ある川のほとりで ~初夏

1章


Ⅰ初夏

川で釣りをしていたフィッシャーマンは僕によくこう言ったものだ。
「なあ青年、物語を聞かせてやるよ。」
 そう言って、どこか別の場所の、どこか別の時のお話を聞かせてくれる。僕は彼のそばに腰を下ろしてその話に耳を傾ける。川の流れを見つめながら。
「・・・ある川に無数の鮭の兄弟がいたんだ。何十匹かは生まれたばかりで中くらいの魚に食べられた。何匹かは生まれてすら来なかった。何匹かは海を目指す途中で道に迷った。何匹かは川を見下ろす鷹の爪にかかった。そしてほんの数匹が海にたどり着いた。」
「海を見たのは何匹ぐらいなんです?」
「ほんの数匹さ。青年、海は見たことあるか?」
「いいえ。」
 海のないところで育った僕はそう答える。
「でっかい、本当に大きな水溜りさ。こんな川の比較になんかならないね。おまけに水がしょっぱい。」
「この川も随分大きく見えるけれど。」
 フィッシャーマンは苦笑する。
「そう思うかもしれないが、海の比較にはとてもならんよ。・・・まあ鮭の兄弟たちはそうやって海までたどり着いた。奴らにしてみれば初めての海の味さ。しょっぱい塩味だ。でもそれは初めての水の味じゃない。そう感じさせない何かがあった。」
「どういうこと?」
「鮭の兄弟たちの父親だったり、母親だったり、そのまた父親だったり、そのまた母親だったり・・・。ずっとずっと昔から、やつらの先祖たちが味わってきた味だからさ。・・・不思議と懐かしいものだったんじゃないだろうか。」
 フィッシャーマンはそこで釣り糸を一度引き上げる。針の先についていたはずの餌はもうそこにはない。フィッシャーマンは小さく舌打ちしてまた新しく針の先に小さなミミズをつける。針に突き刺されたミミズは一瞬、激しく悶えるもまたすぐに静かになる。
「海で鮭の兄弟たちは成長した。もちろんそこでもまたいくらかの命は失われていく。兄が鮫に食べられて死んだ。妹が海で迷い、二度と帰らない。兄は病気にかかって海にプカプカ浮かんでいる。・・・でも元気に大人になる兄弟たちもいる。そいつらは時期が来るとまたもとの川に戻っていく。」
「また川に戻る?生まれた同じ川に?」
 僕の問いかけにフィッシャーマンは満足したように口ひげを撫でる。
「そうだ。やつらはまたもとの生まれた川に戻るんだ。子供を産むために。自分の子孫を残すために。その旅もまた苦難の連続だろうさ。また鷹のかぎ爪に捕まるかもしれない。冬眠に向けてたらふく栄養を蓄えなければならない熊が待ち構えている。でもやつらはそれでも川の上流を目指す。不思議と川の道のりに迷うことはない。何かの目印なのか、川の匂いなのか、そこまではわからないがね。」
 フィッシャーマンは釣り糸の先の針に刺したミミズの具合に満足したのか、また川の中に釣り針を投げ込んで言った。
「そうして生まれた場所にたどり着くと、そこで出会ったつがいが卵を産み付けていく。そしてまたその卵は孵り、また海を目指す・・・。わしはその光景を見たことがある。たくさんの川を登った鮭が川一面に集って、身をひしめき合わせて卵を産む光景を、な。川は鮭の肌で銀色に染まり、その中に白と赤の命のもと、鮭の卵と精子さ。それが流れに乗り漂う。本当に活力に満ち溢れた光景だよ、あれは。」
 そうしてフィッシャーマンはニヤリと笑った。
「まあ、見る人によっては気持ち悪い景色かもしれないがね。」



ここはある町の郊外、集合住宅と団地群がこちら側に立ち並び、向こう側には点々とした畑と、いかにも古めかしい病院がある川のほとりだ。
木々が新緑に染まった頃、この町にやってきた僕は、勤め先の事業所の先輩と一緒にこの川のほとりにやってきた。先輩は僕をこの場所に連れてくると、目の前でおもむろに検査の見本を披露してくれた。
試験管に川の水を採取する。試験管の中に試薬をいれる。試薬が水の中で小さな泡をたたせながら溶けていく。次第に試験管内の水の色が変わり、紫がかったピンク色に染まっていく。試薬が全て溶け切った後、先輩は軽く試験管をふり、試験管内の色合いを均一にする。そしてその試験管の色を見比べる。
「紫色が濃いと濃度が強い証拠だ。PH1.0を超えているように見える色なら再検査する。」
先輩はつまらなさそうにそう僕に説明した。
「うん、まあ問題ない色だな。」
先輩が持っている試験管は本当に僅かなピンク色をしているだけだ。PH0.1以下。同僚は持参していた表に今日の日付、数値の他、一番下の欄に〇印を記入する。
「これがお前の明日からの業務だ。10時と15時これを行う。簡単だろ?」



