちご大福の好みなんて一度も言ってないぞ?何でそんな完璧に分かったんだ?」
「え?そんなの顔を見ていれば分かりますよ。
 那岐さんって、好きな味だと顔が綻ぶ《ほころ    》んです。今まで何度も二人きりだったり、七代さんと三人でお菓子食べてきましたからね!那岐さんの胃袋はもう私が鷲掴(わしづか)みですっ」
咲耶の言うとおりもう俺は咲耶の小さな手に鷲掴み状態だ。
それ程までに、この紅茶といちご大福の組み合わせは美味しくて心の底から温まってくる。
「さてと、私はそろそろ帰ろう。
 二人のお邪魔になってしまうからな!」
藤沢はそう言うと仰々しく立ち上がった。
「そう言えば藤沢さん、すごい単純な疑問なんですけどぉ」
「ん、何だね?」
「藤沢さんは、普段どちらにいらっしゃるんですか?」
改めて思えば聞いていなかった。
七代の命だとかで此処に居たとは聞いたが、彼はその殆どを話していない。
聞かれない限り話さないタイプなのだろうか。俺達が藤沢について知っている事は殆ど何も無かった。
「あぁ、それは謎だ」
「謎?自分の事ですよ?」
その言葉を待っていたかのように藤沢は賤しくにやけて見せた。
「私は謎多き人物なのだよ。
 それに謎が謎を生む、と言うだろう?ミステリーや都市伝説が私の大の好物でね。小説からツチノコ、更にはバミューダトライアングルに至るまで謎と言う謎はこよなく愛している。七代嬢に付き従っているのもそれが目当てと言える!」
突拍子も無い事だが彼が嘘をついていない事は間違い無い。
「それにな、謎にしておくのが一番面白いからだ!」
謎の話については聞かれてもいない事をベラベラ話していて、藤沢は心底嬉しそうだった。
「確かに謎には魅力がありますよね。俺達も古代の日本だったり日本神話っていう共通の趣味があるんですけど―」
「古代日本!と言うと神や天皇だろう?初代天皇の神武天皇の存在だけでいくらでも語れるなあ。
 っと、失敬。長話になってしまったな、では!」
そう言って今度こそ扉を開いて部屋から出て行った。話に乗ったかと思ったらそのまま行ってしまう。
結局藤沢が普段何処に居るのかは分からずじまいだったし、今後それを知る事も無いのだろう。
「行っちゃったな。あの人、一体何だったんだ?」
「さぁ……謎でしたねぇ。
 何だか話題を出すだけ出してそのまま放っていくタイプという感じでしょうか」
咲耶のコメントは的を射ていた。あれだけ振り回されても泰然自若でいる事が、彼女が本当に聡い証拠である。
「藤沢さんの事は今度七代に聞いてみようか。別に悪い人では無さそうだけれど」
「そうですね。
 それに今迄に居ないタイプでしたから私も那岐さんも、藤沢さんとは仲良くなれるかも知れませんねっ!」
「ははっ、確かにな」
自分で言うのも変な話だが、俺も咲耶もどこか世間とはズレている。趣味然り、雰囲気然り、話し方然りだ。
けれども明らかに浮世離れした七代とは仲良くなれたのだし、藤沢に関しても期待して良いだろう。
所謂普通の人は当たり前だと思っているだろうが、知らない人と仲良くなれるのは他の何よりも幸せな事だという事を俺達は知っていた。それだけ人は孤独が似合わず、その分支え合って生きていくべきなのだ。
「さてと。俺達もそろそろ行ってみるか?」
「え?あぁ、そうですねぇ。
 元々それが目的でしたもんね。慌ただしくて忘れるところでした」
俺達がこの城から離れたのは確かに和を感じたかったのもあるが、本来の目的は咲耶の推論の証明なのだ。
全ての答えは西の塔の二階奥のあの部屋にある。
「あの妙に不快だった俺達の故郷についても気になるけれど、七代に聞けば何かわかるだろうしな」
「この城以外全部あの場所みたいじゃないと良いですねぇ。もう暑苦しいのはうんざりです」
「最初に俺がこっちの世界に来た時は、此処以上に神聖な場所だったし大丈夫だと思うぞ。
 何せ黄泉国に行きついてしまったと勘違いしたくらいだ」
それ以前の記憶の殆どが曖昧になっているが、あの場所と七代との会話の記憶だけは鮮明に残っていた。
今思えば俺や咲耶がこの世界に魅了されたのも必定(ひつじょう)だった。
慣れてきてしまってはいるものの、それでも此処は神聖であるし俺達が好む神社の雰囲気や、神の気配を感じる。
「此処が黄泉国なら此処にいる皆は死んじゃっているって事ですか?
 それは困ります!私はもっと那岐さんと居たいですし、兼ねてからの友達百人計画もまだ二、三人ってところですからねっ」
冗談めかしくシャレにならない事を咲耶はサラッと言ってのけた。
それに知らぬ間に俺達が人に囲まれるのを友達百人計画なんて大仰な名前であしらっている。
「友達二、三って……今俺達の友達は一人しかいないだろう?
 藤沢さんはまだ知り合い程度だからカウントするべきかは怪しいし」
「あっ!そっか、そうですねぇ。那岐さんっ!」
「行こうか」
「はいっ」
どうやら俺の言わんとする事に気付いたようなので、そのまま立ち上がってこの部屋を後にする。
嬉しそうに笑って俺の腕にくっついてくる咲耶がとても愛らしく見えた。


城内を軽く見て回ってから、俺達はまたこの部屋の前に立つ。一度エントランスまで行き、そこから西の階段を登る。西の塔に着いてからは二階まで上がって奥の廊下をずっと真っ直ぐ行けば部屋に到着。藤沢との出会いを除けば、此処を離れる前と何ら違いは無かった。
「よし、開けるぞ。いいな?」
「もぉ、何此処まで来て緊張しちゃっているんですかぁ」
咲耶に指摘されてから俺は、ドアノブに軽く添えている自分の手が小刻みに震えている事に気付く。
「そうは言ってもなぁ」
初めてこの部屋を訪れてから既に数日間は経っている筈だが、未だに俺の記憶には室内の異常な光景が鮮明にこびり付いている。
生命体と捉えるにしても植物と解するのが限界だと感じた咲耶の父親。見ようとしてもすぐ目の前すらぼやけていて、左右にぶれて幾重(いくえ)にも見えた。咲耶の考えが正しいとすればそれが複数人になる。
それに俺が何より恐れているのは、その咲耶自身の事だ。此処を選んでから彼女について知った事だが、彼女からは偶に身の毛もよだつ様な狂気を感じる。
それ程の感情を(あらわ)にしている咲耶は美しいのと同時に、恐ろしくも感じた。あの咲耶は俺には手に負えない。
「全くもう、しょうがないなぁ那岐さんは。はいっ」
怒りっぽい言葉とは裏腹に、咲耶は愉快そうな笑顔を浮かべながら俺の手にその小さな手を重ねる。
その暖かさが身に染みる。気付けばもう俺の手は震えなくなっていた。
「これなら大丈夫でしょう?
 頼りないかも知れませんが、もっと私を頼ってくれても良いんですからね」
「頼りなくなんてないよ、ありがとう。
 本当は俺が頼りにならないといけないのにな。」
―カチッ
以前に咲耶が七代から貰い受けた鍵を差し込む。他の部屋と比べれば味気の無い室内が、俺の眼前には広がる筈だった。
「―久しぶり、になるのかな」
「え……?」
そこに在ったのは以前の生命力の無い、死の世界のような雰囲気とは一線を画すものであった。
室内のそこかしこに暖かさと生活感が感じられる。
「あら。貴方が那岐さんね!いつもうちの娘が―咲耶がお世話になっております。咲耶の母の伽夜(かや)と申します」
「ほう、那岐くんと言うのか。いい名前だね。この前は名前を聞きそびれてしまったから改めて、咲耶の父の大和だ。宜しくね那岐くん」
「あ、えぇ。那岐です、宜しくお願いします」
二人に握手を求められたので、呆気にとられたままそれに応じた。
大和の手は俺よりも大きくてごつく、伽夜の手は小さくて柔らかく咲耶のものとそっくりだった。
これが咲耶の両親か。一目見ただけで分かる優しくて暖かい家族に、俺は憧れと形容し難い違和感を感じた。
「あははは、那岐さんにも言ったじゃないですか。色々すっ飛ばして家族に挨拶だなんてーって。
 でも私の両親は優しいですからその辺は安心してくれて良いですよ」
「その通り。あの時は母さんは居なくて私だけだったからなあ。母さんも私も那岐くんのような人なら大歓迎だよ」
「そう、でしたね。ありがとうございます、恐縮です」
咲耶と大和の言っている事は間違いではないだろうし、現に俺の記憶にも一致はしている。
しているのだが、俺にはどうも納得いかなかった。植物では無く人間に見える咲耶の両親、咲耶が前からそうであったかのように馴染んでいる事、そして俺が馴染めていない事に。
「お父さん、那岐さんが困ってしまっていますよ?
 那岐さん、立ち話もアレですから座って頂戴な。ほら咲耶も、那岐さんの隣にね」
「那岐さんっ、幽霊の正体見たり枯れ尾花です」
咲耶が俺にしか聞こえない声量で囁いてくる。
「幽霊?」
「あの人達は私の家族です。変に疑ったり恐れていると、何にでも恐れてしまう事になりますよって事です。あまり緊張しないで大丈夫ですから」
「あぁ、だから幽霊の正体見たり枯れ尾花ね」
 俺は納得したような素振りを見せたが、違和感は拭えなかった。寧ろ幽霊だと言われた方が納得のいくものである。
だが此処では変な意識が現実になる恐れがある。ここは大人しく咲耶の考えに迎合しておこう。
それに本当の意味で幽霊の正体が見られるのかも知れない。
「難しいかも知れないけれど、リラックスしてくれて良いからね。此処を自分の家だと思って」
「はぁ」
咲耶は両親とは随分仲が良いようだ。俺以外と居る時でもこんな風に素直な表情が出来たのか。
咲耶には家族という繋がりがあったのだ。俺以外の強い繋がりが。
「お母さん、那岐さんは自分の家でもリラックスしてないと思うんだけど。ですよねぇ?」
深入りするような物言いに少し怒りが湧いたが曖昧に笑って誤魔化した。
俺がリラックスできる空間は何処なのだろう。前に住んでいた俺の部屋や実家は抑圧の塊のようだったし、学校も同じだ。
とすればやはりあの神社であろう。その中でも高天彦神社は特別だった。他にも、本当に試験も何にもない此処では、この城のいつもの部屋もある。あの部屋も俺の憩いの場だった。
「あら、それはごめんなさい。あまり人様のご家庭の事情に首を突っ込むのも無粋だったわね」
「いえ、良いんです。
 寧ろ俺なんかがお邪魔していいのかなって。折角家族水入らずなのに」
刹那―咲耶の睨みつけるような視線を感じて、俺の背筋にヒヤリとした汗が滴った。
「それこそ良いんだよ。
 咲耶と母さん、それに私が揃った事は確かに久し振りなんだけどね。那岐くんは咲耶にとって大切な人なんだろう?
それに私達はあくまで此処の一室を貸していただいているだけなんだから。自分の家と思ってくれ」
 大和の物言いに疑問を抱き、俺は二、三質問を重ねた。
話を聞くに、大和と伽夜の中ではこの城は咲耶の所有物という事になっているようだった。そして俺たち以外には誰にも会っていない。七代や藤沢にもだ。
そして、それらについてまるで疑問を抱いてはいない―まるで胡蝶の夢だ。この人達の現実はまるで夢のように都合の良いものとなっている。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。頂きます」
それから俺と咲耶は此処でも紅茶を頂いた。成る程、咲耶が伽夜の遺伝子を受け継いでいるのが分かる。
紅茶の美味しさと素朴さは木花家の味だったのだ。こういった我が家の味、というものを俺は知らない。
親は居ても俺に渡された食糧は五百円かインスタント商品の二択だったが、血の繋がり故の味の繋がりも悪くない。
だが俺が木花家の味に加わるというのは全く想像できなかった。
俺はここでも浮いている―咲耶と二人きりで居る時には感じなかった現実が、今目の前で突きつけられた。
「―貴方は、黒なのよ」
その声を聞き取った刹那―今まで居た木花家とされていた件の一室が音も無く崩れ去った。


