ある川のほとりで ~秋


Ⅱ秋

残暑は次第に収まりを見せ、川のほとりの草木も色づき始める頃となった。僕のカブの修理はまだ続いている。足りない部品が多数あり、僕はそれを探し求め、毎月の給与を貯めて買おうとする。
すすきをゆらす風は川を渡り、向こうの畑の収穫物を撫でていく。川の上を赤とんぼが飛び、輝く水面の上をつがいとなり、2匹が連れ立って飛んでいくのを僕は見つめる。遠く工場の工事の喧騒は夏に比べ一層大きな音となってこの下流の川のほとりまで響いている。ただどのくらい完成したかはここからではよくわからない。
カブをいじりながら、時折、あの夜のことを僕は思い返す。浴衣姿の少女、狐のお面、お手玉二つ。夢だったのだろうか。いやそうではない。あのお手玉の感触はしばらく僕の両手に残っていたから。
フィッシャーマンには狐のお面の少女のことはまだ話していない。彼は今日も川のほとりに来ている。僕がちらりとそちらの方を見ると、フィッシャーマンは釣り糸のブイが激しく揺れるのを見て身を乗り出し、勘違いとわかると小さく舌打ちをしてまた椅子に腰を下ろすことを繰り返している。そしてまた釣り糸を見つめる。
カブの手入れを一段落させるともう15時だ。僕はまた仕事に戻る。川の水を採取し、試薬を落とし、色の変化を見守る。僕が水の色の変化を注視しているとまた向こう側で遊ぶ兄弟たちの声が僕の耳に届く。もう水切りはしていない。兄が弟の自転車を押さえてやっている。どうやら補助輪なしでの自転車の練習らしい。妹らしき少女は今日も石の上に座り、膝の上に載せた本のページをめくりながら、時折兄と弟の練習風景を眺める。
 試験管の水に目を戻すと、川の水の色は少し薄紫が強くなったように見えるが、充分まだ基準値内だ。検査表の欄にPH数値と〇印を記入する。先輩は決してしないけれど、時々僕は日誌に今日の川の様子も一言残すことがある。
「異常なし。秋の水面をトンボが渡っていく景色。」
 今日の僕はそう日誌の余白に記入し、試験管の水を捨てる。そして川のほとりに腰をおろして、その景色をなんとなく眺め続ける。するとフィッシャーマンは僕にこう声をかける。
「なあ青年、また物語を聞かせてやるよ。」
「今日は何の話です?」
「さあて、何がいいか・・・。そうだ、鯨の話をまだ聞かせていなかったな。あまりにも大きくなりすぎた生き物だ。少なくともワシはそう思う。」
 そう言ったフィッシャーマンの視線は川の向こう側を向いていた。
「鯨は陸にいたんだ。知っていたか?」
「もともと海の中じゃなくて?」
「ああ、遥か昔の話だが。青年やワシの先祖の影も形もなかった時代だ。といってもそのさらに前はすべての生き物が海にいたんだがな。」
 フィッシャーマンはそう言うと僕の関心を一層惹こうとしばらく間をとってから話し始める。
「海から上がった生き物はきっと好奇心の塊だったんだろうな。そうじゃなければ、なぜ好き好んで体に合わない環境に足を踏み入れるんだ?その知りたがりの生き物たちは少しずつ自分の体に合わない環境に慣れていった。適応っていうヤツだ。そして少しずつ大きくなっていった。でも陸に上がった生き物の中にも時には海に帰りたいヤツもいることはいた。それが鯨さ。せっかく体は陸にあってきていたにも関わらず、ヤツらはまた海に戻った。」
「どうして?」
 僕の質問にフィッシャーマンは苦笑いする。
「さあな・・・。鮭と同じだとすれば懐かしさっていうものがきっと鯨にもあったのかもしれないし、一方で大きくなりすぎた体を支えるのが陸の上では苦労したのかもしれない。・・・いずれにしろヤツらの仲間の一部は海へ戻る道を選んだ。水の中には浮力がある。その浮力の中でさらに大きくなっていったことだろうな。結果、もう陸の上に上がることはなくなった。上がることができない体になっていた。」
 そこでフィッシャーマンは一息入れる。
「鯨の歌声をいつか聞いてみたらいい。」
「鯨の歌?」
「ああ、鯨は歌う。我々の歌とは違っていてもそれは紛れもなく歌だよ。海の中を伝い、遠くの方まで聞こえる歌さ。深く、優しげだ。だが哀しくもある。・・・大きくなりすぎた鯨はあまり群れで行動することができなくなったんだ。一匹が巨大すぎて、何匹も一緒にいたらそこの海の餌を食べ尽くしてしまい、いずれ自分たちが飢えることになるからな。だから鯨は基本的に群れない。孤独なのさ。」
 そこまで言ってフィッシャーマンは一度釣り糸を引き上げる。そして少し上流のポイントにまた釣り針を投げる。
「・・・ワシは思うんだ。鯨の歌の優しさや哀しみはそこからくるものではないか、とな。同じ、どこか遠くにいる独りきりの仲間を思う優しさであり、独りきりの自分か、はたまた孤独な種全体へ向けた哀しみなんじゃないかって、な。」
 僕は鯨の孤独の歌を想像してみる。海に響く、きっと低い、低い声なのだろう。
川向こうを見れば、先ほどまで自転車の練習をしていた兄弟たちはいつの間にかどこかへ行ってしまったようだ。彼らが遊んでいた場所のそばの病院の2階の窓には、今日も入院患者らしき人たちがユラユラとさまよい歩いているのが見える。ふと僕は思う。フィッシャーマンが見つめているのは、もしかすると川の向かいに立つその病院ではないかということを。フィッシャーマンの目はその病院を見ているとき優しくなる気がした。それは物語の聞き手が楽しんでいるのを見ている時のようだ。もしかすると、フィッシャーマンにとって誰か大事な人があの病院にいるのかもしれなかった。
 僕はそのとき、フィッシャーマンの心に触れた気がした。そして聞いた気がする。フィッシャーマンの心から溢れる歌を。それはもしかすると鯨のように孤独の歌であり、優しさと、哀しみの歌であるかもしれない。