 翌日、僕は昨日と同様、川のほとりに水質検査に向かう。川の水を採取し、試薬を入れ、色が変わるのをじっと見つめる。数値を記入し、〇をする。
 翌日も、翌々日も。公休日をはさんで、またその翌日も。それが僕の仕事で、僕のルーチンワークだ。
そんなある日のこと、僕がいつものように水質検査に行くと、僕のいつもの場所に折りたたみ椅子を広げる影があった。熊のように毛むくじゃらのヒゲをしていたその老人は、広げた椅子に座り、肩から背負っていた釣竿をおろす。老人が針の先に餌をつけて川に釣り糸を放つ。
 僕は彼から少し距離をおいて川のそばまで来て川の水を採取する。試薬を入れ、色の変化を確認したあと、老人に声をかけた。
「何か釣れますか?」
「さあな。」
 老人はそっけなく答える。
「昔は釣れた?」
「ここではないところでわな。」
「今は?」
「わからん。」
「ではなぜ釣りを?」
「昔からの習慣だからさ。」
「昔からの習慣だと釣りをするもの?」
 老人は一瞬、僕の方に視線を向けるがまた釣り糸の先に目を走らせる。そしてしばらく黙っていたが諦めたようにこう言った。
「なあ青年。お前だって今まで呼吸をしてきて急にやめようとはしないだろう。習慣というやつはそういうものなんだ。」
 僕はわかったような、わからないような気分になるが、僕もそのまま川のほとりに座り、老人が静かに釣りをしている横で、川の流れを見つめた。ほどなくして老人は僕に言う。
「なあ青年、物語を聞かせてやるよ。」
 それがフィッシャーマンとの出会いだった。



