雪うさぎ

「雪うさぎ」

 鉄製の昇降口の階段の手摺に指をかけるとその冷たさに驚き思わず手を引いてしまう。
所々、指のささくれみたいに尖ってめくれ上がり錆びついた破片がその建物の古さをあらわしていた。
ステップに響くヒールの音を気にしながら玲子はゆっくり階段を昇った。
鉄柵越しに見上げる寒風の夜空は灰色の厚い雲が垂れこめた曇天で今にも氷雨が落ちてきそうだった。
真鍮のノブを回すと真っ暗で火の気のない部屋は外の空気よりも冷たい。
スイッチをつけ蛍光灯の少し鈍い白色がともると自然に深い溜息が漏れた。
独り身になって久しいが夜が長い冬の季節はやはり寂しさが募る。
寒さのせいかこのところ体調も思わしくない。下腹が重だるく不定期に出血もある。
もし病状が深刻なものだったりしたら─と言う不安もあり長い間躊躇してきたが今日、思い切って婦人科を受診してきた。
勤め先の惣菜屋からもらってきた残り物の揚げ物と漬物で遅い夜食を済ませ病院でもらった薬を飲むと冷え切った寝具に躰をもぐりこませた。
普段なら目を閉じると一日を振り返る間も無く深い眠りに引き込まれてしまうのだがその日は違った。
闇の中でぽっかり目を開けたまま玲子は思いもかけなかった今日の再会を思い出した。
再会とは言ってもこちらが一方的に認めただけだ。

 あれから二十年が経つ。
辛い不妊治療の末ようやく懐妊したのは三十を過ぎた時だった。
夫は五歳年上で一人息子だった。義母は足が悪く生活には車椅子が欠かせなかった。
玲子は幼い時に両親を交通事故で失っていた。親孝行もできずに逝ってしまった両親の代わりにせめて大事にしたいと思い自ら同居を申し出た。
義母も大いに喜んでくれ当初はいい嫁姑関係を築こうと間違いなく双方が歩み寄っていた気がする。
「一人目は男の子がいいわねえ」初孫を楽しみにして口癖のように義母は言っていた。
玲子も自分の血を分けた家族を持つことを心から望み待ちわびた。
しかし結婚して三年経っても子宝の兆しがないことから義母は次第にきつい口調で玲子を詰るようになった。
「─ったく、ダメな嫁だわ。畑が悪くってねえ」わざわざ近隣にまでそんな風に触れ回って歩くこともしばしばだった。夫に言うと、
「お袋も悪気はないんだよ。子どもは授かりものだからさ。そのうち、良いようになる。気にすんなよ─」他人ごとみたいにそう言って笑うだけだった。
夫が仕事でいない時間、なるべく義母と顔を合わせないよう工夫して過ごした。その事自体も面白くなかったらしく義母は炊事洗濯の細かいところまで口を挟むようになった。
 梅雨のある日のことだった。
部屋の空気の入れ替えをするため庭側のサッシを開け放ち二階へ上がった。二階で掃除機をかけていると階下で何か大きな物音を聞いた気がした。掃除機の音に紛れていたため気のせいかと思いすぐには確認せずにいた。
下に降り、絶句した。
義母が庭に投げ出された格好で車椅子ごと逆さまに転倒していたのだ。
「─お義母さん大丈夫ですかッ」玲子は持っていた雑巾を放り出すと裸足のまま懸命に車椅子を起こそうとした。
「お義母さん、お義母さんッ─」呼びかけに返答がなかった。
義母は軽い脳震盪を起こしただけで命に別状はなかったが事故は玲子の不注意にあると夫から不本意な強い叱責を受けた。
以来、義母は意識して玲子を無視するようになった。
だが妊娠したことを告げたとき思いもかけず相好を崩して喜んでくれた。
素直に嬉しかった。暗闇の中で一筋の光明を見つけたみたいだった。
これからの生活の明るい標を信じ心からほっとしていた。
しかしその頃から始まっていた夫のある変化には気づかないでいた。
出張と称し外泊する日が多くなり長い時は一週間も帰らないこともあった。
「役職がついたばかりで本当に忙しいのよ─」訝しげに感じ始めたその心の内を察したかのように義母が笑って言った。
幸いつわりも大したことがなく日々大きくなるお腹を撫でながらまだ見ぬ我が子を心から慈しんだ。
犬の日、珍しく夫も早い時間に帰宅してくれた。
仕事のカバンを無造作に置くと直ぐに玲子の膨らんだお腹に耳をあてた。
「─どうだ?大きくなってるか?」お腹に向かってそう話しかけると玲子を見上げて笑った。だが次の瞬間、ふっと化粧の香に気づいた。
いつもの夫のコロンとも、当然自分のものとも違う匂いだった。その時漠然とだが夫の傍らにいる女の存在を直感していた。
 初産は難産だった。子宮口が中々開かず陣痛促進剤を用いたがそれが要因となり、一時は母子ともに危険な状態になった。
帝王切開を決断しようとした時まさに陣痛が始まり、何とか自然分娩で出産することができた。
まだへその緒がついたまま産声をあげている我が子を抱き、「生命」の奇跡を感謝し大声を上げて泣きじゃくった。
長女は日向子と名づけられた。
いつも陽のあたるところですくすくと健康に育ってほしいと言う願いを込めて夫と考えた。
子育てに追われる日々は幸せだった。
義母も初孫に夢中で、いそいそ出かけては産着やおもちゃなどを買い込んできた。
その後も時折、夫の陰に女の存在が見え隠れはしたがあえてそれを追求するようなことはしなかった。
日向子は願い通り大きな病気をすることもなく健やかに育ってくれた。平穏で無事な毎日に手を合わせ、心から感謝する日々が続いた。
日向子が三歳の初節句を迎える年、破局は唐突に訪れた。
それは一本の電話から始まった。
『─あの、奥さんですか?』不躾な女の第一声だった。
「─はあ?どちらさま?」玲子は不快を露わにして応えた。
『ご主人のことで、話したいんですけど─』すぐに六感が働いた。
咄嗟に返答を躊躇うと、
『奥さんにとっても、大事なことです』女が言った。挑発的なもの言いにムッとした。
「いきなり、随分失礼なひとね」そう言うと少し間を置いて、
『─すみません』意外にも相手はそう素直に詫びた。
『ですが、奥さんに直接お話しなければ仕方のないことなんです─』逼迫したその語調の中に女の覚悟があることを感じた。
できれば会って話をしたい、と言う女の言葉を受け待ち合わせを約束した。
 
