夢の中の青い女 新宿物語 3

夢の中の青い女

(1)

 U字型をしたカウンターだけのバーは、青い照明の中にあった。店内はひとときの混雑が過ぎて急にひっそりした。気が付くと心地よいリズムを刻んでアルゼンチンタンゴが流れていた。耳元で囁くように聞こえるそのリズムに佐伯はふと、郷愁にも似た思いを抱いた。彼がまだ幼かった頃、父がよくレコードで聴いていた記憶が甦った。と同時に佐伯は自分自身に立ち返った。現在四十八歳・・・・、気分が晴れなかった。
 佐伯は都内に本社を置く食品スーパーの営業本部長だった。関東一円に五十二ある店舗を営業面に於いて統括していた。中堅の食品スーパーとはいえ、一応、世間にも名を知られている店で、佐伯自身、それなりに社会的地位も得ていた。何かに不満を抱かなければならない理由はなかった。事実、家庭内に不和があるわけでもなかった。二十一歳の大学生の息子と、十七歳になる高校生の娘とも意思の疎通が出来ていて、悩む事もなかった。三歳年下の妻の治子は子供たちがそばを離れてゆくと、さまざまな趣味にのめり込むようになっていて、彫金やキルト作りに忙しかった。妻がそうして生き生きと日々を送っている事に、佐伯は必ずしも反対ではなかった。いつまでも若さを失わないように見える妻を、むしろ誇らしくさえ思っていた。ただ一つ、問題があるとすれば佐伯自身の心だった。理由は自分でも分からなかった。ふとした折に、突然、鬱々とした感情が襲って来て佐伯の気分を滅入らせた。すべてのものが意味を失い、砂を噛むのにも似た味気無さだけが心を覆って、砂漠と化した世界が眼前いっぱいに広がった。・・・・いったい俺は、なんだってこんな所にいるんだろう? 人生の途上で道にはぐれてしまったような感覚に囚われる。現実はだが、そんな佐伯をいつまでも放って置かなかった。次から次へと運び込まれる仕事が佐伯を追い立てた。自分を忘れて仕事に没頭するより仕方がなかった。
 ここ数年、佐伯の日常はそんなふうにして過ぎていた。あるいは、少し疲れているのかも知れない・・・。そんな自覚はあったが、あえて気にしなかった。それで、日常生活に不都合が生じる事もなかった。付き合いのゴルフ以外に趣味のない佐伯は、週末の夜、ひとり新宿の繁華街に足を運ぶ事だけを唯一の楽しみにしていた。部下を誘う事もなかった。ホステスに入れあげる訳でもなかつた。孤独な時間だけが佐伯を慰めた。かと言って、佐伯が変わり者だという訳ではなかった。家庭的にもうまくいっていた。社内でも出来る男として一目置かれている。むしろ、人望が厚かった。実際、佐伯自身、社内や一般社会での評価を素直に受け入れた。この面からも佐伯が、現在の生活に不満を抱く要素などないように思えた。しかし・・・・、それでいて佐伯の心にはなお、わだかまるものがあった。自分自身の存在が日毎に削られてゆき、時はただ、過ぎて逝く・・・・。焦燥感にも似た思いが佐伯を苦しめた。いったい、俺は何が欲しいんだ? 自分にも分からなかった。現状に満足していない訳ではない。何が不満だと言うのか? 
 時計の針は午後十一時三十分を少し過ぎていた。この店が看板を降ろす時間は午前零時十分だった。そろそろ帰ろうか・・・
 佐伯が重い腰を上げようとした時、若い男女の一組が騒々しく入って来た。
「わあ、ひどい霧だ。一寸先も見えやしない !」
「髪も服も湿気を吸ってびっしょりだわ」
「霧?」
 二十代後半の若い男女と同年配のバーテンダーが聞いた。
「うん、すごい霧だよ。あっという間に街中が包まれてしまった。車は方向感覚を失ってうろうろしているし、街を歩く人たちはあまりに深い霧に息が出来なくて、金魚のように口をパクパクさせながら歩いている」
「さっきまで、なんともなかったのに」
 バーテンダーが言った。
「そうだよ、ほんの十分程の間の出来事たよ。ここへ来るのにも道を間違えてしまいそうで、ようやく辿り着いたとい訳さ」
 客の若い男が言った。
「なにか、体の温まるカクテルを作ってちょうだい。霧のためにすっかり冷えてしまったわ」
 女がハンカチで髪を拭きながら言った。女の髪にも、ざっくりしたツィードの服にも霧が付着していた。それが青い光りを受け、キラキラ輝いた。
「キッス・オブ・ファイアーって言うのはどう?」
 バーテンダーが聞いた。
「火の接吻? いいわね」
 女は悪びれずに答えた。

夢の中の青い女 新宿物語 3

夢の中の青い女 新宿物語 3

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2017-08-05

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