家路につき、団地群の入口を抜け階段を登る。3階にたどり着き、一番角部屋の玄関を上がると、居間に座っていた下宿先の叔母さんが僕に声をかける。
「おかえり。」
叔母さんは手元から目を上げて一言そう言うと、また手元に目を落とす。サヤエンドウのヘタをとっているところで、一つ、また一つ、ヘタをとってはそれをザルの中に放り込んでいく。時折、ヘタを取る手をとめてグラスに注いであるビールを口にする。叔母さんの習慣で、寝る前に一杯のビールを飲みながら何かひと仕事すると「よく眠れる」らしい。僕がここに暮らし始めてからも叔母さんはそういう生活をずっと続けている。
「キミも飲む?」
「いえ、大丈夫です。」
僕は体質的にアルコールを飲まない。でもここに下宿して以来、叔母さんは仕事から戻ってきた僕に必ずそう問いかける。叔母さんにとって仕事から帰ってきた人がお酒を飲むのは自然なことなのだろうか。僕は一度だけ飲んだことがあるビールの苦味を思い出す。あれはいつの時のことだろう。学生時代だっただろうか。友人に勧められて口をつけたビール、そのグラス半分も飲みきれずに気分が悪くなったことだけは覚えている。
「そう・・・んん。」
 叔母さんは軽く相槌をうつと、また一口ビールをすする。
叔母さんは僕の母系の妹だ。ただ僕は母のことをよく知らない。僕が物心つく前には母はもういなかった。死んだのではない。少なくともそう聞いている。僕を置いて、いつの間にかどこかへ出て行ってしまった。僕の父親に当たる人と別れ、僕をつれ実家に戻った母は、そこで僕のおじいさん、おばあさんとまた一緒に暮らす。しかしほどなくしてまた「ちょっと友達に会ってくる」との書置きを残して再び家を出たのだ。
それ以来一度も母には会ってはいない。その後しばらくしておじいさんは事故で亡くなり、おばあさんはついこの間心臓を悪くして他界した。おじいさんについてはここで取り立てて語ることはない。霞にかかるようなおぼろげな記憶しか僕にはないのだから。
ここで語りたいのは、おじいさんとおばあさんの葬儀、僕の母にとっては自分の父と母にあたる人の葬儀にも母は戻らなかったということだ。連絡が母に届いていたのは間違いないと思う。母からのはがきが時たま届けられていたようだから。どうしてもはずせない何かがあったのかもしれない。そのときいた場所がとても遠い場所であったのかもしれない。いずれにせよ、母は姿を見せなかったのであり、それは僕を含めた家庭との断絶を示しているのだ。
叔母さんに会ったのは祖母の葬儀の時だ。
「キミ、わたしの甥っ子だね。あ、覚えてないかしら。んん。」
そう叔母さんが僕に挨拶してくれたとき、ふと僕は思い出す。おじいさんの葬儀で、黒い喪服を着た叔母さんが背筋をピンと延ばし、僕の手を強く握ってくれていたことを。
「・・・泣けばいいわけじゃない。」
涙も見せずにいる叔母さんはそう言っていたと思う。確かに涙はなかった。ただその顔の皺がとても深く刻まれているように僕には見えた。きっと叔母さんには泣きたいと思うことがそれまでの人生にたくさんあったのだろう。
母と叔母さんは年が近かったが、性格はまるで反対であったらしい。自由奔放に生きる姉、一方で物静かで忍耐強い妹。おばあさんは二人の娘をどのように見ていたのだろう。
おばあさんの葬儀で、母が葬儀に現れずに迎えた火葬場。焼かれるのを待つ間、僕らは外で煙突から登っていく煙を見つめていた。手持ち無沙汰で壁を背に煙を見上げている僕の耳に、そばにいた叔母さんの呟きが届いた。
「相変わらずなんだから・・・。自分がこうと決めたら周りの迷惑なんてこれっぽっちも考えない。」
 その後、叔母さんは小さなため息をついてまた何か言った。その言葉を僕ははっきりと聞き取れたわけではなかったが、僕にはこう言っているように思えた。
「だから私は・・・姉さんのことを好きじゃないんだ。」
 僕は聞こえないふりをした。そして首をのばし、祖母の煙が青空に高々と登っていくのを見つめ続けた。
 今、僕は叔母さんと一緒にこの団地群の一室に下宿している。畑が並ぶ反対側の川のほとりの団地群。葬儀の後、僕が働きに出る場所が、叔母さんが今暮らしている場所からほど近いところであったから叔母さんが誘ってくれたのだ。
叔母さんは不器量というわけではない。でも結婚してはいない。なぜだか叔母さんにはそういう話はなかったらしい。おばあさんはよくそのことで愚痴をこぼしていたらしいけれど叔母さんは特に気にはしていない。
「まあ、こればっかりはめぐり合わせだから・・・んん。」
今、叔母さんの暮らす部屋の一室を借りていて、その部屋に残された本棚に目が向く。古典小説が並ぶ本棚は僕の背丈ほどもあるが叔母さんがその本棚から本を取り出して眺めているところを僕は見たことがない。微かに香る気がするのは煙草の匂い、叔母さんは昔タバコを吸っていたのだろうか。はたまた昔この部屋にいた誰かが。
「カア」
 本棚を見つめていると鴉の鳴き声が聞こえる。よく僕の部屋の外のベランダに止まってはキョロキョロと外を眺めている。特に悪さはせず、ただその場所に止まって羽を休めているだけだ。窓に近づいても、窓を開けさえしなければ鴉は逃げない。頭のよい生き物なのだ。
叔母さんはあちら側の川のほとりにある病院、そこで調理師として勤務している。まだ世の中が暗く、世が開けていない真っ暗なうちに自転車をこいで家を出ていく。そして夕方前には家に戻ってくる。おじいさんの葬儀のときのように背筋をピンと伸ばして。それでいて少し年老いて。