フィッシャーマンも修理の助言は出来ても、カブのパーツや部品を調達してきてくれるわけではない。叔母さんはもちろん原動機付自転車のことなんてわかるわけがなかった。すがる思いで事業所の先輩に相談してみると、こんな言葉が返ってくる。
「上流の工場を建てているところの近くなら何かあるんじゃないか?あそこには資材もあるし人もたくさんいる。中古の部品やまだ使える廃品なんかも余っているかもしれないぜ。」
 先輩はそこまで言うと、広げた新聞にまた目を落とす。先輩は僕と仕事の日が重なった時はいつでも事業所で日がな一日新聞を読んで過ごしている。あまり彼のことは知らない。僕より一回り近く年上であごひげを生やしていることぐらいだ。そんな先輩から一度だけ彼の財布の中にある写真を見せてもらったことがある。ある日の業務時間中、事業所で留守番をしていたはずの先輩が、水質検査から戻ってくると見当たらなかったときのことだ。何か所用があるのだろうと、僕は特に気にしていなかったが、いっこうに戻ってこなかったのでさすがに心配になってくる。やっと退勤時間間際になって姿を見せたと思えば、先輩は顔を真っ赤にして千鳥足だ。手には酒瓶が握られ、事業所の扉を開けるなり、崩れるように床に座ってしまった。仕方なく僕は介抱し、奥のソファーまで先輩の肩を担いで連れて行く。鼻につくアルコールの匂いをなんとかこらえ、僕が先輩を寝かせると、こんな言葉聞こえてくる。
「すまねえなあ。今日はちょっと特別な日でつい飲んじまった。」
 そう言って先輩はケラケラと笑う。
「オレの娘の誕生日なのさ。」
 普段何も語らない先輩は、一枚の写真を胸ポケットから僕に差し出す。それは子供と写ったツーショット写真だ。
「オレの娘さ。可愛いだろう。今年でやっと小学生さ・・・。もう会える日は限られているがね・・・。」
 先輩は酔いもあってか幸せそうに僕に写真を見せてくれる。その写真には母親らしき人は写っていない。先輩はそれについて僕に説明することはなく、僕が写真を返そうとする頃には静かないびきをかき始めていた。僕はそれ以上先輩に何も聞かないし、無理に先輩を起こそうともしない。
僕は先輩の分も含めて、タイムカードを打刻する。うぃーん、乾いた音が事業所内に響く。今思えば、誰もが少しずつではあるが、孤独の歌を歌っているのかもしれない。
 僕は橋を渡り、いつもの対岸の川のほとり、土手の道を歩きながら上流へ向かった。工場建設の音はいつもの川のほとりまで届いているのだからそれほどの距離はないだろうと僕は考えるが、なかなか工場はおろか、何か建設している様子も見えては来ない。
病院があるところから少し行くと道は舗装されていて歩きやすい。すすきが右手に広がっていて、僕はそのうち一本を引き抜く。引き抜いたすすきで、広がるすすきの穂をゆらしながら僕は進んでいく。時折、すすきの穂先が綿のように舞うのを目にする。舞った穂先の綿は風に運ばれ上流へと運ばれていく。その後を負うと、自然に僕の目線は無数の羊雲が浮かぶ秋空に向く。空は凪いだ川のように静かで穏やかだった。
 どのぐらい歩いただろうか、気づけば空の向こうに煙突がいくつも見える。人が幾人も動き、トラックやトラクターが資材を運び、僕にはよくわからない工場を建設していた。遠目からしばらく眺めたあと、僕は土手の斜面を降りていき、工場建設地の入口を探そうとするがどうにも見つからない。川の側には面していない方に入口があるのかもしれないが、反対側には高い壁がめぐらされていて棒にはとても乗り越えられそうになかった。
