ありきたりの風景 前編

「ありきたりの風景」(前編)

 深夜の住宅街は静寂に満ちていた。
木枯らしが時折、朽ちた落葉樹の葉に吹きつける。
乾いた路面にカサカサと擦れる音がもの寂しい冬の訪いを告げていた。
「─美樹ちゃん、ここが俺ん家だ。」男が深い酒の匂いを漂わせて言った。美樹が目を上げた。
立派な真鍮のがっしりした構えの門扉にその向こうには広い庭が広がっている。
家自体も最新の工法で建てられたと思われる三階建てのものだった。
「─ま、大した家じゃねえんだけどよ」言葉とは裏腹に十分自慢を含んだ物言いで男が言った。
「─立派ねえ」感嘆を込めて率直に応えた。
含みのある笑みを浮かべ無造作に唇を求めてきた男の行為を拒むことなく受け入れた。
相手に妻子があることは勿論、男も自分に思春期の息子がいることを知っている。
相思相愛と言っていいのだろうか。不倫の関係にあったとしても一緒になることを約束している。
今、男の存在が唯一人の拠りどころになっていた。

 二十歳の時に熊本から家出同然で上京し直ぐに知り合ったひとまわり以上歳上の前夫と結婚した。
建築会社を経営していた夫は経済的に不自由をさせる事はなかったが絶えず美樹を束縛した。
職人から叩き上げ現場中心で信用を得、会社を大きくしてきた。県の内外関係なく多忙に飛び回る夫だったがどんなに遠方にいようが不在の時は喧しいほどに美樹の行動を管理してきた。
時間があれば不定期に着電があり、その度に今何をしているのか等と問いただされる。
帰宅してからはその日の行動や来客に至るまでをチェックされることもあった。
単に独占欲が強いだけでそれだけ大事にされているのよ、と友人たちは笑うが度が過ぎればそれは単に不快なストレスでしか無かった。
懐妊した時それ等は不自然な位突然に収まったが実はその理由は夫の不貞にあった。
相手は通いつけの飲み屋の女将で良いように貢がされた挙句、もう少しで借金の保証人にまでされる所だった。
自分のことは棚に置き職人気質そのまま何にでも本気になってのめり込んでしまう男だった。
そんな一本気な所にも惹かれ一緒になったのだがその短絡的な振る舞いで思いもかけぬ憂き目を見るなどとは予想だにしていなかった。
土下座して詫びる夫を見下ろしながら一度だけ、と言う思いで目をつぶった。
だがその一度はあろうことか同時進行の不義を兼ねていたのだった。
同時期にまた別の女と浮気を重ねていたのだ。
露呈した一人目は未遂に終わったが既に別件で借財を背負う羽目になってしまっていた事を知ったのは数年経ってからのことだった。
気づいた時には借財は雪だるま式に増えていて元凶の女はとうに行き方知れずになってしまっていた。
「取り立て屋」と称した輩が連日のように訪れ小さな会社の資産や持ち家はおろか夫の実家の土地までそっくり剥ぎ取っていった。
厳格な義父の逆鱗は当然で、次男坊だった夫は勘当された。
取引先だった不動産業者の斡旋で何とか住居は確保できたが不況の最中、再就職も思うようにならず糊口を凌ぐのがやっとの不安で苦しい生活が続いた。
そんな矢先、夫は何の前触れもなく不意に家を出てしまった。
以前の取引先を始め交友関係を含め思いつく限りを当たってみたが消息はつかめない。
生死を案じ警察にも届け出たが何の手掛かりも掴むことは出来なかった。
しかし立ち尽くしている暇などなかった。
まだ幼い子供を抱えた女がその身一つで生活を立てて行くことは本当に並大抵では無かった。
周囲からも勧められ公的な援助を考えざるを得ない状況にまで追い詰められていた時、世話焼きの不動産業者から商売の話を持ちかけられた。屋台での立ち飲み屋の商いだった。
水商売はおろか客あしらいも全く経験のないことだったが、
「─心配あらへん。ねえさんくらいべっぴんやったら、きっと流行るでえ─」怪しげな関西弁でそう言う社長の言葉に後押しされる形で恐る恐る水商売の世界に足を踏み入れた。
大粒で柔らかい肉質の焼き鳥と安い価格が評判になり店は賑わったが一番の要因はまだ若かった美樹のコケティッシュな魅力にあった。
悪天候の日を除いた毎日、夕刻になると必ず駅の高架線のガード下に屋台を出した。
若年のサラリーマンから年配の職人まで客層は様々だったが美樹が独り身であることを知ると皆一様に常連を気取り通い詰めてくれる。
中にはあからさまに下心を呈してくる客もいたりしたがその殆どが危うい恋の駆け引きを楽しんでいる体で、美樹自身もそんな愚にもつかない恋愛ゲームを楽しんだりもしていた。