「なあ青年、熊って知っているか?」
一〇時の水質検査を終えた僕にフィッシャーマンが唐突に声をかける。
「ええ、もちろん。」
僕の返事に彼は不満そうに答える。
「・・・まあそうだろう。でもわしの言っているのは野生の熊のことさ。」
「野生の熊?」
僕が聞き返すと、フィッシャーマンは僕の方から目をそらし、一瞬釣り糸の先の浮きに集中したようだったが、しばらくしても何も起こらないのを見てまた話を戻す。
「そう野生の熊さ。動物園にいる飼いならされたヤツじゃない。本物の熊だ。」
「何が違うんです?」
「本物は大きく、たくましい。2メートル近くある。何より獰猛だ。人間にだって襲いかかることもある。」
「見たことが?」
「もちろんさ。」
フィッシャーマンの口元がニヤリとなる。
「・・・わしが昔遠くの国で釣りをしていたときのことさ。わしはそのとき2日程何も食べていなかった。もう手持ちの食料もあらかた尽きていた。だからなんとしても魚を釣り上げようとしていた。いつもはそんな気概で釣りをすることはない。『まあ何かかかったらいいな』、その程度さ。でもそのときは違った。だから意識を川に集中しすぎたんだろう。そばにヤツが来ていることにわしは気付かなかった。」
「ヤツ?」
「熊さ。・・・小熊だったがね。」
川のほとりでフィッシャーマンと小熊が並んで釣りをしている姿を僕は思い浮かべたが、もちろんそんなことはない。そもそも熊が釣り竿を持つわけがないのだから。
「小熊だからって侮れない。何するかわかったものじゃないからな。でも一番怖いのは近くに母熊がいるってことさ。それも確実に、だ。人間の親だってそうだろう?自分の子供に危険が及ぶことを嫌うはずだ。母熊から見ればわしは得体の知れない存在だ。わしにそんな気はなかったが、自分のお腹を痛めて生んだ小熊に何をするかわからない、普通はそう考えるだろう。いつ飛びかかられても文句は言えない状況だったのさ。」
 そこでフィッシャーマンは一度釣り糸を戻し、釣り針についた餌を確認すると、また釣り糸を川へ放る。
「・・・その小熊なんだがな、ヤツはわしと目が合うとあろうことかわしの方に近づいてきたのさ。わしとしては逃げたかったが、親がどこにいるかわからない状況では迂闊に動けなかった。だからそこで釣りをしているしかなかった。きっと不思議な光景だったろうさ。人間と子熊が並んで座り、人間がたらした釣り糸の先を一緒に見つめているのだから。・・・今のわしと青年のようにさ。」
 フィッシャーマンは釣竿を少し寝かして、また戻した。
「しばらくすると小熊は飽きたのか行ってしまった。わしはほっとして胸をなでおろしたちょうどその時だ。親がわしのすぐ近くの葦の茂みからでてきた。子供に何かあればすぐに飛びかかることができるところにヤツはやはりいたわけだ。母熊はその真っ黒な瞳でわしを見つめた。わしも見返す他なかった。どのぐらい経っただろう。やつの目からは何も感じられなかった。わしを恐れているのか、わしを食べようと考えているのか、はたまた、たんなるその辺りの石ころと同じようなものと思っていたのか・・・。わしは目をそらさなかった。多分そらしたらやられていただろう。ものすごく長い時間だったような気もするが、まあほんの一瞬だっただろう。しばらくすると母熊は振り返り、茂みの中に頭をいれると、その中から何か咥えてわしの方を向いた。そして目の前にそれを置いたのさ。魚だった。魚を一匹さ。熊の歯型がついた大ぶりの鮭だ。・・・そしてヤツは行ってしまった。」
「・・・その後は?」
「その後もわしは釣り竿をたらし続けたが全く釣れなかった。・・・だからわしは食べることにした。食べるほかなかった。熊が寄越したその鮭を、な。」
僕は話を聞きながら川の向こう側を眺めていた。川向かいに立つ病棟の中には、そこで暮らす入院患者が夢遊病者のようにゆらゆらと歩き回っている。あの病棟の厨房で叔母さんは働いているのだ。病棟から少し離れた畑の近くの川辺では、子供たちが水切りをして遊んでいる。一番年上らしい少年がまずお手本を見せ、弟だろうか、少し小さな少年が兄の水切りを見様見まねでやってみていた。たぶん妹なのだろう、兄と弟の間ぐらいの背格好の少女がその様子を岩の上に座って顎を膝の上にのせ眺めている。
目の前の景色とフィッシャーマンの話は全く違っていた。しかし僕には不思議と調和がとれているように思えた。
「その鮭は美味しかった?」
 僕はフィッシャーマンに尋ねる。ちょうど末っ子の少年が水切りに失敗して、一度も川面を弾むことなく、石が川の中に落ちてしまった時だ。
「・・・ああ、悔しいが今まで食べたどんなものよりも、な。」
 そう言ってフィッシャーマンは笑顔を浮かべる。
「いつかまた食べたいもんだ。」
 兄弟たちの喝采する声がこちら側まで響いた。きっと水切りに成功したのだろう。



