失迷(しつめい)
この物語は筆者である私MCヨッチャンが生まれた時から誠によく知る人物の生き様を書き記すものです。
彼は現在三人の子宝に恵まれ平穏な日々を過ごしています。
私には彼が亡き後、彼がこの世に残すものがどのようなものになるのか、或いは彼が幼き頃に描いていた世界を彼は見る事ができたのか、そして 彼の人生の苦しみの正体とは如何なるものであったのかという事に強い興味を抱きます。
そのような観点で、私が私なりの視点で書き綴るのが本書であります。
彼の名は 菊池武志。ずっと私と共に生きてきた人間です。
本書では 人物名 固有名称などは一部を除き仮名とさせて頂きます。
ここで彼の人間像を想起して頂けるようなエピソードを一つご紹介させて頂くとします。
武志が高校2年生の夏、8月に名古屋市内南区から半田市へ引越しをした時の事。
生活保護を受けて生活を営んでいた武志の一家が武志の通う高校に近いという理由で
(おそらくそれだけではないだろうが)
愛知県半田市への引っ越しを決めたのは武志16歳の夏でした。
菊池一家が住んでいたのは裕美荘という2階建ての木造アパートでその一階一号室が菊池一家の住居でした。
引っ越しの少し前、武志は母の母 つまり祖母から一匹の白い犬を貰い、犬好きの武志は大変歓んで、その犬にミミと名付けとても可愛がりました。当時、武志は高校生活が始まり数ヶ月が過ぎたとは言え、高校生活にもなかなか馴染めず、
また 中学校時代の有人とも会えなくなり心にぽっかりと穴が空いてしまったような状態でしたがそんな武志にとってミミとの出会いは誠に大きなプレゼンスでした。
そして引っ越しの当日。
引越し業者から
「生き物は荷物じゃないから運べない。出来るなら家族の誰かが自分で運ぶか、何か別の方法を考えて頂きたい」と言われ、これといって他に術を持たない武志は仕方なく、引越し業者が用意した段ボール箱にミミを入れて運んでもらう事を決めました。
段ボールに入れられる時のミミの泣き叫ぶ様は相当なものでしたが、とにもかくにもどうする事も出来ず、トラックは何事も無かったかのように少ない荷物を積み込み半田の引っ越し先へ向かいました。
そして目的地である半田市、緑ヶ丘市営住宅に到着し、トラックの荷台から荷降ろしが始まりました。
武志は名古屋の南区を出てからのミミの様子が気になりミミの入った段ボール箱が降ろされて
すぐにその箱を開けました。
そこで武志は生まれて初めて自分の責任で生き物を死なせてしまった現実に直面したのです。その時武志が目にしたものは小さな段ボール箱の中で脱水症状を起こし、全身びしょ濡れになったミミの姿でした。
正に息も絶え絶えのミミを見て武志は自分の迷いが招いた最悪の結果を直視したのです。いや、もしかしたら彼は、迷いながら考えるという事を失い、成り行きの前後を想像する事ができなかった自分の愚かさを痛感させられたのかもしれません。
実はこの「迷いながら考える事を失う」という事が彼の人生にとって目に見えない十字架となり、彼の人間性に大きな影響をもたらす事になったのかもしれません。
それは生れ落ちた時からの彼の宿命だったようにも思えるのです。
私は思います。
武志の半生は、このような迷いから無意識のままに逃避してしまう事が招く不幸の連続であったのかもしれないと。
愚かで何も取り柄のない彼ですがそれでも生き抜こうとし、もがき苦しむ彼の生き様を私なりの視点で描き、後に何時かどこかで誰かが何かを感じて頂けたらと思います。
そのミミの亡骸を抱き上げた武志は、泣きながら歩き出しました。
これから菊池家が住む事になる市営住宅一帯を見下ろすかの如くたたずむ公園墓地へ埋めてあげようと思ったのです。武志は母のと父のにその意思を伝え、公園墓地へ向かいました。
そして墓地内から少し外れた処にミミを埋める墓穴を手で掘り、その冷たい体を撫でてあげながら静かに降ろし別れを告げたのでした。
俗に「事実は小説より奇なり」と言われますが私は 「事実は小説より醜い」という方が的を得ていると思います。私は凡そ文学といわれる物にはまるで疎いのですが、
私がこれまで小説文学と言われるものに殆ど触れず、ひたすら伝記ものや史実書といわれる類いの書籍しか読まなかった訳も言い訳ではなく、そこに在ります。
さて、これから始めますこの「失迷」
最後まで書き上げる事が出来るかどうかわかりませんが 、醜くても そして 悲しくとも、お気に召して下さる方はどうか 気長にお付き合い下さい。
ヨッチャン
目次
第一章 母との再会
第一話「敷島湯と前夜の夢」
第二話「偽りの真実」
第三話「晩御飯の衝撃」
第二章 緑の日々
第一話「怪獣ブースカと道徳映画村」
第二話「九条保育園の細井君・トカゲのシッポ」
第三話「佐藤君総攻撃」トイレの逆襲
第四話「七夕様と閃光」最後の七夕
第三章 稲葉地の生活
第一話「偽りの真実パート2」CAVERNの喫茶店
第ニ話「混沌」動き始めた時
第三話「待っていた人」友平との再開
第四話「背徳の逃亡」長い夜の中で
登場人物一覧
武志(たけし)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・主人公
友平(ともへい)・・・・・・・・・・・・・・・・・・父
秋子(あきこ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・母
青山武一(あおやまたけかず)・・・・・・・・・・・・実の父親とされる
棚本正春(たなもとまさはる)・・・・・・・・・・・・祖父
棚本奏子(たなもとかなこ)・・・・・・・・・・・・・祖母
棚本照夫(たなもとてるお)・・・・・・・・・・・・・叔父(秋子の末弟)
棚本数子(たなもとかずこ)・・・・・・・・・・・・・叔母(秋子の末妹)
東(あずま)のおじちゃん・正春の兄弟分。道徳公園の池でボート貸しを営んでいる
太志(ふとし)・・・・・・・・・・・・中央ショッピの果物屋の息子で武志の有人
万知子(まちこ)・・・・・・・・・・・・・・・秋子の次妹
紀(おさむ)・・・・・・・・・・・・・・・・・万知子(まちこ)の長男
琴(こと)ちゃん・・・・・・・・・・・・・・・秋子が松陰病院で知り合った有人
ミヨちゃん・・・・・・・・・・・・・・・・・奏子の有人関谷さんの孫娘
芳子(よしこ)・・・・・・・・・・・・・・・棚本家の三女
井村(いむら)先生・・・・・・・・・・・・・五条保育園時代の年少組先生
細井健司(ほそいたけし)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・親友
佐藤豊君(さとうゆたか)・・・・・・・・・・五条保育園年長組の子
棚本隆志(たなもとたかし)・・・・・・・・・棚本家の長男「秋子の弟」
里美(さとみ)・・・・・・・・・・・・数美の同級生で力持ちの綺麗なお姉さん
第一章 母との再会 第一話「敷島湯と前夜の夢」
―昭和42年2月―
「武志(たけし) たけしーっ」
夕食の支度をしている祖母の奏子(かなこ)が普段とは少し違う声色で武志を呼んでいる。
武志は愛犬のエルを散歩に連れ出した帰りで、ちょうど表から入ってきたところだった。
(表という表現は名古屋地方で言う〈家の周り、比較的近い距離〉を指して言う独特の表現だと思う)
武志は祖母が夕食の支度をしている土間に入り、エルを飼い場所に戻してから祖母の背中に向かって言った。
「なに? お婆ちゃん」
祖母は、お勝手場仕事で濡れた両手をパッパと振り、手拭いで素早く手を拭きながら振り向きざまに喋りだした。
「武志、あんた お母さんに会いたいか?」
武志は少し考え込んでから
「うん」と答えた。
武志が考え込んだ事とは『お母さんが帰って来るとまたお酒を買いに行かされる』という事である。明子はここ棚本家に皆と一緒に住んでいた頃、武志に時々お酒を買いに行かせた。
武志はその事を半分嬉しく思ってはいるが、問題はそれとは別に奏子や祖父の正春から再三にわたって「武志、明子はまたお前にお酒を買いに行かせたのか?」と聞かれる事だった。
武志が考えたのはその事で、そのように祖母達が聞く時の話し方は決して〈好意的〉ではなくそれは幼い武志にも無意識のうちに理解できていた。
それに加え秋子は武志に対してそのように聞いてくる祖母達に本当の事を話さないよう口止めをするのである。その狭間に置かれる武志は何時も思い悩んだが何時しかどこかで何かのきっかけで
『本当の事を話さない事が良い事なのか 或いは悪い事なのか』
迷う事をしなくなったのである。少し違った言い方をすれば『迷う事を捨てた』という事なのかもしれない。
武志は祖母に聞き返してみた。
「お婆さん、お母さんはどこにいるの?」
「んっ? 秋子はねぇ 明日 帰って来るよ、よかったねぇ 武志」
奏子は胸の中の残り僅かにした息を少し吐き出すようにして答えた。
武志は祖母にそれ以上聞かなかったが 妙な心騒ぎを感じずにはいられなかった。
ところで棚本家というのは母秋子の生家であり 言うなれば居候をさせてもらっている家という事になる。この時、秋子は独身で武志は秋子のたった一人の実子である。秋子はこの頃よりずっと前、青(あお)山武(やまたけ)一(かず)という男性と結婚したがその時に生れたのが武志である。武一との結婚生活は長くは続かず武志が秋子の胎内に宿って6ヵ月の時に離婚をしている。従って武志は生れながらにして父親を持たない私生児として生れてきた事になる訳である・・・この時点では。
したがってこの頃の武志の氏名は棚本武志であり、母の秋子は当然ながら棚本秋子である。 そしてこの氏名が武志の最初の氏名となった。
「ねぇ お婆ちゃん、お母さんは病気なの? またすぐ帰っちゃうの?」
武志は祖母を見上げて聞いた。
「そうだなぁ 病気だねぇ。昔っからだでねぇ あの子は・・・・・・」
そう言って祖母はまた台所に戻った。夕方近くになり、祖父の正春(まさはる)が居間に戻って来た。
毎日の日課である団子屋さんのおじさんとのお喋りを終えて帰って来たのだ。
団子屋さんは棚本家が大家(家主)をしている真中ショッピの中にあるお店で、正春と団子家のおじさんは何やら深い因縁がある旧知の友らしい。真中ショッピは、肉家、乾物家、惣菜家、花家、果物家、八百屋、雑貨家、豆腐家、金物屋、魚屋、鍵屋、うどん屋、かしわ家などが入っている所謂(いわゆる)昔の市場(いちば)で、この道徳の町の中心的なお買い物場だった。
「たけし―っ、 オイっ 奏子(かなこ)っ 武志居るかぁっ」
これも正春の日課で、夕食前に行く銭湯の支度を武志にさせる為に大声で武志と奏子を呼ぶのだ。
銭湯の支度といっても武志がするのは奏子が居間の座卓の上に出しておいてくれているタオル一枚と石鹸箱を洗面器に入れるだけだが。
正春が好んで通うその銭湯は敷島(しきしま)湯(ゆ)といって、この町にある幾つかの銭湯の中でも老舗に類する銭湯だ。棚本の家にもお風呂はあるが正春はこの敷島湯をよく好み通った。
武志がその支度を終えるのを見計らって奏子が武志の前に来た。奏子は武志の目を見据え小声でこう囁いた。
「武志、なんでもいいからおじいさんに おじいさん、おじいさんって言わなかんよ。そうすりゃあ可愛がってもらえるでな」
「うん」
「うん、じゃない、はい、って言うの。わかったね」
これも正春と出掛ける前に奏子が武志に諭す日課だった。
その一通りのやりとりが終わると武志は土間の裏口前に立っている正春のところへ小走りで駆け寄った。
「おじいちゃん、行こっ」
武志は少し笑ってみせた。
「おっ よし ほんなら 行くか」
正春は大きく笑顔をつくり武志の手を掴んだ。
「武志、今日 何か買ったろか お前 こないだ 買って欲しいって 照夫(てるお)に言っとったがや、 んっ?」
正春は武志の顔をチラッと見て期待持たせぶりに言った。しかし武志にとって正春は鬼より恐い存在である。間違っても「ハイ」と言える筈はない。
それを見越しての正春の言葉ではないのだが奏子がすかさず武志にすり寄り
「おじいさん、買ってぇ て言うの」と勧めた。
しかし武志は
「そんなに欲しくないよ」と小さな声で答えた。
そういうところに自分の遺伝子の欠片(かけら)を感じるのだろうか、正春はフッと笑って
「よしっ ほんじゃあ 有ったら買ったるわなっ 武志」
と言って土間の柱に立て掛けてある杖を手にした。棚本の家から敷島湯まで普通に歩けば5分ほどの距離だが左足が不自由な正春は杖をつき、さらに義眼を入れている右目を庇(かば)うそちら側に武志を連れて歩くのだからどうだろう、10分以上掛かっていたのかもしれない。と言っても実際は武志が連れられるのではなく、武志が正春を連れて行くと言った方が正解だろう。
正春は玄関を出て右に曲がり真中ショッピの前を歩きながら敷島湯へ向かうのが常である。途中、働いている人達や道で行き交う人達と立ち止まっては話をし、また立ち止まっては話をするので銭湯にはなかなか着かない。
この日もそのようにして銭湯に着いた。
「ゆ」と大きく書かれた暖簾(のれん)をハネあげ引き戸を左に開いて中に入ると真正面が番台である。
そこで「大人一人と子供一人だ」正春はそう言って番台に小銭を渡した。
武志は先ほど正春が言っていた〈買ってもらいたいモノ〉が番台の窓枠にぶら下げられているのを見た。
それはビニール樹脂製で当時、子供達に人気があったロボットの形をしたジョウロである。
両手を頭の上に伸ばし空を飛ぶ格好をしているヒーローロボットだ。
それは背中に空いている大きな穴から水を入れ、その伸ばした両手の先に設けられた小さな穴からシャワーのように水が出るというものだった。
実は、武志はこれでお風呂遊びをしたかったのだ。武志はその場で正春に「欲しいのはこれだよ」と言うべきか、それとも言わないでおくべきか迷ったが、結局 言わないままにした。 そして二人は奥へ進んだ。番台を正面に見て右手側が通路でその通路は左右に分かれている。通路を右に行けば「男湯」そして左側が「女湯」である。
正春は下駄箱棚の前のザラ板に乗るといつもお決まりの下駄箱を探す。
それは「た」の字である。足が不自由で、しかも高齢の正春にとって「た」の位置は一番上に在ってしかも自分の苗字の頭文字という事でお気に入りなのである。
そしてこの「た」の下駄箱はいつも必ず空いている。決して他のお客さんは使わない。
正春は所定の下駄箱に自分の履いてきた下駄を入れると武志の履いている突っ掛け(ビニールの草履)を一緒に入れる。そして下駄箱の木札の鍵は掛けない。それが彼の流儀だった。
脱衣所は広く、30畳ほどあるだろうか。壁には当時としては珍しい脚の無いカラーテレビが置いてあり、冷たい飲み物も売っている。その脱衣所の真ん中には3畳程はあるような大きな木づくりの腰掛けがで置いてある。そしてその真上、天井には直径2メートル位あるプロペラがぶら下がっており、夏になるとゆっくりと回転して風呂上がりの火照った体に一時の涼を提供してくれる。
脱衣所は通路から見て右が窓側の壁で、先ほどのテレビや冷たい飲み物、その他、掃除道具などが置いてある。反対側、左の壁は女子脱衣所との仕切りを兼ねた壁になっている。こちら側は壁一面に横長の大きな一枚鏡が掛けてあり、これは当時のお風呂屋さんにとっては一つのステータスシンボルのようなものだったのだろう。風呂上がりのお客さん達はこの大きな鏡の前に腰掛け、髪を整える。10円アンマ機(肩もみチェアーの事)も10円ヘアードライヤー、さらに体重計もこちら側にある。有り難い事に大きなエアコンまで設置してあるのでお客さんの中にはお風呂上りに1時間番組を一本観て帰るという方も結構多い。
正春は床に散乱している脱衣籠を一つ自分の足元に置き、羽織(はおり)丹前(たんぜん)から着物へと順に脱ぎ始めた。裸になった正春の背中には牡丹の花に竜が乗り、その竜が大きく口を開け、眼光鋭い目をカッと見開いている絵が見事に描かれている。
「武志、寒いで 早(は)よ脱げよ」
着ているものを全て脱ぎ終えた正春は武志が脱ぎ終わるのを待ってはくれるがいつもそう言って急(せ)かせる。暖房が入っているとはいうものの、つい先ほどまで寒風吹きすさぶ中をゆっくりと歩いて来たのだからやはり寒い。
衣服を脱いでいよいよ浴場へ入る手前には右側に手洗い場、そして左側には自然石を格好よく積み上げた箱庭が作ってある。この頃の所謂「銭湯」での入浴マナーは、浴場に入る前にこの手洗い場で軽く掛け湯をして手ぬぐいを洗ってから入るというものだった。今思えば当時の方達はそういうマナーをきちんと守っていたと感心する。もちろん正春と武志もこの作法に則って浴場に入った。
浴場の中は湯煙がいっぱいで目が慣れるまで少し視界が悪い。だからさすがに正春も普段以上に足元に注意して歩を掛けた。浴場には大風呂、そして中湯、電気風呂、さらにマッサージ風呂など全部で4つの風呂があるが正春がいつも最初に入るのは一番奥にある中湯である。敷島湯はボイラーで湯を沸かしているがその沸きたての湯が供給されるのが大風呂だ。この浴槽は円形になっていて縁には腰掛けられるような段が拵(こしら)えてある。温度は42度位で真ん中辺りの深さは120センチほどあるので幼い武志では足が届かない。大抵のお客さんは最初にこの大風呂か或いはマッサージ風呂のどちらかに入る。
正春が最初にこの大風呂に入らないのは武志に気を遣っての事ではなくお湯が熱いからだ。しかしもう一つ、少しリアルな理由があって、中湯は身体を洗いそして頭を洗った客さんがゆっくり身体を暖める為に入る場合が殆どで、話し好きの正春はそういった人様と話がしたいから最初からこの中湯に入るのだ。武志と正春は中湯槽に入る前に下半身をたっぷりとお湯で流し、そして湯船に浸かった。
「ウ―っ」と唸りながら正春がその大きな身体を沈めたら武志も負けずに「ワーっ」と唸りながらお湯に浸かった。
「武志、お前の欲しいもん 有ったか?」
手拭いで肩の上を擦りながら正春が聞いた。武志は少し迷って
「うん あったよ。あのおばさんの頭の上にぶら下がってた」
と今度ははっきりと答えた。
「武志、服脱いだ籠ん中に財布入っとるで今から買って来い」
そう言われた武志はあまりの嬉しさに立ち上がって後ろで湯に浸かっている小父(おじ)さんの顔に勢いよくお湯を掛けてしまった。普通ならここで子供らしく「ごめんなさい」と謝れば別に問題はないのだが、こういう時にすぐに謝れないのが武志のいけないところだった。武志が申し訳なさそうな顔をしながらも何も言わず背中を丸めていると、どういう事かそのおじさんが両手で武志の体を(ホレっ)という感じでちゃんと立たせてくれた。武志はおじさんの顔を見やり、ニコっと笑うとおじさんが「元気なお孫さんだね」と言ってくれた。そしてそれを見て正春が話し出した。
「おうっ 角屋さん 八十日(やっとか)目(め)だな どうだ 儲かっとるか」
どうやらおじさんと正春は知り合いだったのだ。
「はい おかげさんで なんとか やってます。」
おじさんは軽く頭を下げ正春に答えた。
「可愛い お孫さんですね ボクっ 名前は?」
「棚本武志 3歳です」武志 お決まりの返事だ。
「今日は お爺ちゃんと来たんだねぇ 良かったねぇ」
そう言っておじさんは正春の方に向き直し少し真面目な顔になった。
「棚本さん、 秋ちゃん どう?」
「おぉう そうだなぁ まぁ 困ったもんだけどよぉ 明日帰って来るわ。 本人もよぉ 今度でキッパリやめるって言っとるでよぉ まっ どうなるか判らんけどなぁ」
正春はそれまで湯船の中心辺りに置いていた自身の体を壁に預けるようにもたれ、両手で顔をバシャバシャ洗いながら、 そして溜め息混じりの吐くような声で語った。
武志は、正春が話している短い時間の中で、小父さんが幾度か武志の目をチラッと見た事を見逃さなかった。
こういう時、武志が『自分に関係あるな』と直感する事は当たり前であり、正春もその瞬間を逃さなかった。
すると正春が武志の頭のテッペンをわし掴みにしてクルッと体を回した。
「武志、早(は)よ 買って来い。あの 座っとるおばさんに、棚元だけど、って言やぁ わかるで 行って来い 早よ 貰って来い」正春は少し急かすように武志に言った。
威圧的な言葉のように聞こえはしたが武志はその言葉に何気ない優しさも感じた。武志は湯船から上がり、正春から手拭いを貰い、その小さな手で搾り体を拭いた。とは言うものの3歳の幼年だ。当然、まるっきり拭けてはいないのだがとにかくそのまま脱衣所へ出た。そこへ いつもここで見掛ける小父さんが武志に近付いて来た。
「おうっ ビタビタだがや こっち来い 拭いたるで」
小父さんはそう言いながら自分の洗面器の中から先ほど自分が使ったであろう手拭を掴み取り武志の体を手際よく拭いてくれた。実はこの銭湯で武志の顔をしらない人はいない。それは武志個人をというより棚本正春の孫だからという事だった。おじさんは武志の体を拭き終えると
「おじいさんは まだ 出て来ないのか?」と尋ねた。
「うん いまから マグマ大使ロボのシャワーを買いにいくの」
「ほんじゃあ お金 いるがや 持っとるのか?」
「ううん お爺ちゃんが 棚本って言えば いいからって言ったもん だから 貰いに行くの」
その言葉を聞いた小父さんは
「どれどれ」
と言いながら武志の手をとり番台の所まで一緒に付いて来てくれた。
「おい そのロボットのシャワーが欲しいと 棚本さんだけどよぉ。 お金は 後でエエだろう?」
小父さんは番台の伯母さんにそう言って、窓枠にぶら下げてあるそのジョウロを取らせた。
武志は満面の笑みをうかべ、小父さんに
「ありがとう」
と言うや否や念願のロボットを手に小走りで浴場へ戻った。しかし湯船に正春の姿は無く中湯の上の棚で寝ていた。上というのは中湯の背中の上の事で、中湯の背もたれ側の壁は高さが150センチ位の所でその奥は平たくなっている。男湯の中湯はちょうど女湯の中湯と隣り合わせになっているのでこのベッドのようなスペースは、おそらく銭湯としての設備の収納に充てられているのだろう。この中湯の上は洗面器などを置く場所として使われるのだが正春が中湯に入ると他のお客さんはこの場所を空ける。つまりこの中湯の上は銭湯で正春がゴロンとする占有場所なのだ。武志はロボットのジョウロを手に再び中湯に入った。欲しくてたまらなかったジョウロをお湯の中に沈めては出し、沈めては出した。その度にロボットのピンと伸びた指先から発射されるシャワー光線の流れを楽しんだ。しかし武志はそれを繰り返す中で一つだけ納得がいかない事を見つけた。
ロボットの左手から出る五本の光線のうち一番左側の一本だけ外側に大きく逸れて出るのだ。「・・・これじゃぁ 悪モンに命中できない・・・」
時としてこのような些細な事が非常に気になるところも武志の特長だった。そこへさっきまでこの中湯で正春と話をしていた小父さんが戻って来た。
「ボク、それ 買ってもらったの?」
小父さんは首を傾け武志の繰り返す動作を見てそう話し掛けた。
「うん マグマ大使ロボだよ。でも光線がまっすぐ出ないの 何んでかな?」
「おもちゃだから しょうがないぞ。どれどれ ちょっと見せてみぃ」
小父さんはそう言って武志のジョウロを手に取りその水の出具合を確かめるようにして自分でもシャワーを出してみた。
「ボク、これはさぁ お家に帰ったらボクの叔父さんに治してもらうといいよ 簡単だから」
小父さんはジョウロを武志に返すとそう言って大風呂へ入りに行った。
「おい 武志、体洗うか」うたた寝から覚めた正春が頭の上から声をかけた。正春は足元に注意しながら湯船に降りそれから二人は洗い場へ向かった。洗い場は浴場の左右両方の壁一面がそれになっており、正春は窓側の真中辺りの場所をとって先ず武志の頭を洗ってくれる。しかし、武志にとってはこの洗髪が悪夢の時間である。洗い場にはそれぞれ場所ごとに鏡は有るがシャワーは無い。有るのは「飲めない」
と表示された冷水(地下水なのでとても冷たい)とボイラーから(おそらく)直接来ている熱湯の蛇口だけである。
この銭湯では皆が二つの蛇口から出る冷水と熱湯をバランス良く洗面器に入れて使うのだ。ところが正春はこれがあまり得意ではなく、武志の頭に掛けるお湯がとても熱い時もあれば逆に飛び上がるほど冷たい時もあるのだが昔気質の正春は弱音を吐く事をとても嫌うので武志が文句を言おうものなら即座にピシャンと来る。それどころか武志が苦痛を我慢する為に正春の意図しない動きをするだけでも「動くな」と叱られる。言ってみれば武志にとってこの洗髪の時間は恐怖と苦痛の時間なのである。正春が両方の蛇口から出る熱湯と冷水を洗面器に入れ始めると条件反射の如く武志は四つん這いに近い格好で頭を床いっぱいの所まで下げる。
「もっとお尻を上げんか」早速正春の激が飛ぶ。武志は目一杯お尻を上げる。
「そうだ そうすりゃあ 目に入らんだろう」
正春は間髪を入れず武志の頭に石鹸を付けて「よし 自分でグシャグシャしてみろ」武志が頭を泡だらけにしている間に正春は手拭いを自分の太ももに乗せ石鹸を付ける。
武志が「お爺ちゃん もういい?」と聞くと「んっ どれどれ よし」と言ってまた武志のお尻を上げさせる。そうして二度目の我慢タイムが始まる。
洗髪が終わると武志は正春の正面に立ち、首から胸、両腕、そして足の方へ順番に洗ってもらう。「後ろ」と言われると武志はクルッと回り背中からお尻という順番に洗ってもらう。ようやく体洗いが終わると次は武志が正春の背中を洗う番だ。刺青が睨む正春の大きな背中を武志が手拭いで擦ると正春が「武志、もっと力入れんか」と注文を出す。とにかく武志は必死で擦る。やがて正春が納得すると「おっ よし」という正春の声で武志の背中洗いは終了する。それから正春と武志は大風呂に入り浴場を出るのだが武志にとってその大風呂が最終関門だ。まだ満足に数を数える事ができない武志に正春は1から100まで数えさせる。それも小さな声では叱られる。それこそ女湯まで聞こえる位の大きな声で数えなければ許されない。それをクリアーしてようやく湯船から出られるのだ。傍で見ている人達はきっと〈厳しいお爺ちゃん〉と思うだろうか。
しかし、武志に対してこれほど厳しくする正春の本心は、おそらく躾(しつけ)以上に愛情であり、いや それ以上の何かかもしれない。その本当の意味を武志はそれから十数年後に知る事になるのだが。
脱衣所へでた正春と武志は着替えて中央の大きな腰掛けに座り、ひと時の間を置いた。ほんの一時間ほど前に家を出た時はまだ明るかったのだがそこから見る窓の外はもう真っ暗だった。煙草を一本吸って正春が立ち上がり武志はそれに倣った。
「よし 行こか」
正春は武志の頭をポンと叩き下駄箱の所へ出た。そして番台の前に差し掛かり
「おう女将、うちの買ったヤツ幾らだ」と言って袖の中から長財布を取り出した。お金を払って表に出たら2月の寒さがすぐに全身を包む。武志は正春の足にピッタリとくっ付いて歩いた。
家に帰ると奏子が夕食の支度を済ませテレビを観ていた。食卓の上には豪華な料理が並んでいる。と言っても今日が特別な日という訳ではなく、棚本家では、正春の言いつけなのか或いは市場を経営している関係なのかは判らないが何故か毎晩の夕食が豪華だ。正春が夕刊を読み始めると奏子がトリスの角瓶を持って来る。今日は刺身も出て来た。武志は正春の正面に座る。これは定位置だ。そこへ伯父の照夫が仕事から帰って来た。照夫は秋子の一番下の弟で、棚本家長女である秋子とは10歳以上離れた弟である。彼は近所の自動車修理工場に勤めており細身の男前だがまだ独身だった。続いてこれまた秋子の一番下の妹で高校生の数美も学校から帰って来た。これで棚本家は秋子を除く全員が集合した事になる。棚本家の夕食は豪華だがマナーには厳しく、箸の運びや食べる時の口の開き方は正に『名古屋ナモ』の如く上品である。しかし幼い武志は当然それには程遠い為、毎日注意される。口を開いて空いて食べれば「お口を閉じて食べなさい」正座をしている足をモジモジさせれば「足が痛かったら早く食べなさい」と言われる。お茶碗は必ず手で持つ事、左の手は必ず飯台の上に出しておく事もお決まりである。箸でお皿を突っつく事や手前に引こうものなら即座にその手を叩かれる。最悪なのはお味噌汁をひっくり返した時だ。その瞬間に正春の張り手が武志の頬に炸裂する。そしてその後、涙を流す事は許されない。この日も武志はコウコ(沢庵)を取ろうとして肘で自分のお味噌汁をひっくり返してしまった。当然、叩かれた。「武志、男なら泣くな」と正春は叱るがやはりそれは幼い武志には無理である。しかし武志も負けん気は強く、流れる涙を目にいっぱい溜めるが瞬(まばた)きはしない。それがこの時期の武志に出来る精一杯の男儀だった。