「─辛抱が足らないわねえ」横目で見据えながらため息混じりに義母が言った。
目の前の離婚届をじっと見つめていた。
既に夫の署名捺印は済ませてある。右肩上がりの収まりのあまりよくないその筆跡をじっと見つめていた。
「─あなたにも責任あるのよ」その言葉に玲子は虚ろに義母を見上げた。
「ちゃんと満足させてあげないから、あなたが─」義母がそう続けた。
途端に湧き上がってくる鬱積したものをじっとこらえた。おもむろに立ち上がり隣の部屋で寝ている日向子を起こしに行こうとしたその時、
「日向子はダメよ」きっぱりした言葉に思わず振り返った。
「─あなたが勝手に出て行くのだから。その子は家の娘です」玲子はキッと義母を見下ろした。
「─わたしが、わたしが命懸けで産んだ子ですッ、わたしが─」
「あなたに育てられるのッ?身寄りもなく頼るところもない、どうしたって親権は家よッ」玲子の言葉が終わる間も無く義母が激しく被せた。
玲子は蒼白に義母を睨みつけた。
「─あきらめなさい。無理だから。今のあなたには」義母が冷淡に続けた。
「─はじめなさい。独りになるのだから。新しく─。今のあなたじゃ、とてもじゃないけど日向子を育てることなんて出来やしない。飢え死にさせてしまうのがオチよ」無慈悲だが抗う言葉が見つからなかった。
「─日向子は、わたしの子は、─必ず迎えに来ますから」声を震わせやっとそう応えた。
手荷物一つだけで玲子は家を出た。
溢れ出る悔し涙で目の前が揺らいで見えた。

「─大きくなったんだ。あんなに」暗闇の中でそう呟いた。
目を閉じるとまだ幼かった日向子の姿が浮かんでくる。
「おかあちゃん─」そう言っていつも不安げに眉を寄せて服の袖を掴んで離さなかった。笑うとぽっちゃり膨らんだ頬にエクボができた。
「─日向子」名を呟くと自然に涙が頬を伝った。伝った涙は温かく添い寝するとむずがるように抱きついてきた遠い日のわが子のぬくもりに似ていた。