まるで今迄が裏でこっちが表の正しい世界であったように、空気の澄んだ和室が顔を出す。
「今度は膝越しではないんだな」
「あら、那岐が望むならそれでも良かったのだけれど?この短い期間に、随分と楽しんだようね」
少し強めな畳の匂いがする八畳くらいのこの和室は、まだ此処を選ぶ前に気絶して少し訪れた場所だった。
ただ、当時と違うのは俺と七代が向かい合わせに座している事と、俺にある種の余裕が生まれている事である。
「男子三日あわざれば刮目してみよって言うだろう?七代に会うのも随分久し振りになったからな。
ところで、さっきまであの部屋に居たと思うんだけど。ほら、七代が咲耶に鍵を渡していた部屋の―」
「えぇ、木花の家の人が住み着いたあの部屋ね。
 あの人達、自分の娘が所有する城の一室を借りているだなんて滅茶苦茶な理屈を信じ込んじゃうんだもの。滑稽だと思わないかしら?この親にして、この子ありって感じがしてくるわ」
七代との会話は久し振りでも何ら変わらない。俺が愚直に聞き、七代が若干毒を込めて答える。
俺には経験が無いが、咲耶が久し振りに話した家族に馴染んでいたのと同じような感覚を、俺は七代との間で感じていた。
「それに、あんな植物がうねうねしているのとついさっき自分で刺し殺したのを両親だなんて。
 ふふふっ、愛は歪むとここまで来るのよ?那岐もゆめゆめ忘れないで頂戴」
やはり七代は全てを知っているようだった。予感はしていたが、あの土蜘蛛の事も含めての全てを知っていた。
その深く黒い瞳の奥には、俺が知りたかった全てが内包されている。途端にそれがいとおしく見えた。
「愛だけで人の形に変わるものなのか?七代の言った通りの植物を俺は見た。
でも、さっき見たのは人だった。咲耶の両親だと確信する事も幾つかあったし―」
「ふふっ、那岐って私の前だと普段より少し楽そうに喋ってくれるわよね。
あぁ、嫌って意味じゃないわよ。寧ろ嬉しいから私の前でだけはそのままでいて頂戴」
「……そんなに露骨に逸らすなよ」
一瞬流されそうになった為に、俺は強めの口調で改めて追及する。
「そうね―あれは死者よ」
「死者?」
「えぇ、それでも此処は優しい夢の中。
 死んだ人だって蘇るし、死は否定されて初めから居た事にもなる。近付けば近付く程それが現実に見えて、離れれば離れる程それが嘘で塗り固められた真だ《まこと    》と気付く」
七代の話は眉唾物だが、それでも耳触りの良い一般論なんかよりはずっと此処の価値観に即していて説得力がある。
七代の体系化された価値観は、全て此処でしか通用しない。しかし此処では確実に通用する。
「咲耶はあれで幸せなのか?」
正直、ここ数日で咲耶を見る目は大きく変わっていた。
趣味が合って何でも話せると思っていた間柄でも、近付けばそれが崩れる。どこかズレていると思わせる渇いた笑い。咲耶の事が何一つわからなくなってしまいそうでさえあった。
「さぁ。それは本人じゃないと分からないわよ。
忠告しておくけれどあの子は普通じゃないわ。近付く事で、那岐は大きなものを失う事になる。
いえ、もう失い始めている。私は咲耶さんとは仲良くしたいと思っていたけど、あくまで那岐の味方だわ。だから道標くらいはいつでもしてあげる」
「俺が、失ってしまったもの……」
いくら考えても俺には分からなかった。それは失っているから当然なのだが、この何でもある程度自由に出来る世界で、何かを失う事はそれだけで致命傷だ。
もう何が現実で何が虚構なのか分かったものじゃない。
「どうして俺にそんな肩入れしてくれるんだ?あの藤沢さんだって七代が仕向けてくれたんだって」
「藤沢には会えたのね。彼の名誉のために言っておくけど、あの人は信用するに値する男よ。
 確かに浮世離れしている風に見えるでしょうけど、彼は決して何かに流されたりしない。強い人だから」
軽く溜め息をつきながら七代は言った。七代でも彼は手に余るようである。
確かに七代が仕向けたにしては、藤沢と七代とは似ているようでかけ離れた存在だった。
七代は規則的に浮いていたが、藤沢は余りにも不規則である。
「それに、人を突き動かすのはいつだって愛情なのよ。
 憎しみや恨みで動きやしない。咲耶さんは家族を愛していて、私は那岐を愛している。肩入れの理由はそれだけでも充分過ぎるくらいよ。那岐を不幸にさせたくないからね、ふふっ」
愛情―俺はずっとそれを求め続けていた。認めて欲しかった。
願わくば無償の愛を求めていた。
うんと小さな頃には、それを当たり前だと思っていただろう。その当たり前はいつの日か俺の元から崩れ去っていった。
それは七代の声で崩れた咲耶の家族の部屋のように。一度知ってしまった何よりも強い感情に、俺は囚われてしまっていた。
その事実に気付いた今、俺の身体は何かに縛り付けられたかのように動く気力を失っていた。
「何で七代は俺を愛しているなんて言ってくれるんだ?」
もっと聞きたい事があった筈なのに、口から出たのはそんな言葉だった。
それだけ俺は夢の世界の心理なんかよりも愛に飢えているのだろうか。
それとももっと単純に、今迄は冗談でしか浮いた言葉を用いなかった七代の、愛しているという言葉に動揺しているのか情動しているのか。
「後悔しないためよ」
そう口にするもそれは間も無く本人が撤回する。
「いえ、成功するためね。
 私はこの夢から離れられない。でもこの夢でなら那岐と会えるから」
付け加えられた言葉も含め、俺の理解力は追いつけずに停滞した。停滞した思考は、すぐに疑問を纏って浮き上がる。
「それが俺を愛しているって事に繋がるのか?」
先程から口を開けば質問を重ねてしまうのだが七代は嫌な顔一つせずに、寧ろこの時間を噛み締める様に笑顔で言葉を紡ぐ。
「えぇ、私が最初で最期に思い描いた夢。私にはそれしか無い、ふふっ。
 どう?私の方が咲耶さんよりも随分滑稽でしょう?」
言葉とは裏腹に七代には不安や(かげ)りの色は見受けられなかった。
純粋で真っ直ぐな美しい七代の姿が、そこにはあった。
 「七代からは、白を感じる。
 七代の考えは俺には測りかねるけど、きっと成功するよ」
俺が木花家の崩れ去る時に、七代に言われた黒と重ねた。
白と黒。その事に七代も気付いたのか、意外そうに眼を丸くした後、優しい微笑を重ねた。
綺麗に正座していた足を軽く崩し、俺を見上げる。俺は胡坐だったから、立ち上がるのが少し遅れた。
「思い出した訳では無さそうだし……
 那岐ったら、さっきの黒の事根に持ってたのね?」
「そういう訳じゃないけど、七代は真っ直ぐだなって思っただけだよ」
「ふふっ、那岐に言った黒をどう捉えたのかしら?そんなに悪く捉えちゃって」
そう七代は言うが、貴方は黒ね。と言われて喜ぶ人が果たしているのだろうか。
俺は勝手にねちっこいとかあくどいとか、そういう風に感じていたが七代はもっと深い意味を込めていたのかしらん。
「那岐の黒はね、とても強い色なの。
 貴方はとても強いから、周りが近付かないし近付けない。誰だって自分の絵画作品を汚されたくないでしょう?
それでも近付く人は、紬さんや咲耶さんはどうなった?ねぇ那岐、紬さんはあの部屋に居たかしら?」
七代の言葉に俺の血の気がサッと引いた。急速に動く心臓に身体が付いていかず、脳は強制的に考えるのを放棄した。
「それでいいのよ、忘れて頂戴。人はね、濃かれ薄かれ自分の色を持っているの。
 そうね、紬さんなら銀。咲耶さんは赤かしらん」
それによると俺が黒、七代が白だという事らしい。
自分が何色かなんて考えたのは小学校以来だったが、深く考えればそれは的を射ていたように思える。表面的にはとんだ的外れだが、本質的な部分をよく見ての色合わせなのだろう。
俺の想像以上に七代は俺達の事を良く見ている。いや、藤沢の情報もあるから見なくても分かるのか。
「絵具を使った事はあるでしょう?パレットで絵具の色を混ぜる事を想像すると分かり易いわ」
七代がまた懐かしい事を言う。
絵具は小中学校の時に使った事があったが、隣の席の人の顔を描く授業の所為で良い思い出が無い。隣の席の人が徐に《おもむろ    》顔を上げようとしなかったのだ。
結局俺は想像で最後まで描き上げたが、俺の顔は……あぁ、黒だ。黒で塗りつぶされていた。
「赤と青を混ぜるとどうなるかしら?割合は一対一とするわ」
「紫だな」
内容は子供染みていたが七代はいつも通り神妙な面持ちで続ける。
一通りカラーチャートを網羅しただろうか。一拍置いて今迄通りのカラーチャートを例に本題へと入った。
「銀と黒、赤と黒。勿論一対一。
 これらは何の色になるかしら?」
「……黒だな」
 言わんとする事は分かった。質問の際も答えてからも七代は微笑みを絶やさない。
つまりは紬と俺、咲耶と俺、という趣旨のものだろう。
「そう。少しは元の色が残るかも知れないけれど、那岐からしたらそれは不快なものになる。混ざり切っていない黒は汚くなるでしょう?
感じなかったかしら?紬さんから、咲耶さんから、狂気を」
俺はそれを否定できなかった。
そして俺が失ったものの答えが同時に浮かび上がる。
「貴方の周りにはね、どうしても弱い人しか集まらないのよ。
 那岐に飲み込まれて、自分を失ったり排他的になるような人」
「そんな事は無い!咲耶は強さを持って―」
「聡さと強さが相等しいとでも思って?寧ろ相反するわ。
 聡い事は悟る事に繋がる。咲耶さんは線引きが上手だから、疎外感だけじゃ崩れなかった。
でも繋がりを―那岐を失うと感じれば、何でもする。家族と過ごす為なら、何でもする」
俺の考えは七代の断言にいとも簡単に押し潰されてしまう。
何でもとは、殺す事でもだ。
「紬さんに関しては言うまでも無いわね」
「逆に七代は強いって事なのか?」
万能に見えて自分を出さない七代が感情的な考えを吐露するのは初めてじゃないだろうか。
だが、これには俺が質問し過ぎで抑圧されていたきらいもある。その反動かしらん。
「私は此処でなら強くいられるのよ」
微笑みを止めて真剣な顔になった七代がふいに俺の手を取った。
「いい機会だし、今からデートに付き合って頂戴。そこで詳しく話す事にするから、行きましょう」
突拍子も無い事だったが、有無を言わさぬ七代の瞳を見て俺は静かに頷いた。
ぼんやりとした脳を逡巡するように、様々な情景が浮かんでは消える。やがて目的地が見つかったのか七代は歩き出し、同時に俺達の居た八畳は真っ暗闇に消えていった。

夢こそまこと


 俺は新しい夢へと醒める。
既に七代はこの場所に馴染んでいるようだったが、優しく俺の手を握っていてくれたようだ。
着いた場所は俺の見知った鳥居だった。古ぼけてはいるが、尚も神聖な空気感が俺を穏やかな気持ちにさせる。
「高天彦、神社?」
確認するように俺は尋ねたが、間違える筈がない。
何回、いや何十回何百回とこの地を俺は訪れている。目を瞑っていても空気感だけで当てる事が出来るだろう。
「あら?お気に召さないかしら?
 此処って那岐のお気に入りの場所なんじゃないの?」
「いや、俺は大歓迎だけどさ。
 デートって言うからもっとこう、デートっぽい場所に行くのかと」
煩悶憂苦(はんもんゆうく)して何とも愍然(びんぜん)たる物言いになってしまったが、嘘偽りは無い素直なものであった。
ただそれより、咲耶と此処に訪れた時のような不快感が此処にはまるで無かった事に気が向いていた。
 不愉快な頭痛も無ければ、日本特有のじめじめとした夏の匂いも無い。触れ合っている手には清々しさすら感じるのである。
「人は馴染んだ所に来ると落ち着くの。
 那岐は神社がお気に入り。
だから此処だと落ち着く。
  それに、此処に来た事にも理由があるのよ」
少し的外れなソクラテスはそれだけ言うと俺を先導して歩き出した。
もしかしたら七代は哲学に覚えがあるのかも知れない。少なくとも信仰心よりは哲学心といった様子なのだろう。参拝の様子にそれが顕著に見られた。
二礼二拍手一礼は愚か、鳥居で礼をしない、手水舎(てみずしゃ)では更にとんでもない振る舞いに俺の口が付近の酸素を丸ごと吸い込んでしまう程に驚嘆した。
「ふぅ、此処は気分的にだけど暑いわね。あら?ねぇ那岐、こっち来てみなさい。水があるわ……ゴク、ゴク……ん、すっきりした」
七代が水を飲むなら俺が酸素を……なんて事でも無くただ自然に開いた口が塞がらなかった。
「七代、一つ言っても良いかな」
「あら何?いつも私に質問ばかりする無邪気な子供の那岐が私に物申すなんて珍しいわね。そんなに此処に感動したのかしら?」
そんな風に嘯い《うそぶ    》てみせる七代に呆れる時間すら勿体無い。天然と言うよりは無知か、異邦人かと中傷しても許されるだろう。
「手水舎の水は飲むものじゃない。それは禊の為のもので―あぁ、柄杓(ひしゃく)に口を付けるだなんて……
 七代は夢の事なら何でも知っているのに何でこんな些細な事も知らないんだ」
「それは、瑣末な事だからじゃないかしらん」
やっぱり七代は殊に俗世の事については無知を貫いていた。零か百かを極めている。
彼女のペースに引っ掻き回されないように俺には毅然とした弁論を強いられた。ここまで偏っていると憐れまれて、その掌で踊らされている気もしてきた。
「そもそも七代は常識がなっていなさすぎるよ。先ず鳥居の前では―」
「待って頂戴。
 那岐は”一つ言っても良いかな”と言ったわよね?だから了承したわ。
それで手水舎と、この小さな桶……柄杓だったかしら?の事は聞いたわ。
だから二つ目は遠慮する」
これだけ無知を貫いているにも拘わらず細かい所にも意識が向いているのは流石七代だ。決して褒めてはいないが。
「分かった。でも意外だったよ」
「あらどうして?私にだって知らない事はあるわ。神とは言っても決して万能ではないのよ」
まるで自分が神の様に振舞う七代だが、もしかしたらあながち間違ってもいないのかも知れない。と、先程迄の完璧な彼女だけを見ていたなら思っただろう。
「その神だよ。此処の神聖な空気感にこんなにも馴染んでいるのに、禊について無知だなんて。それに思っていたよりずっと人間染みているよ」
「そう言えば那岐って此処で私に会った時に此処は黄泉国なのか?なんて聞いてきたものね。ふふっ、私を天使か、或いは女神かとでも思ったのかしら?」
だから先程迄はそう思っていたのだ。
「そうねぇ。私が神社について、それどころか常識ともいえる事に無知なのは、当たり前の事なのよ。自分の睫毛(まつげ)は見えないって事ね」
「睫毛?」
諺だからあくまで例えなのは分かっているのだが、反射的に見えないか試してみた。残念な事に見えない。
眼球だけをこんなにも天に向けたのは眼科医の検査以来だ。眩しい光を当てられるアレである。
「灯台下暗しなら分かるかしら?
 それにしても那岐も随分睫毛が長いのね。目を細めたら少し睫毛見えちゃうくらいに」
そう言って七代は眼を細める。嗚呼、これは小悪魔だ。言われたとおりに試してみると確かに睫毛の先が少し見えた。
成る程、自分では意識していなかったが諺に歯向かえるくらいには俺の睫毛は長かった。改めて見ると七代も俺に負けないくらい睫毛が長くて綺麗だった。
「身近なもの程気付かない、知らないものなのよって事。見えるのは精々、特別長い睫毛くらいだわ」
七代は変わらず目を細めたまま微笑んでいる。少し切れ長で整ったそれは狐のようにも見えた。
「それは言いえて妙だな。やっぱり七代は神に通ずる存在って事なのか?」
「あら、私ばかりじゃないわよ。那岐だってそうでしょ?
 此処に居る者は皆が神よ」
「俺が神……?
 七代って何て言うか、そういう類の子なのか?痛々しいと言うか」
誰も知らない事を知り、誰もが知る事を知らない。
もしかしなくても、七代は色々な意味で浮世離れしているのか。
「ふふっ、那岐は此処でならある程度何でもできる事を忘れているんじゃなくって?」
そう言うと七代は何も無いと思われる所から水饅頭を二つ出す。
七代も言っていたが、此処高天彦神社は不快感の無いこの世界ですら気分だけでもう暑い。
それは蝉の声だったり、陽を避ける物が殆ど無い事に起因している。そんなときに食べる水饅頭はヒンヤリしていて穏やかな気持ちになった。
「忘れてはいないんだけど、それこそ自分の睫毛は見えないんだよ」
洋菓子と比べると水饅頭の、この奥ゆかしさが堪らない。咲耶のくれるスコーンも美味しい事には変わりが無いが、ほんの些細な和菓子で幸せや笑顔が生み出せる。何もかも忘れられそうな程に。
「那岐こそ随分浪漫派なのね。さてと、話題も無事逸らせたし目的地に向かうとするわね」
「あ!」
予想していたとは言え、まんまと七代の掌で踊らされてしまっていた。
満足した七代は水饅頭を食べながら器用に反対方向へと歩を進める。
俺や咲耶にとって思い出であり、不快の象徴である土蜘蛛塚の方だ。
「七代。折角こっちの方へ来たんだから、せめて正しく禊をしていこう」
俺は聞かれないようにそっと溜息を漏らした後、七代を手繰り寄せて禊の概要を説明した。
七代は一見面倒臭そうにしているものの、思いの外熱心に俺の講義へと耳を傾けてくれた。
「―へぇ、左手から洗うのね。そんな順序まで決まっているなんて参拝も大変ね。
 神も驚くわよ?」
「本当は全身を清めるべきなんだけどな。それに正しい作法を知っている人は殆ど居ないよ」
「起源くらいは知っているわよ。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)もびっくりね。同じ名前の那岐がこんなに手間のかかる事をしているだなんて」
相変わらず、変な知識だけ蓄えているものだ。
 幾度も参拝している俺の眼がその証明だが例えご老体でもそれこそ右手から洗ったり、柄杓に注いだ水でうがいをしたりする。
時代の流れとは残酷なのは自明だが、それは当たり前にしている身近な行為にも(もたら)されているのだ。


折角なのでを重ねて、しぶしぶと言った様子の七代を連れて多少教えて参拝まで済ませておいた。
改めて土蜘蛛塚の方へ歩を進める。さりげなく確認したがあの時土蜘蛛と思われた咲耶の母の血痕は残されておらず、空気感や気温等から俺にはまるで別世界のような感覚に陥た。
此処こそが俺の選んだ、俺達の在るべき世界だ。あの時は夜だったが今は昼、燦々(さんさん)と照らす太陽も夢の世界では意味を成さない。暑さは感じないし、紫外線も無いだろう。
獣道(けものみち)を抜け、ぽっつりと佇む土蜘蛛塚まで辿り着く。七代は若干疲れた表情を見せて、到着と共に一息吐いた。
元々体力が無いのだろう。俺の知る七代は城内の部屋内を行き来するか数歩その辺を歩く姿しかない。
夢の中なのだから歩く必要性も次第に薄れて、体力も筋力も落ちてしまうだろう。帰りはおぶって帰る事を覚悟した。
「此処で何があるんだ?」
兼ねてからの疑問を七代にぶつけてみる。以前からそうなのだが、七代は一度答えなかった事に対しては何度聞いても滅多に答えてくれない。
疑問質問は温めて、いざと言う時を待ちなさいと言われた事がある。
「何よ到着早々に……那岐は疲れていないのね」
「当たり前だ。此処は外と違って暑くも無いし疲労も殆ど溜まらないだろう?」
俺はそう言いながら七代の様子を見る。七代だけは例外なんじゃないかと思うくらいにその顔には疲れの色が見えて頬は朱に染まり、妙に色っぽくなっている。
「そうだけど、私慣れないのよ。箱入り娘だからかしらね」
「箱は箱でも随分中身を自由に出来る箱だな」
「ふふっ、那岐にしては上手い事言うじゃない。
 丁度頃合いよ」
何が、という俺の純粋な疑問は聞くまでも無く答えられることになる。
今迄の土蜘蛛塚が反転し、眼前に映し出されたのは咲耶とその母、そしてそこには決して居る筈の無い”誰か”だった。
恐怖に怯える咲耶の母とそれを追い詰め楽しむ咲耶。傍観する七代も咲耶と同じような表情をしている。絶対的な死が蔓延(はびこ)る空間、そこで”誰か”は非常に冷めた目でそれを見ていた。
「さ、咲耶?何それ……き、」
「き?」
「きゃゃゃゃぁぁぁぁ!!!」
咲耶とその母の掛け合いや戦慄はまるで映画のワンシーンだ。
先程の疲労がもう七代には見えず、最高潮の興奮を露わにしていた。
俺と”誰か”はそれを正に映画を観るような眼で見つめている。同じ様でもその差は歴然で、見入った俺と眠そうな”誰か”の構図が此処には在る。
 「貴女の世界には―自分しか居ないのね。貴女の眼に映っていた私は貴女の作り出した虚像だよ」
聞き覚えのあるその台詞を吐き捨てると、渇いた笑いを始めた。そこには彼女を生んだ筈のそれが転がっている。
「……咲耶、大丈夫か?」
俺が見始めてから初めて”誰か”が声を出したのを合図に、反転していた世界が元に戻る。
あっち側に居た時よりもずっと汗を垂れ流している事に自分でも驚いた。
「良い夢を見られたかしら?」
七代はすっかり元気になって、いつもよりも幾分かはしゃいでいるように見える。
七代が見せたかったもの、無理をしてでも此処へ来た目的は達されたのだ。
「どうして、俺は確かに此処に……」
「思うものは存在する」
ふいに七代がそう呟く。
「私は思うものである」
無感情なままにそう続ける。
「よって、私は存在する」
「われ思う、ゆえにわれあり」
七代の言わんとする事が分かった俺はそう続けた。奇妙な空気でも、思うところが一致する瞬間というものは何だかくすぐったい。二人揃って何ともぎこちなく微笑んでしまう。汗は引いて、俺には涼しさだけが残った。
「安心して頂戴。那岐は貴方よ、那岐は思うものでしょう?少なくとも、あっちの貴方よりは」
「何で……何で俺がもう一人居た?あれは映像か何かなのか?」
随分冷めた表情をしていたが、紛れも無くあれは俺だった。自分がもう一人、今思い出すだけでも背筋が凍り付く。
「那岐の記憶にもある光景だったでしょう?」
勿論だと頷いた。
ただあんなに衝撃的には映っていなくて、それこそ映画を観たようなうっすらとした記憶しか残っていなかったが。
「那岐は、夢の夢を考えた事はあるかしら?」
「夢の夢?」
七代の言った言葉を漏らすことなく反芻する。眉唾物ではあるが、考えれば考える程に随分と深い言葉だ。
「そう。一般に夢と呼ばれるものは外の夢。此処が正にそれね」
少し考えた後すぐにその答えは出た。七代の命題にも、脳が幾分か慣れてきたのかしらん。
「夢の夢は外。で合っているだろうか?」
「ご名答。あれは外の出来事よ、ふふっ、ふふふっ」
七代は満足そうに微笑み、上品に笑った。笑っている七代と疲れ切っていた七代。まるで別人のようだと俺は思う。同じ七代だって事が、俺には分かる。
あの俺とこの俺はどうだろうか、俺はその答えから眼を背けたかった。
「あれは、あの時の出来事は夢の世界の出来事じゃなかったのか?」
七代は首を少し(かし)げて含みのある笑みを浮かべるだけでる答えはしなかった。
だが俺には分かってしまう。戻ってきた直後に藤沢と対面した事も、恐らく偶然ではない。
「さて、もうそろそろ帰りましょうか。それとももう少しデートを続ける?」
「いや、もう帰ろう」
「もしかして此処に来た事を後悔しているの?」
後悔はしていない。だがあまりにも俺達のした事は残酷で、俺達の居る”此処”は異常な事を改めて思い知らされた。
だが俺は答えられなかった。言葉にする勢いが、食道を逆流する感情と物質の流れに逆らえなかったのだ。
「ふふっ、まぁいいわ。それで那岐はこれからどうするの?」
「過ぎてしまった事はもう戻らない。だから、清算しなければならないんだ」
こんなものは胡蝶の夢だ。
そう言えばそれで済んでしまう話かもしれないし、此処に居れば清算なんてしなくても良いのかも知れない。それでも俺が知ってしまった事実は胡蝶の夢で割り切られない。
それに俺の共犯者であり実行犯。あの聡い咲耶の事だから全てに気付いてしまった上で家族と過ごす選択を取っているのだろう。最初から気付いていたきらいもある。あの時は気にしていなかったが、話が噛み合わなかった事があったのではないか。全てが疑心暗鬼で雁字搦めに縛り付けられて何が正しいのだろう。
咲耶の顔に(かげ)りは見えなかったけれど、自身が殺めた人と暮らしているだなんて正気では無い。この時の俺も正気では無かったのかも知れない。
一夜の過ちと、咲耶が二人の人を殺める際に傍観を決め込んだ。その責任を力で押さえつけようとしたのだ。
死んだ者は此処に居てはならないし、人を殺めた者は罰を受けなければならない。
それは俺の役目では無い筈なのに、この時の俺は神になったと勘違いをしてしまった。いや、神に戻る決意をしたのだと思い込んだのだ。