「─ママさん、スナックをやってみんかね」店を出して二年程が過ぎた頃、突然年配の客が口を開いた。
「いい居抜きの店でな。じゃがオーナーが身体を壊しちまって、代替わりを探しとる」燗をしたコップ酒に少し口をつけ、
「良かったら、わたしが口を聞くが─」そう静かにつけ加えた。
市内では大きな企業の人事部長をしていてよく部下を連れて来てくれる常連の男は美樹とは親子程も歳が離れている。
伏せ目勝ちに酒を飲む仕草がどこか幼い頃に亡くした父親の面影と重なり、安心して雑多なことを相談できる数少ない相手だった。
三月後、仕入先を始め備品も含めた準備万端の受け入れ態勢のもと本格的に水商売をスタートさせた。
部長の人脈もあってかクチコミを頼るまでもなく当初から店は繁盛した。屋台とは違い回転が悪い分、客は高い単価の金を落として行く。
心細く不安だった生活にもようやくゆとりができ始めた。
だが時期を同じにして中学に進学したしたばかりの息子に良くない変化が表われ始めた。
参考書が必要だとか先輩とカラオケに行くとか言って歳には過分な金を無心するようになったのだ。
店に出ている間、留守を頼んでいた近隣の友人宅にも立ち寄らなくなり朝制服で家を出るが実際は登校していない、と言った事もしばしばあった。
ある日の明け方、疲れた身体を引きずるようにして帰宅すると髪の毛を金色に染めた息子が炬燵に潜り込んで寝ていた。
驚いて起こそうと身体を揺すると衣服から滲みついたタバコの強い匂いが鼻についた。
美樹は愕然と寝息を立てているまだあどけない我が子の顔を見下ろした。
親子の対話を求め共通の時間を持とうとしたが近づけば避けられ、話しかければ険のある視線で一瞥されるだけだった。
単に思春期の反抗ならば安心だが非行に走ることだけは抑えたかった。
幸い今日まで明るみに出るような悪行の報せはないが不安な先行きを考えると安心して経営にも集中できなくなってしまった。
「─飲み屋の親の子どもってさ、なんか必ず非行に走るよな」雑談の中で店の酔客が言った悪意のない言葉が思い返される。
常連客の殆んどはどこかに嘘を纒っている。夫婦と称した不倫のカップル。所帯を持っていながら別の女に入れ込んでいる男。社長を気取った日雇いの男。
偽りの吐露を許された酒場と言う舞台で、それぞれがひと時の演者になりきる。
本名も素性もろくに知らない個々が時には惹かれあい慰め合い、自身を曝け出す。そうすることで認められた自分の居場所を確かめ一時の安らぎを得る。
世知辛く乾いた風の中で誰もが明日の不安に怯えながら生活している。
寄る辺のない冷たく厳しい現実で生き抜くしかないのなら偽りでもいいじゃないか、一夜の夢うつつが束の間の憩いになるのなら─。
夢を売る仕事をしている─。
酔客たちをあしらいながらいつしかそう考えるようになり商売に自負を感じるようにもなっていた。

