影のない足音 新宿物語(2)
影のない足音 新宿物語(2)
(7)
ようやく人影の動いた三叉路まで来た時、だが、そこでもやはり、何事も起こらなかった。静まり返った夜の中に外灯の乏しい明かりが描き出す、ほの暗い道が続いているのが見えるだけだった。わたしはなんとはなしに覚える安堵感と共に、大通りへ出るとタクシーを探した。なかなか来ないタクシーを探しながら二十分程歩いて、ようやく空車を捕まえる事が出来た。
身辺に、尋常ではない、と明らかに分かる気配を感じるようになったのは、その後、三、四日経ってからだった。わたしが働いているバーの白木が、
「おまえ、何かやったか?」
と、カウンターの中でわたしに囁いた。
「なんで?」
わたしは白木の言う事の意味が分からなくて聞き返した。
「今入って来たあの二人連れをみろ。刑事(デカ)じゃねえかと思うよ」
「デカ?」
奥まったカウンターの隅に席を取った男達二人は、わたしの眼には平凡なサラリーマンのようにしか見えなかった。
「うん、どうもここ二、三日、店の周りで変な男達がうろうろしている」
白木はわたしと眼を合わせる事なく、軽い世間話をする時のように、何気無さを装って言った。
「別に、デカに付け回されなければなんねえような事はしてねえな」
わたしは言ったが、そう言ったすぐ後で、冷たいものが体の中を走るのを意識した。女の後を付けた夜と、それに続く二度目の夜の出来事が脳裡を過ぎった。
だが、客たちのいる前でいつまでもそんな話しをしている訳にはゆかなかった。その話しはそれきりになった。
白木の怪しんだ男達は、ピーナッツのつまみとビールでかなりの長時間ねばっていた。たいした金は使わなかった。閉店前三十分程に店を出て行った。
「デカだと思わねえか?」
白木がまた言った。
「うん、よく分かんねえけど」
わたしは曖昧に答えた。
刑事か、それ以外の者たちか、判断が付きかねた。ただ、はっきりしている事は、女にからむ事でわたしの身辺に何かが起きているのではないか、という事だった。女がわたしに何かを仕掛けて来ているのか?
それから更に、三、四日経っていた。店が終わった後わたしは、白木と連れ立ってゲイバーへ行った。代々木のアパートへ帰った時には、午前三時を過ぎていた。
多少の酔いを覚えていた。古びた木造アパートの部屋の扉を開け、靴を脱ぐと座敷に上がってそのまま、四畳半の部屋に敷かれた万年床に倒れ込んだ。
どれだけの時間眠ったのか、覚えがなかった。尿意に促されて眼を覚まし、軽い頭痛を意識しながら明かりを付けるのも忘れて、暗い中でトイレに入った。
終わった後で何気無く小窓の外に視線を向けてわたしは、自分が夢の中にでもいるかのような錯覚に囚われた。アパートの斜向かいの小さな四つ角に二人の男達が立っていた。ーーわたしはまだ眠気の取れない眼をしばたたかせ、もう一度、確認するように視線の先に注意を凝らした。次の瞬間わたしは、頭痛を伴った、まだ醒め切らない酔いが、体中の血が引く思いと共に一気に引いてゆくのを意識した。
--外灯の明かりの下にいる男達二人のうちの一人は、手持無沙汰そうに、しきりに、三、四歩歩いてはまた戻り、同じ場所を往ったり来たりしていた。小柄で、何処にでも居るといった感じの男だった。あとの一人は、やや小太りな体に黒っぽく見えるスーツを着ていて、光りの鈍い外灯の明かりの下で煙草を吹かしていた。二人とも四十歳前後に見えた。バーにいた男達とは明らかに違っていた。
だがわたしは、男達が二人だという事に厭なものを感じた。白木が言った言葉を無意識のうちに思い出していた。あの時も男達は二人だった。
むろん、明け方に近い夜の中で男達が何をしているのか、分かるはずのものではなかった。しかし、わたしの意識の中では、薄い紙が一枚一枚積み重なって確かな体積を作るように、いくつかの出来事が重なって、「誰かに付けられている」という思いが次第に強く確かなものになって来た。
あの女が俺を売ったに違いない。ーーわたしは、もし、この場に女が居れば、思い切り女を張り倒してやりたい、という、抑え難い感情に突き動かされた。
しかし、女がわたしの前に姿を現す事はもうない 。わたしはトイレを出ると布団の上に戻って座り込んだ。
女に対する怒りと復讐心がさらに募った。
自分の方から誘っておきながら、たかが、家のある場所を探られたぐらいで、これだけの仕打ちをして来やがる。
沸き上がる女への憎しみと共にわたしは、今度は女が来るのを待つだけではなく、自分の方から積極的に女に近付いてゆこうと考えた。女が何処に居るのかは分からないが、多分、今でも深夜の街で、男を漁っているに違いない。
当然ながらに、女に近付こうとすれば、正体の分からない男達がさらに迫って来るだろう。
だが、それでも構わない、と考えた。それでなくても、すでに誰かに付け回され、見張られているのだ。
わたしはあれこれ考えながら、夜が明けるまで眠りにつく事が出来なかった。--朝になったら、護身用のナイフを買いに行こう。身を護るためには、何か武器になるものを持っていた方がいい。
翌朝わたしは、十時過ぎに布団を抜け出して、いつも通りの身支度を整えると外へ出た。
「おい、これどうだ?」
わたしは、街の金物店で、その日の午後に買ったナイフを白木に見せた。
「なんにすんだ、そんなもん?」
白木は怪訝な顔をして言ったが、すぐにわたしの手からナイフを取った。刃渡り二十センチはある、ズシリとした重みを伝えて来る豪華なナイフだった。
「いいナイフだろう?」
わたしは白木の手からナイフを取り返すと、そのまま、柄と刃の接点にある黒く光る石のボタンを押した。白い何かの骨で出来たナイフの柄からは、鋭く小気味よい音をたてて瞬時に、白銀に輝く見事な刃が飛び出した。
白木は少し驚いたふうだったが、
「変な事はしねえでくれよ」
と言った。
「心配すんな、迷惑はかけねえよ」
わたしは自信に満ち、満足感と共に言った。
影のない足音 新宿物語(2)