仕方なく僕は川沿いに戻り、工場の様子を観察する。動き回る人々と機材。そのうち一台のトラックが積荷を乗せて出ていくのを目にする。大した速度でない。僕はそのあとを追いかけるとほどなくして、川のほとりにトラックの積荷であるものを下ろしているところを目にする。積荷は粗大ゴミのようだ。積み重なった廃棄物を川のほとりへ捨てているのだ。
トラックは荷台のものをすべておろすとまた元来た道を戻っていく。トラックが去ってからしばらく後、僕はそのゴミ捨て場へ近づいていく。
僕の身長のゆうに2倍はあるだろう高さまで、ものが積まれ、その多くが粗大ゴミのようだ。わかりやすい資材から、足場の鉄鋼、壊れたトラクターに鉄柱、何かのタイヤに、ひしゃげたスコップ、はては楽器のようなものまである。どう考えてもこの工場建設で出たゴミではないようなものまでここでは捨てられ、積まれていた。僕はしばらくゴミ捨て場を歩き回っているとドラム缶の上に座りタバコを吸っている男の人がいることに気づく。
「こんにちは。」
 僕はできるだけ愛想よく聞こえるよう、彼に丁寧に挨拶をする。
「・・・。」
ドラム缶の上に座っていたのは若者とは言えないまでも中年にはまだ早いだろう男の人だ。くたびれた作業着を着て無精ひげを生やした彼は、吸っていたタバコを捨てるとドラム缶から降り、僕を上から下まで眺め回してまた僕の顔を見つめた。
「・・・ああ、こんにちは。」
一瞬間があったが彼はそう答えてくれる。妙に雰囲気が合って僕は一瞬たじろくが、なんとか踏みとどまり勇気を出して言う。
「あの、この川の下流で水質検査をしている者なんですが。」
 僕が説明を始めても彼は特に表情を変えることはない。
「同僚からはあなたの工場建設の会社から指示を受けている水質検査の仕事だと聞いています。」
 僕がさらに注釈しても無表情だ。その顔からは何も読み取れない。僕の顔から目をそらすと作業着の胸ポケットからまたタバコを取り出しくわえた。
「・・・また新聞屋か何かと思ったが違うんだな。」
 そう彼は言ってタバコに火をつける。
「・・・この工場建設には地元からの反対が結構あったらしい。まあオレには関係ないがな。」
「あなたの会社ではないのですか?」
 彼はそれには答えず、タバコの煙をふかす。僕は話を元に戻す。
「今、仕事の合間に古いカブを修理しているのですが、なかなか部品が足りなくて。」
「カブ?」
「原動機付き自転車です。もしよければ、今ここにある廃材を少し分けてもらえればと思って。もしかしたら使える部品が何かあるかもしれないから。」
 中年はしばらくタバコをくゆらせた後言った。
「・・・好きに持って行けばいい。別にオレのものでもないし、オレが管理しているわけでもない。」
 男はそこで一度タバコを吸うとうまそうに煙を空へとゆっくりと吐き出した。僕はタバコを吸わない。一度学生の頃、級友の勧めで吸ってみたことがあったが肺に入ると胸が苦しくなり激しく咳き込んだものだ。その姿を旧友に笑いのものにされてから手を出したことはない。でもこの人の吸っている様子を見ているとタバコがすごく美味しいものであるかのように思えてくるから不思議だ。
「オレはただここにいるだけだよ。・・・まあこいつらも何かにもう一度使われた方が喜ぶかもしれないね。」
 それだけ言い残すと、男はタバコをまたその辺に放り出し、踏みつけて火を消す。そしてまたドラム缶の上に腰を下ろした。



