おさむし

ショートストーリーの純文学風作品です。
短くて読み易いと思うので、お時間あれば是非。

おさむし

「懐かしいな。」
静まり返った薄暗い居間で、私は標本箱を眺めていた。数十年前に作った、少年時代の遺産。しかし何故、何故こんな骨董品が手元に残り、真新しいガラス皿は掌から滑り落ちてしまうのだろう。

十数年連れ添った妻は、些細な口喧嘩で出て行ってしまった。普段と何も変わらない、穏やかな食卓で起きた出来事だった。いや、そうとも言えないかもしれない。その日、私は仕事に失敗し、気が立っていたのだ。
「おかえりなさい。」
優しい彼女の微笑みにさえ、素直に応えることが出来ないほど、心が荒んでいたのだ。
私は席についた。彼女はパタパタという音をたてて、忙しなく料理を運んだ。彼女はその日の料理を、自信作だと言った。
彼女は元々料理が下手だった。彼女もそれを自覚していた。それでも普段は、美味い美味いと頬張るほどの余裕があったのだ。しかし、その日はそれが無かった。それどころか、やけに虫の居所が悪かったのだ。さらに悪いことに、その日の献立は私の好物である肉入りの煮っ転がしであったが、自信作の割に出来が悪かった。口に運んだ時、今思うと何故そんな味覚が働いたか分からないのだが、何日も作り置いて放置した後の、腐敗したような風味が私の脳天を貫いた。...不味い。気がつくと、そう言い放っていた。その後のやり取りは、色褪せたフィルムのように不透明で、夕闇が誘うのに従って瞼を落とすと、記憶の隙間に消えていった。

次に瞼を開けた時には、外が白んできていた。
窓の外は一面の朝靄で、視界がよく通らない。
それが何とも、物寂しくも幻想的な印象を与えてくるのだ。私と妻は、毎朝散歩を日課としていた。家を出て近くの坂を下り、そこから数百メートル先にある、鈴屋という駄菓子屋の前を折り返して戻ってくるのだ。坂道には側溝があり、そこに落ちている生き物を探して歩いた。時折爬虫類が闊歩していたりするが、大抵は小型の虫が歩いているのみであった。妻はその虫を嫌がった。私は虫が好きだったが、妻に迷惑をかけまいと、捕まえてまじまじと見つめたり、ましてや持ち帰ることなどしなかった。
私はいつもどおり、歩きやすい服装に着替え、玄関に向かう。そこでふと立ち止まり、居間に散乱しているビニール袋をくしゃりと掴んで、持っている肩掛け鞄に入れた。玄関の戸を思い切り開け、息をする。なんとも言えぬ朝の空気が肺に流れ込むのを感じた。ふと見た庭の鈴蘭の葉には、大粒の雫が乗っていた。心做しか鈴蘭は、いつもより項垂れているような気がした。

坂を下り始め、側溝を見る。中は落ち葉が重なっているのみであった。下っていくと桃色の花弁が落ちていたが、その周りにそれらしき花の姿は見受けられなかった。その後は特に何も見つけることの出来ないまま、坂を下り終わってしまった。麓には畑が広がっていて、やっと実をつけ始めた作物達が、私を見下していた。何も無い開けた一本道を、坂を下ってきた惰性で歩き続けると、少し先に古びた看板が見え始めた。『鈴屋』。普段ならばもう少し手前で隣からの指摘を受けて気がつく筈の看板を、今日は何とも近くで見つけたものだと、少し淋しく、空虚な感動に苛まれた。
鈴屋の店主は朝が早く、通りかかるとなんとも快活な挨拶をしてくれるが、今日は幾分か怪訝そうな表情をして、
「おはようさん、今日は奥さんと一緒じゃないのかい。」
と尋ねてきた。私はこの数日間を事細かに話したが、店主は最後まで真剣に耳を傾けてくれているようだった。独りで抱え続けていた懊悩を吐き出したことで、私の気分は少しばかりましになった。私は店主に感謝を伝え、再び歩き始めた。数分前と同じ光景だったが、あの作物らが今度は、こちらを見つめている気がした。

坂に差し掛かり、側溝を見つける。そこで私は期待に足を止めた。何故だか解らないが、行きに何もいなかった時は、帰りに何かいると相場が決まっているのだ。ある種確信じみた希望を抱いて、私は坂を登り始めた。
坂の中腹程まで来たところで、私は側溝の中に蠢く者を認め、足を止める。少しばかり喜びを感じたが、その大部分はそれを見つけたことではなく、自分の期待と当初の予想が叶ったところにあった。改めて彼をよく見ると、鈍い金属光沢を放つ背中と、黒い大顎を持つ、なんとも燻し銀な風貌をしている。私は鞄からビニール袋を掴み出して地べたに置き、風で飛ばぬよう足で踏みつけた。私が彼を捕まえようとすると、彼は暴れた。まるで、ここで捕まれば自分の生は終わるという事を理解しているような、激しい抵抗であった。私は少しばかり狼狽えたが、直ぐに取るに足らないことだと思い直して、彼を袋の中に押し込んだ。そこで、ふと考える。捕まえることに必死になっていたが、一体彼は何という名を持つのだろう。そういえば、家の納屋に昆虫図鑑があった。私は彼の名を知らないが、図鑑ならば知っているだろうと思って、私は急いで家に帰ることにした。彼はその間もずっと、生き延びる術を模索し続けていた。

