Fate/defective c.14
第10章
呆然と、雨と泥の中に座り込んでいた。
もう何もすべきことがない。討伐令はおろか、聖杯戦争において、僕は完全に敗者になったのだ。サーヴァントを失ったという事実と、ただ一人の理解者を永遠にこの世から失ってしまったことが、同時に僕の頭を埋め尽くしていて、他のことを何も考えられない。濁った水でいっぱいになった水槽のように、不透明で、忌まわしい。そうだ、これが絶望というものか、と僕は身体を斬られるように学んだ。
バーサーカーとそのマスターはとうにその場から去っていた。雨の中、悠々とした歩調で闊歩するその魔術師とサーヴァントをどうすることもできず、ただ見送るしかなかった僕の胸中を察してほしい。もう、何もすべきことがないのだ。
僕は負けた。
絶対に勝てると思っていたわけじゃない。聖杯を手にする自分はまるで想像できなかったし、誰かに勝利する自分もイメージできない。
けれど、こんなにもあっけなく、命を懸けた望みが潰えることも想像できなかった。ずっと欲しかった本を買うために本屋に行ったら、目と鼻の先で閉店のシャッターを閉められたような気分だ。もう先は無いよ、これ以上の何かを期待しても、君には何も用意されていないのだよ、と誰かに言われたような、そんな絶望なのだ。誰かと手を取って勝利を喜ぶことはもちろん、誰かと敗走の苦しみを分かち合うことも、僕にはもう残されていない。あるのは、ただ空虚な「無」だけだ。
だってそこには誰もいない。
春先の雨は冷たくて不親切だった。ああ、明日は風邪を引くかもしれないな、などと、本当にどうでもいいことが頭をよぎる。うつろな視線を手元に落として、自分が今まで何かを握り続けていたことに初めて気付く。
あまりにも固く握っていたせいで、指の関節を開こうとするだけで痛みが走る。僕はゆっくりと手を開いた。
「これは……」
今際の際にハルから渡された、三角錐のピアスの片割れだ。
青白く光るルーン石が、雨粒を弾いて輝く。もう片方は、ハルが座に持って帰ったのだろうか。
そうだ。ランサーは英霊だ。もとから死んでいる人間だ。それが目の前から消えただけで、何も―――
僕はピアスの片割れを握りしめたまま、地面にうずくまった。どんなに歯を食いしばっても、喉から漏れ出る嗚咽を堪えることは出来ない。
その時だった。
雷撃が地に落ちたような閃光と、轟音が響いたのは。
驚きと恐怖で、思わず立ち上がり、辺りを見回す。黒々とした木立に遮られて見えないが、少し離れたところから硝煙のような煙が細く上がっている。雷が落ちたのだろうか、と思ったが、そんな気配は今までなかった。雨は相変わらずざあざあと降り続いているが、雷の方は落ち着いている。
誰かが戦っているのだ。
あのバーサーカーだろうか。相手は誰だろう。討伐令が出たからには、誰もがあのバーサーカーを狙ってここに集まっているはずだ。
―――誰でもいいか。
僕は負けた人間だ。もうこの戦争にかかわりはない。のこのこ顔を出して、他のマスターに命を狙われるのも御免だ。僕の戦いはこれで終わり、あとは、荷物をまとめて時計塔の先生のもとに帰ればいい。同期の魔術師たちは、僕を嗤うだろう。やはり勝てるわけなかったか、と言って。参加を薦めてくれた先生はなんと言うだろう。僕に呆れるだろうか。
なんでもいい。どうでもいい。
遠くでまた、音がした。ドン、とかバン、とかいうような、戦いの音だ。
背を向ける。もうここにはいたくない。僕はまた、何の才能も無い、ただの魔術師に戻るだけだ。アーノルドが僕に見せた夢のように、無関心の群衆の中の一人になるだけ。もう、あんな夢の終わりのように、僕を地上へ引き上げてくれる人も現れない。
真っ暗な木立を見つめた。
「もう、さようならだ」
握りしめていたせいで人肌の温みが移ったルーン石のピアスを見る。これももう、役に立つ日は来ないだろう。夢も戦いも、何もかもおしまいだ。ならば、持っていても仕方がない。きっと、目にするたびに苦しむことになるだろう。ハルが見せてくれた幸福な夢を思い出し、あまりにも無関心な現実に失望して。
僕はそれを木立の草むらの中に投げ捨てた。ピアスは何度か転がって落ちていく。草陰の中を跳ねて、止まる。