その日から僕はこのゴミ捨て場の中から使える部品がないか探しに来るようになる。これだけ積まれていると探すのも苦労するが、逆に楽しくもあった。中には掘り出し物といってもいい、まるで思ってもみなかったものも出てくることがある。古い原動機付自電車のエンジンらしきものがでてきたのはそのうち最大の収穫だろう。
僕が廃材から宝物を探すのを、男は特に口出しすることもなくただ見守った。ドラム缶の上に座り、タバコの煙を空にふかしながら僕の様子を見ている。時折タバコの代わりに、どこからか拾ってきたのだろうか、薄汚れたハードカバーの本を読んでいたりする。僕は彼のことをフィッシャーマンよろしくダストマンと呼ぶ事にする。
僕がゴミ捨て場に行くと、時間によってはおそらく工場建設の作業員だろう人々が廃材をトラックから下ろしているのに出くわすことがある。トラックで運ばれた、建設中の工場やその他からやってきた廃材が降ろされ、積み上げられる。ダストマンはドラム缶の上に座り、タバコを吸いながらトラックが来るのを見つめ、タバコの煙を吐きながらトラックが出ていくのを見送った。作業員の人たちも特に彼に何も言うことはない。彼も作業員に何か言葉をかけることもない。
何回かこの場所に来て、ゴミ捨て場の脇に一台の古いフォルクスワーゲンバスが停まっているのに僕は気づいた。あれも壊れているのだろうか。ウィンドウの一部が割れ、後輪はパンクしているように見える。車体は若干左側に傾いていた。僕が土手を歩きながらフォルクスワーゲンを見ていると、中から一人の男が降りてきて川のほとりまで行き顔を洗っていた。ダストマンはどうやらそのフォルクスワーゲンに寝泊まりしているらしい。それ以来、ダストマンが日中の暖かい時間、川に降りて行き水浴びしているのを見かけるようになる。もちろん川はそのことについて何も言わない。避難も賞賛もない。ただ静かに流れるのみだ。
僕が足繁くゴミ捨て場に通うことについて、ダストマンはどう思っているのだろうか。彼の表情からは何も読み取ることはできない。ただ僕のことを嫌ってはいないということはなんとなくであるが僕にもわかる。
いつもの川のほとりまでそこで集めた廃材を持っていくと、フィッシャーマンは釣りの傍ら、面白そうに僕とその廃材を見つめた。
「また色々集めてきたもんだなあ。ええ?」
「同僚に聞いたら、上流の工場建設しているところなら色々な廃材があるだろうって教えてくれて。」
 僕は廃材をカブのそばに広げながらフィッシャーマンに説明する。
「そのゴミ捨て場にいる人がどうせ捨てるものだから持っていけ、って言ってくれたんだ。」
 フィッシャーマンも、竿をおいて僕のそばまで来て一緒に部品を確認する。
「自動二輪のエンジンまであるとはなあ。これは使えそうじゃないか。ちゃんとお礼はしたのかい?」
「お礼?」
 僕が聞き返すとフィッシャーマンは少し驚いたように答える。
「青年、まさかお礼をしないつもりだったのか?これだけのものをもらったんだ。例え廃品だとしてももらったものなら何か返さないと。そういう気遣いってものがいい関係を作っていくのさ。」
フィッシャーマンのアドバイスを聞いて、僕はダストマンにお礼のお返しを準備する。
ゴミ捨て場に次に行ったときのことだ。フォルクスワーゲンまで彼を訪ねていく。ダストマンはちょうど後部座席で昼寝をしていたようだ。バスの扉を軽くノックすると、後部座席のドアがきしみをあげながら開き、ダストマンの無精ひげを生やした顔がのぞいた。髪をかき、あくびをしながら彼はフォルクスワーゲンから降りる。
「君か・・・。何だ?」
 僕は少し緊張しながらも彼にお礼を差し出す。
「・・・いつも貰ってばかりなのでお礼です。」
ダストマンはしばらく僕が渡した紙包みをじっと眺め、無精ひげを一度撫でて言った。
「・・・前にも言っただろう。あれはオレのものじゃない。オレが管理しているゴミではないんだ。」
「ええ、聞きました。」
「やつらが勝手にあそこに捨てているものだ。不法投棄ってやつだ。・・・オレは好きであそこにいるだけであのゴミとは何の関係もない。」
「ええ。」
 僕はもう一度うなずく。
「・・・だからオレに何かをあげる必要はない。」
 ダストマンは僕に紙包みを返そうとした。僕はそれを押しとどめ、彼を促す。
「たいしたものじゃないから。・・・開けてみて下さい。」
ダストマンはまた無精ひげを一撫ですると、ぎこちない動きで僕の下手くそな紙包みを無造作にはがしていった。彼は中身を見て少し目を見開く。常に無表情なダストマンの表情が一瞬でも変わるのを僕は初めて目にする。
「・・・あなたが気にいると思って。」
それは一冊の本だ。僕の今の部屋の本棚にあるうっすらタバコの香りがするうちの一冊だ。
「僕の下宿先の叔母さんに相談したら、部屋にある本であればその人に差し上げてかまわない、そう言ってくれたんです。あなたはよく本を読んでいるので。」
 タバコと悩んだけれど、銘柄にこだわる人もいるから、そう叔母さんが助言してくれたのだ。しばらくダストマンは何も言わず、そのまま本を見つめ立ちすくんでいた。トラックがまたゴミ捨て場に来たのか、クラクションの音が僕の耳に届いた。それが合図となったように彼は本を脇に抱えた。
「・・・ああ、貰っておくよ。」
 それ以上ダストマンは何も言わず、またフォルクスワーゲンに戻っていったのだ。
それ以来、僕がゴミ捨て場に行くたびに見かけるダストマンの手には、いつも僕が彼にあげた本が握られていた。ドラム缶の上で時にタバコをふかしながら、フォルクスワーゲンのボンネットの上に横になりながら、ダストマンはその本を開いていた。叔母さんに選んでもらった本の名前は、ジャックロンドンの“野生の呼び声”。僕はあまり小説を読まないからわからないが、どうやらダストマンは気に入ってくれたようだ。
 それから僕とゴミ屋さんの間に少しずつ会話が生まれるようになる。
「こんにちは。」
「・・・ああ、こんにちは。」
 最初は挨拶から、次第にそれが広がっていく。ある日のことだ。
「・・・君の修理しているバイクはどのような型だ?」
 ダストマンがそう質問してきたのだ。彼からそんなことを聞かれることは初めてだったので僕は少し驚くが、丁寧に答える。
「カブです。かなり古い型の。」
「・・・ああ。」
 それだけ聞くと開いていた“野生の呼び声”をとじ、またフォルクスワーゲンバスに戻っていく。しばらくするとバスから何かをもって戻ってくる。
「・・・使えそうか?」
 それは排気管だった。しかもまだ新しい。
「ありがとうございます。たぶん、いやきっと使えます。」
 僕はダストマンに頭を下げる。彼は表情を変わらなかったが、また無精ひげを一度撫でた。もしかするとそれがダストマンの照れ隠しであるのかもしれない。



