ありきたりの風景 後編

「ありきたりの風景」(後編)

大きな針葉樹の林を抜け、車のすれ違いが出来ないくらいの狭い山道を登った中腹にその宿はあった。
途中、高く伸びたアカシアの緑の大きな葉にヤマセミがちょこん、と止まっていた。
折から降り出した氷雨にも動ぜず冠羽を立てたままじっと川のよどみに生き餌を探している。
男に自分が抱えている問題をどう切り出したものかと考えを巡らせながら美樹は助手席に揺られぼんやり窓外を見ていた。
旅行に出ることなど本当に久方ぶりだ。
男は上機嫌で鼻歌交じりにハンドルを握っている。
息子が心配で本来なら家を不在にする事など出来ない状況なのだが改めて男と向き合いきちんと詰めた話しをする必要があった。
男にこれからを頼る以上、今回の同伴旅行を断り機嫌を損ねてしまうことは避けたかった。
自分が後妻になる心づもりをはっきり伝えることで息子の事を含めた今後の約束を確かめるつもりでいた。

 月明かりの下、張りのある肢体がぼんやり浮かび上がり左右の高い位置に吊るされたランタンの頼りない灯りが丸みを帯びた躰の線をよけい艶っぽく魅せていた。
冬の山の外気は躰の芯まで凍てつかせる様だったが開放された空間で裸体を晒す恥ずかしさで気持ちは火照り昂っていた。
妻子持ちの男と関係を持つことなど以前には想像もしていなかった事だ。
通い詰め口説かれ続けたからと言ってそれだけで男と関係を持った訳ではない。外見はさておき自信家でいつも強気な男の行動力にも惹かれていた。
それは前夫の職人気質のものとは異なり大企業という厳しい組織の中できちんとした役職を得ていると言う自負と社会的な周囲の認知に裏づけされている。
つまり、これからを頼れる男なのだ。
店のおかげで経済的な困窮を脱してはいるが所詮何の保証もないたかが水商売だ。雇われにしろ経営者である自分が身体を壊してしまえば商売など直ぐに立ち行かなくなってしまう。
それに今は何より我が子の更生のために一日も早く生活を改めることが最優先される。男は息子の現状を承諾するだろうか。今ひとつ自信が無かった。
「─俺は世間体なんて一切気にしねえよ。言いたい奴には言わしときゃいい」そんな風に自分を口説いてきた、いつもの強気な言葉を男の本質として信じるしかなかった。

 旅館での逢瀬はまるで新婚の初夜を思い出させた。
美樹は激しく抱かれながら男の心を求めた。
心の伴わない性交に真の悦楽は無いと考えている。
派手に見えてしまう風采から男好きのする隙のある女だと思われてしまい勝ちだが実際身持ちは堅い。
先を約束し逢瀬を重ねた男とさえ枕を共にしたのは数回に過ぎない。
男はそういう初心なところも気に入っているのだと笑っていた。
身体を開き欲情を女体の芯に感じながら抑えることなく貪欲に男に応えた。幾度となく押し寄せる快感の波に身を任せながら時折、自分の内にある男への愛情を推し量っていた。

「─何だ、そんな事か。」タバコをくゆらせて男が笑った。
「別に関係ねえよ。これからだよ、これから。これから色んな事が変わってく─。まかせとけよ」男はそう言うと煙をゆっくり吐き出しながら立ち上がり優しく細い肩を抱きしめてくれた。
美樹はまだ火照りの静まらない汗ばんだ胸元の襟を合わせてほっと息をついた。
所帯を持つに当たって大きな障害と思われる問題を包み隠さずに話した。
長い間一人で悩み抱え続けてきた事を今、笑い飛ばしてくれた男が心底から頼もしく思えた。
やっと待ち望んでいた「幸福」の手が差し伸べられた気がした。
閉じた眼から自然に涙が頬を伝い、その涙を拭わぬまま目を上げると今度は自分から男の唇を求めた。