別離の夢


 「って言う夢を見たんだー!って事じゃないのー?」
そんなベタベタ過ぎる台詞を実際に言う人がいるだなんて思いもしなかった。
一番と言っても過言じゃないくらいに身近な彼女が日常会話の一節でそう言うのだ。きっと彼女はその事にも気付いていないだろうが。
「だから此処は夢の世界で、でも如何(どう)やら死んだ人も此処に居るみたいで―」
「ちょっと待って。
 それってあたしの事?あたしが死んだって言いたいの?」
俺はゆっくりと首を縦に振る。重苦しい空気に飲み込まれるんじゃないかしらん。
というのは俺の杞憂に終わった。
「ぷっ。そんな訳無ーい!
 あたしは生きてるって!何だっけ?あたしが思うから生きてる!合ってるかな?えへへ」
何を言わんとしているのかはギリギリ分かった。紬はいつもこんな調子なのだ。俺と居る時に限ってだが。
先程七代とこの話をしていなければ分からなかっただろうから、話していて良かったと思う。
「われ思う、ゆえにわれありだよ」
「そうそれ!やっぱりあたし鋭いなー!」
「紬のこんなヒントで分かるのはきっと俺くらいだと思うけど」
ここに来て初めてその名を口にする。得意げになっていたから突っ込みを入れずにはいられなかったのだ。
「流石那岐はあたしの事良く分かってるねー!それにしても此処は良い所だよね!
 那岐が紅茶出してくれたしー、お菓子も美味しいし」
此処は、恐らく東の塔だろう。東と西の違いは窓から見える外の景色程度しかない。
東の塔二階奥の一室―西の塔の二階奥のあの部屋と対を成す部屋だ。
ただ話すだけでは手持無沙汰なので紅茶とスコーンでもてなしたが咲耶のそれとは天と地の差がある。勿論俺が地だ。
咲耶は大気圏を超えるが俺は地中に埋もれて火山が見えてくるだろう。同じ熱ではあるが全く別世界の物だ。
「それに学校も無いよね!寧ろ試験も何にも無いんでしょ?
 それにこの部屋に居れば那岐と二人っきり!えへへ」
若干明るい事を除けば、俺の良く知っている紬だった。
その若干明るいというのも、この城と俺が居るからだろう。因みに自惚れでは無い。そう思えるほどの経験を俺は夢の夢―外で味わっている。
それなのに紬にはその記憶は無い、咲耶の母も同様であった。断片的な記憶喪失というものであろう。
事故等の辛い出来事が起きた際に、その記憶を自らの意思とは関係無しに無かった事にしてしまう。そうしないと自分が壊れてしまうから。
どうやら直前の記憶は上手い事消滅しているのだろう。紬には咲耶を殺そうとした事も返り討ちにされた事も無かった事になっているようだ。
「難しい事話してないでさ、もっと楽しい事しようよ!
 此処には悠斗くんも居ないし咲耶さんも、親も居ない。折角なら今から海に行っても良いしー、お話しも良いね!」
「紬……」
「那岐の好きなお話しはあたしには難しいけど……頑張って勉強するから!
 後はー、此処って何でも出せるんでしょ?夢って言ってたしゲームでもしよ!」
「紬!」
俺には我慢ができなかった。
紬は必至で目を逸らそうとしている。記憶は消滅なんてしていないし、思い出せない訳でも無い。
それを隅に無理矢理押しやって必死に俺との繋がりを求める紬の姿は俺の知っている紬とは、俺の好きだった紬とは大きく異なるものだった。
「ご、ごめんなさい。そうだよね、那岐はゲーム嫌いだったんだよね。
 憶えてるよ?だからごめんなさい……怒らないで、お願い」
こんなに俺に怯えた紬も初めて見る。紬はいつも俺の隣に居たけど、実際は何歩も先に行ける子だった。
俺が気付かないようにさり気なく俺に歩幅を合わせてくれていたのだ。そんな紬が必死に俺について来ようとしている。
それでも何歩も後退して行く。俺は止まっているのに、紬は後ろに沈んで行く。
まるで紬の周りにだけ大きな逆流が押し寄せているように。
「そうだ、親も居ないならあたしたちを縛るものが何もない。
 大人になったようなもの、うん。ピーターパンだよ?何にも縛られずに、自由に飛び回れる」
「紬、俺の話を聞いてくれ」
「那岐がその気ならあたしは何だってするよ?
 咲耶さんとした事は許すし、ううん。あたしが悪かったんだ。
  那岐だって年頃の男の子なんだもんね。あたしが満たしてあげなきゃ……あんなちんちくりんで妥協しちゃうよね。全部あたしが悪い。
でも今から沢山満足させてあげるから!あたしが居ればそれでいいでしょ?此処でずっと暮らそう?ほら、あたしって魅力的だと思わない?那岐には内緒にしてたけど小学校の時から何回も告白されてるんだから。
もちろん全部断ったから、那岐が全部初めてだから!嬉しい?」
何がピーターパンなのだろうか、まるで親の気を必死に引こうとしている子供だ。紬がこんなにも稚拙な言葉で話すのを俺は初めて聞いたし、普段なら小躍りするような誘いも意地汚く感じる。
眼の前のこいつは土蜘蛛だ―俺の心の中でそう誰かが囁いた。
「嬉しいよね?嬉しいって言って?」
「紬―」
「それともあんなちんちくりんが良いの?那岐にそんな趣味はないよね。ね、そうだよね?那岐ってばー!」
俺が言葉を続ける間もなく紬は話し続ける。俺と話している筈なのに、まるで俺の声が聞こえていないようだった。
彼女の髪や服は乱れ、表情は爛れ、眼は(うつ)ろ、荒い息で部屋を包みながら俺の身体を揺さぶっている。咲耶の事はともかく、下種(げす)の勘繰りも甚だしい。
「紬は死んだ」
「そんな―ひっ」
最初に此処に訪れた時、俺自身に対して発した言葉を紬に向ける。
刹那―紬は最後まで言葉を紡ぐ事も無く、砂粒のように消えて無くなった。立つ鳥跡を濁さず。どれだけ醜くなった紬であっても、その最期は桜の花びらのように美しく散りゆくのだった。
紬がどうなったかなどは知る由も無いが、眼前のささやかな幸せを摘んで俺も紬も不幸になってしまったのかも知れない。
先程までの苛立たしさも、かつて思いを寄せた人と会えない事を考えると瑣末なものに思えてくる。右手の震えを見ないように懐に隠しながら俺は覚悟と想いの境界で揺れていた。
「次は、咲耶だ」
俺は心の中で自分を鼓舞しながら必要以上にゆっくりと歩を進める。もう眼前には紬との光景は無く、ただ黒々とした深い闇が流れていた。