秋も盛りとなり、川の反対側の田んぼでは収穫が始まる。穂先の重さから頭をたれた稲をのんびりと走るトラクターが刈り取っていくのを遠目に眺めながら、僕はその日のPH値を測定する。最近ピンクの色が少し濃くなってきたように感じるが何故だろう。検査表を確認すると、その平均値は以前に比べ少しずつ増えているのがわかる。
事業所に戻って、先輩にそのことを話すが、彼は興味なさそうにこう答える。
「オレたちは言われたことをやるだけさ。この値にどんな意味があるのか、この数値が増えていることでどんなことが起こるのかそれを判断するのはお前がよく行くあの工場の奴らだし、さらに言えばもっと上の連中さ。」
彼はそう言って新聞をめくる。きっと先輩の言う通りなのだろう。ただ川の様子をほぼ毎日眺めている僕には、川の様子が少しずつ奇妙な方向に向かっているように写っていた。どこがと言われればうまく答えられない。でも何かが違ってきていることはわかる。それを表現する言葉が僕にはなく、結果として僕自身の気のせいなのだろう、そういうところに落ち着いてしまう。
そんなことを考えながら僕はカブを修理する。少しずつであるがだいぶ使えるようになってきているのは間違いない。エンジンを変え、排気管をダストマンから貰った物と交換し、車体も今や泥や油汚れはほとんどない状態だ。そんな作業をしながら物思いにふけっているとフィッシャーマンが僕に声をかける。
「何か思い悩んでいるな?」
 僕はどう答えていいか分からず、代わりに手を動かすことに集中する。
「まああまり深く考えないことだ。釣りでもポイントをすぐに変えても良い結果は得られん。どこが狙い目かしっかりと考え、決断し、ポイントに投げ込む。後は忍耐強く待つことだ。」
 フィッシャーマンはそう言うが、よく考えると彼がこの川のほとりで魚を釣り上げている姿を僕は見たことがない。
「なあ青年、物語を聞かせてやるよ。」
 魚が釣れたことがあるかどうかの話題に移るのを拒むようにフィッシャーマンは語り始める。
「・・・大きな鹿の話をしよう。本当に大きな群れを作る鹿の話だ。」
「何頭ぐらいです?」
「地平線を埋め尽くすぐらいさ。」
 僕にはそれが大げさな話かどうかは判断がつかない。本当にそんな鹿の群れがあるのだろうか?
「疑っているな?でもあるのさ。本当にな。地平線を見ているとうっすら砂埃があがる。すると一頭の大鹿の頭が見える。続いてもう一頭、続いてもう数頭。気づけば続々と大鹿があらわれ地平線を埋め尽くす。・・・砂埃は彼らの歩みによって巻き上げられたものなのさ。」
 僕はカブのそばに腰を下ろし、修理の手を止め川の方に目を移す。もちろんそこには埋め尽くすほどの大鹿の群れはいない。のんびりとして、それでいてせわしない実りの豊穣さがあるだけだ。あの兄弟たちが向こうの道を歩きながらあちら側の川のほとりに降りていく。これから何の遊びをするのだろう。かくれんぼ、石けり、ままごと、缶けり、水切り・・・。昔僕が馴染んだ遊びは今の彼らも知っているのだろうか。
「わしがバイクを降りて、テントを張り、キャンプをしていた時だ。前の日がテントの設営で遅くなり、次の日、いつもより遅くまでわしは寝ていた。あそこの時間はゆっくりと進む。少なくともここよりはな。そうやって歩み遅く進む時間と一緒にわしは寝袋の中でまどろんでいた朝のことだ。・・・寝袋の下の硬い地面から響く音を聞いた。何十、何百、何千の足音を。彼らの行進を。起こされたわしは急いで寝袋を抜けだし、テントの外に飛び出した。そして彼らを見た。地平線と重なる彼らの姿を。」
 僕は兄弟たちを見つめていた目を閉じる。音に耳を向けると川の音が聞こえる。しかしそれがどこからともなく歩いてくる彼らの足音と重なり、交わり、変化していく。
「彼らの群れは一斉にこちらにやってきた。わしのバイクとテントがある方向だ。わしは慌ててテントを片付けようとしたが彼らの歩みのが早い。100メートル、50メートル、5メートル・・・彼らの群れに引き倒されそうになると思い、わしは目をつぶった。しかし・・・何も起きない。恐る恐るわしは目を開ける。」
 僕も近づく足音が目の前にきたかと思い、ゆっくりと目を開く。
「彼らは寸前のところでわしを避けた。わしとテントとバイクを。ほんの目の前を、すぐ脇を彼らは、彼らの大群は悠然と歩いて行ってしまった。」
 目を開けると兄弟たちはいない。川のほとりに降りず、川の道をそのまま行ってしまったらしい。
「わしは腰が抜けてその場に座り込んだ。こう何か、本当に壮大なものに触れた気がした。そしてわしは旅をするのをやめた。この国に戻ってきた。」
 そこまで言うと、フィッシャーマンの釣竿が急にしなる。フィッシャーマンは慌てて竿をたて、合わせにかかるも針だけが川面から彼のもとへ飛び出すように戻ってくる。
「ふう・・・。」
 フィッシャーマンは小さくため息をつく。そして折りたたみ椅子から立ち上がり、背筋を伸ばした。彼の見上げる秋空の雲はこの川の流れと同じくして、穏やかに、それでいて悠然とながれていく。大鹿の群れのように。
「・・・それでいてまだこうやって釣りをしているがね。」
 空の上の無数の雲の行方を、僕とフィッシャーマンは言葉少なに見守った。