「─どう言うこと?」蒼白にわが子を見返した。
「暮らしていくのに、必死だったのよ母さんだって─」
「関係ねえなッ─」深夜の時間を気にし低く抑えた母の言葉を遮る言葉が響いた。
「頼んだわけじゃねえよ、産んでくれなんてよッ─」息子はそう言い放った。
あまりの言い方に一瞬言葉を失った。
「─そんなに男が欲しいのかよッ、汚ったねえッ、母親面すんじゃねえッ─」言いながら憎しみを露わにした目を上げ自分を睨みつけている。ゾッとするような冷たく哀しい眼だった。
「─母さんは」そう言いかけた言葉に、
「出てくからよッ─」取りつく島もなく言葉が被せられた。
「どうして─」息子はその言葉と同時に立ち上がると持っていたライターを投げつけ、そのまま家を出て行ってしまった。
静まり返った部屋で美樹は呆然と立ち尽くした。
投げつけられたライターは額に当たった。鈍い痛みに指を触れるとうっすら血が滲んでいた。
のろのろと腰を屈めてライターを拾うと不意に涙が衝き上げ声を忍ばせ長い時間咽び泣いた。
「背徳」への代償は高くつくだろう。しかし人は愚かな行為だと知りつつ我を優先し、しばしば人道を踏み外してしまう。
嗚咽しながら美樹は男の家族を思った。
自分の息子と同年輩の娘がいると言った。
奥さんは奔放に金を遣い家庭を省みるより流行に生き甲斐を見出していて娘は男親の自分を軽蔑している、と言っていた。
果たして本当にそうなのだろうか。男の言い分を全て鵜呑みにしていいのだろうか。
元々他人である奥さんはともかく、娘さんはどうなのだろう。
一番の犠牲になりその要因は男本人では無く詰まるところ自分にあるのではないのか─。また男自身も単に家庭を守れずに浮気に逃げ道を探しただけなのではないのだろうか─。
出て行ってしまった我が子と自分のこれからを案じながら不安に傾いた憶測が渦を巻いて次々と押し寄せていた。

「─これで終いだからな」男はそう言うと美味そうにコーヒーを啜った。
美樹はクリスタルの天板に置かれた離婚届をじっと見つめた。
男はジャケットの内ポケットからおもむろにペンを出すと目の前で氏名欄に署名し捺印した。
「─あの家も売る事にした。もう、新しいとこの契約も済ませてきた。今度はマンションだけどな」その言葉に思わず目を上げた。
「嫌か─?」薄い笑みを浮かべ男が言った。
「─親権は?娘さんの」不安げに訊くと、
「─ああ。母親につくと─。あっさりしたもんだ」タバコを咥え吐き捨てるように男が応えた。
「─慰謝料も、養育費も要らないとよ─。ったく、馬鹿にしてやがるぜ」自嘲するように男がまた笑った。
美樹はじっと男を見つめた。
「─ん、どうした?」男の言葉にハッとし慌てて首を振った。
「やっと所帯が持てるんだ。もう安心しろ。息子の事も、きちんとしてやるからな─」男が繰り返した。
「─ありがとう」胸が詰まる思いだった。
前夫が行き方知れずになってからわが子を守り食べて行くために必死だった。
決して報われることを求めて来た訳ではなかったが男の存在が紛れもなく救いだった。
男の家庭を想うと後ろめたさと申し訳なさで胸が締めつけられるようだがもう後戻りは出来ない。
「ありがとう─」美樹は男の目を真っ直ぐ見つめた。
「─じゃ、俺は役所に寄って、そのまま仕事に戻るからよ」男は吸いかけのタバコをもみ消して立ち上がりかけ、
「─あ、美樹、お前、通帳に少しまとまった金入ってるか?」と訊いて来た。
「─あ、うん。あるけど─」唐突な問いだったが直ぐに残高を思い浮かべて答えた。
「なら、悪いけどこの二件の口座へ五十万ずつ振り込んどいてくれるか?俺、今日うっかりしてキャッシュカードも通帳も持ってきてねえんだ」
「─え、五十万ずつ?」美樹は男の差し出した振込先の書かれたメモを見た。
「契約した不動産屋と内装を頼んだ業者に今日、手付を入金する約束してたんだ。金は直ぐに戻すから」男が言った。
「─うん。分かった」そう素直に応えた。
慌ただしくドアベルを鳴らして男が出て行くと店内が急に静かになった気がした。
流れているジャズのスタンダードナンバーが耳に心地良く聞こえ、香ばしいコーヒーの香りが鼻の奥に蘇った。
相変わらず慌ただしい人ね─。そう呟き笑うと小さく安堵の息を吐き、まだ湯気の立っている飲み差しのコーヒーに口をつけた。