僕は同僚とともに毎日の水質検査を漏れなく行いながら、フィッシャーマンの話を聞いた。フィッシャーマンが来ない日ももちろんある。そういう日は川の流れを見ながら、遠く上流の工事の音に耳を傾けた。工事の様子はここからでははっきりと見えない。向こう側の上流で大きな工場が建設中なのだ。僕らが行っている水質検査も工場建設による川や畑への影響を考慮してのものであると先輩からは聞いている。
川の表情は毎日違う。10時、15時が僕の水質検査の時間であったから、僕はその時間の川の様子を目にすることになる。僕がこの街に来た頃の川は、初夏の太陽に照らされて、日光を反射し、キラキラと輝いていた。梅雨時を迎えた大雨の降ったあとは川の水全体が茶色に染まり、まるで泥水みたいになることもあった。風の強い日は高い波がおき、一方で凪いだ、穏やかな水面の日もある。夏も盛りになると、蒸し暑い陽気に川の水が涼しげに写った。
僕はそんな様々な表情を見せる川を前に、水質検査の傍ら、その日の川の様子を観察する。PH値とは関係のない川の姿を。川はさながら人の心の持ちようのようだ。絶え間なく揺れ動き、少しのよどみをたたえ流れていく。
そんな僕の様子をあいも変わらずフィッシャーマンは釣りをしながら横目で見つめている。
「青年、君はいつも本当に丁寧に仕事をするな。」
「そう思う?特にそういうつもりもないけれど。」
「いつも時間通りここに来て毎日何かしているじゃないか。」
「仕事ですから。」
「それでいいのさ。与えられた仕事を誠実にこなすこと、それは紛れもなく正しいことなのだから。」
 僕は薄ピンク色に染まった試験管内の水を捨てると、フィッシャーマンに尋ねた。
「おじさんはいったいなんの仕事をしていたんです?」
 フィッシャーマンは額にかいた汗をタオルで拭うとちょっと考えて僕に答える。
「今と変わらず、釣りをしていただけさ。バイクに乗って旅をしながら、な。」
「旅をしていたのですか?」
「ああ、昔な・・・。自慢の愛車、バイクにまたがってさ。・・・バイクはいい。青年、乗ったことはあるか?」
 僕は首を振る。それを見てフィッシャーマンは自慢気な、それでいて心底残念そうな顔をする。
「いかん、いかんな。それは。人生を幾分損しているぞ。」
「大げさでは?」
 僕の非難に声高に反論する。
「大げさなもんか。一度でも乗ってみたらわかる。それがどんなに素晴らしいものか。・・・バイクはいいぞ、車もいいがやっぱり風を感じるなら2輪車さ。・・・ここに今でもあったらなあ。」
 そう言ったフィッシャーマンは思い出したようにポツリとこう口にした。
「・・・まあ、ワシはもう乗れない体になってしまったがな。」
 フィッシャーマンがそっと自分の右手を広げ、そこに目を落としたかと思うと、また手を握り返した。僕の見間違いではない。手のひらに大きなアザのような痕が見えたのは。そうしてフィッシャーマンはまた顔を上げ川の向こうを見つめたのだ。



その日、仕事を終えた僕は街に唯一ある小さな公立図書館に立ち寄った。閉館間際の時間だけに閑散としていて、仕事帰りの作業着を着た中年、数人の学生がテーブルで何か書物をしている以外は司書さんがいるだけだ。窓から茜色の西日が照らす書棚の間を僕は進み、時に本を手に取っては、パラパラとページをめくった。また別の書棚に進み、本を引き出したところで閉館の放送が流れる。僕は仕方なく、ある2冊をもって、貸出受付にいく。
団地に戻った僕は、叔母さんと一緒に夕御飯を食べたあと、畳の上に敷いた布団に身を横たえた。夕ご飯は肉野菜炒めとお新香、豆腐の味噌汁だった。肉野菜炒めはキャベツが多めで、お新香はきゅうりのぬか漬けだ。この気が滅入る夏の猛暑の中でその塩気が口の中に優しく響く。僕は叔母さんのぬか漬けが好きだ。毎日丹念に糠床をかき混ぜている姿を僕は休みの日の夕方必ず目にする。
食事のあと、自分のためにあてがわれた部屋に戻り、布団の中に潜り込む。布団は暑かったが寝苦しいほどでもない。叔母さんが昼間に干してくれたあと、しっかりと冷ましてくれたのだろう。もうこの時間には工場建設の工事の音はしない。窓から入る虫の声と、時折聞こえるのは風の音だけ、朝の早い叔母さんはとっくに就寝している時間だ。
しばらく横になっていた僕は、体を起こし、部屋にひとつある小さな机に向かう。そこで図書館から借りてきた本を開く。
そこには熊が写真付きで載っていた。何枚か写真があり、一枚はフィッシャーマンが言っていたような獰猛そうな写真で、もう一枚は動物園から撮ってきたような愛らしい姿だ。どれが本物か定かではなかったが、きっと出会った場所で違いはあるだろう。ページをめくる僕は一枚の熊の写真に目が止まる。小熊と母熊が写った写真だが、熊の首の下に白い三日月型の模様が入っている。“ツキノワグマ”、そこにはそう書いてあった。その模様が僕の印象に強く残る。
しばらくその写真を見たあと、別のもう一冊を開く。司書さんは熊の図鑑ともう一冊の本の違いに僕の顔を一度見上げていた。けれど特に何も言わず、ただその本の貸し出し期限を僕に伝え、本を貸してくれた。それはバイクの本だった。そこにはたくさんのバイクが載っていて、正直僕にはどれがどれだかわからない。ただどれも僕を惹きつける何かがある。
暗闇に向かって目を開く。バイクに乗る自分。フィッシャーマンが釣竿を担ぎ、僕の後ろに乗っている。バイクは中古でもいい。もちろん新品ならなおよい。それに乗って釣りに出かけよう。
「若イノ。モウ寝ル時間ダ。夢ハ布団ノ中デ見ルモノダト思ウ。」
誰かがそう言った気がした。いつの間にか僕は、机の上で眠ってしまっていたらしい。カーテンの隙間から見えた窓の外にはあの鴉が一羽止まっている。この鴉の声だったのかもしれない。僕は本をとじ、窓を開けて真夏の夜の空気を感じる。窓を開けると鴉は羽を広げ、ベランダの手すりから飛び立っていく。飛び去る方向を追い、見えなくなったとき、僕は呟く。
「おやすみなさい。」
 さっききいた声に伝わるように僕はそう口にする。そして窓を閉め布団に入る。目を閉じ眠りに落ちる。