 あのカブの修理がもうすぐであることを叔母さんに話すと彼女は喜んでくれる。
「へえ、修理できたんだ。良かったねえ。んん。」
 叔母さんは笑顔で僕にそう言った。今日はごぼうのアク抜きをしながらビールを飲んでいる。ピーラーで削ったごぼうをささがきにして、ボウルの中に放り込む。ボウルには水が張ってあり、放り込まれたごぼうはゆっくりとボウルの底まで沈み、アク抜きされるのだ。
 叔母さんは包丁を置き、手を休めて、グラスについであるビールをごくごくと飲む。
「完成したらみんなに見せないとね。」
 そう叔母さんに言われて、部屋に戻った僕は、寝る前に布団の中で誰に見せようか考えてみる。フィッシャーマンはもう見ているからいいとして、叔母さんには絶対に見せよう。ダストマンにもだ。職場の先輩にはどうしよう。先輩もゴミ置き場の場所がありそうな場所を教えてくれたのだ。そういえばフィッシャーマンだって実際にカブが動いているところを見たわけではないじゃないか・・・。色々と頭を巡らせていると、どうにも寝付けなくなり、僕は布団から体を起こす。ベランダの窓を開けるとちょうど烏が飛び立つところだ。烏の飛び立っていく方角はあの川のほとりだ。一瞬、飛んでいる烏が首を僕の方に向けたような気がする。気のせいかも知れないが気のせいではないかも知れない。僕は叔母さんを起こさないよう、忍び足で外に出ると、その足でまた烏の向かった方向へ足を向ける。
 夜の川はすっかり肌寒くなっている。僕は
念のため持ってきていたウインドブレーカーをはおり、首元までジッパーをあげる。すすきの中から秋の虫たちの歌が聞こえる。りんりんりん、ころころころ。僕はその音に耳をすます。コオロギやスズムシの歌。これは孤独の歌ではない。子孫を残すための歌であり、求愛の歌だ。
 虫たちの歌声は川のほとりでも響いている。遠くで電車が暗闇を照らしながら橋の上を駆け抜けていく。もう時刻は終電間際だろう。目にとまった車内の人々は、スーツ姿だったり、普段着だったりするが、一様に電車の座席に体を埋めていた。電車が行ってしまうと川はまた暗闇に戻る。烏がどこかにとまっているかもしれないがとてもわからない。暗闇の中の川は漆黒だ。こんな真っ黒な川を見つめていると、普段と比べ、僕には川がどんよりとした淀みをたたえているように見える。まるで石油タンカーから漏れたオイルがように粘り気がある黒さ。それをじっと見つめていると、僕はまるでそれに吸い寄せられるような気がしてくる。
 もっと近くから川の水の様子を見ようと、僕は近づき川に手が届く距離までくる。覆いかぶさるように覗き込んだ僕は、黒々としたその淀みから、べっとりとした手が僕に伸びてくるように感じる。一層僕は川に惹きつけられて、這いつくばり顔を水面に近づけたときだ。僕の背中に何かがぶつかり、僕はやっと我に変える。
僕は頭をふりふり、背中に当たったものを拾い上げる。それはお手玉で、僕はそのお手玉が飛んできた方を見つめる。そこにはあの狐のお面をかぶった少女がいて右手で二つお手玉を握っていた。
 少女は寒いのか浴衣ではなく着物を着ていて、上からちゃんちゃんこを羽織っている。真っ直ぐに立ち、お面から僕をじっと眺めているのがわかる。
「ん」
 彼女は右手に握ったお手玉をまた僕に差し出す。今日のお手玉は三つだ。僕はあの時と同じようにお手玉を披露するが数が増えたのでなかなかうまくいかない。川のほとりの原っぱに落としてしまい、僕が頭をかくと彼女はこないだと違い、「きゃっきゃっ」と笑い声をあげる。
「三つは難しいよ。」
 僕がそう言うと狐のお面の少女は僕からお手玉を受け取り、三つのお手玉を器用に空中へ放り投げる。綺麗なお手玉だった。僕のぎこちないものとは違う。僕は以前を思い出し、彼女が僕にしてくれたように拍手を送る。少女はお手玉をキャッチし僕にお辞儀をした。「君はどこから来たんだい?」
 少女が答えてくれるとは思えなかったが、僕は聞いてみる。彼女は狐のお面をかぶった顔をひねる。言葉がしゃべれないのかと思ったが、一瞬の後狐のお面の少女の声が聞こえる。
「どこでもない。ここ。」
「ここ?」
「このかわのほとり。」
「この真っ暗な川の?」
「くらやみ、くらやみ。」
 彼女は歌うように言う。僕もその言葉を繰り返す。
「くらやみ、くらやみ?」
 彼女はこくりと頷き、同意をこめて言う。
「うん。くらやみ、くらやみ。」
 そう言って反対を向き彼女は駆け出していく。前と違うのはあるところまで来ると彼女は立ち止まり、僕の方を振り返ることだ。
「くらやみ、くらやみ。」
 彼女はまたそう口にする。どうやらついて来いということらしい。僕が彼女の方に足を踏み出すと彼女は待っていたとばかりにまた前を向き駆け出していく。そして駆けては時々振り返り、僕がついてきているか確認する。
 彼女は橋を渡り、向こうの川のほとりに向かう。スキップとも踊りともつかず、彼女はくるりと回りながら舞っているように駆けていく。鈴虫の歌声に乗り、彼女の声が後ろを進む僕のところまで流れてくる。それはこう聞こえる。