誓約


 「那岐さんっ!」
次は西の塔二階奥の部屋―夢に慣れてきたからなのか自らを神だと自称したからなのか、俺は扉を開くだけで東の塔から西の塔へ移動することができた。
咲耶は待っていましたと嬉しそうに俺を出迎えてくれ、大和は微笑みながらうっすらと生えた髭を撫で、伽夜は少し俺目配せしたのちほんの少し腰を前へ傾けた。
相も変わらず家族三人仲が良く、否。仲が良く見えるだけで幾つもその仲には違和感が蔓延(はびこ)っている。大和と伽夜は距離を測りかねているようで、まるで付き合いたてでお互いの事をよく知らないお見合いカップルのようだ。
咲耶も咲耶で、持ち前の行動力を活かして両親と楽しそうに話しているが、その笑顔は若干の翳りを孕んでいる。そもそもどんな神経であれば自ら殺めた人と仲睦まじく話す事が出来ようか。
現に出来ていない。怯えている両親と賤しい笑みの咲耶の構図はまるで標的にされた兎と獲物をいつでも食べられると涎を垂らすライオンだ。
捕食される側と、する側。その構図を見ていると、早く終わらせなければならないと俺を(はや)らせた。
「那岐さん、丁度貴方の事を話していたのですよ。
 ほら咲耶。那岐さんにも紅茶を淹れて差し上げなさい?」
「そうですねぇ!那岐さんっ!ちょーっと待っていて下さいねぇ」
咲耶は席を立ち鼻歌を入り混ぜながら紅茶を淹れ始めた。
大和がその隙に空いている椅子を引いたので、俺はその席に座る。
「そう言えば那岐くんは日本神話が好きなんだって?咲耶から聞いたよ。那岐くんとは趣味が合うようだね」
「えぇ、咲耶さんに出会ったのもそれがきっかけですから」
俺は思い出したくも無い記憶を再三呼び戻す事になった。
高天彦神社に土蜘蛛塚―俺の最も愛する、安楽の地となっていた筈の場所は、いつの間にか最も思い出したくない恐怖と不快感と血のこびり付く地獄のようなものとなってしまった。
俺は少なくとも此処で暮らしている人を消す神になった、と自覚していた。だから、神の土地である神社が穢される事に今迄以上に怒りを感じているようだ。
例えそれが、どんな特別な相手であろうともだ。いや、だからこそかも知れない。大切な土地である事を知った上で穢すなら罪深さもひとしおだ。
「はいっ、どーぞ!
 この前那岐さんが喜んでくれたいちご大福も付けちゃいますっ!」
大和と雑談をしていると程無く咲耶が紅茶といちご大福を運んできてくれた。
この珍妙な組み合わせも一度食べ合わせれば何てことの無い、寧ろこの日英同盟のような組み合わせは俺のお気に入りと言えるものに変容していた。
「ちょっと咲耶、普通紅茶にはスコーンとか、アップルパイとかの洋菓子を合わせるものでしょう?いくら何でもいちご大福だなんて」
「いえ、これで良いんです。前に頂いた際にとても美味しかった事を咲耶さんは憶えていてくれたんですよ」
食事というものは不思議なものだ。
一見変な組み合わせだと思っても、意外に合うものもある。料理は科学する、とは言いえて妙だと眼前の一見珍妙な組み合わせを見て実感する。
あまり伽夜を心配させるのも気が引けるので早速いちご大福から一口頂く。餅は弾力しっかり、餡は甘さ控えめで、苺はとびっきり甘い。
以前に藤沢が来た際に食べたいちご大福と同じか、それ以上に優しい味が口の中に広がる。そして口の中を暴れまわる餡を紅茶で流すと口の中に味が残る事無くさっぱりとした口当たりになる。癖の無いダージリンは俺の心を落ち着け、同時にこの家族に恐怖を感じた。
「あら、本当に美味しそうね。今度私もいちご大福お願いしても良いかしら?勿論お父さんも一緒にね?」
「おいおい、私は甘い物があまり得意では無いのを知っているだろう?弱ったなぁ」
落ち着いた大人の雰囲気を持つ大和も伽夜の前では形無しのようで、年甲斐も無くいちご大福の予約に慌てている。
新聞を片手に飲んでいる紅茶もストレートのようだし、正に俺の理想とする不器用な父親像だ。
因みに生憎だが俺は自身の父親の事なぞ憶えていない。臭い物には蓋をするし、そもそも会う事ももう無いのだろう。
両親の方だって心配どころか共々せいせいする筈だ。
「それで那岐さんは、何をしに来たのですか?」
聞きようによっては無礼にもなるであろう直球を俺に投げつけてくるが、その方が都合が良かった。案の定伽夜は怪訝な顔で俺を見つめている。
何せ紬の時とは違って、相手は三人。仲睦まじく見える三人の家族は表の姿で真実の鏡に照らせば、死人二人に殺人鬼一人だ。
己を神かのように自惚れ実際に神事の真似事をしている俺とは言え、気を抜けばどうなるか分からない。
俺は慎重に言葉を紡ぐ事を余儀なくされている。紅茶を飲んで心拍を落ち着かせてゆっくりと背筋を伸ばした。
「咲耶は、何かおかしな事に気付かないか?この城の事や家族の事も含めて」
恐る恐る言語という大海から言葉の宝石を(すく)いあげる様に話す。どうした事か七代と話をする迄は咲耶の異常な行為なんて気にも留めなかった。
夢の中ではそれ以上に不可思議な事が共存しているが故に、外でも説明のつく猟奇的な殺人なんぞ当たり前の事だと思ってしまったのかも知れない。
つくづく俺は夢への順応が早いもので、外で暮らしていた田舎の街から都会に移った方が幾分と慣れが遅いのではないかと思う程に、夢はいとも簡単に俺の日常へと紛れ込んでいた。
咲耶の表情を窺うとそれに気付いたのかすぐに笑顔になる。だが須臾(しゅゆ)に消え去った咲耶の狂気という形容も生温い笑みを俺は見逃さなかった。あれは土蜘蛛と見做した伽夜や、殺意を向けてきた紬に対して見せた咲耶の殺気そのもので、俺の背筋が凍り付く。
「おかしな事ですか?そうですねぇ、その質問が違和感満載だ!って事では無いんですよね?」
「あぁ、真剣な質問と捉えてくれて構わない」
「ですよねぇ。そうだなぁ……」
そう言うと直ぐに俺から顔を背けて考える素振りを見せる。
あからさまに咲耶は誤魔化そうとしているようで、俺は声を荒げそうになるのを必死で抑えた。今此処で荒げてはどうなるか分からない。どうしてかくも感情的になってしまうのか。
七代と話して覚悟を決めてから、俺は俺が俺でないような気がしてならなかった。
俺は何故こんなにも怒りを感じる性格をしていただろうか。
何故こんなにもキツい物言いをしていただろうか。
何故こんなにも慇懃無礼な事をしているのに、罪悪感を感じないのだろうか。
「特に、一人で居る時―」
俺の思考は咲耶の暗く重たい声にて中断する。考えが中途半端なのと重たい空気に俺は暗澹(あんたん)たる思いでその続きを待った。
「私は、私では無くなるんです」
「それは俺に会う前の事なのか?」
眼前には咲耶の両親がが居る為に声に出すのも憚られる事だったが、注視すると大和も伽夜もまるで生気が吸い取られたように項垂(うなだ)れている。
異様な程丁度良いタイミングで、俺や咲耶が何を言っても全く反応しない植物に戻ったようだ。
タガメに捕食されたカエルのようにその皮膚だけでぐったりしている。
「那岐さんに会う前は確かにそうでしたね。明確に私の中にはもう一人、共存していました。その時は共同所有です。
 木花咲耶という肉体を私ともう一人で使っていたんですよ。今は少し違いますけど」
それを聞いても俺はあまり驚かなかった。日常的に活字を読むからでも、此処が夢の中だからでも無く、それには身に覚えがあったのだ。
いつもの聡くて優しさも兼ねた咲耶と、あの渇いた笑みを溢す狂気じみた咲耶。
俺は無意識に別人だと思っていたし、そうであって欲しいと願ってもいた。
「今は、そうですねぇ……私が乗っ取られていますね。でも、それを私は望んだんです」
眼前に居る咲耶はどの咲耶なのか、俺は測りかねている。
「何もできない頭でっかちな私よりも、何でもできる狂乱な私に木花咲耶を委ねたいと思いました。
 あ、でも那岐さんへの気持ちだったりとか大まかな事はどちらも変わりません。どちらも私ですから。
何より那岐さんも心強くありませんか?何てったって今の私は紬さんにもお母さんにも負けません。
死ぬまで那岐さんを護ってあげられます!……あれ?夢の中で私達は死ぬんですっけ?あははは」
咲耶が言っている事は本当なのだろうか。少なくともそんな疑念が俺の脳内に生まれた時点で、俺の出すべき答えは決まっていた。
「どうやら交渉決裂だ。
 俺は死をあるべき場所へ、そして咲耶にも報いを受けてもらわなければならない」
「そうですか。それは大変な事で、私も残念です。
 何せ(ようや)く戻った家族の形でしたから」
俺の覚悟とは裏腹に、咲耶はそれを他人事のように受け止めていた。
自分にとっては全く思い入れの無い海外で起きた殺人事件の報道を見るかのような無感情なその表情に、俺はこれから何をしようとしているのかを忘れるところだった。
「それで、最期に聞いておきたい。
 その、ようやく戻った家族の形。それを最初に壊したのは咲耶だ。
何でそんな事をしたんだ?」
咲耶の雰囲気に飲みこまれないように、俺は一つ咳払いをして更に一拍置いてからそう告げた。
彼女の言動から多少の推測は出来なくも無いが、此処に来てからの咲耶の思考を俺は読み切れないでいる。
それに一夜の過ち故の事かも知れないが、咲耶自身の口から事の真相の義務があると思っている。今度は顔に優しい笑みを浮かべ、どことなく悟った表情へと自らを変えた咲耶は哀愁を漂わせていた。
「未練です」
「未練?」
咲耶の事だから、また俺の予想だにしていない側面から切り込んでくるのだろうと万死一生の覚悟で構えていたのだが、その斜め上からの発言に些か拍子抜けした。
だがそのありきたりな言い回しが本心である事を彼女の眼が告げていた。
何に流される事も無く、ただ真贋を見抜く眼。それを咲耶は持っていて俺もそこに惹かれていた。
「私達ずっと独りぼっちか、多くても二人でしたもんね。
 だから私は大勢の私を認めてくれる人に囲まれて過ごしたかった。その欲が顕著に出た結果が、この城に顕れているんです。
 例えばこの広さ。最初はこんな大きな城に私が一人だけで、いや最初から植物のお父さんは居たんでしょうけどね。あははは、でも本当はこの部屋全部を埋めたくて……
お母さんと紬さんに会えたのは好都合でした。私が感情を、未練を残すような人を殺して集めればこの夢の世界に本当の楽園が出来るんです」
楽園の創設。俺に笑顔で毎日紅茶を淹れてくれていた咲耶は、心の中でこんなにも大それた事を考えていた。
「父は私が外で暮らしている時に殺しましたけどね、実は私も那岐さんみたいに畏れ多さを感じられていたんです。
 幼すぎる容姿に達観しすぎている考え、好きな神話や一人ぼっちな事は孤高だと思われていたんですかね。
心と身体、お母さんを見れば分かるかも知れませんがお父さんは幼児趣味が抜けませんからね、身体の方だけを寵愛して私の心を棄てた」
だから殺したという事だろう。
だがその理由が何であれ、実の親を自ら手にかけて言い訳が無い。俺だってそれを本気で考えた事は一度や二度では無かったが、その度に俺が生まれた時にはあんな家族ですら本気で喜んだのではないかと考えを巡らせた。 保身に絡みつかられて首元までそれが伸びている両親ですら、俺が生まれた時は泣いただろうし、将来の事を夢見がちに夜通し語らった事だろう。
咲耶はそれを考えようとはしなかった。感情をそのまま殺意へと昇華させたのだ。
それは衝動的では無く、感情的では無く、妥当との結論に至って事に実行する。その結果があの狂気の咲耶を生み、今この現実染みた夢を俺達は見させられているのだ。
「それに―」
咲耶の雰囲気が変わり、俺は反射的に身構える。
元々手荒な事をした経験がまるで無い俺が構えたところで何の役にも立たないのだが、そうせざるを得ない相手がそこにいた。
「”死”とは”穢れ”を表すもの、当然那岐さんもそう考えていると思います。
だからです。私を見る眼が”死”を感じる程になるまで”穢れ”ていた。だから殺しました。それなら充分那岐さんも納得できるでしょう?」
狂気的な咲耶の結論はそうなのだろう。
何という皮肉か、どちらの咲耶も古事記をなぞらえているという事だ。本質的には同じ存在であり、かくも大きく異なると言えども全くの同質。
われ思う故にわれありとは、あくまでわれが一人であるが故の命題なのだろうと実感する。哲学は実は現実に即しているかも知れないが、少なくとも夢には即していない。
これを聞いたデカルトは驚天動地だとか言って夢学者になるのでは無いだろうか。全く、夢はかくも罪深いものか。
「此処でさよならだ」
俺は逃げるようにそう告げて部屋の鍵を探した。
奥の小さなテーブルに一筋の光が差している。一度見た事があるその鍵は此処の部屋を閉じる鍵だ。この部屋は内側からは決して鍵を開ける事が出来ないから、これを閉じて鍵を棄てれば咲耶とは今生の別れを遂げるのだろう。
軽く肩が触れるも、俺の事を止めに入らない咲耶を横目に手にした鍵を握りしめる。
大和と伽夜の方をチラリと仰ぎ見ると、会話は一区切りついたのに未だに彼等は動き出さなかった。再度植物のように根を張った彼等はもう二度と動かないのかと思い一瞬躊躇うも、ゆっくりと扉までの道を歩む。
紬の時と違って、急いでも多少の時間がかかる所為で俺の心は揺れに揺れていた。咲耶が以前に話した夢は、この夢の中では幾らでも実現できるものだ。紬と居る事も出来ただろう。俺はそれを全て棄てるのだ。
外の世界と違って、此処での現実は形を持っている。霞のような外と明確な形を持った此処は、俺の想像していた夢のイメージとは異なっていたが、それでも棄てて俺は扉を閉じた。
その間に咲耶は一言も発さなかったが、扉を閉じる直前に何かを言おうとしていた。二人に見えた咲耶の二人共が同じ言葉を告げようとしたが声には出していない。
だが俺には何を言わんとするかが分かってしまった。不覚にもここ一番で気が揺らいでしまったが、自分を鼓舞する想いで鍵を握りしめる。その時初めて、手だけでは無く全身の震えに気付く。
「悪いな。もう俺は紬にも咲耶にも負けられないんだよ」
危うく鍵を閉める前に鍵を落としてしまうところだったが、両手でそれをしっかりと締めた。
ガチャリ―というあっさりとした音と共に、咲耶と俺の間の世界が断絶された。いくら此処が理想の夢の世界とは言えども所詮夢であるのだから、この薄っぺらい扉一つで他人の夢には干渉出来なくなる。
自分に負けないように天を仰いだが、そんな抵抗はほんの数秒しか持たずに俺の眼は氾濫したダムのように激しく水が流れ落ちる。 その流れにこの鍵も乗せて、完全に世界を隔絶させた。
俺と咲耶も、俺と紬も、この涙のようなものだったのだ。生涯続くと思われた深い関係も、現状一番頼りにしている七代と決めた一世一代の覚悟も、かくも簡単に崩れて流れ落ちる。
何が神だろうか。自分の自惚れが随分滑稽に思えてきて、俺は全身を真冬に雪が降った時のように震えさせながら笑った。何故だか分からないが、暫くの間笑いが止まらなかった。
「さようなら、またいつか」
咲耶からの言葉をそっくり返しても、もうこの声が届くことは無いだろう。
一歩一歩を噛み締める様に歩を進める事は出来たのだが、また一つささやかな幸せを棄てたのだ。眼前の黒は更に深くなり俺はどちらが前とも後ろとも分からなくなっていき、刻々と時が流れる毎に歩を緩めやがて立ち止まった。
「何だこれ?」
精密な視覚機能が損なわれて触覚に神経を費やしたのだろうか、先程迄は気にならなかったが着物の帯に何か入っている。
俺は帯に何かを挟んだりはしていないから、それを仕向けた相手は一人しかいない。帯を崩さぬようゆっくりとそれだけを引き抜き、ぼやけた焦点を合わせて目的物を凝視する。辺りが暗がりで細かい所までは良く見えないが、色くらいなら判別可能で、その色が仕向けた相手を駄目押しで証明する。
「黒と、赤か」
その色を口にしただけで、塞いでいた口元の感情が思わず綻んで笑みを映し出す。その置き土産になったハンカチを口に当てて表情を隠し、覚悟を揺らしてしまわないように注意しながら少しだけ歩を進める。
やがて先程と同様に歩を緩めて立ち止まった。そのまま瞑っているのか開いているのか分からない眼に意識を高めたが、その意識は再び戻る事は無く眠りに堕ち続けていくのだった。

鏡に映る神


 高天彦のそれとでは、比べるのも烏滸(おこ)がましいくらいに立派な大鳥居をくぐって参道を歩く。これも長い長い参道で、悠久に続くかのように見えるその道は黄泉へと向かうような気持ちにさせる。
彼女の隣には見覚えのある植物が枯れては生えて、生えては枯れてを繰り返して彼を参道の道へ進ませる。
「折角だから、那岐に倣ってみようかしらね」
そう言うと彼女は手水舎に行って柄杓を取る。二回目で手慣れたものになっているのは、熱心に彼の話を聞いていたからなのか元々要領が良いのか、恐らく両方であろう。
これまた二回目だから言うまでも無いが、彼女は初心に帰りながら柄杓を右手に持つ。一連の儀式染みた動作をを終えて最後に柄杓の持ち手を洗う。清めているのは分かるのだが、六根清浄の心持ちとは無縁な彼女からすれば禊なんぞは(ぬか)に釘、暖簾に腕押しだ。
起きた時に彼が口うるさく言うかも知れないが、彼にも禊を施しておいたから問題無い筈だ。引き続き灯篭に区切られた参道の道を歩む。
彼女は元々歩くのが遅いし、その隣を行く植物は更に幾分か遅いから歩の進みは亀のようである。それでも一歩一歩、確実に歩を進めれば辿り着くものだ。
眼前には大仰な拝殿が立ち塞がる。人々の中には此処が本殿だと、御神体があるのだと思う人が居るだろうが本殿があるのは更にその奥だ。拝殿を揺蕩(たゆた)うようにすり抜けて目的の本殿へと向かうと、信仰心なぞ欠片程にも無い彼女でも身の引き締まる思いを感じるようで身体が強張った。
それも間も無く一片の雪のように馴染んで消えて、幣殿もすり抜けて本殿へと辿り着く。早送りにしても尚スローモーションに見える速度で歩を進めていたため、実際の動きはコマ送りのようだった。
飄々とした彼女は飲食店の扉をくぐるように奥の扉をすり抜ける。生活感は愚か、人の気配も神の気配も無い本殿には涼しい境内よりも更に冷たい風が吹き抜けた。
神社によってその形式は千差万別だが、此処には神棚、厨子が在る。
「ふふっ、御開帳ー」
彼がもし起きていて、この光景を見たならばショック死するのではないだろうか。
信仰心が無く、信仰される側の彼女は泥棒が金庫を開けるようなぶっきら棒さで厨子を開ける。幸いな事に彼は未だ起きる気配は無く、すっぽりと植物の携えたベッドに入り込んでいた。
中には御神体が、その手前には鏡が在った。天照大御神を模した鏡は偉そうにふんぞり返っているように見え、彼女は少々憤りを感じたが、それも吹き飛ばす程の気持ちの(たか)ぶりが彼女を覆っていく。
植物を使役し、今迄の亀の速度が嘘のような迅速さで準備を整える。
「まぁ、こんなもので大丈夫よね」
「えぇ、全くご存じないというのにこれは上々でしょう」
何処からか(さっ)と現れたこの男は外の価値観で言えばストーカーと呼んでも過言では無いだろう。
恒常的にのらりくらりとゆらゆら揺れているようなこの男は、その雰囲気とは対照的に過剰な程に姿勢を正している。
「那岐は結局起きなかったわね」
「首尾も上々でございますよ。彼は無事―とは言えませんが上手く立ち回りました。
 及第点くらいはあげても文句はありません」
彼女は無視して独り言を続けたつもりなのに、この男は尚も話しかけてきた。咎めようにも彼女自身が知りたかった情報だったので開けた口は塞げざるを得なかった。
身に纏ったド派手な衣装は純和風な本殿では浮いていて、人間の中に神が混ざり込んでいるようだった。この男が神とは到底思えないが、海を越えた先の神はもしかしたらこんな風貌なのかも知れないと思うと、日本で良かったとしみじみ思うものだ。
「さて、私はこれからどうしましょう?付き添うのも寄り添うのも護衛をするのも構いませんが」
彼女はこの男の事を鬱陶しく思うのだが、彼女以外の、例えば彼にはそれ以上に鬱陶しく面倒な話し方をしていたのを知ってから多少気が楽になっていた。
同時に、彼女は彼に変な負担をかけたであろう事を若干後悔する事になった。
「なら外でも何処でも行って頂戴。私は那岐と居たいわ」
何故この男がかくも懐いたのかは見当もつかないが、ほっとけばやたらと付きまとってくるに違いない。
何やら彼女を信仰しているようだが、それなら先ずは彼女に倣って着物を着て欲しいものだと考えている。洋服というだけで見ていて落ち着かないのに、この男の派手さにはうんざりするようだ。
視界に入っているだけで集中力を削がれるのだろう。彼女はこの男と居る時は、常に苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「それは残念です。ならばここでお別れとなってしまいますね」
この男は彼女が思ったよりも素直に従ったのは、彼女が本気で怒りを顕わにしていたからだ。
此処が二人の―いや、二人と一人の断絶の場所となる。
紬が、咲耶とその家族が、彼女達から断絶されたようにこの男も彼女達の世界とは断絶されるのだ。
幾ら離れていても本質的には繋がっている光と陰のような関係から、幾ら近付こうとも二度と向き合う事の無いコインの表と裏のような生と死の関係になる。その事実はこの男すらも喪家之狗(そうかのいぬ)のように衰えさせ、次第にこの男の顔が青々と痩せこけていった。
夢の世界のイメージは外よりも早く形に表れるから、それだけ(こた)えている事が彼女にも顕著に伝わって多少居た(たま)れない気持ちにさせた。
「では、段取り通りに過去の清算をしておいて頂戴。見てきたのでしょう?」
「その全てを」
間髪入れずにそう言うと彼女は満足そうにそっと微笑む。
「良い夢を」
「はい。それではもう少しだけ夢の続きを視させて頂きますね」
この男は最後に謎の籠らない笑顔を見せて本殿を後にするべく彼女に背を向ける。
いつもは神出鬼没のこの男も、今回ばかりは未練がましい亀のようにゆっくりと歩を進める。
 この夢に終わりは無いかも知れないとは思うが、夢というものは終わりがあるからこその夢なのだ。この男の夢はこの夢では無く、彼女に付き従う事だった。形も無く自由に飛び回れたこの男の夢は刻一刻と終わりに向かって進んでいる。
「さようなら」
彼が最後に告げた言葉と同じ言葉を彼女も口にした事に、この男は意外そうにその眼をぱちくりとさせた。哀愁漂う背中が少しお道化た様は衣装とも相まって、ピエロのような雰囲気を醸し出す。
「お気を付けて」
気の所為か、常に彼女に対してのみ発せられていたこの男の言葉だったが、最後のその言葉だけは彼に向って告げられたもののように聞こえた。
彼女は優雅に笑い、この男は本殿を後にする。本殿を冷たく取り囲んでいたその空気は、見ていなくとも存在しているだけで騒がしいこの男が去った事で、より一層勢いを増して吹き上がる。
本殿には彼と彼女の二人きりに戻ったが、彼を入れた厨子を閉めた事で彼女はたった一人になる。不思議と寂しさは無いが、否、これも不思議では無い。
彼女はこれで彼と共に居られるのだ。彼は外の全てを棄てて此処に来た筈だったが、思わぬ不確定要素に阻まれて、此処で外出身の少女達との繋がりを強めてしまった。
それも今日でお終い。此処での夢の終わりは新たな夢の出発へと繋がり、そしてその夢は決して終わる事の無い唯一の夢。
彼女はその夢に思いを馳せながら、ゆっくりとその瞼を地へと下ろすのであった。本殿には他に人もおらず、神ですら彼に打って変わられた故に彼女の安らかに眠るその顔が彼のそれと、そっくりどころか全く同じ顔であった事を知る者は居なかったのだ。