「バイク?」
 仕事が休みの日、仕事が同じく休みであった叔母さんに僕は聞いてみる。
「はい、バイクです。」
「乗ってみたいの?」
「ええ。せめて一度だけでいいから。どなたか持っている人、叔母さん知りませんか?」
 僕がそういうとしばらく叔母さんは僕の顔を眺めていた。そして立ち上がると、僕を連れて、いつものほとりではない、川の反対側に向かった。橋を渡る叔母さんの後ろを僕はついていく。スタスタと歩く叔母さんの背中は相変わらずピンと伸びていてまるで背中に何か入っているみたいだ。今日は僕がいるから自転車ではない。
「散歩には丁度いい距離ね。・・・んん。」
「どこまで行くんです?」
「まあ、付いてきて。」
 振り返り僕を見た叔母さんはすぐまた前を向いてしまう。叔母さんはまだまだ綺麗だけれど顔に化粧っ気はない。何か理由があるのだろうか。それともただ単に、ある程度の年を経た女性であることを意味しているのだろうか。達観とか諦めとか。

 橋を越えた先にはいつも川のほとりから眺めている景色がある。兄弟たちが水切りをしていた場所。畑、古びた病院が一つ。叔母さんはそこまで来ると自分の勤め先である病院に向かう。
「ここ。」
 病院の裏手に回るとそこの換気扇から湯気が外へ流れているのがわかる。近づいていくと勝手口があり、どうやらそこが厨房職員の出入り口らしい。
「ちょっと待っていて。」
 そう言って叔母さんは中へ入っていく。外で待つことになった僕はそこに置かれているものに目を向ける。壊れた鍋、使い古したスコップなどが置かれている。ふとその端の方にブルーシートに覆われたものがあるのを目にする。
「ああ、それよ。今許可をとったから。」
 通用口から顔をのぞかせた叔母さんが僕に声をかける。
「それ、外してみて。」
言われるままに僕がブルーシートを外してみると、そこには一台の原動機付自転車があった。だいぶ古めかしいが間違いはない。いわゆるカブといわれるあの原チャリだ。
「私がここに働き始めた頃からずっとここにあるんだよ。」
 ブルーシートの下にあったにも関わらず、すっかり煤けているがそれは紛れもなく原動機付自転車だ。よく見ると鍵はささったままになっている。試しにキーを回しても反応はない。それを見た叔母さんは眉間に皺を寄せて言う。
「・・・やっぱりダメか。んん。もう随分立っているから壊れているかもしれないとは思ったけれど・・・残念ね。」
「・・・これ、もらってもいいのですか?」
「ええ、まあ。今許可はとったから。でもエンジンが掛からないなら壊れているんじゃないの?」
 僕はそれに答えなかった。かわりにその古びたカブの周りをじっと見つめたのだ。



