星月夜
様々な雑音と消毒くさい院内。
大部屋の引き戸を開けると、閑散としていて窓際のベッドに居るつぶらな瞳の恵理と目が合った。
「よっ」
「うん」
「大部屋なのに、個室だな」
「うん。今のところ他に入る人いないんだって」
「へー、なるほど」
僕は少しにやけながら恵理に近づきそのまま恵理を抱きしめ恵理の匂いを嗅いだ。
「また?」
「また」
「何処が良いの?」
「恵理には分からないよ」
僕は恵理の匂いが好きだった。シャンプーや香水とかそんな匂いではなく恵理の生まれ持った体臭が好きだった。その事も恵理と付き合っている理由の一つだ。
硬直する恵理をもう少しイジメたい気持ちも合ったが可愛そうな気もして手を離し「あっそういえば」と僕は鞄から数冊の本を取り出し「はい」と渡すと「ありがとう。あっ珍しく合ってる」と恵理は背表紙を確認しながら言った。
「んだと…」
「怒んない、怒んない」
恵理は口の端を持ち上げ笑っていた。僕はパイプ椅子に座り本をパラパラとめくる恵理を見ながら言った。
「良くそんな本読む気になるよな」
「暇なんだもん」
「検査入院なんだろ?」
「うん、一応…。でも長引くかもしれないって」
「そう。だからってホラー小説なんて読んで楽しいか?」
「うん…それなりに…」
「あっそ」
「自分がホラー苦手だからってすねないでよ」
「すねてねぇよ」
恵理は本をパンッと閉じると「ねっそういえば車の免許取ったんでしょ」と笑顔。
「あぁ」
「ドライブ行きたい、行こう」
「退院したらな…」
「うん…」
それから数週間後、恵理は検査入院から帰って来た。
恵理の身体は病魔に好かれているらしく「余命宣告されちゃった…。でっ延命措置拒否して来ちゃった」とそれを笑い話のように喋った。
手遅れだったらしい…。
「退院して大丈夫なの?」
「うん。だって、人はいつか死ぬんだし、病院に居たらしたい事も出来ないし、死ぬ前にやっておきたい事沢山あるし…。だからね、好きな事して死にたいの。それに看護婦してるお母さんが側に居るし…」
「そう…」
「ねっ、そういえばドライブは?」
「ドライブもやっておきたい事?」
「うん…」
「そっ、いいよ。何処行きたい?」
「何処ってわけじゃないけど、どっか…」
「いつ行く?」
「これからは?」
「これから? うん…いいよ」
更に数カ月が過ぎ、急に恵理の母親から電話が来た。
「…恵理がね、あなたに会いたがってるの。恵理ね、もう長くないと思うの…恵理ね…」
受話器の向こうで恵理の母親が泣いているのが分かった。
「おばさん、今から行くから…」
着いたのは夕方だった。ドアを開けるとベッドに横たわり弱々しい恵理がいた。
「よっ」
「うん…」
もうすぐ恵理が死ぬ事ぐらい誰が見たって分かる程衰えやつれていた。
「夕焼け綺麗だな」
「うん。そうだね。ねぇ、抱き、しめて、匂い、嗅いで…」
ゆっくり喋り、何とも言えない目で見つめられ「うん…」と僕は弾力の無くなった恵理を抱きしめ匂いを嗅いだ。
「いつもと、同じ、匂い?」
「うん」
「そんなに、好き?」
「好きだよ、恵理の匂いだから」
トントンと肩を叩かれ僕は抱き締めるのを止めた。
「ねっ、運転、上手く、なった?」
切れ切れの言葉が僕を不安にさせた。
「うるせえな。この間は緊張してたんだよ」
「ホントに?」
「ホントだよ」
「じゃ、星、見たい…」
「星?」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど、いつ?」
「これからは?」
「いつもこれからだよな。いいよ…。じゃ、おばさんに言ってくる」
「うん…」
リビングに行くとソファーに座るおばさんの後ろ姿に「おばさん」と声をかけた。
「恵理、これから星見に行きたいって言うから連れて行きます」
振り返った母親は「うん。ありがとう」と口の端を持ち上げた後直ぐ「ごめんね」と継ぎ足した。その一言で僕の不安が覚悟に変わった。
薄暗くなった空を一瞥し、僕は一人じゃ動けなくなった恵理を抱き上げ、おばさんに手伝ってもらいながら恵理を車の助手席に座らせた。おばさんは恵理の頬に手を触れるとじっと顔を見つめ口の端を持ち上げ、恵理もじっと見つめ返しバツが悪そうに口の端を持ち上げ、僕の顔を見た。
「もう良いの?」
「うん…」
「そう…」
恵理は僕の顔を見ながら「不安…」と呟き「大丈夫だって」と言いながら車を発進させ、無音になるのが怖くて喋り続けた。「どの辺行ったら綺麗に見えるかな」と話しかけながら田舎道を運転していると急に恵理が「ねっ、もう、良いよ。やっぱり、戻ろう」と言い出した。
「何で?」
「…車の中で、私、死んだら、困るでしょ。だから、戻ろう…」
「何縁起悪い事言ってんだよ」
「気づいて、るんでしょ。私、もう、そんなに、長く、ないよ…」
「だから、言うなって!」
涙腺がゆるむのを必死でこらえた。
「祐太が、これから、誰かを、好きに、なった時、きっと、私の死を、看取った事で、悩む気が、するの。だから…」
「ヤダ…」
「え?」
「星見たいっつったろ!」
「だから、もう、良いって…」と恵理は声を出さず涙を流していた。少しの沈黙…。
「分かったよ。じゃここで見よう」
「うん…」
田圃の真ん中で車を停め、エンジンを切ると辺り一面が真っ暗になった。
目がなれるまでに少し時間がかかったが、徐々にうっすら見えていた光が輝きだし、目もなれてきた。
「おっ見えて来た。綺麗じゃん」
「うん、綺麗。…祐太が、好きな、匂いの娘、居ると、良いね…」
と呟くような独り言のようなそんな声が怖くなって横を見ると恵理が目を閉じて居た。
「恵理…?」
上を向いたまま、眠るように恵理は息をしていなかった。
僕はまだ暖かい恵理の頬に手を触れ、自分の涙を拭う事も忘れ生暖かい恵理の唇にキスをし恵理の匂いを嗅いだ。
-end-
星月夜