書き換える


 「おぎゃあ!おぎゃあ!おぎゃあ!」
そんな声が部屋中に駆け巡る筈なのだが、それは杞憂に過ぎなかった。
母の付けるネックレスのチェーン程の身長と、父の使う広辞苑程の体重をもって生まれた新しい命は生後零秒の段階で既に仕事を放棄する事を覚えていた。
赤子の第一声を心待ちにする父と早速兄貴面する彼の期待も虚しく、病室内には母がぼんやりと呼吸を整える声しか伝わらなかった。看護師さんもこんな経験は初めてなのか、率先して声をあげたりフォローをしたりする事も無く不安そうな顔をしながら母に寄り添っていた。
幾ら経験を積んだとはいえ、想像だにしない事が起きれば人間はかくも呆気なく無力化するのか。蟻だって熱心に食糧を蓄えて冬に備えても、家が豪雪で吹き飛ばされてしまえばどうにもなるまい。
それ程の衝撃を彼女は生後零秒で与えられる程の力をその小さな身体に内包していた。家族や看護師の絶対を両の掌を大きく広げた程度しかない彼女が否定した。
「七代ちゃん!初めまして!」
唯一人―病室の中で呆気にとられた家族や看護師を放って眼前の新しい生に興味津々と言った様子の彼は、彼女に父や母、看護師といった他の誰よりも先に声をかける。
実は七代という名前は彼が付けたものなのだが、まぁ兄が妹に名前を付けるのは何ら珍しい事では無い。もし珍しいとすれば、実は彼がやっと乳児を卒業して幼児一年生であったり、その歳で七代なんて難しくて親の歳でも候補に挙がらないような名前を命名してしまった事だろうか。
七代は神世七代(かみよのななよ)から取ったんだと自慢する彼は漢字まで読み取ったのだからここまで来ると両親の感じたものは感動を踏み越えて戦慄すら覚える。
「あ……う」
今にも消えてしまいそうな声にならない声をあげた彼女は、未だ座っていない首をフラフラさせながら彼の方を見つめる。どれだけ落ち着いていて心が成熟していようとも、人としての機能は勿論成熟してはいない。
彼女は泣くでも無く笑うでも無く、ただ機械のように、のっぺらぼうに目と鼻と口をくっつけたように無機質だった。蚊の鳴くような声であっても、彼女が第一声をあげた事で漸く感動を実感したのか父は年甲斐も無くはしゃぎ始め、
「パパだぞ~!」
なんて言い出す。
母もそれに続いて、
「私がママですよ~七代ちゃん!」
と満面の笑みで言うのだが、彼女はまるでそれらが居ないもののようにして気にも留めなかった。
抱き上げようにも危なっかしいし、親の愛が子にも伝わり云々と講釈を垂れようにも、彼が名前を呼んだ時以来、感情は愚か声すらあげないものだから気まずい空気があっという間に支配してしまった。
その外側に居るのは世界中を巡っても、本人である彼女と彼の二人きりだった。二人は理屈では証明できないどこかで繋がっているのか、その後も二人で笑い合う事は絶えなかった。
それとは対照的に、父と母はそんな二人の子供を育てていくにつれて笑みどころか正の感情が薄れていく。気付けば一日の大半を我が子に対しての負の感情を顕わにして過ごす事が日常と化す事になる。
先ず、子育てとはいっても兄妹共々全く手がかからずに拍子抜けした。
それに、お漏らしはしないし好き嫌いはあるにしても食事の手は止めない。
また、夜も急に泣き出して起こされる事なんて一度たりとも無かったものだからご近所さんには羨ましがられる日々だった。
だが、それも父と母には皮肉にしか聞こえない。
「うちの子はすぐ泣きだすんですよ。それも夜中に大声で」
「うちの子は中々立って歩けなくて、言葉もまだ喋れませんし」
「うちの子なんて未だにお漏らししなかった事が無いんです。
 本当にいつかオムツを外せる日が来るのかしら」
そして最後に決まって、
「お宅の兄妹が羨ましいです」
と口々に言うのだから、(たま)ったものではない。
泣き止ませる事や、歩いたり話したりを教えたり、お漏らしを止めさせるのは大変な事かも知れない。
だが手のかからない事言うのも不気味なもので、間違いなくあると思っていた前提の部分が呆気なく崩れ去るものだから父も母もどうすれば良いのかわからなくなっていた。
結局父と母に残ったものは不安の積もった不満だけで、それをぶつける事でしか接せなくなっていたのである。


いずれ、あの子には親すらも要らないのではないかと心を痛めたのが、かくような負の感情が温もり溢れる筈の夫妻に蔓延(はびこ)るようになった原因である。
丁度彼が幼児二年生に、彼女が乳児を卒業し乳児一年生になった頃の事である。
当時の兄妹二人は、頻繁に父の書棚の学術書を読んだり足つきの立派な碁盤に向かい合わせて囲碁を指すようになっていた。
父は法律学を研究する身でありながら、同時に神話や古典を愉しむ趣味を持ち合わせていた。流行り物好きの、所謂ミーハーな母からすればかくような御堅い趣味は受け入れられないもので気味が悪いと嘆いていたが、彼も彼女も父の遺伝子を色濃く受け継いで夫婦の確執の一つになっていた。
兄妹二人がゲームソフトやファッションに当然に興味を示す歳になると、古事記を読み解き与えられた自室で熱心に議論に明け暮れた。
黄泉国(よもつくに)とは?死って何だろう?」
一般的にはランドセルを背負う程の年齢の時にその存在を知り、十代半頃になれば病を患う事により誰もが一度は思案する”死”という普遍的な概念に、彼等は怯える事も無く黄泉国を交えて熱心に議論を重ねていた。
「私達の未来は何が起こるかは全く分からないわよね。
 例えばお母さんは晩御飯をハンバーグと言っていたけれど、何かの拍子にパスタになる可能性を決して否定できない」
彼女が身近な例え話で語ると、彼がそれに返答する。
「そうだね、でも死は絶対に訪れる。それ以外の事はどんな事でも可能性は零では無い。でも死が訪れないという可能性は零だ」
「そうね、神ですら寿命があるのですもの。まぁ寿命がある者を神と言っていいのかは難しい話よね」
これに邇邇芸命(ににぎのみこと)木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)の記述だねと彼が返す。
こんな話を他の子達がゲームやら服の話をしている最中(さなか)に繰り広げるのが彼等の日常であった。幼稚園では孤立を生むのは必然で、それを意にも介さない彼等に両親も距離を置くようになっていった。


「おはようございます」
「あ、あぁおはよう」
一日の親子の会話がこれだけになったのは彼がランドセルを背負うようになった頃であった。
彼の名前にも用いられている伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と、伊弉冉尊(いざなみのみこと)についてが専ら兄妹の会話の主軸であった。最早その知識は父を優に超え、彼等がお互い以外と会話する事は挨拶を除けば一切無くなっていた。
「ただいま」
彼が小学校から帰宅すると母は買い物にでも出掛けたのだろうか。殊勝(しゅしょう)な事に彼女が一人で留守を守っていた。
「お帰り」
二人に与えられた八畳に入ると、彼女の声はどこかぼんやりとしていた。
当時の彼は、妹が一人で留守番は不安だったろうにと心を痛めた。彼の中では彼女は一人の幼い女の子で、かけがえのない妹なのである。
ピカピカのランドセルを机上に置き、学校では(かたく)なに開かなかった口を開き、議論に熱をと思った矢先の事だ。
「ねぇ那岐、私が死んだら黄泉国まで迎えに来てくれる?」
それは疑問詞を用いたものであったが、その言葉の奥には彼女と初めて言葉を交わし、最も長い時間を共に過ごした彼ですら初めて聞いた彼女のお願いであった。
「うん、勿論だよ。僕は七代の為なら何処へでも行くよ。
 黄泉国はちょっと怖いけど、でも七代が居れば大丈夫!」
まだ自分の事を僕と呼んでいた彼がそう言うと彼女はホッとしたような、満足気な表情を浮かべてくれたので彼も追随してホッとした。
「それに伊弉諾尊のようにはならないから。古事記を読み解いた経験を活かして、伊弉冉尊を置いていかざるを得なくなった伊弉諾尊のようにはならない。絶対七代を連れて帰るから」
彼は彼女を(なだ)めるでもなく自分を鼓舞するかのように言った。そうでもしないと尻込みしてしまいそうなくらいに七代の様子がいつもと違ったのだ。
「ありがとう。でもね那岐、もし黄泉国に来てくれたらそれだけでいいのよ。
 私と一緒に黄泉国で暮らして頂戴。二人の世界でならもっと楽しい事があるわ」
「う、うん。そうだね」
彼は曖昧に返答するのが精一杯であった。何せこれまで以上に凄みのある彼女の言霊とも言える言葉の節々に圧倒され、()つ脳裏には一人の女の子が浮かんでいた。こびり付いていたと解するのが妥当かも知れない。
その女の子は幼稚園の頃から一緒のご近所さんで、現在同じクラスに所属するクラスメイトであった。美しい名前を持つ女の子は見た目も所作も非の打ちどころがなく、それでいて何故か事あるごとに彼に話しかけてきたのだ。
「次の授業何だっけ?」
「今日の給食美味しいかな?」
「算数の宿題分かった?」
業務連絡から張り紙を見れば一目瞭然な事まで、まるで理由を付けるかのように(しき)りに話してくる女の子をノンバーバルコミュニケーションで()なしながらも、彼は少しずつその女の子に惹かれていった。
「待っているからね」
それに頷くだけした彼は、もしかしたら彼女には全てばれてしまっているのではないかと不安になった。その所為もあって、この日は珍しく二人がこれ以上語らう事は無かったのである。
「待っているからね」
それが彼女の最期の言葉となる事を知るのは、それから二日を過ぎた頃だった。
即死だった。
「ここまでは保存。っと」


幾ら知識の量が大人を凌駕していようが、体重にして二十キロにも満たないちっぽけな命はあっという間に消し飛んで真夏の蛍よりも早く消えて無くなった。
横断歩道を母とともに歩いていた、地面が焼け焦げるような暑い暑い夏の事である。
彼女は聡く、そして聡過ぎたのだ。父や母さえも畏れた聡さ故に、小さな命である事を忘れたのである。気付けば彼女の姿は消え、次に彼女が見つかったのは深い深い海の底であった。
事故か、殺人か、将又(はたまた)入水自殺か。遂には警察も匙を投げたのである。奇妙な程に彼女の痕跡は無く、犯人は愚か目撃者さえも見つかる事は無かった。
もしかしたらその聡明さによって、圧倒的に短い人生の死期を、預言者の如く感じ取っていたのかも知れない。その日から彼は二人に与えられた八畳から出て来なくなった。
二人でも大きく感じる八畳は、彼一人で扱うには手に余るものだった。いずれこの八畳が小さく感じる日が来るのだろうかと耽っていた事も全て水泡に帰する。いずれこの八畳からも追い出される日が来るのだから。
両親は悲しむ事こそあれ、時にはどこかホッとした表情を浮かべる事もあり彼にはそれが耐えきれなかった。


時間というものは恐ろしいもので、ただの数日内でも彼の身の回りでは大きな変化が(もたら)される事になった。
「こんにちはー!」
女の子が彼の部屋へと踏み込んでくるようになった。それも遠慮もせずに、ズカズカと、一直線にだ。
最初の頃は呆気にとられ、憤りを感じ一人になれば暗澹たる気持ちを振り払えないでいた彼も、時間と共にそれらを受け入れられるようになっていた。
「そう、それでね?青山さんがね、あたしの服褒めてくれたの!
 美香ちゃんとはお気に入りのシールを交換してー、ほら!可愛いノートになったでしょ?」
同学年の子のそれと比べると少し大人びたワンピースを身に纏い、ペタペタと乱雑に張られたお気に入りのシール帳を見せびらかす女の子は、彼からすれば突然現れた太陽。正にゲリラ太陽と呼べるものだった。
「うん、可愛い。紬は元気で良いね」
脳というものは上手く出来ていて、本当に絶望して心を壊しかねない時は無意識下でそのトラウマを忘れようと励むのだ。
心を痛めた彼は幼い事もあり、これまでの彼女への依存を女の子へと昇華させた。
黄泉国へ迎えに行くという幼い頃の約束事など、記憶の片隅からも零れ落ちて人知れぬ露となって消えていった。
以来高校生になっても、家から追い出されるように一人暮らしをする事になっても、幾ら古事記や神話を読み解こうとも、彼女の事を思い出す事は無かった。
両親も必死に忘れようと励んだ事が幸いして彼女に関する一切のものが消えて無くなり、歴史から七代という彼女の存在が水泡に帰したのだ。
人は死んでも誰かの心に残り続ける。だから肉体の死は本当の死では無いと言う者がいる。確かにそれは言いえて妙だ。しかしどうだろうか、皆が忘れ誰一人として憶えている者のいなくなった彼女は、果たして生きていたと言えるのであろうか。
それこそ神のみぞ知る事であった。そう、神のみぞ知る。神になる事を覚悟し、御神体に入れられ(まつ)られた彼はその事を次第に思い出していった。


 彼が高校生になって葛城主高校の門扉をくぐった頃には、もう彼女の事を思い出す事は一切無くなっていた。と言うのも起きている間、彼女に関する一切の出来事は無かった事のようになっていたが、唯一夢の中では、庶民がレストランにディナーする程度の頻度では彼女との思い出を追体験していた。
その日は決まって雨の日だった。故に夢の中では彼女の事を憶えているのに、朝になればその殴るような雨の音にその記憶も流れ去っていく。
彼は高校生になっても内に(こも)った性格を拗らせており、これが唯一彼女の遺した置き見上げとなっていたのであろう。彼女の生前から交流のあった(くだん)の女の子というイレギュラーを除けば、彼の身の回りの関係は彼女の生前の頃から止まって動かない壊れた古時計の秒針のようでいた。
「おはよ!」
彼を起こすのが彼女から女の子に。
「あぁおはよう。何だか良い匂いするな」
「えへへ、分かる?
 折角那岐が一人暮らしする事になったんだし朝ご飯作ってみたの!和食、好きだよねー?」
「うん、最近慌ただしくて美味しい朝ご飯が食べられるなんて夢のようだよ」
彼が話す相手が彼女から女の子になって、彼女という壊れた古時計に代わって女の子という新しい時計がゆっくり秒針を鳴らし始めた。
とは言え一年の時点では彼等は同じクラスでは無かったため、彼の孤独は担保されていたわけである。故に彼が真に自らの殻を破る瞬間は二年生へと進学した折であった。
「那岐、同じクラスだよー!やったね」
彼と二人の時以外では一枚防弾ガラスを隔てたような取り付く島もない女の子が珍しく公共の場ではしゃいでいる。
綺麗に整えた髪を気にせず振り乱し、美しい能面のような顔を皺くちゃにして喜んだ。女の子の本性を知る由も無い周りがボソボソと怪訝そうに噂し始めたが、それも気にせず彼も喜んだ。
「先輩っ、こんにちはぁ!」
「咲耶か、こんにちは」
「ふっふっふっ」
「どうしたんだ?今日はいつになく機嫌が良いじゃないか」
「先輩っ!刮目して下さい!『古事記神話を旅する』ゲットしちゃいましたぁ」
「おぉ!まだ発売日前なのに!」
「あははっ、本屋のおじちゃんと仲良くした成果ですっ!
 早速読みましょう、刮目しましょう!脳髄に染み渡るように保存しましょう!」
「ありがとな!」
やがて共通の趣味を持つ奇怪な後輩少女とも意気投合し、彼の高校生活は薔薇色に見えなくも無い程度には成長していた。そんな薔薇色が何色かを暗中模索する最中に夢へと囚われる事になったのである。
「ここまでのは削除だな」
記憶の清算、保存と削除は思った以上に神経を使うものだ。
「ふぅ」
これらが私の視てきた世界の全てでありその断片である。
過去の清算の為、私が便宜的に彼等の半生を記さざるを得なくなったのは不可解極まりないものであったが、彼女の命とあらば私の返事は同意以外にあり得ないのである。最期に私が名前を綴り締めくくれば、彼女の言う今迄の優しい夢の世界にも終わりを告げる事になるだろう。
何事にも終わりには白髪三千丈の想いを宿してしまう。
因みに自らの名誉のために断っておくが私のこの栗色に染めた髪はお洒落染めであり、決して苦し紛れの白髪染めでは無い。
さて、私のような魂のみの存在は潔く消えるとしようか。彼等の更なる繁栄を願って
             ――藤沢悠斗

黄泉のご馳走


 此処に潜り込めたという事は藤沢が上手く清算を済ませてくれた事の証明だ。
初めて此処に訪れたのは五つの頃だったかしらん。暗澹たる思いでこの地に足を付けて、その折に死んでも足がある事に驚いた事を憶えている。
少しして知る事だが、私のような年齢で此処に来る者は殆ど居なかった。年代区分で土地を分割されているある種神聖なるこの地は、幼き私が日頃夢見た高天原とは間反対にある黄泉国だ。自分が死んだ事は何故か克明に脳に記されており、それが私の暗澹の正体であった。
今はどうだろうか、私の傍らには(かつ)て日常の全てを共に過ごした殿方が幸せそうに眠っている。祀られた神棚は黄泉の酸で溶け、神だのなんだのと言った覚悟も今や見る影も無い。
(よだれ)を垂らしそうになりながらも寝返りを打つ那岐は、まるで私が生前に見てきたカピバラ程度の大きさの彼にそっくりであの頃を思い出させてくれる。
「それにしても、上手く作れていたものね」
那岐が初めて訪れた私の呼称するところの優しい夢の世界。随分と古めかしく平たく言えば田舎とも呼べそうな場所。
そして、それ以上に神聖な空気を帯びていて特殊な気配が感じられた聖域。天上か地下かの違いを除けば瓜二つの出来栄えだった。
私の用意したあの世界は五つまでとは言え、生前に外で詰め込んだありとあらゆる知識に経験や、死後に藤沢を通じて知った現世の世界を踏襲して作った理想郷は、()しくも黄泉国と似通っていてそれがまた酷く現実的であった。
「……んん」
そう思案に耽っていると、那岐が苦しそうに悶え続けている。
黄泉国の腐敗の気を敏感に感じ取って慣れないようなので、そっと私の膝の上へと移動させてやると、心地よさそうな顔でゆっくりと彼の意識は覚醒した。