叔母さんが先に帰ったあと、僕はそのカブを押し、病院の門を通り、日のあたる場所に持っていった。修理の仕方は見当もつかなかったが、せっかく貰ったものだ。それに単純な水質検査だけを行う毎日だから時間もたくさんあるのだ。
まず僕はエンジンが掛からないそのカブを一度キレイに洗うことにした。でもどう洗っていいのかわからないから、とりあえず距離はあったが、川のほとりまで押して行くことにする。
畑に挟まれた道を額にじっとりと汗をかきながら僕はカブを押した。事業所がある向こう側に比べて、川を挟んだこちら側にはまだまだのどかな景色が広がっている。道の途中にはお地蔵さんが鎮座していて、鍬を担いだおばさんがそこで手を合わせている。僕はカブを押しながらその後ろをすれ違い、小さな会釈をする。
カブを押しながら橋を渡り、いつもの場所を目指す。僕は諦めそうになる気持ちをぐっと堪え、一度立ち止まり、はあはあ、荒い呼吸が止まるのを待つ。呼吸が整うとまた歯を食いしばり、カブを押し始める。
いつもの川のほとりに到着する頃には僕はクタクタになる。もう足は一歩も動かない。川の水でカブをきれいにしようと考えた自分が恨めしい。原っぱに横なり、汗が引くまでそうしていた。空の太陽が僕を照らす。夏の盛りはもう過ぎたが、それでも厳しい残暑が僕に降り注ぐ。ありがたいことにそこに急に影ができる。
「ああ青年、いったいなにしているんだ?」
 フィッシャーマンであった。いつもの釣竿といつもの折りたたみ椅子をもって僕を覗き込むように上から見おろしていた。僕が体を起こすとフィッシャーマンは視線をカブの方に向ける。
「・・・青年、あれはいったいどうしたんだ?」
「見つけたんだ。譲ってもらったんです。」
「誰から?」
 盗みでも働いたとでも思ったのだろうか。怪しそうに僕を見る。
「僕の下宿先の叔母さんですよ。・・・正確には叔母さんの勤め先からもらったものだけれど。」
 僕がそう言ったのを聞いていたのかいないのか、フィッシャーマンの関心はすっかりカブの方に向いていて、返事をせずにその原動機付自転車に近づいてしげしげと眺めている。
「・・・ふむ。エンジンはかかるのか?」
「試したけどダメでした。・・・ねえ、修理できるだろうか?」
「ワシがかね?」
「うん、だっておじさんはバイクに詳しいのでしょう?」
 フィッシャーマンはそこで頭をかいた。
「できんことはないかもしれないが・・・ワシがバイクに馴染みがあったのは遥か昔の話しさ・・・。いやまあ、ワシはもうバイクに触るべきじゃないよ。」
 フィッシャーマンは一瞬また自分の手のひらに目を落とす。
「そう、ワシが修理すべきじゃない。・・・なあ青年、君がやってみるべきだ。」
「・・・僕が?」
「これはお前さんのものになるんだろう?」
「だからって僕は修理の仕方を知らない。」
「ワシが教える。わかる限りだが。」
 僕がなお二の足を踏んでいるとフィッシャーマンは言う。
「親和性って言葉がある。聞いたことがあるかね?簡単に言えば、相性さ。ワシはそれが人とモノの間にもあると思っておる。使いこんでいくうち、お前さんが手を加えるうち、お前さんとこの原付との間に絆みたいなものができてくるのさ。愛着といってもいいだろう。」
 そう言ってフィッシャーマンはそのカブの車体を軽くたたいた。
「大事なものはそういうふうに扱わんといけない。ワシはそう思うよ。・・・決して手放さないためにも、な。」



 その日から僕は水質検査の傍ら、フィッシャーマンとともにカブの修理を行うようになる。
 最初は川の水をバケツでくみ、車体をよく洗う。キャブレターの部分をビニール袋で覆い、くんだバケツの水をどんどんかけていく。ざばーん、ざばーん、勢いよくかける。あらかた汚れが落ちた後、今度は布で磨く。小さな汚れはそれで落ちる。そこまで来ると川の向こうに夕日が沈んでいく。川が橙色に染まる時間だ。
「このままここにただ置いておいては、せっかく綺麗にした車体がまた汚れてしまうからな。」
 そう言うとフィッシャーマンはカブの上に
ビニールの布を貼る。
「タープっていうやつだ。」
 タープと呼ばれたビニール布の先のロープは杭に結び付けられ、しっかりと川のほとりの地面に打ち付けられる。
「これでいい。」
タープの高さはちょうど僕が少しかがみ込むぐらいだ。なんとなく僕はタープの中を覗き込んでみる。
「そんなに珍しいか?」
 フィッシャーマンはそんな僕を面白そうに見つめる。
「・・・ええ。」
 夕日が沈み始め、遠くの橋を電車が渡っていく。タープは夕暮れの風にそよぎ、揺れている。しっかりとカブを守りながら。