夕食の間、武志以外の大人達は今日の出来事をあれこれ話し合う。酔いも頃合になって正春が明日の事を話し始めた。
「おい奏子、秋子は明日何時に帰って来るんだ」
「タクシーで帰って来るって言っとったけど昼前には帰って来るんじゃないの」
奏子がそう言うと数子が「どうせ秋子姉さん また 同じ事になるんだで帰って来ても同じだわさ」と吐くように言った。さらに続けて
「だけど武志だっていつまでも小さくないんだで そろそろ解るに」と畳み込んだ。この時、武志はとても辛かったが、敢えて自分とは関わりのない事のように、聞いていない表情をつくった。いや、本当は自分ではどうする事も出来ない環境の中で圧倒的な現実が我が身を締め付ける苦しさに只 じっと耐えていただけなのかもしれない。
やがて酔いが廻った正春は二階の寝床に行く為に立ち上がった。
「はいっ 武志、お爺さんを連れてってね」
奏子はショボンとしている武志に『「さぁ 気を取り戻して』というように促した。正春を寝床まで連れて行くのは武志の日課で、これも武志が少しでも正春に可愛がられるようにと計らう奏子の思いやりだったのだろう。
正春は立ち上がって居間から土間へ降りた。武志は、正春の手を下から支えるようにして土間から階段へと移らせた。先に正春が階段を登りその下から武志が正春のお尻を押して上がってゆく。階段を上りきると廊下になっており、すぐ真ん前が秋子の部屋で、右へ180度回って左側すぐの部屋が数美の部屋である。正春の部屋は数美の部屋を通り過ぎた一番奥にあり、ここが座敷であり棚本の家の中で一番広い部屋である。座敷には既に正春の床が用意されており布団の中には電気毛布まで入っている。正春は床の間に飾ってある日本刀の太刀を手に取り白刃を抜いた。これは正春が寝る前にいつもする事で、その刃先を見る目は正に極道そのものの目だった。正春はその刀を鞘へ納めると武志に最後の言い付けをした。
「武志、電気毛布 入っとるか?」
これは奏子が電気毛布のスイッチを時々入れ忘れるので正春は自分が布団に入る前に確認をさせるのである。武志は正春の布団をめくって手で電気毛布が温まっている事を確認して更に温度調節機の目盛りが4と5の間にある事も確認する。
「お爺ちゃん、いいよ 成ってるよ」
それを聞いて正春は床に入った。
「武志、お前 やっぱりお母さんな帰って来て欲しいか? お前はお父さんが無いでなぁ・・・」正春は目を閉じたまま呟くように言った。
「ねぇ お爺ちゃん、お父さんって 良いの?」
武志は、お父さんというものがどういうものか分からなかったので正春に聞いた。
正春は「んっ・・・」と生返事をしただけで、大きく一息付いただけだった。
「武志、電気消してくれ。小さいのにしてくれな」
武志は立ち上がり、思い切り背伸びをし、天井から垂れ下がる蛍光灯の紐を2回引いて小玉電球にした。そして「おやすみなさい」と言って部屋から出た。居間へ下りると奏子はお勝手場で夕食の後片付けをしていた。照夫はテレビを見ながらまだウィスキーを呑んでいる。数美は忙しそうに何やら勉強の支度をしていた。武志はこの時ふと、照夫の顔を見て何か頼みたいものがある事を思い出した。
「・・・そういえばロボットの光線が真っ直ぐ出ないから小父さんが治してもらえと言っていた・・・」
武志は敷島湯から帰って来て風呂場に戻した洗面器の中から急いでマグマ大使ロボのジョウロを取りに行った。それを照夫に見せながら、左手の指先光線が真っ直ぐ出ない事を説明した。
ジョウロを手にした照夫は武志の言うその左手をジッと見て直ぐさま悪い箇所を見つけ出した。さすがに自動車の整備工をしているだけの事はあって照夫のこういう時の眼力は確かなものだ。
「武志、此処をよく見てみろ。一番左の穴だけ小さいだろ。だでキレイに出んぞ」
照夫はそう言って飯台の上にある楊子立てから爪楊枝を一本取り、ロボットの左手にある指先光線が発射される小さな穴をグリグリっと広げた。
「どうだ武志、これで多分良いぞ」照夫は自慢げにロボットの治した所を武志に見せた。武志は指先光線の出具合を早く確かめたくてジョウロをお勝手場へ持って行き水を入れて指先光線を発射させてみた。すると照夫の言うように10本全ての指先光線がきれいに出ている。武志は嬉しくてうれしくて何度も何度も水を入れて繰り返した。正に大満足だった。武志は納得したのでジョウロを持って照夫の隣に戻り「照夫の伯父さん、ありがとう」とお礼を言った。
「武志、何でもな 理屈が有って今が在るんだ。だからよく考えたら解るんだぞ いいか 覚えとけよ」
照夫は何時もこのようにしてちゃんと説明をする人である。
だがこの時、既に武志は思いを違うところに持っていた。正春が寝る前に言った〈お父さん〉という言葉がどうしても気になるのだ。武志はこの際だからという気持ちで照夫に聞いてみようと思い、勇気を出して言葉にした。
「ねぇ お父さんって だれなの? お父さんって、いいもの?」
武志の突然な言葉に空気が凍り付いたようだった。少しの沈黙の後、飯台に、戻った奏子が口を開いた。
「あんた 誰に聞いたの?」
そう聞かれた武志は実は次の言葉を用意していなかった。その時少し離れたところに小さなテーブルを出して勉強していた数美がノートから目を離す事なく言った。
「あんたのお父さんはねぇ」
「数美っ!」その数美の言葉を遮るように照夫が叫んだ。それに続いて奏子がゆっくりとした口調で諭すように話出した。
「武志、あんたのお父さんは いないの。あんたにはお父さんは いないの。解るよね?」
「何で僕のお父さんいないの?いなくていいの?」武志は少しパニックになりながらも理解できない大人達の言葉を理解しようとして問い掛けた。
しかし奏子の口から出た返事は「何でも、どうしてもいないの」だけだった。
武志は、もうそれ以上聞くのを諦め「僕もう上に行く」と言って正春が寝ている座敷へ上がった。正春の座敷へ入るとさっき小玉電球にした時より部屋が明るく感じた。正春の寝顔の表情がよく解るほどだった。それは武志の目が慣れたというより何か神経が普段より鋭敏になっていてからなのかもしれない。武志は正春が覚めないようにそっと静かに布団を捲(めく)った。
「武志っ たけしっ」
その時入口の向こうで奏子の声がした。「なんだ?」と思い武志は奏子の方へ近付き「お婆ちゃん なに?」と聞いた。すると奏子は小声で「武志、今日はお婆さんと寝なさい」と言って武志を呼んだ。
居間へ下りると飯台は片付けられ布団が三床敷いてあった。武志は先程数美が言いかけた言葉を一瞬思い出して彼女の顔を見たが数美は「じゃあ私は二階で勉強するで上行くね」と言って階段を上って行った。
「武志、今日は俺と寝なさい。いいか お寝書するなよ えか?」照夫は笑いながら冗談を飛ばし武志のパジャマをポンっと投げよこした。武志はパジャマに着替えトイレに行こうと思うのだがトイレは居間を出て土間から真中ショッピの裏口へ出た屋外にある。気が小さくて怖がりの武志は一人でトイレに行けないのだ。
「誰か 付いて来て」武志が困っていると
「照夫、付いてってやりゃあ」と奏小が助け船を出してくれた。
「よし、俺が一緒に行ったるわ」
照夫は〈早よ 来い〉という手招きをして武志をトイレに連れて行った。
「よーっく搾(しぼ)っとけよ」
照夫は、余程武志のお寝書を警戒していたのだろう。
布団へ戻り、土間から見て奏子、真ん中に武志そして奥に照夫という並びで寝る事にして蛍光灯を消した。時刻は(多分)10時位で、普段なら武志は眠たくなる時間である。
しかし妙に頭が冴えてなかなか眠くならない。
「ねぇ お婆ちゃん、お父さんっていう人さぁ、みんな知ってるの?」武志が問い掛けると奏子は信じられない答えを言って返した。
「あのねぇ 武志のお父さんは死んだの。あんたが生まれてすぐに死んじゃったの。だからいないんだよ」
「死んじゃったの? どうして? 死んじゃったらいなくなるの? イヤだよそれじゃあ。ねぇ どういう人なの? 太志(ふとし)くんのお父さんはあのバナナ屋さんのおじさんでしょ?じゃあ僕のお父さんは照夫の伯父さんでもいいの?ねぇ」
武志は必死に喰いついたが同時にどれだけ聞いても自分の納得出来そうな話ではないらしい事も薄々感じていた。だからそれ以上聞くのをやめた。
「武志、お前はなぁ 可哀想だけどよぉ お前には俺や数美がいるんだで寂しくないんだぞ。 お爺さんだってお婆さんだっているんだから考えてみたら幸せかもしれんぞ。もしよぉ お父さんがいたら困ったかもしれんのだぞ。だで もうお父さんの事は忘れなさい」
照夫は奏子の言葉を黙って聞いていたが武志にこの事を言っておきたかったのだろう。そう言い終えると
「明日、お母さんが帰って来るから楽しみにして寝なさい」と言って武志に布団を掛けてくれた。武志は布団に深く潜り、やはり解らない(お父さん)というものの正体を夢みて眠りに就いた。
「・・・明日再会する母は暖かいだろうか・・・・・・」
第一話「敷島湯と前夜の夢」
第二話「偽りの真実」
「武志! た―け―し!」武志は自分を呼ぶ声で目が覚めた。それは紛れもなく母の声だったが武志の周りには誰もいない。奏子と照夫が寝ていた布団も片付けられていた。武志は起き上がり、トイレに行こうとして立ち上がると後ろの部屋からカタカタと物音がしている事に気がついた。
(・・・お爺ちゃんだ・・・)
後ろの方というのは正春の現像室の事で、カメラを一番の趣味としている彼の作業場である。正春の写真の腕前は相当なもので、近所のカメラ屋の主人達と対等の話をする程であった。カメラのコレクターとしてもその保有台数は10台を軽く超えていた。武志は、正春があの部屋に入ると暫く出て来ないという事を知っていたので(また昼ご飯の時に部屋の中へ行かなくちゃ)と少し不安になった。と言うのは、この部屋を暗室にしている正春は武志が呼びに来る時に入り込む外の光を大変嫌うからだ。武志が入口の遮光布を不用意に開ければ即座に叱られるのである。
では正春はどのような写真を作っているかと言えば主に家族の写真が大半なのだが、面白いのは武志や武志の従兄弟にあたる紀を写したフィルムで合成写真を作る事だ。武志は、あれこれ迷ったが自分が寝ていた布団の片付けの事もあるのでその入口の遮光布の外から大きな声で言った。
「お爺ちゃん、起きたよ」
「おうっ 起きたか、ちょっと来い」
(何だろう?)武志は少しだけ勇気を出して中へ入った。現像室の中は壁から張られた紐に沢山のフィルムが垂れ下がり、頭を低くして歩く格好で正春の腰元に寄った。
「武志、この前なぁ 道徳公園の池まで自転車で行っただろう? その時の写真だ」
「うん、東(あずま)のおじちゃんの池に行った時?」
「おう、その時 ボートの上で写真撮っただろう それが これだ」
正春はそのネガフィルムを投影機にセットし、壁に掛けてある白いスクリーンに映して見せた。
「うわぁ これ僕?」
「もう少しバックがボケてお前の顔がハッキリすると良かったけどな。でもよぉ これを カメラ屋に見せたら
「『こういう写真はこれで良いんですよ』って言っとったで まぁ いいか・・・」
武志には何の事か解らなかったがその写真に正春が満足しているという事だけは理解で来た。職人はこういう良い仕事をした時に限って心にも無い反省材料を無理やりに作るものである。そして他人に「そうではない」と言わせて自分の仕事を肯定するのであろう。職人としての正春の評価は彼が三菱重工でのエンジン組み立て工場在籍時代にある。太平洋戦争の最中、彼はその技量の高さを見込まれ航空機戦の最前線だったサイパン島へ内燃機整備兵の主任として赴任した事もあった程である。目が利き、作業が素早くそして正確だったらしい。しかし、そのお宝の目と足の負傷はその戦地で受けたものだった。彼は内地に戻り再び技能者としての再出発を期するが如何せん技能者としての生命線である目の負傷は正春の希望を無残にも打ち砕いたのだ。それに加えて一億総玉砕が謳(うた)われた時代に、戦地から生きて戻って来たという汚名を背負う事にもなったのである。
戦後、動乱の時代に彼が道徳の町でテキ屋家業を営む事になったのは或る意味で自然の成り行きだったのかもしれない。敗戦後、ダグラス・マッカサーが最高司令官として敗戦国日本を治めたGHQ(General Headquarters)が入って来て町の治安は表向きこそ安泰に見えたが、実際に地域の生活者達を纏(まと)めるだけの実力者が必要であった事は間違いないだろう。ましてその時代、道徳は下町でありながらもその先方には名古屋港が在り、正春が務めた三菱重工をはじめ、住友、愛知、更には大小の造船所が建ち並ぶ大工業地区の隣町である。当然の事ながら「終戦」という時代の突然変異に取り残された形となり、日本に住する事となった在日外国人の方達との様々な揉(も)め事を力づくで押さえ込む事を必要とされたのも事実だったのだろう。そのような時代にあっても道徳の町をこよなく愛した正春の人生もまた、迷い多き孤独な人生だったのかもしれない。
滅多に見る事のないネガフィルムに目を走らせる武志に正春が問い掛けた。
「武志、もうじき 秋子が帰って来るけど何が一番したい?」
「んー 何かなぁ お母さんと二人で写真撮ってくれる?」
「そうか 写真撮って欲しいか? んっ わかった」
正春の喜びそうな答えを考えていた訳ではないが武志の嗅覚は正しかった。正春を破鼻顔笑(はびがんしょう)させた武志会心の一打であった。そこへ奏子がやって来て入口の向こう側で武志を呼んだ。
「ちょっと 武志、今さぁ 秋子から電話があってよ もうすぐ帰ると」
「えっ? 今 お母さん どこなの?」
武志は喜んで暗室から飛び出した。
「こら武志!急に出るなぁっ」と正春が叱ったが武志はそれどころではない。武志が慌てるのは他でもない。武志はあのマグマ大使ロボを秋子に見せたいと思っているのだ。秋子が帰って来たらあのマグマ大使ロボを見せて、それをお爺さんに買って貰った事を話せばお母さんはきっと喜ぶだろうと思っていたのである。何時も武志が心から欲しいと願うのはたった一つだけだった。それはなにも言わず只、自分を見て笑ってくれる母の暖かさであった。この時、武志はまだ3才である。そして何故かこれより以前の思い出を全く持たない武志の人生が始まったのがこの頃だろう。
「ねぇねぇ、もうすぐお母さん帰って来る?
ねぇ、お爺ちゃん、昨日買って貰ったロボットさぁ、お母さんに見せて良い?」
「おっ? 良いぞ。今日はお風呂屋さんワシは行かへんで秋子と行って来い」
「じゃあロボット持って行っても良い?」
「おう、持ってけば良い」
「お爺さんに買って貰ったって言やぁいいわな?武志」
と言う奏子の思いも多分、武志の考えている事と同じであったのだろう。
奏子は武志の顔を見てニッコリと微笑んだ。
「ガチャン」
暫くして玄関の方で扉が閉まる音がした。
「・・・あっ お母さん帰って来た・・・」
武志は急いで玄関へ走ろうとしたが奏子が笑ってそれを止めた。
「待ってなさい。走るとまた足が痛くなるよ、ちゃんと帰って来るで待ちなさい」
実は武志には持病があり、走ったり長い時間歩いたりした後に必ず左足首が痛くなるのだった。奏子が武志を静止したのは秋子が帰って来るせっかくの日に足が痛くならないようにと慮る(おもんばかる)為だ。〈現代では斜頸(しゃけい)と言うらしいが、武志が生れた昭和30年代では首から下へ伸びる左右の腱の長さが異なる体質の事を「カタワ」とか、「チンバ」等と呼んでいた。勿論、今の時代ならば差別用語と言われるが当時は影で普通に言われていた言葉である。具体的には、体の左右の腱の長さが違う為、普段の立ち姿がなんとなく傾いているのである。それは注意して見ている人であれば例え当人が大勢の中にいてもすぐに認識できる程度である。そしてその腱のアンバランスは成長の速度にも顕れる為、ストレスを蓄積する短い方の何処かに痛みを生ずるのである。その痛みとは体験者の言葉を借りれば「痛い所を無理やりに引っこ抜かれるような痛み」だそうである。
武志は待ちきれないばかりの思いをぐっと押さえながら部屋の視界ギリギリの所を見つめて待った。次の瞬間、あの暖かな母の顔がこちらを覗いた。
「ただいまぁー 武志、タダイマー」
「・・・」
武志は言葉を返す事なく但、「んっ!んっ!」と嗚咽するだけである。知らない間に顔は涙で濡れていた。「男は泣かない」という掟などもう関係ない。武志は泣いた そして泣いた。
その時、武志の頬に暖かい感触が触れた。母 秋子の両の掌である。いつも感じたあの感触である。いつも自分の足を擦ってくれたあの手の感覚だ。武志は顔を上げた。目の前には間違いなく明るく元気な、そして夢に見た母の顔があった。
秋子は風呂敷に包んだ大きな荷物を置き「ふうっ」と一つ大きく息を吐いた。
そしてグリコのキャラメルを武志の手に渡した。
「はい おみやげ」
秋子は何かを話そうとしているようだがそれ以上言葉が出ないのか、武志がグリコのキャラメルの包装を開く様子を黙って見ている。暫く沈黙が続き初めに照夫が口を開いた。
「武志、良かったな。なぁ ちゃんとお母さん帰って来ただろ?」
武志は「うん」と返事をしてすぐに「あれ?」と思った。
どういう事かというと、それは秋子と照夫は一緒に中へ入って来たからだ。
「お母さん、 照夫の伯父さんと来たの?」
そこへ奏子が割って入ってきた。
「あんた達 どこで一緒になったの?」
「んっ?いやぁ 今朝よぉ、3丁目のお客さんの家に車を持ってってよぉ その帰りに6丁目の信号で姉ぇちゃんが立っとるのが見えたで、そこから乗して来たがや」
「ほーうか、そりゃあ偶然だったなぁ。ほんでぇ? 秋子、あんたタクシーで帰るって言っとったでぇ、 てっきり 一人で帰って来ると思っとったがね。ほんだけどよぉ、 まぁ、これからは 呑んだら いかんよ、 えか?あんたには幸い 子供もいるんだでな」
どうやら照夫は早朝から客先への納車を済ませた帰りに秋子と偶然出会ったと言うのだが、それが本当の事ではないと感じていたのは武志だけではない。武志の立場で言えば、おみやげと言いながらも秋子が買ってきたグリコのキャラメルは武志の好きなお菓子ではない。秋子が買ってくれるのは何時も不二家のペコちゃんだからだ。秋子は、武志が好きなお菓子は冠にオモチャのおまけが付いているペコちゃんだという事を知っている。だから武志は直感で「違う」と感じた。
一方、奏子から見れば「タクシーで帰る」と言った秋子は数か月も病院にいて、タクシー代など残っていない事は分かっているし、今日は土曜日である。照夫が客先に車を届ける事も、更には一人で納車をした後、どうやって自分の車を6丁目まで運転したのかも、全てが不自然なのだ。しかしこの後、誰もその事には触れずにいた。おそらく、全ては照夫が気を遣って行った事であろうし、お菓子を買ってくれたのも照夫だったのだろう。
「母ちゃん、父ちゃんは?」秋子は正春の姿が見えないのが気になった。
「お爺さんは、さっきカメラ持って出かけたがね。そのうち帰って来るわさ」
「ねぇ お母さん、今日ねぇ お爺ちゃんが写真撮ってくれるよ。さっき僕 聞いたもん」
「ほんと?ほんなら フィルム買いに行ったかな」
「ほんじゃあ あんた達 お爺さん帰って来たら二人で撮って貰やぁええが、 なっ?」
「でさぁ秋子ぉ、まぁ 病院は嫌だわなぁ?」いよいよ奏子は本題を切り出した。
「まぁよぉ 姉ちゃん、あんまり酒呑むなよ、なっ。武志だって姉ちゃん居らんと肩身の狭い思いをしとるでよぉ」照夫も重ねて言った。
「いやぁ、私はもう呑まんよ」
秋子は入院した松陰病院精神科病棟での生活が余程辛かったのか、自分のその言葉を自身に言い聞かせるように言った。大人達の会話を黙って聞いている武志には、秋子が突然いなくなった訳がうすうす理解できた。
「・・・やっぱりお母さんは病気になってたんだ。僕を捨ててどっかへ行ったんじゃなかったんだ・・・」
「武志、ちょっとここへおいで」
秋子は自分の膝をポンポンと叩いて武志を呼んだ。武志は言われるままに秋子の膝に乗り、顔を胸に付けた。久し振りの母の匂いだ。初めは冷たかったが直(すぐ)ぐに体全部が秋子の温もりに浸っていった。
「武志、お母さん お酒臭い?」
「ううん、ないよ。なんか石鹸の匂いがする」
「わかる?お母さん朝ね、お風呂入ってきたから」秋子は退院する前に入浴を許可されたのだった。
「なぁーんだ、今日はお母さんと一緒にお風呂屋さん行くのにぃ」
武志は残念がった。「行くよ 行くよ、じゃあ一緒に行こ」
武志は、秋子の顔をしたから見上げて甘えた。が、以前の秋子と何処か違っていると感じた。(なんかちがう・・・ちがう)武志は体中の記憶を手繰(たぐ)り寄せて考えた。そして答えを突止めた。それは秋子の体が震えていないということだった。いなくなる前の秋子に抱かれた記憶では秋子はいつも体を小さく震わせていたのである。しかし今、秋子の体に密着している武志がその震えを感じる事はなかった。この時武志は秋子の病気が本当に治った事を理解した。
「母ちゃん、わたし仕事したいで、明日から仕事探すわ」
「ほんっ、ほんで何やるだ?」
「うん、病院で一緒の作業班だった琴(こと)ちゃんが東洋レーヨンに行っとったんだと。ほんで私に『あんた先に退院するんだで東レに行きゃあ』って言ってくれたんだわね。その子はノイローゼで入院しとったんだけど私は違うでね。だで明日、電話してみるわ」
秋子は自信有りげに言ったが奏子は少し間を置いて
「あんた明日は日曜日だよ、また酔っ払っとるのか?」奏子は実に容赦ない。
「あっ、そうだ明日は休みだ。じゃあ月曜日に電話する」
秋子は笑いながらそう言った。武志は奏子の言い方に少し腹が立ったのか、勢いをつけて秋子を庇(かば)った。
「お婆ちゃん、お母さんは病気治ったよ、だって震えてないもん」
「ほうかほうか、わかった。あんたが言うなら間違いないわな」
奏子は少々呆れていたようであったが、武志の語気に押された。
「お母さん、ねぇ 仕事行くとまた帰って来ないの?」武志は、また秋子がいなくなるのではないかと心配だった。
「ううん、仕事はねぇ、朝行って夕方帰って来るよ」
「ぜったい?」
「うん、ぜったい」
それを聞いて武志は安心した。
武志にとって秋子のいないこの家には、本当の居場所がなかったのである。そのような生活は幼い武志にとって、やはり孤独以外の何ものでもなかった。
「・・・おーい、秋子 帰って来たか?・・・」その時、土間の外の方から正春の声がした。
秋子も武志も自然に座を整えていた。正春は居間に入り秋子の顔をジロっと見る。秋子は一瞬、目を逸らしたが直ぐに正春の顔を見た。
「おーっ?秋子、さっぱりした顔で帰って来たな」
「うん、父ちゃん、ただいま」
「おう、お帰りなぁ秋子」
「父ちゃん、私ね、今度から東洋レーヨンで働くでさぁ 」
「ふうーん、で、誰か知っとる人が居るんか?」
「うん、病院で一緒だった子が紹介してくれるの」
「だけど何で急に働く気になった?」
「だって武志も今年から幼稚園か保育園に行かせないかんが? この子は保育園に行かせたいけど私が仕事しとらな行けんがね」
「ほうそうか。あれ?そういやあ、万(ま)知(ち)子(こ)の紀(おさむ)も今年からだったなぁ? 奏子、万(ま)知(ち)子(こ)は紀をどこの保育園に行かす言っとった?」
「お爺さん、紀は九条保育園に入れるんだと。九条町の喫茶店の所に今度新しく出来る母子寮と一緒に保育園も建てるらしいわ。あの子ん家からなら歩いて一分だでええわなぁ」
「ほん 母ちゃん、万知子は北村合板で働いとるで保育園に入(はい)れるんだけど武志は私が働かんと幼稚園行かないかんでしょう?ほんだで私働きたいの」
秋子は入院中にあっても武志の事を考えていたらしく働く意欲はどうやら本当だった。万知子は秋子の次妹で紀は万知子の長男である。これから先、武志と紀は双方が誠に数奇な運命を辿る事になりながらも二人の将来は全く正反対の形へと変わって行く。紀は武志の一つ年上でこの時4歳である。何時も万知子が棚本の家に寄る度に二人で遊んでいるとても仲良しである。弟がいない紀は武志を自分の弟のように可愛がりまた武志も紀の事を兄のように慕っていた。そのような事情もあって秋子は紀が通う事になる九条保育園に武志を通わせたかったのである。
「秋子、お前もう酒は呑まんのか?病院じゃ一滴も呑めんかったで久し振りに呑みたいだろう?」
「いや、もう呑まんて決めたもん。もう私は嫌だでね。ところで父ちゃん、今何処行っとったの?」秋子は話題を切り替えて正春に聞いた。
「おっ?おう今カメラのレンズ買いに行って来たがや。武志がお前と二人で写真撮って欲しい言っとるでよぉ、今日はお前の退院の日だで記念によ、新しいレンズで撮ったるわな」やはり秋子の退院が正春もそれなりに嬉しいのだろう。
「おい奏子、昼飯はどうする?何か買ってくるか?」
「そうだね、武志は何が食べたい?」
「何でもいいよ」武志は食べ物に関してはあまり注文を付けないので何時もそう答える。
「秋子、じゃあ隣りで何か買って来い」正春はそう言って秋子に二千円を渡した。
「父ちゃん、お昼買うならこんなに要らんよ」秋子は貰った二千円から千円を返そうとしたが正春は手を横に振って〈要らない〉とやった。
「いいがや、余ったら武志に何か買ってやれ」正春もさすがに親である。秋子がお金を持っていない事ぐらい、お見通しだった。
「わぁ、やった。ねぇお母さん、今日さぁ 一緒にお風呂いくよね?そしたらさぁ、買って欲しいのあるもん」
「なんだぁ武志、お前昨日ロボットのシャワー買ってやったがや。まだ他に欲しいのか?」正春は武志の方へ顔を大きく突き出した。
「いかんて、お爺さん、武志がまた怖がるがね、なぁ武志」
奏子は武志の頭を抱き抱える様にして庇(かば)う格好をしたが正春も奏子も、もちろん冗談である。
「武志、何が欲しいの?それお風呂やさんに売っとるの?」
「うん、あったけど・・・」そこで武志は言葉を止めた。
今の正春の言葉が怖くてそれ以上話せなくなってしまったのだ。
「何ぃ武志、言い掛けたら最後まで言わないかんがね。あんたお爺さんがさっき言った事が恐いの?」
「・・・」
「お爺さん怒らんでいいから欲しい物言ってみぃ」秋子は俯(うつむ)いている武志の顔を下から見上げた。
「あのねぇ。かいじゅう」
「怪獣?」
「うん」
「昨日お爺さんに買って貰ったんじゃないの?」秋子は更に聞こうとした。
「昨日のはねぇ イイモンなの。だけどワルモンが居らんで闘えんの」
「あっそうなの?」武志が、やっとの思いで話すとようやく理解されたらしい。
「ほんなら秋子、あんた今日行ったら見てやりゃあね」
奏子は微笑んで武志の顔を見ていた。そうして秋子帰宅の話は終わり、それから武志と秋子は隣り、つまり真中ショッピにお昼ご飯の買い出しに出かけた。
中へ入るとお店の小父さんや小母さんが声を掛けてくれた。
「あれーっ秋ちゃん、退院したの?あーっ武ちゃんよかったねぇ今日はお母さんといっしょだねぇ」
「よっ!武志、おっかさんと買い物か?」
「おうっ、姉御、治ったんか? よかったねぇ」等々、秋子にも武志にも皆が声を掛けてくれた。
この真中ショッピは、その一昔前、貧しかった棚本家の家計を助ける為に秋子が七歳で置き屋に身売りをして造ったものである事をこの市場の人達は知っていたのか、そうではないのか、それは判らないが少なくともこの真中ショッピは秋子の功績無くしては存在しないものである事は分かっていたらしい。それは秋子の弟や妹達も同様であった。「秋ちゃん、何が欲しいの?」天ぷら屋の大将が言う。
「そうだねぇ、白身を6個ちょうだい。幾らになる?」
「いいよ、持ってっていいよ」
「いいの?悪いねぇ」
「気にするな、いいから」
また、乾物屋では
「おいっ秋ちゃん、今年から武志は幼稚園だね。まぁ何にもあげれんけどこれ食べてよ」と、お兄さんがチリメンジャコを袋に入れて武志の手に渡してくれた。こんな感じで真中ショッピをグルリと廻り終えると買い物籠は一杯になった。しかもお金は殆ど払っていない。
「武志、何か得しちゃったね」と秋子は背を低くして笑っている。乾物屋を過ぎて出口に向かうと肉屋さんの前に来た。武志は作りたてのコロッケが並んでいる棚を見上げ、思い出したように言った。
「ねぇお母さん、数美姉ちゃんがねぇ、いつも僕にコロッケを買って来いって言うんだよ。僕は一個貰うけど、あとはみんな数美姉ちゃんが食べちゃうの。そしたらねぇ、お爺ちゃんが『そんなにコロッケ沢山食べるとデブになるぞ』って言うんだよ。何でデブになるの?」
「ははは 武志もコロッケ沢山食べると早く大きい子になれるかな?食べたい?」
と秋子は笑って
「すいません、コロッケ10個下さい」秋子がコロッケを買ってくれた。
「幾らですか?」