 表札には何故か知らぬ苗字が刻まれている。
─まだ、売却の手続きは済んでいない筈なのに。
美樹は訝しげに首を傾げながら大きな門扉から内を覗き込んだ。
もう一度表札を確認したがやはり男の苗字とは違う。
最後に男の建てた立派な邸宅を見ておこう、と思い訪ねてみた。
案内されたのは深夜だったがその後酔った男を送ったのも一度や二度ではない。
この辺りには土地鑑もあり見紛う筈も無かった。
携帯を取り出したが二週間ほど出張に行く、と言っていた男の言葉を思い出し躊躇した。
所在無げに立っていると突然玄関が開き見知らぬ男が出てきた。美樹は咄嗟に身を隠しその場から離れた。
男は四十後半位だろうか。濃紺のダブルのスーツを着こなし白髪混じりの髪を綺麗にオールバックにしていた。
「─行ってくるよ。今晩は遅くなる」低い響きの良い声でそう玄関の中に声を掛けると落ち着いた足取りで門扉に向かって来た。
男の奥さんの浮気相手だろうか─。どう見てもそうは考えられなかった。
センサー付きなのか、門扉が自動で開いた。美樹は思い切って男に声を掛けた。
「─あの、すみません」
男が愛想の良い笑顔を向けて来た。
「─あ、あの、すみません。迷ってしまって─」
男の苗字を告げ家を探している風を装った。男は宙に目を上げ考えた後、
「─ご近所にはいないと思いますよ」笑顔を崩さずにそう答えた。
途端に自分の顔からゆっくり血の気が引くのを感じた。
暫くの間、蒼白に立ち尽くした美樹を見て男は会釈をすると怪訝そうに振り返り去っていった。
曇天の空からまだ冷たい大粒の雨が落ち始めてきた。
間も無くしとどに濡れそぼったままその場を動けずにいた。
訳が分からなかった。
男の家はどこなのだろう─。自分のために売却したと言っていた。自分たちのこれからを全て託した─。
全てを共有しよう、と言った男の言葉に全幅の信頼を置き預金の殆ども男に預けてしまっていた。
携帯を取り出し震える指で番号を押した。
呼び出し音の代わりに、すぐに無機質な音声が発信先が使われていない番号であることを告げた。
美樹はただ呆然と雨音に混じって繰り返されるその音声を聞いていた。