修理は続いていく。タイヤは特に問題ないようなのでそのままだ。エンジンが掛からないのは今の手持ちの部品ではどうしようもないのでそれは給金を少しずつ貯めて交換する他ない。クラッチなどのそれほど費用のかからない部品はいまの手持ちで購入し付け替える。
その日の水質検査は、一瞬、濃い紫色になったかと思うと落ち着き、透明に近い色合いにであった。僕は検査表にそれを記入した後、カブの修理でもしようかと思うがどうも雲行きが怪しいことに気づく。重苦しい雲が僕の上に浮かんできていた。
ぽつりぽつり。雨が僕の広げた手のひらに落ち、それがざーざーと激しく川面を打つ雨粒にかわる。傘もカッパも持ってきていない僕は仕方なくタープの下に入る。カブを背に寄りかかるように足を投げ出して座った僕は川に振りそそぐ雨を眺める。おそらく夕立だろう、遠くのあたりの雲はうっすら光をたたえているから。対岸の病院は雨霧に包まれ、乾いた畑には恵みの雨となる。雨の匂いに混じる新緑の葉の香りと排気ガスの匂い。背中のカブが早く走りたそうにしていた。しかしまだ無理だ。エンジンを取り替えない限り。その日を想像しながらタープから滴る水滴の音を耳にする。ぽたんぽたん。茶色へ変わっていく川の表情。今日は少し怒っているのだろうか?新しい川の表情を僕は見つける。



どのぐらいたっただろうか。僕は額を両膝の上に乗せ、顔を伏せ体育座りでタープの下にいた。顔を上げるとすでに雨は上がり、暗くなっている。腕時計を見ると退勤時間はとっくに過ぎている。
僕は立ち上がり、カブを覆うために貼ったタープの下から外へ出る。くらやみ。真っ暗に染まっている川に遠くを走る電車の光が反射する。すると川のほとりに人影が見える。小さな子供らしい。一人そこにしゃがんでいるその子はどうやら浴衣姿だ。その子のそばに近づいて僕は言う。
「こんな時間にここにいると危ないよ。」
 夏の終わりにどこかでお祭りでもあるのだろうか、僕はそんなことを考える。でもたぶん違うような気がした。普通の子供がこんな時間に浴衣姿でこんな場所にいるはずはきっとないだろうから。
 その子は立ち上がり、僕の方を振り返る。女の子らしい。らしいというのは彼女が女の子向けの浴衣を着てお面をかぶっていたから。素顔は僕にはわからない。狐のお面、昔ながらのお狐様だ。彼女は僕を見上げると何も言わず、手に持っていたものを差し出す。僕はそれを受け取る。手を開けばそこにはお手玉が二つだ。僕はお手玉から彼女の方に顔を向けると彼女は身振りで僕に催促する。“できる?やってみて”そう言われたような気がして、僕は試しにお手玉をひとつ放る。そしてもう一つ。ぎこちないながら二つのお手玉が交互に宙を舞う。なんとかできた。お手玉なんていつぶりだろう。そんなことを考えながらお手玉を続ける僕の様子を、狐のお面の少女は手をあわせて眺めている。僕が片手ずつキャッチしてお手玉を終えると、彼女は「わあ」と小さく感嘆の声を上げ拍手する。少女の拍手が川の流れとともに僕の耳に響く。僕は少し得意になってまたお手玉を始める。狐のお面の少女がその節に合わせ手を叩く。そんなことを繰り返した後、僕は彼女にお手玉を返す。少女はお手玉を受け取ると、くるりと振り返り、川のほとりを駆け始める。夜、くらやみの中へ。僕は無意識に狐のお面の少女に手を伸ばす。しかしもう彼女はそこにはいない。もう少女の姿は見えない。僕の手に二つのお手玉の感触を残して。
「カア」
 上を見上げると鴉が電柱に止まっている。あの鴉だろうか。まるで僕を見下ろしているような気がした。真っ暗な夜の川は、昼間と変わらず穏やかに流れている。

ある川のほとりで ~初夏

ある川のほとりで ~初夏

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-06

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