「あれっ?秋ちゃんじゃない?久し振りだねぇ。なにぃ、どっか行っとったの?」
どうやら肉屋のおばさんは、秋子の事をよく知らないらしい。それとも大人特有の(知らないふり)なのか武志にはそれとなく判ったが敢えて気にしない素振りで通した。
「350円だけど何時も武志君に買いに来てもらうから300円でいいわ」
「わあーぁ、武志、まけて貰ったよ。ありがと」
秋子はお金を支払うと受け取ったコロッケを右手に持ち、それから二人は外へ出た。
結局、まともに代金を支払ったのはこの肉屋さんだけで、正春から貰った二千円は殆どが残った。
真中ショッピは泉(せん)楽(らく)通りに面しており、日中から夕方にかけて大勢の人達で賑わう。道を挟み向かい側には「泉楽パチンコ」と「太陽パチンコ」の2軒が並んでおり、そのすぐ北側には道徳のメインストリートと言われる道徳通りが東西に走っている。道徳通りは東で知多(半田)街道、そして西では南洋通りに結ばれている。その知多街道と南陽通りに挟まれ、南は山崎川そして北側は南陽通りの中京病院辺りまでの範囲を道徳の町と呼んでいる。また、徳は過の伊勢湾台風で甚大な被害を受けた地域であり、その復興工事で県外から沢山の人達が転入して来た事もあって「小さな日本」と言う人もいる。
労働者達が集う食堂や居酒屋、喫茶店をはじめ、床屋や娯楽施設も非常に多いというのが道徳の特長である。またこの昭和40年代において道徳には3箇所の映画館が在り、
パチンコ店に至っては4箇所も在った程である。おそらくこの時代での人工密度は名古屋市内でもトップクラスだったのではないだろうか。
そんな町、道徳のど真ん中に在ったのが真中ショッピだった。秋子と武志は買い物を済ませ再び棚本の家に戻り、昼食の時も積もる話をして過ごした。夕方近くになり、正春が秋子と武志の二人を写真に撮ってくれると言うので三人で秋子の部屋に上がった。正春はお気に入りのヤシカに新しく買った望遠レンズを装着し武志達にいろいろポーズをとらせる。
「秋子、もっと笑え 自然な感じだぞ。武志、こっち向け。よーっし、動くなぁっ」といった感じで一時間近くに渡り撮影会は続いた。秋子に抱っこされたり、顔と顔をくっ付けたり、それは武志にも秋子にも誠に幸せな時間であった。正春がお昼の買い物にとくれた二千円よりもこの撮影会こそが正春の本当の退院祝いだったのかもしれない。
この時の写真を武志は生涯大切にした事は言うまでもない。
そして夕食の仕度が始まる頃、奏子が武志と秋子にお風呂屋さんへ行けと言ってくれた。武志は喜んでお風呂場へ洗面器を取りに行った。もちろんマグマ大使ロボも入れた。秋子は武志の着替えを用意し、武志が持って来た洗面器の上に乗せたがそれを見て武志は「あれ?」と思った。何時も正春が用意する時より何だか多いのである。武志はその大きなお山をみて秋子に聞いた。
「お母さん、どうしてこんなにいっぱい持ってくの?」秋子はそのお山になった洗面器を風呂敷で包みながら答えた。
「なんでぇ? お母さんのお着替えとお前のお着替えだろ?そんで体洗うタオルとバスタオルが有るだけだよ」
武志は不思議がり、さらに聞いた。
「いつもこんなに持って行かないよ」
「だけどバスタオルは要るがね。持ってかないの?」
「うん、手拭いは一個だよ。」
「じゃあ、どうやって体を拭くの?」
「僕の体を拭いてくれてからお爺ちゃん自分で拭くよ」
「ほんとぉ、でもお母さんと行く時はこれでいいの。早(は)よ行こか」
秋子はそう言って立ち上がった。棚本の家を出て秋子は武志の手を引きながら左に曲がって正春の行く道とは一本違った道を歩いた。敷島湯へ行くには遠道になるので武志は再び「あれ?」と思った。
「お母さん、どこ行くの?」
「うん武志、こっちから行くとね山忠さんがあるで少し寄ってくわね」
と言って秋子は角の造り酒屋に入った。酒屋の中には立ったままお酒を呑んでいる小父さん達がズラリと並んでいる。その後ろから秋子が「すいませーん」と声をかけると、真ん中の丸い輪の中に「忠」と書かれた前掛けを腰に巻いたおじさんが出て来た。
「おうっ、棚本さん。どうだね?」
「ふん、私ね、入院しとったで来れんかったでさぁごめんね」
秋子はこの酒場の常連客だったようである。武志は、この初めて見る嫌な雰囲気に何故か自然な対応をする秋子を見て少し驚いた。その場にいるお客さん達はそれぞれが只、楽しくツマミを取りそしてそれぞれが友との会話を楽しみながら好きな酒を呑んでいるだけであったが武志にはその雰囲気が生理的に受け付けないものだったのである。
「でさぁ、おじさん。私の帳面幾ら残っとる?」秋子はこの酒屋に残している「ツケ」の残金を聞いた。
「何?」武志はキョトンとしてその会話を聞いている。「えーとね」と言いながらおじさんはカウンターに掛かっている帳面を素早く捲(めく)り「千二百円だね」と言ってその帳面を見せた。秋子はその帳面を見ながら何かを一つずつ確かめる様に小さく頷(うなず)いている。「あっそうか、去年の12月20日に小瓶をもらったのが最後だったね」
「そうだね、あれから他のお客さんから秋ちゃんが入院したって聞いたで心配しとったがや。で?今日も要るの?」
お店の主人はウィスキーのポケット瓶を一つ手に持って秋子に見せた。武志は、お店のおじさんが言った「小瓶」がそれである事、そしてここで売られているものが正春の好きなウィスキーと同じ様なものである事を理解した。
秋子は少し考えてから
「私、お酒やめたから。だで今日は残ったお勘定払っていくわ」
「あっそうかい? じゃあ寂しくなるねぇ。でも秋ちゃんは飲み過ぎちゃうでなぁ・・・、止(や)めたが正解かもしれんなぁ」
お店の主人は残念そうだった。秋子はそこで千二百円を払い、店の外へ出た。武志も主人にペコリと頭を下げて外へ出た。今から行く敷島湯へは、角にあるこの酒屋を左へ曲がり一つ目の大きな道が道徳通りなのでそのまま横切って渡れば良い。それから武志と秋子はゆっくりと歩いて敷島湯に着いた。暖簾(のれん)を潜(くぐ)り番台の前に来た時、武志は窓枠にぶら下げられている二体の怪獣を見上げた。
秋子は「おばちゃん、久し振りだねぇ」と言って入浴料金を払った。
「武志、あんたの言っとる怪獣はこれ?」秋子は二体有るうちの首が三つある方を指差した。
「違う、こっちの牙が長いヤツ」
武志は二本足で立つ三つ首怪獣ではなく四本足の方の、大きな口から長い牙が生えている怪獣を指差した。
「じゃあ、おばさん、これ下さい。 足りたタリタ」
武志には意味不明だが秋子はそう言って怪獣を受け取ってくれた。そしてそのまま脱衣所へ入った。久し振りに入る女湯であるが武志は幼いながらも少し恥ずかしかった。小さくてもやはり男子である。浴場へ入り、体を流して先ず大風呂へ入った。次に中湯へ行こうとした時、偶然にもミヨちゃんに会った。ミヨちゃんは泉楽パチンコの裏にある長屋に住んでいる女の子で武志とは同い年だ。奏子の友達の関谷さんの孫娘である。ところがミヨちゃんは武志の顔を見るなり
「あーっ、武ちゃん・・・」と言ったまま黙って下を向いてしまった。
武志と同じで彼女も恥ずかしいのだろう。しかも近所の友達なら尚(なお)の事である。
「ミヨちゃん、お母さんと来たの?」秋子がそう尋ねると
「うん、あっち」と言って中湯を指差した。
「あれぇー関谷さ―ん、久しぶりだね」
「あぁっ棚本さん、あっ武志君も一緒に来たのぉ?」このような大げさな挨拶の繰り返しだが、まぁ仕方ない事である。そうして皆で中湯に入りミヨちゃんが道徳幼稚園に行く事や武志を保育園に通わせる為に秋子が東洋レーヨンで働くつもりでいる事、それから病院での生活、更に武志の足の痛みの事などを話し合った。
「じゃぁミヨちゃん、幼稚園頑張ってねぇ」
「武志君も紀君と一緒に行けるといいね、じゃあね」
武志とミヨちゃんは結局最後まで何も話をする事は無かったがそれぞれの母親達は、いろいろと情報を取り交わしたようであった。この時代の銭湯は、それこそあちこちでこのような庶民の会話が為され、誠に社交の場と呼ぶに相応しいものであった。それから武志と秋子は洗い場へ移動し秋子は武志の体を洗った。
「武志、お母さんがいない時さぁ、お婆さん達 何か聞いた?何を聞かれた?」
「何も聞かないよ。・・・あっ 昨日ねぇ、僕のお父さんの話を聞いたよ」
「誰に?」
「お婆ちゃんが僕のお父さんは死んじゃったって言ってたよ」
「ふーん・・・」
秋子はそれでその話を止めた。
「武志、お母さん 今から体洗うでこの怪獣で遊んでて」
そう言うと秋子は髪を洗い始めた。武志は石鹸で怪獣を泡だらけにしてマグマ大使ロボの指先光線でその泡を洗い流したり、湯船のお湯をバシャバシャ掛けたり、また湯船に沈めたりして遊んだ。そうしている間に怪獣が段々と重くなってきた。知らない間に怪獣の中にお湯が入ってしまったのだ。武志にはそのお湯をどうやって出せば良いのか解らず、困ったまま秋子が戻って来るまで待っていようとしたが、そこへ一人の若い女性がやって来た。その女性は数美姉ちゃんと同じくらいの歳で、とても美しかった。彼女は武志の所へ来るといきなり怪獣を取り上げ「ほらっ」と勢いよく声を出したかと思うと怪獣の足を「ポコン」と千切ってしまったのである。
武志は「あっ!」と驚いたがその女性のあまりの見事な手捌(さば)きに唖然(あぜん)としてしまった。「ねぇ お姉ちゃん、怪獣壊れたね」
武志は怒りと驚きの両方が入り混じった感情を押さえ、そう聞くのが精一杯だった。
「僕さぁ、名前 なんて言うの?」女性はニッコリ笑いながらその千切れた怪獣の足を武志の鼻に向けて言った。武志が気にしている怪獣の足が壊れた事など全く気にする様子は無い。
「棚も・・・」と武志が言いかけると
「あーっ、やっぱりぃ?」武志が返事を終える前に何だか女性は感激したようだった。
「お姉ちゃん誰?」少し怒りながら武志が聞いた。
「僕さぁ、タケシでしょ?市場の子だよねぇ?」何故か女性は武志の事を知っているようだった。
「うん。僕武志だよ」武志がそう答えると女性は怪獣をブンブン振り回して中に入ったお湯を出してくれた。そして怪獣の千切れた足をこれまた「ヨッと」と言いながら元通りにしてしまった。武志にとってはまるで手品を見ているようだ
「じゃあ 僕が数美の弟なんだねぇ、カァワイイ」
可愛いと言われ武志は少し照れながら、その元の姿に戻った怪獣を受け取った。
「お姉ちゃんは数美姉ちゃんのお友達?」と武志は聞いた。
「そうだよぉ、数美と親友なんだぁ。でさぁ、数美は?」
「いないよ、お母さんならあっちにいるけどね」
武志がそう言うと女性は立ち上がり「じゃあね、またね」
と言って大風呂へ入りに行ってしまった。その少し後、秋子が戻って来た。
「今のお姉ちゃん誰なの?」秋子はチラッとさっきの女性の方を見て武志に聞いた。
「なんかねぇ、数美姉ちゃんの友達って言ってたよ」
「ふーん、なら大江中学校の子だね。さっ早よ入って出よっ」
武志と秋子は大風呂に入った。さっきのお姉ちゃんはもう出た後らしく湯船にはいなかった。秋子は暫くの病院生活の垢を洗い流し、気持ち良さそうに漬かった。
「武志、数 幾つまで数えれる?」
もし相手が和美や正春であれば武志には実に嫌な時間だが今日の相手はお母さんなので安心だ。
「うんうん、僕ね数美姉ちゃんとお風呂入る時ねえ、10まで数えないと出れないよ。
でねぇ、それをねぇ 何回もするの。だから10ならできるよ」
「ぜったい?」
「うん 命賭ける」武志はこの頃近所の友達仲間の間で流行っている言い回しを秋子に聞かせた。
すると「あんた何処でそんな言葉覚えるの?」と秋子は呆れたが内心ではそれ以上に嬉しかった筈で、それは武志の成長を感じた瞬間だったからである。武志は湯船の縁に設けてある腰掛けの段に座り1から10までを数え始めた。
正春と入る時は100まで数えるのだが、途中で何度も間違えるので叱られっぱなしだが今日は柔らかな安心感のなかで数える事が出来た。
一回目が終わり、武志は秋子に「何回やるの?」と聞いた。
「じゃあねぇ、5回でいいよ」と言って秋子は一緒になって数えた。
体が温まり湯船から上がって秋子は武志の体を拭いた。この時も正春との違いが有り、正春は浴場から出た後、手荒い場で体を拭いてくれる事が多い。しかも夏冬関係なく冷たい井戸水で手拭いを濡らし、それを武志に絞らせる。もちろん武志の握力では絞り切れないので体を拭く前に正春が大人の力でしっかりと絞ってはくれるが。しかし今日は浴場の中で体を拭いたので湯上りの暖かさが少し違った。このような些細な事でも幼い武志にとっては感動に値する事だった。武志と秋子は早速着替えて脱衣所の大きな腰掛けで少し休む事にした。「武志、何か飲む?」秋子は財布の口を開いて小銭を探した。
「良いの?いつもお爺ちゃんは買わないよ」
「どうして?」
「ご飯の前に飲物を飲んだらダメだって言うの」
「でも欲しくないの?」
「・・・欲しいけど・・・」
「じゃあ何飲む?あの前行って見てきなさい」
秋子は武志の手に50円玉を一つ持たせた。武志は冷たい飲み物が陳列されている冷蔵庫のガラスの前で何を飲もうかと迷ったというのも目の前には武志が飲んだ事がないものばかりが並んでいるからだ。唯一飲んだ事があるのは白い牛乳ぐらいだった。しかし普段から何事にもぐずぐずしていると正春に叱られるという事もあり武志はあまり考えずに決める事にした。武志はコーヒー牛乳を手に取り、それを秋子に見せた。
「これ、飲んでいい?」
「うん、あの入口のおばさんのところ行ってお金渡して来(こ)やあね 武志は背が小ちゃいでおばさん気がつかんかな?」秋子は武志にそのまま行かせようとしたがその事が心配だった。しかし武志は
「棚本だけど、って言えば分かるんだよ」と合点承知だった。
代金を払って秋子の隣へ戻ると秋子が「少しちょうだい」と言うので一本のコーヒー牛乳を半分ずつ交替で飲んだ。敷島湯の帰り道、武志は一つの願い事を天に預けた。
「お母さんとずっと一緒がいいです」
それが武志の一つの願いだった。
第二話「偽りの真実」
第三話「晩御飯の衝撃」
この日の晩ご飯は賑やかだった。
秋子の退院祝いと武志の入園前祝い、ついでに数美の高校入学前祝いと、実にお祝いだらけだ。おまけにすき焼鍋ときた。正春は何時ものようにトリスのウィスキーを呑み、今日は照夫もロックで正春に付き合っている。名古屋のすき焼と言えば鶏肉を入れると言われる事があるが、どうだろうか。昭和40年代初頭の日本は高度経済成長の掛け上がりの時期で、東海道新幹線の開通や東京五輪、そして大阪万博などを次々に成し遂げた時代である。とは言え、食べ物ではバナナや玉子、ハム、牛肉などは高級品とされた時代でもある。この日のように、生玉子を惜しまず、さらに牛肉を溢れんばかりに入れた棚本家のすき焼鍋はやはり贅沢な食事と言えるだろう。夕食が進むにつれ、数美もさすがに若い盛りで柔らかな牛肉をパクパク食べる。照夫も
「武志、いっぱい食べろよ」と言って器に山盛り入れてくれる。奏子はというと、こちらは野菜やら肉やらを補充するので手の空く暇がない。これはどこの家庭でもよくあるパターンだ。ところが秋子だけどうも食が進まない。
「秋子、あんたも食べんかね」奏子が奨めるが秋子は
「母ちゃん、こんなに沢山食べるの久し振りだで私もうお腹いっぱいだわ」
と言って足を崩した。
「あんた、またお酒呑んどるで食べれんのとちがうわねぇ?」
奏子は半分冗談のようで半分本気のような事を言う。そこで正春が満を辞して満を持して、たった今飲み干したグラスを秋子の方へ滑らせた。
「秋子、少しだけなら良いだろう?」
「父ちゃん、私、呑みたくないって」正春は秋子にウィスキーを勧めたが秋子は断った。武志はそのやり取りを固唾を呑んで見つめていた。
「ちょっとお爺さん、何言っとるの!」と奏子が珍しく大声をあげ声を上げたが
「うるさいな」と、正春は受け付けない。この時、正春は既にかなり酔っていた事は事実だが、からかっているようでもない。顔は大まじめである。さらに正春は酒を勧めた。
「なんで呑まんだ?お祝いだで少しは呑めるだろ?」
「ダメだよ秋子、武志が見とるよ」奏子も必死に食い下がるが、正春は何処吹く風といった具合に、さらにグラスを突き出した。そのとき武志は正春の目が自分を叱る時のあの見殺すような目つきになっているのを見逃さなかった。
「・・・あの目は恐い・・・」武志は自分の経験上、何かが起きると直感した。その後だ、武志の勘は的中し、とうとう正春が怒鳴った。
「秋子、ワシが呑めるだろと言ったら呑まんか。おおっ?」
「なんでぇ、要らんって言っとるがね」売り言葉に買い言葉とはこの事で、秋子も次第に怒り始めた。武志は黙ってそれを見ている。そこへ今まで黙って食べていた数美が絡んできた。
「秋子姉さんが要らんって言っとるがね。お父さんもその辺にしときな」この数美一言で事は収集したかのように思えたのだが。どうした事か秋子は「じゃあ一杯だけ呑むわ」と言ってグラスを正春に向け「注いで」と言わんばかりに傾けたのである。「なっ?ほれ見よ、秋子は酒が呑みたいんだぞ。お前等には判らんだろうなぁ? 秋子、少しにしとけよ、少しに」正春は勝ち誇ったように言った。また更に照夫が「姉ちゃんも飲み過ぎるで病院ヘ行かないかんくなるんだで自分で調整して呑めばいいんだぞ」と、忠告のような、それで歓迎のような事を言っている。正春は秋子の手に持たれているグラスにウィスキーをそのまま注いだ。
正春が秋子のグラスにウィスキーを注ぐ様を武志はじっと見つめた。
「もう呑まない」と言った秋子の言葉が武志の中で音をたてて崩れて行く。そして秋子がそのグラスを口に持って行った瞬間、武志の心にはどうやっても理解出来ない「活断層」のような、そしてはっきりとした歪みが生れた。秋子はウィスキーを一気に呑み干すと「フゥーッ」と一息ついた。「どうだぁ秋子、美味いか?」
この時、奏子も照夫もそして数美も「我、関せず」といった表情であったが正春は違った。おそらく「呑みたいのなら呑ませてあげよう」という単純な親心からでる表情だった。武志のなかで先ほどまで沸き上がっていた正春への恐怖心はいつの間にか消えていた。それよりも、つい数時間前の撮影会やお風呂屋さんでの楽しかった事が頭の中を占めていた。それは武志自信が務めてそうしたというより、ある種の自我防衛本能がそうさせたのかもしれない。秋子が呑み干したグラスを黙って置くと正春はもう一回注ごうとした。「どうだぁ秋子、もうちょっとイクか?」
「うん、頂戴」正春は先ほどの半分位の量をグラスに注いだ。
「秋子、もう止めときなよ」と奏子が言うのだが、秋子はそのグラスを再び「グイッ」と呑み干した。武志は秋子がまた病気になってしまうのではないかと心配になり秋子の体に自分の体を寄り付けてみた。するとやはり思った通りだった。秋子の体が小さく震えている。
「もうやめてぇ!」武志は悲しくなり思わず大声を上げた。それはウイスキーを勧める正春に対して発した言葉ではなくまたそれを二回も飲み干した秋子に対してのものでもなく、ただ悲しすぎる自分に対しての言霊だった。武志はこの時も、大人達の作る圧倒的な環境に全く無力でしかない自分に迷うのだった。
武志は泣きながら秋子の顔を見上げた。秋子の顔は僅かに赤らみ目の力が少し無くなっているように見えた。しかし正春は武志の心とは裏腹に
「おっ?秋子、すこし酔いが回ったか?色っぽいなぁ」と嬉しそうだった。
武志には悲しい事なのに目の前の正春はそれを喜んでいる。しかも色っぽいと言っているのである。もちろん色っぽいという言葉の意味は武志には解らないが、敷島湯に行く前に立ち寄った酒屋での秋子を見ていた小父さん達の目と今の正春が秋子を見る目が似ている事という事は何となく感じた。この時武志は、秋子が自分の全く知らない部分を持っている事を悟った。
「秋子、知ランよ、ほんとに」奏子は落胆してそう言った。
「もう呑めんわ。母ちゃん心配しんでも大丈夫だでね私、もうアル中じゃないで、治ったでね」
秋子はそうしてグラスを置いた。武志は初めて聞く「アル中」という言葉が気になり照夫に聞いてみた。
「ねぇ照夫の叔父さん、アル中って、お母さんの病気?」武志がわざわざ照夫に聞いたのは、照夫は武志の解らない事をいつもちゃんと教えてくれるからだ。ところが照夫は意外な答えをくれた。
「武志にはまだ難しいな。そんな言葉は覚えなくていい。お前も大人になれば解るでな」照夫はそう答えると
「さあ、まぁ姉ちゃん達も上行ってテレビでも見ろ」と言ってその場を開き直らせた。
「あっ照夫、私の部屋のテレビ映るようにしてくれた?」
秋子も雰囲気を切り替えて話題を変えた。
「おお、二階の姉ちゃん達が寝る部屋のテレビよう、アンテナが来とらんかったで今日屋根に上って線繋いだでよう、まぁよう見えるわ」
照夫は秋子に向かって言っていながらその視線は武志に向けて言っていた。
「ほんとにか?ありがとな」
秋子も何故か武志の顔をかすめた視線で照夫に礼を言った。
「ほんじゃあ秋子、あんた今日から武志と二階で寝るんだにぃ、この子寝る前にオシッコさせんと夜中にチビるでね。毎日オネショするでこの前新しい布団に換えといたでね、頼むよ」
奏子はそれだけ言って台所へ行ってしまった。この頃になると武志も先ほどの衝撃を忘れたように振る舞えるようになっていた・・・表向きは・・・。
秋子は武志をトイレに連れて行きその後、武志と二人で直ぐに二階へ上がった。二階へ上がり秋子の部屋に入ると奥の窓の所にベッドが置いてあった。しかし最近この部屋へ入っていないとはいうものの武志の記憶ではここには何も無かった筈であった。
「お母さん、これ何?」武志がそう聞くと秋子が
「これねぇ、今日ねぇ照夫が車で運んでくれたの。お母さん病院で長いこといたでしょう?だからお爺さんが何処かで貰ってくれてそれを照夫が運んでくれたの」
どうやら武志の知らないところで実は家族皆でいろいろやっていたようだ。
「どうしてこれで寝るの?」
「だって布団じゃ堅いでしょう?武志だって柔らかいとこで寝たいでしょ?」
「うん」子供は単純である。
武志はその説明だけで納得したのだった。ベッドの上にはピンク色の生地に大きな花柄が散りばめてある掛け布団があって見るからに暖かそうだった。武志は先に布団へ入ると秋子に「早く着てよぉ」と急かした。秋子は「はいはい」と言って後から布団に入った。「武志、電気毛布も入っとるよねぇ? でもスイッチ入ってないね。あんたこれ解る?」武志はいつも正春の電気毛布の調節の要領で合わせた。
「お母さんもうすぐ暖ったかくなるよ。お爺ちゃんは暖ったかくないとすぐ怒るよ。お母さんはいいの?」武志は子供なりにこうして一つずつ確認するのだろう。
「冷たいのはお母さんだって嫌だよ。あっ武志、忘れとった。この瓶に水を少し入れてきてくれる?」おもむろに秋子が差し出した物は瓶の口に小さなコップが乗った物だった。秋子はアルコール中毒の対処療法として精神安定剤と睡眠薬を服用していた。武志に頼んだのはその薬を飲む為の水だった。しかし武志もせっかく温まっているところでまた寒いお勝手場まで行くのは嫌だと思ったので我がままを言った。「えーっ?一人じゃ嫌だ」
「どうしてぇ?まだみんな下にいるでしょう?」
「だってお爺ちゃんまだ寝てないよ」秋子は、ごねる武志の心中を察してか
「じゃあさぁ、今日は一緒に行こ。明日からは一人でできるかなぁ?」
そう言いながら秋子はネグリジャアをヒラリとやってベッドから降りた。甘える武志はいつもそうしていたように左手の人差し指だけを伸ばして秋子に握らせた。これは二人の約束事で武志は秋子と歩く時にいつもこうしていたのだ。二人は階段を降りてそのまま土間へ行こうとしたが途中で正春に呼び止められた。
「武志、ちょっとここへ来い」酔った正春の声は武志にとってこの上ない恐怖だったが今日は秋子が一緒にいてくれるので多少心強かった。武志はその勢いに任せて正春に答えた。
「なーにぃ?」すると正春がさらに大きなこえで言った。
「えーでぇ、こっち来い」武志はいよいよ恐怖に怯えた。
武志はそのままやり過ごす事も出来ず、観念して小さくなりながら正春の前に正座した。秋子は「武志、じゃあお母さん先に行くからね」と言い流すと、持って来た瓶に水を入れて二階へ上がって行った。正春は秋子が二階へ行くのを見送ってから話を始めた。「武志、お前は男だな?」武志に問い掛けるその目は優しい時のお爺ちゃんの目だった。武志は少し安心して答えた。
「うん」
「お前は小さいけど男だ。だから強くならないとだめだな?」
「うん」
「お爺さんがいつも刀を見とるのを知っとるな?」
「うん、どうして?」
「何でワシが刀を持っとるか分かるか?」この時、武志はどう答えたら良いのか迷ったが直ぐに決まった。
「お爺ちゃんは強いから?」と答えた武志は自信があった。多分、その答えが正春の喜ぶ答えだと思ったからだ。しかし正春はこう言った。
「違うぞ、お爺さんはなぁ、弱いから刀を持っとるんだぞ」
武志にとっては意外な言葉だった。
「だけどな、悪い奴が急に来たらワシはお婆さんを助けたらないかんだろ?その時何にも無かったら負けちゃうだろ?だから何時も枕の近くに置いとるんだ」
武志は正春の言葉を「うんっ うんっ」と頷きながら聞いていた。
「だからなぁ、お前もな、もし悪い奴が来たらお母さんを助けたらないかん。分かるか?」
「分かる」
「だけどお前はまだ小さいから出来ないだろ?」
「うん」そこで正春は今より半身 武志の方へ寄り言った。
「じゃあどうする?」「・・・僕も刀持つの?」
「欲しいか?」そう言うと正春は奏子に向かって「おいっ、持って来い」と言った。すると奏子は居間の隣の物置部屋から大小二本差しの日本刀を出して来た。その太刀を手に取り正春は抜いた。
「武志、怖くても目を瞑るな」と言った瞬間、その太刀を武志の頭の上すれすれに振り抜いた。思わず目を閉じた武志に正春が叱った。
「目を瞑るなって言っただろう」武志は硬直しながらも「はい」と答えた。
「じゃあもう一回だ。こんどは目を瞑れ」と、今度は武志に目を開けるなと言うのである。この時、武志は逆に目を閉じている方が実は恐いという事が分かった。
「どうだ、怖いか?」正春の言葉だけを聞いている武志だが足が震えていた。その時「チャッ」という音と同時に武志の左の首筋に冷たいモノが触れた。
「あっ、刀だ」武志は「切られる」と思いながらもどうする事も出来ないでいると正春は「武志、今からお前はワシがこの刀を引いたら死ぬぞ、分かるな」と告げ、ゆっくりと首筋に当てているその刀を引いた。恐くても逆らう事さえ出来ない武志は死を覚悟した。が、痛くも痒くもないのだ。
「お爺ちゃん、痛くないよ」武志は安心して目を開き正春を見た。正春は笑って
「武志、いいか? 今な、お前は死ぬと思っただろう?だけど直ぐに無くなっただろう?男が死ぬ時はそういうもんだ。だから死ぬ事は怖くないんだぞ。分かるか?」それこそが正春の極道としての哲学であった。
「うん、怖くないよ」
「なっ?怖くなかったら戦えるんだぞ」そう言って正春は太刀を鞘に入れた。
「ねぇお爺ちゃん、でもどうして僕の首 血がでないの?」
それは武志の当然の疑問だった。
「バカだなぁ、本当の刀でお前の首を切るわけないだろ?」正春は大笑いした。
「じゃあそれウソんこなの?」「これは本物みたいだけど切れないようにしてある。だけど強く突いたり叩いたりしたら怪我するぞ。だでワシが居らん所では触るな。いいか?」
「はい」
「じゃあこの刀をお前にやるから大事にしろな」そう言って正春は二本差しを畳の上に置こうとしたが武志の腰に差した姿を見たかったのか、脇に座った奏子に
「どれどれ奏子、ワシの帯持って来んか」と言って奏子に奥の物置から正春の着物の帯を持って来させた。そして正春は武志の腰に太刀を差して遠目で見つめた。
「うーん、やっばり長いなぁ」今度は小太刀を差した。これ位が武志には丁度良い長さで、正春もご満悦の様子だ。
「なぁ武志、お前その刀どっかで見ただろう」
そう言われて武志は直ぐにピンときた。それはいつか正春が行くカメラ屋さんについて行った時、途中にあった古物屋さんの入口に飾ってあった物で、武志は暫くその刀に見入っていた、それだったのである。その事を正春は覚えていたのだ。
「武志、これはワシからの保育園行くお祝いだ」
おそらく、午前中に出かけ時に買ってきたのだろう。武志は嬉しかったが、この大変な物を何処に置けば良いのか考えてみた。今日から秋子と寝るのはベッドである。そこで武志はこの刀を正春に預ける事を考えた。
「お爺ちゃん、この刀お爺ちゃんの部屋に置いていい?」正春は大きく頷いて