「─ほう、プロになってきたもんだ。いいことだよ」美樹の話しを聞き終わった後、口利きの部長が目を細めて笑った。
「息子さんの事は、あまり心配せん方がいい─」ロックグラスを揺らしながらそう言葉を続けた。
「男じゃからの。誰でもが通る道だ。大人ぶりたい、そんな時期がある」そう言い切る豊富な人生経験を経た男の言葉に少し安堵していた。
だが我が子の危うさがそんな大人のいい加減な良識の範疇を超えてしまっていた事を思い知らされることになるまでにさほど時間はかからなかった。

「─宿が取れたよ。今度の土日だ」開店前作り終えたばかりの突出しを勝手につつきながら男が言った。
ここ最近、男はすっかり自分との関係を周知せしめる行動を取るようになって来ていた。
『─あんたは云わば店の看板じゃ。看板は皆の共有のものじゃからな。独り占めさせてはいかんぞ』開店当初、部長から受けた箴言だった。
恋愛は勝手だがそれを他の客に悟られてはいけない、と言う戒めだ。
店を生業としている以上、現状の男の挙動は考えねばならない。だが美樹は商売を辞めることを考え始めていた。
既に離婚調停に入ったと言う男の言葉も受け真剣に再婚を考えていた。
新しい生活が始まればきっとあの子も変わってくれる。いいえ、きっと変えてみせる─。
酔いに任せ言い寄る客たちをのらりくらりとあしらう事にも疲れていた。
中には本当に純粋な恋愛の対象として自分を見てくれている男もいたが相手が好みである、ないに関わらずに悪戯に人の心を弄んでいるみたいでそんな駆け引きにも嫌気がさして来ていた。
普通の主婦として普通の生活に戻りたい。
生活を立て直すことから始めなければかけがえのない我が子を守ることなんてできない。真剣にそう考えていた。
 そしてつい先週の事だった。
深夜遅い時間、突然美樹の携帯に着電があった。忘年会のシーズンも始まり店は流れの客を含めて立て混んでいた。
賑やかな店内に加えてカラオケが喧しく、また知らない番号だったので無視していた。
しかし執拗にかけ直してくるので出てみると相手は地元の派出所の警官からだった。
至急管轄の警察署に来て欲しいとの事だった。
詳しい要件を問いただすと、息子さんが保護されている。とだけ答え詳しい事は電話では伝えられないと事務的に付け加えられた。
美樹は後をホステスたちに任せて慌てて店を出た。
タクシーの中で胸が押しつぶされた様に呼吸が苦しくなった。時折世間を騒がせる様々な少年犯罪が頭をよぎる。
もし誰か人を傷つけたりしていたら─。悪い予感は次から次へと湧き出、切りがなかった。

「─息子さん、小便から陽性反応が出たんですよ、薬物の─」刑事の言葉の意味が分からなかった。
「─覚せい剤ですな。出処を今、訊きだそうとしているところです」激しい心臓の鼓動を耳の奥に聞きながら美樹は黙って刑事を見上げた。
言葉など見当たるはずもなかった。
「─あの子は、まだ中学生なんですよ」やっとそう言った。
「だから問題なんだよ」刑事は冷ややかに見下ろすと突き放す様に言った。
何が何だか分からなかった。「薬物」と言うものの存在は知っていたが無縁の世界の産物の筈だ。
確かに地元には幾つかの裏社会の組織があることも知っていたし自分の店にも「みかじめ料」と称した請求もあったりした。しかしそう言った闇の世界の魔手が子供にまで及んでしまう事など想像すらしたことがない。
「─きちんと子供の管理ぐらいしなさいよ」身元引受の書類を確認しながら溜息混じりに刑事が言った。
後日の再出頭を約束してその晩は帰宅を許された。
帰りのタクシーの中で会話など思いつく筈もなかった。隣を見るとどこか一点を見つめたまま、やはり無言の息子がいる。
この憔悴しきった様な顔は果たしていつからだったのだろうか。何故、自分が気づいて上げられなかったのだろうか─。
悔しさに涙がこみ上げてきた。
やはり生活を、環境を変えなければ─。
決断を胸に美樹は携帯を取り出した。
 
─後編へ続く

ありきたりの風景 前編

ありきたりの風景 前編

  • 小説
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  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-08-01

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