 浴室の純白のタイルに真っ赤な血が飛び散った。
螺旋を描いた白と真紅との美しいコントラストが排水口にゆっくり流れていくのをぼんやり見ながら、シャワーを一杯にひねると着衣のまま床に腰を下ろした。
手首はザクロの様に割れ、深くえぐれた傷口から血は溢れ出ているのだが多量に飲んだ睡眠薬のせいか痛みは感じなかった。
次第に混濁する意識の中で美樹は以前寺の住職から聞いた「因縁」と云うものの説法を思い返していた。
結果をもたらす直接の原因を「因」、間接の原因を「縁」とするのだと云う。もっと大義にとると世に生を受け生きることが因であり、人生に関わってきた事物や人が縁であると云う真理だった。
幼少の頃から家は本当に貧しかった。
周囲のほとんどが中流の暮らしをしている中で幼稚園にも通わせてもらえなかった。
産まれてから直ぐ事業を起こしていた父が連帯保証人になっていた取引先の計画倒産の策略を全面に受け、多額の借財を負ってしまったのだった。
物心ついた時から柄の悪い男たちが頻繁に家を訪れその度息を潜めて時の過ぎるのを待った。
「隠れ鬼じゃ─」タバコと汗の匂いが染み着いた腕でまだ幼い自分を囲う様に抱きながら、父が言っていた。
「見つかったら負けじゃ─」深く囁く父の声にドキドキしながら鬼の過ぎるのをじっと待った。
「立ち直る─。俺ぁ、立ち直るきに」貧しい食卓を囲みながら口癖の様にそう繰り返していた父─。だが失意の中で病に倒れ、急逝してしまった。
前夫が借財を負ってしまった時美樹は自身の持つ流転されると云う「業」を恨んだ。
懸命に抗ったつもりだった。
「金」の力などに屈したくなかった。
多くの人たちに助けられ支えられ始めた商売で少しずつ基盤が出来始め、男と出逢い、射し込んで来た光に精一杯手を差し出したのに─。
欺かれているなどとは露ほども思わなかった。
僅かばかりの、それでも我が子を護る為に懸命に倹約を重ねた貯えも騙し取られそれどころか気づかないうちに男の借財の保証人にまで仕立てられてしまっていた。
何もかも巧妙に仕組まれた罠だった。
名刺に記されていた会社は確かに存在していたが、社員として男の名は登録されていなかった。氏名までも偽っていたのかも知れなかった。
息子もぷいと家を出たきり、あれから何の音沙汰も無い。
先月中学の担任が来て本人不在のまま卒業証書だけを届けてくれた。
一つの大事な指標を遂げた気がしてその証書を抱きしめ一人涙を流した。
皆が成長し先を急ぐ中で自分だけが取り残され全てを失くしてしまった─。
本当にもう何も残っていない─。
「因縁」が廻るものであるならばこうして辿り着いた境涯はあまりにも不公平に感じる。
招き寄せてしまった災いは自業自得だとしても重い悪徳を重ねていながらたった今、平然と笑っている人間も沢山いるではないか─。
去年の秋、郷で一人寂しく息を引き取った母を思い返した。
『─辛いことは我慢なんてしなくていい。泣くのよ、思い切り泣くの。そうして乗り越えたら、必ずまた朝がくるから』今際に間に合わなかった美樹に宛てた遺言だった。
乱れた筆跡がまさに死に対峙しながら書かれたものと思われた。
「─お母ちゃん、ごめんね。─わたし、─何だか、疲れちゃった」失われて行く全身の生気を感じながら美樹は虚ろに目を閉じた。次の瞬間、意識の底で何か声がした気がし朦朧と目を開けると歪んだ視界に坊主頭が見えた。
虚ろな目を凝らすとまさしく失踪した夫だった。
何かを叫びながら、懸命に自分を抱き起こそうとしている。
美樹は渾身の力を振り絞って目を見開き、相手の頬を張った。
「─何よッ、今さら!何なのよッ!─あんたのせいで、あんたのせいでッ─」
呂律の回らない舌でわめき詰り力一杯、何度も何度も目の前の頬を叩いた。

 瞼の裏がぼんやり明るかった。
目を開けると透明の細いチューブが見え強い消毒の匂いが鼻をついた。
「─何、やってんだよ」低く響く声の方向に眼を向けた。
まだ朦朧とした視界にまた坊主頭の男がいた。
息子だった。
「─あんた」やっと口を開いた。
「何やってんだよ、おふくろ─!」抑えた口調でそう言い立ち上がった坊主頭は紛れもない我が子だった。
「─ああ、頭、─丸めたんだぁ」そう言うと力なく笑い、
「─お父、─さん、は?」まだおぼつかない呂律でそう訊くと、
「─あ、オヤジ?いるわけねえじゃねえか」ぶっきらぼうな声が返って来た。
「─あんた、─だったんだ」美樹は息子の頬を手探った。懸命に探りながら、
「似ちゃったんだねえ、─いつの間にか─」そう言うと、
「─ったく、何言ってんだよ。さんざん人のこと引っ叩きやがってよ」ふて腐った様に息子が返した。
美樹はもう一度坊主頭を見て笑った。
「─ごめん、ね。母さん、─ドジ踏んで。死ねなかった─助かっちゃった、─みたい─ごめん、ね」途切れ途切れにそう言った。
「─何、言ってんだよ」返って来たその声が震えていた。
真一文字に結んだ唇の形が夫によく似ていた。
「何にも、─何も、─失くなっちゃった。母さんね─」
「仕事、する事にした─」その言葉を遮って息子が言った。
「見習いからだけどな、はじめは。けど、辞めたりしないぜ、俺─」美樹はじっとわが子を見つめた。
「─俺、もう大丈夫だから─。俺が、今度は俺が守るから、だから、おふくろ─」言葉が終わらぬ内に美樹はか細い腕を精一杯伸ばすとギュッと坊主頭を抱きしめた。
いつの間に大きくなった我が子の首筋から、汗に混じった少しだけ逞しい匂いがした。



          了

ありきたりの風景 後編

ありきたりの風景 後編

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-02

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