意識が回復してきた。随分と長く壮大な夢に身を任せていたようで、俺の頭の中は未だに雁字搦(がんじがら)めだ。
少し強めな畳の匂いに混じって実際に匂いは無いのだが腐敗した気配が蔓延(はびこ)っていて眼が開けられない。どこかふんわりと嗅ぎ馴染んだ優しい匂いに癒されていなければ気分を害していただろう。
「そんなに私の膝が良いの?」
「えっ」
頭上から声が聞こえたので恐る恐る重たい瞼を持ち上げると、どこか見た事のある四畳半が眼下に広がった。
頭上から聞こえた声は七代のもので、綺麗な黒髪を垂らして俺の事を見つめてきて余計に雁字搦めになる脳味噌を必死に叩き起こす。所謂膝枕をされているのもこの和室もデジャビュを感じて、脳の検索エンジンを活用すると細かい所で記憶違いとはとても思えないような差異がある。
検索で引っかかったのが先程迄の壮大な夢の記憶だから正確性は担保されていないが。
「此処は?」
先ず神聖な気配が無い。
次にあの時は八畳だった筈で、この四畳半という空間は二人のほぼ成熟した男女には些か窮屈に思えなくも無い。
そして室内は薄暗く、此処があの夢の世界の城であれば同じ室内の人の顔も認識し辛い程だ。
最後に七代はこんなにも表情豊かだっただろうか。
「ふふっ、流石に気付くわよね。上手く作れていたと思ったのだけど……
 此処は黄泉国よ」
黄泉国。その名称を耳にした刹那、俺の精神世界は崩壊し、今迄失われて思い出せずにいた彼女とのかけがえのない思い出が決壊したダムのように溢れ出てくる。
眼球が飛び出さんばかりに見開かれ、口はだらしなく開け放たれ、全身の震えが止まらない。
「あら、那岐ったら顔がぐちゃぐちゃじゃない」
七代に言われて初めて自分の顔が涙と鼻水と涎が混ざって随分見すぼらしい姿になっている事にすら気が回らなかった。
そんな自分を嘆く間も無く、七代はハンカチが汚れるのを全く気にしないで俺の顔を拭いた。白と薄ピンクの綺麗なハンカチが汚れるのは少々忍びないが、七代の親切に素直に従った。
これが無償の愛なのかとぼんやりと思い耽っていると今度は涙だけが再三に渡って流れ出てくる。
「全くしょうがないわね、これじゃ私がお姉さんみたいじゃないかしら?」
姉弟というよりは寧ろ、これが正しい母と子の関係なのではないかという程に俺は泣いて、七代は(なだ)めてくれた。
生まれてきて十余年、家族に優しくされたのはこれが初めてだから甘えて良いのか困惑して七代に聞いてしまったが、それを当たり前にして良いのが家族だと七代は言ってくれた。
「こんな当たり前な事ですら不安になるんだもんね。本当に私達の両親は罪深いわ。懲役二十年相当ね」
ブラックユーモアを交えた愉快な七代と談笑していると、次第に興奮していた俺の涙が引いていた。
それに応じるように彼女も次第に以前の落ち着いた大和撫子の立ち振る舞いを取り戻していく。大なり小なり、七代も気が動転していた事を知るとズタボロだった兄の面子が少しだけ回復していった。
「落ち着いたようね」
「ありがとう。それにしても生きてたんだな。
 俺、頭の中ごちゃごちゃで……七代は死んだとばっかり。それで―」
「夢を見ていたのよ。那岐にとってそれが悪夢か吉夢か、それすらも分かりかねる壮大な夢物語ね」
七代はまるで俺の夢を知っているかのように滔々(とうとう)と語りだす。
ずっと会えていなかった事、俺達が奇蹟的に再開した事、俺の記憶にもある紬もそこに居た事、命のやり取りが行われていた事、その子―咲耶に俺が惹かれていた事。
どれも昨日の事のように思い出せたのだが、どうしてだろう。俺の記憶には黒々とした(もや)がかかって、二人の事が克明に思い出せる出来事は紬が幼い頃一方的に話しかけてきた事以外は全く無かった。
「俺って、小学生だっけ?」
「ぷっ、ふふっ。那岐ってそんな冗談言うタイプだったかしら?」
俺の素っ頓狂にしか聞こえない質問を七代には冗談だと受け止められたようだ。
大真面目である事を伝えると、信じられないと言うように怪訝そうな顔をした後に大きな黒眼を真ん丸にした彼女は、本当に俺の妹なのかと疑念を抱かせる程に美しかった。
「そうね、少なくとも那岐はもうランドセルは卒業しているわよ。私は既に死んでいるしね」
七代があまりにもあっさり言うので予想はしていたが、大層間の抜けた顔になってしまう。
内容に沿った複雑怪奇な顔をしようかとも迷ったが、時は待ってはくれないようだし涙はもう枯れ果てて潤む事すらなかった。
「やっぱりあの時に」
「えぇ。本当はもう少し生きたかったのだけどね。
 幾ら知識を蓄えても最期は蛋白質の塊を抜け出せないのよ」
「じゃあ、今此処に居る七代は何なんだ?」
夢の世界の七代は夢だから、で説明付くのだろう。俺の記憶の怠慢で七代の事を思い出せなかったとはいえ、心の中には七代が居てその七代と会っただけなのだから。
そもそも此処が黄泉国なら俺も死んだのだろうか、それもまた一興と思う。
どうせ俺にはもう居場所なんてものは無いのだし、惰性で生きていくくらいなら死んで七代と共に過ごした方が有意義に違いないと確信出来る。
何せ今俺も七代もこんなに笑っているのだから。
「此処に居る私?それは私としか言いようが無いわね、傍から見たら死人かしら」
七代があっけらかんと言うから成る程、と言いそうになる。脊髄(せきずい)反射的に足の有無を確認したが正座しているので不確定だ。
「あぁ、足かしら?勿論あるわよ。じゃないと正座なんて出来ないじゃない?」
やはり死んだら足が無くなるのは迷信だったようだ。
一度くらいは浮遊というものを体験してみたかったのだが、夢の世界でした記憶は無いし、無いもの強請りでそこまでしたいとは思っていないのかも知れない。
「どうやら俺の思い描いていた黄泉国とは大きく異なるみたいだ。物質にも触れられるし」
俺の中での所謂幽霊観というのは、足が無くて浮遊していて物質をすり抜ける―なんて月並みのものだったが、幽霊になっても外と変わらないようだ。
死んでいるのかどうかも分からないくらいで、瑣末な差は幾らでもあるだろうが、外との決定的な大差はまるで感じられなかった。
「話が脱線してしまったわね。
 ええと、話を戻すと此処は黄泉国。私は魂だけの存在に成り下がっていて、那岐も同様ね。それで―」
「やっぱり俺も死んだのか」
夢の世界での出来事くらいしか記憶に新しくなかったから覚悟くらいはしていたのだが、実際に現実を目の当たりにするとなると異常なものだ。
 「何に衝撃を受けているのかは分からないけれど、那岐は自分自身でそれを選んだのでしょう?
 だから私と今、此処に居る。それに私が魂だけでも此処に居られるのは那岐のお陰なのよ」
 「どういう事なんだ」
「那岐は、ううん。
 兄さんは、人がいつ死ぬかは分かるかしら?」
記憶する中でも七代が俺の事を兄さんと呼ぶのは滅多に無い。
だが、それを呼ぶ際は決まって哲学的に聞こえて実は重要で本質的な話の時だった。
「脳死とか心臓死って事か?」
「ふふっ。じゃあ聞くけど兄さんの夢の中や此処に居る私は死んでいるのかしらん」
慎ましく微笑みながらも、七代はじっと俺の眼を見つめている。
その眼は生き生きとしていて、死んだのかも分からない俺が言うのも変な話だがとても死んでいるとは思えなかったから首を横に振って、七代の問いに応じた。
「こんな話、私が生きていた時もしたわよね。今思えば滑稽だわ。
 寿命からして一番死に遠い子供な筈の私達が必死に死や黄泉国について議論して、結局遠かった筈の死がすぐ私に訪れたんだものね」
「ごめん……」
「何で兄さんが謝るのかしら?私は嬉しかったんだから謝らないで頂戴。
 これからまた兄さんと暮らせるし邪魔者は居ないし、それに議論も出来るんだから、ね?」
ここまで七代が感情的になって話す事があっただろうか。
―「ねぇ那岐、私が死んだら黄泉国まで迎えに来てくれる?」
昔、七代が言ったその言葉を一字一字噛み締める様に反芻する。
あれは気まぐれなんかじゃなくて本気だったのだ。あの時俺は何と答えたのだろう。
「俺がもっと七代の傍に居られたら……」
きっと俺はあの時、無責任にも黄泉国まで迎えに行くと言ったのだ。それを七代は心待ちにしてくれていた。
夥しい死人が蔓延っているこの地で彼女はどんな気持ちで居たのだろうか。俺の薄っぺらい孤独とは比べ物にならなかったのは想像に難くない。
「ふふっ、気にしないで頂戴。それに私はずっと兄さんの傍に居たのよ」
七代が滔々と当時のあの不幸な事故の後の事を語った。
古事記にも記されている有名な伊弉冉尊(いざなみのみこと)は黄泉国では酷く荒まれていたので、俺は幼い頃全身が震えあがった事を憶えている。
だが七代は毅然としており、寧ろ神々しさまで備わっていた。それに長話になろうとも背筋を伸ばしたまま凛としている。
彼女は夢の世界の神聖な雰囲気には馴染んでいたが、この黄泉国では随分と浮いていた。揺るがない事実だというのに到底死んでしまったとは思えない。
「―つまるところ、私はずっと兄さんの夢の中に住んでいたのよ。
 だからあの世界に馴染んでいたし、詳しかったの。此処に来たのはものの数回かしらん」
七代曰く、所謂幽霊の存在の力は貧弱でとても感じられるものではないらしい。
普段身の回りに幽霊が溢れているというのも、あながち間違っていなかったのかも知れない。
「それに、兄さんの存在の力は神程に強すぎたからかしらね。私が兄さんと同じ夢に来られたのは随分と兄さんが消耗してくれたからなの」
「何の冗談だ?俺なんていつも生きているのか、死んでいるのか分からないような存在だった」
言い切った後に後悔しても先には立たない。 黄泉国が夢の世界に代わったとはいえ、七代が孤独だった事に変わりがない事を失念してしまっていて、ごめんと付け加えるのが精一杯であった。
「良いのよ、兄妹で遠慮は無し。
 兄さんも身に覚えがあるでしょう?あの両親や周りの子達が私や兄さんから距離を取ったのはどうしてかしら?」
「畏れ多いから……」
俺達はずっと二人で居た。それはつまるところ残りの全員が離れていったという事に繋がる。
毎度毎度言葉を若干変えて聞こえてくるのはそんな趣旨のものばかりだ。
「畏れ多いだなんてまるで神の御前での表現じゃないかしらん。
 もしかしたら幼少の神道への関心や意欲、名前も含めて神に取り憑かれたのかも知れないわね」
突然両の手を持ち上げて手首を折り、幽霊に模した表現は今の俺達にはブラックユーモアでしかない。
真剣な話も途端に愉快に彩ってくれる七代はやはりかけがえのない存在で、どうしてこんな素敵な彼女が亡くならなければならないのかという思いが沸々と煮えたぎってくる。 世には神も仏も居るし、これも運命なのかしらん。
「神は存在の力が強いから、私の事を忘れたのもきっと必然なのよ。
 今では二人共、随分ちっぽけな世界に居座っているとは言え立派な神様なんだから、ね?」
「俺達は何の神だったのかな?この末路を見るに、四畳半の神か」
「ぷっ、ふふふっ、もう兄さんったら。洒落にならないじゃない。
 確かにちっぽけな世界の神ね!四畳半を活性化でもするのかしらん」
それから暫く二人揃って声を出して笑いながら話をした。
いつになっても誰と居てもどこか違和感が抜けないような、小骨が歯に挟まって取れない感覚を十余年続けてきたが、漸く長かった小骨との戦いにも終止符を打つことができた。 妹の力の偉大さと、小骨のしつこさを改めて実感する。
「そう言えば、俺達の部屋って八畳だったよな」
ふと、あの頃の情景が昨日の事のように思い浮かんでくる。
夢の世界ならこれがきっかけで本当にあの頃を追体験できたかもしれないが、黄泉国にはそんなサービスはついていない。
だが今の殆ど成熟しきった身体でも四畳半に一応は収まるのに、ちっぽけなカピバラ程度だった俺達には八畳は広すぎただろう。何せ密着感が無い。
いつの間にか窮屈だと思っていたこの四畳半に愛着が湧いていたのでもしかしたら本当に四畳半の神々なのかも知れないと、七代と盛り上がった。夢の世界の中では何時かも分からないが此処では夜が延々と続くようだ。 時間の概念は変わらず無限である。それでも此処では空腹を感じるようで、恥ずかしくも不意に俺のお腹の虫が鳴った。
「あら、お腹空いちゃった?ふふっ」
「恥ずかしいんだから笑うなよ……でもお腹空いたなぁ」
「ずっと眠っていたからでしょうね。残念ながら黄泉国ではお腹が空くようね、外に出てみようかしら」
惰性で過ごしている社会人が曜日感覚を失うように、時間の感覚が無い此処ではどのくらい時が経ったのかは分からない。だが空腹に耐え続けるのはとても褒められたものではないし、何かを口にしなければならないのだがそれは危険な事を意味すると俺は分かっていた。
「七代、此処が黄泉国なら此処の食べ物を口にしたらさ」
「えぇ、味の美味不味は置いておいて少なくとも二度とこの黄泉国から出られなくなるでしょうね。外には戻れないと考えて頂戴」
黄泉国についてなら俺達には本当に基本的な義務教育みたいなもので、幼少の頃からすでに知識としては理解していた。
勿論、当時は神話の記述であるからどこか眉唾物ではあったのだが、現状では神話が眼前に広がっているのだ。
理解した途端に第三者的な視点から当事者視点へと引き寄せられ、もう戻れない所まで来ている事を確信する。持ち上げかけた重い腰を咄嗟に下ろしたい気持ちに駆られた。
「でも兄さん?食べないのなら結局餓死するのだし。
 死んだ私達が餓死するのかは知らないけれど……飢えに苦しむのは間違いないわね。現にこうして空腹を感じるわけだから、飢えも感じるのは自明の理でしょう?」
「そっか、俺達生者から見たら魂だけの存在か」
口にしてみると呆気ないもので、戻るも何も既に依り代としていた身体は存在しないのだ。
伊弉冉尊が黄泉国に訪れた際は肉体がまだあって徐々に蛆が湧いたと言うが、もう俺達には蛆が湧く身体すら与えられていない。
「それに俺、覚悟していたもんな」
「でもそれは咲耶さん達を更生させるためだったのでしょう?
 まさか十余年来に約束果たして黄泉国まで来て永住するだなんて考えていたのかしら?」
「良いんだよ。何をもって更生とするか、それは唯のエゴでしか無いんだから。
 殊に夢の世界ではそれが顕著だ。胡蝶の夢となっていた俺達の―咲耶や紬の犯した事は殺人や殺人未遂だったけれど、それは外での話だろう?」
「えぇ、以前二人で追体験した通りね」
そう言えば外の記憶は随分と薄れていた。思い出そうとしても靄がかかっているかのように手ぐすねを引くのにも拘わらず、夢の合間に外に戻った事は明確に憶えていて、少し不思議に感じた。
夢が合間の外の記憶を護ってくれたのだろうか。
「それで戻ってきたのは夢の世界だ。少なくとも咲耶や御家族、紬は夢の中では上手くやっていたし、幸せも感じていた。
 俺はそれを奪ったんだよ。罪を犯したのは、俺にも当てはまる。大切な四人の生活を滅茶苦茶にしたんだ」
「ふふっ、まるで天津罪ね。
 人とその家族の生命を奪った神が黄泉国へと流刑になる」
俺は外での生活で通っていた高校が葛城主であった事を思い出す。
幾ら靄がかかっていてもこれくらいなら問題はなく、葛城の一言主大神は朝廷に讒言(ざんげん)して伊豆国へと流されて、その末路は外の神と似通っている事に皮肉を感じた。
「本当に呪われているよな。全てを知るのが黄泉国でなんて」
「そうかしら?全てが手遅れでは無いわよ。少し早いけど、此処が私達の(つい)の棲家になったんだとでも思って頂戴」
「もう失うものは何も無いしな」
何せ肉体まで失ったのだ。残った魂で失うものは精神的なものくらいだが、外での悩みなんて殆ど肉体的な側面か人間関係くらいだと割り切れば、血の繋がった愛すべき妹との関係は憂うものでは無いのは自明の理だ。
終の棲家というのは随分ジジババ臭いかも知れないが、それも幼い頃から大人びたというか大人であった報いだろう
俺達の若さを唯一担保していたものは既に失った肉体だったのだから。
「よしっ!それじゃあ食糧調達にでも行くか」
七代にもだが、大半は自分を思い切り鼓舞するように声を荒げて言挙げをし、腰の重たさを感じさせないくらいに勢い良く立ち上がる。
その様は皮肉にも生前の俺には欠けていた若々しさだった。七代もそれに気付いたのクスクスと上品に笑っている。
「兄さん」
「ん?あぁ」
俺が立ち上がったにも拘わらず七代は依然そのままの正座を保ちながら、物欲しそうな上目遣いで俺の眼を見つめてくる。
一拍置いてその意味を理解した俺はそっと七代に右手を差し出すと、嬉しそうに微笑みながら手を取って立ち上がる。
血が繋がっているとはいえ、今思えば一緒に居た時間よりも離れていた時間の方が長いのだ。それなのに人との関わりが希薄な俺と七代が出会った当初から気兼ねなく話せたのは、離れていたと言えど夢の世界で繋がっていたからだ。
今後離れる事があるとは思えないが、もし離れてもより深い所で繋がっているのを忘れてはならない。俺の中には離れても彼女が居るのだから。