 くらやみ くらやみ
 あかりに ともしび
 すすきと むしのね
 かぜかぜ ふけふけ
 かわながれ

 くらやみ くらやみ
 またたき ひかり
 いなほに こおろぎ
 あめあめ ふれふれ
 かわながれ

 まるで歌のように響く狐のお面の少女の声を聞きながら、僕らは橋を渡りきる。僕は一度振り返り、今までいた向こう側を見つめる。僕自身も住む団地の灯り。点々と灯るそれぞれの団地、それぞれの部屋。その一室一室に誰かが暮らし、各々の営みを日々送っていた。真っ暗な川にそれぞれの明かりが反射し、川の揺らぎで灯りもまたたゆたう。
 前を向くと狐のお面の少女がまた立ち止まっていて、僕を待っていた。僕は灯りを振り切りの彼女の後を追う。少女は途中お地蔵様の前に来ると、農家のおばあちゃんがそうしていたように小さくぺこりと会釈してその前を通りすぎた。
狐のお面の少女は単なるままごとをしているのだけなのだろうか。それとも何か意味があるのか、またはまったく意味なんかなく、僕の頭がどうかしてしまっただけか。そんなことを考えていると、狐のお面の少女が立ち止まった。そこには男の子らしき二人組がいる。一人は少し年長で、もう一人は少女より年下だろうか。だろうか、というのはやはり彼らの素顔がわからないからだ。身長が大きい方も、少女より小さな子の方も少女と同じく狐のお面をかぶっているから。彼らが立っているところまで行くと、そこで僕の手をとり遊び始める。
 
 あのこがほしい
 このこがほしい
 そうだんしよう
 そうしよう

 花いちもんめ。僕が子供だった頃、いつの間にか覚え、いつの間にか忘れていった童唄だ。二人組ずつになり、この人数ならすぐに勝負がつくはずなのに終わらない。ぐるぐると一番小さな子が行ったり来たりして、その次は僕だ。川面のたゆたう光がまるで灯火のように揺れる中、狐のお面をかぶった子供達と僕は真夜中の川のほとりで遊ぶ。
 花いちもんめの中で、昼間よく見る兄弟たちのことが頭をよぎる。長男がいて、末の弟に自転車の乗り方や水切りを教え、それを見守っていた真ん中だろう妹の姿。ちょうど今僕と遊んでいる三人のお面の子供達と同じ背格好だ。彼らだろうか。それともこれは僕の夢なのか。川の暗闇が見せる何か、僕はそこに吸い込まれたのか。のみこまれていったのか。ふとどこかで羽の羽ばたく音が聞こえる。僕のベランダの烏の羽音だろうか。
「クラヤミ、クラヤミ」
 負けて嬉しい花いちもんめ。川の中へ。真っ暗な夜の川の中へ。



「・・・おい。」
 どこか遠いところの声に僕は目を開ける。ぼんやりした頭に響くのは聴き慣れたあの声だ。
「おい、青年、大丈夫か?」
 フィッシャーマンが僕のそばにしゃがみしきりに声をかけてくれていた。まだ夜で僕を見下ろすフィッシャーマンの向こうには三日月が爛々と輝いている。意識がはっきりしてくると五感も蘇っていく。鈴虫の音と川の流れる音が耳に響き、草の匂いが鼻をくすぐる。
「・・・僕はどうしていたのかな?」
 ゆっくり体を起こしてこの場所を見渡す。いつもの川のほとりだ。あの狐のお面をかぶった子供たちはもういない。むしろ本当にいたのか、それも定かではない。
「そんなことわしがわかるわけがないだろう。

「そう・・・。フィッシャーマンはなぜここに?」
「たまに夜釣りをすることもある。」
「夜に釣れるの?」
「青年の前で昼間に釣れたことがあるか?」
 フィッシャーマンははぐらかすような言い方をする。
「なに、まあよく眠れんのでね。」
 そう言って折りたたみ椅子を広げ、またその上に腰を下ろす。釣り糸の先に餌をつけ、また放り投げる。その姿は昼のフィッシャーマンと変わりはない。ただ少し、いや、一層寂しそうに見えるのは僕の気のせいだろうか。
「・・・夢を見ていたのかもしれない。」
「どんな夢だ?」
「お面をつけた子供達と遊ぶ夢。お手玉をしたり、手をつないで花いちもんめしたり。」
「また懐かしい遊びだ。愉快だろうに。」
「そう思うかい?」
 フィッシャーマンの方を見ても暗闇で彼の表情はよくわからない。彼の輪郭だけがシルエットとなって僕の目には映る。
「ああ、そう思う。」
「何故だろう?」
「青年、君はもう大人だろう?・・・大人がまだそういう世界に触れることが出来るっていることは、とても大切なことのように思えるもんさ。」
 そして彼は川ではなく夜空を見上げる。
「人は誰もが大人になる。わしはもう大人であるし、青年もそうだろう?それでも時にはどこか子供のように逃げ込む場所が必要な時がきっとある。さっき青年が見ていた夢のようなものかもしれんな。」
「・・・それは物語も?」
「ああ・・・、たぶんな。」
 フィッシャーマンは夜空から顔をそらし、僕の方を見た。僕フィッシャーマンの表情はわからない。フィッシャーマンには僕の表情がわかっただろうか?暗闇の中で僕らは互いの顔を見つめ合い、きっと笑いあっていただろう。