そしてそれを、一つの手が拾い上げた。
「大事なものだろう」
大きな火傷の痕がはしる顔には見覚えがあった。夜闇に溶け込みそうな黒のパーカーは、雨に濡れてずっしりと重たく湿っている。包帯はしていなかった。青く輝く石を裂傷の痕の残る手の上でころころと転がして、僕に差し出した。
「簡単に捨てていいものじゃない。そうじゃないのか」
僕は答えに詰まった。最後に会ったときと、随分雰囲気が違う。あれから、彼にも何か変化があったのだろう。世界を拒むための壁の内側からこちらを見ていたような視線は無くなり、何というか、年相応の精神が身についているような気がする。
「……天陵君、だよね。でも、もう僕は―――」
「知ってる。けれど、これは別の問題だ。これは簡単に捨てていいものじゃない。そうだろう」
僕は俯いた。差し出されたピアスを、右手でつまみ上げる。自分の手は震えている。
「あんたの力を借りたいんだ」
唐突に、彼は言った。僕は驚いて顔を上げる。その双眸は真剣だった。気の迷いや同情を示しているようには見えない。
「なんで……」
「僕は知った。この聖杯戦争の、本当の目的を」
息が一瞬止まる。
「な……それは、一体、どうして」
「……確信は無い。ただの情報の寄せ集めからの推測だ。さっき放たれた宝具名と、これまでのバーサーカーの行動、あの気味の悪い魔術師の正体。僕は最初から、キャスターが来る前から、ここにいたんだ。じっと観察に徹していた。……ランサーが消える瞬間も」
「……」
「冷酷だと思うだろう。でも僕は知らなければならなかった。考えなくてはいけなかった。―――まだ、生きなくてはならないから。そしてそれは、あんたも一緒じゃないのか、御代佑。君のサーヴァントは、君に生きてほしいと願っている。そうだろう?」
僕は息を呑んだ。
『君のサーヴァントは、君に生きてほしいと思っている。……それを無下にするのは、良くないと思う。彼女のためにも、君自身のためにも』
かつて、何処かの高架下で彼と対峙した後に僕自身が彼に告げた言葉だ。
「それは、あのランサーがあんたに残した、唯一の『証拠』なんだろ。あのランサーが生きた証拠、あんたを認める人がいたという証拠。それを自棄で捨てていいのか」
彼は言う。その口調は淡々としているが、言葉の一つ一つに重みを乗せて語りかけてくる。
―――そうか。
これが、運命というものなのかもしれない。
言葉が、巡り巡って、誰かを、果てには自分を生かすということ。ハルはもういない。けれど、ハルが僕の望みを認めたということ、そのために命を懸けて尽くしてくれたということ、ハルが生かした相手が、今度は僕を生かすということ。それらはすべて過去の事実で、すべては運命のもとで巡っている。
ハルの遺していったピアスを握りしめる。
「わかった。出来ることは何でもやろう」
それが、遺された僕がすべきことならば。
-
「どうかしら?」
雨の降りしきる高層ビルの屋上で、弓を構えたアーチャーにカガリは聞く。アーチャーは弓を下ろして首を振った。
「駄目です。木立の中に隠れられて、狙撃ができません」
「そう……最初の一撃は上手くいったと思ったのにネ。そう易々と討たせてはくれませんネ……」
「それにしても、カガリが討伐令に応じるとは意外でした」
「別にワタシは殺す気はありまセン。ちょっとお話がしたいだけ」
目立つから、と傘も差さず、ずぶ濡れのままカガリはにっこりとアーチャーに向かって微笑んだ。アーチャーは何となく目を逸らす。この人の笑顔は、魅力的だが何か裏があるように思えて仕方ない。害がないことはわかっているが、それでも本心で何を考えているのか分からなくて、真正面から受け止めることができない。
「……ともかく。ここから攻撃できないのであれば、どうします? もっと近くに寄りますか?」
「その必要は無いワ。アーチャー、矢をまとめて二、三本撃てるかしら?」
「……? ええ、必要とあらば……」
言葉の真意が分からないまま、アーチャーは矢を三本まとめて弓につがえた。バーサーカーと魔術師の隠れている木立に向けて狙いを定め、ギリギリと弓の弦が軋むほど引き絞る。
横で、カガリが小さく言葉を発した。
「Set. Weiß Vervielfältigung weiß Projektion. ――撃て!」