兄妹仲睦まじく手を繋いで部屋を後にする。俺は目覚めた時からこの四畳半だったから外の事を知らない。
七代は知っているのではないかとこの部屋に来た経緯を聞いてみたのだがどうやら七代も知らないようで、俺同様目覚めた時からこの四畳半だったらしい。此処から出る前に四畳半の外の事が知りたかったのだが、以前此処に来た時の事も彼女は語る気は無いようだった。
これ迄の話しぶりからして黄泉国についても多少は知っているようだが。
俺の緊張とは裏腹に、夢の世界の城なんかとは異なって四畳半の部屋ではものの一歩で扉まで辿り着いてしまう。七代の手を少し強く握りながら恐る恐る扉を開けると、既に慣れたものだと思っていた腐敗した気配が外の空気と共にふんだんに入り込んできた。
扉を開けるのを躊躇った俺を見て意地悪な笑みを浮かべた七代を見て、再度ドアノブにかけた手を先程の恐る恐るとは異なり力強く回す。腐敗した気配は暴風のように入り込んできているが、所詮気配でしかないので物理的に押される事は無い。
外に抜け出てみると、そこにはただただ深い闇が広がっていた。
隣を見れば七代の整った顔はしっかり判別できるが、少し離れれば何処に居るのかも本当に居るのかもわからなくなるだろう。
「あの四畳半、あれでも一応灯りは灯されていたのよね」
「もしあの中が明るかったら余計外が暗く感じていた」
その辺りも配慮されてのあの室内だったのかは分からないが、これでは眼が慣れても中々食糧の在処は見つからないだろうか。
既に室外を体験している七代は動じずにぼんやりと見えない前を見つめている。彼女も何処に食糧があるのかは知らないようだから、二人で手探りしながら探し出さなければならない。
四畳半に居た頃よりも危機的な現況は、黄泉国を統べる神が徐々に俺達を追い詰めているようにも思えるのだが、七代の温もりがそれを宥めてくれている。
手をただ繋ぐのではなく指同士を絡めてより深く繋ぎ、四畳半に逃げるのではなく黄泉国を進んでいく覚悟で少しずつ前進する。
周りからは音が聞こえず、聞こえるのは二人の足音のみで空気が凍るようだ。
緊張を紛らわすように七代が口を開く。
「黄泉国には以前何度か来たのだけれど、その時は毎回御殿への一直線の道が敷かれていたわ」
機が熟したように、俺が知りたかった黄泉国の事を滔々と語る。延々と続く闇の中で気持ちが落ち込まなかったのは間違いなく七代のお陰だ。
「なら、今のこの道も何処かに繋がっていると思って良いのかな。その時は何の為に来ていたんだ?」
「あぁ……それは瑣末な報告程度だったから気にしないで頂戴」
そこですっぱりと話を切ってしまうのは何とも七代らしかった。
あまり自分の事を語らず、もし語ったとしてもサラミの一切れのみの語り口は、生まれた直後泣かなかった事からも起因しているのではないかしらん。そう思ってしまうが深読みしすぎだろうか。
それからというもの、決して本質には踏み込まなずに黄泉国についての憶測や、この暗闇について等といった当たり障りも無い事を延々と話し続けた。
「ふぅ……何処まで行っても暗闇ね。
 ある程度行けば御殿は無いにしろ私達の居た部屋と同じような扉があるんじゃないかと思ったのだけれど」
待てど暮らせど、というか歩けど叫べど、何も見えず何も聞こえない暗闇が続くだけだった。
壁越しに進んで頻繁に周りを触ったり調べてみたのだが成果には至らなかった。これだけ辺りの景色が変わらないとなると、進めているのかも分からない。
「随分歩いて疲れたし、この辺りで少し休もうか」
「ごめんね兄さん。私足手まといになっちゃっているわ」
「気にするな。大丈夫、俺がついているからな」
この辺りがどの辺りなのか、というのはこの際置いておいて七代の体力は限界のようで、綺麗な首筋からは細い筋を伴った汗が流れ出ている。
夢の世界での高天彦神社で歩いた時にもそう思ったのだが、元々彼女の体力は無いと言うか皆無だ。間違いなく幼少の頃から俺と室内で本を読むか議論に明け暮れる毎日を送った温床である。
 そんな彼女がどれだけ歩いたのかもわからないような途方に暮れる道を行く苦痛は想像を絶する。俺ですら隣に七代が居なければとっくに音を上げていた筈だ。無理をさせている俺自身にイラつくも、一度壁にもたれかかった。
本当は腰を下ろして座り込みたいのだが、そうしたらもう立ち上がれなくなる気がするのは恐らく気の所為ではあるまい。
「酷い汗じゃないか、待ってろ。何か拭くものを」
歩を止めた事によって熱っぽくなった七代から汗が加速度的に湧き出てくる。
俺は何か手頃な汗拭きは無いかと探そうとしたが、俺の服装は夢の世界の着物のままであったので洋服のようなポケットは無いし鞄も無い。
それでも俺は帯に挟み放しになっていた件の置き土産を取り出した。
「ほら、これでもう大丈夫だからな。何なら着物の中も少し拭くと良いよ。ん、俺は後ろ向いているからさ」
疲れ切った七代は声を出す気力分も回復していないようで、軽く頷く事で俺との意思疎通を可能にした。
その視線はぼんやりと見つめているようにも、ハンカチ全体を凝視しているようにも見える。
「ん、ありがとう。でも、兄さんの顔を、見ていないと、不安、になるから、このままで、居て頂戴」
汗の不快感から多少解放された七代は熱っぽさも取れた。軽い息切れで声が絶え絶えしているとは言え歩を止めた時と比べると良い顔色をしていた。
今思えば死人に息切れも汗をかくのも実感がいまいち湧かないのだが、それも俺の―というか外の世界の偏見の一つだったのであろう。
「黄泉国でも、夢の世界でも、体力を要するなんて……外の価値観は嘘八百ね。
 今更文句言っても、この疲労が収まる事は無いのだけれど」
呼吸も多少整ってきた七代が黄泉国での理不尽の連続に不満を覚えたのか、いつもよりも饒舌(じょうぜつ)且つ毒舌っぷりを披露し始める。
俺と同じような事を考えていたからやっぱり兄妹だなぁと感慨に耽るが、彼女の言う通り文句ばかり言っても何も始まらないのも事実だ。
郷に入っては郷に従えと言うので、俺も例外なくそうさせてもらうとする。
余談だが、嘘八百の八百は本当に嘘が八百回も()かれたわけでは無い。古来日本の考えでは、”八”を多くのものというような意味合いで用いており、八百万(やおよろず)の神もそれに起因しているわけで八百万の神がいるという意味では無い。
と、余計な事を考えている間に俺も七代もすっかり体力が戻ってきたようだ。身体は軽く、顔色も程良い火照りが健康を指示(さししめ)していた。
七代に至っては余裕も出てきたようで、俺の顔を意地悪そうな上目遣いで見つめてくる。辺りが暗いから必然的に距離は近付くし、兄妹と言えどもお世辞抜きで七代は綺麗で好みのタイプなのだ。背徳感含めて変な気持ちになりそうだ。
「兄さんって……随分と趣のあるハンカチを持っているのね。
 黒と赤のハンカチ、兄さんってこういう趣味していたかしら?」
手元で七代が自身の汗を吸ったであろうハンカチをピラピラと振り子のように左右に揺らしている。
趣味については語るまでも無いかも知れないが、俺は七代に
―「貴方は、黒なのよ」
なんて言われた通り、黒の物を使う事が多い。だから黒の部分は良い。問題は赤だ。
今彼女が物言いたげな顔で揺らしているハンカチのようなはっきりとした原色の赤はまず使わないし俺のセンスでも無い。その辺は兄妹であり、俺の夢の世界にずっと居た七代であれば当然に知る事だろう。
俺は観念して一度ゆっくりと瞬きをし、七代の顔を仰ぎ見る。
「うん、それは咲耶が仕向けたものだと思う。要するに置き土産かな」
この特異な日常に身を委ねて知った事は、変に隠すよりも正直に白状すべきだという事である。
そしてこれが良い方向に事を運んでくれたのは、七代が同年代の子と比べれば格段に聡い事が理由であろう。
「あぁ、こそっと触れた際に帯の間にでも忍び込ませたのね。ふふっ、流石咲耶さんね」
俺が敢えて仕向けたという言葉を使った意味を瞬時に理解してくれなければ、咲耶には悪いがこんな瑣末な事でかけがえのない妹と口論になってしまっていたかも知れない。
素直な返答に関しては一般的な知能の異性に対しては有効な効力を発揮しないであろうから、俺は優しい嘘を用いた上手い言い訳をお勧めする。
その点でも嘘が苦手な俺としては恵まれていた。上手い嘘など、そうそう考えつくわけも無いのだから。


もたれかかっていた壁から腰を離し、蓬莱弱水の道をまた一歩一歩とゆっくり歩を進め始める。
極限状態に至ると人間は空腹や疲労をも超越し、エネルギー消費を最低限に抑えるというが既に俺達もその段階に至っていた。これは大変便利なもので、今迄の疲労がリセットされて何でもできるようにすら思えるがそんなものは驕慢放縦(きょうまんほうじゅう)である。
そうして少しでも慢心するとどうなるか、待っているのは例外なく破滅である。
この黄泉国では天使すら迎えに来てくれないだろうから、漫然と朽ち果てるのを待つ羽目になるだろう。前提としてある人間という枠組みに俺達が含まれるのかどうかについては置いておいて。
さて、かくも幸運な事に俺達は朽ち果てる前に無事この無限回廊のような地獄を抜け出す事が出来たようだ。
真っ暗故に進んでいるのか戻っているのかも実感できなかったが、夢幻に続くかのように見えた暗闇に比喩ではなく一筋の光が差し込んでいる。
「やっとゴールのようね」
「でも光が差しているだけかも知れないぞ。幻覚という可能性も―」
「二人共見えているのに幻覚なわけないでしょう?ふふっ」
かくも歩いて幻覚であって堪るかと想いながらも、もしこれが幻覚ではないにしろ光の先で何の成果も得られないとなれば今度こそ俺達は再起不能になるだろう。
その最悪な事態を(もたら)した際の予防策だったが、杞憂に終わりそうだ。先程の陰陰滅滅とした歩調が嘘のように明るくなり、合わせて光も燦々(さんさん)ときらめいてきた。
「完走賞で金一封くらい貰えないのかしらん」
「俺は水分が欲しいなぁ。白米も恋しい」
「そう言えば此処ではお金が使えるかも分からないものね」
ものの数十秒前迄は、(おの)が内の怠け者と対峙して決心を鈍らせないために惰性で話して誤魔化し支え合っていたが、今では己が内の怠け者なぞなんのその。
俺も七代も、遠くない未来に齎されるであろう希望を待ち焦がれ、跳ねるように歩を進めた。
「見ろ七代。此処が桃源郷だ」
俺達を三百六十度取り囲んでいた暗闇の全てが、突如迷い込んだ光の輝きによって塗り替えられ、辺り一帯に何物にも代えがたい香ばしい匂いが漂い始めたのだ。
空腹が絶頂であるがために、秋刀魚の匂いやら蕎麦の出汁の匂いやら肉の焼かれた匂いやらを瞬時に嗅ぎ分けた。お目当ての炊き立てご飯とお茶の匂いまでもするではないか!
「もぐもぐ……兄さん、ごくごく……早く、ほら」
「ずるいぞ七代!っと、ありが……ごくごく……とう。もぐもぐ」
七代にとって兄の声など僥倖によって既にかき消されていた。
普段の彼女では考えられない勢いで一心不乱に飲食を愉しむ様は、さながらフードファイターを彷彿とさせる程であった。俺も同様に見えているだろうから、此処に二人のフードファイターの誕生である。
俺達は先ず炊き立てで香ばしい香りのする白米とお茶をむさぼり、秋刀魚を手繰り寄せながら肉も忘れずに箸で掴む。記憶には無いがきっと頂きますもした筈だ。
仮にしていなくても神に伝わるであろう見事な食いっぷりだから問題あるまい。免訴だ。
「朝宵に 物喰ふごとに 豊受の 神の恵みを 思へ世の人」
豪快な食いっぷりとは即ち下品にも繋がってしまうから、せめてご馳走様くらいはキチンと言おうと七代と共に和歌を詠んだ。
現代では食前食後の和歌を詠む者などそういないだろうが、一拝一拍手くらいはして欲しいものである。これが外の世界に届かないかしらん。
「そう言えば、勝手に食べても良かったのかな?」
「良いんじゃないかしらん。どうせ誰も居ないでしょうし、残された食物が可哀想だもの」
食物を眼前にした時は頭の片隅にも無かったが、もしかしたら此処が黄泉国の飲食店で偶々店員は出払っていたらどうしようと思っていたのだが、俺達の幸運はもう暫く続くようだ。
「ほら、言った通りでしょう?それにしても食べ過ぎたわね、思うように身体が動かないわ」
「そうだな……身体が重い」
それから数十分だか一時間だか、短くない時間をグウタラに費やしたものの他に誰も訪れる者は居なかった。
これはだれが作ったのだろうか。この後俺達はどうすればいいのか。暗闇の中では追いやる事が出来た己が内なる怠け者に此処では太刀打ちできなかった。
「ふふっ。せめて、幸せな夢を―」
意識が混濁する間際、誰かがそんなような事を囁いた気がしたが、俺にはそれを確認する術は残されていなかったのだ。

クロアゲハ


 朝は唐突に訪れ、それはあっという間に発見された。
発見の原因は塗料と生ゴミの混ざったような、恐ろしい腐臭だった。同じ集合住宅の所謂お隣さんがその異変に気付く。
最初は生ゴミの臭いだと思った。匂いの出る生モノでも食べたのなら、ゴミ捨て場からそれなりにきつい匂いが出てもさもありなんと思うだろう。
だがお隣さんは今日がゴミの日では無い事から異変に気付く。ゴミ捨て場に夥しい数の生ゴミがあって初めて出るような腐臭が、隣の黄泉津家から漂ってくるからだ。
確か隣は一人暮らしの高校生が住んでいて……奇妙に思ったお隣さんは半信半疑の様子で大家さんに連絡をした。間も無く到着した大家さんはいかにもな中年女声で、髪の毛は白と黒が入り混じっていた。
次第にその腐臭が、集合住宅から大勢の野次馬を呼び寄せる。大家さんは勿論合鍵を持っていたが、これは何かあるのではないかと思って開ける前に持っていた携帯電話で警察へと通報した。
集合住宅の一室から奇妙な腐臭がしますと通報すると、すぐさま最寄りの警察署から警察官が駆け付けた。大家さんは正しい判断をしたのである。
怪訝そうな住人を散り散りにさせてから警察官は大家さんと共に合鍵で黄泉津家の扉を開けると、暑苦しくどんよりとした室内が開け放たれて重苦しい熱と共に吐き気を催す腐臭が飛び込んできた。
そこには、この世のものとは思えない異様な光景が待ち構えていた。
年齢にして十六、七歳くらいであろうか。生前はさぞ綺麗だったのだろう女の子は、無残にも心臓を一突きにされていた。傍のベッドは羽毛が飛び散ったようで、赤と黒に染まった羽根が辺りに散らかっている。そこには切り刻まれた跡もあったため、此処での惨劇が容易に想像できた。
夏の蒸し暑さもそれを助長しているのだろう。微生物にとって生きやすい環境がその腐敗を早めたのだ。
呆然と立ち尽くしていた警察官は、ハタと善良な市民が横に居たのを思い出す。すぐさま此処から出るように仕向けようとするも、既に彼女はその場に倒れ込んでいた。
声をかけるも意識が無いのも無理は無い。精々室内がゴミ屋敷になっていた程度に思い込もうとしていたのだろう。わざわざ警察に通報するくらいだから、それなりの覚悟はしていても、考えたくない事からは眼を背ける矛盾は人間の性である。
大家さんを部屋から離して、すぐさまこの惨状を無線で連絡する。警察官は覚悟して再度黄泉津家の中へ入り込んだ。ベッドに眠るもう一人の確認のためである。
刺殺死体ともう一人は、刺殺死体と同年齢くらいの男の子が幸せそうな顔で眠っており、この惨状とは正反対の様相である。不謹慎にも唯一惨状に見合っていたのは、その男の子の心肺が停止していた事だった。