 秋ももう終わりに差し掛かる頃、カブの修理は終わりとなり、いよいよあとは試運転というところまできていた。僕はその日を先輩に頼んで半休をもらっていた。最初の試乗は明るいうちが良かったから。ただ午前中の仕事中、意識を検査に集中することができずに2度試薬を無駄にしてしまうこととなった。自分では落ち着いているつもりでも気持ちはだいぶ高ぶっているらしい。それだけカブの試運転で緊張していたのだろう。
 水質検査の方はすっかり色が濃いピンクとなっていた。工場建設の影響なのかは僕にはわからない。もちろん先輩にも。少なくともダストマンのもとへ廃材を貰いに行っても工場建設が川に何か悪い影響を与えているようには僕には見えない。検査結果を見れば、そこには〇印の代わりに×印が並びつつあった。ただ僕と先輩にできるのは水質検査を続け、その結果を僕らよりもっと上の人たちに伝えていくことだけに思えた。
 午前出勤を終えた僕は、タイムカードを押す。先輩は新聞を珍しく脇におき、僕の方を見て言った。
「いよいよだな。」
「ええ、午後の業務を変わってもらってすいません。」
 僕が先輩に頭を下げると、先輩は気にするなとでも言うように肩をすくめる。
「まあオレも見てみたかったが、誰か一人はここに残らなくちゃならないからな。」
 僕はもう一度頭を下げて、事業所の扉を押し、先程まで水質検査をしていた川のほとりに戻る。
 川のほとりに行くと、フィッシャーマンがすでに折りたたみ椅子を広げ、陣取っていた。今日は釣竿を脇におき、僕に声をかける。
「楽しみだ。」
「うん、楽しみだ。」
 僕も応じる。僕は自分自身の手のひらを見つめる。少し汗ばんでいる。風はすっかり冷たくなっているにも関わらずだ。今や胸はどきどきと高鳴り、フィッシャーマンにこの音が聞こえていないか不安に思うほどだ。
「・・・よし、じゃあまずエンジンをかけてめみろ。」
 僕はフィッシャーマンに促され、カブにまたがり、キーを差込む。そしてエンジンをかける。2、3回鈍い音がしたと思うとエンジンに火が灯る。カブに命が宿る。
「よし、そのままステップに足をのせて、スロットルを開いていけ。」
 フィッシャーマンがエンジンに負けない声をはり、指示を出す。僕は彼の言葉に従い、スロットルを開き、足をステップの上に乗せた。
「わあ!」
 途端にカブが走り始める。僕は一瞬顔にあたる風の冷たさに思わず目を閉じる。しかしすぐにそれにも慣れ、目を開くと視界が素早く流れていくのを感じる。全身に風を受け走る僕をのせたカブ。もう先程までの息苦しさはない。僕は今、自分で修理した原動機付自転車でこの川のほとりを走っていた。まっすぐ。この川の流れのように。そう理解したとき、僕は笑い声をあげた。その笑い声を残して僕とカブは前へ進む。フィッシャーマンはまだ見てくれているだろうか?
僕らは橋を渡る。お地蔵様の前を通るとそこにはまた農家のおばちゃんがいてまた手を合わせている。病院のそばを通れば、2階の病棟を歩く患者が僕の走る様子を物珍しそうに眺めているように見える。工場の建設地とは反対方向へ僕たちは進む。あのお面をかぶった子供たちがいた場所はあのあたりだろうか。
ふと僕は昔見た古い映画を思い出す。白黒の映画で、祖母と僕が一緒に暮らしていたころテレビで見た洋画だ。この国とは違う別の国の話。そこで出会ったカップルが小さな原動機付自転車に乗り、街の中を走り回るワンシーン。女性は歓声をあげ、それを見ていた後ろに乗る男も笑顔を浮かべる。きっと祖母はその映画がとても好きだったのだろう。それを見ていた祖母はとても幸せそうであったのだから。そして今、僕はその国とは違うこ国で、一人、川のほとりで原動機付自転車を乗っている。あの女優さんと同じように、歓声をあげながら。
川のほとりを走るカブから、立ち並ぶ木々の様子が見える。もう少し早い秋であれば色鮮やかな紅葉を眺めることができたかもしれない。でも今はもう秋の終わりで、そこには葉はなく、裸の木々と裸の枝があるのみだ。空、灰色の空。いつのまにかどんよりとした雲が空を覆っていた。僕はゆっくりと呼吸するとその呼吸は真っ白な息となる。そうやって新しい季節が川のほとりに訪れる。他の場所と同じように。他の時代と同じように。時に涙を拭いながら。時に歓声をあげながら。

ある川のほとりで ~秋

ある川のほとりで ~秋

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-06

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