「いいぞ、じゃあもう寝ろ」それで正春はその場でゴロンとなった。武志は二階へ上がろうとして正春と奏子に「おやすみなさい」と告げた。「やっぱり…の子だな…似合うわ」その同じタイミングで正春から何か言葉が聞こえた。いや、そんな気がしただけかもしれない。しかしそのかすかな言葉を気にする事もなく武志は二階へ上がり秋子のベッドへ入った。
「武志、何か話したの?」秋子は半分眠りかけで、そして武志は自分の体の収まりやすい場所を探してゴソゴソしながら「ううん、刀もらったの」と答えた。
そのすぐ後、秋子はもう眠ってしまったようだった。実に暖かい寝床である。今、母と一緒にいるのだ。それは夢に見ていた世界だった。武志は全身スッポリと布団の中に入り、自分の小さなお尻を秋子のお尻に触れた格好で落ち着いた。その時、眠ってしまったと思っていた秋子が小さな声で言った。
「武志のお父さんはね、いるんだよ」武志は眠くなる意識の中で聞いたその言葉を迷う
事なく忘れた。それを忘れる事が出来るほど嬉しい一日だった。
第三話「晩御飯の衝撃」
第一話「怪獣ブースカと道徳映画村」
秋子が帰って来て一月が過ぎようとしていた。3月にもなれば日差しは心地良く暖かい。武志は数美の算数特訓に明け暮れ、秋子は所望していた東洋レーヨンにパートで働きに出るようになり、また照夫は新車を購入したりして皆それぞれが順調な生活をしていた。そんなある日、棚本秋子、武志宛てに一通の招待状が届いた。それは、ある団体からで、内容は「親子で『怪獣ブースカ』を見よう」というものだった。「怪獣ブースカ」とはその頃テレビで流行っていた着包みモノドラマで、超能力を題材にしたものだった。この頃の日本は昭和39年の東京五輪で当時世界最強と言われたソビエト連邦女子バレーボールチームを決勝で下した日本が金メダルを獲得した事や男子体操が団体でも個人でも金メダルを取りその他、各種目でメダルラッシュとなり日本に空前のスポーツブームが沸き起こった時代であった。特に体操界ではその後モントリオール大会まで実に長きに渡って団体、個人ともに世界のトップに君臨したという、正に黄金期の魁の時代であった。そのような世相に乗って大流行したのが「サインはV」などの青春スポーツモノであり、その側線でちびっ子達の夢を題材にしたのがこのような超能力モノだった。どのような関係でこの招待状が届いたのかは不明だがこの事はその後の武志の記憶には強く刻まれていた。秋子はそのハガキを持って武志に聞いた。「武志、名古屋市民会館でさぁ、怪獣ブースカが見れるんだって、行きたい?」その頃の武志にとってはテレビ観るヒーロー達である。観たくない筈がない。武志は勿論「観たいよ」と答えた。
「今度の今度の日曜日だから電車で行こうか」
「うん」これで話は成立である。その当日の朝、武志と秋子は早起きして支度をした。そしてこの日武志は背広という洋服を初めて着た。その背広は今で言う「スーツ」の事であるが、この時代でスーツと呼ぶ人は少なかった。「ねぇお母さん、首が痛いよ」着慣れない背広の、特にカッターシャツが気に入らない武志は秋子に文句を言うのだが秋子は「何んでぇ?あんたねぇ、それもう一回ねぇ、七五三で着るんだで我慢しなさい」と突っぱねた。
そんな事があったが武志と秋子は時間通りに6丁目の電停で市電に乗って名古屋市民会館へと向かった。市電というのは当時の名古屋を走り縫っていた路面電車の事で、まだ名鉄(名古屋鉄道)や国鉄が高級な乗物とされていた時代の大衆公共交通機関だった。市バス等はこの少し後に大衆化したようなものであり、むしろタクシーは逆に民衆の「足」として重宝されていたほどだった。昭和の40年代とはそういう時代であった。会場へ到着した二人を待っていたのは入口の大きな看板だった。その立て付けの看板には「昭和42年度保育園御入園おめでとう」と書いてあった。武志はグレーの背広にベレー帽、秋子も一張羅のスーツ姿でビシッと決まっている。颯爽の入場であった。
看板を潜り建物の中へ入ると沢山の親子がいた。「ここでお母さんの手を離したら絶対迷子になる」武志はその決意でいた。事実、会場ではまだセレモニーが始まっていないにも関わらず迷子の呼び出しをしている。武志は秋子に握らせている左人差し指をグイッグイッとさせて「絶対に離さないでね」というシグナルを送り続けた。受け付けのテーブルで座席表と予定表を貰って会場へ入ると、中には更に大勢の親子がいる。そして皆それぞれ自分達の座席を探しているのか、どのお母さん達も小さく中腰になっている。秋子は座席表に棚本の名前を見つけ、探そうとしたが会場があまりに広くてよく分からないと思ったのか、係員に自分達の座る場所を尋ねた。係員に案内されて座る事になった席は、最前列から2列目の一番左の方だった。はじめ、武志を奥に座らせ秋子が通路寄りの席に座ったのだが武志はその角度では自分から見て舞台が右、そして秋子が左側になるので席を交替してもらう事にした。暫くして場内アナウンスが流れ大きな声がした。「みなさーん、おはようございまーす」会場に来ている子供たちの大半は多分これだけの大音量を聞くのは初めてだったのではないだろうか。スピーカーの音が途絶えた次の瞬間、それまでザワザワしていた会場がシーンとなった。幸い武志は大きな声には慣れている。それは正春の怒鳴り声ではなく、毎年夏に行われる観音公園での夜空映画会の音響に慣れているという事である。この映画会は武志が中学校へ上がる頃まで続いていたようだが何にせよ、この時代は良き事が多かった。ステージ上では来賓の挨拶から花束贈呈、そして会場へ来ている子供達全員に記念品のプレゼント等、次々とプログラムが進んでいった。そして武志が楽しみにしていた「怪獣ブースカ」のメンバーの登場だ。お馴染みのテーマ曲が流れステージの袖から大きな着包みのブースかが出て来た。手続いて他のメンバーが・・・。と、その時武志は「あれ?」と思った。というのは、ステージには沢山のメンバーが出て来たのに武志が知っているのは最初に出て来たブースカだけで他のメンバーは知らないモノばかりだったからである。武志は秋子に聞いた。「あの人達ねぇ、ウソンコだよ。だってテレビに出てないよ」秋子は実際に「怪獣ブースカ」という番組を見た事がないらしく、「そうなの?」と、分からなさそうな返事をしただけだった。
「どうして他のホンモンの人は来ないの?」「忙しいんじゃないのかな?」後から分かった事だが、実は本物は一人も来てなくて、この催し物は怪獣ブースカと銘打てば参加者が増えるという趣旨だったらしい。この時 武志は「大人は時々平気で嘘をつく」という事を学んだ。全てのプログラムが終了して出口に一斉に親子連れが集まり、人の波に流されないよう注意しながら歩いていると後ろから「タッチ!おいタッチ!」と武志を呼ぶ声がした。武志は振り向くとそこに万知子の手に引かれた紀を見つけた。
「あっ、紀兄ちゃん」武志は嬉しくて秋子の手を離し、小走りで紀の方へ走った。それを見て万知子が「これっ武志、転ぶよ」と言うが久し振りに従兄弟の紀に会ったのだからそれどころではない。武志の後を追って秋子も来た。
「なぁにぃ万知子、あんた達も来とったの?ほんなら一緒に来やあよかったね」
「ほう、そうだけど姉ちゃん達、何で来たの?」
「私達(うちら)? 6丁目から市電で来たがね。金山から歩いたが」
「まぁ実に名古屋弁の応酬だが秋子とマチコも会うのは久し振りで話しに弾みがつく。「タッチよぉ、なんだぁ お前も保育園行くんか?」「うん、なんかねぇ、紀兄ちゃんとおんなじとこだよ」
「ほうか、ほんなら毎日遊べるなぁ、ヤッタがや」と、こちらも道徳弁丸出しだ。
「なぁーんだ、私達はタクシーで来たで一緒に来ればよかったね。そうすりゃあタクシー代も安くて済んだにぃ」
万知子は棚本の娘達の中でいちばん計算高く賢い存在だった。常に合理性を考えるというタイプである。そしてその長男である紀もまたこの頃から頭が良く、常に先を見る事の出来る少年だった。その彼は今ではソフト開発会社の代表取締役となっているというのだから、賢い子供は、やはり賢い大人になるものであると言えまいか。
武志は紀の命令なら何でも聞く。そして逆らわない。まるで親分と子分のようだと正春もからかうほど仲が良い。
「なぁ紀、保育園行ったら武志と違う組になるけどお遊びの時間は一緒だで、もし意地悪がいたら武志を助けたらないかんに」マチコは紀にそう言った。
「おう 分かっとるで、だでタッチもよぉ、たまには戦えよ」子供ながら堅い同盟を結んだ武志と紀はこれで話はついた。
「ねぇ あんた達、もうお昼だけどお腹へったよね?」大人の話が済んだのか、どうやら帰りに何処かで食べて帰るつもりらしい。
「武志達さぁ、何が食べたい? 久し振りにレストランでスパゲッティーでも食べよか?」
「おぉ、喰いてぇなぁ?タッチ」「食べる食べる」秋子が贅沢にもレストランでスパゲッティーをご馳走してくれると言うのだ。ちっちゃい二人は遠慮のエの字もない。
・・・と事は運び、ここからが現実的な話で、
「姉ちゃん、この辺でどっか良い店知っとる?」
「知らんよぉ」
「じゃあさぁ、金山までタクシー拾って駅んとこで探そか?」
「そうだな、じゃ 取り敢えず道まで出よ」話は決まった。
ここで話が少し逸れるが、
名古屋弁に詳しければ「道」=道路、「駅んとこ」=「駅の所」という事で、特に名古屋弁では総じて「ん」と「の」が抜けるところに特長がある。例えば「そうしようか」という言葉は「そうしよか」となり、「話を聞こう」は「話聞こ」となる。それに加えて純粋で古風な名古屋訛りの「まい」が絡んでくると「あそこへ行きましょう」が「あっこに行こまい」となる。もともと名古屋弁は日本で一番美しい言葉と言われる程アクセントと語並びは精練されている。例えば「そうだね」は「ほうだなも」と言う。何時の時代からかは判らないが三河弁と岐阜弁当が流入して近代の名古屋弁に代表される「だぎゃぁ」「オミャア」などに変化したとされるが、道徳弁に限って言えば、これまた独特の言い方なのかもしれない。ここで読者の方々にクイズを出しましょう。
「往生こいてまったがやぁ」この意味わかりますか?
さて話を戻します。
武志達は金山駅に到着し、駅の前の道を歩いて大きなレストランを見つけた。この辺りにも名古屋市民会館からの帰りの親子が来ていて、皆考える事は同じであったという事だ。レストランのガラス窓に並べられた蝋(ろう)作りの見本を皆が見ながら並んでいる。そして紀と武志はといえば・・・当然、ガラスに張り付いて何やら話しをしている。こんな感じだ。
紀が「おい タッチ、これよぉホンモンかなぁ?」と言うと武志はそう思っても、思わなくても「ホンモンかなぁ」と言う。
紀が「でも違うかなぁ?」と言えば
「違うかなぁ」と武志が答える。
そのガラス窓には、このレストラン自慢のイタリアン、ミート、カレーライス、ハヤシライスなどが飾られ、どれを見てもまるで本物のように美味しそうなのである。迷っている二人にしびれを切らした万知子が言った。「はいっ みんな ミートね。この一言で全員がミートスパゲティーに決まった。そうしてレストランの中へ入り、席に着くと今度はメニューがやって来る。ここでは今までガラス越しに見ていた見本よりもっと綺麗な写真を見るのだ。だからもう一回迷う。決めた筈の万知子でさえ「姉ちゃん、ほんとにミートでいい?」となる。決め兼ねるマチコはまた紀に聞く。
「あんた達、ほんとにミートでええの?」
「おいタッチ、お前よぉハヤシライスを食べろな。俺はこのピラフ食べるわ。でよぉ、半分換えっこしよまい。なっ、ええか?」
「うん」これで子供の食べ物は決まりで、あとは秋子と万知子であったが、結局大人二人はミートにしてオーダーをした。レストランの中はとても綺麗で、紀が日曜日に来た時に時々食べに行く真中ショッピのうどん屋さんとはかけ離れている。確かに真中ショッピのうどん屋さんは顔見知りという事もあり気軽に行けるのだがこの高級レストランとはレベルが違う。幼い二人にはこの上ない誠に贅沢なランチであった。武志と紀は自分の前に来たハヤシライスとカレーライスを半分っこして食べ、秋子達はフォークの使い方も余所ヨソしく何だか難しそうに食べていた。
こんな風に、高級感を堪能して楽しい昼食は済んだ。
四人は歩き、名鉄金山駅に入った。ホームで来た電車に乗りさえすれば、あとは駅までゆっくり休憩である。
乗った電車は鈍行だった為、動いては停まり、また動いては停まる。
しかし武志と紀にとってこのゆっくりとした風景もまた春の1ページとなる。
電車は本線神宮前、そして神宮からは河和線に入り豊田本町、そして次が道徳だ。四人はこの道徳駅で降り、改札口側の出口から出た。そこは線路を横切る形で東西に走る『道徳銀座通り』で、線路を渡り東へ行けば半田街道、西へ行けば一つ目の信号手前に道徳映画館がある。その間には床屋、新聞店、喫茶店、病院、更には洋服屋、食堂、電器屋、米屋、看板屋など多数の店が建ち並んでいる。駅から西へ歩き、その一つ目の交差点にある道徳映画館の筋向かいが正春の兄弟分という東のおじちゃんがボート貸しをしている道徳公園である。「姉ちゃん、公園来たの久し振りだね」万知子が懐かしそうに言うと秋子も「そうだなぁ、そう言やあ昔ここで映画撮ってたんだな」とこれまた懐かしそうに言った。
「えっ、ここで映画作ったの?」映画が好きな武志は秋子の言葉にとても興味をもった。そして紀もそれに乗って来た。
「なぁ母ちゃん、ほんなら昔ここでチャンバラやったんか?」
(紀の口調はいつもこんな感じである)
「そうだなぁ、なぁ姉ちゃん、あの頃この辺って着物着て刀をぶら下げた人がよぉうけ(沢山)歩いとったがなあ?」万知子が目線を空中に留めて言う。
「なぁ、あれ皆役者かな?」秋子は振り向きながら応える。誠に仲の良い姉妹だ。
「なんぁんでぇ、あの時よぉ 姉ちゃんに『万知子、映画に出れるで早よ公園行こ』って言われて私 付いて行ったら変なオジサンにこっち来い言われてさぁ、付いてったら どえらいボロ着させられてさぁ 泣いて帰ったがなぁ?そしたらあんたぁ、お爺さんが怒ってよぉ『誰だぁ俺の娘にこんなモン着せたヤツ!』ってなぁ?映画監督に文句言いに行ったがなぁ、懐かしいなぁ」
「ほうだなぁ。あん時ってまだこの辺もこんなに家が無かったわなぁ」秋子や万知子が今の武志や紀の年齢に近い時代の話である。昭和15年位の頃だろうか、まだこの道徳の地に爆弾の雨が降る前の話だろう。四人は公園内にあるクジラ池の所で少し立ち話をした。大人は大人の、そして子供は子供の。「じゃあタッチ、またなぁ」
「じゃあね」
「武志君、たまには泊まりにおいでね、じゃあ姉ちゃん仕事頑張ってねぇ」
こうして万知子親子は住まいのアパートへ、そして武志達は棚本の家へ路をとった。
その家路の途中、武志は秋子に聞いた。以前から気になっていた事である。
「お母さん、紀兄ちゃんのお父さんはどうしていないの?」秋子は「えーとねぇ・・・」と少し考えてから答えた。
「紀のお父さんはねぇ、四日市にいるよ」
「でも紀兄ちゃんの家にはいないでしょ?どうして?」すると秋子から意外な言葉が返ってきた。
「ええがね。いなくても別に大丈夫なら」武志はショックだった。
「・・・僕はお父さん欲しいのにお母さんは、お父さんがいなくてもいいの?・・・」武志の頭の中で「ベツニ イナクテモ」というフレーズが、あちこちの壁に当たり何度も飛び回った。武志は我慢できず珍しく不満をぶつけた。
「お母さんが悪いからお父さんがどっか行っちゃったんだよ。お母さんは悪いよ。僕も紀兄ちゃんもお父さん欲しかったのにぃ」そう言うと武志は声を出して泣いた。
正春がこの場にいれば間違いなく叱られる泣き方だったが、武志は自分の中で起きた爆発を押さえる事はなく、泣きたいように泣いた。秋子は悲しそうな顔で武志を見つめ黙って抱きしめた。
「武志、紀のお父さんはねぇ、お仕事で帰って来ないだけ。お前のお父さんは北海道に帰ったの」少し落ち着いて、武志はもう一度聞いた。
「じゃあ帰って来るの?」
しかし秋子は「それは ないなぁ・・・」とだけ答えた。この時、武志は『自分には欲しくても絶対に手に入らないものがある』という事を学んだ。それは武志にとって迷う事さえも出来ず、ただ受け入れる事しかない現実だった。
秋子が棚本の家に着く前に敷島湯を過ぎた所にある靴屋に寄ると言うのでいうので武志は汚くなった顔を拭いてもらった。
「お母さん、靴買うの?」うん。だって武志は来月から保育園だよ。今履いてる靴さぁ、ちっちゃいだろう?だから新しい靴買おぅ?」
「あーっ、ほんと?」武志は嬉しさが頂点に達するほど喜んだ。何故なら武志は秋子に靴を買ってもらった事が無いからであった。靴屋へ入ると店の主人が
「あーれぇ?棚本さんの僕ちゃんだねぇ。そう言えばもうすぐ幼稚園だよね?」
主人は武志の事を知っているようだ。
「ええ、この子は九条保育園に入れるの」
「あっ、そうなんだ。じゃあ上履きと下履きが要るねぇ」
主人はそう言うと武志の手を取り幼児向けの靴が陳列してある所まで案内した。
「お兄ちゃん、ちょっと靴脱いでみようか」と言いながら武志が履いている靴を脱がし素早く足のサイズを手尺で測り、直ぐに幾つかの靴を床に並べた。
「ちょっとコレ履いてみてぇ」と言って一足目を履かせ、靴の前の方を指で押さえ
「どうかな?少しキツいかなぁ?」と、靴を代えてはこれを何回か繰り返し、武志が最後に決めたものを袋に入れてくれた。武志は大人になってからもそうであったが元来、身に着けるものを選ぶのが嫌いだった。簡単な話、面倒なのだ。この時も、靴を買ってもらう嬉しさとは裏腹に選ぶのは嫌だった。しかし主人が
「じゃあ次は下履きだね」と言うと目が爛々とした。それは、下履きは家から保育園に通う時ばかりではなく普通の時も履く靴だと言われたからだ。武志は主人に一般の靴が並ぶ棚へ案内されて驚いた。そこに並んでいる靴にはどれもテレビで見るイイモンが書いてあるのだ。ブースかをはじめ、ソランやヒョッコリひょうたん島のキャラクターが付いている靴はどれも欲しいものばかりだった。そして武志が迷いに迷って決めたのがブースカだった。上履きと下履きの両方を一度に靴を2足も買ってもらう事など今までには無い事であり武志はこの日からその靴達を毎晩ベッドに入れて寝た。ちょっびり嬉しい春の思い出となった。
ブースカとレストランの思いでの日から数日後、晩ご飯も済み武志は家族と共に居間でボクシングの試合を観ていた。
「何か変だなぁ」武志は何時もと様子が違う事を感じていた。何が何時と違うのかというと、誰も武志に「寝なさい」言われないのである。しかも奏子が電話機の横に座ったままそこを動こうとしないのだ。明子は先に二階へ上がり薬を飲んで寝ている。武志は少し眠くなり一人で明子の所へ行こうとして立ち上がったがそこへ奏子が
「武志、もうすぐ紀と話ができるで、ちょっと待ちなさい」と言って武志を止めた。
「紀兄ちゃんここに来るの?」武志は意味が分からないまま奏子に聞いた。
「違うの、もうすぐ紀んちから電話が来るの」
「???」武志は電話という物は知っていたが自分とは関係ないモノと思っておりそれ以上に何時もは正春や数子から「触るな」とさえ言われているモノなので、どちらかと言えば避けていたモノだった。それがどうした事か今、紀から電話が掛かって来るから待てと言われているのである。武志は言われるままに待った。テレビでやっていたボクシングはどうやら日本の選手がチャンピオンになったらしく、これまでの代わり映えの無い景色とは違って賑やかな光景に変わっていた。武志はいよいよ眠くなってきた。その時奏子の横の電話が鳴った。そさて奏子が武志を呼んだ。「武志、電話出やぁ、ほいっ」と。
武志は恐る恐る受話器を取り上げ耳に充てた。「・・・もしもし・・・タッチかぁ?」何か遠くで声がしている。しかしその声は間違いなく紀の声だと思ったが声がすごく小さい。
「お婆ちゃん、紀兄ちゃん この中にいるの?」武志は心配になり奏子に聞いた。
「違うわ、そんなとこに紀が入る訳ないがね。あんたそれ反対だよ」武志は受話器を反対に持っていたのだ。「なあーんだぁ、・・こう?」受話器を持ち直して奏子の方へ向き直した武志は今度は自分から話し掛けてみた。
「紀兄ちゃん?どこ?こん中にいるの?」すると
「おぉ、タッチか?おおっ、すごいなぁ 話ができるがや」と紀も興奮しているようだ。武志は紀の姿が見えていないのに話が出来る事に驚きと感動が一緒になって来たような興奮を覚え、喜び勇んでその場でクルクル回った。
「ガチャン」
武志の体に受話器のコードが絡み電話機が台か落ちてしまったのだ。幸い、この時代の電話機はシンプルな作りで、簡単には壊れないようになっていたが今の衝撃で通話が切れてしまった。武志は慌てて受話器のコードを元に直してもう一度呼び掛けた。
「もしもし、ねぇねぇ、紀兄ちゃん ごめんね。壊れちゃった?」武志が必死に呼んでも紀の声は聞こえない。武志は焦った。奏子はそれを見て笑っていたが動転した武志をそのままにしておくのも可哀想と思ったのか武志から受話器を取り上げ今度はこちらから掛け直した。
「これを聞いてみぃ」と奏子が受話器を武志の耳に充てた。
「トゥルルルー…トゥルルルー」武志はドキドキしながらジッと聞いた。
「その音は呼んでる時の音だよ。その時は電話の向こう側でベルが鳴っとるの。うちの電話が鳴るでしょう?あの音がしとるの。わかるよな?」武志はそのまま音を聞いている。
「ガチャっ おいっタッチか?」どうやら向こうでも紀が電話を待っていたようだ。武志は紀が壊れていない事を知って安心した。
「もしもし紀兄ちゃん?大丈夫?」
「おぉ、ええぞ」
「紀兄ちゃん、今どこにいるの?」
「なんでぇ、家だがや、お前も家だろう?」
「そうだよ。でも何で話ができるの?こっちの事が分かるの?」
「んっ?分からんよ。でも電話だと話が出来るんだと」武志にはまだ事情が解らないのでここで奏子が受話器を取った。
「紀かぁ?電話が付いたねぇ良かったねぇ。ほんじゃあマチコに代わって」
奏子に言われて紀がマチコに代わると受話器から笑い声が漏れた。実はこの日、マチコのアパートに電話を設置したのだが奏子の企みで武志と紀に電話で話をさせたのだった。次の日、真中ショッピへ買い物に来たまちこと紀が棚本の家に立ち寄り、ブロック積み木で遊んでいた武志の処へ来て紀が言った。
「おいタッチ、昨日の電話すげぇなぁ。お前んとこと俺んちよぉ、離れとるのに話が出来るんだもんなぁ?オメェもビックリだろぉ?」
「うん、だってねぇ 離れとるのに話が出来たもんねぇ、ビックリしたよ」
武志は何時ものオウム返しだが驚いたのは二人とも事実だった。武志は紀に聞いた。「なんで声が聞こえたのかな?」
「なぁ?何でかなぁ。たぶんよぉ、あれだ あれ、魂ってあるがや。魂がよぉ、あの喋る小さい穴から伝わって行くんだぞ」
「あっ、そうだね。だから聞こえるんだね」子供の想像と現実の違いは、このようなものである。この日の夜も武志と紀は電話で保育園に行ってからの事をアレコレと話し合った。そして入園前夜を迎えた。道徳公園の桜が咲き始めた3月終わりの暖かい日だった。
第一話「ブースカと道徳撮影所」
第二話「九条保育園の細井君」トカゲのシッポ」
今日は武志の晴れ舞台、九条保育園入園の日だ。朝から奏子も秋子もてんてこ舞いである。「秋子っ、あんた長襦袢あるのか?草履は?」とさけんでいる。というのは秋子は日本舞踊藤間流の覚えを持っており、当然和服を持っているが今日のような式典に着るものをどこかに仕舞い込んでいたからだ。そんなドタバタもあったがなんとか準備を済ませ、武志と秋子は土間に下りた。正春が「武志、みんなと仲良くやらないかんぞ」と出掛けの激をくれた。奏子も「秋子、ちゃんと説明聞いて来てよ、頼むよ」と言葉を掛けた。棚本の家を出て途中、2月に敷島湯で一緒になった関谷さんのミヨちゃんに会った。ミヨちゃんは赤い靴に白いタイツ、赤と白のチェックのスカートに髪は三つ編みに上げていた。武志はというと、先日買ってもらった新しい靴に白いタイツ、グレーの半ズボンに上は蝶ネクタイにブレザーという出で立ちのヨソ行き姿である。秋子は流石に踊りをやっていただけあって和服の着こなしは素晴らしい。事実、秋子の踊りもそして和服の着こなしは師範級だった。長女の秋子が下の妹達に和服の着方を教えていたので当然、万知子もさらにその下の芳子も和服を自分で着る事ができた。この時代は大方の女性が和服を着る事が出来たが棚本の娘達はワンランク上だった。九条保育園に到着すると入口門に飾られた「御入園おめでとうございます」と大きく書かれたアーチの前に紀と万知子が待っていてくれた。「おーっ、タッチ」と紀が声を掛けると「あーっ、紀兄ちゃん」と武志が返す。お決まりの挨拶だ。「万知子、紀のクラス判った?」「ほう、あの母子寮の一階が先生達の部屋だで、あそこの前に貼ってあるで見て来やあ。紀はひまわりぐみだにぃ。武志は年少だでチューリップぐみだわ」それを聞いて秋子は武志と二人で貼り出された紙を見に行った。案内には、新設の保育園という事で第一期ご入園児氏名とあり、武志は万知子の言う通り、武志と秋子はその貼り出しに書かれているチューリップ2組のロッカーや机を確認する為に上履きに履き替え教室へ向かった。教室の前には先生が二人いて武志達のように机やロッカーを確認しに来た親子にいろいろ説明をしている。そして武志の番になり二人いる先生に秋子が挨拶をした。「お早うございます。棚本武志です、よろしくお願いします」
「お早うございます。武志くん お風邪ひいてないかな?元気かな?」
武志の前で膝を折りニッコリ笑ってくれたのはチューリップ2組担当の井村先生だった。その隣にいる先生は体格が良く丸いビン底眼鏡を掛けたおばさんで、井村先生が
「毎日みんなのお昼ご飯を作ってくれる先生ですよ」と紹介してくれた。後に皆から給食のおばさんと呼ばれる事になる先生である。武志と秋子は井村先生に付いてこれから自分が使用するロッカーと机を案内してもらい、そして入園式を行うヒマワリ組の教室へ向かった。この新設九条保育園は1年保育で入園するタンポポ組が1クラス、紀のように2年保育で入園するヒマワリ組も1クラス、そして最も園児の多いチューリップ組が2クラスの総勢4クラス、約100名でのスタートとなる。入園式が執り行われるヒマワリ組へ入ると紀と万知子は既にクラスに馴染んでいる様子で紀はカバンを机の横に掛け、お道具箱もロッカーに入れていた。紀は武志を見つけると側へ寄って来て
「タッチ、俺の組は悪そうなヤツは居らんけどお前の所はどうだ?」と早くも戦闘準備を整えている。武志は気が小さく、とてもそのつもりは無いので気にもしていない。
「紀兄ちゃんは、こん中で一番強いの?」と武志が聞くと
「いや 一人よお、さっき名前聞いたら佐藤って奴だわ、背が高くてよお、アイツは俺一人じゃ勝てんなぁ。でもお前が居ったら勝てるなぁ」と、状況分析は既に済ませていた。紀というのは普段からこのように自分の力を冷静に判断し、常に勝てる方法を考える非常に優れた少年だ。それが彼の持って生まれた特筆すべき固体能力だったという事は彼が母子家庭で育ちながらも現在の地位を獲得した事で証明されていると言えよう。教室が入園児で一杯になった頃、園内放送でこれから開園と入園の式典を行うというお知らせがあり、いよいよ武志達は緊張した。式が始まり、お決まりの来賓挨拶そして園長先生の挨拶が始まった。
「皆さん、第一期九条保育園入園児として明るく元気に育ってください」
という事以外、何を聞いたのか武志の記憶には残らなかったが一つだけ注意された事を武志は覚えている。それは「名前を呼ばれたら必ず思い切り大きな声で返事をする」事だった。
「では、今日から貴方達はこの九条保育園で皆と一緒にお勉強したりお遊戯をしたり、それからお昼ご飯を食べたりします。お友達と仲良くして下さいね。今から皆さんの名前を順番に呼びますから自分の名前が呼ばれたら元気にお返事をして下さいね」
そうして園長先生は年長組のタンポポ組から順に園児一人一人の名前を読み上げていった。