あの日から玲子は懸命に働いた。パートを掛け持ちし昼夜なく働いた。一日でも一時間でも早く我が子を迎えに行きたかった。
しかし無理は長く続かなかった。パート先で倒れ入院を余儀なくされた。
元々丈夫な方ではなかったが極端に酷使してしまったことで踏ん張りのきかない躰になってしまっていた。
細々と自分の糊口を凌ぐだけの収入の中では貯えもおぼつかなく心細い生活は次第に初心をも蝕んでいった。
せめて遠くからでも成長を見たい一心で、時折人眼を忍んで日向子の通う学校や元家の近くを窺うことしか出来なかった。
「─あの子を惑わせないでちょうだい。本当にあの子が可愛いのなら、苦しませないで─」せめて一目、と思い詰め思い切って訪れた玄関先で冷たく突き放した義母の一言にそれさえ叶わない現実を思い知らされ、だがただ愕然と従うよりなかった。

そう言えば何かの病気だったのかしら─。
玲子は美しく成長した我が子をもう一度脳裏に思い浮かべた。
最後に彼女を見たのは中学校の卒業の日だった。あれから随分時が過ぎてしまった。
だが今日、医院のソファに腰掛けている彼女を見、まだ少女だった我が子の面影に重なり合わさるまでさほど時間はかからなかった。
受診の順番を待つまで玲子は斜め後ろのソファに座りじっと様子を窺っていた。
綺麗な艶のある栗色の髪をしている。毛先に向かってふんわりカールされたような感じが自分の髪質に良く似ていた。
声をかけたい衝動で胸がどきどきしていた。
「沖田さん─沖田ひなこさん─」娘が立ち上がった。結婚したのだろう。姓は変わっていたが受付の呼ぶ名前で自分の娘であることが改めて確認できた。愛する娘が嫁いだことさえ報らされない。
自分の不遇な境涯をまた思い知らされた。
保険証を渡されソファに戻ってきたと同時に診察室が開き、
「篠田玲子さん─」看護師が自分を呼んだ。
玲子は娘に気を遣りながら立ち上がった。
診察室に入りかけふと振り返ると日向子がじっとこちらを見ていた。
思いもかけない視線だった。玲子は慌てて目を伏せるようにしてドアを開けた。

 立ち枯れた古木の割と太めの幹にコゲラがまとわりついている。するする、と中段の枝まで登り短い間隔で木肌にドラミングすると小首をかしげて辺りに気配をさがす仕草が愛らしかった。別段人の目に臆することもなくコゲラは同じ動作を繰り返している。
「ママ、みてみて。ことりさん─」まだ三歳位だろうか。おかっぱの女の子が目ざとく見つけ指を指して懸命に母親に報告した。
「─あー、ホントだ。かわいいねー」まだ若い母親が腰を屈め子供と同じ目線から枝を見上げて言った。
玲子はベンチに掛け懐かしい思いで親子を見つめていた。
 天気の良い日には必ず手をつないで近くの公園を散歩した。
「─おかあちゃん、ほら、これ」目線を同じにして日向子と見つける草や花は、自分にとってもいつも新しいものの発見だった気がする。
目を輝かして嬉しそうに笑った可愛いらしいエクボを思い出した。
腕時計を見ると午後二時を少し回ったところだった。
診察の予約時間まではまだ一時間以上ある。所在なく立ち上がり背伸びをした。
見上げた空は厚い雪雲に覆われていた。午後になって急に辺りが冷え込んできた気がする。
雪になるかもしれない─。そう呟くと白い息を指先に吹きかけバスの停留場に向かって歩き出した。

木製の小さな机の引き出しを開けると便箋が重なっている。
みな、書き差しの手紙だ。
我が子に宛て書き直しを重ねては結局出せずにいた。
恐らくは経済的にも何不自由なく暮らしているであろう。もしかしたら幼い頃の記憶には実母の片鱗が遺されているかもしれないが情けない境涯の自分が名乗り出る理りを見つけられる筈もなく、瞬く間に歳を重ねてしまった。
最後に娘を抱きしめることもできなかった─。あの後、目覚めたあの子はどれだけ自分を探したことだろう。
いつも不安げに私を離さなかった小さな手─。積年の後悔は決して薄れることなく玲子を苦しめ続けてきた。
思いもかけない再会はまさに奇跡だと思えた。
そして今日、予約日が同じだったのだろう。年の瀬も近い混み合った病院の待合室に日向子は座っていた。
何度も声をかける機会を窺ったが結局逸してしまった。
玲子は今度こそ、と新しい便箋にペンを下ろした。