家に着くと、彼の抵抗は少し弱まっていた。不思議に思って原因を探し、袋の口が閉じていることに気づく。そういえば、彼が出てこないようきつく縛ったのだった。若干の申し訳なさを覚え、私は彼の名を調べる前に、新居を探してやることにした。なにか丁度いい容器でもないかと、連日の弁当生活で荒れた室内を探すが、何も出てこない。ならばと、私はなかなか立ち入る機会のない台所へと向かった。妻は基本穏やかな気質であったが、台所だけは自分の領域だと、決して立ち入ることを許してくれなかった。当時は下手な料理を幾分かましにするため練習でもしているのだろうと思い、その言いつけを無下にすることはしなかったが、今日はいいだろう。ほとんどやけに近い状態であったが、私はその場へ足を踏み入れた。

久しぶりに見た調理場は、思いのほか整頓されていた。水周りは垢などもないし、食器類、調理器具類も清潔な状態に保たれている。棚には覚え書きが貼られ、そこには調理法や材料などが事細かに記されていた。ふと見た屑籠の中には、棚に貼られているものと同じ紙が捨てられていた。私は彼女の密かな努力を思い知った。では何故、あの時の私は彼女の料理を不味いと感じ、貶してしまったのか。そしてあの日の言動を、今一度考え直すことにした。私がその場にいる本来の目的を思い出したのは、それから四半刻ほど後であった。

私は大きめのジャム瓶を片手に抱えて調理場を出た。彼が息をするのに不自由しないよう、蓋に穴も開けた。彼をその中へ入れると、彼はまた四肢を大きく動かして、活発に動き始めた。さて、彼の新居は定まった、次は...と思案して、自分が彼の名を未だ知らないことを思い出す。私は図鑑を求めて、納屋へと向かった。我が家の納屋はそれなりに広いが、本を置くには左奥の隅であるということを決めていたため、予想していたより早く見つかった。

居間に戻って座卓の上に散らかっているものを屑籠に押し込み、私は図鑑を広げた。蝶や蟷螂などが名を連ねていたが、彼はそれらの見た目とは程遠い。予想していた以上に知らない虫を探し出すのは難しく、それらしいものを見つけるのに小一時間ほどかかってしまった。彼は図鑑の二百八十四頁、肉食性昆虫の項にいた。彼の名は「おさむし」といった。その頁を読み進めるうち、私は彼の食性の欄で目を止めた。そこには、こう書かれていた。「新鮮な死肉も食す肉食性、腐肉も好む。」それを読んだ時、私ははっと気がついた。頭の上から足の先まで、電流が走ったようだった。そうだ、これだ。私に足りなかったのはこれだったのだ。私が彼女の料理を楽しめなかったのは、彼女が下手だったのではない、私の食性が悪かったのだ。先程調理場で、彼女の努力を見たではないか。あんなに努力している者の作る料理が、腐った味などするはずが無い。私の味覚が間違っていたのだ。そう考え、私は悔いた。彼女への態度を悔いた。今一度、その態度を改めようと心に誓った。そして、彼はそれを気づかせてくれた。先刻見つけたばかりの、しかも虫に恩義を感じるとはなかなかに不思議な感覚であったが、とにかく私は彼を慕った。瓶の中で蠢く恩人を、私はいつまでも眺めていた。

その翌日、私は妻に電話を掛けた。繋がった瞬間、私はすぐにこう言った。
「すまない、私が間違っていた。気づいたんだ。もう一度、君の料理が食べたい。どうか、私の願いを聞いてくれ、戻ってきてはくれないか。」
彼女は最初暗い声をしていたが、次第に明るさを取り戻し、遂には戻ってくると言った。
私は彼に感謝した。彼が私の幸せを取り戻してくれたのだから。でも、妻には私の真意を言わずにいよう。彼女は彼を好かないだろうから。そう思いながら、私は彼を自室のサイドボードに押し込んだ。

明くる日、妻は戻ってきた。私はもう一度頭を下げ、夫婦は多少の蟠りを抱えながらも、元の姿に戻った。庭の鈴蘭は、顔を上げて彼女の帰りを祝福した。その日の朝靄は、先の見えない不安を覚えさせるほど濃かったが、それもすぐに散って行った。その日私が仕事から帰ると、妻は「おかえりなさい」と言った。私は「ただいま」と微笑みかけ、食卓につく。その日の夕食は、覚え書きに書いてあった肉料理であった。彼女は、その日の料理を失敗作だと申し訳なさそうに言った。私は料理を頬張った。

久しぶりに食べた彼女の料理はとても美味しく、私は意外に思いながらも喜んで料理を食べ進めた。彼女はその様子をにこやかに眺めていた。料理を食べ終わると、彼女は後片付けを始めた。私は暫くそれを見つめていた。その時、彼女は私が散らかしていた惣菜の食べ滓を片付けていたのだが、そのうちの一つを見て彼女は言った。
「このお惣菜、まだ食べられそうね。」
彼女はそれを口に運び、美味しそうに咀嚼する。私はそれを見て目を疑った。美味しい?そんな筈は無い。あれは数日前から放置されていた生ものだぞ、腐っているに決まって...

そう考えて、私は全てを理解した。
そう、やっぱり私が悪かったんじゃない。
ただ、私の恩人と彼女が、遠縁の親戚だっただけではないか。

おさむし

おさむし

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-06

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