号令と共に反射的に矢を射る。風を切って飛び出した三本の矢が、影分身のように一瞬で数十本の矢の雨になった。
「Und, wie ein Sturm!」
雨の中を裂いて真っ直ぐに木立へ向かう矢の雨が、更に数を増し、一国の軍勢が一度に射撃を仕掛けたかのような大射撃となる。木立の木々の枝葉を切り折って貫く音がここまで届いて、アーチャーは驚きのあまり目を見開いて立ち尽くすほかなかった。
「カガリ……これはすごいですね」
「でしょう!? アーチャーの知名度補正とワタシの独学なんちゃって投影魔術のタマモノデス!」
カガリは声を上げて喜んだ。こういう時の顔はまるで純真な少女のようなのにな、とアーチャーは思う。
「あっ、ホラ、出てきたワ」
見れば、木立から二人の人影が走って飛び出してくる。間違いない、あのバーサーカーと魔術師だ。
「巣穴を燻せばネズミは出てくるノネ。……でも傷一つ負ってない。さすがアーノルド・スウェイン、一筋縄ではいきません」
爪を噛むカガリにアーチャーは聞いた。
「あの、アーノルド・スウェインというのは……?」
「ン、あの魔術師の名前よ。魔術協会スウェイン派の頭領と言ったところネ。今回の聖杯戦争を起こしたのも多分、アイツ。話せば長くなるケド……仮にも魔術協会の末端の組織の長よ。タダ者の器ではないはず」
「強い、という認識で良いですか?」
「ザックリ言えばそうネ。今になってノコノコ出てきて、一体何を―――」
カガリの言葉が突然途切れた。その碧眼はバーサーカーの方を注視している。アーチャーは不穏な気配を感じて、弓をいつでも構えられる高さまで持ち上げる。
「この場所が気付かれましたか?」
「そんなはず……魔術で隠ぺいしているから大丈夫よ。それより、アレは……宝具?」
「まさか」
アーチャーが否定した瞬間、闇の中に一瞬だけ閃光が走った。二人は同時に光源に目を向ける。
「詠唱は聞こえる?」
「遠すぎて、何とも……いえ、あれは、盾?」
バーサーカーの様子がおかしい。彼と魔術師のほかには誰もいないのに、広場の中に立って巨大な盾を構えている。表面は鏡のように輝き、街灯の明かりを反射している。雨粒が白銀の盾の表面を伝って流れ落ちる様まで観察できる。
そして、バーサーカーの翡翠の双眸がはっきりとこちらを見た。
「気付かれた……!?」
カガリが声を漏らす。瞬時にその言葉を目で制して、アーチャーはカガリを抱えてビルの屋上から跳んだ。
「無駄だとは思いますが騒がないで下さい。奴が何を以て魔術の隠ぺいを無効化したのか分からないうちは」
「……あの盾、まさか」
雨粒より速く地面に近づく。アーチャーはコンクリートの地面を見据えて、猫のように着地した。
「カガリ、速く! こっちへ!」
「待って。待って、アーチャー……ワタシ……」
「何ですか、怪我でもしましたか!?」
雨の中、カガリは微動だにしない。早く走って逃げなければ、バーサーカーと至近距離での対決を迫られる。それは無茶だ。アーチャーは苛々としながらカガリの手を引いた。
「早く、カガリ!」
「おや、仲間割れ中だったかな?」
ガサリ、と二人分の足音がした。アーチャーは絶望の目でそれを見る。予想通り、黒いマントに身を包んだ赤髪のバーサーカーと、背が高く痩せた魔術師が現れた。
カガリが口を開く。
「アーノルド・スウェイン。間違いないですネ?」
老魔術師は薄く笑った。
「ああ。そうだとも、アーチャーのマスターよ。ワタシはアーノルド。アーノルド・スウェイン。スウェイン派の長にして、この聖杯戦争の発端を握る、魔術師の端くれだ」
バーサーカーは動かない。魔術師の一歩後ろで、冷えた眼差しを投げかけてくるだけだ。アーチャーはどんな動きも見逃さないよう、二人をじっと観察することに徹する。カガリはこうなったらテコでも動かない。何かあった時に手遅れにならないよう対処するだけだ。
「ではアーノルド、質問に答えてくれますネ?」
「ああ―― 君の知的好奇心に勝るものは無い。お互い善く戦うために、善く語らおうではないか」
カガリは頭一つ分高いアーノルドの鼻梁のあたりに視線をやっている。なぜだかカガリがただの小さな少女に見えてくる。