 あまりにも静かな朝だった。
締め切った雨戸の隙間からは弱い光が射し込んでいるのだが外気はしん、と静まり返ったままだった。
予感がし窓を開け雨戸に指をかけた。
入り込むまばゆい明るさと同時にゴト、と音を立てて真っ白な冷たい塊が光の隙間を落ちていった。
初雪だった。しんしんと降りしきっている。
きれい─。玲子は雨戸を開け放つと純白の冷気を胸いっぱいに吸い込んだ。
銀世界は全てを飲み込んでいた。
一夜にして切り開かれたこの新たな世界はいつも過去をも覆い尽くしてくれたかのような錯覚を与えてくれる。
錯覚でもいい。どうか無垢にもどりたい─。どうか、あの頃に─。
玲子は窓の干し台に積もった雪を集め雪うさぎをこしらえた。大きなうさぎと、小さなうさぎ。お母さんうさぎと赤ちゃんうさぎ─。
それは遠い雪の日の思い出、日向子と自分との断片的な幸せの記憶だった。
♪うーさーぎ おーいーし かーのーやーまー♪ぼんやり雪うさぎを見ながら小さく唄ってみた。
どんなにぐずっていても添い寝しこの歌を唄いながら不安げに寄せた小さな眉を撫でてあげると直ぐに小さな寝息を立て始めた。
♪こーぶーな つーりし かーのーかーわー♪
「─おかあちゃん」不意に耳の奥で我が子の声が蘇り、玲子は思わず振り返った。
冷え切った部屋には誰がいるはずもなく、虎落笛(もがりぶえ)に遅れた雪風が入り込むだけだった。
改めて湧き上がる切ない孤独の中でもう抱き寄せることもできない幼き日の我が子の温もりを思っても今はただ悲しみが募るだけだった。
玲子は溢れ出る涙を拭おうともせず静かに降り積む雪を見つめた。

「─更年期ですね。症状は別のもののように感じるかも知れませんが」女医は淡々と続けた。
「─そうですね。不定期な出血は閉経の兆しとも考えられます。お子さんは?」
「は─?」玲子は目を上げた。
「おいくつぐらいの時に、最後の出産を─」女医が繰り返した。
「─あ、三十過ぎに娘を一人」そう答えると、
「それでは、順当な年齢かと思われますね。─」カルテを見たまま、女医が言った。
「そうですか。─あの」玲子は思い切って訊いてみた。
「─あの、沖田さん─沖田日向子さん、って言う患者さんなんですけど」
「は─?」女医が訝しげに目を上げた。
「あ、いえ、─」玲子は思わず目を伏せた。
「沖田さんが、なにか─?」女医の聞き返しに玲子はうろたえた。
他人の個人的な病状を医師が教えてくれるはずもなかった。
 診察室を出、待合室に彼女の姿を探したが見当たらなかった。
処方箋を待ちながら夕べ遅くまでかかって書いた手紙をバッグの中に確かめた。
差し渡す相手がいないことでどこかホッとしている自分が情け無くもどかしかった。
封かんしてあることを確認し封筒をしまおうとした時自動ドアが開き突然、日向子が視界に入ってきた。
玲子は思わず背を向け顔を伏せた。
診察券を出し受付の正面の席にかけたのを確認すると玲子も腰を浮かせた。
「─冷え込みますね」彼女の横に腰掛け、思い切って声をかけた。
冷静さを装ってみたが明らかに声がうわずっていた。心臓の鼓動が外に聞こえてしまうほどに思えた。
「─そうですね」思いもかけず日向子は微笑みを見せた。玲子はエクボを確かめた。
「雪、─大丈夫でした?」上気した頬を悟られないよう意識して玲子が聞いた。
「─あ、はい。本当によく降りましたね。こんな大雪、小さい時以来で」細いが透き通った綺麗な声だった。
敬遠されるかと気構えていたが意に反した応対に安堵していた。
「─あの、実は」バッグから手探りで封筒を出しかけハッと手を止めた。
膝の上に置いた彼女の両手には母子手帳が握られていた。
玲子は一瞬言葉を失った。
婦人科医院は当然産科を兼ねているものだということを認識から外してしまっていた。
訪れている医院は地域では大きく産科と婦人科の診療棟が西と東に分かれている。
玲子が受診しているのは婦人科で普通、妊婦を見かけることは少ない。受付も分かれているはずなのだが彼女がこちら側にいると言うことは両方の科を受診しているものだと思われた。
「─あ、いえ、あの、何ヶ月なの?」咄嗟に戸惑いを抑えそう訊いた。
「─今、三ヶ月です」日向子は急に恥じらうように頬を赤らめ俯いて答えた。
─ああ、この子は今、新しい幸せに包まれている。
幼い頃置き去りにしてしまったこの子の人生の、わたしは一体何を知っているのだろう─。わたしの知らない人たちに支えられて、この子は大きくなった─。捨ててしまった─。
そう、捨ててしまったのと同じだ─。
「そう、─おめでとう。本当に、おめでとうございます─」玲子はやっとそれだけ言った。
─どうしてしまったのだろう。いつも、この子の幸せだけを願い祈ってきた。自分はどうでもいい、全てに恵まれていて欲しかった。しかし実際に幸福に包まれた我が子を目の当たりにして手放しで喜べない自分がいた。
二十年という長い時の流れの中に、玲子は自身だけが取り残されてしまったことを思い知らされていた。
本当に幼い頃だったのだ─。恐らく、わたしのことなどもう記憶の片隅にも残されてはいない─。
わたしは一体、何を期待していたのだろう─。もういけない。もうこの子に触れてはいけない。
触れてしまうと全てを壊してしまう気がした。
懸命に笑顔をつくった。
「─元気な、─丈夫な赤ちゃんを産んでね」精一杯の別れの言葉だった。会釈をして立ち上がろうとした瞬間、急な目眩が襲い玲子は床に膝をついた。バッグが落ち中の物が散乱した。
「─大丈夫ですか?」驚いて立ち上がった日向子を手で制し、床のものを拾い集めながらゆらゆらと迫り上がってくる涙に必死に耐えた。
気を抜くと声を上げて泣きだしてしまいそうだった。
玲子は日向子の視線を背中に感じながらしかし振り返ることなく病院を後にした。