やがて紀の順番がきて名前が呼ばれ「はいっ」と紀は元気に返事をした。そして武志の番だ。「棚本武志君」「はいっ」とこちらも負けずに元気な返事をした。なにせ普段から返事だけは正春に鍛えられている二人である。返事にかけては日本一だ。名前の呼び上げが終わり、式は各クラスに分かれての記念写真に移った。武志のクラスは年少組の2組だから一番後に写真を撮った。武志は自分の番になり雛段に上がる同級生達をよく見た。その中に一人だけ今日のこの式典に不似合いな格好でいる男の子を見つけた。正確には不似合いというより異質さを覚えるよう雰囲気を持っている一人の少年に気がついたのだ。なにせその子は目の運びもそして立居振舞いも独特なのである。先ほど順番に名前を呼ばれた時には全く意識をしていなかったので彼の名前は判らないが武志はその少年が不思議なほど気になった。クラスの記念撮影が終わり、武志達はチューリップ2組の教室へ入った。皆、決められた机に座り、親達は後ろの壁に並んでこれから始まる自己紹介を待った。教壇には井村先生が立ち、改めて挨拶から始めた。再び一人一人の名前が呼ばれる。今度は名前を呼ばれたら起立をして自分の名前を言うのだ。武志はその気になる男の子の名前が呼ばれるのを待った。そうしたら自分が先に呼ばれた。「はいっ。棚本武志です」武志は返事をしてチラッとその気になる子を見遣った。すると向こうもこちらを見ていた。武志は「あの子も自分の事をきにしているのかな?」と感じて、帰りに名前を聞こうと決めた。クラスでの先生のお話が終わり、解散となって各クラスの園児達が一斉に園庭へ出た。紀はクラスの仲間と記念写真を撮っていた。武志も誰とも判らないクラスの仲間と何枚か写真を撮ってもらい、親同士は「宜しくお願いします」の決まり挨拶を終えた。武志は紀とも帰りの挨拶を済ませ、やはり気になるその子を探した。「おぉっいた」武志はその子が先生達の集まっている職員室にいるのを見つけた。武志がそちらの方をじっと見ていると秋子が
「武志、あんた誰か知っとるのか?」と武志の様子が気になるようだった。
「ううん、ただねぇ あの子、僕の事を気にしてるみたい」とその子を指差した。
「だったら行ってきなさい。あの子お前と同じ組の子でしょう?早よ、行きなさい」
武志は秋子にそう言われて職員室に行った。職員室では何人かの先生達と子供のお母さんらしき人達とが打ち解けた雰囲気で話をしていた。その中で気になる彼はお婆さんと見受けられる女性の横に立っていた。武志が知らない人の中で喋る事が出来ないでいるとその子から話し掛けて来た。
「よぉっ、お前ぇ 名前なんて言うんだ?」武志は少々面食らい
「僕?武志だよ」と答えた。彼は
「お前もここに住むの?」武志は
「違うよ。お家にいるよ。だからもうすぐ帰るよ。でさぁ あんた名前何ぃ?」
「俺?細井健司」それを聞いて武志は驚いた。自分と同じ名前を聞いたのは生まれて初めてだったからだ。
「で、オマエここに住んどるのかぁ?」
「おぉ、ここよぉ母子寮なんだわ」なんだか武志には聞き慣れない名前だった。
ここ九条保育園にある母子寮は父親の無い母子の為に設立された施設で九条保育園の職員室はこの五階建ての建物の一階一部分が割り当てられていた。つまり細井君はこの母子寮の住人というわけである。細井君は人見知りしない気質のようで武志に対して屈託のない応じ方をした。
「棚本、お前トカゲのシッポ見た事ある?」と聞いて来た。それまで
「虫なんて触ってはいけません」と教えられてきた武志がそれを知る筈も無い。
「これ、トカゲのシッポだぞ」細井は手のひらにそれを乗せて武志に見せた。
「生きとるのか?」武志は怖がりながらそのトカゲのシッポに触れてみた。長さにして約2センチのモノだが武志はそのトカゲの一部分から全体の形を想像しようとした。しかしどうもよく判らない。
「細井君、トカゲってワニみたいなヤツ?」
「ハハっ?お前トカゲ知らんのか?」細井は笑って武志をバカにした。
「ちょっと来てみぃ」そう言うなり細井は武志の手を引いて母子寮の裏へ連れて行った。
「あのよぉ、今は寒いでトカゲは冬眠しとるでよぉ、こうやって地面を掘らんと出て来んのだわ」ポカンとして立っている武志を余所に細井は母子寮前の道路に面した植込みの土を掘ってみせた。
「棚本?だったっけ?お前もやってみぃ」武志は細井に言われるままに同じ事をしてみた。すると「これこれ、なっ?あるだろう」そう言って細井は死んだようにダラッとしたトカゲを手の平にのせて見せた。
「何ぃ、また死んどるの?」
「アホかお前、だもんで冬眠しとるんだて。今こいつ寝とるんだてぇ」ここまで言われてようやく武志には
「トカゲと寒い季節と冬眠=死んだようになっていて動かない」という図式が理解できた。
「細井、お前そのシッポちぎったの?」武志は最後の疑問を細井に投げた。
「おぉ、でもようトカゲはシッポ切れても死なへんてぇ、お前それも知らんのか?」武志は自分と細井との知識の差が余りに大きくて恥ずかしくなり見栄を切ってこう言った。
「じゃあ怪獣と一緒だなぁ」
「知らんけど、そう言やぁ怪獣みたいな顔しとるなぁ」これで武志と健司は気が合った。この時がこれ以降何度も苗字が変わり辛苦の人生を歩む棚本武志と、そしてこれまた数奇な人生を生きる事になった細井健司との運命的な出会いであった。
「おぃおぃ武志っ、あんた何処行っとるの、探したがね」突然姿を消した武志を探して秋子が母子寮の裏(建物で言えばこちらが正面側であるが)まで来たのだ。
「あっお母さん、ごめんなさい。ねぇねぇ細井君がさぁトカゲの冬眠教えてくれたの」武志は秋子に叱られる前に事情を説明しようと思い早口で言い訳をした。こうすれば殆どの場合、叱られずに済むからである。しかし秋子は怒っている様子もなく笑顔でこっちに向かって来る。
「僕が細井君?」
「はい細井健司です」
「そうなの?家(うち)の武志と同じ名前だね。お勉強机も隣だよね?仲良くしてね」秋子は今、武志達がいない間にいろいろ聞いてきたらしく細井の事を知っていた。
「ねぇ細井君、僕はお母さんと二人だけなの?この母子寮はみんなそうなの?」どうも秋子はこの母子寮に関心があるらしく細井に細かい事まで聞いた。
「部屋は幾つ在るの?トイレは協同?」細井は少し身構えて秋子を睨んだ。そもそも母子寮へ入る親子というのは大なり少なり何か事情があって入所するのであり、父親が何かの理由でいないか、或いは同居出来ないかといった事情を持っている筈であり、当時3歳の細井にしてみればそれは人にあまり知られたくない部分だったのだろう。だから彼は身構えたのだった。
「おばさん、なんでそれを聞きたいの?」細井が秋子に聞いた。この時点では母子寮というものがどのような施設なのかを知らない武志は秋子がどう返事をするか気にもしていなかったが秋子の返事を聞いて武志は驚いた。
「あのねぇこの子もねぇお父さんいないの。だからおばさんねぇ出来たら此所(ここ)に入りたかったの」武志は
「しまった」と思った。というのは、自分に父親がいない事を細井に知られてしまったからである。武志とて、今のいま、仲良くなったばかりの友達に父親がいないという事を知られたくはなかったのである。しかしもう遅い。
武志は秋子にもうそれ以上喋らせないように、覆い被せるように話した。
「だけど僕のお父さんは北海道にいるんだよね?」
「そうだよ。だけど帰って来んからね」それを聞いた細井が
「じゃあどうして母子寮へ入らんの?」と聞くと秋子は
「抽選が当たらなかったの」と答えた。
武志はここで一つの大きな疑問をもった。それは武志なりの考えではあるが
「母子寮は多分、可哀相な親子が入るところだけど僕にはお爺ちゃんもお婆ちゃんもいる。照夫の伯父さんや数美姉ちゃんだっているのに何故お母さんはこの母子寮へ入りたがるのだろうか」という素朴な疑問である。そこで武志は秋子に聞いた。
「お母さんはお爺ちゃんのお家が嫌なの?」
「嫌じゃないけどね・・・」秋子はそこまでで言葉を止めた。
「さぁ、じゃあ細井君、また明日ね。武志と仲良くしてね」秋子はそう言ってその場を離れ保育園の方へ歩いて行った。武志は秋子に付いて行こうとしたが一つだけ細井に聞きたいと思う事があった。
「ねぇ細井君、お前のお母さんさぁ・・・あのさぁ・・・」武志は切り出したのは良いが最後まで言葉にする事が出来なかった。武志はそのまま秋子の後を追いかけて入場門の前で待っていた秋子に思い切りの笑顔を持って抱き付いた。
「お母さん、帰ろぉ」秋子は武志の体を受け止め
「今日はお母さんがご飯作るからねぇ、武志ぃ、何か食べたいモンある?」と聞いた。「カレーライス」武志ちょっぴり酸っぱい入園式はこうして終わった。
第二話「五条保育園と細井君・トカゲのシッポ」
第三話「佐藤君総攻撃」トイレの逆襲
九条保育園での生活が始まり、季節も頃良い6月の事。元々年中組と年少組とに違ったクラスになっていた武志と紀であったが、この九条保育園が新設である事や母子寮の子供達の世話、それよりも不足している先生達の事情もあり、開園から二ヵ月過ぎた今でも園内では全体学習という形が取られていた。一日の生活の区切りは、朝の挨拶、歌のお稽古、お遊び、数のお稽古、お遊び、お遊びとおやつの時間、お部屋でみんなとお遊び、お昼ご飯、お庭で遊びましょう、お絵かき、お昼ね、おやつの時間、言葉のお勉強自由時間、という感じである。6月となると園児達も一日のお稽古生活に慣れ、正確さや自主性が出来てくる頃である。一方、園を預かる先生達も九条保育園が新設という事もあり、全て手探りでのスタートであったがこの頃になると個々の先生達もそれらしく形になっていた。そして温暖な日々が続くようになってきたこの頃、九条保育園ではそろそろ七夕お遊戯会の準備に入っていた。
武志に限らずこの九条保育園に通う園児達は全員が歩いて通園する。通園バスなどという物は高級な幼稚園にしか無く一般の保育園をはじめ、幼稚園でも徒歩通園が当たり前という時代である。したがって武志も当然、棚本の家から歩いて通っていた。
そんなある日、入園式で紀が「アイツには勝てない」と言っていた佐藤君に武志が虐められるという事件が起きた。この頃も園内での生活は一部を除いて全クラスが一同に行われており、休憩時間も皆同じ時間にとっていた。そんなある日、お昼ご飯を食べてお腹が痛くなった武志は一人でトイレに行き、和式トイレに入ろうとしたが、先客がいて中へ入れなかった。トイレには入口の扉は無く、通路から中の様子が確認出来るような作りになっている。そして中の和式トイレには扉が有って中からは鍵を掛ける事が出来ないようにしてあった。これは園児が誤って中から鍵を掛けてしまった時、自分で出られなくなってしまう事を防ぐ為であるが事件はこの鍵がカギとなった。武志は中に人がいる事を知り暫くドアーの前で我慢をしたが、堪えきれなくなり声を掛けた。
「ねぇ、中に誰?いるの」
しかしそう呼んでも返事が無い。武志は漏れそうなお尻を押さえ、半泣きでもう一度声を掛けた。
「僕、お腹痛いから早く出てぇ」すると中から
「お前誰だぁ、俺は佐藤だぁ。トイレは俺のモンだぁ、あっち行けぇ」という返事が返って来た。
武志はその事を先生に言おうと思い部屋へ戻ろうとしたが途中で漏らしてしまった。棚本の家であれば何食わぬ顔をして新しいパンツに履き替えて汚れたものを奏子にバレないように洗い物籠へ放り込めば済むのだが(それは武志が分からないだけで全てバレているのだが)他の園児達が沢山いる所でウンチを漏らしたなどと恥ずかしくて、とても言えない。武志はどうする事も出来ずその場に座り込んでしまった。そこへ紀がやって来て武志の様子がおかしい事に気付き
「タッチ、どうした?ウンコしたか?」と聞いた。
「まだしてないよ。だって佐藤君が入れてくれないもん」武志は泣きながら言い、
「ウンチ漏れたよ」と付け加えた。紀は直ぐに部屋へ戻りお着替え用のパンツを持って来てくれた。そして佐藤君が出て来るのを待った。武志はトイレの中で汚れたお尻を拭き新しいパンツに着替えて部屋へ戻った。そして先生に事の詳細を話し、汚れたパンツをビニール袋へ入れてもらい、その後は普段と変わりなく過ごした。紀と佐藤君は武志が戻って暫くの後、トイレから戻ったが二人とも特別に変わった様子は無かった。武志がトイレから去った後には何も揉めなかったらしい。しかし武志の中にはこの日の屈辱をいつか晴らしてやろうという思いは残っていた。保育園の帰り時間になって何時ものように正春が迎えに来てくれた。紀は住んでいるアパートが九条保育園の裏なので何時も歩いて帰るのだが今日はこちらに向かって歩いて来た。しかも顔つきが険しく、怒っているようだ。武志は今日の不甲斐ない自分を怒っているのだと思い肩を小さくして紀を待った。
「お爺さん、こんにちわ」紀は正春に挨拶をすると直ぐに武志の肩を抱き寄せ
「タッチ、ちょっとこっち来い」と言って二人の話し声が聞こえない位の距離のところまで離れた。紀は武志の耳をグイッと寄せるとこう話を切り出した。
「アイツよぉ、どうも毎日昼飯食ったらトイレ行くみたいだな?」
「アイツって佐藤君?」
「決まっとるがやぁ。でよぉ、お前よぉ、仕返ししたいだろぉ?」紀は自分の弟分をいじめられた仕返しを考えていたのだ。
「うん。だってウンチちびったから頭にくるよ」
「だぁろお?」しかし紀が言うように佐藤君は武志達よりも体が大きくしかもデブではなく筋肉質なのだ。しかも気品があって賢い。おそらく、良い家柄の坊っちゃんだったのだろう。事実、彼は何時も大きな車に迎えに来てもらっていた。
争い事を嫌う武志はあまり乗り気になれなかったが紀のいう事だ。聞かない訳にも行かない。
そんな二人の内緒話を正春が気にしない訳はなく、すかさず二人のもとへ正春が近付いて来た。
「お前ら男のくせに何を内緒話しとるんだ?」しかしそう言う正春の顔は怒ってはいない。それを察して紀が先手を打った。
「お爺さん、タッチがさぁ今日い虐められてさぁ、そんで明日コイツの仕返しをしたろうと思って今話しとるんだわ」それを聞くと正春は
「そうか、だけど相手に怪我はさせるなよ、話をしてからやれ」と納得したようだった。紀は別れ際に「じゃあタッチ、俺の命令通りやればいいで、任せとけな」
と言い残して帰って行った。その日の晩御飯の時、武志は正春に保育園での出来事を全部話した。正春の返事は「やられたら倍にして返せ」という事だった。これで武志は勇気百倍である。翌日は七夕お遊戯会の園庭練習で朝から殆ど外で過ごす一日となった。細井と武志は同じクラスなので歌や踊りの練習も同じグループで行い、一つ年上の紀達は楽器を使うので途中から別のメニューになった。昨日の話を実行するチャンスがなかなか廻って来ないまま時間が過ぎていったが、お昼ご飯を教室で済ませ、お昼のお遊びの時間になって紀が武志に告げた。
「タッチ、今アイツよぉ、トイレ行ったぞ。お前よぉ今からアイツのとこへ行ってよぉ、昨日みたいにトイレに入りたいって言え。アイツまた入れてくれんだろう?そしたら俺が後で行くでよぉ、なぁっ、それから攻撃開始だぞ。いいな?」と、これが紀の命令だった。武志は紀に言われたように先にトイレへ向かった。トイレでは佐藤君が昨日と同じように大便トイレに入っていた。武志は計画どおりに話し掛けた。
「佐藤君、早く出て」佐藤君は昨日と同じく「またお前かぁ、嫌だね」と替えしてきた。そこへ紀が満を持しての登場である。
「おいっ、磯部だっ。磯部紀だ、俺のタッチがトイレに入りたいんだけどよぉ、お前何時までクソしとるんだ。早く出ろ」トイレの中の佐藤君は武志とは違う人が入って来た事を知りながらも出て来る気配は一向に見せない。それどころか
「君達、俺の名前知ってるの?佐藤豊だよ。なんで俺にそんな事言うの?おかしいじゃないの?」と答えたのである。これで紀のスイッチが入った。
「じゅあなぁ、ずっとトイレに入っていればいいじゃん?」紀はそう言うと武志にトイレ掃除用のホースを持って来るように命じた。武志は言われるままに掃除道具の入っている扉を開け、ホースを蛇口に填めた。
「よぉしタッチ、水出せェ」ここでようやく武志は紀の作戦を理解した。ホースからは冷たい水が勢いよく出ている。そのホースを佐藤君が中にいるトイレのドアーの上に向けた紀はホースの先を指で潰し水の勢いを強くした。水は弧を描きドアーの向こう側へ伸びた。
「ひぃーっ、つめたいよぉ。やめろーバカヤロー」佐藤君が喚いているが紀はその手を緩めない。
「おいっタッチ、もう一つあるだろぉ?総攻撃だぁ」武志は紀に言われて参戦した。ドアーの向こう側では文句とも悲鳴とも判らない佐藤君の声が鳴り止まないでいる。そしてとうとう静かになった。「ひぃっ、ひぃっ」どうやら佐藤君は泣き出してしまったようだ。
「おいっ、お前なぁ、またタッチいじめたらどうなるか分かったか?」紀が念を押して勝負はついた。ただし、この後、武志と紀は園長先生から大目玉をもらった事は言うまでもない。そしてこの日を最後に佐藤君は二度と保育園に来なかった。
夕方、何時ものように正春が迎えに来て、そして紀は一人で帰って行った。武志と正春が門を出ようとしたところへ園長先生が走ってやって来た。「また叱られる」武志はそう思った。しかし正春が「おっ?どうしたかね園長さん」と離し掛けると正春に今日の大事件の結果を、苦情でもない、まして褒め言葉でもないのだが、何とも言えぬ笑顔を湛(たた)えて話した。正春は俯(うつむ)きながら園長先生の話を聞いている。しかしその顔は僅かに笑っていた。二人の話が終わり武志は正春の手を引いて家路に就いた。道の途中、武志と正春はこんな話をしながら歩いた。
「武志、お前その子をやっつけてどうだ?」
「うん、すっきりした」
「そうか、もし紀がやらんかったら、お前もやらんかったか?」
「うん」
「喧嘩はなぁ、何をやってもいい。だけどなぁ、殺したらダメだぞ。それからなぁ、相手は一人だろ?お前達は二人だったよなぁ?それはダメだな。喧嘩は一対一でやるもんだ。わかったか?」
「はい」
「ワシもなぁ、昔クラブ(高級酒場)でなぁ、酒を飲んどる時になぁ、急に襲って来た奴に刺された事があってよぉ、その時ワシは若い衆を連れとってなぁ、その若い衆がその襲って来た奴を刺そうとしたけどなぁ、ワシは止めさせたんだ」
「なんで?お爺ちゃん急に攻撃されて相手を掴まえなかったの?」
「そりゃあなぁ、そうだけどよぉ、そいつだって多分な死ぬ気でやって来たわなぁ?だから殺すのは何時でも出来るけどワシはそいつが誰に頼まれて来たのか?それか自分だけの考えでやったのか聞いたんだ」
「で、なんて言ったの?」
「お前、棚本一家の親分だろう、て言っただけで、それ以上何も言わんかった。ワシはそいつも男だって思ったなぁ。だから逃してやったわ」
「謝らなかったの?その人」
「それがよぉ、何日か経ってからそいつが家に来たわ。荷物持ってなぁ、子分にして欲しいって言って来たわ」
「へぇーっ、じゃあその人お爺ちゃんの子分になったの?」
「おぉ、毎日なぁ、屋台引いて仕事したぞ。だけどワシが引退した時にみんな自由にしてやったわ。もうヤクザは要らん時代になったでよぉ」
「その人さぁ、今何処にいるの?」
「なんでぇ、お前、南陽劇場の前でわらび餅食べた事あるだろ?あの人だぞ。すごい勇気のある男だったなぁ」
正春は目を上に向け、懐かしそうに話すのだった。
棚本一家は解散の時、CBCラジオを通して記者会見を行っている。テキ屋と呼ばれた生業は昭和の時代が戦中から戦後へ、そして高度経済成長の時代へと移り行く中で,
その本質を失っていった。棚本一家出身の極道でその後も同じ道を歩んだ男は多くいるけれど、その殆どが立派に大成している。良い悪いは別にしてもそれは正春の哲学がその世界では一級品だった事の証しだと言えるからなのかもしれない。
「なぁ武志、喧嘩はなぁ、やらんでも済むんなら、止めた方がええぞぉ」正春は武志の頭をポンと叩いてそう言った。
「お爺ちゃんは喧嘩した事ないの?」武志は戦争に行った時に正春がどうやって喧嘩をしたのか常々気になっていたのでこの機会に話を聞こうと思った。
「んっ?喧嘩かぁ。昔ワシが兵隊に行ったのはお婆さんから聞いとるか?」無論、武志はその事を聞こうとしているのだ。
「うん、お爺ちゃんは勝ったの?」と武志が聞くと正春は一つ大きく息をして話し始めた。
「昔なぁ、日本がアメリカと喧嘩したんだな。その時ワシも戦ってよぉ、遠いとこ行ってなぁ」
「どこ?歩いて行ったの?」
「ハハハっ、船で行ってなぁ、そしたらそこは死人だらけでなぁ、食べるモンなんて何にも無いし鉄砲もない。ワシは飛行機のエンジンを治すんだけど直してもガソリンが無いだろう。ガソリンが有っても今度はパイロットが居らん。最後は弾が出ん鉄砲で敵に向かって行くんだけどなぁ、向こうは機関銃で撃ってくるんだでなぁ」
「で、どうなるの?」
「みんな殺られるわなぁ。ようけ死んだぞ、死んでも誰も何とも思わんけどな。ワシの友達も死んだし、ワシも死ぬとこだったなぁ」武志は正春の口から出る余りにも悲惨な言葉に返す言葉もなかった。
「でもお爺さんは強かったから助かったの?敵をやっつけたね?」そう言うのが精一杯だった。
「おぉ?違う違う。ワシはなぁ爆弾で足と目をやられて倒れとったらワシの上に知らん奴が倒れて来てそのまま動けんくなってな、で掴まったんだわ」
「それってお爺さん何歳の時?」
「32歳だな、その時はもう秋子も万知子も生まれとったなぁ。隆志も生まれとった。そう言やあ、武志は何年生まれだ?」
「僕?何年だぁ?」武志はまだ自分の生年月日を覚えていなかった。
そんな話が尽きることなく続き・・正春は昔を振り返り今まで生きて来たのかもしれない。幼い武志にもその哀愁は感じ取る事が出来た。武志は話題を変えて
「ねぇ、さっきさぁ園長先生怒ってた?」 と正春に聞いた。
「いや怒っとらへんけどなぁ、お前等がやっつけた子のお父さんなぁ偉い人みたいだな。園長が怒られるって言っとったわ」
「僕のせい?」
「んっ?・・・まぁ、ええがや。その時はワシが話するでよぉ、そう言っといたで」
武志にはよく分からないが何も問題がない訳ではなさそうだった。しかしその後、この件の話は一切聞かなかった。
夕食の時、万知子から電話が掛かって来て奏子が電話を取った。
「ほおうっ、万知子か、何だの?」少し驚いた口調の奏子の様子を見ていた武志は直ぐに「あっ佐藤君の事だ」と思った。と同時に「また叱られる」とも思った。しかし奏子は笑いながら話をしている。
「ほんっ、そうかね、何で紀が持っとるかなぁ?ハハハっ、そんで洗ったのか?・・・ふーん、ハハハ、なにやっとるんだなぁ二人してなぁ?」
奏子は何やら大笑いで喋っている。何か余程おかしいのだろうかと武志も不思議に思った。そして奏子は電話を切ると武志の方を向いてこう言った。
「武志、あんた何処でパンツ替えたの?」武志は焦った。奏子に佐藤君の事は話したがウンチの事は話していなかったからだ。武志はとぼけて
「今日お昼寝の時間にオシッコ漏れて井村先生に言ったよ」
「あんた今日はオシッコじゃないでしょウンチだったでしょ?」
「バレたかぁ」武志は観念した。
「まぁ、ええわ、今よぉ万知子から聞いたで。明日そのパンツ紀と来る時持ってきてくれるとさっ」
武志は今日の事件の事ばかりが頭にあって、昨日紀に替えてもらった汚れたパンツの事をすっかり忘れていたのだ。こうなったら全てを話すしかない。それから武志は事の一部始終を話した。それを聞いた奏子は呆れていた。
「あんたねぇ、自分のパンツぐらい持って帰って来なさい。何で紀のカバンの中に入れるの?」
「だってぇ、急いどったで。でも井村先生は僕のカバンに入れたよ」
「じゃあどうして紀のカバンに入っとるの?お前のパンツには足が生えとるか?」「・・・」
「万知子が気が付いたで良かったけどな、臭いパンツだでなぁ。まぁ、何してもいいけど程々にしないかんよ」
「はい」
「明日さぁ、保育園でねぇ、紀があんたのパンツ洗ったヤツ持ってくるで、ちゃんと貰って来なかんよ、わかった?」
「はい」佐藤君には快勝した武志も奏子には降参だった。しかし、よく考えた作戦ではあったが武志の汚れたパンツの後始末までは気が届かなかったのは子供らしいと言えばそうなのかもしれない。とにかくこうしてトイレの逆襲は終わった。このエピソードは武志が記憶に留める正春の中で最もインパクトの強いものであった。
第三話「佐藤君総攻撃」トイレの逆襲
第四話「七夕様と閃光」最後の七夕
それから数日後、待ちに待った九条保育園第一回七夕お遊戯会の日がやってきた。園児達にとっては、入園以来3ヶ月間の訓練の結果をお披露目する晴れ舞台であり、また九条保育園側にしてみれば開園以来始めての全体行事となる。そして各先生達にとっては教室での日々の訓練の成果を確認する行事でもあり、保護者達にしてみれば幼き子達の成長の姿をその目にする最初の行事でもあった。
この日、園児達もそして先生達も登園は皆浴衣姿である。開始前の時間、園庭はそれこそ華やかに彩られた。子供達に着せた浴衣は親達の自慢だった。カメラを持った家族が絶好のシャッターチャンスを伺っているのか、忙しく動く人の海の中にじっといている人がにいる。昭和40年代初期のこの時代は現代のようなビデオカメラはまだ一般化しておらずそれどころかフィルムのカメラでさえ高級品の部類だった。したがってカメラを持っていない保護者も珍しくはなく、カメラを持っている知人に我が子の晴れ姿を写してもらうという事も珍しくなかった。前行で「疎ら」と記したのはその事である。当然、その貴重品たるカメラを持っている親は多数の親達から依頼を受ける為、大忙しである。「ハイっ 次ぎの子は?ハイハイ一緒に並んでェ」などの言葉が方々で飛び交う。余談だがこの時代のこのような写真には、後々まで本人同士が一度も喋らかった人が写っている事がよくあるのもこのような背景があるのだろう。この点、武志や紀にはカメラを生涯の趣味とする正春がいる。当然この日も来ていた。武志と紀は飾られた笹の前で写真を撮ってもらったり教室に貼り出された絵や粘土で作った作品などを見せたりした。また現在製作中のモノやお掃除の順番など、くまなく説明した。それは孫から祖父への細やかなおもてなしだった。
集合時間になり、園児一同に教室へ集合するアナウンスが流れ、これも見事に全員素早く行動した。
「ハーイッ」の掛け声と共に見事に走り出した園児等を見て親達から嘆声が上がった。
実は保育園での普段の生活では出来ない事を出来るようにする事も大切であるが、このような団体で規律正しく、しかも正確にそして素早く行動する事に眼目を置いていた。その成果を親や家族に見てもらう事こそこうした「発表会」の本当の目的であろう。
朝の挨拶が終わり、園児達に作品が配られた。自分が作ってきた動物の顔の塗絵に画用紙で作ったリングが付けられたお面だ。それはどれも見事に個性を反映していた。細井はカエルの顔、武志は猫。本人はトラのつもりだったが先生に「棚本武志君はネコ!」と言われて本人も「僕はネコを作りました」と認めたものだ。紀は武志と違って立派なトラだった。因みに武志のネコはお絵描きの時間中、紀が描いていたトラを一生懸命真似たものであったが所詮、トラにはなれずネコになったという事である。そして各教室の前には園児一人一人の願いが書かれた短冊がキラ星の如く掛けられた笹が飾ってある。子供たちの願いごとは実に様々で、「ハンバーグ食べたい」とか「お花畑に住みたい」或いは「リカちゃんが欲しい」「宇宙へ行きたい」など、誠に夢に希望にあふれる願い事が掛けられていた。
各教室で園児一同は準備を整え先生の引率で入場門へ向かった。入場門は武志達の教室棟と職員室棟が直角に隣り合う場所でここは丁度あのビン底眼鏡でユニークなおばさんが皆の給食を作ってくれる大厨房の前である。その給食のおばさんも今日は世話が刈りにまわっていた。そしてこの場所は今年の夏から園児達が使うプールを造っている最中で地面にはブルーシートが敷かれていた。武志達年少組は演目が一番初めという事で先頭に並び入場行進の音楽が始まるのを待った。今日は七夕発表会という事でそれぞれの園児が、そしてそれぞれの職員達が本番に向けて緊張しているのだが武志は別の事を考えていた。それは今日のお昼ご飯の事だった。というのはこの日の昼食は園児達の教室で保護者達も一緒に食べる事になっているからだ。しかも今日はお弁当を食べる。武志は秋子が作った弁当を一緒に食べるのをとても楽しみにしていたのである。しかし武が楽しみにしている事はもう一つあった。武志は細井のお母さんがどんな人なのか以前からずっと気にしていた。それは細井とは何度となくお互いの母親について話をしているが彼の話をどれだけ聞いても武志にはその母親像が頭に浮かばないからだった。細井の話から感じ取れるのは、細井のお母さんは、とても年寄りでまるでお婆さんの様である事。そして多分、本当の親子ではないという事だけだった。それらは幼いながらも自らの生い立ちにどこか不自然なものを感じていた武志にとって、どうしても納得しておきたい事だったのである。その感覚は経験した者でなければ理解できないかもしれないが。
そんな思いを頭の中で巡らせなが行進の足踏みをしていると誰かが武志の左肩をポンと叩いた。振り向くとそれは紀だった。
「おいっ、タッチ、お前の母ちゃん来とるなぁ?良かったなぁ」と声をかけてくれた。「紀兄ちゃんは?万知子の叔母さん来とる?」
「いや母ちゃんは仕事だで後から来るわ」