「まず一つ、ナゼ冬木ではなく東京で聖杯戦争を起こしたのデス?」
アーノルドはそれを聞いて小さく鼻で笑った。
「ほう、なぜキミがそれを知っているのかは聞かないでおこう。……そうだ。ワタシは最初、スウェイン派と、バーサーカーのマスターとなる少女を率いて、冬木市へ拠点を敷いた。聖杯を作り、聖杯戦争を起こすためにね。だが途中で方針を変えたのだ。冬木より、東京の方が、ワタシの目的が達成されやすい。それだけのことだよ」
カガリはアーノルドを睨みつけた。雨に濡れた髪をかきあげ、露骨に眉間にしわを寄せている。
「イマイチ具体性に欠けるからイライラするワ。でもまぁ、いいでしょう。……次、そこのバーサーカーが殺した魔術師とマスターの死体を片付けたのは、あなたネ?」
「そうだ。いや何、大変だった。想定外に十人もの有能な魔術師とマスター適性を持つ稀有な少女を失ったのだ。心が痛んで当然だろう? せめてもの報いに、弔いをしたまでだ」
「……最後よ。そのバーサーカー、何を触媒に召喚したのカシラ? お察しの通り拠点は調べさせてもらったけど、それらしきものは無かった。それに、そのサーヴァントは本来バーサーカーの器ではないワ。どうやって呼び、どうやってバーサーカーの器に押し込んだの?」
アーノルドは沈黙した。その薄い唇は少しも動かない。ただ乾いた視線がカガリを見下ろしている。
まるで答える気がなさそうだ。
「……答えないのネ?」
カガリは念を押すように尋ねる。アーノルドはほんの少し口角をゆがめた。
「そうだ。それについては、答えられない。何せ、このバーサーカーですら知らないからなぁ。他人に易々と教えるわけにはいくまいよ」
バーサーカーが少し身じろぎした。表情が強張っている。石膏を塗ったように白い顔で、足元に目線を落とした。
「さて、聞きたいことはそれだけか? ワタシはワタシの目的を達成せねばならない。武器を持ちたまえ、アーチャークラスのサーヴァントよ」
「何が善い語り合いよ、結局詳しいことは何もわからなかったワ!」
「真理は!」
アーノルドが大声を上げた。カガリがびくりと肩を震わせる。
「真理は、勝者にのみ与えられる。知りたいのなら、戦え、小娘」
その言葉を皮切りに、バーサーカーが剣を携えて一歩前に出た。
やるしかない。アーチャーは弓を構えようと腕を上げる。だが、カガリの凛とした声に制された。
「だめよ、アーチャー」
「しかし……」
「負け戦はしない。―――Set.」
カガリが一歩後ろに飛びのいた。アーチャーも素早くそれに続く。
バーサーカーが、雨を弾いて跳んだ。
「Es ist gros,Es ist klein!」
詠唱を唱えながら、カガリは走る。――身体の軽量化と、重力の調整か。サーヴァントと同等の身体能力で日比谷公園の広場を駆け抜け、音楽堂まで突き抜ける。だが、バーサーカーも愚鈍ではなかった。
「令呪の命に従い、アーチャーを排除する。悪く思うが、ここまでだ」
彼の剣が巨きな鎌に変形した。白銀の刃が、稲穂を刈り取るように首を薙ぎ倒す様が目に浮かび、アーチャーは一瞬たじろぐ。
その隙を突かれた。
「アーチャー!」
真横に振りかぶった刃が、ビュ、と風を切る。
ここで飛び退けば、必ず次に決定的な隙が生まれる。そうなれば、カガリも危ない。
アーチャーは思わず目を閉じた。
―――― ここまでか。
「諦めてはダメだよ、日本の兵士よ!」
上空から、声が聞こえた。
次の瞬間、銀の流星のように何かが飛び込んでくる。かろうじて開けた視界が、それが細身の剣だということを捉えた。
燃える白金のように輝くそれは、バーサーカーの右肩を斬りつけて地面に突き刺さる。バーサーカーはバランスを崩し、忌々しそうに顔を歪めて、舌打ちをした。
「この……!」
「やあ、久しいねバーサーカー君。きみの宝具を振る舞われて以来かな」
朗らかな口調と、にこやかな笑顔。雨に煙る空から悠々とやって来たのは、白銀の鎧に純白のマント、煌びやかな金髪。
間違いない。
「セイバー……!」
彼は微笑みを絶やさずに、地面に突き刺さった剣を抜いた。
「今晩は、皆さん。討伐令の命に従い、『魂喰い』を排除しに来た」
Fate/defective c.14
to be continued.