 寒風が落としてしまったのだろうか、街路樹にもう雪は残っていない。
夜になって一層凍てついた路面を交差点のシグナルが照らしていた。
年の瀬を迎えようとしている雑踏は殺気立つほどの喧騒を孕み普段は寂れた風情の商店街にも活気を与えていた。
玲子の勤める惣菜屋も例外ではなく忙しい日々が続いていた。
出勤してから閉店までの間立ちっぱなしでの仕事は決して楽ではないが、余計なことを考えたりする余裕がない分救われた感があった。
いつものように売れ残りをパックに詰めている時、
「─あの、すみません」聞き覚えのある声がした。ショーケースから顔を上げて玲子は目を疑った。
日向子だった。
「─あの、もうお仕事は終わりですか?」どこか思いつめたようなその表情に、玲子は思わず頷いていた。

 人影のない公園で二人はベンチに並んで座っていた。
「─捜してたんです。良かった、本当に。やっと、お会いできました」その言葉とは裏腹に日向子に笑顔はなかった。
「─寒いでしょ?妊婦さんにはよくないわよ」彼女がなぜ自分を訪ねてきたのかも分からないまま玲子が身を案じてそう言うと、
「─いいんです。人に見られたくないから」日向子は俯いたまま呟くようにそう応えた。
「─泣いてしまうかも知れないから。─だから、ここでいいんです」少し震えた声でそう続けると目を上げずにスっと封筒を差し出して来た。
玲子は絶句した。自分が日向子に宛てた手紙だった。
「─どうして」思わず息を飲んだ。少しの間の後、
「─この間、落として行かれたんです」日向子がぽつりと応えた。
「あッ、─」玲子は小さく声を上げた。慌てて病院を出たまま、あれから封筒の存在さえを忘れてしまっていた。
封筒は封かんが解かれていた。
「─ごめんなさい。わたしの名前が書かれてたもので」日向子が言った。
言葉がなかった。気構えも心の準備もなく突然晒されてしまった罪を取り繕う贖罪の言葉などあるはずもなかった。
「─苦しんだんですね、随分」その声が震えていた。
「─ごめんなさい」玲子はやっとそう言った。
日向子は、大きくかぶりを振った。
「─知らなくて。ごめんなさい─本当に、永い間」思いもかけない我が子の言葉だった。
恨まれて当然の自分に対して─。永い間冷え切っていた自分の心の中に突然温かいものが流れ込んできた。途端に玲子の顔が歪んだ。
言葉にならなかった。玲子はただ日向子の手を握った。ただ強く握り締めた。
日向子の黒目勝ちの大きな瞳から見る見る涙が溢れ出た。
「─おかあ、ちゃん」そう言い抱きついてきた日向子の涙が玲子の首筋に伝った。
あたたかいその涙は幼い頃抱きしめて寝た、わが娘の肌の温もりそのものだった─。


             了

雪うさぎ

雪うさぎ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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