特に必要な事ではないのだがこういう時というのは誰ともなく話をしたくなるものだ。それも緊張しているという事なのだろうか、とにかくみんな落ち着かないのだ。その時「はい、ではチューリップ1組の入場です」とアナウンスが入った。いよいよ演目の開始である。チューリップ1組に続いて武志の2組、そして紀達の年中のヒマワリ組、最後に年長のタンポポ組が隊列を整えての入場である。
園庭に園児達が整然と並ぶと園長先生のお話が始まった。約100人の園児達の中にはちょろちょろと動きまわり落ち着かない子もいるが全体としては非常に訓練の行き届いた動きをした。井村先生も武志の列のみならず園児達全体を前から後ろから何度も行き来し、ややもすれば散らばりかける隊形を巧みにコントロールした。その捌きは正に職人芸と呼べるものだった。実は先生達の中で経験者として赴任したのは園長先生とこの井村先生だけであり、他数名の先生達はすべて新任の先生だった。したがってこの九条保育園の運営と保育業務は事実上、園長と井村の二人で推し進めていたとも言える。園長先生も井村先生の実力を高く評価しており、然して後に井村先生は九条保育園の園長に就任している。また武志は中学2年生時代にこの九条保育園を訪れ、井村先生に対面している。
武志のチューリップ1組のフォークダンスや大縄跳び、紀達の歌など園児達の演目は次々と進められ午前中の大取りは年長組の鼓笛楽舞で締め括られ、拍手喝采の中で午前の部が終わった。園内放送で「それではこれより保護者の方々はお子様とご一緒に教室の方で昼食を……」とアナウンスが掛かりそれぞれの親子はそれぞれの教室へ入った。教室は普段の生活人数の倍となる数を収容出来る程の広さはなく、しかも机は子供サイズの物である。当然、教室の中は過密状態となったが誰彼となく幾つかの机を寄せ集めて一つの大きな机にして、それが四つ作られた。親達は子供達の手際の良さに再び驚きの感を持った。これも井村先生の普段からの教育の成果だった。席への据わり方も特に指示される事なく自然に決まった。武志は細井の向かい側で秋子は武の左側に座ったのだが細井は一人だった。その横には誰もいないのである。
「細井、お前お母さんは?」武志には黙って座っている細いが寂しそうに見えた。教室の中はお弁当の包みを開く音が賑やかなのに細井は小恥ずかしそうに小さな新聞紙の包みを机の上に乗せただけだった。その時武志にはそれが何であるのか分からなかった。「武志、あんたお握りは海苔がピッタリくっ着いてないと嫌だよね?」
秋子がボーッとしている武志に「何しとるの、早く食べなさい」という感じでお握りを取ってくれた。
「はい。お母さん、おかずこんなにあるでさぁ、この子に少しあげていい?」武志には細井が可哀相に思えたので秋子にそう言った。細井は机の上で新聞の包みを開き、二つのお握りだけが乗っている白いお皿を大事そうに、いや多分恥ずかしそうに両方の腕で半ば隠すようにして、そして前屈みで食べ始めた。自分だけが周りと違う恥ずかしさの中で「有るべきものが無い」恥ずかしさというものは子供にとってこれ程辛いものはない。それを武志は嫌という程味わってきた。武志はこの時涙が溢れそうになるのをぐっと堪えた。秋子は「じゃあ僕ねぇ、武志と二人で食べなさい」と言って作ってきたおかずの中からハンバーグとウインナー、そして玉子焼きを弁当箱の蓋に乗せて分けてくれた。武志はそれを細井に近い方へ置いて「さぁ食べよまい」と言ってウインナーを一つ取り細井のお握りの横に乗せてあげた。
「おい細井、お前お弁当ってそれだけか?」無口なままでいる細いに武志は何気なく聞いたつもりだったがどうもその言葉が細井には気に入らなかったらしい。細井は視線を合わせる事なく武志に
「要らん」と言ってせっかく武志が乗せたウインナーを突き返したのだ。
「なんでぇ?美味いぞ、俺のお母さんの作ったウインナー要らんのか?」武志は少し腹が立ってきた。しかし細井はそれでもまだ黙っている。
「武志、細井君はお腹減ってないんだわ」秋子がそう言うとようやく細井が口を開いた。「お腹へっとるよ。だけど俺そういうの食べんでいいわ。ありがとなぁ」
「なんでぇ、嫌いかぁ?」武志は大好きなベタベタ海苔のお握りを食べながら尚も聞いたが「俺は食べんで、要らんよ」と細井は素っ気ない返事だった。
細井は秋子が作ってきた弁当のおかずに手を付ける事はなかった。そして武志も秋子もお弁当を食べ終えた頃武志の教室に紀と万知子がやって来た。
「紀兄ちゃん、もう食べたぁ?」万知子は会社を半日で上がって駆け付けたらしくワンピースとジャケットをビシッと着こなしていた。大勢いるお母さん達の中でも一際目立つ美人の万知子は紀の自慢でもあった。そんな万知子が武志のところへ寄って来てミカンをくれた。
「姉ちゃん達、果物盛って来とらんでしょう?わたし沢山持って来たでこれ食べやあ」「伯母ちゃんありがとう」武志がみかん好きなのを万知子は知っていたので気を利かして持ってきてくれたのだった。
「万知子の叔母さん、もう帰らない?終わりまでいるの?」武志が少しだけ紀に気にかけ万知子に聞くと
「うん、今日は七夕さんでしょう、終わりまで居るよ」それで武志は安心した。
「紀兄ちゃん、良かったね」と、これは朝の紀がくれた気遣いへのお返しだった。
お昼休みが終わり午後の演目が開始される時間が近付いて来た。毎日の練習で時間の区切りには慣れている園児達であるが今日は本番の日であり、家族が一緒にいる保育園というものは言ってみれば入 園指揮イライ園児達は、やや緊張した気分になってきた。そこへ井村先生と園長先生がやって来た。園長先生が「はーい、みなさーん、午前中はとっても上手でしたねぇ。さぁ、お昼からも元気でがんばりましょうねぇ、わかりましたかぁ?」「はーいっ」続いて井村先生が「みなさん、これから全員でキラキラ星をやりますが、お家の人が誰も来てない人はいますか?」と尋ねると武志達は一斉に自分の周りをぐるぐる見渡した。誰が手を上げるか気になるのだ。しかしこういう雰囲気の中で子供達は意外な程それぞれの個性を見せるものだ。ある園児は自分の母親に身を寄せ、また別の園児は下を向く。中には友達を指差してその友達の親が来ている事を確認したりする。躾が良い悪いは別として、親が来ていない子の名前を大きな声で呼ぶ園児もいる。武志は細井のお母さんが来ていな・u桙「事を知っていたので演目の時、彼がどうなるのか心配だった。その時細井が手を上げて井村先生を呼んだ。武志は細井が自分の母親が来ていない事を言うのだろうと思っていたがそうではなかった。「先生、大川和文(おおかかずふみ)君のお母さんが来てないよ」なんと細井は自分ではなく彼と同じ母子寮に住む大川の事を言ったのである。井村先生は「あれ?細井君もお母さん来てないよね?」細井は黙って頷いた。「分かりました。じゃあね、大川君は給食の先生と並んで下さいね、細井君は私と一緒に踊りましょう。他にお家の人がいない人はいませんか?」井村先生が再度確認するともう一人手を上げる園児がいた。それは古田友子(ふるたともこ)だった。彼女も母子寮の子で、結局三人の園児が保護者不在という事が分かった。そしてこの三人は皆が母子寮の子でチューリップ1組2組 合わせての全員であった。母子寮に住む子供達の母親が全員不参加だった理由は判らないが何か特別な理由があったのだろう。古田友子とは新任の若い先生が組むという事でようやくペアーが決まった。ーピンポンパンポン…ー午後の演目開始のチャイムが鳴った。「じゃあなぁ w)??タッチ達も頑張れよ」紀と万知子は隣りのヒマワリ組の教室へ戻って行き、それから園児全員は朝と同じように入場門に集合した。朝と違っているのは隣りに保護者がいるという事だが、そのせいか園児達は皆朝に比べ落ち着きがなく浮かれているようであった。そこへすかさず井村先生の激励が飛んだ。「はーい皆さん、最後だからね、しっかりしなさい。そこっ、ふらふらしないの、列を崩さないよ」とは言うもののそこはまだ小さい子供達である。列は整えたが顔は皆左上を見ている。仕方のない事だ。キラキラ星の音楽とともに行進が始まり園児全員が園庭の真ん中に円を作った。円の中には若い先生達が入り踊りの見本として忙しく踊る。ー笹の葉サラサラー園児達も親達も音楽に合わせて踊った。ある園児は若い母親と、またある園児は父親と。中には親が忙しくて来れないのか或いは兄弟が一緒に来ているのか園児とそれ程歳が違わない子供同士のペアーもある。そして細井は井村先生と踊り、大川も古田も無事に踊っていた。あっちと言わずこっちと言わずキャーキャーピーピー言いながらの踊りは楽しく終わった。これで九条保育園第一期生園児達の七夕発表会は終わった。園児達は一旦教室へ戻り、お別れの挨拶をして解散となった。武志と秋子は紀と万知子にお疲れ様の挨拶をして園庭へ出るとそこに正春がカメラを持って立っていた。「おい、武志、写真撮るでそこの笹の前で並べ。紀はどこ行ったぁ?」正春は朝の演目を少し見て一度家に帰ったのだが七夕発表会が終わる頃を見計らって戻って来たのだった。武志は急いで紀を追いかけ呼び戻した。「紀兄ちゃん、お爺ち・u桙痰・が写真撮るで来いって」「うーん、ほんじゃあ行くわ」紀と武志は正春に言われたようにチューリップ2組の前に飾ってある笹の前に戻った。実は普段中の良い武志と紀だが二人揃っての写真は意外な程少ない。正春はその事を気にしているのか今日のように二人が揃う時は必ず写真を撮るようにしていた。笹の前に並んだ二人にカメラを構える正春から注文が飛ぶ。
「おい、もう少し右だ。違う、こっちだ、そうそう。動くなっ」声と身振りで指示をする。
「秋子、お前武志と二人でそこに立て」最後は武志と秋子二人の写真を何枚も撮ってくれた。この数年後に他界する正春のそれはまるで遺言のような撮影であった。
この時の写真は武志が所持する仏壇の引き出しの中に今も眠っている。
その夜、武志はベッドに入ってからなかなか寝付けなかった。それは昼間の興奮から覚めなかったという事ではなく、例の左足首の痛みが起きたからだった。斜頚から来る持病のあの激痛がさっきから続いているのだ。この激痛は度々武志を苦しめるのだがそれも決まって夜に起きる。その度に自分で揉んだり、或いは正春特製で、片栗粉と小麦粉を卵白で混ぜ合わせたものに少しの酢を入れた湿布薬を貼ったりして軽度であればそれで痛みは収まるのだが、この日のような激痛の場合はサロンパスを貼るか、または秋子に擦ってもらわなければ治らなかった。サロンパスは速効性があり貼ればたちまちの内に痛みが消えるのだがこの時代では意外と高価なものだった為、殆どの場合はやはり秋子に擦ってもらっていた。秋子の手に掛かると不思議と痛みは和らぎ、そしていつの間にか眠れるのだった。武志は布団の中で痛む足をシーツで擦りぎりぎりまで痛みを我慢したが堪え切れずとうとう泣き出してしまった。武志の様子がおかしいと気付き秋子が
「なにぃ、また足が痛いのか?」と聞くと武志は
「お母さん、揉んで」と甘えた。
「じゃあこっち向きなね」秋子はお尻を向けている武志に自分の方へ足を出すよう言った。武志はクルリと体を回して痛む左足を秋子の太腿の間に差し込んだ。こうするのは秋子が体を測位にして腕を下に伸ばすと丁度手の位置に武志の左足首が来るからである。武志が秋子の右側に寝るのはこの事があるからだ。秋子は武志の足をゆっくりと揉み始めた。すると魔法をかけられたように徐々に痛みが消えて行く。母親の手というものは誠に不思議な力を持っている。実はこれまでにも武志は何度も足首の痛みを医者に相談していた。しかもそれは町医者ではなく名古屋大学や中京、そして日赤という一流の総合病院である。しかし毎回返ってくる答えはどこの病院でも「原因は解るが直す事は出来ない」というものだった。その痛みを秋子の魔法の手はものの数分で無くしてしまうのである。親の愛情とはそういうものなのかもしれない。痛みが少しずつ小さくなり、やがて武志は眠りに入ろうとしていた。その時秋子の手がスッと止った。まだ完全に痛みが消えていない武志は
「どうしたの?」と秋子の顔を見た。
「武志、あんたやっぱりお父さん欲しい?」それは突然の言葉だった。武志は耳を疑った。
「えっ?何?」秋子は一度止めた手を再び動かしながらもう一度言った。
「お父さん欲しいよね?」
「うん。でもさぁ、北海道にいるから来られないんでしょ?」
武志にしてみれば当の昔に諦めた事である。なぜ秋子が今またそんな事を言うのか?と武志は考えた。
「ねぇお母さん、お父さんは誰か知らないけど照夫の伯父さんが僕には他のみんながいるから僕にはお父さん要らないって言っていたよ」
「だけどね、もしお父さんみたいな人がいたら良いでしょう?」
「うん。でもいないもん」武志は話をするうちに次第に眠気が遠のいていった。
「今度さぁ、武志のお父さんになるかもしれない人が来るの。会いたい?」その瞬間、武志の頭に閃光が走った。どう考えても自分には絶対に無い「お父さん」が来ると言うのだ。武志は足の痛さもそして眠さも一辺に吹き飛んだようで胸が高鳴るのだった。
「お父さん?んっ?どんな人かな?何でも買ってくれるのかな?手を繋いでくれるかな?お風呂にいれてくれるかな?」
武志の頭の中が高速に回った。
「お母さん、そのお父さんはおじさんなの?」
「そうだよ。あんたが小さい時にオムツを替えてくれた事もあるよ。あんたは覚えてないかなぁ?だけと優しい人だでね」
秋子はとても優しそうに、そう言うのだった。
「もういい。治った」
武志は足の痛みが治まってきたので秋子の両足から左足を抜いた。
「お休みなさい」と武志は秋子に告げ、元のように秋子のお尻に自分のお尻を付ける態勢に戻り、強く目を閉じた。
「僕にもお父さんかぁ、へへっ」我慢しようにも、どうにも我慢できない嬉しさに浸りながら武志は眠った。「僕のお父さん」
第四話「七夕様と閃光」最後の七夕
第一話「偽りの真実?」CAVERNの喫茶店
九条保育園の七夕発表会も終わり夏休みに入って数日が過ぎた頃。
武志は数美の算数猛特訓に精を出していた。何しろ一問でも出来なければ最初からやり直しである。出される問題は二種類で、一つは時計の見方、そしてもう一つが足し算と引き算である。数美の問題は何時も突然やって来る。例えば、
「時計を見なさい。今、何時?」というのが序章で問題はその後に出て来る。
「武志、今から45分前は何時何分?」といった具合である。またその反対に
「あと23分経ったら何時何分?」という問題もある。そして武志が最も苦手にしているのが「17人いました。9人帰りました。残りは何人?」という引き算だった。しかも数美は必ず時計を見る事が出来ない場所でその問題を出すのである。身の周りに何か参考になるものが無い状況での問題ばかりで、武にとっては何時だって実力テストだった。しかし数美は武志の事を可愛く思っていることは疑いのない事である。したがってそのスパルタ教育も愛情が有ってのものだった。ある日の夕方、武志が正春と二人でテレビの相撲中継を観ていると数美が武志のところへやって来てこう言った。「武志ぃ、あんたジュース飲みたくない?」武志は
「今は要らない」と答えた。すると数美は
「ええでぇ、飲みゃぁてぇ」と言って強引だ。
「武志ぃ、今からさぁ、私ねぇ、友達と喫茶店行くけどあんたも来やぁ」どうやら数美は今から行く喫茶店に武志を連れ出したいらしいのだった。
「じゃあさぁ、コーヒー牛乳ある?」
「いいよ、ペプシも有るしカルピスも有るで早よ行こ。私達は冷コ飲むで、あんたは好きなの飲めば良いでさぁ」それで武志は生まれて初めて珈琲専門店へ入る事になった。話が決まって足早に裏口から真中ショッピへ入って行く数美に付いて行くと丁度洋服屋の前を抜けて外の道徳通りに出た所一人のお姉さんがこちらを見て立っていた。よく見るとあのお姉さんだ。それは秋子が帰って来た日に敷島湯で武志の怪獣をポキリとやったあの綺麗なお姉さんだった。
「あっ」武志は嬉しくてお姉さんのお腹に飛び込んだ。
「わあーっ、ねぇねぇ少し大きくなったよね?武志君さぁ今夏休みだよね?いいなあ」お姉さんは武志の頭や背中、胸など至る所をサワサワと触りながら喋りまくった。まるでペットに触るようだ。武志はお姉さんを見上げて
「でもお勉強あるから楽しくない」と正直だ。
「なんでぇ、私が教えとるんだで我慢しやぁ。あんたがなかなか覚えんで悪いんだでね」数美は口を尖らせながらも笑ってそう言った。
「でさぁ数美、何処入る?」
「そうだね、あそこでいいがね。ほんで里美ねぇ、あんたノート持って来た?」
「うん、中で見せるわ」今日二人が会うのは数美が里美のノートを見せてもらう為らしい。数美が武志を強引に連れ出したのは、所謂マスコットが欲しかったからなのかもしれないがこの時代、喫茶店に未成年が入る事は社会通念上、好ましいとは思われないという背景があった事も事実で、数美達も心のどこかで引け目を感じていた筈である。それで対抗処置という意味で武志を連れ出したのかもしれない。まぁこれも年頃の乙女達の夏のセレモニーという事だろう。数美達が入ろうとする喫茶店は当時流行の純喫茶「CAVERN」だった。日本がビートルズフィーバーで盛り上がっていた時代であるからこの類いの名前を冠した喫茶店は全国に数え切れない程誕生していたのではないか。三人は店内へ入り薄暗い中を不慣れな趣でテーブル席についた。武志は里美の手招きに従い彼女の隣りへ座った。「ちょっとぉ、武志君もうちょっとひっつきゃあって」里美が武志の小さな体を力づくでグイッと寄せた。彼女は本当に力持ちである。
「里美姉ちゃんて力持ちだね」武志がそう言うと
「うるさいワ、ちょっと人より強いだけなの、へへっ」と照れていた。
数美がテーブルに置かれているメニューを開くと直ぐさまマスターがオーダーを聞きに来た。
「御注文は?」
「里美、あんた冷コでいい?私もそれにするけど」
「いいよ。武志君は?」
「・・・」「この子はコーヒー牛乳だって」各々飲みたいものが決まり数美がオーダーをお願いした。
「すいません、冷コ二つと、それからこの子はコーヒー牛乳が良いんですけど有りますか?」マスターはニコリと笑って
「はい、分りました。アイスコーヒー二つと特製コーヒー牛乳ですね。暫くお待ち下さい」マスターはオーダーを聞いてカウンターの中へ戻って行った。
「ねえ、数学のさぁ、あのセンコーうっるさいねぇ?」
「でっしょぉー、こないだなんかさぁ、私が何にもしとらんのにさぁ、机の下に消しゴム落としただけで『おい、コソコソするな』って言うんだにぃ、アッタマくるでかんわぁ」
「あの先生はダメだわ、宿題スッゴイ出すくせに答え合わせしーへんも。私は宿題やってくけど答え合わせなんか一辺もやらへんでかんわぁ」何とも乙女の本音の会話だが若さ爆発の姿でもある。武志は数美達二人の会話には入れないので黙ってその話を聞いていたが、棚本の家にはないエアコンが効いて、しかも静かに音楽が流れている店内に居たら次第に眠くなり、ついコクリとなってしまった。それで数美が武志を放ったらかしにしている事に気付き話の埃を武志に向けてくれた。
「ねぇ武志あんたさぁ、お母さんお酒呑んでない?」これたま武志の眠気が吹き飛ぶ質問である。
「えっ?数美ぃ、この子のお母さんさぁ、この前お風呂屋さんで会ったよ。なんでぇ、お酒呑むの?」
「うん、でもさぁ病気だでしゃあないんだけどね。この子も可哀相だけどさぁ、お父さんも居らんでね」
「どうしてぇ、数美ん家ぃお金持ちだがね。だってあの市場もやっとるんでしょう?ほんで何でお父さん居らんの?」数美は明志の顔をチラッと見て
「まぁいいがね、いろいろ事情が有ってさ、この子のお父さんは別れて逃げてったんだわ」その言葉に武志が反応した。
「逃げたんじゃないよ。北海道にいるの」
「あんた知らんのかぁ?武一さんはねぇ・・・」そこまでで数美の言葉は止った。
武志の隣にいる里美は武志と数美の会話に唖然として黙っている。
「僕のお父さんは本当はねぇ・・・もうすぐ来るよ」武志は先日、秋子から聞いた事を思い出して言ったがそれは武志の大見栄だった。
「ほんと?帰って来るの?誰が言ったのそんな事。私聞いてないよ」
「んっ?・・・」武志はそれ以上何も言えなくなってしまった。そこへ数美が追い討ちを掛けた。
「その人って武一さんじゃないでしょ?だいたいあんた、あの人の顔知らん筈だでねぇ。えーっ?誰ぇー?」数美の口からは武志の思いが及ばない事ばかり出て来る。武志自信も秋子から聞いている内容は、ごく僅かであるから数美の話しに対応出来ないのが実情だった。しかし武志には
「もうすぐ自分にはお父さんが出来る」という望みが有ってそれは確かに武志の心の中の太い柱になっていた。だから一歩も引かないのだ。
「数美姉ちゃん、僕のお父さんはねぇ、僕の小さい時オムツ替えてくれたんだよ。僕は覚えてないけどすごい優しいんだよ。もうすぐ来るもん。お母さんが言ったもん」武志は黙っているべき事を全て話した。それが数美にとっては寝耳に水である事など幼い武志には判る筈はない。数美は今初めて聞く武志の言葉を聞き流した。その後暫くして場は解散して武志と数美は棚本の家に戻った。そして夕食の時、数美は何気なく、そして武志に気を遣いながら秋子に尋ねた。
「秋子姉さん、武一さんって、また戻って来るかもしれんの?」その言葉で秋子の顔色が一変した。秋子は慌てて答えた。
「あの人は別れてから一回も電話しとらんで来んよ。何で来るの?誰がそんな事言ったの?」頭の切れる数美は秋子のその返事の仕方でオ凡その見当がついたようで、それ以上聞くのを止めた。
「だよねぇ、だってあの人さぁ、秋子姉さんが病院で大変な時にさぁお兄さん達に」「数美、もういいがや、武志が聞いとるで止めろ」数美の話を遮ったのは照夫だった。武志は数美が言いかけた話の続きを聞きたいと思ったが心の中で迷った。
「聞かない方が多分みんな怒らないかな?」と。
やがて夕食が終わり、テレビではプロレスを放送していた。狭いリングの中でジャイアント馬場と外国人レスラーが戦っていた。
「出るかぁー、32文キックゥ、」毎度のお決まりピターンだ。
「おーっ、武志、また馬場が勝ったなぁ」そう言いながら正春は一人で二階へ上がって行った。いつしか居間には奏子と秋子、そして武志だけが残った。少し時間が流れ、そろそろ二階へ上がろうとする秋子に奏子が話し掛けた。
「秋子、あんた、まさかあの人が来るんじゃないよね?」そう言われて秋子は少しとぼけた感じで答えた。
「えっ?あの人って誰ぇ?」
「誰ぇって、武一がまた来る訳ないがね。そしたら菊池に決まっとるがね。あんた、またあの男思い出したんか?やめときゃあよ」
「心配しんでいいって、私、何にもせんで」奏子は秋子の言葉を信じてはいない様子だったが武志にこれ以上聞かせる話ではないと判断したのか
「そんならいいけど、まぁ、頼むよ」とだけ言って炊事場へ行った。
そして武志と秋子も二階へ上がりベッドに入った。
「お母さん、僕のお父さんはみんな嫌いなの?可哀相だよお父さん」武志は数美の話や照夫の反応、そしてさっきの奏子の口振りを考えると、そう思わずにはいられなかった。
「武志、あんたは私の大事な子。あんたは私のお腹を切って生まれてきたんだよ。だであんたを不幸せにはせんから。ねっ、だで早く寝なさい。明後日来るよ、お前のお父さんになる人」
「うん。わかった。でねぇ、その話は内緒だよね?」
「誰にも言ったらダメだよ、お休み」
「お休みなさい」武志の運命の出会いが近付いてくる。武志は高鳴る胸を押さえきれないまま眠った。この夜、武志は何故か深く眠る事ができた。その夜の眠りは後々の武志が振り返ってもこの夜以上の眠りは二度と無かったと言う程の深い、そして気持ちの良い眠りだった。
第一話「偽りの真実?」CAVERNの喫茶店
第二話「混沌」動き始めた時
暑い日々が続く夏休み。武志は一人っ子で兄弟はいない。たまには近所の友達の家に遊びに行ったりはするが、どの家に行っても友達はお父さんと遊んだりしている。武志はそういう光景を見るのが嫌だった。僻むわけではないが何かガラスの向こう側を見ているようで手が届かない世界の出来事に思えるのだった。そういう意味では一般の子供達が歓ぶ筈の夏休みは武志に限っていえば大して楽しいものではなかった。唯一、楽しいと言えるのはテレビ番組を沢山観られることくらいであった。
朝ご飯を食べてからが暇になるというそんな毎日に変化が起きたのはお盆の頃だった。東洋レーヨンで働いている秋子もお盆休みに入りここ数日間は朝からずっと一緒にいられる。家からあまり外出しない秋子は武志の遊び相手をよくしてくれた。そんなある日の事、棚本の家族全員が朝ご飯を済ませ、数美は出掛け、そして正春は向かいの泉楽パチンコへ出掛けた。正春は一度パチンコへ行くと武志が呼びに行くまで戻らない。照夫は車で何処かへ出掛けて行った。奏子は町内会の寄り合いがあると言って大荷物を用意して朝から敷島湯へ行った。この時、棚本の家にいるのは愛犬エルと武志、そして秋子だけだった。その秋子もさっきから姿が見えない。武志は居間で夏休みニコニコ大行進のテレビを見ていたが次第に眠くなり、少し眠ってしまった。その時である。土間の方から聞き慣れない男の人の声がした。
「あのよお、僕だれ?」武志は驚いて飛び起きた。
「えっ僕?武志だよ。おじちゃんは誰?」
「そうか、大きくなったな。お母さんは?」そのおじさんは自分の名前を言わず秋子の事を聞いた。
「ちょっと菊池、ここは来ていかんて言ったがね」今まで何処に居たのか分からないがおじさんの声を聞いて秋子が小声で怒鳴りながら走って来た。
「あっお母さん、このおじちゃんがねぇ、お母さん探してたの」
「武志、この事喋ったらいかんよ。内緒だよ」武志の状況説明など聞く余裕は無く、秋子はとても慌てていた。武志には何がどうなっているのか分からなかったが異常事態である事は理解できた。秋子とおじちゃんは何か約束をしていたようで、キョトンとする武志に見向きする事なく声を殺して話をしている。その話が終わると秋子は武志に向かってこう言った。
「武志、このおじちゃんの事お婆さんやお爺さんに話したらだめだよ。誰にも言ったらいかんよ」
「はい。でもどうして?」
「また今度ゆっくりね」秋子がそう言い終わるとおじさんは
「じゃあ武坊、またな」と言って帰って行った。それから暫くの間、秋子は黙ったまま何かを考えているようだったが「ふぅーっ」一つ長い溜息を吐き思い切ったように呟いた。
「武志、お母さんもう決めたから」
「何?」武志にはその秋子の決断の意味が分からず、聞いたのだが秋子はその後何も話さなかった。この時武志の胸の中に初めて秋子との距離感が生れた。武志は言い表せないような孤独感に包まれた。アスペルガーとして生れた武志がその後の人生で常に孤独感と共に生きる事になったきっかけが有ったとするならばそれはこの時の出来事だったと後に武志自身は回想している。高次機能障害と言われるアスペルガー症候群は病気ではなく体質であるとされる。凡そ100人に数人の割合で存在するのだが実は武志は生涯に渡ってその詳しい診察を受けた事は一度もない。それはその診察を受けるまでもなく、自身が、興味を示す範囲が極めて狭い事、特化した事に非常に拘る事、通常では怒らないような事に対して怒りやすい事、そして友好関係が上手くなく限られた人としか仲良く出来ない事などを自問自答してゆく中で否応なしに思い知らされた事がアスペルガーを確信させていたからである。
秋子が俯く武志に話し掛けた。
「武志、お小遣いあげるからコレと同じもん買って来て」秋子は前掛けのポケットからウィスキーのポケット瓶を出した。それを見て武志は驚き叫んだ
「お母さん、お酒もう呑まんって言ったがね。また病気になるよ」しかし秋子は笑って「大丈夫、ならへんで。あのねぇ、今日は嬉しいの。だで少しだけ呑みたいの。いい?絶対お婆さん達には内緒だでね」秋子は念を押してそれから武志に小銭を渡して背中をポンと叩いた。納得出来ない武志は秋子に一つだけ聞いた。
「買いに行かないならどうなるの?」そう聞かれて秋子は意を決したように答えた。「お母さんと別々になるよ。それでもいいの?」それは武志にとって、とても辛い言葉だった。しかし秋子はもう既に何かを決心しているようだった。武志が何を言っても聞き入れてはくれない雰囲気を作っていたのだ。武志はせっかく母の病気が治り、ようやく親子らしい生活をするようになった今の自分を無くしたくはないと思った。
「分かった。じゃあお母さんここで待っててくれる?」武志は半泣きで秋子を見上げた。
「あっ、この瓶持って行って替えっこして来て」秋子は持っている空瓶を武志に持たせ送り出した。