間も無く複数台のパトカーが到着し、大勢の警察官が黄泉津家の中へと入り込んでいった。
その衝撃的な光景に身じろぎもせず、淡々と起こった事を確認していく。最初に入った警察官は気付かなかったのだが、緻密な検査をせずとも風呂場に血の跡があった事とその跡の一つが外に向かった事の二つが分かった。
検死の結果、この二人は同じ高校のクラスメイトで親密な関係だったのではないかと推測された。お互いの両親にその旨を伝えると、女の子の親は発狂し壊れたかのように泣き、叫び、喚いた。全部あの男の所為だと、死者に全責任を押し付ける勢いですらあった。男の子の親はそれとは対照的で、そうですかと一言言って安堵にも見える顔を浮かべたのである。
これらの調査から男の子の親の犯行可能性を警察は疑ったが、それは間も無く杞憂に終わる。土蜘蛛塚付近から赤と黒に染まった中年女性の惨殺死体が発見されてその関連性から事態が急変したのだ。女の子とは異なり原形を留めない程に繰り返し切り刻まれていたが、現代の科学の成果からいとも簡単に容疑者が割り出されたのである。
その中年女性の娘で、黄泉津家の死体の男女の後輩にあたる木花咲耶はあっさりと容疑を是認した。また、木花家では父にあたる木花大和の死も関連付けられて伽夜と大和の両親二人を殺したとしてメディアも実名こそ出せないにしろ面白いように騒ぎ立てた。
先輩にあたる紬も殺したと供述し、懇意にしていた那岐への容疑だけは否認して事が纏まった。それ以外のやり口と那岐の死が大きく異なるとして関連は無く、惨劇のショック死だと検察側も納得した。
心神耗弱も考慮すべきと下級審では述べられていたが結局、最高裁判決では十六歳のため少年法が適用されて死刑相当とされた木花咲耶には無期懲役が科せられた。
「あぁ、私死ねないんですね。無期懲役ですか」
公判中決して感情を顕わにせず滔々と供述をしていた咲耶の、その言葉にだけは驚きの色が見えた。
殺人等の重大犯罪には未成年でも十四歳未満でなければ減刑はされるが実刑判決が下る事もある。胡蝶の夢でもそれが現実であれば、殺人は決して許されるものでは無いのだ。
「那岐さん、これで皆一緒になれますね」
判決後間も無く、木花咲耶は拘置所で舌を噛みちぎり息を引き取った。

貴方は私のもの


 今思えばもう少し警戒すべきだったのかも知れない。耳触りの良い言葉には裏があるように、目移り鼻移りする様な飲食物にだって裏があるに違いないのだ。ましてやあそこは神の住む高天原(たかまのはら)でも親切さでは世界一と言っても過言では無い我が国とも異なる。
例えそれらの国にも
「御自由にお食べ下さい!」
などというものは無いし、店の人が居ない事もまず有り得ない。もしあれば豚にされる程度の天罰は下るものだ。
比べて此処は地階であり、全くの異界の地である。
死者の住まう黄泉国には食物に関するこんな逸話がある。
神話曰く、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が黄泉国の食べ物を食してしまったために黄泉国に縛られて高天原に戻れなくなってしまったのだ。加えて(うじ)がたかり腐敗した事で、夫である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)にも気味悪がられてしまう始末である。
黄泉国の食物にはそれ程の拘束力があり、勿論古事記を読み解いた事のある者なら、誰しもその程度の知識は当然に持っている。
だからこれは欲望にかまけて流された俺への当てつけだろう。外界では他と違う独自性を見出すも孤独に苛まれ、夢の世界では孤独こそ払拭する事が出来たが、些細なすれ違いで生命の灯を消す羽目になり、黄泉国では極限状態が災いして眼前のあからさまな餌に釣られて朽ち果てる。
人にも神にも寿命がある。人は伊弉冉尊の呪いにより、神は邇邇芸命(ににぎのみこと)木花咲耶毘売(このはなさくやひめ)の逸話によるものである。
俺の寿命がここだというのなら暗澹たる思いを禁じ得ないが、それも定めかと受け入れよう。
しかし、せめてもの我儘すら許されないものなのだろうか。もしそれが許される事なら、俺は迷わずこう言うだろう。
「大切な人に囲まれて暮らしたい」
紬が居て、咲耶が居て、咲耶の家族の大和と伽夜が、藤沢も入れても良い。そして何よりもかけがえのない妹である七代が居る。そんな些細な幸せの日常を俺は望んだ。渇望している。
あの時、皆を引き離す覚悟なんてしなければ良かった。在るべき場所に戻すのではなく、此処をあるべき場所にしてしまう傲慢な覚悟をすれば、或いは今頃幸せの日常が得られていたのではないかしらん。
いや、そうだろう。そうに違いない!そうは思うが、悲しき(かな)。いつの世も後悔は先に立たないのである。


所謂食べ過ぎに苛まれ、うつ伏せになる事も叶わずに仰向けに惰眠を貪る俺を目覚めさせたのは誰かしらん。
けたたましい声に嫌気が差してしぶしぶ眼を開けると、眼前には褐色が広がる。
その声の主が蝉だったと知ると、更にその声が克明に響き渡る。蒸し蒸しとした湿気を身体全体で感じながらハタと気付く。
「なんだ。夢だったのか」
随分と長い夢を見ていた。
夢というのは寝ている時間と正比例しないもので、ものの数分でも大冒険の夢を見る事が出来る。
俺が見た夢はひと夏を超す勢いの長期間であったから、殊に高速な夢か、ずっとレム睡眠をしていたのか。ノンレム睡眠でも夢は見るようだし、何かしらの作用で夢が続いたのだろう。
胡蝶の夢からくる靄が現実をぼやけさせていたが、暫くして辺りを見回すと俺の仮説を裏付けるように眠る前の記憶が徐々に(よみがえ)ってきた。
そうだ、此処はあの海だ。
思い出の海―七代を奪い、俺を奪い損ねた海。一歩踏み込めば、その底の深さに驚愕し、殊に子供であればその一歩が伊弉冉尊(いざなみのみこと)に引っ張られるように生死の境目となる。
かけがえのない家族を失った俺に真っ先に浮かんだのは後追いだった。
幸か不幸かそれは叶わずにこの十余年。
俺はその事を忘れるように生きてきたがハタと思い出した俺は十余年の時を経て、あの頃の悲願を果たす腹積(はらづも)りだったのだ。
そしてそれは又もや叶わなかった。
打ち上げられた俺は死ぬに死ねず、気付いたら長い夢を見ていた。夢には七代も出てきて、俺はいつまで経っても七代に助けられっ放しで安心して眠らせてやる事も叶わないのか。
今も七代に護られている気がする。薄らとした微笑みの中の計り知れない暖かさを俺は身体の奥底から感じられた。
これからは逃げないように生きていこう。再三七代に助けられたこの命は俺だけのものでは無かった。
もう二度とこの場所には訪れないと覚悟を決め、俺は最後にもう一度この景色を目に焼き付ける事にした。
眠ってしまう前よりとは多少異なる景色がそこにはあった。
少し満ちてきた波の音、既に乾いていた草木の匂い。そしてまだまだ続くであろう夏の空。
真っ黒だった俺にも、少しは色を付けられただろうか。
七代の白が、紬の銀が、咲耶の赤が、蒸し暑さの中にある海の色を反射して燦々(さんさん)と輝く青い空のように、色とりどりの人生を送っていく。
「だから七代は、此処で見守っていてくれ」
海に向かってそう言い残すと、七代の返事が聞こえた気がした。
波に流れてきた七代の声を聞いて、その懐かしさと名残惜しさを堪えながら俺は海を後にする。
きっともう夏休みだから、先ずは紬との海の約束を果たそう。それから咲耶に連れまわされたり、面倒だけど悠斗に誘われる事もあるだろう。
そんな近い未来に胸を高鳴らせながら、俺は崩れている足元に気付きもせずにただ真っ暗な闇の底に沈んで行った。
もう俺の足は前に進んではおらず、今臨んだ世界には二度と帰れない。そんな世界はもうどこにも無いのだから。
「ふふっ、駄目じゃない。三途の川を渡っちゃ」
七代の返事がそんな言葉だった事を、俺は知る由も無かった。既に色も音も何もかも、真っ暗な闇に閉ざされていたのだから。


この世に神も仏も無いだなんて詭弁だわ。
”神は見ている”の。天つ神が見えるのは神社の中のような霊的な空間にいる人間だけでしょうけどね。
これを見ているかも知れない誰かにわかるように言うならば、先ず神は貴方達人間よりも上位の存在よ。神からすれば人間は劣後する存在―と言うよりは比べるまでも無い。
貴方達人間は自分と蟻を比べる事があるかしら?蟻じゃなくても小さな虫なら何でもいいわ。想像に難くないでしょうけど、蟻等の子虫は人間と比べるまでも無く小さな存在ね。ならもし蟻同士が至る所で抗争を繰り広げていたとして、それで死ぬ蟻が大勢いたら貴方は気にするのかしら?
ちっぽけな蟻を踏み潰さないように、慎重に一匹一匹助けられる?もし失敗して踏み殺したら折角助けてやろうとしていたのに、蟻は非難の声をあげる。
言いたい事は分かったかしら?これが神と人間の関係だと思って頂戴。加えて神は人間と違って神からなら人間の声まで聞こえてしまう。見えないのは心の中くらいね。
神が居ないから不幸になったのでは無く、不幸にする人間が居たから不幸になったのよ。何でもかんでも都合の良い時にだけ神に縋ったら神も愛想尽かすのは当然よ。
そもそも神を祀る神社庁は宗教法人なんだから。神道は宗教なのよ、少なくとも神の見解としてはね。
拠り所にするのは勝手だけれど、それで私達が助けてくれると考えるのならそれは大間違いだわ。
まぁでも神も気まぐれだから、助ける事はあるかも知れない。ならそういう時に誰を助けるか?それは敬虔な信者からじゃないかしらん。
そう信じれば、幸せでしょう?


代償無ければ対価無しである。
流されに流された者への対価は死だ。
でも安心して、死んでも私が付いていてあげるわ。これでずっと一緒に居られるわね。
ふふっ、本当は妬いていたのよ?だって那岐とは兄妹だったもの。
いつかはお嫁さんを貰って、私から離れていく。それだけは許さないんだから―ね?私の兄さん。

あの頃には帰さない


 闇の底に沈んで行く那岐に私は近付いていく。私だけがその暗い世界を自由に行き来出来た。
暗闇で生きられるのは同じ黒では無く私のような白い存在で、私なら暗闇を照らして歩いて行ける。
何も無い暗闇に馴染んでしまう前に那岐の元へ辿り着いた私は、そっと彼の首元に白い水晶を付けてあげる。
私が肌身離さず持っていたこの白い水晶の勾玉には、幸運を引き寄せる恋人達の石という意味が込められていて、黒い石と対になっていた。
黒い水晶の方は真実の愛で、那岐の首元に長年携わって来たものだが既に私の手中に収まっている。
「これで離れないで済むわ。もう居なくならないから、お願いだから消えないで頂戴」
私の方には黒い勾玉を付ける。那岐は私よりも十余年長くこれを付けていたから、傷や汚れが少し目立って生活感を感じさせてくれた。
十余年もの間、彼の夢の中で過ごすのは気が遠くなる程にもどかしかった。死者は遠くから見守れるかも知れないが、私は誰よりも彼の近くで誰よりも彼から離れていなければならなかった。
行き来できるのは夢の中だけ。幸いな事に、半永久的に思えた時間を潰すには丁度良い暇つぶしで、気が付けば自由に那岐の夢を操る迄に至っていた。
既に魂だけの私は夢の世界では神のように振る舞えたけれど、外の人間に直接介入は出来なかった。出来たのは那岐の夢の中を弄るくらいだが、それだけで十分すぎる程だった。
最初は戸惑っていた。それは当然で、そりゃあ幾ら外の世界で殆ど孤立していても彼の興味は外の人間や歴史の繋がりにあったのだし、いきなり外国よりもうんと近くてでもうんと遠い夢の中に生きるなんて無理だ。
だから藤沢を仕向けた。咲耶が夢に流されていたのは好都合で、本来は繋がる筈の無い那岐と咲耶の夢を繋げるだけで済んだ。紬は少々荒っぽくなったけれど予想より上手くいった。
これで那岐の未練は無くなった。
「それにしても……流されやすくなったものね」
私は思い出したようにぽつりと呟く。
私の生前の記憶の那岐は、もっと確固たる自分を持っていた。
恐怖を感じても物怖じせず、熱心に我が道を突き進んでいた。
「その理由も知っているんだけどね」
夢の中からずっと見ていたのだから、彼女をそういう末路にしたのも私怨の表れだったのかも知れない。
女の恨みは死んでも変わらないし、元々私は那岐に懇意に話しかける紬を憎んでいたのだ。
真っ暗闇で燦然(さんぜん)と輝くようになった那岐は、未だ死んだように眠っていた。よく眠る那岐に、夢でしか会えなかった昔なら喜んだだろうが今は彼が起きていないと話せない。
私はもどかしく感じるが、それもまた一興だった。何せ一寸も無かった那岐との時間が無限になったのだから、これからは時間を気にせずに永遠の刻を彼と謳歌できる。
とは言え、もどかしさは変わらないので我慢できずに私は那岐の唇を覆った。夢の中の虚構とは比べ物にならない淫靡な感覚に、私は堪らず身悶えた。
どれ程の間そうしていただろうか。気が付けば体力の無い私の息は乱れ、少々だらしがなくなった。ハッとして呼吸を落ち着かせていると、やがて彼が顔をムズムズさせて夢から醒めようとしている。
私は笑顔が止まらなくなっていた。那岐がすっきりしたような顔で目を醒まし、ほんのりと湿っているであろう口元をやや擦った。
私の長年の夢が叶った瞬間であり、夢から醒めた瞬間でもあった。
 「あの頃には帰さない。
 もう離さない」
那岐は笑顔が止まらない私をキョトンとした顔で私を見ている。私たち二人を繋いだ別離の夢は既に泡沫となって消え、白と黒だけが二人を繋いで縛り合う。
ふと何処から現れたのか、二羽の蝶が迷い込んできた。
私が白い蝶を、那岐が黒い蝶を手に止めると途端にその姿を蛾に変貌させたのであった。

あの頃には帰さない

最後まで読んで頂いて誠にありがとうございます! もし、読中の方や未読の方は一度目を通して頂けると幸いです。
本作品は私が高校時代に執筆した演劇台本(戯曲)を元に製作し、星空文庫に投稿し始めた頃には既に完成していたものを加筆修正したものになります。
台本の時点では理解し難い古事記や死後の話は無く、夢に魅入られた主人公(名前も那岐とは異なります)が夢の世界に逃避行するが、死んだ妹の七代が救い出すというお話しでした。

執筆後に何度か読み返したのですが正直そちらの方が一般受けする内容でして……いっその事全部消して書き直そうかとも悩みましたが折角なので投稿した次第です。個人的には素人感丸出しの文章や、読み返したらとんでもなくおかしな事も多々ありました。それも含めて私の作品なのかなと今では割り切っています(笑)何かしら読者の方々の心に残るような話になっていれば幸いです。

さて、一応内容の方にも触れておいた方がいいと思うので少々分かりにくかったかも知れない蝶の件について補足しておきます。
日本書紀の記述で、蝶はこの世とあの世の案内役だとするものがあります。神様の使い(神使)という事ですね。これ以上細かい事を書くと余計にちんぷんかんぷんになると思うのでこの辺りで。

また、まえがきには書けなかったネタバレ含む脱稿迄の道程を綴らせて頂きたいと思います!
本作品はただただ幸せを多角的に綴りたいという欲求から生まれました。戯曲の体裁を保っていた頃は無かった設定です。私の意見としましては、全員が全員(紬は意見が割れるかな?)散々な目に遭う結果となりますが、皆何かしらの幸せの形を掴めたのだと解釈しています。
幸せの形は違うから、読者の皆様には是非自分の幸せを掴んで欲しいと思う次第です。上からですみません……若干後味を悪くしてもこの幕引きになったのは那岐がモテるのがいけませんね!(笑)

テーマについての補足としましては、”幸せの形”をメインに置きました。と言うのも明確な”幸せ”を私が見つけられたら良かったのですがまだ見つかっておりません(見つけたらまた作品にしますね!)。私の”幸せ”観は”生き物”です。有体に言えば十人十色。その片鱗だけでも感じ取って頂ければ冥利に尽きます。

最後になりますが『あの頃には帰さない』面白かったでしょうか?心に何かを訴えかけられたでしょうか?
感想や新作の催促(これ無いと執筆意欲が右肩下がりに……笑)等々をTwitterのリプかフォロー後のDMにてお待ちしております!!
此処まで月村鏡にお付き合い頂きありがとうございました!また何処かでお会いしましょう!

あの頃には帰さない

舞台は今より少し昔の奈良県某所。古事記の地としては有名過ぎるこの地に住まう高校二年生の那岐の入水以後から物語は始まる。 理想の様な夢の世界に慣れ親しんだ那岐は、現実との線引きが出来なくなる(本書では胡蝶の夢としております。)が、流れるように進んで行く。 やがて訪れる現実の転換と黄泉国。彼等の行く末は?彼等の犯した罪とは?十余年越しの胡蝶が那岐を導く。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 繋がった
  2. 束の間の日常
  3. 胡蝶の夢
  4. 家には帰れない
  5. 聡明な木花
  6. 狂い出す時計の針
  7. 掌で踊る
  8. 開けたら戻せない
  9. 現世は夢
  10. 彼女も戻れない
  11. 素敵な紅茶にはいちご大福を添えて
  12. 夢こそまこと
  13. 別離の夢
  14. 誓約
  15. 鏡に映る神
  16. 書き換える
  17. 黄泉のご馳走
  18. クロアゲハ
  19. 貴方は私のもの
  20. あの頃には帰さない