武志が表に出ると沢山の人達がいて賑やかだった。買い物に来ている人達、親子で手を繋いで歩いている人達、前の道路を行き交う車の数々。武志は母親を失いたくないという思いとは裏腹に、その大切な母親に決して呑ませたくないものを買いに行くのである。しかもそれは母親自身が望んでいる事だ。武志が、「自分は周りの世界と何処かの何かが違う」と感じ始めたのはこの頃だったのかもしれない。酒屋に入ると中には何とも言えない匂いが籠り武志には苦痛だった。加えて煙草の煙も充満しており武志は一刻も早くこの店を出ようと思ったが秋子に頼まれたものを買わなければいけないので建ち並ぶ大人達の間に分け入った。
「おじさん、これと同じのちょうだい」武志は握り締めていたウィスキーのポケット瓶を店主に渡した。
「はーい僕ぅ、お遣いかな?誰が呑むの?」店主はどう見ても酒屋には不似合いな武志を見て、からかっているようだった。しかし武志は大真面目である
「誰でもいいじゃん、早くしてね」と、それが精一杯だった。
「この子よぉ、そこの親分とこの子だろう?」お客さんの一人がそう言うとまた別の人が「そうかぁ、この子が娘さんの子かぁ」と言う。武志はそれを黙って聞き、そしてその時を耐えた。
「じゃあハイっ」
「ありがとっ」店主が新しいポケット瓶をくれて武志は代金を払い急いで酒屋を出た。そして半ズボンの小さなポケットに入れて秋子の元へ戻ったのである。それから数日の後も秋子は度々武志にお遣いに行かせた。当然、秋子は毎日酔っている状態である。
つまりそれはアルコール中毒依存症の再発だった。この頃から奏子や正春、さらに数美や照夫達から「お酒呑んどる?」と聞かれるようになったが、武志はその度に「呑んでないよ」と答えるのだった。武志にとってそれは以前の、あの母の居ない日々へのアプローチだった。が、それは仕方のない事だった。母が望み、そして武志自身がお酒を買いに行っているのである。それは一言で言えば地獄そのものだった。やがて秋子は会社を頻繁に休むようになり、そして解雇された。秋も半ばに来た9月の頃である。
生活費を多少なりとも入れなければやはり長女としての面子も保てない秋子はこの頃から会社帰りのサラリーマンを相手にするビアガーデンで働くようになった。近所ではさすがに棚本の名があるので少し離れたところにあるらしく、自転車で通っていた。帰りは当然11時過ぎである。武志は秋子の帰らないベッドで一人眠る毎日となった。足が痛む時は奏子が擦ってくれたがやはり秋子でなければ治らない。しかし何時でも武志は「もういい、治った」と言って我慢するのだった。そして激痛の中で泣き疲れ、眠りに入るのである。そして毎朝起きると、酒の臭いをさせる秋子が寝ている。武志はそれを見て安心するのだった。
このような日々が数週間続いた。
とにかくあの見知らぬおじさんがやって来てから武志の生活は一変した。秋の気配に気付く事さえなく季節は武志4度目の誕生日を迎える10月になろうとしていた。
ある日、武志は正春と道徳公園まで散歩に行く事になった。この日、朝早くから起こされた武志は朝ご飯も急いで食べて出かける準備をした。と言っても殆どの準備は奏子が整えるのだが。
「お爺さん、お爺さんって。あんた達、東さんとこ行くのはいいけど何で行くの?歩いて行くのか?あそこは学校の裏だで歩きゃあ遠いよ」奏子は武志と正春の足の事を心配しているようだ。
「奏子、今日は自転車で行くわ。数美の自転車あれ借りるでよぉ」
「危ないてぇ、武志はどうするの?」
「武志は後ろに乗せて走るがや、ええわ行けるで」
「大丈夫かぁ?お爺さん自転車なんか最近乗っとらへんがね、危ないにぃ」
「ええって言っとるがや、おいっ武志、行くぞ」正春は半ば強引だが人から言われて主張を変えるような人物ではない。武志にもそれは分かっていた。
「はい」正春は武志に杖を持たせ階段の下から自転車を引き出して外へ向かった。
「じゃあお婆ちゃん行って来るね」奏子にそう告げ武志も正春の後に続いた。
「お爺ちゃん、大丈夫?自転車後ろのワッパ無いけど大人乗り出来るの」武志の言う大人乗りと言うのは後ろに補助輪を付けずに乗る事だが補助輪の無い自転車で、しかも後ろに自分を乗せて走るという事が簡単な事ではないという事は武志にも理解出来た。「おぉ、そこの信号までは歩いて行こかな」正春は道徳通りから自転車に乗るつもりらしい。二人は真中ショッピの前を通り信号を渡って道徳通りまで出た。東のおじちゃんがいる道徳公園はこの道徳通りを東へ真っ直ぐ行って派出所の信号を左へ曲がり、それからまた真っ直ぐ行った所に在る。正春は武志を後ろに乗せて走り出した。
「武志、お爺さんの服をちゃんと掴んどれよ。落ちるなよ」
「ダラララッ」と、そのすぐ後だった。正春に言われて武志は目の前の服を掴んだのは良いが足を後ろタイヤのスポークに巻き込まれてしまったのだ。
「痛いよぉお爺ちゃん止ってぇ」さすがに正春も慌てて自転車を止め武志の足を見た。幸いな事に怪我は軽く、足首の内側を擦り剥いただけだった。涙が出る程痛いのだが正春の前である武志は瞬きをせず我慢した。
「武志、そのぐらいで泣くなよ。ほれ足をこうやって開いて乗れば挟まらんだろう?」正春は武志をもう一度自転車の荷台に乗せ武志の足を持って乗り方を教えた。そこで一息つき、再び自転車を走らせ、暫くして派出所に差し掛かったところで派出所に付いた。交差点には若い警官が立っていた。
「おい、若いの。頑張っとるか?」その若い警官に正春が声を掛けると
「はい。棚本さんお早うございます」と返事をしたのは照夫の叔父さんと同じ位の歳の格好良い警官だった。
「おい最近お前んとこの所長見んな、どうしとる?」
「はい、今年の夏から南署勤務に戻りました」
「そうか、所長には世話になったでなぁ、会ったら宜しく言っといてくれよ、なぁ」
「分りました。で、今日はこれからお出かけですか?」その若い警官も訓練が行き届いているようで職務を忘れなかった。何せ、相手は元「棚本一家の親分」である。
「おぅ、今からよぉ東んとこ行くんだけどなぁ、お前知らんか?」
「はい、まぁとにかく、お気をつけて」
「んっ、じゃあ頑張れよ」正春はその若い警官を激励して、再びペダルに足を掛けた。
この道徳の町をテキ屋の棚本が仕切っていた事は誠に有名で、この若い警官も一定の敬意を持っていたらしい。派出所で一息ついた正春は武志を乗せて再び自転車を走らせた。やがて将来武志が通う事になる道徳小学校の西門に差し掛かった。
「武志、お前も大きくなったらこの小学校に来るんだぞ」
「うん」武志は西門の向こうに見える校庭の広さに驚きながらも、その将来を楽しみに感じた。武志は態勢を少し整え正春の服を掴み直して聞いた。
「何歳から学校行くの?」
「おうっ?何歳かなぁ、6歳からだろう」
「僕もうすぐ4歳だから、あと何年かな?…3年?」
「そうだなぁ。お前勘定出来るようになったか、偉いなぁ。ハハハ」正春は珍しく武志を褒めた。そうしている間に自転車は道徳公園に入り、遊具広場を抜けてクジラ池に着いた。クジラ池は道徳公園のシンボルで、幅約4メートル、長さは8メートル程の小さな人工池である。その中に鉄筋コンクリート製のクジラが水面から半身を出し、大きな尾ヒレを立てた格好をしている。現在、池の中はコンクリートが張られており、当時定刻になると吹き出していた背中の噴水も壊れていて今は出ない。また、子供達の冒険ごっこの楽しみだった大きく開いた口も格子で閉ざされている。小学校低学年時代、休日になると武志達は小学校の隣に在るこの公園でよく遊び、そしてクジラの口の中へ入って遊んだ。今では池の水も張っていないのだが当時はその大きな口の半分程まで水があり、ズボンを捲って裸足になって進入したものである。
武志はここで、いつぞやのブースカを見に行った帰りに万知子が話したエピソードを思い出した。
「ねぇお爺ちゃん、ずっと前さぁ、この公園でチャンバラやってたの?」正春は武志が急に昔の事を言い出すので少し驚いたように振り向いた。
「武志、よう知っとるなぁ。誰に聞いた?」
「えっ?この前ねぇ万知子のおばちゃんが言ってたよ」
「ほうか、そうだな昔はな、映画撮ったんだけどな、流行らんくなって潰して公園になったなぁ」
「でねぇ、伯母ちゃんが変な服着て泣いたんだよ」
「ほーっ、よう知っとるなぁ。ほんでワシが怒鳴り込んだ事も聞いたか?」
「知っとるよ」
「ハハハそれも知っとるのか、すごいなぁ」正春は驚きながらも感心していた、喋りながら振り向きながらの運転で自転車はグラグラ揺れていたがクジラ池を過ぎて大きな池に来た所で一つ小さい橋を渡り、そして池のほとりにある小さな小屋に到着した。
正春は荷台から武志を抱いて降ろすと
「武志、まだ足痛いか?」と、武志の足の怪我を心配して擦り剥いた所を見た。武志が「少し痛い」と言うと
「ここの東のおじちゃんは怪我を治すのが上手いで今から診てもらうか」と言って小屋の中へ入って行った。
「おう、居るか?俺だ」正春が入口を入って直ぐに呼ぶと中から
「おお、親方。今日は珍しいな朝早くから」と言いながら小屋から正春とよく似た感じのおじさんが出て来た。歳は正春より若く、体もガッシリしているが雰囲気は正春とよく似ている。
「武志、この小父さんはなぁ、若いとき強かったんだぞ」と、東を讃えた。
どこか自慢げに話す正春が武志には楽しそうに見えた。東は
「いやぁ親方、じゃねえ棚本さん、昔の事、子供に話しても仕方ないですよ」と照れていた。それに正春が「お前こそ『親方』はもう止めんか恥ずかしいだろう昔の話だなぁ」と返した。そして東は武志をチラリと見て
「この前見た時より大きくなったな」と話題を変えた。
「おおこれもよぉ苦労しとるんだわな。秋子があんな男と一緒になるんだでなぁ。ワシも悩んだけどよぉ別れさせて正解だったわ」ここでも武志は理解不能な話に遭遇した。「で、秋ちゃん最近どうだ?」どうやら東も秋子の病気の事を知っているようだった。正春は俯き、池に泳ぐアヒルに目をやり東にこう言った。
「それがよう、また始まったわ」
「そうか、やっぱり治らんかぁ」
「おう、また最近呑んどるわ。今よぉ、築地の飲み屋で夜、働いとるけどよぉ、あれはホントに酒が好きだなぁ」正春は秋子が毎晩飲み屋に働きに行っている事を気にしているようだった。「また変な男と仲良くならなええがよう…」
そこでその二人の会話を聞いていた武志は反射的に反応し、早口で喋りだした。
「お母さんはお酒呑まないよ。だって呑んだらまた病院行っちゃうもん。お母さん嫌だよね?」武志は必死だった。
「この前ねぇここ来て写真撮ったがぁ?あの時はお母さん居なかったけど今は居るよ。だって毎日一緒に寝てるよ」正春はそんな武志を見て「そうだ、そうだそうだ。お母さんは呑まないな。お前が居るでなぁ」と濁した。しかし東は全てを理解していた。
「武志、男はなぁ、我慢しなかんぞ。ええか?何があっても我慢しろ。お前が大きくなったら今の話が解る時が来るでな。とにかく我慢しろ」と武志に言い聞かせた。すると今度は正春が場を割って思い出したように切り出した。
「おい武志、足はどうなったぁ?おじさんに診てもらう為に来たんだぞ、早く見せんか」「そうだな武志、見せてみな、自転車のワッパに絡まったか、どこだぁ?」話の流れに倣って武志も気持ちを変え、怪我を治す名人かもしれない東に足を見せた。東は武志の足を診るなりこう言った。
「武志、痛いだろ?これは痛いぞ、我慢しんでもいいで、どうふうに痛いか言ってみぃ」武志はそれを聞いて正直に言おうと思ったがそれを言えば正春から「男らしくない」と言われそうで気が引けた。しかし足はジンジンしている。言いあぐねている武志を見て東は
「武志、痛い時は痛いって言えばいいんだぞ。我慢しても痛いのは痛いだろう」と優しく促した。東の言葉に安心したのか武志は
「骨まで痛いよ」と本音を言った。東は武志のズボンの裾を捲り擦り剥いた箇所を手で触ると自転車の後輪を見た。「ああ、これか?」と納得してもう一度武志の足を見た。正春は武志と自転車を交互に見る東を黙って見ている。
「親方、少し深いで、多分打った時に打撲をしとるわ」東はそう言うと武志の方を向き直し「武志、お前いくつだ?」と尋ねた。
「今3歳だけどねぇもうすぐ4歳になるよ」
「そうか3歳か、こんだけ擦り剥いて、よう泣かんかったなぁ?偉いなぁ」武志は普段でも褒められる事は滅多にない。東の言葉はそんな武志には嬉しい褒め言葉だった。
東は武志のズボンの裾をさらに高くまで捲り「ちょっと待っとれよ。おじさんが特製の湿布貼ってやるで、なぁ」と言って小屋の中へ戻って行った。その間、武志は東を待ちながらある事を考えていた。
「…お母さんの事を悪くしたその男の人はこの前突然やって来たあのおじさんだろうか…」しかしあの日の事は内緒にする約束だから正春には聞けない。武志にはあのおじさんが悪い人だとはどうしても思えないのである。「…じゃあ他の人?…」その時、武志の頭の中にもう一人の事が浮かんだ。それは秋子が言っていた「帰って来る事は出来ないお父さん」だった。しかし秋子は「お父さんになるかもしれない人が来る」とも言っていた。そこで武志の中で幾つかの謎が一本の話しに繋がった。武志は確信した。
「今、正春達が話していた男の人が自分のお父さんで、この前来た人はもうすぐお父さんになる人だ。お母さんが帰って来れないと言う本当のお父さんは刑事さんで、仕事の為に帰れないのだ。そしてお婆ちゃんや照夫の叔父ちゃんが言っていた『お前のお父さんは死んだ』というのは嘘だった」そう思うと武志はどうしようもなく空しさを感じるのだった。一体誰が本当の事を言って誰が嘘をついているのか分らなくなってくるのである。万知子の伯母ちゃんも数美姉ちゃんもお婆ちゃんもお爺ちゃんさえ、自分に嘘をついているかもしれない。本当の事を話してくれるのはお母さんだけだと思ったがお母さんだって皆に内緒で武志にお酒を買いに行かせている。武志の頭の中は再びパニックになってしまった。武志にとって確かな事は、「…あの時のおじさんがまた来る…」という事。そして「…もうすぐ新しいお父さんができる…」という事だけだった。
しかしどれだけ苦しくても、どんなに悲しくても結局武志はじっと耐えるしかないと思うのだった。それが武志3歳の悟りであった。
「おい、出来たぞ。どれどれ、足出してみろ」俯いて難しい顔をしている武志の頭の上から声がした。東が特製の湿布薬を作って持って来てくれたのだ。
「そこの椅子に座れ」東の言う通りに武志は池の畔にある休憩用のベンチに座ってズボンを捲った。東が目の前に来て膝を折り、しゃがむと武志は恐る々擦り剥いて真っ赤になっている足を差し出した。実のところ武志はまだ足の傷をまともに見ていなかった。あまりの痛さに恐くてみる事ができなかったのである。東は傷口を指で触ると少し押したり離したりした。
「どうだぁ?押すと痛いだろう?」
「うん痛い」
「じゃあなぁ、消毒してからな」と言うと東はポケットから小さな瓶を出して蓋を取った。そして中に入っている水を怪我の所に掛けた。その瞬間とても臭い匂いがした。それは紛れもなくお酒の匂いだ。
「東のおじちゃん、何掛けたの?」思わず武志は聞いた、東は慣れた手付きでサッサと手を動かす。
「んっ?これか?お芋さんで作った消毒だがや、こうやっとけばバイキンが無くなるぞ」
「でもそれ飲むものでしょ?」
「呑めるけどこういう使い方もあるんだぞ。焼酎って言うんだけど武志のお母さんは呑まんか?」その言葉にはすかさず武志は「僕のお母さんウイスキーなんて呑まないよ。だってさぁ、病気になるもん」とやり返したが、これまた武志一流の見栄だった。
東は消毒を済ませた武志の足を膝の上に乗せ言った。
「お前、ウイスキーなんて言葉知っとるんかぁ?やっぱり秋ちゃんの子だなぁ」
「ウイスキーってテレビで宣伝しているから知ってるよ。ねぇ次はどうするの?」武志の言葉に東は「そうだな」と返した。その次に東はポケットから玉子を出して武志に向け「食べるか?ゆで卵だぞ。嫌いかぁ?」これには正春も少々驚いたようで
「東、その玉子何に使うんだ?」と不安そうだ。
「食べたら怪我治る?」
「当たり前だがや、おじちゃんは嘘つかんぞぉ」と自信満々だ。
「じゃあ食べる」武志はそう言って玉子が貰えると思って手を出したが東は武志の手をかわしその玉子を武志のオデコにカチンとぶつけた。
「東のおじちゃん痛いがぁ、何ぃ」武志は東がした事の意味が分らずムッとした。
「ハハハ、これっ、玉子割れただろう」
東はその玉子の殻を手の平で軽く何度も握り、バキバキと音をさせて武志に見せた。玉子の殻を見た武志は玉子の殻に細かいヒビが沢山出来ているのを見て感動した。
「わぁーっ、すごいね。東のおじちゃん何でも出来ちゃうね」
「そうだろう?だからお前の足の怪我も治るぞ。じゃあ、その玉子食べなさいよ」
東は殻を剥いて真っ白な玉子を武志に渡した。
玉子を食べ始めた武志の足にもう一度手をやった東は今剥いた玉子の殻から内側の薄い膜を丁寧に剥しそれを武志の傷口に貼り付けていった。
「おぉ東、だで玉子を食べさせたんか?そう言やあ、子供の時なぁ、俺等もそうやって治したなぁ」正春は眼鏡を掛け直し東の隣りに来て武志の足に玉子の膜を貼る様子を見た。
「お爺ちゃんもこのやり方知ってるの?」
「おぉ、昔は小さい怪我はそうやって治したなぁ」
「へーっ。じゃあさぁ、僕のいつも痛くなる足も玉子で治る?」武志は持病の足も治るかも知れないと思ったが、これには正春も即答出来なかった。そこで東が諭すように言った。
「武志の足は生まれた時から痛いんだよな?病院にも行ったんだろう?でも治らないんだとたら難しいなぁ」
「…やっぱりかぁ」武志はがっかりしたがそれでもすごい事を教わったと思った。
「じゃあ絶対治らないの?」武志は尚も聞いた。
「武志、ワシも照夫もなぁ、空手をやっとったけどお前ももう少し大きくなったら何か運動をしろ。体を鍛えたらなぁ、体の弱い所とか悪い所が治る事だってあるぞ。だで諦めるな、なぁ東?」武志は確かにそうかもしれないと思った。
「ねぇ東のおじちゃん、おじちゃんは何かやったの?」何でも出来てしまう東がやっていた運動を武志は是非聞きたいと思った。
「んっ?俺かぁ。おじさんはなぁ、体操をやっとったぞ。それから柔道と剣術もやったなぁ」それを聞いて若い頃に卓球の名選手だった正春が
「東、お前柔道は何段だ?」と聞くと、すると東は少し照れながら
「いやぁ若い時だで、それでも三段まで取ったかなぁ。んっ?どれどれ、後は包帯巻いて終わりだな」東はこの話が続けばそのうち武勇伝の話しになると感じたのか、事の筋を武志の怪我にもどした。正春もそうであるように東もまた堅気の人であった。切った張ったで武勇を鳴らした世界の事は語りたくないのである。東は武志の足に湿布薬を貼り包帯を巻いた。湿布薬を貼る時の冷たい感触が武志には心地よかった。
「どうだ武志、立ってみろ。少し痛くなくなっただろう?」武志はゆっくりと立ち上がった。すると頭のテッペンまで突き抜けるような痛みは無くなっていた。患部を柔らかく押さえるだけでも痛みは和らぐ場合があるが、武志はその時初めてそれを体感したのだった。痛みが消えて余裕が生まれた武志は強い関心を持った玉子の事を聞いた。
「ねぇ東のおじちゃん、なんで玉子の皮を貼ったの?」武志はこういう事に拘りを持つ。特にアスペルガーだからという訳ではないのかもしれないが気になる事には強烈な関心を持つ性格は成人した後も変わる事は無かった。
「玉子の皮は食べれるだろ?だから毒は無いわな?でなぁ、これを血が出とる所に貼るとビタッと付いて血を止めるんだぞ。すごいだろう?」
「うん、すごいけど治ったら取れるの?くっ付いて取れなくならないの?」
「玉子の皮はなぁ、怪我が治っていくと自然に取れてくで心配するな」武志はそれを聞いて安心した。
「じゃあ、また来るでよう」
「おぉっ、いつでも来てちょおな。武志、またおじさんとこ来いよ」そう言われるまでもなく武志はまた何時かここへ来ようと思った。武志にとって東のおじちゃんは生涯忘れ得ぬ人となった。ただ武志の記憶には、この日、正春がここへ武志を連れて来た理由は刻まれなかった。それから正春は自転車の後ろに武志を乗せて棚本の家に帰った。
この日の晩御飯は久し振りに秋子が一緒に食べた。どうやらお店を休んだらしい。食事は普段と変わりなく進んでいたが、正春が秋子に何気なくお酒を勧めた時、奏子が秋子に言った。
「あんた最近呑んどれへん?」その瞬間、晩餐の場が凍りついた。秋子はすかさず
「なんでぇ、呑んどらへんがね、なぁ武志」と返した。武志は秋子を擁護する為に
「お婆ちゃん、お母さん呑んでないよ」と言ったが奏子は
「武志、これは大人の話だで黙ってなさい」とピシャリと釘を刺した。これで武志は何も言えなくなってしまった。奏子は近所の知人達から少なからず情報を得ているらしく、
その語気には鬼気迫るものがあった。
正春は「奏子、秋子はもともと酒が好きなんだで好きなモンは呑ましてやりゃあいいがや」と、秋子の事を庇った。
照夫は照夫で「でもよぉ、姉ちゃん呑むと止まらんだろう?今でも毎日呑んどるだろう?」と奏子側に立っての意見を言う。武志は目の前で繰り広げられる大人達の会話に入る事は出来ない。しかし話はどこまでも平行線の様子だ。そこで数美が口を開いた。「しょうがないがね、秋子姉さんは治らんでしょう?だったら武志をどうするか考えた方が良いでしょう?」数美は秀才であるが故に常に極論を言う。これに秋子が意を決したように話し出した。
「私がアルコール中毒になったのは誰のせい?私が小さい時、芸者に売られんかったらこの家も市場も在らへんがね。万知子も芳子も私が働いてお金作ったで大きくなれたんだがね。私ばっかり悪くないがね」数美がみの極論であるならば秋子の言葉は情の極論である。この秋子の言葉で照夫と数美は黙り込んでしまった。正春も下を向いたまま何も言わなくなった。しかし奏子はその秋子の言葉に真っ向から異を唱えた。
「あんたはそうやって自分が売られたって言うけどあんたは芸者さんに憧れて行ったんだがね。なんにもこっちは無理に頼んで行ってもらった覚えはないでねぇ」
武志がこの場にいるにも関わらずこれだけの雑言を浴びせ合う親子の過去に一体何があったのか今となっては確かめる術はないが、秋子の人生にそして棚本の家族達にもそれなりの何か言葉には出来ない遺恨のようなものが残っているとするならばそれは間違いなく今の話の事だったのだろう。武志はこの場がこの先どうなるのか息を飲んで見守るしかなかった。空気は止まり沈黙の時が流れた。その時大人達をじっと見ている武志は飯台に置いた正春の指が小刻みに震えている事に気付いた。次の瞬間、正春は静かに語り出した。
「で?秋子、お前はどうしたい?」それぞれが本音を語ったのだ。この先は極論しか残されていない。それを察しての正春の問いだった。秋子は少し間を置いてから決意を吐き出した。
「私、武志は離さへんよ」
「ほんだけど秋子、あんたがそんなふうじゃ武志はどうなるの?」
「ええわ、この子は私がちゃんと面倒見るで」
「ほおーん、あんた毎日そんなフラフラで酔っ払ってどうやって面倒見るの?武志は家で面倒見ても良いけどあんたがそんなだったら私は面倒見れんよ。世間に恥ずかしいわ」
「いいよ、私この家出て行くで」
「出て行くのは勝手だけどあんた何処へ行く気なの?」武志は秋子のその言葉に嫌な予感を感じた。
「‥‥この家を出てその後どうなるのか?」
武志には胸が圧迫されるような苦しさだった。
「姉ちゃん、武志連れて行く所なんて無いだろう?まぁ、お酒も程々にして考え直せば良いがや」照夫はいつも納得出来る事しか言わない。武志は今の照夫の言葉で秋子が考え直してこの家にずっと居られるかもしれないと思った。が、秋子の口からは信じられない言葉が出てきた。「私達、この家出るで」これは奏子や正春にとっては予想外の言葉だった。慌てた奏子が詳しく聞いた。
「ほんとかね?ほおぅ、あんたら二人で出てってどうやって食べていくつもりなの?」「何とかするわ」秋子はそう言った後、
「私だって何時までも一人じゃないで」と付け加えた。武志はこの時確信を得た。
「‥‥あのおじちゃんの事だな」武志は一方的に悪く言われる秋子の事を悲しく思った。そして秋子が言うあのおじさんは本当にいるという事を話した方が良いのではないかとも思った。しかしあの日の事は内緒にするという秋子との約束があるので武志は今あのおじさんの事を話せば秋子が嘘つきではない事を正春達に説明出来ると考えたが、秋子との約束は約束である。幼い武志にはほんの僅か先の事しか分からない。したがって仮に棚本の家を出たとして、この先の秋子の生活がどのようになるのかなど想像する事は出来ない。だから子供なのだが、幼いながらも迷う事はやはり顔に出るものである。それを正春は見ていた。
「武志、お前はどうする?お母さんはこの家から出ていくって言うけどお前もお母さんに付いて行くか?」そう聞く正春は少し笑みをいるが、武志は言い表せない不安と訳の分からない恐怖心とで頭は思考停止したままだった。返事をしない武志の心を読んだのか正春は「まぁええ。よく考えろ」と言って席を立ち一人で二階へ上がって行った。
正春が去った後、夕食は何事も無かったかのように終わったがやはり皆、無口だった。それから武志と秋子は居間で少しの間テレビを観てベッドに入った。武志は眠くなる前に秋子が常用している精神安定剤を飲む水を用意する為に水入れを持って居間へ降りた。居間では奏子が武志の運動服の袖を直してくれていた。入園前の注文で、2年間着られるようにと一つ上のサイズを選んだ運動服だが、そのままでは袖が長過ぎたので入園当時に秋子が袖を短く纏っていたのだ。もう少しで10月になり、園では冬服に衣替えをする。それまでに袖を直しておきたかったのだろう。度のきつい眼鏡を掛けて針の穴へ糸を通そうとしているが簡単にはいかないらしく、殆ど小さく背中を丸めてやっている。武志は奏子に声をかけた。「お婆ちゃん、穴見えるの?」
「あっ武志、秋子の水か?びっくりしたがね、静かに降りて来たんか?」奏子は武志がすぐ近くに来るまで気付かなかったようだった。
「お婆ちゃん、僕の目いいよ。やってあげよか?」
「ほうかぁ、ありがとな。まぁお婆さんは目が見えヘんで穴が判らんがね」と言って武志に針と糸を持たせた。
「武志、針は危ないで絶対に落としたらいかんよ。ほんでねぇ、糸はこうやってベロでねぶって唾で濡らしてさぁ指で丸めて先っぽを尖らせるの」
奏子が武志に手振り身振りを交えて教える。武志は手先が抜群に器用で、初めの間だけ奏子の誘導に任せていたが次第に自分のやり方が出来てきた。アスペルガーは多くの場合、このような一点集中で行う事に興味を持つとエネルギーの注入量が一般の方とは異なるものだが、武志もアスペルガーとしての体質をこの頃からすでに現していたのかもしれない。そして努力の頑張った甲斐あって糸は直ぐに通った。
「武志、ちょっと後ろ向きなさい」言われるままに武志が背中を向けると奏子は運動服を武志の背中に合わせ袖の長さを決めた。
「もう直ったの?」武志が聞くと奏子が
「うん、ほれっ。どうかな?袖、簡単に止めてあるだけだで一回手を通してみぃ?」
そう言って今度は武志の頭から運動服を着せた。それは武志の腕の長さにピッタリだった。一度も袖を通さずに寸法を出す為には武志の普段の着こなしを余程見ていなければならない筈である。誠に大した眼力と言う他ない。武志は運動服を脱ぎ奏子に預け、秋子の水を用意する為に台所へ行こうとしたがそれを奏子が止めた。そしてこう切り出した。
「武志、さっきお母さんがよぉ、この家出ても一人じゃないって言ったでしょう?あれ誰かの事かあんた知っとるの?」
武志は「…やっぱり聞かれた」と思った。しかし武志は秋子との約束があるので言えない。
「僕は知らないよ」と武志は答えた。
「あのねぇ武志、今他に誰も居ないからお婆さんにだけホントの事教えて。絶対に誰にも言わないから。あんた自分がどうなるか分からんの?お母さん仕事行ってない時も呑んどるでしょう?」奏子の優しい聞き方に武志は迷った。それは秋子との約束を破る事ではなく、自分のお父さんになるかもしれないというあのおじさんの事を知られたら皆に反対されるかもしれないという事だった。秋子がお酒を欲しがる事、もしかしたらあのおじさんが一緒に生活するかもしれないという事、それから家中の皆が秋子を悪く言う事などが武志の頭の一方にあり、もう一方には保育園での楽しい生活や優しい叔父ちゃんや叔母ちゃん、それから保育園での生活や遊び友達への執着があった。しかし今武志は好むと好まざるとに関わらず、自分の想像が及ばない事態になるかもしれないという事を感じていた。幼い頭で悩みに悩んだ末、武志は奏子の「…絶対に誰にも言わないから」という言葉を信じる事にした。そして下を見たまま話し出した。
「あのねぇ、その人ねぇこの前ここに来たよ。もうすぐ僕のお父さんになるかもしれんってお母さんが言ってたよ」
「やっぱり来たんだなぁ」奏子は納得したように言った。
「で、どんなおじさんだった?体の大きな声の大きい人だった?」武志にとって大人は皆大きい人だが声は大きくなかったと思ったので
「照夫の叔父さんと同じくらいの人で声は大きくなかったよ」と答えた。「んーっ、じゃあ武一じゃないねぇ。誰だろ?」
「武一っていう人さぁ、ホントのお父さんでしょ?」武志の言葉に一瞬驚いた様子を見せた奏子だったが何も返事はしなかった。
「その人さぁ、死んじゃったって言ったでしょ?でもねぇ北海道にいるんだよ。遠いから帰って来れんけど。お婆ちゃん知らなかったの?」武志にここまで言われた奏子は諦めたように呟いた。
「あんたのお父さんはねぇ、あんたが秋子のお胎にいる時にねぇ急に秋子にひどい事するようになって秋子をバッカンバカンに殴るようになったんだわ。それを見てねぇ、皆で話し合って別れさせたの。秋子も武一も仲は良かったけどなぁ、どうしてあんな風になったか分からんけどねぇ」奏子の話は今まで秋子から聞いていた話の内容とはかなり違っていた。武志の頭はまた混乱した。
「でさぁ武志、あんたその話は誰から聞いたの?お母さんかね?」
「うん」
「まぁ、とにかく、どっちにしてもあんたにはお父さんはもういないの。ええか?」
「はい」
これまで武志は「…お父さんはいない」と何度聞かされた事か。しかもその理由はその度に変わっている。挙句の果てには「…どっちにしても…」という。
正直なところ、もうウンザリするのだった。この時「結局、誰も本当の事は言わないのならば自分が大人になって滝に絶対に会いに行こう」と、武志は固く心に誓ったのだった。
「お婆ちゃん、有り難う。お休みなさい」武志は奏子に挨拶をして秋子のベッドへ向かった。階段を登りながら奏子を見ると二枚目の運動服を直し始めていた。
ベッドへ戻ると秋子は既に眠っていた。窓の向こうでは時折車が走り抜けて行く音がしていた。何もかもが自分とは違う次元の中で動いている。武志はベッドに入り、あのおじさんの事を考えた。考えてもほんの短い時間しか見ていない顔は思い出せない。武志は本当のお父さんの事を考えた。会った事も、そして声を聞いた事もない人など頭に浮かぶ筈もない。武志は紀の事を考えた。どうしてあんなに強くなれるのか、そして紀と母親の万知子には何も困った事がない。父親がいないという事は同じなのに…解らない…。武志は細井の事を考えた。何時も仲良く遊んでいるがお母さんの事は一切話さない。どうしてなのか解らない。何も解らないまま武志は眠った。
第二章「混沌」動き出した時
第三話「待っていた人」友平との再会
あの衝撃が走った夕食から数週間が過ぎた土曜日、武志が通う九条保育園では運動会の前日を迎えた。この日はその最終リハーサルで、開会式から閉会式までのプログラムを通して行う予定である。朝食を済ませた武志は着物に着替え飯台でお茶を飲みながら待っている正春を呼びに行った。
「お爺ちゃん、行くよ」武志は正春の杖を取り居間の前で靴を履いて待った。
「おう、じゃあ行くか。おーい奏子、いってくるでよぉ」
「はぁーい、気ぃつけてねぇ、武志、お爺さん頼むねぇ」奏子はまだ起きて来ない数美の朝食を準備しているので台所から返した。
何時も少し早い時間に家を出た二人はその分、ゆっくりと歩いて園に向かった。
寄り登園途中、保護者と一緒に歩いている園児達を何人か見掛けた。何時もは一人で通う子も今日は親と一緒だ。
新設の九条保育園にとっては夏の七夕発表会もこの秋の運動会も初の執り行いである事には違いないのだが、今回の運動会は七夕の頃と違い、地域の信頼も得、また保護者達からも厚い期待を持たれ始めているという事もあり正に保育園の威信を掛けた一大イベントとなる。また園児達も日頃の訓練の成果がはっきりと見て取れる程しっかりして来ており、皆自信を持っていた。
武志と正春が園の正門へ着くとそこで真っ白な体操服を着た園長先生が出迎えてくれた。
「お早うございます。棚本武志くん、今日は頑張ろうね」こうして園長先生は登園する全園児に声を掛けているようだった。
「おい園長、今日は何時頃終わる?」
「今日は練習だけだから早いですよ」
「そうか、ほんなら終わってからちょっと話があるけどよぉ、どうだぁ?」
この頃、正春は園長を見る度にこうして口説くようになっていた。こういうところはヤクザな気性である。正春自信は本気で口説いている訳ではなく冗談のつもりで軽い挨拶がわりという事だ。そして園長も棚本正春の素性を知っているのでこちらも端から本気にはしていない。全く大人とは訳の分からないところで楽しく感じるものなのだろうか。「棚本さん、それはまたね。で、今日はずっと終わりまでいらっしゃるんですか?」と軽く受け流し肝心な事だけを聞く。流石はベテランである。
「それがよお、ワシは足が悪いで、まぁ、いっぺん家に帰るわ」正春は保育園の行事にはさほど興味を示さないのか、それとも本当に足が悪いからなのか、それは分からないが武志の入園からこれまでの間、最後まで園の様子を見届けた事は一度もなかった。本当のところはテキ屋家業を営んでいた事に対する気恥ずかしさがそうさせていたのではないだろうか。
「じゃあ武志、一回家に帰ってからお婆さんと一緒に来るでな」
「うん。写真撮ってね」
「わかった。ほんじゃあなぁ、駆けっこ一番取れ、ええな。んっ、園長、頼むぞ」正春はそう言って家へ戻っていった。武志は教室へ入り、机の上に黄色の通園帽を脱ぎ、肩に掛けている水筒を降ろし、カバンを置いて中からお弁当を出した。秋子が今日来れない事は昨日聞いているので武志はお昼休憩の時は誰と食べようかと考えていた。そこへ細井がやって来た。「おはよう」
細井は床屋へ行ったのか、何時も見るウサン臭い顔と違ってサッパリした顔だった。「細井、お前、床屋行ったんかぁ?」
「いや、行っとれへんてぇ、母子寮に来て頭の毛やってくれるんだわ」
多分、市からのサービスだろうか、母子寮の人達は、ただでさえ生活の自立が困難であり、しかも小さな子供を育てなければならず、それに加え住む処が無いという状況の方々である。一般の家庭であれば床屋代など大した負担ではないが母子寮の住人にとっては床屋代でも確実な負担である。それをボランティアであれ、行政サービスであれ、無料で受けられるのであれば誠に助かる事だろう。今日の細井は顔だけではなく何だか雰囲気もサッパリしているようだ。武志は今の自分より明るく振る舞う細井を羨ましいと感じた。
「なぁ細井、お前、何かあったんか?」と武志が聞くと
「んっ?べつに」と、素っ気ない。
「お前、今日弁当は?また白いおにぎりか?今日は俺んとこお母さん来んでよぉ、おかずやらんぞ」武志は少し意地悪な言い回しだ。
ところが細井は「あっ?うん、いいよ。今日は弁当持って来たで」と言ってその場で自分のカバンから弁当を出し、蓋をあけて見せた。細井が持って来たその弁当は赤いウインナーやハンバーグ、スパゲティーにゆで玉子、さらに野菜も入っておまけにミカンまで入っていた。どうりで細井の顔色がいい筈である。細井は自慢げに「今日はすごいだろう?これなぁ、母子寮の人達が作ってくれたんだわ」と言った。武志は急に自分の弁当の事が気になった。
「おい棚本、お前も見せろ」余裕の細井は武志の弁当を見たいようで、中を見せろと言うのだ。今日の弁当は奏子が作ってくれた事を知っているので武志は弁当をあまり見せたくはなかったが、細井が見せろと言うので仕方なく自分の弁当の蓋を取った。
「なんだこれーっ。お前の弁当、夜の晩御飯みたいだなぁ」中身を見るなり細井が叫んだ。武志の弁当は昨日の夕食の残り物の竹輪と大根、それから沢庵とホウレン草が入っており、細井の弁当のような色鮮やかさは無かった。「なぁーんだ」武志の口から思わずそんな言葉が出た。武志は今まで細井を自分より可哀相な子だと思っていたし子供ながら僅かに優越感も持っていた。それがたった今覆されたのだった。武志は恥ずかしさと悔しさをかみ締めたが、その時細井がこう言った。
「俺のおふくろは作れんでよぉ、しょうがないわ。でもお前はおふくろさんが作るんだろう?ええなぁ」武志は今日の弁当を秋子が作らなかった理由を知っていた。作らなかったのではなく作れなかったのだという事も知っていた。更に作れなかった理由が、お酒の呑み過ぎで朝になっても弁当を作れる状態ではなかったという事も解っていた。そこで武志は多分細井のお母さんもお酒を呑むのではないかと思って細井に聞いてみた。「…して欲しい事をしてくれないお母さんは皆きっとお酒を飲むに違いない…」と思い、それを確かめたくなったのである。
「お前のおふくろさんなぁ、夜にお酒飲むだろう?」しかし細井の返事は意外にも
「ううん、お酒なんか飲まんよ。そんな人居る訳ないがや。お前のおふくろさんはお酒飲むのか?」武志は何となくという程度の気持ちで細井に聞いたのだが今度は反対に同じ事を自分が聞かれてしまい、返事に困ってしまった。夜にお酒を呑む母親など有り得ないという細井の言葉が武志を困らせたのである。武志は迷った。棚本の家では酔っ払う秋子の事を誰もが責める。しかしお酒を呑みたい秋子は、自身が悪く思われているからこそ息子の武志に買いに行かせている。それを武志は内緒にしているがその事は秋子を助けているものと信じていたのである。また武志はそれが正しい事だと思っていた。それを細井は「…そんな人居る訳ないがや」と一蹴下のである。武志の中で
「…自分がしている事はもしかしたらおかしな事かもしれない…」という思いが沸き起こってきた。
「俺のお母さんは時々お酒飲むけど…」武志の言葉はそこで止った。
「じゃあ、お前のおふくろさんも酔っ払うのか?」
「ううん、ならんよ」
「アホか、酔っ払わん?おかしいなぁ。あれって呑むと頭がおかしくなるんじゃないか?」
「だでぇ、ならんって」武志は次第に自分で話している事がまともではないと感じてきて話題を終わらせようと
「まぁ、ええがや。ほんならお前の弁当格好いいで良かったな」と切り替えした。
「おう、母子寮のみんなも同じ弁当だけどな」武志は惨めな感覚の中で正気を保つのが精一杯だった。一方、細井は感傷的な様子など微塵も無かった。細井という男は細かい事はあまり気にしない性格でこの後20数年間に渡って武志の良き相談相手になった人物であり、武志が自身の生涯において唯一、親友と呼んだ人物であった。
定刻になり九条保育園初の運動会は盛大に挙行された。最初の競技種目は武志達、年少組から始まる25メートル徒競走だ。狭い園庭を斜めに横断する形で設けられた白い線で描かれたコースを走り抜ける。出発地点は武志達の教室がある園舎の南側でゴールは細井達が住む母子寮の東側である。園児達は4列縦隊に並び、スタートの合図は先生の赤い旗だ。これまでの日々の練習で走る順番やスタートのタイミング等は全員が心得ているが、それでも中には走るコースの白い線上を走ってしまう園児がいたり緊張のせいかスタートの合図で旗が上がっても走り出せない園児もいる。まあ、それも愛嬌だろう。武志は細井と同じ列で並び、そしてスタートの合図で飛び出した。走る距離は僅か25メートルだが3歳や4歳の幼児にとって全力疾走する距離としては決して楽に走れる距離ではない。武志はスタートから思い切り走った。途中、武志は自分の右を走る細井をチラリと見た。細井も必死に走っている。そして僅かに武志が細井をかわし一位でゴールした。続いて細井、そして後の二人はかなり遅れてゴールした。武志はゴールで順位判定をしている先生から1着の首掛けをもらい、一番の旗が立っている列に並んだ。そして2着の旗の所には細井が来た。「お前、走るの早いなぁ」武志は息を切らせながら細いに話し掛けた。「お前も速いがや」お互いの健闘を讃えた武志達はこの後も続く年中組と年長組の走者を待ち、全走者の着順が決まってから順位ごとに作られた控え場へ戻った。その行動も全体駆け足である。席へ戻る途中、一位でゴールした年中組の紀が武志の横を通り過ぎた。「タッチ、お前も一番だったなぁ、やったがや」と声を掛けてくれた。園庭では次のプログラムの未入園児達が体験学習を兼ねての駆けっこが準備されていた。「…自分もああいう時期があったな…」と懐かしんでいると何処からか「武志っ、おい、こっち」という声が聴こえた。回りを見渡すと、フェンスの日陰になる所にゴザを敷いて正春と奏子が座っていた。更にその瞬間、武志の顔が笑顔に染まった。「んっ?あっ、お母さん」なんとそこには今日は来てくれないと思っていた秋子も来ていたのである。武志は小躍りするばかりに喜んだ。しかしそれは一瞬にして消し飛んだ。秋子は青白い顔をして目は少し窪み、そしてその目には力が無かった。トロンとした目は間違いなく酔っていた。実は戸外の明るい所で秋子の顔をしっかりと見る事はこれまでの武志にはあまり無かった事で、普段はとても近い距離で見ているし殆どの場合、家の中で見ているので分からなかったが、今こうして明るい場所で、しかも回りに他の人達がいる中で見る秋子は異質に見えた。武志は直ぐにでも秋子の所へ行きたかったが今はまだ運動会の真っ最中であり勝手に席を離れれば叱られるので我慢した。そして初めて見る異質の秋子を真っ白になった自分の頭へ詰め込んだ。認めたくない事を認めなくてはならない武志にとって初めての失迷だった。「おいっ棚本」細井のその声で呆然とした武志はハッと我に返った。「おい、行くぞ。ロボット競走だで、お前一番目だろう?」武志は年少組のオリジナルプレグラムであるロボット競走でスターターを務める事をすっかり忘れていた。「はぁーい、チューリップ1組と2組のみなさーん、入場門に駆け足で行きますよーっ」井村先生の号令で全員が一斉に行動する。その中で武志だけが椅子に座り、出遅れた。「おい棚本、何やっとるんだ、早よ行くぞ」
「はいっ棚本君、集中して。早く行きなさい」細井と井村先生の二人から同時に言われて武志は慌てて入場門へ走った。全員揃ったところで先頭の武志と他の三人は塩ビパイプで作られた装備に両足と両腕を通してスタートの合図を待った。「よーい、ハイっ」スタートの赤い旗が上がり先頭の四人が走り始めた。両足を通したパイプは直径が20センチ程あり普通に歩こうとしてもそのパイプ同士がぶつかる為、実際には肩幅位まで足を広げなければ歩けない。それに加えて体のバランスをとる両腕も同じパイプに通しているので自由にならない。その格好で走るわけであるがこれが何度練習しても上手くいかない。まぁ、だから面白いのだが。
武志は後ろで順番を待つ細井達からの大きな声援を背に一生懸命走った。しかしどうしても秋子の方を見てしまう。体の向きに顔の向きを揃えなければ上手く走れないという事は練習中に何度も言われていた事だが、やはり気になる方を見てしまう。そうして走っている間にバランスを崩してとうとう転倒してしまった。
「おーい、何やっとるんだ早く立てぇ」後ろから細井の怒鳴っている声が聞こえたが武志は恥ずかしさと苛立たしさでパニックになりとうとう泣き出してしまった。そこへ井村先生が駆け寄り武志を起こし「武志君、最後まで頑張りなさい。あなた何時も頑張る人ですよ。さぁ立って」と武志の服に付いた砂を払い落とし剛志を立たせた。立ち上がった剛志の背中をポンと叩くと井村先生は「今日はお母さんが来てくれてるから頑張りなさい」と言ってニッコリ笑った。「うん」と頷き武志は再び走り出した。折り返し地点の旗を周って細井の姿が見えた時、他の3コースは第2走者に代わり既に途中まで来ていた。「…しまった…」武志は悔しがったがこうなっては仕方がない。走り終えた武志は細井にロボットのパイプを渡した。「おっそいなぁお前、転んだらダメだがや」取り敢えず文句を言う細井だが彼は元来細かい事には拘らない性格である。ここからが本領発揮だ。細井はロボットの格好になるや否やロケットの如く飛び出した。順位は4番で最後尾だが細井の走りはピョピョンン跳ねながら走る特徴的な走りで、その様はまるで猿を見ているようだった。先を行く第3走者を一人抜き二人抜き、あれ余あれよと瞬く間に先頭に躍り出てしまった。余談になるが彼の身体能力は非常に高く、後に中学校へ上がり武志と共に器械体操部の両エースとして活躍し名古屋市民スポーツ祭では武志が鉄棒競技、細井が跳び箱でそれぞれ3位になっている。
ロボット競走は細井の奇跡のゴボウ抜きもあってそのまま首位を維持し一位という結果だった。
午前のプログラムが終了し保育園はお昼休みの時間となった。園庭の縁側には園児達の家族がゴザを敷いて皆お弁当を広げている。細井達母子寮の子供達は職員室前の鉄棒が在る所でお母さん達と、武志達はその正面つまり反対側の塀沿いに位置するジャングルジムの横に陣取っての昼食となった。武志は教室から水筒を持って来て秋子の隣りに座った。「武志、あんたさっきのロボット競走の時さぁ転んだらいかんがね」早速、奏子からのお叱りだ。しかし正春は
「でもよぉ、駆けっこは武志が一番だったでなぁ?ようやった」と、褒めてくれた。
「うん、なんかさぁ、お母さんの方が気になって転んじゃったけどだけど僕達が一番だったよ」と武志が言うと秋子は「私も競走速かったであんたも速いわさ、私の子だで」と納得した様子だ。奏子が「秋子、なぁーにがあんたが速いもんか、あんたみてゃあ遅かっがね嘘言ってかんてぇ」と言えば秋子は「母ちゃんなんか一回も見た事ないがね」とやり返した。秋子はホロ酔い加減で目はトロンとしているが、その場はそんな風にして済んでいった。武志が持って来た弁当と奏子が持って来た弁当を全部広げての昼食は豪華だった。
「武志、あんたの弁当は年寄りが食べるでほれ、こっちの食べやぁ」と奏子が弁当箱の蓋の裏におかずを乗せてくれた。そこへ紀と万知子、それから珍しく今日は紀の二歳上の姉、明里(あかり)もやって来た。
「武志君、あんた転んだけど大丈夫だった?」明里は持って来た弁当箱を広げながら武志の怪我を心配した。明里という女性は幼い頃から誠にしっかり者で、父親のいない家庭を一人で支える母万知子を能く助け、弟の紀や従兄弟である武志の面倒を見てくれた非常に心優しいお姉さんだった。武志が紀に気遣い彼が座れる場所を作ると紀はそこへ座りながら「おーっ武志、お前走るの速えなぁ、のっそいと思っとったけどお前運動神経いいなぁ?」と関心した。
「なぁ、姉ちゃんてさぁ、子供の時駆けっこ速かったがなぁ?私、あれ何年生の時かなぁ。運動会でさぁ、姉ちゃんがリレーで一番でテープ切ったの覚えとるに」万知子は秋子が早く走っていた事を言うと「ほれみぃ、ほんだで母ちゃんは私の事何にも知れへんがね」と今度は秋子が仕返しをした。「そんなもん仕っ方ないわ、戦争中で私等はそれ所じゃなかったで」と奏子は取って置きの言い訳に逃げた。とにかく奏子は秋子には強く当たるが万知子には聞く耳を持っているという事だ。このような女性陣の話には全く関心が無い正春は持って来た水筒の中身をコップに移して一人で呑んでいる。武志にはその水筒の中身が何であるかは判っていたし、それを秋子にも勧めるのではないかと心の中で心配していた。それは、秋子が最近ずっとお酒を呑んでいる事を万知子に知られたくなかったからであり、更に言えば紀にも明里にも知られたくなかったからである。しかし正春はそのような事を一度もしなかった。当然、万知子もその水筒の中身を知っているであろうし、万知子が水筒の中身を見抜いている事を正春も判っていたのだろう。正春がこの時に限って秋子に水筒の中身を勧めないのはその為だった。しかしそんな事にはお構いなしで武志と紀は唐揚げにハンバーグ、赤いウインナーとスパゲティーをお腹いっぱいに食べた。ちなみに赤いウインナーは武志の大好物である。
そして午後の競技が始まり、武志達の競技は障害物競走とリレーを残すだけとなった。障害物競は、網潜りからトンネル、さらにマットで前転りから最後は平均台を渡ってゴールという内容だ。四人ずつ走りその並びでの順位を競うのだがこれは武志も細井も当然一着だった。その後のリレーは男女混成での競技で、本格的なバトンリレーであった。この競技の結果は残念ながら最下位に終わったが武志にとって、涙有り笑い有りの想い出深いシーンとなった。運動会の全ての競技が終わり、教室へ戻った武志は細井に「ありがとな」と言って感謝したが細井は「ん?何が?」と聞き返しただけだった。そしてその意味はこの後も二人の間で何回もそして事有るごとに話題となったが結局のところ分らずじまいであった。武志達が保育園を出ようとして正門まで来た時、秋子が「私、武志とちょっと買い物してから帰るで父ちゃん達、先に帰って」と言った。正春は
「ほう、何買うんだ?まぁ、ええけど気を付けて帰れよ」そう言ってその場で別れた。武志は運動会のご褒美に何か欲しい物を買ってもらえると思い「お母さん、どこで買い物するの?」と聞くと秋子は
「何処も買い物行かないよ」と答えた。武志はどこにも買い物に行かないのなら何故正春達と一緒に帰らないのかと不思議に思った。
「じゃあどうして後から帰るの?」と聞いたが「どうしても」秋子はそう答えるだけだった。そして武志は通園服のまま明子に手をひかれ何処へ行くのかも分らず理解不能な状況を耐え忍ぶだけだった。下を向いて歩いていると気が付けば南陽通り6丁目の交差点に来ていた。ここは市電と呼ばれる路面電車が走る道路でその線路は北へ向かって延びている。ここから市電に乗れば中京病院、そして内田橋を抜けて当時では地元の自慢だった「あかのれん」という大型ショッピングセンター、さらには熱田神宮へと足を延ばせる。その先には金山、そして大須、伏見さらに矢場町を抜けて、当時完成間もない名古屋テレビ棟に行けるのだが驚くべき事は、どこまで乗っても区間に関係なく料金が一律20円だという事である。武志は市電には何度も乗った事があったので、もしかしたら熱田神宮にでも行くのかと思い、明子に聞いた。「ねえお母さん、もうすぐ暗くなるよ。今から熱田さん行くの?」すると明子は「行かんよ。今からねぇ、この前、家に来たあのおじさんと新しい所行くの」と言った。「じゃあ何時帰るの?」と聞くと「分からない」とだけ答え、明子は辺りをジロリと見渡した。そこへ市電が一輛やって来て6丁目の停留所で停まった。「武志、来たよ」嬉しそうに言う秋子が武志の体を停まった市電の方へ向けた。武志が正面を見るとあの時のおじさんが両手に大きな鞄を持ってこっちへ歩いて来る。段々と近付くに従って顔の表情まで判る位になった。よく見ると、おじさんの顔はこの前の時のような穏やかな顔ではなく明らかに怒っているように見えた。武志は一瞬緊張したがそれ以上に心は嬉しさが大部分を占めていた。「…じゃあ今から晩御飯かな?それとも何か買ってくれるのかな?でもなんか怒ってるのかな?」いろんな事に思いを巡らせながら武志はじっと身構えて待った。そうしておじさんは武志の前まで来て「秋子、支度出来たか?」と言った。武志は秋子とおじさんの間に立って二人の顔を見上げた。「いいけどこの子の格好どうしよう?」「どうしようも無いがや。そのまま連れて行くか?今更戻れんだろう?」秋子とおじさんの言葉がまるでこのまま二度と戻らないかのように聞こえた武志は不安になり秋子の手を引っ張った。「私、親になんにも言わんと来たで戻れんよ」秋子は武志の事には反応せずおじさんに対してしか話をしない。急に恐くなった武志が「僕いやだ。どっか行かないよ。お家帰りたい」と言うと、ようやく秋子が武志の目の前にしゃがみ。こう言った。「武志、あんたさぁ、お父さん欲しくないの? 今日からこのおじさんについていくの」武志が「このおじさん誰?今からどこ行くの?」と聞くと秋子は初めておじさんの名前を教えた。「このおじさんはねぇ、菊池友平(きくちともへい)。お母さんがずっと前から知ってる人だよ。お爺さんやお婆さんは、このおじさんの事嫌いだから内緒にしとったの。だから今日から三人で住むの。わかった?」秋子の決意は固く、おそらく何を言っても無駄だった。武志は迷ったがこれ以上嫌だと言えば頬を叩かれると思い「はい」と答えた。この時、秋子は10月12日の誕生日を迎え三十四歳に、菊池友平は10月5日に三十六になったばかりであった。共に離婚の経験を持つ男と女であり、好き合った者同士の背徳の決意だった。武志の人生の針はこの瞬間に動き出したのである。辺りはすっかり夜になり残暑の生暖かい風がゆっくりと流れていた。このすぐ後、三人はタクシーを拾い、北へ向かった。昭和42年10月21日。 後四日で武志四歳になろうとする秋の夜だった。
第三話「待っていた人」友平との再会
第四話「背徳の逃亡」長い夜の中で
タクシーから見える景色は武志に見覚えのある場所だったが次第に見知らぬ風景へと変わっていった。途中、正春に何度か連れて来られた熱田神宮、それからブースカの時の金山駅を見たが夜の景色を見るのは初めてであった。道の両側は色鮮やかなネオンが眩しく、大人達が通うのであろうお店には背広を着た男の人達が立って行き交う通行人に手を合わせお辞儀をしていた。武志はそんな風景を見ながら所々にクリスマスツリーが飾られている事に気付いた。「お母さん、もうすぐクリスマス?僕の誕生日は何買ってくれるの?」武志は秋子に何か喋ってもらいたくて何でもいいから話をしようと思った。「ねぇ、今から何処行くの?」しかし秋子は一言も話をしてくれなかった。友平も同じく黙ったまま、そして二人ともフロントガラスの遠い前方を見たままだった。武志は話す車も無くなり黙って車窓の向こうの流れる景色だけをぼんやりと見ていた。すると急に明るい場所へ来ている事に気付いた。道を行く車の数も、そしてタクシーやバスの数も圧倒的に多いのだった。「あっ運転手さん、ここ名古屋駅だよね?そこの信号かな、左に曲がって稲葉地へ行ってください」秋子は運転手に行き先を伝えるとそれまでより半身程上体を迫り出した。この時、武志は初めて稲葉地という地名を聞いた。それは武志が生涯忘れる事のなかった地名である。武志はこの後二十数年後に一度だけこの稲葉地を訪れた事があったがその時には辺り一帯が端正な住宅街に変わっており懐かしさと空しさの中で半日ほど河原に身を横たえた事があったが……。
タクシーは中村区を西へ向かい、やがてその稲葉地という場所へ到着した。「はい、ありがとう」友平は運転手に運賃を渡すと運転手が何気なく聞いた。「お客さん達、こんな所でいいんですか?何にも無い処ですよこの辺りは」「んっ?いいよ。ここからは歩いて行くで」友平はそう答えるとタクシーから出た。続いて秋子が荷物を引きずって車を降り武志は一番最後にタクシーから出た。「おぅえっーっ」その途端、武志は嘔吐した。車酔いである。「おい、チビ大丈夫かな?」と友平が心配そうに武志の顔を覗いた。秋子も「武志、吐きたいなら早く吐きゃあ。この子さぁ、車に慣れとらんでちょっと酔ったんだわ」と言いながら武志の背中を擦ったが昼食をとった後、これといって何も食べていないので出るのは胃液だけである。しかし幸いにも秋の心地良い夜風で武志のむかつきは直ぐに治った。むかつきが治ったら今度はお腹が減ってきた。「お母さん、お腹減ったで何か食べたい」と武志が言うと友平が「そうだな何か食べようか。部屋にっ行っても食べるもん何にも無いでな」と言ってこれから食べれる処を探す事になった。と言っても辺り一面は田んぼしか無い。在るのは無表情な電信柱とポツンポツンと建っている家だけである。三人が歩きだしてからどれくらいの時間が経ったであろうか、秋子も友平も疲れた様子だった。それにも増して幼い武志は持病の足の痛みも始まり苦痛を我慢しての歩みとなっていた。武志は足の痛みを我慢して泣きながら着いて行ったがとうとう我慢の限界に達し泣き出してしまった。秋子はそれを見て武志を背負い尚も食堂を探したが、いくら探してもそのような店は在ろう筈がない。その時突然友平が「ああ、ここだ、着いたぞ」と言って河原の傾斜面に建てられたボロ屋を指差した。秋子は「ああ、あそこなの?」と安心したようだった。しかし武志はそれと違い、部屋に着いたという事はようやくご飯が食べられると思った。三人は早速その長屋らしき建物に入った。しかし電気を点けようとしたが点かない。真っ暗な部屋でどうするのかと思えば友平がロウソクを出して灯を燈した。武志は不思議に思い、友平に聞いた。「おじちゃん、電気点かないの?」「点かんぞ」「どうして?」「ないしょで此処に住むんだで電気来てないんだな」友平の話す内容を理解出来ない武志だったが、自分の思い通りにはならないという事は大体の雰囲気で理解した。
ーーーーーーー書き掛けーーーーーーーー
失迷(しつめい)
書き掛けにて